
米国、そして欧州と転戦した前田は、1914年、ブラジルに渡ります。試合を続けながら、道場も開いた前田のもとに、エリオの兄カルロスが入門したのは17年だったそうです。21年、キューバ転戦後、公式試合から身を引き、日系移民事業に軸足を移していきます。生涯戦績は2000勝を超え、特に道着着衣試合では負けなしだったそうです。最強の柔道家と言えば、木村政彦と相場が決まっていますが、前田光世をあげる人もいるようです。
ブラジル移民は、1908年の笠戸丸に始まります。当時の入植先はサンパウロ州でした。その後、最大の移民先米国で人種差別が激化すると、20年代、ブラジルへの移民は増加、財閥系による投資も増加します。そんな中、23年にはアマゾンへの入植要請があり、調査、折衝のうえ、29年には移民が開始されました。このアマゾン移民は、入植要請から、陰に日向に、前田光世が絡んでいます。私設領事とも呼ばれ、移民たちの面倒もよく見たそうです。
40年に「皇紀2600年祭」が開催され、前田も皇居に招待されます。しかし、前田はこれを断っています。アマゾン移民が苦労しているなか、自分だけ行くわけにはいかなかったのでしょう。翌年、前田は62歳の生涯をベレンで閉じます。明治人らしく、坂の上の雲のみを見つめ、登っていった一人です。
前田光世 出典:taisho-g.com