2022年11月30日水曜日

秋田城址

秋田城址
秋田県を訪れて驚くことの一つは、海岸線を埋め尽くす無数の風力発電機です。これほどまでに風力発電機が林立する光景は見たことがありません。その巨大さもあり、どこかジブリのアニメーションに出てきそうな光景にも思えます。調べてみると、風力発電機の設置数は、青森、秋田、北海道の順に多く、この三道県が群を抜いています。恐らく、設置場所の集中度では、秋田県が一番ではないかと思います。秋田市の風力発電機群を見下ろす小高い丘に秋田城址はあります。秋田城といっても、佐竹氏の居城であった久保田城のことではありません。ちなみに、久保田城跡は、現在、秋田市の中心部に千秋公園となって残ります。

秋田城は、733年に大和朝廷が築いた城柵です。朝廷は、8世紀初頭、現在の山形県庄内地方に出羽柵を築き、蝦夷征服の拠点とします。後に出羽柵は、秋田へと進出し、760年頃には秋田城へと改変されます。出羽柵が担っていた国府としての機能も引き継がれていたようです。秋田城は、朝廷による蝦夷征服の最北端の拠点となります。城柵は、蝦夷征服を目的に、新潟から北に設置されました。兵が駐屯する軍事基地であると同時に、官衙と呼ばれる政治・行政機能を持ち、あるいは柵戸と呼ばれる住民も抱えていたようです。7世紀中盤には、新潟県に渟足柵、磐舟柵が置かれ、徐々に北上していきます。よく知られる宮城県の多賀城は、724年に、陸奥国府も兼ねて設置されています。

興味深いことに、日本海側は、秋田城が最後の城柵設置であり。その北へは進出していません。一方、太平洋側は、多賀城の後も、北へ北へと城柵の築城は続きます。日本海側よりも略奪したい物産も多く、蝦夷の数も多く、抵抗も強かったということなのでしょう。奈良時代から平安初期まで断続的に続いた、いわゆる”38年騒乱”は、太平洋側で断続的に続いた蝦夷の反乱です。38年騒乱の終結をもって、朝廷による蝦夷征服は完了しています。802年には、胆沢のアテルイとその母モレが、坂上田村麻呂に降伏しています。ここが事実上の分岐点だったのでしょうが、城柵設置は、その後も北へと展開し、岩手県中部の志波城、徳丹城等が作られています。

秋田城は軍事・行政拠点ですが、どうやら交易拠点としての要素が大きかったようです。秋田城に、蝦夷の反乱は記録されていません。つまり、ここでの蝦夷はビジネス・パートナーだったのでしょう。また、海を隔てた渤海との交流も確認されています。”続日本紀”には、渤海使の秋田城への来訪が数回記録されていますが、正使以外の交易も相当多くあったものと想像できます。日本海側の交易に対して太平洋側の征服という構図は、恐らく鉱山の有無によるものだったと思われます。加えて、日本海には、西風を受けながら舟で航行する交易ルートが、縄文時代からありました。当時の舟や航海技術では、難所の多い太平洋を航行することは難しかったようです。安全な陸路を確保するためには、征服は避けて通れない選択だと思います。

渤海使も、当初は、カムチャッカ半島、北海道の沿岸沿いに、西風を受けながら南下し、秋田城に至ったものと想定されています。当時の渤海は、唐・新羅と対立しており、朝鮮半島沿いに日本を目指すことは危険だったのでしょう。後に、渤海使は、西日本の港へ着くようになります。新羅との関係が改善し、半島沿いのルートが使えるようになったからだと考えられます。渤海との交易としては、下北半島の十三湊も知られていますが、秋田城よりやや後の時代だったようです。いずれにしても、秋田城は、大和朝廷による蝦夷征服というストーリーではなく、蝦夷・アイヌ、そして渤海との交易という枠組みのなかで考えるべき城柵なのでしょう。縄文時代から続くとも言われる北方交易は、実に興味深いテーマだと思います。(写真出典:kotobank.jp)

2022年11月29日火曜日

象潟

松尾芭蕉が「おくのほそ道」の行脚に出たのが、1689年。西行の500回忌にあたり、西行が訪れたみちのくの歌枕を巡ろうという旅でした。150日間、2,400kmという長旅でした。その最北の到達点が秋田県の象潟(きさがた)でした。かつては、内海に多数の小島が浮かぶ景勝地であり、東の松島、西の象潟と呼ばれました。平安期には、中古三十六歌仙の一人・能因法師が訪れす。その絶景に心を奪われた能因は3年間も逗留し「世の中はかくても経けり象潟の海士の苫屋をわが宿にして」と詠んでいます。鎌倉時代には、漂白の歌人・西行が訪れ「きさかたの桜は浪にうづもれて花の上こぐあまのつり舟」と詠んだことから、芭蕉のみならず、小林一茶、与謝蕪村なども訪れた俳人あこがれの地だったようです。

芭蕉は、象潟を「松島は笑ふが如く、象潟はうらむが如し」と評しています。芭蕉は、松島で絶景に感動し、一句も詠めなかったとされます。あるいは、あえて「おくのほそ道」には一句も掲載しないことで、松島を絶賛したのかも知れません。ただ、象潟では「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠んでいます。突然の西施ですが、芭蕉は、松島を中国の洞庭湖や西湖に負けないと評しています。象潟でも似たような感想を持ったものの、松島とは異なる印象を、西湖や太湖にゆかりの西施に託したのでしょう。秋田の県南地方は、小野小町はじめ、美人の産地としても知られます。美人を多く目にして、西施を思い浮かべたのではないかというのは、さすがに下衆の勘ぐりなのでしょう。

起源前5世紀、鳥海山の噴火によって流れ出た土石が日本海を埋め、広大な内海と多数の小島から成る象潟の絶景を形成したようです。ただ、1804年、地震によって海底が隆起し、象潟は陸地になります。私たちは、西行、芭蕉が目にした絶景を見ることはできず、ひたすら想像を働かすだけです。ただ、田んぼや湿地に点在する多くの小山から、容易に当時の様子を思い浮かべることができます。道の駅「ねむの丘」6階にある展望塔から、象潟と、その南に雄大な姿を見せる鳥海山を眺めれば、今でも十分以上に見事な景色だと思います。道の駅からほど近い島(?)に、853年開山という蚶満寺(かんまんじ)があります。司馬遼太郎も、「街道をゆく」のなかで、戦友だった蚶満寺住職を訪ねています。

象潟が陸地化すると、本荘藩は、干拓を進め、これを新田にしようとします。石高2万という小藩の判断としては理解できる話です。ただ、実際には、塩分がきつくて、簡単に稲は実らなかったものと想像できます。藩の計画に対し、文人ゆかりの景勝地を守るために猛然と反対したのが、蚶満寺住職・全栄覚林でした。覚林は、自ら工作し、象潟を閑院宮家の祈願所とします。いわば朝廷の威を借りて、本荘藩の新田開発に待ったをかけたわけです。藩の意趣返しを恐れた覚林は、上野の寛永寺に逃れます。ただ、藩によって冤罪で捉えられ、獄死しています。今、私たちが象潟の絶景を見れるのは、命を懸けて戦った覚林のおかげです。覚林は日本初の環境保護運動家であり、象潟は環境保護運動の聖地だとも言えます。

1963年、象潟は、鳥海山等とともに、国定公園として認定されています。かつては、九十九島と呼ばれていましたが、現在、確認できる「島」は大小合わせて102を数えると言われます。春の田植えのシーズンには、田んぼに水が入り、往時の九十九島を彷彿とさせるそうです。千年を超す古刹・蚶満寺ですが、田舎の古寺といったひなびた風情です。拝観料300円を受け付ける小屋は無人で、たまたま出会った若い住職を捕まえて支払いました。境内には、2匹の猫がおり、私たちについてきました。その鳴き声は、まるで人間が話しているように聞こえ、「ちゃんと拝観料を払えよ」と言っているように思えました。事実、庫裏で住職に拝観料を納めると、猫たちは奥へと入っていきました。(写真出典:nikaho-kanko.jp)

2022年11月28日月曜日

カツ丼

盛岡の東家は、わんこそばの名店です。店内には、いつも、わんこを重ねる軽快な音、わんこの枚数を伝える仲居さんたちの元気な声、そしてお客さんたちの笑い声で溢れています。わんこそばは、フェスティバル・フードだと思います。そもそも東家の蕎麦は、とても美味しいと思います。特に麺つゆは、私の好みです。実は、東家は、カツ丼も美味しいことで知れらます。今般、盛岡で昼食を食べる機会があり、普通に考えれば、盛岡三大麺、冷麺、じゃじゃ麺、わんこそばのなかからチョイスすべきところですが、あえて東家のカツ丼を食べました。やはり、美味いわけです。温かい蕎麦の小椀も付けて、美味しくいただきました。

勝手な持論ですが、カツ丼は、出汁が命だと思います。東家は、麺つゆが美味しいので、カツ丼も美味しくなるわけです。東家に限らず、美味しい蕎麦を出す蕎麦屋のカツ丼は美味いものです。カツ丼の始まりには諸説ありますが、有名なのは、山梨県発祥説と早稲田発祥説です。山梨説は、甲府の蕎麦屋「奥村本店」で、明治末期には、提供されていたという話です。早稲田説は、「三朝庵」という蕎麦屋が、キャンセルされた宴会で余った豚カツを卵とじにしたという話です。面白いのは、いずれも蕎麦屋から始まっていることです。豚カツは、カトレット由来の洋食ですが、カツ丼になると、出汁が登場して、完全な和食になるわけです。

カツ丼は、丼ものの代表だと思いますが、不思議なことにカツ丼専門店は、極めて希です。豚カツ屋があるからだろうとも考えられますが、豚カツの有名店のメニューに、カツ丼はありません。蕎麦屋も、まったく同様です。有名店には、カツ丼というメニューはありません。従って、最近の都心では、カツ丼は簡単には食べられなくなっているのです。また、かつて、カツ丼と言えば、駅前の食堂や住宅街の蕎麦屋の定番メニューでした。ところが、いつの頃からか、駅前には、牛丼やハンバーガーなどの各種チェーン店が軒を並べるようになり、一般食堂や町中華の姿は消えていきました。

昔、家に来客があると、寿司、蕎麦、丼ものといった店屋物をとることが多かったように思います。そういった出前ニーズに応えて、住宅街の蕎麦屋は、カツ丼、天丼といった各種丼もの、そしてラーメンまでもメニューに揃えてあったものです。蕎麦屋のラーメンは、いわゆる中華ラーメン系ですが、あっさりとしたいい味を出していたものです。住宅街の蕎麦屋も消えつつあります。その背景には、家への来客が減ったからではないでしょうか。来客が減少した理由は、複合的なものなのだと思われます。例えば、かつて、中元・歳暮は持参するものであり、正月の挨拶も年始回りが基本でした。また、核家族化が進んだことも背景にあるのでしょう。

いずれにしても、依然、丼ものの頂点にありながら、カツ丼が食べにくくなるとすれば、これは大問題です。ちなみに、カツ丼には、ソースカツ丼なるものもあります。福井、駒ヶ根、会津若松、群馬県などで有名ですが、その起源は、卵とじと同じくらい古いようです。しかし、個人的には、ピンときません。ソースカツ丼が美味しいというのは、単に豚カツが美味しいと言っているのと同じだと思います。出汁によってカツと卵が一体化し、化学反応を起こすからカツ丼なのだと思います。カツを乗せただけでは、料理とは呼べないように思います。実は、人気の海鮮丼にも同じような印象を持っています。(写真出典:momoya.co.jp)

2022年11月27日日曜日

国宝

A.フェノロサ
東京国立博物館で開催中の特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」に行ってきました。1872年に創設された東京国立博物館が、今年、開館150周年を迎えることを記念して、所蔵する国宝89点すべてを一挙公開するという大イベントです。会期が短いこともあり、チケットは入手困難でした。4回に分けてネットで発売されましたが、すべて即完売。入館できことはラッキーだったと言えます。会期中、展示替えが何度か行われ、国宝89点、すべてを見たわけではありませんが、これほど逸品揃いの展覧会もないわけで、実に良い経験をしました。また、国宝だけで構成される第1部の他に、第2部として相当数の重要文化財も展示されていました。

国宝に指定されてる美術工芸品や建造物は、現在1,100件余りあります。文化財保護法に基づき指定された重要文化財1万点のなかで、特に価値の高いものが国宝と指定されます。文化財保護法は、1871年制定の古器旧物保存方、1897年の古社寺保存法、1829年の国宝保存法を引き継いで、1950年に公布されています。明治4年の古器旧物保存方は、廃仏毀釈で破壊された文化財を調査するために制定されました。その調査は、後に古社寺保存法として、古社寺の建造物や文化財のなかで、特に重要なものを特別保護建造物、あるいは国宝に指定して保護することになります。ここで初めて”国宝”という概念が登場することになりました。

言ってみれば、国宝という考え方は、廃仏毀釈が生んだということになります。廃仏毀釈とは、仏を廃して、釈迦の教えを棄てることを意味します。明治政府は、1868年、および1870年に神仏分離令を発出します。天皇を国体とする中央集権国家を目指した薩長政権は、神道を明確に国の中心に据えようとします。ただ、日本には、奈良時代以降、日本の神々は仏や菩薩が姿を変えたものとする本地垂迹説に基づく神仏習合が定着していました。そこで、あらためて神仏分離が打ち出されたわけです。幕末には、水戸を中心に反本地垂迹説が唱えられていたこと、また江戸幕府が仏教を社会管理の枠組みとして使っていたことへの反撥もあったものと思われます。

明治政府の意図は神仏分離でしたが、それを背景に、現地の神官や役人たちは、寺や仏像の破壊へと暴走します。仏教支配に対する積年の恨みがあったのでしょう。廃仏毀釈は、数年で沈静化します。1878年、アーネスト・フェノロサが、東京大学で哲学を教えるために来日します。美術に造詣の深かったフェノロサは、日本の古美術に関心を寄せ、弟子の岡倉天心とともに、各地の寺社を巡ります。廃仏毀釈や文明開化の波に押されていた日本美術の状況に心を痛めたフェノロサは、東京美術学校(現東京芸大)の設立や、文化財の保護に奔走します。古社寺保存法は、その一つの成果であり、その際、国宝という概念もフェノロサが提唱しました。

フェノロサの日本美術への貢献については議論の余地はありません。ただ、人物像となると、やや怪しげなところが見え隠れします。日本国内における猟官はまだしも、文化財保護を訴える一方で、国宝級の美術品を多数購入し、ボストン美術館やワシントンDCのフリーア美術館に売っています。美術品の海外流出の先駆けでもあったわけです。しかも、ボストン美術館の東洋部長におさまり、美術館から依頼された浮世絵目録を、無断で出版し、お払い箱になっています。東洋部長時代の不倫がもとで離婚し、その多額な慰謝料に困っていたという話もあるようです。(写真出典:bunan.jp)

2022年11月26日土曜日

EV

テスラ・ロードスター
2009年、リチウムイオン二次電池を搭載した世界初の量産電気自動車「三菱・i-MiEV」が発売されました。直後に三菱自工のご厚意で、試乗させてもらいました。静かなだけでなく、パワフルな走りに驚きました。特に、坂道を登った時の印象が強く残りました。ガソリン車なら、アクセルを踏み込み、エンジン音を轟かせて登るわけですが、まるで平地と変わらない静かさで、力強く登っていきました。ただし、当時の航続距離は、1回の充電で100km程度と心許ないものでした。その後、2011年に東日本大震災が発生すると、世の流れは、一気に電気自動車へと向かいます。

当時、トヨタは2020年をガソリン車最後の年と決めた、という話が広まっていました。すると、まずは、リチウムイオン二次電池の開発競争が起こります。軽量小型化、そして航続距離を伸ばす競争が繰り広げられ、自動車メーカーと電池メーカーとの様々なプロジェクトが起ち上がりました。一方で、エンジンや変速機関係の下請け会社は、メイン業務が無くなるわけで、他の製品の開発を急ぐことになります。ま、世界中の車がEVに変わるわけでもないのですけどね。EVはブームの兆しを見せていたわけですが、なかなか航続距離は伸びず、車両価格は高価、さらにはリチウムイオン電池の安全性が取り沙汰されたこともあり、言うほどの進展はありませんでした。

EV化の流れを大きく変えたのは、テスラ社の快進撃だったと思います。テスラ社は、2003年に創業していますが、スペースX社のイーロン・マスクが中心となって巨額の投資を集めます。2008年、イーロン・マスクがCEOに就任すると、高級EVスポーツ・カー「ロードスター」が初の量産車として発売されます。ロードスターは、生産台数が少ないものの、EV界の起爆剤になったと言えます。その後も、続々と新車を投入、航続距離も650kmまで伸ばしています。テスラの成功によって、世界の大手自動車メーカーもEVを発表、他産業からの参入も相次いでいます。しばらくの間は、ガソリン・エンジンと併用するハイブリッドが中心になると思われていましたが、テスラの快進撃が、EV化を一気に進めたように思われます。

EVのメリットは、もちろん脱炭素ということではありますが、他にも多くあります。ランニング・コストが安い、エンジンや変速機が不要なため部品数や消耗品が大幅に少ない、モーターはエンジンよりも小さく関連部品もないのでスペースを広くとれる、モーター駆動なのでワン・ペダルでの運転が可能、モーターはスタート時から最大トルクを発生する、バッテリーを床下に置くため車体が安定する等々です。一方、問題としては、バッテリーの容量、つまり航続距離の問題があります。これは、社会インフラとの関係もあります。ガソリン・スタンドに比べ、充電ポイントは、まだまだ少ないのが現状です。また、1回の充電に要する時間が、まだまだ長いことも課題だと言えます。

車体をソーラー・パネルで覆い、タイヤの回転から発電し、なんなら風車までつけて走れば、永久運動が可能なのではいか、とトヨタの人に言ったことがあります。そんな程度の発電量で、車を駆動させることはできないと言われました。太陽光、風力など代替エネルギー系は、発電効率が悪いのだそうです。だとすれば、いかにEVがエネルギー効率が良いとしても、元の電力供給が代替エネルギー系に置き換われば、非効率、あるいは電力不足に陥るのではないかと心配してしまいます。いずれにしても、EVは、ようやく幼稚園に入園したくらいなのではないでしょうか。我が家の車も買換えの時期を迎えているのですが、まだEVという選択肢はないと思っています。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2022年11月25日金曜日

英会話教室

小学校6年生の頃、自分で漫画を書いてみたことがあります。絵のなかに英語を書き入れたくなり、父親に教わりました。それが気に入ったことと、仲のいい友達が英語塾に通っていたこともあり、自分も塾に行きたいと親に頼みました。目的を見透かされているので、父親から、そんなに英語を習いたいなら、とりあえず俺が教えてやる、それでも行きたいというのなら、中学生になったら行かせてやる、と言われました。実際、父親は、近所の中学生からもらった英語の教科書を使って、英語を教えてくれました。おかげさまで、私の漫画には英語が増え、かつ中学1年生の英語の授業は楽勝でした。そして、念願の英語塾にも行かせてもらいました。ただ、部活が忙しくなったので、2ヶ月くらいで辞めました。

NYへ赴任直後、会社が英会話のレッスンを受ける予算を付けてくれました。仕事が忙しかったこともあり、プライべート・レッスンを選択しました。担当してくれた先生は、若い弁護士でした。あまり仕事熱心というタイプでもなく、事務所でもうだつが上がらず、アルバイトをしていたのでしょう。同い歳だったこともあり、聞いてきた音楽、見てきた映画も、ほぼ同じであり、毎回、会話は大盛り上がりでした。ところが、それがいけませんでした。キチッとした英文にならなくても、話が通じてしまうわけです。先生も、英文の間違いを修正することなく、話に乗ってきてしまうわけです。これじゃ、ただの雑談であり、英会話のレッスンとは言えませんでした。

仕事の場面でも似たようなことが起こりました。専門用語が飛び交う専門家同士の会話では、英語の文章の正確さなど問題になりません。問題なくビジネスが進むので、誰も英語の間違いを指摘してくれません。これではいけないと思い、一時期、コミュニティ・カレッジに通いました。まずは、クラス分けのためのペーパー・テストが行われます。日本人の学力としての英語力は高いので、私も上級者クラスに入ります。そこでは、主にイディオムの勉強をしました。大雑把に言えば、イディオムは慣用句です。これが、ある程度分かっていないと、会話は成立しません。そういう意味では役に立ちました。ただ、クラスのディベートでは、ヒスパニック系の皆さんのテキトーな英語に押されまくり、会話力が上がったとは思えませんでした。

日本人の英会話下手の原因については諸説あります。知識詰込型の学校教育、発音の違い、なんでも翻訳する文化、高等教育を日本語で受けられること、外国に支配された経験が少ないこと等々が要因とされます。いずれにしても、まずは学校教育から変えるべきだと思います。中学で基本を学ぶとして、高校では実践的な英語教育をすべきなのでしょう。ただ、その背景には、ペーパー・テスト至上主義が横たわり、ここから変える必要があります。終身雇用や年功序列に大きな変化が生じている実業界の現状を考えれば、教育制度も変わるべき時を迎えています。その判断は、官僚には難しいはずであり、今こそ政治が主導すべきです。ただ、近年、近視眼的政治を加速させてきた自民党政権には、あまり期待できないようにも思います。

英文学は学問ですが、英語は技能だと思います。言葉は、あくまでもコミュニケーション・ツールです。英語を正確に話すことよりも、話したいことがあるかどうかが重要だと思います。高校での英語の授業は実用性第一とし、ペーパー・テストを止める、大学受験からも英語は外す、といった思い切った対応をしてはどうかと思います。つまり学校教育の英会話教室化です。日本語学校の先生をしている先輩から聞いた話だと、日本語の教え方は、それぞれの母国語を一切使わず、教えた日本語だけを使って次の授業を行うのだそうです。それこそが技能教育だと思います。(写真出典:englishhub.jp)

2022年11月24日木曜日

豪雪

今年も、各地から降雪、冠雪のニュースが届く季節になりました。私は、北国に生まれ、さんざん雪と付き合ってきましたので、二度と雪の降るところには住みたくないと思っています。ただ、転勤は致し方ないわけで、新潟に赴任したことがあります。支社は、新潟市にありました。東京から電話をもらうと、雪で大変でしょう、とよく言われました。実は、新潟市は、雪は降るものの、積もるほどではありません。海風の影響か、佐渡がいい風除けになっているのかも知れません。ただ、越後平野東端の新津丘陵あたりまでいくと積雪は増えます。新潟県の豪雪地帯というイメージは、南の上越・中越地方に由来します。

上越市は、都市部としては、世界一の積雪量と聞きます。上越・中越の家は3階建が多く、玄関は2階にあります。積雪に備えて、出入り口を確保してあるわけです。商店街には、通行を確保するため”がんぎ”と呼ばれるアーケードが設置されています。また、道路脇には、紅白のポールや、下向きの矢羽根と呼ばれる標識が立っています。これらは、積雪時に路肩の位置を示すために設置されています。新潟の雪は、北海道のパウダー・スノーとは異なり、重く湿っており、積もりやすい雪です。ですから、屋根の雪下ろしは欠かせません。怠れば、雪の重さで家が潰れます。一度、南魚沼の六日町市街で、商店の庇が雪の重みで崩落する瞬間を見たことがあります。

関越自動車道の塩沢石打サービスエリアは、冬場、平屋の建屋が倍の高さの雪に囲まれます。 それほどの雪でも、除雪態勢が整っているので、高速道路が通行止めになることは滅多にありません。聞いた話ですが、かつて、東京本社から十日町営業所に、朝、電話をしたところ、応答がなく、支社でも連絡がとれない事態が発生します。昼近くになって、ようやく十日町から連絡が入ります。2階建ての営業所が雪に埋まり、皆で掘り起こしていたというのです。大袈裟な話だと思い、十日町で、事の真偽を聞いたところ、事実、そういうことがあったと言っていました。それ以来、十日町営業所には、除雪機が常備されています。

それほどの雪ですから、冬場の戸外での活動は制約されます。かつて、上越・中越の農民たちは、冬場、家で内職に励むか、杜氏として出稼ぎに出たものだそうです。いずれも、金属加工、酒造として現在に継承されています。中越出身の田中角栄が、初めて国政選挙に出馬した際の選挙公約は、よく知られています。三国峠を削り、積雪をもたらす風を関東平野に流し、雪のない新潟を実現する。また、削った土砂で、海を埋め立て、佐渡を陸続きにする、というものでした。土建業出身の角栄らしい、実に気宇壮大な公約ですが、後の列島改造論につながるのでしょう。ちなみに、角栄初の国政選挙は、落選という結果でした。

新潟に赴任直後、土地の人から注意されたことがあります。上越・中越のお客さまに「今年は雪が少なくて良かったですね」という時候の挨拶は禁物だというのです。と言うのも、スキー場はじめ、スキー客で商売している人たちも多く、さらに土建関係の人たちは、冬場、除雪作業が唯一の収入源となるからです。なるほどとは思いましたが、やはり雪は少ないに越したことはないとも思いました。ただ、その豪雪が、豊かな自然と豊かな恵みをもたらしていることも事実です。新潟は雪国ですが、北国ではありません。春の雪解は、北海道に比べて早く進みます。山の緑が一斉に芽吹く雪国の春は、格別な思いを持って迎えられます。(写真出典:10.plala.or.jp)

2022年11月23日水曜日

ダンス

マティス「ダンス」
ダンスに関する最も古い記録は、スペインのアルタミラ洞窟の壁画だと言われます。18,500年前のものです。ただ、それがダンスの起源だというわけではありません。恐らく、プリミティブなダンスは、人類の歴史と同じくらい古くから存在したのでしょう。人間が、生存に関わる必要性に乏しいダンスを、大昔から踊ってきたことは、実に不思議だと思います。ダンスの語源は、サンスクリット語の”tan(伸ばす)”、あるいは”tanha(生の欲望)”だとされます。日本語の踊り(をどり)は、本来、飛び跳ねることを意味したとされるようです。リズムに沿って、あるいは様式をもって踊られるダンスではなく、何らかの感情に突き動かされたような動作としての踊りは、まさに人間の根源的な欲求そのものだとも思えます。

言語は、ジェスチャー言語、あるいはノンバーバル言語から発生したという説があるようです。人間も、動物と同じように鳴き声は発していたはずですが、それが言語化するというのは、やや飛躍が過ぎるようにも思います。もしそうだとするならば、他の集団行動を行う動物も言語を獲得して当然です。直立二足歩行を始めた人間が、自在に喉を使えるようになったことも言語を獲得した大きな要因です。また、両手を自由に使えるようになったことで、道具の活用だけではなく、ジャスチャーも進化させたであろうことは想像に難くありません。コミュニケーションは、鳴き声とジェスチャーで行われ、ジャスチャーが言語へと置き換わっていったという説は納得できるストーリーです。

言語を生み出したジェスチャーは、ダンスをも誕生させたものと考えます。ダンスがコミュニケーション手段であるジェスチャーを起源とするならば、ダンスの目的も、やはりコミュニケーションだったと考えられます。ダンスは、何かを表現する、何かを伝える、何かを共有する、といったことを通じて。組織としての連帯を高める効用があったということなのでしょう。人類は、狩猟においても、農耕においても、集団行動をとることによって霊長類の頂点に立ちました。集団が効率良く機能するためには、コミュニケーションが欠かせません。そこでは、物理的効用に限らず、心情面における一体感も重要となります。言語とダンスは、ともに人類の集団性の発揮に貢献したと言えます。

広い意味での必要性に基づきダンスは誕生したといえます。ダンスの遊びや娯楽という面も、その延長線上にあるものと考えられます。娯楽化の背景には、踊ることの喜びが存在していたものと思います。個の生存に関わる集団への帰属、あるいは種の保存に関わる生殖、いずれもの場合であっても、人間にとって連帯は本能的欲求だと言えます。ダンスは、その欲求を満たしてくれるものであり、それがダンスを踊る喜びの根源なのではないでしょうか。集団性の薄い鳥類など動物の一部もダンスを行います。いわゆる求愛行動ですが、これは有性生殖におけるプロセスであって、鳥にダンスを踊っているという意識はないのでしょう。ただ、人間のダンスにも、他者の注意をひくといった要素は含まれているものと考えます。

ソロで踊るダンスは、集団性との関係が薄いように思われます。いわゆる表現としてのダンスということになりますが、自らの感情や思考を、動作で現わすという行為は、コミュニケーションの一つの形だと考えられます。内面にあるものを、ダンスを通じて、他者、あるいは神に伝えるという行為です。時代が進むと、ダンスは、神とコミュニケートする手段として、信仰のなかで様式化されていきます。日本語で言えば、舞の誕生だと言えます。ダンスにおける、リズムだけではない音楽との関係、衣装との関係、あるいは踊る場との関係も、ここで生まれたのでしょう。ひとたび様式化されると、ダンスは、音楽と共に、世界各地で独自の進化を遂げていきます。そして、祭礼から裾野も広がり、儀式、娯楽、芸術、スポーツ等へと展開を始めます。ダンスが芸術の母とも言われる所以です。(写真出典:omochi-art.com)

2022年11月22日火曜日

「聖なる証」

監督: セバスティアン・レリオ  原題:The Wonder  2022年イギリス

☆☆☆ー

(ネタバレ注意)

19世紀中葉のアイルランドの田舎を舞台とする心理サスペンスです。映画は、サウンドステージに作られた映画のセットを映し出して始まり、終わります。実に意味深な映像ですが、見終わっても、意味不明のままでした。プロットは、食事をせずに4ヶ月間生き続ける少女、その観察のためにロンドンから呼び寄せられた訳ありの看護婦、信仰心の強い家族とその秘密、同地出身でじゃがいも飢饉に痛みを持つジャーナリスト、そして少女の救出で構成されます。映画化もされた「ルーム」のエマ・ドナヒューが、19世紀のサラ・ジェイコブ事件に基づき書いた原作を、チリのセバスティアン・レリオが監督、Netflixで配信されています。

19世紀に登場した断食少女たちは、実に興味深い現象です。ただ、脚本がブレたことで、そのインパクトが十分には伝わっていません。宗教的構図を、ヒューマニズムやフェミニズムの観点から深掘りすれば、かなり重厚な作品になったと思いますが、サスペンス仕立てや救出劇で、あえて軽い仕上げにしているようにも思えます。ストレートな宗教批判になることを避けたのかもしれません。それはそれで、一つのやり方ですが、問題は、ストーリー展開が、重さと軽さの間でフォーカスを失っていることです。例えば、最後の救出劇などは、やや唐突な印象すらあります。そのブレを増幅させているのが、音楽です。現代的な音感が、重いのに軽い、中途半端な印象になっています。

一方、映像は見事な出来映えです。荒涼としたアイルランドの湿地帯、絶妙なライティングで刻まれる人物の陰影などが、一貫して、安定的に映し出されます。監督の確かな腕前を感じさせます。また、主演のフローレンス・ピューのメリハリのある演技が、映画に背骨を通している印象があります。目力の強さが、近代的な精神を表現し、他方では、乳幼児だった我が子をを失ったつらさを背負い、アヘンを服用するという影の部分を演じています。彼女の抱える哀しみが、最後の救出劇の伏線となっています。ただ、その伏線も、他のシーンからまったく独立しており、伏線としての弱さが、ラストの救出劇の唐突さにつながっています。

時代設定は、アイルランドのじゃがいも飢饉から10年後になっています。ジャーナリストの家族に関する悲惨な話が、飢饉の悲惨を伝えます。ただ、映像が映すアイルランドの暗さも、飢饉、そして飢饉の背景となったイングランドによる支配の重苦しさを表現しています。アイルランドの貧しさ、後進性、それがゆえの狂信性が、少女の命を奪いかねないという設定は、それだけでも政治的だと思います。当時は、プロテスタントによるカソリック批判が熾烈を極め、「闇の中世」というイメージも作られます。ラストで、カソリックの修道女が、プロテスタントである看護師に、少女は助かったのか、と聞くシーンは象徴的です。ただ、ピントの甘い脚本ゆえ、そのシーンの印象も弱くなっています。

なぜイングランドの看護婦が呼ばれたのか、映画は何も語っていません。アイルランドの歴史は、イングランドに圧迫され、支配されてきた歴史です。中世以降は、カソリックがプロテスタントに虐げられる歴史でもありました。映画の時代設定となっている19世紀中葉は、イングランドの植民地として、英国化が進められていた時代です。じゃがいも飢饉の際には、アイルランド人が飢えているにもかかわらず、英国人の地主たちがじゃがいもの輸出を続け、結果、アイルランドの人口は半減したと言われます。アイルランドの象徴とも言える少女のもとに派遣され、結果、少女を救出したイングランドの看護婦という設定が、何を意味しているのか、よく分かりませんでした。まさか、イングランド擁護というわけでもないでしょうが。(写真出典:en.wikipedia.org)

2022年11月21日月曜日

国民食

「国民食」の定義は、必ずしも明確ではありません。その国固有の食文化で、国内で地域・年齢・性別を問わず愛され、家庭でも作られ、飲食店でも供される料理、といったところなのでしょう。 日本の国民食は何か、というアンケートも多く存在しますが、”その国固有”という観点の有無で、結果は二分されます。日本固有という観点からは、寿司、おにぎり、味噌汁、そば・うどん等が上位にランクされます。一方、広く国民に愛されているという視点なら、カレーライス、ラーメンが不動のトップ2。続いて、ハンバーグ、焼肉、チャーハン、スパゲッティ、とんかつ、唐揚げ、餃子等々が挙げられています。

面白いと思うのは、国民に愛されている系のランキングに多く登場するのが、明治期以降に海外から入ってきた食文化であり、肉や小麦粉系が多いことです。かつて、イタリア人から、日本で驚かされることの一つは食文化の多様性だ、と言われたことがあります。イタリアだって、豊かで多様な食文化が自慢じゃないか、と言うと、イタリア人が、普段食べているのは、パスタと肉だけだ、と返されました。言われてみれば、日本の食文化の多様性はなかなかのものであり、世界一かも知れません。伝統の米、野菜、魚、発酵食品等に加え、外来の食文化を日本流にアレンジして我が物とする傾向が、多様性を生んでいるものと思われます。

明治初期、英国からカレー粉がもたらされ、日本のカレーライス文化がスタートします。最初にカレーライスを出した陸軍幼年学校や札幌農学校の寮のレシピは、既に、多くの具材を煮込んでとろみをつけ、米と相性が良い日本独自の料理になっていたようです。古い歴史を持つ中国の麺料理は、具材が主役で、コシの無い麺を使います。対して、明治末期、浅草で誕生した”日式”ラーメンは、真逆で、スープを主体とし、かん水で麺にコシを出します。また、ローマで本場のカルボナーラを食べたことがありますが、パンチェッタの獣臭が気になりました。ベーコン、パルミジャーノ・レッジャーノ、生クリームを使う日本独自のカルボナーラの方がずっと美味しいと思いました。

料理に限らず、外来文化を日本風にアレンジする力には驚かされます。世界各国でも、似たようなことは行われているのでしょうが、特に日本ではそれが顕著だと思われます。その背景には、日本の歴史があるように思います。第二次大戦後の一時期、そして沖縄を例外とすれば、日本は、外国に侵略、支配されたことがありません。植民地支配された国々では、宗主国が、支配しやすくするために、自国と同じ法体系や社会制度を押しつける傾向があります。文化政策も同様、自国文化をそのまま持ち込みます。かつて、日本も、台湾や朝鮮半島で、同じことをしました。日本は、他国の文化を強要されたことがなく、都合の良いものだけを取捨選択して取り入れることができたわけです。

ちなみに、国民食と言われる料理に共通していることは、家庭でも比較的簡単に作れて、気軽に食べられることだと思います。それには、料理の手間を大幅に省く食材・調味料の開発が大きく関わっていると思います。例えば、寿司酢、カレー・ルー、インスタント・ラーメン等です。メーカーの努力が国民食を生んだのか、国民食だからメーカーが開発したのか、恐らく、いずれのケースもあったのでしょう。麻婆豆腐を国民食にあげる人もいます。麻婆豆腐は、四川飯店の陳建一が日本に紹介したと言われます。それが豆腐料理ナンバー・ワンの地位を獲得するようになったのは、明らかに丸美屋の功績だと言えます。赤いのに、痺れず、辛くない丸美屋の”麻婆豆腐の素”は、四川のそれとは明らかに異なる純“日式”の料理です。(写真出典:nsouzai-kyoukai.or.jp)

2022年11月20日日曜日

広重の雨

栃木県の喜連川カントリー倶楽部へ、1泊2ラウンドのゴルフ旅行に出かけました。初日は、好天に恵まれ、とても良い秋の一日を楽しみました。日本三大美肌の湯にも数えられるという温泉もいいお湯でした。ちなみに、三大美肌の湯の他の2つは、佐賀の嬉野と島根の斐乃上だそうです。良い一日になったわけですが、翌日は、朝から雨。降り止みそうにもないので、ゴルフはあきらめ、再度、ゆっくり温泉につかり、車で30分ほどのところにある那珂川町馬頭広重美術館へ行きました。地元の実業家・青木藤作氏による広重コレクションを中心とした那珂川町立の美術館です。2000年に開館していますが、隈研吾氏設計の名建築としても知られ、様々な建築賞も獲得しています。

美術館は、旧馬頭町にあります。馬頭は、奈良時代に日本初となる金山が発見された土地であり、里山に囲まれた古い町並みが落ち着いた風情を醸し出す良い町です。美術館は、その風情ある景色に溶け込むような佇まいを持っています。細い木材を多数使った外観は、広重の雨をイメージしているようです。雨の日に、雨をイメージした建屋で、広重の雨を見ることができたわけです。広重は、安藤広重とも言われますが、安藤は姓であり、号としては歌川広重が正しいようです。広重は、1797年、定火消の同心の家に生まれ、本人も跡を継いでいます。ただ、幼少の頃から絵の才能に秀で、15歳で錦絵で知られる歌川豊広に弟子入りし、後に江戸後期を代表する大人気浮世絵師になります。

広重と言えば、「東海道五十三次」や「名所江戸百景」が代表作ということになります。また、広重は、雨を多く描いていています。特に「日本橋の白雨」、「大はしあたけの夕立」、そして馬頭広重美術館が所蔵する東海道五十三次の「庄野」などが有名です。白雨とは、明るい空から降る雨のことです。この三作は、いずれも夕立を描いていますが、すべて異なる雨の表現をしています。日本橋は降り始めの雨、大はしは本降りの強い雨、そして庄野は篠突く雨といった風情です。広重は、線の太さ、長さ、角度、色を変えながら、様々な表情を見せる雨を描きわけています。広重は、大胆な構図や独特の青で有名ですが、「雨の広重」と言っても良いのではないでしょうか。

広重は、19世紀の欧州に起こったジャポニスムにも大きな影響を与えています。開国とともに、日本の文物が欧州に渡り、珍重されます。ただ、ジャポニスムは、単なる日本趣味を超えて、欧州の絵画に大きな影響を与えました。日本の遠近法を使わず線と色で構成される作画、あるいは大胆な構図などが、欧州の画家たちに衝撃を与えます。欧州の人たちは、線で雨を表現した絵など、見たことがなかったのではないかと思います。そもそも雨粒を描くという発想すらなかったのではないでしょうか。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは、広重の「大はしあたけの夕立」を模写しています。漢字も書き込むなど、かなりがんばった模写だとは思いますが、やはり油絵具で広重の雨を再現することは無理だったようです。

日本語には、雨を表わす言葉が多くあります。その数は、150以上とも聞きます。普段、使う雨の表現だけでも結構な数です。恐らく世界に類を見ないほどの多さだと思います。それは、日本が雨の多い国だからということなのでしょう。また、稲作にとって、雨は大きな生産要素でもあります。稲の栽培に与える影響からして、雨の降り方も細かく分類されたという面もあるのでしょう。天からの恵みでもあり、時には災いでもある雨は、日本人の生活のなかで大きなウェイトを占めています。必要性に応じた物理的な分類だけではなく、人の心や営みに寄り添う雨の表現も多くなって当然だと思います。そんな背景があればこそ、広重の雨は生まれたのでしょう。ゴッホには難しい表現だったと思います。(写真:歌川広重「東海道五拾三次之内庄野」出典:hiroshige.bato.tochigi.jp)

2022年11月19日土曜日

プロ・ゴルファー

コネチカット州のさる有名コースで、仕事で関係するアメリカ人たちとゴルフをしたときのことです。ゴルフが上手いと評判の人が一人いました。プロのトーナメントも行なわれる難しいコースでしたが、その人のスコアは、68だったと記憶します。とても気軽にプレーしていましたが、飛距離も、正確性も信じがたい程のレベルでした。仕事を間違えている、プロになるべきだったのではないか、と言うと、とんでもない、との答え。彼が言うには、プロが、遊びでプレーすれば、60を超えることはない、とのことでした。プレッシャーのかかるトーナメントで、ギャラリーに囲まれてプレーすれば、自分などパー・プレーすら難しいだろうとも言っていました。

また、数年前、100人くらいが参加するコンペに出た際のことです。若い女性が、2オーバーでベスト・グロス賞を獲得していました。聞けば、高校卒業後、プロ・テストにチャレンジし続けて数年になるが、いまだ合格できないとのことでした。世の中には、ゴルフのお上手な方々が、結構います。ただ、プロ・ゴルファーの世界は、アマチュアとは、全く異なるスポーツだと言っても良いほど違うものなのだと思った次第です。しかも、プロ・ゴルファーになることがゴールではありません。そこには、熾烈を極める競争が待っているわけです。1打の差が天と地ほどの違いを生み出す世界です。アメリカでは、1打差が1~2億円の違いになることもしばしばです。

プロのゴルフ・トーナメントは、日々、厳しいトレーニングを重ね、最高の状態で臨んだとしても、優勝できなければ、意味がないという厳しい世界です。例えば、レースやコンタクト・スポーツの世界であれば、対戦相手の強み・弱みに応じたトレーニングを行い、相手の出方を見てかけひきすることができます。採点競技、射撃、アーチェリー等は、ゴルフに似ているかも知れません。ただし、ゴルフに満点というスコアは存在しません。結果的には、他者を上回るスコアを出せば優勝ですが、競技中は、ひたすらロー・スコアを削り出していかなければなりません。ゴルファーの最大の敵は、コースでも相手でもなく、自分自身だ、という言葉もあります。

プロ・ゴルファーの基本的な体力や技術力には、さほど大きな差はないようにも思います。格差を生み出しているものは、精神力の違いではないかと思えます。集中力、平常心、あるいは忍耐力といったことになりますが、それらが、18ホール、切れ目無く続くという持続性や安定性も欠かせません。プロ・ゴルファーの世界では、自分自身を信じることが最も大事だとも言われます。自信とは、妥協なきトレーニングを納得できるまで重ねて、はじめて生まれるものだと思います。つまり、プロ・ゴルファーは、常に、頂点の先、完璧の上を目指して、鍛錬を続けなければならいない宿命にあるわけです。マネー・レースとは、実に厳しい世界だと思います。

「バックコーラスの歌姫たち」というドキュメンタリー映画がありました。いつかはメインで歌うことを夢見ながら、バックコーラスとして歌い続ける歌手たちの話です。メイン・ヴォーカリストを凌ぐ歌唱力を持つ人たちも多い世界です。しかし、どれほど見事なコーラスを聞かせても、彼女たちの名前が世に出ることはありません。原題の「20 Feet from Stardom」が、とても印象的でした。ステージ上、メインとの6mの差は、なぜ生まれるのか。ショー・ビジネス界特有の仕組みもあるのでしょうが、登場人物の一人は「メインで歌いたいという気持ちの強さの違いだ」と言っていました。何に依らず、プロとアマの違い、あるいは一流と二流の違いは、技術力以上に、精神力の強さなのかも知れません。(写真出典:mori.co.jp)

2022年11月18日金曜日

酒呑童子

国立能楽堂の普及公演で、”大江山”を観てきました。普及公演の際には、演目にちなんだ解説も行われます。解説は、通常、能楽の研究者たちが行いますが、今回は、文化人類学者の小松和彦氏によって行われました。小松氏が、民俗学の視点から提唱する日本三大妖怪という話があります。大江山の酒呑童子、那須野の妖狐、そして鈴鹿山の大嶽丸です。那須野の妖狐の正体は、中国から日本に渡った九尾の狐であり、鳥羽上皇をたぶらかした玉藻前の正体です。鈴鹿山の大嶽丸は、”薬子の変”の際、坂上田村麻呂によって鈴鹿山で成敗された薬子の兄・藤原仲成らの執心が化け物になったとされます。

三大妖怪の共通点は、討ち取られた首や骸が、いずれも宇治平等院の宝蔵に収納されたということです。その霊力を重視したとも考えられますが、民衆が恐れるものを朝廷が討ち取ったという証でもあり、権威付けのためのトロフィーという意味もあったのでしょう。いずれにしても、酒呑童子、九尾の狐、大嶽丸は、当時、最も恐れられた妖怪であったということであり、その点をもって三大妖怪とするというのが小松氏の説です。ただし、宇治の宝蔵は実在したわけではなく、御伽草子等に登場する架空の宝物庫です。一説によれば、酒呑童子の首は、不浄なものを京に持ち込まないという観点から、京都西部の老ノ坂峠に埋められたとも言われます。首を埋めた場所には社が築かれ、今も首塚大明神として残っています。

10世紀末、京の都では、貴族の姫や若者の神隠しが相次ぎます。一条天皇が、安倍晴明に占わせたところ、大江山の酒呑童子の仕業だと判明します。大江山の所在は、丹後と丹波の間、あるいは京都の西部と二説あるようです。天皇は、源頼光、藤原保昌に討伐を命じます。源頼光は、渡辺綱、坂田金時(幼名は金太郎)などいわゆる頼光四天王を同道します。道に迷った山伏を装った一行は、酒呑童子の屋敷に一夜の宿を乞い、酒を酌み交わします。酒呑童子は、越後の出で、最澄に比叡山を追われ、空海にも追われた過去を話します。源頼光は、「神変奇特酒」という毒酒を酒呑童子に飲ませます。そして、体が動かなくなったところを皆で抑え込み、首をはねます。

酒呑童子の初出は、南北朝末期から室町時代初期とされます。その正体については、帰化人が山賊化したという説、丹後の大江山にあった銅山を朝廷が奪ったことへの反撥説、あるいは一条天皇の時代に流行した疱瘡説があります。この疱瘡は、庶民から赤疱瘡と呼ばれていたようです。赤鬼のような風体の酒呑童子は、ここからきているとも言われます。かつて、朝廷にまつろわぬ者は、よろず鬼と呼ばれていました。疫病も擬人化され、鬼と呼ばれました。また、酒呑童子の出身地とされる新潟はじめ、各地にも酒呑童子に関わる伝承があるようです。最も驚くべきは、国宝にして天下五剣の一振りともされる「童子切安綱」は、源頼光が酒呑童子を切った刀だとされていることです。

思えば、能楽では、日本三大妖怪の全てが、なんらかの形で演目化されています。酒呑童子の「大江山」は、謎の能作者とされる“宮増”の作とされます。また、日吉左阿弥作とされる「殺生石」では、玉藻前こと九尾の狐が描かれています。いずれも五番立てでは最後に演じられる五番目物であり、”切能物”あるいは”鬼能”とも呼ばれます。ただ、世阿弥の作とも言われる「田村」は二番物で”修羅能”と呼ばれます。清水寺に現われた田村麻呂の霊が、”薬子の変”の際、千手観音の助けを得て敵を成敗したことを語ります。大嶽丸は、いわば後日談であり、直接は登場しません。(写真出典:kanko-shinjuku.jp)

2022年11月17日木曜日

「アムステルダム」

監督:デヴィッド・O・ラッセル      2022年アメリカ 

☆☆+

デヴィッド・O・ラッセル監督、クリスチャン・ベール主演とくれば、期待しない方がおかしいわけです。ところが、結果は、がっかりです。最近、これほどしっちゃかめっちゃかな映画は見たことがありません。期待が大きかっただけに、落胆も大きいと言わざるを得ません。デヴィッド・O・ラッセルほどの人がこのていたらくですから、何か背景に問題でもあったのか、と思ってしまいます。とにかくアイデアを詰め込みすぎて、まったく整理がつかないまま公開してしまったという印象です。ただ、随所に、さすがと思わせるショットや演出が散りばめられても確かです。

クリスチャン・ベールのクセの強い演技を見ることは、いつも楽しみです。クリスチャン・ベールの実に幅広い芸歴には感心させられますが、役作りのために徹底的な肉体改造を行う事でも知られています。今回は、痩せ型のクリスチャン・ベールです。元フットボーラーのジョン・デヴィッド・ワシントンは、「ブラック・クランズマン」や「テネット」に比べ、力を抜いたような演技が好印象でした。目も口も大きく、かつきつい目つきのマーゴット・ロビーには、多少驚かされました。ここのところ、スーアサイド・スクワッドの印象が強かったのですが、今回は、正統派を思わせる演技になっています。歳と芸歴を重ね、成熟してきたということかも知れません。ひょうとすると王道を行く女優になるのかも知れません。

いずれにしても、俳優陣の良さといくつかの見事なショットだけが印象に残る残念な映画でした。その理由の一つは、モティーフそのものにあるかも知れません。米国海兵隊の英雄スメドリー・バトラー将軍が告発したビジネス・プロット事件は、1933年に起きています。ビジネス界によるファシスト政権樹立構想でした。ビジネス・チャンスを拡大するために、ルーズベルト政権を倒し、ドイツやイタリアと連携したファシスト政権を実現しようとするものです。その実現に、バトラー将軍と退役軍人組織を利用しようとしたわけです。この事件は、マスコミから妄想、茶番と罵られますが、議会の調査では事実関係が確認されています。ただ、実現にはほど遠い計画だったために、関係者は誰も起訴されていません。

ナチスに利用された感のあるリンドバーグの言動はじめ、当時のアメリカには、ファシストに同調する動きもありました。大人気の英雄リンドバーグは大統領選への出馬も取り沙汰されていました。実際に出馬すれば、アメリカに親ナチ政権が誕生していたかも知れません。恐らく、監督は、ドナルド・トランプのポピュリズムを批判したくて、ビジネス・プロット事件をモティーフにしたのでしょう。ただ、シリアスなドラマを構成するには、やや弱い事件でもあり、結果、コメディに仕立てるしかなかったのでしょう。ところが、コメディというフレームとトランプ批判との折り合いをつけることが難しく、しっちゃかめっちゃか映画になってしまったというところなのでしょう。

トランプの敵でもあるテイラー・スウィフトを、暗殺される役で起用するあたりも政治的意図が明白です。恐らく、監督としては、是が非でも中間選挙前に映画を公開したかったのでしょう。選挙前の予想は、共和党というよりもトランプ派優勢、赤い嵐が起こるとまで伝えられていました。監督は、映画としての完成度を犠牲にしても、公開を急いだのではないでしょうか。ちなみに、バトラー将軍は、老後、各地で講演を行い、産業界が戦争をさせ、兵士を殺していると批判していたようです。軍産複合体批判と言えば、アイゼンハワー大統領の退任演説が有名ですが、その四半世紀前にバトラー将軍が行っていたわけです。いずれも英雄的軍人であった点が興味深いところです。(写真出典:en.wikipedia.org)

2022年11月16日水曜日

上海的士

近年の浦東夜景
タクシーは便利な乗り物です。江戸期には駕籠、明治になると人力車があったわけですが、日本初のタクシー会社は、1912年(明治45年)、東京に誕生しています。T型フォード6台を使って営業が開始されたようです。もちろん、タクシーは移動手段ではありますが、運転手さんの存在も大きいと思います。私は、地方でタクシーに乗った際、必ず運転手さんと話します。その地域に関わる最新の、かつ生の情報を入手できるからです。運転手さんからは、街角景気や企業に関する噂話、場合によっては企業経営者に関するゴシップまでも聞くことがあります。観光で訪れた際には、最近人気の高い観光スポットや飲食店の情報を聞きます。

タクシーの運転手さん一人が、直接入手できる情報には限りがあるのでしょうが、運転手さん同士のおしゃべりのなかで情報が蓄積されていくのでしょう。いわばタクシー・ドライバーのビッグ・データです。タクシー運転手は孤独な仕事です。多くの情報を持っていても、それを話す機会は少ないわけです。客と会話する機会があれば、聞く側ではなく、話す側になる傾向があるのも頷けます。それは海外でも同じなのでしょう。海外の運転手さんについて思うことは、日本国内と比べ、かなり個性的な人が多いな、ということです。これまでも各国で様々な面白い経験をしてきました。なかでも、かなり印象的だったのが、30年前の上海での経験です。中国では、タクシーは”出租車”、あるいは”的士”と表記されます。

30年前の上海は、改革開放政策による市場経済化が進行中という段階でした。街は、革命以前の風情を色濃く残していました。黄浦江の東側、浦東新区の開発も始まったばかりでした。浦東は、人口1千万人の新しい街になると言われていましたが、当時はまだ電視塔が完成したばかりで、周囲には若干のビルが建設中といった状況でした。そして、その周囲は、広大な水田や畑だけが広がっていました。とりあえず現状を見ておきたいと思い、淮海路で的士を拾いました。運転手さんは、イキがってサングラスをかけた20代と思しき人でした。英語は話せるかと聞くと、OK、OKとのこと。浦東を一回りしたいと言うと、OK、OK、料金はこれくらいでどうだと言うと、OK、OK。やや心配ではありましたが、とりあえず乗り込みました。

橋を渡るまでは順調でした。ところが、浦東に入って程なく、運転手さんの挙動があやしくなります。道に迷ったどころか、浦東は初めてといった様子でした。大丈夫かと聞くと、OK、OKと言うばかり。私は、止むなく車を止めてもらい、助手席に移りました。私が持っていた大雑把な観光地図を二人でのぞき込み、帰り道を探しました。彼が英語を理解しないことは明白でしたので、中国語と日本語という意味のないやりとりをしながら、身振り手振りで脱出路を探りました。結局、私がナビゲイターとなり、そこを右、これをまっすぐ、といった指示を身振りで出しながら、無事、浦東を脱出しました。30分もあれば、済むドライブでしたが、90分以上もかかってしまいました。ま、今となっては見ることのできない浦東の田園風景を堪能することはできました。

的士を降りる時、彼は、お金は半分でいいとジェスチャーで言っていましたが、彼の勇気と努力に敬意を表し、決めた金額にチップをたんまり上乗せして払いました。上海の後は、北京に向かいました。故宮、天安門広場はじめ市内の名所見物と京劇鑑賞が主な目的でした。とは言え、万里の長城も見ておきたいところです。バスで行くことはハードルが高いので、タクシーをチャーターするつもりでした。ただ、浦東での一件があったので、日系ホテルへ出向き、日本語ガイド付きのハイヤーで行く現地ツアーを申し込みました。運転手さんと通訳が同行しましたが、参加者は私一人。昼食も美味しい店に連れて行ってもらい、快適に観光することができました。今となっては、円高時代の優雅な旅だったと言えそうです。(写真出典:news.cgtn.com)

2022年11月15日火曜日

エノーラ・ホームズ

シャーロック・ホームズの7歳年上の兄マイクロフト・ホームズは、いくつかのコナン・ドイル作品に登場します。弟以上に優秀な頭脳を持ち、表面的には会計監査という地味な仕事をしながら、調整役として政府内部に大きな影響力を持っていたとされます。実は、ホームズには、20歳年下の妹エノーラもいました。ただ、この設定は、2007年に、アメリカのナンシー・スプリンガーが創作したものです。青少年向け探偵小説「エノーラ・ホームズの事件簿シリーズ」は、ヒット・シリーズとなっているようです。その映画化バージョンが「エノーラ・ホームズの事件簿」(2020)です。高い評価を得て、ヒットしました。今年、続編である「エノーラ・ホームズの事件簿2」がNetflixで公開されました。

明るく前向きなおてんば娘エノーラは、愛されるキャラクターです。間違いなく、青少年向け小説の王道をいくキャラクター設定です。余談ですが、”おてんば”あるいは”お転婆”は、オランダ語が語源とも言われます。明るく行動的な少女を、愛情をもって表現する良い言葉ですが、近年、死語になりつつあるように思います。話を戻すと、本家から借用したホームズ、ワトソン、レストレード警部はもとより、地下に潜った反政府活動家の母親とその仲間、気の優しい恋人テュークスベリー卿など、脇を固めるキャラクターも漫画的ですが、分かりやすく魅力的です。窮地に陥った主人公を助ける有力者たちという設定は、青少年向け小説の常道だと思いますが、ストーリー展開上は、小気味よいものになります。

映画は、2作とも、テンポ良く軽快に展開していきます。時には急ぎすぎるくらいですが、妙に説明的だったり、無理に陰影をつけたりしない潔さが心地良く感じられます。青少年向けゆえ、ということなのかも知れませんが、夕食後のエンターテイメントとしては上出来だと思います。いわゆる泣かせどころの家族の絆、恋人との関係も、くどくならない程度に、きっちり盛り込まれています。エノーラの事件簿は、いわゆるパスティーシュものということになります。作品の借用、作風の模倣という意味ですが、既に高い知名度を持つキャラクターの活用は、実にうまい手だと思います。パスティーシュと同様の効果を生むのは、歴史的人物の取り込みです。読者や観客に、意外感と安心感を与えます。

「エノーラ・ホームズの事件簿2」でも、歴史的人物と事件が、うまく活用されています。サラ・チャップマンと”マッチ・ガール・ストライキ”です。マッチ・ガール・ストライキは、1888年、ロンドンのマッチ工場で働く女性や少女たちによって起こされます。搾取的な低賃金、白リンによる健康被害等、劣悪な労働環境が背景にありました。ストライキを主導した一人が、労働組合史にその名を残すサラ・チャップマンでした。サラ・チャップマンとストライキは、映画のメイン・プロットになっています。エノーラ・ホームズの事件簿が成功している理由の一つは、ヴィクトリア朝時代の英国を丁寧に描いていることだと思います。ヴィクトリア朝時代は、産業革命を背景とした英国の絶頂期であるとともに、20世紀以降の世界の発展と課題に関わる全ての要素が芽吹いた時代でもあります。

久しぶりに青少年向け小説の楽しさを味わったような印象です。例えて言うなら、久しぶりに甘いカレーライスを食べたような感じです。青少年向け小説は、古典的名作も多い世界ですが、新しい傑作も生まれていることに安堵感を覚えます。少年少女が、本に親しむことによって、人を知り、社会を知り、世界を知ることのきっかけを得るならば、それは素晴らしいことだと思います。そのために、青少年向け小説は、彼らを夢中にさせる仕組みを持っていなければなりません。エノーラ・ホームズの事件簿は、それを、しっかり持っていると思います。(写真出典:natalie.mu)

2022年11月14日月曜日

肥沃な地

Las Vegas in 80's
ネイティブ・アメリカンは、ネヴァダ州南部の砂漠地帯の窪地に水が湧くことを、古くから知っていたようです。後に、その窪地は、肥沃な土地を意味する”ラス・ヴェガス”と呼ばれることになります。19世紀初頭、アメリカ人探検家がこの地に到達し、著書で紹介したことから入植者が入り始めます。次いで、ソルトレークからカリフォルニアを目指したモルモン教徒が砦を構えます。19世紀半ば、カリフォルニアにゴールド・ラッシュが巻き起こると、一攫千金をねらう多くの人々が、東部から押し寄せます。ラス・ヴェガスは、砂漠のなかのオアシスとして重宝され、鉄道が開設されると、蒸気機関車の給水ポイントにもなり、町が形成されます。

1929年に世界恐慌が起こると、ネヴァダ州は、税収確保のために賭博を合法化します。おりしも近郊でフーバー・ダムの建設が始まり、ヴェガスには、多くの労働者が入り込み、豊富な電力が供給されることになります。 砂漠のオアシスは、ギャンブルの町へと変わっていきます。第二次大戦後、アメリカが繁栄と平和を謳歌するなか、ラス・ヴェガスには、巨額の投資が行われ、大きな発展を遂げていきます。アメリカの田舎の人々は、1年間働いて貯めた小銭を持ってラス・ヴェガスへ行くことを楽しみにしています。典型的なヴァケーションの過ごし方ですが、昔の日本の農民の湯治に近いものがあります。ギャンブルを一切やらない私にとっては、理解に苦しむところがあります。

ラス・ヴェガスは、ギャンブルで客の金を巻き上げるという一点に向かって、実によくシステム化された町です。例えば、宿泊費と食事は、とても安く設定されています。そこで浮いた金を、ギャンブルにつぎ込ませる仕組みです。また、空港にまで、スロットル・マシーンが置かれ、とことん客から金を搾り取ります。さらに、ショーやスポーツ・イベントの開催は、単に集客のためだけではないように思えます。つまり、自分は、ギャンブルのためだけにヴェガスに行くのではないと言い訳できるわけです。とは言え、80年代までは、やはりギャンブルまみれの町でした。90年代になると、戦略はさらに高度化し、豪華なホテルやアトラクションが用意され、家族で楽しめる町へと変わっていきます。

1991年、家族で、一度だけラス・ヴェガスへ行きました。ヴェガスが目的地ではなく、大西部の旅の起点・終点にしただけです。子供たちが喜ぶと思って、サーカス・サーカスに宿を取りました。その安さに驚きました。無料のスナックや、格安の食べ放題等も充実していました。ホテル内で、常時、行われているサーカスも典型ですが、とにかく街全体が、客を興奮状態に置き続けるように構成されています。アメリカ人は、カウンティ・フェアが大好きです。もともと郡単位で行われていた収穫祭のようなものですが、移動遊園地、サーカス、見世物小屋等が建ち並び、実に賑やかなものです。ラス・ヴェガスは、アメリカ人にとってなじみ深いカウンティ・フェアを、365日、24時間やっているようなところだったわけです。

東ではフロリダのディズニー・ワールド、西ではラス・ヴェガスが、アメリカらしい人工的なヴァケーション・シティの代表だと思います。日本には、そこまでの街は存在しません。やはり市場規模の違いということになるのでしょう。ちなみに、1950年代のラス・ヴェガスは”アトミック・シティ”とも呼ばれていました。町から北西に100kmほどのところに、核爆弾の実験場が開設され、町からはキノコ雲が見え、当然、町全体も被爆していたわけです。60年代に入ると、核実験は、地下で行われるようになります。それまでの間、核実験場で働く兵士たちと同様、原爆症に苦しむ町の人たちも少なからずいたようですが、まったく問題にはされませんでした。(写真出典:photoslasvegas.com)

2022年11月13日日曜日

家紋と屋号

総理大臣・政府・内閣府が、記者会見等の際に使う演台には、その紋章と定められている五七桐が付けられています。ホテルのロゴ・マークだと思っている人も少なからずいるようです。そもそも家紋自体が、若い人たちにとっては縁遠い存在なのでしょう。皇室の紋章と言えば、菊花紋章、つまり菊の御紋ということになります。法律の定めはないものの、慣例として、日本国の国章としても使われます。パスポートの表紙としてもお馴染みです。五七の桐花紋は、もともと天皇家の副紋でした。ただ、功績のあった家臣に授けることもあり、次第に、天皇家は菊の御紋だけを用い、五七桐は武家等にも広まり、現在は内閣府も使っているというわけです。

日本の家紋は、欧州貴族の紋章とともに、他に類を見ない文化だと言われます。おおよそ何でも中国渡来の文化が多い日本ですが、家紋は、中国にも、韓国にもないようです。家紋の起源は、平安時代、貴族たちが、各種装飾紋様を各家に固有な紋様に特化させ、目印的に使い始めたことにあるようです。平安末期、武家の時代が始まると、まだ装飾的だった家紋は、各武家を象徴する印として、旗や幕などに使われ始めます。戦場における敵味方の区別、あるいは武士個人の活躍を鮮明に伝える意味もあったのでしょう。鎌倉期、本格的な武家と合戦の時代を迎えると、家紋は、武家の間で急速に広がっていったようです。一方、家格が明確に定められている公家の世界では、家紋は廃れていったということです。

江戸期になると、合戦場における家紋の意味はなくなり、家の格式を誇示するためのものへと変化します。さらに、苗字を持たなかった町民や農民の間でも、家を識別する目的で、家紋が広がっていったようです。欧州の紋章が、貴族だけに限られ、かつ家ではなく、個人を現わしていることとは大きく異なります。欧州の紋章は、個人を象徴するだけに、同じ紋様にならないように厳密に管理されているようです。日本は、本家だけでなく、分家も同じ家紋を使うことから広がりを見せ、同じ家紋が多く存在します。日本の家紋としては、241系統、5,116の家紋が確認されているようです。呉服商だった我が家の家紋は”丸に蔦”です。これは客を掴むという意味で、商家で好んで用いられた家紋だそうです。

我が家の家紋は蔦ですが、屋号は”カクニジュウ”といって、二十という漢字を四角い線で囲みます。意味は不明です。屋号と言えば、現代では商号を指しますが、江戸時代には、家紋と同様、苗字を持たない庶民を区別するために使われたようです。それであれば家紋で十分とも思いますが、家紋は一族を示す図案であり、屋号は各家族の呼び名として機能したのではないかと思います。地理や家の形などをベースに記号と文字を組み合わせた屋号は村落に多く、都市部では、商号を屋号とする場合が多かったようです。ヤマサ醤油やキッコーマンは、村落系の屋号を商号とした例となります。都市部の屋号の例としては、松屋、高島屋、紀伊国屋などがあげられます。

屋号と言えば、歌舞伎役者などの屋号も有名です。成田屋、音羽屋などと、大向うと呼ばれる常連客がかける掛け声は、歌舞伎名物でもあります。掛け声は、タイミングや声の調子など、なかなか難しいものであり、素人はやっていはいけないとされます。市川団十郎の成田屋は、初代団十郎が成田山新勝寺の門徒だったからとされます。ただ、多くの場合は、歌舞伎役者が経営していた商家の屋号からきているとも言われます。役者たちは、河原乞食と呼ばれる賤民でしたが、江戸中期以降、歌舞伎の人気が高まると、名声と財力を高めていきます。そして、商店街に店を持つことが許されるまでになります。多くは舞台にも関係する小間物屋、化粧道具屋を営んだようです。そこで使われた商号が、そのまま屋号になったわけです。(写真出典:wikiwand.com)

2022年11月12日土曜日

コンビーフ

小学校では給食、高校時代は外食、中学校だけは、毎日、弁当を持参しました。その一時期、毎日、おかずは細切りピーマンとコンビーフを炒めたものだけでした。母親が手を抜いたわけではなく、私からの強い希望で、それが数ヶ月続きました。もちろん、美味しいと思い、好きだったのでしょうが、それ以降、ピーマンとコンビーフの炒めものを食べた記憶が、まったくありません。そのことに気づき、久々に作って食べてみました。実に、50数年ぶりに食べたわけですが、何の感動もありませんでした。私は、昔からピーマン好きです。要は、大好きなピーマンを、毎日、食べたかっただけなのかも知れません。

コンビーフ(corned beef)を、牛肉の塩漬け全般とするならば、その歴史は判然としないくらい古いと言えます。英語の”corn”は、トウモロコシの粒だけでなく、もともとは”小さくて硬い粒”全般を意味します。牛肉の塩漬を作る際に使う塩の粒や硝酸カリウムの粒から”corned beef”と呼ばれたのでしょう。コンビーフは、大別すると二つの系統があります。例えば、アメリカでソルト・ビーフとも呼ばれる系統は、ブリスケット(肩バラ肉)の単純な塩漬けです。ブリスケットに胡椒をまぶしたものがパストラミですが、塩をまぶせばソルト・ビーフになります。スライスして、サンドイッチの具材にするなどして食べます。

もう一つの系統は、ブリー・ビーフと呼ばれ、煮た牛肉をほぐして牛脂と塩を混ぜたものです。ほとんどは缶詰で供されます。日本で言うコンビーフは、まさにこのブリー・ビーフです。フランス語の”bouilli(煮た)”という言葉からきているようですが、英語では”bully(いじめっ子)Beef”と呼ばれます。ブリー・ビーフは、産業革命が生んだ食品とも言えそうです。19世紀に缶詰が発明されると、船乗りの保存食、兵士の糧食として、ブリー・ビーフの缶詰が量産されています。1875年には、アメリカのリビー社が、おなじみの台形の缶詰を発売しています。日本では、1950年に発売されたノザキのコンビーフ缶が有名です。

台形の缶の形が、江戸時代の箱枕に似ていたことから、日本では枕缶と呼ばれたようです。巻き取り用の鍵のようなものが付属しており、缶の下部を鍵で巻き取るようにして開けます。リビーは、スライスしやすいように塊のまま缶から取り出せる形を考えたようです。また、当時、缶切りも十分には普及しておらず、缶切りが無くても開けられる缶を目指したとも言われます。ノザキのレトロな枕缶も人気だったようですが、開ける手間がかかり、手を切るリスクもあることから、2020年には廃止され、台形はそのままに、シールとプラスチックで底を作った缶に移行しています。あくまでも台形にこだわるあたりに、日本におけるコンビーフの元祖ノザキのプライドを感じます。

沖縄と言えば、ランチョン・ミートが有名ですが、コンビーフもよく食べられているようです。特に、賽の目に切ったじゃがいもと混ぜたコンビーフ・ハッシュは、家庭料理の定番だと聞きます。数年前に、沖縄のコンビーフ・ハッシュのレトルト・パウチが大人気となり、都内では、まったく買えない状態になったことがあります。さすがに沖縄のスーパーでは買えましたが、品薄にはなっていました。コンビーフは、ランチョン・ミートのビーフ版といった風情ですが、販売数は、ランチョン・ミートの方が、はるかに多いようです。いずれも進駐軍が持ち込んだ食文化ですが、やはり沖縄は豚肉文化だということなのでしょうか。(写真出典:cornedbeef.jp)

2022年11月11日金曜日

ラ・パロマ

国立西洋美術館で開催中の「 ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」を見てきました。国立ベルクグリューン美術館は、美術商ハインツ・ベルクグリューンの個人コレクションを中心に構成されますが、その改修工事にあわせ、実現した展覧会です。パブロ・ピカソを中心に、パウル・クレー、アンリ・マティス、アルベルト・ジャコメッティ等の作品が展示されています。展示は、彼らに大きな影響を与えたポール・セザンヌの作品群から始まり、半数を占めるピカソの作品は、制作年代順に展示されています。ベルクグリューンのコレクションの豊富さゆえ実現した展示方法だと言えます。

ピカソは、古今東西の画家のなかで、最も名前の知られた画家の一人だと思います。なぜピカソは、これほどまでに評価され、人気があるのでしょうか。ピカソは、ジョルジュ・ブラックとともにキュビズムの創始した画家です。キュビズムは、絵画の立体化において、遠近法と並ぶほど革命的だと言われます。ただ、歴史的重要性だけでは、ピカソ人気の説明として不十分だと思います。多作であったことも影響しているかも知れません。また、ピカソが注目を集め始めた時代は、産業革命によって財をなした資本家たちがその力を誇示する時代でもあり、絵画市場も活況を呈しました。ピカソは時代の波に乗った画家とも言えそうです。

しかし、ピカソ人気の最も大きな要因は、確かな画力に裏打ちされた”やさしさ”の表現だと思われます。キュビズムは、造形的には異様な代物だとも言えます。ピカソの絵画は、その見た目の異様さを超えて、対象へのやさしさや愛情あふれる目線を感じさせます。人々は、そこに惹かれるのだと思います。要は、技巧そのものではなく、技巧を持って何を描こうとしているのか、ということです。ピカソの絵画は、表面的な異様さゆえに、一層、そのやさしさが強く伝わり、人々をとりこにしているように思います。ピカソの本質を最もよく表わしているのは、シンプルな線だけで描かれた“平和の鳩”、”花と鳩”といったパロマ(鳩)の連作はではないかと思っています。

ピカソの確かな画力の背景には、デッサンの凄さがあると言われます。美術教師だった父親は、幼かったピカソに、徹底的にデッサンを仕込んだようです。マラガにあるピカソの生家の前を通ったことがあります。アパルトマンの前には、公園がありました。恐らく、ピカソは、数え切れないほど、公園の鳩をデッサンしたのだと思います。それが類い希な技巧と優しい目線を生んだのではないでしょうか。ピカソの鳩は、得も言われぬやさしい線で描かれ、見ただけで、心が穏やかになり、幸福感を感じさせます。まさに天才を感じさせます。ピカソのすべての絵画の背景には、あのやさしい鳩がいると言えるかも知れません。ちなみに、ピカソは、愛娘にパロマという名前を付けています。

今回のベルクグリューン美術館展で、最も興味を引いたのは。「両大戦間のピカソ」というコーナーでした。この時期のピカソ作品には、本来のやさしい目線だけではない不安感が感じられます。ピカソの代表作の一つ”ゲルニカ”が描かれた時期でもあります。多くのメタファーで埋め尽くされた絵画は、人間の愚かさへの怒りや絶望だけでなく、賢明さへの願いが込められているとも言われます。ピカソの反体制、左翼といったスタンスが、如実に反映されています。ただ、それは思想というよりも、愛と平和の画家ピカソの本質が現わす一側面なのだろうと思います。丸の内オアゾの1階には、”ゲルニカ”の複製が飾られています。あらためて見に行きたいと思いました。(写真:ピカソ”黄色のセーター” 出典:tokyo.np.jp)

2022年11月10日木曜日

扇子

龍馬扇
外国人に渡す日本土産には、結構、悩みます。もちろん、日本には、外国人が喜びそうな品物が数多くあるのですが、いざ、選ぶとなると、結構、難しいところがあります。かつて、会社の大先輩は、龍村の西陣織のテーブル・クロス、あるいは象彦の京漆器の手文庫と決めていました。いちいち悩まずに済みますから、いい手だと思います。ただ、いずれも高価なものなので、私は、よく舞扇を使っていました。舞扇は、ジャパネスクで、華やかなところが、外国人にウケるはずだと思った次第です。しかも、お土産用の安価なものから、老舗の高価なものまで幅広い品揃えがあり、時と場合に応じて選択できます。

 団扇(うちわ)は、古代において、世界中で同時発生したものと思われます。古代中国においても、古代エジプトにおいても、団扇は記録され、描かれています。しかし、それを折り畳み式の扇子にしたのは誰なのか、ということについては議論があります。中国起源説にも、韓国起源説にも、証跡となる文献が存在します。ところが、いずれにも、それを否定する文献も残っています。唯一、否定的文献が存在しないのが、日本起源説です。7世紀の檜扇が出土し、平安時代の文献では、団扇と扇子が区別されています。伝承に依れば、4世紀には、コウモリの羽にヒントを得たとされる蝙蝠扇が生まれたとされています。ヒノキの薄板で作られる檜扇に対し、木や竹の骨に片面だけ紙を貼ったものが蝙蝠扇です。

扇子は、涼をを得るために使われますが、平安期の貴族・武家社会では、遊びや儀式にも使われるようになり、骨に透かしを入れた透扇なども登場します。室町時代になると、宋や明で作られた両面に紙を貼った唐扇が逆輸入され、一般化されています。この時期、扇子は、日本の特産品として、多く輸出されています。主な輸出先は中国ですが、欧州にも伝わり、17世紀になると女性の持ち物として普及していきます。江戸期、扇子は、能・狂言、あるいは茶道において欠かせないものとなり、一般社会にも普及します。また、扇子は、用途や季節に応じて、様々なヴァリエーションを持つようにもなります。武家には、軍扇や鉄扇が登場し、冠婚葬祭では祝儀扇が使われ、芸能においては、舞扇が生まれます。

舞扇は、見栄えの良さだけでなく、頑丈さも求められます。踊りのなかでは、頻繁に開閉したり、ほうったりと、様々な使い方がなされるからです。基本的には10本の骨、厚手の紙、さらには骨と紙を糸で縫い合わせる場合もあります。また、要の部分には、鉛の重りが使われ、バランスが取りやすく、扱いやすくなっています。図柄は、踊りの種類によって多種多様ですが、おおむね遠目にも華やかな色使いのものが多いように思います。扇子の主な産地と言えば、やはり京都ということになります。“京の三職”という言葉もあります。京都の冠師、烏帽子師、末広師を指しますが、いずれも徳川幕府のお抱え職人でした。末広とは、その形状から縁起が良いとされた扇子の別称です。

私も、夏場には扇子を欠かしません。素早く汗をひかせるために使います。京都の宮脇賣扇庵の龍馬扇を愛用しています。宮脇賣扇庵は、1823年の創業です。”賣扇”とは、字のごとく扇子を売るという意味だと思っていましたが、実は、明治20年、日本画家・富岡鉄斎が、賣扇桜という京の銘木にちなんで命名した屋号のようです。龍馬扇は、男性用のやや大きめなサイズ、渋い色合い、美しい形が売りですが、実は、丈夫さにも優れています。今使っているものは、既に10年を超えていますが、いまだにしっかりしています。近年、夏場には携帯扇風機が大はやりです。実に不細工なものです。もっと日本発祥の扇子を使いこなしてもらいたいものだと思います。(写真出典:sumally.com)

2022年11月9日水曜日

アルプス越え

1991年に映画「羊たちの沈黙」が大ヒットして以降、ハンニバルといえば、ハンニバル・レクター博士を指すことが多くなったように思います。アンソニー・ホプキンスが演じたハンニバル・レクターは、強烈な印象を残し、続編、スピンオフもヒットしました。さらに、ハンニバル・レクターは、カニバリズムの代名詞にまでなった感もあります。すっかりお株を奪われた格好の本家、カルタゴのハンニバル・バルカ将軍も、古代ローマの人々から恐れられた存在でした。今でも、イタリアでは、悪さをした子供に「ハンニバルに連れて行かれるぞ」と言うのだそうです。東北地方の「もっこ(蒙古)くるぞ」と同じです。それにしても「羊たちの沈黙」の原作者トマス・ハリスのネーミング・センスの良さには脱帽です。

紀元前3~2世紀、共和制ローマとカルタゴは、3次に渡るポエニ戦争を戦います。第1次ポエニ戦争で敗れたカルタゴはシチリアを失います。カルタゴは、領土を拡大するため、ハミルカル・バルカ将軍に命じ、未開の地であったイベリア半島を植民地化します。26歳で父の跡を継いだハンニバル・バルカは、ローマ制圧を目指して、ピレネー山脈を越えます。海路を採らなかったのはローマの海軍力を恐れたためと言われます。ハンニバルは、ガリア人と戦い、あるいは買収し、ローマの目をかいくぐりながら、アルプスに到達します。ただ、季節は晩秋に至っており、険しい道に深い積雪という悪条件を考えれば、春を待っての進軍がまともな判断です。しかし、雪解けを待てば、ローマ軍の迎撃態勢が整うことは明白であり、ハンニバルは冬のアルプス越えを決断します。

過酷なアルプス越えで軍勢の半数を失ったとされますが、ハンニバルはイタリア半島に入ります。冬のアルプス越えを想定していなかったローマ軍は、完全に虚を突かれます。北部イタリアを制圧したハンニバルは、軍勢を回復させ、南下を開始します。ハンニバルは、連勝を重ね、イタリア南部のカンナエに達します。反撃態勢を整えたローマ軍も急行し、有名なカンナエの戦いが行われます。ローマ軍7万に対して、5万と劣勢だったカルタゴ軍でしたが、ハンニバルの包囲殲滅作戦にょって圧勝します。理想的な戦術ながらリスクも大きいとされる包囲殲滅戦ですが、カンナエの戦いは、史上希に見るほど完璧な成功を収め、ローマ軍は壊滅します。以降、ローマは、直接的な対戦を避け、ハンニバルの消耗を待つ作戦を展開します。 

ここで大きな謎が発生します。ローマ軍を壊滅させたハンニバルは、一気にローマを攻撃できたはずですが、動きを止めます。部下たちも、ローマ進撃をうながしますが、動きませんでした。市民が重装歩兵となって守る城塞都市の攻略は、簡単ではないことを知っていたからだと言われます。会戦では天才を発揮するハンニバルでしたが、城塞包囲戦はまったく別な戦いであり、時間と装備が必要です。また、包囲側は、援軍によって挟撃されるリスクもあります。ただ、戦術面以上に大きな問題は、ローマ陥落後の半島をいかに統治するかという点だったと思われます。ハンニバルに人的資源は少なく、かつ、イタリア侵攻に距離を置いていたとされる本国からの支援も期待できません。これが、ハンニバルがローマ侵攻を思い留まった最大の理由ではないかと思います。

その後、半島南部に封じ込められる形となったハンニバルは、徐々に勢力地域を狭められ、ジリ貧状態になります。逆に、ローマはアフリカに渡り、カルタゴに騎兵を供給してきたヌミディアを制圧、カルタゴに迫ります。本国に呼び戻されたハンニバルは、ザマの戦いにおいて、スキピオ・アフリカヌスに敗北し、第2次ポエニ戦争は終結します。紀元前4世紀のアレクサンダー大王の時代までは、戦闘に勝つことが、戦争に勝つことでした。第2次ポエニ戦争以降、そのような牧歌的な構図は失われたわけです。そのことを教えてあげたい人が、現代のロシアに一人います。ちなみに、その後、カルタゴの行政を担ったハンニバルは、見事な手腕を発揮し、国家再建を果たしました。ただ、その剛腕ゆえに反感を買い、結果、シリアへ亡命し、最後は自殺しています。(写真出典:en.wikipedia.org)

2022年11月8日火曜日

もう一つのW杯

いよいよ第22回FIFAワールド・カップ、カタール大会が始まります。アジアでは2回目ながら中東では初開催、暑さを避けるため初の11月開催、女性レフリーの初登場など、話題も多い大会です。コロナ禍、ロシアによるウクライナ侵攻といった異常事態のなかでの開催、あるいは、ブラジル、ドイツに次ぐ出場回数を誇るイタリアが予選敗退するなど異例の大会でもあります。ブック・メーカーによる優勝国のオッズは、ブラジル、フランス、アルゼンチン、イングランド、スペイン、ドイツという順番になっています。ドイツ、スペインと同組になった日本にとっては、ベスト8どころか、予選通過も厳しい大会になりそうです。

オリンピックと並ぶ世界最大のスポーツ・イベントであるFIFAワールド・カップには、”もう一つのワールド・カップ”と呼ばれる戦いがあります。スポーツ関連メーカーの戦いです。中心となるのは、ウェア、シューズ、ボールなどです。ボールは公式球が決められます。今回の公式球は、アラビア語で旅を意味するアディダスの”アル・リフラ”が選ばれています。ウェアは、当然、チーム毎に決められます。今回は、ナイキが13チーム、アディダスが7、プーマが6と続きます。以下、ニューバランス、ヒュンメル、カッパ等も採用されています。一方、シューズに関しては、個人の選択となっており、同じチームでも様々なブランドが使われています。公式球との相性からして、アディダスが有利とも言われます。

最も競技人口が多いとされるサッカーですから、関連商品の市場規模も膨大なものになります。ウェアは、選手だけでなく、サポーターも着用するので、べらぼうな販売数になります。シューズは、競技者個人の相性にもよりますが、やはり活躍した選手が着用したシューズは人気となります。サッカー・シューズは、特許の塊だと聞きます。スパイク・シューズ全般に言える機能性、軽量性、耐久性などに加え、サッカー・シューズでは、ボールとの接触面における摩擦のあり方が大きな問題となります。サッカー・シューズは、ゴルフ・クラブに例えれば、ヘッド部分だとも言われます。選手のプレイ・スタイルやキックの特性によって、多種多様なニーズが存在し、パフォーマンスに大きな影響を与えます。

サッカー・シューズの売上トップ3は、ナイキ、アディダス、プーマです。アディダスとプーマは、1924年、ドイツで創業されたダスラー兄弟製靴工場を起源とします。1948年、兄弟はたもとを分かち、アディダスとプーマが設立されています。長い歴史を誇る欧州メーカーに比べれば、アメリカのナイキは新参者です。1964年、神戸のオニツカタイガー(現アシックス)の靴に惚れ込んだフィル・ナイトが、オレゴンに輸入総代理店をスタートします。1971年、代理店契約を打ち切られ、銀行の融資も断れたフィル・ナイトは、日商岩井の協力を得て、自社ブランドを立ち上げます。開発力と広告のうまさで、ナイキはトップ・ブランドに躍り出ました。そのきっかけとなったのが、1978年、ナイキの代名詞とも言えるエアソールの発売でした。

スパイク・シューズは、陸上競技用としてスタートしています。1868年、アメリカでウィリアム・カーチスが、自作し使ったのが起源とされます。1900年、イギリスのジョセフ・ウィリアム・フォスターが、後のリーボックを立ち上げスパイクの販売を開始しています。サッカーの場合、スパイクは極めて危険な代物となります。替わって、底面に突起を付けたスタッドが、1923年、ヒュンメルによって開発されています。デンマークのヒュンメルは、もともと1923年にドイツで創業された会社です。いずれにしても、今年の夏までには、”もう一つのワールド・カップ”の決着はついているものと思われます。本戦の方では、この4大会連続して欧州勢が優勝していますが、商売としては、ナイキに押されっぱなしのようです。ちなみに、オッズ上位の6カ国のユニフォームは、アディダスとナイキが半々となっています。(写真出典:livedoor.jp)

2022年11月7日月曜日

「フェアリーテイル」

監督:アレクサンドル・ソクーロフ            2022年ロシア・ベルギー

☆☆☆

東京国際映画祭、 ガラ・セレクション招待作品です。ソクーロフ監督にとっては 「フランコフォニア ルーヴルの記憶」(2014)以来の作品となります。 手書きされた背景に、実写映像を合成して作られています。アニメーションの一種なのでしょう。チャーチル、 スターリン、 ヒトラー、 ムッソリーニの4人が、 記録映像から合成されています。さらにイエス・キリスト、 ナポレオンも登場します。 兵士や大衆は、 海の波のように描かれるのみです。欧州における第二次大戦の主役たちは、それぞれの自国語で語りますが、会話は成立せず、モノローグが交差するだけです。

絵画的背景と記録映像の合成は、 恐らく新しい試みなのでしょうが、ソクーロフの映像としては、 何の違和感もありません。むしろ、ソクーロフらしい映像だと思いました。それにしても、 ソクーロフの為政者たちへのこだわりは、「権力者4部作」以降も、変わることなく続いているわけです。黄泉の国で邂逅した風情の為政者たちは、 歴史的事実やそれぞれの意図を付け合わせるわけでもなく、一方的な批判を行うでもなく、ただ空虚なモノローグを吐き出すだけです。 各人の個性を浮き彫りにしようなどといった姑息なねらいもありません。 ひたすらソクーロフ独自の虚無感が広がるだけです。 

ソクーロフは、ミニマリズムの監督と言われます。ミニマル・アートは、説明的な表現、あるいは装飾性を排し、可能な限りシンプルな形や色をもって表現しようとする芸術です。ソクーロフも、かつては、ドラマ的な映画を作成していましたが、ソヴィエト崩壊後、ミニマリズムに移行しています。旧ソヴィエトにあっては、映画産業も、統制下にあり、表現すべきもの、表現方法は、厳しく規制されていました。表現方法が限られると、表現技法そのものは洗練されるものです。旧ソヴィエトが、優れた映画を生み出した所以でもあります。ソクーロフも、国立映画大学を卒業し、表現を磨き、ソヴィエト崩壊を迎えたわけです。

ソクーロフにとって、抽象性の高い表現方法は、単なる実験的手法ではなく、その感性を表出させるために最も適した手法だったということなのでしょう。ミニマリズムは、ロシア構造主義に発するとも言われます。ロシア革命によって、ブルジョア芸術を否定する動きのなかで生まれたとされます。多くのロシア人が欧州やアメリカに亡命し、ミニマリズムが広まることになります。構造主義は革命運動の象徴でもあったわけですが、一方で、ロシア人の内省的な気質が、構造主義をより抽象性の高い表現へと進化させていった面もあるのでしょう。ソクーロフの映画が持つ抽象性は、ロシアの歴史に根ざしているとも言えそうです。

どう考えても退屈なはずのソクーロフの映画ですが、飽きることなどありません。実に不思議だと思います。思想や主張、あるいは独特なテンポやダイアローグで形成されるソクーロフの世界自体が魅力的だということになりますが、煎じ詰めれば、映像の力なのではないかと思います。観客を一定方向に誘導するドラマ的映像とは異なり、ソクーロフの散文詩的映像は、我々の脳を刺激し続けます。観客は、何かを感じるか、考え続けることになります。それはあたかもソヴィエトの全体主義とソヴィエト崩壊後の個人主義を象徴しているようでもあります。(写真出典:filmarks.com)

2022年11月6日日曜日

関ヶ原

東海道新幹線に乗って、関西方面へ向かう時、決まって、進行方向右側の窓側の席に座ります。富士山の雄姿を拝みたいからです。いくつになっても、富士山を見ると、素直に感動し、心の中で合掌しています。そうさせる山だとも思います。実は、もう一つ、右側の席に座る理由があります。関ヶ原の古戦場です。古戦場は、新幹線の南北に広がります。南側には、吉川広家が布陣した南宮山、その後ろに毛利秀元が陣した栗原山があります。しかし、どうしても関ヶ原中央部と松尾山が見たくて、進行方向右側に座ります。もう飽きるほど見てきた風景なのですが、いまだに合戦に思いを馳せながら、しっかり見てしまいます。

1885年、明治政府の要請に基づき、軍事顧問として来日したドイツ帝国のメッテル少佐は、関ヶ原の布陣図を見るなり、西軍勝利と断じたとされます。布陣だけ見るなら、軍略家ならずとも、ど素人でも西軍の勝ちと判断できます。東軍を袋小路に誘い込む布陣は、それほど見事なものでした。当然、徳川家康も、そう思ったはずです。しかし、家康は、陣を関ヶ原中央まで進め、合戦に勝利します。家康は、東軍の左翼後方に陣取る毛利軍が動かず、正面左翼の小早川秀秋が寝返ることを知っていました。西軍の完璧な布陣は、戦う前から破綻していたわけです。ちなみに、メッテルの話は、有名な話ですが、根拠もなく、司馬遼太郎の創作と見られています。この人は、たまにこういうことをやらかします。

巷間、小早川秀秋の寝返りで西軍は負けたとされますが、勝敗を分けた最大の要因は、毛利一族の吉川広家が、毛利本隊を大阪城に留め、関ヶ原にあっては、毛利秀元軍の前に陣取って動きを封じたことだと思われます。家康に内通していた小早川秀秋も、毛利軍が動かないことを見て決断し、大谷吉継の陣に襲いかかったのでしょう。小早川寝返りの動きは、広く西軍に知られており、大谷軍も、松尾山方面に対する防御を固めていました。しかし、正面での戦いが熾烈となり、防御の兵の一部を正面に回さざるを得なかったようです。家康の周到な戦いぶりは理解できますが、一方で、吉川や小早川の動きも掴んでいたはずの石田三成が、なぜ、事前に、有効な対応策を打たなかったのかが気になるところです。

諸説あるのでしょうが、煎じ詰めれば、三成の過信、あるいは三成の人となりということになるのではないでしょうか。神君家康の仇とされ、江戸期の文献では、悪人扱いですが、両論ある人だったようです。家康打倒を決断した三成を諫めつつ、その熱意に参戦を決めたとされる大谷吉継は、世の人は三成は無礼者であると陰口を叩く、石田殿には智はあっても勇は足りないと見える、と語っているようです。若くして秀吉の側に仕え、能吏ぶりを発揮した三成は、武将たちの反感を買うことも多かったようです。加藤清正、黒田長政ら七将による三成襲撃事件など典型です。君主に忠実な能吏ではあっても、将としての器には欠ける面があったのでしょう。ギリギリまで西軍の切り崩しを図った家康とは大違いと言えます。

吉川広家は、家康優勢と確信し、毛利領安堵を条件に東軍に加担しています。小早川秀秋は、秀吉の正室である北政所(高台院)の甥であり、秀吉の養子として高台院に育てられます。慶長の役後、秀吉によって、転封のうえ、減封されます。戦場における軽率な行動を咎められたとも言われます。一旦失った領地でしたが、秀吉亡き後、家康によって復領されます。小早川秀秋は、家康に深い恩義があったわけです。加えて、母とも慕う高台院のためにも東軍につくべきだと説得されています。高台院は、三成・淀君連合と対立関係にあり、三成は高台院の敵だというわけです。このあたりは、後世の作り話も多く、よく分からないところです。等々といった背景に加え、わずか6時間で決着した合戦経過にも思いをいたしながら、車窓から景色を見ていると、関ヶ原は、あっという間に通り過ぎていきます。(写真出典:kamurai.itspy.com)

2022年11月5日土曜日

「1976」

監督: マヌエラ・マルテッリ    2022年チリ・アルゼンチン・カタール

☆☆

チリの女優マヌエラ・マルテッリによる初監督作品であり、東京国際映画祭のコンペ部門参加作品です。政治サスペンスだと思って観たら、思いっきり肩透かしを食いました。勝手に政治サスペンスだと思ったこちらも悪いのでしょうが、チリ、1976年と言えば、当然、政治サスペンスの傑作「サンチャゴに雨が降る」(1975)を思い起こします。「1976」は、政治サスペンスとは言えませんが、背景としての政治に頼りすぎている面があります。結果、退屈で中途半端なサスペンスになった印象があります。コンペ部門に選出されたことすら、疑問を感じます。 

1970年、チリでは、サルバトール・アジェンデが大統領に選出され、世界初となる自由選挙によって選ばれた左翼政権が誕生します。大統領選挙中、左翼政権誕生を恐れた富裕層とアメリカは、軍司令官にクーデターを迫りますが、司令官は、これを拒否します。司令官は、CIAの暗躍により、暗殺されます。結果、この事件がアジェンデに有利に働き、大統領選に勝利します。しかし、その政権運営は、国内外からの妨害もあり、極めて厳しいものとなります。1973年、CIAの支援を受けた陸軍総司令官ピノチェトがクーデターに成功し、アジェンデは自殺に追い込まれました。このチリ・クーデターを描いたのが「サンチャゴに雨が降る」でした。

”サンチャゴに雨が降る”とは、大衆にクーデター発生を伝えるラジオの暗号でした。クーデター直後に製作された「サンチャゴに雨が降る」は、クーデターの実態を生々しく世界に伝えました。大統領に就任したピノチェトは、独裁者として、左翼を徹底的に弾圧する恐怖政治を展開します。「1976」は、その恐怖政治初期を時代背景としています。逃亡中の左翼青年を助けたことから、主人公の裕福な女性にも、政治的恐怖が忍び寄るというのが、メイン・プロットです。恐怖政治を体現する軍人や官憲は、一切登場しません。それが、この映画の売り、あるいは挑戦だったのかも知れません。ただ、そのことが、ドラマの展開を、ひどく矮小化してしまった印象があります。

主人公を演じた女優の演技は、なかなかのものです。東京国際映画祭主演女優賞も獲得しました。女優出身である監督のきめ細かな演出の賜物かも知れません。写実的な演出も好印象です。ただ、プロットのまずさ、凡庸なカット割り、安っぽいTVドラマのような音楽などが、映画を小粒にして、つまらないものにしています。初監督作品だけに、アイデアを詰め込みすぎた面もあるのかも知れません。フランソア・トリフォーは、映画監督のデビュー作には、その後、その人が撮ることになる映画のすべてが込められている、と話しています。通常、映画監督になる前には、現場での長い下積みの時代があります。そこで様々なアイデアが蓄積され、発酵を重ね、デビュー作で爆発するものなのでしょう。ただ、往々にして空回りしてしまうこともあるわけです。

ピノチェトは、16年間、 大統領の座にありました。 経済的には、ネオ・リベラリズムを導入し、チリの奇跡と呼ばれた繁栄も実現しましたが、 長くは続きませんでした。南米における左翼化ドミノを恐れるアメリカは、 一貫してピノチェト支援を続けました。 しかし、ベルリンの壁が崩壊すると状況は一変します。アメリカの後ろ盾を失ったピノチェトは、 選挙に敗れ、 大統領を辞任します。辞任後は、 殺人、 拷問、 非合法な蓄財などで多くの訴追を受けます。ただ、 老衰のため 、16年間積み重ねた罪業を裁かれることなく、 亡くなっています。(写真出典:imdb.com)

2022年11月4日金曜日

ビールの味

飲み屋で、日本の4大ビール・メーカーの利き酒会をやったことがあります。私は、 ビール党ではありませんが、4社の味の区別くらいつきます。簡単だとおもったのですが、1社しか当たりませんでした。ビール党を自負する人でも、すべて正解した人はいませんでした。ビール会社の人に聞くと、日本のビールの利き酒は、意外と難しいとのこと。日本のビールの味は、すべて苦味中心となっており、似ているからだと思います。その苦味こそ、私がビール党ではない理由でもあります。ビンのビールならグラス一杯、生ビールなら小ジョッキ一杯、それ以上は欲しくありません。苦味が生む清涼感は、そこまでだと思います。

さらにビールを飲み続ける必要があれば、私は、他のアルコール飲料を加えて飲みます。いわゆるビア・カクテルということになります。例えば、ウィスキーを、少し加えるだけで、ビールの苦味が消えておいしく飲めます。いわゆる”ボイラー・メーカー”ですが、正しいボイラー・メーカーは、ウィスキーと言ってもバーボンを入れます。テキーラを加えれば”サブマリノ”になります。韓国の”爆弾”は、ビールにソジュに加えます。いずれもビア・ジョッキに、他のアルコールが入ったオンス・グラスを沈めて飲むことも多く、随分と豪快な、あるいは乱暴な飲み物と思われています。ただ、味はまろやかになって、美味しく飲めます。

他にも白ワインを入れた”ビア・スプリッツアー”、カンパリを入れた”カンパリ・ビア”なども美味しく飲めます。この系統は、スパークリング・ワインの代わりにビールを使っているわけです。加える飲料は、アルコール類とは限りません。レモン系炭酸を加えれば“パナシェ”、ジンジャー・エールなら”シャンディ・ガフ”、トマト・ジュースなら”レッド・アイ”になります。爽やかなパナシェは、私のお気に入りです。また、真夏のゴルフ場のレッド・アイなど、格別なうまさがあります。ビア・カクテルは、ビールのうまさの決め手である苦味をわざわざ消すわけですから、ビール党からすれば、言語道断、もってのほか、ということになるのでしょう。

しかし、世界的に見れば、苦味がビールの全てというわけでもありません、世界には100種類を超すビールが存在するようです。ビールは、酵母が麦汁表面で発酵する上面発酵のエール、逆に下部で発酵する下面発酵のラガーに大別されます。英国のエールは芳醇で濃厚、ドイツ系のラガーはのどごし良く爽快とされます。日本のビールの主流は、ラガーのなかでも、チェコ発祥のピルスナーのドイツ版であるジャーマン・ピルスナーとされます。日本では、江戸末期から明治初期にかけて、英国のエールが主流でした。それが、明治中期には、すっかりドイツ系のラガーに置き換わります。高温多湿な日本の風土には、エールよりもラガーが適していたのかも知れません。

それ以上にラガー隆盛の背景となったのが、明治政府の方針転換でした。明治初期には、英国を手本とした薩長政府ですが、岩倉使節団以降、新興国ドイツをロール・モデルと定めます。以降、法制、軍制、官制、あらゆるものがドイツ一辺倒になっていきます。ドイツ人が増え、ドイツ人との交流も増え、ドイツへの留学生も増えます。ビールも、ジャーマン・ピルスナーが主役に躍り出て、折しもビールの普及期と重なったことから、これがビールの味だとされ、定着していったわけです。政府の方針が、ビールの味にまで影響し、それが、いまだに続いているというのも驚きです。近年、日本もドラフト・ビールのブームが起こり、様々な味が楽しめるようになりました。150年を経て、日本におけるビールの国際化、多様化が、ようやく実現したとも言えそうです。(写真出典:kakakumag.com)

2022年11月3日木曜日

「バルド」

監督: アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ  2022年メキシコ

☆☆☆☆ー

東京国際映画祭のガラ・セレクションに招待されたイニャリトゥ監督の新作「バルド、偽りの記録と一握りの真実(原題:Bardo, False Chronicle of a Handful of Truths)」を観ました。今回、黒沢明賞を受賞することもあって来日中のイニャリトゥ監督の舞台挨拶もありました。イニャリトゥによるフェリーニ的な映像散文詩といった風情です。映画監督として、外面的に、精緻な映像で詰めたドラマを作り上げる人たちは、どこかで、一度、自らの内面にある観念や情念を解き放ち、自由に表現してみたくなるものなのでしょう。それは、私小説であり、とことん自らと向き合うというつらい作業でもあります。自らの死というフレーム、あるいは笑いといった要素で客体化することなしには成し遂げることが難しいものなのでしょう。

アメリカで成功したドキュメンタリー作家である主人公は、イニャリトゥ本人です。故郷であるメキシコへの旅は、両親、家族、古くからの友人たち、祖国との関係を深掘りし、自分の人生や仕事を見つめ直すという遠大な旅でもあります。舞台挨拶の際、イニャリトゥは、本作は、ノスタルジックなコメディであり、是非、理性のスイッチを切った状態で観てほしい、と言っていました。手法的には、イニャリトゥも、フェリーニも、同じ道にたどりついたのだと言えます。ただ、私小説とは言え、フェリーニは、映画としての完成度を追究したのに対し、イニャリトゥは、より私的なイメージやメタファーにこだわリ過ぎています。それが、160分という尺の長さにつながり、やや冗漫になったきらいがあります。

とは言え、本作には、それをさほど苦に感じさせないほどの映像美があります。撮影監督は、多くの監督に信頼されるダリウス・コンジです。撮影には、65mmフィルムが使われたようです。高画質のフィルムが映し出す映像は、広がりと奥行きを感じさせ、見事な映像になっています。ダリウス・コンジは、65mmの特性を存分に活かしていると思います。本作は、Netflex製作になっており、11月中旬から劇場公開、12月にはNetflexで配信されるようです。この映像は、パソコンや35mm焼き直し版ではなく、70mmのアスペクト比で上映可能な映画館で観るべきだと思います。ここ数年のこの時期、Netflexは、アカデミー賞ねらいの作品を投入してきます。今年は、本作が、その第1弾になるなのでしょう。

タイトルの”バルド”は、「チベット死者の書」からとられているようです。チベット仏教では、中陰と呼ばれる死と次の生の間こそが解脱を得る最大の機会であり、死者に「バルド・トゥ・ドル・チェンモ」という経を聞かせることで、解脱を導くとされます。いわゆる枕経であり、49日間、死者の枕元で読経されます。つまり、本作をチベット仏教的に解釈すれば、タイトルバックは、主人公の死の瞬間を意味し、それから49日間、朦朧とした意識に浮んでは消える前生の有り様を映像化したということになるのでしょう。映画の中には、その象徴がいくつか描かれています。主人公夫婦は、産後すぐに亡くなった長男の遺灰を大切にしていますが、娘は、それを中陰の状態にあると言います。これも、その一つでしょう。

輪廻転生という再生の思想は、ヒンドゥー教の聖典ヴェーダに基づきます。私たちは、仏教を通じて、体に染みついている面があります。現世と来世という構造を持つキリスト教から見れば、神秘主義的に写る思想なのでしょう。イニャリトゥは、必ずしも輪廻転生を前提にしているようには思えません。単に、死の瞬間、向こう側から客観的に人生を振り返るという構図を取りたかっただけなのでしょう。イニャリトゥの”バルド”は、解脱への導きではなく、人生に対するそこはかとない慈しみを知るという現世的な意味があるのでしょう。(写真出典:imdb.com)

2022年11月2日水曜日

新宿ゴールデン街

1958年に、売春禁止法が全面適用されるまで、売春が黙認された特殊飲食店が集まる街が存在しました。いわゆる”赤線”です。もともと日本にも公娼制度はありましたが、戦後、GHQの要請によって廃止されます。人身売買を根絶することがねらいだったようです。公娼が禁止されると、街娼が増加し、当局の取締が追いつかなくなります。結果、一定地区内に限り、売春が黙認された特殊飲食店街が生まれます。東京で有名だったのは、吉原、新宿二丁目、玉の井、鳩の街、洲崎などでした。同時に、当局から特殊飲食店の営業許可を受けずに売春を行う、いわばもぐり営業の店が集まる街も生まれ、こちらは”青線”と呼ばれました。闇市からスタートした新宿三光町の飲み屋街も青線でした。

売春禁止法とともに、三光町の青線営業店は、すべて廃業し、ほとんどの店舗が居抜きで飲み屋になります。新宿ゴールデン街の誕生です。新宿区役所と花園神社の間にある、東京ドームのグランドの半分程度という狭い区画に、今も200以上の店がひしめき合っています。1960年代になると、ゴールデン街は、文筆家、演劇人、映画関係者などが集まるユニークな飲み屋街になります。そのきっかけは諸説あるようですが、よく分かりません。それぞれの狭い店には、純文学者、ミステリ作家、ジャーナリスト、俳優、カメラマンなど、細分化されたジャンルの人たちが集まることでも知られています。ゴールデン街に入り浸り、巣立っていった文化人の名前は、枚挙にいとまがありません。常連客のなかには、著名な政治家や経営者も含まれ、あるいは、一部、海外の著名な文化人も出入りしていたようです。

とても、普通のサラリーマンなどが入り込める世界ではありませんでした。歌舞伎町のように、ぼったくりが懸念されるということではなく、狭い店に常連の文化人が集う街は敷居が高すぎました。一度だけ、ゴールデン街で飲んだことがあります。学生向けの入社案内の作成を担当した時、普通のカメラマンによる普通の写真は嫌だと思い、戦場カメラマンにたどりつきました。パレスティナで活動中のカメラマンでしたが、折良く、帰国中であり、引き受けてくれました。案の定、入社案内らしからぬ面白い写真が撮れました。そのカメラマンが、報道写真家が集まる店へ連れて行ってくれたのです。ワクワクもので出かけました。さすがに面白い人たちが集まっていましたが、やはり居心地が悪く、長居もせず、再訪することもありませんでした。

歌舞伎町の名物の一つが、タイガーさんです。タイガーマスクのお面を被り、ド派手な服装に身を包み、自転車で駆け抜けます。最初に見た時は、精神を病んだ人かと思い、気持ち悪かったものです。ただ、新聞配達を本業とする明るい映画好きのおじさんであり、街の人気者でした。タイガーさんのドキュメンタリー映画を観たことがあります。映画界の監督や俳優たちと親交が深く、特にお気に入りの女優さんたちとは、よくゴールデン街で、マスクをとって飲んでいるそうです。自分については多くを語らないタイガーさんですが、マスクを被り始めたのは、1970年代のはじめだったようです。60年代に吹き荒れた学生運動は、東大安田講堂事件を最後に下火に向かいます。社会が方向感を失い、混迷の時代へと入って行った時代です。

1980年代後半、バブルの時代を迎えると、ゴールデン街も、地上げに翻弄されることになります。店主たちは、一致団結して、地上げに抵抗しますが、更地も増えていきます。危機に瀕した店主たちは、団結して、祭を行うなど人を呼び込む努力を重ね、ゴールデン街の存続を図ってきたようです。近年では、インバウンド客も見物に訪れるようです。欧米人にとっては、ブレードランナーの世界そのものに見えるのでしょう。学生運動の終わりとともに、文化の発信地だった新宿は、ただの盛り場に変わっていったように思えます。ゴールデン街も、文化の梁山泊的な熱気は失われたのかも知れません。しかし、タイガーさんは、マスクを被って、街を走り続けてきたわけです。アートなパフォーマーとも言えるタイガーさんですが、ひょっとするとゴールデン街の化身なのかも知れません。(写真出典:mobile.twitter.com/shinjuku_tiger1)

2022年11月1日火曜日

映画館

映画を見るということは、孤独な行為です。友人たちと行こうが、家族で行こうが、デートで行こうが、映画を見ている間は孤独です。映画のあとに感想を語り合うことはあっても、やはり映画を見ている間は孤独です。映画館は、スクリーンを通して夢を見る場所でもあります。夢を共有するという言い方もあるのでしょう。ただ、それも幻想に過ぎません。なぜなら、夢を見ることも孤独な行為だからです。映画館は、不特定多数に孤独を提供する場所です。あるいは、不特定多数が孤独を共有する不思議な場所とも言えるのでしょう。

ツァイ・ミンリャン監督の2003年作品「楽日」を、東京国際映画祭で観てきました。ヴェネツィア国際映画際で、批評家連盟賞を獲得した作品です。ツァイ・ミンリャンは、ヴェネツィア、ベルリン、カンヌという三大国際映画祭の全てで賞を獲得しています。台湾ニューシネマの第二世代とでも言うべき監督なのでしょうが、他の監督とは大いに異なるユニークな映画作りを行う個性派です。セリフの無い、長いショットの多用は、映画というよりも映像的な散文詩に近いようにも思えます。そのショットをつなぎ、人間の孤独を映し出すあたりは、ミケランジェロ・アントニオーニを思わせるものがあります。実に不思議な映像世界です。

「楽日」は、閉館となる古い映画館の最後の上映回という設定になっています。人影もまばらで場末感の漂うな劇場内の人間模様と、スクリーンで上映される台湾の古い時代劇とがリンクします。ほぼセリフのない、ほぼ固定されたカメラによる長いショットは、ツァイ・ミンリャンの世界そのものです。エンド・ロールには「60年代を懐かしんで」とクレジットされます。映画少年だったであろう監督の、映画、そして映画館への愛情の深さが伝わります。映画館の客席には、上映されている時代劇に主演した俳優二人もいます。年老いた二人は、映画が終わった後、ロビーで出会い、近頃、映画を観る人が減ったことを嘆きます。

恐らく、他にも楽屋落ちは、それなりに仕込まれているのでしょう。私が気がついたものもあります。 監督が、ヴェネツィアで金獅子賞を獲得した「愛情萬歳」のなかに、ヤン・クイメイが、空家で、いかり豆(揚げた空豆)と思しきナッツを、殻を割るカリッという音とともに、ひたすら食べ続けるシーンがありました。映画館では、ヤン・クイメイが音をたてながら豆を食べ続け、終演後の映画館の床は、殻だらけになっています。また、「愛情萬歳」のラスト・シーンは、野外音楽堂の階段状の客席で、ヤン・クイメイが泣き続けます。手前の席には、映画館にもいた老優が座っています。これは、「楽日」の映画館の構図そのものです。

高く評価された自作の原点が、映画館の暗闇にあったことを示しているのでしょう。「愛情萬歳」は、1994年の作品です。高度成長を成し遂げ、豊かになった台北で、若者が抱える孤独感をテーマにしていました。監督のなかでは、それが、そのまま映画館の持つ孤独、あるいは孤独を共有するという幻想につながっているのでしょう。ちなみに、「楽日」とは、最終日のことです。日本の千秋楽も、楽日と言われることもあります。また、原題は「不散」であり、「また、必ず会いましょう」といった意味になるのだそうです。「不見不散」、会わずには終われない、という言葉が語源とのことです。(写真出典:movies.yahoo.co.jp)

夜行バス