2022年8月31日水曜日

ジャポネ

ジャポネ
ロメスパとは、路面のスパゲティの略です。20年くらい前から、ネット上でB級グルメ愛好家が言い始めたように記憶します。早い、安い、うまい、に加え、ボリュームがあるという四拍子揃った代物です。特徴的には、あらかじめ茹でておいた太いスパゲッティを、フライパンに投入し、安い油で戻し、濃い味つけをしたものです。そもそもB級グルメという言葉は、1980年代中頃に誕生したようですが、実に見事なネーミングであり、立派に一つのジャンルを形成しました。もともと全国各地で、密かに地元民に愛されてきた安くて下卑た食べ物の総称ですが、そこに光りを当て、食文化の一つにまで高めたことは、文化勲章ものの偉業だと思います。

ロメスパの元祖と言われるのは、銀座のINZ1に、1980年に開店した「ジャポネ」です。通路にへばりついたカウンターだけの店です。行列の絶えない大人気店ですが、創業以来、まったく店は変えていません。昔、ネット上で。B級グルメとは「訳あって別れた女。なぜか無性に会いたくなる」という傑作を見つけました。いい言葉です。まさにジャポネのスパゲティのことです。たまに食べたくなりますし、店の近くを通れば、魔法にかかったようにカウンターに座ることになります。夕方を除けば、常に行列があり、30~60分待ちは当たり前です。様々なメニューがあり、色々試してみたいと思うのですが、長い行列の末、カウンターに座ると、なぜか決まって「ジャリ大」と注文してしまいます。ジャリコの大盛りのことです。

看板メニューのジャポネは、肉、小松菜、タマネギ、椎茸等が入った醤油味のスパゲッティです。ジャリコは、それにしその葉、トマト、海老が入ります。他には、チャイナ、明太子、インディアン、ナポリタン等々があります。とは言え、やはり人気はジャリコとジャポネに集まっています。また、サイズ的には、レギュラー(350g)、ジャンボ(560g)、横綱(720g)が選べますが、実は裏メニューとして、親方(900g)と理事長(1,100g)が控えています。後輩が横綱に挑戦しましたが、死にそうになっていました。随分と通いましたが、一度だけ、親方を見たことがあります。例えるなら、ホテルのバッフェに並ぶスパゲティの皿そのものです。店中の客の視線が集まり、挑戦者の食べっぷりに注目していました。

勝手な想像ですが、ジャポネの親父は、名古屋のあんかけスパゲッティに着想を得て、ジャポネを創業したのではないかと思います。2.2mの太いスパゲティを予め茹でてある方式は、まさにあんかけスパゲティです。それを大量の油で戻すわけですから、体にいい食べ物とは言えません。しかし、体に良くない食べ物が美味しいのは、不変的大原則です。それこそ、正に、B級グルメに人々が魅了される所以であり、”無性に会いたくなる別れた女”である理由です。路面のスパゲティという言葉が登場した際、主に取り上げられていたのは、ジャポネと大手町の「リトル小岩井」だけだったと記憶します。リトル小岩井も悪くないのですが、やはりジャポネの濃い味にはかないません。最近では、ロメスパを売りにする店も、多少、増えているようです。

この40年、ジャポネの客層にも変化が見られます。かつては、若いサラリーマンだけでした。しかも時間的に融通が利く営業職中心でした。後ろに長い行列を背負って食べるので、皿がでたら、ほぼ格闘状態に入らざるを得ません。話ながら食べるカップルなどもってのほか、食べるのが遅い女性客も、ほぼ見かけませんでした。どうしても食べたい女性は、テイクアウトしたものです。ただ、時代とともに、女性も、カップルも増えました。私のように、昔を懐かしんで行く老人もいます。数年前、久々に行くと、親父が「久しぶりだろ」と言って、100円のサラダを出してくれました。(写真出典:tokyo-lunch-sweets.com)

2022年8月30日火曜日

隅田川五橋

吾妻橋
隅田川は、江戸城総構えの東端を担い、大外濠とされていました。江戸城は、内郭を中心に螺旋状に壕が巡らされています。その外側部分が外濠であり、左回りに見れば、御成門、溜池、市ヶ谷、水道橋 両国橋、永代橋と続きます。防衛ラインである以上、壕には、滅多に橋など架けません。家康が江戸城を築城した当初、隅田川には、唯一、千住大橋だけが架橋され、他は渡し船で往来していました。1594年に架橋された千住大橋は、他に橋が架かっていないこともあり、単に大橋と呼ばれていたようです。奥州街道、佐倉街道、水戸街道、後には日光街道が通りました。

架橋当時、隅田川は利根川水系の下流であり、暴れ川ゆえ工事は難航したようです。使われた大量の橋杭材は、伊達政宗が寄進した南部地方の高野槇でした。高野槇は、高野山に多く自生していたことから名付けられました。抗菌作用が効いて水に強く、舟材にも多く使われていたようです。1885年、台風によって橋梁が流出するまで、実に300年近く存続しており、希代の名橋だったと言えます。「伽羅よりもまさる千住の槇の杭」という古い川柳まであるようです。千住大橋の次に架けられたのが両国橋です。千住大橋架橋から約70年後の1661年のことでした。明暦の大火の際、橋がないことで逃げ遅れて焼け死んだ人が10万人にのぼるという大惨事が発生します。防衛観点から隅田川の架橋を許さなかった幕府ですが、止むなく架橋を判断します。防災観点が防衛に優先されたという点で、両国橋は近代につながる橋だとも言えそうです。

両国橋の正式名称も大橋だったようです。ただ、武蔵国と下総国を結ぶということで、庶民が両国橋と呼ぶようになり、後に正式名称となります。橋の両端には、橋を延焼から守るための火除地が設けられました。ここに屋台や見世物小屋が集まり、歓楽地が形成されます。両国名物と言えば、江戸中期の享保年間に始まった花火ということになります。1897年には、花火見物の客でごった返す両国橋の欄干が崩れ、数十名の死者を出します。これを機に、両国橋は鉄製の橋に生まれ変わります。1693年には、新大橋が架けられます。時は元禄、幕府の防衛意識も薄れたということなのでしょう。新大橋は、維持費の捻出に苦慮した幕府が、撤去の判断をし、それに反対した庶民が金を集め、存続されたという経緯が残ります。

永代橋は、1696年に架橋されます。5代将軍綱吉50歳の祝いに、寺社が普請され、その残材で架けられたと言われます。永代橋は、河口に近く、大きな舟が通れるように橋杭は高く築かれたようです。当時、深川一帯は、永代島と呼ばれていたことから、この名が命名されました。1703年の赤穂浪士討ち入りの際には、吉良邸から引き揚げる四十七士が渡った橋でもあります。1807年、富岡八幡宮のお祭りに向かう大群衆が永代橋に押し寄せます。一橋家当主の舟が通るというので、一旦、通行止めになった永代橋は、群衆の重みに耐えられず一部が崩落、440名が溺死しました。落語の「永代橋」は、本人が、この事故で水死したとされる本人の死体を検分し、葬式を出すという「粗忽長屋」によく似た構図の噺です。

隅田川五橋の残る一つは、吾妻橋です。1774年に架橋されています。東詰のアサヒビール本社やスカイツリー等も含め、浅草名物の一つとなっています。橋は、浅草寺の赤にちなんで赤く塗られています。隅田川五橋とは、江戸期に架けられた五つの橋を指します。また、関東大震災のあと、相生橋、永代橋、清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋が、復興の象徴として「隅田川六橋」とされたようです。現在、隅田川には、鉄道橋等も含めれば、30の橋が架かっています。江戸総構えを計画した家康が知ったら、怒り狂ったことでしょう。昔、宴会のなかで、山手線の駅を全部言えるという後輩がおり、見事言い切ると、皆の喝采を浴びていました。すると、隅田川の橋を全部言えますという奴も名乗りを挙げました。ただ、可哀想な事に、誰も聞こうとしませんでした。というのも、すべて正確に言えたかどうか判断がつかないからです。(写真出典:doboku-watching.com)

2022年8月29日月曜日

クレオパトラの鼻

「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の歴史も変わっていたであろう」と言ったのは、フランスの哲学者パスカルです。どうも、クレオパトラには、妖艶な美女、というイメージがつきまといます。これは、自らの王権を守るために、ローマのカエサル、ついでアントニウスと情を通じたという経緯から来ているのでしょう。ただ、実際のクレオパトラ7世フィロパトルに関する記録は、ほとんど残っていません。戦乱のなかで死んだプトレマイオス朝最後のファラオであったこと、カエサルの放火、ローマによる破壊、さらには地震によってアレクサンドリア図書館がほぼ失われたこと、そして彼女の墓が見つかっていないことが、主な要因とされます。

近年、クレオパトラの墓があるのではないかと注目されているのが、アレクサンドリア郊外のタップ・オシリス・マグナ神殿だといいます。そこでは、クレオパトラの横顔が彫られたコインが発掘されました。ギリシャ系のクレオパトラは、額が広く、大きなかぎ鼻、薄い唇、尖った顎が特徴だと言います。どうも、エキゾチックな美女とは言いにくいようです。美の基準は、時代によっても異なるものですが、例えば、誰もが美しいと賞賛するネフェルティティなどとは大違いです。身長は150cmほどと小柄で、ふくよかな体をしていたようです。ただ、アレクサンドリア図書館で英才教育を受けたクレオパトラは、類い希な教養と知性を持ち、十数カ国語を話し、美しい声で歌い、踊りにも長けていたとされます。

興味深い話があります。クレオパトラは、カエサルに対しては知性的な女性として接し、軍人アントニウスの前では娼婦のように振る舞い、人々は、その違いに驚いたと言います。クレオパトラが、王権を守るために、いかに必死だったかを伝える話です。紀元前48年、共同統治者であった弟に追い出され、シリアで兵力を蓄えつつあったクレオパトラは、密かにアレクサンドリアの王宮に戻ります。おりしもポンペイウスを追って、オリエントに遠征したカエサルが、アレキサンドリアに立ち寄っていました。クレオパトラが、カエサルに支援を願い出たとも、ポンペイウス派の弟王を退けるために、カエサルがクレオパトラを召喚したとも言われます。いずれにしても、クレオパトラは、人目を欺くために、絨毯に巻かれて、カエサルの前に現われます。

カエサルは、弟王を退け、クレオパトラをファラオの座に戻します。恋仲となった二人は子供も設けます。しかし、カエサルが暗殺され、後ろ盾を失ったクレオパトラは、カエサルの後を争うオクタヴィアヌスかアントニウスのいずれかにすがるしかありませんでした。彼女は、軍を率い、勢いのあったアントニウスを選びます。二人はアレクサンドリアで4人の子供を設けています。アントニウス不在のローマで、着々と勢力を拡大したオクタヴィアヌス、後の初代ローマ皇帝アウグストゥスは、ついにアントニウスを滅ぼします。紀元前30年、囚われたクレオパトラは、獄中で自害します。毒蛇を使ったという話は、いかにもエキゾチックですが、実際には、毒物にも詳しかったクレオパトラの服毒自殺だったようです。

275年続いたプトレマイオス朝は、ここに滅びます。アレキサンダー大王が病死すると、有力武将たちによる後継者争いが起こり、大帝国は、分割統治されます。エジプトに王朝を確立したのが、プトレマイオスでした。少数のギリシャ系が、大多数のエジプト人を支配する構図です。2千年後に、フランスが植民地支配に用いた構図でもあります。少数派に多数派を支配させると、少数派は、徹底的な統制を行うとともに、宗主国に頼らざるを得ない構図ができあがります。プトレマイオス朝に宗主国は存在しません。ただ、急速に地中海世界に覇権を広げたローマが、結果的に宗主国と同じ立ち位置になったのでしょう。フランスは、クレオパトラから学ぶところが大きかったのかも知れません。(写真:コイン等から再現されたクレオパトラ像 出店:quora.com)

2022年8月28日日曜日

昆虫食

シェムリアップの市場に行った時のことです。バケツ一杯の大きなタランチュラが売られていました。見つけた時には、さすがに恐怖で身を引きました。同行してくれた現地ガイドに聞くと、タランチュラはカニのような味がする高級食材だと言います。試してみますか、と聞かれましたが、即座に断りました。何でも経験だとは思いますが、あの姿、あの大きさを見れば、好奇心よりは恐怖心の方が勝ります。カンボジアでは、古くからタランチュラを食べていたわけでないようです。ポルポトの大虐殺が行われたおり、食べ物に困って昆虫食が始まり、なかでもタランチュラが美味だったことから定着したと言います。タランチュラは、悲しい味でもあったわけです。

昆虫は、古くから世界中で食べられてきました。現代でも、広く食べられていますが、先進国では消えつつある食文化です。他の食料が充実し、かつ食用昆虫の供給体制が確立しなかったからだと思われます。とは言え、日本でも、長野県のイナゴ、蜂の子等は有名ですし、フランスのエスカルゴ、各地にあるサソリの唐揚げ等も、立派に生き残っています。酒のつまみの定番サワガニなども、カニではありますが、まぁ、昆虫に近い代物だと思えます。先進国では、美味ゆえ、あるいは希少価値の高い食材として昆虫食が残り、発展途上国では、今でも蛋白源として重要な食材だということなのでしょう。

昆虫を、栄養価や生産コストの面から見れば、なかなか優秀な食材ではあります。体重の約60~70%がタンパク質と言われ、食物繊維、銅、鉄、マグネシウム、マンガン、リン、セレン、亜鉛など、人間に必要な栄養素が多く含まれます。また、飼料要求率、つまり1kgの肉類を得るために必要な飼料の量は、おおよそ牛肉で10kg以上、豚肉で6~7kg、鶏肉で2~4kgに対して、コオロギの場合、2kg弱となっており、大変に効率が良いと言えます。また、可食部も昆虫の100%に対して、牛の場合は40%、豚や鶏は50~60%となっています。生産に必要な農地も格段に少なくて済み、温室効果ガスの排出も相当に低くなっています。

こうしたメリットに着目した昆虫ビジネスが、既に稼働してるようです。昆虫スナックも販売され、昆虫メニューのあるレストランも営業しているようですが、加工食品の原材料としての活用がビジネス化しつつあるようです。こうした動きに対応して、国もガイドラインづくりに入っているようです。日本では、昆虫の工場養殖の取り組みが、各地で進められているようです。コオロギの場合、ふ化から30日で成虫になるそうですが、この間に体重は1,000倍に増加すると言います。ただ、共食いなどといった課題も多く、試行錯誤が続けられているようです。工場養殖は、労働負荷も低く、高齢者の働き口、あるいは過疎地の活性化策としても有力視されているようです。

タイ料理激戦区の小岩にある「いなか村」は大人気店です。「いなか村」には、蛾の白い幼虫の炒め物メニューがあります。日本のタイ料理店で、そんなメニューがあるのは、ここくらいだと思われるので、注文すべきだと思いました。ただ、結果として、注文する勇気はありませんでした。焼いたふぐの白子は、大好物です。恐らく、同じような食感と味なのだろうと想像できます。蜂の子の甘露煮を食べたことがありますが、まさに白子のマイクロ版といった風情でした。だからと言って、幼虫の炒め物を注文する気にはなりません。他に、美味しいものは山ほどありますから。(写真出典:cnn.co.jp)

2022年8月27日土曜日

ジェヴォーダンの獣

1764年6月、フランス南部の山岳地帯にあるジェヴォーダンに恐怖が広がります。オオカミに似た、より大きな獣が目撃されると、直後から少女、少年、女性が、次々と襲われ、命を落とします。以降4年間で、60~100人、あるいはそれ以上が犠牲となりました。当時、ままあったオオカミの被害とはまったく異なり、被害者は、頭部を砕かれ、四肢がバラバラにされていました。次第に目撃情報も増え、オオカミよりはかなり大きく、巨大な犬歯を持ち、ライオンのような尻尾があり、背中には黒い縞模様があることが判明します。現代風に言えばUMA(未確認動物)ということになります。

地元猟師たちによる狩りも行われますが、ことごとく失敗し、被害は続きます。マスコミが喧伝したこともあり、ジェヴォーダンの獣は、フランス全土を恐怖に陥れます。フランス国王ルイ15世は、高名なオオカミ猟師をリーダーに猟師団を派遣します。ルイ15世は、個人的興味も強かったようですが、革命前夜の不安定な世情のなか、人気回復を狙ったともされます。しかし、猟師団も成果を挙げられず、王は、自慢の竜騎兵を送り込みます。竜騎兵は、大きなオオカミを仕留めます。オオカミは、剥製にされ、ヴェルサイユ宮殿に持ち込まれ、ルイ15世は一件落着を宣言します。ところが、まだ終わっていませんでした。被害は、さらに続いたのです。 

しかし、1767年6月、地元の猟師ジャン・シャストルが、異様な風体の大きなオオカミを仕留め、被害は止まりました。獣に遭遇した時、シャストルは聖書を読んでおり、獣は、祈りが終わるのを待ってシャストルを襲ったとされます。シャストルは、様々な動物を飼育する変わり者として知られていました。また、獣は、一度も成人男子を襲っていません。ジェヴォーダンの獣は、シャストルが飼い慣らした獣ではないかという説も流れます。シャストルは、獣を剥製にしてヴェルサイユに持ち込みますが、既に興味を失っていた王からは、相手にされなかったと言います。その後、革命の混乱のなかで獣の剥製も資料も失われました。獣の正体については、アフリカから持ち込まれたハイエナ説が有力だとされます。他にもライオン説、オオカミの群れ説、あるいはオオカミ男説まであります。

中世なら、いざ知らず、理性が重視された啓蒙主義の時代にあって、あまりも不可解な事件です。その後、20世紀に至るまで、何度も調査や研究が行われていますが、何一つ解明できていません。ここまで何も出てこないと、存在そのものを疑わざるを得ません。しかし、一方で、膨大な犠牲者が出ていることも事実です。当時のフランスは、ユグノー戦争、三十年戦争はじめ、200年に渡る苛烈な宗教対立の中にありました。宗教対立は、ジェヴォーダンの事件から20年後のフランス革命によって終わりを迎えることになります。山中とは言え、ジェヴォーダンは、それなりに栄えた土地だったようですが、この長い宗教戦争のなかで荒廃し、そこへ虐殺を逃れた新教徒たちが流れ込んできていたようです。

ここからは、まったく個人的な仮説です。ジェヴォーダンの旧教徒たちは、流入を続ける新教徒に対して劣勢となり、何の抵抗もできなくなったものと想像できます。そこで、旧教徒たちは、一計を案じ、獣の騒動を演出し、新教徒の追い出しを図ったのではないでしょうか。恐らく地元猟師たちもグルだったので、オオカミは追っても、獣を撃ち取ることはなかったのでしょう。しばらくすると、騒ぎが大きくなり、止めるに止めれなくなったのかも知れません。国王の竜騎兵が大きなオオカミを仕留めた時が止め時だったはずですが、当初の目的が達成できていないこと、あるいは精神を病んだ一員がいて、殺人を止められなくなっていたのかも知れません。騒動を終わらせた猟師ジャン・シャストルこそ、首謀者の一人だったのではないでしょうか。(写真出典:natgeo.nikkeibp.co.jp)

2022年8月26日金曜日

高野山の宿坊

 

宿坊に泊まった翌朝、高野山は濃い霧に覆われていました。朝勤行に参加した後、ケーブルカーの高野山駅へ向かっていると、突然、霧のなかから、茶木蘭の法衣に編笠を被った百名を超す修行僧たちが、現われました。隊列を組んで、無言で歩く修行僧たちに、思わず合掌してしまいました。わずか一泊二日の高野山滞在ですが、最も敬虔な気持ちになった瞬間でした。高野山金剛峯寺は、816年、弘法大師空海によって創建されました。標高800mの深い山中に忽然と現われる広い盆地は、奇跡の地形とも言えます。全体が金剛峯寺の境内でもあり、総本山金剛峯寺、大本山宝寿院の他に117の子院が建ち、3,300人が暮らす世界最大の宗教都市です。

弘法大師空海は、日本が生んだ多くの天才たちの頂点に立つ人だと思います。804年には、国選留学僧として唐へ渡ります。長安の青龍寺で修行した空海は、密教の第七祖である恵果和尚から、わずか4ヶ月で、最高位である阿闍梨の灌頂を授かります。20年の予定であった留学を2年足らずで終えた空海は、806年に帰国します。空海は、帰国に際して、明州の浜から、修行の場を教えてくれと法具である三鈷杵を投げます。後に高野山に登った空海は、自分が投げた三鈷杵が、松の枝に引っかかっているのを見つけます。その三鈷杵は金剛峯寺の宝物として保管され、霊宝館でレプリカを見ることができます。松の木は、三鈷の松と呼ばれ、今も御影堂の前にあります。

高野山は、多くの参拝客に混じって、四国八十八カ所巡りのお遍路さんたちの姿が目に付きます。お遍路は、八十八寺を巡り終えると、高野山奥の院に詣でて、ようやく満願成就となります。人里離れた山中にあることから、高野山には、50軒を超す宿坊があります。宿坊とは、寺社が運営する宿泊施設です。僧侶や参拝客のための施設ですが、近年は、誰でも泊まれます。3千円程度の食事なしの雑魚寝スタイルから、数万円の超豪華版まで、幅広く選択できます。様子もよく分からないので、私は、1泊2食付き1万円程度の宿坊を選びました。広い庭を囲んで建つ大きな宿坊でした、部屋は15人くらい泊まれそうな大きな部屋に1人でした。食事は、もちろん精進料理ですが、三の膳まで付く立派なものでした。とても美味しくいただきました。

食事を運ぶことなども含めて、修行僧たちが世話をしてくれます。お風呂は共同になりますが、アメニティの類いはほぼありませんでした。基本的には、参拝のための簡素な宿ということです。部屋にTVはありましたが、心静かに読書をしながら、夜を過ごし、早めに就寝しました。早朝から行われる30分程度の朝勤行に参加することもできます。高野山は、見所も多く、また奥の院の参道では、武将や著名人の墓をお参りしながら進むと、結構、時間がかかります。ちなみに、高野山の墓は20万基以上と言われます。いずれにしても、日帰りは厳しく、選択肢が少ないので宿坊に泊まることになります。それも含めて、高野山参拝だと思うべきなのでしょう。

話は三鈷の松に戻りますが、日本の松の針葉は、通常2本ですが、不思議なことに、三鈷の松の針葉は3本あり、霊験あらたかとされます。私も、高野山で歩き疲れて入った喫茶店のマスターから頂いたものを持っています。枝から取ることは御法度ながら、落ちた針葉を拾うことは許されているようです。三鈷の松の針葉は、永年、私の財布に入っています。御利益については、微妙なところもありますが、大師様には大いに感謝すべきだとは思っています。大師様は、入定後も奥の院で修行を続けているとされ、朝昼二食、食事が運ばれます。大師様は、今もなお、高野山から、我々を見守ってくれているというわけです。余談ですが、植物学的に、松は個体によって希に3つの針葉を持つものもあり、三鈷の松以外にも存在するものだそうです。(写真出典:asamoyosi.wordpress.com)

2022年8月25日木曜日

「キング・メーカー」

監督:ビョン・ソンヒョン     2022年韓国

☆☆+

30年前のことですが、総選挙の最中、さる国会議員の選対事務所を応援訪問したことがあります。個人的理由ではなく、会社の仕事の一環でした。選挙も終盤に入り、事務所はごった返していました。他の人とは、明らかに様子の異なる老人が、選挙区の地図の前で、この地区が弱いといった状況分析を行い、指示を出していました。馴染みの議員秘書に、あれは誰かと聞いたところ、有名な選挙屋だと言うのです。つまり、候補者の党派や主義主張とは一切関係なしに、選挙のプロとして、選挙の都度に雇われる選挙参謀だというわけです。そんな職業があるのか、と驚きました。

本作は、大統領候補になるまでのキム・デジュン(金大中)と、その選挙参謀であったオム・チャンロク(嚴昌録)を描いたトゥルー・ストーリーです。名前は変えられていますが、ほぼ事実に即した内容になっているようです。キム・デジュンの弟子だったムン・ジェイン元大統領が、大統領選をにらんで作らせた映画であることは、一目瞭然です。ムン・ジェイン時代の忖度映画の多さは驚きでしたが、本作は、その掉尾を飾る一作なのでしょう。あくまでも民主主義の実現にこだわる清廉潔白な政治家としてキム・デジュン、当選するためには手段を選ばない辣腕選挙屋としてのオム・チャンロクが対比的に描かれています。

二人三脚で政界を駆け上がった二人でしたが、大統領選を前に、そのスタンスの違いから決別します。オム・チャンロクは、キム・デジュンを目の敵にして弾圧してきたパク・チョンヒ(朴正煕)大統領陣営に入り、選挙戦に勝利します。出身地方の戦いという構図を選挙に持ち込んだことが勝因だとされます。キム・デジュンの出身地チョルラド(全羅道)に対し、より人口の多いパク・チョンヒのキョンサンド(慶尚道)が勝ったわけです。以降、この地域対立が社会に根付いてしまったとされています。クァンジュ(光州)はチョルラドの大都市ですが、かつて百済の中心都市でもありました。軍が多くの市民を殺害した1980年の光州事件でも知られます。民主化運動と軍政の衝突ですが、その背景にも、百済とチョルラドに対する差別感情があったとされています。

新世代の監督であるビョン・ソンヒョンは、実に腕のいい監督だと思います。ただ、今回は、脚本が輻輳しすぎて、やや混乱しています。青瓦台の要求が多すぎたのかも知れません。正義のキム・デジュン、悪の権化パク・チョンヒという構図は分かるとしても、清廉潔白なキム・デジュンがなぜスタンスの違う選挙屋を重用したのかが明瞭ではありません。キム・デジュンと選挙屋をダブル主人公にし、かつ選挙屋も北出身の悲哀をかこった良い人に描いていますが、キム・デジュン擁護の辻褄合わせ的な印象もあります。ところが、それでは対立陣営に入り、地域対立を煽ってキム・デジュンを破るという選挙屋の行動の説明が厳しくなります。選挙屋は、敵側に寝返ったものの、あくまでもキム・デジュンの味方であり、民主主義を求める北出身者だったという描き方をしていますが、説得力に欠けます。

キム・デジュンが偉大な政治家であったことに疑問の余地はありません。また、この人ほど波瀾万丈な人生を送った政治家もいません。逮捕・監禁、KCIAによる日本からの拉致、死刑宣告、70歳を超えてから大統領就任、北朝鮮に対する太陽政策が評価されノーベル平和賞も受賞しました。反日アピールが身上の左派にあって、バランスのとれた対日外交を行ったことでも知られます。サッカー・ワールド・カップの日韓共催、あるいは文化交流の解禁もキム・デジュンの功績です。その背景には、日本政府への恩義があったとされます。KCIAは、グランドパレス・ホテルから拉致したキム・デジュンを船上で殺す予定でした。ところが、海上保安庁のヘリコプターが威嚇を続けたことで、殺害は断念されました。また、死刑判決を受けた際には、鈴木善幸首相が憂慮を示し、それが国際的な反対運動を誘発し、刑は執行されませんでした。(写真出典:movies.yahoo.co.jp)

2022年8月24日水曜日

白河以北

「白河以北一山百文」とは、戊辰戦争の際、官軍幹部が言った言葉だとされます。”白河の関”より北、つまり東北・北海道の土地など、価値のない土地だとけなした言葉です。東北を後進の地と見る薩長の本音なのでしょう。この言葉は、東北ではよく知られた言葉です。戊辰戦争に敗れた奥州越列藩同盟は、薩長の官軍に城や町を焼かれ、永らく賊軍の汚名を着せられてきました。賊軍への暗然たる差別は続き、東北人は、教員か軍人くらいしか官職に就けなかったと言います。この言葉を、反発心を込めて使ったのが宮城県の有力地方紙「河北新報」です。河北とは、白河以北からとっています。

2022年の全国高校野球選手権大会、いわゆる夏の甲子園で、仙台育英高校が、東北勢として、初めて優勝しました。深紅の大優勝旗が、初めて白河の関を超えた、と大騒ぎになりました。しかも、決勝は、長州の下関国際高校と戦いました。まさに因縁の戦い。戊辰戦争以来150年振りに、一山百文が長州に一矢報いたわけです。仙台育英は、宮城県代表ですが、それ以上に東北代表でもあります。準決勝で仙台育英に敗れた福島・聖光学園のキャプテンが、全国制覇はまかせたぞ、と叫ぶ姿には涙がでました。また、決勝戦において、仙台育英のブラスバンドが、急遽、聖光学園の応援曲を演奏し、共に戦うという姿勢を見せていました。

全国で唯一、優勝のなかった東北にとっては、まさに悲願だったわけです。これまで決勝に臨んだ東北勢は、春の選抜も含め12校あります。夏の甲子園に関しては、1915年の第1回大会における秋田中学に始まりますが、次に決勝進出したのは実に55年後、1969年の青森・三沢高校でした。松山商業との決勝戦は、球史に残る死闘となりました。三沢の太田幸司と松山商の井上明が投げ合う投手戦となり、0-0のまま延長18回引き分けとなります。翌日、再試合となり、2-4で、三沢が惜敗しています。以降、福島の磐城高校、宮城の仙台育英、同じく宮城の東北高校、青森の光星学院が2年連続、再び仙台育英、そして金農旋風を巻き起こした秋田の金足農業と続きました。

金農旋風は、吉田輝星投手の活躍もさることながら、農業高校、わずかな部員、しかも全員秋田出身ということでも話題となりました。近年、私立の強豪校は、全国から選手を集める傾向にあります。例えば、八戸学院光星の登録選手中、9名が関東、6名が関西出身であり、青森出身は、今回わずか3名です。仙台育英も同じく各地から選手を集めていますが、今回登録された18選手中、大阪出身が1名、広島出身が1名、他はすべて東北出身者であり、宮城9人、山形3人、岩手2人、青森と福島が各1名となっています。実質、東北連合軍とも、奥州列藩同盟とも言えます。そのことが、東北の悲願達成を意義深いものにしている面もあります。

福島県南部に存在した白河の関は、5世紀に設置されたとされます。当時、ヤマト王権の勢力が及ぶ北限だったわけです。7世紀、ヤマト王権は、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗を喫します。唐の来襲を恐れたヤマト王権は、防衛強化のために中央集権化を進め、大和朝廷を築きます。朝鮮半島での利権を失った大和朝廷は、新たな砂鉄の供給源を求めて東北へ進出します。802年には、アテルイが坂上田村麻呂に降伏し、東北は平定されます。恐らく、この時点で白河の関は役割を終えたものと考えられます。朝廷に従わなかった”まつろわぬ民”は、千年年後、再び、”まつろわぬ”賊軍にされます。1200年前に閉じられた白河の関が、いまだ象徴的に使われている理由は、戊辰戦争にあるのでしょう。(写真出典:mainichi.jp)

2022年8月23日火曜日

ナイトホークス

ダイナーは、アメリカ大衆文化の象徴の一つだと思います。19世紀、工場労働者のための屋台に始まり、20世紀にはランチ・ワゴン、そしてプレハブ式のダイナーへと進化します。工業化の進んだ北東部で誕生し、世界恐慌を境に、全米に広がりました。全米どこでも似たような建屋とメニューは、規格化によって大きな市場を築いたアメリカの象徴でもあります。24時間営業のダイナーは、温かくて安価な食事を提供するだけでなく、人々が集い、行き交う場所でもあります。エワード・ホッパーが、1942年に発表した「ナイトホークス」には、深夜のグリニッジ・ヴィレッジのダイナーが描かれています。最もよく知られたアメリカ絵画の一つと言えます。

ナイトホークスとは、夜型の人たちのことです。ホッパーのナイトホークスは、文明の賜物である近代都市が、人々に与える孤独感、寂寥感、疎外感を、見事に表現してみせました。夜の闇を切り裂くようなダイナーの蛍光灯の光は文明の象徴ですが、その光の中には寂寞とした孤独感を持った人々がいます。まず目に入るのは、カウンター奥に腰掛けた、夜遊びの帰りと思しき男女です。二人の間にはアンニュイなムードが漂います。サンドイッチを片手に持つ赤いドレスの女性は物憂げで、男性は、店員と、どうでもいいような会話をしているように見えます。話しかけられたナイトシフトの店員は、職業的に対応しているだけように思えます。しかし、この絵の中心点に位置しているのは、一人でカウンターに座る男性の孤独な背中です。

この男性の右半分は都市の光、左半分は都市の闇という構図です。明るい店内ですが、カウンターに座る背中姿の男性、そしてカップルの向こうには、大きなガラス越しに都市の闇が横たわります。図式的な構図は、エワード・ホッパーの特徴です。やや鮮やかさに欠ける独特の色彩とともに、寂寥感を醸し出しています。それは、彼の個性でもあり、大恐慌から戦争という暗い時代を反映しているのかもしれません。ナイトホークスは、ホッパーの代表作ですが、個人的に好きなのは、大きな窓から入る朝日に向かってベッド座る女性を描いた「モーニング・サン」、そして空虚な街角で一人光を浴びて座る男性が描かれた「サンデイ」です。ホッパーの描く光は、いきいきと輝く光ではなく、空虚さに満ちた空気感を伝えます。

ホッパーは、ゴッホの「夜のカフェ」(1888)に影響を受け、ナイトホークスを描いたとされます。ゴッホの不安とホッパーの孤独では、大きな違いがあるように思いますが、事実のようです。また、ヘミングウェイの短編「殺人者」(1927)にインスパイアされたという話もあります。「殺人者」では、何気ない夕暮れ時のダイナーが、突然、ドライな恐怖の場へと変わります。むしろ、こちらの方がナイトホークスの世界に近いように思えます。ホッパーは、アメリカの日常を切り取り、その背景にある本質を表現する画家と言えます。いわば、日常の非日常化であり、後のポップアートの表現方法に近いものがあります。そういう意味では、ポップアートの先駆者と言えるかも知れません。

アメリカ絵画と言えば、どうしてもアンディ・ウォホールやロイ・リキテンシュタインといったポップアートの作家たち、あるいはジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングなど、いわゆる現代アート系の作家たちを思い浮かべます。ジョージア・オキーフは、現代アートと具象系の中間なのでしょう。具象系では、アンドリュー・ワイエス、グラント・ウッド、ノーマン・ロックウェルなどが有名ですが、なんといってもエドワード・ホッパーが最もよく知られています。ナイトホークスは、絵画はもとより、文学、映画、音楽、各種パロディと、アメリカ文化にかなり幅広く影響を与えてきました。そういう意味も含めて、ナイトホークスは、アメリカの具象画を代表する作品と言ってもいいのでしょう。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2022年8月22日月曜日

すするという文化

先にも書きましたが、アメリカ人を、神田の”藪そば”に案内した時のことです。そばちょこに、そばを全投入してから、つまんで食べていました。 見るに見かねて、正しいそばの食べ方を教えました。手繰ったそばの先っぽだけをつゆにつけ、爆音を響かせながら、一気にすするんだ、と教えました。さすがに、すすり方は下手でしたが、まるで味が違う、とても美味しい、と感動していました。そばをすするのは、口に空気を含み、鼻に抜けるそばの香りを楽しむためだと言われます。それはそうなのかもしれませんが、どうも後付講釈の匂いがします。と言うのも、日本人は、そばに限らず、あらゆる麺類、汁類をすするからです。

日本独特のすするという食文化は、お膳と関わっているのだと思います。先進国の中で、食器を持ち上げて食べるのは、日本だけのようです。これは、とりもなおさずお膳の文化ゆえだと言えます。テーブルの場合、口と食器は比較的近いので、汁はスプーンで飲めます。お膳では、汁も器を持って飲むことになり、匙は不要になります。汁を飲む際、汁が熱ければ、まずは、フーフーして冷まします。さらに加えて、空気を含めて飲んで冷ますという方法が編み出されたのでしょう。麺類をすする文化は、その延長線上にあるのだと思います。加えて、すすることで、麺は食べやすくなります。よって、冷たい麺であっても、すするようになったと思われます。

イタリアのパスタは、マルコ・ポーロが、中国から伝えたという話がありますが、これは、まったくの作り話で、古代から存在していたようです。作るのに手間がかかるので、主に富裕層が食べていたようです。ただ、16世紀のナポリで、押し出し製法による乾燥パスタが発明されると、安価な庶民の食べ物として広がります。18世紀後半、ナポリ王がパスタを気に入り、王宮で上品に食べるためにフォークが発明されます。その頃までのパスタの食べ方は、茹でた麺にチーズをかけ、手でつかんで頭上に持ち上げ、口に入れていたようです。なんとも品のない食べ方です。すするという妙案が浮かばなかったのは、ひとえにお膳の文化がなかったからなのでしょう。

最近では見かけなくなりましたが、かつて日本では、パスタも、ズズッとすすって食べる人を多く見かけました。スプーンでスープを飲む際も同様でした。その後、洋食では、食べる際、音を立てないというマナーが定着し、そういう人を見かけることは無くなりました。中学の頃、教師から聞いた話が印象に残っています。東京の大学に通った彼は、家庭教師のバイトをしており、山の手のご家庭へ行った際、昼食にパスタが出たそうです。そこで、ご家族が、スプーンとフォークを使ってパスタを食べる様を見て、衝撃を受けたと言います。東京では、スパゲッティを食べる時、音をたてないようにスプーンも使うんだ、と教えてくれました。ところが、イタリアでは、誰もスプーンなど使いません。幼児の教育用に使われることはあるようですが。

日本人の麺をすする音は、欧米人だけでなく、中国、韓国の人にも不評でした。確かに、不快な音、下品な食べ方にしか思えないと思います。麺を食べる文化を共有する中国・韓国でも、すすることはありません。やはりお膳の文化の有無が大きいのでしょう。中国の人たちが、レンゲに麺を乗せて食べている姿をよく見かけます。ただ、近年、日本への旅行者が増え、日式拉麺を食べる機会も増えたせいか、日本式のすする食べ方にトライする中国人も増えたようです。SNS上では、ラーメンをすすってみたら美味しかった、という書き込みが増えていると聞きました。すすられることを前提に作っているラーメンですから、外国の方々にも、是非とも、すすってみてもらいたいものです。(写真出典:asajo.jp)

2022年8月21日日曜日

ルチャ・リブレ

ミル・マスカラス
ルチャ・リブレは、メキシコで独自の発展を遂げたプロレスです。ルチャは戦い、リブレは自由を意味します。単なるプロレスを超えて、メキシコを代表する大衆文化とまで言われます。プロレスは、スポーツか、エンターテイメントかという議論があります。かつて、WWFはさる裁判で、プロレスはショーであると断言したことがあります。個人的には、極限までエンターテイメント性を高めたスポーツだと思います。ただし、ルチャ・リブレに限っては、スポーツの姿をしたエンターテイメントだと断言できます。とは言え、極めて高い身体能力を遺憾なく発揮した華麗な空中技の数々は、十分に見応えがあります。

メキシコ・シティにあるルチャ・リブレの聖地”アレナ・メヒコ”では、今もしっかり勧善懲悪のストーリーが維持されているようです。マスクを付けて登場するのがヒーローで、ヒールはマスクなしです。ルチャドール(ルチャ・リブレの選手)にマスクは付きものですが、他に職業を持ちながらリングにあがる者が多く、マスクが定着したと言われます。アレナ・メヒコでは、老若男女で埋まった客席とリングが一体となって大盛上がりするようです。例えば、バンコックにあるムエタイの聖地”ルンビニ・スタジアム”の熱狂は有名ですが、客がヒートアップする最大の理由は賭けです。ルチャ・リブレは、筋書きのあるドラマなので賭けは成立しません。これも、家族で楽しむルチャ・リブレの特徴だと言えます。

メキシコのレスリングは、150年ほど前、フランスから伝来し、定着したようです。都市化が急速に進んだ1930年代、メキシコ・シティで、興業としてのルチャ・リブレが生まれています。経済格差の激しいメキシコにあって、最下層の庶民の楽しみとして人気を博します。社会の底辺にあって辛酸をなめるインディオたちは、ヒーローに我が身を託して、日頃の憂さを晴らしたわけです。戦後の力道山人気にも通じるものがあります。プロレスが成立する本質的な理由なのかもしれません。当時のメキシコは、メキシコ革命によって、富裕層に基盤を持つ独裁者ディアスが倒され、民主政権への移行が行われた直後でした。ただ、政治的、経済的混乱が続いた時期でもありました。

1910~1917年に渡って戦われたメキシコ革命は、複雑な経緯をたどりますが、庶民のなかから、エミリアーノ・サパタ、パンチョ・ビリャ等、多くのヒーローが生まれています。特に、メキシコ・シティを無血占領したサパタは、今でもメキシコの国民的英雄です。ただ、サパタは、1919年、対立勢力の謀略によって暗殺されています。革命後も、安定しない世情にあって、インディオたちは、サパタの再来を待ち望んでいたはずです。それが、ルチャ・リブレの誕生と隆盛の背景だったのでしょう。逆に言えば、現在に至るまで衰えることのないルチャ・リブレの人気は、インディオたちの置かれた状況が、さほど変わっていないということの証なのかも知れません。

日本におけるルチャ・リブレの知名度を一気に上げたのは、1971年のミル・マスカラスの来日でした。ミル・マスカラスは、アレナ・メヒコで修行した後、米国のプロレス界へ参戦、国際的に活躍した本格派ルチャドールです。”千の顔を持つ男”ミル・マスカラスは、毎回異なるマスクを着用し、入場曲”スカイ・ハイ”が流れると、場内は大歓声に包まれたものです。空中殺法やスピード感はルチャ・リブレそのものでしたが、パワー・プレイにも対応できる本格派でもありました。多くのタイトルを獲得したミル・マスカラスですが、 以降、 世界に名を轟かせるルチャドールはあまり出ていません。それは、 ルチャ・リブレのガラパゴス化を物語っているとも言えます。 (写真出典:bwwe.fandom.com)

2022年8月20日土曜日

中臣鎌足
高校野球の中継を見ていて思うことの一つは、球児たちの名前の多様性です。子供の名前には、流行り廃りがあって当然ですが、最近は、かつて一般的だった清、誠、三郎といった名前が見当たらないだけでなく、実に多様になっています。今の高校生たちが生まれた頃に人気だった男子名は、翔とか蓮だったようですが、決して大多数を占めているわけではありません。日本では、法律上、名前には常用漢字、ひらがな、カタカナの使用が求められますが、それ以外は、読みも含めて、かなり自由度が高いようです。私が小中学生の頃、高校野球の中継を見て思ったのは、名前ではなく、姓の多様性でした。地方によって様々な姓があるものだ、と感心しました。

中国では、毛沢東など、姓一文字、名二文字が多く、中国文化の影響が濃い韓国やヴェトナムでも、パク・チョンヒやホー・チミンなど、この様式が一般的です。韓国やヴェトナムは、漢字を使わない国になりましたが、今でも、姓名は、漢字に基づいて命名されます。聞けば、各人、自分の名前の元になっている漢字くらいは知っているとのことです。しかも、中国、韓国、ヴェトナムでは、姓に使われる漢字は、ごく限られています。結果として、中国では、李、王、張、韓国ではキム(金)、リー(李)、パク(朴)、ヴェトナムではグエン(阮)、チャン(珍)、レー(黎)が、圧倒的多数を占めます。同じく中国文化の影響下にある日本だけは、随分と様子が違います。

日本人の姓は、二文字が多く、かつ実に多様です。佐藤、鈴木、高橋が、近年のベスト3と言われますが、合わせても人口の4%程度に過ぎません。この違いが生まれた理由が気になるところです。中国の姓は、血縁を表わします。使われる漢字は、3,000程度あり、うち100くらいがメジャーな姓となっているようです。過去に存在し、歴史のなかで消えていった姓も含めれば、10,000以上あったようです。中国の長い歴史、広い国土を考えても、血縁系統としては、それくらいあれば十分だったのでしょう。また、一字である理由は定かではありませんが、表意文字という特性を考えれば、二文字以上の必要性は乏しかったとも言えます。日本の姓も、血縁がベースであることに変わりありませんが、日本の場合、土地に由来する姓が多く、それが多様性につながったようです。

二文字の姓が多い理由は、日本の地名の大多数が二文字だからということになります。713年、元明天皇は、古事記の編纂に際して、地名は”よき字二文字”にせよ、との詔を出します。それまで一文字だった泉は和泉に、三文字だった下毛野は下野に変えられています。なるほど、といった話ですが、そもそも、血縁ベースであった姓が、土地の名を名乗るようになったのか、不思議なところです。古代日本にあって、輸入された最新文化である姓は、ごく限られた上流階級だけが持ち、他は名前だけだったようです。大雑把に言えば、この文化は、江戸期まで続いたわけです。ここが、中国、韓国、ヴェトナムとの違いなのでしょう。名前だけだった人が、官吏や武家として制度のなかに組み込まれると姓を持つことになります。また、明治の世になると、全員が姓を持つことなります。その際、土地にちなんだ姓が選ばれたことは理解しやすい話です。もともと、なんとか村のなんとかさんと呼ばれていたわけですから。

さて、日本最大の勢力を持つ佐藤姓は、中臣鎌足、後の藤原鎌足の子孫ということになります。藤原氏は、長く朝廷を牛耳った家であり、天皇家に次いで子孫が多いとされます。そもそも中臣は山科の地名であり、天智天皇から授かった藤原姓も大和国藤原という地名に由来します。佐藤とは、平安末期、藤原左衛門尉親盛が称したことから始まったとされます。”左”は、官名である左衛門尉、ないしは所領であった下野国佐野庄から来ているようです。他にも斎藤・伊藤・加藤・後藤等、”藤”が付く姓は藤原氏の子孫とされますが、 実態としては、後の世に、藤原氏にあやかって、勝手に名乗ったものが多いとも言われています。日本の姓が二文字で、かつ多様であることは、地名ベースだからということになりますが、そもそも姓を持たない人が大層を占めていたことが背景にあるわけです。(写真出典:r-ijin.com)

2022年8月19日金曜日

北極で氷を売る

20年前、「エスキモーに氷を売る」というビジネス書がヒットしたことがありました。観客動員数が全米最下位だったバスケット・ボール・チームを、高収益チームに変えたジョン・スポールストラの経験談でした。スポールストラが行ったのは、数少ない熱心なファンに、もう1回だけ多くゲームを見に来てもらう、もう1枚だけ多くチケットを買ってもらうことでした。CRM、リピーター戦略のとても良い実例でした。ネットで「北極で氷を売る」という言葉を見つけ、おや、と思い、開いてみると、スポールストラの話ではなく、ドミノ・ピザに関する記事でした。イタリアに進出していたアメリカのドミノ・ピザが、全面撤退するという話でした。

ドミノがイタリアに進出していることなど、全く知りませんでした。確かに、北極で氷を売るようなものです。進出時の目標は、イタリア全土で900店舗展開だったそうですが、現在は33店舗とのこと。なんとも無謀な挑戦だったように思えます。丸亀製麺が、香川県に店を出す時も、随分話題になりました。香川県の地名である丸亀を名乗るものの、丸亀製麺は兵庫県加古川発祥の焼き鳥チェーン”トリドール”の経営です。香川には、何軒か出店したようですが、現在は、ただ1店を残すのみと聞きます。丸亀製麺は、安くて美味しいので人気ですが、うどん県香川では、もっと安くて、もっと美味し店がザラにあります。

アメリカとイタリアでは、同じピザでも、その文化は大きく異なります。たっぷりのチーズとトッピングを楽しむのがアメリカで、イタリアではクラストを楽しむのがピザです。深皿のようなクラストに大量のチーズを入れたシカゴ・スタイルのピザなど、もはやピザとは呼べないようにも思います。ドミノは、アメリカ式ピザという特色に加えて、宅配というお家芸も売りに、本場イタリア市場に参入します。ただ、宅配については、地元のピザ屋も始めます。かつ、ドミノは、価格的にも優位性はなかったようです。そして、なによりも、パイナップルが乗っているピザなど、イタリア人の理解を超えていたということなのでしょう。

シアトルのスターバックス・コーヒーが、イタリア進出を表明した時にも驚きました。イタリアン・ローストで世界を制覇したスターバックスとは言え、やはり北極で氷を売るに等しい話でした。巨大なカップで薄いコーヒーをチビチビ飲むアメリカと、デミタス・カップでエスプレッソを立って飲むイタリアでは、文化が違いすぎます。イタリア人にとって、スタバは信じがたい文化と言えます。そこで、スタバは、街のカフェとの直接的な戦いを避け、プレミアム・スターバックスという超高級店をミラノに出し、味の勝負に出ました。この作戦は成功したようで、少しづつ店舗数を増やしているようです。それは結構な話だと思いますが、店舗数で稼ぐチェーン店が、そこまでしてイタリアに進出する意味があるのかどうかは、多少疑問です。

ドミノは、1960年、デトロイトの西にあるイプシランティで創業されました。学生街のピザ屋を購入したモナハン兄弟は、車を持っていない学生にピザを届けるサービスを思いつきます。宅配ピザ誕生の瞬間です。現在、ドミノは、世界83カ国に、15,000店舗を展開する世界最大のピザ・チェーン店です。ドミノが急成長した要因は、TVCMと30分保証だったのだろうと思います。注文してから、30分以内に配達できなければお代は無料というサービスです。一度、無料にしてもらったことがあります。本当にやるんだと驚きました。1990年代、アメリカで配達員が起こした交通事故で被害者が亡くなり、企業責任を問われたドミノは敗訴します。以降、30分保証は無くなりました。ただ、いまだ継続している国もあるようです。(写真出典:ja.m.wikipedia.org)

2022年8月18日木曜日

「ワンダ」

監督:バーバラ・ローデン      1970年アメリカ 

☆☆☆+

ジョージ・H・W・ブッシュ大統領時代の副大統領だったダン・クエールは、つっこみどころ満載の人でした。大統領選の遊説中、よく”We are the envy of the world”と言っていたことを覚えています。アメリカは、世界の羨望の的だと言うわけです。否定はしませんが、ねたむほどでもないと思いました。GDPは世界一でも、人種差別、経済・教育格差、麻薬問題、銃撃事件の多さ等、影の部分も多い国です。「ワンダ」は、炭鉱地帯の貧しく、教育のない女性が、受動的に環境に流されていく様を、ドキュメンタリー・タッチで描いています。フェミニズムの映画とも評価されるようですが、むしろアメリカ社会の影を切り取った映画だと思います。

監督のバーバラ・ローデンは、TVCM女優やダンサーとしてキャリアをスタートし、アクターズ・スタジオで学んだ後は、舞台や映画女優として活躍し、舞台の演出や演技指導でも知られた人でした。巨匠エリア・カザンの妻でもありました。本作は、そのローデンが、生涯に一度だけメガホンをとった超低予算映画です。新聞記事に触発されて脚本を書きますが、映画界からは相手にされず、自ら製作・脚本・監督・主演をこなし、完成させています。ヴェネツィアやカンヌ映画祭で高い評価を得ますが、アメリカ国内ではほぼ無視されます。1980年に乳がんで亡くなったこともあり、ローデン唯一の長編映画となりました。ところが、40年後、映画人たちによって再評価され、歴史的傑作と言われるまでになります。

本作は、16mmの手持ちカメラによるオール・ロケ、即興的演出、素人の起用、音楽を使わず環境音と少ないセリフだけで構成され、シネマ・ヴェリテ風な仕上がりになっています。無気力で、環境に流されるワンダの姿は、アメリカの忘れられた人々の象徴そのものであり、ローデンのリアリティあふれる演技は、神がかっているとも言えます。ローデンは、半ば自伝的な作品と言っているようですが、生い立ちではなく、精神的な意味での無力さを言っているのでしょう。そういう意味で、フェミニズム映画とされるのだと思います。まだ女流監督は珍しく、当時のアメリカにあっては前衛的とも言える作風、しかもアメリカ社会が目を背けてきた格差の現実が描かれていたことで、社会から受け入れられなかったのだと思います。

トランプが大統領選に勝利したことで、彼の支持者層とされた白人の低所得者層が注目された時期があります。支持者の多くは、アメリカのグローバル戦略の影で没落した白人中間層やエヴァンジェリスト(福音派リスト教徒)たちでしたが、あわせてホワイト・トラッシュ、プア・ホワイトと呼ばれる南部の低所得層、アパラチア山地で孤立的に生きてきたヒルベリー、あるいはペンシルベニアの炭鉱地帯に取り残された人々にも注目が集まりました。ただ、彼らは、決して熱心なトランプ支持者だったとは思いません。なぜなら、何世代にも渡り、繁栄を謳歌するアメリカ社会から蔑まれ、忘れられ、何の希望も、期待も持ってこなかった人々だからです。社会に格差はあって当然です。問題は、それが世代を超えて固定化することです。

ワンダを連れ歩くことになった犯罪者デニスは、コネチカットのホーリー・ランドUSAで、父親と会います。ホーリー・ランドUSAは、地元のカソリック教徒が作った手作りの聖書テーマ・パークです。エヴァンジェリストの父親は、息子に、まっとうな仕事に就けとさとします。息子は、従順に父親の言葉を聞きます。しかし、構図的に言えば、息子を犯罪に走らせた社会を作り出したのは、他ならぬエヴァンジェリストたちだったとも言えます。ここでも、ローデンは、断定的な表現は一切していません。怒れる若い世代による反体制映画、いわゆるアメリカン・ニュー・シネマ全盛の時代にあって、ローデンは、全く違うところに目線を置いていました。ある意味、もっと深くアメリカの闇を見つめていたとも言えます。(写真出典:imageforum.co.jp)

2022年8月17日水曜日

茶豆

新潟市の黒崎地区は、市の南西部に広がっています。ここで採れる黒崎茶豆は、枝豆の最高品種です。香ばしく甘みのある黒崎茶豆を食べると、他の枝豆を食べる気がなくなります。耕作面積が狭く、旬が8月初旬からお盆までと短いこともあって、東京で食べることは難しい面があります。私は、新潟から送ってもらい、年に一度、茶豆を楽しんでいます。茹でると、家中に香ばしい香りが充満します。私は、茹でたての、まだ温かいものを一気に食べます。それが、黒崎茶豆の香ばしさと甘みを味わい尽くす最善の方法だと思っているからです。

こんなに美味しいのだから、もっと作付面積を増やすべきだと思うのですが、不思議なことに、同じ苗を他の土地で育てても、同じ味にならないと聞きます。素人考えでは、土壌を研究すれば、なんとかなりそうな気もしますが、どうもうまくいかないようです。ただ、例外とも言えるのが、山形は鶴岡の名品”だだちゃ豆”です。だだちゃ豆は、江戸期、越後から伝わったとされます。詳細ははっきりしませんが、恐らく黒崎原産なのだと思います。”だだちゃ”とは親父という意味だとされますが、恐らく茶豆にかけている名称なのだと思います。だだちゃ豆は研究が進み、品種も増えているようです。

美味しい枝豆と言えば、丹波の黒豆の枝豆も人気があります。高級食材の黒豆ですから、いささかもったいない気もします。味わい深い黒豆枝豆ですが、やはり立派な黒豆として育てもらい、お正月に食べたいところです。枝豆は、未成熟の大豆を若採りしたものです。主に早生種の大豆が用いられるようです。大豆ですから、タンパク質が豊富で、食物繊維、ビタミンEも多く含まれます。さらに、若採りすることで、枝豆には、ビタミンC、カリウムも多く、実に健康に良い食品と言えます。中国から伝わり、日本では古くから親しまれてきました。近年では、欧米でも、健康に良いことが知られるようになり、そのまま”Edamame”という名前で広がっているようです。

茶豆は、なにせ塩茹でに限ります。ただ、枝豆全般で言えば、他の食べ方もありです。漬物も美味しいと思います。茶豆以外なら、是非、漬物にして欲しいと思います。また、香ばしい”ずんだ”も好物です。ずんだは、枝豆をペースト状にしたもので、甘いものだけでなく、塩味もあります。東北の名物ですが、伝統的には、甘いずんだを餅にからめて食べます。近年は、仙台のずんだ茶寮の活躍もあり、様々なスウィーツとしても売られています。また、青森県の南部地方には、”豆しとぎ”があります。ずんだに米粉・塩・砂糖を加え、ぬるま湯でこね、かまぼこのような形に成形します。そのままで食べますが、炙ると香ばしさが増します。

余談ですが、黒崎茶豆と同様、新潟でしかできないと言われているのが白根地区の”かきのもと”です。食用菊ですが、通常の黄色いものとは異なり、紫色になります。味や香りは、黄色いものと大差無いように思います。”かきのもと”という名前は、垣根の根本に自生していたから、と言われます。”かきのもと”は、白根以外では紫にならないと聞きました。ところが、山形にも、紫の食用菊があるのです。庄内の”もってのほか”です。実は、紫の食用菊は、中国から伝来した最も古い品種”延命楽”です。白根だけでできるというわけではないようです。ちなみに、”もってのほか”という名称は、天皇家のご紋を食用にするなどもってのほか、という意味だそうです。(写真出典:kurosakichamame.com)

2022年8月16日火曜日

「灼熱の魂」

監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ     2010年カナダ・フランス

☆☆☆+ 

「灼熱の魂」は、レバノン内戦時、厳しい運命にさらされた家族を描いています。ドゥニ・ヴィルヌーヴが、世界にその名を知らしめた作品と言えます。原作はレバノン人による戯曲ですが、脚本はヴィルヌーヴが書いています。今回は、デジタル・リマスター版での再上映です。ここのところ、ボーダーライン、メッセージ、ブレードランナー2049、デューンと立て続けにヒットを飛ばすヴィルヌーヴゆえ、旧作でも商売になるのでしょう。本作を見ると、あらためてヴィルヌーヴの持つ映画文法の佇まいの良さ、あるいは映像や音楽のセンスの良さを認識させられます。ちなみに、本作の音楽には、レディオ・ヘッドが効果的に使われています。

いわば外部要因によって、発生、加速されたレバノン内戦ですが、そのなかで翻弄される民衆の姿を、一つの家族の過酷な運命に反映させています。やや図式的な因果話である点では、近松門左衛門かギリシャ悲劇を思わせるところがあります。図式的なプロットをドラマ化するには、それなりの演出力が求められます。本作では、演出、演技も見事ですが、ミステリ仕立てにしたことも、良い効果を生んでいると思います。加えて、ドキュメンタリー・タッチにすることで、レバノン南部の乾いた空気感がよく伝わります。これも、図式臭さを消す絶妙なアイデアだったと思います。ただ、それらの努力は、ややもすると冗漫な印象を与える傾向があることも否定できません。個人的には、そのテンポも含めて、好ましいと思いましたが、評判は分かれるところだと思います。

レバノンは、古代から、フェニキア人が拠点にするなど、交易の要衝として栄えてきました。キリスト教の拠点でもありましたが、イスラムの時代を迎えると、多民族・多宗教が共存する地域として繁栄を続けます。オスマンの支配が終わると、フランスの委任統治下となり、マロン派キリスト教徒と、それを上回るイスラム教徒が混在する国が形成されます。1943年に独立しています。小国ながら経済繁栄を謳歌し、ベイルートは中東のパリと称されるほど華やかな街でした。状況が変わったのは中東戦争の勃発でした。多くのパレスティナ難民が流入し、宗教バランスが大きく崩れたことから、マロン派がイスラム教徒から圧迫され、ついには内戦へと発展します。

その後、パレスティナ解放戦線が拠点を置いたことから、シリア、イスラエルの激しい介入が幾度も繰り返されます。すると、アメリカ、ソヴィエト、欧州各国、周辺イスラム各国の思惑が交錯し、もはや単純な内戦とは言えない状況にまで至ります。国家は、事実上、崩壊し、各派が割拠する地域へと変わります。本作は、カナダとレバノン、現在と過去、という二重構造を持って語られていますが、レバノンでの過去パートは、内戦初期から始まっています。マロン派キリスト教徒の娘が、パレスティナ難民の青年と恋に落ち、生まれた子供は南部の孤児院に連れて行かれ、娘は一家の面汚しとして放逐されるところから、ドラマが生まれます。まさに内戦の構図そのものと言えます。

長く続いた内戦が生んだレバノン人のディアスポラは有名です。レバノン国内の3倍におよぶレバノン人が、欧米に暮らしています。特にブラジル、アルゼンチンは多く、数百万人と言われます。東地中海の交易で培われたレバノン人のビジネス・センスは定評があり、各国でネットワークを作り、経済的な成功を収め、裕福に暮らしている人が多いようです。カルロス・ゴーンも、その一人です。ブラジルに生まれ、パリで学んだレバノン人です。また、レバノン人ディアスポラの教育熱心さもよく知られています。南米各国の大統領はじめ、アメリカでは、多くの閣僚やホワイトハウスのスタッフを生んでいます。ちなみに、本作では、レバノンという国名は、一度も語られず。また都市も架空のものとなっています。内戦が終わったのは、1990年のことですが、まだ何かと差し障りがあるのでしょうか。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年8月15日月曜日

Exit Plan

“腹案”
企業の経営戦略では、ゴールの設定とともに、出口戦略(Exit Plan)が重要となります。つまり、どういう状態になったら、その事業から撤退するか、ということを予め明確にしておくわけです。出口戦略を明確にすることは、戦略そのものを、より具体的なものにするという効果もあります。かつて日本企業の多くは、出口戦略など持たず、ひたすらゴールの達成にむけて、がむしゃらに経営資源を投下し、精神論を振りかざしたものです。結果的に成功する場合もありますが、お荷物事業になり、かつ、判断基準が不明確なので、なかなか撤退できないというケースが多くありました。営業政策は、さらにひどいもので、一つの政策がうまくいかないと、分析も出口も不明瞭なまま、次の政策が打ち出されていきます。経営資源の無駄遣いそのものです。

それでも、高度成長期には、何をやっても、売上が伸び、業容が拡大したことから、一層、このお粗末な経営戦略の立て方が定着していきます。いわゆる成功体験の弊害です。さらに言えば、産業革命と富国強兵の明治期は、”それ行けドンドン”ムードが支配的であり、日本の企業風土を決定づけたように思います。ひたすら”坂の上の雲を追いかける”ことはロマンチックですが、経営的には悪夢です。こうした精神風土は、企業経営に限らず、国家運営、特に戦争遂行に際しても、現われます。太平洋戦争の計画性のなさは、目を覆うばかりですが、実は、その態勢は、日清・日露戦争時代に培われたものという面もあります。太平洋戦争開戦直前の1942年11月15日、戦争の基本戦略が、大本営政府連絡会議において決定されています。「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」です。これが唯一の戦略であり、しかも”腹案”にすぎなかったわけです。

腹案は、8 月頃から陸海軍と外務省の事務レベルで検討されていた「対英米蘭戦争指導要領」の最終章の抜粋と言われます。大雑把に言えば、直接対決では米国に勝てないので、英国を日独伊で叩き、東アジアの資源を確保し、中国を制圧し、米国の戦意をくじく、といったシナリオです。タイトルは出口戦略的です。ただ、具体性に乏しく、希望的観測、他力本願、矛盾の内包といった特徴を見ることができます。特に、ドイツが欧州で勝ち続けることが大前提となっていること、また陸軍の長期持久戦と海軍の短期決戦指向が両論併記されていること等は、戦略としての重大な欠陥と言わざるを得ません。もし、出口戦略が明確であれば、ナチスが劣勢になった瞬間、計画は破棄されるべきでした。曖昧な戦略の下で計画・実行される戦術は、統一性を失い、独断専行を招き、資源配分を混乱させ、計画全体を破綻させることになります。

太平洋戦争とは何だったのか、という議論は、今も続いています。帝国主義的侵略説、米国の包囲網に対する自衛説、軍部の独走説、米国の陰謀説、あるいはそれらの複合説等があります。こうした議論が生じるのも戦略の曖昧さゆえという面もあるのでしょう。そもそも太平洋戦争に至る経緯は、明治初期における日本の半島・大陸への進出に始まります。その時点で、既に明治政府内の意見は分かれており、戦略は、両論併記的な曖昧さを持っていたと言えます。明治政府は、西欧列強の植民地化圧力にさらされており、単独でこれに対抗する力はなく、日朝清の連携、シーレーンの確保、戦略的深度の確保、つまり半島・大陸を占領したうえで国土を防衛するといった意見がありました。いずれしても、国土防衛と独立確保が基本的考え方だったと言えます。

当初は、日朝清の連携が指向されますが、清とその植民地となった李氏朝鮮から拒絶されます。清朝政府の硬直化した古い体制によるところもありますが、清と朝鮮から見れば、急速に近代化する日本は、西欧と同列に見えたということなのでしょう。征韓論に始まり、いくつかの事案が重なり、一方では南進するロシアの圧力もあり、ついに日清・日露の戦役へと進むわけです。このあたりでは、日本は遅れてきた帝国主義者としての顔になり、それは日韓併合、満州事変で決定的になったものと考えます。出口戦略などは無視され、曖昧な戦略のもと、参謀たちの暴走によって、兵站を無視した戦争が拡大されていきました。その傾向は留まることなく、1945年8月15日まで続くことになります。(写真出典:jacar.archives.go.jp)

2022年8月14日日曜日

小岩井農場

小岩井の一本桜と岩手山
これまで何度かチャンスがあったにもかかわらず行けなかった小岩井農場に行くことができました。小岩井農場は、1891年、岩手山の南麓に広がる原野に開かれました。敷地面積3,000haは、皇居の13倍に相当します。明治期に誕生した財閥の多くは、政府と太いパイプを持ち、官営工場、官有地等の払い下げによって事業を拡大しています。ご多分に漏れず、小岩井農場も払い下げられた官有地に立地しています。恐らく、江戸期までは、南部藩が所有する入会地だったのだろうと想像できます。火山灰が堆積した痩せた土地だったようで、土壌改良等に10年以上かかったと言われます。

恥ずかしながら、小岩井という名称は、土地の名前だと思っていました。創業者である日本鉄道会社副社長の小野義眞、三菱社社長の岩崎彌之助、鉄道庁長官の井上勝の名字から名付けられたものでした。鉄道の父とも呼ばれる井上勝は、幕末、伊藤博文らと共に英国へ密航した”長州ファイブ”の一人でした。英国で鉱山や鉄道の技術を学び、日本における鉄道の基礎を築きました。1980年、東北本線の延伸工事のために盛岡を訪れていた井上は、岩手山の裾野を見て、牧場建設の構想を得ます。後に井上は、鉄道建設のために多くの「美田を潰した償い」だったと語っているそうです。

しかし、事はそう簡単でありませんでした。井上は、三菱の支援のもと、土壌改良、植林、洋式農法の導入、機械化への試み等を行いますが、本人が素人なうえに鉄道建設に忙しく、また畜産物の市場も未熟であり、経営は困難を極めます。1899年、井上は、経営を三菱に移管します。当時の三菱の総帥は、三代目社長岩崎久弥でした。弥太郎の長男である久弥は、三菱財閥の事業と組織を確立させた人でした。大規模農業を事業の一つとして力を入れた久弥は、小岩井農場だけでなく、千葉の末廣農場、ブラジルのコーヒー園である東山農場、さらにスマトラや韓国でも農場を開き、経営しています。

久弥は、ブリーダー事業を小岩井農場のメイン業務にします。これは、単に小岩井農場を成功させただけでなく、日本の畜産業の発展にも大きく貢献することになりました。また、本格的な事業としての乳業を開始しています。この頃、乳製品が普及し、市場が形成されつつありました。特に、日清・日露戦争において、傷病兵の栄養補給として牛乳が使われたことで、急速に普及していったようです。小岩井の乳製品のブランド力は、久弥によって基礎が築かれたわけです。久弥は、慶應義塾卒業後、ペンシルベニア大学のウォートン・スクールでMBAをとっています。農業と酪農が盛んなペンシルベニアでの経験が、農政事業への情熱の背景にあったものと思います。

小岩井農場の乳製品は、現在、小岩井乳業が担っていますが、最も有名な製品と言えば「小岩井純良バター」だと思います。1902年に発売されています。小岩井のバターは、他よりもコクと香りが良く、昔から人気でした。その大きな理由は、製法の違いにあります。小岩井は、当初から発酵製法にこだわってきました。欧州のバターは、大半が発酵バターです。対して、日本における一般的なバターは、非発酵バターです。バターの輸入が始まった頃、非発酵バターが多かったので、そのまま定着してしまったようです。近年、エシレはじめ、欧州の発酵バターが多く流通し、その美味しさが知られるようになりました。小岩井は、発酵バターの先駆者でもあったわけです。(写真出典:koiwai.co.jp)

2022年8月13日土曜日

お盆

盆提灯
お盆と葬儀は、最も社会に定着し、影響を及ぼしている仏事だと思います。お釈迦様の唱えた原始仏教とは、ほぼ無関係なお盆と葬式が、仏教最大の行事という実態は、興味深いものがあります。仏教が中国に伝来した際、中国伝統の祖霊崇拝と結びつくことで、普及していったという経緯があり、日本へも、そのまま伝わったわけです。原始仏教は、部派仏教、大乗仏教として宗教化が進んだわけですが、祖霊崇拝を取り込んだことで、社会性や政治性を持つようになり、同時に形骸化も進むことになったと言えるのでしょう。いわゆる仏事主体の葬式仏教化したわけです。

祖霊崇拝は、稲作と深く関係していると思われます。稲作では、田んぼと共に、労働力が重要な生産要素となります。家族、一族、コミュニティを、労働力として組織化、統制するために、家父長制が生まれ、祖霊崇拝が生まれたのだと思います。仏教は、その強化・体系化に、実に有効だったということになります。産業革命以降、都市生活者が増え、一次産業従事者の割合が減ると、社会的必要性が乏しくなった仏事は寂れていく運命にありました。ただ、永らく社会に浸透してきた仏事は、消えるのではなく、さらに形骸化を進めることで生き残っているとも言えます。その変成のあり方を、端的に示している例が、盂蘭盆会なのだと思います。

お盆は、年に一度、浄土から現世に戻ってくる先祖の霊を供養する仏事です。もともとの盂蘭盆会は、旧暦7月1日、地獄の釜の蓋が開く釜蓋朔日からお迎えの準備が始まり、15日を中心に供養し、地蔵菩薩の縁日である24日までにお見送りするという行事でした。7月7日は七夕ですが、本来、七夕は”棚幡”と表わし、祖霊を祀る棚と幡を準備する日でした。いつの頃か、お盆は、社会の変化を映して、13~16日と短くなりました。迎え火は、祖霊が迷わないように、家々の玄関に焚かれたものでした。近年では、より大規模に行われる京都五山の送り火、花火大会、あるいは精霊流しなど、いわば地域の祭礼という形で残りました。

お盆に由来し、社会化した行事としては、他にも、お盆休みと帰省、盆踊り、夏祭り、あるいは道教がらみですが、お中元なども挙げられます。いずれも盂蘭盆会が起源ながら、もはや仏事とは縁遠い存在になっています。とは言え、帰省すれば、墓参りくらいはするでしょうから、社会的な変化に合わせて、姿を変えながら、盂蘭盆会は生き残っているとも言えます。お盆休みは、江戸期から定着していたようです。ところが、興味深いことに、歴史上、一度たりとも、国の休日に指定されたことがありません。神道の国教化を図った明治政府は、国民的行事とは言え、仏事を国の休日にはできなかったのでしょう。また、戦後は、憲法上の信教の自由を担保するために、お盆の休日化はできなかったわけです。

生産手段を共有しなくなった家族やコミュニティが分散するのは当然の流れです。それでも、年に一度、家族が顔を合わせる行事があることは悪いことではないと思います。アメリカでは、11月の第4木曜日に行われる感謝祭が、それに相当し、家族が集合します。ただ、国民の大移動が、一斉に発生することは、困りものです。企業の夏休みは、かつてお盆に集中していたものですが、近年は、7~9月の間と分散化し、あるいは期限を設けない休暇へと変わりました。それでも、やはりお盆に移動が集中するところを見ると、まだまだ仏教や農耕文化の影響は大きいな、と思い知らされます。(写真出典:kyo-butsudan.com)

2022年8月12日金曜日

ハリマオ

快傑ハリマオ
小学生になるか、ならないかの頃に見ていたTV番組と言えば、「月光仮面」や「少年ジェット」等を思い出します。家から持ち出した風呂敷で、月光仮面のターバンとマントを作り、遊んだことを覚えています。主題歌も記憶にあります。少年ジェットの必殺技ミラクルボイスの「ウー・ヤー・ター」も、やたら叫んでいたように思います。同じ頃の番組に「快傑ハリマオ」があります。主人公の姿や主題歌は覚えていますが、それ以外は思い出せません。月光仮面ごっこは散々やりましたが、ハリマオごっこはやらなかったからかも知れません。ちなみに、私は、ハリマオを”ハリマ王”だと思っていました。

ハリマオとは、マレー語で虎を意味します。「快傑ハリマオ」はフィクションですが、ハリマオのモデルとなった谷豊は、実在した人物です。谷豊は、1911年、福岡市郊外で生まれています。谷豊が2歳の頃、一家は、英国領マレーのクアラ・トレンガヌに移住し、理髪店を営みます。クアラ・トレンガヌは、15世紀頃から、中国貿易を中心とする国際交易公港として栄え、戦前は日本人も少なからず住んでいたようです。教育は日本で受けさせたいという両親の希望によって、福岡の祖父母の家から小中学校に通います。その後、クアラ・トレンガヌに戻り、やんちゃな青春時代を過ごし、イスラム教に帰依もしています。国籍が日本のままだったので、20歳のおり、徴兵検査を受けるために、再度日本に戻ります。

ただ、身長が規定に届かず、兵隊になることはありませんでした。谷豊は、そのまま日本に留まり、働き始めます。1933年、クアラ・トレンガヌでは、日本が起こした満州事変に抗議する華僑の一団が暴徒化し、谷豊の実家である理髪店も襲います。その際、妹が惨殺され、生首がさらされます。翌年、一家は、福岡に引き揚げます。妹の一件を聞かされ激怒した谷豊は、マレーに戻り、マレー人の仲間たちを集め、主に華僑を襲撃する盗賊団を組織します。当時の日本の新聞は、義賊とも部下3,000人とも書かれていますが、実態はよく分かりません。ある時、官憲に捕縛された仲間を助けようとした谷豊は、逆に捕まって投獄されます。賄賂を使って、彼を牢から出したのは、マレーに潜伏する帝国陸軍のスパイでした。

当時、日本軍は、シンガポール攻略に向けて、英国領マレー侵攻を計画していました。事前の情報収集と破壊工作のための要員を必要としており、谷豊ほどの適任者はいなかったわけです。彼とその仲間たちは、英国の要塞建設における破壊工作や、橋梁爆破の妨害などで活躍します。マレー半島に上陸した日本軍は、3ヶ月をかけずにシンガポールを占領します。その快進撃の影には、谷豊の貢献もあったわけです。ただ、1941年、マラリアを罹患した谷豊は、白人の作った薬は飲まないと特効薬を拒絶し、30歳という若さで亡くなっています。その活躍が評価され、靖国神社に軍属として合祀されています。谷豊は、死後、現地での通称「ハリマオ・マレオ(マレーの虎)」の名の下に、戦意高揚プロパガンダに利用されることになりました。

それが、なぜ、1961~62年に至ってTV番組化されたのか、興味深いところです。1951年のサンフランシスコ講和条約で、再び独立した日本は、朝鮮戦争による特需を背景に、急速に復興を遂げ、この時期には、高度成長期へと入っていました。ハリマオの放送と同じ頃、力道山が人気絶頂となっていました。空手チョップで、大きな白人をなぎ倒す力道山に、日本人は、敗戦と敗戦後の悲惨な生活の憂さを晴らしたわけです。実は、ハリマオというドラマは、力道山人気とよく似た構図を持っていたのではないでしょうか。帝国陸軍の方便と批判される大東亜共栄圏構想も、悪いことばかりではなかった、と言っているようにも思えます。つまり、白人たちによる植民地支配にあえぐアジアで、日本軍による侵攻が、結果的には各国の独立を促した面もあったわけです。GHQ占領下の日本では、決して許されなかった番組だったとも言えます。(写真出典:aucfree.com)

2022年8月11日木曜日

六花亭

六花亭を知ったのは、大学に入学してからのことでした。当時、六花亭は、帯広にしかありませんでした。帯広に帰省したクラスメートが、土産にホワイト・チョコレートを買ってきてくれました。初めて食べるホワイト・チョコレートの美味しさに驚きました。札幌で買えない希少品ということもあり、格別に美味しく感じた面もあるのでしょう。その後、帯広の定番土産となり、口にする機会も増えていきました。六花亭は、もともと札幌千秋庵帯広支店でした。千秋庵は、1860年、秋田藩士だった佐々木吉兵衛が、函館に開店しています。千秋とは、秋田の秋に、長久の願いを込めたもので、秋田城址公園の名称にもなっています。

千秋庵は、暖簾分けという形で、北海道内に次々と店を増やしていきました。1894年には小樽千秋庵が開店し、1921年には小樽から独立して札幌千秋庵、さらに札幌の支店として帯広店が開店したのが1933年のことでした。当初は和菓子中心でしたが、酪農家の多い土地柄を活かし、洋菓子も製造しはじめます。1963年には、マドレーヌの「大平原」が発売されています。バターがいい仕事をしている絶品で、私の大好物です。そして、欧州視察から帰国した店主・小田豊四郎が、これからはチョコレートの時代が来ると判断し、チョコレートの開発に取り組みます。不二家や明治製菓で商品開発を担当したチョコレートの権威・松田兼一の助言を受け、日本初となるホワイト・チョコレートの開発も行われ、1968年に発売しています。

発売当初、馴染みの薄いホワイト・チョコレートは、さっぱり売れなかったと言います。特許取得も目論んでいましたが、あまりの不振ぶりに辞めたそうです。ところが、1960年代末から起きたカニ族ブームによって、知名度が一気に上がります。カニ族は、大きなリュックサックを背負って旅する若者たちのことです。大きなリュックゆえ、電車内を横に歩くことから、カニ族と呼ばれました。今風に言えば、バックパッカーです。ところが、知名度アップは、大きな問題も惹起します。各地の千秋庵は、商圏を当該地域に限定することで共存を図ってきました。帯広千秋庵は、札幌にも、千歳空港にも店を出せなかったわけです。ホワイト・チョコレートを求める旅行者たちからの苦情が増え、1977年、千秋庵帯広店は、暖簾を返上し、六花亭を立ちあげます。

この独立の年に発売されたのが、六花亭の代名詞となる絶品「マルセイ・バターサンド」でした。北海道産のフレッシュ・バターとホワイト・チョコレートにカリフォルニアのレーズン、それをしっとり感のあるクッキーでサンドしています。小川軒のレーズン・ウィッチを参考にしたとされます。マルセイという名称とクラシックな包装は、十勝開拓の父と呼ばれる依田勉三の晩成社が、1905年、北海道で初めて製品化したバターにちなみます。小田豊四郎は、千秋庵時代に、帯広開基70周年を記念した最中「ひとつ鍋」もヒットさせています。ひとつ鍋は、依田勉三が辛酸を極めた開拓初期に詠んだ句「開拓の はじめは豚と ひとつ鍋」から命名されました。晩成社の夕食を見た人が、これは豚の餌か、と言ったことから生まれた句だとされます。

晩成社へのこだわりは、小田豊四郎と六花亭による十勝産食材へのこだわりそのものでもあります。六花亭という名前は、小田豊四郎が、東大寺管長に相談し、北海道を代表する菓子屋になるようにとの願いをこめ、北海道の象徴でもある雪の結晶から命名されました。六花亭の有名な包装紙は、坂本龍馬の子孫にして、北海道出身の酪農家でもあった坂本直行によって描かれています。そこには北海道を彩る多くの草花が描かれていますが、なかでもエゾリンドウ、ハマナシ、オオバナノエンレイソウ、カタクリ、エゾリュウキンカ、シラネアオイは、十勝の六花と呼ばれているそうです。ちなみに、私流”六花亭の六花”は、今のところ、マルセイ・バターサンド、マルセイ・ビスケット、ホワイト・チョコレート、チョコマロン、百歳、大平原です。(写真出典:jbpress.ismedia.jp)

2022年8月10日水曜日

梁盤秘抄#26 "X" Chronicle

 アルバム名:"X" Chronicle of SOIL&"PIMP"SESSIONS(2013)                               アーティスト: SOIL&"PIMP"SESSIONS

SOIL&"PIMP"SESSIONS(以下SOIL)を最初に知ったのはYoutubeでした。まったくの偶然ですが、”SUMMER GODDESS”(2005)と”Crush!”(2006)を聞いて、ガツンとやられました。ノリのいいリズム、ガンガン吹きまくるホーン、ポップなメロディが、とても気持ちよく、耳に残りました。懐かしくも、新しくもあり、もともとJazzが持っている楽しさの部分が全面に出ている印象でした。海外での活動が多く、東京でのライブは少なかったのですが、何度か行きました。SOILは、自らの音楽を”Death Jazz”と称していますが、クラブのライブでも、コンサート・ホールでのライブでも、観客は踊りまくり状態となり、とてもJazzのライブの景色ではありませんでした。

SOILは、2003年、セッションで知り合ったメンバーによって結成されています。メジャー・デビュー前にフジ・ロックに出演し、注目を集めます。SOILの快進撃は、2005年、イギリスから始まります。アシッド・ジャズの大物DJ・ジャイルス・ピーターソンに見いだされ、ブレイクします。イギリス伝統の大型野外フェス「グラストンベリー・フェスティバル」にも出演します。日本人としては、コーネリアス、スカパラに続く3組目でした。SOILの主戦場は、欧州を中心とした海外になったわけですが、国内では、椎名林檎とのコラボなども行っています。逆輸入のようになったSOILの人気は高まり、ジャズ界の風雲児とも呼ばれます。CDは良く売れ、数少ない国内でのライブのチケットは入手困難となります。

大人気のなか疾走を続けたSOILでしたが、2016年、サックスの元晴が脱退します。SOILサウンドの核心でもあった元晴の脱退とともに、バンドは一時活動中止に入ります。ここまでが、いわばSOILの第1期と言ってもいいのでしょう。 "X" Chronicleは、2013年にリリースされたベスト・アルバムですが、SOIL第1期の集大成と言えます。トランペットのダブゾンビとサックスの元晴が吹きまくり、丈青のリリカルな面も持つピアノが小気味よく、疾走感を生むみどりんのドラムと秋田ゴールドマンのベースが挑発的で、社長のアジテーションもキレがあります。しかし、いかに客が求めるからといって、全力で”SUMMER GODDESS”や”crush!”ばかり演奏していたら、さすがに疲れるだろうな、とは思います。

2017年には、丈青の指が悲鳴を挙げたこともあり、SOILの本格的な活動再開は、2018年になりました。サックスには、客演という形で栗原健が参加します。図太い音のテナー・サックスは面白いのですが、元晴のような疾走感はなく、当初は、かなり違和感がありました。同時に、SOILサウンドは、落ち着いたものへと変化していきます。SOILらしさも残しながら、アメリカのブラック・ミュージックの新しい流れも感じさせ、あるいはオーセンティックなジャズのカバーもしたりと、より都会的な音楽へと進化します。象徴的なのは、ダブゾンビのトランペットです。シンプルなブロー系から、より幅広い音楽性を感じさせるようになりました。それはそれで面白いのですが、オールド・ファンとしては、やはり爆音と疾走感を求めてしまいます。

SOILが、青山のブルーノートに初登場したのは、2015年頃と記憶します。印象に残るライブでした。いつものクラブでのライブよりは、疾走感に欠け、やや上品に聞こえました。ライブの最後に、メンバー全員が、一言づつ、ブルーノート初演の感想を語っていました。そんなことは、SOILに限らず、普通、誰も行いません。あこがれのビッグ・ネームたちの演奏を、観客として聞きに来ていたステージに、自分たちも立てたことに、いたく感動したと言っていました。彼らの話を聞いて、こっちまでホロッときました。いつもとは、やや異なる印象の演奏は、彼らの緊張ゆえだったわけです。ジャズマンたちにとって、ブルーノートはあこがれの聖地であることを、あらためて知らされた一夜にもなりました。(写真出典:tower.jp)

2022年8月9日火曜日

三湖伝説

十和田湖
鹿角郡草木の若いマタギ・八郎太郎は、身の丈6尺を超える大男でした。ある日、仲間2人と山に入った八郎太郎は、飯炊き当番になり、谷川で捕まえたイワナを塩焼きにします。空腹だったので、自分の分だけ、先に食べてしまいますが、あまりの美味しさに、仲間の分まで食べてしまいます。食べ物を平等に分け合うというマタギの掟を犯してしまった八郎太郎は、激しい喉の渇きに襲われます。谷川の水を手ですくって飲みますが、渇きは増すばかり。ついに川をせき止めるように腹ばいになり、水を飲み始めます。八郎太郎は、33夜も水を飲み続け、気がつくと、せき止めた川は大きな湖になり、八郎太郎は33尺の龍に変身していました。龍は、湖深くにもぐり、湖の主となります。

それから数百年後、気仙郡生まれの修行僧・南祖坊(なんそのぼう)は、33回目の熊野詣での際、鉄のわらじを履いて全国を行脚し、わらじの緒が切れたら杖を折れ、その土地を永住の地としてお前に与える、というお告げを受けます。南祖坊が十和田湖に着くと、わらじの緒が切れます。そこで、杖を折り、湖に投げ入れ、経文を唱えます。すると龍が現われ、立ち去れと吠えます。法力で九頭竜に変身した南祖坊は、八郎太郎と7日7晩戦います。最後に、南祖坊が、頭上に法華経8巻を掲げると、8万4千文字の一つひとつが矢となり、八郎に突き刺さります。たまらず八郎は、山中へと逃げ出します。力尽きた南祖坊は入水し、青龍権現となって湖の新たな主となります。

男鹿半島まで逃げた八郎は、川をせき止め、湖を作って住処とします。これが、八郎潟です。その頃、仙北郡神成村に辰子という美しい娘がおり、観音菩薩に永久の美を願います。すると、ある泉の水を飲めというお告げがあります。泉の水を飲んだ辰子は、激しい渇きを覚え、もだえ苦しんだ末に、龍へと姿を変えます。辰子は、泉をせき止めて田沢湖を作り、住処とします。八郎潟の主となった八郎太郎は、辰子に惹かれ、二匹の龍は、冬場、田沢湖で暮らすようになります。半年、主のいない八郎潟は浅くなり、二匹の龍が住む田沢湖は、深さを増し、冬にも凍結しない湖になります。これが、三湖伝説のあらましです。ちなみに、田沢湖は、水深日本一の不凍湖です。

三湖伝説には、多くのヴァリエーションが存在し、様々な研究も行われています。もともとは、南祖坊と八郎太郎との争いの話であり、八郎潟と田沢湖の話は後付けとも言われます。十和田湖畔にある十和田神社は、スサノオ、ヤマトタケルを祀っていますが、もともとは南祖坊、後の青龍権現を祀っていたようです。創建は、大同2年(807)と記録されます。いわゆる”大同2年の謎”で言われるように、蝦夷を平定した大和朝廷が、山伏たちを関東以北に派遣し、各地の神社仏閣を大和朝廷体制下に組み込んでいった時期と考えられます。南祖坊が大和を象徴し、八郎太郎が蝦夷という見方もできます。915年と推定される十和田湖のカルデラ噴火が、南祖坊と八郎太郎との争いに擬されたという説もあります。また、天台系と真言系の修験者の争いとする説もあるようです。

かつて十和田湖は、熊野、日光に比肩する霊山だったようです。江戸期、十和田湖全域を所領していた南部藩は、山岳信仰の霊場として、厳しく入山を管理していたようです。興味深いことに、南部藩は、天台系の行者以外の立ち入りを禁じ、真言系や出羽三山系の行者は、遠くから礼拝するしかなかったと言います。南祖坊と八郎太郎との争いとは、霊山十和田湖を巡る天台系と真言系の主導権争いであり、敗れた真言系が秋田・津軽方面に逃れ、八郎潟と田沢湖の話を付け加えたのかも知れません。南部藩が、隣接する津軽や秋田と敵対関係にあったことは、よく知られています。平安期の修験道は、多少の胡散臭さも含めて、なかなか興味深いものがあります。(写真出典:jafnavi.jp)

2022年8月8日月曜日

野球帽

渋野日向子
ゴルフをする時、皆さん、なぜかベースボールキャップを被っています。日差しを避ける効果なら、他の帽子でもいいはずです。ゴルフ場では、安全のために帽子の着用が求められますが、野球帽とは特定していません。さらに言えば、昔のゴルフの写真に写っている帽子と言えばハンチングです。ハンチング帽は、19世紀半ば、英国で誕生しています。”Hunting cap”ですから、まさに狩猟用ということになります。かつて、上流階級の帽子と言えばシルクハットでした。ただ、狩猟や乗馬の際にはズレたり、脱げやすいので、より実用的なハンチングが、屋外でのスポーツ用として考案されました。手軽さゆえに、日常的な帽子として庶民の間にも広がり、20世紀半ばくらいまでは、大人気でした。

一方、野球帽ですが、これはさすがに野球が起源ということになります。ただ、これも日よけと安全性以外、とりわけ野球というスポーツに特化した機能を持っているわけではありません。つまり、帽子なら何でもよかったわけです。現に、アメリカで野球の原型が誕生した頃、被っていた帽子は、麦わらのカンカン帽や、ハンチングの一種であるキャスケット帽、あるいは安全性を考慮したのか競馬のジョッキー用の帽子等だったようです。1860年頃、ブルックリン・エクセルシオールというチームが採用した帽子が、野球帽の原型だとされます。南北戦争時の軍帽とジョッキーの帽子を組み合わせたものだったようです。また、より軍帽に近いピルボックス型、今のワークキャップに近いものもあったようです。

野球は、南北戦争時の兵士のリクレーションとして全米に広まっていきました。軍帽と野球との関連は、ここにあったわけです。そして、ルールが統一される際、チームは同一の服装を着用することが定められ、野球帽が定着しました。1940年頃には、現在の野球帽の形ができあがったようです。そして、アメリカにおいて、野球帽は、野球以外の場面においても着用されるようになり、ハンチングを押しのけていくわけです。その転換が進んだ最大の理由は、価格だと思われます。野球帽は、ハンチングに比べて、製造工程が簡単で安価だったわけです。1970年代になるとトラッカー・キャップが普及します。野球帽の前面をフォーム製にして、トラックや農機具メーカーのロゴを入れたキャップが、ノベルティとして配られ、一気に普及します。

ゴルフの話に戻ると、一体、いつ頃から、野球帽が主流になったのか、どうもはっきりしません。ちなみに、マスターズの古い写真などを見てみますと、1950年代は、まだハンチングの時代だったようです。ベン・ホーガンなどは典型なのでしょう。またサム・スニードは、パナマ帽がトレードマークでした。60年前後になると無帽のプレイヤーも多いように思えますが、帽子としては、ハンチングよりも野球帽が多くなっています。ただ、あくまでもアメリカでの話であり、イギリスでは、まだハンチングが主流だったのでしょう。もちろん、一流ゴルフ・プレイヤーが、安価ゆえに野球帽を選択したとは思いません。フィット感の良さに加えて、社会的に、あるいはスポーツ界において、野球帽が市民権を得たからなのでしょう。

NYの人たちは、農民を”Baseball Caps”と呼んでいました。小馬鹿にした言い方ですが、確かに、アメリカの田舎では、農民に限らず、皆、野球帽、正確に言うとノベルティのトラッカー・キャップを被っています。日本でも、70年代以降、同じ現象が起き、農民は、クボタかイセキの野球帽を被るようになりました。それ以前は、菅笠、あるいは手ぬぐいでほおかむりというイメージでした。農業の機械化が進んでいないヴェトナムの農民は、今も菅笠を被っています。ちなみに、”Baseball Caps”と似た言葉に”Red Necks”という言い方もありました。こちらは、アメリカ北部の人たちが、南部の農民や肉体労働者を蔑む言葉です。南部の強い日差しのなかで労働しているので、首が赤く焼けているというわけです。(写真出典:news.yahoo.co.jp)

2022年8月7日日曜日

忠犬シロ

秋田犬
かつて、鹿角市草木に佐多六というマタギがいました。佐多六の家は、代々続くマタギで、源頼朝の富士の巻狩での働きが認められて下賜されたという、日本中のどの山でも狩猟ができる免状を持っていました。ある冬の日、佐多六は、愛犬シロと山に入り、大きな鹿と出会います。佐多六の打った銃弾は、鹿に当たります。ところが、鹿は血を流しながらも逃げます。佐多六とシロは、これを追って、山中深くへと入っていきます。いつしか鹿角郡を離れ、三戸郡に入っていた佐多六は、土地の猟師たちに見つかり、密猟を疑われます。その日に限って、佐多六は免状を持参していませんでした。佐多六は、三戸城下の牢に入れられます。

密猟、密漁は重い罪でした。密漁を繰り返した男が、生きたまま簀巻きにされ海に沈められたという話がベースになっている能楽「阿漕」があるくらいです。賢い猟犬だったシロは、主人の危機を察し、草木の家へと駆け戻ります。山に入って3日も戻らぬ佐多六を心配していた家人は、シロの興奮状態を見て、いつもなら猟に持参する免状が神棚にあることに気づきます。竹筒に入れた免状を首につけられたシロは、再び三戸城下へと急ぎます。主人のいる牢にたどりついたシロでしたが、佐多六は、既に処刑されていました。シロは、城下を見下ろす丘のうえで、いつまでも遠吠えを続けたと言われます。その丘は、いまでも犬鳴森と呼ばれているとのことです。

鹿角・三戸間には、来満峠を越す鹿角街道がありました。盛岡に城を築く前、南部氏は、三戸城を拠点としていました。鹿角街道は、南部氏の領地の一部であった鹿角との行き来のため、そして尾去沢鉱山で産する銅を陸奥湾の野辺地港へ運び出す道として活用されていました。尾去沢鉱山は、708~1978年、約1300年間に渡って、銅と金を産出した鉱山です。ただ、鹿角街道は、冬場、雪が深くて往来できなかったようです。佐多六の家のあった草木から三戸までは、約60km。シロは、これを二度往復したという説もあるようです。佐多六亡き後、家族は、シロを連れて、秋田藩領内、大館の葛原に移り住みます。葛原の人々も賢いシロを大事にし、亡くなったシロを埋葬した地に老犬神社を建て、今に伝わります。

しかし、この話、多少、疑問に思える点があります。佐多六は、三戸で密猟を繰り返した常習犯でもなく、捕まった時には獲物を持っていない未遂犯だったこと、あるいは同じ南部氏領内での事案だったことを考えれば、即刻、打ち首は厳しすぎる処分のように思えます。南部氏は、甲斐源氏の加賀美氏の末裔であり、室町期には、三戸を拠点に陸奥北部に権勢を振るいます。ただ、津軽氏との争いや内部抗争もあり、不安定な政権だったようです。1591年には、南部氏のお家騒動と言える九戸政実の乱が起こります。苦境に立たされた南部氏ですが、豊臣秀吉の力を借りて、これを平定しています。南部氏危機存亡の時にあって、運悪く捕まった佐多六は、密猟者ではなく、九戸氏の間者と疑われ、嫌疑を晴らせぬまま斬首されたのではないでしょうか。

シロの犬種はマタギ犬とされています。マタギ犬は、アイヌ犬を祖先とする猟犬であり、津軽犬、岩手犬などの総称だったようです。清和源氏の流れを組む名門佐竹氏は、関ヶ原の戦いのおり、家中の意見をまとめられず、一兵も動かしませんでした。それをとがめた家康によって、佐竹氏は秋田に移封されます。佐竹氏は、将軍家を恐れ、強兵に勤めますが、その一環として闘犬を奨励します。そのなかで、マタギ犬に他の雑種を掛け合わせた秋田犬が生み出されました。渋谷の忠犬ハチ公は秋田犬です。ハチ公は忠犬シロの末裔だったわけです。(写真出典:scienceportal.jst.go.jp)

2022年8月6日土曜日

パンケーキ

Eggs’n Things
ホットケーキを、アメリカではパンケークと呼ぶことを知ったのは、NYに赴任した時でした。パンケーキと言えば済むものを、なぜ、わざわざホットケーキに変えたのでしょう。ソーイング・マシンがミシンになるくらいなら許せますが、妙な工夫を加えた和製英語は、日本人の英語力を低くする一因になっているとも思います。ホットケーキの場合、犯人ははっきりしています。1923年、日本橋の三越百貨店が、食堂で「ハットケーキ」として売り始めたことがきっかけだったようです。その後、1931年には、ホーム食品が、ホットケーキの粉「ホームラック(無糖ケーキミックス)」を家庭用に発売 しています。ホットケーキが、日本に定着したのは、1957年、森永製菓が発売した「森永ホットケーキの素」によるところが大きいようです。

パンケーキは、フライパンで焼くことからパンケーキと呼ばれますが、三越は、単に温かいというだけではなく、ブレッドのパンとの混同を避けるために、ハットケーキと命名したのではないかと思います。また、日本では、永らくホットケーキは甘いものとして知られていましたが、これは森永ホットケーキの素が砂糖を入れていたからだそうです。いずれにしても、日本では、独特の”ホットケーキ”文化が発達したわけです。変化が起きたのは、1970年代以降の海外旅行ブームからではないかと思われます。欧米では、パンケークと呼ぶこと、朝食のメニューであることが認識されたわけです。そして、2008年、鎌倉の七里ヶ浜にオープンしたシドニーのBillsが火付け役となり、2010年、ホノルルのEggs’n Thingsが原宿に出店すると”パンケーキ”ブームが起こりました。

Eggs’n Thingsのパンケーキは、大量の生クリームとフルーツで有名になりましたが、実は生地にナッツの粉が入り、独特の風味を生んでいるところが最大の魅力だと思います。以降、極厚のパンケーキも人気を集めるようになりました。そもそも、パンケーキの歴史は古く、古代エジプトでは、既に焼かれていたようです。日本ではアメリカ式が中心ですが、世界各国には、それぞれのパンケーキが存在します。フランスのガレットも、その一つでしょう。アムステルダムには、パンネクックと呼ばれるパンケーキがあります。ダッチ・パンケークとも呼ばれています。ベーキング・パウダーを使っていないこと、油が多いことが特徴です。アムステルダムでパンネクックを食べた時に、私が思い出したのは、台北名物の葱餅でした。似ているどころか、同じ食べ物と言っても過言ではありません。

ドイツ風パンケーキもあります。ジャーマン・パンケークとも呼ばれますが、アメリカでは「ダッチ・ベイビー」として知られます。ダッチ・ベイビーは、ダッチ・パンケークとは大いに異なり、ポップオーバー系です。ダッチとは”オランダの”という意味ですが、アメリカでは、昔、ドイツもダッチと呼んでいたようです。恐らくドイッチュからの発想なのでしょう。ダッチ・ベイビーの発祥は、1900年頃、シアトルのManca's Cafeだとされます。ダッチ・ベイビーという不思議な名称は、店の主人の娘が付けたということです。少女が、何を思って、そう命名したのかは分かりませんが、一般名詞として定着したわけです。ダッチ・ベイビーもポップオーバーも、イギリスのヨークシャー・プディングが起源だとされています。ヨークシャー・プディングは、ローストビーフの付け合わせとして有名ですが、18世紀には、既に食べられていたようです。

ホノルルのイリカイ・ホテルは、いつの頃か、建て替えて、モダンな高層ホテルになりました。かつては、低層の趣きのある古いホテルでした。泊まったことはありませんが、朝食を食べるために、何度行きました。隣のヒルトン・ラグーンを借景したような庭で食べる朝食は気持ちが良く、何よりも丸っぽく膨らませたポップオーバーが絶妙でした。以来、私は、ポップオーバー・ファンになりました。粉砂糖をかけた見た目は、ハワイ名物でもあるポルトガル風ドーナッツ”マラサダ”のようでもありました。新しくなったイリカイの朝食に、ポップオーバーはありません。残念。あのポップオーバーが、また食べたいと、いつも思っています。(写真出典:dtimes.jp)

2022年8月5日金曜日

紀伊國屋文左衛門

「沖の暗いのに白帆が見ゆる あれは紀の国みかん船」とは、かっぽれの一節ですが、もともと江戸に伝わる俗謡だったとも聞きます。元禄の頃、一代で巨万の富を築いた豪商・紀伊国屋文左衛門を謡っています。江戸では毎年11月8日、市中の鍛冶屋や鋳物師たちが ”ふいご祭”という神事を行っていました。その際、恒例として、ミカンをばら撒いたものだそうです。当時、江戸のミカンと言えば、紀州から船で運ばれていました。ところが、その年に限って、10月から海は荒れたままで船が出せず、江戸ではミカンが入手できず、紀州では大豊作だったミカンが余るという状況に陥ります。

紀州和歌の浦で廻船問屋を営む紀伊国屋文左衛門は、親の代から困窮を極めていましたが、かかる状況下、一発、大勝負をかけます。舅から資金を借り受け、質に入っていた船を請け出し、ミカンを格安で仕入れます。船には船員も必要です。遭難して生き残った土左衛門の千八と呼ばれる剛毅な船頭がいました。紀伊国屋は、荒海へ漕ぎ出すことを賭けて、千八と博打をして勝ちます。10月28日、風が西に変わり、いよいよ漕ぎ出したミカン船は、荒れ狂う難所を越えながら、11月1日、まんまと江戸に入ります。捨て値で仕入れたミカンが、高値で飛ぶように売れます。命を元手の大勝負に勝った文左衛門は、大きな富を得ました。紀伊国屋文左衛門のミカン船という話ですが、どうも、これは幕末の頃の創作だったようです。

当時の船と航海技術からすれば、嵐の太平洋航路など、あり得ない話です。北前船が、江戸期の主流になったにはわけがあります。文左衛門の実在そのものを疑問視する声もありますが、一方、政商として、材木を商ったり、銭の鋳造を請け負ったりした記録も残っているようです。幕府の要人に取り入り、一代で財を成した豪商がいたことは事実なのでしょう。ただ、銭の鋳造に失敗した文左衛門は没落します。困窮のうちに死んだとも、それでも残った財で文化人として暮らしたとも言われます。跡取りは、凡庸な人で、紀伊國屋はほぼ一代で消滅、文左衛門につながる家系は確認できないようです。

ただ、この希代の豪商にあやかろうと、紀伊国屋を名乗る店や会社は、今も多くあります。有名どころでは、紀文食品、紀伊國屋書店、スーパー・マーケットの紀ノ国屋等があります。書店の紀伊國屋は、創業者の田辺茂一の先祖が、紀伊徳川家の江戸藩邸に勤める足軽だったことから命名したようです。紀文の場合、昭和初期、日本一の商人を目指して、山形から上京した保芦邦人が、豪商にあやかろうと命名したようです。そのくせ、周囲から「紀伊国屋さん」とさん付けで呼ばれることに抵抗を感じ、親しみやすい「紀文」に変えたのだそうです。紀伊国屋は、思わずさん付けするほどリスペクトされたブランドであり、しかも誰もが使えたブランドだったわけです。もはや紀伊国屋文左衛門の実在性など問題ではないように思います。

実は、ミカン船には、後日談があります。ある年、大阪で大洪水が起こり、伝染病が蔓延します。これを商機とみた文左衛門は、江戸中の塩鮭を買い占め、大阪に持ち込みます。そして、流行り病には塩鮭が一番、という噂を流します。案の定、塩鮭は、飛ぶように売れたというわけです。ミカン船は、いかにもといった作り話ですが、塩鮭の話は、一代で財を成すような商人ならあり得る話であり、妙に真実味を感じます。豪商にあやかり、今も紀伊国屋を名乗る企業の皆さんなら、塩鮭の話も、当然、知っているはずです。あこぎな塩鮭の話を、どのように思っているのでしょう。(写真:江東区成等院にある文左衛門の墓 出典:kikaku-sembei.co.jp)

2022年8月4日木曜日

テキサス・レンジャー

テキサス州旗「ローンスター」は、テキサン(テキサス人)の結束と独立心の象徴です。テキサス革命で、メキシコからの独立を勝ち取ったテキサンは、1836年、テキサス共和国を樹立させ、ローンスターを国旗と定めます。1845年、共和国は、アメリカ合衆国に参加し、テキサス州となります。ただ、南北戦争時には、合衆国から独立し、アメリカ連合国、いわゆる南軍に参加します。アメリカは、合衆国だけあって各州の独立性は高いのですが、テキサスは、独立国の気概を持ち続けている唯一の州だと言えます。テキサス・ローンスターは、その象徴です。同様に、テキサンのプライドを示しているものの一つに、テキサス・レンジャーがあります。

テキサス・レンジャーは、アメリカで最も古い州法執行官であり、現在は、テキサス州公安局に所属しています。簡単に言えば、警察官ですが、アメリカの場合、警察機構は、各州の権限によって構成されるので、州によって大きく異なります。基本は、郡などの自治体が選出した保安官が、法執行機関の長として、警察組織を指揮します。保安官制度は、英国の伝統を継承しており、シェリフ、マーシャル、コンスタブルといった呼び方があります。ただ、郡単位だけだと、州法の執行が担保されないので、州保安官、州警察、州保安局などが設置されます。テキサス・レンジャーも、このレベルに位置づけられます。

テキサス・レンジャーの歴史は、1821年にメキシコ領内へ入植したスティーブン・オースティンにはじまります。オースティンは、アメリカ人のテキサス入植を推進した人で、テキサスの父とも呼ばれます。入植者たちは、しばしばネイティブ・アメリカンに襲撃されます。もともとは、彼らの土地ですから、当然とも言えます。オースティンは、1823年、10人のボランティアを募って自警団を組織します、これがテキサス・レンジャーの始まりでした。"range"は、範囲を示す言葉ですが、ここでは入植地のことであり、その域内を巡回するといった意味でレンジャーと呼ばれたようです。

テキサス革命時には、騎兵隊として活躍し、3個中隊規模にまでなったようです。共和国が設立されると、警察機能を担うことになります。フロンティアの時代には、州の利権のために、かなりあくどいこともやったようですが、悪人には恐れられ、住民からは一目置かれる存在になります。以降、現在に至るまで、州警察とは別組織として存続しています。レンジャーは、警察官として一定年数の経験を有する優秀者のなかから選抜されるようです。レンジャーは、ボランティアに始まる歴史が重視され、今でも制服はありません。テキサス・レンジャーと言えば、白いテンガロン・ハット、カウボーイ・ブーツ、ガンベルトにコルト・シングルアクション・アーミー銃が定番でした。現在は、ローンスターをあしらった有名なレンジャー・バッジとカウボーイ・ブーツの着用だけが求められているようです。

私の年代にとって、テキサス・レンジャーといえば、なんと言ってもTVシリーズ「ローン・レンジャー」です。1933年に放送されたラジオ・ドラマですが、その後、人気TVシリーズとなり、何度も映画化されています。日本では、1958年に始まるTV放送が大人気となりました。ロッシーニのウィリアム・テル序曲が流れ、白いテンガロン・ハットと黒いアイ・マスクを身に付けたローン・レンジャーが、愛馬シルバーに跨がって登場する姿は、今でも目に焼き付いています。「ハイヨー、シルバー」、「インディアン、嘘つかない」、「キモサベ」等は流行語にもなりました。もっとも「インディアン、嘘つかない」は、日本で勝手に付けた吹き替えであり、アメリカ人に言っても、通用しません。一方、「キモサベ」は、信頼できる親友といった意味で、今でもアメリカ人は使います。(写真出典:texasranger.org)

2022年8月3日水曜日

幻の魚を見たり

和井内貞行
久しぶりの十和田湖で、もっと久しぶりにヒメマスの刺身を食べました。赤味の濃いサーモン・ピンクの身は、柔らかく、甘いのが特徴です。サケ・マスは、寄生虫のリスクがあるので、かつては刺身では食べませんでした。食べるとすれば、アイヌ風に凍らせたルイベだけでした。近年は、サケの養殖が進み、人気の寿司ネタにもなっています。ヒメマスに関しては、陸封型の紅マスであり、海に出ることがないので、もともと寄生虫の心配がありませんでした。いまや十和田湖名物となったヒメマスですが、古くから十和田湖に存在していた魚ではありません。明治後期、和井内貞行が、苦労の末に養殖に成功したものです。

十和田湖は、3万5千年〜1万5千年前の巨大噴火で誕生したカルデラ湖です。田沢湖、支笏湖に次いで、日本第3位の水深を誇ります。十和田湖は、魚の住まない湖でした。カルデラ湖の場合、通常、流出する川を遡上してきた魚が住んでいるものです。十和田湖の場合、唯一の流出川である奥入瀬川に銚子大滝があり、これが魚の遡上をせき止めていたようです。江戸末期から、イワナやコイの放流が行われ、部分的には成功していたようです。和井内貞行もコイの放流から始めていますが、1900年、アイヌ語で言うカバチェッポに出会います。カバチェッポは後にヒメマスと命名されます。日本では、もともと阿寒湖とチミケップ湖に生息し、1893年に北海道庁が養殖を始めています。和井内貞行が購入したヒメマスの卵は、支笏湖に移植されたヒメマスのものでした。

和井内貞行は、1858年、南部藩の毛馬内(けまない)柏崎新城の家老の家に生まれます。武家の子として、戊辰戦争時の秋田戦争での敗北を経験したわけです。奥州越列藩同盟についた南部藩は、新政府についた秋田藩を攻めます。当初、優勢に戦いを進めた南部藩でしたが、新政府の援軍を得た秋田藩に押し戻され、盛岡も新政府軍によって占拠されます。明治になると、廃藩置県によって、毛馬内を含む鹿角郡は、秋田県に編入されます。家老の家柄とは言え、すべてを失った和井内貞行は、教員手伝い、鉱山職員として生計を立てます。27歳のとき、鉱山で働きながら、十和田湖でコイの放流を行い、部分的に成功します。以降、和井内は、養殖にのめり込んでいきます。

コイの養殖に目処がたった頃、地元鉱山が閉山となり、市場を失った和井内は、自身も小坂鉱山へ転勤となります。40歳になった和井内は、鉱山を辞め、故郷での養魚に専念する決心をします。湖畔に旅館と孵化場を整備し、十和田湖観光の宣伝も行います。その後、サクラマス、ビワマス等の養殖に取り組みますが、簡単ではありませんでした。借金まみれとなり、極貧の生活を続けながらも、和井内は諦めることなく、ヒメマスの養殖にチャレンジします。放流したヒメマスが、産卵のために戻ってくるのは、3年後のことだと言います。ある風のない日、和井内は、湖面がさざめき始めるのを見ます。戻ってきた大量のヒメマスでした。和井内は、その感動を「われ幻の魚を見たり」と書き残しています。ヒメマス養殖と十和田湖観光に功績のあった和井内は、後に緑綬褒章を授与されています。

薩長が、徳川を排して、政権を完全に掌握するためには、戊辰戦争は避けて通れないものだったのでしょう。一方、本当に必要な戦いだったのかという疑問も残ります。坂本龍馬は、徳川慶喜も入れた新政府構想を起案したために、倒幕一辺倒の薩摩の陰謀によって暗殺されたという説まであります。奥州越列藩同盟はじめ、朝敵、賊軍とされた各藩の武家の戦後は厳しいものでした。明治期以降、元賊軍の武家に残された道は、教育者か軍人だけだったとも聞きます。和井内貞行が、地元十和田湖での養殖・観光によって産業を興すことにこだわったのは、元賊軍を取り巻く厳しい環境がゆえだったようにも思えます。十和田湖のヒメマスは、戊辰戦争が生んだと言えるのかも知れません。(写真出典:towadako.or.jp)

2022年8月2日火曜日

エンブラエル

FDAのエンブラエル機
フジドリームエアラインズ(FDA)は、2008年に設立され、2009年から運航を開始しています。鈴与100%出資のリージョナル航空会社です。創業220年になる鈴与は、清水港の回漕業から始まった物流大手ですが、業務の幅広さでも有名です。静岡空港開業にあたり、県から要請されたとは言え、8代目鈴木與平会長が、航空業への進出を決めた際には、無謀との声が多くありました。FDA設立前に、当時、社長だった鈴木與平氏から、設立経緯を伺う機会がありました。日本の航空業不振の理由は、燃費の悪い大型機に半分の乗客だけを乗せて飛んでいることだ。燃費の良い中型機を使用することで、採算は見込める。ブラジルのエンブラエルに出会ったことが、航空事業進出の決め手となった、とのことでした。

当時、エンブラエルに関する知識を持っていなかったので、思わず「ブラジルの飛行機ですか?」と聞き返しました。私の頭のなかには、陽気なブラジル人が、サンバでも聴きながら、機体を組み立てている光景が浮かんでいました。鈴木與平氏は、笑いながら、皆、同じ反応をしますが、ご心配なく、ドイツ系移民がドイツの航空技術を継承している会社です、と言っていました。19世紀、ドイツ人は、アルゼンチン、ブラジルはじめ、南米各地に多く移民しています。第二次大戦後、ナチス残党の逃亡を助けたオデッサ機関は、スペイン、アルゼンチン、ブラジル等に逃亡ルートを持っていたとされます。戦前、ドイツが世界に誇った航空技術が、ブラジルで継承されていたとしても不思議はありません。

エンブラエル(Empresa Brasileira de Aeronáutica S.A.)は、1969年、ブラジルの国営航空機メーカーとしてスタートしています。空軍の技術研究所によるバックアップを受け、1972年には、20人乗りの双発プロペラ旅客機「バンデイランテ」の初飛行に成功します。バンデイランテは、500機生産され、日本にも導入されています。ちなみに、日本の翼YS-11の生産数は182機に留まっています。この成功で、エンブラエルは、一躍、世界の航空機製造業の一翼を担うことになりました。その後、湾岸戦争の煽りも受けて経営は悪化、1994年には民営化されています。1990年代から、エンブラエルは、小型・中型のジェット旅客機を開発します。折しも、世界中の航空会社が、そのカテゴリーの航空機を求めていました。

FDAが使用する機体は、76席のERJ170、86席のERJ175です。このERJシリーズの成功によって、エンブラエルは、カナダのボンバルディアを抜いて世界第3位の航空機メーカーとなりました。エンブラエルは、ブラジル最大の輸出企業でもあります。いまやブラジルは、コーヒーとサンバと飛行機の国だと言うべきです。エンブラエルの成功に比べ、三菱スペースジェット(旧MRJ)の現状のなんと悲しいことかと思ってしまいます。2008年に国家プロジェクト化されましたが、開発は遅れに遅れ、現在は、事実上の凍結状態となっています。何がエンブラエルと違ったのか知りたいものです。結果的には、技術力の差なのでしょうが、そればかりでもないように思えてなりません。

皆が心配したFDAでしたが、その後、順調に推移しています。静岡、小牧、神戸を運行拠点とし、地方空港間を飛ぶリージョナル路線を拡大中です。東京の人は、FDAになじみが薄いのでLCCと勘違いしがちですが、立派なフルサービス・ライナーです。機材も増加を続けています。あらためて、8代目鈴木與平氏の慧眼に敬意を表します。一度、FDAのエンブラエル機に乗ったことがあります。どんなものか、興味津々で搭乗しましたが、さすがに他機との乗り心地の違いまでは分かりませんでした。ただ、どことなくカチッとした印象を受け、車で言えばBMWのタッチに近いものを感じました。もちろん、ドイツ系と聞いたから、そう思っただけのことでしょうが。(写真出典:flyteam.jp)

2022年8月1日月曜日

「モガディッシュ」

 監督:リュ・スンワン     2021年韓国

☆☆☆+

スピード感があり、迫力もあり、実によくできたエンターテイメント映画だと思います。文在寅政権時代には、「タクシー運転手」、「国家が破産する日」、「1987」、「KCIA」など、青瓦台肝いりと思われるプロパガンダ系映画が製作されました。どれもレベルの高いエンターテイメントであり、大ヒットしました。テーマは二つありました。一つは、保守勢力はひどい、今一つは、南北は仲良くしましょう、ということです。本作は、文在寅政権最後のプロパガンダ系であり、南北融和を主題とする映画です。ただ、これまでのプロパガンダ系とは、やや異なる風情を感じます。

本作は、実話に基づいているようです。1980年代、国連加盟をねらう北朝鮮と韓国は、大票田アフリカで、互いに牽制・妨害しながら外交活動を展開します。1988年から内戦状態にあったソマリアの首都モガディッシュ(モガディシオ)でも同様でした。1991年12月、アイディード将軍率いる反政府勢力がモガディッシュに侵攻、北朝鮮と韓国の大使館も攻撃を受けます。北朝鮮は大使館を放棄、大使館員と家族は、結果的に韓国大使館に保護される事態となります。韓国大使館員は、イタリアの救援機で国外へ脱出できることになりますが、イタリアと国交のない北朝鮮大使館員は、キャパの問題から搭乗を拒否されます。韓国大使は、北朝鮮大使館員が南に転向したと偽り、両国大使館員は、全員、国外脱出を果たします。

リュ・スンワン監督は、韓国のタランティーノとも呼ばれ、アクション映画に冴えを見せてきました。個人的に印象に残っている作品は「生き残るための3つの取引」(2010)です。ただ、圧倒的な展開力はあるものの、どこか作品としての完成度に欠けるきらいがありました。ところが、本作では、小気味よいテンポとテーマへの集中度が、最後まで途切れることがなく、完成度の高い作品となっています。戦時下の国からの脱出という緊張感あふれるフレームに、極限状態における南北の政治的対立と民族としての共感性という要素が加わり、深みのあるプロットが生まれています。あくまでも政治ではなく個人に視点を置いていることが、多くの韓国人の共感を得たのだと思います。

モガディッシュが舞台の映画と言えば、なんといってもリドリー・スコット監督の「ブラックホーク・ダウン」(2001)が挙げられます。本作のドライでリアルな映像には、ブラックホーク・ダウンの影響を色濃く感じます。ロケ地も、同じくモロッコだったようです。ブラックホーク・ダウンはアカデミー音響賞を獲っていますが、本作の音響、とくにカラシニコフの銃声がリアルで、印象に残りました。ソマリアでは、1988年以降、カラシニコフの銃声が絶えることなく、今に至ります。バーレ将軍の腐敗した独裁政権が、モガディッシュ陥落で倒れた後は、反政府勢力間での争いが起こります。内戦は今も続き、長い間、国としての体を成していません。また、北部のソマリランドは事実上の独立国家にまでなっています。

プロパガンダとエンターテイメントの組み合わせは、危険な化学反応を起こします。文在寅政権は、左翼らしい狡猾さをもって、映画界をコントロールしたように思います。青瓦台からの指示や圧力があったかどうかは知りません。ただ、少なくとも、忖度が働く環境にあったことは間違いないと思います。共産主義の問題点のひとつは空想的な理想論です。文在寅の北寄りの政策は、具体的に何を目指しているのか、まったく不明でした。分断解消に反対する人はいないと思います。ただ、王朝維持を政治目的化した指導者、そして運命を共にする取り巻き官僚で構成される政権と、いかに統一するのかという具体策は見えないままでした。ヴィジョンがないままの交流拡大は、王朝を利するばかりと言えます。本作は、さりげなく統一の難しさを示唆している点で、これまでのプロパガンダ系と異なっていると思います。(写真出典:filmarks.com)

夜行バス