2022年2月28日月曜日

ホテルの備品

正直に告白します。実は、30年前、沖縄の残波岬ロイヤルホテルからバス・タオルを持ち帰りました。盗むつもりなどありませんでした。チェックアウト後に、ホテルのビーチで遊ぼうと思い、持ち出しました。後で、フロントへ返すつもりでしたが、出発時、時間がタイトになってしまい、結果、そのまま持ち帰りました。ホテル仕様のバス・タオルは、とても丈夫にできているので、自宅で永らく、大切に使わせていただきました。誠に申し訳なかったと思っております。

数年前、舞浜のホテルで社長を勤めていた知人から聞いた話ですが、中国からのお客さまが、ホテルの備品を様々持ち帰るので困っているというのです。最も多いのが、カトラリーであり、被害額は、年間、1千万円を超えるとも言っていました。中国からの観光客が急増し、いわゆる”爆買い”という言葉が生まれた頃のことです。中国沿岸部を中心に、富裕層が生まれるなど、個人の収入が上がり、またヴィザが緩和されたこともあって、中国からの旅行客が急増したわけです。さらに円安が続き、日本での買い物が割安だったことも大きな誘因でした。高度成長期の日本人がそうだったように、多くの中国人も、まだ旅慣れていないからこそ発生する事象なのだろうと思っていました。

ところが、件数は別としても、ホテルからの備品の持ち帰りは、日々、世界中で発生しているものだそうです。欧州の5つ星と4つ星ホテルの従業員各500人に、”持ち帰り”に関するアンケートをしたという記事を読みました。”持ち帰り”と言っていますが、立派な”盗難”です。部屋の備品を盗めば、犯人は明確です。にもかわらず、よくやるな、と思います。アンケートは、客の国籍によって持ち帰る品に違いはあるか、という内容です。はっきりと国民性が出るもののようです。フランス人のTVやステレオ、スイス人のドライヤー、オーストリア人の食器、イタリア人のワイン・グラス、ドイツ人のタオル、オランダ人の電球とトイレット・ペーパーなどです。陸続きの欧州では、車を使って旅をすることも多く、客室フロアから駐車場へ直行できるエレベーターがあれば、簡単に持ち帰ることができるわけです。

さらに、驚いたことに、4つ星よりも5つ星ホテルの方が、高級品を持ち帰る傾向が多いようです。例えばTVは4つ星の9倍、美術品は5.5倍、タブレットPCは8倍、そしてマットレスが8.1倍だそうです。ここまでくると、開いた口が塞がりません。5つ星に対して4つ星ホテルでの持ち帰りは、運びやすい消耗品が多いようです。5つ星ホテルの方が、設備も良く、宿泊料も高いはずです。高額なホテル代を支弁できる人たちの方がモラルが低いということになります。何故かは分かりません。お金持ちは強欲だと言うべきか、強欲だからお金持ちになったと言うべきなのでしょうか。料金が高いので、多少の持ち帰りくらい許されるとでも思うのでしょうか。いずれにしても、高級ホテルで、備品の持ち帰りをするのは、当然、常連客ではありません。

5つ星ホテル、ラグジュアリー・ホテル等の基準は、格付する機関によって異なるのでしょうが、清潔・快適といったホテルとしての基本要素だけでないことは明らかです。豪華な設備、贅沢な空間、評価の高いレストラン、行き届いたサービス、あるいは格式の高さや伝統といった要素もあるのでしょう。なかでも、格式や伝統は、ホテル側の努力だけでは成り立たず、むしろ常連客が形成している面もあります。その文化の一部になる、あるいはその文化を尊重するという意識を持たず、金でサービスを買うだけという程度の認識ならば、泊まるべきではないのかも知れません。一流ホテルは客によって創られるということです。(写真出典:ruxur.net)

2022年2月27日日曜日

狂言師

四世山本東次郎
猿楽は、室町の頃、能、式三番、そして狂言へと分化していきます。明治以降は、この三つを総称して能楽と呼ぶようになりました。江戸期、能楽は、幕府の式楽として保護されました。江戸期の能楽は、五番立てで演じられました。神が登場する脇能物,男がテーマの修羅物,女が主役の鬘物(かずらもの),狂物などを扱う雑物(ぞうもの),そして鬼が登場する尾能物(きりのうもの)の五番です。 そして、それぞれの間に狂言が演じられます。さらに五番が演じられる前に翁という式三番、後ろに祝言能が演じられます。能楽の起源である猿楽の要素が、番組にすべて反映されているわけです。近年は、簡略化され、狂言と能を一曲づつという公演が多くなっています。

明治になると、後ろ盾を失った能楽は、厳しい時代を迎えます。なかでも狂言は、扱いが軽くなり、能の合間の食事やトイレの時間とされ、ひどい場合には、省略されたこともあったようです。辛い時代は、戦後すぐまで続きます。人間国宝の狂言師・四世山本東次郎は、そんな時代に修行した人です。山本東次朗は、猿楽の本流である大和猿楽を伝える大蔵流の名跡です。四世は、4歳の頃から厳しい修行を積みます。17歳のおり、狂言の将来を悲観した四世は、父であり師匠である三世に、「狂言をやめたい」と言ったことがあるそうです。山本家の養子であった三世は「わしは家の者ではない。家の者であるお前の将来を決めるわけにはいかない。墓へ行け」と言ったそうです。

四世は、言われたとおりに墓に行ったそうです。墓碑に刻まれた先祖の名前を見ているうちに、自然と涙が出てきて、やめるわけにはいかないと強く思ったそうです。芸能が、そのままの形で800年続いてきた背景の一つがここにあるのでしょう。国立能楽堂で、狂言に先だって行われたインタビューで、四世が話していたことです。また、三世の教えで、最も印象深いものは、という問いかけに、四世は「慢心」と答えていました。心に慢心が、わずかでも芽生えれば、芸は、そこで止まり、上達することはない、というわけです。芸道に、終わりというものはない、と言われます。世阿弥の「初心」に通じる言葉だと思います。85歳になるという四世の、キレのあるカマエとハコビ、ハリのある声には、80年に及ぶ、絶え間ない精進の凄さを感じます。

それにしても、狂言が、800年続いた理由は、サムライによる保護だけでは説明できません。おそらく、狂言が、日常で垣間見る人間のちょっとした欲や見栄などを、笑いにしてきたからなのだと思います。それは、誰しも心当たりのあることであり、またよく目にすることでもあります。室町時代であろうが、令和であろうが、それは変わりません。狂言は、普遍的とも言える人間の弱さを、高圧的に戒めるのではなく、それも人間らしさとして認め、笑い飛ばします。政治的でも、宗教的でも無く、庶民感覚の笑劇ゆえに、人々の心を掴んできたのだと思います。人間そのものがテーマなので、身分は関係ありません。武士であろうが、僧侶であろうが、金持ちであろうが、分け隔てなく笑いのネタにされます。庶民は、さぞかし痛快に思ったことだと思います。これも狂言の魅力の一つだと思います。

能のなかでも、狂言師が登場するものがあります。いわゆるアイです。中入りとなり、前シテが一度鏡の間へ退くと、土地のものとしてのアイが、前半の話をまとめ、後半への展開へとつなぐ語りを行います。アイを務める狂言師は、正座して語りますが、その際、腰をやや上げた状態を保つと聞きました。ふくらはぎと大腿部の間に、紙一枚が入るくらい、腰を浮かせるといいます。おそらく、声の張りと姿勢の美しさを保つために行うのだろうと思います。相当の修練を積まなければ、できる技とは思えません。(写真出典:story.nakagawa-masashichi.jp)

2022年2月26日土曜日

キューカンバー・サンドイッチ

突然、無性に食べたくなる食べ物というものがります。それは空腹だから、ということではありません。また、読んでいた本や見ていた映像に出てきたから食べたくなったというケースとも異なります。とにかく、唐突に食べたくなり、麻薬が切れた中毒者に近い症状に至ります。私の場合、ドライ・ソーセージが、その一つです。これは、そもそも貯蔵肉好きゆえ、ということで理解もできます。よく分からないのが、キューカンバー・サンドイッチです。年に1~2度、たまらなく食べたくなります。それも夜中に限って、かつ冷蔵庫にキュウリがないときに限って発症します。大好物というほどでもありません。 平生からよく食べているわけでもありません。それどころか、発作が起きた時にしか食べません。不思議な食べ物です。

薄くスライスしたパンの耳を落とし、バターをたっぷりと塗り、薄くスライスしたキュウリに塩をして挟むだけです。マヨネーズを使う場合もありますが、その際には酸味の少ないものが合うように思います。英国が発明した傑作だと思います。実は、英国は発明の少ない国ではないか、と思っています。何を言うか、産業革命を起こした国だぞ、と言われそうです。産業革命は、動力革命だと思います。蒸気機関の発明は確かに世界を変えた大発明ですが、それに先立つ紡績機類の発明は、農民たちによる工夫のレベルだったと思います。産業革命時に発明された機械の多くは、アルキメデスの知識を超えていなかったとも言われます。英国が発明したのは、蒸気機関とキューカンバー・サンドイッチだけだった、と言えば言い過ぎでしょうか。

実は、キューカンバー・サンドイッチも、産業革命の産物の一つだと言えます。産業革命が起こると、英国の農地は工場になり、農民は工場労働者になります。結果、農業生産が落ち込みます。英国は、工業製品を海外に輸出し、海外から原材料と食料を輸入することになりました。もともと、寒冷な英国では、キュウリの生産量は少なかったようです。そこへ食料の海外調達という状況が発生したため、新鮮なキュウリも輸入に頼らざるを得なくなります。高級食材としてのキュウリは、薄くスライスされ、パンで挟まれ、貴族やブルジョアジーのアフタヌーン・ティーに饗されたわけです。キュウリだけのサンドイッチなど貧乏ったらしいイメージですが、実は贅沢な代物だったわけです。当時としては、キャビアとまでは言いませんが、スモークサーモンくらいの位置づけだったのではないでしょうか。

それにしても、なぜ私のキューカンバー・サンドイッチの発作が起きるのか、とても不思議です。発作が起きるタイミングや状況には、一切、法則性は認められません。小腹が空いていて、かつ水分や塩分を欲している時なのだろうとは想像できますが、それであれば、いくらでも代替手段があり、キューカンバー・サンドイッチである必要性はまったくありません。このうえなく少ない具材にもかかわらず、とても美味しく、それ以上に妙な磁力を持った食べ物です。シンプルな具材の絶妙な組み合わせという観点からすれば、既存の技術を組み合わせることで、画期的な機械を生み出していった英国の風土に通じるものがあるようにも思えます。英国の厳しい気候が、英国人の工夫という得がたい特性を生んだのかもしれません。

キューカンバー・サンドイッチの発作には、もう一つ特徴的なことがあります。夜中に起きた発作を耐えた翌朝は、当然、キュウリとサンドイッチ用のパンを買いに行くわけです。ところが、その頃、発作は既に治まっており、さほど食べたいとも思わなくなっているのです。しかも、おやつ程度の代物なので、おやつを食べない私には、食べるタイミングも必要性もありません。やはり、アフタヌーン・ティーのためのメニューだということです。英国の上流階級は、夜、観劇等に出かけることが多く、夕食は遅くなります。そこで生まれたのがアフタヌーン・ティーです。そもそも、キューカンバー・サンドイッチは、日本の食習慣には居場所がない存在だったわけです。(写真出典:eatthismuch.com)

2022年2月25日金曜日

蘭画

日本人は、なぜ印象派が好きなのか、という議論があります。印象派の主な画題が、人物、静物、風景であり、分かりやすく、かつ日本画と共通する面が多く、親近感が持てたという説をよく聞きます。宗教や神話を画題にしたものは、相当に勉強しないと理解できなかったのだろうと思います。また、印象派の明るい光や鮮やかな色彩が新鮮で、文明開化の精神風土に合っていたのではないかという説もあります。さらに、印象派の画家たちが、ジャポネスムの影響下にあり、積極的に浮世絵の要素を取り入れていたことから、親和感が高かったという話もあります。これは、面白い話ですが、さすがに無理があります。

恐らく、明治維新と印象派の隆盛が、時期的に重なったことが一番大きな理由だろうと思います。要するに、多くの日本人が初めて目にした西洋画は、おおむね印象派であり、そのインパクトが最も大きく、深く心に残ったのだと思います。加えるに、黒田清輝はじめ、明治の西洋画壇をリードした留学組が、フランスで学んだのが印象派であり、より一層、西洋画=印象派となっていったのでしょう。脱亜入欧の時代、西洋画は時代の最先端であり、印象派こそ、坂の上の雲を追いかけた明治人の憧れでもあったのだと思われます。もっとも、西洋画自体は、江戸期、既に長崎の出島を通じて日本にもたらされています。いわゆる蘭画です。

蘭画は、18世紀後半、蘭学者平賀源内に始まるとされます。源内は、オランダ人に絵を習ったわけではなく、洋書の挿絵の模写などして、独学したようです。鉱山開発のために秋田藩に招かれたおり、源内は宿の屏風絵に目を止めます。作者は、藩士の小田野直武でした。源内は、直武に、陰影法、遠近法といった西洋の描写技法を直伝します。源内の弟子となった直武は、源内の”解体新書”の挿絵も描いています。直武は、日本の画材を用いて、西洋の技巧を活かした蘭画を描き、「秋田蘭画」を起こします。藩主も含め、幾人かの弟子もいましたが、直武の死後、秋田蘭画は消滅しています。その後、蘭画は、江戸の司馬江漢、白河藩の亜欧堂田善らに引き継がれていきます。

司馬江漢は、南蘋派の絵師であると同時に蘭学者でもありました。南蘋派は、18世紀前半、清から招かれて来日した沈南蘋の彩色画の画風を継ぎ、応挙、若冲、華山、蕪村らに影響を与えました。江漢は、源内とも交流があり、直武に師事したこともあったようです。日本で初めてエッチングを制作し、初めて油絵具を用いた人です。江漢は、漆工芸の技術を応用し、エゴマ油に顔料を混ぜて油絵具を作ったようです。一方、亜欧堂田善は、須賀川の商家の生まれですが、藩主に取り立てられ、長崎でエッチングを学びます。江漢に師事し、破門されたという説もあるようです。油絵は、南画の谷文晁に学んだようです。いずれも、18世紀末から19世紀初頭に活躍しています。

日本画に遠近法を用いた直武の風景画は、何の違和感もなく見ることができます。戦前までの、例えばカレンダー、あるいは銭湯の壁画といった商業ベースの風景画の基本になったようにも思います。一方、日本画的な構図を油絵具で描いた江漢や田善の風景画は、どこか描きかけの作品のような印象を受けます。絵具の問題かもしれませんが、重ねて色を出すという油絵具の特性を活かし切れていないように思います。異なる文化が交錯して、新しい文化ができます。しかし、それは一朝一夕で成るものでもないのでしょう。ただ、それ以上に、作風と画材との関係は、理由があって成熟してきたものだということを、あらためて思わされます。やはり、日本の洋画が形を成すのは、明治期のフランス留学組まで待つ必要があったのでしょう。(写真:小田野直武「絹本著色不忍池図」出展:bunka.nii.ac.jp)

2022年2月24日木曜日

「ダムネーション/天罰」

監督:タル・ベーラ  原題:Karhozat(天罰) 1988年ハンガリー

☆☆☆+

タル・ベーラは、「ニーチェの馬」(2011)で知りました。1889年、ニーチェは、トリノで馬車馬の首をかき抱き、泣き叫び、発狂します。ニーチェは、そのまま回復することなく、亡くなっています。「ニーチェの馬」と言いながら、ニーチェは登場せず、ハンガリーの年老いた農民親娘と馬が、嵐の中で過ごす数日間を淡々と映し出します。ニーチェのニヒリズムを表現していると言われます。白黒の画面に、ほぼセリフもなく、ひたすら同じ生活が繰り返されるだけの映画ですが、強烈な印象を残しました。タル・ベーラは、私たちに、何一つ押しつけません。ただ、それによって、私たちは、実に様々なことを考え続けることになります。映画表現の多様性に驚かされた作品です。

「ダムネーション/天罰」は、1988年に制作されてます。雨がちの寂れた炭鉱町が舞台です。石炭を運び出すリフトと、それが発する音が、町を象徴しています。町の寂れた酒場でアンニュイに歌う歌手、そしてその歌手と関係を持つ男がいます。歌手は、いつか都会で成功することをぼんやり夢見ています。歌手には、やくざな亭主がいます。酒場のバーテンダーは密輸に手を染めており、歌手と関係を持つ男、そして歌手の亭主に運び屋を依頼する。そこで、何らかの裏切りが発生し、男は警察に、バ-テンダーか亭主、あるいは両者を密告します。映画には、説明的な映像もセリフもありません。ストーリーらしきものは、タル・ベーラが語ったものではなく、私が勝手に想像したものでしかありません。

パンやズームはあるとしてもごくわずかであり、カメラはほとんど動きません。セリフは極端に少なく、役者の動きも限られています。計算された白黒の画面は、上出来なスティール写真のようでもあり、記憶に深く残る効果があります。さらに、少ない情報と動きのない映像は、見る側の想像力をかき立てます。見る者に多くを委ねることで、見る者を映画に参加させているとも言えます。もはや映画という枠組みでタル・ベーラを捉えることは無理なのかも知れません。本作の制作は「ニーチェの馬」にさかのぼること20年、タル・ベーラの文法は、既に完成したわけです。タル・ベーラの代表作と言われるのが「サタンタンゴ」(1994)です。上映時間は、7時間を超えます。いつか見てみたいとは思います。

ハンガリー平原は、古来、多くの民族が行き交う土地でした。4世紀にはフン族が侵入し、国を建てます。アッティカの時代、フン族は、東ヨーロッパ全域を支配下に置きますが、アッティカの死後、消滅します。その後、ハンガリーは、フン族を継承する形でマジャル人が支配します。ただ、モンゴル、オスマン、オーストリア、帝政ロシアの侵入や介入を受け続けます。戦後はソヴィエトの衛星国化しますが、ハンガリー動乱等に見られるとおり、ソヴィエト一辺倒の国というわけではありませんでした。鉄のカーテン崩壊後のハンガリーは、EUにもNATOにも加盟し、経済成長を実現しました。ただ、近年は、財政の赤字や貧富の格差問題を抱えているようです。

文化が交差するところには、新しい文化が生まれるものです。ハンガリーの場合は、文化の交差点というよりも、他民族の侵略を受け続けたことの方が、精神文化に、より強い影響を与えているのかも知れません。ハンガリーは、優れたワインと科学者と音楽家を生む、とされています。ワインは、貴腐ワイン発祥の地でもあるトカイが特に有名です。コンピューターの動作原理を発明したジョン・フォン・ノイマンは、ハンガリー人です。彼は、数学、気象学、経済学、物理学で大きな功績を残した天才でした。音楽の世界では、リスト、バルトークはじめ、リヒター、ショルティ等もハンガリー人です。タル・ベーラの映画を理解するためには、ハンガリーをもっと理解する必要があるのかも知れません。(写真出典:asahi.com)

2022年2月23日水曜日

食の旦那

北前船
”食(めし)の旦那”とは、上方落語「莨(たばこ)の火」に登場する金満家です。食の旦那が、北新地のお茶屋で、小判をばらまくという話です。江戸期、和泉に実在した豪商・食野(めしの)佐太郎がモデルです。当時の商家の風習として、当主の名前は世襲されました。佐太郎も世襲名です。江戸期、日本一の大富豪といえば、大阪の豪商・鴻池善右衛門です。長者番付に相当する「諸国家業自慢」を見ると、行司が鴻池家、大関に三井家と食野家が並んでいます。江戸期、政治の中心は江戸ですが、経済の中心は「天下の台所」とも呼ばれた大阪でした。食野家はじめ大阪の商人たちは、廻船業で財を成し、金融業へと展開し、豪商になっていきます。

大阪は、ヤマト王権以降、都に近い良港として栄えてきました。瀬戸内の内海航路は、遠く半島や大陸へも続きます。江戸期には西回り航路が開発され、北前船が行き交いました。当時の航海術のレベルからすれば、江戸は難所の多い港だったこともあり、各藩の米や特産品は大阪に運び込まれました。運河沿いには、各藩の蔵屋敷が建ち並んでいたといいます。食野家は、100隻の船を所有し、全国諸藩を相手に商売していました。各藩との結びつきから、大名貸し、つまり諸藩への貸し付けも行うようになり、巨万の富を蓄えていきます。鴻池家は、造り酒屋でしたが、やはり廻船業、金融業へと進出して財を成しています。建前上、江戸期の経済は米本位の自給経済でしたが、安定的な貨幣の普及、物流の発達とともに、貨幣経済へと進んでいったわけです。

明治になると、大阪の大富豪たちは、突然、影が薄くなります。明治政府との太いパイプを背景に台頭する財閥に、主役の座を奪われた形です。富国強兵政策のもと、急激に進められた工業化に乗れなかったわけです。また、廃藩置県によって、各藩への貸し付けの多くが反故にされたため、鉱工業等に進出するための資本力も失っていました。酒造りの鴻池、銅山の住友、呉服の三井など、本業を継続しつつ、金融も行っていた豪商は別として、食野家のように、金融に特化していった商家は、この時点で没落していきます。さらに、追い打ちをかけたのが、戦後の農地改革でした。大阪の富豪たちの多くが、消えていきました。豪華を極めたという食野家の本宅は跡形もなく、いろは四十八蔵と呼ばれた海岸の倉庫もわずかな痕跡を残すばかりです。

大阪は、天下を治めるために最も適した地だという説があります。陸海の交通の要所であり、東北を除けば、ほぼ日本の中心に位置し、上町台地は天然の要塞でもあります。最初に、それに気づいたのは真宗本願寺宗主の蓮如だと言われます。蓮如が建立した石山本願寺は、ほぼ大阪城の位置にあったようです。織田信長は、石山本願寺の恐ろしさを見抜き、徹底的に攻撃し、破壊しました。実際に大阪で天下を治めたのは豊臣秀吉でしたが、短命に終わります。徳川家康は、公家の介入を嫌って、江戸に幕府を建てますが、要害の地大阪には新たな城を建てました。天下を治めるに最適がゆえに、大阪の為政者は短期間で変わっていき、結果、商人たちには、自主独立の気風が育っていきました。この独立性の高い、ある意味、反中央的な町人文化が、大阪を天下の台所にもしましたが、一方で、明治期の財閥化の妨げになったのかも知れません。

勤めていた会社が不祥事を起こした際、大阪でもお客さまとの懇談会を開きました。あるお客さまから「お前んとこの社長とお前は、給料、なんぼもらってんのや、言ってみい」と言われました。個人情報ゆえ、お答えできません、と木で鼻をくくった答えもできます。私は、プライバシー保護の観点から個別報酬は開示できないものの、役員報酬の総額は決算書に記載しています、報酬の算定方式はこのようになっています、と丁寧に説明しました。厳しい追加質問を想定していましたが、お客さまからは「さよか」との一言だけでした。大阪の人は、えらそうにしている人が大嫌いです。権力や権威を振りかざされると、ほぼ自動的に反発します。自主独立の町人気風が育んだ文化は、いまだに健在だと思った次第です。(写真出典:nippon.zaidan.info)

2022年2月22日火曜日

アンナ・ソローキン事件

Anna Delvey
NYのロングアイランド東部には、サウザンプトンを中心に高級別荘地ハンプトンズ が広がります。信じがたいほど大きなサマー・ハウスが並びます。道路からは一切見えませんが、ビーチからは邸宅を見ることができます。皆、広いプライベート・ビーチを持っているからです。NYの社交界は、夏、ハンプトンズに移動します。ハンプトンズのサマー・ハウスは、多くのゲスト・ルームが必要になるわけです。マンハッタンからハンプトンズまでは高速道路が通っていますが、週末ともなれば「世界一長い駐車場」と揶揄されるほど渋滞します。しかし、上流社会の人々は、高速道路が空いている時間帯に高級スポーツ・カーを飛ばすか、あるいはヘリコプターで移動します。

庶民には窺い知れないNYの上流社会ですが、ドイツの田舎町から来たロシア移民の小娘に、すっかり手玉に取られるという事件が起きます。アンナ・デルヴェイことアンナ・ソローキン事件です。アンナは、ドイツの相続人ながら、25歳まで資産が信託されていて使えない令嬢という触れ込みで社交界に入っていきます。アートを愛する上流階級のためのサロンを開設するというアンナの計画に、セレブたちは巻き込まれていきました。ついに嘘が回りきらなくなった2019年、アンナは、窃盗罪、窃盗未遂などで有罪判決を受け、収監されます。アンナは、自身のストーリーを、32万ドルでNetflixに売ります。そして出来上がったのがNetflixのシリーズ「令嬢アンナの真実(原題は”アンナを発明する”)」です。

非常に不思議な事件です。アンナには、詐欺や窃盗の意図は薄く、銀行融資を得て財団を設立するという事業計画を進めていると思い込んでいました。その思い込みこそ、彼女の強さの根源です。融資を得るためには、上流社会で人を知り、認められ、信用を得る必要があります。アンナは、そのために嘘をつき、多くの人をだますことになります。誇大妄想、ソシオパスと言えば、それまでですが、明晰な頭脳と強固な意志の現れとも言えます。その動機となったのは、ドイツでロシア移民として蔑まれた思春期であり、必ず見返してやるという強い思いだったのでしょう。辛い高校生活のなかで、アンナは、ヴォーグやハーパース・バザー等の雑誌に逃避し、ファッションやセレブな生活に関する知識を蓄えます。

それにしても、なぜセレブたちは、いとも簡単にだまされたのでしょうか。そこには、上流社会が持つ閉鎖性が関係していると思います。ドイツの令嬢などという見え透いた嘘は、調べればすぐにわかることです。ただ、自分たちと同じ匂いを持ち、同じ行動を取るアンナは疑われませんでした。誰かのパーティで会った、誰かに紹介された、ということが上流社会へのパスになります。一度、輪のなかに入れば、誰もが彼女を疑いません。それが上流社会の脆弱さなのでしょう。ドイツの令嬢という肩書き以上に、アンナの物怖じしない態度と行動、ファッション・センス、芸術やワインに関する知識が、身分証明になっていました。彼女に欠けていたのは金融実務に関する知識でした。銀行、為替、カード等を軽視する彼女の姿勢が、セレブとしての空気を醸す一方で、命取りにもなったわけです。

Netflixのドラマは、腕の確かな制作陣によって、見事に仕上げられています。ただ、決定的な問題は、脚本の構成にあります。単なる詐欺とは言えない複雑さ、アンナの人格の複雑さ、彼女の嘘がセレブたちを巻き込むプロセスの複雑さ、それらはうまく表現できているのですが、それらを提示する順番がいけません。当然、それは視聴者のストレスにつながります。最も分かりやすい消化不良ポイントは、ドイツの令嬢という触れ込みを、誰もが確認することなく話が進むことです。ミステリ仕立てで、関係者毎の視点でエピソードを構成するという手法は適切に見えますが、この最も庶民的で一般的な疑問への答えが見えにくくなっています。制作サイドも、それは十分に承知のうえで、演出の巧みさで押し切ろうとしたのかも知れません。(写真出典:abcnews.go.com)

2022年2月21日月曜日

添乗員

かつて、海外への個人旅行は高くついたものでした。海外旅行の主流は、添乗員付きの団体ツアーでした。その後、自由化に伴い航空運賃は下がり、ホテル代の競争も激化、またエアB&Bの一般化を含めネットの影響も大きく、個人旅行が安く利用できるようになりました。45年前、新婚旅行で初めての海外旅行に出かけた際、やはりツアーを利用しました。行き先は、スペインとモロッコでした。添乗員は、おしゃれで、颯爽としたベテランの女性で、後で知ったことですが、雑誌などにも登場するキャリア・ウーマンでした。当時、海外旅行の添乗員は、華やかで、憧れの職業でした。

ツアー参加者のなかで私たち夫婦が最も若く、他は旅行経験も豊富なご高齢の方々でした。その当時、モロッコは、あちこち海外旅行を経験した人たちが選ぶ旅先だったのでしょう。旅は順調に進みましたが、添乗員という仕事が、華やかどころか、実に大変な仕事であることが判明します。ツアー参加者は、集合時間に遅れる人、集団から離れがちの人、わがままばかり言う人、偉そうに振るまう人等が散見され、実にやっかいな集団でした。添乗員は、まるで保育園の保母さんか召使いのような存在に見えました。添乗員に、大変ですね、と言うと、こんなものよ、と言っていました。

南スペインのリゾート地トレモリノスのホテルにチェックインした際、ホテルのブッキングがうまく通っていなかったようで、随分と手間取りました。長いこと待たされたツアー参加者たちは、口々に、近ツリは弱い、JTBにすべきだった、添乗員の押しが足りない、など文句を言い始めます。当時、ネットもなく、電話とテレックスだけのやりとりで、かつスペイン人が相手では、こんなことも起こるだろうな、と思いました。ただ、高齢の皆さんは許せないわけです。ようようチェックインできた際、添乗員さんは批判され、細かな状況説明を求められていました。しかし、ツアー最大のトラブルは、旅の終わりに待っていました。

旅程では、カサブランカからイベリア航空でマドリッドに飛び、エール・フランスに乗り換えてコペンハーゲンへ行き、一泊したうえで翌朝スカンディナビア航空で成田へ向かうという予定でした。ところが、カサブランカで乗り込んだイベリア航空機が、一切飛び立ちません。何の説明もありません。マドリッドでの乗り換えがあるので、添乗員は、乗務員と何度もやりとりをしていました。定刻から2時間近く経ったころ、黒い大きなリムジンが飛行機に横着けされ、偉そう人が数人の付き人と共に乗り込んできます。すると飛行機は、すぐに飛び立ちました。政府の要人なのか、スペイン王室の方なのかは不明ですが、いずれにしても、その人の搭乗を待っていたわけです。

マドリッド空港に着くと、予定していたエール・フランスは飛び立った後でした。添乗員が大騒ぎで交渉した結果、まずはパリへ飛び、一泊したうえで、翌朝、スタンバイでコペン行きに乗ることになりました。オルリー空港でも、添乗員は、翌日の手配に走り、私まで、当夜のホテルの段取りをエール・フランスと話してくれ、と頼まれる始末です。翌朝、バスでシャルル・ド・ゴール空港へ移動し、スタンバイをかけました。全員が乗れないかも知れない、パリに残るボランティアを募る、というので、真っ先に手を挙げました。最終的には全員が搭乗でき、無事、コペンから成田へ飛ぶことが出来ました。綱渡りの帰国となりましたが、添乗員の大活躍あってのことでした。後日、その添乗員と電車でバッタリ会いました。それにしても添乗員は大変な仕事ですね、と言うと、好きでなければ出来ないわよ、と言っていました。(写真出典:hatameku.jp)

2022年2月20日日曜日

「ライダーズ・オブ・ジャスティス」

監督:アンダース・トーマス・イェンセン   原題: Retfærdighedens Ryttere   2022年デンマーク

☆☆☆+

*ネタバレ注意

監督・脚本のアンダース・トーマス・イェンセンは、デンマーク映画界を代表する脚本家ですが、監督作品としては、本作が5作目となります。さすがによく出来た脚本です。ユニークな設定ですが、一見すると単純な復讐劇に見えます。ところが、実は社会的弱者の連帯をテーマとしたヒューマン・ドラマです。コミカルな要素に加え、ストレートな復讐ストーリーではなく、ひねりを加えることによって、テーマへの訴求を強めるという高度な業を見せています。ややもすれば押しつけがましさが全面に出てきがちなテーマですが、北欧流のドライな演出が、ウェット感を適度に押さえて、いい味を出しています。不思議なテイストを持った、ある意味、とても北欧的な映画です。

主役は、戦争に取り憑かれ、家族を失いつつある国防軍兵士です。兵士の妻は、電車事故で亡くなり、彼と思春期の娘が残されます。その電車に乗り合わせた統計学者は、遭遇した事故は陰謀なのではないかと疑念を持ちます。彼は、かつて自動車事故で娘を失い、自身も片腕が麻痺しています。それ以降、運命論に取り憑かれています。彼の仕事仲間で友人の2人は、アスペルガー症候群のITおたくです。統計学者の疑念を解明すべく、この4人が、それぞれの得意分野を活かして協力します。謀略疑念は、公判を控えるギャングのボスが、重要な証人を事故に見せかけて殺害したのではないか、というものでした。精神疾患を持つ社会的弱者4人によるギャングへの復讐が始まります。ちなみに、”ライダース・オブ・ジャスティス”とは、ギャング団の名称ですが、皮肉の効いたネーミングであり、タイトルです。

主演のマッツ・ミケルセンは、国際的に大活躍するデンマーク俳優です。いつもとはまるで違う見た目なので、すぐには分からないほどでした。途中から、男娼に売り飛ばされたウクライナの青年が仲間にくわわりますが、彼も含めて、皆、いい味を出しています。よく揃えたものです。兵士の娘は、その純粋さゆえに、表面的な部分に惑わされることなく、彼らのやさしさを見抜き、絆を強めていきます。いわば聖母の役割なのでしょう。そう考えれば、彼らは聖家族のようにも思え、それがギャングに打ち勝つという宗教的な意味合いもあるように思えます。ルター派信仰は、その気候とともに、北欧の人々の人格形成に深い影響を与えています。

かつてデンマークは、北欧全域と英国を支配する大国でした。16世紀以降は、戦争に負け続け、現在は、小国と言わざるを得ません。ただ、経済的には、世界的企業も多く、海運や酪農も盛んで、実に豊かな国です。600万に満たない人口のデンマークには「総防衛」という考え方が根付いており、徴兵制が維持されています。国防軍の設立目的に、世界平和の維持が掲げられ、NATOの一員でもあることから、海外派兵には積極的な国です。ある意味、小国が、欧州域内で存在感と独立性を維持するためには、大国と協調していくしかない、とも言えます。マッツ・ミケルセン演じる主人公の兵士も、湾岸地域への度重なる派遣で、精神を病んでいったわけです。国の犠牲になったとも、小国の悲哀とも言えそうです。(写真出典:filmarks.com) 

2022年2月19日土曜日

メトロポリタン美術館

NYは、ビジネスやショーなど様々な顔を持つ街ですが、同時に、世界中から人が押し寄せる観光地でもあります。観光客数は、コロナ前、年間6,000万人を越えていたようです。人気の観光スポットと言えば、自由の女神、エンパイヤ-・ステイト・ビル、セントラル・パーク等でしょうが、NYで行くべきところのナンバー・ワンは、メトロポリタン・ミュージアムだと思います。 1870年に開館したメトロポリタン美術館の所蔵品は300万点を超え、100周年の際に行った拡張工事で、その広さは東京ドーム4個分に達しています。18世紀までのフランスの富を象徴するルーブル、19世紀までの英国の富の結集であるナショナル・ギャラリー、そしてアメリカの時代と言われた20世紀の富を見事に具現化しているのが、メトロポリタン美術館だと思います。

1990年前後、私がいたNYオフィスは、3つの現地法人が同居し、社内的にはNY駐在員事務所という組織も兼ねていました。当時、NY事務所には、日本からの来訪者が、オフィシャルなものだけでも年間70組ほど訪れていました。事務所に挨拶に来るだけという来訪者から、本社指示でフルアテンドする場合まで様々でした。結果、私は、最低でも年に5~6回は、メトロポリタン美術館を案内していました。所蔵品のうち展示されているのは1/4程度と言われますが、それでも70万点に及びます。丁寧に鑑賞するなら、1週間はかかります。多くの来訪者は、空いた時間で行きたいというので、私は、独自に、1時間超早回りコース、2時間早回りコース、3時間標準コースなどを設定していました。基本的に大好きな場所だったので、得々として皆さんを案内していました。

国立新美術館で開催されているメトロポリタン美術館展を見てきました。メトロポリタン美術館が、自然採光化をより進めるための工事に入ったために実現した展覧会だと聞きます。至宝クラスは少ないものの、有名作家をズラリと並べた質の高い展示になっていました。初期ルネサンス、北方ルネサンス、ルネサンス、バロック、ロココ、新古典主義、ロマン派、写実主義、そして印象派、後期印象派、それぞれを代表する作家の作品が並び、まるで西洋絵画史の講義を受けているような風情でした。至宝クラス抜きでも、そのような展示ができる美術館など、ルーブル以外にはメトロポリタンくらいしかないのではないでしょうか。今更ながらに、その凄さに感心させられます。

展示品のなかでは、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「女占い師」が一番の推しらしく、ポスターにもなっています。この作品はじめ、日本初公開作品が数多くあります。初期のカラヴァッジオ「音楽家たち」は、後の濃い陰影表現とは異なりますが、既に官能的で異彩を放ちます。現在、メトロポリタンは、5枚のフェルメールを所蔵していますが、うち晩年の作品「信仰の寓意」が来ています。典型的な窓辺の女性という構図ではありませんが、フェルメールらしい技巧が光ります。私が、最も楽しみにしていたのが、ディエゴ・ベラスケスの「男性の肖像」です。これはメトロポリタンが、70年前から、ベラスケスの弟子の作品として所蔵していたものですが、2009年、修復作業をした結果、ベラスケス直筆と認定されたという作品です。実にベラスケスらしい作品でした。メトロポリタンが所蔵するベラスケスと言えば「ファン・デ・パレーハ」が有名です。かつては、メトロポリタンで最も高価な絵画とされていました。

私の1時間超早回りコースでは、ルネサンス、バロックあたりの名品を中心にしたいところでしたが、最も多くの時間を割いたのは印象派、後期印象派でした。何故かは知りませんが、日本人は印象派、後期印象派が大好きだからです。とは言え、いずれのコースでも始まりは、ロビー右手のエジプト室でした。エジプトから、まるごと移築したデンドゥール神殿で驚いてもらうためです。メトロポリタンを構成しているアメリカの富の力を知ってもらうためでもあります。そのために最適な場所は、マンハッタン島北端近くにあるメトロポリタン美術館別館クロイスターズですが、ちょっと遠くなるので、なかなか案内できませんでした。ロックフェラー2世が、ヨーロッパ各地の修道院を移設して構成した建物は、中世そのものであり、展示される中世美術の数々も含め、そこはヨーロッパそのものです。(写真出典:artexhibition.jp)

2022年2月18日金曜日

梅は咲いたか

立春は、二十四節季の第1節であり、暦上では新しい年の始まりでした。概ね、毎年2月4日あたりが立春となります。二十四節季は、なかなかよく出来ていると思います。立春の前は、大寒ですが、確かに年間気温が最も低い時期になります。2月中も気温は低いのですが、立春の頃から上昇に転じ、日差しも春めいてきます。梅が咲き始める頃でもあり、まだ寒い日が続くとは言え、春の訪れを感じさせてくれます。ちなみに、節分は、暦で言えば新しい年が始まる前日であり、年越しということになります。

毎年、梅の咲き始めを見ると、「梅は咲いたか、桜はまだかいな」という江戸端唄の一節が頭に浮かびます。梅も咲いたのだから、さっさと本格的な春が来て欲しいと思うわけです。ただ、端唄の続きは「柳ャなよなよ風次第 山吹ャ浮気で色ばかり」となっています。実は、この唄、春の情景を謡ったというものではなく、吉原遊郭のCMソングであり、その春バージョンといったところです。アサリ、ハマグリ、アワビの片思い、サザエは悋気で角ばかりと続き、最後はズバリ「柳橋から小船を急がせ 舟はゆらゆら波しだい 舟から上がって土手八丁 吉原へご案内」となります。春の花や磯の貝で遊女を思い起こさせ、春めいてきた吉原へ遊びにおいでよ、というわけです。日本橋界隈の若旦那たちが、この歌を口ずさみながら、いそいそと吉原へ急ぐ姿が思い浮かびます。

梅は、古来、様々な歌に詠まれてきましたが、なんと言っても菅原道真の「東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」が最も有名だと思われます。太宰府天満宮の御神木「飛梅」は、道真を慕って京の都から左遷先である太宰府まで飛んできたと言われます。太宰府天満宮へ行くと、必ず思い出す話があります。参道の太鼓橋を一緒に渡ったカップルは、必ず別れるという都市伝説です。九州大学の学生の間では有名な話だと聞きます。学問の神様である天神様を男女でお参りするなど不埒である、勉学に勤しめ、といった戒めなのでしょうか。梅の花見で混み合う境内を見ていると、あまり気にしている人はいないように思います。

関東三代梅園と言われるのが、水戸偕楽園、越生の梅林、曽我の梅林です。偕楽園は、日本三名園の一つでもあり、秋に訪れたことがあります。残念ながら、あまりに印象に残りませんでした。やはり梅の季節に行くべきところなのでしょう。私は、桜の名所や名木は見たいとは思いますが、あまり梅の花見に行こうとは思いません。桜と違って、群生している姿よりも、庭の枝振りの良い梅の方が風情があって良いと思います。また、私が北国育ちであることも関係しているかもしれません。北国の育ちの人間は、梅を見るために出かけるという習慣がないように思います。もちろん、北国にも梅園はありますが、関東ほど梅の開花は早くなく、すぐに桜が開花するので、梅を楽しむ文化が薄いのではないかと思います。

話は端唄に戻りますが、晩春に咲く山吹は、太田道灌の山吹の里伝説にあるとおり、実を付けないことから、結ばれることはない、いわばつれない遊女の例えなのでしょう。よく分からないのが、サザエの悋気です。サザエの角は、敵から身を守るためではなく、潮に流されないためにあるようです。一方、サザエの堅い蓋は、身を守るためにあるようです。さらに海水を閉じ込め、磯に打ち上げられた時にも数日間生きられるようになっているようです。この蓋を閉めるところが、金銭を貯め込むイメージとつながり、悋気となったのでしょうか。(写真出典:trenki.jp)

2022年2月17日木曜日

キャンディー・バー

Goo Goo Cluster
日本でキャンディーと言えば飴のことですが、アメリカで”Candy”と言えば、チョコレートも含めて砂糖菓子全般を指します。日本では、なぜ飴に限定した使い方をするのかは不明です。日本の飴の歴史は古く、日本書記には、神武天皇が水飴を作る話があるようですし、平安時代の延喜式には、既に飴売りに関する記述があると聞きます。恐らく、江戸期までの大衆にとって、甘いお菓子と言えば、何と言っても飴だったことから、Candy=飴と翻訳されたのでしょう。アメリカ人の大好きなキャンディー・バーも、棒状の砂糖菓子全般を指します。棒状や板状のチョコレートもキャンディー・バーですし、ヌガーやナッツ類をチョコレートでコーティングした棒状のお菓子も全てキャンディー・バーと呼ばれます。ただし、欧州では、チョコレート・バーと言います。

 キャンディー・バーの発祥については、諸説あります。1900年にハーシーが発売した板チョコという説、あるいは、1910年、初めて個別包装されたカナダのギャノン・ブラザースの板チョコとする説もあります。ナッツ類などをチョコでコーティングしたコンビネーション・タイプの草分けは、1912年、ナッシュビルで発売された”Goo Goo Cluster”だとされます。マシュマロヌガー、キャラメル、ピーナッツをミルク・チョコで包んだキャンディー・バーです。1920年、個別包装化されたグー・グー・クラスターは、全米で販売され、現在も健在です。キャンディー・バーの歴史と個別包装機との関係は切っても切れない関係にあるようです。

この頃の庶民の食生活は、極めて貧しく、日に一食という家庭も珍しくなかったようです。大いにカロリー不足だった時代、わずか10セントで、結構なカロリーを摂取できるキャンディー・バーは大人気となり、全米各地で製造・販売されます。1950年代までに販売されたキャンディー・バーは、実に4万種類に及んだとも言われます。現在も、膨大な種類のキャンディー・バーが売られています。世界での売り上げとしては、マースの「スニッカーズ」、ハーシーの「リーシーズ・ピーナッツ・バター・カップス」、スイス発祥で三角形の「トブラローネ」、ネスレの「キットカット」、シカゴ発祥の「ダブ・チョコレート・バー」が上位の5種となります。以下、キャドバリー・デイリー・ミルク、トゥイックス、ミルカ、3マスケティアーズ等が続きます。

当然のことながら、携帯可能な高カロリー食品に、米軍も注目します。士気高揚の効果も高いとされ、1937年から、携帯非常食D号の一部として正式に採用されます。製造したのは、ハーシー社です。レーションD・バーは、第二次大戦中、耐熱性を高めたレシピ、毒ガスに耐える個別包装で製造され配給されました。敗戦直後の日本で「ギブ・ミー・チョコレート」と言って子供達がもらったチョコレートもこれです。レーションD・バーは大戦終結と共に、生産を終えますが、味を改善したトロピカル・バーは、その後も配給さています。さらに溶けにくいデザート・バーも開発されました。ハーシーの本社があるペンシルベニア州ハーシーには、同社経営のテーマ・パークやリゾート・ホテルがあります。そのギフト・ショップで、一般発売されていないデザート・バーを買って食べたことがあります。デザート(砂漠)でも溶けないというキャンディー・バーは、砂漠のような味でした。

世界中どこでも、砂糖は子供達の主な燃料です。燃料が切れれば、子供達はエンジンを停止し、眠ることになります。ただ、美味しいキャンディー・バーに囲まれて育つアメリカの子供達は、カロリー過剰なまま眠るので、結果、肥満体が増えます。近年は、カロリーを抑制したキャンディー・バーも多く販売されているようです。ただ、耐熱性を高めたり、カロリーを抑制したキャンディー・バーの味はイマイチになります。やはり、不健康なものほど美味い、という偉大な原則は、ここでも生きているわけです。(写真出典:en.wikipedia.org)

2022年2月16日水曜日

アルペン・スキー

映画「白銀は招くよ!」
雪国に育ったので、冬の遊びと言えば、スキーでした。小学校も高学年になると、シーズン中の日曜日は、ほぼスキー場で過ごしていました。中学生になると、スキー場の最も高いところから、急斜面を、可能な限り早く滑ることに熱中しました。高校生になったら、スキー部に入り、アルペン・スキー競技をやりたいとも思っていました。私と友人たちの荒っぽくて危ないスキーを見るに見かねた中学の体育教師が、なかば強制的に3日間の集中スキー教室を開いてくれたことがあります。 直滑降、斜滑降、ヴォーゲルと、基礎中の基礎から始まったスキー教室は、実に退屈なもので、腹立たしく思いました。ただ、それまで考えたこともなかったスキー理論を知るにつれ、やたら面白くなっていきました。

スキー、特にアルペン・スキーは、エッジングのスポーツです。要は、スキー板裏面の両端に付けられたエッジを、雪面に対して、どういう角度と加減で、かけていくかということです。エッジのかけ方次第で、曲がる角度とスピードをコントロールできます。まったくエッジをかけない状態(抜重)では、スキーの先端は、谷側に対して、確実にまっすぐ向かっていきます。そこで膝を使って右に体重をかけると、エッジがかかり、右回転を始めます。もちろん、体が覚えていた技術ではありますが、理屈を知ると、とても新鮮に思えました。それ以降、危険な滑降をすることはなくなり、むしろゲレンデで綺麗なシュプールを描く、いわばエレガント・スキーに勤しむことになりました。まんまと体育教師の術中にはまったわけですが、感謝しています。

冬期オリンピックは、いつも楽しみにしていますが、特に集中して見る中継は、エッジの戦いであるアルペン競技だけです。冬期オリンピックは、1924年、シャモニーで第1回が開催されています。ただ、アルペンスキーは、第4回のガルミッシュ=パルテンキルヒェン大会から種目に加えられています。スキー競技は、クロス・カントリーとジャンプのノルディックから始まりました。滑降と回転のアルペンは、20世紀に入って、山岳スキーから生まれた新しい競技です。ノルディックとアルペンでは、用具にも違いがあります。ノルディックのビンディングは踵が浮くようになっており、アルペンはスピードを求めて踵を固定します。戦後、アルペンは、スキー競技の花形になっていきます。スキー・リゾートが増えたことに加え、トニー・ザイラーが登場したことで、その人気は決定的になりました。

トニー・ザイラーは、オーストリアのアルペン・スキー選手です。チロル地方に育ったザイラーは、16歳で国際大会に優勝し、1956年、コルチナ・ダンペッツオで開催された冬期オリンピックで、滑降、回転、大回転で金メダルを獲得します。そのイケメンぶりから映画にも出演し、以降、俳優、歌手、ナショナル・チームの監督と、幅広く活躍しました。1959年の映画「白銀は招くよ!」(原題は「12人の娘と一人の男」)は、世界的ヒットとなり、ザイラー自身が歌った主題歌も大ヒットします。日本における戦後最初のスキー・ブームも、トニー・ザイラー人気が起爆剤となったものと思われます。当時のアルペンは、単なるスポーツに留まらず、高級感あふれるリゾート、おしゃれなスキー・ウェア、かっこいいスキー板や用具なども含めて、実に華やかな文化でした。子供心に、それが記憶に残り、私のアルペン好きにつながったのでしょう。

結局、高校のスキー部に入ることはありませんでした。中学3年の時、父親が滑降競技の観戦に連れて行ってくれました。初めて見るレースでは、時速100kmのスピードと迫力に圧倒されましたが、同時に、その雪面の厳しさにも驚かされました。それは、もはや雪面ではなく、氷そのものでした。多少、腕に覚えはあったものの、全面アイスバーンというコースで滑る勇気はありませんでした。冬期オリンピック北京大会のアルペンは、人工雪にマイナス20度という厳しいコース・コンディションで行われています。転倒も相次いでいます。大事故が発生しなければいいのですが。ちなみに、2026年大会は、 70年振りにミラノ/コルティナ・ダンペッツォで開催されます。一度行きましたが、その美しい山並みは印象に残りました。トニー・ザイラーが三冠を達成した地での開催は、見事な景色とともに、今から楽しみです。(写真出典:cinema.de)

2022年2月15日火曜日

背水の陣

韓信
背水の陣は、軍略上、下策とされます。追い詰められて逃げ場のない状態を、自ら作り出すわけですから、本来的には、策ですらありません。背水の陣は、紀元前2世紀の終わり、井陘(せいせい)の戦いにおいて、3万の兵を率いる漢の韓信が、20万の趙軍に対して対してとった布陣です。後がない漢の兵は、必死に戦い、趙軍を破ったとされます。転じて、後がないという覚悟のもと、必死に戦うことを指すことわざになりました。スポーツはもとより、ビジネス・シーンでもつかわれることの多いことわざです。ただ、多少、誤解もあるように思います。韓信の戦略は、もう少し奥の深い戦術でした。

当初、趙軍は、城塞に立てこもっていました。攻城戦に勝利するためには、城内の数倍の兵力が必要とされます。韓信の兵は、数倍どころか、数分の一です。城を攻めると見せかけた韓信軍は、反撃を受けて退散します。趙軍は、ここぞとばかりに、兵を繰り出し、韓信軍を追います。韓信は、あらかじめ予定していた川縁に兵を展開します。背水の陣です。ただし、川縁に至るには、狭隘地を抜ける必要がありました。趙軍は、一度に韓信軍に襲いかかることは出来ず、3万人対20万人の戦いは、実質3万対数万という互角の戦いに持ち込まれました。状況は、紀元前5世紀のペルシア戦争におけるテルモピュライの戦いに似ています。狭隘地で、スパルタのレオニダス率いる300名が、数十万といわれるペルシャ軍を防いだ戦いです。

さらに、韓信は、別働隊を、密かに城の後背地に送り込んでありました。ほとんどの趙軍が、韓信軍を追って城を出たところを見計らって、城に攻め入り、これを奪取します。一方、韓信軍を攻めあぐねた趙軍は、一旦、城に戻り、態勢を整えようとします。ところが、城は敵の手に落ちていました。結果、挟み撃ちの状態に陥った趙軍は総崩れとなり、潰走します。3万の韓信軍が20万の趙軍を打ち破ったわけです。背水の陣は、単に、兵たちの火事場の馬鹿力を引き出す精神論的な作戦だったわけではありません。敵を城からおびき出して戦う、狭隘地を使って敵の兵力を分断する、背水の陣を陽動作戦として城を奪い挟み撃ちにする、という三つの作戦が統合された戦術の一部でした。

実は、韓信は、趙軍にスパイを送り込み、趙軍の動きを逐一把握していたとされます。つまり、情報戦でもあったわけです。趙軍を率いる李左車は、城から別働隊を出し、狭隘地を使って韓信軍を川縁に追い詰める作戦を進言しますが、宰相に拒絶されます。これを知った韓信は、勝利を確信したと言われます。両賢将とも、狭隘地を使う作戦を考えていたわけです。韓信は、捕虜となった李左車を上席に置き、来るべき燕との戦いに助言を求めます。李左車は、自らを恥じて「敗戦の将、兵を語らず」という名言を残します。韓信は、趙軍が敗れたのは、李左車の策を宰相が拒んだためであり、あなたの失敗ではないと説き、助言を求めます。李左車は「智者にも千慮に必ず一失有り、愚者にも千慮に必ず一得有り」と述べ、愚者の策ですとへりくだったうえで助言をしています。「千慮の一失」、および「愚者にも一得」という故事成語の由来です。

韓信と言えば、もう一つ忘れてはならない故事成語があります。「韓信の股くぐり」です。貧しい家に生まれた韓信ですが、いつも剣だけは離しませんでした。ある日、韓信は、町のごろつきから、剣を抜け、抜けないなら股をくぐれ、と馬鹿にされます。韓信は、あえて股をくぐります。後に大将軍となった韓信は、ごろつきを呼び寄せ、取り立ててやります。あの時は、剣を抜いても意味がないので我慢した、それが今の自分を作った、と語ったそうです。大志を抱く者は、眼前の小さな恥辱など耐えなければならない、というわけです。ちなみに、漢の高祖劉邦が、天下統一を成したげたのは、韓信の活躍によるところが大きかったわけですが、その有能さや自信が徒となり、謀殺されています。(写真出典:sekainorekisi.com)

2022年2月14日月曜日

「フレンチ・ディスパッチ・・・」

監督:ウェス・アンダーソン 原題:The French Dispatch of the Liberty, Kansas Evening Sun 2021年アメリカ

☆☆☆☆

ウェス・アンダーソンは、まさに奇才だと思います。スティール的なカメラ・ワーク、自然主義的な演出、完璧にトーンを揃えた色彩、懐メロの効果的な使い方などで、独自の世界を構築します。一目見ただけでアンダーソン作品と分かるほど特徴的です。フレンチ・ディスパッチは、フランスの架空の街を舞台に、カンザスの新聞の支局が、編集長の死に伴い、追悼号、かつ最終号を編集するというプロットです。掲載予定の5つの記事が、独立したエピソードとして語られます。ウェス・アンダーソンが、大好きだという”ニューヨーカー誌”に捧げた作品のように思えます。いつも以上にアンダーソン・ワールド炸裂です。

”The New Yorker”誌は、1925年、ハロルド・ロスが刊行した週刊誌です。ニューヨークの小粋なインテリジェントを代表する雑誌であり、掲載される記事や短編小説の書き手には、錚々たる面々が顔を並べます。小説に関しては、20世紀アメリカ文学のメイン・ストリームと言っても、決して言い過ぎではないと思います。センスの良い装丁も独特なブランド力を持っています。高校生の頃、サリンジャーはじめアメリカの短編小説を読みあさりましたが、ほとんどがニューヨーカーに掲載されたもの、ないしはニューヨーカー派の作品でした。本屋で、本物のニューヨーカー誌を買った時の興奮は、いまでも忘れません。もちろん、50年前のことですから、ひと月遅れくらいのものでしたが。

テキサスで生まれ育ったウェス・アンダーソンも、ニューヨーカー誌に憧れを持っていたのでしょう。色調も含めた映像全体が、ニューヨーカー誌の装丁をイメージさせますし、エピソードの小粋さにもニューヨーカー誌のテイストを感じさせます。それもそのはず、エピソードは、ニューヨーカー誌の過去の記事を参考に作られたようです。コメディのタッチとしては、ジャック・タチの作風を思わせるものがあります。近年、パリに暮らす監督は、パリのエスプリも身につけたのかも知れません。また、演出は、スウェーデンのロイ・アンダーソンのテイストにも通じるものがあります。いずれにしても、アンダーソン・ワールドとニューヨーカー・ワールドは、とても相性が良いことだけは間違いありません。

アンダーソン映画の特徴の一つが、豪華なスター達です。名前をあげるとキリがないので、止めておきますが、毎回、キャストには驚かされます。全作「犬ヶ島」(2018)はアニメ作品でしたが、声優に、いつもの豪華メンバーを揃えていました。その徹底ぶりには笑えます。その集めたメンバーに、芝居くさい芝居をさせないのが、またアンダーソン流です。豪華な常連メンバーたちも、演技ではなく、キャラクター重視でキャスティングしているということなのでしょう。たしかに、画面に登場するだけで、存在感を示す面々だとは思います。今回、常連のアンジェリカ・ヒューストンが出ていませんでした。ところが、さすがにぬかりありません。ナレーターが、アンジェリカ・ヒューストンでした。脱帽です。

ウェス・アンダーソンは、ノスタルジックな空気に包まれた不条理の世界をコミカルなタッチで描きます。よく作り込まれた映像は、上質で、小粋な短編小説を思わせます。いわゆる作家主義の監督ということになりますが、傑作「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」や「グランド・ブダペスト・ホテル」は興行的にも成功しています。難解な時空の世界を描くクリストファー・ノーラン等もそうですが、決してメイン・ストリームとは言えない映画をビジネスとして成立させているポイントは、エンターテイメント性の有無ということなのでしょう。ウェス・アンダーソンが、豪華なキャストを揃える理由の一つかも知れません。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年2月13日日曜日

ニンジャ

忍者ほど、実態からかけ離れたイメージで定着している存在はないのではないか、と思います。忍者人気は、江戸後期から昭和前期までと、かなり長く続きました。明らかに、講談本、芝居、映画、TVの影響であり、いわばキラー・コンテンツだったわけです。その間に、超人的な身体能力、様々な小道具といった忍者のイメージが作られ、定着したわけです。ブームが去って久しい昨今、国内で、忍者を知っている子供がいるかどうかも怪しいところです。興味深いことに、国内で忍者人気が衰え始めた頃、海外で忍者ブームが起きました。

事の起こりは、1964年にNewsweek誌に掲載された日本の忍者ブームに関する記事だとされます。その後、日本でロケした「007は二度死ぬ」(1967)がヒットしたことで、日本の忍者は一般化したようです。ちなみに、007の旧作を見ることがありますが、「007は二度死ぬ」だけは、妙な日本観が恥ずかしくて見る気にれません。007が撮影された他の国々でも、同じ印象があるのかも知れません。80年代後半に入ると、アメリカで忍者ブームが起きます。ショー・コスギの映画等もヒットしますが、なんと言っても、子供向けアニメ「ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ」の大ヒットがブームを牽引しました。

ニンジャ・タートルズは、実に息の長いヒット・アニメとなり、世界各地でも放送され、各種グッズもよく売れ、実写版も制作されています。ビジネス的には、最も成功したアニメとも言われています。40歳未満のアメリカ人は、皆、ニンジャ・タートルズを見て育ったと言っても過言ではありません。1984年に、ごく少い部数だけ発行された白黒のコミックが、その始まりです。ミュータント化した亀が、忍術の師匠の仇討ちをするというストーリーです。原作は、暗いイメージだったようですが、1987年、それを明るいイメージに変えてTVアニメがスタートします。もちろん、本当の忍者とは似ても似つかない代物です。ただ、考えてみると、我々が知っている猿飛佐助や霧隠才蔵、あるいは赤影なども、現実離れしている点では、まったく同じです。

実際の忍者は、飛鳥時代から存在したという説もあります。ただ、特殊な技能をもって諜報、謀略、暗殺等を行う”忍び”は、武家時代の産物だと思われます。伊賀・甲賀といった忍者集団、あるいは雑賀・根来といった鉄砲集団なども、なぜか紀伊半島に集中しています。山間地ゆえに支配を受けにくかったことで独立性が高く、かつ貧しかったことから、特殊技能の鍛錬に勤しみ、傭兵化していったようです。また、伊賀では、支配層不在のもと、各豪族間の争いが熾烈となり、そのなかで特殊技能が磨かれたとも聞きます。その戦闘能力の高さは、伊賀が織田信長軍を破ったことでも明らかです。また、本能寺の変に際して、徳川家康を三河へ逃した、いわゆる”伊賀越え”の功績が認められ、徳川幕府においても重用されました。恐らく忍者の実態は、今風に言えば、グリーンベレーやデルタフォースといった特殊部隊に近いものなのでしょう。

戦前、日本のイメージと言えば、フジヤマ・ゲイシャでした。ゲイシャは、19世紀末、ジャポニズムと呼ばれた日本ブームを背景に上演されたオペレッタ「Geisha」のヒットによって広く知られるようになったようです。近年、来日する観光客のお目当ては、日本食・自然・アニメ関連だと聞きます。ニンジャも人気らしく、疑似体験、関連施設、ニンジャ・レストラン、ニンジャ・グッズも人気だそうです。まさにニンジャ・タートルズ効果と言えます。余談ですが、観光案内所で「どこへ行けば、サムライに会えますか?」と真顔で聞く外国人も少なくないようです。(写真出典:discogs.com)

2022年2月12日土曜日

影の軍隊

ジャン・ポール・メルヴィル監督の「影の軍隊」(1969)は、映画史に残る傑作です。ナチス・ドイツ占領下のフランスで戦ったレジスタンスの厳しい現実が描かれています。実話を取材した原作に、メルヴィル自身のレジスタンスの経験も反映されていると言います。戦争活劇ではありません。脱走シーンもありますが、派手な撃合いもありません。レジスタンスの、ひたすら緊張を強いられる活動、仲間たちとの強い絆、そして何よりも組織を守るために求められた冷徹さが、淡々と描かれています。その冷徹さこそ、戦争の悲惨だと言えます。連合軍と共に、パリを、フランスを解放したレジスタンスの活躍はフランス人の誇りです。ただ、実際の戦いは、戦場同様、あるいは戦場以上に厳しいものだったわけです。

1940年、ナチス・ドイツの侵攻に対して、フランス政府は、早々に降伏します。悲惨を極めた第一次大戦の記憶が、そうさせたと言われます。結果、パリは戦火を逃れますが、ナチスの支配下に入ります。フランス北部はナチスが占領し、南部には、ナチスに従順なヴィシー政権が樹立されます。当初、レジスタンスの活動は、各地で散発的に行われる程度でした。42年頃には、グループが構成され始めますが、連携はありませんでした。当時は、まだチラシ配り、サボタージュ、墜落した連合国側パイロットの救出等が主な活動でした。43年になると、シャルル・ド・ゴール将軍が英国で立ち上げた自由フランス軍を後ろ盾に、ジャン・ムーランが、レジスタンス組織を統合します。

フランス人のドイツへの強制労働が開始されると、レジスタンスへの参加者も増え、武力襲撃も行われます。ただし、レジスタンスは武器不足に悩まされ、英国からの供給も受けられませんでした。ナチス側も黙っていません。ゲシュタポによる徹底的な摘発と弾圧が行われます。またヴィシー政権は、民兵団を組織し、レジスタンスの一掃を図ります。ゲシュタポに逮捕されると、拷問のうえ銃殺されます。また、本人や家族の身の安全と引き換えに、仲間の情報を吐かせる工作も行われます。裏切りによって、多くのレジスタンスが逮捕されています。映画でも言及される”24時間ルール”は、よく知られています。逮捕されたら、24時間は拷問に耐えろ、という掟です。その間に、仲間たちは、地下に潜るわけです。

ヨーロッパの戦況を大きく変えたノルマンディー上陸作戦は、敵の配置に関する正確な情報、電線・電話線の切断といったレジスタンスの活躍無くして成功しなかったとも言われます。劣勢となったヒトラーは、パリの死守、それができなければパリの破壊を命じます。パリ市民たちは、連合軍上陸に後押しされるように武器を取り、ナチスへの攻撃を始めます。数では圧倒するレジスタンス側でしたが、如何せん武器・弾薬が足りません。しかし、頼みとする連合軍の進軍コースからパリは外れていました。ド・ゴールの必死の要請に折れたアイゼンハワー司令官は、自由フランス軍と連合軍の一部をパリへ向かわせます。パリ解放は、レジスタンスと連合軍によってなされたわけです。フランス革命から続く伝統を感じさせます。

フランスのレジスタンス運動には、市民蜂起の伝統の他にも特徴的なことがあります。ロンドンが後方司令所となり組織的な抵抗運動が展開されたこと、そして女性の参加者が多かったことです。女性が多かったのは、100万人と言われるフランス兵がナチスの捕虜になり、数十万人が強制的にドイツで労働させられ、国内に男性が少なくなったためだと言われます。レジスタンスの組織は、安全のために細かく分断されていますが、細胞のリーダーには女性も多かったようです。また、統括的な地位についた女性リーダーも存在します。彼女たちの活躍が、戦後フランスにおける女性の地位向上に大きな貢献をしたことは言うまでもありません。(写真出典:hubpages.com)

2022年2月11日金曜日

タンギョウ

來々軒のタンギョウ
東陽町で、4年ばかり働きました。東陽町は、都心に近いという立地もあり、大手社の事務センターや関連するIT系の企業が多くあり、昼間人口は、都内で第5位と聞きます。同じ深川でも、門前仲町や木場のような江戸期からの歴史を持つ街とは異なり、飲食店は乏しい土地柄です。赴任早々、東陽町の名物は「タンギョウ」です、と聞かされました。いきがった言い方をしていますが、要は湯麺と餃子のことです。それが合体して出てくるわけでもなく、ただ、どこにでもある2品を注文するだけのことです。妙な名物ですが、とりあえず、湯麺好きにとっては悪くありません。

早速、人気店を食べ歩いてみました。どこも餃子は美味しいものでした。と言うか、私は、不味い餃子に出会ったことがありません。おおよそ餃子は美味いものだと思っています。問題は湯麺ですが、これがいけません。不味いわけではないのですが、私の湯麺の定義からすれば、いまいちと言わざるを得ません。基本の湯麺とは、塩味の美味いスープに野菜を加え、白濁するくらいの強火で炊いて、野菜のうま味と甘みを出し、新鮮なラー油をかけて食べるものです。東陽町界隈の湯麺は、この野菜のうま味と甘みが感じられず、湯麺の持つふくよかな野菜の味わいに欠けます。餃子と合わせるために、意図的にあっさりさせているのかも知れません。

私の湯麺の基準は、高校の近くにあった食堂のものです。高校の近くには、3~4軒、先輩達が開拓した”休憩室”がありました。要は、授業をサボって、身を潜める場所です。特定のメンバーにだけ許された食堂の奥座敷であり、漫画本、雀卓、灰皿を完備していました。出欠を気にしない教師、あるいは代返がきく教師の授業は、ほぼ確実にサボっていました。昼食は、毎日のように”休憩室”で食べていましたが、ある食堂の湯麺が大のお気に入りで、よく食べました。恐らく、高校時代に食べた昼食のなかで、最も多かったメニューは、その店の湯麺だったと思います。それが、私の湯麺の原点になっています。残念ながら、随分前に店は閉められたようです。

東陽町のタンギョウのベストは「來々軒」だと思います。三代目となる大将は、店の常連だったそうです。來々軒の餃子は、さる雑誌で、東京ナンバー・ワンに選ばれたこともあります。麺は開化楼製ですが、太麺と細麺が選べます。湯麺が出来上がる前に、野菜だけの皿が出されます。これに特製ラー油をかけていただきます。この新鮮なラー油は、店の売りです。餃子は、にんにくを効かせた「宝家」の方が、美味しいように思います。人気という点では、なんといっても「トナリ」ということになります。いつも若い人たちが行列を作っていました。野菜たっぷり、濃厚なスープ、といったあたりが、若者に人気なのでしょうが、ここまでくると湯麺とは呼べないと思います。

話は、タンギョウから離れますが、私が思う東陽町ランチのベストは、インド料理の「カマルプール」です。ランチは行列、夜は予約必須の大人気店であり、京橋の”ダバ・インディア”と覇権を争う店です。新鮮なスパイスの使い方が絶妙です。ランチは、日替わり3種類のカレー。夜は、タンドールバルをうたうだけあって、魚介系も含めて、様々な創作インド料理を楽しめます。東陽町のランチと言えば、タンギョウではなく、カマルなのではないかと思います。(写真出典:san-tatsu.jp)

2022年2月10日木曜日

ナショナル・ショップ

家庭電化製品は、今でこそ、量販店で買うものになりましたが、かつては、町の電気屋さんで買うものでした。町には、必ず家電メーカー系列の電器店があったものです。東芝の”東芝ストアー”、三菱電機の”三菱電機ストアー”、三洋の”サンヨー薔薇チェーン”等々ですが、系列店の草分けでもある松下電器(現パナソニック)の”ナショナル・ショップ”が最大の規模を誇っていました。 最盛期には、全国で5万店、松下電器の売り上げの6割を占めていました。その後、家電量販店の登場、家電メーカーそのものの苦境もあり、家電系列店は、消滅していきます。数こそ大幅に減少したものの、かつての姿を残したのはナショナル・ショップ、現パナソニック・ショップだけでした。

2000年頃、提携業務がスタートしたことから、松下電器の役員と食事したことがあります。その際、他社が撤退を続けるなか、松下電器だけが系列店の立て直しに奔走する理由を聞くことができました。「ナショナル・ショップは、創業者が、全国の電器店を一軒一軒訪ねて『一緒にやりましょう、共存共栄をはかりましょう、松下は裏切りません』と頭を下げて歩いたからこそ出来たネットワークです。創業者の約束したことを破るわけにはいきません」とのことでした。鳥肌が立ちました。松下幸之助、そしてそのDNAが脈々と受け継がれる松下電器の商売哲学に感銘を受けました。

かつて日本一を誇った松下電器も、家電業界が崩壊していくなか、辛酸をなめる事になりました。松下電器は、系列店維持のために苦労しましたが、店主たちも厳しい選択を迫られました。結果、町の電気屋が、本来的に持っていたマーケティング上の利点を強化する形で、ナショナル・ショップは見事に生き残りました。量販店との価格競争から身を引き、リピーター戦略に特化したのです。店の周囲は、高齢世帯だらけになっていました。ちょっととした故障、電球一つの取り替えにも丁寧に対応することで、ナショナル・ショップは、地域に欠かせない存在になっていきます。当時、ナショナル・ショップで一番売れているのが、まだ高価だった大画面の薄型TVと聞き、驚きました。

家電には寿命があります。製品によって異なるわけですが、おおよそ10年と言われています。いわゆる買換需要が確実にあるので、リピーター戦略は、町の電気屋さんに適しています。1950年代、家事の合理化需要も高まり、家庭の電化が始まります。TV・冷蔵庫・洗濯機は三種の神器と呼ばれました。以降、技術革新が続き、買換時期が到来する前に、新製品が売れていく時代が続きました。近年で言えば、薄型TVは大ヒットでした。ただ、全自動洗濯機、4KTV等は、革新的とまでは言えず、微妙なヒットに留まっていると思います。ところが、パナソニック・ショップでは、確実に売れているわけです。まさに、リピーター戦略の賜物です。老人たちは、日頃、お世話になっている電気屋さんが勧める商品は、ほぼ確実に購入するわけです。

現在、パナソニック・ショップは、全国に1万5千店舗あり、パナソニックの売り上げの2割を担っているようです。最盛期とは比べものになりませんが、パナソニックにとっては、依然、売り上げのアンカーと言えるのでしょう。ただ、町の電気屋さんは、後継者問題に悩んでいるようです。かつてのような荒稼ぎが期待できない以上、無理からぬ話です。うちの近所の電気屋さんは、ほぼシャッターを閉めた状態ではありますが、高齢になった店主が、昔からの顧客の修理需要にだけ応えているようです。(写真出典:takeden.machiden.net)

2022年2月9日水曜日

「盗まれたカラヴァッジョ」

監督:ロベルト・アンドー 原題: Una storia senza nome 2018年イタリア・フランス

☆☆☆

2010年に、家族でローマへ旅した際には、大好きなラファエロを、可能な限り多く見ることを目標にしていました。ちょうど、その年は、カラヴァッジョ没後400年に当たり、街はカラヴァッジョ推しになっていました。美術館だけでなく、教会も回り、多くのラファエロを見ることができましたが、同時に多くのカラヴァッジョも見ることになりました。結果として、カラヴァッジョの方が強く印象に残りました。カラヴァッジョは、近代絵画の始まり、とも言われます。バロックは、カラヴァッジョの個性から生まれたとも言えます。陰影の濃いドラマチックな作風は、破天荒な人生とともに、いまだに多くの人を惹きつけます。

「盗まれたカラヴァッジョ」、原題「名も無き物語」は、1969年、実際にパレルモで起きたカラヴァッジョの「キリスト降誕」盗難事件をモティーフにしたミステリです。マフィアの仕業と言われるこの事件は、50年経った今も未解決であり、「キリスト降誕」も行方不明のままです。その後、別件で逮捕されたマフィア数人が、盗難事件に関与したという証言を行っています。ただ、証言内容には食い違いが多く、真相は闇の中です。謎の老人が、脚本家のゴースト・ライターである主人公に、「キリスト降誕」盗難事件の経緯を伝えます。彼女は、それをシナリオ化し、著名監督を迎えて撮影が始まります。そこにマフィアの妨害、政府の関与も加わり、複層的なストーリーが展開されていきます。

謎が重なる現実、主人公が書くシナリオ、そして撮影中の映画と、二重三重に次元が構成された脚本は、面白い着想が光る傑作だと思います。作中、主人公の母親が「このシナリオの良いところは、すべての登場人物に裏表があることだ」と言っています。この映画の面白さを端的に語った言葉だと思います。ところが、ロベルト・アンド-監督は、この脚本をこなし切れていないように思えます。と言うか、この詰め込みすぎとも言える脚本は、監督のテイストには不向きだったように思えます。「修道士は沈黙する」や「ローマに消えた男」と同様、風変わりなシチュエーション設定はいつもどおりですが、スローなテンポで、丁寧に積み上げていく描写がアンドー監督の持ち味だと思います。

それにしても、なぜマフィアは、「キリスト降誕」を盗んだのか、不思議です。もちろん、市場に出せるわけもなく、闇取引が前提となります。ただ、とても大きな絵であることから、個人が邸宅に飾るにしても限界があります。本作は、動機にまでは踏み込んでいません。カラヴァッジョの作品は、他にも2点、盗難に遭っていますが、2点とも発見されています。カラヴァッジョは、その素行の悪さから、死後、高い評価を受けることがなかったようです。1920年代に至り、再評価の動きが高まり、ようやく日の目を見ることになります。1606年、人を殺したカラヴァッジョは、ローマを逃れ、ナポリ、マルタ、シチリア等で絵画制作を続けます。カラヴァッジョの作品が各地に存在し、かつ永年評価されなかったことから、盗みやすい環境にあったと言えるかも知れません。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年2月8日火曜日

行基

喜光寺行基座像
生まれて初めて富士山を見た時の感動は忘れません。もし私が画家だとすれば、この先、一生、富士山しか描かないだろうと思いました。富士山同様の大感動を覚えたのが、奈良の大仏です。もし私が天平の頃の人だとすれば、地面にひれ伏し、一生、大仏を拝み続けたと思います。東大寺盧舎那仏、いわゆる奈良の大仏は、疫病・飢饉に苦しむ世の中に平安を取り戻そうと願った聖武天皇が建立しました。天皇が、大仏建立の責任者に指名したのは、日本初の大僧正となった行基でした。宗派の開祖たちはよく知られていますが、行基上人は、そこまでの知名度はないように思います。ただ、後の空海、最澄と並び称されるべき偉大な僧だったと思います。

行基は、668年、河内国の中国系帰化人の家庭に生まれます。15歳で出家し、難解な経典を読解するなど、早くから天才ぶりを発揮していたようです。その後、しばらくの間、山に入り、修行に明け暮れます。この時期に、呪術も会得していたようです。やがて、山を下り、各地を回って布教活動に入ります。当時の仏教は、国家と朝廷の安寧を祈るための宗教であり、朝廷が認定した僧侶が、一般大衆への布教を行うことなどあり得ませんでした。また、布教に際して、呪術を使ったこともとがめられ、行基は朝廷から弾圧されます。しかし、朝廷が真に恐れたのは、僧俗混合の行基集団だったのではないかと思います。

行基集団は、行基のもとに出家が100人弱、その下に在家が数千人、多い時には1万人に達したとも言われます。恐らく固定的なメンバーを中心に、布教先、あるいは普請先で、その都度、集まっていたのでしょう。宗教集団ではありますが、特徴的には、寺院や道場の普請、そして各種社会事業を行う集団でした。行基開山とされる寺院は、畿内中心ですが全国に山ほどあります。その全てが、行基集団による建立とは思いませんが、相当数の寺院を建てたことは間違いないのでしょう。また、当時、開墾した土地は、三世代に渡って私有が認められる三世一身法が施行されたことから、新田開発が進みました。行基集団は、開墾を支える潅漑、架橋等にも取り組んでいます。また、港湾整備にも実績を残しています。当然、それらは為政者サイドにも役に立つ事業であり、資金は郡司層が出していたようです。

行基にとって見れば、布教とは庶民の救済であり、社会事業も、その一環でしかなかったのでしょう。ただ、朝廷にとって、行基集団は、実に薄気味悪い集団だったはずです。とは言え、朝廷に刃向かうわけでもなく、法を犯しているわけでありません。新興宗教的ではありますが、後の新興宗教とは、全く性格が異なります。行基に対する朝廷の対応は、次第に緩んでいきます。そして聖武天皇の大仏建立という大事業を迎えるわけです。建設資金の寄付、いわゆる勧進は必要不可欠であり、行基の大衆への影響力が頼りになります。また、行基集団の建築土木に関する専門性の高さも活用しない手はありません。聖武天皇が大仏建立の責任者に行基を任命したのは、極めて現実的な判断だったわけです。

行基は、宗派も起こさず、著作の一つも残さず、ひたすら仏教による衆生救済に邁進した実践の人だったのでしょう。行基開山とされる多くの寺と土木事業の痕跡が残っているわけですが、行基と行基集団が残した最大の事業は、奈良の大仏だったのだと思います。また、聖武天皇は、大仏建立という決断もさることながら、その責任者に、貴族でも高僧でもなく、アウトサイダーに過ぎなかった行基をあてるという判断を行ったことこそ賞賛されるべきだと思います。(写真出典:kiburiji.com)

2022年2月7日月曜日

サブスク

アメリカの音楽市場の70%を古い曲が占めている、という記事を読みました。また、音楽ストリーミングで、人気のある曲に占める新曲の割合は5%未満にすぎないとも書かれていました。この傾向は、この2~3年で進んでいるそうです。コロナ禍のステイホームで、ノスタルジックな音楽が好まれる傾向もあるようです。また、音楽業界は、強化された著作権法を恐れ、新曲のプロモーションに消極的だとも言われます。サブスクリクション、いわゆるサブスクによる影響も指摘されていました。案の定、恐れていたことが起きているな、と思いました。

サブスクリクションは、もともと雑誌などの定期購読を意味しましたが、IT時代を迎え、ソフトウェアの年間使用料等に応用されるようになりました。さらに動画配信から音楽配信へと拡大され、無制限にコンテンツを利用できるサービスへと拡大してきました。現在では、車、飲食、旅行までと、ありとあらゆるものまでサブスクの対象となっています。所有という概念が、ネットの世界から崩れ始め、物にまで広がりつつあると言えるのかも知れません。サブスクの対象によって、利用者や事業者に与える影響は、かなり異なります。なかでも音楽については、映像や物と比べて、その影響は相当に深いと思います。

音楽のサブスクで世界制覇しているのはスポティファイです。2006年に、ストックホルムで創業されたスポティファイは、世界中の2億人に対して、5,000万曲以上の楽曲をサブスクで提供しています。日本に進出した頃、友人から、もうCDを買ったり、ネットでダウンロードする時代じゃない、とスポティファイを勧められました。私が好んで聞く音楽のなかで、古いサンバや西アフリカのファンクなどは、スポティファイには無いと思うよ、と反論すると、4,000万曲(当時)だよ、あるに決まってると言われました。実際には、ほとんどありませんでした。今は、サービスを提供する国も178カ国に広がったそうですから、ひょっとすると対象になっているかもしれません。

音楽のサブスクで最も気になるところは、音楽のコモディティ化です。スポティファイがもたらすのものは、音楽を聞き流す文化です。いわばカフェの有線放送の個人化です。もちろん、コモディティ化していい音楽もありますが、すべての音楽が聞き流すものになってしまうということは、聞き流すタイプではない音楽の排除につながり、やがて音楽そのものの衰退を招く懸念があります。ミュージシャンの収入低下だけでなく、新しい才能が出てこなくなる恐れもあります。当初、テイラー・スウィスト、キング・クリムゾン、メタリカ等が、この点を批判していましたが、その後、勢いには勝てず、楽曲を提供しているようです。

スポティファイにも、多くのメリットがあることは認めます。一つは、かつて横行した海賊版の撲滅です。各レーベルがスポティファイと契約した大きな理由でもありました。また、音楽が、真に国境を越えた存在となり、しかも即座に国境を越えていく点は、ネット文化の利点そのものだと思います。しかしながら、音楽サブスクによって記憶媒体が一掃され、レアな音楽が入手できなくなること心配しています。(写真出典:icon-icons.com)

2022年2月6日日曜日

学閥

学士会館
神田錦町にある「学士会館」は、1928年竣工の古色蒼然たる建物です。一般社団法人学士会の本部ですが、会議室、宿泊施設、レストランもあり、各種会合や結婚式にも使われます。学士会は、戦前の帝国大学、およびその後継校の卒業者で構成されます。”旧七帝大”と呼ばれる、東大、京大、阪大、名大、東北大、九大、北大が対象となりますが、旧京城大学、旧台北大学の卒業者も含まれます。七帝大とは、いかにも古めかしい呼称ですが、今でも使われています。例えば、七帝大では、「七帝戦」と呼ばれるスポーツ大会が、毎年開催されています。私が勤めていた会社にも、かつて社内の「学士会」が存在しました。

派閥、学閥の類いは、どこの会社にもあるものですが、私のいた会社には、ほぼありませんでした。珍しい会社とまで言われていました。とは言え、さすがに各出身大学の校友会は存在しました。慶応の三田会、早稲田の稲門会、一橋の如水会などですが、そのなかに学士会もあったわけです。会の活動としては、年に一回、総会と懇親会を開くだけでした。恐らく他の校友会も同じなのでしょう。学士会の会員と言っても、日頃は、何のメリットもありません。人事異動への影響も、まったくありませんでした。ただ、懇親会では、平生、口も聞けないえらい人と接したり、仕事上では何の関係もない人たちと話すことができ、人を知る良い機会だったと思います。人を知っていることは、仕事上、役に立ちます。

学士会の会員の6~7割は、東大出身者でした。いっそ東大出身者で赤門会を作れば良いのではないかとも思いました。ところが、大先輩たちの話を聞くと、学士会には、それなりの設立経緯がありました。当社は、福沢諭吉門下生が創業した関係からか、今でも慶応出身者の多い会社です。戦前は、さらに多かったそうです。そこへ帝大出身者が入社すると、慶応にいじめられたものだそうです。帝大出身者は少なく、一校だけで集まっても、知れた数にしかならず、七帝大が集まって対抗することにしたのだそうです。戦後、出身大学の多様化が進みましたが、会だけは継承されてきたわけです。今となっては、馬鹿馬鹿しい話にも聞こえますが、当人たちにとっては切実な問題だったのでしょう。20年近く前、会社が合併した際、さすがに社内の学士会は解散となりました。

派閥が無いことは、会社にとって、いいことばかりとは言えないという説があります。”レファレント・パーソン”という言葉があります。最近では、コーチング用語として、尊敬する人ならどうするか、と考えることによって選択肢を広げるという意味で使われるようです。かつては、グループ内に影響力を及ぼす人といった意味で使われました。派閥を、人材育成システムとして見た場合、レファレント・パーソンが、終始一貫して、一人ひとりの育成にあたるという効用があります。派閥が無い場合には、全員がフラットに熾烈な競争を戦うことになります。それは、適者生存の法則に適っているとも言えますが、潜在的な才能を失うリスクも否定できないわけです。

数がものを言う政治の世界では、派閥の必要性が失せることはないようです。派閥の世界では、領袖と一部幹部の顔しか見えません。他の所属議員は、極端に言えば、頭数ということになります。しかし、お一人おひとりは、各選挙区民の代表として国政の場に来ているわけで、個々の意見や投票行動は、公にされ、かつ尊重されるべきだと思います。会社も同じです。一人ひとりが貴重な戦力であり、多様な個性が会社の発展につながります。派閥は、個性を埋没させる方向性を持ち、限られた人間以外の機会を奪う可能性もあります。機会の均等こそが民主的経営の大前提です。派閥のメリットは否定しないとしても、やはり弊害の方が大きいと言わざるを得ません。(写真出典:travel.rakuten.co.jp)

2022年2月5日土曜日

麒麟山

麒麟山
新潟県の阿賀野川に面する津川町は、大好きな町の一つです。現在は、合併して阿賀町津川となっています。江戸期までは、会津藩の川港として栄えました。会津からは米が、新潟からは塩が行き交った交通の要所です。日本屈指の水量を誇る阿賀野川は、津川から日本海までは広い川幅を持ち、ゆったりと流れています。ただ、阿賀川と呼ばれる会津から津川に至るまでは、難所も多い山間の川です。かつて会津盆地から津川までは馬を使っていましたが、江戸中期以降は船を使えるよう整備されました。津川の名勝である麒麟山は、阿賀野川に面した標高191mの小山です。形状が、中国の想像上の動物”麒麟”に似ていることから名付けられ、険しい山頂には出城が築かれていた時期もあるようです。

麒麟山は、昔から、狐火が多く見られることでも有名だったようです。世界一多く狐火が発生する場所とも言われるそうですが、根拠ははっきりしません。狐火は、火の気のないところに、提灯のような火が一列になって現れる現象です。日本では、人をばかすとされる狐に結びつけられてきました。有名なところでは、王子の狐火があります。関八州の狐たちが、大晦日、官位を授けてもらうために王子稲荷神社に集まるとされていました。狐火は、世界中で見られますが、いまだに科学的な解明がなされていない怪現象です。湿度の高い日に扇状地で多く見られることから、空気の屈折による現象というのが、最も有力な説です。

”狐の嫁入り”と言えば、天気雨のことですが、実は、狐火を指すこともあります。狐の嫁入り行列の提灯に見立てたわけです。津川では、麒麟山の狐火にちなんで、1990年から、毎年5月3日に「狐の嫁入り行列」というイベントを開催しています。行列は、夕方から夜にかけて、江戸の風情を残す津川の町を進み、結婚式と披露宴は、麒麟山で行われます。フィナーレは、新郎新婦を船に乗せて送り出すそうです。なかなかに幻想的なものだと聞きます。行列参加者は、皆、狐のメイクをします。また、5万人といわれる観光客も、希望者は狐のメイクをしてもらえます。町が狐だらけになるわけです。

私が、津川で最も気に入っているのが、狐の嫁入り屋敷と麒麟山温泉です。狐の嫁入り屋敷は、阿賀野川沿いに、昔の船問屋の屋敷を模して建てられたテーマ施設です。木造の建屋の1階には、狐の嫁入り行列関係の展示、食堂、土産物があります。2階には、大座敷と個室があり、3階の展望室からは、阿賀野川と常浪川の合流地点と麒麟山を見渡すことができます。はじめて狐の嫁入り屋敷を訪れ、2階の座敷を見た瞬間、私は、是非ともここで宴会をやりたいと思いました。90年代に建てられた施設ですが、妙に懐かしさを覚え、江戸期の津川の賑わいをイメージすることができました。ただ、座敷を借りることは出来るようですが、宴会が出来るかどうかは微妙です。

麒麟山温泉は、阿賀野川に面した小さな温泉地です。その歴史は江戸期以前にさかのぼるようです。かつては数軒の宿があったのですが、2011年の新潟・福島豪雨の際に被害を受け、2軒を残して、すべて廃業しました。露天風呂から眺める阿賀野川の悠然とした流れと風情あふれる麒麟山の姿は、まさに絶品です。特に雪景色は、山水画の世界を思わせます。露天風呂に浸かりながら、地元の名酒”麒麟山”をいただけば、仙境に遊ぶ、といった心持ちになり、漢詩の一つもひねりたくなります。(写真出典:yukoyuko.net)

2022年2月4日金曜日

夜警

アムステルダムには、トランジットで立ち寄ったことしかありません。ただ、巨大なスキポール空港で時間を潰し、次のフライトに乗るだけで良かったのですが、あえて1泊しました。目的は、街の観光もありますが、なんといってもアムステルダム国立美術館へ行くことです。オランダ絵画は、北方ルネサンスとも呼ばれるフランドル派から始まり、17世紀のオランダ黄金時代には、オランダ・バロックとして大輪の花を咲かせます。アムステルダム国立美術館は、その聖地とも言えます。フェルメール、ヤン・ステーン、ロイスダール、デ・ホーホ等々の名品が並びますが、なんと言っても、レンブラント・ファン・レインの「夜警」こそが最大の見所です。

アムステルダムは、実に興味深い街だと思います。もともとは遠浅の海であり、13世紀に堤防を築き、干拓したことで、はじめて村ができ、港となり、世界に冠たる国家にまで至るわけです。よくヴェネツイアと比較されます。千年の繁栄を誇ったヴェネツイアは、潟に浮かぶ小島から始まっています。対してアムステルダムは、まったくの海から始まっています。何から何まで人工的に作られた街は、中世にあっては未来都市だったとも言えます。進化を制約する旧体制が存在しなかったことが、アムステルダムの政治・経済・文化すべての発展につながります。欧州が古代ローマ辺境の地から勃興し、米国が植民地から世界最強国になったのと同じ原理です。そのアムステルダムが、黄金期に生み出した天才がレンブラントです。

レンブラントは、光の魔術師とも呼ばれます。同じくオランダ・バロックを代表するフェルメールが、光と人物そのものを描いたのに対して、レンブラントは、光そのものではなく、濃い陰影を用いることで、人物の心情、物語の奥深さを表現したと言えます。それは、集団肖像画、宗教画であっても同じであり、ゆえにドラマチックな作風と言われるわけです。”夜警”こと「フランス・バニング・コック隊長の市警団」は、構図、人物描写、すべてが緻密に計算され、描き込まれてますが、最大の魅力は陰影が生み出す信じがたい程の奥行きだと思っています。それは、単に遠景を描いたという奥行きではなく、空間のリアルさゆえに生み出されています。人間が、絵画を使って生み出した空間としては、最高到達点の一つなのではないかとさえ思います。いつまでも、いつまでも、見ていたくなる傑作です。

レンブラントは、浪費家だったと言われます。自身は風車を使った製粉業者の子供ですが、裕福な家の娘と結婚したことで、豪華なアトリエを建設し、手当たり次第に美術工芸品や異国の民芸品を収集したと言います。妻が亡くなり、依頼人の意向を無視した肖像画は注文を減らし、英蘭戦争による不況も追い打ちをかけ、レンブラントは困窮します。それでも美術工芸品の収集は止めなかったと言われます。まさに浪費なのでしょうが、レンブラントの独特な技巧、画布・画材へのこだわり、あるいはエッチングの技術などを考えれば、単なる収集ではなく、新しい技巧を発想するための研究材料だったようにも思えます。ちなみに、コレクションのなかには日本の甲冑も含まれていたようですし、画布には日本の和紙も使ったようです。そういった点も含め、レンブラントは、まさにオランダ黄金時代の申し子だったと言えるかも知れません。

雲間から放射状に差し込む太陽の光は神々しいものです。絵画に描かれれば、実にドラマチックな効果を生み出します。何度も試して分かったことですが、この現象の名称をまともに答えられる日本人は、ほぼいません。日本語では”薄明光線”と言うのですが、あまり一般的ではありません。アメリカ人に聞くと、”Angel's Ladder(天使のはしご)”と、即座に答えが返ってきます。それは宗教画の影響なのだろうと思います。薄明光線は、よくレンブラントの絵に描かれていることから、”レンブラント光線”とも呼ばれます。個人的には、薄明光線よりも、レンブラント光線の方がしっくりくるように思います。この言葉が、広まり、定着するといいな、と思っています。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2022年2月3日木曜日

同業者街

合羽橋
邱永漢は、摩訶不思議な人でした。台南出身で東大卒の実業家、作家、評論家、経営コンサルタント、そして美食家としても知られました。 直木賞も受賞し、ビジネス・ホテルの元祖としても有名です。金融、経営に関する実用書を中心に、その著作は膨大な数に上ります。邱永漢が、こんなことを言っていました。日本人はバカだ。映画館が一軒できると、その周囲に映画館を多く作る。台湾人は、映画館ができれば、その周りに、飲食店、土産物屋、雑貨店等を開き、町としての賑わいをつくる。なるほど、目のつけどころが違うな、と感心したものです。

とは言え、世界中の大きな街には、必ず同業者街が存在するものです。台北も例外ではありません。有名なところでは、迪化街(ディーホアジエ)があります。漢方と乾物の問屋街であり、台北で最も古い商店街と言われます。東京なら、電気街の秋葉原、厨房用品の合羽橋、人形の浅草橋はじめ多くの同業者街があり、あるいは、茅場町や馬喰町など、かつて存在し、地名に残る同業者街も少なくありません。また、日本各地には、寺町、鍛治町、紺屋町など、同業者街に由来する地名が残っています。映画館街とは異なり、同業者街なら、邱永漢も否定しなかったのではないかと思います。それにしても、なぜ同業者街は出来たのでしょうか。

ライバルがいない方が、商売にとっては良さそうなものです。商圏が小さければ、そのとおりでしょうが、大きな商圏を持つ都市では、特化した町の方が、競合以上に集客という面で有利だったのでしょう。また、小売業よりも、業者を顧客とする問屋の方が、同業者街には適しています。そもそもは、中世に、世界中で発生したギルドや座といった商工業者の団体に起源があるのでしょう。ないしは、その特徴の一部を受け継いでいるのでしょう。都市の発展とともに誕生したギルドや座は、発生経緯の違いはあるにしても、為政者と結びついて、特権を得ていたことが大きな特徴です。

ギルドや座は、経済の自由化とともに、消えていきました。特権が無くなったとは言え、同業者が団結することで、仕入値や販売価格の調整、商売上の相互扶助といったメリットは残ります。同業者街は、それらを実現しやすい形態だったと言えます。また、為政者にとっても、同業者街の存在は、管理のしやすさにつながります。同業者街は、立地条件から自然発生的に誕生したものもありますが、大名が城下町を建設する際、配置したものが多く存在します。なお、寺町などは、城の防御上の観点から配置される場合がほとんどです。寺は、兵を配置しやすく、建屋や塀は防御上有効です。面白いことに、寺町はあっても、神社町は存在しません。恐らく、神社は古代から続くものが多く、しかも立地とは切り離せない場合が大半を占めるからなのでしょう。

江戸期に存在した同業者街の多くは、既に失われていますが、戦後、新たに生まれた同業者街もあります。秋葉原の電気街が典型です。また、各地に闇市から発展した街もあります。これは、厳密には同業者街とは異なるかも知れません。ただ、御徒町のアメヤ横町などは同業者街と言ってもいいのでしょう。江戸期には、騎乗しない下級武士”御徒”が多く住んでいた町ですが、戦後、闇市のメッカとなります。アメ横の名前の由来は、戦後すぐ、砂糖が貴重だった時代に芋飴を売る店が多くあったら”飴屋横町”、あるいは進駐軍の払下や横流しの物資が多く売られていたことから”アメリカ横町”と呼ばれたという二つの説があります。(写真出典:seven-press.com)

2022年2月2日水曜日

梁盤秘抄#21 ZECA APRESENTA - O QUINTAL DO PAGODINHO

アルバム名:ZECA APRESENTA - O QUINTAL DO PAGODINHO(2012)                     アーティスト:ゼカ・パゴヂーニョ

ゼカ・パゴヂーニョは、ブラジルを代表するサンバのシンガー・ソングライターです。1959年、リオ・デ・ジャネイロの中産階級の街イライジャーに生まれています。母方は、ブラジルの初代大統領マヌエル・デオドロ・ダ・フォンセカにつながる家でした。幼少期から、サンバの名門チーム”ポルテーラ”に出入りし、早くからその才能は注目されていたようです。1983年にレコード・デビューし、自身の多くのアルバムだけではなく、ゲストとして多数のアルバムにも参加しています。独特な声とリズム感の強い歌声は、一度聞いたら忘れません。ゼカ・パゴヂーニョは、リオ・デ・ジャネイロ郊外の高級住宅街バーハ・デ・チジューカに、家族とともに住んでいます。

そのゼカ・パゴヂーニョの自宅の庭で録音されたのが、このアルバムです。ブラジルのサンバ界を代表する歌手や演奏者が、ガーデン・パーティに会して、各人の代表曲を演奏するという奇跡のライブ・アルバムです。アルバムのタイトルを直訳すれば「ゼカ・プレゼンツ”パゴヂーニョの裏庭”」となります。実にうまいネーミングです。また、アルバムのロゴもいいですね。このロゴは、ブラジルを代表するビール”ブラウマー”とタイアップしたもので、会場のミュージシャンたちも、このロゴのビールを飲んでいます。DVDを見ると、演奏者以外にも多くの人々が映っていますが、招待された文化人や著名人たちのようです。まさに裏庭でで、仲間たちが気軽に演奏している風情です。

ただ、リラックスしたムードのなかでも、演奏はとてもレベルの高いものになっています。さすがに一流のミュージシャンです。参加したミュージシャンを挙げれば、キリがないのですが、パウリーニョ・ダ・ヴィオラ、ベッチ・カルヴァーリョ、ウィルソン・ダス・ネヴィス、マルコス・ヴァーリ、またカエターノ・ヴェローゾの妹マリア・ベターニアといったサンバの歴史に登場するような大物が並びます。ただ、大ベテランだけでなく、若手も多く登場します。サンバ・ノヴァの旗手ホベルタ・サーやエリス・レジーナの娘マリア・ヒタも参加しています。言ってみれば、自宅の庭で、紅白歌合戦をやっちゃった、という感じです。

サンバは、実に幅の広い音楽なので、このアルバムがサンバのすべてをカバーしているわけではりません。ただ、ここ30年くらいのサンバのメイン・ストリームは、おおむね、ここで聞くことができるのではないでしょうか。曲も歌手も素晴らしいのですが、特に感心させられるのは、バック・バンドのレベルの高さです。庭でビール飲みながら、この見事な演奏です。どれだけ上手い人たちなんだろうと思ってしまいます。ゼカ・パゴヂーニョが率いる自身のバック・バンドではなく、当代一流のミュージシャンが集められているようです。音楽が一大産業というブラジルでは、ミュージシャンの数も半端ないわけです。そのなかの選りすぐりですから、間違いありません。

これだけのミュージシャンが一同に会するわけですから、ゼカ・パゴヂーニョが、いかに大物かが分かります。しかし、彼の影響力だけでは、実現できなかったはずです。日程や契約関係の調整実務は、気が遠くなるほど大変だったはずです。というか、企画段階で、真っ先にボツになるような代物です。ゼカ・パゴヂーニョの影響力、スタッフの努力に加えて、サンバを愛するサンビスタたちのハートがピッタリ合い、リオでしかあり得ない奇跡の一枚が生まれたわけです。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年2月1日火曜日

門割

島津氏家紋
子供のいる高齢者が、子供と別居している割合は、年々高まり、2019年には50%に達したそうです。この数字は全国平均であり、当然、核家族化が進んだ都市部ではもっと高いものと想定されます。 ところが、都道府県別に見ると、最も高い県は鹿児島県となっていました。鹿児島は、ダントツ、不動の別居率一位を続けており、一時期は70%を越えていたようです。他県に増して、封建的な印象のある薩摩ゆえ、実に意外なデータです。その背景には、江戸期に確立した薩摩藩独自の「門割制度」なるものがありました。

日本の相続制度は、平安の頃までは嫡子相続が基本であり、嫡男以外は家を出されたものだそうです。鎌倉時代になると、能力のある者が惣領として家督を継ぎ、他の者には、分割された財産が渡されるようになります。家督とは、財産も含めた家のすべてを仕切る権利です。ただ、財産の細分化が進み、不満が生まれます。室町時代になると、能力のある者が、家督のすべてを相続することになります。武士団の維持という観点からは有効でしたが、家督を巡るお家騒動を生み出すことになります。江戸期に入ると、幕府は封建的な管理社会徹底のために家父長制を強化していきます。嫡子による家督相続が確立、徹底されました。明治憲法は、それを踏襲、制度化しました。

ただ、江戸期を通じて、鎖藩とも言える孤立政策をとった薩摩藩においては、多少、事情が異なります。薩摩藩の家臣は、人口の4割弱に及びました。琉球も含めた薩摩藩の石高は77万石ですが、稲作には不向きな土地が多く、実質35万石と言われます。すべての臣下を城下に住ませて、養うことは無理でした。藩内113カ所に外城(とじょう)を設置し、家臣たちは半農半士の生活を送りながら、地方行政を担います。それが鎖藩政策の防衛面をも担っていたわけです。農地の管理は、門割(かどわり)という制度によって行われます。5~6軒の家で門というグループを構成し、土地は門に割り当てられます。門が担当する土地は、時に変えられます。いわば転勤のようなものです。土壌の良し悪しによる不公平感を解消し、生産性を上げるためとされます。門割制度は、農民化した家臣と土地の結びつきを薄めて、戦闘集団としての士気を保つねらいがあったのではないかと思います。

これは、典型的な封建制とは異なる、特異な仕組みだったと言えるのではないでしょうか。結果的に、薩摩では、家督相続と土地という関係も切り離されていたわけです。それが、現在の同居率の低さに影響しているのだと思われます。また、薩摩藩では、郷中(ごじゅう)教育も有名です。会津藩の”什”と同様、武家の少年たちの教育制度です。いずれにしても、薩摩藩は、平和な江戸期にあって、武力の維持向上を第一義としていたわけです。会津藩も似ていますが、会津の大義は、幕府の北辺の守りでした。では、薩摩の大義は何だったのでしょうか。一言で言えば、自主独立だったのでしょう。薩摩島津家は、鎌倉時代初期から、処替えもなく、この地を治めてきました。江戸期300藩のなかでは最古参であり、新興の徳川など下に見ていたのでしょう。江戸幕府の支配下に入ったものの、徳川家とは対等以上であり、対立する関係にあるという認識が強かったのだと思います。

それが、薩摩藩の幕末における佐幕から倒幕に至る一連の動きにもつながったのでしょう。藩主と近臣たちの佐幕から、下級武士たちの倒幕へと流れは変わるわけですが、これはまさに薩摩藩の制度的な人材育成の賜物だったとも言えます。加えれば、江戸期、海外に開かれた4拠点の一つが薩摩藩であったことも影響しているのでしょう。薩摩藩の尚武の構えに、風雲急を告げる東アジア情勢という風が吹き、幕末という化学反応が引き起こされたと言えます。(写真出典:bakumatsu.org)

夜行バス