2022年9月30日金曜日

蘭州牛肉麺

一度食べて見たいと思っていた蘭州牛肉麺を、ようやく食べることができました。神保町の「馬子禄(マーズルー)牛肉面」 は、100年以上の歴史を持つという蘭州の名店から許可を得た日本第1号店として、2017年にオープンしています。馬子禄は、蘭州の牛肉麺店としては唯一、政府から認定された老舗ブランド「中華老字号」の称号を持つ店だそうです。神保町店は、通信販売業の会社が経営しています。北京留学中に、蘭州牛肉麺に惚れ込んだ社長が、馬子禄に頼み込んで開いたようです。昼時は、いつも大混雑なので、なかなか入れませんでした。数年前、東陽町に「重慶小麺」という店がオープンし、食べたらとても美味しかったので、なおのこと本場の蘭州牛肉麺が食べたいと思っていました。

店に入ったのは、夕刻6時半ころでしたが、店内は満席状態。見渡すと、インドネシアかマレー系のご家族2組、他は聞こえてくる言葉からして中国系の方々、という感じでした。入り口で、メニューや追加トッピングを選び、麺の種類を決めます。麺は、丸麺、平麺、三画麺の3種類が、さらに太さで細分化され、「毛細(極細)」から「粗蕎麦棱(太い三画麺)」までの9種類あります。麺は、注文が入ってから、伸ばして作られます。その様子は、ガラス越しに見ることができます。この打ち立ての麺が、もっちりして癖になりそうです。スープは、台湾名物の牛肉麺と同じくあっさりしていますが、大きな違いは、よりスパイシーであることです。とりわけ辛いわけではありません。香菜が効いた薬膳といった風情です。

異国情緒たっぷりの蘭州牛肉麺は、食べる海外旅行だな、と思いました。スライスした牛肉、大根、香菜、葉ニンニク、ラー油が乗っていました。薬膳と思ったからかも知れませんが、スッキリとした食後感、そして妙に元気が出たように思えました。水餃子も食べましたが、依然食べたモンゴル餃子同様、ウイキョウの葉が印象的な味でした。蘭州牛肉麺は、中国で、もっともポピュラーな麺料理だと言われます。広い中国では、全国一律で食べられている料理などほとんどなく、火鍋と蘭州牛肉麺くらいだとも聞きます。安価であることに加え、あっさりとクセがないことが全国的人気につながったのでしょう。中国全土では5万店の蘭州牛肉麺店が営業していると聞きます。

蘭州は、中国北西部甘粛省の省都です。甘粛省は、黄河の西、ゴビ砂漠の南に位置し、かつて河西回廊と呼ばれたシルクロードの要衝でした。現在は、中国最大の埋蔵量を誇る石油の生産地でもあります。また、西域とのつながりから、歴史的にイスラム教徒の回族が多いことで知られます。従って、蘭州牛肉麺は、豚ではなく、牛が使われ、かつ清真料理、つまりハラール認証された料理でもあります。それが、店内にマレー系のご家族がいた理由でもあります。ハラールは、イスラム法上、食べることが許されている食材や調理法を指します。都内のハラール認証店は、大分増えたようです。それでもイスラム教徒にとって、なんでも安心して注文できる店はまだ希少なのでしょう。

どうやら、神保町の馬子禄牛肉面の開店が、蘭州牛肉麺ブームを引き起こしたようです。店舗数は不明ですが、ネット上、ランキングが発表されているくらいですから、かなり存在すると思われます。東京は、中国の人たちが多く暮らしていますから、今まで店が無かったことが不思議なくらいなのでしょう。ちなみに、馬子禄牛肉面の”面”という字は、単純な間違いなのだろうと思いました。ところが、現代中国では、”麺”の簡体標記が”面”なのだそうです。少しややこしい気もします。(写真出典:4travel.jp)

2022年9月29日木曜日

年齢差別

NYで保険営業を行っていたおり、提携するアメリカの保険会社が、営業チームとアドミニストレーション・チームをアサインしてくれました。アドミ二・チームには、一人、70歳を超えたジョーというじいさんが含まれていました。ジョーは、一番の下っ端でしたが、経験があり、昔のことなら何でも知っていました。口数少なく、控えめな性格でしたが、誠実で信頼感抜群でした。親の遺産を相続したらしく、郊外の高級マンションに一人で暮らし、仕事には、大事に乗っているジャグァXJで颯爽と登場します。仕事をする必要など、まったくなかったのですが、この仕事が好きだから続けている、と言っていました。ジョーは、定年のない国を象徴しているかのようでした。

1987年、アメリカに赴任して、性差別と年齢差別に関する規制の厳しさに驚きました。性差別に関しては、日本でも、1972年の勤労婦人福祉法、1985年の男女雇用機会均等法が制定されていました。ただ、あくまでも努力義務に過ぎませんでした。1999年には、均等法が大幅に改正され、本格的に雇用に関する女性差別が規制されることになります。セクシャル・ハラスメントという言葉も一般化していきました。ところが、年齢差別に関しては、2007年に至り、ようよう雇用対策法が改正され、求人票に年齢制限を記載することだけが禁止されました。日本企業には、定年制はじめ、様々な年齢差別が存続し、実態として採用時の年齢制限も容認されてきました。

アメリカの年齢差別への対応は、1967年に制定された年齢差別禁止法 (ADEA)に始まります。採用における40歳以上への年齢差別が厳しく規制され、例外はあるものの、定年制も違法とされます。当時、中高年層の失業率が高止まりしていたことから、その対策としてADEAが制定されたようです。EUでは、2000年、年金財政問題等を背景に、一般雇用均等指令等が出され、各国が順次法制化しています。ただし、EU各国では、合理的な理由に基づく年齢制限などには寛容であり、産業界を圧迫しないような工夫もされています。アメリカでも、定年制は禁止ですが、公的年金の受給開始年齢に合わせるなどの対応は認められています。

誰が考えたのか、日本は、上手に年齢差別問題をスルーしてきたと言えます。日本の高度成長を支えた三種の神器と言われるのは、終身雇用、年功序列、企業内組合です。政財官界が一体となり、阿吽の呼吸で、日本株式会社のメイン・エンジンを守ってきたということなのでしょう。では、年齢差別規制を受けた欧米企業は、ダメージを被ったのでしょうか?そうではありません。なぜなら、欧米企業の多くは、終身雇用でも、年功序列でもなかったからです。雇用における年齢要素が少なかったからこそ、中途採用やジョブ型採用、選択定年制の併用など、年齢差別規制との調和が図りやすかったのでしょう。一方、年齢差別を温存した日本はどうなったのでしょうか。この30年間、物価が上がらず、賃金も上がらず、若者が将来に希望を持てない国になりました。

少子高齢化、グローバル化、低成長経済化、デジタル化といった現状からして、日本の伝統的雇用態勢の見直しは必至です。単に、女性の役職登用、定年延長といった対処療法的な対応に留まらず、終身雇用、年功序列といった慣行を捨てるべき時だと思います。一時的に混乱は生じるでしょうが、ここで変わらなければ、30年に渡る異常事態は、40年に及び、ガラパゴス化が進み、ついには日本全体が沈没していくことになりかねません。それは、日本の社会構造に関わる課題だった年齢差別問題を、上手にスルーしてきたことのつけだとも言えます。これは、まさに政治の問題です。対処療法に終始し、何も変えることができなかった政治家の責任は大きいと思います。加えて、それに警鐘を鳴らすこともなかったマスコミの責任、変化を恐れた経済界の責任も否定できません。(写真:米国労務省「高齢者雇用週間」出典:dol.gov)

2022年9月28日水曜日

BS&T

1969年は、世界的に、ジャズ・ファンが増えた年だと聞いたことがあります。私も、その年からジャズにのめり込みました。ジャズ喫茶に通い、マイルス・デイヴィスのレコードを買い、日野皓正のコンサートにでかけました。それまでは、ハード・ロック、ブルース・ロックばかり聴いていました。ジャズ一辺倒になった明確なきっかけがあったわけではなく、ごく自然に聞く音楽が変わっていったように思います。恐らく、ロックにも、ジャズにも、大きな変革のうねりが到来し、その波に乗っていったということなのでしょう。強いて、きっかけとなったものを探すとすれば、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ(BS&T)の登場ということになりそうです。

BS&Tは、1967年に、NYで結成されています。白人ブルース・ロック・バンドのはしりであったブルース・プロジェクトを脱退したアル・クーパーは、様々な音楽を融合させるという自らのアイデアを実現しようとBS&Tを結成します。トランペットには、ランディ・ブレッカーも参加していました。1st.アルバム発表後、アル・クーパーは脱退しますが、BS&Tは、強力なブラス・セクションとドラムを中心に、ロックとジャズが一体となった独自のサウンドを展開していきます。ブラス・ロックの誕生です。1969年に発表した2nd.アルバム「ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ」は、世界中で大ヒットし、グラミーの最優秀アルバムも獲得します。BS&Tは、ハードロック時代の異端児のように思えますが、実は時代の変化を象徴していたのだと思います。

1968年、ハードロックの立役者だったジミ・ヘンドリックスは「エレクトリック・レディ・ランド」をリリースし、行くところまで行った印象でした。エリック・クラプトンも、クリームを解散しています。そして、1969年8月、50万人とも言われる若者が殺到した「ウッドストック・フェスティバル」が開催されます。60年代の反戦運動、学生運動、ヒッピーといったカウンター・カルチャー最大のイベントとなりました。しかし、ウッドストックは、一つの時代の終わりを告げるイベントでもありました。3日間のコンサートの最後のステージに立ったのはジミヘンでした。大混乱のなか、フェスティバルに間に合わなかったジミヘンは、まばらになった観客を前に、極端にデフォルメしたアメリカ国歌を演奏します。実に象徴的だったと思います。

一方、ジャズ界も大きく揺れていました。1969年、マイルス・デイヴィスは「イン・ア・サイレント・ウェイ」をリリース、いわゆるエレクトリック・ジャズを本格的に開始しています。それは、単なる電子楽器の導入や8ビート、16ビート化ではなく、クロスオーバーというジャズの新しい展開の始まりでした。翌年、マイルスは「ビッチェズ・ブリュー」で、その世界を完成させ、フュージョンの時代を切り開きます。「イン・ア・サイレント・ウェイ」に参加したウェイン・ショーター、ハービー・ハンコック、チック・コリア、ジョー・ザヴィヌル、ジョン・マクラフリン 等が、新しいジャズを展開していきます。ジャズとロックの垣根は低くなり、同じステージに立つ機会も増えていきました。マイルスは、ジミヘンを高く評価し、セッションも行っています。

ジミヘンは楽譜が読めませんでした。マイルスが、ピアノで音を短く示すと、ジミヘンは、たちどころに全体を理解して、セッションが始まったという話が伝わります。BS&Tも、同じように、我々に音を示しただけなのかもしれないと思います。我々には、ブルース・ロックを通じて、ジャズの起源でもあるブルースの下地が、既に作られていました。あとは、BS&Tが、ブラスやドラムの持つパワーを示してくれるだけで良かったのでしょう。1969年は、潮目が変わった年であり、BS&Tが肩を押すことで、世界中に新たなジャズ・ファンが生まれた年だったというわけです。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年9月27日火曜日

ハンブルグ・ステーキ

ハンバーグの起源は、タルタル・ステーキだと言われます。13世紀、西進を続けるモンゴル軍は、ウィーンにまで迫ります。モンゴル軍は、食料に窮すると、老いた馬を食べていたようです。ただ、硬くて、筋張り、食べにくかったため、細かく切り刻み、香辛料を混ぜて、生のまま食べたとされます。これがタルタル・ステーキです。タタールは、モンゴル高原西方に展開するテュルク系やツングース系等の遊牧民の総称だったようです。モンゴル支配のもと、欧州遠征にも従軍しています。侵略を受けた欧州では、モンゴル軍をタタール軍と呼んでいたようです。タルタルのステーキとよばれた所以です。

勇猛さと残忍さで知られたモンゴル軍ですから、タルタル・ステーキも、野蛮な食べ物と認識されていたのでしょう。ただ、挽肉料理として欧州には広がったようです。18世紀頃、ハンブルグ、あるいはスカンジナビアで、挽肉にパン粉を入れて丸め、フライパンで焼く料理が誕生します。これはフリカデレと呼ばれ、低所得者層に人気となり、欧州中に広がります。ハンブルグ発祥とされたことから、ハンブルグ風ソーセージと呼ばれることになります。ハンバーグというよりはミートボールだと思いますが、ヨーロッパ北部の国々、特にスカンジナビアでは、今も定番中の定番料理となっています。

1848年、ドイツでは三月革命が起こります。ナポレオンが敗れた後の欧州では、復古的なウィーン体制が敷かれます。これに対して、産業革命が生んだプロレリアートの不満、民族主義の台頭を背景に、各地で革命が起こります。結果的には、反革命の動きによって革命は弾圧され、自由主義者たちは、ドイツを離れ、新天地アメリカを目指します。ドイツ移民たちは、アメリカにフリカデレを伝え、ハンバーグ・ステーキと呼ばれるようになります。タルタル・ステーキは、実に600年をかけ、地球を半周してアメリカに着き、ハンバーグと呼ばれることになったわけです。そして、20世紀に至り、ハンバーグをパンではさんだハンバーガーが登場します。

ハンバーガーの始まりに関しては、諸説あってはっきりしません。パンにはさめば、何でも食べるアメリカ人ですから、同時発生的だったのでしょう。ただ、1904年のセントルイス万博の会場で、ハンバーガーが売られていたという記録があります。最初のハンバーガー・チェーン店は、1921年、カンザス州ウィチタで創業した”ホワイト・キャッスル”です。中西部を中心に、現在も営業しています。ホワイト・キャッスルのハンバーガーは、スライダーと呼ばれる、小ぶりで四角いスタイルです。最も成功したハンバーガー・ショップと言えば、もちろん、1940年、カリフォルニアに創業したマクドナルド兄弟の店ということになります。

私が、マックで最も好きなメニューは、ソーセージ・エッグ・マフィンです。ハンバーガーには、さほど興味がありません。ハンバーグは好きです。特に粗挽きのハンバーグが好みです。最も好きだったのは、札幌”もうもう亭”のハンバーグでした。形を保つのも難しいほどの超粗挽き、つなぎなしというハンバーグでした。もうもう亭は、ホクレンの直営店でしたが、大分前に閉じています。 粗挽きハンバーグは、タルタル・ステーキの原型に熱を加えたような印象があります。タルタル・ステーキも好物です。タルタルの魅力は絶妙なスパイスの配合にあると思いますが、最近は、肉質に自信があるせいか、スパイスの効きが弱くなる傾向にあります。(写真出典:leon.jp)

2022年9月26日月曜日

薙刀

薙刀は、女性用の武術といった印象があります。しかし、もともとそうだったわけではありません。合戦を描いた絵巻物において薙刀は主役級であり、あるいは弁慶はじめ僧兵たちも薙刀を携えている印象があります。事実、平安から鎌倉期あたりまで、薙刀は、戦場における主な武器だったようです。相手との距離を確保しつつ、斬る、突く、打つことができるわけですから、馬上戦でも、徒歩戦でも威力を発揮する優れた武器だったと言えます。弱点としては、木製の柄が折れるリスク、あるいは相手が懐に飛び込んだ場合、対応できないということが挙げられます。薙刀が主役の座から陥落するのは、1467年の応仁の乱以降です。応仁の乱がもたらした戦場の変化が大きな要因です。

応仁の乱は、足軽の位置づけを高めました。平安時代から武士の補助役として存在していた足軽は、騎馬武者中心の戦場では出番がありませんでした。ところが、応仁の乱における京都市中での戦いでは、騎馬武者よりも、機動性に優れた足軽による奇襲が有効でした。下剋上という風潮も追い風となり、足軽は、その存在感を高め、戦場は足軽による白兵戦の時代へと突入します。いわば個人戦が集団戦に変わったわけです。徒歩での接近戦となると、薙刀が持つ優位性は失われます。代って主役となったのは、槍と刀でした。まずは槍で突き、叩き、そして接近戦を太刀で戦います。古代ローマ軍も、長い槍と短い剣を持った重装歩兵が、密集隊形を組んで戦いました。槍と刀は、白兵戦の基本だということです。

もちろん、そこで薙刀が消えたわけではなかったようですが、明らかに減っていったわけです。戦国時代後期になると、「薙刀直し」という打刀が登場してきます。薙刀の切っ先を落とし、茎を詰め、刀剣にしたものです。戦いを生き抜いてきた薙刀には、品質に優れたものが多く、「薙刀直しに鈍刀なし」とも言われたそうです。薙刀の刀身の短さから、脇差や短剣が多かったようですが、なかには長刀もあり、名品も少なくないようです。江戸期になると、実戦は無くなり、鍛錬としての武芸が盛んになります。薙刀も、剣術や槍術とともに流派が生まれ、武芸の一角を占めたようです。この頃、武家の女子に薙刀術が推奨されはじめたとされます。

江戸初期、幕府による銃刀所持規制は緩かったようです。ところが、江戸の町人の間で、帯刀が風俗化し、武士との区分けがつきにくくなったため、幕府は、1668年、町人による長刀の帯刀を禁じています。その後も、幾度かに渡り、禁令が出されたようです。いずれにしても、江戸期の身分制度上、苗字帯刀は、武士階級の特権とされました。ただ、女性も町人も護身のための短刀所持は許されていたようです。そして、武家の女子については、いざという時に家を守るために、薙刀の稽古が推奨されました。それに伴い、薙刀も小型化されていったようです。薙刀は、武家の嫁入り道具のひとつにもなっていました。明治になると、女性の薙刀術は、競技武道として広まります。つまり、女性の薙刀は、江戸幕府の身分制度が生んだものだったわけです。

余談になりますが、江戸期、「別式」と呼ばれる女性たちが存在しました。別式とは、各藩に召し抱えられていた武芸に秀でた女性たちのことです。奥と呼ばれる女性用の居住区画の警護、女性が外出する際の護衛を担い、武家の女性たちに薙刀等の稽古をつけてもいたようです。巴御前の昔から、武芸に優れた女性は、常に存在したということなのでしょう。ちなみに、薙刀には「巴型」と「静型」があります。刀身の幅が広く反りの大きい者が「巴型」、逆に幅が細く反りが少ないものが「静型」とされます。巴御前と静御前が愛用した薙刀に由来するものではなく、イメージから付けられた呼称のようです。(写真出典:the-ans.jp)

2022年9月25日日曜日

「デリシュ」

監督:エリック・ベナール       2021年フランス

☆☆☆+

食と革命、フランス人の血であり肉であるこの二つを融合させた大人のおとぎ話です。とてもよくできた脚本であり、絵のように美しい映像であり、よくこなれた演出であり、実に達者な演技だと思います。この映画を見たフランス人たちは、拍手喝采したと思います。ラストシーンで、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」が流れなかったことが不思議なくらいです。こういう佳作は、映画界の宝です。大事にしたいものです。ただ、本作を、実話のごとく紹介するパブリシティは、気になります。主人公マンスロンは、フランス革命前の料理人たちを象徴する架空の人物です。

大雑把に言えば、フランス革命以前の料理人とは、宮廷やお屋敷で、貴族のために料理を作る人たちのことでした。革命で貴族が没落すると、職を失った料理人たちが、街にレストランを開き始めたわけです。粗末な食事を提供する旅籠や居酒屋は、昔から存在しました。レストランは、着席して、給仕を受け、メニューから料理を選ぶスタイルです。レストランという言葉は、回復というフランス語に由来します。疲労回復に効果のあるスープ等を指した言葉だったようです。18世紀中葉には、パン屋が、スープや卵料理等、回復効果の高い料理の提供を始めていたようです。フランス最初のレストランは、1782年、貴族のお抱え料理人だったアントワーヌ・ボーヴィリエが、パリに開いた「Grand Taverne de Londres」とされます。

本作では、そのあたりの歴史が、うまく織り込まれていると思います。なお、映画では、主人公たちが、コース料理を発案したことになっています。実際のところ、宮廷風の大皿料理からコース料理への展開は、アントン・カレームの弟子たちが、ロシア料理にヒントを得て発案し、オーギュスト・エスコフィエによって完成されたとされます。ただ、いずれも19世紀になってからのことです。このあたりも、上手に取り込んでいるわけです。映画に登場するレシピや調理法は、専門家の監修のもと、18世紀の実態に近いものが再現されているようです。タイトルにもなっている「デリシュ」は、美味しいという意味ですが、主人公が考案した料理の名前でもあります。これも、映画のために、専門家たちが開発したレシピのようです。

じゃがいもとトリュフを使った創作料理「デリシュ」を、貴族の正餐に出した主人公は、聖職者からこき下ろされ、貴族たちもこれに同調します。これがプロットのキーになっています。当時、教会は、天国に近い、つまり空中高く生育した食物を良しとし、地中から採れた作物を否定していました。まさに貴族と庶民の関係そのものです。「デリシュ」は、旧体制の硬直性を表わす、実にうまい仕掛けだと思います。主人である伯爵は、地中作物を料理に使ったことを怒り、主人公に謝罪を求めます。ただ、彼は、決して謝ることはなく、解雇されます。これも、また革命そのもののメタファーです。他にも、当時は存在しなかった女性料理人、決して庶民と食卓を同じくしなかった貴族等々、本作には、革命モティーフが多く散りばめられています。

映画のラストには、3年後、バスティーユが陥落した、という字幕が流れます。食を題材としながらも、徹底的に革命モティーフにこだわった脚本が、この映画の成功の要因だと思います。ある意味、勧善懲悪ものと同様のカタルシスを与えてくれます。ちなみに、革命を意味するレボリューションも、回転というフランス語を起源とします。日本は、革命を経験していない希な国だと言われます。明治維新も武家社会における政変と捉えるべきなのでしょう。ただ、明治維新は、市民革命に近い効果を生み出したとも言えます。フランス革命とは異なりますが、明治維新も食に革命をもたらしました。食を通じて革命を語ることは、誠に正しいアプローチだと言えます。(写真出典:filmarks.com)

2022年9月24日土曜日

おしゃべりなラジオ

2000年に、新商品を大々的にプロモートするためのメディア・ミックス計画を練っていたおり、代理店からラジオの活用を提案されました。意外な印象を受けました。TVで育った私たちからすれば、ラジオのリスナーは、さほど多いように思えなかったからです。ところが、地方では、依然、大きな影響力を持つと聞かされました。地方は、完全な車社会です。農作業に、通勤に、一家に一台ではなく、一人一台が必須という世界です。そして、車中では、ラジオがよく聞かれているというわけです。私が、車で聞くとすれば、好きな音楽であり、かつてはカセット・テープからCD、最近はBluetoothでスマホやミュージック・プレイヤーから飛ばします。それが当たり前と思っていました。

日本のラジオに関して、不思議だと思っていることがあります。音楽よりも、しゃべり中心の番組が多いことです。決してラジオに詳しいわけではありませんので、音楽番組も、あるいは音楽専門局も、結構、あるのかも知れません。ただ、音楽だけを流し続ける無数の局があるアメリカと比較すると、日本は、圧倒的にしゃべり中心のラジオ文化だと思えます。なぜ、そうなのか、ネットで調べてみると、諸説あるようですが、どうも定説はないようです。最も肝心なのは、日本のリスナーが、しゃべり中心の番組を求めているのか、ということです。ネットで調べると、2006年に、「放送研究と調査」という専門誌が行ったアンケート調査を見つけました。

リスナーが求めている番組の1位は「音楽中心の番組」の65%、2位は「ニュース・天気予報」の64%。この二つが群を抜いており、次いで「交通情報」の35%、「おしゃべり中心の番組」は32%で4位に過ぎませんでした。リスナーが音楽と情報を求めているにも関わらず、おしゃべり番組が多いということは、放送局側に何らかの事情があるということになります。局側の事情として、まずは楽曲使用料があげられます。JASRAC(日本音楽著作権協会)の規定によれば、基本的な算式は、1曲放送する毎にいくらと金額が決まっているようです。つまり、音楽を流さないことがコストダウンにつながるわけです。ただし、予算総額や効果との関係もあり、これがおしゃべり番組が多い理由の全てではないのでしょう。

もっと大きな要因は、日本の放送・電波規制にあるのではないかと思います。日本には商業ラジオ局が100、いわゆるコミュニティFMが300あるようです。対してアメリカでは、商業ラジオ局が7,000、非商業FM局が4,000以上もあると言われています。アメリカでは、ごく限られた、あるいはマニアックなターゲットに向けた、ごくごく細分化された番組編成が可能なわけです。数が限られる日本のラジオ局は、老若男女、全てのリスナーを想定した番組を流さざるを得ません。音楽に関しては、好みが大いに分かれるところです。日本のラジオ局にとって、音楽は、結構、扱いにくい番組なのでしょう。ということは、当然、スポンサーを探すことも難しく、放送局の営業面でも扱いにくい番組ということになります。

FM放送は、1970年代に本格化しました。FMは、音楽に適した電波であり、音楽番組が増えるものと期待しましたが、結局、おしゃべり中心になっていきました。おしゃべりなFM放送など、意味がないと思いました。そんなわけで、車を運転中にラジオを聞くことは希になり、聞くとしても米軍のFEN(極東放送網)ばかりでした。FENは、1997年からはAFN(アメリカ軍放送網)に代わりましたが、アメリカの匂いがすること、そして音楽中心であることが、お気に入りポイントです。ただ、どうしても音質が悪いので、たまに聞く程度ではあります。日本の放送・電波規制には、様々な議論があります。災害放送という役割が、規制強化につながっている面もあります。また、一方では、厳しい規制が、放送局を守ってきた面も否定できないはずです。ネットの時代、地上波TVも含め、根本から見直す必要がありそうです。(写真出典:pmall.gpoint.co.jp)

2022年9月23日金曜日

「最後にして最初の人類」

監督:ヨハン・ヨハンセン      2020年アイスランド

☆☆☆☆

ヨハン・ヨハンソンは、ポスト・クラシカルを代表する作曲家・パフォーマーとして知られます。ポスト・クラシカルは、クラシックとエレクトロニカを融合し、より自由な表現を求める音楽です。ヨハンソンの音楽は、映画音楽やアート系パフォーマンスで使われています。ホーキング博士夫妻を描いた「博士と彼女のセオリー」(2014)の音楽で、ゴールデングローブ賞も獲得しています。私の印象に残っているのは、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の「メッセージ」(2016)の音楽です。本作は、そのヨハンセンが、製作、監督、音楽を担当したSF映画です。ヨハンセンは、2018年に亡くなり、本作は、彼の死後にリリースされました。ヨハンセンにとって、”最後にして最初の映画”となったわけです。

本作は、16ミリ・カメラで撮影された、ほぼ白黒の映画です。人間は、一切登場せず、前衛的なモニュメントの映像、ヨハンセンのリリカルでドラマティックな音楽、そして英国の個性派女優ティルダ・スウィントンのモノローグだけで構成されます。撮影されたモニュメントは、旧ユーゴスラビアがチトー時代に多く制作したというスポメニックと呼ばれる記念碑群です。戦争記念碑でもあり、思想を象徴するモニュメントでもあるようです。全体主義国家は、モニュメントを作りたがる傾向があります。スポメニックは、前衛的な造形物ですが、SF的でもあり、古代の造形物のようでもあります。制作意図も含めて、実に奇妙な代物です。ユーゴスラビア崩壊とともに破壊されたものの、今も、多くが山中に点在しているようです。

原作は、オラフ・ステープルドンが、1930年に発表した同名小説です。ステープルドンは、英国の小説家、哲学者です。その哲学的で壮大なSF作品は、後のSF作家たちに多大な影響を与えたとされます。純文学の世界からも高く評価され、物理学者、経済学者、政治家までも影響を受けたとされます。ステープルドンは、哲学系SFを創造した伝説的作家と言えるのでしょう。「最後にして最初の人類」は、20億年後、太陽の変異によって滅びゆく最後の人類が、彼らのコミュニケーション手段であるテレパシーを使って、現代人に話しかけるというプロットになっています。星は生まれ、滅びる、人類は、その間の一瞬に存在するだけである、というモノローグが印象的であり、そのテーマは今日的とも言えます。

映像と音楽だけなら、映像詩となりますが、本作は、ティルダ・スウィントンのモノローグによってドラマ性を持ちます。映画におけるドラマは、俳優が、ストーリーや感情を表現することによって成立します。本作には、可視化されたドラマは存在しませんが、観客の頭のなかでドラマが展開するという仕組みだといえるのでしょう。そういう意味では、観客の想像力を映画の構成要素に組み込んだ作品というべきなのでしょう。途切れ途切れのモノローグ、極めてゆっくりズーム、パンするだけの映像は、観客に頭の中でドラマを構成させるための工夫なのかも知れません。作曲家が撮った映画だけに、映像と音楽の融合などと安易に言われそうですが、実は、全く新しい映像表現だと思います。ヨハンセンは、ポスト・クラシカルで音楽を解放し、いわば”ポスト・シネマ”で映画の世界を解放したと言えそうです。

ヨハン・ヨハンソンは、アイスランドの人です。実は、ポスト・クラシカルが発祥し、その中心地となっているのがアイスランドです。人口わずか34万の火と氷の島から、新しい音楽が生まれたことは、実に興味深いと思います。気候や風土が影響したとは思えません。恐らく、多様性を受容できないほど狭い社会だからこそ、逆にクラシックとエレクトロニカの融合を生み出したのではないでしょうか。ポスト・クラシカルが、実に映画的なパースペクティブを持つ音楽ゆえ、映画界は、しばらくポスト・クラシカルを多用していくことになるのだろうと思います。(写真出典:filmarks.com)

2022年9月22日木曜日

梁盤秘抄#27 Shaft

アルバム名:Shaft(1971)                                                                           アーティスト:Isaac Hayes 

1971年に公開れたゴードン・パークス監督の「黒いジャガー(Shaft)」は、黒人のスタイリッシュな私立探偵ジョン・シャフトが活躍するアクション映画でした。シャフトは、単なる大ヒット・アクション映画というに留まらず、ブラック・パワーの時代を象徴する映画でもありました。監督はじめ、スタッフの全てが黒人という映画の代表作でもあります。音楽を担当したのは、スタックス・レーベルの大物アイザック・ヘイズであり、このアルバムは、そのサウンド・トラックです。主題歌の「Theme from Shaft」は、世界的にヒットし、アカデミー歌曲賞を獲得しています。

アイザック・ヘイズは、1942年、テネシー州コンヴィトンに生まれています。幼少期から、自己流で各種楽器をこなしていたようです。1960年代中頃から、ナッシュヴィルのスタックス・レコードのスタジオ・ミュージシャンになります。スティーブ・クロッパーやドナルド・ダック・ダンなどと共に、オーティス・レディング等のレコーディングに参加するとともに、作曲も行っています。この頃、サム&デイブに提供した「Soul Man」や「Hold on I'm Comin」は、R&Bを代表する大ヒット曲となりました。また、ブッカー・T&ザ・MG'sやカーラ・トーマスをプロデュースしたことでも知られます。

1969年には、自身の名義で「Hot Buttered Soul」を発表します。バーケイズとオーケストラをバックに長尺の曲を並べています。当時としては、かなり画期的なアルバムであり、後のネオ・ソウルへの道を開いたとも言えます。このアルバムがなければ、マーヴィン・ゲイの「What's Going On」は生まれていなかったかも知れません。Hot Buttered Soulで示した世界を、さらにポップに展開してみせたのがシャフトだったと思います。映画「シャフト」が、映画のなかの黒人の立ち位置を変えたのと同様、アイザック・ヘイズの「シャフトのテーマ」は、R&Bをネオ・ソウルへと解放したとも言えるのではないでしょうか。

アルバムからは、「Theme from Shaft」と「Do Your Thing」がシングル・カットされています。ただ、忘れてはいけない名曲が「Cafe Regio's」です。アイザック・ヘイズのジャンルを超えた才能があふれた名曲です。オクターブ奏法で弾くギターをメインとするインストゥルメンタル曲です。ピアノとブラスが、良い感じでからみます。NYのグリニッチ・ヴィレッジには、1927年、NY初めてのコーヒーショップとして開店した”Caffe Reggio”があります。初めてアメリカにカプチーノを紹介した店としても知られます。とにかく大好きな店でした。10年ほど前にも行きましたが、何一つ変わっていませんでした。映画シャフトにも登場していますが、スペルは若干変えられています。

サザン・ソウルを牽引したスタックス・レコードは、1975年、残念ながら倒産しています。その後、アイザック・ヘイズは、音楽分野だけでなく、俳優としても活躍しました。ジョン・カーペンター監督の傑作「ニューヨーク1997」(1981)での演技が印象に残ります。ソウル界の大物として存在感を示し続けたアイザック・ヘイズでしたが、2008年、メンフィスの自宅で、エクササイズ中に脳梗塞を発症し、亡くなりました。享年65歳。やや早すぎる死だったように思います。ネオ・ソウルは、マーヴィン・ゲイはじめビッグネームが登場したものの、しばらくマイナーな存在であり続けました。ただ、ここのところ、結構な盛り上りを見せています。最近のネオ・ソウルを、アイザック・ヘイズにも聞かせたかったな、と思っています。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年9月21日水曜日

庄川の鮎
15年ぶりに、庄川の鮎を食べてきました。 鮎と言えば初夏ということになりますが、秋口の鮎は、子持ちの季節であり、これまた美味しくいただけます。庄川は、飛騨山地の烏帽子岳を水源とし、合掌造りで有名な白川郷や五箇山を通り、庄川峡を抜けて砺波平野に入ります。庄川峡を抜けたあたりに、鮎の専門店が数軒あります。庄川の鮎の最大の特徴は、小ぶりであることです。水温の低さや流れの速さの影響で、他の川の鮎より小型になるのだそうです。小ぶりであることのメリットは、頭からガブリと食べられることです。串刺しにして囲炉裏で塩焼きにした鮎は、丸ごと食べることで、その独特の甘さや苦味、さらには炭火の香ばしさも含め、余すことなく堪能することができます。

対して大ぶりでプリプリした鮎の代表は、魚野川の鮎ではないかと思います。清流として知られる魚野川は、谷川岳を水源に、新潟県魚沼を流れ、長岡で信濃川に合流します。上質で豊富な水が、魚沼産コシヒカリ、あるいは八海山はじめ名酒を生んでいます。当然、鮎も有名で、魚野川にはいくつかの”やな場”があります。梁(やな)漁は、川の中に、竹や木材で作ったすのこ状の台を設置し、上流から泳いできた魚を捕獲する漁法です。傾きを持たせたすのこの上流側は水中にあり、下流側は水面の上にあります。つまり、上流から泳いできた鮎は、気が付くとすのこの上に打ち上げられているわけです。その鮎を、その場で食べさせてくれるのが、やな場です。

最も一般的な鮎の塩焼きは、鮎が波打つように串を打ちます。鮎が体をくねらせ、泳いでいるような風情を出すためなのでしょう。魚野川の鮎は、大きくプリプリしているので、口からまっすぐ串を通すしかありません。鮎の塩焼きの上品な食べ方といえば、背中や側面を箸でまんべんなく押し、尾びれを取り、頭の周りに切れ込みを入れ、頭ごと骨を抜き取ります。魚野川の鮎は、そんな上品なことをせず、側面からかぶりつくのがお薦めです。京都愛宕山の平野屋の鮎は天下一品です。さすがに、平野屋では、骨を抜き取る上品な食べ方をします。ただ、庄川や魚野川の鮎のようにかぶりつくスタイルの方が、野趣にあふれ、美味しいように思えます。

鮎の塩焼きには蓼酢が添えられます。味としては、塩だけで十分だとも思いますが、濃い緑色と香り、若干の辛味が初夏を感じさせ、なかなか良いものです。いつも不思議に思うのですが、蓼酢は、ほぼ鮎の塩焼き専用のようであり、他の料理に添えられているのを見たことがありません。紅蓼は、上品な料理屋で、刺身のツマとして出てきます。辛味がありますが、刺身の薬味としては、やはりワサビがメインであり、紅蓼は彩りを添えている程度のように思えます。薬味としては、穂しその方が使い出があります。蓼食う虫も好き好き、という言葉がありますが、これは苦い蓼を好む蓼虫のことであり、好みはそれぞれ違うという意味です。蓼は、なかなか不思議な食材だと思います。

鮎という漢字も、実に不思議です。よく聞くのは、神功皇后が鮎を釣って戦いの勝敗を占ったことから、魚偏に占うと書くようになったという話です。鮎で、どう占ったのか、その方法がよく分かりません。更に言えば、鮎という漢字は、中国でナマズを指し、古代日本も同じくナマズのことだったと聞きます。アユという呼称は、産卵期に川を下ることからアユル(落ちる)、あるいは神に捧げるアエ(饗)からきていると言われます。問題は、アユという呼称と、ナマズを意味する鮎という漢字の結びつきです。これが、どうにもよく分かりません。(写真出典:city.tonami.lg.jp)

2022年9月20日火曜日

流浪の民

カルメン・アマヤ
かつて、日本には「サンカ(山窩)」と呼ばれる流浪の民が存在しました。山から山へと移動し、小屋や天幕で暮らしたようです。蓑などを作り、里の人たちに売っていたとも言われます。フィクションまがいの書籍、小説などは存在するものの、その歴史も実態も、必ずしも十分には解明されていないようです。明治期以降、定住化、戸籍への組み込みが進み、昭和30年ころには、ほぼ消滅したようです。その起源については、戦国時代に土地を追われた流民説、天明の飢饉で生じた流民説、果ては縄文人の生き残り説などまであるようです。ただ、サンカが書き残した記録がないことから、実態は謎のままになっています。

西欧で2大流民と言われるのは、最も歴史の古い流民であるユダヤ人、そして現代でも流浪を続けるロマです。基本的に、ロマの人々は、馬車で移動しながら、鍛冶屋、旅芸人、占い師等を生業としてきました。ロマの歴史は、差別され、排除されてきた歴史でもあります。最も悲惨な歴史は、ユダヤ人とともに、ナチスによる絶滅政策の対象とされたことです。ナチスは、50万人のロマを虐殺したとされます。現在、欧州のロマは、1,000万人といわれ、東欧やスペインを中心に各国に散らばっています。定住化、あるいは同化が進んだとも言われますが、依然、漂流する者が多く、かつ伝統的な生業が成立しなくなったことで、経済的に困窮しているとされます。そのせいか、犯罪との関わりも増しているようです。

ユダヤ人は、独自の宗教や国家を持ち、民族的団結も強かったことから、その歴史は明らかになっています。一方、中世から欧州に進出したロマについては、多くの研究もされていますが、独自の記録を持っていなかったので、その歴史は十分に解明されていません。その起源については、インド西部のラジャスターンとする説が多いようです。10世紀頃、タタール人に追われて西への移動を開始したとされます。ロマのDNAは、インドでアーリア系に支配された先住民ドラヴィダ人に近いとされます。ロマがインドを出た理由は、タタール人の侵略ばかりではなく、インド・アーリア族の支配から逃れたかったのかも知れません。ロマが、欧州の記録に多く現れるようになったのは15世紀以降とされます。

多くの民族が交錯してきた欧州では、民族の同化や混血が進んできました。ユダヤ人の同化を拒む傾向は、独自の宗教で団結するユダヤ人自身が選択した道だったと言えます。それが、差別を生んできた理由でもあります。ロマは、もともとヒンドゥー教徒だったはずですが、各地の宗教に同化しています。にも関わらず、流浪を続けたのは、差別されたからなのか、社会的支配からの自由を自ら選択したからなのか、判然としません。ロマの人々の自由奔放で、情熱的といった特徴からして、体制へ組み込まれることを嫌ったとも思えます。ただ、差別され、疎外されてきた歴史が、そうした民族的特徴を形成したのかも知れません。恐らくは相互作用的だったのでしょうが。

日本では、ロマはジプシーと呼ばれ、フラメンコを生み出した民族という程度の認識が多いと思われます。ジプシーの語源は、エジプシャンです。一部のロマがエジプト出身をかたっていたことに由来します。ちなみに、ロマが多い東欧では、ツィンガニと呼ばれてきました。ギリシャ語の不可触民に由来する言葉だと言われます。呼称からして差別的だったわけです。音楽や芸能に優れるロマは、多くの才能を世に送り出してきました。最も有名なのは、チャーリー・チャップリンということになります。ヨハン・シュトラウス二世 やジャンゴ・ラインハルトといった音楽家、あるいはカルメン・アマヤはじめ、多くのフラメンコ・スターもいます。実は、第42代米国大統領ビル・クリントンも、ロマの血を引くことで知られています。(写真出典:pan-dora.co.jp)

2022年9月19日月曜日

呉東呉西

呉羽丘陵
各県内の地域の呼称は様々あって、なかなか興味深いものがあります。例えば、青森県の南部・津軽は藩名由来、福島県の中通り・浜通りは街道由来、鹿児島県の薩摩・大隅は半島名に由来します。山梨県の国中・郡内は、古い呼称が由来と聞きますが、よく分かりません。最も多いのは、県南・県北といった方角に基づくものだと思います。また、方角系のなかでも、愛媛県の東予・南予といった旧国名に基づく、あるいは福井県の嶺北・嶺南といった峠で分けている場合もあります。なかでも、他県の人には分かりにくい例の一つが、富山県の呉東・呉西だと思います。県中央に位置する呉羽丘陵の東西という意味です。

呉羽丘陵は、富山市の西に位置し、呉東側は断層が生んだ急斜面を持ち、呉西側は緩やかな丘陵になっています。小高い丘といった風情であり、地域を文化や言葉で二分するほどの高さはありません。呉東は、神通川の扇状地である富山平野と立山に続く山岳地帯で構成されます。呉西は、主に庄川と小矢部川の扇状地である砺波平野になっています。呉東・呉西を文化的に分けているのは、藩が異ったからではないかとも想像できます。というのも、富山市を含む、県中央部は富山藩であり、他は加賀藩でした。ただ、富山藩は、加賀藩の支藩であり、藩主は前田家です。そこに大きな文化的違いが生まれるとは思えず、また、争っていたというわけでもありません。

実に不思議だと思います。残る可能性の一つは、産業に起因する文化の違いです。富山平野も砺波平野も、豊かな穀倉地帯ですが、同時に、富山、高岡は、江戸期から栄えた産業の町でもあります。富山の売薬、高岡の鋳物です。富山の製薬の起源は、はっきりしていないようです。ただ、売薬の起源は、どうも富山藩2代藩主・前田正甫にあるようです。17世紀末、江戸城において腹痛に襲われた三春藩主に、前田正甫が富山反魂丹を服用させると、たちどころに回復したという話が伝わっています。以来、全国から富山の薬を求める声が起きたというわけです。前田正甫は、製薬を振興させるだけではなく、「他領商売勝手」を発行し、ここに富山の薬売りが生まれたとされます。

恐らく富山市の岩瀬湊も極めて重要な役割を担ったのでしょう。岩瀬は、室町期の「廻船式目」で三津七湊の一つとされており、北前船の重要な港でした。富山の薬売りは、陸路だけでなく、岩瀬から船で全国へ散っていったのでしょう。一方、高岡の鋳物は、17世紀初頭、前田家2代当主・前田利長が、隠居後に築城した高岡城の城下に、7人の鋳物師を招聘したことから始まっています。当初は、農具や日用品の鉄器製造から始め、19世紀には、銅器の鋳造が行われ、仏具、仏像、梵鐘等で名が知られることになります。前田利長が没すると、一藩一城令もあり、高岡城は廃城となります。ただ、加賀藩は、農産物の集積地、鋳物産業の町として、引き続き高岡を重要拠点としました。 

要は、呉東には、売薬の商売人気質が根強く残り、一方の呉西には、鋳物文化を支えた職人気質が残ったのではないでしょうか。今でも、呉東はおおらかな気質、呉西はまじめな気質と言われるようです。頷ける話だと思います。2015年、北陸新幹線が、富山、金沢まで延伸されると、金沢の人気は、異常なまでに高まりました。それこそ、富山県の人たちが恐れた素通りリスクでした。以降、富山も高岡も人を呼び込む努力を続けてきたようです。富山市には、おしゃれでモダンな大型の箱物が多く作られ、高岡は、高岡城址、国宝瑞龍寺、高岡大仏、職人町といった歴史に根ざした魅力の発信を続けています。富山県には、実に多くの名物、名所があります。恐らく、これから富山県は、インバウンドも含め、金沢同様、あるいはそれ以上に多くの観光客を惹きつけることになると思います。(写真出典:city.toyama.toyama.jp)

2022年9月18日日曜日

龍が降りた海

ヴェトナムのハロン湾には、2度行きました。ハロン湾は、トンキン湾の北部に位置し、大小2,000とも3,000とも言われる島が点在します。多島海は、どこでも美しい景色を見せるものですが、ハロン湾の場合、島が高く切り立ち、密集しているので、とりわけ幻想的な光景を生んでいます。海の桂林と呼ばれることもあるようですが、実は、桂林からヴェトナム北部にまで広がる広大な石灰岩台地に属しています。台地の沈下と浸食が生んだ奇跡の絶景です。多島海には、成り立ちに関わる伝説がつきものだと思います。人々は、なぜこのような景色が生まれたのか不思議に思い、伝説が生まれるものなのでしょう。ハロン湾も同様です。

ヴェトナムが中国の侵略を受け、苦戦するなか、親子の龍が舞い降り、中国軍を蹴散らします。その際、龍の口から宝石がまき散らされ、それがハロン湾の島々になったという話です。”ハ・ロン”とは、龍が降りるという意味です。ハロン湾の龍の伝説が、いつの戦いのことを指しているのかは判然としませんが、ポイントは中国との戦いだということです。ヴェトナムの歴史は、中国との戦いの歴史でもあります。紀元前から中国の支配を受け、かつ抵抗してきました。古代、中世を経て、1975年の中越戦争、南沙諸島を巡る現在の争いまで、延々と続いています。文献上、最も古い抵抗は、1世紀、チュン姉妹による独立宣言です。3年に渡る後漢との戦いが繰り広げられましたが、鎮圧されています。

そして、千年後の938年に至り、ゴ・クエンが、ハイフォンの北に位置するバックダン川で、南漢軍を撃破し、ついに中国支配から独立しています。ゴ・クエンは、満潮時には水面の下に隠れる無数の杭を河口に打ち、南漢の水軍を待ち構えます。南漢水軍は、満潮時に、大きな船で侵入してきます。これを小舟に乗ったヴェトナム軍が取り囲み攻撃します。南漢軍は、たまらず引き潮に乗って海へと撤退しますが、水面に現われた杭によって、船は破壊されます。興味深いことに、ヴェトナム戦争時にも、ヴェトコンは、米軍に対して、しばしば同じ戦術を仕掛け、成功しています。また、15世紀初頭には、明に侵略・支配されますが、レ・ロイが、10年の戦いの末に、これを破っています。レ・ロイの戦いも、魔剣や大亀といった数々の伝説をまとっています。

要は、ヴェトナム人にとって、ハロン湾は、単なる景勝地ではなく、中国と戦い、独立を勝ち得てきた歴史、そしてそのプライドの象徴でもあるわけです。ホー・チ・ミンが国民に教えた最も大事なことは「独立」だった、とヴェトナム人から聞いたことがあります。確かに、その通りなのでしょうが、ホー・チ・ミン以前から、「独立」はヴェトナム人の血であり、肉であったように思えます。ドナルド・トランプが大統領選に勝利すると、当時の安倍晋三首相は、すぐさまNYに出向き面談しました。その直後、ハノイのノイバイ空港外の喫煙所で、タクシー運転手と雑談しました。その際、安倍首相のトランプ詣でのことを、思いっきりバカにされました。日本はアメリカが大事だもんな、とも言われました。世界で唯一アメリカに勝ったヴェトナム人に言われると、返す言葉もありませんでした。

初めてハロン湾を訪れた時には、ランチ・クルーズ船に乗り、美味しい海鮮料理を食べながら、観光しました。2度目は、ハロン湾に泊まる予定だったので、夕方、観光船に乗りました。夕暮れ時のハロン湾は、より一層、幻想的になります。観光船も少なく、ゆっくり、静かに、絶景を楽しむことができました。中国がいかに大国であろうとも、この絶景を守るためなら、必死で戦うことになるのだろうと思いました。近年は、テーマパークなども開業し、ハロン湾は、急速に観光化が進んでいるようです。世界中から観光客が訪れるハロン湾ですから、やむを得ないことだと思います。 ただ、観光開発の背景には、中国からの観光客の急増があるようです。確かに、2017年に訪問した際には、傍若無人な中国人たちに囲まれて、伝統の水上劇を観ました。(写真出典:24h.com.vn)

2022年9月17日土曜日

殺生石

割れる前の殺生石
那須ゴルフ倶楽部と言えば、1936年開場、井上誠一設計という日本屈指の名門コースです。その那須ゴルフ倶楽部の北側に、国の指定名勝にもなっている「殺生石」があります。近づいたものは命を失い、あるいはその上を飛ぶ鳥さえも落ちることから「殺生石」と命名されました。松尾芭蕉が「おくのほそ道」のなかで訪ねたことでも知られます。要は、硫化ガス等の火山性ガスが発生しており、危険な場所だったわけです。危険から人々を守るために、伝説が語られ、また石が割れると災いが起こると言い伝えられてきました。ところが、その殺生石が、今年3月、しめ縄ごと二つに割れました。

どうやら風化が原因だったようです。さすがに、何か良からぬことが起きるのでは、と騒ぐ人はいなかったようです。殺生石に関する最も有名な伝説は、九尾の狐伝説です。12世紀初め、鳥羽上皇の寵姫に玉藻前という人がいました。色彩兼備の誉れ高く、欠けたところが一つもないことから玉藻前と呼ばれます。ある時、鳥羽上皇が原因不明の病に倒れ、高僧の祈祷も医師の治療も一切効きませんでした。ところが、陰陽師が玉藻前の仕業と見抜きます。真言を唱えると玉藻前は、九尾の狐となって空を飛び、那須に逃れたものの退治され、殺生岩になりました。岩となっても、その怨念は消えることなく、近づくものの命を奪い続ける、というわけです。

玉藻前には、実在モデルがいます。鳥羽上皇の后である美福門院です。美福門院は、我が子を皇位につけようと画策し、保元・平治の乱の原因を作ったとされます。貴族政治が武家政治に代るきっかけとなったわけですから、九尾の狐と言われてもやむを得ない面があります。九尾の狐伝説は、古代中国から脈々と受け継がれてきました。殷の紂王の后・妲己に始まり、天竺の摩竭陀国の斑足太子の妃・華陽夫人、そして周の幽王の后・褒姒も、実は九尾の狐が化けていたとされます。それが、遣唐使の吉備真備の船に乗って、日本へ渡ってきたというわけです。要は、歴史上、国家を存亡の危機にまで貶めた女性は、すべて九尾の狐が化けていたとされるわけです。

さらに殺生石の伝説は続きます。14世紀に実在した曹洞宗の僧侶・玄翁こと源翁心昭が、那須に立ち寄った際、住民が恐れる殺生石を一喝します。すると岩は砕け、全国各地に飛び散ったというのです。大工や石工が使う先が丸い金槌を玄能と呼ぶのは、この伝説に基づきます。また、殺生石が飛んだ先は、すべて””高田”という地名になったとされます。豊後高田、安芸高田、越後高田などです。美作高田の化生寺には、殺生石とされる岩が存在します。実に不思議な話です。恐らく、化生寺はじめ、玄翁が開山に関わった寺がある土地に高田が多いのだと思われます。ただ、なぜ高田なのかは不明です。玄翁は、越後荻村出身とされますので、越後高田と関係するのかも知れません。

能楽「殺生石」を観てきました。16世紀初頭、日吉左阿弥の作とされます。狐の化身である里女が、玄翁に、九尾の狐伝説を語ります。里女に素性を問うと、殺生石だと答えます。玄翁が、払子をふるって経を唱えると、殺生石は二つに割れて、野干(悪狐)が現われます。唐、天竺、日本で悪さをしてきたが、陰陽師に見破られたこと、那須で成敗され怨霊となったことを語ります。そして、玄翁のお経で成仏できたことを感謝して消えます。能楽「殺生石の見せ場の一つは、シンプルな舞台装置である”作り物”の殺生石が二つに割れて、野干が登場するシーンです。500年後、本当に、殺生石は割れたわけです。それを聞いたら、室町時代の人々は、腰を抜かして驚くことでしょう。(写真出典:chunichi.co.jp)

2022年9月16日金曜日

アルハンブラの思い出

敷地面積において、世界最大とされる王宮は、ルーマニアの「国民の館」です。悪名高き独裁者チャウシェスクが、1984年に着工しています。その後、ルーマニア革命でチャウシェスクが殺されると、一旦、工事は中断しますが、1997年に竣工しています。敷地面積は33万㎡、部屋数は3,107と言われます。次いで、ハプスブルク家の居城だったウィーンのホーフブルク宮、パリのルーブル宮、ブルネイのイスタナ・ヌルル・イマン宮、ヴァチカン宮、北京の紫禁城、そしてマドリーの王宮と続きます。マドリー王宮の敷地面積は19.9万㎡、部屋数は3,478と言われます。40年以上前に訪れましたが、初めて見た欧州の宮殿の規模に、腰を抜かすほど驚きました。

かつて絶対王政が繁栄した国には、巨大な宮殿が存在します。中央集権化された絶対王政ですが、その性格は連合的であり、必ずしも絶対だったわけではありません。従って、盟主である王は、様々な形でその威勢を示し続ける必要がありました。巨大な王宮は、絶対王政の脆弱さを象徴しているとも言えます。マドリー王宮内をツアーしていると、ほどなくして飽きてきました。確かに巨大で、意匠も素晴らしいのですが、どうもピンと来ないのです。美しく仕上げられていますが、決して感性に訴えるような美しさはないように思えました。建築目的が、美の追究ではなく、あくまでも権勢誇示だったわけですから、当然かも知れません。

加えて、欧州とアジアとの感性の違いもあるかもしれないと思いました。というのも、マドリー観光の後、寝台列車に乗ってアンダルシアへ行き、アルハンブラ宮殿を見たからです。グラナダの南東の丘に建つアルハンブラ宮殿は、イスラム・スペイン文化のみならず、イスラム文化を代表する建築の一つだと思います。その美しさは、心に染み入るようでした。もともとは、後ウマイヤ朝が、9世紀に建設した砦だったようです。その後、時代、時代で増改築が行われ、現在にいたる宮殿の形は、13~15世紀のナスル朝によって築かれています。レコンキスタ、つまりキリスト教徒によるイベリア半島再征服は、8~15世紀という実に息の長い戦いでした。キリスト教徒たちが、レコンキスタの最後に戦ったイスラム勢力が、グラナダのナスル朝でした。

カスティーリャによるグラナダ攻略は、2年間におよぶ熾烈な包囲戦でした。興味深いことに、キリスト教徒たちは、その後も含めて、アルハンブラを一切破壊していません。そのあまりの美しさに、破壊することをためらったのだろうと考えます。アルハンブラとは、赤い城塞を意味するアラビア語の”アル・カルア・アル・ハムラー”がスペイン語化したものだと言われます。決して赤い建物ではないのに、アルハンブラと呼ばれている理由は不明であり、周囲が赤土だからという説が有力だそうです。豊富な水を使った噴水やプール、穏やかなパティオを数々、イスラム建築の特徴であるムカルナスと呼ばれる鍾乳石を模した天井、幾何学模様のタイルなどが印象に残ります。なお、ムカルナスは、ムハンマドが神の言葉を聞いた洞窟をイメージしています。

”ライオンの中庭”、”アラヤネスのパティオ”、”リンダラハのバルコニー”などは、40年経った今でも、目に浮かびます。造形的な美しさは、静けさ、潤い、繊細さを感じさせます。絶対に見るべき建築の一つだと言えます。アルハンブラと言えば、フランシスコ・タレガ作曲のギター独奏曲「アルハンブラの思い出」が思い出されます。トレモロ奏法の三大名曲の一つとされ、世界中で親しまれる哀愁漂う名曲です。ただ、個人的には、この曲を聞いても、一切、アルハンブラの情景は浮かびません。やはり、キリスト教徒の感性なのか、と思います。アルハンブラに最も似つかわしい音楽は、例えば、ペルシャのダストガ音階に基づく無拍のサントゥール演奏などだと確信します。ちなみに、サントゥールは、西洋に伝えられ、後にピアノへと変化します。(写真出典:factum-info.net)

2022年9月15日木曜日

至宝の海外流出

吉備大臣入唐絵巻
東京都美術館で開催中の「ボストン美術館展」を見てきました。ボストン美術館といえば、多くの日本美術を所蔵することで有名です。一度行ったことがありますが、浮世絵コレクションには圧倒されました。今回の目玉は、伊勢長島藩主・増山雪斎の「孔雀図」等もありますが、なんと言っても「平治物語絵巻三条殿夜討巻」、そして「吉備大臣入唐絵巻」ということになります。この絵巻二巻は、紛れもなく国宝級と言われます。特に、「吉備大臣入唐絵巻」は、昭和初期、ボストンへ渡った際、至宝の海外流出に関する激論を巻き起こし、結果、「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」が制定されたという曰く付きの逸品です。

吉備真備は、奈良時代の学者にして官僚です。2度に渡る遣唐使を経験し、低い位から右大臣まで登り詰めました。717年、1回目の遣唐使の際には、阿倍仲麻呂や玄昉らと共に入唐しています。歴史、政治、音楽、天文などを学び、滞在期間は18年に及びます。玄宗皇帝に気に入られ生涯を唐で過ごした阿倍仲麻呂と並び、唐での評価は高かったようです。数年前、河南省で発見された唐代の官僚の墓誌が、吉備真備の筆になるものだったことが判明し、話題となりました。2度目の入唐は、752年、既に50歳代後半に入っていました。1年後、鑑真とともに帰国しています。その後、太宰府の事実上の責任者として、関係が緊張していた新羅、そして唐の安史の乱の影響に備えるために、防御態勢を整備するなどしています。

吉備真備の入唐に関しては、妙な伝説があります。その才能を妬んだ唐の役人たちから命を狙われ、数々の酷い迫害を受けますが、阿倍仲麻呂の生霊の助けを借りて、全ての危機を脱したというものです。なぜ、そのような伝説が生まれたのか、不思議なところです。吉備真備は、唐から陰陽道の聖典を持ち帰った陰陽道の祖とも言われます。陰陽道の箔付けのために生まれた伝説とも考えられます。また、日宋貿易が盛んな頃、宋に対する劣等感を払拭するために作られたという説もあるようです。いずれにしても、この伝説を後白河院が絵巻にさせ、「吉備大臣入唐絵巻」が生まれます。複数の作者が工房で作成したものとされているようです。素朴な描写といった印象を受ける絵巻です。

絵巻は、紆余曲折あって、幕末からは小浜藩主酒井家が所有していました。大正期、遺産相続の関係で競売にかけられ、大阪の古美術商が落札。転売をしようとした矢先、関東大震災が起こり、買い手が付かなかったようです。困った古美術商は、美術品の輸出を手がける山中商会に相談します。これに目を付けたのが、ボストン美術館の東洋部長になっていた富田幸次郎でした。国宝級の名作の海外流出ということで大騒ぎとなり、しかも日本人が仕掛けたことが問題視され、富田は国賊と罵られたようです。一方、「平治物語絵巻三条殿夜討巻」は、東京美術学校を創立したアーネスト・フェノロサが購入しています。フェノロサは、骨董商に、言い値の倍の金額を払い、売買に関する口止めを計ったとされます。

いずれもまっとうな商取引ではありますが、フェノロサの賢い対応には感心します。美術品の海外流出は、世界中で起きています。日本でも、結構な数の美術品が流出しています。ただ、略奪されたものは、ぼぼ皆無であり、商取引によるものがほとんどだと聞きます。国宝級と言われる美術品に関しては、明治期の流出が多いのですが、その背景には明治初期の廃仏毀釈運動があると言われます。天皇中心の国家体制を目指す明治政府は、神仏分離を打ち出します。江戸期を通じて、仏教寺院は幕府の社会管理システムの要でした。仏教に押されてきた神道は、ここぞとばかりに過剰に反応し、結果として、多くの仏教寺院や、その宝物類が失われました。全国の寺院の半数が被害を受けたと言われます。明治政府が意図したものではなかったとは言え、廃仏毀釈によって失われたものは大きかったと言えます。(写真出典:photo-make.jp)

2022年9月14日水曜日

ベニハナ・オブ・トーキョー

1980年代後半のNYでは、日本人向けは別として、和食店は高級な店が多かったと思います。寿司の知名度は上がりつつありましたが、食べたことがない人が多く、スシ・バーで日本語でネタを注文できるのは、お金持ちのステイタスでした。そんななか、”Teppanyaki(鉄板焼き)”は、日本っぽい食の代表として、一人、気を吐いていました。料理人が、目の前の鉄板で、様々なパフォーマンスを見せながら、ステーキ、ロブスターなどを焼くスタイルです。1964年に、ロッキー青木が、マンハッタンにオープンした「BENIHANA OF TOKYO」が大当たりして、ベニハナの店舗だけでなく、類似店が、そこここにありました。

食事にパフォーマンスを持ち込むというのは、実に画期的なアイデアでした。ただ、このTeppanyakiスタイルは、ロッキー青木が考案したものではありません。神戸の「みその」が、1945年に始めたと言われています。「みその」は、今でも、「元祖鉄板焼きステーキ」を名乗っています。鮨屋から着想を得たという新しいスタイルは、すぐに外国人の人気を集めたようです。そもそも料理人のパフォーマンスは、味には一切関係がありません。あくまでも外国人向けにエキゾティシズムを売っていたわけです。ベニハナに来店するアメリカ人も、料理人のパフォーマンスに、いちいち喜んでいたものです。あたかもディズニーランドで、ショーを見ているような感覚だったのでしょう。

ロッキー青木こと青木廣彰は、東京中野で、俳優・タップダンサーの父のもとに生まれます。慶応大学でレスリング部に所属し、日本選抜選手として渡米します。青木は、そのまま米国に残り、レスリング選手として活躍します。ローマ五輪では日本選手団の補欠、東京五輪では米国代表に選ばれています。ただ、国籍が日本のままだったので出場はできなかったようです。ベニハナを経営する傍ら、、バックギャモンの全米チャンピオン、パワーボート世界大会で第2位、また気球での大西洋横断も成功させています。ビジネスでも、スポーツでも、アメリカでは、よく名前の知られた日本人でした。若い頃、青木は、マンハッタンで、アイスクリームの屋台を引いていた時期があり、カクテル・パラソルを刺すアイデアでウケていたようです。

カクテル・パラソルも、青木の発明ではありません。その起源には諸説あるものの、既に戦前から、エキゾティックなカクテルには付き物でした。どうも、青木の発想の根源には、エキゾティシズムを商売にするという発想があるように思えます。つまり、和食文化を伝えるのではなく、アメリカ人の日本観にすり寄って商売をするということです。その発想の根底には、差別や偏見の強いアメリカ人のなかで、単身、戦ってきた経験があるのでしょう。偏見をはねのけるべく、レスリングで実力を磨いたわけですが、それでも偏見は、簡単には消えなかったはずです。ならば、その偏見を商売にしてやろうと思ったのではないでしょうか。他のスポーツへの挑戦も、アメリカ人を見返してやるという思いからだったのでしょう。

正直なところ、Teppanyakiの店に行くことには抵抗がありました。一緒に行ったアメリカ人も、あるいは子供たちも喜びます。ただ、私は、パフォーマンスを見せる日本人料理人の顔をまともに見ることができませんでした。ご当人たちがどう思っていたのかは知りませんが、そこに卑屈さを感じてしまうからです。”Japan as No.1”と言われた時代、飛ぶ鳥を落とす勢いの日本企業の一員としてNYに乗り込んだ駐在員と、差別と偏見のなかで戦ってきた渡米者たちの意識の違いは、とてつもなく大きかったと思います。もちろん、ロッキー青木を責めるつもりはありません。むしろ、その努力に敬意を表します。当時、彼らが経験した偏見は、敗戦国日本の悲哀そのものだったと思うからです。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年9月13日火曜日

奥州安達原

凶弾に倒れた安倍晋三元首相は、山口県選出の国会議員でした。長州が生んだ8人の宰相のなかでは、地元人気はいまいちだったと聞いたことがあります。その理由を聞けば「だって東北の人でしょう」という答えが返ってくるのだそうです。確かにその通りですが、千年も前の話です。安倍氏は、10~11世紀、奥六郡を中心に、現在の岩手県から青森県東部までを支配した大豪族です。安倍氏は、勢力を拡大するとともに、半独立国家的な色彩を強め、朝廷への貢租を怠るようになります。朝廷は、安倍氏追討のために、源頼義を送り出します。いわゆる前九年の役です。安倍氏は敗れ、惣領であった安倍貞任は厨川柵で討ち死に、弟である宗任らは捕縛され、伊予国、後には筑前国宗像の筑前大島に流されました。

安達原と言えば、鬼婆の話と決まっていますが、浄瑠璃の「奥州安達原」は、全く異なるストーリーを持ちます。安倍貞任・宗任兄弟は、敵である源頼義一党を打ち、天皇の弟君である環宮を抱えて、独立国家建設を計ります。環宮を奪われた養育係の平傔仗直方は、勅使によって切腹を命じられます。切腹の時が迫るなか、浪人と恋仲になり、16歳で出奔した傔仗の長女・袖萩が、娘のお君をつれて両親を訪ねます。夫と離れ、門付芸人にまで落ちぶれた袖萩は、そこひを患い視力を失っています。降りしきる雪のなか、薄着に凍えながら、袖萩は許しを請う祭文を謳います。直方は、娘を抱きしめたい気持ちを押し殺し、武家の理を通して、娘との面会を拒絶します。直方の妻・浜夕は、二人の間に立って、右往左往しますが、夫に従わざるを得ません。

袖萩が持っていた夫の書き置きから、袖萩の夫が安倍貞任であることが判明します。貞任は、環宮を誘拐し、直方を切腹に追い込んだ張本人です。無念を抱えたまま直方は切腹し、この世をはかなんだ袖萩も、後を追うように自ら胸に刃物を刺します。しかも勅使になりすましていたのは、安倍貞任本人でした。おりしも、安倍宗任を捕縛した源八幡太郎義家が居合わせます。義家は、兄弟の敵である源頼義の長男であり、その嫁は袖萩の妹です。義家は、勅使に化けた貞任を見破ります。いきりたつ貞任でしたが、義家は、娘と瀕死の嫁を抱いてやれと諭します。そして、お互い武士ゆえ、戦場で相まみえようと、兄弟を逃がします。これでもか、と因果を重ね込んだ浄瑠璃らしい展開に目頭が熱くなりました。

奥州安達原は、近松半二らの合作で、1762年に初演されています。能楽の「善知鳥」や「安達原」の要素も取り込んでいるとされます。浄瑠璃でも歌舞伎でも、主に上演されるのは、上述した”袖萩祭文の段”になります。史実との関係で言えば、もちろん貞任は既に戦死していますし、直方の娘は、源頼義に嫁ぎ、八幡太郎義家を生んでいます。例によって、虚実ごちゃ混ぜのストーリーですが、よくもここまで泣ける話を組み立てられるものだと感心します。加えて、八幡太郎義家の名声の高さは理解できますが、安倍貞任・宗任兄弟についても、当時、そこそこ知られていたことが窺い知れます。前九年の役における源頼義の活躍が、その後の源氏の隆盛や正統性の礎になった面があり、安倍兄弟もよく知られていたのかも知れません。ちなみに、安倍晋三氏は、宗任から数えて44代目にあたるようです。

浄瑠璃は、惜しげも無く人間国宝を舞台に繰り出します。現在の人間国宝は、太夫の豊竹咲太夫、三味線の鶴澤清治、人形は、吉田簑助、吉田和生、桐竹勘十郎の5人です。今般の奥州安達原でも、うち3人が共演していました。桐竹勘十郎の袖萩など、見事なもので、客席の涙を大いに誘っていました。能楽のシテ方人間国宝の舞台は、滅多に観ることができません。そこへ行くと、浄瑠璃は、誠にありがたいな、と思うわけです。と同時に、浄瑠璃界の層の薄さの現われとも言え、いささか残念な気もします。三宅坂の国立劇場は、2023年10月をもって閉場し、建て替えに入ります。再開場は、2029年秋とのこと。その間、浄瑠璃東京公演は、舞台を探しながらの不定期公演になるようです。いささか寂しくなります。(写真出典:otube.osakazine.net)

2022年9月12日月曜日

スワンプ・フォックス

スワンプ・フォックス、沼の狐と呼ばれたのは、アメリカ独立戦争時に、サウスカロライナ民兵の指揮官だったフランシス・マリオン中佐(後に准将)でした。正規軍の将軍でもないのに、アメリカではよく知られた独立戦争の英雄であり、中西部には、彼の名前にちなんだ地名や施設が多く存在します。マリオンが率いた数十名の民兵は、無給であり、自前の馬や銃で戦いました。食料や弾薬等の補充は、イギリス軍から奪っていたようです。正規軍からは離れたところで、神出鬼没の攻撃を行い、大いにイギリス軍を苦しめたようです。その戦いぶりから、近代ゲリラ戦の父と言われ、米国陸軍が誇るレンジャー部隊の祖ともされます。

フランシス・マリオンは、1732年、サウスカロライナのプランテーション農家に生まれます。両親は、フランスから移民してきたユグノー、つまりプロテスタント・カルヴァン派でした。マリオンは、船乗りの経験を経て、軍に入り、独立戦争が始まると連隊長として参戦しています。イギリス軍がチャールストンを陥落させると、マリオンは、民兵部隊を率いてゲリラ戦を開始します。マリオン部隊に手を焼いたイギリスは、追討のためにバナスター・タールトン男爵を送り込みます。しかし、沼沢地を、巧みに逃げ、攻撃してくるマリオンを捕まえることはできませんでした。その際、タールトンが「このいまいましい年老いたキツネは悪魔ですら捕まえられない」と語ったとされ、マリオンは、沼の狐と呼ばれるようになります。

ローランド・エメリッヒ監督の「パトリオット」(2000)は、アメリカ独立戦争を描いた大作でした。メル・ギブソン演じる主人公は、マリオンを主に、他の著名軍人の要素も加えて創作された架空の役です。映画がヒットすると、英国から、マリオンは英雄視されるべき人物ではない、との批判が起こります。残虐なテロリストであり、チェロキー・インディアンを迫害し、楽しみのためにインディアンを殺し、奴隷をレイプしていたというのです。インディアンの迫害や虐殺は、フレンチ・インディアン戦争時のことであり、当時の基準からすれば、突出したことではないとされます。また、マリオンは、奴隷と良好な関係を保っており、レイプも事実無根のようです。ただ、テロリストという批判だけは微妙です。

ゲリラ戦は、比較的少人数の非正規軍が仕掛ける戦闘であり、大昔から存在していました。ゲリラはスペイン語ですが、ナポレオンに侵攻されたスペインの農民が行った戦いが”guerrilla(小戦争)”と呼ばれたことから広まりました。レーニンが、ゲリラ戦をパルチザン戦法として確立したことから、左翼革命の典型的な戦い方となります。また、第二次世界大戦では、占領地でのレジスタンスとして、あるいは毛沢東による遊撃戦論として確立されます。兵力と火力で戦う戦争はヴェトナム戦争で終わったと言われます。近代的な陸上戦は、ゲリラ戦の要素が大きいわけです。一方、テロリズムは、フランス革命時のジャコバン党による”恐怖政治”が語源であり、暴力的抗議活動ということができます。ただ、近年は、ゲリラとテロの境目がはっきりしないケースが増えているようにも思います。

マリオンに限ってみれば、戦争状態のなかでの戦闘であり、やはりゲリラ戦というべきであり、テロではありません。マリオンの戦いは、ミニット・マン等とともに、アメリカ伝統の民兵(ミリシア)という文化の起源になっています。アメリカには州兵(National Guard)制度がありますが、これも民兵が起源となっています。そして合衆国憲法修正2条は、民兵の必要性を謳い、国民から銃を所持・携帯する権利を奪ってはならない、としています。米国における銃規制強化が進まない最大の要因は、この憲法修正2条の存在です。いかに民兵が独立に貢献したとは言え、現代は、スワンプ・フォックスの時代とは大いに異なります。憲法を改正しろとまでは言いませんが、もっと厳しい銃の管理規制を導入すべきだと思います。(写真出典: marionso.com)  

2022年9月11日日曜日

見切り千両

井原西鶴
株式投資やFXなどと言えば、聞こえもいいのですが、かつて、株屋、あるいは相場師と言えば、結構、胡散臭い存在でした。相場師とは、大雑把に言えば、株式、不動産、穀物市場などで、現物を伴わない投機的な取引を行う人たちのことでした。一瞬にして巨万の富を得るロマンあふれる稼業とも言えますが、当然、そんな人はごく一握り。大層は、相場に大負けして、悲惨な人生を送ったものと想像できます。博打よりは合理的かも知れませんが、似たようなものなのでしょう。成功した相場師は有名になった人も多く、例えば、野村證券の野村徳七、山一の杉野喜精など、証券会社の創始者も多くいます。昔から、相場の世界には、独特の格言が存在し、今でも、通用するものが多いようです。

よく知られているものでは「相場は相場に聞け」、あるいは「天井三日 底百日」などがあります。なかでも「見切り千両」という言葉は好きな言葉です。売り時、買い時のタイミングを見極める事は難しいものです。ことに下げ相場の時など、もう少し我慢すれば、上げに転じるかも知れないと欲が働き、結果、大損することが多いものです。多少の損は覚悟で売った方が、大損を避けることになり、それは結果、千金にも値すると言うわけです。相場に限らず。ビジネス全般、あるいは社会生活でも意味のある格言だと思います。とかく欲に目がくらめば、ろくな結果にはならないものです。この言葉は、もともと上杉鷹山の格言として知られています。

全文は「働き一両 考え五両 知恵借り拾両 骨知り五十両 閃き百両 人知り三百両 歴史に学ぶ五百両 見切り千両 無欲万両」となります。鷹山らしい人生訓だと思います。しかし、鷹山に先立つこと100年前、井原西鶴の「日本永代蔵」に「働き一両 早起き五両 始末十両 儲け百両 見切り千両 無欲万両」という下りがあるようです。始末とは、船場言葉で倹約することを意味します。儲けとは、商売を営むことだと思えばいいのでしょう。井原西鶴は、江戸初期、寛永から元禄の頃に活躍した俳諧師にして浮世草子作家です。1682年に出版した「好色一代男」で、よく知られます。「好色一代男」は、単なる好色本というだけでなく、「源氏物語」のパロディでもあり、形骸化した古い価値観をあざ笑うカウンター・カルチャー的作品だとも言われます。

西鶴は、15歳で、既に俳諧師として名を成していたと言われます。発句の数を競う矢数俳諧では、一昼夜で23,500句という記録を打ち立てています。現代なら、間違いなくギネス記録です。大阪で活躍した西鶴は、商人ではありませんが、商人の栄枯衰勢を数多く目にしたはずです。西鶴のこの言葉を商人訓とするならば、無欲万両とは、石田梅岩の「実の商人は 先も立 我も立つことを思うなり」、あるいは大丸創業者の下村彦右衛門の「先義後利」に通じる言葉と理解できます。一方、人生訓とするならば、見切り千両、無欲万両と合わせ、人間の強欲を戒める言葉と捉えることができます。俳諧は、連歌から派生した、より遊戯性の高い、機知に富んだ短歌の形式です。発句と連句から成り、後に発句だけが独立して俳句になります。西鶴の言葉は、俳諧師らしい世の中の見方から生まれた言葉のように思えます。

つまり、儲け百両までの下りは、確かにお金の話ですが、実は、銭金の世界は、そんな程度のもので、人生の価値としては無欲に勝るものはない、ということなのでしょう。だとすれば、本家の西鶴の言葉より、鷹山の方が、より実学的で、より生臭いものに思えてきます。ちなみに、鷹山の名言とされる「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」の原典は、古代中国の「書経」だとされます。しかし、この言葉は、武田信玄の言葉を鷹山流にアレンジしたものだと言われます。オリジナルではありませんが、使えるものは使うという鷹山のプラグマティズムを感じさせる話です。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2022年9月10日土曜日

「ブレット・トレイン」

監督: デヴィッド・リーチ      2022年アメリカ

☆☆☆

伊坂幸太郎の「マリアビートル」を原作とするアクション・コメディです。簡単に言えば、漫画です。ポップな漫画としては上出来だと思います。デヴィッド・リーチ監督は、スタントマン出身ですが、”ジョン・ウィック”、”アトミック・ブロンド”など、いつもレベル以上のアクション映画を見せてくれます。本作は、ほぼ全てのアクションが走る新幹線内で行われるという面白い設定になっています。原作を読んだことはありませんが、なかなか秀逸な着想だと思います。シナリオは、そこそこ翻案されているようですが、プロットの奇想さは活かされているように思います。伊坂幸太郎は、伏線の張り方と回収が見事だといわれます。そこも、なかなかポップに処理されています。

この映画に関して、ホワイトウォッシングが議論になったと聞きます。ホワイトウォッシングは、白人ではない役に白人俳優がキャストされること、あるいは、その白人俳優が、役の民族的特徴を強調して表現することです。戦前は、よく行われていました。典型的には、白人が顔を黒く塗って、黒人の真似をすることです。アジア人では、探偵のチャーリー・チャンを白人が演じましたが、これも典型です。人種差別的であることから、1960年代以降、あまり見かけなくなりました。「ブレット・トレイン」では、原作で日本人とされた役を、日本人以外が演じている、あるいは日本を舞台としたまま日本人以外が演じているといった点がホワイトウォッシングと批判されたようです。

お門違いの議論のように思えます。確かに、キャストは日本人以外がほとんどですが、そもそも役が日本人以外に翻案されています。つまり、白人の役を白人が演じているわけです。ホワイトウォッシングではなく、あくまでも翻案の範囲内の話だと思います。日本文化に根ざした日本人の役ならば理解できる批判ですが、目くじらを立てるような話ではありません。インタビューで、この点を問われた伊坂自身も、自分が描くキャラクターは無国籍的だと言っているようです。今回のホワイトウォッシング問題の背景には、ハリウッドにおけるアジア系俳優のキャスティングが少ないという不満があるように思えます。私は、むしろ日本の風土の描き方に、違和感を覚えます。

言ってもしょうがない話であることは理解しています。外国人の目から見た日本の特徴なので、日本人の認識とは異なって当然です。たた、ゲイシャ・フジヤマの頃から、あまり変わっていないように思えます。1967年の「007は二度死ぬ」は、ほぼ全て日本国内で撮影されました。そのエキゾチシズムの描き方が、あまりにも日本文化を茶化しているように思え、見ていて不快になったことを覚えています。とは言え、それが、当時の外国人の日本観だったわけで、映画は世界的に大ヒットしました。以降、あまり変わっていないように思える映画の中の日本観ですが、一つ大きな変化があります。必ず居酒屋街の光景がカットインされるようになったことです。1982年の大ヒット作「ブレードランナー」が、歌舞伎町をヒントにしたことから起きた現象です。

実は、日本の映画やTVでも、妙にステレオタイプ化した外国人の描き方を見かけます。カウボイーイ・ハットのアメリカ人は、南部でしか見かけません。ベレー帽のフランス人など、ほぼいません。ターバンを巻いたインド人は、シーク教徒だけです。正確か否かの問題ではなく、見る人にイメージが伝わるかどうかの問題ですから、止むを得ない面があります。とは言え、差別的にならないことだけは、配慮すべきです。さらに言えば、近代化された大都市など、世界中、どこでも同じような風景になりますから、余計にエキゾチシズムが強調される傾向にあるわけです。(写真出典:natalie.mu)

2022年9月9日金曜日

監視社会

旧シュタージ本部
「政権は銃口から生まれる」と言ってのけたのは、毛沢東でした。いわゆる”革命”で誕生した政権が、最も恐れるものは”革命”です。革命政権は、独裁をしき、全体主義を徹底し、監視社会を作り上げ、革命の芽を摘んでいきます。監視社会の実現を担うのは、おおむね秘密警察の類いです。かつて、世界最強の監視社会と言われたのは東ドイツでした。国民の監視を担当したのはシュタージと呼ばれる国家保安省でした。ベルリンの壁崩壊時には、10万人の職員、60万人の非公式情報提供者が存在し、最盛期、その合計は190万人に達していたという説もあります。人口比では、1割を超え、悪名高きゲシュタポやKGBをはるかに凌いでいたようです。

 国民を監視する手法としては、半ば公然たる尾行、盗聴、盗撮、郵便の開封など、あらゆる事が行われていますが、主体を成したのは、非公式情報提供者による密告です。いわゆる相互監視体制です。なにせ10人に1人が非公式情報提供者だったわけで、近隣住民、職場の同僚、友人、果ては家族・夫婦・恋人まで含まれていました。シュタージに情報を提供しなければ、我が身が危ないわけですから、実に残酷な仕組みです。北朝鮮の金王朝が存続している理由の一つが、この相互監視体制だとも言われます。ドイツ統一後、シュタージは解散され、保管していた個人情報は公開されます。自分を告発していたのが、友人や家族だったことを知り、人間不信に陥った人も多かったようです。

アカデミー外国語映画賞を獲ったドイツ映画「善き人のためのソナタ」(2006)は、1984年の東ベルリンに暮らすシュタージの職員、劇作家、その恋人である女優に起きる悲劇を描いています。フィクションですが、当時のシュタージと東ドイツ社会を徹底的に研究して製作され、監視社会の残酷極まりない実態を浮き彫りにしていました。ただ、「”善き人のためのソナタ”を聞いた人間は、本当の悪人になれない」というセリフとともに、人間性への希望を残すストーリーになっていました。統一後のドイツでは、アンゲラ・メルケル元首相はじめ、東ドイツ出身者も大いに活躍しているのでしょうが、多くは、監視社会で受けた傷を抱えたまま、生きてきたのではないかと想像します。

北朝鮮、中国、ロシア等を見れば、監視社会は、決して過去の話ではありません。そして、ネット化が進む中、監視社会化は、全体主義国家に限った話ではなくなりつつあります。その対応策として、各国は、プライバシー保護の強化に取り組んでいます。世界をリードしているのが、2018年に適用が開始されたEU一般データ保護規則(GDPR)です。日本のプライバシー保護が、個人名の特定に限っているのに対して、GDPRは、購買履歴といった個人名を特定できない情報にも適用されます。欧州と取引のある企業にも適用されることから、日本企業も対応に大わらわでした。世界の潮流は、明らかにGDPRにあり、日本のプライバシー保護は、既にガラパゴス化していると言われます。

シュタージが、危険人物に対して行った”ツェルゼッツンク(弱体化)”という心理作戦があります。投獄・拷問・処刑ではなく、個人情報を周囲にばら撒く等して、対象者を精神的に追い詰め、社会生活を破綻させる手法です。より積極的には、ハニー・トラップによって離婚を画策する、あるいは手術の際に関係のない臓器を摘出することまで行われたようです。シュタージがたどり着いた最も近代的な大衆管理手法とも言われます。プーチン体制のロシアでも、その進化版が多用されているという説もあります。基本的には、情報操作の一種ですが、ネット社会では、容易に実行することが可能な手法であり、いわゆる”晒し”はじめ、常日頃、ネットで発生している問題とも言えます。日本でも、GDPRのような踏み込んだ対応策が求められていると思います。(写真出典:tripadvisor.jp)

2022年9月8日木曜日

ジェットコースター

かつて、戸塚の奥に「横浜ドリームランド」という大規模遊園地がありました。1964年に、日本のディズニーランドを目指すとして開園されました。大人気だったものの、アクセスの悪さから、次第に客足が遠のき、2002年には閉園されています。大船駅と結ぶモノレールが敷設されましたが、技術的問題で運行休止。アクセスは、バスと自家用車に限定されますが、近隣の宅地開発が急速に進んだこともあり、ひどい渋滞が起こります。その間に、本物のディズニーランドがオープンしたり、他の遊園地、テーマパークが多く開園したこともあり、経営は悪化し、閉園となりました。跡地は、大学や公園になているようです。

横浜ドリームランドには、当時としては最新鋭の絶叫マシーンが揃っていました。80年代の初めに、一度だけ行きましたが、ジェットコースターでは首が痛くなり、バイキングは実に不快でした。それ以降、その類いには、一切、乗らなくなりました。実は、これ、ドリームランドのせいではなく、私の年齢的問題によるものでした。つまり、不思議なことに、年齢とともに、絶叫マシーンが苦手になっていく傾向があるわけです。子供に、ジェットコースターをせがまれた時には困りました。ディズニーランドのビッグ・サンダー・マウンテン、花屋敷のジェットコースターくらいなら付き合えますが、絶叫系は地獄なので、拒否しました。

年齢とともに、絶叫マシーンが苦手になる理由には、いくつかの説があるようです。一つは、防衛本能です。要するに、年齢を重ねると、経験や知識が増すことで、リスクに対する認識が高まり、防衛本能が働くという説です。また、若年期にも防衛本能はあるものの、好奇心が、それを上回るという話もあります。こうした心理学的アプローチに加え、三半規管の平衡感覚と視覚情報のズレがストレス・ホルモンの分泌を促すことに関係するという説明もあります。いわゆる乗り物酔いの原因となる話ですが、加齢とともに、三半規管の敏捷性が失われ、感覚のズレが大きくなるというわけです。これは、ややピンとこない話です。

例えば、自動車の場合、運転手は乗り物酔いを起こすことはありません。平衡感覚と視覚情報にズレが生じにくいからです。ならば、目を閉じて視覚を情報を遮断すればいいようにも思います。ただ、視覚以外の感覚と平衡感覚のズレが生じること、そして視覚情報が無いことによる不安感がストレス・ホルモンの分泌を促すという現象が起きるようです。要するに、年齢の高い人がジェットコースターに乗ると、過剰な防衛反応から、目を閉じる、安全バーを強く握る等することによって、より感覚のズレを生じやすく、かつ経験の少なさから生じる不安感がストレス・ホルモンをより多く分泌するということなのでしょう。

絶叫マシーンには、身長制限があります。安全バーなど設備上の問題から制限しているのでしょう。加えて、近年は、ものによって60歳、65歳以上お断りという制限もあるようです。法律に基づくものではなく、施設独自のルールだそうです。医学的根拠もないのだろうと想像します。恐らく、高齢者による何らかのトラブルが発生する傾向があり、施設側に責任がないとしても、苦情や訴訟リスクを回避するために行っていることなのでしょう。オウン・リスクであることを明示すれば事足りるようにも思え、やや自己防衛に過ぎるようにも思えます。ただ、老人の苦情やトラブルの処理には、時間も労力もかかりますから、理解できる処置のようにも思えます。(写真出典:gigazine.net)

2022年9月7日水曜日

幻兵団

ラストヴォロフ
過日、終戦時に起こった久米島守備隊住民虐殺事件に関するNHKのドキュメンタリーを見ました。久米島に駐留していた30名の日本陸軍通信隊が、島民にスパイ容疑をかけ、20名以上を虐殺した事件です。通信隊は、沖縄本島での敗戦以降、孤立状態にあり、終戦も知らず、住民の離反を恐れ、パニックに陥ったようです。この事件は、永らく知られることがありませんでした。その理由は、島民たちが、戦後、一貫して、口を堅く閉ざしたからでした。虐殺の影には、島民同士による、意図的、あるいは意図せぬスパイ容疑の告発がありました。口を開けば、自分や親族に影響が及ぶ可能性があったわけです。

番組を見ながら、幻兵団を思い出しました。終戦直後、ソヴィエトは、57万人に及ぶ日本兵等をシベリアに連行し、強制労働をさせます。違法極まりないシベリア抑留です。ソヴィエトは、抑留者に赤化教育を行い、共産主義シンパ作り、そして相互監視体制づくりをねらいます。さらに、その中から、日本へ帰国後に、スパイとして活動する要員をピックアップします。それが、いわゆる”幻兵団”です。7万人ともいわれるその実態は、ほとんど分かっていません。ほぼ活動実態が無かったとも、誰もが口を閉ざしたからとも言われます。抑留キャンプで何が起きていたかを語るには、あまりにも微妙な状況が存在したのでしょう。厳しい環境のなかで、食事、待遇、さらには命まで取引材料とされれば、彼らを責めるわけにはいかない面もあると思います。

日本政府は、早い段階で、幻軍団の存在を察知していたようです。米軍と協力して、引揚船到着時に水際作戦を展開します。しかし、ほとんど成果をあげることはできなかったようです。ところが、意外な事件が発生し、実態の一部が浮かび上がります。1954年に起こったラストヴォロフ事件です。当時、ソ連大使館は、公式には認められておらず、元代表部として存在していました。その二等書記官だったユーリー・ラストヴォロフが、突然、失踪します。ラストヴォロフは、実は内務人民委員部(NKVD)が送り込んだスパイでした。任務は、駐留米軍への浸透でしたが、もともとシベリアで抑留者をスパイ化する仕事をしており、日本人スパイも動かしていたようです。本国で、スターリンが死に、ベリヤが失脚すると、身の危険を感じたラストヴォロフは、知り合いの米国人英語教師を介して、CIAに投降します。英語教師の実態は、CIAのスパイでした。

ラストヴォロフは、アメリカで記者会見を行い、日本におけるソ連のスパイは500名、潜在的スパイは8,000人いるとしました。自身は、36人のスパイを動かしていたと証言したとも言われます。直後、元関東軍参謀の志位正二少佐(日本共産党志位委員長の父)が自首します。志位は、GHQの諜報機関に逮捕され、二重スパイを強要されていましたが、ラストヴォロフの亡命を機に自首します。さらに、外務省の事務官3名が逮捕されます。その一人、日暮信則は、取り調べ中、東京地検の4階から飛び降り自殺しています。日暮は、幻兵団の多くを知る男だったとも言われ、以降、ラストヴォロフ事件に関連する逮捕者は出ていません。実際には、東京地検が把握していた容疑者は相当数に上っていたのではないかと想像できます。ただ、活動実態の濃淡、報酬受取の有無、あるいは政府の責任問題等もからみ、幕引きとなったということなのでしょう。

ラストヴォロフのCIAでの証言のなかに、志位正二少佐と同じく関東軍参謀であった瀬島龍三中佐の名前も、スパイとして上がっていたようです。シベリアに11年間抑留された瀬島龍三は、その後、伊藤忠会長、中曽根康弘の顧問等に登り詰め、昭和を代表する財界人になりました。山崎豊子の「不毛地帯」のモデルとも言われました。関東軍参謀として停戦交渉に臨んだ瀬島は、天皇を守るために、50万将兵をソ連に売った、という密約説があり、広く流布されていました。現在では、この密約説は、否定されているようですが、1979年、東京でアメリカに亡命したKGB中佐スタニスラフ・レフチェンコの証言のなかで、コードネーム「クラスノフ」として名前があがるなど、どうも胡散臭さがつきまとう人でした。実態が無いから幻なのか、実態が見えないから幻なのか、いずれにしても幻兵団は興味深い戦後史だと思います。(写真出典:imagelink.kyodonews.jp)

2022年9月6日火曜日

クール・ハンド・ルーク

一番好きな映画俳優を聞かれたら、迷うことなく、ポール・ニューマンと答えます。自由と独立を尊重する真のアメリカ人というイメージがあります。知的ですが、そればかりではなく、反逆的ですが、反逆のための反逆ではなく、少年のようですが、その本質は真実に対する誠実さだと思います。では、ポール・ニューマンの映画では何が好きかと聞かれたら、これまた、迷うことなく「暴力脱獄(Cool Hand Luke)」と答えます。スチュアート・ローゼンバーグ監督による1967年の大ヒット映画です。権力に抵抗し続ける不屈の囚人ルークを描いた映画です。時代は、ヴェトナム戦争の拡大期にあり、反戦運動が動き始めた頃でした。また、主人公の名前ルークは、”ルカの福音書”から名付けられ、随所にキリストのイメージが埋め込まれていました。

舞台は、1950年代初めのフロリダの刑務所です。足を鎖で繋がれ、道路工事等を行う、いわゆるチェイン・ギャングたちの話です。新入りのルークは、囚人たちのボスとの喧嘩やポーカーにおける大胆不敵さとユーモアのセンスで皆の尊敬を集めます。母親が危篤との知らせに、ルークは脱獄を試みます。捕まっても、捕まってもルークはあきらめません。酷い懲罰を加えられたルークは、看守に媚びへつらうようになり、仲間たちの信頼を失います。しかし、それは作戦でした。隙を見せた看守の目を盗み、ルークは、また脱獄します。ルークは、教会で祈りを捧げているところを看守たちに包囲され、撃たれます。映画は、ルークの死をはっきりさせないまま終わります。

ルークは、キリストの象徴です。ジョージ・ケネディ演じる囚人のボスは、ルークの”使途”そのものです。恐らくルークは死んだのでしょうが、それを単なる死と捉えることはできません。少なくとも、仲間のチェイン・ギャングたちの心の中で、ルークは生き続けていたのですから。この映画を見た時、私は中学生でしたが、自由であることへのこだわり、体制に媚びない不屈の闘志、仲間たちの連帯等、生きる上での大きな教訓を得た映画だと思っています。今でも、多くのシーンを記憶しています。50個のゆで卵を食べる賭け、穴を掘っては埋めさせる懲罰のシーン等も印象的でしたが、実は、最も印象的で、いつまでも忘れられないのは、ルークの不屈さを伝える笑顔であり、それはポール・ニューマンにしかできない笑顔でした。

この映画は、映画史に残る名言も生んでいます。脱獄し捕まったルークを打ち据えた所長が言います。「What we've got here is failure to communicate.・・・」直訳すれば、意疎通が欠けていたようだ、ということになりますが、誤解があるようだ、あるいは話の通じない奴がいるようだ、といった感じでしょうか。一定年齢以上のアメリカ人なら、皆、知っているセリフです。AFI(American Film Institute)が選出した「アメリカ映画の名セリフ・ベスト100」でも11位にランクされています。1950年代に豊かさを謳歌したアメリカは、60年代に入ると、様々な社会的矛盾に直面します。ヴェトナム戦争、人種問題、世代間闘争、家庭の崩壊等々。その全ての根底に”failure to communicate”があったわけです。まさに時代を象徴する言葉だったわけです。

ポール・ニューマンは、マーロン・ブランドやジェームス・ディーンと共に、アクターズ・スタジオに学んでいます。しかし、世に出るのはかなり遅れました。1956年の「傷だらけの栄光」が出世作となりましたが、ジェームス・ディーンの急死を受けて回ってきた役でした。その後、熱いトタン屋根の猫、ハスラー、ハッド、動く標的、暴力脱獄などのヒット作に出演します。最もヒットした作品と言えば、「明日に向かって撃て」(1969)、「スティング」(1973)ということになるのでしょう。ポール・ニューマンは、自動車好きでも知られ、ル・マン24時間レースで2位になったこともあります。また、自ら食品会社「ニューマンズ・オウン」を設立し、成功させています。彼の似顔絵が描かれたドレッシングやパスタ・ソースは、アメリカの定番商品でもあります。ポール・ニューマンは、その事業で得た利益の全てを、恵まれない子供たちの教育ファンドに寄附したことでも知られます。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年9月5日月曜日

御座候

骨折して自宅療養をしていた際、無性に鍋焼きうどんと今川焼が食べたくなりました。鍋焼きうどんは、京都の冨美家から取り寄せ、今川焼は、大好物の「御座候」をよく買ってきてもらいました。 都内には、今川焼の名店も多いのでしょうが、近くの御座候はありがたい存在であり、何よりも美味しいと思います。御座候は、1950年、姫路に開店しています。まだ、戦後の物不足が続いていた時代ですが、お客さまは本物の回転焼を求めていると感じた創業者は、入手困難だった上白糖や北海道産小豆の入手に奔走します。結果、通常の倍という値段の回転焼を販売することになりましたが、これが大ヒットとなります。

ちょうどその頃、朝鮮特需で、国民は忙しくなり、懐具合も多少は上向き、そろそろ甘いものが欲しくなった頃だったわけです。時流に乗った御座候は、順調に事業を拡大し、現在では、関西、東海、首都圏を中心に77店舗を展開しています。御座候は、高級品だったので、回転焼とは呼ばれず、そのまま御座候と呼ばれてきたようです。近年の関西では、回転焼という言葉は廃れつつあり、代って御座候が一般名詞化しているとも聞きます。ちなみに、御座候という風変わりな屋号は、「お客さまにお買い上げいただきありがたく御座候」という気持ちが込められているだそうです。

今川焼は、18世紀後半、江戸の今川橋のたもとで売り始めたことが起源だと聞きます。文献上も、江戸の今川焼が初出さとされています。現在、今川橋は存在していませんが、神田駅の東側に、交差点名として残ります。今川焼は、全国各地で、実に多様な名前で呼ばれています。関東では今川焼ですが、関西は回転焼、全国的な主流は大判焼だと言われています。他にも、おやき、あじまん、太鼓焼、二重焼、あんこ饅頭等、枚挙の暇が無いほど各地各様の名前が存在します。回転焼は、生地を回転しながら焼くことからきているようです。最も一般的な大判焼は、焼き器の名称から広まったようです。

1950年代中期、獅子文六の「大番」という小説が大ヒットします。昭和初期の兜町を舞台に、相場師たちの世界が描かれています。主人公の「ギューちゃん」はじめ、実在する相場師たちがモデルだったこともあり、評判になったようです。映画化も、TVドラマ化もされています。主人公の出身地が愛媛という設定だったので、地元の回転焼き器メーカーである松山丸三が、自社製品を「大番」と命名します。しかし、それでは著作権に抵触する恐れがあることから、「大判」と変えて全国に出荷します。これが、大判焼という名前が、全国に広く定着した理由と言われます。

今川焼は、江戸期に江戸から全国に広がったのではなく、また、全国で同時発生したものでもなく、この松山丸三の回転焼き器「大判」の普及によって全国に広がったということなのでしょう。焼き器の製品名を、そのまま商品名にした店が多かったわけです。大判と言えば、江戸期の金貨である大判・小判を想起させます。ただ、1950年代のことですから、大判・小判は知ってはいても、既に古くさい代物だったはずです。そこで、回転焼き器「大判」を導入した店のなかには、それぞれ工夫を凝らした名前を付ける店も登場し、各地各様の呼び名が生まれたということなのでしょう。(写真出典:shinume.com)

2022年9月4日日曜日

ミスター・ベース

「ブルーノート東京」は、1988年、青山の骨董通りにオープンしました。今の場所には、1998年、10周年を期して移転しています。オープン以来、海外の大物ミュージシャンのライブを売りにしてきました。私は、NYから帰った1992年以降、30年間、足繁く通いました。ここのところ、コロナ・ウィルスの世界的感染によって、海外ミュージシャンの招聘が難しくなり、ブルーノート初登場となる国内ミュージシャンのライブを多数行ってきました。それはそれで良かったようにも思います。ただ、ブルーノートへ行く機会は減りました。この夏から、ようやく来日ミュージシャンのライブが再開されました。久々のブルーノート・ライブで、久々のロン・カーターを聞いてきました。

今回は、ゴールデン・ストラカー・トリオとして、ドナルド・ヴェガのピアノ、ラッセル・マローンのギターというセットでした。一言で言うなら、珠玉のライブでした。85歳になったミスター・ベースは、杖をつきながらステージに上がりました。多少、心配になりましたが、その想像力あふれるプレイ・スタイルは衰えていませんでした。ドラムのないトリオは、知的で室内楽的な心地良さもありますが、十分にスリリングでもあり、何よりロン・カーターのベースをしっかり楽しむことができました。セットリストは、ブルースあり、ボサノヴァあり、バッハ的変奏曲ありと多彩でした。MCも、いつもどおり、簡潔で、落ち着いた、どこか教授っぽいロン・カーター節のままでした。

ロン・カーターは、クラシック奏者を目指して、ロチェスターのイーストマン音楽学校で学びました。ただ、オーケストラへの参加は叶いませんでした。当時のクラシック界では、まだ人種差別の壁が厚かったようです。チコ・ハミルトン・グループを皮切りに、ジャズの世界に入ったロン・カーターは、1963年、26歳で、マイルス・デイビスに見いだされ、彼のクインテットに参加します。23歳のハービー・ハンコック、17歳のアンソニー・ウィリアムスと共に、マイルスの鉄壁のリズム・セクションを構成しました。ハービー・ハンコックによれば、ある日、突然、電話があり、「明日1時に俺の家に来い」とだけ言って切れます。名乗りもせず、家の住所も告げず。でも、その特徴的なしゃがれ声は、誰もが知っている帝王の声でした。恐らく、ロン・カーターも似たような呼び出しがあったのでしょう。

1964年、サックスが、ジョージ・コールマンからウェイン・ショーターに変わると、多くの名盤を生む、いわゆる黄金クインテットの時代を迎えます。ただ、私は、ジョージ・コールマン時代のマイルス・デイビス・クインテットも大好きです。世界中でコンサートを行い、吹きまくった時代です。マイルスとリズム・セクションが引き起こす化学反応がスリリングで、まさにモダン・ジャズの醍醐味を味わえます。リズム・セクションは、単にマイルスのアドリブに反応するだけでなく、互いに刺激しあうというインタープレイの極致を見せます。ロン・カーターは、後に、サイドマンとして多くのセッションに参加しますが、恐らく、この時代の経験が、ミスター・ベースことロン・カーターを形成したのだと思います。

1960年代も末になり、マイルスが、フュージョンへと移行し、いわゆるエレクトリック化すると、ロン・カーターは、クインテットを退団します。以降、様々なバンドに参加する傍ら、バロックやボッサノヴァにも傾倒するなど、多彩な活動を行ってきました。モダン・ジャズを代表するベーシストとして人気は高く、大学での教鞭もとっています。何度も日本公演を行っていますが、2021年には、音楽文化発展に功績があったとして旭日小綬章が贈られています。(写真出典:cdjournal.com)

2022年9月3日土曜日

隠里

鶴富屋敷
新潟市内で、最も好きな店の一つが「秋山郷」です。郷土料理と地酒の店ですが、何よりも、旬のものをおいしく出してくれるところがお気に入りです。色鉛筆作家でもある美人女将と誠実な板さんが仕切る小ぶりな店です。大人気店ゆえ、なかなか予約が取れないので、店を広げたらどうか、と女将さんに言ったことがあります。私の目が届く範囲でやりたい、との答えでした。秋山郷の品質の高さを物語る話です。女将さんが十日町の出身なので、秋山郷と名付けたと聞きました。秋山郷は、新潟県と長野県の県境に位置します。深い山中にあり、陸の孤島とも呼ばれ、平家の落人の隠里として知られます。そのせいか、美人の産地としても有名です。

今でもアクセスが悪く、私も行ったことはありません。秋山郷に関して、忘れられない話があります。昭和の初め、測量のために県職員が秋山郷に入ると、村人が「まだ源氏は栄えているのか?」と聞いたと言うのです。かなり盛った話だとは思いますが、忘れがたい話でもあります。平家の落人伝説が残る土地は、全国に存在し、かなりの数に上ります。平家の末裔のみならず、平家の家臣や協力者の末裔も含まれるのでしょう。また、平家の落人と言えば、壇ノ浦の合戦の落ち武者というイメージがありますが、治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦は、全国各地で、前後6年間に渡り戦われています。従って、落ち武者も各地に存在するわけです。また、源氏勢による追討が熾烈だったために、落人たちは、より奥地へ、より遠方へと落ちていったのでしょう。

平家の隠里とされる土地は、青森県から沖縄県まで広く分布しますが、やはり中四国、九州に多いように思えます。平家最後の戦いが、一ノ谷。屋島。そして壇ノ浦へと続いたからなのだと思います。中国地方では、福山の平家谷や尾道の百島、四国では祖谷渓、九州では五家荘、椎葉村、喜界島はじめ奄美列島などが良く知られています。なかでも、大分県の椎葉村は、悲恋の里としても有名です。椎葉村は、宮崎と熊本の県境にあり、山深い地域です。ここに逃れた平家残党に、那須与一の弟である那須大八郎の追討軍が迫ります。しかし、残党に戦意がないことを知った大八郎は、攻撃をせず、村に居座ります。平清盛の孫娘とされる鶴富姫と恋仲となった大八郎ですが、鎌倉から帰還命令が下り、姫と子供を残して、泣く泣く椎葉村を離れます。今も、椎葉村には那須家が存続し、鶴富姫が住んだとされる家が残ります。

椎葉村から熊本へ山中を進むと、五家荘に至ります。平重盛の三男・清経の一党が、緒方と名を変え、隠れ住んだとされる一帯です。ここには菅原道真の子孫も、隠れ住んでいたとされます。五家荘には、平家の官女であった鬼山御前の話が伝わります。屋島の戦いのおり、那須与一が、平家の軍船に乗った官女が掲げた扇を射抜いた話は、あまりにも有名です。その官女こそ玉虫御前、後の鬼山御前であり、清経に同行し五家荘に隠れ住んでいました。那須与一の子・小太郎は、平家追討のために五家荘に入ります。鬼山御前は、他の平家集落に行かせないよう、小太郎を引き留めます。いい仲になった二人は夫婦となり、子を設けました。鬼山御前は、乳の出がよかったと言われ、現在も乳の神様として祀られています。

ちなみに、五家荘の南には五木があります。五木には、五家荘の平家残党を見張るために源氏勢が住んでいました。源氏勢に虐げられた土地の人々が歌ったのが「五木の子守歌」だとされます。いずれにしても、ほど近い平家の隠里に、良く似た話が伝わることは不思議なことです。隠里が、源氏の追討勢に見つかった際、那須与一の血が入っていると言い張ることで、お目こぼしをねらったのではないかと想像します。いわば防御策の一環だったのでしょう。那須大八郎も小太郎も実在は疑われていますが、九州での源氏の追討が激しかったことは間違いないのでしょう。息をひそめて、ひたすら隠れ続けた秋山郷の残党に比べ、常に敵の気配を感じながら過ごさざるを得なかった九州の残党の知恵だったように思えます。(写真出典:pmiyazaki.com)

2022年9月2日金曜日

「NOPE」

監督:ジョーダン・ピール    2022年アメリカ

☆☆☆+

(ネタバレ注意)

コメディアン、脚本家でもあるジョーダン・ピールの長編3作目です。大ヒットした処女作「ゲット・アウト」は、低予算映画ながら、アカデミー作品賞にノミネートされ、脚本賞を獲得した新感覚ホラー・コメディでした。ボディ・ホラーが基本プロットですが、人種差別の現状とリベラルな白人を強烈な形で風刺していました。特にアメリカの白人にとって、かなりキツいコメディだったと思います。コメディアンでもあるジョーダン・ピールらしい映画作りと言えます。コメディは、いつも恐怖と裏表一体の関係にあります。SFホラー・コメディである本作は、「ゲット・アウト」よりも奥の深い映画になっています。今回、ジョーダン・ピールがターゲットにしたのは、アメリカの映像産業であり、大衆文化です。

本作は、映画やTVといった映像産業に関わるメタファーにあふれています。監督の思い入れの強さを感じます。一つひとつが、示唆に富み、強烈な風刺にもなっていますが、タマが多すぎて、観客がテーマにフォーカスしにくい状況を生んでいるように思います。その点を除けば、☆をもう一つ加えたくなるような傑作だと思います。人を食べるUAP(unidentified aerial phenomenon)と証拠映像というメイン・プロットが、既に象徴的です。監督は、スペクタル依存が高まるハリウッドに警鐘を鳴す、と語っているようです。目があった人間を食べるUAPは、映像産業そのもののメタファーです。証拠映像を撮影しなければ、人に信じてもらえない、また、それがあれば大金持ちになれるというプロットが重ねられます。

主人公は、映画撮影用の馬を飼育していますが、十分に調教された馬であっても、思いどおりにはなりません。これも映像産業が持つ社会的リスクのメタファーなのでしょう。TVの元子役だったテーマ・パークのオーナーが登場します。彼は、ヒットTV番組に出演中に受けたひどいトラウマを抱えています。番組の主役だったチンパンジーが暴走して、キャストを襲ったのです。これは、ほぼ実話のようです。チンパンジーは、馬と同じくコントロール不能な映像のリスクを象徴しています。恐らく、TVが持つ同時性が、より大きなリスクを抱えていることを示しているのでしょう。事件の起きたスタジオに、何故か直立する被害者の靴が象徴的です。認識されていないリスクが、いかに恐ろしいものであるかを暗示しています。

UAPは、庵野秀明の新エヴァンゲリオンに登場する”天使”にインスパイアされたものだそうです。天使のようでもあり、海洋生物的でもありますが、興味深いのは、リアルさを追求した昨今のモンスターとは大違いであることです。これもハリウッド批判なのでしょう。とても印象だったのは、音響の素晴らしさです。なかなか全体像を現わさないUAPを音で表現しています。ジョーズの音楽を思い出します。音響が準主役の映画と言ってもいいかも知れません。「ゲット・アウト」にも主演したアカデミー男優ダニエル・カルーヤは、今回も、抑えた演技でいい味を出しています。「ミナリ」でアカデミー賞にもノミネートされた韓国系アメリカ人スティーブン・ユンが、メリハリの効いた良い演技をしています。

主人公の家族は、映画の誕生に関わっていたという設定になっています。1878年に、エドワード・マイブリッジが制作した走る馬のクロノフォトグラフィーで、騎手を務めていたのが先祖だというのです。スティール写真を連続して見せるクロノフォトグラフィーは、フィルム映像の原型とされます。このマイブリッジのクロノフォトグラフィーは有名でも、騎手が黒人だったことは知られていません。つまり、黒人を差別してきたハリウッドというメタファーなのでしょう。あるいは、映画が持つ政治性を意味しているのかも知れません。制作者が意図を持って作った映像を、多くの人が同時に目にするという特性からして、映画は本質的に政治的だと言えます。とすれば、映画のメタファーであるUAPは、政治そのものだとも言えます。(写真出典:sports.yahoo.com)

2022年9月1日木曜日

流言飛語

1923年9月1日に発生した関東大震災から、100年が経とうとしています。マグニチュード7.9の巨大地震は、相模湾北部を震源とし、関東一円に大きな被害をもたらしました。マグニチュード9クラスの地震は、日本の歴史上、東日本大震災を含め、数回、発生していますが、被害規模において、関東大震災の死者10万5000人を超える災害は存在しません。世界的に見ても、10指に入る被害規模です。震源に近い神奈川、そして地盤の弱い東京下町での被害が多く、かつ死者の9割以上が焼死しています。ちょうど昼食の支度時であり、木と紙でできた民家が密集する地域に、おりからの強風が吹き付けるという最悪の条件が重なりました。なかでも、10万人ともいわれる人々が避難していた本所の陸軍被服本廠跡地を襲った火災旋風は、一瞬にして38,000人の命を奪いました。

火災の他に、建物の倒壊、津波、土石流、列車事故でも多くの人命が失われています。そして人災以外の何物でも無い朝鮮人虐殺でも、多くの人命が失われています。正確な犠牲者数は、今でも不明のままです。当時の司法省は、233名の朝鮮人、朝鮮人と間違えられた日本人58名、中国人3名が犠牲となったと報告していますが、実際には、もっと多かったのではないかとも言われています。虐殺の多くは、震災発生直後から広がったとされる流言飛語に基づき、急遽、各地で組成された自警団によって行われています。なかには、自警団が警察を襲撃して、保護されていた朝鮮人を殺したケースもあります。また、朝鮮人か否かを判断するために、語頭の濁音を発音させるなど、いわゆるシボレスも行われ、方言しか話せない日本人が誤って殺されたケースもあります。

流布した流言飛語は、朝鮮人が放火している、集団で暴行を働いている、井戸に毒を入れている、といったものでした。背景には、朝鮮半島や台湾での反日運動、シベリア出兵、あるいは国内における社会主義者の台頭といった社会不安があったと言われます。当時は、ラジオ放送開始前であり、唯一の情報源だった新聞社も震災で機能が停止しました。いわばこの世の終わりを目の当たりにした人々は、不安と思考停止に陥り、砂に水が染みこむように、流言飛語を受け入れていったのでしょう。警察は、流言飛語の発生を察知し、警戒するよう内部に指示します。ただ、これが外部に流出し、信頼すべき筋の情報として、火に油を注ぐことになりました。すべてが、自警団による虐殺というマス・ヒステリアに向かって、転がっていったわけです。

流言飛語が、自警団のなかで虐殺へとつながるプロセスは、容易に想像できます。小耳にはさんだ情報を自慢げに伝える人、権威主義的な風土のなかでの警察情報の重み、理性的な判断を押しつぶす声高で威勢のいい発言、結局、少数派になって非難されたくないという心情が働き、マス・ヒステリアが生み出されていきます。集団が常に持っている潜在的なリスクです。会社生活のなかでも、似たような光景を、幾度ととなく目にしてきました。自警団の数は、4,000を超えていたようですが、全てが朝鮮人を虐殺したわけではありません。虐殺者は、ごく一部であり、軍や警察、そして一般人も、多くの朝鮮人を保護しています。震災後、虐殺者たちは逮捕されますが、情状酌量され、不起訴処分になっています。政府は、虐殺か否かに関わらず、震災で亡くなった朝鮮人に、日本人の10倍以上の弔慰金を支給しています。

東日本大震災直後に訪れた三陸の町で、支援の網からもれた外国人労働者たちが、食料を求めて、略奪を行っているという噂を聞きました。また、別な町では、自暴自棄になった男たちが、手当たり次第にレイプを繰り返しているという噂も聞きました。事実か否かは分かりませんが、関東大震災の朝鮮人虐殺を思い出し、ゾッとしました。恐らく、似たような話は、各地にあったのでしょう。しかし、マスコミは、そうした報道をしていません。事実確認がとれなかったからだとは思いますが、一部事実が確認できたとしても、あえて報道しなかったのかもしれません。流言飛語は昔の話ではありません。むしろ、SNSの時代、その流布は、早く、広く、過激になると思われます。また、マス・ヒステリアの発生は、いつの世でも起こり得る集団の宿命とも言えます。関東大震災の教訓は、いつまでも、しっかりと伝えられるべきだと思います。(写真出典:huffingtonpost.jp)

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