2020年5月25日月曜日

コンデ・コマ

リオ・デ・ジャネイロ・オリンピックの際、日本の柔道はもう少し頑張れないものか、と柔道経験者に聞くと、競技人口の差はいかんともしがたい、とのことでした。日本の柔道人口16万に対し、日本よりも人口の少ないドイツが18万、フランスが56万。そのうえを行くのがロシアの100万。これは軍や警察の正課となっているからだそうです。そして世界一位はブラジル。その柔道人口は200万人を超えると言います。ただ、この数字には、ブラジリアン柔術が含まれているようです。

ブラジリアン柔術の開祖はエリオ・グレイシーですが、グレイシー家に柔術を伝授したのは前田光世七段、通称コンデ・コマでした。前田は、1878年、弘前の生まれ。講道館に入門し、現早稲田大学を中退して柔道に専念します。1904年、柔道使節の一員として渡米、ホワイトハウスでも試合を行いました。その際、団長が米人に敗れたことに衝撃を受けた前田は、単身、米国に居残り、柔道の強さを証明せんと異種格闘技戦を続けます。

米国、そして欧州と転戦した前田は、1914年、ブラジルに渡ります。試合を続けながら、道場も開いた前田のもとに、エリオの兄カルロスが入門したのは17年だったそうです。21年、キューバ転戦後、公式試合から身を引き、日系移民事業に軸足を移していきます。生涯戦績は2000勝を超え、特に道着着衣試合では負けなしだったそうです。最強の柔道家と言えば、木村政彦と相場が決まっていますが、前田光世をあげる人もいるようです。

ブラジル移民は、1908年の笠戸丸に始まります。当時の入植先はサンパウロ州でした。その後、最大の移民先米国で人種差別が激化すると、20年代、ブラジルへの移民は増加、財閥系による投資も増加します。そんな中、23年にはアマゾンへの入植要請があり、調査、折衝のうえ、29年には移民が開始されました。このアマゾン移民は、入植要請から、陰に日向に、前田光世が絡んでいます。私設領事とも呼ばれ、移民たちの面倒もよく見たそうです。

40年に「皇紀2600年祭」が開催され、前田も皇居に招待されます。しかし、前田はこれを断っています。アマゾン移民が苦労しているなか、自分だけ行くわけにはいかなかったのでしょう。翌年、前田は62歳の生涯をベレンで閉じます。明治人らしく、坂の上の雲のみを見つめ、登っていった一人です。
                                   前田光世    出典:taisho-g.com

マクア渓谷