2020年5月31日日曜日

BBQ

東京で、本当のバーベキューを食べることはできません。強いて言えば、トニー・ローマのリブくらいでしょうか。という話をすると、東京にはBBQを売りにしている店も多いし、BBQのできる公園なんか結構あるよ、と言われます。それは、バックヤードBBQであり、グリルなので、派生的な、なんちゃってBBQです。本当のBBQは、バーベキュー・ピットという専用の釜を使い、ピット・マスターたちが、半日か一日かけてローストするする米国南部の名物料理です。

バーベキューは、スペイン語のバルバコアが英語化したもので、カリブ海でコロンブスが発見した原住民の料理法だと言われます。カリブを西インド諸島、米国原住民をインディアン、唐辛子をペッパーと呼ぶのと同じ、よくある西洋史観です。肉のローストなんて、世界中にあります。例えば、ハワイのカルア・ピッグは、バナナの葉で包んで蒸し焼きにするミクロネシア料理です。メキシコのバルバコアでは、リュウゼツランの葉で包みます。

米国南部は、北部とは異なる文化を持ちます。そもそもカリブ海文化圏であることに加え、スペイン、フランスといったカソリック系によって、プランテーションと黒人奴隷が持ち込まれました。北部のピューリタン文化とは真逆、南米の文化に近いものがあります。戦争になるのも頷けます。南北戦争(Civil War)の敗戦国であり、石油を除けば、いまだに貧しい農業国です。

食文化も、基本的には貧しい素材を使いますが、スパイスなどで多様に調理します。例えば、ケイジャン料理の炊込御飯「ジャンバラヤ」、煮込み料理の「ガンボ」など、食材は手近なものを放り込む感じです。BBQも、もともとは牛の頭や肩バラなど、食べるには堅いものから始まっています。実は、貧乏人のとても貧しい食事なわけです。その手の料理は、世界中にあって、何故か、どれも美味いのです。食材が良ければ、そのまま食べます。食材が貧しければ、美味しくするために大いに工夫を重ねるわけです。

ルイジアナのケイジャンの人たちは、いまだにフランス語と原住民の言葉が混じったケイジャン語を話し、アコーディオンとフィドルのケイジャン音楽を演奏し、ケイジャン料理を食べます。最も有名になったケイジャン食は、タバスコに代表されるペッパー・ソースです。
                                                                                                                                簡易型BBQピット  出典:locanto

2020年5月30日土曜日

模合(もあい)

数年前、那覇のお気に入りの店「牛や」で飲んでいた時、コザ出身の人がいました。「コザと言えば、コンディション・グリーンだな、若いから知らないと思うけど。」と言ってみました。「知ってますよ。メンバーの一人と模合で一緒ですから。」との答え。驚きました。コザの人たちがコンディション・グリーンを忘れていなかったことではなく、沖縄で模合がまだ生きていたことに驚きました。

コンディション・グリーン
コンディション・グリーンは、70年代、オキナワン・ロック全盛期のバンド。ド派手なパフォーマンス、超絶テクのギターで、キャンプの海兵隊員たちを熱狂させました。時はヴェトナム戦争末期、出撃前の海兵隊員にとって、彼らのライブはすべてを忘れられる一瞬だったのでしょう。ちなみに、コンディション・グリーンは、米軍用語で、デフコン4「情報収集と警戒強化の段階」を表し、行動としては基地での待機を意味します。

沖縄の模合、全国的には無尽、あるいは頼母子講は、鎌倉期から続く日本の民間金融システムです。基本的には、グループ・メンバーが均一額を毎月積み立て、毎年異なる一人が総額を受け取る仕組み。例えば、10人のグループであれば、10年に一度、10年間に拠出する額と同額をまとめて受け取ることができます。明治以降は、大規模な営利目的の無尽が展開されました。悪徳業者も多かったことから、規制法や免許制も導入されました。これは、あくまでも業者規制であり、個人間の無尽は今も規制がありません。

以降、規模はさらに拡大し、銀行業務に近いことを行う無尽もでてきました。1951年の法改正で、銀行業務も可能な相互銀行として生まれ変わります。無尽は、積立定期預金に近いとも言えますから、銀行化も理解できます。それだけに金融システムが普及すれば無用となります。92年には相互銀行法も廃止、第二地銀として普通銀行化しました。800年の歴史は、そのニーズの高さの表れであり、世界中で、同様の民間金融が存在します。

銀行や郵貯が普及、定着した現代、無尽の必要性はほぼありません。沖縄でいまだ模合が盛んな理由は、農村の互助の仕組み「ゆいまーる」に基づく県民の助け合い精神の現れだ、と言われます。違うと思います。模合は、信頼の確認や集金目的で、定期的に寄り合いがもたれます。沖縄の県民性からして、毎月の寄り合い、つまり飲み会こそ、模合が続いている唯一の理由だと思います。
                                                                                                                                                     写真出典:milestone-t.com

2020年5月29日金曜日

宝島

かつて、ホノルルのマノア・ロード沿いに、草葺きの掘立小屋が展示されていました。ロバート・ルイス・スティーブンソンが半年暮らした小屋を復元したものでした。スティーブンソンは、スコットランド出身。稀代のストーリー・テラーとして、多くの小説を書いています。代表作は、「宝島」、「ジキル博士とハイド氏」。晩年、サモアへ移住し、そこで生涯を閉じます。サモアへの途上、ハワイで半年過ごしました。「宝島」は、ハワイかサモアで書いた作品と思いきや、イングランド南部のボーンマスで書かれています。

私は、あまり同じ本を読み返しませんが、おそらく最も多く読み返した本は「宝島」だと思います。小学生の頃のことですが、絵も随分描きました。「宝島」は、児童向け海洋冒険小説の傑作ですが、実は「海賊もの」というジャンルの草分けでもあります。物語は、港町ブリストルから始まります。宿屋の息子ジム、刀傷の男、その不審な死、残された宝島の地図、そしてロング・ジョン・シルバー。居酒屋「遠眼鏡亭」の訳アリ亭主。片足は義足、肩にはオウム。ありえない風体ですが、今に続く海賊ものの定番キャラクターです。

「宝島」は、1883年に出版されています。海賊と言えば、古今東西、枚挙に暇がありませんが、「宝島」のモデルは、カリブ海の英国公認の私掠船バッカニアーだと思われます。17世紀後半から18世紀初頭、「黒ひげ」ことエドワード・ティーチ、ジョン・ラカムらが、髑髏旗(ジョリー・ロジャー)を掲げて大暴れしました。イギリスは、海軍力の不足を補うために、私掠船を利用して、スペイン船を攻撃させました。ただ、カリブ海周辺での植民地経営が本格化し、常備軍の整備が進むと、海賊たちは邪魔者となり、海軍によって駆逐されていきます。

また、宝探しのモティーフは、キャプテン・キッドの財宝探しに由来します。キッドは、1700年に、逮捕、処刑されていますが、ほどなくロング・アイランドで財宝が発見されます。ただ、少額であったことから、今でも探している人たちがいます。トカラ列島の宝島も、候補地の一つとして有名です。
                                                                                                                  ジム少年とジョン・シルバー  出典:flicker

2020年5月28日木曜日

西蔵旅行記

黄檗宗の僧侶・河口慧海が、厳しい鎖国政策を取るチベット(西蔵)に、中国僧と偽り密入国したのは、明治33年。インド・ネパールで3年をかけてルートを探った後でした。身分がバレそうになり、急遽出国するまでの2年間、ラサ第二の寺院の大学で学び、出国の際には、多くの経典を持ち出しました。その一部始終が「西蔵旅行記」に記されています。下手な冒険小説より、はるかに興奮する本です。

サンスクリット語で書かれた仏典は、チベット語、そして漢語に翻訳され、日本に伝わりました。慧海は、仏教を極めるためには、サンスクリット語原典を読むべきと考えます。しかし、原典の多くが失われているので、より原典に近いチベット語訳を求め、鎖国中のチベットへ入るしかありませんでした。チベットに入る主な道にはチベット兵が立ちはだかり、間道を探るしかありません。慧海が選んだのは、ダウラギリの北方、クン・ラ峠、標高5,411m。十分な装備なしに超えるのは狂気の沙汰です。

入蔵後、婦人の脱臼を治した事から、医術に長けた中国僧と評判を取り、ダライ・ラマ13世から侍従医のオファーを受けるまでになります。身分がバレる恐れから、これは断りますが、医術は経典を集めるのには大いに役立ったようです。逃げる際には、多くの経典を背負い、再びクン・ラ峠を超えます。帰国後、持ち帰った経典の翻訳、研究を続けます。

慧海に関して、ある意味、西蔵旅行以上に驚かされるのは、後年、僧籍を捨て、ウパーサカ(在家)信者になったことです。経典を原典へとさかのぼることは、仏教の宗教化の歴史をさかのぼることであり、釈迦への回帰そのものです。各宗派の仏典に、多くの誤訳、誤解、矛盾を認めた慧海がウパーサカの道を選択したことは、当然の成り行きだったのでしょう。

米国ペンシルベニア州のダッチ・カウンティを中心に、アーミッシュと呼ばれる人々が、文明の利器を拒み、古いドイツ語を話し、宗教に基づく自給自足の農業共同体を維持しています。その数20~30万人。200年前から共同体を維持できた理由の一つは、職業的宗教指導者と教会を持たないことではないかと思っています。慧海のウパーサカに通じるところがあるな、とも思います。
                                                                                                                                      河口慧海   出典:Wikipedia



2020年5月27日水曜日

龍宮城

生野菜を豊富にとるヴェトナム料理は、食べれば食べるほど痩せる。勝手な持論ではありますが、ハノイに滞在した際の体験に基づく持論です。ヴェトナムの人口の8割を占めるキン族の女性は、日本人そっくり。皆さんスタイルも良く、アオザイがよく似合います。健康的なヴェトナム料理のおかげなのでしょう。

「アオザイ姿は、まるで龍宮城の女性たちといった風情でしょ。浦島太郎伝説の龍宮城はヴェトナム中部だったのではないか、というのが私の説です。」と言ったのは、さる商社のハノイ駐在役員。根拠は、女性だけではありません。ヴェトナムは中国文化の影響が色濃く、かつ建国伝説に登場する亀を大事にしている国だから、というのです。

1428年、レ・ロイは、ヴェトナムを支配していた中国の明を破り、大越国初代皇帝となります。レ・ロイは、湖の精霊から授かった宝剣タエンキエムをもって明軍を退けます。戦いが終わると、一匹の大亀が現れ、剣を返してください、と言います。剣をくわえた大亀は湖へと帰っていきます。その湖とは、ハノイの中心にあるホアンキエム湖。湖には、今も大亀が住みついています(2016年、最後の大亀が死んだようですが)。

浦島太郎伝説は、実に不思議な話です。漁民が漂流先で保護を受け、数十年後、奇跡的に帰国した、といったことが実際にあり、その話にインスパイアされた物語とも考えられます。だとすれば、龍宮城=ヴェトナム説は、なかなか魅力的です。ただ、浦島太郎伝説の初出は、8世紀に書かれた丹後国風土記。残念ながら、レ・ロイとは時代が違います。それに潮の流れからしても、やや無理があります。

では、一体、浦島太郎が漂着したのはどこなのでしょうか。丹後からなら、朝鮮半島あたりが無難な線でしょう。潮の流れからすれば、十三湊も有力候補ではないかと思います。古くから、朝鮮半島や大陸と交易があったという十三湊なら、乙姫がいても不思議はありません。
                                                                                                                  ホアンキエム湖  出典:tabinaka.co.jp

外食率

米国の肥満が止まりません。数年前のデータでは、成人の4割がBMI30以上の肥満。20年前は3割でした。社会問題どころか、もはや国家緊急事態レベル。原因はファスト・フードとソーダだと言われますが、加速的増加の原因は、格差拡大だと思われます。肥満は、貧困層、黒人、女性に多いそうです。格差拡大の影で、伝統的な家族の崩壊が急速に進んでいることも要因だと思います。

要は、自宅で料理して食べる習慣が薄れ、安価に満足感とカロリーが得られるファスト・フードへの依存が高まっているわけです。支出金額ベースで見ると、米国の外食率は、1960年頃から伸び始め、2015年には、ついに5割を超えました。外食コストが高めの日本でも35%程度。屋台文化のある東南アジアも外食が多いのですが、夕食は8割以上が自宅でとります。米国で、自宅食が減ったのは、核家族化と離婚率の高さゆえでしょう。米国には、もはや家庭の味は存在しないとも言えそうです。もちろん、外食で何を食べるかも問題です。米国では、ひたすら油と砂糖を食べているわけです。安価な外食の選択肢が少なく、かつ不健康なものが多いのは、歴史の浅い移民国家ゆえ、食文化が薄いということなのでしょう。

かつて、米国庶民の外食を支えたのは、ダイナーでした。ダイナーは、19世紀、工場周辺のランチ・ワゴンから始まります。20世紀に入ると、移動式から固定式ワゴンへ、ワゴンを模した建屋へと変化します。メニューは限定的で、労働者の胃袋を安く、すぐに満たせるグリル系が中心です。例えば24時間提供される朝食メニューの典型は、卵料理(卵3個)、ベーコン、フレンチ・フライ、トースト、コーヒーのセット。ウェイトレスが勧めるチェリー・パイか、国民食アイスクリームをつけて、カロリーは軽く1000キロ超え。カロリーでは、ファスト・フードに負けませんが、安価さ、気軽さで押されました。

ここ数年、米国のファッション界では、「プラスサイズ・モデル」が一般化しつつあります。多様性を否定するつもりはありませんが、「太っていて何が悪い」的な展開は問題だと思います。世界的にも肥満は進んでいます。その一因は、米国式ファスト・フードの世界展開だと思われます。プラスサイズ・モデルが世界標準になることは好ましくないと思います。
典型的ダイナー 出典:eater LA


2020年5月26日火曜日

お田植え

ソウルのチャンドックン(昌徳宮)にはヒウォン(秘苑)とも呼ばれる後苑があります。自然を生かした広大な庭園は、皇室から李皇太子に嫁いだ方子妃が愛した庭園でもあります。初めて見学した際に驚いたのは、李王が耕す小さな水田、李王妃が養蚕に用いる桑の木の存在でした。ガイドによれば、民の暮らしを思いやるために稲作と養蚕を行っていたとのこと。

平成天皇によるお田植え
日本でも、天皇によるお田植と皇后によるご養蚕が行われます。天皇家と朝鮮王朝との関係の現れかと思いましたが、実は、ご養蚕は明治天皇妃である昭憲皇太后が、明治4年に始め、お田植は、さらに新しく、昭和天皇が、昭和2年に始め、今に引き継がれているとのこと。李王朝のお田植・ご養蚕の歴史は、よく分かりませんが、おそらく中国の影響を受けたものではないかと思われます。

中国では、お田植は藉田(せきでん)、ご養蚕は親桑(しんそう)として、紀元前11世紀の作とされる「周礼」に記載があり、前漢の頃から、儀式として定着したとのこと。その時代から、藉田は皇帝、親桑は皇后の役割とされ、農本主義に基づく農業振興と夫婦による分業を教導することが目的だったようです。王朝が変わっても、その伝統儀式は受け継がれていきました。

唐の影響が強かった天平の頃には、日本でも藉田親桑が儀式として行われた時期があったようです。ただ、比較的早期に廃れたようです。同じ農本主義ながら、なぜ日本の皇室では藉田親桑の儀式が廃れたのか、不思議なところです。中国の皇帝は、天命により天下を治めることが役割であり、神格化されても人は人です。対して天皇は神であり、おのずと役割が違います。さすがに、神は農業指導までは行わない、ということだと思われます。

本来、皇帝が執り行うべき藉田の儀ですが、江戸時代、これを行った武士がいます。名君中の名君上杉鷹山公です。凶作にあえぐ農民を励ますために、中国の故事に明るい鷹山公が藉田の礼を行い、自ら田に入り3鍬入れた、と記録されます。武士が農業に関わることが恥とされた時代でしたが、以降、米沢藩では武士たちが率先して新田開発を行ったといわれます。
写真出典:jiji.com



2020年5月25日月曜日

コンデ・コマ

リオ・デ・ジャネイロ・オリンピックの際、日本の柔道はもう少し頑張れないものか、と柔道経験者に聞くと、競技人口の差はいかんともしがたい、とのことでした。日本の柔道人口16万に対し、日本よりも人口の少ないドイツが18万、フランスが56万。そのうえを行くのがロシアの100万。これは軍や警察の正課となっているからだそうです。そして世界一位はブラジル。その柔道人口は200万人を超えると言います。ただ、この数字には、ブラジリアン柔術が含まれているようです。

ブラジリアン柔術の開祖はエリオ・グレイシーですが、グレイシー家に柔術を伝授したのは前田光世七段、通称コンデ・コマでした。前田は、1878年、弘前の生まれ。講道館に入門し、現早稲田大学を中退して柔道に専念します。1904年、柔道使節の一員として渡米、ホワイトハウスでも試合を行いました。その際、団長が米人に敗れたことに衝撃を受けた前田は、単身、米国に居残り、柔道の強さを証明せんと異種格闘技戦を続けます。

米国、そして欧州と転戦した前田は、1914年、ブラジルに渡ります。試合を続けながら、道場も開いた前田のもとに、エリオの兄カルロスが入門したのは17年だったそうです。21年、キューバ転戦後、公式試合から身を引き、日系移民事業に軸足を移していきます。生涯戦績は2000勝を超え、特に道着着衣試合では負けなしだったそうです。最強の柔道家と言えば、木村政彦と相場が決まっていますが、前田光世をあげる人もいるようです。

ブラジル移民は、1908年の笠戸丸に始まります。当時の入植先はサンパウロ州でした。その後、最大の移民先米国で人種差別が激化すると、20年代、ブラジルへの移民は増加、財閥系による投資も増加します。そんな中、23年にはアマゾンへの入植要請があり、調査、折衝のうえ、29年には移民が開始されました。このアマゾン移民は、入植要請から、陰に日向に、前田光世が絡んでいます。私設領事とも呼ばれ、移民たちの面倒もよく見たそうです。

40年に「皇紀2600年祭」が開催され、前田も皇居に招待されます。しかし、前田はこれを断っています。アマゾン移民が苦労しているなか、自分だけ行くわけにはいかなかったのでしょう。翌年、前田は62歳の生涯をベレンで閉じます。明治人らしく、坂の上の雲のみを見つめ、登っていった一人です。
                                   前田光世    出典:taisho-g.com

2020年5月24日日曜日

一隅を照らす

比叡山延暦寺の千日回峰行は、天台宗のみならず、仏教界で最も過酷な修行とされ、1200年の歴史のなかで満行者は、わずか50人。7年に及ぶ回峰行のなかでも、6年目に行われる「堂入り」は、断食・断水・断眠・断臥のまま、9日間、不動真言を唱え続けると言う過酷なもの。堂入りの前には、生き葬式が行われます。千日回峰行満行者は、大阿闍梨と称されます。

伝教大師最澄 出典:Wiki
天台宗の開祖である伝教大師最澄は、唐に渡り、天台山で密教を修めます。国家権力と一体化した奈良仏教とは一線を画し、法華経に則り、全ての人が成仏できるとしました。また、「山家学生式」を天皇に奏上し、人材育成の重要性を訴え、その理念と手法を示します。その文中に「一隅を照らす、これ即ち国宝なり」という言葉があります。各々の持ち場で頑張っている人がいるから国は成り立つ、といった意味ですが、原典は、司馬遷の史記にあります。

魏王が、斉王に対して、「魏には、一つで戦車12台の前後を照らせるほど光る宝石が十個ある。」と自慢します。斉王は「斉にそんな宝石はないが、一隅(持ち場)を守ることで千里を照らし、国を守っている部下たちがいる。人材こそ斉の国の宝である。」と応えたと言われます。

高度成長期の69年、急速に進む物質文明化を懸念した天台宗は、最澄の教えに則り、「一隅を照らす運動」を展開し、心豊かな人間づくりと平和で明るい社会づくりを目指しました。大乗の実践とも言えます。ところが、70年代に入り、思わぬ議論が起きます。最澄の真筆「照干一隅此即国宝」の「干」は「千」ではないか、という意見が出ました。史記に沿うならば、「千」の方が理にかなった記述だということになります。

「千」だとすれば、「千を照らす人」だけが国宝ということになります。法華経の精神にも、運動の趣旨にも、そぐいません。無論、天台宗は、「千」という読みを否定しました。当然の判断でしょう。ただ、歴史が科学的なものであるとすれば、「千」という読みも否定すべきではないと考えます。そもそも、皆が、一隅を守り、千里を照らせばいいわけですから。最澄も苦笑いしているかもしれません。

神は細部に宿る

バルセロナ・パヴィリオン
「神は細部に宿る(God is in the detail)」は、ドイツの建築家ミース・ファン・デル・ローエの言葉とされます。ローエは、フランク・ロイド・ライト、ル・コルビジェと並ぶ近建建築三大巨匠の一人。鉄とガラスの建築家と言われますが、その設計思想をよく表しているのは「少ないほど豊か(Less is More)」という言葉だと思います。私は、「直線美の建築家」だと思っています。昨年、「バルセロナ・パヴィリオン」を見る機会がありました。オリジナルは、1929年、バルセロナ万博の際の作品ですが、86年に復元されました。いつまでも見ていたいほど、美しい直線美でした。

「神は細部に宿る」ですが、ローエ以前に使っている人たちもおり、古代ローマ原典説もあります。どうもはっきりしません。原典はともかくとして、いい言葉だと思います。細部を疎かにしていけないという意味、あるいはドイツのモノづくりの精神を表す言葉だとも言われます。いずれにしても丁寧な仕上げ、という理解が多いようです。それはそれでいいのですが、私は、「細部に至るまでコンセプトを貫く」という意味だと考えます。無から何かを創造するためには、まずコンセプトが無ければなりません。そのコンセプトが隅々まで実現されていれば、それは傑作足り得ます。逆に言えば、細部から作者のこだわりが見えるようでなくてはならない、ということでしょうか。

スティーブ・ジョブスは、アップル・コンピューターの成功の後、ハイ・スペックなコンピューターの開発にのめり込みます。自ら起こした会社も去り、ただ一人で泥沼のスペック地獄へと落ちていきます。彼を救ったのは、世界初のフルCG映画「トイ・ストーリー」でした。その製作に関わることで、彼は、コンピューターそのものではなく、「コンピューターが、人を幸せにできること」にこだわるべきだと確信します。

若いころ、彼らがガレージで作りあげたものは、単なる機械でした。それが、ここへきて、はじめてアップルのコンセプトが生まれたわけです。ここからアップル社の快進撃が始まり、ジョブスは、明らかに世界を変えました。i-phoneやi-podも、基本機能としては、すでに他社が開発していました。アップルは、それらを、使いやすくスタイリッシュにしたということだけではありません。機器よりも重要だったことは、ダウンロードとプラットフォームという文化基盤を提供することで、ガジェットと共に暮らす新しい日常を提示したということです。まさにジョブスのコンセプトが細部にまで徹底されていたわけです。



2020年5月23日土曜日

営業昔話(8)目標は高く?

昔々、「目標は高かるべし」と言ったもんだとさ。

1968年メキシコ・オリンピックの走り幅跳びで、驚異的な世界新記録が出ます。あまり注目されていなかった米国のボブ・ビーモン選手が、それまでの世界記録を一気に55cmも上回る8m90cmを出し、金メダルに輝きます。いかに高地での記録とは言え、数センチを争う競技で、この記録は驚異的でした。

ボブ・ビーモン   出典:blackkudos
ビーモン選手には、変わったルーティンがありました。今日の目標とするあたりに帽子を置くのです。その日も、同じように、このあたりかな、というところに帽子を置き、スタート地点へ向かいます。ところが、砂場を整備する人が、その帽子をトンボでひっかけ、随分先まで動かしてしまいます。それと知らないビーモン選手は、いつも通り、帽子を目指してジャンプします。結果は、驚異的な世界新記録。人間は自ら限界を決める唯一の動物、と言われます。偶然とは言え、ビーモン選手は、自ら決めた限界を否定し、潜在能力を引き出したとも言えます。

もし、ビーモン選手が、最初から9m のところに帽子を置いたとしても、同じ結果が出たでしょうか。恐らく、力んで、失敗ジャンプを繰り返したのではないかと思われます。オリンピックという一発勝負の世界で最も大事なことは、日頃のトレーニングだと思います。ビーモン選手がさほど注目されていなかったということは、それまで記録に恵まれていなかったということでしょう。帽子が邪魔をしていた面もあるかもしれません。ただ、最も注目すべきことは、ビーモン選手が、日頃から、いい練習を積み重ね、潜在能力を高めてきた、ということだと思います。

「目標は高かるべし」はいい言葉だと思います。その高さが、人間を成長させると思います。しかし、むやみに高いだけの目標は、人をつぶしかねません。営業は、短距離ではなく、長距離ランナーです。高いモチベーションを持続させる「夢」こそ大きく持つべきだと思います。そして、その実現に向けた日々の「目標」は、あくまでも実行可能な計画に裏打ちされたものであるべきでしょう。その積み重ねこそが重要であり、その積み重ねこそが大きな記録を生み出します。




2020年5月22日金曜日

江差追分

・かもめの 鳴く音に ふと目を さまし あれが 蝦夷地の 山かいな
・忍路(おしょろ) 高島 およびも ないが せめて 歌棄(うたすつ) 磯谷まで
・松前 江差の かもめの 島は 地から はえたか 浮島か

日本を代表する民謡にして、日本で最も難しい民謡と言われる江差追分の本唄三つです。江差追分は、信州の追分節や伊勢の松坂節が、越後経由で江差に渡り、誕生したと言われます。北前船やにしん漁で賑わった江戸期の江差は、多くの往来があり、まさに文化の十字路だったのでしょう。七節を七声で変化をつけ、2分30秒程度で歌いあげる江差追分は、習得に時間がかかり、歌い手は3千人程度と聞きます。江差では、毎年、江差追分全国大会が開かれ、海外も含む各地の予選を勝ち抜いた約400人が喉を競います。

情歌だという説もあり、その根拠が二つ目にあげた本唄「忍路高島」です。女人禁制だった神威岬の先「忍路・高島」、今の小樽付近まで漁に行った恋人を、せめて「歌棄・磯谷」、今の寿都町あたりまで追いかけたい、と唄っているというわけです。艶のある解釈ですが、どうも間違いのようです。本当は、小樽付近の漁場を独占する商人たちをねたみ、切り崩しを図ろうと手をつくす商人たちを風刺した歌だそうです。それほど、にしん漁は活況を呈していたわけです。

浜が白くなる、と言われるほど、にしんの大群が押し寄せたものだそうですが、はたして需要はあったのでしょうか。主な用途は肥料でした。江戸中期、日本の農村には、「勤勉革命」と言われる変化が起こります。江戸初期、新田開発と人口増加で伸びた農業生産は、中期に至り頭打ちとなります。農家は、生産性を上げるために、手間暇を惜しまない丁寧な栽培、そして良質な肥料の利用を始めます。鰯とともににしんの需要が旺盛になったわけです。

江差の町とかもめ島   出典:HMA
「かもめの島」とは、江差を天然の良港にしたかもめ島。ただ、水深が浅く、蒸気船の登場とともに寂れます。同じ頃、にしんも姿を消します。理由は、いまだに特定できず。いずれにせよ、道南の中心は函館へと移りました。「江差の五月は江戸にもない」と言われた栄華は、にしん御殿、復元された「いにしえ街道」に偲ばれるのみ。浜には、戊辰戦争のおり座礁した幕府の軍船開陽丸が復元展示されています。
 

2020年5月21日木曜日

ノルディック・ノワール

刑事小説のパターンは、一途さと優しさを併せ持つ主人公、それゆえに崩壊した家庭、理解者としての相棒、心を交わせる社会的落伍者、そして舞台となる陰ある街、といったところ。なかでも魅力的な舞台設定さえできれば、5割方は成功だと思います。ノルディック・ノワールと呼ばれるようになった北欧ものは、幸福度の高い国々の暗い部分を、ドライに、リアルに描いて成功しています。その独特で陰鬱なテイストは、正直、ハマります。

小説では、いまや古典となったマイ・シューヴァルとペール・ヴァールー夫妻による「マルティン・ベック・シリーズ」が先陣を切りました。以降、へニング・マンケルの「カート・ウォランダー・シリーズ」、スティーグ・ラーソンの「ミレニアム・シリーズ」等が代表作となります。それらは、映画化、TVドラマ化され、広く知られるところとなりました。マルティン・ベック・シリーズの「マシンガン・パニック」、ミレニアム・シリーズの「ドラゴン・タトゥーの女」等は大ヒットした映画です。

ノルディック・ノワールを世に知らしめた立役者は、TVドラマだと思います。キリング、ブリッジ、ボーダータウン、トラップ、ウォランダー等が代表作です。なかでも「ブリッジ」は衝撃的でした。ドラマは、スウェーデンとデンマークを結ぶ橋の真ん中に横たわる女性の切断死体からスタートします。アスペルガー症候群の女性刑事サーガ・ノーレンは、ノルディック・キャラの代表ともいえます。強烈な印象を残しました。ブリッジは、舞台をフランス・イギリス、アメリカ・メキシコ等々に移し、リメイクされています。サーガのユニークなキャラクターは継承されていましたが、北欧の暗さを背負っていないせいか、やや分かりにくくなっていました。

寒々しく荒涼とした景色や街並み、モダンながら殺風景な家、少なめでぶっきらぼうな台詞、表情の薄い人々、ドライでグロテスクなシーン。北欧の心象風景そのものなのでしょう。ちなみに、ノルディック・ノワールは、他の欧州北部の国々にも波及しています。なかでも、全編ウェールズ語という「ヒンターランド」は傑作でした。
                                                                The Bridge の刑事サーガ・ノーレン(ソフィア・ヘリーン)  出典:Super Drama TV

キアナ牛

イタリアが統一されてから、まだ160年。各地方は、お互いによく言わない傾向があります。例えば、北イタリア人は、南イタリアは別の国だと切り捨てますし、ローマをバカにしますし、トスカーナを嫌っています。歴史的事実なのでしょうが、我々とは人種が違う、と言い切ります。いまだに、トスカーナ人はエトルリア人だからね、と言うわけです。エトルリアがローマと同化したのは、2500年以上前のことですけどね。

独自の文化・言語を持つエトルリアが、半島中部に繁栄したのは紀元前8世紀以降。12の都市の緩やかな連合体だったようです。王政ローマ最後の3人の王はエトルリア人。世界を征した古代ローマも、当初は、はるかに先進的なエトルリアの影響下にあったわけです。トスカーナは「エトルリア人の土地」、ティレニア海は「エトルリアの海」という意味だそうです。そのエトルリアで、古代から飼育されてきたのがキアナ牛。白くて巨大なキアナ牛は、世界中の牛の起源だとも言われます。

出典:Atpress
フィレンツェの名物料理と言えば、ビスティッカ・アラ・フィオレンティーナということになります。希少なキアナ牛を炭火で焼き上げます。味付けは、塩・胡椒・オリーブオイルだけ。外はカリカリ、内はジューシーという焼き方も見事ながら、何といってもキアナ牛の風味の良さ、味わいの深さが最大の魅力です。圧倒的な高たんぱく、低コレステロールが、独特の風味を作っているようです。キアナ牛の肉のうま味の強さに比べれば、他の牛は脂の味しかしないようにも思えます。知る限りにおいて、キアナ牛のビスティッカは、ベスト・オブ・ステーキです。

数年前から、日本でもキアナ牛が食べられるようになりました。広尾のラ・ビスボッチァで試しましたが、やはりうま味の強さは抜群。ただ、とてもお高い。それに、ビスボッチャと言えども焼き方がビスティッカというわけにはいきません。フィレンツェの焼き方にかなり近いと思ったのは、青山、渋谷から広尾へと越した「トゥリオ」です。キアナ牛を指定して、食べてみたいものです。とても高価でしょうが、フィレンツェへ行くよりは安上がりのはずですから。



2020年5月20日水曜日

営業昔話(7)習慣

昔々、世界一の営業マンは、たった一つの習慣にこだわったとさ。

数年前、米国人の友人から、サム・パーカー氏の「華氏212度」というセミナー冊子をもらいました。華氏212度とは、摂氏で言えば100度。99度のお湯も熱いけど、100度になると蒸気が生まれ、産業革命が起こり、世界を変えた。その違いは、たった1度。小さな違いが大きな違いを生む、世界はそんなことにあふれている。私たちも、ちょっとしたことを毎日続けてみよう。例えば、いつもより1本だけ多くセールス・コールをする、それだけで大きな違いが生まれるはず。営業の世界では、しばしば活動の習慣化が大きな成功を生みます。

保険営業の世界に、延々と世界ナンバーワンを続けた伝説の男がいます。英国のトニー・ゴードンです。数年前、来日セミナーに参加しました。どんなにすごいカリスマかと思いきや、風采、物腰、話し方、どれをとっても、ごくごく普通のおじさんでした。セールス話法の全てを明らかにしてくれましたが、これといって感心するような内容でもありませんでした。ただ、たった一つ、感心、納得したことがありました。

「週15件のアポ」です。彼が、保険営業を始めた時、マネージャーにこう言われたそうです。「週15件のアポを取れば成功する。」成果を意識するのではなく、日々できるプロセスに注力させるという指導です。生意気だったトニーは「週14件じゃダメなんですか?」と聞きます。マネジャー答えていわく「週14件でも成功するかもしれない。でも15件なら必ず成功する。」実に優れたマネジャーです。単なる努力目標と習慣化の違いを教えたわけです。

トニーは、週15件のアポにこだわっていたら、いつのまにか世界一になっていた、と言います。それは自分との約束であり、それを破ることは自分を否定することになる。翌週のアポが15件にならない限り、家には帰らない、とも言っていました。

「凡事徹底」という言葉があります。「継続こそ力なり」という言葉もあります。いずれもいい言葉ですが、非凡な努力が求められているようにも聞こえます。しかし、習慣化できれば、もっと気楽に続けることができるはずです。
                                                                                                              トニー・ゴードン  写真出典:tonygordon.biz


2020年5月19日火曜日

赤い靴

数年前、小樽へ行った際、タクシーの運転手さんから、小樽には「赤い靴の親子像」があるという話を聞きました。野口雨情作詞、本居長世作曲になる童謡「赤い靴」の女の子は、横浜から異人さんに連れていかれちゃったわけで、小樽も、親も登場しません。不思議に思い、調べてみると、意外なことが分かりました。

事の発端は、昭和48年、北海道新聞に、「私の異父姉は『赤い靴』の少女のモデルです。どなたか消息を知りませんか?」という投稿がありました。これに興味を抱いた記者が、5年の歳月をかけて取材、ドキュメンタリーにまとめます。

明治末期、静岡県清水出身の岩崎かよは、2歳になる私生児きみを連れ、北海道に渡ります。そこで左翼青年鈴木志郎と出会い、結婚。二人は、空想的社会主義者たちが作った真狩の平民社農場に入植しますが、それは乳飲み子には厳しすぎる環境でした。夫妻は、きみを函館の宣教師ヒューエット夫妻の養子に出します。夫妻は米国に帰国することになりますが、出航直前、病いを患ったきみに長旅は無理と医師に言われ、やむなく鳥居坂教会の孤児院に預け、船に乗ります。

かよは、きみが米国に渡ったと死ぬまで信じていました。しかし、きみは9歳の時、麻布の医院で息を引き取っていました。平民社農場が失敗に終わった後、鈴木志郎は札幌の新聞社に勤め、そこで野口雨情と席を並べます。きみの話を聞いた雨情は、童謡「赤い靴」を作詞します。「赤い靴」は第三者の目線ではなく、母親かよの目線で歌われているのではないでしょうか。

わが子を手放さざるを得なかった母。二度も親に捨てられ死んだ娘。会えたかもしれない二人が会えなかった偶然。なんとも切ない話です。鈴木志郎・かよ夫妻は、小樽の新聞社に移り、石川啄木とも働いています。キリスト教の洗礼を受けた夫妻は、樺太で布教活動を行っていたそうです。理想主義者の影で泣いている人たちが絶えることはありません。
                                             写真出典:小樽チャンネル

神軍平等兵

「ゆきゆきて、神軍」は、ドキュメンタリー映画史に名を刻む、87年原一男監督の傑作。多くの賞を受賞していることに加え、例えばマイケル・ムーア監督が生涯ベストとして本作をあげる等、世界中で高く評価されています。自称「神軍平等兵」奥崎謙三を追ったフィルムは、戦争と個人というテーマをとことんえぐりました。

奥崎は、兵站無視で知られるニューギニア戦線に工兵として参加。千数百名の連隊で、生き残ったのは奥崎を含め30名。ジャングルのなかで敗走を続け、ほとんどが飢えとマラリアで命を落とします。奥崎は、幸いにも捕虜となったために生還します。戦後、バッテリー商を営むなか、金銭トラブルから悪徳不動産業者を刺殺。獄中、奥崎は、一つの考えに取りつかれます。あの悲惨な戦場から生還できたのは、自分に成すべき使命があるからではないか。神軍平等兵の誕生です。

出獄後、平等兵は進軍を開始。69年、皇居一般参賀で「ヤマザキ、天皇を撃て!」と叫びながら、ゴムパチンコで天皇を狙撃。逮捕、入獄。ヤマザキとはニューギニアで戦死した兵士を総称したと言います。グアム島では、自費で残留日本兵の救出を行います。76年、自著「宇宙人の聖書」宣伝のために、ポルノ写真に天皇家の写真をコラージュしたビラをデパート屋上からバラまき、わいせつ罪で入獄。獄中から参院選に二度出馬、二度落選。「田中角栄を殺すために記す」を出版。いつしかアナキストとして名をあげ、左翼のスターとなりました。

平等兵が、次に標的としたのは、戦場における個人の責任。「ゆきゆきて、神軍」は、その進軍に密着したドキュメンタリーです。ニューギニアで、終戦から20日後、上官が兵士を射殺した事件の真相を追い、生き残りを全国に訪ねます。皆、固く口を閉ざします。いらだった奥崎は暴力に訴えます。ついに、老人たちは、号泣しながら、事件を語り始めます。平等兵は、上官3名の殺害を決意し、手製の改造銃をもって上官宅を訪問。誤って子息を負傷させた平等兵は、お好み焼き屋から警察に電話し、自首します。

頑なに口を閉ざし生きてきた戦争経験者たちが語り始める時、必ず号泣します。彼らが、戦後過ごしてきた眠れぬ長い夜を想えば、胸が痛みます。ただ、平等兵は、そんな夜も眠ることなく、ニューギニアのジャングルに身を置き続けていたのでしょう。
                                                                                                                                                  写真出典:cinefil.tokyo

リメンバー・アラモ!

チリ・コーン・カーンは、メキシコ料理店のメニューにありません。メキシコ料理ではなく、Tex-Mex(テキサス風メキシコ料理)だからです。発祥の地は、テキサス州サン・アントニオ。ウォーターフロント開発で成功し、多くの観光客を集めます。名物リバー・ウォークは、地上から一段下がった川に沿ってメキシコ料理店などが並ぶ遊歩道。ただ、米国人の最大のお目当ては、アラモ伝道所、通称アラモ砦への巡礼です。

メキシコ領テハスには、多くの米国人が入植していました。メキシコのサンタ・アナ将軍は、大統領に就任すると、憲法を改正し、中央集権国家を目指します。これに反発した米国人入植者との間に武力衝突が勃発し、テキサス革命へとつながります。アラモ砦の戦いは、1836年、砦を守るテキサス分離派の米国人200名弱を、メキシコ兵2000名が包囲し、13日間にわたる激戦の末、殲滅した戦いです。

「リメンバー・アラモ!」と訴えたテキサス分離派のサム・ヒューストン将軍はメキシコ軍を破り、テキサスは独立を勝ち取ります。「リメンバー・アラモ」は、その後、国論を戦争へと駆り立てる定番フレーズとなります。米西戦争時には、ハバナ湾で謎の爆発を起こした戦艦メイン号から「リメンバー・ザ・メイン」として、そして太平洋戦争では「リメンバー・パールハーバー」として世論を開戦へと導きます、あまりの定番ぶりに、米国政府が真珠湾奇襲を事前に知っていた、という説の背景にもなっています。

砦の守備隊の中には、全米から駆け付けた義勇兵たちもいました。最も有名なのが、デビー・クロケット。アライグマの帽子にフリンジのついたインディアン服で有名なデビー・クロケットは、テネシー州選出の下院議員でした。しかし、超有名人というわけでもなく、戦闘で目覚ましい活躍をしたというほどでもなく、おそらく「リメンバー・アラモ」の象徴的な犠牲者として祭り上げられたということなのでしょう。

一つ星のテキサス州旗は、テキサス・ローン・スターと呼ばれます。血で勝ち取った独立は、今でもテキサスの誇りです。実は、私も名誉テキサス市民です。ただ、残念なことに、なんちゃって名誉市民です。称号とローン・スター・バッジを授与してくれた某大佐は、さる日系企業の副社長にすぎません。テキサンが、いかにテキサンであることを誇りに思っているか、という話でもあります。
                                                                                                                                                 写真出典:Tripadvisor


2020年5月18日月曜日

一握りの砂も

戦後日本を代表する政治家と言えば、吉田茂、岸信介、池田隼人等々あげられますが、なかでもカリスマ性の高さで言えば、東の田中角栄、西の瀬長亀次郎ではないかと思います。亀次郎は、沖縄県出身、新聞記者、うるま新報(現:琉球新報)社長、那覇市長、国会議員を務めた大衆運動家。沖縄県民を守るために権力と戦い、ことに占領軍と熾烈な闘争を展開した不屈の闘士です。

うるま新報社長時代には、人民党を結成したことで、軍から圧力をかけられ辞任。最高得票で立法院議員に選出されるも、政府創立式典で宣誓を拒否。難癖に近い嫌疑、裁判とも言えない裁判で2年の懲役をくらいます。那覇市長に選出されると、軍は、市への補助金を凍結します。すると多くの那覇市民が市役所に押し寄せます。「亀さんを助けろ!」のかけ声とともに、市民が納税するために集まったというのです。亀次郎の演説は、誰にでも分かるような話を、ウチナーグチ(沖縄弁)で語ります。「一握りの砂も、一滴の水も、ぜーんぶ私たちのものだ。アメリカは”ぬするれいびんど(泥棒だ)”。」占領下、占領軍への反発という状況はあったにしても、亀次郎の演説会は、多くの人々を集め、15万人という驚異的な記録すらあります。

亀次郎に関しては、2つばかり気になることがあります。一つは、琉球独立論です。自身が中心となって進めた本土復帰運動ですが、いざ返還が決まると、基地は現状維持という日米合意が成されます。基地を本土並みに抑えることが復帰運動のねらいです。日本政府に裏切られたと思って当然です。とすれば、琉球独立、あるいは独立性の高い復帰という議論があって当然です。しかし、亀次郎にその発言はありません。どう考えていたのか、聞いてみたかったところです。

今一つは、晩年、亀次郎は「自分は共産党員だったことはない」と発言している点です。最後は、自らの政党である人民党を共産党に合流させ、共産党公認として国会議員になっています。しかし、共産主義革命を目指した人ではなく、あくまでも大衆のなかにある大衆運動家だった亀次郎にとって、人民党こそがすべてだったのでしょう。

TBSが製作した「米軍が恐れた男~その名は、カメジロー」とその続編は、ドキュメンタリー映画などとは呼べない、実に薄っぺらい代物でした。ただ、亀次郎を知らない世代に、その名を伝える意味はあったかも知れません。
                                                                                                                                                写真出典:Wikipedia

2020年5月17日日曜日

南部せんべい

南部せんべいは、なかなか位置づけが難しい食品です。私は、子供のころから、おやつとして食べてきたので、菓子類と思っています。ただ、初めて食べる人たちは戸惑います。基本的には、小麦粉を水で溶いて焼いただけ。甘くない、味がない、どういう食べ物だと理解すればいいか、困るわけです。近年、B-1グランプリで、八戸せんべい汁が優勝したこともあり、多少、知名度はあがったとは思いますが、不思議な食べ物であることに変わりはないでしょう。

南部せんべいの起源は定かではないのですが、最も有力と思われる説は、南部藩の支藩である八戸南部藩が、兵糧として開発したというものです。簡単に作れる、軽い、そのまま食べられる。例え、湿気っても焼き直せば元通りになる。汁に入れてすいとんとしても食べられる。このすいとんスタイルが八戸せんべい汁ということになります。確かに優れた兵糧かもしれません。

異説もあります。八戸煎餅組合公認の起源は、長慶天皇説。南朝の長慶天皇が南部地方に巡幸されたおりのことです。空腹を感じた天皇に、とっさの知恵を発揮した赤松助左衛門が、自らの兜を使って焼き、献上したというもの。天皇は、これが気に入り、赤松の忠義は楠木正成にも劣らぬとして、赤松家の家紋である「三階松」とともに、楠木正成の家紋「菊水」も焼きいれることを許したと言われます。よほど空腹だったのでしょうね。

南部せんべいの菊水紋 出典:Livedoor
昔、南部せんべいは、どの店が焼いても、必ず菊水と三階松が焼き入れらていました。不思議に思っていました。おそらく煎餅組合が、長慶天皇説を公認した時、組合員に徹底したのでしょう。一種のブランディングですが、やや無理があるようにも思います。かつては、白せんべい、ゴマ、新作としてピーナッツ、そしてバター程度だったバリエーションは、いまや数知れず。おそらく家紋は焼き入れられていないと思います。

南部せんべいには、青い目の双子がいます。米国のクラッカーです。1792年、マサチューセッツ州ニューベリーポートで、ジョン・ピアソンが、航海用食料として開発。後に軍隊の糧食として採用され、レシピはナビスコ社へと受け継がれました。クラッカーを思えば、南部せんべいは、もっと様々な食べ方があってよいと思います。

クロスロード

絵画や音楽の世界では、しばしば天才が現れ、パラダイムシフトを起こします。初期のブルース界に現れた天才の一人は、ロバート・ジョンソンでした。米国南部で、労働歌や教会音楽のなかから生まれたブルースは、1903年、W.C.ハンディが採譜したことで世に知られ、20年には、初めてレコードが発売されます。デルタ・ブルースはギターの弾き語りで演奏されますが、30年頃、ロバート・ジョンソンが、突然、歌とギターを異次元へとワープさせます。

ブルース・シンガーのサン・ハウスが、ミシシッピの田舎町で歌っていると、休憩時間に弾かせてくれという若者が現れます。聞くに堪えない演奏で、客が怒ったと言います。サン・ハウスは、お前にブルースは無理だ、止めちまえ、と言って追い出します。2年後、再び若者が現れます。休憩時間に弾かせてくれ、まだ懲りないのか、というやり取りの後、若者が演奏し始めます。ものの数秒で、そこにいた全員が言葉を失ったと言います。まさに聞いたこともないレベルの歌とギターだったわけです。

ロバート・ジョンソンには、常にクロスロードの噂が付きまといます。奴が、短期間であんなに上達できたのは、クラークスデールの十字路で、悪魔に魂を売り、替わりにギターの腕前を手に入れたからだ。そんな噂がまことしやかに広がるほど、驚異的、革新的演奏だったわけです。ロバート・ジョンソンは、各地を放浪しながら、演奏を続けます。ただ、当時のデルタ・ブルースを取り巻く差別的環境等からして、今に残る録音は、わずか29曲と12の別テイクのみ。写真ですら、数枚が発見されただけです。

あの世、という概念は古代エジプトまでさかのぼります。おそらくもっと昔からあったのでしょう。霊界への入り口、あるいは霊界と現世の境、と言われる場所も、世界中にあります。パターンとしては、洞窟、火山の岩場等が典型ですが、十字路も西アフリカ当たりでは人気があるようです。霊界と現世が交差する、ということなのでしょう。十字路で魂を売ったロバート・ジョンソンは、悪魔との約束どおり、若くしてこの世を去ります。浮気相手の旦那に毒をもられる、という、いたって俗っぽい死因ではありますが。

「27クラブ」とは、27歳で命を落としたミュージシャンたちのこと。確かに多いのです。ブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソン、カート・コバーン等々。そして、列の先頭にはロバート・ジョンソンがいます。
                                                                                                                         ロバート・ジョンソン   出典:Amazon


2020年5月16日土曜日

深川安楽亭

「いのちぼうにふろう」  出典:東宝
隅田川の河口あたりに荒れた小島があり、建屋といえば一膳飯屋が一軒。「知らない人間は入れない。うっかり島に入ったら二度と出てこれないと言われる。」山本周五郎の遺作「深川安楽亭」冒頭の一説。安楽亭は、抜け荷を生業とする極悪人のたまり場。その荒くれ者たちが、一文の得にもならないばかりか、自らの命までかけて、無垢な青年を助けにはいる。後に、小林正樹監督が「いのちぼうにふろう」というタイトルで映画化。白黒の画面に、中村翫右衛門、仲代達也、勝新太郎等といったアクの強い役者を揃えた名作でした。

江戸幕府開闢以前の墨東と言えば、本所村と亀戸村くらいしか無かったといいます。家康は、小名木四郎兵衛に命じて、行徳塩田と江戸城を結ぶ掘割を開削させます。今の小名木川です。その流域は、深川八郎右衛門らによって新田開発が進められ、海沿いには、木場に代表されるような荷上場が整備されます。その後、江戸の人口増加に伴い、北は向島、南は深川へと市街地化が進みました。

なぜ山周は、深川を舞台に選んだのか。謎めいた小島だけが理由ではないでしょう。江戸っ子の気風が最も濃いからこそ深川だったのだと思います。深川の男衆の気風は「いなせ」と言われます。粋で男気があり、向こう見ずで喧嘩っ早い。女は「おきゃん」と言われます。江戸を代表する芸者と言えば「辰巳芸者」。辰巳とは、江戸城から東南の方角にあった深川を指します。男物の羽織を羽織ってお座敷にあがり、その心意気は「芸は売るけど、女は売らない」だったと言います。安楽亭に転がり込んだ若者の無念をほっておけないのが深川の気風。この短編の主人公は、深川のいなせな気風です。

東日本一の居酒屋と言われるのが、月島の「岸田屋」。東京三大煮込みの一つとして煮込みが有名ですが、煮魚を忘れてはいけません。見た目は醤油で真っ黒、でも味はあっさり。魚の風味が活かされています。これが深川の味なのでしょう。どこか深川のいなせな気風に通じるものがあります。とは言え、岸田屋最大の魅力は、ホスピタリティですけどね。


Go for Broke!

「Go for Broke!(当たって砕けろ)」は、日系人だけで構成された米国陸軍第442連隊戦闘団のキャッチ・フレーズです。米国陸軍史上、最も多くの勲章を授与された部隊であり、最も死傷率の高い部隊の一つであり、唯一大統領が帰還閲兵を行った部隊です。442部隊は、米国陸軍の誇りであり、それ以上に日本の誇りです。

日米開戦直後、米国は、カリフォルニアの日系移民、ハワイの一部日系移民を収容所に押し込めます。ドイツ系やイタリア系には行わず、日系だけが対象とされたことで、日本は人種差別だと抗議します。その対応策として日系移民の志願兵が募集されます。二世たちは、米国への忠誠を証明し、家族を偏見から守るために、我先と志願します。そしてハワイで組成されたのが日系人部隊442連隊でした。

442部隊は、欧州戦線に投入され、あたかも白人の弾除けがごとく、最前線、最前線へと展開させられます。モチベーションが他の部隊とは大きく異なる442部隊は、次々と敵を破ります。イタリア戦線で快進撃を続けた442部隊は、ローマへ一番乗りというところで停止させられます。白人部隊を一番乗りさせるためでした。テキサス大隊がナチに包囲され、全滅不可避となった時、大統領は442部隊投入を命じます。442部隊は、211名を救うために、216名を失い、600名以上が負傷しながらも、見事、救出に成功しました。

大統領の帰還閲兵を受ける442部隊
442部隊は、突撃を行う際、「バンザイ!」と叫んで突撃したと言います。米国人と認められない米兵が、家族を米国人と認めさせるために、日本語で「バンザイ」と叫びながら死地に飛び込む。なんと理不尽な構図。彼らの心情を思えば、涙を禁じえません。戦後、欧州から帰還した442部隊をトルーマン大統領が閲兵します。その際の大統領の言葉は有名です。「諸君は、敵のみならず、偏見とも戦い、そして勝利した。」

442部隊の活躍と犠牲は、日系移民へのリスペクトを獲得しました。しかし、戦いは終わっていませんでした。日系移民が市民権を得るためには、さらに20年近くの時間を要したのです。
                                            写真出典:米国国立公文書館



2020年5月15日金曜日

直線裁ち

「日本の着物は、たたむと真っ平らになるところが悲しい」と言ったのは伊丹十三だったと記憶します。西洋の服は立体裁断で着心地が良い、という話の流れで筆が滑ったのでしょう。たたむと真っ平らになることは、日本の着物の大きな利点の一つです。日本人は、立体裁断を知らなかったのではなく、直線裁ちを選択したのだと考えます。

飛鳥・奈良時代は、遣隋使や遣唐使がもたらす大陸文化の影響が濃く、服装も中国風だったようです。平安期、大陸との交流が限定的になると、日本独自の服装が生まれます。その大本になっているのが直線裁ちです。生地を長方形に切る直線裁ちは、高価な反物を無駄なく使うという発想が背景にあったのでしょう。さらに直線裁ちした種々の布を自在に縫い合わせ、そして重ね着することで、日本の気候風土、とりわけ移りゆく四季への対応が容易だったのでしょう。体型に合わせるのではなく、気候に合わせるという判断をしたということです。

重ね着を前提とする直線裁ちは、さらに重要な日本文化を生み出します。それは、色です。平安文化は、自然を愛でることを教養とします。重ね着は、多様な自然界の色を表現し、服装に取り込むことを可能にしました。ちなみに、紫式部の「源氏物語」に登場する色は、実に368色だと言います。すべて鉱石・草木から染めることが可能です。「襲の色目(かさねのいろめ)」とは、パターン化された女性の袿(うちぎ)の重ねですが、複数の色を重ねることで、季節毎の自然の風情を映していたと言われます。実は、東京オリンピック・パラリンピック2020のコアグラフィックスとしても採用されています。なお、現代の産業界における色は、マンセル・カラー・システムによって体系化されていますが、それに基づくJIS規格に規定される色は269色です。今更ながら平安文化の奥深さに驚かされます。

さらに、「たたむと真っ平ら」であることは、省スペース、しわになりにくい等、実に効率的だと思います。しかも、それらを重ね着すれば、見事に立体的になります。能楽の衣装の立体感に至っては、立体裁断の衣服と同等、なしは超えています。欧州の石の家、日本の木と紙の家という比較と同じく、どちらが優れているという問題ではなく、いずれもその気候風土に根ざしているということなのでしょう。日本は、より自然界に寄り添うという発想が特徴なのだと思います。

半能「石橋」 出典:noh-theater.com

2020年5月14日木曜日

ギヨエテ

1920年代、アメリカを放浪した谷譲次は、カリフォルニアの日系移民は、耳で聞いた英語をそのままカタカナにする、と書いています。例えば、サンドイッチは「サミチ」、チケットは「テケツ」という具合です。1903年創刊、ロスアンジェルスの日本語新聞「羅府新報」では、今でも、同じようなカタカナを見かけます。例えば、"San Fernando Valley"ですが、日本では「サンフェルナンド・バレー」、羅府新報では「サンファナンドバレー」となります。

日本では、アルファベット表記をカタカナ化する際、耳で聞いたとおりではなく、ローマ字読みをカタカナ化する傾向があります。例えば電池は”Battery”ですが、カタカナは「バッテリー」、米国人の発音は「バラリー」と聞こえます。この方が、確実に通じます。日本人の英会話力を落としている一因がここにあり、日本の言論界、特にマスコミの責任は大きいと思います。米国人と話すとき、ローマ字読みカタカナ以上に困るのは、実は漢字です。中国の固有名詞ということですが。

海外で「もうたくとう(毛沢東)」と言っても、誰にも通じません。日本にいる限り、「マオ・ツォートン」など聞くことも話すこともありません。本当に困りものです。世界各国の固有名詞は、現地主義が採用されています。つまり、現地の発音で表記するということです。ただし、漢字を共有する日本と中国は相互主義、つまりそれぞれの発音を採用しています。中国人が「アンペイ・チンサン(安倍晋三)」と言っても、世界では通じないわけです。困りものです。早期に現地主義化し、漢字とカタカナ併記方式にすべきだと思います。

韓国とも84年までは相互主義でした。韓国の固有名詞は、ハングルの背景に漢字があるからなのでしょう。父親は「ぼくせいき(朴正熙)」大統領、娘は「パク・クネ(朴槿恵)」大統領と発音されるわけです。ただ、発音は現地主義になっても、表記は漢字を使っている場合もあります。例えば共同通信は漢字主義です。ゴルフ・プレイヤーなどは、登録名を使うので、本人がカタカナ登録すれば、共同通信もカタカナ表記します。これもややこしいので、韓国はカタカナ一本でいいのではないでしょうか。

「ギヨエテとは わしのことかと ゲーテなり」文明開化時の翻訳の混乱を風刺した川柳です。ま、「ゲーテ」も海外では通じませんけどね。
羅府新報  写真出典:SavelG


不良外人とピッツア

明治7年、フランスから来日した曲馬団のイタリア人コックが、新潟で大けがをし、置き去りにされます。曲馬団の下働きをしていた地元女性がよく世話をし、その話を聞きつけた新潟県令が資金を提供し、二人に牛鍋屋を開かせます。男はピエトロ・ミリオーレ、女はおすい。二人は結婚し、店も繁盛しますが、新潟大火で全焼。その跡地に、夫婦は洋館を建て、イタリア料理店として再出発します。日本初の洋食店にして、日本初のイタリア料理店「新潟イタリア軒」の縁起です。

イタリア軒で、当時のメニューにピッツアはあったのか聞くと、記録にないとのこと。それもそのはず、現在の形のピッツアは18世紀のナポリで誕生します。ミリオーレは北部トリノの生まれ。彼にとってピッツアは未知の食べ物だったわけです。では、日本にピッツアを持ち込んだのは誰かとなると、第二次大戦中、来日したイタリア兵が神戸で開いた店が出していたという説、戦後、宝塚でシチリア人が開いた「アベーラ」が最初という説など諸説あります。

ただ、日本初のピッツェリアなら、文句なしに六本木の「ニコラス」となります。伝説の不良外人ニック・ザペッティが、昭和31年に開業しました。NY出身のマフィアであるザペッティは進駐軍として来日、戦後の混乱が商売になると見込み、ありとあらゆる闇商売に手を出します。かなり荒稼ぎしたザペッティは、戦後の東京を裏で回した大物の一人でもあります。そのザペッティが、故郷の味が忘れられずオープンしたのがニコラス。ゴーダ・チーズたっぷりのNYスタイルのピッツアが売りだったそうです(六本木「ニコラス」は2018年閉店)

ニコラスは、夜な夜な、有名人と悪人でごった返していたようです。その熱気は、ロバート・ホワイティングの傑作ノンフィクション「東京アンダーワールド」に詳しいところです。ホワイティングは、ザペッティに長時間のインタビューを行い、混乱期の東京の闇に暗躍する政財界人、やくざ、芸能人、スポーツ選手等を生き生きと描いています。力道山も、その一人。力道山は、北朝鮮生まれ。日本で角界入りし、その後プロレスを立ち上げます。リングで白人を倒す姿に、敗戦国日本の国民皆が熱狂しました。赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」でやくざに刺殺される最後まで含めて、日本の戦後を象徴する人だったと言えます。

混乱期をうまく立ち回り、後に大物となった人たちもいますが、ごく少数です。混乱期に、水を得た魚のごとく活躍する若者の多くは、混乱の収束とともに消えていきます。荒稼ぎしたザペッティでしたが、お金が消えるのも早かったようです。ニコラスも人出に渡り、晩年のザペッティは、3番目の妻と横田に開いたニコラス、後の「ニコラ」の親父として過ごします。今もニコラは、NYスタイルの味を守り続けていると聞きます。
                                                                                                               ニック・ザペッティ  出典:Pizza Nicola

2020年5月13日水曜日

世界一のデイリー・ストア

山崎製パンが展開するコンビニ「デイリーヤマザキ」は、乳製品がメインでもないのに、なぜデイリーなのかと不思議でした。実は、Daily、毎日ヤマザキだったことに、ようやく気づきました。私は、てっきり乳製品の方のDairyだと思っていたわけです。と言うのも、毎日という意味では「デーリー」と表記することが多いからです。

ところで世界一のデイリー・ストア(乳製品店)と呼ばれている店がコネチカット州ノーウォークにあります。「ステュー・レナード」です。納屋を模した木造の巨大な建屋には、新鮮な乳製品、野菜、肉類、魚介、パン、お菓子、総菜など、常時3万アイテムを超えるという商品が所狭しと並びます。店内には、ガラス張りの牛乳工場、製パン所もあり、通路のそこここに機械仕掛けの動物が鳴き、店外には小動物園まであります。デイリー・ストアのディズニー・ランドとも呼ばれます。

ステュー・レナードは、1920年、地元の牛乳販売店からスタート。その後、直営農場も持つなど成長を続けます。牛乳配達車に、モーと鳴くプラスティックの牛をつけ、子供たちから大人気だったようです。非凡さを感じさせます。60年代後半、農場と店がハイウェイの建設用地となり、かつ牛乳配達業の先行きを不安に思っていたレナード家は、乳製品主体の食品スーパーを開業します。思い描いたのは、子供たちが店内の牛乳工場を見ている間に、母親が買い物をするという店でした。

ユニークな発想からスタートした店は、20年もたたずに単位面積当たりの売り上げ全米ナンバー・ワン、世界一のデイリー・ストアと呼ばれるまでになります。その成長を支えたと言われるのが有名な「私たちのポリシー」でした。店の入り口に重さ3トンという巨石があり、そこにポリシーが刻まれています。「ルール1.お客さまは常に正しい。ルール2.もしお客さまが間違っている場合には、ルール1を読み返せ!」

私が思うステュー・レナード最大の発明は、店内の曲がりくねった一本の道だと思います。通常のスーパーは、並列した棚に商品が並びます。効率的です。ただ、顧客は、買いたいものだけを探します。ステューでは、一本のクネクネ道に沿って、かつストーリー性のある陳列に沿って、商品の全てを見ることになります。レジにたどり着く頃には、カートは満杯。大型スーパーが失った商品提案力を、上手に実現しているわけです。まさにショッピングのテーマパーク化と言えます。
写真出典:RTI Research

行くに径に由らず

紙媒体の出版は厳しい状況が続きます。百科事典は、既に古書。辞典は、児童向けに底堅い需要もあるようですが、かつてほどではありません。ちなみに、電子辞書もスマホに押され、過去のものになつつあります。その辞書に、久々のヒット作が出ました。「三省堂国語辞典広島東洋カープ仕様」です。国語辞典としての基本はそのままに、カープ・ファンへのくすぐりを盛り込んでいるようです。辞書として売れているというよりは、カープ・グッズのひとつなのでしょう。

世界最大の辞書は、諸橋徹次編「大漢和辞典」です。親文字5万余り、熟語53万余りを収録。30年をかけて、1955年第1巻刊行、1960年全13巻を刊行。修正版刊行の際には、漢字の本家である中国政府が500部を購入したという逸話もあります。1925年、大修館から編纂依頼を受けた時、諸橋は42歳。以降、空襲で版を焼失したり、視力を失ったりしますが、99歳で亡くなるまでの半世紀、執念の編纂を続けます。諸橋が構想していた全15巻が刊行されたのは、2000年でした。

諸橋が、生前、好んで色紙に書いた言葉が「行不由径」、行くに径(こみち)に由(よ)らず、です。近道や脇道を選ぶことなく、正しい道を行きなさい、という意味。まさに諸橋の生き方そのものです。原典は、論語。孔子の弟子である子游が、澹台滅明(たんだいめいめつ)を評した言葉です。魯の国の地方長官に任官した子游に、右腕となるような人材は得たか、と孔子が尋ねると「澹台滅明という者がいます。近道を選ぶことなく正道を行き、用がなければ私の部屋にもきません。」との答え。澹台滅明なる人の、誠実な人柄、仕事ぶりを、実に簡潔に伝えています。

澹台滅明    写真出典:百度百科
澹台滅明は、楚の人で、希に見る醜男だったようです。さすがの孔子も弟子にすることをためらったといいます。滅明は、コツコツと勉学に励み、ついに三百人の弟子を抱え、諸侯に知られる人にまでなります。後に孔子は「吾、貌を以て人を取り、之を子羽に失す」と反省します。子羽とは孔子の弟子になってからの滅明です。

私は、この話を、バブル崩壊後の地銀にあって、不良債権処理を進めたある頭取から聞きました。先輩たちの径に由りまくった経営の後始末を、「行不由径」という姿勢をもって取り組んだ人でした。誰かが行わざるを得なかった仕事でしたが、誰にも評価されることのない仕事でもありました。
                                       

2020年5月9日土曜日

八杯豆腐

韓国映画を見ていると、刑務所から出所した際、豆腐を食べる習慣があるようです。昔、韓国の刑務所では、豆飯が主食であり、入獄することを「豆を食う」と言ったそうです。豆に戻らないという意味で豆腐、そして真っ白な気持ちでやり直す、という意味で、出所時、豆腐を食べるようになったそうです。豆腐に関しては、日本にも、こんな言葉があります。「世渡りの道はどうかと豆腐に問えば、まめで四角で柔らかく。」

江戸期の倹約料理番付では、煮豆や金平ごぼうを抑えて、「八杯豆腐」が一番です。水六杯、酒一杯、醤油一杯で豆腐を煮て、大根おろしをかけて食べるという代物。水・酒・醤油が、合計八杯なわけです。時代とともに、東京では消えていった料理ですが、日本各地では、様々な形で、いまだ健在です。だし汁を使うこと以外は、江戸期と同じですが、各地では、豆腐を千六本に切る、すり下ろした山芋を乗せる、生姜を効かせる、キノコを入れる、等のバリエーションがあります。ただ、家庭料理というよりは、伝統料理、つまり昔の味という位置づけが多いようです。

同じように、昔の味、という扱いになっている豆腐料理に味噌田楽があります。これも全国各地にありますが、例えば豊橋市の旧東海道沿い「きく宗」では、200年このかた、菜飯田楽一筋。大根菜のまぜご飯に味噌田楽のセットですが、あまりにも素朴な味に、多少物足りなさを感じます。ただ、この味噌田楽には、なかなか優秀な子孫が誕生します。「おでん」です。江戸期、焼いて作る味噌田楽より手軽な「煮込み田楽」が登場します。煮込んで味噌を塗って食べるわけですが、それが出汁を効かせて、豆腐以外も煮込むようになり、今のおでんになります。ちなみに「おでん」とは田楽の女房言葉だそうです。

近年、豆腐料理の人気一番は圧倒的に「麻婆豆腐」。これは、もう丸美屋のおかげにつきます。71年に発売された「麻婆豆腐の素」は、年間4千6万個を売る国民的大ヒット商品。日本に陳麻婆豆腐を紹介したのは赤坂四川飯店の陳建民。同じ麻婆豆腐とは言え、四川飯店と丸美屋ではほぼ別物。山椒のしびれ、唐辛子の辛さを極端に抑えた丸美屋のそれは、いわば和風麻婆豆腐。それがヒットの理由ですが、気になるのは、多くの中華料理店の麻婆豆腐が、丸美屋にすり寄っていることです。
                               オーセンティックな八杯豆腐   出典:apool-m.com




ラマダン

Covid19のパンデミックは、世界中の宗教活動にも大きな影響を与えています。集団礼拝が感染を拡大させる傾向がある一方、宗教団体側としては、神が与えた試練ゆえ、皆で祈ろう、ということになります。日常的礼拝だけでなく宗教行事も影響を受けています。ムスリムは、マッカ巡礼(ハッジ)が自粛となり、断食月(ラマダン)が各国の外出規制のなかで始まりました。

ラマダンとは、ヒジュラ暦第9の月という意味です。最も神聖な月とされ、アッラーフへの信仰を新たにし、慈悲や平等への思いを深めるために、断食します。日の出から日の入りまで断食し、夜はデーツから始まる食事を家族で取ります。その起源は、聖遷(ヒジュラ)の追体験とも、バドルの戦いの勝利を神に感謝するためとも言われます。

マッカの商人ムハンマドは、610年、大天使ガブリエルから唯一神(アッラーフ)の啓示を受け、預言者となります。布教を開始したムハンマドは、多神教の街マッカで迫害を受け、マディーナへと拠点を移します。これが聖遷(ヒジュラ)であり、ヒジュラ暦元年となります。マディーナで信者の共同体(ウンマ)を強化したムハンマドは、バドルの泉でマッカ軍と戦います。圧倒的に不利な状況下、ムハンマドはマッカ軍を破ります。ムハンマドは、この勝利を神に感謝し、この月を最も神聖な月と定め、断食を行いました。

神への感謝が、なぜ断食なのか、不思議に思っていました。断食は、旧約、新約聖書にも登場するなど、古くから世界中で行われてきた宗教的行動のようです。いわば修行の一形態だと理解できます。ただ、ムハンマドは、断食に新たな要素を加えます。ウンマの団結です。同時期に、皆平等に断食し、共に祈り、喜捨(ザカート)をし、日没後、家族で食事する。16億人が、これを同時に行うわけです。大いに帰属意識は高まります。ここがムハンマドの独創性であり、今に至るムスリムの団結につながっています。日本の祭りは、ハレとケで説明されますが、コミュニティの団結強化という側面もあります。企業においても、同じことが言えます。企業にも、祭りが必要なのです。
マッカのカアバ神殿   出典:AFPBB

2020年5月7日木曜日

五重塔

釈迦が初めて説教をした初転法輪の地サールナートで、最も驚いたのはストゥーパの大きさでした。半球型をイメージしていたのですが、それはごく初期のものであって、5世紀に建てられたこのダーメーク・ストゥーパは高さ44m、建立時は倍もあったと言います。ストゥーパは、釈迦入滅後、その骨を納めた仏舎利塔として10塔建てられます。仏教を広めたアショカ王は、それらを壊して、新たに8万以上のストゥーパを建て、仏舎利を分骨します。それがさらに中国、韓国、日本へと広がり、形も半球型から楼閣型、そして日本で五重塔になりました。名称も、ストゥーパから卒塔婆、塔婆、そして単に塔と呼ぶようになりました。

日本の五重塔は、一塔たりとも地震で倒壊していないことから、その建築技術の高さを誇ってきました。ことに心柱構造は有名です。最上階の屋根に重しをかけるために設置される心柱は、地面と接していないことで、塔の外側と揺れの周期が異なり、結果、全体の揺れを減じる仕組みだというわけです。聞いたときには感動しました。チーム・リーダーの皆さんに「組織の心柱たれ」等と言っておりました。東京スカイ・ツリーでも心柱構造が採用されたと聞き、一層、得意げに話していました。

ただ、実際には、心柱構造の採用は、江戸期以降。しかも科学的には揺れを減じる効果は立証されていないとのこと。がっかりです。五重塔は、木造、高層であることから、揺れて倒壊を防ぐ、いわゆる柔構造になっています。どうも、これが倒れない主因のようです。いまや世界の高層建築は、柔構造が基本となっていますので、これは誇りに思っていいことなのでしょう。ただ、柔構造にしても、心柱にしても、ねらったのではなく、結果論だったわけですね。やや残念。

日本で最も美しい五重塔は、室生寺の五重塔だと思います。屋外の五重塔としては国内最小ながら、その美しさは、平城の優雅を偲ばせます。女人高野室生寺を有名にしたのは写真家土門拳だと言っていいのでしょう。「雪の室生寺」は写真史に残る傑作。土門拳は、雪が降るまで、幾日も幾日も門前の宿・橋本屋で待ち続けます。ついに雪が降った朝、土門拳は、宿の主人と手を取り合って号泣したと言います。土門拳の執念の雪待ちも、1200年を経た五重塔の歴史の前では、ほんの刹那に過ぎません。


営業昔話(6)夢のサイクル

昔々、皆でPDCAを回したとさ。

夢のない人には目標がない
目標のない人には計画がない
計画のない人には行動がない
行動のない人には成果がない
成果のない人には反省がない
反省のない人には進歩がない
進歩のない人には夢がない

「夢のサイクル」と呼ばれる一文です。うまいことPDCAサイクルを表しているので、会社でよく使いました。出所が判然とせず、伝聞で広がったので、様々なパターンがあります。最近では、流通評論家の吉田貞雄という方の「夢八訓」と紹介されているようですが、15年ほど前、必死に原典を探した時には、まったく出ていなかった名前です。この方も、自分なりにアレンジして発表したのでしょう。ちなみに、15年前に調べた時は、出所をつきとめることはできませんでした。ただ、最も信憑性が高いと思えたのが、函館のさる飲食店のトイレの落書きから始まった、というものでした。

意外とそんなものかもしれません。仕事から生まれた知恵が、結果的にPDCAサイクルにつながっていたということなのでしょう。PDCAサイクルの歴史は古く、デミング博士が日本に持ち込んだもののようです。日本のお家芸である品質管理(QC)は、国勢調査に協力するために来日中だったデミング博士の講演から始まります。1950年のことです。デミング博士の統計的プロセス制御の理論を、QCサークル(小集団活動)を通じて実践した日本は、見事に経済復興を成し遂げ、かつ高い品質を誇るものづくり大国となりました。その後、QC活動は、生産現場から、管理部門へ、営業部門へと広がり、普遍的なマネジメント・ツールになります。まさにデミング博士が、日本の産業界を形作ったとも言えます。

日本の産業界に、すっかり定着したPDCAですが、時代の変化とともに問題も出てきました。例えば、スピード感に欠ける、Pのウェイトが高すぎて、時間がかかる、あるいは前例踏襲が増える、等々があげられます。それらの改良した、CAPDOs、OODAループ等も登場しています。また、QCサークルも少なくなりました。さらに品質至上主義は「いいものを作れば売れる」という神話まで生みます。マーケティング的に言えば、多少異論もあるのですが。
デミング博士  写真出典:日科技連


2020年5月6日水曜日

ロサンジェルスの戦い

私は、過去に何度かUFOを見ました。UFOなんて非科学的な都市伝説だと言う人もいます。とは言え、そもそも科学とは、神羅万象のなかで、因果関係が解明され、再現性等が確認された、ごく一部が対象であり、むしろ少数派とも言えます。UFOに関しては、出現の法則性が不明なので、研究のしようもないのが現実ですが、目撃情報だけは多いわけです。数あるUFO目撃事件のなかで、一番興味深いのは「ロサンジェルスの戦い」です。

9.11同時多発テロは、アメリカ本土に対する最大規模の攻撃だったと言えますが、交戦国の正規軍からの攻撃に限れば、唯一、日本だけが米国本土を攻撃しています。潜水艦からの艦砲射撃、潜水艦艦載機による2度の空襲、風船爆弾です。開戦直後、10隻の潜水艦が米国本土攻撃のために西海岸に展開します。ただ、クリスマスに民間人の犠牲を出すことは得策ではないとして攻撃は中止、貨物船等への攻撃に切り替えます。うち「伊17号」潜水艦が、42年2月、サンタバーバラの石油精製所を砲撃、設備に被害を与えます。

警戒していたにも関わらず、捕捉も反撃もできなかった米軍のメンツは丸つぶれ。軍が受けたショックこそ、最大の被害だったかもしれません。翌々日未明、レーダーが日本軍機と思われる編隊をロスアンジェルス沿岸に捕捉、ほどなく赤い飛行編隊が目視されます。多数のサーチライトが照らすなか、対空射撃が行われ、戦闘機が迎撃に向かいます。ただ、高射砲も当たらず、戦闘機も迎撃に失敗。飛行編隊は、攻撃することもなく、ロス沿岸を飛行し、20分後に消えます。多くの市民が戦々恐々とこれを見守り、ラジオで全米に中継されました。高射砲の破片で死んだ人が3人、ショックで死んだ人が3人出ています。

日本軍に出撃記録はなく、空母も展開していませんでした。米軍の気象観測用の気球という説もありましたが、目撃されたジグザグの飛行パターンとは異なります。結局、軍は、経緯と結果のみを記載した報告書で本件を終わらせます。日本の攻撃を警戒する軍や市民のマス・ヒステリアだったと言えますが、その原因はUFOだとしか考えられません。実に多くの人が目撃し、軍が迎撃して、間接的とは言え死者も出たUFO事案はこれだけだと思います。

ちなみに、「伊25号」潜水艦を飛び立ち、オレゴン山中を二度にわたって空爆した藤田飛曹長は、戦後、オレゴンに招待されます。それを契機に友好親善に努めた同氏は、米国大統領からホワイトハウスに掲揚された米国旗を授与されました。
写真出典:Strange Times USA

2020年5月5日火曜日

ディストピア

地球の未来が登場するSFは、おおよそディストピアとしての地球が前提になっているように思います。第三次世界大戦後、大気汚染後、ロボットの反乱後等々。いまある問題を誇大に提示する方法は理解されやすいのでしょう。あるいは現実を論理的に延長するとディストピアしか考えられない、ということかもしれません。20世紀は、ディストピア小説花盛りでした。かつての原始共産主義的なユートピア論が、共産主義の失敗を目の当たりにして、一斉に悲観論になったのだ、という説もあります。科学が進化することで、ヴェルヌ的な科学の楽観論が難しくなったとも言われます。

ユートピアとディストピアは、表裏一体を成しています。限定的な理想の実現や課題解決をはかったのがユートピア、それらを実現するための難点や犠牲にしたものに注目すればディストピア、という関係だと考えます。神話、伝承、創作のなかの理想郷は、夢であってユートピアではありません。同様に、邪悪な人が邪悪な世界を築いたのがディストピアでもありません。ユートピアは、「どこにもない場所」という意味からしても、政治的、社会学的な主張を提示する手法の一つだと思います。当然、主観や判断が、ユートピアとディストピアを分けています。

ユートピア・ディストピアが扱う論点の多くは、個人と集団の問題に行き着きます。管理社会や全体主義の利点がユートピア、難点がディストピアで描かれます。なかでも「所有」は典型的なテーマです。所有がなければ争いもない、というわけです。トマス・モアの「ユートピア」では、農業をしつつ、所有は否定されています。あり得ません。所有概念は、農耕が生み出したものですから。レーニンや毛沢東の失敗した実験を引き合いに出すまでもないでしょう。


世界最長の文化とも言われる縄文文化は、なぜ1万年以上も続いたのか?という話があります。おそらく農耕を行っていなかったからです。余剰食糧も無く、所有概念も薄く、社会的分業も無く、個人と集団という答えのない問題は存在せず、結果、争いが無かったからでしょう。究極のユートピアは縄文ではないかとも思います。とすれば、弥生時代以降、私たちはディストピアに住んでいると言えるかもしれません。
土偶「縄文の女神」  写真出典:舟形町

2020年5月4日月曜日

バテレン

世界三大宗教の信者数は、キリスト教24億、イスラム教17億、ヒンドゥー教10億。キリスト教徒が多いのは、植民地の展開という歴史的経緯もあります。日本のキリスト教徒は100万人程度。植民地化されたことのない国とは言え、随分少ないと思います。すでに神道という信仰があり、仏教という宗教があったから、とも言えますが、私たちは、そこまで熱心な仏教徒とも言えません。

キリスト教が、日本で信者を拡大するチャンスは、三度あったと思います。まずは、16世紀、フランシスコ・ザビエルの来日です。プロテスタントの追い上げを受けるカトリックは、信者の獲得に加え、免罪符に代わる財源を求め、東へ向かいます。ザビエルの使命は信者数の確保、大名たちの狙いは南蛮貿易。利害が一致し、信者は数万人まで増えます。しかし、便宜的に信者になったものが大層を占めたと思われます。真の布教はこれからという時、秀吉によるバテレン追放、家康による禁教令で、第一幕は終わりをつげます。

第二幕は、明治維新です。禁教令は解かれ、多くの宣教師も来日します。彼らは、欧米文化の伝達に大きな役割を果たしました。また、今に続くミッション系の学校も、この時期、多く設立されています。ただ、天皇の神格化を進め、国の統一をはからんとする薩長の政策は、布教上の大きな壁だったはずです。

第三幕は、戦後ということになります。過去最大のチャンスだったはずです、事実、信者は3倍に増えたようですが、それでも100万人。理由は判然としません。創価学会はじめ日蓮宗系の伸びに負けたという説もあります。創価学会員は、公称800万世帯。学会が世帯、キリスト教は個人への布教だったことが大きな違いを生んだのかも知れません。

一神教が日本に浸透しない最大の理由は、日本の災害の多さにあると思います。自然は、豊かな恵みとともに、度重なる災害をもたらします。唯一神が、神羅万象のすべてを司るとすれば、災害大国で神を理解することは、かなり難しくなります。仏教は、先祖崇拝とのマッチ、国の政策的展開などで一般化しますが、表層的であったと言えます。ただ、釈迦の無常観は、文句なしに日本人の心に響くものでした。
写真出典:Wikipedia

神の島

昨年春、初めて久高島へ行くことができました。何度か、斎場御嶽(セイファーウタキ)から遥拝させていただいた神の島。一度、行ってみたいと思っていました。安座間港からフェリーで15分ほどで久高島につきます。その朝、空は厚い雲に覆われていたのですが、島に着くと、ウソのように晴れ渡ります。さすが神の島。観光地化されていないこともあり、島のガイドは必須。1時間半程度のガイド・ツアーに参加しました。

久高は、琉球の創造神アマミキヨが降り立った島であり、理想郷ニライカナイから毎年訪れる神々が上陸する島。小さな島の大層は、低木の原生林。神の島ゆえ、手付かずとのこと。東側の道は未舗装。神々が通る道だからとのこと。神の島を守るため、土地は、村人の共同所有となっていました。重要な御嶽等は、いまだに立ち入り禁止です。かつて尚王が聞得大君(神女ノロの長)を伴って礼拝した御殿庭では、12年に一度のイザイホーが行われていました。島の女たちが神女になるための儀式ですが、78年を最後に行われていません。非公開だったため、奇祭中の奇祭と言われていました。66年に撮影された記録フィルムですら、公開されたのは最近のことです。

一番驚いたのは、聞得大君が、今もいるということです。第二尚王朝は、明治政府の琉球処分で、450年の歴史に幕を閉じます。ただ、祭事を仕切るために、聞得大君は脈々と任命されているというのです。昨年春の時点では、尚王家の末裔であるカバヤ製菓の会長夫人が務めておられました。ただ、その方は、昨年秋に亡くなられ、同じく尚王家末裔の方が聞得大君に任命されたようです。

那覇からの現地ツアーに参加したのは、私ともう一人、上海に長いこと単身赴任中というおっさん。ガイド兼ドライバーは、バルセロナ出身の青年。奇妙な取り合わせの三人で、ガイド・ツアー終了後、名物ウミヘビの燻製のスープをいただき、自転車を借りてサイクリングしました。アマミキヨが降臨したハビャーン(カベール岬)まで続く道の白さが印象的でした。

老妓抄

私は、どうもコレクターとしての素質に欠けるようです。例えば、読んだ本を書棚に並べることはしません、すぐ手放します。それでも増えるのが本です。そのなかに、たまに読み返すために取ってある本もあります。岡本かの子の「老妓抄」もその一つ。90年前の短編ですが、評価も人気も衰えないようです。初めて読んだのは、高校三年の夏。その夏は、日に一冊の本を読みました。およそ30冊読んだなかで、いまなお気になる本はこれだけです。

岡本かの子は、最晩年の数年だけ小説家として活躍します。その作風は、耽美、妖艶と言われますが、彼女の奔放な個人生活に影響された評価だと思います。むしろ、歌人、仏教研究家であったことが作風を形成していると思います。言葉の美しさもありますが、むしろ独特で詩的な表現が文体を作り、リズムの良さが歌人らしさを感じさせます。最も大きな特徴は、題材の如何を問わず、お香のような穏やかさが作品に漂っていることです。それを諦観と見る人もいるでしょうが、むしろ対象を見つめる仏教的静謐さだと思います。

 年々にわが悲しみは深くして いよよ華やぐいのちなりけり

有名な老妓抄巻末の歌です。ある人は「生への執着」あるいは「生きる希望」と受け取り、またある人は「女の性」と読みます、私は、彼女の仏教感が、この歌に凝縮されているのではないかと思っています。諸行無常、一切皆苦という現実を受け入れ、而今を切に生きる。思いのままにならない世の中の、一瞬一瞬を精一杯生きることが修行であり、それが悟りにもつながる、という修証一如の考え方なのではないでしょうか。それが「老妓抄」がにじませる人生観だと思います。また、岡本かの子の多様な短編の世界に共通する彼女の目線のように思います。

岡本かの子の生き方にも、相通じるところがあります。多くの愛人、夫と愛人との同居生活、常人には理解し難い世界ですが、一瞬一瞬を懸命な正直さをもって生きるという姿勢の現れとも思えます。その極端な純粋さは、息子太郎にも受け継がれたのでしょう。
                                                  写真出典:港区


2020年5月3日日曜日

アロハ・オエ

私は、ハワイの空気が大好きです。とても人にやさしい空気だと思います。ホノルルの朝ほど気持ちのいい朝はありません。やさしい空気に漂うハワイ・コナの甘い香り、トロピカルな鳥たちのさえずり、そして遠くに聞こえるたおやかなハワイアン。ハワイアンを代表する曲と言えば、やはり「アロハ・オエ」。ハワイ王朝最後の女王リリウオカラニの作詞作曲。去って行く恋人を思う気持ちを、ハワイの自然に託して歌う美しい曲です。

ただ、この曲は、米国に滅ぼされたハワイ王国を恋人に擬しており、リリウオカラニによるアメリカ批判の歌だとも言われます。カメハメハ1世が、白人から得た武器でハワイを統一、ハワイ王国を開いたのが、1795年。その後、英国の干渉を阻止した米国が影響力を強め、外国人による土地所有が認められると、島の大層を米国人が所有するに至ります。1874年、国王選挙を制し即位したカラカウア王は、米国による支配強化と戦います。カラカウアは、世界一周も行っています。各国に移民促進を要請する旅でしたが、国際関係をもって米国を牽制することもねらっていたと言われます。

世界一周の際、カラカウアは日本も訪問し、明治天皇に移民促進と王室の婚姻を提案しています。婚姻は拒否されますが、移民は大規模に実施されました。1887年、カラカウアの努力むなしく、米国人の圧力によって悪名高き「銃剣憲法」が公布されます。王権は著しく制限され、有権者はほぼ米国人で占められます。王朝崩壊の始まりでした。カラカウアの後を継いだのは妹のリリウオカラニでした。リリウオカラニ女王は、兄王の意思を継ぎ、王国復権をめざしますが、1893年、米国海兵隊の武力的圧力に屈し、ハワイ王国は終わりを迎えます。海兵隊展開の理由は「自国民の安全確保」今も昔も変わらぬ常套手段です。

アメリカのフロンティアとは西へ西へと行くことです。アメリカ・インディアンを殺し、メキシコ人を追い出し、ひたすら土地を奪いながら太平洋に到達します。その後、アメリカに残されたフロンティアは、ハワイ、そしてアジアだったわけです。
                                                                                                                       リリウオカラニ女王   出典:Wikipedia

2020年5月2日土曜日

都の西北

駅伝は、不思議なスポーツです、走っている時は明らかに個人競技ですが、襷一本で究極のチーム・スポーツになります。一本の襷には、母校の伝統・名誉、そして先輩、同期、後輩たちの熱い想いが込められています。ご多分に漏れず、私も箱根駅伝の大ファンです。特定の大学を応援しているわけではありませんが、とにかく熱くなります。箱根駅伝に関する数々の逸話のなかで、最も好きなのが昭和29年の第30回大会、早稲田のアンカー昼田選手の話です。

早稲田は、5区山登りを制し、往路優勝を果たします。復路では、途中、順位を落としますが、9区で1位に返り咲き、そのまま10区アンカーの昼田選手に襷がつながります。快調に飛ばす昼田選手でしたが、増上寺手前の田村町付近で突然の失速。脱水症状であることは明らか。名将中村監督は、激を飛ばしますが、もはや目もあけられない昼田選手の状態に、たまらずサイドカーを降り、並走を始めます。

監督の手が選手にかかればレースは棄権。沿道を埋めるファンは、いつ監督が手をかけるかと見守っていました。ところが、中村監督は並走しながら、早稲田の校歌「都の西北」を歌っていたのです。沿道は、涙を流しながら大声で声援する人々であふれたと聞きます。昼田選手は、フラフラと前に進みます。意識はなくとも、練習で鍛えた体は何をすべきか知っていました。なんとか大手町に1位でゴールした昼田選手は、そのまま失神しました。

襷に込められたチームの想いが、昼田選手の体を動かしていたとも言えます。何度聞いても、この話には泣かされます。組織主義を信条に戦ってきた昭和のサラリーマンは、どうしても駅伝に会社生活を重ねてしまうのです。「人は、組織への貢献のなかでしか育たない」とはドラッカーの言。昨今、企業もガバナンスの時代を迎え、組織至上主義の弊害が目立つようになりました。しかし、企業にとって、チーム・スピリットの重要性は何ひとつ変わるものではありません。今も昔も、駅伝ほど日本人の心にしっくりくるスポーツはない、と確信するところです。
                                        早大中村清監督  出典:jijicom

またたび

昔、新潟県西山町(現柏崎市)の田中角栄記念館に行き、角さんが、実家で朝食を食べながら、中越を語るというビデオを見ました。江戸に米山三郎という侍がおった。冬の最中、御用で長岡まで旅をすることになった。三国峠で吹雪にあい、力尽きて倒れこんでしまった三郎であったが、気が付くと、目の前に木の実がある。思わず手を伸ばし、これを口に含むと、あら不思議、体中に力がみなぎり、また旅を続けることができた。以来、これをまたたびと呼ぶ、と言って、またたびの漬物を口に入れます。

真っ赤なウソです。ただ、なるほどと思ってしまいました。実に見事な話術。あっという間に話に引き込まれます。さすが大物政治家は違うものだと思いました。中越の老人たちは、角さんのことをアニヤンと呼びます。皆、判で押したように「アニヤンは、人の話をよく聞いてくれた。」と言うのです。そんなわけありません。若くして大臣になり、派閥を率いた角さんは、多忙を極め、農民の話など、聞いている暇はなかったはずです。

おそらく、よく聞いてもらった、と思わせる術に長けていたのだと思います。心ここにあらずで、聞いてるふりだけの人は、すぐに分かりますし、感じの悪いものです。角さんは、人に会う時、例え短時間であっても、しっかり相手に正対し、しっかり目を見ていたのでしょう。本当は、話なんか聞いていないのかもしれませんが、相対する姿勢が大きな違いを生んだのだと思います。田中角栄は、演説の名人以上に、聞くことの達人だったと言えます。それが政治の本質であり、歴史的得票数に結実したのでしょう。

角さんの秘書だった早坂茂三は、河合継之助、山本五十六、田中角栄を「怨念の系譜」と書きました。雪深い山間の地である中越は貧しい土地。戊辰戦争のおり、長岡は、薩長に二度も焼かれました。必然性に乏しい戦でした。中越の歴史とそこに暮らす人々の心情が分かっていなければ、聞くことの達人も生まれていなかったように思えます。

ところで、私は、田中角栄記念館でビデオを見た後、館内のギフトショップでまたたびの漬物を買ってしまいました。おいしくもなく、体に力がみなぎることもありませんでした。実に貧しい食べ物だなと思いました。
                                                                                         田中角栄 右後ろは秘書早坂茂三       出典:toyokeizainet
     

2020年5月1日金曜日

ペダリ・マッコリ

昔、韓国の親密会社が、ソウルの高級料亭で接待してくれるというので、コンベエやバクダン酒の嵐を回避しようと、私はマッコリが大好きだと事前に伝えてもらいました。これが、先方を結構困らせた、という話を後に聞きました。マッコリは大衆酒、場合によってはミネラル・ウォーターよりも安いのです。高級料亭には置いていません。また、遠来の客に失礼がないほど高価なマッコリも存在しません。迷惑をかけてしまいました。

朝鮮戦争のおり、金日成が、秘密裏に38度線を越えます。まっすぐ向かった先が京畿道高陽だったと言われます。そこは有名なぺダリ・マッコリの生産地。金日成は、これが飲みたくて戦争を始めたのではないか、という話まであります。このぺダリ・マッコリは、のちに「大統領のマッコリ」と呼ばれるようになります。朴正熙大統領のお気に入りだったからです。以来、青瓦台に納められる唯一のマッコリだとも聞きました。

1999年、現代グループ総帥が、平城に金正日を訪問した際、金正日は、手土産に、このマッコリを所望します。親から、うまいと聞かされていたのでしょうね。金正日なら、いくらでも密輸できそうなものですが、生マッコリは鮮度が命。複雑なルートでは、難しかったのでしょうね。翌2000年、金大中が平城に歴史的訪問を果たします。空港に出迎えた金正日と抱擁しながら、言葉を交わします。読唇術者によれば、この時、金正日は「あれは持ってきたのか?」と言っているそうです。ぺダリ・マッコリのことに違いない、と韓国の人々は思っているそうです。

数年前、親密会社の皆さんとへイリ芸術村で昼食をした際、またマッコリで迷惑をかけてしまいました。わざわざ早起きして、高陽まで行って、ぺダリ・マッコリを買い、持ち込んでくれたのです。上品な甘さと酸味、比較的スッキリとした飲み口。正直、美味しかったです。金王朝三代目もお好きでしょうかね?
                                        ぺダリ・マッコリ  出展:丹醸&スペペ


メンフィス・サウンド

かつてニューヨークは「人種のるつぼ」と呼ばれましたが、まるで溶け合っていないので、近年は「人種のサラダボウル」と言われます。本当のメルティング・ポットに近い街もあります。その一つがテネシー州メンフィスだと思います。

メンフィスを舞台としたHBOシリーズ「クオーリー」(2016)にハマりました。70年代、メンフィスと聞いただけで、傑作間違いなし。マックス・アラン・コリンズ初期の小説が原作。アメリカの矛盾を詰め込んだ脚本、抑えた演出、渋めの俳優もいいのですが、時代を感じさせる空気感がとても良い。そして、何よりもメンフィス・サウンドをキッチリ絡めている点がうれしい。オーティス・レディングのアルバム「オーティス・ブルー」に至っては、プロットの一つにさえなっています。

メンフィスは音楽の街です。同じテネシー州ナッシュビルは、カントリーのメッカ。対してメンフィスは、ブルーズ、R&B、カントリー、ロックンロールの街です。ゆかりのミュージシャンを挙げれば、キリがありません。ロバート・ジョンソン、W.C.ハンディ、マディ・ウォーターズ、オーティス・レディング、BBキング、アイザック・ヘイズ、そしてエルヴィス・プレスリー。メンフィスがメルティング・ポットである明らかな証拠は、プレスリーとサザン・ソウルにあります。

幼少期のプレスリーは、黒人街で育ちます。プレスリーの体のなかで、カントリーとR&Bが自然に融合し、ロックンロールが生まれます。サザン・ソウルは、ノリが良く、田舎くさく、ちょっと白っぽいところが特徴です。サザン・ソウルの本拠地スタックス・レーベルの専属バックバンドは、ブッカーT&MG’S。ギターのスティーブ・クロッパー、ベースのドナルド・ダック・ダンは白人。オーティスの名曲「ドック・オブ・ザ・ベイ」は、オーティスとスティーブ・クロッパーの共作です。異なる文化が出会う時、新しい文化が生まれます。メンフィスが、メルティング・ポットたり得た理由は、黒人人口が6割を超えていたからです。逆だったとしたら、何も生まれなかったはずです。

2012年、スティーブ・クロッパーとドナルド・ダック・ダンの来日ライブに行きました。歳も歳だから、これが聞き納めかもよ、と友人たちを誘い、でかけました。Time is Tight、Green Onionといった懐かしい曲で大盛り上がり。そのライブから2日後、都内のホテルで、ドナルド・ダック・ダンは亡くなりました。
                                                                                                                   オーティス・レディング   写真出典:amass

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