2021年12月31日金曜日

年越そば

今年も、あと3日となりました。新型コロナ・ウィルスは、オミクロン株の感染拡大は気になるものの、感染数が落ち着きを見せていることから、いつも通りの年の瀬が戻りつつあるようです。TVでは、2年振りとなる帰省客で混雑する空港、駅、高速道路、そして、正月向けの買い物客で賑わう街が映し出されています。大晦日のTVニュースでは、御徒町の雑踏や来年の干支などが定番ですが、夜遅くまで混雑する蕎麦屋の映像も必ず登場します。麻布十番の更科堀井などは、TV朝日が近いこともあり、毎年、見ているような気がします。

20年以上前のことですが、年越し蕎麦は神田の藪に限ると言う上司がいて、仕事納めの日、納会の後、幹部だけで藪蕎麦へ通っていた時期があります。大晦日ではないものの、既に大混雑で、長蛇の列が出来ています。寒い中、1~2時間待たされると、勢い、同じくらいの時間は飲まないと気が済まなくなります。年越し蕎麦を食べるのは当然としても、なにも混み合う蕎麦屋へ出向いて食べる必要はないのに、と思ったものです。年越し蕎麦を、蕎麦屋で食べるか、家で食べるかは、その家々の習慣によるのでしょうが、東京都心で生まれ育った人は、蕎麦屋に行きたがる傾向があり、私も含め、田舎者は、家で、年越し料理の一部として食べることが多いように思います。

蕎麦切りは、16世紀、信州で生まれ、その後、江戸で大人気となったと聞きます。当然、年越し蕎麦は、江戸期に始まり、定着した風習ということになります。江戸中期の文献に、商家での三十日蕎麦という習慣が記載されているようです。要は、月次決算後、今月もご苦労さまでした、来月も頑張りましょう、ということだったのでしょう。それが、年越し蕎麦につながったと言われます。忙しい農家などにとって、打つ手間のかかる蕎麦やうどんなどは、ハレの日、あるいは節目の食べ物でした。その伝統が反映されているのでしょう。いずれにしても縁起物であり、年越し蕎麦を食べる理由も後付けされ、様々、伝わっています。

最も多く言われているのは、蕎麦は細く長いので、あやかって長寿を願う、ということだと思われます。また、金の細工師が金粉を集めるためにそば粉の団子を使うことから富に恵まれるという説もあります。あるいは蕎麦は、厳しい気候でも育つことから、苦境にも負けない強さを得るという話もあります。ただ、いずれの話も、大晦日に食べる必要性は乏しく、新年の縁起物でもいいわけです。蕎麦は、切れやすいので、今年の災いを切って、来年に持ち越さないという説もあります。これなら、大晦日に食べる意味があります。実のところは、恐らく、大晦日、大忙しの商家にとって、事前に打っておけば、茹でるだけという簡単な食事として重宝したということではないかと思います。

日本における最初の新型コロナ感染は、2020年1月15日に確認されました。パンデミックならば、収束まで、最低3年かかるだろうと思っていました。もうすぐ2年が経ちますが、未だ終わりは見えていません。来年中に、ワクチンのブースター接種が行き渡り、治療薬が普及することを期待しますが、もう少し時間がかかりそうです。今年の年越し蕎麦は、疫病退散を願いながら、すすり上げることにしようと思います。(写真出典:gnavi.co.jp)

2021年12月30日木曜日

「ドント・ルック・アップ」

 監督:アダム・マッケイ  原題:Don't Look Up   2021年アメリカ

☆☆+

まずはキャストの豪華さに驚きです。ジェニファー・ローレンスとレオナルド・ディカプリオを並べたうえで、メリル・ストリープ、ケイト・ブランシェット、マーク・ライランスをからませます。ここまでオスカー俳優を並べられると、見てみようかという気にもなります。さらにタイラー・ペリー、ジョナ・ヒル、ロン・パールマンで脇を固め、アリアナ・グランデ、ティモシー・シャラメで若い人々にもアピールしています。他にも、ラッパー、コメディアン、TVアンカーなど有名人をちりばめています。まるで昔の東宝や松竹のお正月映画のようです。製作費のほとんどが、ギャラに使われたのではないでしょうか。

監督のアダム・マッケイは、明らかに、スタンリー・キューブリックの「博士の異常なる愛情」を意識していると思います。コメディ専門の監督にとって、「博士の異常なる愛情」は、あこがれ以上の存在であり、一度は挑戦してみたい、と思うものなのでしょう。政治家批判、SNS批判、マスコミ批判を展開し、かつ現代的で、スタイリッシュな仕上げを狙ったものと思われます。画面は、スティーブン・ソダーバーグを意識したところもあります。ところが、結果的に、どれもこれも中途半端で、かつ全体は冗長になってしまいました。ジェニファー・ローレンスは、孤軍奮闘、映画のレベルを維持しています。さすがの存在感だと思います。他の名優たちは、それぞれ勝手に演技を楽しんでいるような印象です。

TV界出身のアダム・マッケイですが、コメディ中心に映画を撮ってきました。さすが「サタデー・ナイト・ライブ」を仕切った人だけに、笑いのツボは心得ています。ただ、あくまでもウケ狙いの傾向が強く、いまひとつ映画になりきらない面があります。2018年の「バイス」などでは、作風に多少の変化を感じましたが、本作では元に戻った感じです。TVの枠内なら、それで済むのでしょうが、映画になると、筋の通ったテーマを中心にドラマを展開させないと、成立しない世界なのだと思います。そこそこ楽しめるのですが、テーマが絞りきれず、映画の売りだった豪華キャストも、逆に、この映画の弱点になっているように思われます。

マーク・ライランスが演じるのは、GAFAの創業者たちをひとまとめにしたような人物です。膨大な資産と影響力で政府を牛耳っているという設定です。日頃は、宗教めいた話をしていますが、実際のところは、地球よりも人類よりもビジネス最優先という人物であり、巨大IT系企業を皮肉っています。最近、IT系創業者たちの宇宙愛が加熱気味ですが、そのことを話題にしただけで、深掘りが足りません。まるでドリフターズのコントのようです。TVのニュース番組の司会者を演じたケイト・ブランシェットとタイラー・ペリーは、見事にアメリカのニュース番組を再現することで、しっかり皮肉を効かせています。

名優たちや人気者を集めたことで、多少グレードアップしたものの、やはり、いつものアダム・マッケイ映画でした。ラスト・シーンの混乱も、象徴的です。移住先の星のシーンで終わればいいものを、置き去りにされた大統領の息子が地球で一人生き残るというラストを加えています。意味不明です。皮肉な結果で面白いよね、というだけの発想だったように思えます。テーマが明確で、テーマへのこだわりがあれば、このようなラストはあり得ないはずです。(写真出典:theriver.jp)

2021年12月29日水曜日

メール・オーダー

Pryce Pryce-Jones
2021年秋、エディー・バウアーが日本から撤退しました。エディー・バウアーは、1920年、シアトルで、テニス用品店としてスタートしました。1936年、世界初となるダウン・パーカーを発売したことで知られます。2000年代に入ると、本国で2度倒産し、身売りせざるを得ませんでした。日本撤退は、売上不振が原因ですが、アウトドアからカジュアル・ウェアへと展開したことで、ブランディングがブレたためだと言われてます。L・L・ビーンと並んで、アメリカを代表するアウトドア・ウェア・メーカーであり、長い歴史を持つメール・オーダー、いわゆる通信販売でもよく知られた会社でした。

1912年、メイン州フリーポートに創業したL・L・ビーンは、”ビーン・ブーツ”と呼ばれるゴムボトムのハンティング・シューズ、あるいはアメリカ人のアウターの定番”フィールド・ジャケット”が有名です。大統領たちもカタログ通販で購入していました。アメリカの丈夫で頑丈なアウトドア・ウェアは、登山、釣り、ハンティングといった趣味の分野だけではなく、田舎で一次産業に従事する人たちにとっても、ジーンズ同様、なくてはならないアイテムです。一方、広すぎる国土では、実店舗へのアクセスが極めて悪く、鉄道と郵便小包が発展するとともに、メール・オーダーが普及したのは当然だったのでしょう。

アメリカの通信販売は、19世紀末、シアーズ・ローバックのダイレクト・マーケティングによって本格化したと言われます。シアーズのカタログは、消費者の聖書と呼ばれるほど広範に行き渡っており、衣料品、日用品から、家や車まで掲載されていました。シアーズは、モータリゼーションの到来とともに、ショッピング・モールの中心として実店舗展開を加速、80年代、ウォルマートに抜かれるまで、全米一の小売業でした。近年、ウォルマートやシアーズといった実店舗は、アマゾンはじめネット通販に押されっぱなしです。通販でアメリカを征したシアーズが、ネット通販に負けるという皮肉な展開になっています。

世界最初のカタログは、15世紀末、ヴェネツイアの出版業者が作った本のカタログだとされます。本格的なメール・オーダーは、19世紀、ウェールズの事業家プライス・プライス・ジョーンズによって開始されました。ジョーンズは、メール・オーダーのパイオニアと呼ばれています。ウェールズ名産のフランネルが主力商品でしたが、実は寝袋を発明したのもジョーンズです。彼は、鉄道の駅の隣に、自前の郵便局と倉庫を作り、迅速な発送を実現し、その顧客を世界中に広げました。ヴィクトリア女王、ナイチンゲール、あるいはロシア軍も、彼の顧客だったそうです。鉄道の発展は当然ですが、1840年の郵便改革が、ジョーンズのビジネスを生んだと言えます。

私は、Amazonのヘヴィー・ユーザーです。アマゾン・ジャパンができる前から、シアトルのAmazonへ、CD等を注文していました。その後、CDだけではなく、ほとんどの書籍をアマゾンで買うようになり、取扱品目が拡大してからは、実に様々な物を買っています。品揃え、無料の配達、早い配達が、アマゾンの利点なのでしょうが、なにせ、思いついたら、24時間、いつでも、すぐに買えるところがネット通販最大の強みだと思います。店舗へ出向く手間がないことはもちろんのこと、考え直す時間を与えないことも、販売量を増やすポイントなのでしょう。本について言えば、欲しい書籍が明確な場合、アマゾンはとても使い出があります。とは言え、たまには本屋を冷やかし、新しい本と出会うことも必要ではあります。(写真出典:newtowan.org.uk)

2021年12月28日火曜日

白菜と角煮

初めて紫禁城を見た時には、その規模に腰を抜かしました。東京ドーム15個分の土地に、大小1,000近い建造物が並びます。欧州最大といわれるマドリード王宮の部屋数は2,800。対して、紫禁城は9,000。現存するなかでは世界最大の王宮と言っていいのでしょう。紫禁城の北に位置する景山から見下ろせば、黄金色に輝く瑠璃瓦が大海のごとく広がり、この世の物とも思えぬ光景でした。白髪三千丈、後宮三千人等といった誇張表現を好む中国人の気持ちが、よく分かるような気がしました。紫禁城は、15世紀初頭、明の永楽帝によって建設されました。永楽帝は、元朝の王宮を破壊し、その上に紫禁城を建てます。その際に出た瓦礫を積み上げて出来たのが景山です。

1911年の辛亥革命によって、清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀は退位しますが、引き続き内廷に居住することが許されたようです。1924年、北京政変のおり、紫禁城は完全に接収され、故宮博物院となりました。その後、日中戦争が起こると、貴重な文物宝物類は上海に避難します。そして、国共内戦に敗れた蒋介石は、1949年、多くの文物を携えて、台湾へと渡ります。現在、北京の故宮博物院には、180万点に及ぶ文物が保管され、蒋介石が台北に作った国立故宮博物院には、64万点が保管されています。紫禁城の宝物の全容を見るためには、北京と台北、二つの故宮博物院を訪れる必要があります。蒋介石が、兵員や武器のスペースを削ってまで、宝物を台湾へ運んだ理由は、政権の箔づけなどではなく、換金して軍資金にしようとしたのでしょうね。

故宮博物院の三大至宝と呼ばれるのは、北宋末期に描かれた張択端の「清明上河図」、清代の作と思われる玉髄の彫刻「肉形石」、そして同じく清代のものと想定される翡翠の彫刻「翠玉白菜」です。うち、肉形石と翠玉白菜は、台北の国立故宮博物院にあります。肉形石は、手のひらにのる程度の大きさですが、自然の玉髄の形や風合を残しながら、実に微細な加工が施され、どう見ても美味そうな東坡肉にしか見えません。調味料が染みこんだ皮、触れれば崩れそうな肉、これで湯気が出ていたら、かじりつきたくなります。中国随一とも言われる北宋の書家・蘇東坡が考案したといわれる東坡肉、いわゆる豚の角煮は、浙江料理を代表する杭州の名物です。

一方の翠玉白菜は、手のひらに余るほどのサイズです。下部が白色、上部が緑色という天然の翡翠が素材ですが、まずは、この大きさの翡翠自体が、極めて希少だと思われます。原産地は、雲南かミャンマー北部とされ、硬玉、あるいは本翡翠とも呼ばれる輝石です。一切、着色などせずに、原石の色合いと形状を巧みに利用した彫刻は、本物の白菜以上に瑞々しく、まさに絶品です。また、白菜の上部には、バッタとキリギリスが彫られています。これも、原石の緑をうまく使っています。清の光緒帝の側妃であった瑾妃の部屋から見つかっており、瑾妃の持参品と言われます。ただ、後に後宮を仕切ったという瑾妃のことですから、娘を側室に入れたい貴族からの贈答とも考えられます。

台湾海峡を巡る情勢が緊迫しつつあります。かつては、アメリカ第七艦隊が、中国を抑止するパワーとなっていましたが、装備を近代化した中国軍の存在は、海峡のバランスを崩しつつあります。米中対立の構図のなかで、中国は、台湾にプレッシャーをかけ続けるでしょうが、近々、戦端を開くことはないと思います。なぜなら、米中戦争のリスクを冒してまで、台湾に侵攻するメリットが少ないからです。もし中国経済が、不動産問題などで壊滅的ダメージを受け、国内の格差問題がコントロール不能な状態になるとすれば、それが、最も現実的なトリガーになり得ます。白菜と角煮は誰の物かを主張し続けることは大事ですが、取り戻すためだけに動くほど、中国共産党は愚かではないと考えます。(写真出典:tnm.jp)

2021年12月27日月曜日

「キングスマン:ファースト・エージェント」

監督: マシュー・ヴォーン 原題:The King's Man   2021年イギリス・アメリカ

☆☆☆+

2015年に始まったキングスマン・シリーズの3作目になります。大英帝国の誇り、紳士へのこだわり、初期の007が持っていたおしゃれ感とコミカルさ、今風の暴力シーン、それらをスタイリッシュに仕上げた人気シリーズです。ロンドンのサヴィル・ロウに店を構える高級テーラー「キングスマン」を本拠地とする独立諜報機関の物語です。サヴィル・ロウは、高級テーラー街として知られ、日本語の”背広”の語源にもなりました。まさに古き良き大英帝国の誇りです。3作目は、第一次世界大戦を背景としたキングスマン誕生の物語です。歴史上の人物や事件を巧みに配置したオリジナル・ストーリーが、結構楽しめます。

監督のマシュー・ヴォーンは、才能も豊かなのでしょうが、いわゆる“持ってる男”だと思います。27歳の時、 ガイ・リッチー監督と組んで制作した「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」が世界的にバカ当たりし、一躍大金持ちになります。同じコンビで政策した「スナッチ」もヒット、2004年には「レイヤー・ケーキ」で監督デビュー、以降の作品も、概ねヒットしています。エンターテイメントに徹した作風が、観客受けします。今回は、スタイリッシュなスタイル、テンポの良さ、派手なアクションはそのままに、多少コミカルな面を抑えつつ、英国のプライドに訴える作品に仕上がっています。恐らく右翼的との批判も出てくるのでしょう。

それにしても、ロシアの怪僧ラスプーチンの人気は衰えませんね。グレゴリー・ラスプーチンは、いずれの宗派にも属さない修行僧であり、怪しげな治療と性的な魅力を武器に、帝政ロシア末期、ロマノフ朝を手玉にとった怪僧です。1916年に、ロシア貴族たちに暗殺されています。青酸カリ入りの食事を平らげても平然としていたため、ピストルで撃たれますが、また立ち上がり、今度は背後から撃たれ、それでも立ち上がったと言います。最後は、額への銃弾で死んだようです。映画でも、その有名なエピソードが利用されています。また、当時から、ラスプーチン暗殺は英国情報部の仕業という噂もあったようです。

戦争の主役たる英国国王、ドイツ帝国皇帝、ロシア皇帝、そしてアメリカ大統領の4人は、コミカルに描かれており、キングスマンらしさが出ていました。国王と皇帝たちは、親戚関係にあり、幼少期の人間関係が笑えました。実際のジョージ5世とニコライ皇帝も、よく似ており、血筋を感じさせます。子供の頃、3人が一緒に遊んだかどうかは知りませんが、ありそうな話です。また、キッチナー、レーニン、マタ・ハリ、デュポン等々、実在の人間も面白おかしく登場しています。実在の人物を使いながら、既知の歴史とは異なるストーリーを創作することは、とても楽しい遊びです。その最大の魅力は、ひねりにひねった作り話が、どれだけ多くの史実をカバーし、かつ事実と符合しているか、ということになります。そういう視点から見れば、今回の創作ストーリーは、60点くらいの出来でしょうか。

最大のマイナス・ポイントは、スコットランドの愛国者を悪役にしたことだと思います。近年のスコットランドの独立機運が背景にあるのでしょうが、面白味に欠けるきらいがあります。とは言え、十分に楽しめる映画です。やや詰め込みすぎで長い映画になったことはマイナスだったと思いますが、理屈抜きで楽しめる映画は、実に貴重な存在だと思います。マシュー・ヴォーンには、是非、キングスマン・シリーズを続けてもらいたいものだと思います。(写真出典:20thcenturystudios.jp)

2021年12月26日日曜日

麻雀

麻雀を覚えたのは、大学に入ってからでした。1年半、寮生活を送りましたが、随分、麻雀に時間を使いました。寮生活2年目になると、夜中から朝まで、いわゆる徹マンが、同じメンツで、毎日、数ヶ月間続きました。やっている間は、面白いのですが、さすがに生活は乱れます。これではいけないと考え、寮を出ることにしました。当時は、第二次麻雀ブームと言われた時期でもあり、学生も会社員も、皆、麻雀をしていました。大学の周りは雀荘だらけで、しかも、どこも混んでいました。同級生に一人、とても上手い奴がいて、彼は就職せず、プロの雀士になると豪語していました。その後の消息はまったく不明です。

会社に入ってからも、週に2~3回は麻雀に付き合わされました。私の周囲の人たちは、常識的なルールでやっていましたが、時には賭博性の高いルールに付き合うこともありました。国鉄ルールはじめ、○○ルールと呼ばれる独自のルールもあり、それらは、おおよそ賭博性の高いルールでした。社内の麻雀では、その場で賭け金の授受は行わず、月単位で記録され、給料日に精算されます。ごく普通の会社員のルールでは、テンピン、つまり1,000点100円というレートが一般的であり、かつ運が半分といった麻雀の性質から、累計すると均衡してきて、大勝ちしても、大負けしても、せいぜい2~3万が上限でした。ただ、なかにはべらぼうなレートでやっている人たちもいました。安いレートでも、高いレートでも、賭け麻雀は違法です。

92年にNYから戻ると、麻雀ブームは下火になっていました。ところが、今度は、メンツを揃えることが難しくなってきたため、麻雀好きは、かなり頻繁に誘われることになります。一度麻雀をすると、噂を聞きつけた連中から声がかかります。メンツが3人まで揃った状態で誘われると、断りにくいものです。仕事も多忙、かつ時間がもったいないので、私も、麻雀からは距離を置くようになっていきました。あれだけあった雀荘も、いつしか少なくなっていました。思えば、娯楽が少なかった時代のブームだったのでしょう。もちろん、麻雀は、今でも行われていますし、むしろ世界の麻雀人口は増えており、世界大会も開催されているようです。ボケ防止に良いという説もあり、高齢者の”健康麻雀”なるものも存在しています。

麻雀は、基本的には確率のゲームですが、射幸性も高く、それが魅力なのでしょう。運という意味では、配牌時点で、親があがっている状態を「天和(てんほー)」といい、麻雀最高の役満とされます。その発生確率は33万分の1と言われ、61年間、毎日半チャン5回打ち続ければ、天和が発生するという計算になるようです。かつて、会社の先輩で天和をやった人がいたそうです。ゴルフのホール・イン・ワン同様、厄払いとして、あがり手を染め抜いた手ぬぐいを皆に配っていたと聞きます。その後、その人は、各種ギャンブルに手を染め、結果、大きな借金を背負い、家族は離散、会社も辞めざるを得なくなったそうです。俺はツイてると思うのも理解できますが、厄払いも足りなかったのでしょうか。

麻雀は、習慣性も高いように思います。毎日のように続けていると、夕方、無性にやりたくなり、メンツ集めを始めます。しばらくやっていないと、まったくと言っていいほど、やりたいと思わなくなります。私は、ここ20年くらい、卓を囲むことはありませんが、たまにネットの麻雀ゲームをやることはあります。頭の訓練のつもりでやっていますが、それですら熱くなります。ま、熱くなっているようでは、上達しないことも分かっています。麻雀の打ち方は、実によく性格が現れるものです。(写真出典:goodcross.com)

2021年12月25日土曜日

お墓事情

嵐山光三郎先生が、死の床にあった女流作家から、「私は死んだらどうなるの?」と聞かれ、生ゴミだよ、とも言いかねて「星になるんだよ」と答えたと書いていました。生ゴミとは強烈ですが、物理的にはそのとおりでもあります。死後の世界は、あるのかどうかも含めて、誰も知りません。死を無と考えれば、死者を弔い、墓にお参りするのは、生者の論理に基づく生者の営みです。要は、生きている者の問題なわけです。埋葬の方法も、生者が、死をどう考えるか、ということを反映しています。気候風土、信仰、宗教等の違いが、世界の埋葬の多様さを生んでいますが、最も多いのが土葬か火葬だと思われます。

日本では火葬ということなります。日本の火葬は、仏教の伝来とともに始まったようです。とは言え、火葬は、上流階級の文化であり、庶民は、土葬か野ざらしだったようです。火葬が一般化するのは、明治期以降ということになります。結果論かも知れませんが、火葬は、狭い日本の国土を考えれば、良い選択だったと思います。それでも、大都市圏では、墓地が不足気味です。土葬が基本のキリスト教ですが、広いアメリカで墓地不足という話は聞きません。ただ、欧州では、それなりに大変そうです。ローマ郊外で、巨大なマンション式墓地を見たことがあります。あれでは、死者も土に還ることはできません。

時と供に、死んだ者の数は積み上がっていきます。さらに核家族化によって、墓地は足りなっていくわけです。お参りしやすい場所にある墓地は随分高価なものになり、新しい墓地は遠方へと広がっています。都会には、狭小住宅並の墓地、あるいはマンション式の墓地も誕生しました。また、散骨、樹木葬など、新しい埋葬方法も増えつつあるようです。ただ、墓に関しては、無縁仏化という大問題もあります。身寄りのない人の無縁仏の増加も問題ですが、田舎にあった先祖代々の墓を守る人がいなくなるという無縁仏化が急速に進んでいるようです。都市への人口流入、地方の地盤沈下の結果ということになります。

都会に定着した地方出身者にとって、墓を引っ越しするという対応策もあります。しかし、決して簡単ではありません。平均すると、半年程度の日数に、墓地と墓石の費用とは別に300万程度の費用がかかると言われます。まずは、埋葬証明、改葬申請等の行政手続きが必要となり、しかも一体毎の申請となります。さらに改葬先で、同じような申請をし、許可を得る必要があります。次に、墓じまいを行います。法要を行い、遺骨を取り出し、墓石を撤去して、用地を更地にします。そして、遺骨を移動するわけですが、これがなかなかに大変です。一体、二体程度なら、骨壺に入れて、公共交通機関を使うことも、ゆうパックを利用する手もあります。先祖が多く眠る場合には、車での移送しかありません。

近年は、墓の引っ越しをパッケージ化して引き受ける業者も、ようやく登場したようです。20年ほど前、これは新しいビジネスになると思い、ヤマト運輸の役員に提案したことがあります。もちろん、社内でもそういった話があったようです。ただ、紛失等の事故が発生した場合、賠償額を定めることが難しいので、商売にはならないという結論だったようです。数年前から、ゆうパックでの取り扱いが始まりましたが、賠償については、骨壺等に対して行うだけで、遺骨に関しては賠償対象外としてあります。家族の気持ちは別として、なかなか現実的な対応だと思います。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年12月23日木曜日

冬至

私の場合、特にカボチャが好きということもなく、食事に出れば食べるという程度です。私は麺好きですが、甲州の”ほうとう”は、好んで食べません。どうもカボチャの甘みが邪魔くさいな、と思ってしまいます。そんなわけで、カボチャは、少なくとも、年に一度、冬至には食べるという程度でしょうか。冬至にカボチャ、というのは、黄緑色野菜が不足しがちな冬場、せめて冬至にはカボチャを食べましょう、ということなのでしょう。カボチャの最盛期は、夏場ですが、保存がきくこと、そして収穫から数ヶ月間、熟成させた方が美味しいという、冬場にはもってこいの食材です。先人の知恵には、いつも感心させられます。

冬至は、1年で最も日が短い日です。つまり北半球では、太陽の高度が最も低くなる日です。北極圏では、一切太陽が出ない極夜となり、南極圏では、太陽が沈まない白夜になります。冬至は、二十四節気の一つで、暦法上では、第1の月となります。正式には、この日、干支が切り替わります。太陽の力が最も弱くなる日であり、冬至を境に、太陽は生まれ変わるとされます。この先、太陽は、その力を増していくわけですから、年の始まりとされました。いわば運気の上がり始めとも言えます。宝くじは、冬至の翌日に買うと良いのではないか、と思います。

陰暦では、19年に一度、11月1日が冬至となり、大変めでたいこととして、宮中では宴が催されていたようです。これを”朔旦冬至(さくたんとうじ)”と呼びます。朔とは、新月のことであり、朔旦とは新月の日、つまり一日の朝という意味です。朔旦冬至の宴は、江戸中期まで続いていたようです。古代においては、世界中で、月の満ち欠けに基づき暦が作られました。いわゆる太陰暦です。ただ、太陰暦の1年は、地球が太陽を一周する日数より、11日少ないため、何年かすると暦と季節感にズレが生じます。これを調整したのが閏月です。1年が13ヶ月という年を作り調整したわけです。太陽の要素も加えた太陰暦という意味で、太陰太陽暦と呼ばれます。通常、太陰暦と呼ばれているのは、太陰太陽暦のことです。

太陰暦を初めて使ったのはシュメール人とされています。シュメール人も、暦と季節のズレを調整する必要があったわけですが、その調整法に関する文献は発見されていません。ただ、シュメール文化を受け継いだバビロニアでは、19年に7回、閏年を設けることで、ほぼ完全にズレを克服していました。バビロニア人は、地球が太陽を19回まわる日数と、月の満ち欠けによる暦の19年7ヶ月がほぼ等しいことを知っていたわけです。これはメトン周期と呼ばれ、世界中に広がります。古代中国にも伝わり、19年に一度の朔旦冬至も生まれるわけです。世界に伝播したスピードを考慮すれば、恐らくシュメール人が、メトン周期、あるいはそれに近いものを発見し、バビロニアやその他の国々に引き継がれたのではないかと思います。

それにしても、古代の天文学の発展については、いつも驚かされます。農耕の始まりとともに、余剰生産物から文明の社会的側面、そして生産管理から科学的側面が発展したわけです。文明の唐突な誕生と発展は、シュメール宇宙人説へとつながります。ロマンティックな話ですが、文明の誕生とは、生きるために必死で編み出した知恵の積み重ねだったのでしょう。その後、西洋では、カエサルが太陽暦への切り替えを行い、グレゴリオ暦へと発展しています。東アジアでは太陽太陰暦が継続され、日本では、明治の世になってグレゴリオ暦への転換が行われました。とは言え、古の二十四節気も、生活のなかに生き続けているように思います。(写真出典:livedoor.com)

「The Hand of God」

監督: パオロ・ソレンティーノ      2021年イタリア

☆☆☆+

緩やかな弧を描くナポリ湾となだらかな稜線のヴェスヴィオ山が生み出す風景は本当に美しく、”ナポリを見てから死ね”という言葉に偽りはないと思います。一方、ナポリは、犯罪とゴミの街でもあります。南イタリアの中心、かつ世界有数の観光地でもありますが、また行こうとは思わない街です。ナポリという名称は、古代アテネ人の植民都市ネオ・ポリス(新しい街)から来ています。19世紀中葉のガリバルディによるイタリア統一までは、諸外国に支配された街でした。現在は、4大マフィアの一つカモッラに支配される街です。カモッラによる産業廃棄物の不法投棄が、ゴミの街ナポリを作っているようです。

「The Hand of God」は、ナポリっ子のパオロ・ソレンティーノが監督したNetflix映画です。監督自身が投影されたナポリの高校生が大人になっていく過程が描かれます。ソレンティーノは、フェリーニ好きで有名ですが、ソレンティーノ版アマルコルドというわけです。美しい映像、フェリーニばりの登場人物、そして家族とナポリへの愛情と憎悪が入り交じった青春映画の佳作です。主人公が憧れる映画監督カプアーノが語る「失敗からも、この街からも逃げられない」という言葉は象徴的です。アントニオ・カプアーノは、実在するナポリの映画監督であり、ソレンティーノの師匠格なのでしょう。カプアーノに精神を解放され、フェリーニ的な映画を撮ることで、ナポリを表現し続けているのがソレンティーノなのだと思います。

ソレンティーノは、高く評価されている監督です。「グレート・ビューティー/追憶のローマ」(2013)などは、印象に残る映画でした。ただ、どうしても合成皮革の匂いを感じてしまいます。恐らく、フェリーニ的な演出手法が中途半端な印象を与えるのだと思います。テーマの深掘りとフェリーニ的演出がマッチしていない面があります。フェリーニを知らない世代にとっては、とても新鮮なのだろうと思います。ただ、フェリーニ・ファンからすれば、随分薄手な合成皮革に見えてしまいます。力量も高く、様々な賞も獲得していますが、このままではヴェネチアで金獅子賞を獲ることはないと思います。

タイトルになっている「神の手」とは、言うまでもなく天才ディエゴ・マラドーナの1986年ワールド・カップでのゴールのことです。明らかなハンドですが、ゴールは認められ、マラドーナ自身は「神の手」という名言を残しました。「神の手」から6分後、マラドーナは、5人抜きのドリブルで、60mを駆け抜けゴールしています。まさに天才と言えます。マラドーナは、1984年、バルセロナからSCCナポリへ移籍し、クラブに初となるセリエA優勝をもたらします。いまでも、ナポリっ子たちは、マラドーナを神とあがめていると聞きます。マラドーナが街中を熱狂させていた頃のナポリが舞台であることは、この映画の大きなポイントになっています。

映画には、卵城、パラッツォ、ガッレリア等々、ナポリの名所が数多く登場しています。そして、ナポリ名物のモナシエロも二度登場します。不妊症ゆえ鬱病になるパトリツィア、そしてラスト・シーンでは主人公の前に現れています。モナシエロは、小さな僧という意味で、妖精の一種です。いたずらもしますが、人助けも行います。伝説によれば、中世の悲恋の末に生まれた小人症の子供の幽霊であり、絶望し、本当に助けが必要な人にだけ見えるとも言われるそうです。ソレンティーノは、ナポリの悲しみ、そして希望の象徴として、モナシエロを登場させたのでしょう。今、本当にモナシエロの助けが必要なのは、ナポリの街だとも思います。(写真出典:realsound.jp)

2021年12月22日水曜日

ホリデイ・シーズン

アメリカでは、11月の第4木曜日が”Thanksgiving Day”、いわゆる感謝祭となります。家族が集まり、スタッフド・ターキーを食べると、ホリデイ・シーズンが始まります。キリスト教徒はクリスマス、ユダヤ教徒はハヌカの準備に入ります。クリスマス・ツリーが飾られ、ハヌッキーヤに火が灯され、街では、セールが始まり、プレゼントを買う客で賑わいます。NYのセールでは、日に日に値下げが進み、日に日に在庫が減っていきます。客は、狙っている品物を買うタイミングを計りながら、街に繰り出します。街中が、華やかなデコレーションに包まれ、クリスマス・ソングが流れ、ウキウキとした気分で満たされていきます。

クリスマス・プレゼントは、家族・親族・親しい友人に贈られます。皆、結構な数のプレゼントを用意する必要があります。また、クリスマス・チップという習慣もあります。家庭では、庭師やゴミ収集、あるいはマンションなら管理人やドアマンといった裏方の仕事をしてくれる人たちに差し上げます。職場でも同様です。これが、総額としては、なかなかの金額になります。また、クリスマス・カードの発信も始まります。職場では、届いたカードを窓のガラスに貼り付けていく習慣があり、オフィスも華やかなムードになっていきます。同時に、仕事はどんどんスローになっていきます。もう仕事どころではないわけです。それを責めるわけにもいかない空気があり、一層、仕事はお留守になっていきます。

ランチも長めになっていき、ランチの後は買い物をしてからオフィスに戻る人が増えます。ランチでの会話の7~8割が、クリスマス休暇の過ごし方であり、多くの場合、どこへ旅行に行くか、という話題がメインとなります。旅行に行かないと、何かあったの、と聞かれそうな雰囲気すらありました。そこは、日本の職場の年末も似ています。お正月はどうするの?帰省します、家でのんびりします、といった会話が挨拶代わりに交わされます。ただ、日本の年末年始休暇に比べてアメリカのクリスマス休暇は少し長めになること、感謝祭で帰省は済んでいることから、遠くへの旅行となるわけです。1990年前後、NYで人気だった旅先は、メキシコのカンクン、あるいはカリブ海クルーズでした。冬ともなれば相当に冷え込むNYを逃れ、暖かい南へと出かけるわけです。

日本の宗教色のないクリスマスは、かなり独特なものですが、かつてほどの盛り上がりはないように思います。かつては、娯楽も少なく、何やらハイカラな感じのするクリスマスが人気だったのでしょう。それ以上に、高度成長で豊かになりつつあった日本では、家族でクリスマス・ケーキを囲むことが、ささやかな幸せだったのでしょう。日本のクリスマス文化は、不二家のクリスマス・ケーキ、百貨店のクリスマス売り出しで定着していったとされます。明治末期のことです。戦後は、加えて、クリスマス・モードの歓楽街が人気だったようです。つまり、戦後すぐのクリスマスは、家ではなく、レストラン、バー、キャバレー等で騒ぐことだったようです。1960年代に入ると、バタークリームを使ったクリスマス・ケーキが街頭で販売されるようになり、お父さんたちのお土産になりました。

NYのざわつくホリデイ・シーズンを懐かしく思います。それは祭りそのものだとも言えます。マーケティングやマーチャンダイズの産物でもありますが、宗教的な裏付けがしっかりあるからこそ、街の一体感のようなものが生まれます。一体感こそ、祭りの本質なのだと思います。もちろん、日本各地には元気な祭りが健在です。一方で、年ごとにクリスマス色は薄れ、それどころか宗教や信仰に裏打ちされているはずのお盆やお正月でさえ、かつての盛り上がりはありません。季節感を失いつつある日本は、いささか寂しいものがあります。(写真出典:tabizine.jp)

2021年12月21日火曜日

徴兵制

いまや大阪落語界のエースとなった桂雀太の噺を聞いてきました。座高測定事件というまくらで大受けでした。健康診断における座高測定は、明治期から100年続いていましたが、2014年に廃止されたそうです。廃止した理由は、健康管理に関係ないから、だそうです。びっくりな話です。調べてみると、明治期に座高測定を始めた理由は、いわゆる徴兵検査がきっかけであり、足が短かければ、重心が低くなり、良い兵士になるから、ということだったようです。そんな理由で始めた事が、戦後、憲法9条が制定された後も継続されていたわけです。前例踏襲を旨とする、いわゆる役人仕事の典型と言えます。

兵士を集める方法は、古代から、おおよそ徴兵制、志願制、傭兵の3つでした。徴兵制は、何らかの強制力を持つ募集という意味ですが、国民皆兵から強制徴募まで様々な方法があります。18世紀頃までの徴兵制は、無理矢理、兵にさせられるので、モラールの低い兵団になっていたようです。例えば、古代ローマの兵役は、市民の義務とされていました。初期には、強力な軍団でしたが、ローマの戦線が拡大、戦争が常態化すると、市民経済への影響が大きくなり、士気も低下しました。マリウスの軍制改革によって志願制が導入されると、職業軍人化が進み、軍団の戦力も増していきます。なお、占領地の住民などを強制的に徴兵する強制徴募は、現在、国際法で禁止されています。

近代的な徴兵制は、フランス革命から始まります。国民国家の誕生とともに、個人の権利が認められる一方で、国を守る義務は国民にあるという構図が出来上がり、国民皆兵制が採用されます。産業革命とともに武器の殺傷能力が向上したことから、死傷率の高まった兵員の大量補充が必要な時代を迎えていました。当然、戦略・戦術も大いに変化します。新しい時代の戦い方を、いち早く我が物とし、連戦連勝を重ねたのが、ナポレオン・ボナパルトでした。国民皆兵といっても、実際に訓練を受け、戦場に投入される兵は、抽選によって選抜されました。アメリカでは”Draft”と呼ばれます。多くの近代国家が、この方式を採用しました。戦前の日本も同じ方式の徴兵制を採っていました。

しかし、近年、徴兵制を採用している国は、大幅に減りました。北朝鮮、韓国、イスラエル、スイス等は理解できますが、中国、ロシア、ベラルーシ、カザフスタン、キルギス、タジキスタン等でも継続されています。徴兵制が、大幅に減った理由は、平和な世の中になったからでも、反戦思想が行き渡ったからでもありません。武器のハイテク化が進み、兵員の数そのものの必要数が減っているからだと聞きます。軍事予算は、兵員数からハイテク兵器の確保へと振り向けられているわけです。徴兵制は、あくまでも軍事的必要性に基づいて、採否が決められます。何らかの形で、兵員数が必要となれば、いつでも徴兵制は復活すると理解すべきでしょう。

日本で徴兵制が復活する可能性はあるのか、という話があります。平和憲法があるので、あり得ない、という声が多いと思われます。ただ、可能性だけで言えば、あり得ます。法律論争は別として、現実論的には、自衛隊が存在していますし、日本が侵略を受けた場合、徴兵せざるを得ない事態も考えられます。国民自らが国を守るということは、民主主義の基本です。戦争そのものにも、侵略戦争にも反対ですが、現実に日本が武力侵略を受けた場合、武器をとって自衛すべきであることは明白です。戦後80年に及ぶ日本の平和は、平和憲法によってもたらされたものではありません。いわゆるパクス・アメリカーナゆえの平和だったわけです。それが崩れた今、徴兵制は、より現実的な話として考えるべきだと思います。(写真出典:toyokeizai.net)

2021年12月20日月曜日

アニメ効果

BABYMETAL(2015)
久しぶりに会ったロック・マニアの後輩に、最近は何を聞いているのか、と尋ねたところ、アイドルとの答えでした。膨大な数のCDをコレクションしているガチガチのロック・ファンなだけに驚きました。もう一人、マニアックなロック・ファンで、CDを入れた段ボールが6畳一間を天井まで埋めるという後輩を知っています。実は、彼もアイドルのコンサートへ行く、と言っていました。二人とも50歳を超えています。これは面白い現象だと思いました。かつて、ロックのライブが持っていた熱狂に近いものが、今のアイドルのコンサートにあるのかも知れません。しかし、二人とも、相当に耳の肥えたロック・ファンです。単なるライブ感だけとも思えず、一体、ロックとアイドルにはどういう関係性があるのか、気になってきました。

10年ほど前になりますが、当時3人組だった日本の女性メタル・ダンス・ユニット”BABYMETAL”がデビューすると、海外を中心に高い評価を得ました。日本のアイドルとヘヴィ・メタの組み合わせは面白いとは思いましたが、さほど興味も沸きませんでした。ところが、人に勧められて聞いてみたところ、驚きました。かなりレベルの高いサウンドだったのです。要は、フロントの3人はアイドル然としているのですが、バック・バンドには、日本の一流ロック・アーティストたちが揃っていました。ロックを聞くこともありませんし、ましてや日本のロックなど何の興味もなかったのですが、改めて、そのレベルの高さには驚かされました。

それ以降、日本のガールズバンドが、欧州で注目されているようです。いくつかYoutubeで聞きましたが、演奏はなかなかのレベルです。BABYMETALは、突出したケースかもしれませんが、どこかにロックとアイドルとの結合点があるはずだと思い、探してみると、アニメに行き当たりました。要は、80年代頃と思われますが、食えないロック・ミュージシャンたちが、スタジオ・ミュージシャンとして、アニメやゲームの音楽に流れていったようです。アニメの市場が大きくなるとともに、主題歌もヒットするようになり、いわゆるアニソンというジャンルまで確立していきます。アニメ市場の規模が拡大し、多様化したことで、ロック・ミュージシャンたちも、自分たちのテイストを出しやすくなったわけです。その後、アニソンからアイドルへの展開は、さほどのハードルもなかったものと思われます。

日本のアニメの市場規模は、順調に拡大し、2兆円に達しているようです。国内市場が大層を占めていたのが、ここ5年くらいで海外が急速に伸び、現在は半々くらいまできたと聞きます。この規模になると、当然、裾野の広がりも出てきます。TVのみならず、映画、ネット配信、音楽、グッズ、書籍も大きな市場になっているようです。さらに映画に関しては、ハリウッドの映画化が進んでいますし、近年では、コンテンツ・ツーリズムとして、いわゆる聖地巡礼が大きな市場になりつつあるようです。海外からの巡礼者も増加しているようです。ついにはアニメ・ツーリズム協会なるものまで登場し、現在88作品、124カ所が登録されているとのことです。2019年には「アニメツーリズム首長サミット」も開催されています。

アニメは、子供向けやオタクの域をはるかに超えて、産業化されつつあります。外国人がクールと思える日本の文化を海外に発信し、そのブランド化を狙うのが政府のクールジャパン戦略です。韓国のコンテンツ政策を見習ったものなのでしょう。アニメは、食やポップ・カルチャー等とともに、クールジャパンの目玉になっています。批判も少なくないクールジャパン戦略ですが、日本アニメの海外における急成長は、その効果の一つとも言えるのでしょう。ちなみに、今年6月、仙石原の貸別荘に逗留した際、近くにローソン第3新東京市西店があり、家族で興奮しました。エヴァンゲリオン色は、さほどありませんでしたが、意味も無く毎日通いました。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年12月19日日曜日

「浅草キッド」

監督:劇団ひとり          2021年日本

☆☆+

「やっぱり板に乗ってる奴は強いな」。数年前のTV番組で、テンダラーのネタを見たビートたけしが、思わず口にした言葉だと記憶します。板とは、 舞台のことです。テンダラーは、大阪のベテラン漫才師です。東京へ進出し、TVで活躍する吉本芸人が多い中、難波花月の舞台に立ち続ける芸人です。 ビートたけしのこの言葉は、強く印象に残りました。多少売れるとTV専門になる芸人が多いなか、芸人の居場所である舞台を忘れるなよ、芸人魂を失うなよ、と言っているようにも聞こえました。そして、お笑いBig3、あるいは映画監督としては”世界のキタノ”とまで呼ばれるようになった今も、この人は浅草を忘れていないな、と思わせる言葉でもありました。

 Netflixが制作した「浅草キッド」を見ました。泣けました。昭和の浅草芸人の心意気に、師弟愛に泣けました。主役は、修業時代のビートたけしではなく、その師匠であった深見千三郎(ふかみせんざぶろう)その人だと思います。それは、同時に、芸人ビートたけしを形作っているもの全てを伝える話でもあります。正直なところ、映画としては、イマイチだと思いますが、原作の良さで何とか格好が付いた、というところです。画面構成、演出ともに、映画的な広がりや奥行きに欠け、TVっぽい仕上がりになっています。原作者が超有名人で、かつ生存者も多い中で書く脚本には制約が多く、あるいは情報量が多すぎて、映画らしく仕立てるのは難しいのだとも思います。

深見千三郎は、浅草のヌード劇場フランス座のコント師であり、後には経営者にもなりました。テンポの良さ、マシンガン・トーク、アドリブなどでセンスの良さが光り、コント師で"師匠"と呼ばれたのは、この人くらいだとも聞きます。戦前に隆盛を極めた浅草も、戦後は場末感が漂っていました。そのなかでもヌード小屋の幕間コントとなれば、一段低く見られて当然です。ただ、深見は、浅草の軽演劇の伝統を守り、芸人としてのプライドを高く保持した人だったようです。それだけにTV等には一切出ることがなく、その名が広く世間に知られることもありませんでした。ただ、渥美清、東八郎、萩本欽一、伊東四朗、そしてビートたけし等、多くの浅草芸人を育てたことで名を残しました。「芸人は笑われるな、客を笑わせろ」という言葉に深見の芸人魂を感じます。

深見を演じたのは、大泉洋です。センスの良い役者であり、達者な役者だと思います。ただ、小綺麗さ、そつのなさゆえ、深見のリアリティや深さを出し切れていません。本作が映画としての奥行きに欠ける理由の一つです。石倉三郎あたりが適役だと思いましたが、既にTVドラマ化された際に、深見を演じているようです。ビートたけし役の柳楽優弥もなかなか頑張っています。ただ、当時のビートたけしが持っていたであろうギラッとした感性やハングリーさには欠けます。総じて、よい子たちで小綺麗にTV用の再現ドラマを作りました、といった印象です。ある意味、浅草からは、随分と遠いところで作られた映画です。ただ、深見の最後の妻だったストリッパーを演じる鈴木保奈美には感心しました。いい味を出しています。こんないい役者だったと知りませんでした。

1983年、深見は、煙草の火の不始末で火事を出し、焼死しています。TV局の楽屋で、訃報を聞いたビートたけしは、壁に向かって、黙々と、深見直伝のタップダンスを踏んでいたと聞きます。いつ聞いても泣ける話です。師弟関係の全てが詰まった話です。ビートたけしという人をよく伝える語です。当然、映画のハイライトは、このシーンだろうと思いながら見ていましたが、あまりませんでした。この有名なエピソードを映像化しなかったのは、なにか理由があるのかも知れませんが、映画としては大きな損失だったと思います。(写真出典:av.watch.impress.co.jp)

2021年12月18日土曜日

ドッペルゲンガー

大学入学直後、よく通っていたジャズ喫茶がありました。そこのトイレで、40歳前後と思しき髭を蓄えた長髪の男から、「お前、いつ千歳を出たんだ?」と話しかけられました。他に誰も居なかったので、明らかに私に向かっ言っていました。私は、何のことやら見当もつかず、ポカンとしていました。すると、男は、なんだ、こいつ、と言わんばかりの鋭い目で私をにらみ、出て行きました。 しばらく経ってからのことですが、髪をリーゼントでキメたいと思い、前から狙っていた理髪店へ行きました。担当してくれた怖そうなお兄さんが、ポツリ、ポツリと話し始めます。「お前、いつ戻ったんだ?兄貴のところへは行ったのか?」

さすがに、理解しました、私とそっくりな不良がいることを。”千歳”とは、千歳市にある北海少年院のことだと思われます。勘違いさせておくのも面白いな、と思いましたが、会話が成立しないので、別人だと打ち明けました。そのうえで、私によく似た人の話を聞こうとしましたが、話してもらえませんでした。結構ヤバい奴だったのではないか、と思います。髪型も変わる等、見た目が変わったせいか、その後は、その不良に間違えられることはありませんでした。世の中には、自分とそっくりな人間が3人いる、と言われます。遺伝子の組み合わせは限られているので、同じ民族であれば、似たような顔つきの人は存在して当然なのだそうです。

そっくりさんの話も、他人のそら似程度ならいいのですが、ドッペルゲンガーとなると、やや薄気味悪い話になります。ドッペルはダブル、ゲンガーは行く人、歩く人を意味するドイツ語です。日本では「二重身」と呼ばれます。医学的には「自己像幻視」という症状であり、自分にそっくりな人間を見る幻覚だとされます。精神分裂病の症状の一つとされますが、極端に疲れた場合にも起こり得る精神不全の症状とも言われるようです。日本では、芥川龍之介の”自分を見た”という話が有名です。ただ、本人の幻視ではなく、複数の他人も目撃する場合があり、これはもう超常現象の域に入ります。最も有名なのは、1845年からラトヴィア北東部で発生したフランス人教師エミリー・サジェのケースです。

当時、32歳だったエミリー・サジェは、ラトヴィアのリヴォニアにあるノイベルケ寄宿学校に赴任します。同校は、上流社会の子女が集まる名門校であり、エミリーも有能と認められ採用されたようです。赴任して程なく、生徒の間で、エミリー先生が二人いるという噂が立ちます。授業中、板書するエミリーが二つに分かれる、あるいは食事中のエミリーの背後にもう一人のエミリーが立つ様を生徒が目撃します。ある日、教室の窓から花壇で作業するエミリーが見え、同時に教壇にも立っているという現象を全生徒が目撃します。騒ぎを聞いて駆けつけた他の教師が、教壇のエミリーに触ると、実体が無かったそうです。気味の悪さに退学する生徒が増え、ついにエミリーは解雇されます。エミリーは、同じ理由で、18回も退職を余儀なくされていました。

この現象は、バイロケーション、一身二ヶ所存在とも呼ばれ、エミリーだけではなく、古くは、古代ギリシャの数学者ピタゴラス、修道会の創始者である大アントニオスはじめ、いくつかの例が記録されているようです。マスヒステリアの一種としての集団幻視ではないか、とも言われているようです。ただ、エミリーの場合、宗教的体験というわけではなく、しかも目撃者の多さ、回数の多さからして、集団幻視とも思えません。科学が解明できていないことは数多くありますが、その最たるものが人間なのではないかと思い知らされます。(写真:エミリー・サジェとされる写真 出典:pinterest,jp)

2021年12月17日金曜日

道行

曽根崎心中
日本の古典芸能で多用される「道行(みちゆき)」という場の設定は、なかなか興味深いものがあります。 読んで字のごとく、道行という場面は、旅の様子を描くわけですが、ドラマを展開させるのではなく、登場人物の内面を旅路とともに表現していきます。道中の地名、名物、名産などを、登場人物の心情にかけながら織り込み、七五調で語ります。作者の腕の見せ所でもあります。文学上では、記紀や万葉集に原型が見られ、平家物語や太平記で形を成したようです。それが、各種芸能へと取り込まれていったわけです。

浄瑠璃では、必ず道行の場が設定されますが、華やかな道行と心中物の道行という二つの流れがあります。例えば、仮名手本忠臣蔵の八段目「道行旅路の嫁入」などは、華やか道行の代表格だと思います。加古川本蔵の娘・小浪は、許嫁・大星力弥との婚礼が、お家断絶のあおりを受けて沙汰止みとなったことを悲しみます。見るに見かねた本蔵の妻・戸無瀬は、娘を力弥に嫁がせるべく、供も連れず、二人だけで鎌倉から山科を目指します。不安に期待が勝り、小浪はウキウキと旅を続けます。5人の太夫、5棹の三味線に鐘や太鼓も加わり、小浪の艶やかな旅衣装、切り替わる背景、遠くに見える大名行列などと相まって、華やかな舞台となります。悲劇的なストーリーのなかで、華やぐ娘心が、痛ましくもあります。

一方、近松門左衛門の「曾根崎心中」の道行は、浄瑠璃を代表する段でもあります。初の心中物であり、初の世話物として知られる曾根崎心中は、実際に起きた心中を題材としています。「此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜」で始まる道行は、近松門左衛門の傑作として知られます。世の理不尽さに、死んで結ばれるしかなかったはつと徳兵衛の心情は、セリフでも芝居でも伝えることに限界があり、景事、歌舞伎では所作事と呼ばれる歌と踊りだけで構成される手法が、最も適していると思われます。心中の現場となった曾根崎の露天神社は、今も「お初天神」の名で知られます。曾根崎界隈で宴会があった際、お参りしたことがあります。夕暮れ時のお初天神には、参拝客が絶えず、人気の高さを示していました。

現代では、一家心中や無理心中のニュースはあっても、いわゆる情死という話を聞くことはありません。江戸期には、情死が頻発し、いわばブームの様相もあったようです。幕府は、情死を厳しく禁止し、心中物の小説や演劇を禁じていた時期もあるようです。多くの場合、女性は遊女であり、叶わぬ恋路を心中で成就するという美学でもあり、あるいは純愛を通して心中した男女は、来世で結ばれると信じられてもいたようです。曽根崎心中も「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり」と結びます。多くの心中は、遊郭も含めて封建的な社会制度がゆえの悲劇だったと考えられます。

道行の景事によく似た手法は、映画でも使われます。クロード・ルルーシュ監督の「男と女」が草分けではないかと思います。フレンシス・レイの音楽とルルーシュの映像だけ構成された叙情的なシーンが、効果的に使われていました。“こんな手があったか”とばかりに、以降の映画に大きな影響を与えました。ルルーシュは、初期のヴィデオ・クリップを撮っていたので、この発想が自然と生まれたのでしょう。決して、浄瑠璃や歌舞伎を参考にしたわけではないと思います。それにしても、300年前、近松松門左衛門が、この手法を確立していたことを知ったら、ルルーシュも驚いたことでしょう。(写真出典:carinay.exblog.jp)

2021年12月16日木曜日

通州事件

殷汝耕
我々以降の世代は、日中戦争に関して、断片的で曖昧な知識しか持っていないように思えます。それが気になり、会社の若い人たちに、日中戦争について聞いたことがあります。結果は、案の定、ひどいものでした。多少マシな人でも、満州国はうろ覚え、盧溝橋事件以降は太平洋戦争の一部という理解です。中学・高校の現代史は、学期末で飛ばされることが多いという大問題に加え、日中戦争自体の分かりづらさもあります。日中戦争の15年という長さ、それに至る前史の長さもありますが、日本対中国と言いながら、独立的に動く当事者が多いことも一因です。中国は、統一途上にあり、国民党、共産党、地方軍閥が入り乱れ、日本も、政府、軍部、関東軍がバラバラに動き、司令官や参謀の独断専行も頻発します。

そして、分かりにくさの最大の要因は、当事者が多すぎるために、事件や謀略が複雑に重なって戦線が拡大し、ついには全面戦争化したという経緯にあると思います。日中戦争の特徴の一つは、宣戦布告なき戦争だったことです。日本も、国民党政権も、諸外国からの干渉を避けたいという思惑があり、宣戦布告しませんでした。また、実態的な特徴として、衝突が発生する都度、現地での停戦協定が結ばれ、かつ、それが頻繁に破られるということが挙げられます。当事者の全てが、都度都度の停戦協定に参加しているわけではないことも一因ですが、停戦に合意した当事者による協定破りも頻発しています。要は、中国北部が、アナーキーな分捕り合戦の場になっており、各所で、日々、戦闘は行われているものの、それは国家と国家の戦争とは呼べない異常な状況にあったように思えます。

日中戦争を、広く捉えれば、1931年の柳条湖事件からということになります。日露戦争後、ロシアから譲渡された南満州鉄道を、関東軍が自ら爆破し、中国東北軍の仕業とした事件です。報復として、関東軍は、奉天攻撃を皮切りに、満州全域を制圧し、1932年、傀儡政権満州国を建国します。一方、狭く捉えれば、1937年の盧溝橋事件からということになります。北京西南の盧溝橋付近で演習中だった日本軍に、銃弾が撃ち込まれ、戦闘へと発展します。例によって、停戦協定が結ばれますが、ほどなくして協定破りが起こり、戦線は拡大していきます。停戦協定が結ばれた直後、北京の南東部、通州で、冀東防共自治政府の保安部隊によって、日本兵と日本人居留民が虐殺されるという事件が起きています。

冀東防共自治政府は、蒋介石の日本語通訳を勤め、国民政府の幹部でもあった殷汝耕が、1935年、日本軍の後押しで成立させた自治政府です。ただ、日本軍が訓練したその保安隊は、国民党非主流派の宋哲元が率いる国民革命軍第29軍とつながっており、共産党による浸透工作も行われていました。盧溝橋事件以降、29軍と日本軍との戦闘が継続されるなか、日本軍が保安隊を誤爆し、また国民党政権が、近く蒋介石自ら29軍を率いて通州を攻撃するとの虚偽情報を放送します。これに反応した保安隊は、殷汝耕を逮捕し、日本軍を壊滅させます。さらに、中国人学生たちも加わり、日本居留者385名中223名を、凄惨な方法で惨殺します。日本のマスコミは、事件をセンセーショナルに報道し、通州事件以降、日本人の対中感情は、極端に悪化したと言われます。また、同年、日本軍が住民を虐殺した南京事件の遠因とも言われます。

戦後、東京裁判に提出された通州事件に関する証言や証拠は、裁判長によって却下されています。また、主犯とされる保安隊の張慶余は、事件後、国民党軍に合流し、中将まで上り詰めています。凄惨を極めた通州事件は、日中戦争の特徴が集約された事件だったとも思えます。長城以南への進軍に反対した天皇、暴支膺懲を掲げ南進する日本軍の謀略、これを煽る日本のマスコミ、バラバラだった中国をまとめていった抗日機運、これらの結節点にあったのが通州事件だったと思います。ここで双方による冷静な分析と対応が行われていれば、その後の展開は大いに違っていたのでしょう。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年12月15日水曜日

「クナシリ」

 監督:ウラジミール・コズロフ        2019年フランス

☆☆

国後島は、日本で6番目に大きな島です。日本の島を大きい順に並べると、本州、北海道、九州、択捉島、四国、国後島、沖縄本島、佐渡島と続きます。択捉島は九州の86%ほど、国後島は、四国の80%程度という大きさになります。構成上、北海道と沖縄を別枠で掲載している日本地図が多いので、大きさの感覚が分からないという問題があります。北方四島は、日本固有の国土ですが、1946年以降、旧ソヴィエトが不法占拠し、現在のロシア連邦に至るまで実効支配が続いています。不法占拠以前の北方四島は、17,000人の日本人が暮らし、ロシア人は一人も住んでいません。また、帝政ロシア、旧ソヴィエトとの国境問題も、一切ありませんでした。全くの不法占拠としか言いようがありません。

一時期、北方四島との交流や経済支援が行われましたが、現在は全てストップしています。なかなか実態の分からない国後島を取材したのが本作です。ゴミと廃墟ばかりが目に付き、他には戦車と希望のない日々を送る島民たちが映し出されます。あたかもうち捨てられた島といった風情です。不法占拠以前、日本人が築いていた島の生活との対比によって、捨てられた感が強調されています。戦車が並ぶ様は、政府が、国後島に軍事的意義しか見ていないことを示しています。住民たちの口からは、政府に対する不満が漏れます。中国やロシアの住民が政府批判を行う映像は希です。そういう意味においては、貴重な映像だと言えます。

ドキュメンタリー映画の肝は、監督の思想やジャーナリスティックな目線だと思います。本作は、そこが極めて薄い印象を受けます。政治的なプレッシャーがあったのかも知れませんが、監督のメッセージがほぼ感じられません。滅多に行けない島で、政府に不満を漏らす島民を撮り、多少戦車を映すだけでは、退屈な映画になって当然です。国後島は、大きく変化する国際政治の影響を受けてきた島です。本土から連れてこられた島民たちは、歴史の波に翻弄された人々です。本作は、そういった視点も持たずに、ひたすら”うち捨てられた島”というイメージだけを伝えます。”極東にはこんな島もあります、知らなかったでしょう”的な映画であり、TV番組程度の作品とも言えます。

東西冷戦下にあった旧ソヴィエトに比べ、ロシア連邦の軍事費は削減されました。また、日本の仮想敵国ナンバー・ワンは、旧ソヴィエトから中国へと移り、自衛隊の配置も北から西重視へと変わっています。ロシアにとって、国後島の軍事的意義は、当然、下がります。そのような背景から、国後島には、十分な予算が割り当てられない時代が続き、島の荒廃が進んだのでしょう。ただ、2006年以降、軍事ではなく、経済的観点から極東開発が本格化します。また、国後島の豊かな自然は、結果的に手つかずのまま残されています。知床が世界自然遺産に登録された際には、将来、政治的解決を見た場合、北方四島も加えるという付帯決議もなされています。本作は、そういった島の歴史や現状をまったくと言っていいほど伝えることなく、淡々と展開します。

ロシアも中国も、伝統的に戦略的深度、いわゆる緩衝地帯の確保にこだわります。ミサイル等がハイテク化した現代にあっても、最終的には陸上兵力が重視されているわけです。北方四島に関するロシアの執着も、国土拡大や漁業権ではなく、軍事的牽制が目的なのでしょう。10年ほど前、日露首脳会談で、平和条約締結、およびそれに伴う歯舞・色丹二島返還への期待が膨らんだ時期がありました。ちょうどその頃、釧路へ出張し、経済界の皆さんと話す機会がありました。建前としては、無論、四島同時返還ですが、本音としては二島返還を望む声が多くありました。二島が返還されるだけで、その海域における漁業権が、倍近く拡大されるようです。もし実現すれば、釧路は、札幌に次ぐ北海道第二の都市になるだろうとも言っていました。(写真出典:movies.yahoo.co.jp)

2021年12月14日火曜日

サグラダ・ファミリア

ガウディの逆さ吊り模型
2019年、永年、見たいと思っていたサグラダ・ファミリアを、じっくり見る機会がありました。2026年完成予定と発表されていたので、それを待つ手もあったのですが、私にとって、サグラダ・ファミリアは、永遠に未完というイメージが強く、あえて建設中を見に行ったわけです。ところが、コロナ・ウィルスのパンデミックの影響で、観光客が激減し、2026年完成は難しくなったようです。そこで、持てる資金と労働力のすべてを、マリアの塔建設につぎ込み、この12月9日に完成を見たようです。

138mのマリアの塔は、完成時、18基となる塔のなかで、2番目に高い塔です。ちなみに、完成時、最も高い塔になるのは、イエスの塔であり、170mとなります。マリアの塔完成以前のサグラダ・ファミリアの倍の高さになります。サグラダ・ファミリアは、1882年3月に着工されています。着工直後、辞任したフランシスコ・ビリャールから設計を引き継いだのがアントニ・ガウディでした。当時、ガウディは31歳、その異才ぶりは知られつつあったものの、まだキャリアをスタートしたばかりであり、サグラダ・ファミリアは初めて手がける大型建築でした。サグラダ・ファミリアの正式名称は、聖家族贖罪教会です。贖罪とは信者の寄付行為を表し、教会は寄付を財源に建設されることを意味します。ガウディの壮大な建築を賄うほどの寄付は、なかなか集まらず、建設は、なかなか進みませんでした。

晩年をサグラダ・ファミリア建設に捧げたガウディですが、1926年、躓いて転んだところを、路面電車に轢かれて死亡しました。ガウディの死後も建設は継続されますが、スペイン内戦時、設計図などが焼失します。ただ、残された少ない資料に基づき、建設は継続されてきました。ガウディの建築は、しばしば生物的と言われます。直線の少ない建築は、可能な限り自然を模倣しているように思えます。建築としての構造計算も、極めて独創的な方法で行われていました。フニクラー、逆さ吊り模型と呼ばれる方法ですが、重りをつけた紐を複雑に組み合わせてバランスを取り、それをひっくり返すと構造力学に適った建築になるというものです。何やら中世的な手法のようにも思えますが、科学的合理性があるようです。ガウディの独特な建築が成立する大きな要因になっているようです。フニクラーは、サグラダ・ファミリアの地下で見ることができます。

バルセロナとその近郊で、ガウディの作品6点を観ることが出来ました。サグラダ・ファミリア以外で印象に残ったのは、まるで精巧な工芸品を思わせるグエル邸、ガウディらしさと近代住宅としての合理性をギリギリ詰めたカサ・ミラ、そして未完に終わったコロニア・グエル教会地下聖堂です。コロニア・グエルは、ガウディのパトロンだった繊維会社の経営者グエルが、バルセロナ郊外に建設した工場とその労働者のための町です。グエルが描いた理想の街です。その街の礼拝堂として建設されたのが教会地下聖堂です。半地下の礼拝堂は、開けた空間が4本の柱とアーチで支えられ、ガウディが設計した椅子も含めて、不思議な空間を構成しています。その構造設計は難しく、設計だけで10年を要したと言われます。上部構造は、今も未完のままとなっています。

コロニア・グエルの街が建設される少し前、バルセロナの街は、碁盤の目に区画され、高さや外観に統一性を持たせた労働者のための集合住宅が建設されています。バルセロナは、産業革命とともに急速に栄えた街です。工場労働者を多く集めるために、理想的な住環境を作ることに熱心だったわけです。そしてガウディの建築や公園、さらにはムンタネーのカタルーニャ音楽堂、サン・パウ病院等も含め、当時のバルセロナは、世界最先端の”未来都市”だったのでしょう。(写真出典:4travel.jp)

2021年12月13日月曜日

数の子

ニシンの卵である数の子は、不思議な食べ物です。それ自体の味もありますが、むしろ食感や音を楽しむ代物です。粒の多さが子孫繁栄につながるという正月の縁起物であり、普段から、その味を楽しむという食品ではありません。そもそも魚卵系でそのまま食べるのはウニくらいで、他は、おおむね塩や醤油で味付けしたり、加工して食べます。カラスミ、イクラ、タラコなどは、塩味によって独特の風味を引き出しています。数の子には、塩などで風味が増すという効果もあまり無いように思います。やはり食感の食べ物であり、食べる際には、かつお出汁に漬けるなど、他の味を借りて食べているように思います。

数の子が、初めて文献に登場するのは、室町時代、将軍への献上品としてだそうです。つまり、昔から常用食ではなく、縁起物だったということなのでしょう。数の子という名称は、卵の数が半端ないので、数が多い子ということから来ていると思われます。ただ、東北地方で、ニシンをカドと呼んでいたことから”カドの子”から変じたという説もあります。江戸期には、正月の縁起物として定着したようです。当時は、決して高価なものではななかったようです。しかし、昭和も40~50年代なると、数の子は高騰し、”黄色いダイヤ”とまで呼ばれることになります。

ニシンの漁獲量が減る一方で、高度成長とともに豊かさを増した各家庭では、正月料理の定番として、数の子は欠かせないものになっていきます。加えて、核家族化が進んだこともあり、需要は大いに伸びます。塩漬けにすると長期保存が可能な数の子は、投機の対象になっていきました。いわゆる買い占めが横行し、抱えすぎた商社が倒産する事態まで発生します。”黄色いダイヤ”という言葉が生まれ、数の子は高価なものという意識が広がり、定着していきます。近年は、輸入先も拡大され、価格は、かつてほど高くはなく、しかも安定しているようです。早い時期に、塩漬けを買っておけば、比較的安価に済みます。正月近くになったら、塩抜きし出汁に漬ければいいわけです。さほどの量が必要なければ、やや高めですが、正月前に味付けしたものを買えばいいわけです。

数の子を使った料理の定番に、松前漬けとつがる漬けがあります。つがる漬けは、商品名であり、他にねぶた漬け等もあります。細切りにしたスルメと昆布に数の子を入れて、醤油漬けにしたものです。ネバネバしているところが特徴です。松前漬けは海鮮のみで漬けられますが、つがる漬けには、山の幸として、大根やにんじんが入ります。いずれも正月料理などではなく、年中食べられます。松前漬けは、江戸期、松前藩で生まれたとされますが、現在の醤油漬けは、昭和に入ってからの商品です。それが各地へも広がり、つがる漬になったのだと思われます。つがる漬けの場合、数の子が、姿のまま入っていれば高級品、バラで入っているものは普及品となります。

数の子の一種に子持ち昆布があります。味は数の子そのものですが、昆布が真ん中にあるという見た目に加え、産卵後ゆえ、数の子ほど堅くないところが特徴です。筋子とイクラの違いと言えば、言い過ぎかも知れませんが、私は、その多少緩い食感も好きです。昆布に、ニシンが卵を産み付けたものですが、さすがに天然物は、極めてレアだそうです。我々が口にする子持ち昆布は、生け簀にニシンを放ち、そこに昆布をぶら下げて産卵させるようです。(写真出典:gurusuguri.com)

2021年12月12日日曜日

梁盤秘抄#20 COR DE ROSA E CARVAO

アルバム名:COR DE ROSA E CARVAO(1994)                     アーティスト:マリーザ・モンチ

2010年に、前立腺ガンという診断を受けました。結果的には、小さく、かつ安定しているので、毎年、PSA検査だけ行うということになりました。昨年、再び生体検査を行いましたが、同様の結果で、向こう10年くらいは何もする必要がないと言われました。ただ、最初にガンの告知を受けた際には、もはやこれまでか、と思いました。悲しかったものの、良い人生だったなと思え、多少は死を受け入れることができたように思います。そんな時、マリーザ・モンチの「Onde Andarás?」を聞くと、なぜか気持ちが落ち着き、冷静になれました。

アンニュイなムードのなかに、少し自己憐憫をにじませ、失った恋を歌っています。カエターノ・ヴェローゾの曲ですが、「Cafe Brasil」(2001)のなかで、マリーザ・モンチがカバーしています。以来、マリーザ・モンチを、よく聞くようになりました。特に、このアルバムの ”Danca Da Solidado”、”De Mais Ninguém”などはお気に入りです。特にハマったのが”Esta Melodia”です。あの人が去って、残ったのはこのメロディ、といった内容の歌です。ヴェーリャ・グアルダ・ダ・ポルテーラを従えたマリーザ・モンチは、モダンなセンスも加えながら、しっかりとサンバの伝統に則って歌い上げています。”ママ”と呼ばれたクレメンティーナ・デ・ジェゾスが、アルバム”RAINHA QUELE”で歌った曲のカバーです。

ヴェーリャ・グアルダ・ダ・ポルテーラは、リオの名門サンバ・チーム”ポルテーラ”の長老たちで構成されています。新聞記者だったマリーザ・モンチの父は、ポルテーラの一員であり、ポルテーラは、いわばマリーザが育った場所でもあります。2000年、マリーザは、忘れられていたヴェーリャ・グアルダ・ダ・ポルテーラを集め、アルバム「Tudo Azul」をプロデュースし、自らも歌っています。さらに2010年には、自らが案内役を務めて、初期のポルテーラを探るドキュメンタリー映画「サンバのミステリ」を発表しています。ポルテーラの歴史と同時に、自分自身の音楽的ルーツを探っていたのでしょう。映画のラスト近く、多くの人々が集まったポルテーラの練習場で、マリーザとヴェーリャ・グアルダの面々は、”Esta Melodia”を楽しそうに歌います。実に感動的なシーンでした。

マリーザ・モンチは、エリス・レジーナ亡きあとのMPBの女王と呼ばれます。MPBとは、ムージカ・ポプラール・ブラジレイラの略であり、ブラジルのポップという意味です。サンバやボサノヴァよりも、欧米のポップスの影響が濃い、現代的な音楽です。少しザラついた透明感とでも言いたくなるような彼女の独特な声は、他の誰とも似ていません。その声は、知的でモダンな印象を与えます。ただ、いかにMPBの先頭を走るとは言え、他のブラジルの音楽家同様、彼女の音楽的センスは、サンバで形作られています。カリオカと呼ばれるリオの下町っ子たちが、貧乏な生活のなかで生み出したサンバこそ、マリーザの音楽的原点なのだと言えます。

サンバの歴史ははっきりしないものの、西アフリカから連れてこられた奴隷たちが、教会音楽はじめ欧州の音楽と出会い、生まれたものと言われています。ブラジルの近代化とともに、労働者が都会へと集まっていきます。都市の最下層を形成する労働者たちは、貧しい生活のなかで肩を寄せ合い、助け合って生きていきます。その際、辛い日々の憂さ晴らしとして、自然発生的にリオのサンバが生まれます。仕事の最中に思いついたメロディや歌詞を持ち寄り、数々の名曲が生まれていきます。ポルテーラの正式名称は、”Grêmio Recreativo Escola de Samba Portela”です。サンバ・チームの名称には、”Escola”が入ります。学校という意味ですが、流派、あるいはチームといったところなのでしょう。リオのサンバやエスコーラは、音楽やダンス以上に連帯の象徴なのだと思います。(写真出典:discunion.net)

2021年12月11日土曜日

ふるさと納税

10年ほど前、業界の知人から「ふるさと納税をしない奴はバカだ」と言われました。その知人は、ふるさと納税専用の冷凍庫まで持っていました。私も、始めて見ると、すっかりハマり、会う人毎に、ふるさと納税すべきだと言い歩き、もはやふるさと納税の宣教師となっていました。完全リタイアして、住民税も減りましたが、今でも、米、味噌、ゴルフボール等は、ふるさと納税で頂戴しています。ふるさと納税制度自体は、2008年にスタートしています。当初は、本当の故郷への純粋な寄付行為として宣伝されていました。ところが、返礼品を出す自治体が現れ、2012年、ふるさと納税専用のサイトが立ち上がると、一気に広がっていきました。

さる地方都市の市長と話した際、俺はふるさと納税に反対だ、と市長は言っていました。その市では、市長のせめてもの抵抗として、物品ではなくイベント参加権だけを返礼にしていました。市長の言いたいことは、実によく分かります。流出分は、住民税を他の自治体に取られる。流入分は、寄付収入増ながら、半分ほどが返礼品やプロモーション経費で支出されるという仕組みです。国全体としてみれば、徴収すべき、法に定められた税を、役所が自ら減らすという奇妙な仕組みです。一方、納税側からすれば、事実上の減税です。ただ、活用しなければ、欲しい返礼品がなければ、減税にならないという不公平な仕組みであり、かつ、所得が多いほど寄付控除上限も大きくなるという不公平もあります。減税ならば、こんな仕組みを使わず、直接的に減税すればよい、とも思います。

ここまでブームが過熱すると、自治体も、やらなきゃ損、ということになります。ちなみに、上述の市でも、その後、住民の意見に押され、名産物を返礼品に加えるようになりました。ふるさと納税には、地場産業を振興する、あるいは特産品をPRするという面で、一定の効果があります。ただ、それも特定の産品だけに限定した効果ということになり、ここにも不公平が生じます。恐らく、特産品の取扱業者の選定にも、不公平感は生まれているのでしょう。そもそも、各自治体も、人気の特産品があるかどうかで、寄付額に大きな格差が生じるという不公平さもあります。本当に補助を必要とする自治体に寄付が回るとも限りません。結局、安定的に潤っているのは、サイト等の運営に関わる業者、そして配送会社だけだとも思えます。

ふるさと納税の本来的なねらいは、大都市圏に集中する住民税の一部を、地方にも分配しようというものです。そもそも地方振興のための税の配分システムならば、地方交付税という仕組みが既に存在しています。多くの人口を抱え、地方に比べて、大きな支出が求められる大都市側では、ふるさと納税の流出額が大きくなれば、行政サービスの低下も避けられません。そこで、地方交付税対象自治体については、流出額の75%を国が補填する仕組みもあります。ならば、ふるさと納税などやらずに、その補填財源を地方交付税に上乗せして、支援が必要な自治体に回せば済むのではないでしょうか。返礼品を、ありがたく頂戴しておきながら言うのも如何なものかとは思いますが、とにもかくにも摩訶不思議な制度と言わざるを得ません。

2020年度のふるさと納税の総額は、約6,724億円に達しています。うち返礼品や運営費用として約半分の3,300億円が消えているはずです。また、流出側への75%の補填が、約5,000億円。つまり、ふるさと納税がなければ、国全体としては、8,300億円が浮くわけです。優秀な官僚の皆さんも分かっているはずです。とすれば、ふるさと納税のメリットは、別な所にあるのではないでしょうか。例えば、自治体や政治家が、交付税の増額を要求してきた場合、官僚は「ふるさと納税で稼いでいるところもありますよ。おたく、努力が足りないんじゃないですか?」と言えます。これは切り返しとしては、なかなかのものです。配分という世界に、一部自由競争を組み込み、分捕り合戦をさせることで、配分を抑え込む、という仕組みにも見えます。もちろん、下衆の勘繰りってやつですけど。(写真出典:newsweekjapan.jp)

2021年12月10日金曜日

媒酌人

結婚式の媒酌人を、3度ばかり、引き受けたことがあります。最初に媒酌人を引き受けたのは、1990年代前半のことでした。今時、媒酌人とは珍しいね、と先輩から言われ、調べてみると、媒酌人のいる結婚式は、当時の東京で、既に1割強まで減っていました。NYから戻った直後のことであり、浦島太郎状態の私としては、時代の変化に大いに驚きました。かつて結婚式と言えば、媒酌人を立てることが慣例であり、会社の上司にお願いすることが通例となっていました。2000年代に入ると、媒酌人のいる結婚式は、1%以下にまで減ります。

ごく正確に言うと、媒酌人と仲人には違いがあります。仲人は、結婚する二人を、お見合いなどで引き合わせるところから関与します。対して、媒酌人は、結婚式や披露宴で、新郎新婦を介添えするだけの役割です。頼まれ仲人、といった言い方もありました。恐らく、結婚という契約の証人という意味合いだったのでしょうが、結納の儀式を仕切ること、親族の顔合わせを仕切る、披露宴で新郎新婦を紹介することなどが主な役割です。なにせ、おめでたい席であり、ご両人の人生にとってほぼ一度だけ、あるいはご両家の縁を結ぶという観点からも重要な儀式ですから、間違いなどあってはいけないわけです。そういう意味では、それなりに重い役割でもありした。

媒酌人は、江戸期の武家社会で一般化したようです。それが、明治期になると、庶民の間にも広がっていきます。当時は離婚率が高く、離婚を抑制するために広がったという説もあるようです。ただ、明治の世になると、身分制度がなくなり、結婚の自由度も増したことで、媒酌人が一般化したのではないかと思います。結婚は本人同士の同意で成り立ちますが、当時の社会では、家と家が縁戚関係を結ぶという意味も大きかったと言えます。結婚の自由度が増してくると、両家は見ず知らずという場合が増えます。両家の間に、第三者である仲立ちがいた方が、事がスムーズに進むというメリットが認識され、媒酌人が普及したのではないかと思われます。戦後、社会は、村落共同体から企業共同体中心へと変わります。そこで上司の”頼まれ仲人”が増加していったのでしょう。

かつて、仲人は「月下氷人」とも呼ばれました。これは中国の二つの故事に由来する言葉です。唐の時代、ある人が旅に出ると、月の光で本を読む老人に出会います。老人は、大きな袋に寄りかかっており、その袋から赤い糸が出ていました。その糸は何か、と尋ねると、これは男女を結ぶ糸だ、お前の相手も決まっている、と聞かされます。後に、男は、老人が予言した相手と結婚します。また、晋の時代、氷の上に立って、氷の下にいる人と話す夢を見た男が、占い師に、夢の意味を聞きます。占い師が言うには、その夢は、お前が結婚の仲立ちをする予兆だと答えます。果たして、男は結婚の仲立ちをすることになりました。この二つの話から、仲人のことを月下氷人と呼ぶようになったと言われます。

90年代、媒酌人を立てる結婚式が減っていった理由は、結婚産業の競争が激化し、多様なスタイルが提案されたことによる影響が大きかったと思います。ただ、その背景には、バブル経済の崩壊が関係していたと思われます。つまり、疑似村落共同体としての企業は、高度成長期を通じて、終身雇用・年功序列・企業内組合という三種の神器をもって、その結束を強固にしていきます。ただ、バブルが崩壊すると、その体制には綻びが生じ、共同体としての強さにも失われていきます。もともと形式的になっていた”頼まれ仲人”も、急速に意味を失っていったわけです。(写真出典:nrh-shimanto.co.jp)

2021年12月9日木曜日

「パワー・オブ・ザ・ドッグ」

監督: ジェーン・カンピオン      2021年英・豪・米・加・NZ

☆☆☆☆+

Netflixは、毎年、この時期、アカデミー賞狙いの話題作を投入してきます。20年にはマンクとシカゴ7裁判、19年はアイリッシュマンとマリッジ・ストーリー、18年はROMA/ローマでした。すべてノミネートされましたが、残念ながら作品賞は、まだ獲っていません。既にネット配信は、映画を観るためのメディアとして定着していますが、Netflixとしては、アカデミー作品賞を獲得することで、市民権を完全なものにしたいということなのでしょう。今年、投入する第一弾が「パワー・オブ・ザ・ドッグ」であり、12年振りのジェーン・カンピオン作品というだけで、十分に話題作と言えます。

見事な作品に仕上がっています。ヴェネチア国際映画祭では銀獅子賞(監督賞)を獲得しています。ジェーン・カンピオンは、女性監督の頂点に立っていることを、改めて証明したとも言えます。監督の母国ニュージーランドで撮影されたという美しい映像、ベネディクト・カンバーバッチの重厚な演技、切れることなく一定のテンションを保つ演出など、実に見事なものです。監督の力量の高さを、十分に感じさせます。とても質の高い文学作品を一冊読み終えたかのような印象が残ります。ただ、ドラマとしてのカタルシスという面では、強すぎればバランスを崩す可能性があるとしても、やや弱かったように思えました。

ジェーン・カンピオン監督が、その名を世界に知らしめたのは「ピアノ・レッスン(原題the Piano)」(1993)でした。19世紀のニュージーランドを舞台とした愛と自立のファンタジーでした。監督が、まだ30代の作品ですが、そのスキの無い構成力は、ベテランの大物監督をも凌ぐほどのものでした。アカデミー賞では、監督自身が脚本賞、コーエン兄弟映画の常連ホリー・ハンターが主演女優賞、子役のアンナ・パキンが助演女優賞を獲得しています。そして、カンヌでは、堂々、パルム・ドールを獲得しています。ちなみに、その年のアカデミー作品賞は「シンドラーのリスト」、監督賞はスティーヴン・スピルバーグでした。作品賞を獲れずに脚本賞だけを獲った作品は、間違いなく名作揃いというのが、持論ではありますが、「ピアノ・レッスン」も、その一つです。

カンピオン監督は、音楽的センスも極めて良いと思います。「ピアノ・レッスン」では、ある意味、ピアノが主役でもありました。現代音楽家のマイケル・ナイマンの音楽、ホリー・ハンター自身が弾くピアノが印象的であり、サウンドトラックは、世界的ヒットを記録しています。今回も、音楽が、映像と見事にリンクし、実に印象的でした。担当したのは、レディオヘッドのリード・ギター、ジョニー・グリーンウッドです。いまや、映画音楽家のグリーンウッドと言うべきかもしれません。「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」(2007)では、ベルリン国際映画祭の銀熊賞を獲得し、アカデミー音楽賞にもノミネートされています。また、「ファンタム・スレッド」(2017)でも、再びノミネートされています。いずれもポール・トーマス・アンダーソン作品でした。

原作「パワー・オブ・ザ・ドッグ」(1967)は、西部開拓時代を描くトーマス・サヴェージの最高傑作とされ、ギリシャ悲劇的とも言われる作品です。カンピオン監督は、シナリオ執筆に際して、かなり原作に手を入れたようです。同名のタイトルとして、ドン・ウィンズロウの三部作が有名ですが、まったく関係ありません。もっとも、ウィンズロウの作品の邦題は「犬の力」(2005)となっており、今回、混乱をさけるために、あえて映画のタイトルは原題のままとしたのでしょう。ただ、ウィンズロウが、トーマス・サヴェージの作品を意識したかどうかは不明です。(写真出典:movies.yahoo.co.jp)

2021年12月8日水曜日

前夜の訓示

飯田房太中佐
カイルア・ビーチは、ハワイで最も好きな場所です。白い砂浜、透明度の高いコバルト・ブルーの海。絵に描いたように美しいビーチでは、一日中、何もせずに過ごしたくなります。ハワイに来て良かったと、心底感じさせてくれます。ビーチの北側には、モカプ半島が横たわっています。天国のようなビーチから臨む穏やかな山並みのモカプ半島は、実は、まるごとアメリカ海兵隊ハワイ基地となっています。 現地時間1941年12月7日朝、真珠湾の米海軍基地は、日本軍の奇襲攻撃を受けます。第二次攻撃隊として、空母「蒼龍」を飛び立った第三制空隊は、カネオヘ海軍航空基地(現海兵隊ハワイ基地)とベローズ陸軍航空基地(現空軍基地)を攻撃します。

第三中隊を率いる飯田房太大尉(戦死後は二階級特進して中佐)は、カネオヘを攻撃し、ベローズを叩き、再びカネオヘ攻撃を行います。その際、飯田大尉の操縦するゼロ戦は、燃料タンクに被弾し、燃料を失います。飯田大尉は、僚機に燃料切れを伝える手信号を送り、手を振って基地格納庫へと突入します。米軍は、飯田大尉の勇敢な行動に敬意を表し、基地内に埋葬し、1971年には、記念プレートも設置されています。2016年、ハワイ訪問中の安倍首相は、海兵隊ハワイ基地を訪れ、記念プレートに献花しています。その際、「悪魔の辞典」で知られるアンブローズ・ビアスの「勇者は、勇者を敬う」という言葉を引用し、米軍に感謝しています。

飯田房太大尉は、山口県の旧家に生まれ、海軍兵学校を5番という優秀な成績で卒業します。その後、霞ヶ浦海軍航空隊で学び、パイロットになります。1940年には、無敵と言われた新鋭機ゼロ戦を操縦して成都攻撃に出撃。ゼロ戦飛行隊は、敵機全機を撃墜し、勇士として賞賛されました。しかし、飯田大尉は浮かれることなく、地上部隊が速やかに重慶・成都を占領できなければ、日本は大変なことになる、と語っており、近代的な総力戦の何たるかを正確に、かつ冷静に把握していたようです。そして、翌年、蒼龍からハワイ攻撃へと飛び立ちます。飯田大尉の英雄的な最後については、後にJALのパイロットとなる部下の藤田怡與藏中尉等の証言があります。ただ、藤田中尉たちの証言とは、多少異なる話も伝わります。

南洋の撃墜王として知られた角田和男中尉が、蒼龍の艦上爆撃機パイロットから、無理矢理、聞き出したという話です。ハワイ攻撃の前日、飯田大尉は、部下を集めて「この戦は、どのように計算してみても万に一つの勝算もない。私は生きて祖国の滅亡を見るに忍びない。私は明日の栄えある開戦の日に自爆するが、皆はなるべく長く生きて、国の行方を見守ってもらいたい」と訓示したというのです。この訓示については、ハワイ攻撃当日のうちに、蒼龍艦内に厳しく箝口令が敷かれたと言います。藤田中尉は、飯田大尉の機は被弾したものの、帰投できないほどのダメージではなかった、と証言していますが、前夜の訓示については記憶にない、とも話しています。

ただし、藤田中尉は、ハワイへ向かう途上、飯田大尉が、被弾したら、目標を見つけて自爆する、と話していたことは記憶していました。今となっては、前夜の訓示は、事実か否か、分かりません。いずれにしても、飯田大尉の厳しい覚悟は明確です。かつ、大戦の帰趨を、極めて冷静に分析していたことも、うかがい知れます。それは、最後まで日米開戦に反対し続け、かつ真珠湾攻撃の指揮をとって英雄となった山本五十六連合艦隊司令に重なるものがあります。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年12月7日火曜日

アナタハンの女王

1944年、比嘉和子は、夫とともにアナタハン島に移り住みます。夫は、”海の満鉄””とも呼ばれた国策会社の南洋興発に勤務しており、椰子油の原材料となるコプラ生産のために派遣されました。アナタハン島は、サイパンの北117kmに位置する北マリアナ諸島の小島であり、第一次大戦以降は、日本の委任統治下にありました。攻勢を強めた米軍の爆撃によって夫は死亡、島民たちも逃げ出し、島には夫の上司と和子だけが残ります。そこに爆撃された徴用船から漂着した日本兵など31人が上陸します。南洋興発からの食料補給も途絶え、33人は、自給自足のサバイバル生活に入ります。

上司と和子は、事実上の夫婦として、日本兵たちとは離れて生活します。終戦を迎えると、米軍が投降を呼びかけますが、日本人たちは、敗戦を信ぜず、立てこもります。1946年、島に墜落した米軍のB-29の残骸の中から、拳銃4丁が見つかり、部品を組み立て、2丁が使用可能な状態になります。この拳銃が、島のバランスを崩し、悲劇を生んでいくことになります。拳銃を持ったリーダー格の日本兵が、上司を殺害し、和子を”妻”にします。そのリーダーも、殺害されます。その後も、さらに2名が変死しています。和子と食料を巡る争いが、殺人に発展していったものと思われています。後に、和子は、自分を争って死んだのは2名だけだと証言しています。

争いが続くのは、和子のせいだという空気が生まれ、身の危険を感じた和子は、1950年、米軍に投降します。帰国した和子は、島に残る日本人の救出を訴え、翌1951年には全員が救出されます。32名いた男たちは、20名に減っていました。殺害されたのは4名、他は事故、衰弱死等だったと見られています。帰国した男たちは、多くを語りませんでした。また、証言したとしても、保身的要素が加わるせいか食い違いが多く、真相は分からないままとなりました。殺人事件ゆえ、捜査されるべきところです。ただ、アナタハン島は、終戦とともに日本の委任統治を離れ、かつ米国による信託統治が決まった1947年までは、どこの国にも属さず、よって捜査対象でもありませんでした。

事の真相は不明ですが、和子を巡る若い男たちの争いとも、和子が女王としてすべてを仕切っていたとも言われます。この事件は、「アナタハンの女王事件」として、扇情的な報道によって世間の注目を集め、ブームの様相まで呈したようです。帰国後、和子は、映画に出演したり、舞台に立ったりしていたようです。度胸の据わった行動とも言えますが、悲しい居直りと見るべきかも知れません。ただ、ブームが去ると、故郷の沖縄に戻り、再婚して、2人の子供を産み、飲食店「アナタハン」を経営します。1979年、和子は、脳梗塞で死亡しています。戦後6年を経て救出された男たちも、妻が再婚しているケースが複数あるなど、厳しい帰国になったようです。

アナタハンで起きた事件の背景には、残留日本兵問題と同様、戦陣訓があることは明らかです。「生きて俘虜の辱めを受けず」というわけです。さらに組織化されていない集団のエゴのぶつかり合い、そして家父長制による女性差別が特徴的な事件なのでしょう。和子は、守ってくれる”夫”がいなければ、より悲惨な状況になっていたことでしょう。同時に、”夫”の存在が、集団内に暴力を生み出していくことになります。また、マスコミによる加熱した報道合戦は、今も変わらぬ問題だと思います。帰国後の和子のつらさは、筆舌に尽くし難いものだったはずであり、アナタハン島にいた時よりも、一層過酷なものだったと思われます。生存能力の高い和子は、本能的に”居直る”ことを選択して生き抜いたと言えるのでしょう。(写真出典:bunshun.jp)

2021年12月6日月曜日

新宮

ゴトビキ岩
勤めていた会社には、全国津々浦々、1,000カ所に及ぶ営業拠点がありました。本社から一番遠い営業拠点はどこか、という定番の話がありました。直線距離ならば、東京・那覇間が1,500km余りであり、多くの人は那覇と答えます。正解は、和歌山県新宮市。距離ではなく、移動時間でみれば、那覇より遠いというわけです。ちなみに、第2位は、三重県の尾鷲です。新宮・尾鷲間は、約60km、特急で1時間弱かかります。新宮と尾鷲、いわゆる熊野地方は、アクセスの悪い“陸の孤島”と呼ばれてきました。 

2011年、新宮市は台風12号による水害で大きな被害を受けました。そのお見舞いのために、新宮市を訪問しました。まずは、羽田から飛行機で南紀白浜まで飛びます。便数は少ないものの、約75分のフライト。白浜からは特急で2時間半ですが、時間が合わず、車で移動しました。迎えてくれた和歌山支社長から、山の道、海の道、いずれを行きますか、と聞かれました。近い方で行こうと答えると、いずれも3時間半かかると言うのです。氾濫した熊野川の様子を見るために、山の道を選びました。10時半くらいに丸の内本社を出て、新宮市に到着したのは、夕方5時を回っていました。夕暮れの新宮は、商店で買い物をする主婦たち、道で遊ぶ子供たち、帰宅する生徒たち、と懐かしい昭和の風情を感じさせました。

新宮は、日本書記にも登場するほど古い歴史を持つ土地であり、熊野三山の一つ熊野速玉大社を擁する町です。徐福伝説が残ることから、少なくとも、古代には渡来人もいたのでしょう。中世から近世にかけては、南紀の要衝としての存在感を示しますが、最も栄えたのは、明治期以降であり、熊野の木材の製材、そして積出港として大いに賑わいます。当時、新宮には日本中の芸者が集まった、と言われるそうです。もちろん、大袈裟に過ぎる話ですが、いかに町が潤い、賑わっていたか、ということ伝える話です。安い外国木材が入り始めた戦後、町は急速に勢いを失っていきます。土地の人に聞くと、異常にスナックの多い町だと言います。漁師が多い、娯楽が少ない、といった背景も考えられますが、恐らく隆盛を誇った時代の残り香なのでしょう。

新宮の背面にそびえる神倉山の南端に、ゴトビキ岩と呼ばれる巨岩があり、町を見下ろしています。ゴトビキ岩を御神体とする神倉神社では、毎年2月、「御燈祭(おとうまつり)」という例大祭が行われます。神が、毎年始に、人々の使う火を、浄化したうえで授けるという意味があるようです。夜8時頃、白装束の氏子たちが、松明を持って、538段の石段を一気に駆け下ります。源頼朝が寄進したという石段は、大きな自然石を積み上げただけのものであり、石段というよりも、岩場の登山道といった趣です。それを男たちが密集して全速力で駆け下ります。勇壮な火祭りなどと悠長なことを言っている場合ではありません。危険極まりない、とんでもない祭りです。誰かが足を滑らせれば、数人の首が折れることは間違いありません。

新宮市は、人口27,000人ですが、熊野地方の中心都市として、商圏は約10万人になるようです。しかも大都市圏からは距離があるので、独立性の高い商圏と言えます。町の規模のわりには、商店も多く、大型商業施設等もあります。また、歴史の古い町らしく教育熱心でもあり、優秀な人材を輩出しています。新宮出身者には、佐藤春夫、中上健次など、学者や文化人が多いと聞きますが、近畿・東海一円にスーパー・マーケットを展開するオークワ創業の地でもあり、ホームセンターのコーナン創業者・疋田耕造の出身地でもあります。(写真出典:tripadvisor.jp)

2021年12月5日日曜日

MP

刑事小説や探偵小説は、主人公とともに、舞台となる街も主人公だと思っています。その街に対する愛情や愛着こそが、刑事小説の大きな魅力を構成しています。リー・チャイルドの「ジャック・リーチャー」シリーズ 第1作「キリング・フロアー」(1997)を読んだ時には、驚きました。リーチャーが、着替えすら持たない身軽な放浪者であり、特定の街を舞台にしていなかったからです。もっともリーチャーは、元MP(Military Police)の将校であり、軍隊が街の役割を担っているとも言えます。

リーチャーは、身長195cm、射撃の名手、格闘技の使い手、正確な体内時計、優れた洞察力、武器類に関する豊富な知識、現役MP部隊とのパイプ等と、かなりのスーパーマンです。軍人の子として生まれ、ウェスト・ポイントを卒業したリーチャーは、軍隊での生活しか知らないことに気づき、退役後、アメリカ中を見てみたいと放浪の生活に入ります。様々な土地で様々なシチュエーションに出くわすわけで、毎回、かなり自由なストーリー展開が可能です。うまい手を考えたものだと思いました。ただ、小説の出来としては、決して一流とは言えず、私のなかでは二軍です。故障者が出た場合のみ、一軍登録されます。トム・クルーズ主演で映画化もされましたが、2作目が不振だったことから、映像化の権利はAmazonに売られたようです。遠からずうちにAmazon Primeのオリジナル・シリーズ化されることと思います。

映画が不振だった最大の理由は、トム・クルーズをキャスティングしたことにあると思います。ジャック・リーチャー・シリーズが売れた大きな理由は、リーチャーのキャラクターにあります。トム・クルーズでは、リーチャー最大の特徴の一つである身長の高さを捨てざるを得ませんでした。加えて、トム・クルーズは、どんな映画に出演しても、いつもトム・クルーズです。ぶっきらぼうな態度、冷静でドライな性格こそが、リーチャーの魅力ですが、そのキャラクターがまったく表現されていません。それがなければ、リーチャー・シリーズを映画化する意味はなく、そこそこの出来のアクション映画に過ぎません。リー・チャイルドは、リーチャー役に、ウィリアム・ハートやラッセル・クロウの名を挙げていたそうですが、私は、絶対にクリント・イーストウッドだと思います。ただ、年齢的なミスマッチが致命傷ではあります。

世界の軍の警察機構には、大きく言って、二つの流れがあるようです。一つは、英米系のミリタリー・ポリス(MP)であり、軍内部の事案だけを扱います。自衛隊も、この方式です。一方、フランス発祥と言われる憲兵方式、つまり軍組織でありながら、一般警察の機能も兼ね備えるスタイルもあります。戦前の日本の憲兵も、同じ方式ですが、現代では、イタリアのカラビニエリ等が有名です。ただ、いずれの方式でも、軍人であることには変わりなく、戦争が起こると戦場へ赴きます。憲兵方式を採る国では、他にも警察組織が複数存在することが多く、例えばイタリアでは、国家治安警察とも呼ばれるカラビニエリの他に、国家警察や財務警察等があります。我々から見ると、ややこしい印象があります。英米方式はシンプルですが、アメリカのMPは、各軍の固有組織になります。陸軍は規模が大きいので、FBI顔負けの組織、捜査力を持っているようです。そこがリーチャーの魅力にもつながるわけです。

軍が民政に関わる憲兵方式というのは、どうも気持ちが悪く、全体主義の手先的な印象があります。戦前、陸軍大臣管下にあった日本の憲兵などは、その典型であり、思想弾圧まで行い、憲兵政治とまで呼ばれました。特に東条英機は、議会にも憲兵を配置し、政敵に対して容赦ない弾圧を加える等、恐怖政治の手先として憲兵を使っていました。また、満州等の占領地にあっては、匪賊や政治犯の被疑者を裁判無しで処刑するなど、非道な行為も行われていました。処刑された日本のB・C級戦犯1,000人のうち、4割近くが憲兵だったと言われます。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年12月4日土曜日

ジャグア

英国が誇る名車Jaguarを、英国人は「ジャグア」と発音する、と書いたのは伊丹十三です。そのとおりではありますが、今も日本では「ジャガー」と表記されます。一般化、あるいは常識化されている事柄を、それはちょっと違うんじゃないの、と教えてくれたのが、1968年に、伊丹十三が発表したエッセイ「女たちよ!」だったと思います。小気味よい文章で、時に皮肉な語り口で、本質をついた持論を展開しています。生活が少し豊かになり、海外にも目が向かい、既存体制に対する抵抗が高まった時代、日常的な事柄に、こだわりのある新しい視点を示してくれました。70年代に到来する日本的なサブ・カルチャー時代を予見させる本でもありました。私たちが、そこで学んだのは、アル・デンテというスパゲティの茹で方や正しいミルク・ティーの入れ方だけではありませんでした。

伊丹十三は、1933年、知性派監督として知られる伊丹万作の長男として生まれます。高校卒業後、新東宝に商業デザイナーとして就職します。デザイナーとしての腕は、なかなかのもので、書籍の装丁などは、生涯続けています。ちなみに、アート・シアター・ギルドのロゴも手がけたことは有名です。その後、大映を皮切りに俳優へ転じ、「北京の55日」や「ロード・ジム」といった海外作品にも出演しています。俳優業を続けながら、執筆、TV制作、雑誌編集など、多才ぶりを発揮し、当代一流の文化人として知られました。1984年、「お葬式」で初めて長編映画を監督します。時に51歳、満を持しての監督デビューだったと言えます。大好評で、多くの賞を獲りました。思い入れたっぷりの映画でしたが、師と仰ぐ蓮實重彦の酷評を受け、以降は社会風刺を効かせたコメディに徹し、ヒット作を連発します。

監督デビュー前のことですが、伊丹十三の講演会を聞きに行ったことがあります。経団連主催の講演会であり、会場には多くのビジネスマンが詰めかけ、人気の高さを示していました。印象に残った話があります。この会場にいる皆さんは、レコード盤に例えれば、A面の人である。対して芸能人には、B面で生まれ育ち、なんとかA面に這い上がろうとしている人が多い。芸能界の競争は激しいが、コンプレックスが強いほど勝ち抜く力も強い、という話でした。自身も身を置く芸能界に対する冷静な目線は、距離感とも言えます。伊丹十三という人は、恐らく、どんな分野で仕事をしようと、一線を画した冷静さ、あるいは客観性を保ち、決して自分を失うことのない人だったのでしょう。

1997年、伊丹十三は、突然の死を迎えます。ワープロで打たれた簡単な遺書があり、飛び降り自殺とされました。週刊誌に不倫疑惑を書きたてられたことが原因ではないか、とも言われました。自殺直前、人は異常な精神状態にあるのだと思いますが、簡単すぎる遺書、しかもワープロ、いかにも伊丹十三らしくありません。不倫疑惑など、伊丹十三・宮本信子夫妻は、笑い飛ばしていました。当時、伊丹十三は、さる暴力団と創価学会との関係をリサーチし、新作映画にしようとしていたようです。様々な妨害もあったようですし、後には、殺害に関与したという暴力団員の証言も出ています。多くの関係者が、自殺はあり得ないとするなか、警察は、早々に自殺と断定します。他殺とする証拠・証言がなかったためでしょうが、早過ぎた結論には疑念も残ります。

「女たちよ!」は、ハイカラな蘊蓄だけで、ロングセラーになったわけではありません。体制を疑え、常識から自由であれ、自分自身の基準を持て、というメッセージが、あの時代の若者たちに響いたのだと思います。私たちの年代は、この本からダンディズムの何たるかを教わったと言えます。「女たちよ!」と言いますが、実は「青年たちよ!社会の家畜などにならず、独立した人間になれ!」が正しいタイトルだと思います。(写真出典:bunshun.jp)

2021年12月3日金曜日

平安末期のことですが、近衛天皇は、もののけに苦しめられ、病気になります。毎夜、丑の刻になると、黒い雲が御殿を覆い、天皇が苦しみ始めます。高僧たちによる加持祈祷も通じません。かつて、堀河天皇が同じように苦しんだ際、源義家が、弓の弦を三度引いて鳴らし、大声で名乗りをあげると、もののけは去り、天皇は平癒したことがありました。そこで弓の名手である源頼政が召されます。頼政は、現れた黒雲のなかに怪しい姿を認め、弓を射ます。手応えがあり、落ちてきたものを、家来が刀で刺します。もののけは、頭は猿、体は狸、尾は蛇、手足は虎で、鳴く声は、鵺(ぬえ)に似ていました。

平家物語第四巻「鵺」の段です。もののけを退治した源頼政は、褒美として、天皇から「獅子王」という名剣を授かります。獅子王は、現在、国立博物館で見ることができます。歌人としても知られる源頼政は、平氏政権下、源氏の長老として平清盛に仕えます。頼政は、平清盛に反発した以仁王(高倉宮)の謀叛の計画に加担しますが、宇治平等院の戦いで敗れ、自害しています。この以仁王の挙兵は、その後の頼朝挙兵、源平合戦、平家滅亡へとつながっていきます。頼政が、出世したのに「よしなき謀叛」を起し、高倉宮も失い、我が身も滅ぼすとは、ひどいことだ、と平家物語は結んでいます。思えば、鵺は、天皇家にとって、平清盛のことだったのかも知れません。

鵺とは、本来、トラツグミを指しますが、平家物語以降は、もののけの名前になっていきます。鳴き声が似ていると言われたばかりに、名前を奪われた格好です。トラツグミの鳴き声は、YouTubeで聞くことができますが、長い余韻を持った「ヒュー」という独特のさえずりが特徴です。知らなければ、鳥のさえずりには聞こえないかも知れません。トラツグミは、主に、夜に鳴くとされています。漆黒の闇のなか、どこからともなく、このさえずりが聞こえてくるとすれば、結構、気持ちが悪いと思います。ましてや、平安末期の人々にとっては、かなり不気味だったと思います。

ところで、頼政が射貫いた鵺の死骸は、船にくくられ、川に流されたとされます。そのたどり着いた先については諸説あり、いくつかの地方や寺に、鵺を弔ったという伝承や塚が残されています。能楽「鵺」では、たどり着いた先が摂津国芦屋の里と設定され、鵺の亡霊が、僧侶に弔ってくれと頼みます。今般、国立能楽堂で、世阿弥作になる「鵺」を、はじめて観る機会がありました。蝋燭の灯りだけで演じられる、いわゆる蝋燭能でした。幽玄の極致とも言える舞台でした。世阿弥は、この灯りを前提に曲を書いていたのか、と思うと、味わいも一入でした。橋懸りに登場した鵺の亡霊は、まさに応挙の幽霊そのものでした。

40年ほど前、鵺が広く知られることになる機会がありました。横溝正史の最後の長編を映画化した「悪霊島」のキャッチ・コピーが「鵺の鳴く夜は恐ろしい」というものでした。TVCMも、結構、流されていたので、鵺は広く知られることになりました。。公開直後に横溝正史が亡くなったこともあり、映画はヒットしました。また、前年にジョン・レノンが暗殺されており、挿入歌にビートルズを使ったことも話題となりました。ただ、ストーリーに、鵺は直接的には関係していませんでした。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年12月2日木曜日

恥ずかしながら


1972年、グアム島で、残留日本兵・横井庄一軍曹が発見され、帰国を果たします。終戦から28年が経っていました。戦後復興どころか、奇跡の高度成長を果たした日本にとっては、衝撃的な出来事でした。羽田空港に出迎えた厚生大臣に対して「横井庄一、恥ずかしながら帰って参りました」と軍隊調に報告します。これが、その年の流行語にまでなりました。横井さんが配属されたグアム島には、1944年7月、アメリカ軍が上陸し、日本軍を制圧します。その時点で、横井さんのご家族には、戦死公報が届けられていました。しかし、生き残った日本兵たちは、山中に逃げ込み、終戦を知ることがありませんでした。

南方戦線では、そのような兵士が、少なからず残っていることが分かっていたので、戦争は終わった、投降せよ、という呼びかけが、日米当局によって幾度も行われていました。横井さんも、聞いていました。ただ、大日本帝国が負けるわけがない、これは敵の謀略だろうと判断し、無視し続けたと言います。横井さんは、部下2名とともに、木の実を食料に、必要なものは手作りして、壮絶なサバイバル生活を続けます。あまりにも厳しい生存環境に耐えられず、部下の2人は死亡します。アメリカの統治下に入ったグアムは、米軍基地が拡張されるとともに、リゾート開発が進み、ホテルや観光施設が建設されていきます。横井さんは、要塞化が進んでいると思っていたそうです。

横井さんの「恥ずかしながら」という発言も、28年間、投降を拒否し続けた背景にも、「戦陣訓」があります。戦陣訓は、1941年、当時、陸軍大臣であった東条英機の訓令として、示達されました。決して法的な位置づけを持ったものではありません。1882年に制定され、軍人が暗唱までさせられた「軍人勅諭」を、より具体化した内容ながら、新たな訓令も加えられます。その代表が「生きて虜囚の辱を受けず」という一文です。捕虜になると、非国民という烙印が押され、家族まで同様の扱いを受けたと聞きます。捕虜となった日本兵は、家族に累が及ぶことを恐れ、本名を名乗らなかったとも聞きます。また、この一文が、人命軽視のバンザイ突撃や玉砕を生んだとも言われます。

軍事機密を守るという目的から加えられた訓示だったのでしょうが、その意図をはるかに超えて浸透したわけです。機密保持という狙いからすれば、捕虜になった際の行動原則を教育すればいいわけですが、日本軍には、一切そうした教育はなかったようです。米軍は、下士官クラス以下の日本兵捕虜ならば、本名を本国に伝えるぞと脅すだけで、容易に情報を聞き出すことができたようです。機密保持上、戦陣訓は逆効果となったわけです。軍人の精神的支柱である軍人勅諭に対して、戦陣訓はより具体的な行動指針であるべきでした。ところが、屋上屋を重ねるようなエキセントリックな精神論となり、かつ”べからず集”であったことから、軍隊内で一人歩きを始め、容易に徹底されていったということなのでしょう。

1974年には、陸軍中野学校卒業の情報将校・小野田寛郎少尉が、フィリピンのルバング島から帰還します。小野田少尉にも武装解除命令は届かず、3名の部下を率いて情報収集とゲリラ戦を継続していました。1950年に1名の部下が投降したことで、その存在が知られます。1974年に至り、残りの部下2名も失っていた少尉に、日本の冒険家が接触します。少尉は、正式な命令がない限り、作戦行動を継続すると明言します。そこで、かつての上官が山下奉文司令官の命令書を携えて接触し、任務解除、帰国命令を伝えました。山中に隠れて過ごした横井庄一さんとは大違いでした。その点を指摘された横井さんは「将校たちは教育が違いますよ、教育が」と答えています。立場は様々であっても、残留日本兵は、徹底した教育が生み出した悲劇だったと言えます。(写真出典:yomiuri.co.jp)

2021年12月1日水曜日

榨菜(ザーサイ)

讃岐はじめ、四国の人たちは、物事の始まりに、やたら弘法大師を出してくる傾向があります。弘法大師空海の偉大さは認めるところであり、個人的には日本最高の天才だとも思っています。しかし、うどんはじめ、食べ物の起源に弘法大師が出てくると、胡散臭さ満載という印象を受けます。中国にも、似たような傾向があり、日本では饅頭と呼ばれる包子、そして搾菜を発明したのは、三国時代、蜀漢の軍師として活躍した諸葛孔明であるという話があります。いずれも、諸葛孔明が、益州南部を平定した、いわゆる南征の際の話として知られます。ただ、これは完璧に、後世の創作です。

包子の話は、三国志には登場せず、明代に書かれた小説「三国志演義」に登場します。三国誌演義では、宋代に編纂された「事物紀原」を出典としてあげています。両書の話は異なりますが、三国志演義の方が有名です。南征を終えて帰還する孔明軍は、瀘水で、突然の嵐に襲われます。河は大荒れとなり、渡河できる状態ではありませんでした。49人の首を生け贄として、河神に捧げれば、静まると聞いた孔明は、小麦粉を捏ねて、中に肉餡を入れた包子を作り、首に見立てて捧げます。すると河は静まり、無事、渡河できたというわけです。ちなみに、文献上、包子の初出は、随代だそうです。孔明の時代から、300年後のことです。

一方、搾菜ですが、やはり南征のおり、10万の兵士の野菜不足に難儀した孔明は、地元民から、ある野菜を教わります。育てやすく、量が確保でき、生でも煮ても食べられ、残りは塩漬けにできると聞き、孔明は陣の回りで栽培を始めます。これが、今も残る諸葛菜であり、正式名称はオオアラセイトウ、別名ハナダイコンとも呼ばれています。その塩漬けが、後の搾菜になったというわけです。野菜の塩漬けだったら何でも良かったわけで、さすがに無理のある話です。現代の搾菜は、いうアブラナ科の植物の太い茎で作ります。宋代の涪州、現在の四川省重慶市で作られ始めたと言います。孔明の時代から、700年後のことです。

ザーサイは、1930年代になり、重慶名物として広まっていったようです。日本では、1968年、桃屋が瓶詰めを発売したことで、一般家庭にも広がったようです。搾菜は、茎の部分を天日干しにしたあと、塩漬けにします。絞って塩を抜いたあと、調味料をくわえて甕で熟成発酵させます。搾菜本来の苦みと発酵で得られた酸味が、絶妙の味を生み出します。熟成発酵前の塩漬けも美味しいものですが、やはり熟成後のうま味と酸味こそ、搾菜の魅力です。なお、塩漬けだけした搾菜に対して、味付けされた発酵後の搾菜は”四川搾菜”と呼ぶのが正しいようです。そのままでも、炒め物に入れても、生野菜にからめるだけでも、とても美味しい食品です。

NYにいた頃、昼食や残業食として、よく中華のデリバリを活用していました。ある日、先輩から、ザーサイ・スープを注文しろと言われましたが、メニューにはありません。先輩が言うには、中国人コックたちは、ザーサイ・スープが大好きで、貴重な搾菜を客に出したがらず、メニューには載せていないのだそうです。試しに注文してみると、すんなり通りました。これが、とてつもなく美味しくて、やみつきになりました。今でも、自分で作って飲んでいます。味覇等で簡単に作ったスープに、搾菜を適量入れるだけで出来上がりです。簡単で、かつとてつもなく美味しいという奇跡のスープです。(写真出典:botanicaljapan.com)

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