2022年12月28日水曜日

日本人と傘

雨が降ると、 傘をさして自転車に乗っている高校生や中学生をよく見かけます。私も、高校生の頃にはやっていたように思います。へっちゃらだという自信があるわけですが、やはり危険な乗り方であり、法律や条例違反でもあります。関心するのは、関西に多く見られる傘スタンドという文化です。両手は自由になるので、多少、危険度は下がるのでしょうが、風の影響を受けやすく、場合によっては条例違反を問われることもあるようです。いずれにしても危険な運転ではありますが、そもそも、傘をさして自転車に乗ることは、無意味なのではないかと思えます。雨量、風、自転車のスピードの兼ね合いになりますが、ほぼ確実に濡れます。レイン・ウェアを着て乗る方が効果的に決まっています。

にも関わらず、傘をさして自転車に乗る人が多いわけです。もはや、これは雨の日は傘をさすという固定観念のなせる技ではないかとさえ思えます。どうも、日本人は世界一の傘好きのようです。欧米人よりもアジア人、アジア人のなかでも特に日本人は傘をよくさします。世界的には、雨に降られたら、濡れる、レイン・ウェアを着る、雨宿りする、といった対応が多いように思います。欧米人が傘をささないのは、乾燥しているからだという話もありますが、やや乱暴な話です。長い雨もあり、たちどころに服が乾燥するわけでもありません。また、東南アジアのスコールなどでは傘はまったく役に立たず、雨宿りするしかありません。そこへいくと、長い梅雨も含め、しとしと雨の多い日本では、傘が実用的とも考えられます。

気候が、文化や習慣に与える一般的な影響は、理解できます。しかし、雨季の長短はあるにしても、様々なタイプの雨が降るのは、世界中同じであり、また、世界中に雨傘が存在するわけですから、気候だけでは日本人の傘好きの説明として不十分だと思えます。丈の長い着物を着て、靴を履かない日本の服装が影響しているという説もあります。これには、畳の文化という話も加わり、説得力を増します。なお、日本に靴の文化が根付かなかった理由は、高温多湿ゆえ、常時、靴を履くと足が蒸れてしまうからだとされています。畳の文化も、そこから発展したわけです。極端に言えば、靴の代わりに傘、ということになります。ただ、傘をさしても足元は濡れるので、因果関係としてはやや弱いように思えます。

傘は、4千年前の古代エジプトや古代ペルシャの壁画等に登場しているようです。傘は、本来的には、日傘、あるいは権威付けとして使われてきました。雨傘としての利用は、18世紀イギリスから始まったと言われます。ちなみに、開閉式の傘が誕生したのは、13世紀イタリアとされます。日本では、ヤマト王権時代、中国から伝来し、雨傘としては、江戸中期以降、普及していったようです。勝手な推論ですが、日本における雨傘の普及は、江戸期の髪形と関係しているのではないかと考えます。江戸では、男女を問わず、武士階級も庶民も随分と手間のかかる髪形をしており、降雨から守る必要があったのではないでしょうか。笠と蓑は道中や農作業には適していますが、市中では、より手軽な傘が普及していったものと考えます。

江戸期における雨傘普及の背景には、独自に進化を遂げた和傘の技術があります。丈夫な和紙に、柿渋や油を塗って強度と防水性を高め、軽くて丈夫な竹で骨や柄を作ります。家内工業が盛んになり、分業体制が確立すると、雨傘はごく一般的なものになっていったようです。しっかりとした番傘、細身で上品に作られた蛇の目傘などがあります。ただ、幕末に、金属と布で作られた洋傘が入ってくると、和傘は押され、今や特殊な用途の工芸品扱いになりました。ちなみに、欧米で傘といえば、折りたたみ傘が主流で、日本だけが長傘を好む傾向が強いと言います。これも、また気候だけではない理由がありそうな気がします。(写真出典:kyoto-tsujikura.com)

2022年12月21日水曜日

汽笛一声

東京ステーションギャラリーで開催中の「鉄道と美術の150年」展を見てきました。美術展というよりも、風俗画も含めた”描かれた鉄道の歴史”といった風情でした。今年は、1872年10月、新橋ー横浜間に、日本初の鉄道が開通してから150年ということで、各種イベントが行われてきました。これは営業開始のタイミングであり、実際には、同年6月から品川ー横浜間で、仮営業がなされていたようです。さらに、日本で最初に蒸気機関車がレールの上を走ったのは、1865年、長崎でのことでした。ジャーディン・マセソン社のトーマス・グラバーが、プロモーションのために走らせたようです。いずれにしても、今回の展示を見て、鉄道が日本の近代化に与えた影響の大きさを、あらためて認識しました。

蒸気機関車による世界初の実用鉄道は、1825年に英国で、石炭輸送のために開設されています。その5年後には客貨両用鉄道が開通しています。日本には、1853年、ロシアのプチャーチンが、艦上に蒸気機関車の模型を積んで来日し、実際に動かして見せたようです。また、1854年には、ペリーの2度目の来日の際、米国大統領から将軍への献上品として、人が乗って動かせる蒸気機関車の模型が持ち込まれています。ペリーの浦賀来航とタイミングがあったとも言えますが、蒸気機関車は、英国での営業開始後、比較的早い段階で、日本に導入されたと言えます。その後、官民併せて、鉄道の建設ラッシュが起きています。驚異的とも言われる日本の近代化の背景には、この鉄道の普及があったということなのでしょう。

とは言え、鉄道の導入は、すんなり決まったわけではないようです。鉄道建設推進派は、蘭学・英学を学んだ大隈重信、英国へ密航した長州ファイブの伊藤博文と井上勝などでした。一方、反対の声は、国民の間でも、政府内部でも大きく、西郷隆盛も反対、特に黒田清孝は強硬だったと言われます。反対意見の多くは、財源に関わるものでした。敷設に莫大な資金を要する鉄道建設ですが、当時、政府資金が乏しい状況にあり、海外からの融資に頼らざるを得ませんでした。この外国からの借金が批判されたわけです。伊藤や井上が、反対派の説得に努めますが、結果的には、黒田が海外視察を行い、鉄道の必要性に目覚めたことで、急遽、鉄道建設が開始されています。百聞は一見にしかず、というわけです。

井上は、その後も、あくまでも官営鉄道にこだわったようですが、政府資金が厳しいことには変わりなく、明治政府は、民間資本の導入に舵を切ります。1881年設立の日本鉄道はじめ、私鉄による建設ラッシュが起こります。レールが敷かれると、産業が興り、街が形成されていきます。全国津々浦々にまで及んだ鉄路敷設は、まさに日本の近代化をリードしたわけです。また、戦後の復興も、鉄道再建が大きな柱となったと言えます。こうして、鉄道=経済発展という公式が定着し、日本人の鉄道好きが形成されてきたわけです。「鉄道と美術の150年」展は、その間の歴史をよく伝えています。しかし、高度成長期を迎え、産業構造の転換が起きると、この勝利の公式には陰りが見えるようになります。

陸上輸送の主役はより効率的なトラックに替わり、乗客はより早い航空機に移っていきます。それでも鉄道好きの日本は、鉄道にこだわり続け、高速道路や空港の整備、あるいは航空産業育成に出遅れます。日本の鉄道の現況は、新幹線と大都市圏以外では、苦境にあり、廃線や経営悪化が続きます。その新幹線ですら、営業収支はともかくとして、1kmあたり70~100億円と言われる建設コストも含めた投資効率としては、疑問と言わざるを得ない路線もあります。にも関わらず、整備新幹線の延伸計画が複数存在しています。人口減少と産業衰退が続く地方にあって、新幹線開通は悲願であり、地方再生の切り札というわけです。複雑化した社会構造のなかで、150年前と同じ発想が続いていることは、もはや驚きとも言えます。(写真出典:sayusha.com)

2022年12月14日水曜日

SNSの匿名性

ライヒス・ビュルガー
コロナ・ウィルスのワクチン接種が始まると、若い世代でワクチン拒否の動きが広まりました。背景にあったのは、SNSで拡散されたデマです。ワクチンを打つと、死期が早まる、不妊になる等のデマは、東大医学部の医師の発言だといった尾ひれがついて拡散しました。実際に、ワクチン接種に否定的な医師もいたでしょうし、売名行為として発信した医師もいたものと思われます。ワクチンは、弱毒化、あるいは無毒化された抗原を体内にとりこみ、抗体を作り、免疫を確保する手法です。18世紀末に、ジェンナーが、天然痘ワクチンを開発したことから一般化した感染症対策です。導入当初、多くの人々がワクチン接種を恐れたようです。病原菌を体内に入れるわけですから、拒否されて当然とも言えます。 

それから200年が経ち、ワクチン接種が一般化した現代にあっても、19世紀初頭と同じ反応が発生したのは、間違いなくSNSの悪影響だと言えます。信用できる友人の書き込みは、事実確認することなく拡散されていきます。聞いた話よりも書かれた情報の方が、信憑性が高まるという効果もあるのでしょう。また、国やマスコミが決して語らぬ裏情報という話は、妙に信憑性を高める効果もあります。当然のごとく、そこには意味不明な国家陰謀論も登場することになります。噂話として拡散したデマが、大衆を右へ左へと動かす構図は、大昔から何一つ変わりません。社会に不安が広がる時には、必ず陰謀論が生まれるものです。そして、SNSは、飛躍的に、その拡散スピードを早め、拡散範囲を広げるわけです。

今月初め、ドイツ政府は、ライヒス・ビュルガーの幹部たちを一斉検挙しました。ライヒス・ビュルガー、”帝国の住民”は、現ドイツ政府を認めず、ドイツ帝国が存続していると主張する人々です。その根拠は、ワイマール憲法が、法的に停止されていないことだと言われます。現政府を否定しているので、独自の政府、通貨、パスポート等も持っているようです。実態的には、複数のグループがそれぞれ独立的に存在し、総数は2万人程度と言われます。戦後ほどなくして登場したようですが、単なる変人として問題にされることもなかったようです。ところが、ドイツで、移民、難民問題が社会を揺るがし始めるとともに、ライヒス・ビュルガーも存在感を高めていきます。

ちょうどアメリカでは、トランプ旋風が起こり、Qアノンが台頭してきます。これがライヒス・ビュルガーにとって追い風になったことは間違いないと思われます。いずれも社会不安を背景に、SNSで拡大した運動ですが、SNSが可能にした断定的な強い表現が、運動の性格にマッチしていたと思います。思えば、ヒトラーもトランプも、断定的なものの言い方が特徴でした。事実確認を拒否したSNSの断定的発言の背景にあるのは、その匿名性だと思われます。匿名性ゆえに、自由で開かれたネット空間が生まれているとも言えますが、一方では、デマの拡散、誹謗中傷といった卑劣な犯罪的行為も起こります。そろそろ、なんらかの法的な事前規制が検討されてもいいところまで来ているように思います。

災害時のデマなどは、甚大な人的被害を生じさせる可能性すらあります。例えば、災害といった特定の状況、犯罪に関わる事象、あるいは公人といった立場によっては、匿名による発信を認めない等の対策も考えられます。また、限定列挙された事象に関わる発信については、実名が公表される場合があることを、事前に承諾させる方法も考えられます。実際の規制に際しては、なかなか判断が難しくなると思われます。ただ、人類が経験したことのない世界ゆえ、トライアル&エラーを重ねることでブラッシュ・アップしてゆくしかないように思います。いずれにしても、農耕以前の法も道徳もない世界に逆戻りしたような状況は放置すべきではないと思います。(写真出典:insurgente.org)

2022年12月1日木曜日

ゴッホになる

 「わだばゴッホになる」は、世界にその名を轟かせた版画家・棟方志功の自伝のタイトルです。私はゴッホになる、という意味の津軽弁ですが、志功が弘前の洋画家を訪ねた際に言った言葉です。ゴッホは、志功の頭の中では油絵画家の象徴だったようです。棟方志功は、1903年、青森市の刀鍛冶の家に生まれます。幼少の頃から絵を描くのが大好きだったと言います。極度の近視のため、画板に顔をこすりつけるようしてスケッチする独特な姿が、青森市内の善知鳥神社や合浦公園で、よく見かけられたようです。名前と小便をかけて「シッコ、シッコ」と皆に馬鹿にされていたと聞きます。志功は、21歳のおり、画家を目指して上京します。

上京後は、展覧会に出品しても落選が続き、鳴かず飛ばずだったようです。ある時、川上澄生の版画「初夏の風」に出会い衝撃を受けた志功は、版画の道に入ります。1936年、佐藤一英の詩「大和し美し」を題材とした作品が高く評価され、民芸運動との関わりのなかで、その画風を磨きます。戦時中は、富山県の南砺市に疎開し、そこで浄土真宗と出会います。以降、仏教的要素の濃い作品が続き、1948年には改刻した代表作「二菩薩釈迦十大弟子」を発表しています。また、1956年には、ヴェネツィア・ビエンナーレに出品した釈迦十大弟子や「湧然する女者達々」が、日本人初となる国際版画大賞を志功にもたらします。1970年には文化勲章も受章しています。

志功は、自らの版画を”板画”と呼び、あくまでも木版版画にこだわり続けました。ほとばしる思いを彫刻刀に乗せて彫りつける大胆なタッチは、ゴッホの筆に通じるものがあります。板画でも倭画と呼ばれる肉筆画でも、彩色された作品が多くあります。その色彩は、ひと目見ただけで志功だと分かるほど独特です。私は、志功の色彩を見ると、チベットの祈祷旗タルチョを思い出します。寺院や峠などで、紐に付けられ、たなびく五色の旗です。色は、青・白・赤・緑・黄であり、順番もこのとおりと決まっています。風にたなびくことで、読経と同じ意味を持つと言われます。志功の独特な色彩も、祈りの色なのかも知れません。

志功の板画や倭画が伝えるプリミティブなパワーは、どこか縄文文化に通じるものがあるように思います。それは、津軽三味線やねぶた祭といった津軽の文化にも重なるところがあります。志功のねぶた好きは有名でした。NHKの看板アナウンサーだった鈴木健二は、自らも画家を目指したほど美術に造詣が深く、かつ旧制弘前高校出身だったこともあり、志功とも交友がありました。志功没後でしたが、その鈴木健二が、ねぶた祭の生中継を行った際のことです。ねぶたの熱気に高揚した鈴木健二は、ここに志功さんがいてくれたら、と泣き出します。放送事故とも言えますが、TVを見ていた私も、もらい泣きしました。志功とねぶたは、切っても切れない強い絆で結ばれています。志功の色は、ねぶたの色なのかも知れません。

志功の作品を展示する美術館は、青森市の棟方志功記念館はじめ、全国に少なからず存在します。なかでも有名なのが倉敷の大原美術館です。「二菩薩釈迦十大弟子」を常設展示するために棟方志功展示室が作られています。その大原美術館の裏手には、倉敷国際ホテルがあります。吹き抜けのロビーには大作「大世界の柵・坤(こん)ー人類より神々へー」が飾られています。大原總一郎氏が、ホテル開業にあわせ、志功に制作を依頼した作品です。木版画としては、世界最大と言われています。大原美術館に行く際には、立ち寄るべきだと思います。(写真出典:soukaku.co.jp)

夜行バス