2021年2月28日日曜日

梁盤秘抄 #14 Blues Breakers with Eric Clapton

アルバム名: Blues Breakers with Eric Clapton 1966               アーティスト名: John Mayall and the Bluesbreakers

中学生の頃、ジョン・メイオール・ファンクラブの会員番号が6番と若い番号であることを自慢していました。まぁ、会員数も少なかったのだとは思います。会員になって、得したことは、あまり無かったと思います。ただ、ローリング・ストーンズの「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」のテスト・プレス盤をもらったことは覚えています。いずれにしても、このアルバムに感動して、ファン・クラブに入会した次第です。もっとも、エリック・クラプトン・ファンクラブがあれば、明らかにそちらが優先されたと思います。時代は、ちょうど、ハード・ロック幕開けの頃でした。

ジョン・メイオールは、1962年、ブリティッシュ・ブルース黎明期に、ブルース・ブレイカーズを結成します。1965年には、エリック・クラプトンが、バンドのポップ化路線を嫌ってヤードバーズを脱退し、ブルース・ブレイカーズに参加します。ただ、クラプトンは、この1枚だけを残してブルース・ブレイカーズを去り、クリームを結成します。ジミ・ヘンドリックスとエリック・クラプトンがリードするハード・ロック時代の始まりでした。このアルバムは、クラプトンが、ストレートにブルース・ロックを演奏した貴重なアルバムであり、その後の演奏のベースとなるスタイルを確立した1枚だと思います。また、この録音でクラプトンが披露したギブソンのギター”レスポール”とオーバードライブをかけたマーシャルのアンプ”ブルースブレイカー”の組み合わせは、ハードロックのスタンダードになりました。

クラプトンもジミヘンも、この時代のギタリストは、皆、ヒューバート・サムリンの影響下にあります。ヒューバート・サムリンは、ハウリン・ウルフに見いだされ、彼のバンドには欠かせない存在となりました。ノビノビとしたプレイが、ロバート・ジョンソンのスタイルが定着していたブルース・ギターの世界に、よりメロディアスな新しい風を吹き込みました。抜群のテクニックということではなく、ハウリン・ウルフとの信頼関係をもとに、彼の個性を素直に出せていたのだと思います。ロックンロールに飽き足らない英国の若者たちが、サムリンのギターに魅せられ、ブルース・ロックが生まれます。ポップの世界では、ビートルズが世界を席捲していました。一方、ロンドンの片隅では、後のハード・ロックにつながるサウンドが産声をあげていたわけです。

収録曲は、メイオールのオリジナルよりも、ブルースのスターたちの曲が多くなっています。ロバート・ジョンソン、オーティス・ラッシュ、フレディ・キング、メンフィス・スリム等の曲が、ほぼ原曲に近い形で演奏されています。彼らへのリスペクトの深さを感じます。ただ、原曲とは、テイストが随分異なるサウンドになっています。目立つ違いは、少しモッチャリとしたビート、伸びのあるギター・フレーズ等ですが、要は、かなり白っぽくなっているわけです。これが、クラプトンの、そしてブルース・ロックのオリジナリティであり、アメリカ黒人のブルースとは明らかに異なるジャンルの誕生と言えます。

このアルバムが録音された年、ミケランジェロ・アントニー二監督が、ロンドンにロケをして「欲望(Blow-up)」を撮っています。作中、主人公が、クラブに迷い込むシーンがあり、そこで演奏していたのが、クラプトン脱退後のヤードバーズでした。アンプの調子の悪さに怒り狂ったジェフ・ベックがギターを叩き壊します。ジミー・ペイジがニヤリとしながら演奏を続ける姿が印象的でした。演奏していたのはポップな曲でしたが、ほどなく二人とも退団し、クラプトンと並んでハード・ロックをけん引していくことになります。この3人は、三大ギタリストと呼ばれます。正確には、英国の三大ギタリストと言うべきです。なにせ、その上にジミヘンがいるわけですから。(写真出典:en.wikipedia.org)

2021年2月27日土曜日

人別改帳

宗門人別改帳
現役の頃には、毎晩のように宴席や飲み会があり、平日の夜にTVを見ることは稀でした。最近は、TVを見る時間も増え、お気に入りの番組もあります。NHKの「ファミリーヒストリー」も、その一つです。芸能人等の先祖を調査し、紹介する番組です。不定期ながら、2008年から放送されてきたようです。お気に入りの芸能人のことなら、先祖まで知りたいという程度の番組だと思い、見たこともありませんでした。ところが、数年前、桂歌丸の回を見て、感動しました。確かにファミリーのヒストリーですが、庶民の近代史そのものなのです。当然、歴史は俯瞰的であり、巨視的なものになりますが、一人ひとりの人間は、時代の波の中で右往左往しているわけです。庶民の視点から見た近代史と言える、実に興味深い番組だと思います。

人によっては、あるいは、アクセスできる記録の古さ如何ではありますが、概ね、江戸末期くらいまでは調査してあります。そのあたりまで遡れ、かつ面白みのある調査結果が出た場合のみ放送しているのだろうと思っていました。ところが、まず人選をし、本人の了解や委任所を取り付けてから調査しているようです。とすれば、大変な調査力だとも思いますし、また日本の記録文書の豊富さに驚きます。日本の場合、火事や天災が多く、空襲もあったので、記録の多くは失われていると思っていました。安土桃山時代に始まる人別改帳、そして江戸期の宗門人別改帳のすごさを、しみじみ感じさせます。

かつて、侍の多くは、平生、農業も行っていました。しかし、戦国時代になると、戦さが頻発し、侍の専業化が進みます。この過程において、刀狩りも行われ、身分制度が確立していきます。その際、即応性を高めるため城下に常駐するようになった侍が、自らの領地内の労働力を把握管理するために人別改が始まります。江戸期に至り、禁教令が発出され、キリスト教徒ではないことを寺が保障する寺請制度が施行されます。その際の基本台帳として、宗門改帳が、人別改帳をもとに作れらます。これが、各地の寺に、あるいは寺から自治体の資料館や図書館に移され、保管されているわけです。宗門人別改帳が無ければ、ファミリーヒストリーという番組も中途半端なものになっていたかも知れません。また、宗門人別改帳まで遡ることから、差別を助長するのではないかとの懸念もあるようです。

NYに赴任した頃、米人たちと家族の話になり、私の家は400年前に近江国から出た呉服屋の家系だと言ったら、お前は貴族なのかと言われました。日本では、多くの人が、それくらい遡れると言ったら、さらに驚かれました。歴史の浅い国では驚異的なことなのでしょう。アメリカには戸籍制度がないことも、家族の歴史が辿りにくい背景にあります。むしろ、戸籍制度、あるいはそれに近いものを持っている国は、日本、台湾、中国だけと聞きます。かつて稲作文化中心の国には戸籍制度があったようですが、十数年前、韓国が切り替えたように、今では欧米同様の国民番号制が主になっているようです。ドイツでも、戸籍に似た家族簿という仕組みがあるようですが、ナチスの時代には、ユダヤ人虐待に使われたようです。

ファミリーヒストリーという番組が成立するためには、人別改帳や戸籍制度は欠かせないものですが、現代に戸籍制度は本当に必要なのでしょうか。国民番号系の仕組みは、個人を基本とする管理体系であり、一方、戸籍制度は、家族を基本とする体系です。明治期以降、幾度かの産業構造の転換を経験し、もはや家族と生産手段とコミュニティが一致していた時代は、とうに過ぎ去りました。遠からずうちに、マイナンバー制度一本に集約されていくのでしょう。実は、お墓の問題も、似たような状況にあると思っています。(写真出典:kosho.or.jp)

2021年2月26日金曜日

水兵服

米国海軍水兵服
いわゆるセーラー服は、19世紀に英国海軍が水兵の制服として採用してから、現在に至るまで多くの海軍で採用されています。また、子供服としても世界的に流行し、日本では女子学生の制服としても定番になっています。実に不思議なのは、その大きな襟です。大きな襟が採用された理由は定かではなく、諸説あります。よく聞くのは、強風の際、襟を立てれば、号令が聞こえやすくなるというものです。確かに、その効果はありそうですが、ピンときません。セーター服の、三角に開いた胸元、丈の短さは、水兵が海に落ちた際、泳ぎやすくデザインされたと聞きます。海中で浮かびやすい大きな襟は、落水した水兵を見つけやすく、引っ張りやすいからではないかと思います。

かつて英国海軍の水兵には制服がありませんでした。艦長が自艦に限って制服を揃えることはあり、1845年、ブレザー号の艦長が揃えた制服が評判となり、ブレザーの語源ともなります。1853年には、ハーレクイン号が艦名にちなんだ道化服を水兵に着せたことが問題となり、1857年、海軍は水兵の制服を制定します。その際採用されたデザインが、現在まで続くセーラー服でした。即座に、各国の海軍も追随しました。機能性の高さが評価されたということなのでしょう。ヴィクトリア女王は、セーラー服が気に入り、子供たちに着せます。これが皇室好きの英国で流行し、20世紀前後には、世界的流行になったそうです。

日本でも、1872年の海軍創設時から制服として採用しています。また、女学生の制服としては、1920年、京都の平安女学院が、初めてワンピース型のセーラー服を制服として採用します。翌21年には、名古屋の金城学院、横浜のフェリス女学院、福岡の福岡女学院が、続けてセパレート・タイプを制服に定めました。この四校すべてが、いわゆるミッション系であり、当時の最先端だったのでしょう。それまで日本の女学生は、着物・袴を着用しており、体育教育の開始とともに、より動きやすい洋服へと変わったということのようです。一方、男子の詰襟の学生服は、1873年頃、工部省工学寮や札幌農学校で採用されたのが始まりだったようです。

戦前の日本で、学生服が、男女ともにミリタリー調であったことは、なかなか興味深いものがあります。戦後、民主主義教育が徹底され、脱軍国主義が強調されるなか、詰襟とセーラー服は、排除されるどころか、全国的に学生服のスタンダードになります。誠に不思議です。うがった見方をすれば、戦後の民主主義教育が、いかに底の浅いものだったか、とも言えそうです。実際のところは、戦前、ある意味、特権階級の象徴でもあった詰襟とセーラー服は庶民のあこがれの的であり、それが、敗戦とともに民主化され、広まったということなのでしょう。化繊の普及もあり、安価に手に入れられるようになったということもあるのでしょう。

詰襟やセーラー服は、80年代から衰退傾向に入り、ブレザー化が進んできたそうです。ようよう脱ミリタリー化したわけです。一方、60年代には、ミリタリー・ルックが流行します。反戦的な意味をもった流行だったように思います。流行のきっかけは、1959年のフィデル・カストロのNY訪問だったと言います。その年、バティスタ政権を倒し、革命政府を樹立したばかりのカストロは、国連総会出席のためにNYにやってきます。そのいでたちは、ジャングルで戦っていた頃そのままに、ひげ面に戦闘服、口には葉巻をくわえていました。米国の若い文化人たちの間でカストロ人気が高まり、なかには服装まで真似るものが出てきます。彼らは、ラジカル・シックと呼ばれ、その後のミリタリー・ルックへとつながったそうです。(写真出典:usatoday.com)

2021年2月25日木曜日

葉隠

 

山本常朝
「葉隠」は、江戸中期、隠居後に出家していた佐賀鍋島藩士・山本常朝が語り、同藩の田代陣基がまとめたものです。「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という一文が、よく知られています。明治以降、その一文だけで、武士道のバイブルのような扱いを受けることになります。日清・日露戦争で、爆弾三勇士はじめ鍋島藩出身の軍人が名をあげたこともあり、軍部によって喧伝されて有名になりました。また、同藩出身の空閑昇少佐は、上海事変の際、率いる連隊が孤立、自身も被弾して人事不省に陥ります。部下が戦死と誤認し、簡易埋葬します。しかし、中国軍に助けられ、帰還します。世間は、俘虜になり生還したことを非難します。空閑少佐は、結果、拳銃自殺しました。この事件が「生きて虜囚の辱を受けず」という精神を広める契機になったと聞きます。同時に、葉隠を有名にしたとも言われます。

葉隠が、永らく”秘伝”として世に出ることがなかったことも、付加価値を高めたものと思われます。山本常朝自身が、まとめた後は焼き捨てよ、と言っていることもあり、”秘伝”とされました。後に藩内で写本が出回ると、藩は、これを禁止しています。禁止した理由は、当時の藩主や重臣を批判し、官僚化した武士のあり方を否定していたためであり、いわゆる奥義などの「秘伝」とは意味が異なります。そこで語られていることは、体系化された思想でもなく、武術の指南書でもありません。藩士の処世訓と呼ぶのが最も相応しいと思います。

処世訓とは言え、古武士が、奉公のなかで培った思想や考え方に裏打ちされたものであり、太平の世で失われつつあった武士の本分を伝えています。「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」は、奉公するにあたり、死ぬ気で腹を据えて仕えなさい、という覚悟のあり様を語っている言葉だと思います。「お家を我一人で荷なう」気概を持たなければ、奉公などできない、とまで語っています。既に戦国の世は過ぎ去ったとは言え、常に帯刀し、切腹等自死も身近だった時代ではあります。だとしても、決して死を美化した言葉ではありません。 

処世訓としては、現代にも通用するほど核心をついたものが多く収められています。あくびの止め方、酒の座の心得、恋愛について、といった下世話なものから、上手に人に意見するやり方、部下はほめろ、多様な事態を事前に検討しておけ、といった職場の知恵、あやまちの一つもない人間は信用できない、といった人間論まで実に様々なことを語っています。なかでも「(目付役は)上に目を付くるが本意なり(重臣は、主人に意見するのが仕事だ)」、あるいは「主人にも、家老・年寄にも、ちと隔心に思われねば大業はならず(上から煙たがられるくらいでないと大きな仕事はできない)」など、現代のサラリーマンにも聞かせたいところです。

三島由紀夫はじめ、葉隠を絶賛する声も多いのですが、書としての葉隠というよりは、古武士の生の声に、武士としての心意気を見てとり、感じ入ったということなのでしょう。武士の官僚化が進んだ時代だったからこそ、山本常朝の語る武士の本分は潔く、常に死と向き合う武士の本質を伝えます。とは言え、処世訓の一文だけを都合よく取り出し、これぞ武士道と喧伝することで、多くの若者を死地へと送った軍国主義の欺瞞は許しがたいものがあります。それを知れば、山本常朝は、烈火のごとく怒ったのではないかと想像します。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年2月24日水曜日

御柱祭

長野県の諏訪大社の「式年造営御柱大祭」、いわゆる御柱祭は、7年に一度、寅年と申年に行われます。人が乗った大木を縦に急斜面から落とす「木落し」は、極めて危険で、毎回、ケガ人や、時に死者まで出すという勇壮な祭りです。木落しは、毎回、全国版TVニュースで放送されるので、とりわけ有名ですが、祭り全体は、4月の山出しに始まり、里曳きを経て、6月、境内の四隅に御柱を建てる建御柱まで続く長丁場の祭りです。日本で最も危険な祭りであると同時に、その起源も古すぎて判然としない日本で最も不思議な祭りでもあります。

諏訪大社の御柱が何を意味するのかについては、諸説あるようです。天地を支える象徴、巨大神殿の名残、結界を示すもの、柱の持つ霊力への信仰等々です。柱は、端と端で、天と地を結ぶもの、としてハシ・ラと呼ぶとも聞きます。神々は柱を目指して降臨すると信じられていたようです。柱に対する信仰は、アジア各地にも見られるようですが、日本では特に北陸から東北にかけて多いようです。青森県の三内丸山遺跡にも、巨大な柱を立てたと思われる6つの穴が並んでいます。柱に対する信仰は、縄文期の信仰だと言われています。

諏訪は斧や矢じりに使う黒曜石の産地であり、全国の縄文遺跡から諏訪の黒曜石が見つかっています。また、諏訪には縄文遺跡が多く点在しています。諏訪は、縄文期における一大拠点だったのでしょう。一方、弥生人の神話である古事記にも、諏訪は登場します。高間原の天照大御神の使いである建御雷神が、葦原中国の大国主神に国譲りを迫った際、大国主神の次男である建御名方神が国譲りに反対し、建御雷神に戦いを挑むも負け、科野(信濃)国の州羽(諏訪)の海まで逃れます。ここに留まるので許してくれと懇願し、国譲りに同意します。これが諏訪大社の縁起とも言われます。

弥生人は、出雲から北陸経由で、諏訪に到達し、稲作を始めたということなのでしょう。稲作には土地と人手が必要で、高い生産性は余剰米を生みます。弥生人は、組織化され、土地・労働力・余剰米に関する明確な所有概念を持ちます。所有概念は、争いや戦さを生みます。所有概念も薄く、争いもなく、組織化もされていない縄文人は、武装した弥生人の前では無力だったはずです。諏訪では、小高い山裾に縄文人の竪穴式住居があり、水辺に弥生人の水田が広がり、住みわけがされていたようです。争いもあったはずですが、やがて共存、同化の道をたどったのでしょう。弥生人の神社を、縄文の御柱が守るように起立する姿は、共存の象徴として成立し、今に残ったように思えます。

だとすれば、湖の周囲に特有な地形こそが、奇跡的に、生きた形で縄文文化の一部を残したのだと言えます。木落しの映像を見れば、御柱に乗っているだけでなく、両脇を一緒に駆け降りている多数の氏子たちがいます。ほとんど意味は無さそうですが、一緒に急坂を下りたくなる気持ちは、とてもよく分かります。その統制の無い熱狂は、弥生文化にはほぼ無いものだと思います。縄文パワーとでも呼びたくなります。(写真出典:shibashota.worldpress.com)

2021年2月23日火曜日

英国の食事

Fish & Chips
私は、英国に行ったことがありません。会社の国際部門に在籍したこともあり、プライベートでもそれなりに海外旅行には行っていますが、英国には行ったことがありません。実は、行きたいと思ったこともありません。英国が嫌いだからではなく、天気が悪そうで、食事もまずそうだからです。大都市ロンドンでは、お金さえ出せば、世界中の美味しい食事がいただけるのでしょうが、やはり土地の名物が食べたいと思うわけです。それが、ロースト・ビーフとフィッシュ&チップスじゃ、ちょっと行く気にはなりません。ただ、大英博物館で、英国が植民地から奪った財宝は、いつか見たいと思います。

英国の食文化が貧しい理由は、気候に恵まれず、作物が限られていたことが主な理由なのでしょう。ただ、他にも、巷間言われている理由があります。英国紳士は、体面を重んじるが、生活は質素を旨とすること、あるいはライバルであるフランスの華美な文化への嫌悪感、といった説があります。しかし、これらも、気候に恵まれない英国での厳しい生活が背景にあると思います。英国は、いまだに階級社会が存続していると言われます。上流階級ですら質素なのですから、庶民は、もっと貧しい食生活を送っていたわけです。総じて言えば、英国は辺境の地であり、厳しい気候のなかで生き延びてきた、その歴史が、すべての基本にあるのだと思います。

そんな英国が、世界の覇者への道を歩み始めたのは、17世紀だったと思われます。17世の清教徒革命、名誉革命は、宗教を巡る争いでもありますが、ブルジョアジー階級が王権を抑え込んだ市民革命でもあったわけです。英国は、スペイン・ポルトガルに遅れて大航海時代に入りますが、インド・東南アジア、北米・カリブ海、後にアフリカへとの植民地を拡大します。商業資本が蓄積され、そこへ18世紀の産業革命が起こったことで、英国は沸騰します。押しも押されぬ大英帝国の誕生ということになります。膨大な富は支配階級に集中します。一方、17世紀、農民の二分化によって都市へ流入を始めていた労働力は、速度を増して増加し、工場や炭鉱の貧しい労働者階級を形成します。

英国の支配階級の中核を成したジェントリー層は、宮廷人ではなく、カントリー・サイドの人々であり、厳しい農村の生活で培った質実剛健の気風を持っていたのでしょう。そして、田舎の邸宅と生活を維持してきました。一方、農村というルーツを失った労働者階級は、その日暮らしに入っていきます。厳しい気候に加え、歴史的に見ても、英国の食文化が貧しいものになった理由が理解できます。ある人が言うには、英国で美味いのは牛肉と紅茶だけと言っていました。牛肉ばかり食べてきたわけですから、美味しいのでしょうが、豊かな食文化とは言えません。紅茶は、大航海時代の遺産です。紅茶文化が浸透したのは、豊かになった英国の象徴でもあり、それまで喫茶という文化が無かったことの証明でもあります。

多くの文化は、宮廷から生まれています。ただ、英国では、永らく辺境の宮廷であったこと、そして帝国主義時代を迎えた時には、既に立憲君主国であったことから、宮廷文化が大輪の花を咲かすことはなかったのではないかと思います。2002年にBBCが視聴者の投票で選んだ「100名の最も偉大な英国人」のなかで、産業革命以前の芸術家は、第5位のシェークスピア、および第81位のチョーサーだけです。しかも言葉を操る芸術家だけが選ばれているわけです。英国が、世界史のセンター・コートにデビューしたのは、結構、遅かったと言えるのでしょう。ちなみに、第1位に選ばれたのは、上流階級出身のウィンストン・チャーチルでした。(写真出典:gq-magazine.co.uk)

2021年2月22日月曜日

佐渡の能舞台

大膳神社能楽堂
新潟港から佐渡の両津港までは、約70km、ジェットフォイルで約1時間、フェリーならその倍以上の時間がかかります。日本最大の島は、香川県の半分ほどの広さがあります。平成の大合併で、現在は一島一市になっていますが、合併直前は10の市町村がありました。豊かな自然に恵まれた島です。佐渡金山、佐渡おけさ、鬼太鼓、朱鷺の生息地等に加え、能楽の島としても知られます。佐渡の方言は、新潟市等とは異なり、関西弁に近いものがあります。平安期以降、佐渡は流刑地として、上皇も含め、多くの貴族、僧侶、文化人等が流されました。また、北前船の寄港地として栄えたことも、言葉に影響を残しているのだと聞きます。

佐渡の歴史は古く、律令体制以前の国造の記録もあります。6世紀には、オホーツク文化人と思われる「粛慎(みしはせ)」という民族が来着し、7世紀、越の国の国守が討伐したという記録もあります。722年、穂積朝臣老が佐渡へ流されます。これが流刑地佐渡の始まりだったようです。以降、多くの流刑者が佐渡に流されますが、1271年には日蓮が流刑となります。佐渡は、今も日蓮宗の多い島です。そして1434年、世阿弥が佐渡流刑となります。室町幕府3代将軍足利義満に庇護された世阿弥でしたが、6代将軍義教が音阿弥を贔屓にしたため、世阿弥は弾圧され、ついには佐渡へ流刑となります。世阿弥が神社に能を奉納したという記録もあれば、佐渡に持参したという能面も伝わります。ただ、佐渡の能楽は、世阿弥が広めたものではありません。

佐渡の能楽は、世阿弥流刑から150年以上たった江戸期になって広まります。1601年、佐渡金山が発見されると、江戸幕府は、佐渡を天領とし、奉行所を置きます。初代奉行として赴任したのが大久保長安でした。長安は能楽師の家に生まれた人でした。当時、能楽師は、武家と同等の扱いでしたから、こういう人事もあったのでしょう。長安は、シテ方、囃子方、狂言方を連れて赴任し、佐渡各地の神社に、能楽を奉納しました。同時に、庶民にも能楽の門戸を開き、広めていったようです。いわば金山発見が、能楽の島を作ったわけです。そして、山の幸、海の幸に加え、北前船の寄港地という豊かさがあればこそ、佐渡に能楽は広まったのでしょう。

佐渡には、30を超える能楽堂が残り、うち9つでは、今も市井の人々による能楽が演じられています。最盛期には200を超える能楽堂があったようです。佐渡を旅した明治期の詩人・大町桂月は「鶯や十戸の村の能舞台」と詠んでいます。そんな小さな集落にまで能舞台があったというのは、とりもなおさず神社があれば能舞台があったということなのでしょう。山形の黒川能、福岡の新開能等も、農民能として知られます。いずれも元々は神官による神事であり、継承者に困り、農民が引き継いだという経緯があります。佐渡も神事という枠組みがあったからこそ広まり、継続したと言えます。ただ、当初から農民の教養・娯楽として始まり、継承されてきた能楽など、佐渡にしかないのではないでしょうか。

佐渡の能楽堂は、ほとんど屋外にあり、薪能として上演されます。都内の能楽堂とは異なり、くつろいだ雰囲気があり、飲食も写真撮影も自由だと聞きました。あくまでも村の行事として続いているということなのでしょう。ひょっとすると、世阿弥の頃の能楽の姿、あるいは世阿弥が目指した愛される能楽の姿が、奇跡的に、佐渡には残っているのかもしれません。(写真出典:visitsado.com)

2021年2月21日日曜日

水牛の国

ヴェトナムは米の国です。どこへ行っても緑の水田が広がっています。ご飯を主食とし、ブンやフォーといった米粉の麺を食べ、ネップ・モイ等の米焼酎を飲みます。ヴェトナムの水田で見かけるのは、ノンという円錐の笠をかぶった農民、そして水牛だけです。農業機械は見当たりません。ヴェトナムでは、人生の三大行事は、水牛を買うこと、結婚すること、そして家を建てること、だと言われていたそうです。重要な労働力としての水牛は、ヴェトナムの農業にとって欠かせない存在です。20年前後働き、その後は食用として、あるいは皮や角は加工され、とことん人の役にたちます。ヴェトナムの十二支では、丑は水牛で表されます。ヴェトナムは、水牛の国だと言えます。

ドイモイは、1986年、ヴェトナム共産党が採択した、いわばヴェトナム版の改革開放政策です。ヴェトナムの経済成長はドイモイから始まります。その特徴の一つは、決して急激ではなく、緩やかに成長を続けていることです。共産党による一党独裁は継続されていますが、政治、経済の運営はヴェトナム型といわれる独特なものです。社会主義政権は、独裁を生みやすい体制ですが、ヴェトナムの場合、公的組織の政策決定は、幹部3者の合意で成されるよう設計されているようです。従って、独裁は起こりにくい一方、物事の進み方は、水牛の歩みのようにゆっくりとしたものになります。

2010年頃、世界の工場となった中国では、賃金の急上昇が始まり、進出企業はコスト抑制のために東南アジア各国へと工場を展開します。いわゆる「チャイナ・プラス・ワン」です。その最右翼がヴェトナムでした。ドイモイ以降、日経企業もヴェトナムへ進出を始めましたが、ここで一気に加速されました。10年ほど前、ハノイで聞いた話では、さらに多くの日系企業がヴェトナム進出、あるいは規模拡大を狙っているが、労働力不足がネックになっていると聞きました。どうも、一次産業からの労働力の流出が限定的であることが原因のようでした。日本の高度成長は、貧しい農村から工場へ流入した労働力に支えられていました。いわゆる産業転換です。ところが、ヴェトナムの農村は、決して貧しくはなかったのです。

ヴェトナムの稲作は、気候と水に恵まれ、 南部では三毛作、北部でも二毛作が当たり前となっています。加えて、ヴェトナムのドイモイは、工業化よりも農業により大きな影響を与えたと言われます。ヴェトナムの農業は、ソヴィエトのコルホーズや中国の人民公社と同じく、集団農業方式をとっていました。ドイモイは、生産性が低く、非効率で、かつ永らく農民の不満の種だった集団農業を終わらせました。農民は、いわば自作農になったわけです。生産性は高まり、農家の収入は増えました。結果、農村からの労働力流出は緩やかで、また労働力不足に起因する農業の機械化も起こりませんでした。

数年前、ハロン湾を再訪しました。ハノイからの道路は、多少良くなっていましたが、農村風景に大きな変化はありませんでした。ただ、ハロン湾には、観光施設が増えており、海辺にテーマパークまで建設中でした。幻想的なハロン湾にも、世俗の波は、確実に押し寄せているわけです。いかにゆっくりとは言え、確実にヴェトナムも変わっていきます。それは当然としても、残すべきは何かということをしっかり考え、美しい風土や文化を守ってもらいたいものです。(写真出典:britannica.com)

2021年2月20日土曜日

ジャック・ジョンソン

ジャック・ジョンソンは、1908年、黒人としては初の世界ヘビー級王者になったボクサーです。ジャック・ジョンソンは、1878年、テキサスのガルヴェストンに、奴隷の子供として生まれました。体を鍛え、ボクシングの腕を磨いたジャック・ジョンソンは、15歳の時、初試合でいきなり勝利します。以来、試合を重ね、21歳でプロに転向。プロとしては、通算、113試合、79勝(44KO)8敗12引分け、14ノー・コンテストという記録を残しました。「ガルヴェストンの巨人」と呼ばれた歴史的ボクサーであると同時に、独特な方法で黒人差別と闘った男としても知られます。

当時、白人チャンピオンは、黒人とのタイトル・マッチを拒否できる”カラー・ライン”という制度がありました。強そうな黒人挑戦者をカラー・ラインで避けることができたわけです。黒人選手たちは、独自のチャンピオン・シップを創設しますが、お金にはなりません。黒人チャンピオンになったジャック・ジョンソンは、ヘヴィー級チャンピオンであったトミー・バーンズを挑発し続け、1908年、ついにシドニーでのタイトル戦にこぎつけます。結果は、14ラウンドTKOでジャック・ジョンソンの勝利、初めて黒人の世界チャンピオンが誕生しました。記録映像には、ジャック・ジョンソンの不敵な笑顔、そして倒れそうになったバーンズを抱え起こして殴るシーンも写っています。試合は、警官がリングに入り、中断され、TKOと判定されます。撮影も止められます。

優位性を否定された白人たちは激怒し、妨害や脅迫、果ては殺人予告まで行われます。ジャック・ジョンソンを叩きのめす”グレート・ホワイト・ホープ(白人期待の星)”として多くの白人ボクサーが送り込まれますが、ことごとくジャック・ジョンソンが勝ちます。究極のグレート・ホワイト・ホープとして、無敗のまま引退したジェイムス・ジェフリーズが担ぎ出され、1910年、”世紀の決戦”と銘打ってネヴァダ州リノでタイトル戦が行われます。”黒人を殺せ!”の大合唱のなか行われた試合は、15Rに2度ダウンしたジェフリーズのセコンドが、KO負けを回避するためにタオルを入れ、ジャック・ジョンソンのTKO勝ちとなります。ジャック・ジョンソン勝利に沸き立った黒人たちは、全米各地で街に繰り出し、勝利を祝いました。一部では暴動に発展し、30人ほどの死者まで出ます。この事態に白人たちは怯えます。

ジャック・ジョンソンは、何も恐れず、黒人でも白人でもなく、普通の人間として行動します。シカゴにナイト・クラブを開き、高級車を乗り回し、カー・レースにも参戦しています。また、常に白人女性をはべらせ、生涯3度の結婚相手も、すべて白人女性でした。白人たちの怒りは頂点に達し、白人女性を不適切な目的で州外に連れ出すことを禁じたマン法違反で、ジョンソンを逮捕します。奴隷的な売春から白人女性を守る法律の悪用でした。ジョンソンは、欧州へと逃亡します。欧州で試合を続けたものの、1915年、灼熱のハバナで、素人同然の巨人ジェス・ウィラードに、26RでKO負け、タイトルを失います。不自然さも残るこの試合は、八百長だったと言われています。ジョンソンは、負けと引き換えにアメリカに戻してやると言われていたようです。

1920年、ジャック・ジョンソンは、マン法違反に関し、自首して収監されます。明らかに冤罪であったマン法違反に関しては、2018年に至り、トランプ大統領により死後恩赦が与えられています。ジャック・ジョンソンは、差別と闘いましたが、抗議行動を扇動したわけでも、暴力に訴えたわけでもありません。その生き方において、白人たちを挑発し続けたのだと思います。彼の正当な後継者は、モハメッド・アリであり、マイルス・デイビスでもあると考えます。マイルスは、ドキュメンタリー映画「ジャック・ジョンソン」(1970)の音楽を担当しました。その同名アルバムの最後に、ブロック・ピータース演じるジャック・ジョンソンの言葉が流れます。実にジャック・ジョンソンらしい言葉です。"I'm Jack Johnson. Heavyweight champion of the world. I'm black. They never let me forget it. I'm black all right! I'll never let them forget it!" (写真出典:medium.com)

2021年2月19日金曜日

蘇州夜曲

李香蘭
「蘇州夜曲」は、西條八十作詞、服部良一作曲になる、1940年の名曲です。映画「支那の夜」のなかで、李香蘭が歌います。東洋のヴェネチアとも言われる水の都蘇州は、実に良い風情の街です。水と一体化した街の美しさは、ヴェネチアを遥かに超えていると思います。そう思うのは、東洋人としての感覚ゆえなのでしょう。蘇州夜曲も、日本人が思う蘇州の美しさを表しているのであって、中国人の感性が捉えた蘇州とは多少異なるかも知れません。ただ、映画も蘇州夜曲も、”日本占領下の”という限定は付きますが、東南アジア一帯でヒットしたと聞きます。名曲は国境を越えて、ということなのでしょう。

国民栄誉賞にも輝いた服部良一は、ジャズをベースに、日本のポップ・ミュージックを形成した作曲家と言えるのでしょう。生涯3,000曲を作り、別れのブルース、東京ブギウギ、青い山脈、銀座カンカン娘等々、多くのヒット曲を生みました。作詞の西条八十は、象徴詩人、仏文学者としても知られますが、多くの名曲を作詞しています。東京行進曲、東京音頭、支那の夜、誰か故郷を想わざる、青い山脈、ゲイシャ・ワルツ、王将等々です。いずれにしても、当時の最も優れた才能がコラボして、昭和史に残る名曲が生まれたわけです。

映画「支那の夜」(1940)は、渡辺はま子が歌う「支那の夜」の大ヒットをうけて東宝が企画した映画です。大スター長谷川一夫と、当時、満洲映画協会(満映)の大看板だった李香蘭こと山口淑子が主演しています。上海が主な舞台のいわゆるメロドラマですが、抗日ゲリラ等、世相も反映されています。楽曲「支那の夜」が国内よび東南アジアで大ヒットしていたもあり、アジア各地で映画もヒットします。中国では、日本の中国侵略を正当化する国策映画とする批判も多かったようですが、一方、日本国内でも、軍部等からは、国策に反する映画と批判されます。実際のところは、国も軍も関与していませんが、当時の検閲を通すための演出は加えられたようです。

蘇州夜曲は、中国も含めて、今でも多くカバーされ、歌い継がれていますが、大ヒット曲「支那の夜」を聞くことは稀です。「支那」という言葉ゆえ、ということになります。支那は、China同様、秦朝に由来し、仏典で使われた言葉です。決して差別的用語ではありません。ただ、日本帝国による中国侵攻を想起させるとして、中華民国、中華人民共和国から抗議を受け、使われなくなった言葉です。支那そばは中華そばになり、シナチクはメンマになりました。まぁ、中国が世界の中心で、それ以外は蛮族であるという中華思想に基づく国名もどうかとは思いますが。

蘇州夜曲のメロディは、服部良一が、杭州の西湖に浮かべた小舟のうえで、即興で吹いたサックスに始まると聞きます。1974年、雪村いづみが、キャラメル・ママをバックにカバーし、注目を集めました。以降、カバーされることが多くなったようです。個人的には、オリジナルの李香蘭、雪村いづみ、上々颱風版等が好きです。ただ、最も風情を感じるのが、中国語版です。ちなみに、アジアの歌姫と言われたテレサ・テンのヒット曲「夜来香(イェライシャン)」のオリジナルも李香蘭です。服部良一は、この名曲をもとに交響詩「夜来香幻想曲」を書き、終戦前夜の上海で上演、ほとんどが中国人という観客から大喝采を浴びたと聞きます。(写真出典:pinterest.jp)

2021年2月18日木曜日

中核派

穏やかな午後、オンボロ学生食堂で、仲間たちと雑談していました。昼食時の混雑は終り、人気もまばらでした。突然、奥の席から怒鳴り声が聞こえたかと思うと、一人の若者が脱兎のごとく走ってきて、ガラス窓に飛び込み、外へ逃げていきました。後を追う革マルと思しき数名は、「中核の犬だ!逃がすな!」と叫んでいました。恐らく1974年のことだったと思います。60年代に吹き荒れた学生運動の嵐は、70年安保闘争の敗北と共に鎮静化し、残った極左勢力は、内ゲバと呼ばれたセクト間闘争とテロの時代へと入っていました。

革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)と、日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)は、名前からわかるとおり、1957年に創設された革命的共産主義者同盟(革共同)の分派です。革共同は、フルシチョフによるスターリン批判を受け、かつ武力闘争を否定した日本共産党、ハンガリー動乱を鎮圧したソヴィエトへの反発を強めた極左勢力が結集して創設されました。同時期に暴力革命を標ぼうする共産主義者同盟(ブント)も結成され、全日本学生自治会総連合(全学連)と連携し、華々しく60年安保闘争を戦います。しかし、安保闘争に敗北したブントは分解し、多くの活動家が革共同に流れます。

革共同は、当初から、トロツキストと反スターリン派が対立し、まずはトロツキストが離脱。63年には、運動方針を巡る対立から中核派と革マル派に分裂します。この共産党系二派と、日本社会党系の社会主義青年同盟の武装闘争派である解放派=革命的労働者協会(革労協))が、新左翼の中心的存在となりました。この三派が主導権を争いながら、ヴェトナム戦争反対闘争を経て、学園闘争で全学共闘会議(全共闘)への浸透を図り、また三里塚闘争へ参加しつつ、70安保に向かいます。その間にも、武力行使重視の中核派と革労協、組織拡充重視の革マル派の対立は深まり、内ゲバが始まります。

70年安保、および沖縄返還闘争の敗北後、学生運動は鎮静化します。大衆動員型の闘争目標を失い、学生にも離反された新左翼各派は、内ゲバとテロに走ります。72年以降、本格化した中核派・革マル派・革労協の内ゲバは、100人の死者と多数の負傷者を出します。また、ブントの極左で革命戦争を目指す赤軍派によるハイジャック、赤軍派の流れをくむ日本赤軍のテルアビブ空港事件、連合赤軍の内ゲバと浅間山荘事件、あるいは東アジア反日武装戦線の爆弾テロがつづきました。警察の追及も厳しさを増し、活動家たちは潜伏生活に入り、特に幹部たちは、深く潜行します。

20年9月、中核派最高指導者の清水丈夫議長が、半世紀ぶりに姿を現し、21年1月には記者会見を開きました。何故、今頃になって、姿をあらわしたのか、という疑問が浮かびます。意気軒高に「資本主義をぶっ倒すために闘わなければならない」と語り、一連の事件への関与を否定するあたりは、ほぼシーラカンス状態とも思えます。現在でも4,700名という勢力を保持する組織の引き締めのために、姿を現したということのようですが、まずは中核派の60年を「総括」してもらいたいものです。(写真出典:sankei.com)

2021年2月17日水曜日

「シャドー・ディール」

監督:ヨハン・グリモンプレ 原題:Shadow World 2016年アメリカ、ベルギー、デンマーク

アンドルー・ファインスタインの高く評価されている著書 『武器ビジネス:マネーと戦争の「最前線」』(The Shadow World 2011)を原作とするドキュメンタリーです。決して表には出ず、影の世界から国際政治をも動かしている武器ビジネスの実態に迫ります。その性格上、資料も限られ、関係者が証言するとしても匿名性を求めるわけですから、書籍ならまだしも、その映像化は、極めて難しいものとなります。やはり、本作もうまく行きませんでした。思わせぶりな映像のオンパレードであり、真実に迫っていくドキュメンタリー映画の醍醐味は、まったくありません。原作のあるドキュメンタリー映画の難しさでもあるのでしょう。

最大の弱点は、ハイライトに据えたイラク戦争の闇について、まったくと言っていいほど、新しい切り口も、新しい資料も、新しい証言もないことです。イラク戦争に関して、まったく知識を持たない人が見れば、新鮮な驚きかも知れません。ただ、多少でも、知識のある人にとっては、よく知られた話をなぞっているだけに過ぎません。いまさらイラン・コントラ事件を、新事実がごとくプレゼンされても、しらけるばかりです。ただ、限りなく真実に近い疑惑を、繰り返し伝えることには、意味があるかも知れません。この映画によいところがあるとすれば、それだけです。

邦題は「シャドー・ディール」と、直接的に武器商人をイメージさせますが、内容は、より政治的な内容となっています。原題の「シャドー・ワールド」の方が、適切です。著作権等の問題もあったのでしょうが、矮小化された邦題は、誤解を生みやすいと思います。端的に言えば、現代における軍産複合体の問題を、表面的に伝えるだけの映画です。軍産複合体という言葉は、1961年、アイゼンハワー大統領の退任演説で有名になりました。言葉自体は、第一次大戦に際して、英国で誕生した超党派の反戦同盟「民主的統制連動」が使い始めたとされます。陸軍参謀総長だったアイゼンハワーが、軍産複合体に気をつけろ、と言ったわけですから、実に衝撃的だったわけです。

 産業革命が生み出した巨大産業の一つが軍需産業です。軍と一蓮托生的な性格を持つことは当然ですが、いずれも国家予算に基づく存在であり、GDPに占める割合も巨大、かつ就業人口も多大であることから、国としても、存続を左右しかねないほど重要な存在です。当然、軍産複合体は、あらゆる手段を講じて、維持拡大を図ります。政府としても、簡単に無視できるものではありません。ましてや、アメリカの場合、軍産複合体の構成員であるブッシュ家から二人も大統領が出れば、なにが起こるかは明らかであり、実際に起きたわけです。テロ対策という格好の材料を得た軍産複合体は、強大なイスラエル・ロビーとも連携し、中東から戦火が消えることがないように様々な手を打ってきたとも言えます。

ジョン・F・ケネディは、キューバ問題がもとでマフィアに暗殺されたという説が有力です。しかし、ヴェトナム戦争に疑問を持ち始めたことで、軍産複合体がCIA等と連携して暗殺したという説もあります。生真面目な田舎者ジミー・カーターは、本気でミリタリズムの是正に取り組もうとしたと言われます。軍産複合体が敷いた包囲網のなかで、ジミー・カーターは自滅していったとも言われます。莫大な資金を背景に、巧みに張り巡らした軍産複合体のネットワークは、我々の疑念を呼びおこすことはあっても、決して目に触れることなどないのでしょう。映画としての本作は評価できるものではありませんが、テーマ自体は問いつづけるべきものです。(写真出典:imageforum.co.jp)

2021年2月16日火曜日

有馬記念

石橋正二郎
久留米と言えば、江戸期創業の田中屋の鰻の蒸篭蒸しは忘れがたい味でした。久留米は豚骨ラーメン発祥の地でもあります。沖食堂では、どんぶりをあおりました。久留米は人口当たりの焼き鳥屋数日本一。焼きトン中心ですが、内臓系をダルムと呼びます。ドイツ語で内臓のことです。さすが医大の町。久留米は、ゴム産業で栄えた街であり、九州の鉄道網の要でもあります。工場労働者が多く、いわゆるB級グルメが盛んな土地柄になったのでしょう。とは言え、久留米最大の魅力は、石橋美術館でした。石橋美術館のためだけに九州へ行ってもいいと思えるほどでした。今は、八重洲のアーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館)に集約されました。

ブリヂストン創業者の石橋正二郎は、1889年、久留米の仕立屋に生まれます。家業を継いだ正二郎は、足袋製造一本に絞り、機械化、規格化、給与制等の近代化を進め、成功します。1921年には、兄徳次郎が開発した地下足袋で大成功し、進出した靴製造でも日本一となります。1931年、黎明期にあった自動車のタイヤ製造へと事業を拡大しました。先見の明に優れた近代日本を代表する経営者です。正二郎は、小学校時代の恩師である坂本繁二郎の依頼を受け、夭折した天才青木繁の絵画から美術収集を始めます。青木、坂本、そして藤島武二のコレクションが、石橋美術館のメインとなっています。

坂本、青木は、共に久留米の出身です。加えて古賀春江、高野野十郎、版画の吉田博等もおり、何故か、明治期の久留米は、洋画を中心に革新的な画家を多く輩出しています。正二郎は、時代が違うので、後に収集はしますが、彼らを支援したわけではありません。その正二郎や東芝創業者の田中久重も加えれば、明治期の久留米は、革新的な人を多く輩出した土地柄とも言えます。久留米市によれば「筑後川と筑後平野の豊かな自然の恵み」が彼らを生んだ、ということになります。そのとおりでしょうが、彼らの革新性の説明にはなっていません。

実は、幕末における久留米藩の状況が、少なからず影響しているのではないかと思います。家康の養女を妻に迎えた福知山藩主・有馬豊は、大阪の陣での戦功が認められ、1620年、久留米藩21万石の城主になります。城や城下の整備、筑後川の治水、筑後平野の灌漑整備等を精力的に行いますが、当面の財政難も招きます。倹約に努めた結果、江戸中期には財政も再建されますが、以降、和算の大数学者、相撲好き、文化好きといった藩主が、藩政を顧みずに趣味に没頭し、政治は乱れます。そして、幕末に至り、複雑な家臣団の構成を背景にお家騒動が起こり、それに尊王・佐幕の争いが加わり、陰謀・暗殺・疑獄といった混乱が続きます。

開明派が主導権を握ると、日本有数の海軍も創設されます。戊辰戦争では新政府側について戦っていますが、明治3年には、新政府転覆をはかる二卿事件に関与し、明治政府による占領も経験します。時代の変わり目の混乱が、あたかも一藩の中に凝縮されたがごとき大騒動です。新しい社会が生まれる際の大混乱は、新しい文化・芸術の揺りかごでもあります。久留米が開明的な人材を多数輩出し得た理由が、ここにあるのだと思います。ちなみに、15代有馬家当主は、プロ野球の球団オーナーや中央競馬会理事長を務め、G1有馬記念にその名を残します。有馬家の家風を感じさせます。(写真出典:ishibashi-foundation.or.jp)

2021年2月15日月曜日

旅の土産

アメリカ人が国内旅行をした際の土産の定番と言えば、マグ・カップ、スプーン、指ぬき、Tシャツ、ベースボール・キャップといったところでしょうか。どれも、街や観光地の名称が入っているだけで、品物自体に大きな違いはありません。歴史の浅い国であり、各地の独自の文化といっても知れたものですから、結果、そうなるのでしょう。我が家にも、アメリカ5年間滞在の産物として、各地のマグ・カップが山ほどあります。収集していたわけではなく、他に買うものがないので、結果、増えました。日本人は、英語のスーベニアをお土産という意味で捉えがちですが、その語源はフランス語の「記憶」や「思い出」です。旅の土産も含まれますが、あくまでも自分用の記念品です。対して、日本の旅のお土産は、ご近所や知人に配るものという独自の文化が加わります。

日本のお土産文化は、神社へ参拝した際に、宮笥(みやけ)、つまり板に神札を張ったものを授かり、持ち帰ったことから始まると言われます。その土地の産物を表す言葉だった土産(どさん)を、”みやげ”と読み始めたのは室町の頃だそうです。このころから、神社のお札等の他に、その土地の産物を持ち帰ることも一般化したということなのでしょうか。それを知人等に配るという文化が一般化したのは、少なくとも江戸期以降のことだと思います。それまでは、庶民が旅をすること自体が稀だったわけですから。参勤交代由来説もありますが、限られた世界の話であり、違うように思います。恐らく、お伊勢参りが、土産文化を広げ、定着させたものと考えます。

一生に一度は、と言われたお伊勢参りは、長旅でもあり、結構な旅行資金が必要でした。例えば、江戸からなら、往復1か月かかり、その費用は、今の貨幣価値で30万円ほどと言われます。右から左という金額でもありません。そこで、伊勢講が組まれ、皆で貯めたお金を資金に、くじ引きで決まった代表がお参りしました。また、近所の人や知り合いから援助してもらう、あるいは借金して出かけた人もいることでしょう。いずれにしても、感謝の気持ちに加え、確かにお伊勢参りをしてきたという証拠としても、土産が広まったものと思われます。

赤福本店
当時、お伊勢参りのお土産の定番は、伊勢神宮の神札である「神宮大麻」だったようです。当時の旅支度の身軽さを考えれば、それが精一杯だったと思います。食品を中心にお土産品が多様化するのは、鉄道が敷かれてからということになります。伊勢神宮の土産と言えば、江戸初期創業の赤福ですが、昔は、店内飲食のみだったわけです。各地の神社にも、境内に餅屋の類が多くあったようですが、まずはそこから土産の多様化が始まったのでしょう。ちなみに、お土産の定番である温泉饅頭の発祥は、伊香保温泉だと言われます。1910年、伊香保電気軌道開通に際し、江ノ電を視察した関係者が、上州屋の片瀬饅頭をヒントに商品化したそうです。

駄菓子を製造する零細企業を親から引き継いだ若社長は、洋菓子の開発に取り組みます。社長は、雨の日も、雪の日も、毎日のように空港へ通っては、客室乗務員に製品を配って歩いたと言います。そのうち、美味しいと評判になり、ついに機内で出されるお菓子に採用されます。それからほどなくして、土産物の売上では、赤福に次ぐ全国第二位にまで上り詰めます。石屋製菓の「白い恋人」縁起です。最近は、お取り寄せで、各地の名産品や土産品がネットで購入できます。かつては、その土地でしか買えないことに価値があったように思います。白い恋人も、北海道でしか買えないという戦略を取り、成功していました。(写真出典:toba.br.jp)

2021年2月14日日曜日

「この茫漠たる荒野で」

監督: ポール・グリーングラス  原題:News of the World  2020年アメリカ

☆☆☆+

2016年、全米でベスト・セラーとなったシャーロット・ジルスの「News of the World」の映画化。1870年、家族を殺され、カイオワ族の一員として育てられたドイツ系移民の少女を、新聞の読み聞かせを生業とする退役軍人が、彼女の親戚のいるテキサス南部まで送り届けるという話です。ゆっくりとしたテンポが心地よい西部劇です。この映画を、一言で申しあげるならば、「ザ・トム・ハンクス・ムービー」ということになります。トム・ハンクスの魅力と存在感だけで映画が成立していると言っても過言ではないでしょう。加えるとすれば、少女役のヘレナ・ゼンゲルの魅力です。言葉が通じず、いつも仏頂面の少女が、ラスト・シーンで見せる笑顔は最高です。この笑顔を見るためだけでも、この映画を見る価値があります。よくこんな少女を見つけたものだと感心します。

インディアンにさらわれ育てられた白人少年の実話がベースにあるようです。少年は、結局、言葉を覚えず、親戚にも見放され、疎外感のなかで死んだようです。西部各地で、人を集め、一人10セントで、新聞を読み聞かせるという商売も実際にあったようです。新聞社が乱立し始めた時代ですが、鉄道網もまだ十分ではなく、西部で新聞は貴重だったのでしょう。もちろん、移民が多く、識字率も低かったため、成立していた商売だと思われます。南北戦争から5年後、まだ北軍に占領支配されている敗戦国テキサスが舞台。主人公のキッド大尉は南軍の復員兵であり、戦争の傷を引きずっているという設定が、実に効果的だと思います。原作では、主人公を取り巻く環境は、もう少しこみいっていますが、シンプルな翻案が成功しています。

監督のポール・グリーングラスは、北アイルランドの”血の日曜日事件”をドキュメンタリー・タッチで描いた「ブラッディ・サンデー」で、ベルリン映画祭の金熊賞をとっています。その後、アクションもので確かな腕を見せています。この映画には、自然、あるいは自然と共存する人々へのリスペクトがベースにあります。ワイドな画面に映し出される西部の荒野は、確かに”茫漠たる”ものですが、慈しみをもって描かれています。それが、ゆったりとしたテンポと相まって、良い効果をあげています。所々、カメラを振るあたりにアクション映画の癖が出ており、やや気になりました。

それにしても、この重たい邦題は、一体、どうしたんでしょう。原作のタイトル "News of the World" は、単に主人公の生業に寄せただけではなく、作者の多くの想いが詰まっているように思えます。例えば、Newsは、ニュースばかりでもなく、少女にとっての New World であったり、少女を通して主人公が見出す New World であったりもします。ただ、日本で公開する映画のタイトルとしては、内容がイメージしにくいことは理解できます。同じ理由で、邦題と原題が、大きくかけ離れているケースは、ままあります。とは言え、ベスト・セラーの映画化の場合には、もう少し原題を尊重すべきではないかと思います。

馬車に揺られながら、主人公と少女は、お互いの言葉を教え合います。主人公は、白人について「「我々は直線的に考える」と表現します。一方、カイオワ族は、大地、空、精霊、祈り、すべてを「環」として捉えることを知ります。この映画には、アメリカの歴史、あるいは西部開拓史に関わる、実に多くのファクターが散りばめられています。フロンティアが壊してきたもの、あるいはフロンティアによって失われたものの長いリストのようにも思えます。(写真出典:newsoftheworldfilm.com)

2021年2月13日土曜日

貸本屋

 高校1年生の夏、蓄膿症の手術のために、2週間ばかり入院しました。体は健康なので、もう暇でしょうがない。次から次へと文庫本やマンガ本を読みますが、マンガ本などは、あっと言う間に読み終わります。病室には、10ばかりのベッドが並び、すべて埋まっていました。一番若い私が退屈しているのを見て、お兄さんたちがマンガ本を貸してくれました。いわゆる「貸本」でした。既に貸本屋は廃れつつあり、家の近くになかったこと、大人向けという印象もあり、それまで利用したことはありませんでした。

貸本屋の歴史は古く、江戸初期までさかのぼります。寺子屋の普及で、読み・書き・そろばんのできる庶民が増え、読書も一般化していきます。紙の生産量も増え、印刷技術も向上したことから書籍の供給も増えたようです。ただ、庶民が気軽に買える値段ではなかったようで、江戸初期には貸本屋が登場しています。後には行商スタイルの貸本業も始まったようです。以降、明治から大正、昭和中期に至るまで、永らく庶民の読書文化を支えたのは、貸本屋だったのでしょう。後のレコード・レンタル、ビデオ・レンタルの先祖とも言えます。

戦後、青年層を対象とする貸本専用の書下ろしマンガが登場し、貸本の世界はマンガが主力になっていきます。昔、マンガ雑誌と言えば、子供向けがほとんどだったのに対し、青年向けは、この書下ろしの貸本が主力であり、劇画と呼ばれるようになります。60年代後期には、いわゆる劇画ブームが到来し、劇画雑誌も続々発刊されます。貸本の書下ろしを描いていた漫画家たちが活躍する時代になりました。劇画雑誌で、印象に残るのは「ビッグコミック」、「ガロ」、「COM」の三誌です。それぞれ、さいとう・たかお「ゴルゴ13」、白戸三平「カムイ外伝」、手塚治虫「火の鳥」と、歴史に残る傑作が連載されていました。

「ねじ式」
世界は、ヴェトナム戦争、反戦運動、文化大革命、日本は、高度成長、全共闘時代と騒がしく、中学2~3年生だった私は、多感な時期でもあり、劇画に大人の世界を感じたものです。特に強烈な印象を受けたのは、ガロに掲載されたつげ義春の「ねじ式」でした。なんじゃ、これは、の一言につきます。そのシュールで虚無的な世界は、いつまでも、いつまでも、頭の中に残っていました。「ねじ式」は、高度成長のひずみを象徴していたとも言え、全共闘世代の大学生から絶大な支持を受けます。かつて劇画の主な読者は、貸本を利用する勤労青少年だったわけですが、ここへ来て低年齢化も進み、大学生、大卒サラリーマンへと拡大しました。貸本から始まり、貸本屋を潤した劇画ですが、ブーム化し、雑誌化されることで、逆に貸本屋を衰退させました。

少年少女向けだったマンガ雑誌も、ターゲット層の拡大をはかり、「明日のジョー」や「巨人の星」といった時代を反映した傑作も登場します。近頃の若者は、マンガばかり読んで、本を読まなくなった、と批判されたものです。かつて若者は、青春文学から多くを学んだのでしょうが、我々の世代は、マンガから多くを学んできたとも言えます。廃れた貸本屋は、一般書店へと業態を変えた店が多かったようです。文学は売れなくても、マンガ雑誌がよく売れ、書店はいい時代だったと思います。(写真出典:prtimes.jp)

2021年2月12日金曜日

梁盤秘抄 #13 Congolese Funk

アルバム名:Congolese Funk, Afrobeat & Psychedelic Rumba 1969-1978      アーティスト名:Verckys & L'orchestre Veve

西アフリカを代表するポピュラー音楽と言えば、フェラ・クティのアフロ・ビートを別とすれば、ハイライフとルンバ・コンゴレーズといったところでしょうか。ハイライフは、第二次世界大戦後、ガーナで、上流階級用クラブのダンス音楽として始まったとされます。ビッグ・バンドから始まり、後にギター・バンドへと幅を広げます。軽やかなギター・アンサンブルに男性コーラスが特徴的です。ハイライフは、近隣諸国にも広がり、西アフリカのポップの主流となり、ルンバ・コンゴレーズやアフロ・ビートにも影響を与えました。

ルンバ・コンゴレーズは、ギタリストのフランコが、キューバのソンをベースとしたコンゴのダンス音楽スークースとジャズを融合して生み出したとされます。ソンは、世界的にルンバと呼ばれますが、英語のSong との混同を避けるために命名されました。キューバのソンは、ジャズやサンバと同じく、西アフリカ音楽とヨーロッパ音楽の出会いによって生まれました。コール&レスポンスやダンス・パートの存在が特徴と言われますが、様々なスタイルがあります。いずれにしても、西アフリカの音楽が、キューバへ渡り、そしてヨーロッパ経由で、コンゴに先祖帰りしたわけです。

1960年、ベルギーから独立したコンゴ共和国は、その後、ザイール共和国、そして現在はコンゴ民主共和国と国名を変えています。独立直後から、ベルギーが介入した内乱、いわゆるコンゴ動乱がはじまります。65年にはモブツが大統領に就任、以降、32年間の独裁が始まります。60年代は、アフリカの時代と呼ばれ、多くの国が独立しました。政治的な混乱もありましたが、若い国は躍動感にあふれ、音楽も、また新しい世界を切り開いていました。フランコのルンバ・コンゴレーズも、その一つと言えます。そして70年代に入ると、新しいアメリカの文化が入ってきます。

フランコのバンドに在籍していたギタリスト、ヴェルキースは、古いルンバ・コンゴレーズに飽き足らず、独立して自らのバンド”Verckys & L'orchestre Veve”を結成します。ロックやファンクを取り入れた力強いサウンドを展開します。ジェームス・ブラウンも、ヴェルキースのサウンドに触発され、リミックスを作ったと言われます。本アルバムは、ヴェルキースの70年代ベストを集めたものです。同じ時期、ナイジェリアでは、フェラ・クティがアフロ・ビートを展開し始めていました。煮えたぎった鍋の蓋を開けたように、西アフリカのファンク・シーンが花開き、多くの才能が活躍しました。コンゴの首都である大都市キンシャサが、新しい音楽を生んだとも言えます。キンシャサは、アフリカのポップ音楽の中心地となっていきます。

「キンシャサの奇跡」とは、1974年、キンシャサで行われたヘヴィー級タイトル・マッチで、モハメッド・アリがジョージ・フォアマンをKOして成し遂げた奇跡の復活劇を指します。このタイトル戦に合わせて、ジェームス・ブラウンはじめアメリカの黒人音楽家たちによる「ザイール’74」というフェスがキンシャサで開催されています。その模様はドキュメンタリー映画「ソウル・パワー」(2008)で見ることができます。地元からは、フランコとタブー・レイ・ロシュローも登場しています。当時のキンシャサの様子も興味深く、ホテル前でハイライフを演奏するバンドがいい味を出していました。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年2月11日木曜日

湯ごり

近鉄・榊原温泉口駅
日本三大名湯は、有馬、草津、下呂とされます。根拠は、室町時代、京都相国寺の詩僧・万里集九が、その詩文集「梅花無尽蔵」に記載しているから、と言われます。おおよそ三大〇〇というのは、基準があいまいなものですが、皆が認める有名どころといった意味でしょうか。出典の古さという基準であれば、記紀に登場する日本三古泉というのがあります。有馬、道後、白浜です。また、和泉式部の「枕草子」には「湯はななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯」とあります。”ななくり(七栗)”とは、三重県の榊原温泉です。

いわゆる「美人の湯」といわれる温泉は、湯ざわりが、多少、ぬるっとしているように感じます。これは、お湯にぬめりがあるわけではなく、お湯に含まれるアルカリ成分や炭酸水素ナトリウム成分が、古い皮膚を溶かす効果があり、それがぬめりを感じさせているようです。ですから、湯上りには、肌がすべすべになっており、美人の湯と称されるようです。私が知り得る限り、このぬるぬる感が最も強いのが榊原温泉です。榊原温泉の湯質は、アルカリ性単純泉であり、しかも高アルカリ泉だそうです。そういう意味では、最強美人の湯として、もっと有名であっても良いと思うのですが、現実はそうでもありません。

江戸後期の温泉番付「諸国温泉功能鑑」は、勧進元に日本最古の紀伊熊野本宮の湯(湯の峰温泉)、行司に津軽大鰐の湯・紀伊熊野本宮の湯・伊豆熱海の湯を配し、両大関には有馬・草津が並びます。90ヵ所を超える温泉が載っているにも関わらず、榊原温泉は登場していません。青森の山奥の嶽温泉まで載っているのに、清少納言推薦の温泉が不掲載とは合点がいきません。こんないい湯が、東京であまり知られていないのは何故か、と松坂の人に聞くと、かつて反社会的勢力が入り込み、客足が遠のいたことがある、と聞かされました。なるほどとも思いましたが、千年の湯にあっては、ごく最近の一時期の話に過ぎません。

榊原温泉が、見事な湯質に比べ、知名度がいまいち低いのは、恐らく古来からの位置づけが関係しているのでしょう。榊原温泉は、伊勢神宮を詣でる際の垢離場(ごりば)、いわゆるお清めの場所でした。もちろん、長旅の汚れを落とし、疲れを癒すという意味合いもあったと思いますが、あくまでもお参り前のお清めであり、お伊勢参りの一部だったのでしょう。地元では「宮の湯」と呼ばれていたそうです。また、榊原という地名は、伊勢神宮で使う榊の産地であったことに由来すると言います。江戸期、湯治がブームになると、榊原温泉にも、湯治場が作られたことがあったようですが、いわゆる温泉街もありません。

鎌倉後期の私撰和歌集「夫木和歌抄」のなかに「よの人の  恋の病の  薬とや  七栗の湯の  わきかえるらん」という歌があることから、榊原温泉は、「恋の湯治場」とも呼ばれるそうです。面白いチャッキコピーですが、つける薬はないといわれるのが恋の病。さすがに功能のほどを問う人は、昔からいなかったと思われます。さらに言えば、ターゲットが狭く、集客力に欠けるコピーと言わざるを得ません。まぁ、実際、恋煩いの人ばかりが集まり、ため息をついている温泉場を想像すると、やや気色悪いものがあります。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年2月10日水曜日

せまじきものは宮仕え

松王丸
国立小劇場で、人形浄瑠璃「菅原伝授手習鑑」の寺入り、寺子屋の段を見てきました。熱演に目頭が熱くなりました。歌舞伎も含め、何度か見ていますが、やはり日本人の心情に訴える傑作だと思います。歌舞伎では、忠臣蔵、義経千本桜と並んで、最も上演回数が多い作品だと言われます。菅原伝授手習鑑は、近松門左衛門の浄瑠璃「天神記」をもとに、初代竹田出雲等が合作し、1746年、竹本座で初演されています。当時、三つ子の誕生が話題になっており、早速、脚本に取り込んだようです。菅原道真の「梅は飛び 桜は枯るる 世の中に 何とて松の つれなかるらん」という歌に基づき、三つ子の名前と性格付けがなされています。

名セリフ「せまじきものは宮仕え」は、寺子屋の段における武部源蔵のセリフ。浄瑠璃は、当時の大阪方言で演じられます。「せまじき」は「すまじき」であり、宮仕え、つまり組織の一員として働くもんじゃない、といった意味になります。菅丞相(菅原道真)は、藤原時平に謀られて失脚します。菅丞相の一番弟子ながら訳あって勘当され、今は寺子屋を開く武部源蔵は、菅丞相の七つになる息子菅秀才を匿います。それを知った時平は、菅秀才の首を差し出せと迫ります。首実検は松王丸に任されます。松王丸は、菅丞相の領民の三つ子の次男。菅丞相に恩あるものの、今は時平の家臣。

武部源蔵は、その日、寺入り(入門)したばかりの小太郎を、菅秀才の身代わりに殺め、首を差し出します。首を検めた松王丸は、菅秀才に間違いなしと言い切ります。時平の手勢が引き上げた後、松王丸夫妻が白装束で寺子屋に現れます。実は、小太郎は、松王丸の実子、身代わりになることを言い含めて、寺入りさせたのでした。小太郎が、にっこり笑って首を差し出したと聞いた松王丸は、「出かしおりました。利口な奴、健気な奴」と泣き崩れます。「せまじきものは宮仕え」は、教え子を身代わりにせざるを得ない状況に、源蔵が言うセリフですが、菅原伝授手習鑑を貫く主題かも知れません。

これを封建制批判と理解する人たちがいるようです。あるいは滅私奉公を旨に高度成長を支えた会社員象に重ねる人たちもいます。残念ながら、それらは、あまりにも表面的な見方だと言わざるを得ません。もちろん、人は、菅原伝授手習鑑の理不尽な状況や親子の深い情に涙します。しかし、その背景にあるものは、組織と個人、公と私、という普遍的なテーマだと思います。連帯を求めて生きる人間にとっての宿命的な課題です。人間のアイデンティティに関わる根源的な問題です。だからこそ、菅原伝授手習鑑は、時代を超えて、人々に受け入れられてきたのだと思います。

話はフィクションですが、武部左衛門尉治定、後の源蔵は実在の人です。菅原道真の所領園部の代官であり、道真が大宰府へ流されるおり、幼い弟とも庶子とも言われる慶能の養育を託されたと言われます。源蔵は、慶能を慰めるために道真の木像を彫ります。道真の客死後、木像は霊廟に祀られ、後に神社のご神体となります。ご神体が道真存命中に彫られたことから、生身(いきみ)天満宮と呼ばれ、日本最古の天満宮として、園部に現存しています。境内には、武部源蔵の墓もあります。神社は、今に至るまで、代々、武部家が宮司を務めているようです。(写真出典:bunka.go.jp)

2021年2月9日火曜日

ズート・スーツ

Kid Creole
1980~90年代、NYを中心に活躍した”キッド・クレオール&ココナッツ”は、結構、好きなバンドでした。ラテン、ディスコ系の大編成バンドですが、ブラス・セクションやパーカッションが特徴的で、何よりもザ・ココナッツと呼ばれるバック・コーラスとダンスを担当する女性3人組が目立っていました。82年にヒットした「Stool Pigeon(密告者)」は大好きな曲で、今でもよく聞きます。40年代のビッグ・バンドのテイストを好み、ド派手なズート・スーツはキッド・クレオールの代名詞でした。カールスモーキー石井が、キッド・クレオールに刺激され、米米クラブを結成した話は有名です。

ズート・スーツは、やたら長いジャケットに幅の広いラぺ、超幅広でウェストと裾を絞ったパンツが特徴です。大体、つばの広い帽子がセットされます。マンガから飛び出したようなデフォルメされたスーツです。発祥は、1920年代のNYハーレムと言われます。ズートという言葉は、ジャズ演奏の際、観客が入れる合いの手を意味し、ジャズマンが着用し始めた奇抜なスーツも、ズート・スーツと呼ばれるようになったようです。流行したのは1940年代で、ミュージシャンやギャング、特に黒人やチカーノが好んで着用したと言われます。とてもお上品とは言えない服で、チンピラたちがイキがって着るような服でした。ズート・スーツは、アメリカの歴史の中で、ただ一度だけ法律で禁止された服としても知られます。

1942年、戦時生産局は、無駄に多くの服地を使うズート・スーツを贅沢品として禁止しています。他にも生地を多く使う服はありそうなものです。恐らく黒人の遊び人たちへの嫌がらせだったのでしょう。また、1943年、LAで、チカーノと海軍基地の海兵たちのいざこざが、襲い襲われの大喧嘩へとエスカレートします。チカーノが好んで着用していたことから、海兵はズート・スーツを着ていれば誰でも襲うようになります。この騒動の間、警察は、海兵には構わず、チカーノだけを逮捕します。この差別的対応がチカーノの暴動を誘引しました。この暴動は、ズート・スーツ暴動と呼ばれ、LA当局はズート・スーツの着用を禁止します。

黒人やチカーノの間で、ズート・スーツが流行した背景には、都市部への流入が続いた有色人種が、大きなコミュニティを形成し、独自の社会や文化を形成し始めたということがあります。ズート・スーツは、激しい人種差別と貧困への憤りの現れであり、明日が見えない若者たちの鬱憤の現れであり、そして芽生え始めた白人に対する対抗意識の現れでもあったのでしょう。ちなみに、LAの若い日系人の間でも、ズート・スーツは流行したそうです。ズート・スーツは、アメリカ黒人による差別との戦いの歴史のなかに位置付けるべきアイテムだと言えます。

不思議だな、と思うのは、日本のツッパリが好んで着用した長ランと呼ばれる学生服や特攻服なども、皆、ジャケットの丈が長いのが特徴です。ズート・スーツにも通じます。常識的で伝統的なジャケットをデフォルメして着るということは、社会や既存の価値観への反抗を意味しています。その際、派手な色使いという手もありますが、丈を長くする方法は、比較的容易なアプローチだと言えます。世界には、ズート・スーツや長ランの仲間が、もっとありそうな気がします。(写真出典:essential-records.cm)

2021年2月8日月曜日

「カミーユ」

監督:ボリス・ロジキン  2019年フランス

☆☆☆

2014年、中央アフリカで殺害されたフランスの報道写真家カミーユ・ルパージュを描いた映画です。カミーユは、中央アフリカの惨状を、世界に伝えたことで知られます。ドラマというよりはセミ・ドキュメンタリーに近く、カミーユの存在を伝えるために作った映画と言えます。カミーユが残した多くの写真が使われ、それを現地ロケで忠実に映像化しています。カミーユの足取り、銃撃時の状況等については、証言も多く、すべて正確に把握されていますが、殺害者については不明のままです。殺害された時、カミーユは、まだ26歳。キャリアは短いものの、彼女の写真は、多くの雑誌に掲載され、注目される若手写真家でした。

中央アフリカは、人口450万人の小国であることもあり、その惨状が日本で報道されることは、ほぼありません。1960年にフランスから独立しますが、クーデターが相次ぎ、政情が安定することはありませんでした。2012年、政権を奪取したイスラム系のセレカと、これに対抗するキリスト教系のアンチ・バラカという二大勢力による内戦が勃発します。その後、停戦、民政化も行われますが、いまだ内戦状態が続いています。人口の10%が犠牲となり、25%が国内外で難民状態にあります。中央アフリカは、世界で最も貧しい国とされています。

戦場写真家は、戦場から戦場へと渡り歩きます。報道写真家は、ニュースのある場所からニュースのある場所へと渡り歩きます。カミーユは、違いました。キャリア初期には、南スーダンで活動しますが、そこで中央アフリカの状況を知って以降は、なかば中央アフリカに定住して撮影し続けました。実際、中央アフリカのニュース・バリューが落ちた時、新聞社からウクライナ行きを打診され、断っています。プロの世界では、あり得ない判断だと思います。そういう意味では、職業的な報道写真家とは言えなかったようにも思います。むしろ、人道アクティビストと呼ぶべきなのかも知れません。

中央アフリカで、親しい現地の友人が殺され、ショックを受けたカミーユは、故郷アンジェへ戻ります。家族に癒され、友人と夜遊びします。しかし、もはやそこは自分のいる場所ではないという思いが募り、前述のとおり、新聞社からのウクライナ取材のオファーも断り、中央アフリカへ戻ります。自らが成すべき使命がそこにある。あるいは、自分の存在を証明できるのはそこだ、という強い思いなのでしょう。戦場写真家たちも、どれだけ痛い目にあっても、何故か、必ず戦場に舞い戻ります。仕事だからではなく、より強い刺激を求めるからでもなく、使命感と一体化した自分の存在証明がそこにあるからなのでしょう。

高校の先輩に、ピュリッツアー賞受賞の戦場カメラマン沢田教一がいます。UPI社のカメラマンとして、1965年からヴェトナム戦争を取材し、70年、プノンペン郊外で銃撃され、亡くなりました。ピュリッツアー賞を受賞した「安全への逃避」は、銃火のなか川を渡る母子の緊迫した表情が、戦争の悲惨を雄弁に伝えます。この写真は、全米で大きな反響を呼び、ヴェトナム戦争反対運動が本格化したとも、戦争終結を2年早めたとも言われます。一枚の写真が、世界を変えることもあります。ただし、多くの場合、その背景には、写真家の命を懸けた取材があることを忘れてはならない、ということなのでしょう。(写真出典:imdb.com)

2021年2月7日日曜日

祈りのかたち

円空仏の人気は、衰えることがありません。鉈やノミで彫り出す素朴な円空仏は、荒いタッチにも関わらず、慈愛、ユーモア、時に恐ろしさがよく伝わります。円空は旅の修験僧でした。修験道の修行の一つに、造仏があるそうです。とは言え、生涯で1万2千体の仏像を彫ることを誓ったという円空は、常とは大いに異なります。現在、5,300体まで見つかっているそうです。なぜ、円空が、それほどまでに造仏にこだわったのかは、謎のままです。

NHKの「ETV特集 ”円空 仏像に封印された謎”」(2021/1) は、興味深い番組でした。円空の生い立ちは不明な部分が多いようです。どうも母子家庭に育ち、幼くして母を洪水で亡くし、寺に預けられたようです。複数の寺で過ごした後、修験道に入り、富士山で修行します。そこで造仏修行を始めたようです。母への想いは断ちがたく、それが円空の修行のモチベーションでした。40歳、生地とされる岐阜県羽島で大きな十一面観音像を彫り、中に母の遺品を納め、供養に一区切りをつけたようです。そして、修験道の聖地大峰山で冬ごもりの荒行を終えた円空は、突然、あの独特な作風で造仏を始めます。

仏教では、穢れている女性は成仏できないとされていました。母を弔ったものの、成仏できないことを気に病んでいた円空は、釈迦が、龍王の8歳になる娘龍女を即身成仏させたことを知ります。以降、円空は龍女を多く題材としていきます。ちなみに、龍女は、成仏したお礼に、人々の安らかな暮らしを願って法華経を説いたと言われます。円空は、母の成仏と人々の安寧を願って、多くの仏像を作り続けたのでしょう。1695年、64歳になった円空は、自らも、生まれ故郷で、飲食を断ち、即身成仏しています。

番組では、円空が滞在していた飛騨千光寺の麓の家々に、円空仏が多く受け継がれていることを伝えています。高さ10cmに満たない仏像は、親しみを持って「円空さん」と呼ばれてきたそうです。そして、病気の時には抱いて寝たもんだ、とまで言います。もはや宗教ではありません。信仰そのものです。円空仏は、人々の心の拠り所として、人々の暮らしに安らかさを与え続けてきたのでしょう。円空仏は、文字に依らない法華経そのものだったとも言えそうです。

釈迦の言葉は哲学です。菩薩たちは、その分析を重ね、人々への伝え方を考え、宗教としての仏教が成立してきたと考えます。しかし、空の概念は簡単なものではありません。修験道は、日本古来の山岳信仰、つまり自然崇拝と仏教が融合したものです。厳しい修行で得た験力を持って加持祈祷を行うばかりが修験道ではありません。験力を持って、人々に救済を与えることが本来的役割だと思います。円空仏は、宗教の枠組を使いながら、人々の信仰に形を与えています。まさに日本独自の信仰である修験道の一つの完成形だと思えます。(写真出典:enku.jp)

2021年2月6日土曜日

「LA92」

監督:ダニエル・リンジー、T.J.マーティン  2017年アメリカ

☆☆☆☆ 

1991年、LA市内を車で走行中のロドニー・キングは、スピード違反で停車を命じられます。仮釈放中だったキングは、逃走を試みますが、捕まります。車から降ろされたキングは、複数の警察官に取り囲まれ、激しい暴行を受けます。残念ながら、決して珍しい光景ではありません。ただ、ロドニー・キングの場合、他のケースと大きく異なっていたことは、その一部始終を近隣住民がビデオで撮影していたことです。暴行映像は、全世界に流れました。

警察官の過剰な暴力を裁く裁判は、当然、LA市内で開かれる予定でした。しかし、LA市内で行えば公平性を欠く懸念があるとして、白人が88%を占め、警察官が多く住む郊外のシミ・ヴァレーで開かれます。50年代以前の南部ならいざ知らず、90年代のLAで、平然と行われた司法操作です。公判中に、さらなる悲劇が起きます。食料品店で、万引を疑った韓国人の女性店主が、制止をきかずに去ろうとした黒人少女ラターシャ・ハーリンズを、いきなり後ろから撃ち殺します。陪審員は、故殺で懲役16年という評決に至ります。ところが、白人の女性判事は、保護観察5年へと大幅減刑します。黒人たちの不満は高まります。

ロドニー・キング裁判は、92年4月29日、評決の時を迎えます。TV中継を通じて、全米が固唾を飲んで結果を見守っていました。陪審員の評決は全員無罪。黒人たちの深い嘆息は、すぐに警察への抗議行動へと変わります。LAPD本部のあるパーカー・センター前に集まった黒人たちの抗議は、襲撃へとエスカレートします。こうして史上最大の「ロサンゼルス暴動」は始まりました。非常事態宣言、外出禁止令も出され、州兵も派遣される事態となります。暴動は5日間に渡り、死者63人、負傷者2,400人、逮捕者12,000人、火災3,600件、略奪された店舗4,500店、被害総額は10億ドル。略奪された店舗の多くは韓国系ながら、狙われたというよりも黒人地区周辺にあったからだとされます。自衛のために銃器を撃ちまくる韓国系店主たちの映像が物議を醸しました。

ナショナル・ジオグラフィックのドキュメンタリー映画「LA92」は、当時のニュース映像を中心に構成され、一切ナレーションも入りません。ほとんどが中継映像なので、迫力、臨場感が半端ないものとなっています。また、時系列に沿って編集されているので、マスヒステリアがエスカレートしていく過程がよく分かります。また、多くのインタビュー映像は、黒人のたちの悲しみ、怒りを、ストレートに伝えています。さらに、韓国人の置かれた状況も映し出されるなど、LAの多様な民族性が生む複雑さも明らかにしています。ロサンゼルス暴動のすべてを、生々しく伝えるドキュメンタリー映画の秀作だと思います。

映画のオープニングには、65年、同じくLAで起きたワッツ暴動のニュース映像が流れます。キャスターは、この暴動が、将来、より大きな暴動につながりかねないことを懸念しています。その恐れは、26年後に現実のものとなったわけです。そして、エンディングで、同じワッツ暴動のニュースが、再度、流されます。ロサンゼルス暴動の28年後、ミネアポリス警察が無抵抗のジョージ・フロイドを殺害する映像に端を発し、BLM運動が全米に広がり、一部は暴動化します。ワッツ暴動のニュース映像は、キャスターの「月に降り立つ時代、社会の病を克服することはできないのでしょうか」という言葉で結ばれています。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年2月5日金曜日

ゲームストップ

ニューヨーク証券取引所
かつて、戦場において、前線の状況は、通信兵が背負う無線機を通じて、小隊長から中隊長へ、中隊長から大隊長へ、大隊長から師団司令へと上がり、師団司令からの命令が、同じルートを逆に降りていきました。現在は、歩兵のヘルメットにカメラが付き、上空にはドローンのカメラがあり、コマンド・ポストは、世界中のどこからでも前線の状況を把握できます。そしてヘルメットに装着された小型無線を通じて、一人ひとりに、直接、指示を出します。無論、リーダーが不要になったのではなく、その役割が変わったと言えます。

インターネットは、すべてのインターミディアリーを排除する、というのが、私の持論です。機器類の進化も含め、情報革命は、よろず中間的な存在を不要なものにしていく傾向があります。例えば、アマゾンは書籍問屋や書店を不要なものにし、i-podはCDショップを不要なものにしてきました。最近は、キャッシュレス化が進み、紙幣や硬貨も不要になりつつあります。お金も、信用を仲介する中間的存在だったわけです。中間的な存在が不要になるのは、物や情報に留まりません。例えば、かつて、世論は、新聞や雑誌を通じて形成されていました。今は、SNS上で生成されます。

アメリカの株式市場で、これまでにないような性格の騒動が起きました。19ドルだったゲームソフト販売大手「ゲームストップ」社の株価が、一気に340ドルまで上がります。映画館経営のAMC社の株も同様の動きを見せます。その背景には、掲示板型ウェブサイト「レディット」の存在があります。同サイトの「ウォール・ストリート・ベッツ(WSB)」というフォーラムが、コロナ禍でのステイホームを背景に人気急上昇しました。そこで「ゲームストップ」社の株購入が呼びかけられると、瞬く間に拡散し、買注文が殺到しました。ウォール・ストリートには、激震が走ります。

早速、当局は何らかの規制を行うために、検討を開始したようです。株式市場の健全な運営という面からすれば、確かに違和感はあります。組織的な市場操作とも言えますが、SNSで「買おうぜ」と呼びかけることが組織的、あるいは共同謀議と言えるのか、単なる呼びかけを市場操作とまで解釈できるのか、やや疑問です。法規制がSNS環境に追いついていないことは明確なのでしょう。しかし、今回は、SNSの表面に絆創膏を張るだけでは済まないほど重い問題であり、より本質的に、マーケットのあり方を議論する必要があると思います。

レディット上では、市場の格言を逆さにした「高く買え、決して売るな」という言葉が拡散しているようです。つまり、今回の騒動の本質は、値上益を求める強欲ではなく、ヘッジファンドやインベストメント・バンカーや当局といった市場の支配者に対する個人投資家の反逆だということです。今のところ、反逆者たちは、支配者たちがうろたえる姿を喜んでいるだけで、何か明確な主張や要請は見えていません。しかし、1789年、パリの民衆がバスティーユ牢獄を襲った時、それが近代社会を開く市民革命の始まりだと認識していた人は、誰一人いなかったはずです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年2月4日木曜日

阿里山烏龍茶

 小学生の頃、お茶好きの伯母から、お茶の特訓を受けたことがあります。産地、製法、入れ方による味の違いを叩き込まれました。伯母に言わせれば、お茶は一生飲むものだから、しっかりと覚えておきなさい、ということでした。さすがに興味もなかったので、ほとんど味は覚えていません。ただ、「どうせなら、将来、お茶の入れ方の上手なお嫁さんを貰いなさい。それで人生の楽しみが大きく変わるのだから」という伯母の言葉だけは印象に残りました。嫁さんの件は別としても、確かに伯母の言うとおり、これまでの人生で、実に大量のお茶を毎日飲んできたな、と思います。

私の一日は、豆を挽き、コーヒーを入れることから始まります。朝食後には煎茶、午前にミルク・ティー、昼食後にコーヒー、午後にミルク・ティー、夕食後はほうじ茶。これが基本パターンですが、ハーブ・ティー、チャイ、そして烏龍茶も常備してあります。昔、烏龍茶にハマったことがありましたが、ここ1~2年、台湾烏龍茶に魅せられています。数年前、台北で茶芸を楽しんだ時には、美味しいとは思いましたが、ハマることはありませんでした。一昨年、コレド室町テラスに、台湾で人気の誠品生活が進出し、書店や雑貨店等とともに、1862年創業という台北の老舗”王徳傳茶荘”がティー・ルームを開きました。これが、実にいいのです。ハマりました。

阿里山茶畑
王徳傳では、伝統的な台湾烏龍茶やオリジナル・ドリンクが飲めます。烏龍茶は、店の人が入れてくれて、客は二煎目と三煎目の味と香りを堪能できます。台湾烏龍茶は、温度と蒸し時間が微妙で、素人には、見極めが難しいところがあります。そこを店の人がやってくれるので、助かります。いくつかの茶葉を試しました。微妙で上質な絹を思わせる凍頂烏龍茶や複雑な香りで紅茶に近い東方美人もいいのですが、一番のお気に入りは、阿里山烏龍茶。寒暖差が激しく、濃霧立ち込める台湾南西部の高山で摘まれる希少な茶葉です。緑濃い森を、まるごと飲んでいるかのような深い香りと味、そして長く余韻が残ります。絶品だと思います。

日本や中国のお茶の多くは緑茶です。茶葉を蒸して揉んで作られますが、加熱することで発酵を止めています。対して烏龍茶は、発酵させます。完全に発酵させると紅茶になりますが、途中で加熱して発酵を止めるところが特徴です。産地、品種、発酵の程度によって異なる茶葉ができますので、烏龍茶の種類は多く、約800種と言われます。台湾を代表する四大銘茶と言われるのが、凍頂烏龍茶、東方美人茶、文山包種茶、木柵鐵觀音茶です。それぞれ産地も製法も異なりますが、なかでも東方美人茶の製法は独特です。稲の害虫ウンカに食べさせるこで独特な甘さを引き出すという高発酵茶です。

王徳傳では、もちろん茶葉も売っていますが、私は買いません。希少価値の高い茶葉は、お値段も高いということに加え、家でおいしく入れることが難しいからです。ティー・ルームで美味しくいただくのが一番だと思っています。中国茶は、緑茶、白茶、黄茶、黒茶、青茶、紅茶、花茶の7つに分類されるそうです。青茶に分類される烏龍茶の最高峰は、福建省武夷山で取れる武夷岩茶「大紅袍」だとされます。年間、わずか400gしか取れず、本物が市場に出回ることはないとまで言われます。記録としては、20gが250万円で取引されたことがあるそうです。(写真出典:saiyu.co.jp)

2021年2月3日水曜日

サド裁判

高校から大学にかけて、稀代のディレッタント澁澤龍彦の大ファンでした。社会人になり、仕事に忙殺されるようになると、次第に澁澤の本からは遠ざかっていきました。私が変わったのか 、澁澤が変わったのか、あるいは時代が変わったのか。2019年の暮れに、白水社から礒崎純一著「龍彦親王航海記 澁澤龍彦伝」が出版されました。500ページに及ぶ年代記は、編集者として澁澤と親交があり、澁澤を調べつくした著者ならではの宇宙を構成しています。書斎人であることを全うした澁澤龍彦のすべてを、余すところなく伝えているばかりか、60年代文化の一側面と、その終わりを見事に伝える本でもあります。

澁澤の名を世間に知らしめたのは、1961年に起こったサド裁判でした。1797年にサド侯爵が出版した「ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え」を澁澤が翻訳した「悪徳の栄え」が猥褻物頒布等の罪に当たるとして起訴された事件です。文学界は、これに猛反発し、そうそうたる面々が、応援の論陣を張ります。当の澁澤は、三島由紀夫に当てた手紙で「勝敗は問題とせず、一つのお祭り騒ぎとして、なるべくおもしろくやろうと考えています」と語っています。澁澤は、裁判にたびたび遅刻し、無断欠席までしています。政治も含め、世俗とは一線を画して生きた書斎人らしい姿勢です。

裁判は、一審勝訴、二審逆転敗訴、1969年に至り、最高裁が7対5、意見1をもって上告を棄却、罰金刑が確定しました。いわゆる猥褻裁判は多数ありますが、重要なものとして1951年起訴、1957年に結審した「チャタレー裁判」が挙げられます。D.H.ローレンスの「チャタレー夫人の恋人」を翻訳した伊藤整と出版元が訴えられました。最高裁は、猥褻の三要素として、徒らに性欲を興奮又は刺戟し、通常人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する、を定義し、公共の福祉が表現の自由に勝るとしました。そもそも定義が不明確な猥褻を法廷が裁けるのか、という疑問があったわけですが、この最高裁判決は、猥褻裁判の枠組みをはじめて明らかにし、以降、各国でも活用されたようです。

猥褻裁判は、表現の自由、知る権利を巡って争われますが、違和感を感じます。公共の利益が個人の自由を制約することがあり得るのは理解します。それが社会規範であり、法なのでしょう。しかし、社会規範や法として明文化できないものは、社会的コンセンサスを形成することが困難なものであり、個人の選択に委ねられるべきだと思います。それが憲法の保障する個人の自由だと考えます。個人に選択の余地がない場合、例えば東京駅のコンコースに、多くの人が不快と思う巨大な図画が掲げられれば、批判を集め、撤去されるでしょう。猥褻を法に定義し、裁くことに無理がある以上、サド裁判に対する澁澤の態度は、至極まともなものだったと思います。もちろん、現実の法手続きは別ですが。

澁澤の没後、スキゾ・キッズ浅田彰は「まだタテマエがしっかりしていたころ、それに背を向ければ「異端の文学者」を気取ることができた。まだ洋書を手に入れることが難しかったから、あの程度で素人を幻惑できた」と澁澤をこき下ろしているようです。浅薄な見方ですが、まったくその通りだとも思います。アンシャン・レジームに対して、学生運動が、ヒッピーが抵抗を試みていた時代、澁澤は、人間をダークサイドから深堀するという、まったく異なるアプローチで、モラルなるものへ抵抗していたのだと思います。澁澤ファンは、澁澤個人ではなく、澁澤が開いてくれた秘密の扉の向こうで見たものから、人間を、そして世界を学んだのだと思います。(写真出典:unangepasse21.com)

2021年2月2日火曜日

「時の面影」

サイモン・ストーン監督  原題:The Dig  2021年イギリス・アメリカ

☆☆☆+

1939年、英国サフォーク州サットン・フーの墓地群の発掘は、それまで明らかではなかったアングロ・サクソン七王国時代に光を当てる考古学上の大発見でした。5世紀、ローマがブリタニアを放棄すると、ゲルマン人の侵入が開始されます。やがてゲルマン人は、小王国をつくり始め、アングロ・サクソン七王国に集約されていきます。これが、現在のイングランドの直接的祖先となります。イングランドという名称は、ユトランド半島南部から入ってきたアングル人に由来します。サットン・フーは、イースト・アングリア王の船葬跡とされ、金や宝石で細工された多くの財宝が出土しました。これらは、英国最大級の宝物とされ、大英博物館に所蔵されています。

サットン・フーの地主である未亡人エディス・プリティは、所有地にある土塁に何が埋まっているのかが気になり、地元の考古学者バジル・ブラウンに発掘を依頼します。ブラウンは、学歴もなく、正式な考古学者ではありませんでした。ただ、考古学や天文学に造詣が深く、何よりも土地に詳しく、博物館からも重宝されていたようです。ブラウンの歴史的発見は、学界の知るところとなり、以降、発掘の指揮は大英博物館に渡されます。また、発掘物は、プリティ夫人の所有物と認定されますが、多くの人々に見てほしいと願った彼女は、無償で大英博物館に寄贈しています。

本作は、このサットン・フー大発見の経緯を、事実に基づきながらも、ロマンティックな脚色を加え、上質な作品に仕上げています。佳作と呼ぶにふさわしいと思います。地味な題材をロマンティックに仕立てた脚本が秀逸で、落ち着いた安定感のあるトーンも見事、サフォークの自然を映すホリゾンタルな映像も、渋い演技を見せるキャストも、作品の心地よさを構成しています。ブラウン役の名優レイフ・ファインズがいい味を出しています。陰影のあるプリティ夫人役をキャリー・マリガンが好演。最近、よく見かけるリリー・ジェームスが映画に花を添えています。

世紀の大発見とは言え、事実を忠実に映画化すれば退屈な展開となります。そこで、いくつかの魔法が用いられます。まずは、30歳代で、病気のために余命いくばくもないプリティ夫人ですが、実際には50歳代半ばのご婦人でした。彼女の息子への思いや、けなげな少年の姿は涙を誘いますが、実際、息子は幼かったようです。リリー・ジェームスが演じたペギー・ピゴットは、英国の高名な考古学者であり、発掘に参加した時には、既に豊富な経験を持っていましたが、映画では発掘経験のない初々しい若妻となっています。彼女と惹かれ合うプリティ夫人の従兄弟は架空の役柄。映画は、迫りくる第二次大戦という時代をうまく表現していますが、彼の出征が恋の成就とうまくからみます。

高校生の頃、発掘を職務とする公務員はいい仕事だと思い、知人の埋蔵文化財専門官に話を聞きました。彼が言うには、やめとけ、ロマンを求めて就職したけど、人が決めた場所で、土を掘り返すだけの毎日だよ、とのことでした。心底好きでなければ、できない仕事なのでしょう。公務員よりもブラウンのような在野の愛好家の方が熱心で、かつ学者や公務員に負けたくないという気持ちも強いと思います。愛好家の情熱が、時に大発見につながり、ある時にはでっち上げ事件を起こすという世界なのでしょう。(写真出典:en.wikipedia.org)

2021年2月1日月曜日

寒山拾得

狩野山雪「寒山拾得図」
森鴎外に「寒山拾得」という短編があります。鴎外は、寒山拾得に興味を持った娘に問われ、話したままを文にした、と語っているようです。私も、過日、娘に、水墨画で見かける不気味に笑う二人組は誰か、と聞かれました。大昔、中国にいた奇僧かつ詩人だと答えましたが、なぜこれほどまでに画題に選ばれるのか、疑問に思い始めました。文殊菩薩と普賢菩薩だとも言われますが、思えば思うほど不思議な二人組です。粗末な着衣、ぼさぼさの髪、低い背丈、不気味とも不敵ともとれる笑い、実に奇妙です。それ以上に、気になるのは、画家たちが、実に楽しそうに描いているように思えることです。

森鴎外が下敷きにしたのは、白隠禅師の「寒山詩闡提記聞」だったようです。唐の役人が、頭痛に悩んでいると、旅の僧侶が訪れ、まじないで治す。僧の名を聞けば「台州は天台山国清寺の豊干」と答えます。役人は、台州の知事に赴任予定だったので、台州で会うべき偉人を聞くと、豊干は、寒山と拾得の名を挙げ、文殊菩薩と普賢菩薩の化身であると言って去ります。台州に赴任した役人は、山中奥深くに国清寺を訪ねます。見すぼらしい姿の寒山拾得に会った役人は、正式な挨拶の礼を取ります。それを見た寒山拾得は大笑いしながら、逃げていきます。役人は、寒山が逃げながら「豊干がしゃべったな」とつぶやく声を聞きます。

天台山国清寺は、浙江省にある天台宗の本山です。伝教大師最澄もここに学んでいます。寒山は、寒さ厳しい岩窟に住んでいたので寒山と呼ばれ、拾得は、豊干に拾われ、国清寺で働いていました。二人は奇行が多く、皆、呆れていたようですが、豊干の教育を受けて仏教哲学には滅法強かったとされます。それはそうだと思います。残された詩編は、ただのフーテン奇人では、とても書けるものではありません。宋代になると、禅僧を中心に評価が高まり、人気の画題となります。また、江蘇省にある臨済宗の名刹寒山寺は、寒山が庵を組んでいたことにちなんで命名されたと伝わります。

さて、寒山拾得の人気が高まったのは何故か、ということですが、恐らくその存在が禅の極意、あるいは仏教の本質に通じるものがあったからだと思います。世俗を離れ、雑事を笑い飛ばす姿は、歩く禅問答のように思えます。寒山拾得の笑いとは何ぞ、という公案がありそうな気がします。とかく仏教経典は、哲学的で、難しいものばかり。また修行僧も、深刻な趣の者ばかり。寒山拾得の笑いは、大衆に空の概念を伝える力をもっているように思えます。そういう意味では、伝教の一つの理想なのかも知れません。

昔、聞いた話があります。ある時、中国のお寺に、禅宗の高僧が来ると言うので、近郷近在から多くの人たちが集まります。高僧はなかなか現れず、皆がしびれを切らします。そこへおっとり現れた高僧は、檀上に座ると、けたたましい音とともに放屁し、大笑いして、そのまま去っていったといいます。集まった人たちは、さすがに高僧と言われる人は違うものだと感心し、合掌したそうです。禅宗らしいいい加減な話だとは思いますが、空と屁という取り合わせは、なかなか相性の良いところがあります。(写真出典:bunka.nil.ac.jp)

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