喜光寺行基座像 |
行基は、668年、河内国の中国系帰化人の家庭に生まれます。15歳で出家し、難解な経典を読解するなど、早くから天才ぶりを発揮していたようです。その後、しばらくの間、山に入り、修行に明け暮れます。この時期に、呪術も会得していたようです。やがて、山を下り、各地を回って布教活動に入ります。当時の仏教は、国家と朝廷の安寧を祈るための宗教であり、朝廷が認定した僧侶が、一般大衆への布教を行うことなどあり得ませんでした。また、布教に際して、呪術を使ったこともとがめられ、行基は朝廷から弾圧されます。しかし、朝廷が真に恐れたのは、僧俗混合の行基集団だったのではないかと思います。
行基集団は、行基のもとに出家が100人弱、その下に在家が数千人、多い時には1万人に達したとも言われます。恐らく固定的なメンバーを中心に、布教先、あるいは普請先で、その都度、集まっていたのでしょう。宗教集団ではありますが、特徴的には、寺院や道場の普請、そして各種社会事業を行う集団でした。行基開山とされる寺院は、畿内中心ですが全国に山ほどあります。その全てが、行基集団による建立とは思いませんが、相当数の寺院を建てたことは間違いないのでしょう。また、当時、開墾した土地は、三世代に渡って私有が認められる三世一身法が施行されたことから、新田開発が進みました。行基集団は、開墾を支える潅漑、架橋等にも取り組んでいます。また、港湾整備にも実績を残しています。当然、それらは為政者サイドにも役に立つ事業であり、資金は郡司層が出していたようです。
行基にとって見れば、布教とは庶民の救済であり、社会事業も、その一環でしかなかったのでしょう。ただ、朝廷にとって、行基集団は、実に薄気味悪い集団だったはずです。とは言え、朝廷に刃向かうわけでもなく、法を犯しているわけでありません。新興宗教的ではありますが、後の新興宗教とは、全く性格が異なります。行基に対する朝廷の対応は、次第に緩んでいきます。そして聖武天皇の大仏建立という大事業を迎えるわけです。建設資金の寄付、いわゆる勧進は必要不可欠であり、行基の大衆への影響力が頼りになります。また、行基集団の建築土木に関する専門性の高さも活用しない手はありません。聖武天皇が大仏建立の責任者に行基を任命したのは、極めて現実的な判断だったわけです。
行基は、宗派も起こさず、著作の一つも残さず、ひたすら仏教による衆生救済に邁進した実践の人だったのでしょう。行基開山とされる多くの寺と土木事業の痕跡が残っているわけですが、行基と行基集団が残した最大の事業は、奈良の大仏だったのだと思います。また、聖武天皇は、大仏建立という決断もさることながら、その責任者に、貴族でも高僧でもなく、アウトサイダーに過ぎなかった行基をあてるという判断を行ったことこそ賞賛されるべきだと思います。(写真出典:kiburiji.com)