2023年9月29日金曜日

「ヒンターラント」

監督:シュテファン・ルツォヴィツキー  2021年オーストリア・ルクセンブルグ

☆☆☆ー

映像は「シン・シティ」を思い起こさせますが、傾いたり、ゆがんだりした街や建物を見ていて思い浮かんだ言葉は”ドイツ表現主義”です。1920年代のベルリンを中心に花開いた前衛芸術運動です。19世紀に印象派が開いた主観的表現を、コンセプトの表現という20世紀のアートへと展開させました。ゆがんだ街は、第一次大戦直後の帰還兵の困惑、ウィーンの混乱が反映された主人公の心象風景なのでしょう。背景は、CGではなく、ブルー・スクリーンとVFXで構成されているようです。それが、またドイツ表現主義的な印象を強めているのでしょう。戦後の混乱や困惑、帝政の崩壊に、ソヴィエトの捕虜収容所というモティーフを加え、猟奇的殺人というストーリーが展開します。実に魅力的で興味深い設定です。

ただ、残念ながら、凡庸な脚本が、モティーフをこなし切れておらず、意欲的なVFXの背景の威力も発揮しきれていません。素材の面白さに力が入りすぎ、やや収拾がつかなくなった感があるように思います。一定のムードや緊張感の維持には、監督の力量の高さを感じさせるだけに、残念な結果だったと思います。監督は、オーストリア出身で、CMやミュージック・ビデオで実績を積み、映画に進出したようです。2007年には「ヒトラーの贋札」でアカデミー外国語映画賞を獲得しています。ナチスが英国ポンドの贋札づくりを行ったベルンハルト作戦に基づく映画でした。コメディですが「エニグマ奪還」なる映画も撮っていますから、時代への執着があるのかもしれません。

ソヴィエトでの捕虜収容所というモティーフは興味深いものがあります。通常、戦争捕虜は、後方攪乱の意味から脱走や騒動を企てます。そのための組織化ならば、理解できるところです。ただ、管理側に与して保身を図る捕虜組織がうまれると、捕虜の間に軋轢や怨嗟が生まれます。また、ソヴィエトの場合、赤化教育という問題もあり、各国は帰還兵の扱いに神経を使います。日本のシベリア抑留は、戦争捕虜ではありませんが、同じような問題が起きています。帰国した捕虜たちの多くは、こうした問題を語ろうとしません。極めて異常な状況下で起きた事と諦めているのか、あるいは関係者が多すぎるので発言が憚られたのかも知れません。世界中の捕虜収容所で起きたことの多くは闇の中だと思われます。

オーストリア=ハンガリー帝国は第一世界大戦に敗れ、650年続いたハプスブルク家の時代が終わります。カイザーのいないウィーンは天地がひっくり返った状態となり、帰還兵たちはカイザーのために戦った兵士として白い眼で見られます。敗戦後の日本も似たような状況だったのでしょうが、天皇は残り、帰還兵も白眼視されることはありませんでした。とかく敗戦国の帰還兵は苦労するものなのでしょうが、第一世界大戦後のオーストリア兵の状況はとりわけ厳しいものだったと思います。厳しかったのは帰還兵だけではありませんでした。ハプスブルク王朝が滅亡しなければ、中欧の諸国はこれほど永い苦難の歴史を経験しなくともすんだであろう、とはチャーチルの言葉です。

いずれにしても、興味深いモティーフが多く、個々のモティーフを深掘りした映画が見たくなります。さて、肝心な脚本ですが、着想は悪くないのですが、ミステリの作り方が分かっていないのではないか、と思わせるほど展開が良くないわけです。例えば、判じ物のバラしが早いので、もう一段、二段のどんでん返しがあるものと思っていました。あるにはあったのですが、素人にも予測出来るような代物でがっかりしました。監督や脚本家が再度ミステリを作ることがあるとすれば、是非、ヒッチコック映画を研究してからにした方がいいと思います。(写真出典:imdb.com)

2023年9月27日水曜日

100kmウォーク

人生のなかで、一番長く歩いたのは、奥入瀬渓流から十和田湖畔のキャンプ場までの約25kmだったと記憶します。中学3年生の頃であり、体力もあり、仲間たちとワイワイ言いながら歩いたので、疲れはしましたが、さほどしんどかった記憶はありません。キャンプ場到着後には、テントを張り、夕食を作り、キャンプ・ファイヤーを囲んで遅くまで盛り上がりました。江戸時代の旅人は、平坦な道であれば、成人男性は日に10里(40km弱)、 女性で8里くらい歩いたものだそうです。25kmなど、老女の距離だったわけです。昔の人は、ナイキのシューズも履かずによく歩いたものだと思います。ただ、わらじは、長距離を歩くのには合理的だったとも聞きます。足底全体に体重が乗るので、疲れにくいということのようです。

「行橋~別府100キロウォーク」なるイベントが行われているのを知ったのは10年ほど前のことでした。毎年春、福岡県の行橋から大分県の別府までの100km強を、一昼夜かけて歩くというイベントです。前半は平坦な道が多いのですが、国東半島にかかる後半は、厳しい峠道を上り下りすることになります。5千人ほどが参加し、うち7割ほどが完歩するようです。制限時間は26時間。早い人は12時間くらいで完歩するようです。各自の判断で短い休憩は、随時、取ります。長く休むと、それ以上歩けなくなるようです。男性が途中棄権する理由の多くは、股ずれだと聞きました。対策を施して参加するのでしょうが、それでも厳しいようです。比較的効果があるのは馬油を塗ることだそうです。そんな馬油の使い方も初めて知りました。

実に過酷なチャレンジですが、興味をそそられました。結果的には、日程上、無理があり、参加することはありませんでした。日頃から歩いているわけでもないので、参加しても早々に途中棄権していたとは思うのですが、それでも何故か気になるチャレンジでした。背景には、マラソンは無理でも、歩くのであれば出来そうだという甘い考え方があるのでしょう。全国には、20弱の100kmウォーク・イベントがあるようです。レースではなく、あくまでもイベントという位置づけになっているようです。これがタイム・レースだとすれば、あまりにも過酷な競技だと言えます。ところが、世の中には過酷さを追い求める人たちも多く、超長距離のマラソンはじめ、ほぼ登山のトレイル・ラン、あるいは砂漠のマラソンもあります。

これは、いわゆるβエンドルフィンの効果ということになるのでしょう。人間の脳は、物理的な痛みに伴うストレスを感じると、それを緩和するためにβエンドルフィンを分泌すると言われます。βエンドルフィンは、幸せホルモンと呼ばれるドーパミンの分泌を高めて、多幸感を生み出します。βエンドルフィンは、モルヒネと同じような効果を与えることから脳内麻薬とも呼ばれるようです。これが、ランナーズ・ハイを生むメカニズムだとされます。多幸感を得るこのサイクルが脳内で学習されると、いわゆる”ハマる”という状態になり、運動に限らず、激辛食やサウナでも同じことが起きるわけです。なお、近年は、βエンドルフィンではなく大麻と同じ成分を持つ内因性カンナビノイドが主要因だとする説が有力になりつつあるようです。

一説によれば、βエンドルフィンは、多少息があがる程度の有酸素運動を30分続ければ分泌されるそうです。ただ、有酸素運動を続ければ、体力がついてきて、30分程度ではストレスを感じなくなるものと思われます。そこでβエンドルフィンを求めるエスカレートのサイクルに入るわけです。激辛も、サウナも同じなのでしょう。サウナと言えば、近年のブームを受けて、いつも行くスーパー銭湯でも熱波師が来たり、機械で自動的に熱波を送るオート・ロウリュウが導入されています。過日、オート・ロウリュウを試したところ、軽い火傷に近い状況に陥りました。 薬も過ぎれば毒となる、といったところでしょうか。左足の血流に若干の問題を抱え、かつ年齢も年齢なので、誠に残念ではありますが、100kmウォークにチャレンジする日は来ないだろうなと思っています。(写真出典:nishinippon.co.jp)

2023年9月25日月曜日

「アステロイド・シティ」

監督:ウェス・アンダーソン        2023年アメリカ 

☆☆☆☆

もうここまで来れば、ひたすらウェス・アンダーソン・ワールドを楽しむだけだと思います。とにかく見ていて気持ちがいい。それに尽きます。本作は、1950年代アメリカのスター・ゲイザーの少年少女が主なモティーフになっています。それだけで十分以上にウェス・アンダーソン・ワールドが炸裂しています。今回、監督が、最もやりたかったことは劇中劇なのかも知れません。違和感もなくスムーズに劇中劇が展開されるあたりは、ウェス・アンダーソンの力量を感じさせますが、一方でその必要性についてはやや疑問な面もありました。TV番組を使った劇中劇のフレームは、50年代アメリカ文化をシニカルに映し出すために欠かせなかったのかも知れません。

今年の春、AWA展を見に行きました。AWAとは”Accidentally Wes Anderson”であり、偶然、ウェス・アンダーソン的風景を見つけた世界中の人々が写真を投稿するサイトです。実際にウェス・アンダーソンの映画に登場していたかのような写真が並びます。そのなかの傑作を集めて美術展にしたのがAWA展です。韓国で開催されて評判となり、東京でも開催されました。レトロでキッチュでパステル・カラーにあふれた写真の数々は、とても楽しいものでした。特に1950年代テイストが感じられる作品が、無条件に心地良いと感じました。恐らく、自分が子供だった頃、つまり最も幸せだった頃にあこがれたモダニズムを思い出させてくれるからなのだろうと思います。

ウェス・アンダーソン映画の特徴の一つは、様式化されたパステル・カラーの映像ですが、今年、大ヒットしたグレタ・ガーウィグの「バービー」も、映像としてはAWA的なところがありました。演出も、似ているように見えますが、大きな違いがあります。バービーは、監督の主張するところを観客に押し込んでいくスタイルであり、ウェス・アンダーソン映画の自然主義的なアプローチとは全く異なります。独特なテンポや間合いが生み出すウェス・アンダーソン映画のコミカルで軽い風合は、リネンのようでもあります。縦糸には、人間に対する愛があり、そこに織り込まれる横糸に何を感じるかは、観客に委ねられています。映画のスムーズな展開は、アレクサンドル・デスプラの音楽によるところも大きいと言えます。

フランスが誇る希代の才人デスプラは、アカデミー賞を2回受賞していますが、最初の受賞は、ウェス・アンダーソンの「グランド ブダペスト ホテル」(2014)でした。デスプラに限らず、ウェス・アンダーソンは、常連のスタッフやキャストとともに映画を作っています。俳優では、今回もジェイソン・シュワルツマンやエドワード・ノートン等が出ています。ただ、いつもより常連が少ないように思います。代ってトム・ハンクス、スカーレット・ヨハンセン、ティルダ・スウィントン、ウィレム・デフォー、さらにはマーゴット・ロビーまで登場します。豪華な俳優陣が揃い、かつ皆がウェス・アンダーソン的演技に徹しています。これも、ウェス・アンダーソンの評価と実績の高さの証明なのでしょう。

ウェス・アンダーソン映画に惹かれる理由は、パステル・カラーやテンポだけではありません。一つは、そこはかとなく漂う連帯感です。これが押しつけがましさのない不思議な幸福感を与えてくれます。そして、今一つは、うまく表現できないのですが、映画に流れているシュールな空気感が与えてくれる自由な感覚と微妙な寂寥感です。夜見る夢とほぼ同じ印象があり、ポール・デルヴォーの絵画にも同じものを感じます。現実と無意識との間にある何かのように思えます。それはウェス・アンダーソンの感性が自然に生むものであり、意図なものとは思えません。ひょっとすると、それは、映画という表現の本質に関わっているのかも知れません。(写真出典:asteroidocity-movie.com)

2023年9月24日日曜日

相撲節会

相撲節会図
相撲、レスリングの類いは、太古の昔から、世界各地で行われていたのでしょう。日本の相撲は、豊作祈願や豊凶占い、あるいは悪霊封じとして、古くから行われていた神事だったようです。古墳時代の埴輪には力士像がありますから、少なくとも1,600年くらい前には定着していたことになります。一般的に相撲の起源とされるのは、日本書紀に記載される野見宿禰と当麻蹴速との対戦です。大和の当麻邑の蹴速は、強力を誇り、生死をかけて勝負する者を探していました。これを聞きつけた垂仁天皇は、出雲国で勇士と評判の野見宿禰を召し出し、対戦させます。両者、激しく戦い、宿禰に腰の骨を折られた蹴速は命を落とします。宿禰は、蹴速が所有していた土地を与えられ、永らく垂仁天皇の側に仕えたとされます。

第11代天皇とされる垂仁天皇は、実在するとすれば、3世紀後半から4世紀前半の大王だったと推定されています。記紀等によれば、垂仁天皇は、娘の倭姫命に天照大神を祀る地を探すように命じます。諸国を巡った倭姫命は、神託を受けて伊勢神宮を創建します。また、垂仁天皇は、天皇の直轄地である屯倉を最初に作ったともされます。ヤマト王権草創期を担った大王なのでしょうが、この時点では、まだ部族連合の頂点に立っていなかったと思われますが、宿禰を出雲国から呼んだということは、出雲は既に支配下にあったということなのでしょう。いずれにしても、これ以降、宮中で相撲が取られるようになり、7~8世紀頃には相撲節会として行事化されることになります。相撲節会の初出は、734年、聖武天皇の時代とされます。疫病や天災に苦しんだ時代であり、大仏も建立されています。

相撲節会は、七夕の余興として行われていたようですが、その後、多少意味合いが変わり、独立した行事として運営されることになります。8世紀末、律令制の立て直しを図った桓武天皇は、地方兵力として健児の制を全国に布きます。健児とは、兵士を意味し、律令体制のなかで整備されましたが、その後、途絶えていました。相撲は、健児の鍛錬の一環として推奨され、相撲節会も式部省から兵部省の管轄に代わります。そして、相撲節会は、七夕から独立した行事となっていきます。相撲は、神事から武芸へと変質したわけです。12世紀に至り、平安京が不穏な時代を迎えると、宮中の相撲節会も廃れていったようです。ただ、迎えた戦乱の世にあって、相撲は武士の鍛錬、実戦における技として、広がっていくことになりました。

宮中行事であったために、相撲節会の記録は、詳細に残されることになりました。まずは、宮中を警護する左右の近衛府が、全国から力士を選抜し、招集します。集まった力士たちは、節会に向けて稽古を重ねますが、天皇もこれを検分したと言います。今の横審稽古総見を思わせます。立ち会いは立ったまま行われ、掛け声とともに取り組みが開始されます。勝者は、土俵上で勝者の踊りを舞っていたようです。また物言いの制度もあり、決着がつかない場合には、天皇が裁可しました。また最後の取り組みを行う力士は最手(ほて)と呼ばれ、特別な扱いを受けたようです。まさに後の横綱・大関そのものです。つまり、相撲は、相撲節会として宮中行事化されることで、今につながる競技の形を形成したわけです。

江戸期の始め、寺社が建築資金等を集めるために”勧進相撲”を始めます。ただ、勝負の結果を巡る争いが絶えなかったことから禁止されます。ところが、明暦の大火が起こり、寺社再建のために勧進相撲は再び解禁されます。寺社奉行のもとに興業団体も組織化され、複数の場所で定期開催されようになっていきます。そして、1768年には、回向院で大規模な興業が行われ、ここに江戸相撲が形を成し、江戸庶民の人気を集めることになります。さて、宮中での相撲節会が廃れてから900年経ちますが、天覧相撲は、今も続いています。2019年初場所の天覧相撲は語り草となっています。取り組みが終わり、席を立たれた平成天皇ご夫妻に、館内から万歳三唱が起こります。平成天皇は、その年5月に退位が決まっており、これが最後の天覧相撲でした。万歳の声を聞いた天皇は、席に戻り、館内に手を振ったのでした。(写真出典:shoryobu.kunaicho.go.jp)

2023年9月22日金曜日

カノム・チャン

タイ旅行の楽しみの一つは、明らかに料理だと思います。今回、三食付きのツアーを利用しての旅でしたが、食事はどれも美味しく、はずれなしでした。一番驚いたのは”カオマンガイ”です。シンガポール名物”ハイナン・チキン・ライス” のタイ版です。カオマンガイが大人気だという”ルエントン”という店で食べました。ホテルのなかにある大きな店ですが、超満員で、かつ皆がカオマンガイを食べていました。ハイナン・チキン・ライスは好物ですが、本場シンガポールの最も有名な店でも食べたことがあるので、それを超えるとは思っていませんでした。ところが、優に超えていました。驚くほどしっとり仕上がった鶏肉、香り高いだけでなく味付けも濃いめのジャスミン・ライス、人生最高のカオマンガイだったと言えます。

タイ料理の魅力は、複雑な味にあると言われます。五味のうち、甘味、酸味、塩味、旨味を組み合わせ、そこに辛味と香りがプラスされます。さらには、ココナツ・ミルクを加えれば味にマイルドな深みが出ます。代表料理と言えばトム・ヤム・クンですが、今回はエビではなく鶏肉を使ったトム・ヤム・ガイや、ココナツ・ミルクを入れたナムコン、入れないナムサイも食べました。どれも美味しくいただきました。近年、名物として認知が高まったカニと卵の”プー・パッ・ポンカレー”も2度ほど食べました。間違いなく美味しいわけです。発祥の店はバンコクにあるので、一度行ってみたいと思います。他にも、定番のカレーにマッサマン・カレー、パッタイ、ヤム・ウンセン、ガイヤーン等々の定番も楽しみました。

一つ覚えた料理もあります。至って単純なキャベツのナンプラー炒めです。バーンパコン川に面したおしゃれな川魚の店にいった際、付け合わせとして出されたのですが、これが美味しくて、作り方を聞きました。帰国後、自分なりにアレンジして作っているのですが、簡単で美味しく、定番になりつつあります。実は、今回、ねらっていた食べ物があります。タイの庶民的な定番お菓子”カノム・チャン”です。ところが、レストランのデザートと言えば、フルーツばかりで、お菓子系は出てこないのです。ところが、ガイドに勧められたホテル近くのマンゴー屋で見つけました。ココナツ・ミルクをかけ、塩味のバスマティと一緒に食べるマンゴーも珍しいのですが、できたてのカノム・チャンには感動しました。

カノム・チャンは、タピオカ粉と上新粉に、ココナッツ・ミルクと砂糖を加えて蒸し上げたお菓子です。印象的には、ういろう、鯨餅系です。カノムはお菓子を意味し、チャンは層のことだと言います。白と緑の層が、タイではおめでたい数字とされる9層に重ねられています。ほのかな甘味、ココナツ等の風味、そしてプニュッとした食感がたまりません。東京のマンゴツリーで食べるカノム・チャンも美味しいのですが、冷えて、やや柔らかさを失っています。マンゴー屋では、出来たてだったとみえて、ほの温かく、プルプルの食感でした。カノム・チャンの作り方は、一層を蒸し上げたら、次の層を重ねてまた蒸すという、とても手間暇のかかるものです。家庭で作るよりも、買って食べるお菓子のようです。

タイのビールと言えば”シンハー”です。バンコクで飲むと、シンハーってこんなに美味しかったかな、とさえ思うわけです。ビールに限らず、土地の料理や酒は、その土地の気候に合うように作られています。すっきりと軽いテイストのシンハーも、東京ではなくバンコクで飲むべきものなのでしょう。今年の夏は異常な暑さとなり、残暑も厳しいものがあります。果たして、これは異常気象なのか、あるいは常態化するものなのかは分かりません。蒸し暑い日に、バンコクのスーパーで買い込んだインスタント食品の刺激的な辛さや酸味を味わっていると、なぜか元気が出てきます。温暖化が進むとともに、日本でも、タイ料理が、より一層、広まっていくように思えてきます。(写真出典:thailand-navi.com)

2023年9月20日水曜日

ピンク・ガネーシャ

バンコクから車で東へ約90分行くと、バーンパコン川にたどり着きます。そのほとりにワット・サマーン・ラッタナーラームがあります。巨大なピンク色のガネーシャが祀られ、御利益があるというので、タイの人々に大人気だそうです。我々が行ったのは土曜の午前中でしたが、既に大混雑でした。参道には、日本漫画のキャラクターのフィギュアが置かれ、どう見ても安っぽい田舎の遊園地といった風情でした。ただ、巨大なピンク・ガネーシャや観音像には圧倒されました。聞けば、たいそう御利益があり、しかも願いは他の3倍以上の早さで叶うとのこと。そもそもガネーシャは、ヒンドゥー教の神様ですが、現世利益の代表格として大人気であり、インドではいたるところで見かけます。

ガネーシャは、シヴァとパールヴァティーの長男です。パールヴァティーが、自らの体の汚れを集めて人形を作り、息を吹き込み、ガネーシャが生まれます。ガネーシャが母の言いつけで浴室の見張りをしているところへ、シヴァが戻り、父と知らないガネーシャは、シヴァを拒みます。怒ったシヴァは、ガネーシャの首をはね、遠くへ投げ捨てます。それが我が子と聞かされたシヴァは、首を探しますが見つからず、最初に出会った象の首を切って持ち帰り、ガネーシャの体につけて復活させます。また、インドの叙事詩「マハーバーラタ」の著者ヴィヤーサが文盲だったため、ガネーシャは自らの牙を折り、それを筆代わりに筆記したとされます。こうして象の頭に片方が折れた牙、そして4本の手を持つガネーシャが誕生します。

ガネーシャは、障害を取り除き福をもたらす神とされ、ことに商売繁盛や学業成就といった願いが叶うとされているようです。経験な仏教国のタイで、なぜヒンドゥーの神が信仰を集めているのかということが気になりました。ところが、ガネーシャは、仏教でも、梵天や帝釈天と同様に教えや信徒を守る護法神として信仰されているとのこと。上座部仏教だけかと思いきや、密教でも歓喜天、あるいは聖天として信仰されているようです。ただ、タイのように現世利益の塊として信仰を集めているわけではありません。見た目の印象で言えば、タイの上座部仏教は、即物的で、現世利益を重視する信仰的傾向が強いように思えます。大乗に慣れ親しんだ我々からすれば、同じ仏教とは言え、かなりの違和感を覚えます。

上座部仏教は、大乗に対して小乗とも呼ばれます。個人の解脱を求める上座部は、衆生救済を掲げる大乗仏教から見れば、小さいというわけです。馬鹿にした言い方です。上座部仏教では、出家したものだけが輪廻転生から解脱できるとされます。個人救済的であることが、在家信者による現世利益指向、あるいは宗教的であるよりも信仰的色彩を濃くしているのかもしれません。大乗仏教の中国や日本では、この現世利益指向を道教や神道が担ってきたようにも思えます。タイの信者は、仏像や僧侶の前で長い時間祈っていますが、読経するわけではなく、願い事を繰り返し唱えているのでしょう。花や食物といった日々の供物、そして浄財の寄進は功徳ではありますが、現世利益を強く求める信心の現れとも思えます。

タイの寺院や仏像の多くは、見た目に大きく、金で覆われたきらびやかなものです。現世利益を分かりやすく伝えるため、見た目のありがたさが重視されたのだと思います。また、それを可能にする莫大な寄進が背景にあるわけです。ちなみにピンク・ガネーシャは、2011年に建立されています。日本では古刹ほどありがたがられる傾向がありますが、タイでは基準が違うようです。また、人々が週末に家族総出でお参りする様は、テーマパークを思わせるものもあります。バンコク郊外や遠方の寺院では、この点も十分に考慮されているのではないでしょうか。現世利益面だけを強調して書きましたが、タイの人々には功徳の発想が根付いていることは間違いないと思います。「微笑みの国」というキャッチ・コピーも、何かと合掌する習慣も、功徳の発想がベースにあるのでしょう。(写真出典:veltra.com)

2023年9月18日月曜日

天使の都

ワット・アルン
バンコクの正式名称は、とてつもなく長く、首都としては世界一長いと聞いたことがあります。あまりにも長いので、思い切り省略してバンコクと呼ぶのだろうと思っていました。今般、タイに旅行して、長い正式名称のなかにバンコクという言葉が含まれていないことを初めて知りました。法的に定められたバンコクの正式名は、その長い儀礼的名称の始めの言葉からとった”クルンテープ・マハーナコーン”だそうです。また、タイの人たちは、通常”クルンテープ(天使の都)”と呼んでいるとのこと。日本も西洋ではJapanと呼ばれていますが、これは日本の中国語発音”Rìběn”が元になっています。中国語のRはJにも聞こえなくはないところがあります。西洋人には、”Jìběn”と聞こえ、Japanになったのでしょう。

では、バンコクという名前は、一体、どこから出てきたのか、気になりました。アユタヤ王朝時代の16世紀前半、マラッカに進出したポルトガルがタイにも上陸します。ポルトガルは、現在のバンコク中心部とはチャオプラヤ川をはさんだ対岸のトンブリーに拠点を築きます。ポルトガル兵が地元民に地名を聞くと”パームコーム(ゴムの木が生えている水辺の村)”と答えます。それを固有名詞と勘違いしたことから、海外ではバンコクという地名が広まったのだそうです。ちなみに、私が子供の頃、チャオプラヤ川は“メナム川”と呼ばれていました。メナムとはタイの言葉で川のことです。西洋人が”メナム・チャオプラヤ”を”メナム”と略し、それが広まっていったようです。

西洋による地図上の発見、つづく植民地競争の時代の産物です。世界中に似たような話があるのでしょう。ネイティブ・アメリカンをインディアンと呼んだことなど、まさに典型です。後年、メナム川は、さすがにチャオプラヤ川に変えられました。ただ、バンコクはそのままです。Japanのような発音の違いによる場合はまだしも、勘違いで生まれた名前は、正した方がいいように思います。とは言え、これほど世界的に定着した名称を、変えていくことは至難の技であり、コストも膨大なものになると思われます。例えば、植民地時代の屈辱的な名称であれば、いくらかかっても正すべきですが、バンコクの場合は微妙なところです。ちなみに、タイはアジアで唯一、建国以来、独立を維持している国です。

タイが独立を守れたのは、軍事力がゆえではありません。例えば、宿敵ビルマとは勝ったり、負けたりです。アユタヤ遺跡は、ビルマ軍に破壊された王都跡です。タイが独立を維持できた理由としては、まずは地政学上の優位性があげられます。植民地を拡大する英仏が、タイを緩衝地帯にすることで合意しました。また、タイの近代化への取り組みの成果とも言われます。それらの背景には、名君と言われるラーマ5世チュラロンコーンの存在があります。その在位は、1868~1910年であり、ちょうど日本の明治時代に重なります。チャクリー改革と呼ばれる中央集権化、近代化の取り組みを進めました。また、英仏にマレー半島、ラオス、カンボジアでの宗主権を割譲させられたものの、独立は守るという外交手腕を発揮しています。また、ラーマ5世は、奴隷を解放したことでも知られます。

東南アジアを代表する大都市にして、世界有数の観光都市でもあるバンコクには、モダンな高層建築と仏教国らしい古刹が共存します。おしゃれな商業施設の周囲には東南アジア的な雑踏が広がり、経済成長とともに拡大した貧富の差を感じさせます。急速に過ぎた経済成長は、インフラ整備の遅れをもたらし、名物とも言える大渋滞や絡まった無数の電線を生んでいます。正式名称では帝釈天が作ったとされる天使の街は、混沌のなかにあると言えます。ただ、不思議なことに、活気あふれる街に無秩序感は感じられません。バンコクでは、黄色い袈裟をまとった僧侶に花や食物を捧げる人々を多く見かけます。恐らく経験な仏教国であることが、天使の街の秩序を保っているのでしょう。(写真出典:travel.co.jp)

2023年9月16日土曜日

宇宙中継

1963年11月23日、朝5時28分、世界初となる衛星中継が日米間で行われました。アメリカは、既に人工衛星を介したTV中継技術を開発していました。翌年に東京オリンピックを控えた日本は、急ぎこの技術のキャッチ・アップに努め、世界初の衛星放送にこぎつけます。当時は、宇宙中継と呼ばれていました。我が家も含め、日本中が早起きをして、この歴史的瞬間に臨んだものです。放送では、ジョン・F・ケネディ大統領がメッセージを送る予定でした。ところが、「アメリカ合衆国からの特別のプログラムを送ります」という手書きのボードに続いて「この電波に乗せて、誠に悲しむべきニュースをお届けしなければなりません」というアナウンスがあり、現地時間22日12時30分、ケネディ大統領が暗殺されたことを伝えます。

若くして大統領に就任したケネディは、当時、日本でも人気があり、よく知られていました。小学生など、よく分かりもしないのに、”尊敬する人は”と聞かれるとケネディ大統領と答えていたものです。それだけに、ニュースの衝撃は大きなものでした。初めて衛星を通じて流されたTVニュースが、アポロ計画はじめ宇宙開発を積極的に推進したケネディ大統領の死だったという実に悲劇的な幕開けになったわけです。ただ、ダラスでの事件発生からわずか3時間後に、日本の各家庭がTVでそのニュースを知るということは、実に画期的だったと言えます。あらためてTVの速報性が認識されたとも言えます。なお、2日後、容疑者リー・ハーヴェイ・オズワルドが、ダラス警察の地下駐車場で、ジャック・ルビーによって銃撃される瞬間も全米にTV中継されていました。

1967年6月27日早朝には、世界初となる多元衛星中継番組「Our World」が、14カ国を結んで放送されます。再び、日本中が早起きして、TVの前に集まります。私が覚えているのは、ビートルズのEMIスタジオでの録音風景、そしてフランコ・ゼフェレッリ監督の映画「ロミオとジュリエット」のヴァチカンでの撮影風景です。ビートルズは、この放送のために書き下ろした「All You Need Is Love」を演奏します。この曲は、放送の翌月にはリリースされ世界的な大ヒットとなります。世界初の衛星を使った新曲キャンペーンと言えそうです。1968年に公開された「ロミオとジュリエット」は、ニーノ・ロータの音楽とともに世界的な大ヒットを記録しています。他にも、世界的著名人が多く出演し、世界的なお祭り状態でした。

20世紀は発明の時代でした。技術革新は、明るい未来であり、人を幸せにする人類の進歩として大歓迎された時代でした。同時に、技術革新は、ビジネス、世界経済を拡大する20世紀のエンジンでもあり続けました。2000年、さる会の新年会で挨拶にたった牧野昇氏は「これからしばらくの間、大きな技術革新は望めない。ビジネスは、当面、マーケティングでがんばるしかない」と語っていました。マーケティングは、ソフトと理解すべきかも知れません。技術革新に頼ってきた経済拡大、特に日本の産業界は、21世紀を迎え、大きな岐路に立たされたわけです。技術革新が停滞するだけでなく、フロン・ガスのように技術革新の悪影響が顕在化し、大きなつけが回ってきた面もあります。

一般的に、世界三大発明と言えば、火薬・羅針盤・活版印刷を指します。20世紀の三大発明は何か、という話もあります。ただ、立場や見方によって諸説あり、定説には至っていません。人工衛星を、その一つとする説もあるようですが、多く見かけるのは、半導体・コンピューター・レーザーという説です。核融合、トランジスタ、DNA、あるいはプラスチック、コンテナを入れるべきという意見もあります。ちなみに、アインシュタインが人類最大の発明としたのは「複利」だったと言われます。これは、金融機関のセミナーなどで都合良く使われている定番の話です。事実なのでしょうが、どのような思いで言った言葉のか、よく分かりません。私には、明晰なアインシュタインが、金融の恐ろしさを皮肉った発言のように思えてなりません。20世紀は強欲の世紀です。強欲が技術革新を生み、技術革新が更なる強欲を生みました。(写真出典:time-space.kddi.com)

2023年9月14日木曜日

「アル中女の肖像」

監督: ウルリケ・オッティンガー 原題:Bildnis einer Trinkerin 1979年西ドイツ

☆☆☆+

ウルリケ・オッティンガーは、ベルリンの映画監督であり、画家、写真家でもあります。コンスタントに映画を発表してきましたが、日本で公開されることは、ほとんどなかったようです。アート系の作風ですが、コミカルなタッチが特徴的であり、アート系と言えばシリアスな作品を好む日本の観客にはマッチしなかったのでしょう。彼女の盟友でもあり、本作でも主演を務めるタベア・ブルーメンシャインも芸術家です。画家、女優、ファッション・デザイナー、映画監督、ミュージシャンとマルチに活躍した人だたようです。どこか退廃的な匂いをまとった前衛芸術の都ベルリンを象徴するような二人だったのでしょう。ちなみに、本作は、監督のベルリン三部作の一つとされているようです。

映画は、ストーリーらしいストーリーを持たず、ベルリンの様々な場所で、コニャックを飲み続ける主人公の寸描を中心に構成されます。アル中女が描いたベルリンのスケッチと言ってもいいのでしょう。コミカルな演出もありますが、映像は、エッジの効いたアートを感じさせます。その大きな要因は、主演のタベア・ブルーメンシャインが、自らデザインしたというハイ・ファッションです。ヘルムート・ニュートンのヴォーグの写真を思わせる映像が展開されています。ヘルムート・ニュートンのドラマチックなエロティシズムはありませんが、退廃的、二元論的なアプローチは似たところがあります。これも、またベルリンらしさを感じさせます。

20世紀初頭のワイマール共和国の時代、帝政から解放されたベルリンには、表現主義、構造主義、新即物主義、ダダ、シュールリアリズム、バウハウス等々、前衛的な芸術が花開きます。前衛芸術の都ベルリンの源流は、ここにあります。そのムーブメントのなかで、まだ新しい技術だった写真や映画も、芸術として注目を集めることになります。世界初のファッション写真家として知られるイーヴァ、そして彼女のアシスタントだったヘルムート・ニュートンが生み出した新しい芸術の形が、ウルリケ・オッティンガー監督の作品にも反映されていると思います。本作は、彼女の愛するベルリンのスケッチですが、ベルリンでしか生まれ得ない映画とも言えます。

ウルリケ・オッティンガー監督の映画も、幅広い意味では、ニュー・ジャーマン・シネマなのかも知れません。1960年代に、停滞する古い体質のドイツ映画を否定することから生まれたニュー・ジャーマン・シネマは、70年代に入り、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーやヴェルナー・ヘルツォークの活躍で全盛期を迎えます。オッティンガーの作品は、彼らの映画が持つシリアスでどっしりとした印象とは大きく異なります。彼らの映画がオペラ的だとすれば、オッティンガーの作品はオペレッタ的と言えるかも知れません。ニュー・ジャーマン・シネマのなかでは、ヴィム・ヴェンダースが近いようにも思えます。オッティンガーは、ドイツ耽美派と呼ばれることもあるようです。

この映画には、多くの芸術家や映画人が出演しているようですが、誰が誰やら分かりません。一人だけ分かったのはパンク歌手のニーナ・ハーゲンです。東ドイツ生まれのニーナは、1974年に「カラーフィルムを忘れたのね」と言う曲をヒットさせます。陰鬱たる東ドイツの政治・社会を暗に批判した曲として知られます。2021年、東ドイツ出身のアンゲラ・メルケル首相が退任式で、青春時代のハイライトだったとして、この曲を演奏させています。本作も、ベルリンに壁があった時代の西側で撮影されています。酒と自由を謳歌しているように見える西側ですが、街は、どこか神経質で、不安定で、中途半端な印象を与えます。ベルリンの壁の高さは4.2mでした。しかし、壁が作る影は、それ以上に大きく伸びて、街の両側を覆っていたということなのでしょう。(写真出典:eiga.com)

2023年9月12日火曜日

隼人征討

隼人の盾
弟の山幸彦と兄の海幸彦は互いの生業の道具を交換します。山幸彦は、兄の大事な釣針を海でなくし途方に暮れます。そこに現れた潮の神によって、山幸彦は、海中の綿津見神(わたつみ)の宮へ送られます。そこで海神の娘である豊玉姫といい仲になった山幸彦は、3年を過ごします。里心がついた山幸彦は、兄の釣針をもって故郷へ帰ります。山幸彦は、海神がくれた潮を満ちさせる玉と潮を引かせる玉を使って、兄を服従させます。そこへ妊娠していた豊玉姫が来て子供を出産します。山幸彦は、見てはいけないと言われた産屋を覗き、そこに横たわるサメの姿を見つけます。それを恥じた豊玉姫は子供をおいて海に戻ります。子供は鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と名付けられ、長じて神武天皇の父となります。

古事記や日本書記の山幸彦海幸彦の神話です。海幸彦の子孫は、薩摩隼人、大隅隼人となります。隼人は、陸奥の蝦夷同様、ヤマト王権に従わない”まつろわぬ民”でした。紀元前2世紀頃の漢書によれば、倭国は100余りの国があるとされ、1世紀になると、倭奴国王の金印が示すようにある程度統合が進んだものと思われます。2世紀後半には倭国大乱が起こりますが、邪馬台国の卑弥呼が部族連合の頂点に立つことで乱を収束させます。ただ、全部族が連合したわけではなかったようです。中国の歴史書に倭国の記載が消える”空白の4世紀”に、ヤマト王権が連合の長になったと推定されていますが、やはり連合に参加しない部族も残ります。それは、稲作を生業としない民だったのでしょう。

5世紀の宋書に言う”倭の五王”の時代、ヤマト王権は国内を平定し、朝鮮半島にも進出する大王となります。王権の外にあった陸奥の蝦夷、九州南部の薩摩隼人、大隅隼人に対する征討も繰り返し行われますが、簡単ではありませんでした。720年に隼人の反乱が起こり、これを征討した王権は隼人を服従させます。その80年後には、蝦夷征討も、ほぼ完了します。征討にあたり、ヤマト王権は、武力の行使のみならず、饗応、分断化、包囲孤立化、移住、官職登用など、様々な方策をとっています。山幸彦海幸彦神話も、大国主の国譲りと同様、隼人を天孫降臨神話に取り込み、服従させようとするヤマト王権の情報操作だったと思われます。

蝦夷の場合、天孫降臨神話への取り込みは行われていません。陸奥も、鉱物資源はじめ朝廷にとっては重要な地域だったわけですが、南洋の島々、中国、朝鮮半島につながる九州南部は、はるかに重要度が高かったと思われます。また、広大で山がちな陸奥には、多数の部族が分散していました。一方、隼人は、薩摩隼人、大隅隼人とまとまった部族を形成しており、外交策も展開しやすかったものと思われます。朝廷は、隼人を武人として、あるいは呪術師として活用し、畿内への集団移住も行っています。必要性もあったのでしょうが、むしろ広い意味での懐柔策、反乱抑制策という面もあったのではないでしょうか。対して、蝦夷のアテルイは都で断首されています。この違いは、地域の重要度の違いもありますが、朝廷の力が増したことの表れでもあるのでしょう。

神話への取り込みという観点からは、天孫降臨の地も気になるところです。一般的には、天孫降臨の地は宮崎県北部の高千穂峡とされますが、その根拠は「日向国風土記」です。ただ、風土記に先立つ古事記では場所の特定はされず、日本書紀では、霧島連山の高千穂峰とされています。いずれが天孫降臨の地なのかということも興味深い話ですが、それ以上に、日本書紀が、なぜ隼人の本拠地であった霧島を天孫降臨の地としたのか、ということが気になります。古事記では、意図的に場所の特定を避け、いずれともとれる記載にした可能性もあります。やはり、情報操作による隼人の取り込みが意図されたのではないかと思ってしまいます。それにしても、他部族を取り込むに際して大和朝廷がとった戦略の見事さには驚くばかりです。その硬軟取り混ぜた諸策の展開は、現代の外交に通じるところもあると思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2023年9月10日日曜日

QT8

タラ・ウッド監督のドキュメンタリー「クエンティン・タランティーノ 映画に愛された男(原題:QT8:The First Eight)」(2019)を観ました。俳優やスタッフへのインタビュー、あるいは撮影風景等を通じて、タランティーノのデビュー作「レザボア・ドッグス」から「ヘイトフル8」までの8作を分析しています。ただ、本人へのインタビューは一切ありません。映画ファンは、タランティーノ映画の話をするのも、聞くのも大好きです。そういう意味では、本当に楽しい映画でした。ところで、タランティーノの9作目は「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」。よくできた映画で大ヒットしましたが、私はピンと来ませんでした。タランティーノは、10作撮ったら引退すると公言してきました。2023年秋から、いよいよ10作目の撮影が始まるようです。なお、「キル・ビル」は、vol.1とvol2で一本という勘定です。

私が、最も好きなタランティーノ映画は何かと言えば、やはり「パルプ・フィクション」ということになります。「レザボア・ドッグス」、「ジャンゴ」、「ヘイトフル8」が同率2位、他は同率3位といったところです。タランティーノ映画の特徴は様々ありますが、私が好きなのは、心地良いテンポ、オタクっぽい仕掛け、斬新な暴力シーン、そして延々と続く意味のないおしゃべりです。時としてユーモラスでもある会話シーンは、キャラクターの乾いたリアリティを表現するとともに、派手な暴力シーンのためのプレリュードともなっています。無駄話と暴力シーンは、完全にセットとなって映画のポテンシャルを高めています。その手法は、ヒッチコック映画の緩急の付け方が原点だと思います。緊張と緩和は、観客を楽しませるための基本的な映画文法です。

若い頃、タランティーノがレンタル・ビデオ屋で働いていたことはよく知られています。そこで、ありとあらゆる映画を観たと言います。ビデオ・レンタル屋が、彼の映画学校だったわけです。緩急の使い方も、そこで学んだのでしょう。タランティーノ映画はB級映画へのオマージュにあふれていますが、それらもすべてこの学校で仕込んだわけです。タランティーノは、それらをオマージュのためのオマージュに留めることなく、ドラマを構成する効果的な演出やモティーフに昇華させています。そこがタランティーノらしさだと思います。映画オタクが映画を作ればこうなるといった風情のタランティーノ映画ですが、ただのオタクではありません。その構成力と細部へのこだわりには天才を感じます。

音楽へのこだわりもタランティーノの特徴です。主に60年代の忘れられたヒット曲が巧みに使われ、B級映画感を高めます。曲はサーフ・ロック系が多く、チープなエレキ・ギターやテナー・サックスが印象的です。演出と一体化した選曲は、サブ・カルチャーの王様らしさが、ストレートに出る部分でもあります。自らのレコード・コレクションを聞きながら、イメージを膨らまし脚本を書くという話には頷けるものがあります。最も印象的な音楽は、やはり「パルプ・フィクション」のオープニングで流れるディック・デイルの”ミザルー”です。オープニング・シーンは、映画の顔です。「パルプ・フィクション」のオープニングは歴代ベストに入ると思います。ちなみに、”ミザルー”はサーフ・ロックを代表する曲ですが、原曲は、中東の大衆音楽”ミサルルー”です。

タランティーノ映画は、B級映画を題材としたA級映画だと思っています。6作目の「デス・プルーフ」までは、タランティーノ・テイスト満載でした。ここまでが、いわば第1期で、やりたいことをやりきったのかも知れません。「イングロリアス・バスターズ」以降は、ややA級指向が強くなります。「ジャンゴ」は、いわば正統派の名作だと思います。「ヘイトフル8」は、A級指向とB級テイストがうまくマッチし、タランティーノらしさを感じました。タランティーノは、カンヌのパルム・ドールはじめ、多くの賞に輝いています。アカデミー脚本賞も2回受賞しています。映画史に残る偉業です。ただ、自分で決めたキャリアの終盤に入り、アカデミー作品賞と監督賞が欲しくなったのではないかと思います。最終作品となる次回作「The Movie Critic」は、タランティーノらしさ全開でお願いしたいところです。(写真出典:eiga.com)

2023年9月8日金曜日

しぞーか・おでん

例えば、鹿児島の人たちが「かごしま」ではなく「かごんま」と言うように、静岡の人たちは「しずおか」ではなく「しぞーか」と発音します。静岡の言葉は、共通語に近いと言っていいと思います。しかし、しぞーかの人は、この発音の違いで、土地の人間かどうか、一発で分かると言います。連続母音の融合にあたるのでしょう。「何もない」が「何もねェ」になるのと同じです。確かに違いはありますが、意味が通じないほどではなく、「かごんま」ほどの違和感もありません。名物の静岡おでんも同じです。多少、出汁の色は濃いものの、ごく普通のおでんです。違いは、牛スジも入る出汁、具材としての”黒はんぺん”、そしておでんに振りかける”魚粉”です。これさえあれば、いわゆる”県民熱愛”のしぞーか・おでんになります。 

静岡市には、おでん横町が二つあります。青葉おでん街と青葉横丁です。いずれも20軒ばかりの小さなおでん屋が密集しています。何度か行きましたが、昭和の風情漂う店内で、しぞーか割と呼ばれる焼酎の緑茶割とともにいただくおでんはなかなか美味いと思いました。とは言え、行くのは決まって二次会であり、黒はんぺんと大根くらいしか食べたことがありません。名物の黒はんぺんは、半月形の灰色の練り物です。関東ではんぺんと言えば、白くてフワフワしたものですが、これは、サメなどのすり身に山芋を混ぜ、気泡を含ませたところをお湯に浮かせて固めたものです。対して黒はんぺんは、青魚を骨ごとすり身にして茹で上げたものです。これを揚げれば、ほぼ愛媛のじゃこ天になるものと思われます。

はんぺんは、室町時代には存在していたようですが、名前の由来は諸説あるようです。最もよく知られているのは、初めてはんぺんを作った駿府の半平という料理人に由来するという話です。だとすれば、静岡は、はんぺん発祥の地ということになります。ただ、半平が作ったのが、はんぺんなのか、黒はんぺんなのかは、よく分かりません。黒はんぺんは、すり身を茹でたものですから、それ自体の味は穏やかなものであり、やはりおでん出汁が染みて、はじめて成立するものです。ただ、不思議なことに、黒はんぺんをフライにすると絶妙な甘さが出て、とても美味しくなります。実は、おでん横町での私の一番の楽しみは、この黒はんぺんのフライでした。印象的には、ハムカツに近いものがあります。

魚粉は、いわば出汁粉です。それ自体には味付けがされていないので、おでんの味をそのままに風味をアップするという効果があるのでしょう。おでん横町で、なぜ魚粉を出汁に入れずにかけるようになったのか、と聞いたことがあります。女将は、その方がおいしいから、と言っていました。至極まっとうな答えではあります。魚粉は、大昔から、飼料や肥料として使われてきました。スーパーで売っているような代物ではありませんでした。静岡は、焼津港や清水港など、水産加工業の多い土地柄です。加工の際に出るクズ等も魚粉にしたものと思われます。静岡では、昔から、どこでも、極めて安価に魚粉を入手することができたのだと思われます。身近な存在だったから、かけるようになったということなのでしょう。

全国には、ご当地おでんがありますが、基本的には大きく異なるものではありません。具材でいえば、カニ、車麩、赤巻き等の入る金沢、豚足や菜ものが入る沖縄などが有名です。おでんは、焼田楽が煮田楽へと変化したものですが、八丁味噌仕立ての名古屋、生姜味噌をかける青森等は、古い形を保っていると言えます。姫路の生姜醤油で食べるおでんも棄てがたいものがあります。ちなみに、静岡駅の定番お土産の一つに、しぞーか・おでんの缶詰があります。恐らく、電車のなかでの酒のつまみだったのでしょう。また、静岡市には、かつて200軒を超えるおでん屋台があったようですが、加えて、駄菓子屋にもおでんが付き物だったと聞きました。東京のもんじゃと同様です。そう言えば、うどん県を自称する香川では、うどん屋におでんの鍋があり、香川らしくセルフ・サービスで食べます。(写真出典:shizuoka.mytabi.net)

2023年9月6日水曜日

隻手の声

白隠の達磨
高校生の頃、好きな作家を聞かれれば、ジェローム・デイヴィッド・サリンジャーと答えていました。「ライ麦畑でつかまえて」にどハマりしたからです。サリンジャーは、1950~60年代前半、ニューヨーカー誌を中心に活躍した人気作家です。ライ麦畑は大ベストセラーとなり、今も売れ続けています。サリンジャーは、60年代後半から半世紀にわたり、人前に出ることを拒み、ニューハンプシャーの田舎で隠遁生活を送ったことでも知られます。サリンジャーの短編集「ナイン・ストーリーズ」も印象に残る作品でした。その冒頭には、「両手の鳴る音は知る。片手の鳴る音はいかに」という禅の公案が記されています。原典は、臨済宗の白隠慧鶴による公案「隻手の声」です。私は、そこではじめて公案なるものを知りました。

当時、隻手の声など、全く意味不明で、大いに困惑したことを覚えています。過日、そのことをふと思い出し、ネットで調べてみると、何人かのサリンジャー・ファンが、一人では生きていけない、と理解していることを知りました。なるほど、と思いました。受け止め方など、人それぞれですから、それはそれで良いのでしょう。ただ、禅の公案への回答としては、門前払いをくらうことになると思われます。公案は、雲水が悟りの境地を目指す修行の一つとして行われます。悟りへ至る思考的な道案内とも言えます。公案を解きながら悟りに至る禅は看話禅と呼ばれ、臨済宗が重視しています。一方、曹洞宗の黙照禅は、道元の“只管打坐”という言葉にあるとおり、ひたすら座禅を行う事で無の境地を目指します。

有名な公案の一つに「狗子仏性」があります。唐代の高僧・趙州従諗に、弟子が「犬にも仏性はあるか、ないか」と問うと、趙州は「無」と答えます。涅槃経には「一切衆生悉有仏性」という言葉があり、生きとし生けるものは、皆、仏としての本質を持っているとされます。趙州の答は、これと矛盾します。さて、なぜ趙州は「無」と答えたのか、ということが問いになります。看話禅では、最初に出される公案の一つとされ、白隠禅師も苦しんだようです。後に白隠は、「狗子仏性」よりも葛藤を与えやすいとして「隻手の声」を考えたとされます。白隠コレクションで有名な福山の神勝寺で、白隠が描いた隻手の墨画を見たことがあります。郭公の声を聞こうと両耳に手をあてる猿が描かれ、”きかざるも隻手をあげよ郭公”と書かれています。

「狗子仏性」にも「隻手の声」にも、様々な解釈があるようですが、最終到達点は「空」につきると思います。ただ、これほど説明することが困難な概念もありません。「色即是空、空即是色」で知られる般若心経は、わずか278文字で空の本質を伝えると言われますが、同じ目的で記された大般若経は全600巻という大冊です。ところで、狗子仏性ですが、それを問うた弟子は仏性へのこだわりが強く、趙州の「無」とは、こだわること自体が無意味なのだと言っているのでしょう。一方、隻手の声が意味するところは、ストレートに「空」そのものなのだと思います。まさに色即是空・空即是色です。三法印に言う諸行無常(すべてのものは変わる)、諸法無我(すべてのものに本質はない)、涅槃寂静(無常・無我を実践し煩悩から解脱する悟りこそが安らぎである)というわけです。

”空”を頭で理解した気になっても、確信に至ることは極めて困難です。確信の境地に至ったとしても、それを人に伝えることは至難の業です。さらに、無常、無我を実践して、悟りの境地に至ることなど到底あり得ないとさえ思います。だからこそ、座禅や公案といった修行の日々を送ることが大事だと言えます。道元の言う「修証一等」あるいは「修証一如」、つまり修行の実践こそが悟りである、という言葉にもつながります。さて、サリンジャーは、いかなる思いを持って隻手の声を記したのでしょうか。ナイン・ストーリーズは、シュールなタッチで描かれた疎外感のスケッチ集だと思います。隻手は疎外感を表わしているのかも知れません。ただ、そこにあるのは「一人では生きていけない」といった甘い情感ではなく、むしろ絶望感すら漂うアメリカ社会の現実だったように思います。傑作短編集だとは思いますが、禅の精神からは遠いところにありそうです。(写真出典:jikyu-an.com)

2023年9月4日月曜日

「ウーマン・トーキング」

監督:サラ・ポーリー     2022年アメリカ

☆☆☆☆ー

(ネタバレ注意)

サラ・ポーリーは、俳優として知られていますが、監督としても高い評価を得ているようです。本作は、10年振りとなる監督作品です。原作は、メノナイトの両親の元で育ったミリアム・トウズが、2018年に発表した小説です。実際にボリビアのメノナイト・コミュニティで起きた事件にインスパイアされいます。プロデューサーには、フランシス・マクドーマンドが入り、出演もしています。彼女がからんだ映画は、アカデミー賞はじめ多くの賞を獲得する傾向があります。今回も、アカデミー最優秀作品賞にノミネートされ、サラ・ポーリーがアカデミー脚色賞を受賞しました。

舞台となるのは、古いドイツ語を話し、伝統的な信仰と質素な生活を維持するメノナイト保守派のコミュティです。メノナイトは、非暴力アナバプテスト(再洗礼)派の指導者メノ・シモンズに由来します。16世紀に起こった宗教改革のなかで急進派とされた宗派です。聖書の解釈を巡る意見の相違から、多くの分派が生まれますが、カトリックからも、プロテスタントからも異端と見なされ、迫害を受けるグループも多くありました。例えば、アーミッシュも、その一つです。メノナイトの一部は、迫害を逃れ、新大陸へと渡ります。その後も分派を繰り返しますが、保守派の一部は、アーミッシュと同様、文明を拒否した信仰の生活を送っています。

コミュニティの一部の男たちが、深夜、幼児も含む就寝中の女性たちに、動物用の麻酔薬を噴霧したうえでレイプを繰り返すという事件が起きます。男たちは逮捕され、町の留置所に拘束されます。コミュニティの男たちは、保釈を求めて、町へ出かけます。その間に、女たちは、この問題にいかに対処すべきか協議します。何もしない、男たちと戦う、皆でコミュニティを離れるという3つの選択肢が議論されます。何もしなければ変化は起きないということで意見は一致します。そして、子供たちを守る為に戦うべきという声もありましたが、赦しを与えなければ天国にはいけないという教義を踏まえ、女たちはコミュニティを去るという結論に達します。

コミュニティのなかでは、教育も受けず、意見を言うことも禁じられていた女たちが、初めて言葉を発し、考え、行動したわけです。まさにタイトルどおりですが、女性の差別的な状況を見事に象徴した寓話だと思います。男女差別の根源は、農耕とともに定着していった家父長制にあると思います。ラディカルなフェミニストたちは、家父長制を激しく攻撃しています。成果がないとは言いませんが、いまだ大きな社会的変化は起こっていません。その大きな要因は、あまりにも浸透した家父長制に代る社会的制な仕組みが見えてこないからなのでしょう。本作における女たちの決断は、男たちにも考えさせなければ変化は起きない、という一つの選択肢のように思えます。

映画は、おおむね納屋という限られた場所で進行します。しかも特定の主演者がいないアンサンブル・キャスト・スタイルです。俳優たちは、一人ひとり、高い演技力が求められます。また、場所が限られることによる単調さを克服する必要もあります。本作では、キャストも見事な演技で存在感を示し、かつ効果的に挿入される美しい音楽や畑で遊ぶ子供たちの映像によって単調さを感じさせません。さらに、映像全体のトーンや衣装の色を抑え気味にすることで、緊張感を持続させる工夫もされています。実によく構成された脚本と演出だと思います。それにしても、フランシス・マクドーマンドは、わずかな登場シーンにも関わらず、圧倒的な存在感を示しています。(写真出典:womentalking-movie.jp)

2023年9月3日日曜日

横審稽古総見

横綱審議委員会、いわゆる横審は、1950年、日本相撲協会によって設置された諮問機関です。その年の初場所で3横綱が揃って途中休場し、前年秋には、前田山が不祥事で横綱をクビになっていました。横綱の不祥事や休場は、相撲協会による横綱の粗製濫造によるものとの批判がまき起こり、横審が設置されることになりました。かつては、相撲宗家とされる吉田司家が横綱免許を与えていました。江戸期から続く古い慣習です。現在、横綱昇進は、相撲協会審判部の推薦を受けた理事会が、横審に諮問したうえで決定しています。理事会は、横審の答申を尊重するという規定になっているため、事実上、横審が横綱昇進を決めていると言ってもいいのでしょう。

横審の主な役割は、横綱推薦ということになります。ただ、他にも、横綱の休場、成績、品格、取組内容等によっては、拘束力はないものの、激励・注意・引退勧告等を決議することもあります。横審の定例会議は、本場所の千秋楽翌日に開催されますが、国技館開催の本場所の直前には、関取以上を集めて、稽古総見が行われます。稽古総見は、一般公開もされます。一時期、全ての稽古総見が公開されていましたが、今は年一回、5月の夏場所前に公開されます。ただ、コロナ禍で中断を余儀なくされていました。今年、ようやく再開され、9月の秋場所直前で一般公開されました。稽古総見の一般公開は、入場無料、席は自由ということで大人気です。7時半開場のかなり前から長蛇の列ができます。

私は、6時半くらいから列に並びますが、その時点で、既に千人くらいが並んでいます。開場時点では、それが3千人程度に膨れ上がり、皆、土俵に近いマス席へと殺到します。ここで注意すべき点があります。実戦形式で行われる“申し合い”では、勝った力士が次の相手を指名します。指名してほしい力士たちは、土俵を囲んで手を上げ、次第に土俵の上まであがり、勝った力士に迫っていきます。次の相手が決まったら、他の力士は土俵下で蹲踞して待つのがマナーですが、熱が入ってくると、皆、土俵から降りなくなります。すると観客からは取り組みが見えにくくなるわけです。ただ、横審が陣取る正面だけは、力士も空けます。つまり、土俵への近さではなく、いかに正面の席をとるかがポイントになるわけです。

参加する力士の数が多いので、相撲部屋での稽古と同じとはいきません。稽古は、番付下位の力士たちからはじめ、上位者へと進んでいきます。内容としては、部屋と同じく、申し合いとぶつかり稽古が行われます。白鵬が横綱だった頃には、注目力士を白鵬がかわいがる場面もありました。角界で言う”かわいがり”は、上位者が目をかけている下位者に、あえて厳しい稽古をつけることです。かわいがられる力士は、でかい図体ながらヒイヒイと声をあげ、しごきに耐えて、向かっていきます。部屋では、それがもっと厳しく行われているのでしょう。素人目には、いじめと区別がつきにくい稽古です。稽古の仕上がりを見てもらう総見ですが、いつもどおりの稽古を見てもうことも大事なのかもしれません。

さて、4年振りとなった今年の稽古総見一般公開ですが、朝から猛暑が予想され、開場前の列に並ぶことは断念しました。稽古開始後に入場しても、土俵から離れた席であれば、十分に余裕はあります。結果的には、並ばずに入って、2階席のいいところに陣取ることができました。横綱、3大関はじめ、上位陣は、揃って参加していました。秋場所も熱戦が期待できそうです。今回は、稽古総見にあわせて、八角理事長、元横綱北勝海の還暦土俵入りも行われました。定番の赤い綱をしめ、雲竜型の土俵入りを披露していました。還暦土俵入りは、元横綱の長寿を祝って行われますが、八角親方で12人目とのこと。横綱の人数からすれば少なすぎます。かつては、横綱に限らず、還暦前に亡くなる力士が多く、近年では体調の問題から辞退するケースも多いようです。(写真出典:4travel.jp)

2023年9月2日土曜日

A Change Is Gonna Come

サム・クックは、史上最も影響力のある黒人シンガー・ソングライターとされます。1950年、19歳で、名門ゴスペル・グループのリード・ヴォーカルに迎えられ、26歳でソロ・シンガーとなります。以来、33歳で射殺されるまでにリリースした29枚のシングルは、すべてビルボード・トップ40にランクインし、うち20枚は黒人チャートのトップ10に入っています。当時、最も成功した黒人シンガーですが、白人も含めて皆が知ってるセレブでもあり、TVにも多く出演しました。当時はゲストとしてTVに出演する黒人など皆無で、黒人たちはTVの前に集まり、神のようにサム・クックを崇めたと言われます。サム・クックは多くのシンガーに影響を与え、かつ、彼の曲は多くのシンガーにカバーされています。

私にとってサム・クックは前世代のスターであり、あまり馴染みはありません。ただ、オーティス・レディングが、サム・クックをリスペクトし、多くの曲をカバーしているので、曲自体には慣れ親しんでいます。なかでも死の直後にリリースされた歴史的名曲「A Change Is Gonna Come」は強く印象に残ります。アメリカの厳しい黒人差別の現実、でもいつかは変わるはずと力強く歌い上げます。黒人初のメッセージ・ソングと言われ、バラク・オバマが大統領就任演説で引用したことでも知られます。マーティン・ルーサー・キング牧師の「I have a dream」と対を成す言葉だと思います。米国議会図書館の永久保存盤でもあり、ローリング ストーン誌の「史上最も偉大な曲 500」では第3位に選ばれています。

ある時、サム・クックが所属していたゴスペル・グループは、南部の教会をツアーします。シカゴの黒人街で育ったサム・クックにとって、有色人種の隔離政策が残る南部で受けた衝撃は大きなものだったようです。サム・クックは、その甘いマスク、滑らかな声、抜群の歌唱力で、すでにスターでしたが、ただの”ニガー”として差別されます。このままではいけない、何かしなければならない、という思いが募ります。しかし、ソロ・シンガーとして成功を重ねて行くなかで、何もできず、悶々とした思いを抱えていたようです。そんななか、ボブ・デュランの「Blowin' in the Wind(風に吹かれて)」を聴き、衝撃を受けます。白人のデュランですら、歌で社会を変えようとしているのに、黒人は何もしなくていいのか。

サム・クックは、親密になったカシアス・クレイを通じてマルコムXと知り合います。1964年2月、クレイがソニー・リストンを倒して世界チャンピオンになった夜、クレイ、サム・クック、マルコムX、そしてフットボールのスーパー・スターだったジム・ブラウンの4人だけで勝利を祝います。有名な話ですが、その一夜を脚色した映画「あの夜、マイアミで」(2020)でも話題になりました。翌朝、クレイは、イスラム教入信とモハメド・アリへの改名を発表します。公民権法の制定は間近でしたが、この時点でのサム・クックは、公民権運動を超えて、後のブラック・パワー運動につながる発想を持っていたのかも知れません。FBIは、サム・クックの影響力の大きさに危惧を覚え、監視対象とします。そして、1964年12月、サム・クックはLA郊外のモーテルで、管理人の黒人女性に射殺されます。

差別的なことで知られたLAPDは、ろくな捜査も行わずに事件を処理し、犯人は正当防衛で無罪になりました。しかし、中年女性一人では不可能な程の暴行の痕が残るなど疑わしい点も多く、真相は闇の中です。翌年には、マルコムXも暗殺されます。犯人は、古巣ながら対立することになったネーション・オブ・イスラムのメンバーでした。ただ、後に、当時の潜入捜査官が、警察やFBIの関与を証言しています。そして1968年にはキング牧師も暗殺されます。犯人は、白人の犯罪常習者でしたが、動機を語ることもなく、欧州への逃亡を誰がお膳立てしたかも語ることなく獄中死しています。アメリカは、ヴェトナム反戦運動、学生運動の時代を迎えていました。公民権を獲得した黒人でしたが、差別的状況に大きな変化はなく、過激なブラック・パワー運動が展開されていくことになりました。アメリカの黒人を取り巻く環境は大きく変わりました。ただ、キング牧師の”Dream”も、サム・クックの”Change”も、いまだ道半ばと言わざるを得ません。(写真出典:nishinippon.co.jp)

2023年9月1日金曜日

白峰

幕末、戊辰戦争に勝利した薩長新政府は、江戸を東京と改称し、事実上の首都とします。いわゆる”東京奠都(てんと)”です。奠都とは都を決めることであり、遷都は都を移すことなのだそうです。ややこしい話ですが、天皇が江戸に移ることに反対する公家や京都の人々をなだめるために、二都制という方便が用いられたわけです。そもそも東京という名称は、”東の京”という便宜的な命名でもあります。明治天皇は、東京へ移るに際し、陵墓を参拝しています。王政復古や奠都の報告を行ったのでしょう。奠都に際して、明治天皇がお参りした先が他にもあります。上京区の別表神社(格上の神社)である白峯神宮です。

奠都直前の1868年、明治天皇は、讃岐・坂出の崇徳天皇社(現白峰宮)に祀られていた崇徳上皇の御霊を京都に移し、白峯神宮を創建します。明治天皇は、白峯神社に親拝した翌日、元号を明治とする詔を発します。明治天皇にとって、崇徳上皇の御霊がいかに重要であったかということの現れです。実は、白峯神宮の創建は、明治天皇の父である孝明天皇の悲願でした。孝明天皇は、幕末の混乱を、崇徳院の怨霊の祟りと恐れたのでした。崇徳上皇が遺恨を残したまま讃岐・坂出で崩御したのは1164年です。それから700年を経て、なお、その祟りが恐れられていたわけです。それもそのはず、崇徳院は、菅原道真、平将門と並び、日本三大怨霊と恐れられてきました。

崇徳院は、鳥羽天皇と藤原璋子の間に生まれ、父親の譲位によって、わずか3歳で践祚します。上皇となった鳥羽天皇は、藤原得子(美福門院)を寵愛し、子を設けます。鳥羽上皇は、その子(近衛天皇)を天皇にするため、崇徳天皇を降ろします。近衛天皇が夭折すると、後継天皇を巡る対立が起きます。崇徳天皇の子が順当な候補ですが、鳥羽上皇は、美福門院の幼い養子を天皇にすべく、その父(後白河天皇)を中継ぎの天皇に立てます。そこへ藤原家の内紛も重なり、鳥羽上皇が崩御すると、崇徳上皇派と後白河天皇派の争いは武力衝突へと発展します。1156年に起きた保元の乱です。戦いに勝利した後白河天皇派の武士を率いたのは平清盛、崇徳上皇派は源為義でした。ただ、平氏と源氏は、両派に混在しています。

捕らえられた崇徳上皇は、讃岐へ流されます。天皇・上皇の流刑は、8世紀、孝謙上皇によって淡路島へ流された淳仁天皇が初めとされます。崇徳院の流刑は、実に400年振りに行われたわけです。同行を許されたのは寵妃とそのわずかな女官だけだったといいます。崇徳院は、大乗経の写本に勤しみます。書き上げた写経5部を京の寺に奉納しようとしますが、後白河天皇によって拒絶されます。怒り心頭に発した崇徳院は、写本に自らの血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民を皇となさん」と書き込んだとされます。怨念のかたまりとなった崇徳院は、流刑から8年後に崩御します。病死とも暗殺とも言われます。髪と爪を伸ばし続けた崇徳院の末期の姿は、まるで夜叉のようだったと伝えられます。

崇徳院の死後10余年、1176年になると、崇徳院に敵対した要人たちが次々と亡くなり、災害が起こり、平家が台頭する過程での様々な騒乱も起こり、崇徳院の祟りが注目されることになりました。祟りがあったとすれば、その最大のものは、平家の早すぎる滅亡だったかも知れません。上田秋成の「雨月物語:白峰」は、西行が崇徳院の怨霊を鎮める様が描かれています。また、能楽「松山天狗」も崇徳院の怨霊を題材にしていますが、天皇家を慮ってか、しばらく上演されることはなかったようです。また、古典落語にも「崇徳院」という演目があります。祟りは一切関係なく、百人一首にも選ばれた崇徳院の短歌「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」をモティーフとする恋煩いの話です。(写真出典:ja.wikipedia.org)

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