2022年9月14日水曜日

ベニハナ・オブ・トーキョー

1980年代後半のNYでは、日本人向けは別として、和食店は高級な店が多かったと思います。寿司の知名度は上がりつつありましたが、食べたことがない人が多く、スシ・バーで日本語でネタを注文できるのは、お金持ちのステイタスでした。そんななか、”Teppanyaki(鉄板焼き)”は、日本っぽい食の代表として、一人、気を吐いていました。料理人が、目の前の鉄板で、様々なパフォーマンスを見せながら、ステーキ、ロブスターなどを焼くスタイルです。1964年に、ロッキー青木が、マンハッタンにオープンした「BENIHANA OF TOKYO」が大当たりして、ベニハナの店舗だけでなく、類似店が、そこここにありました。

食事にパフォーマンスを持ち込むというのは、実に画期的なアイデアでした。ただ、このTeppanyakiスタイルは、ロッキー青木が考案したものではありません。神戸の「みその」が、1945年に始めたと言われています。「みその」は、今でも、「元祖鉄板焼きステーキ」を名乗っています。鮨屋から着想を得たという新しいスタイルは、すぐに外国人の人気を集めたようです。そもそも料理人のパフォーマンスは、味には一切関係がありません。あくまでも外国人向けにエキゾティシズムを売っていたわけです。ベニハナに来店するアメリカ人も、料理人のパフォーマンスに、いちいち喜んでいたものです。あたかもディズニーランドで、ショーを見ているような感覚だったのでしょう。

ロッキー青木こと青木廣彰は、東京中野で、俳優・タップダンサーの父のもとに生まれます。慶応大学でレスリング部に所属し、日本選抜選手として渡米します。青木は、そのまま米国に残り、レスリング選手として活躍します。ローマ五輪では日本選手団の補欠、東京五輪では米国代表に選ばれています。ただ、国籍が日本のままだったので出場はできなかったようです。ベニハナを経営する傍ら、、バックギャモンの全米チャンピオン、パワーボート世界大会で第2位、また気球での大西洋横断も成功させています。ビジネスでも、スポーツでも、アメリカでは、よく名前の知られた日本人でした。若い頃、青木は、マンハッタンで、アイスクリームの屋台を引いていた時期があり、カクテル・パラソルを刺すアイデアでウケていたようです。

カクテル・パラソルも、青木の発明ではありません。その起源には諸説あるものの、既に戦前から、エキゾティックなカクテルには付き物でした。どうも、青木の発想の根源には、エキゾティシズムを商売にするという発想があるように思えます。つまり、和食文化を伝えるのではなく、アメリカ人の日本観にすり寄って商売をするということです。その発想の根底には、差別や偏見の強いアメリカ人のなかで、単身、戦ってきた経験があるのでしょう。偏見をはねのけるべく、レスリングで実力を磨いたわけですが、それでも偏見は、簡単には消えなかったはずです。ならば、その偏見を商売にしてやろうと思ったのではないでしょうか。他のスポーツへの挑戦も、アメリカ人を見返してやるという思いからだったのでしょう。

正直なところ、Teppanyakiの店に行くことには抵抗がありました。一緒に行ったアメリカ人も、あるいは子供たちも喜びます。ただ、私は、パフォーマンスを見せる日本人料理人の顔をまともに見ることができませんでした。ご当人たちがどう思っていたのかは知りませんが、そこに卑屈さを感じてしまうからです。”Japan as No.1”と言われた時代、飛ぶ鳥を落とす勢いの日本企業の一員としてNYに乗り込んだ駐在員と、差別と偏見のなかで戦ってきた渡米者たちの意識の違いは、とてつもなく大きかったと思います。もちろん、ロッキー青木を責めるつもりはありません。むしろ、その努力に敬意を表します。当時、彼らが経験した偏見は、敗戦国日本の悲哀そのものだったと思うからです。(写真出典:amazon.co.jp)

マクア渓谷