2022年3月31日木曜日

しぁんくれーる

しぁんくれーるの
マッチ箱
1969年は、ウッドストック・フェスティバルが開かれた年でした。この年、世界中で、多くのロック・ファンがジャズに流れたと聞いたことがあります。実は、私も、その一人でした。ジャズに流れた理由は、ブラス・セクションを巧みに使うファンク・バンドやロック・バンドが増えた影響とも言われましたが、よく分かりません。ただ、私の場合は、この説にピッタリ合います。ファンクからブラスの魅力を教わりました。以降、毎月買う雑誌もロック主体の”ミュージック・ライフ”から”スィングジャーナル”に切り替えました。

スィングジャーナルには、全国の有名なジャズ喫茶の広告が載っていました。当時は、ジャズ喫茶全盛の頃であり、東京のDUG、PIT INN、横浜のちぐさ、一関のBASIE、仙台のCount等々、各地の名だたる店は、全国的にもよく知られていました。なかでも特別な存在だったのが、1956年開店という京都の「しぁんくれーる」でした。学生の街京都のジャズ喫茶の草分けであり、オーナーの星野女史は、マイルス・デイビス、アート・ブレイキー、ソニー・ロリンズ等と親交があるという有名人でした。また、店名の”しぁんくれーる”は、フランス語で”明るい場所”、あるいは”開けた野原”を意味しますが、”思案にくれる”という言葉もイージさせる、実におしゃれな名前でした。また、オーナーの似顔絵とも言われるマッチのデザインも、とてもおしゃれで有名でした。

私も、高校の修学旅行の際、行きました。グループによる終日自由行動という日があり、私は、形だけグループに入り、一人で行動するつもりでした。ところが、何人か、一緒させてくれ、という奴が出てきて、一つのグループを作りました。学校には、適当な計画書を出し、南禅寺の湯豆腐、イノダのコーヒー、先斗町のすき焼き等を楽しみ、合間に若干の観光も行いました。そして、その日最大のイベントが”しぁんくれーる”訪問だったわけです。最近の中学生は、自由行動の際、任天堂本社へ行きたがると聞きます。中に入れるわけではないのですが、彼らにとっては、まさに聖地なのでしょう。私にとっての”しぁんくれーる”も、まさに聖地でした。コーヒーを飲んで、マッチをもらってきただけのことですが、クラシックな内装の店内は、さほど広くもなく、ほの暗かったことを覚えています。

”しぁんくれーる”は、全国のジャズ・ファンにとって聖地だっただけでなく、当時の学生文化の聖地でもありました。当時、「聖少女」等で学生に人気の高かった倉橋由美子の小説の舞台にもなっています。倉橋は、明治大学在学中に作家デビューしたことでも知られますが、以前、京都で学生生活を送ったことがありました。そして「二十歳の原点」で一躍有名になった高野悦子が通っていた店として、ジャズ・ファン以外にも知られることになります。高野悦子は、1969年、立命館大学3回生のおり、自殺しています。学生運動で騒然する大学生活や青春時代特有の心の揺らぎに、繊細な感性が絶えられなかったのでしょう。死後、彼女の日記が「二十歳の原点」として出版され、大きな反響を呼びました。若者たちの抵抗の季節が終わりを迎え、その時代を感傷をもって記憶する人たちにとっては、バイブルに近かい本だったのでしょう。

”しぁんくれーる”は、京都市電河原町線の荒神口停留所の前にありました。私も、四条から市電に乗って行きました。京都市電は、1978年に廃線となっています。”しぁんくれーる”も、1990年に閉店しています。全国のジャズ喫茶は、1980年前後に閉店した店が多いようです。さすがに聖地は、他に先んじて開店し、他に遅れて閉店したわけです。ちなみに、かつては、皆、喫茶店のマッチをコレクションしていたものでした。今も、好事家の間では、ネット上で取引されているようです。恐らく、”しぁんくれーる”のマッチは、いい値段がつくのだろうと想像します。(写真出典:neko.net.com)

2022年3月30日水曜日

デ・エスカレート

米軍の最新戦術核
東西冷戦時代の核兵器開発競争は、核抑止という考え方に基づいて行われました。例えば、ソヴィエトがアメリカに核ミサイルを発射すれば、アメリカも報復として核ミサイルを発射する。報復攻撃の応酬によって、両国、あるいは人類が滅びる。ゆえに、両国とも核ミサイルを発射することはない。ただし、核抑止のためには、相手と互角以上の核兵器を保有することが前提となる、というわけです。つまり、核兵器とは、使わないために開発・配備し続けるという不思議な兵器でした。とは言え、事故、ヒューマン・エラー、システム・エラー、あるいは狂人が発射ボタンを押す、といったリスクも否定できませんでした。実際、危機的な状況も存在しました。

さすがに、緊張緩和、いわゆるデタントの時代以降、核開発を抑制する条約等も締結されてきました。ただし、そこで規制されたのは、広島・長崎級の数百倍、数千倍という威力を持つ戦略核でした。開発競争は、規制対象ではない戦術核、つまり広島・長崎級の数分の一以下という小型核兵器へと進みました。戦術核は、コントロール技術の進化もあって、影響を極めて限定的に抑えた攻撃が可能となります。同時に、それは、核抑止の背景にある滅亡シナリオという考え方を薄めることにもなりました。戦術核は、我々の体に染みこんでいる「核兵器は使わない武器」という常識の外にあります。戦術核は、抑止ではなく、脅しを目的とした使用が想定されています。

例えば空軍基地などにピンポイントで戦術核を使用することで、甚大な被害とともに恐怖を与えることが可能になります。もちろん、ここでも報復攻撃が想定されます。ただ、報復する側は、核の応酬がエスカレートして破滅シナリオに至ることを恐れ、撤退や停戦交渉を選択する可能性が高くなります。つまり、戦術核は、先に使った側に有利に働くわけです。近年のロシア軍の演習は、最後に戦術核を使用する傾向にあり、「escalate to de-escalate」、つまりエスカレートを緩和するためにエスカレートさせるという考え方に基づているという記事を読みました。プーチンは、ウクライナ侵攻に際して、核攻撃を暗示し、かつ原発を攻撃するなどしています。NATOによる軍事介入を牽制するために、行っているのでしょう。

プーチンの言動に対して、私たちは従来どおりの戦略核をイメージし、覚悟の強さを示しているだけで実際に使うことはないと確信していました。ところが、それは間違っているようです。プーチンの言う核兵器とは、使えない戦略核ではなく、使うための戦術核だと考えるべきです。ロシアが戦術核を使っても、NATOの報復は極めて難しいと思われます。軍略上は、ロシア有利となります。ただし、他国へ核攻撃を行ったロシアを国際社会が許すことはなく、時間のかかる経済制裁から、軍事オプションも含む強行策へと進みます。中国ですら、ロシアを支援することは難しくなります。戦術核の使用は、プーチンにとって両刃の剣です。しかし、遅々として進まない侵攻に業を煮やしたプーチンが、戦術核を使うリスクは十分にあります。

戦術核の使用で、プーチンが最も恐れるのは、ロシア国内の反発だと思われます。革命で権力を奪取した政権が最も恐れるのは革命です。ロシアは、すでにソヴィエトではありません。しかし、独裁体制ならばソヴィエトと変わらぬプーチン政権も、同様に民衆の反発を恐れるはずです。情報統制は、独裁政権の常道です。しかし、ネットの時代に、それは限界があることを独裁者は知るべきです。ロシア国民には、今こそ、反プーチン運動を「escalate to de-escalate」してもらいたいと思います。(写真出典:milirepo.sabatech.jp)

2022年3月29日火曜日

築地明石町

「つきじ治作」は、明石町の隅田川沿いの料亭です。1931年、岩崎弥太郎の別邸跡を買い取り、創業しています。銀座からほど近くにありながら、まさに料亭らしさを味わえる異空間です。かつては、我々でも利用できる値段であり、接待だけでなく、部の送別会なども行っていました。すぐ近くには、聖路加病院と、聖路加ガーデンの高層ツイン・タワーがそびえています。聖路加ガーデンの最上階である47階にはレストランがあり、足下の隅田川と向こう岸の佃島のタワー・マンション群、反対側には東京タワーが見渡せます。明治期の明石町には、居留地が設けられ、文明開化の発信地だったようです。税関が置かれ、聖路加国際病院が開業し、また慶應、立教、明治学院などの発祥の地でもあります。

当時の明石町で、朝霧のなかにたたずむ女性を上品に描いたのが、鏑木清方の傑作「築地明石町」です。1927年の帝展で帝国美術院賞を受賞し、清方を大家の地位に押し上げたと言われます。後に描かれた「新富町」、「浜町河岸」と併せて、美人画三部作を構成しています。国立近代美術館で、清方没後50年を期して開催中の鏑木清方展を見てきました。「築地明石町」は、淡い背景に、黒い羽織の女性が見返るという構図が美しい絵ですが、間近に見ると、清方の職人技が光ります。うっすらと描かれた外国船のマストや洋館が朝霧の気配を見事に伝えます。水浅葱の無地と思っていた単衣は、江戸小紋でした。また、袖をかき合わせる手には金の指輪が細密に描かれていました。

「新富町」では普段着を粋に着こなす芸子、「浜町河岸」では踊りの稽古帰りの娘が描かれています。「築地明石町」は、清方夫人の女学校時代の同級生がモデルとなっています。写真を見ると、モデルご本人も、知性的な、なかなかの美人です。しかし、なぜ明石町なのかと思っていましたが、他の2作の髪形が日本髪なのに対して、「築地明石町」では、当時、イギリス巻と呼ばれた最先端の髪形になっています。文明開化の風情ならば、明石町で間違いないわけです。不思議なことに、「築地明石町」は、清方の死後、44年間、行方不明だったそうです。これだけの名作が行方不明というのも妙な話ですが、いずれにしても再発見後、近代美術館が購入しています。

鏑木清方は、上村松園、伊東深水と並んで、美人画の大家と言われます。ただ、当人は、美人画は依頼されたから描くだけであり、絵空事ではない庶民の生活こそが自分のテーマだと語っているようです。正直言って、松園と、清方では、世界がまるで違うと思います。はんなりとした松園の絵ですが、描いているのは女性そのものです。対して、清方は、人ではなく風情を描いていると思います。清方の美人画のなかで、モデルが存在し、目元がキリッとした「築地明石町」は、むしろ異例の作品と言えます。他の作品の多くは、岡本かの子風に言えば、”煙るような長い睫”の瞳が描かれています。竹久夢二なども典型ですが、夢見るような瞳は、大正期の流行だったようです。個人的な印象ですが、それが後の少女漫画に引き継がれているように思います。清方の作品は、美人画というよりも風俗画だと理解すべきなのでしょう。

 清方は、ジャーナリストであった父が経営する新聞の挿絵から画業を始めています。その後、文芸誌の挿絵や表紙を、生涯、描き続けています。清方展にも、多くの挿絵や表紙の原画が展示されています。清方は、幼少期、父の関係から三遊亭円朝に可愛がられ、画家を目指すようアドバイスを受けたようです。今回の展示のなかでは、「築地明石町」と並ぶ傑作として「三遊亭円朝像」が挙げられます。明治を代表する不世出の落語家円朝の人柄や芸風まで感じられるような作品です。清方の江戸への憧憬には、円朝の影響があるのかも知れません。(写真出典:artexhibition.jp)

2022年3月28日月曜日

「ベルファスト」

監督:ケネス・ブラナー    2022年アイルランド・英国

☆☆☆☆

「新藤兼人というえらい脚本家が『誰でも一本は傑作を書ける。それは自分の周囲の世界を書くことだ』と言っている。」脚本家の中島丈博が、その自伝的作品「祭の準備」(黒木和雄監督、1975年)で書いたセリフだと記憶します。本作は、ケネス・ブラナー自身がベルファストで過ごした幼少期を描いており、傑作になったと思います。時代設定は、1969年。北アイルランドでは、米国の公民権運動の影響を受け、カソリック系住民による差別撤廃を求める運動が起こります。英国からの移住者が多いプロテスタント系住民が、これを襲い、その後30年続く北アイルランド紛争が始まりました。宗教を越えて、貧しい人たちが肩を寄せ合い生きてきたベルファストの下町は、物騒な町へと変わっていきます。

貧しさと紛争が、バディ少年の家族を、幸せだったベルファストからロンドンへと移住させます。紛争はともかくとしても、地方から都市部への労働力の移動は、経済の発展とともに、世界中で起きたことです。多くの人々が、バディ少年と同じ経験をしているわけです。幸せだった田舎での少年時代が失われていく構図は、人間の成長過程そのものでもあります。失われた過去は、甘く、切なく、愛おしいものです。貧しさや紛争があったにしても、少年時代やベルファストの下町への深い愛情が、この映画を幸せ感あふれる映画にしています。世界中の人々が、自らの体験と重ね合わせ、この映画を愛することになるのでしょう。ゴールデン・グローブ賞では脚本賞を獲得、アカデミー賞でも作品賞や脚本賞にノミネートされています。

社会批判ではなく、家族愛をテーマとし、少年時代を、ひたすらに愛おしく描ききったことことが、この映画の成功要因だと思います。脚本の良さ、そつのない演出、テンポの良さに加え、キャスティングの良さも光ります。バディ少年役のジュード・ヒルは、希に見る大発見だったと思います。他にも、祖父母を演じたジュディ・デンチとキアラン・ハインズは、ベテランらしい見事な演技を見せています。母親役のカトリーナ・バルフは、”アウトランダー”の時とはまったく異なる表情を見せ、愛らしくもたくましいママを演じ、印象に残りました。そして北アイルランド出身の殿堂入りミュージシャンであるヴァン・モリソンの音楽が素晴らしく、本作の主役と言っても言い過ぎではありません。演出はもとより、音楽も、演技も、脚本の良さに魅了され、とても良い化学反応を起こしたのでしょう。

アリッシュを”百敗の民”と言ったのは、司馬遼太郎です。直感的には言い過ぎだと思いますが、歴史的に見れば、確かにうなずけます。かつて中央アジアから欧州に進出したケルト人は、ゲルマン人に押され、西へと移動し、ブルターニュ、アイルランド、スコットランド、ウェールズに定着します。その後は、永らくイングランドの支配を受けてきました。その間、19世紀半ばには、じゃがいも飢饉が起き、アイルランド人の1/4が餓死、1/4がアメリカへと移住します。アイルランドが、英連邦下とは言え、独立したのは1922年のことです。その際、北アイルランドだけは、英国に留められました。アメリカに渡ったアイリッシュは、プロテスタントの抑圧を受けながらもしっかりと根を張り、大統領も何人か輩出、かつピューリタンの国にあって、ケネディ、バイデンとカソリック系大統領まで生みました。やはり”百敗”は言い過ぎかも知れません。

シェークスピア俳優としてのケネス・ブラナー卿は、ローレンス・オリヴィエ卿の再来とも言われる英国演劇界の重鎮です。そのうえ、監督としても、成功しています。舞台やシェークスピア劇の映画化だけではなく、マーベル映画やディズニー映画の監督でも成功し、最近は、「オリエント急行殺人事件」で監督・主演してヒットを飛ばし、「ナイル殺人事件」も公開されています。監督に演技にと多忙を極めるなか、よくこんな映画を撮れたものだと感心します。才能は、時間をも味方につけるものなのかも知れません。(写真出典:cinematoday.jp)

2022年3月27日日曜日

喫茶店文化

大正期のカフェー
飲料としてのコーヒーの起源は、2説あります。イエメンのモカで聖職者シーク・オマールが発見したという説と、エチオピアの羊飼いカルディが発見したという説です。豆を煮だして飲むことは古くから行われていたようですが、14世紀頃には焙煎されるようになり、イスラム社会で広がっていったようです。16世紀初頭には、カイロで世界初と言われる喫茶店が登場します。16世紀末、コーヒーは、オスマン・トルコを訪れていた商人たちによって欧州に伝えられ、17世紀には、ロンドンに欧州初の喫茶店がオープンしています。不思議なことに、イスラム社会でも、欧州でも、喫茶店は、誕生直後から、政治や文化を語り合う場所という性格を持つことになります。

コーヒーそのものの効果ではなく、知識階級が好んで飲んだこと、人が語り合える場所が少なかったことが、喫茶店文化を生んだのでしょう。日本における喫茶店の草分けは、1888年開業の上野の可否茶館だと言われますが、浅草、神戸、日本橋説もあります。1911年には、伝説のカフェ・パウリスタが、銀座にオープンし、安価にコーヒーを提供し、地方にも店を広げたことから、日本にコーヒー文化を広めたと言われます。カフェ・パウリスタはじめ、喫茶店は、次第に料理や酒も提供するようになります。人が集まる場所という背景があったからなのでしょう。ところが、関東大震災の後、喫茶店は、日本独自の興味深い展開を始めます。カフェーという名の風俗店の登場です。

看板娘で店が繁盛するなど、世界中どこにもある話であり、江戸の茶店の看板娘は浮世絵にも描かれています。ただ、カフェーでは、女給が、派手なメイクに派手な着物を着て、客に体をすり寄せるサービスなどが売りでした。もはや喫茶店ではなく、今風に言えばクラブということになるのでしょう。もちろん、コーヒーそのものを売りにする喫茶店もあったわけですが、思えば、このカフェーが、風変わりな日本の喫茶店文化の始まりだったのでしょう。1950年代以降、ジャズ喫茶、ラテン喫茶、名曲喫茶、歌声喫茶等が流行し、その後も、ゲーム喫茶、ノーパン喫茶、漫画喫茶、メイド・カフェ等、日本独自の特殊な喫茶店が時代とともに生まれてきました。一方で、60年代後半には、ごく普通の喫茶店が、わざわざ純喫茶と名乗らなければならないほどでした。

ジャズ喫茶や名曲喫茶は、日本の貧しさに立脚した良いアイデアだっとも言えます。高級なオーディオ装置や膨大なレコード・コレクションは、経済的にも、家の構造からしても、個人ではなかなか持てません。他の特殊な喫茶店も、特殊なサービスを手軽な形態で、安価に提供するという構造は同じです。日本の大衆文化は、喫茶店という便利な代物を“発見”したわけです。それにしても、この日本独特の喫茶店文化は、なぜ生まれたのでしょうか。理由は定かではありませんが、原点ならば室町時代に始まった茶屋文化にあると思われます。15世紀には、立売の茶屋が広まり、縁日の定番になります。さらに峠や宿場街に店構えをした茶屋も登場しています。そして江戸期に入ると、芝居茶屋、相撲茶屋はじめ、色茶屋、引手茶屋といった遊郭系、お座敷遊びの待合茶屋、密会場所の出会茶屋等へと多様化していきます。

京都の花街は、祇園花見小路の「一力」はじめ、お茶屋で構成されています。お茶屋は、料亭ではありません。あくまでも貸席業であり、料理は料理屋からの仕出し、芸子舞子は置屋から送り込まれます。もともとは、門前や歓楽街の茶屋から始まったようです。八坂神社前の祇園甲部・祇園東部、北野天満宮前の上七軒などです。江戸では、待合茶屋と呼ばれていました。極めて特殊な日本の喫茶店文化ですが、実は400年の歴史を持っていたわけです。(写真出典:tokuhain.chuo-kanko.or.jp)

2022年3月26日土曜日

「ガンパウダー・ミルクシェイク」

監督:ナヴォット・パプシャド    2021年アメリカ・ドイツ・フランス

☆☆+

ミルクシェイクは、ミルク、アイスクリーム、フレイバーをミキサーにかけて作ります。これがアメリカ式と呼ばれ、フランス式では、アイスクリームではなく卵黄が使われます。アメリカでは、ホリディ・シーズンの定番飲み物として”エッグノッグ”があります。これは、ミルクと卵とアルコールで作られ、風邪をひいたときにも飲まれます。日本風に言えば、卵酒のようなものです。ミルクシェイクは、エッグノッグから派生した飲料だと思われます。日本に入ってきたのは、明治末期から大正の頃と言われ、永らく”ミルクセーキ”と呼ばれ、ご当地ミルクセーキもあります。マックシェイクが登場してから、ミルクセーキという呼び方は、昭和の香りのする言葉になったように思います。

「ガンパウダー・ミルクシェイク」は、面白い素材を多く含んでいますが、ミキサーの回し方が不十分だったようで、十分には味がこなれていません。主人公と母親、主人公と孤児になった少女、バックアップする女性だけのチーム、彼女たちの本拠地としての図書館、コミック風のアクション等々、面白いプロットが含まれています。ただ、要素が多すぎて未整理状態であることが問題です。それがためにテンポが悪くなり、各要素の魅力も半減し、主人公を演じたカレン・ギランの演技やアクションも中途半端になっています。アクション・シーンも、見せ方はコミック調ですが、アクション自体は、結構、古風な代物になっています。

とにかくベクトルがはっきりしない映画という印象です。続編の製作も決まっているようですので、腹をくくって、テンポの良い、スタイリッシュなアクション・コメディを追求した方がいいのではないかと思います。例えば、ドラマの縦糸になっている母と娘の関係などに、説明的なショットは不要です。印象的な、あるいは象徴的なカットひとつで十分以上の効果が得られるはずです。楽曲の使用について、もう少し角度を付けた方がいいと思います。ジャニス・ジョップリンの使い方は見事でしたが、全体的には散漫な印象が残ります。例えば、女性シンガーだけで揃えたら、面白かったのではないかと思います。

リュック・ベッソンの「レオン」が公開されたのが、1994年、もう30年前のことです。しかし、今もレオンにインスパイアされた作品が続きます。本作も、レオン系と言えるのでしょう。ざっくり言えば、とうが立ったチャーリーズ・エンジェルを率いたマチルダといった風情です。これまで男性的と思われていた世界で女性を活躍させるスタイルが大はやりです。大きなトレンドではありますが、それだけで話題になった時代は過ぎ去ったと思います。女性がすごいアクションをするといったギャップにだけ頼るのではなく、男であろうが、女性であろうが、クオリティの高さが求められる時代に到達したと言えるのではないでしょうか。

主人公の母親をリーナ・ヒーディが演じています。リーナ・ヒーディは、HBOの「ゲーム・オブ・スローンズ(GOT)」でサーセイ・ラニスターを演じ、数々の賞を獲っています。9年も続いたシリーズのラストで最も注目されたのが、サーセイの死に方でした。結果については、賛否両論ありましたが、いずれにしても、やたら登場人物の多いシリーズのなかで最も注目されたキャラクターの一つだったと言えます。いまだGOTロスを抱える人間にとって、久々にサーセイ・ラニスターの勇姿を見れたことが、この映画の最良の部分だったようにも思います。(写真出典:filmarks.com)

2022年3月25日金曜日

万平ホテル

夏の盛り、旧軽の万平ホテルに、二度ほど泊まったことがあります。さる団体からのご招待でした。ハイ・シーズンですから、料金も高く、そもそも予約すら取れません。ご招待でもなければ、泊まることなどなかったと思います。支配人は、毎年春に、お得意様への挨拶回りを行うのだそうですが、その際に、ハイ・シーズンの予約は、すべて埋まると言っていました。夏の万平ホテルは、常連客でなければ、泊まれないホテルということです。常連客の滞在日数は、1~4週間であり、まさに避暑地のリゾートとして活用されているわけです。常連の多くは、親子代々のご贔屓で、なかには4世代に渡る客もいるとのこと。旧軽らしい話だな、と思いました。

夕方になると、木造のクラシックな廊下を、ボーイがベルを鳴らしながら歩いていきます。夕食の準備ができたことを知らせる合図です。メイン・ダイニングでの席は、既に決まっています。常連のご家族毎に、うちはこの席、と決まっているのだそうです。没落するなどの理由で、ホテルを利用できなくなる家も発生します。その家族の席は空くことになりますが、前々からその席を狙っている人たちもおり、非公式なウェイティング・リストまであるようです。もちろん、客室も家族毎に決まっているようです。支配人が、こんなエピソードを話してくれました。いつもの部屋に泊まった常連客が、窓から見える木々のうち一本が無くなっていることに気づき、なぜうちの木を切った、と支配人に怒鳴り込んできたというのです。もはや脱帽するしかありません。

万平ホテルは、江戸後期、旧軽井沢銀座に開業された旅籠”亀屋”が前身です。明治になると、イギリス人たちが、軽井沢を避暑地として使い始めます。亀屋は、1894年に、洋風リゾート・ホテルとして再オープンします。1902年には、旧軽の奥まったあたりに移転し、現在に至ります。現在も本館として使われているアルプス館は、1936年に完成しています。ハイ・シーズンの料金は、一泊二食で一人6万円程度と聞きました。ご夫妻で、15日間滞在すれば、ワイン代なども含め、200万円では足りないくらいだと思います。支配人は、安いものですよ、と言い切ります。30年間、毎年、万平ホテルを利用したとしても、その総額で、旧軽の別荘一軒買うことも出来ません。そもそも旧軽の別荘が売りに出ることなど、皆無に近いとも聞きます。そう考えると、リゾート・ホテルの活用は、一つの方法なのかもしれません。

いまや軽井沢は、大人気リゾートです。旧軽井沢銀座は、観光客で溢れ、夏ともなれば、原宿の竹下通りか鎌倉の小町通りと見まごうばかりです。アウトレットは、年間を通じて人を集め、人気のレストランは予約も取れません。また、近隣への開発も、いまだに広がり続けています。新幹線が開通したことも大きく影響しているのでしょう。早い電車だと1時間強で東京へ行けるわけですから、別荘地は、通年で居住し、東京の会社へ通う人たちも少なくありません。イギリス人たちが目指した避暑地とは、随分と様子が変わったわけです。とは言え、表通りから少し入っただけで、いまだに静かな別荘地が広がっています。日本を代表する避暑地軽井沢は、土地が高価になっていったことで、守られてきたのかも知れません。

万平ホテル名物の一つは、ロイヤル・ミルクティーです。4シーズンに渡り滞在したジョン・レノン直伝のレシピで作られています。正式なメニューは、今でも”John's favorite royal milktea”となっており、玄関横のカフェテラスでいただくことができます。伊丹十三は、英国のミルクティーは、ボーッとした味が身上だと言っていますが、深い緑を見ながらいただくJohn's favoriteは、紅茶の深い味わいが楽しめ、とても豊かな気持ちになれます。(写真出典:manpei.co.jp)

2022年3月24日木曜日

百均

最近、百均で、スプレータイプの醤油差しが大人気となっているようです。まんべんなくかけられ、かつ減塩にもなるというわけです。なかなか良いグッズです。私は、前から無印良品の小さなスプレーボトルを使っていました。鮭の切り身には日本酒を、干物にはしょっつるをスプレーします。グッと味が良くなります。その都度、その都度、百均は、ヒット商品を生み出しています。マスキング・テープ、毛玉取り、バターナイフなどは、記憶に残ります。数年前、卵に小さな穴を開け、茹でた後に、殻をむきやすくする道具が人気となりました。欲しいと思い、何度も百均に足を運びましたが、いつも品切れで買えませんでした。

もちろん、ヒット商品が生まれる確率など、千三つ以下なのでしょう。百均の特徴の一つが、取扱商品の多さです。なかには、こんなものを誰が買うんだ、と思うような商品まであります。実は、売れそうにない商品も含めて、膨大な品揃えを行うことこそ、百均の商売の肝だとも聞きます。こんなものまで売っている、と客が思うことで、品揃えの豊富さを印象づけ、必要な物を買うだけでなく、商品を”発見”する楽しみを与えることで購買意欲をかき立てるわけです。必ずしも必要ではなくとも、どうせ100円だから買ってみるか、と思わせることが大事なのでしょう。ドン・キホーテでは、天井まで届く雑然とした陳列が重要なノウハウだと言いますが、よく似ています。

最大手ダイソーの取り扱い品目は、数億に及ぶそうです。常に新しい商品を投入し続けることも、リピート率を高めることにつながります。いわば巨大なテスト・マーケティング場でもあるわけです。百均の代名詞でもある「100円SHOPダイソー」の直営第1号店は、1991年、高松の丸亀商店街にオープンしています。ダイソーが大成功した要因は、バブル崩壊後のデフレという環境、品質の高さ、現金仕入れの強さ、そして品揃えということになります。仕入れに関しては、時に原価割れしてでも品質にこだわり、トータルで利益を出すというスタンスだと聞きます。いまやダイソーは、国内外に5,500以上の店舗を展開し、生活になくてはならない存在となっています。アジア各地でも、ダイソーの店舗を見かけますが、どこも大混雑しています。

百均は、ダイソーの発明と思っている人が多いようです。均一価格販売もさることながら、常設の均一価格販売店の歴史も、意外と古く、18世紀初頭の江戸では、「十九文店」が登場しています。十九文は、現在なら200円強といったところでしょう。玩具、小間物、化粧道具など様々な雑貨を扱っていたようです。世界初の正札販売を行った三井越後屋なども含め、江戸の流通の革新性にはいつも驚かされます。アメリカでは、19世紀末に、F.W.ウールワースが「ファイブ&ダイム・ストア」、つまり5セント・10セント店をオープンしています。後の全米最大の小売業も百均から始まったわけです。昭和初期には、高島屋が「十銭ストア」を始めていますが、アメリカの”テン・セント・ストア”を真似たものだったようです。いずれの均一価格販売店も、登場するのは、恐慌後の不況期と決まっているようです。

ダイソーの成長を支えた要素の一つは、中国だったように思います。中国は、急速に工業化が進み、世界の工場と呼ばれ始めた時代でした。沿岸部での賃金は高騰していきますが、工場は、内陸部へと広がっていきました。高い技術や高価な設備投資がいらないダイソーの製品は、中国の地方の工業化に最適だったと言えます。チャイナ・プラス・ワンの流れと共に、ダイソーの製品は、現在、アジア各国から輸入されていると思われます。日本の30年に及ぶデフレに終わりが見え、アジア各国での賃金の高騰が起これば、ダイソーのビジネス・モデルも破綻することになります。ダイソーは、ワン・プライスからの脱却も試みているようです。均一価格から、バラエティ・ショップへの転換は、当然、採るべき戦略だと思います。(写真出典:biz-journal.jp)

2022年3月23日水曜日

中将姫

当麻曼荼羅(復元)
日本初の入浴剤は、1897年に津村順天堂が発売した「浴剤中将湯」だとされます。もっとも、お風呂に、塩、菖蒲、ゆず等を入れる風習もあり、また湯ノ花もありました。中将湯は、工業的に精製された初の入浴剤という意味なのでしょう。津村順天堂の従業員が、婦人薬の余った材料を持ち帰り、お風呂にいれたところ、体が暖まり、アセモが治ったことがきっかけとなり、開発された商品だそうです。その後、1930年、中将湯をもとに”バスクリン”が発売されています。かつて、入浴剤と言えば、バスクリンでした。バスクリンは、1960年以降、内風呂の普及とともに、一般化していったようです。

さて、その中将湯ですが、名前の由来は、なかなかに興味深いものがあります。津村順天堂の創業者・津村重舎は、奈良県の出身で、母方の実家である藤村家には、婦人病に効くという秘薬が代々伝わっていました。これを全国に広めるために創業されたのが津村順天堂でした。藤村家の言い伝えによれば、ご先祖が、逃げる途中の中将姫を匿ったことがあり、その礼に、薬草に詳しかった姫が秘薬の作り方を伝授してくれたということでした。その言い伝えに基づき、中将湯と名付けられ、かつロゴマークには中将姫が描かれました。中将姫は、奈良の當麻寺に伝わる国宝「綴織当麻曼荼羅図」を一夜で織り上げたという伝説で知られます。中将姫の伝説は、すべて実在の人物で構成されています。ただし、姫を除いては、ということになりますが。

8世紀前半、子供に恵まれなかった右大臣藤原豊成は、長谷観音に祈願して、中将姫を授かります。姫が幼少の頃、実母は亡くなり、豊成は後添えを迎えます。子供の頃から色彩兼備だった中将姫は、9歳のおり、天皇の前で琴を奏で喝采を浴びますが、その場で継母はうまく箏が弾けず、恥をかきます。継母は、中将姫を恨むようになります。豊成が不在の時、継母は、家臣に姫の殺害を命じます。しかし、不憫に思った家臣は、姫を殺さず、一緒に雲雀山に潜伏します。豊成は、嘆き悲しみますが、翌年、狩りに出かけ、姫と再会します。姫は、16歳で天皇の后に召されますが、これを辞退し、當麻寺の一人の尼のもとで修行します。中将姫は、中将法如という名前をもらい、出家します。役目を終えたといって山を去る尼に、姫は浄土経を渡します。後日、姫は、自分が渡した浄土経が、弥勒如来像の手に握られているのを見つけます。

姫が称讃浄土経一千巻を写経すると、再び尼が現われ、蓮を集め、糸を撚るよう求めます。そして、千手堂に籠もった中将姫は、その糸で、一夜にして「綴織当麻曼荼羅図」を織り上げます。すると尼は、阿弥陀如来に姿を変え、13年後に迎えに来ると言って消えます。果たして、13年後、満月の夜に来迎した阿弥陀如来とニ十五菩薩に連れられ、姫は極楽浄土へと旅立ちました。以上は、あらすじですが、伝説には、さらに多くの仏教的説話や奇跡が含まれています。當麻寺の創建は、7世紀とされますが、中将姫伝説の成立時期は不明です。ただ、文献上は、鎌倉時代に至って、登場し、広がりを見せているようです。室町時代には、よく知られた話となり、世阿弥や近松門左衛門も題材として取り上げています。

鎌倉時代は、公家政治が武家政治に変わり、仏教界でも大きな変動のあった時代です。浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗が生まれ、臨済宗、曹洞宗という中国伝来の禅宗も起こります。世の中が騒然とするなか、大衆化された仏教では、末法思想が広がり、阿弥陀仏の西方極楽浄土へと注目が集まります。もともと奈良盆地の西方に位置する二上山は、西方極楽浄土への入り口に擬されていました。その麓に位置する當麻寺は、西方極楽浄土を描いたという当麻曼荼羅を本尊とし、急速に人気が高まったようです。中将姫伝説は、日本の政治、社会の大きな変化を反映して生まれた伝説だと言えるのでしょう。ちなみに、国宝「綴織当麻曼荼羅図」は、分析の結果、蓮の糸ではなく染色した絹による綴織であり、中国伝来のものとされているようです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2022年3月22日火曜日

コロナ義援金

Void Check
アメリカ勤務時、18ヶ月以上社会保障税を収め、かつ日本で10年以上の年金加入期間がある場合、納税期間に応じた年金が、アメリカ政府から支払われます。日米で勤務した場合、各年金制度に加入した期間が短いことで生じる不利益を回避するために、日米年金協定が結ばれ、それに基づいて給付が行われています。もちろん、多額ではありませんが、実にありがたいことです。しかも、最終的には米国大使館が確認しますが、日本の年金事務所から手続き出来ます。さらに配偶者も、半額を家族年金として受給できます。現在、結構な数の日本人が、アメリカの年金を受け取っているはずです。

昨年の春、米国の年金を受給する日本人の間に衝撃が走りました。米国政府が国民に給付したコロナ義援金(Economic Impact Payments)の3回目の支払小切手が、年金受給者にも届いたのです。額面は、1,400ドル。現在、日本では、米国で発効された小切手の現金化は、旧シティ・バンクの業務を引き継いだSMBC以外では出来ません。もともとSMBCに口座をもっている場合には、すぐに現金化が可能です。口座を持っていた私の知人も、即座に現金化していました。口座を持っていなかった私は、口座開設から始めなければなりませんでした。早速に、ネットで手続きを行い、1,400ドルの使い方を考えながら、口座開設を待ちました。

ところが、その間に、コロナ義援金は、米国在住者に限った給付であり、私たちへの小切手の送付はミスであったことが判明します。IRS(内国歳入庁)は、そのホームページで、小切手は”VOID(無効)”と記載のうえ返送するよう求めました。がっかりしました。しかもご丁寧なことに、小切手を追いかけるように、ホワイトハウスから、バイデン大統領名義のレターまで送られてきました。小切手は届きましたか?厳しい状況だけど、皆でがんばりましょう、といった内容でした。もちろん、がんばります。ただ、大統領のお手紙を受け取ったのは、ミスが判明した後のことでした。

要は、現金化しなければいいわけですから、結局、私は、返送もしませんでした。知人たちは、皆、同じ対応を取っていました。ぬか喜びさせられただけでしたが、改めて、アメリカの行政の凄さを感じました。国民一人ひとりが、社会保障番号で管理されているので、こういう対応の早さには驚くべきものがあります。効率重視のアメリカの行政に対して、正確さ重視の日本の行政の遅さが、余計、気になりました。際立って両者の考え方の違いが出るのが、確定申告だと思います。米国では、全員、確定申告が基本ですが、申告に際しては、原則、エビデンスの添付は求められません。ただし、サンプリングによる調査が入り、虚偽申告している場合には、厳罰に処されます。

実に効率的な手法だと思います。日本の確定申告は、エビデンスの添付が求められ、エビデンスがある以上、そのチェックが行われるわけです。申告者にも税務署にとっても、相当の負荷がかかります。ミスが許されない国民性なのでしょうが、ミスは発生して当たり前です。ミスが発生しにくいシステマティックな対応は必要ですが、人海戦術でミスを防ぐことは、実に非効率で、コストがかかります。最近、日本でもe-taxの導入に伴い、エビデンスの扱いにも大きな変化があり、効率化が進みました。このような考え方の転換によって、さらに行政全般の効率化を進めてもらいたいと思います。それが民間の効率化にも大きな影響を与えます。(写真出典:linkeden.com)

2022年3月21日月曜日

うりずん

うりずんの沖縄は、例えようもないほど魅力的だと思います。暖かな日差し、爽やかな風、色を濃くした緑、とても気持ちいい季節です。青い空、青い海は、いつもの通りですが、その色合いまでも優しく感じられます。大好物の島らっきょの季節でもあります。夕暮れ時、暮れなずむ空を見ながら、島らっきょをアテに、泡盛を傾ければ、まさに極楽といった風情です。”うりずん”とは、春分の頃から入梅前までの季節を言います。「潤い初め」が語源とも言われます。沖縄で、最も良い季節だと思います。

うりずんの頃、南城市の”うどい”という琉球舞踊のショーを見せる小劇場へ行ったことがあります。”うどい”とは、ウチナーグチで踊りのことです。4月初旬、仕事で沖縄に行ったのですが、週末も居残り、一人で出かけました。レンタカーを借りて動くのが常道ですが、あえて路線バスで行ってみようと思いました。那覇から、車なら40分ほどのところですが、路線バスだと小一時間かかります。今は、随分ときれいでおしゃれになりましたが、かつての古びたバスターミナルから出かけました。ウチナーグチが飛び交う車内で、暖かな日差しを浴びていると、ついうとうとしてしまいます。最寄りのバス停で降りたのは私だけでした。あたりは、人家もまばらな、サトウキビ畑のなかでした。なお、現在は、住宅街の一角に越して、営業しているようです。

少し歩くと、“うどい”がありました。随分と辺鄙な場所にありますが、観光ルートとして団体客がバスで乗り付ける施設でした。予約したショーの時間まで、少し間がありましたが、待っているのは私だけで、いつまでもバスが到着しません。店の人に、もし客が私だけなら、次のショーまで待ってもいいよ、と伝えました。店の人は、前もって予約してもらったのだから、時間どおりにショーは行います、とのこと。いよいよ時間となり、劇場内にはいりましたが、やはり客は、私一人でした。ショーは、伝統に則り”かじやで風”から始まり、宮廷舞踊から雑踊りへと展開ました。琉球舞踊を一通り見せるというショーですが、那覇に、有りそうで無いスタイルです。那覇では「四つ竹」のようなディナー・シアターになります。

ショーも終盤というところで、「さぁ、みんなで踊りましょう」のコーナーが現われました。要は、カチャーシーの手ほどきをしたうえで、舞台と客席が一体となって踊り、沖縄を体験しようというわけです。うかつでした。団体客相手なら、当然のプログラムです。想定すべきでした。”みんなで”といっても、客は私一人です。舞台には5人ばかりの踊り手が並んでいます。私は、照れ屋なので、こういうのはどうも苦手なのですが、立たざるを得ませんでした。恥ずかしながらカチャーシーを踊り、恥ずかしながらカチャーシーを楽しんでしまいました。以降、島唄酒場などで、カチャーシー・タイムになると、積極的に踊っています。

”うどい”の経営者ご夫妻は、東京で琉球舞踊を教えながら、公演を行っていたようですが、なかなかうまくいかず、島に戻り、ショーを運営しているとのことでした。感じの良いご夫妻でした。ショーが終わると、タクシーを呼びましょうか、と声をかけられたのですが、のんびりバスで戻ることにしました。定刻をはるかに過ぎても、バスは来ませんでした。ただ、沖縄タイムと思えば、腹も立ちません。暖かな日差しを浴びて、のんびりサトウキビ畑を見ていました。バスを待つ間に、3人の農民が通り過ぎましたが、皆、挨拶をしていきます。うち一人のおじさんは、立ち止まって、色々と話しかけてくれました。残念ながら、言っていることは、さっぱり分かりませんでした。”うどい”でのカチャーシーも含め、うりずんの魔法にかかったような午後でした。(写真出典:ogb.go.jp)

2022年3月20日日曜日

花粉症

10年ほど前のことですが、アメリカ人の友人が、初めて東京を訪れました。東京で印象に残ったは何か、と聞いたところ、二つあると言います。一つは、日本のビジネスマンは、なぜ白いワイシャツばかり着ているのか、ということです。彼の観察によれば、2割くらいの人が、カラーか柄付きワイシャツを着ていた、きっと彼らは、日本の社会の中では、アグレッシブな連中なのだろう、という見立てでした。当たっているようにも思えました。今一つは、白いマスクを付けている人たちを多く見かけたが、あれは何かの宗教なのか、という質問でした。ちょうど春先の花粉の季節だったのです。

大笑いしましたが、欧米人にとって、マスクは医療従事者のための特殊な装備であって、一般人が身につけているのは、尋常ならざることなのでしょう。コロナ禍にあって、欧米では、日本ほどにはマスク着用が徹底できなかったのも、うなづけます。アメリカにも花粉症のようなアレルギー症は存在します。ヘイ・フィーバーと呼ばれています。ただ、マスクを着用する習慣はありません。よく聞く対策は、ワセリンを鼻に塗るという方法です。私も、試してみましたが、まったく役に立ちませんでした。もっとも、原因となる花粉類の種類も量も異なるわけですから、当然かも知れません。

私が花粉症になったのは、12~13年前のことです。それまで、まったく花粉症など他人事だったのですが、軽い風邪をひいたような状態が続き、人から花粉症だよと指摘されました。以来、フェキソフェナジンを服用しています。かつて、花粉症の薬は眠気を誘うものだったようですが、第二世代抗ヒスタミン薬と言われるフェキソフェナジンには、そのようなことはありません。市販薬のアレグラからはじめ、一時期は、アメリカのドラッグストアであるデュエン・リードのジェネリック薬を使っていました。アレグラよりも、3倍くらいフェキソフェナジンの量が多く、よく効きました。上述の友人が来日する際に買ってきてくれたのですが、コロナ禍以降、入手困難となりました。

以来、アレルビというジェネリック薬を使っています。フェキソフェナジンの量が大事なので、高価なアレグラである必要はありません。また、アメリカの薬に近づけるため、アレルビは倍量を服用しています。フェキソフェナジンを服用している限りは、マスクの必要もないほどです。それにしても、花粉症は、いまや国民病と言ってもいいほどなのでしょう。原因を作った戦後の植林政策を批判する声もありますが、結果論に過ぎません。昔から杉の木はあったわけですから、花粉症は、都市化に伴い一般化したと考えるべきなのでしょう。つまり、土の露出が減り、行き場を失った杉花粉が、いつまでも空気中に漂うようになったということです。

私は、杉やヒノキ花粉の時期だけ、フェキソフェナジンを服用しますが、友人の一人は、1年中、服用しています。何の花粉に反応するかは個人差があります。花粉症の原因をつくる植物は多く、1年中、何かの花粉は飛んでいます。さらには、花粉に限らず、ダニやハウスダストでアレルギーを起こす人たちに季節は関係ありません。ここまでアレルギー症の人が多くなると、水道水にフェキソフェナジンを入れておいてもらうと便利なような気もします。(写真出典:businessinsider.jp)

2022年3月19日土曜日

蒐集も亦創作なり

佐伯祐三「煉瓦工場」
大阪には、美術館が少ないんじゃないか、という話があります。大阪人は、美術に関心が薄い、と言いたいのでしょうが、決してそんなことはありません。ただ、美術館が少ないような印象を与えるのは、京都、奈良、神戸に囲まれているからかも知れません。逆に言えば、関西一体で一つの都市圏を構成しており、おのずと役割分担が生まれているのかもしれません。その大阪に、この2月、 大阪中之島美術館がオープンしました。1988年、市制100周年を記念して大阪市立近代美術館を開設することが発表されて以来、実に34年。随分と時間がかかりましたが、その理由は、建設予定地から蔵屋敷が発掘されたこともありますが、主には大阪市の財政難でした。

そもそも新しい美術館開設のきっかけとなったのは、1983年、メリヤス王として知られた山本發次郎のコレクションを、遺族が大阪市に寄贈したことでした。山本發次郎は、佐伯祐三のコレクターとして有名でしたが、芦屋の瀟洒な自宅が空襲で焼け、多くの収蔵品を失っています。ただ、賢明なことに、主要なコレクションは、事前に疎開させていました。空襲を逃れたコレクションのすべてである580点が、市へ一括寄贈されたわけです。山本發次郎は、岡山県の出身で、一橋大卒業後、今のカネボウに就職し、その後、山本家に婿養子として入ります。先代が起こしたメリヤスの製造販売業を継いで大いに発展させます。また、戦後は、ヘアカラーにも進出して”パオン”などの製品をヒットさせました。

山本發次郎は、もともと墨跡の収集家だったようです。天皇や高僧の書をコレクションしていました。1922年、欧州を訪れた山本發次郎は、洋画にも関心を抱くようになります。佐伯祐三の作品に惹かれるようになったのは、1932年頃だったようです。その時、佐伯祐三は、既に世を去っていました。佐伯祐三は、1928年、自殺未遂の後、パリで客死しています。享年30歳という若さでした。最高作といわれる”煉瓦工場”や”郵便配達夫”は、死の年に描かれています。それまでの印象派的な作風から、図太い線が印象に残る力強い作品へと変わっていました。佐伯祐三の没後にコレクションを始めた山本發次郎は、高僧たちの書を佐伯祐三に見せたかった、と語っていたようです。

山本發次郎は、線に魅せられたコレクターなのだと思います。墨跡のコレクターならでは感性が、モディリアーニを、ユトリロを、そして佐伯祐三を”発見”することになったのでしょう。そういう意味では、その趣味は、趣旨一貫していたわけです。建築史家で政治家でもある橋爪紳也は、山本コレクションを、東洋と西洋を結びつけた個性尊重の芸術感と評しているようです。結びつけたのではなく、線に注目することで、東洋、西洋を超越した芸術世界を見い出した、と言うべきかも知れません。伊達俊光は、山本發次郎を評した文章のなかで「蒐集も亦創作なり」と言っています。本来的なコレクターに対する最大の賛辞であり、金に飽かして美術品を買いあさる成金への批判でもあるのでしょう。歴史に残る名言だと思います。

大阪中之島美術館のオープニングは「超コレクション展~99のものがたり」と題した企画展となっていました。要は、山本發次郎コレクションはじめ、寄贈された多くのコレクションを、感謝の意味を込めて展示したということなのでしょう。先々、是非とも、山本發次郎の線に対するこだわりを企画展にしてもらいたいものだと思います。(写真出典:naka-art.jp)

2022年3月18日金曜日

病院食

昨年、新型コロナ・ウィルスに感染し、入院したという後輩がいました。味覚障害はあったのか、と聞くと、味覚障害なのか、病院食のまずさなのか、判然としなかったと言っていました。私も、4年前、急性腎不全で入院した際、病院食のまずさに辟易しました。5日間の入院で10kg痩せました。主な理由は、治療のために、体の水分を抜いたためですが、不味い病院食の影響も大きかったのではないかと思います。翌年には、腎不全の原因となった前立腺肥大を治療するため、慈恵医大付属病院に入院することになりました。病院食対策を行って入院しようと考えました。

病院食がまずいのは、うま味と塩分の少なさだと思います。そこで、スプレー容器に入れた白だし、ゆかり、カレー味のふりかけを準備しました。ところが、慈恵医大の病院食は、ごく普通に美味しく、何一つ残すことなく、たいらげました。それでも、5日間で2kgほど痩せたのは、カロリーがコントロールされているからなのでしょう。日頃、いかにカロリー過多な食事をしているか、ということでもあります。それにしても、前回とは大違いの病院食に驚きました。そして、一つ大きな違いがあることに気がつきました。味噌汁の有無です。慈恵医大では、まったく味噌汁が出ませんでした。味噌汁の塩分を他の料理に回すことで、おいしくいただけたというわけです。すべての病院が見習うべき手法だと思いました。

単調になりがちな入院生活の中で、食事は唯一の楽しみとも言えます。とは言え、病院食は、すべての人に喜んでもらうことが目的ではありませんし、ミシュランの星をねらっているわけでもありません。あくまでも付帯的なサービスであり、あらかじめ決められたカロリー、バランス、塩分量などといった制約のなかで、メニューが考えられ、調理されています。制約が多い中で、単調にならないようにメニューを考えることは、なかなか大変なことだとは思います。慈恵医大の病院食で、もう一つ関心したことは、事前に1週間分の献立表が配られ、かつ、選択可能であったことです。例えば、朝食は、和食か洋食か選べました。その場ではなく、事前選択制にはなりますが、それでも良いサービスだと思いました。

一定の規模がなければ出来ない対応ではありますが、これまた他の病院に見習ってもらいたいと思います。30年前、かみさんが、NYで次女を出産した際の病院食は、メニューから選択する方式でした。さらには、退院前夜には、最上階にある特別室で院長夫妻とのディナーというオプションまでありました。もちろん選択はしませんでしたが、ここまでくると完全に商売ということになります。アメリカの医療費、および医療保険料が世界一高くなるわけです。一定以上の医療費は、すべて保険でカバーされる仕組みなので、患者は、より良いスタッフ・設備・付帯的サービスを備えた病院を求めることになります。病院サイドも、選択される病院を目指して、コストをかけます。これがアメリカの医療が世界一になった理由でもあります。

いうでもなく入院する目的は治療であって、食事ではありません。それは分かっていますが、病院食は、もう少し進化してもよいのではないかとも思います。塩分やカロリーを抑えながらうま味だけをアップするメニューの開発、食欲を削ぐプラスティックの食器の改善、あるいは冷凍やレトルト食品を活用してメニューの多様化を進めるなど、すぐにでも出来そうな気がします。恐らく、健康保険制度によるコストの制約が、大きな壁になっているのでしょうが、例えば、一部オプション化してもいいようにも思います。いずれにしても、関係者の皆さんには、もう一段のご努力をお願いしたいところです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2022年3月17日木曜日

鞍馬山

僧正ヶ谷木の根道
京都には何度も行きましたが、ほとんどがビジネス目的、かつタイトな日程だったので、さほど観光はしていません。行ってみたい所は数多くありますが、その一つが鞍馬山でした。今般、念願叶って、鞍馬寺から貴船へのトレッキングを行うことができました。出町柳から叡山電鉄で鞍馬へ向かいました。思えば、叡電に乗るのも初めてです。叡電の叡山本線は、1925年、京都電燈によって開設されています。当時は、電力会社が、電力の安定消費のために鉄道事業を行うこともままあったようです。1928年には、子会社の鞍馬電鉄が、鞍馬線を開業しています。戦後は、京都電燈の鉄道事業を継承した京福電鉄が運営していましたが、現在は京阪電鉄の子会社となっています。いずれにしても、長い歴史を持つを路線です。

5年前にドロミテで骨折して以降、骨折した足の血流に問題があり、山歩きはしていませんでした。そろそろ再開してみようと思い、鞍馬・貴船間を選びました。起伏が厳しいとは言え、3km程度の距離であり、再開にはちょうど良いコースと思った次第です。足の血流も気になるので、駅から鞍馬寺まではケーブルを使いました。鞍馬寺は、”鞍馬蓋寺縁起”によれば、770年に鑑真が中国から連れてきた弟子の一人鑑禎によって開かれました。鑑禎は、夢で、山城国の北に霊山があると告げら、行ってみると、宝の鞍を乗せた白馬の姿を見ます。鬼に襲われた鑑禎は、毘沙門天に助けられたため、ここに草庵を結び、毘沙門天を祀ります。796年、藤原伊勢人が、やはり夢のお告げによって、この地を訪れ、伽藍を整えたとされます。

鞍馬山で、最も楽しみにしていたのは僧正ヶ谷でした。牛若丸、後の源義経は、11歳の時、鞍馬寺に預けられ、遮那王と名乗ります。牛若丸と言えば、五条大橋での弁慶との戦い、あるいは”虎の巻”の語源となった陰陽師・鬼一法眼からかすめ取った兵法”六韜”・”三略”など、多くの逸話が残ります。私のお気に入りは、夜ごと、寺を抜け出した遮那王が、僧正ヶ谷に住む大天狗、鞍馬山僧正坊から剣術指南を受ける話です。その情景を想像すると、なぜかワクワクしたものです。僧正ヶ谷は、鞍馬寺から登り、分水嶺を越えたあたりに広がります。鬱蒼とした森、切り立った谷、特に木の根が地表に露出した一帯などは、まさに修行の場に相応しく、興奮ものです。2017年の台風21号で、樹齢数百年クラスの大木が多く倒れ、またそれが凄みを一層増していました。残念ながら、天狗には遭遇しませんでしたが。

僧正ヶ谷には、最澄が自ら彫ったとされる不動明王を祀る不動堂、さらには謎の”奥の院魔王殿”があります。戦後、鞍馬寺は、天台宗を離れ、鞍馬弘教総本山を名乗っています。魔王殿には、金星から来たという魔王が祀られてるそうです。僧正ヶ谷を抜けると、貴船に向かって急な下りが続きます。貴船の西門に着いてからは、川沿いの登り坂を貴船神社奥の院へと進みました。道沿いには、料理屋が並びます。夏には、名物の川床をしつらえる店々です。鴨川の川床は経験しましたが、さっぱり納涼にはなりません。貴船の川床は本当に涼しい、と京都の人たちは言います。川の流れのすぐ上に渡した床ですから理解できる話ですが、そもそも標高が高いので涼しくて当然とも思います。川床の季節ではないので、人もまばらかと思いきや、結構、若い人たちが来ていました。平安の頃も今も、京都人にとって、貴船は手頃な行楽地なのでしょう。

ゆっくり歩いて2時間強のコースですが、久々の山歩きで、それなりに疲れました。昼食を食べるつもりだった料理屋が臨時休業。他の店とも思いましたが、急に三条篠田屋の中華そばが食べたくなりました。体が、水分とともに、塩分を欲していたのでしょう。1904年創業という篠田屋は、レトロな大衆食堂です。店に入ると「今日は皿盛が売り切れ」と言われました。ねらいは中華そばですから、問題ありません。篠田屋の中華そばは、昔懐かしい味の最高峰であり、いつもホッとさせられます。ちなみに、皿盛とは、ご飯の上にとんかつ、そのうえに餡かけという、ここにしかない名物です。京都の誇りの一つは上品な京料理ですが、京都はB級グルメのメッカでもあります。舌の肥えた客と学生の多い街で生き残ったB級グルメならば、不味いわけがありません。(写真出典:travel.co.jp)

2022年3月16日水曜日

雪舟観

雪舟「天橋立図」
今般、初めて天橋立を観てきました。日本三景とは言え、砂州に松が生えているだけなら、わざわざ足を運ぶまでもないと高をくくっていました。驚きました。まさに日本三景、見事な景観でした。鏡のように穏やかな内海と折り重なるような低い山並みが、天橋立を、一層美しく、かつ雄大な姿にしています。天橋立は、観る方角や高さによって、異なる姿を見せます。天橋立四大観と言われる展望スポットが知られています。龍が天に昇る姿に見えるという笠松公園の「昇龍観」は、”股のぞき”発祥の地でもあります。天橋立ビューランドの「飛龍観」は、逆方向から、龍が天に飛ぶ姿に見立てられます。砂州がうろこのようにも状に見えます。大内峠の「一字観」は、天橋立が横真一文字に見えます。

そして、大内峠の逆方向、 栗田半島の付け根にある獅子崎稲荷神社からの眺望は「雪舟観」と呼ばれます。神社は、道からすぐに階段が続く小さな祠で、駐車場すらありません。雪舟の作品は6点が国宝となっており、個人としては最多ですが、その一つが「天橋立図」です。「天橋立図」は、方角的には、獅子崎稲荷からの眺望と考えられています。ただ、見た目は、全く異なります。科学的に分析すると、「天橋立図」は、雪舟観の上空、約700mの地点から描かれたということになるようです。しかし、周囲も含めて、そのような山は存在しません。雪舟は、鳥の目をもって、天橋立を描いてみせたということになります。

この抽象性こそ、雪舟の大きな特徴なのではないか、と思っています。山水画は、大きな自然と小さな人間を、デフォルメして描かれていると思われがちです。ところが、中国の山水画は、実に写実的です。日本人にとっては、空想の世界としか思えない奇岩は、桂林を引き合いに出すまでもなく、実在する風景です。絵師たちは、そこに風雅を感じて、山水画を描くわけです。明に留学した雪舟は、今の中国に学ぶべき師はいないと豪語していますが、中国の奇景には、強く惹かれたようです。帰国後、中国の景色に思いを馳せながら描く山水は、どこか抽象的にならざるを得なかったのかも知れません。もちろん、原始仏教が持っていた具象性の否定という性格が、雪舟の絵筆に影響を与えている面もあるのでしょう。

天橋立の形成に関しては諸説あるようです。大雑把に言えば、川が運んだ土砂と海流が作ったということですが、規模や形状の説明には不十分です。天橋立は、約2000年前に姿を現わしたようですが、地震による地滑りで大量の土砂が湾内に流れ込んだことが大きな要因と聞きます。また、クロマツの林も不思議な存在です。クロマツは、人間が植林したものではありません。クロマツは、劣悪な環境でも育つ強い植物だそうですが、さすがに真水は必要です。天橋立は、砂州にも関わらず、地中に真水が存在し、井戸まであります。つまり地下に粘土層と帯水層が存在するわけですが、まだ十分に解明されていないようです。また、植生遷移を考えれば、クロマツの林は、ブナやカシ等の陰樹の森へと変わるはずなのに、ここでは起こっていません。その原因も十分には解明されていないようです。

いずれにしても、多くの要件が重なり、奇跡的に誕生したのが白砂青松の天橋立ということになります。砂州は、長い年月をかけて、その姿を変えてゆく宿命にあります。天橋立も同様であり、昭和期以降は細くなる傾向にあるようです。河川や港湾整備の影響で、流入する土砂が減少しているということなのでしょうが、むしろ湾内の潮流の変化が主因ともいわれているようです。対策として堆砂堤も作られています。これが美観を損ねるとも、龍のうろこにも見えて良いとも言われるようです。また、直接的に砂を入れることも行われています。美しい景観を守る行動は当然なのでしょうが、一方で、自然が作り、自然が壊すことも当然と言え、微妙な問題です。少なくとも、コンクリートを入れるようなことだけは避けるべきかと思います。(写真出典:kyouhaku.go.jp)

2022年3月15日火曜日

「白い牛のバラッド」

監督:マリヤム・モガッダム ベタシュ・サナイハ  2020年イラン・フランス

☆☆☆

(ネタバレ注意)

ギリシャ悲劇を思わせる構造的な作品です。人間が作り出した制度、宗教、社会に対して、個人が持つ感情の動きを対比させてドラマが構成されています。ただ、結末に向かうまでのドラマの積み上げ方が、やや甘いように思います。ラスト・シーンの緊張感は見事な演出と演技だったと思いますが、映画全体としては、それが十分に活かされなかったように思います。いずれにしても、イラン映画には、ペルシャ以来続く文芸に関する伝統の厚みや深さを感じさせられます。ギリシャ悲劇は、西洋文芸の根源と言われますが、2500年前、ギリシャと激しく戦ったペルシャもまた文芸大国でした。

夫を冤罪による死刑で失った女性、死刑判決を下してしまった判事、二人は救いを求めますが、国家、宗教、世間、家族といったしがらみが絡んできます。夫の死を悼み、懸命に子供を育てようとする女性に対して、困窮する生活、子供の教育、子供を奪おうとする夫の家族など、世間は冷たいものでした。それでも健気に戦う女性でしたが、夫の冤罪が判明すると、彼女の怒りは無実の夫を死刑にした国家制度へと向かいます。しかし、国家は、制度を盾に謝罪を拒み、宗教も世間も従順を求めます。彼女の哀しみと怒りは出口を失います。そこに現われたのが、”夫の友人”こと判事でした。

制度的にはやむを得ない判決であっても、間違いを起こしたことに悩む判事の姿は、人間的です。職を辞し、女性への援助を行いますが、体制を守るために、国家はそれを許しません。判事のたった一人の家族である息子は、父と距離を置くために軍に入隊し、麻薬の過剰摂取で死にます。判事への報いともとれます。自分を失った判事を救ったのは、夫を失った女性でした。ギリシャ悲劇であれば、ここからがドロドロとした展開になっていくところですが、判事が身分を明かしていないことから、ドラマは淡々と進みます。自分が何者であるかを明かさなかった理由を、判事は「勇気がなかった」とだけ言っています。ここがこの脚本、ないしは原案の弱点だと思います。

「勇気がなかった」というのであれば、そこを掘り下げなければ、組織と個人というテーマは訴求できないと思います。さらに、女性が判事の正体を知るくだりにもドラマ性が足りません。結果、正体を偽り、弱った女性の心と体につけ込んだ男が、女性の怒りに触れて殺されるというメロドラマのようになってしまい、国家制度に翻弄された男女の悲劇というには、深掘りが足りないように思います。ユニークなフレームだけに、実に残念な仕上がりです。女性の耳の聞こえない娘の存在は、やや図式的ですが面白いと思いました。娘は、耳が聞こえないことで、世間と切り離され、ある意味、純粋に人間的な存在となり、夫を失った女性の心情を具現しています。娘が映画好きで、名前も映画から付けられていることから、娘はイラン映画界、あるいはイランの人々の置かれた現状の象徴にもなっています。

白い牛とは、クラーンに記述される生け贄であり、刑務所の中庭の白い牛という映像が、イランという国の現状を象徴しているのでしょう。女性がミルク工場勤務であり、何度も製造ラインが映し出されるのも、生け贄のメタファーなのでしょう。ちなみに、本作は、イラン本国の映画祭で公開された後、上映禁止処分を受けています。カメラは、わずかにパンとズームを行うだけで、ほとんど固定され、映像はカット割りだけで構成されています。説明的な音楽もほとんど使われていません。その分、自然音が丁寧に拾われています。主演のマリヤム・モガッダムは、夫と共に監督・脚本も担当しています。イラン映画の伝統を継承するなかなかの才能だと思います。(写真出典:joqr.co.jp)

2022年3月14日月曜日

出石そば

東北出身にも関わらず、盛岡のわんこそばを一度も食べたことがありません。わんこそばの老舗である”東屋本店”には、何度も行ったことがあります。蕎麦も美味しいのですが、カツ丼も絶品です。ただ、いつも仕事の合間に行くので、わんこそばに挑戦したことはありません。蕎麦は蕎麦ですが、多少、味の感じ方も違いそうな気がするので、一度、やってみたいところです。ただ、あくまでもお祭りの余興のようなものであり、平生の蕎麦の食べ方とは言えません。わんこそばは、南部藩主が、蕎麦を食べてみたいと所望するので、気を使って朱塗りの腕に、ごく少量を出ししたところ、いたく気に入り、何杯もおかわりしたことから生まれたと聞きます。

似たような食べ方に、出雲の割子そばがあります。こちらは、お椀ではなく、お銚子の袴のような、丸い平底の塗り物に小分けした蕎麦を盛って出されます。割子とは、松江の言葉で重箱のことだったようです。風流人が多い松江で、外で蕎麦を食べる際に使われたようです。ただ、洗いにくく不衛生だということで、明治期、円形になったようです。出雲そばは3段重ねで一人前となります。かつて、神保町には割子蕎麦を出す”出雲そば本家”があり、10枚くらい食べると、店に名前が張り出され、さらに多く食べると割引券などがもらえました。美味しい蕎麦でしたが、さすがに7~8杯くらいが限界でした。わんこそばも割子そばも、蕎麦のうえに少量の麺つゆをかけて食べます。ところが、兵庫県出石のそばは、割子タイプですが、やや異なった食べ方をします。

出石は、但馬の小京都と呼ばれます。江戸中期、信濃国から国替えになった殿様が、蕎麦打ち職人を連れてきたことから、出石そばは生まれたようです。うどん文化圏にあっては、極めて希な存在です。出石そばの特徴は”三たて”といって、挽きたて・打ちたて・茹がきたてが自慢です。出石焼の白磁の小皿に盛って出されるので、出石皿そばとも呼ばれます。皿そばのスタイルは、幕末の頃、屋台のそば屋が扱いやすかったことから始まったとされます。もともとは、出雲そばと同じく、蕎麦にそばつゆをかけて食べていたようですが、昭和30年頃から、蕎麦ちょこで受けて食べるスタイルに変わったようです。なぜそのように変えたかは不明ですが、薬味に、鶏卵やとろろを出すところをみると、薬味の扱いやすさから蕎麦ちょこになったのではないかと思われます。

出石で一番人気という”近又”という店で食べてみたのですが、三たてというわりには、蕎麦の風味が薄いように思いました。恐らくつなぎが多いのでしょう。ただ、蕎麦としては、まずまずだと思いました。ただ、問題は、皿そばというスタイルです。一皿には、2~3口程度の蕎麦が乗っています。一人前は5皿ですが、何枚でも追加できます。つるつるとした磁器の皿に少量の蕎麦というのは、掴みにくいものがあります。江戸っ子なら、「しゃらくえせぇ!」とちゃぶ台を返しそうな気がします。また、薬味のとろろも鶏卵も、いかがなものかとと思います。いずれも多すぎて、つゆの風味が消されます。そこで、鶏卵は、最後の一皿で試したのですが、卵の味しかせず、かつその後のそば湯まで卵の味しかしませんでした。蕎麦には、せいぜいうずらの卵だと思います。出石そばの鶏卵は、うどん文化の影響なのだろうと思いました。

出石藩は、もともと秀吉方だった小出家が、関ヶ原の戦いで徳川について本領安堵された6万石の小藩です。絹織物や磁器で稼ぐ一方、水害や大火で苦労し、果てはお家騒動で3万石まで落とされています。小藩が生き抜くのは並大抵のことではなかったはずです。出石そばも、名産の磁器を使ったり、あるいは、つなぎを多くしたり、薬味に鶏卵を使うなど、うどん文化に妥協しながら生き抜いてきたと言えるのでしょう。ちなみに出石名物「辰鼓楼」は、日本最古の時計台とも言われます。ただ、誠に残念ながら、辰鼓楼が稼働するひと月ほど前に、札幌の時計台が動き始めており、正確には、日本で二番目に古い時計台となりました。残念。(写真出典:jaran.net)

2022年3月13日日曜日

梁盤秘抄#23 Donuts

アルバム名:Donuts(2006)                                                                            アーティスト: J Dilla

数年前、さる天才的なドラマーがハンドヘルド・タイプのシンシサイザーのようなものを使っていたことがありました。とても面白い効果を生んでいたので、それは何かと聞くと、KORGのカオシレーターとのこと。安価だったので、早速、買って遊んでみました。面白くて、面白くて、かなりハマりました。リズムを作っていると、キリがなくなり、何時間でも遊んでしまいます。ただ、最近は、あまり遊んでいません。カオシレーターだけでは、メモリーできる長さも数も限りがあり、その先は、パソコンとつなぐしかありません。そうなると、いわゆるDAW(Digital Audio Workstation)の世界に入り込むことになります。そうなると、他のことは何もせずに、一日中、パソコンに向かうことになりそうなので、止めました。

DAWの世界に入ることを止めた理由は、もう一つあります。その頃、J.Dillaを耳にして、ハマりました。その想像力豊かで多彩な世界に驚きましたが、それ以上に、とにかく聞いていて気持ちがいいのです。中毒性すら感じます。J.Dillaのリズムは、90~100BPMくらいのテンポが多く、しっくりシンクロできます。カラフルな印象は、サンプリングのセンスの良さから来るのでしょう。要するに、自分が、DAWを使って作ってみたいと思うリズムが、ほぼそのまま、既に存在していたわけです。だとすれば、DAWを買っても、J.Dillaの完コピを目指すだけになり、かつ完全にはできないのでフラストレーションが溜まるだけになります。それなら、J.DillaのCDをたくさん買った方がいいや、と思った次第です。

”Donuts”は、J.Dillaの遺作です。30歳を前に、J.Dillaは肝臓を痛め、どんどん痩せ細っていったようです。実は、様々な臓器に炎症を起こす珍しい血液の病に罹っていました。天才J.Dillaは、2006年、32歳という若さで亡くなっています。”Donuts”は、病室で制作され、彼の32歳の誕生日にリリースされました。彼が亡くなったのは、その3日後のことでした。トラック数は31であり、彼の年齢と同じでした。また、最後のトラック”Welcome to the Show”は、突然カットされたように終わります。そして、その続きは”Donuts (Outro)”として、そのまま最初のトラックになっています。つまり、アルバムは、無限ループするようにセットされており、これがアルバム・タイトルのドーナッツの意味でもあったわけです。

これは、死の床にあったJ.Dillaがたどりついた死生観を表わしているのでしょう。J.Dillaは、音楽によって永遠を得た、とも言えるのでしょう。生前発表されたディスコグラフィーは5作のみですが、死後、彼が録音してあった多くの音源がリリースされています。J.Dillaのリズムは、サンプリングがミューズとなっています。その原点は、18歳の時、サンプラーAKAI/MPCと出会ったことだったようです。ピアノのキーを叩くように、様々な音源を使いたいという発想は、1962年にメロトロンとして実現されています。当時は、テープを使うというアナログな仕組みでしたが、60年代後半からは、ビートルズ、R・ストーンズ等が使い始め、70年代になると、キング・クリムゾンはじめプログレ・バンドが多用しています。

当初、サンプラーは、数百万円以上もする高額な製品でしたが、デジタル化とともに、驚異的な進化を遂げ、低価格化も進んでいきます。1985年には、AKAIのMPC等が、低価格で発売され、一気に広がったようです。そこに注目したのがラッパーたちでした。様々な音源をサンプリングして、ループさせるといった演奏がブームとなり、メイン・ストリームになっていきます。ヒップホップは、デジタル化とともに進化した音楽だと言っても過言ではありません。サンプラーは、音楽を演奏技術から解き放ち、純粋に想像力の世界に変えたという面もあります。ただ、定規だけを用いて描いた鉛筆画は、いかにクリエイティブであったにしても、油絵の表現力を超えることはないだろうな、とも思います。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年3月12日土曜日

羽衣

月の輪田遺構付近
天女と羽衣と言えば、三保の松原を思い起こします。恐らく、三保の松原と富士山という絶景にピッタリのイメージだからなのでしょう。日本の羽衣伝説は、千葉、大阪、鳥取、沖縄にもありますが、最古のものと言われているのが、近江風土記に登場する滋賀県長浜の余呉湖、そして丹後風土記に記載される峰山の伝承です。いずれも8世紀の編であり、日本海側の話です。いわゆる異類婚姻譚であり、類似の説話が、世界中に分布しているようです。また、天女は白鳥を指しており、これまた世界中に存在する白鳥処女説話の類型とも言われます。近江と丹後では、多少ラストが異なりますが、大枠は同じ話です。

天女たちが水浴びをしている隙に、羽衣を奪って隠す。天に戻れなくなった天女は、男の嫁、ないしは老夫婦の娘となり、機織りや酒造りを伝える。近江の天女は、羽衣の隠し場所を見つけ、天に帰る。丹後の天女は、豊かになった老夫婦から、家を出され、奈具に住んだ。近江の天女は、白鳥の姿で地上に降ります。白鳥は、稲の神霊だとされるようです。丹後の天女が住んだ奈具には、広い遺跡が残り、渡来技術の痕跡が見られるようです。私の勝手な解釈ですが、羽衣伝説は、異民族との混血のメタファーなのではないかと思います。古代における朝鮮半島と日本のメイン・ルートは、釜山、対馬、壱岐、東松浦半島ということになります。弥生人は、そこから日本海側を北上するか、あるいは直接、半島から日本海各地に渡来するケースもあったはずです。

日本人のDNAには、1~2割程度、縄文人型の遺伝子が残っているようです。つまり、渡来した弥生人は、先住民である縄文人を抹殺したのではなく、各地に稲作を伝えながら定着し、混血が進んだと言うことなのでしょう。結果、生産性の高い弥生系が生き残り、現代につながるわけです。渡来した弥生人は、上質で薄い生地の衣類を纏い、また、稲作はじめ先進的技術を伝えるわけです。縄文人からすれば、まさに天から降りてきた人たちだったわけです。それが伝説上、出雲では国譲りの大国主命、吉備では製鉄技術を持つ鬼の温羅、丹後では稲作や酒造りを伝えた天女になるわけです。世界中の羽衣伝説も、同様に、先進技術を持つ民族と先住民との出会いを意味しているのではないかと想像します。

実は、丹後峰山には、別バージョンの羽衣伝説があります。羽衣を奪った三右衛門(さんねも)という猟師は、天女を嫁にします。天女は、隠してあった羽衣を見つけ、天に帰ります。悲しむ三右衛門に、天女は「7月7日に会いましょう」と言い、夕顔の種を渡します。夕顔のつるを登れば天に行けるというわけです。天に登った三右衛門に、天女は、天の川に橋を架けてください、そうすれば一緒に暮らせます、と言います。ただし、橋を架けている間、私のことを思い出してはいけません、と天女は言います。もう少しというところで、安心した三右衛門は、天女を思ってしまいます。すると天の川は氾濫し、三右衛門は下界に押し流されます。当地の安達家に伝わる話であり、当家の紋所は”丸に七夕”。いわゆる七夕伝説の起源だとされます。

峰山町の「月の輪田」は、稲作発祥の地とされる遺構です。豊受大神が、天照大神のために、初めて稲作を行った場所と言われます。丹後の天女は、豊宇賀能売命(とようかのめのかみ)として奈具神社に祀られていました。ある時、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ「食事が安らかにできないので、丹波国の比治の真奈井(峰山町)の等由気太神(とゆけおおかみ)を近くに呼べ」と言います。こうして豊宇賀能売命は豊受大神となり、以降、伊勢神宮外宮に祀られています。いずれにしても、峰山盆地は、古代から米づくりで知られていたわけです。低い山並みに囲まれた盆地は、寒暖差が大きく、また豪雪地帯ゆえ水に恵まれています。当然、うまい米がとれるわけです。丹後産こしひかりは、特Aクラスの銘柄米です。”天女”たちは、稲作に適した良い土地を、早々に見つけたというわけです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2022年3月11日金曜日

ダミアン・ハーストの桜

英国を代表する現代アート作家、ダミアン・ ハーストの個展を見てきました。意外なことに、ダミアン・ハーストにとっては、日本における初の個展となるようです。「ダミアン・ハースト 桜」と題され、ドットで表現された桜の連作が展示されています。一つのモティーフやイメージを繰り返していくあたりは、ダミアン・ハーストらしいところです。桜シリーズは、2018年から制作され、カルティエ美術財団の後援によって公開されたようです。なにか印象派の絵画の一部を切り取り、拡大したような印象を受けます。不思議なことに、見ていて、とても気持ちが良くなります。才人ダミアン・ハーストが、また新しい”発明”をしたように思えます。

ダミアン・ハーストは、これまでも様々な”発明”をしてきました。まずは、1988年、大学在学中に、使われていない倉庫を会場とした学生たちの展覧会を開き、注目を集めます。そして、1992年、YBA(Young British Artists)展に出品した「生きている人の心の中の死の物理的不可能性」で一気ににその名声を高めました。作品は、死んだサメを巨大なガラスケースのなかでホルマリン漬けにしたものでした。以降、ハーストは、ホルマリン漬けのシリーズで、現代アートのアイコンになっていき、様々な賞も獲得します。そして、作品は、現存する芸術家のなかで最高値をたたき出していきます。

同じ時期、カラフルなドットを規則的に並べる”スポット・ペインティング”、あるいは回転する円形のキャンバスに絵具を垂らす”スピン・ペインティング”も発明しています。その後、人体模型状の彫刻、福祉団体のキャラクターの彫刻などで、超巨大な作品を発明します。また、プラチナで作ったしゃれこうべを8.601個のダイヤモンドでコーティングした”神の愛のために”を発明します。また、フィルムや音楽の世界にも進出して、発明を行い、ロンドン・オリンピック閉会式のフィールドにも彼の作品が使われました。2017年のヴェネツィア・ビエンナーレでは、大規模な個展が開かれ、”信じられないほどの難破船からの宝物”と題して、貝殻などが付着した、いかにも海底から引き上げたような彫刻の連作を発明しています。

ヴェネツィア・ビエンナーレで、彼の発明品を山ほど見ました。とても面白いと思いました。サイズ感やディテールも含めて、十分に驚かせてくれます。実にセンスの良いアーティストだと思います。もちろん、批判も山ほどあります。どこが芸術なのだ、というわけです。芸術とは、作家が意図をもって制作し、受け手が何らかの感情の動きを得るものだとすれば、ハーストの作品も、十分に芸術です。もちろん、好き嫌いは大いにあります。そして、それ以上に、ハーストは、発明をお金に換える天才でもあります。美術投資ブームの波を見事に捉えました。彼の発明の多くは、彼が表現したいものというよりは、ブームの波に乗れるかどうかという基準で制作されているようにも思えます。それが、あえて作品ではなく発明と、私が呼ぶ理由です。

さる美術評論家が、ハースト作品を「いかに我々が消費なるものに左右されるようになったかということへのメタファーだ」と言っています。言い得て妙なり、といったところです。それにしても、美術投資ブームは異常な状態にあるように思えます。もともと美術品の価格は、欲しい人の数で決まるわけですから、異常とは言えないのかも知れませんが、それにしてもすごいことになっています。近年、NFT(non-fungible token、非代替性トークン)がブームとなり、デジタル・アートが高値で取引されています。お金に敏感なハーストは、1万個の手書きのドット一つひとつをNFT化したうえで販売し、合計で30億円近くを売り上げたようです。アート界一の稼ぎを誇るハーストは、さらに資産を積み上げていきます。(写真出典:nact.jp)

2022年3月10日木曜日

花まつり

過日、思うところあって、若い人に「花まつり、知ってる?」と聞いたところ、「浅草の?」と返されました。浅草の花やしきだと思ったようです。花まつりは、お釈迦さまこと、ガウタマ・シッダールタの生誕を祝う灌仏会(かんぶつえ)の通称です。遊園地と間違えられるようでは、お釈迦さまもたまったもんじゃないですね。ただ、思った通り、若い世代における花まつりの知名度は、極めて低いわけです。キリスト教にはクリスマスがあり、イスラム教にはマウリド・アンナビー(預言者生誕祭)があり、それぞれ結構にぎやかに行われます。対して、花まつりは、多くの寺院で祝われるものの、祝日でもありませんし、認知もいまひとつと言ったところです。

日本の花まつりは、4月8日と決まっています。ただ、これは中国から灌仏会が入ってきた際、中国暦の4月8日を、そのまま引き継いだもののようです。「お釈迦になる」とは、物などがダメになるという江戸言葉ですが、もとは鋳物屋の符牒とされます。鋳物を作る際、火が強すぎて失敗したことを指したようでます。「し(ひ)がつよかった」と4月8日をかけているわけです。とは言え、ガウタマ・シッダールタの誕生日に関する記録があるわけではありません。インド等では、太陰暦の2月15日、新年最初の月の満月の日とされています。グレゴリオ暦では、4~5月にあたるようです。釈迦の誕生・悟り・入滅という三大仏事は、すべてこの日に起こったとされているようです。

インド、スリランカ、タイ、ミャンマー等では、この日、仏教最大の祭典ウェーサーカが行われます。ウェーサーカは、国連に認定された仏教の祝祭でもあり、タイ仏教界が主導して、各国の代表が参加した国際的な祭典も行われます。ウェーサーカにおける釈迦の誕生だけが切り離されたのが灌仏会であり、これは中国、韓国、日本、ヴェトナム等で行われています。つまり、チベット経由で中国に伝わり、中国文化圏に広まった大乗仏教が主流の地域で行われています。しかも、いずれの国の灌仏会も、現在では必ずしも大きな祝祭とはなっていません。対してウェーサーカは、南伝仏教とも呼ばれる上座部仏教が信仰される地域で大きな祝祭となっているわけです。

大乗と上座部は、仏教における二大勢力です。上座部仏教は、小乗仏教とも呼ばれますが、これは大乗仏教が上座部を蔑んだ呼称とされます。大乗は、釈迦の入滅から500年後に形を成したとされます。出家して修行を積み、悟りを求める上座部に対して、在家、つまり大衆が仏の教えを実践することで、個人ではなく、自分も含めた衆生救済を目指すのが大乗です。誤解を恐れずに言えば、上座部は、出家して修行することで釈迦になることを目指します。大乗は、釈迦そのものになることではなく、釈迦が目指した衆生救済を求めます。大乗を象徴する言葉が自利利他であり、涅槃を目指す衆生を意味する菩薩です。このような違いが、釈迦の生誕の祝い方の違いにつながるのでしょう。

日本の寺院で行われる花まつりでは、甘茶と稚児行列がよく知られています。花を飾った花御堂の中に誕生仏の像を置き、周囲を満たした甘茶を掛けて祝います。釈迦が生まれた際、八大竜王が産湯に甘露を注いで祝ったという故事に由来します。誕生仏は、釈迦が誕生した際の姿とされます。釈迦は生まれると、右手で天をさし、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」と唱えたと言われ、その姿を表わしています。甘茶は、もともとアジサイ科のアマチャという植物を煎じたもので、さらっとした甘味があります。子供の頃、その甘さに惹かれて、花まつりを楽しみにしていたものです。(写真出典:e-tsuyama.com)

2022年3月9日水曜日

フィラデルフィア

Rocky Steps
フィラデルフィアは、1776年、アメリカ独立宣言が採決された街であり、アメリカの最初の首都でもありました。独立宣言が読み上げられる際に鳴らされた「自由の鐘」はじめ、名所旧跡には事欠かない街です。また、東部第二の規模を誇る街は、ヘルスケアなど多くの産業、そしてペン・ステイトはじめ多くの教育機関を擁する街でもあります。さらに世界有数の絵画コレクションを持つバーンズ財団美術館もあります。ちなみに、1994年、当時、まだ非公開だったバーンズ・コレクションが、上野の西洋美術館で公開された時には、3時間待ちという行列が出来ました。私にとっても、いまだ破られることのない人生最大の行列でした。

にも関わらず、どうも今一つ魅力に欠ける街だと思います。その証拠の一つが、いまだに観光スポットのナンバー・ワンが、フィラデルフィア美術館であることです。一番人気である理由は、その巨大な建屋に収蔵された美術品ではなく、大ヒット映画「ロッキー」の中で、早朝ランニングするロッキーが階段を駆け上がり、雄叫びをあげた場所だからです。フィラデルフィア美術館を訪れる多くの観光客は、美術館に入場することなく、ロッキー・ステップスとも呼ばれる階段のうえで、ロッキーと同じヴィクトリー・ポーズをとり、写真を撮って帰って行きます。ご丁寧なことに、美術館の前には、ロッキーの像まで置かれています。まぁ、30万点と言われる美術館の収蔵品も、意外とつまらないものが多いのですけどね。

1976年から全6作が撮られたロッキーは、いまだにアメリカ人の心の拠り所です。ポルノ映画出身でシチリア顔の俳優が持ち込んだ脚本は、当人を主役に低予算のB級映画として制作されました。何の期待もされていない映画でしたが、公開されると熱狂的に受け入れられ、歴史的な大ヒットとなり、様々な賞を総なめにします。ロッキーの奇跡的な勝利とシルヴェスター・スタローンの突然の大成功は二重写しとなり、アメリカン・ドリームの象徴となりました。また、映画だけではなく、ビル・コンティが作曲した「ロッキーのテーマ」も大ヒットし、世界中の誰もが知っている曲となりました。当時、ヴェトナム戦争の敗北で、意気消沈していたアメリカが、自信を回復するきっかけになったとまで言われます。

フィラデルフィアで忘れてはいけないものの一つが、フィラデルフィア・ソウルです。1971年に設立されたプロダクション「ギャンブル&ハフ」が生み出した都会的で洗練されたソフト・ソウルが、一世を風靡しました。当時は、若年層を主なターゲットとしたモータウン・サウンド一色の時代でした。大人向けの甘いソウルは新鮮だったわけです。オージェイズ、スピナーズ、スタイリスティックス、スリー・ディグリーズなどが、立て続けにヒットを飛ばしました。スタイリスティックスの”You Make Me Feel Brand New(邦題「誓い」)”などは、ソウル・バラードの傑作であり、今でも大好きな曲です。当時人気だったTV番組「ソウルトレイン」のテーマもフィラデルフィア・ソウルですが、皮肉なことにディスコ・ブームに押されたフィラデルフィア・ソウルは下火になっていきました。

10年前、フィラデルフィアで開催された国際的コンベンションに参加しました。同じ会社から10人ばかり参加したので、会社経費でディナーをご馳走することになりました。私が選んだ店は、フィラデルフィアから車で1時間ばかり行ったデラウェア州ブランディ・ワイン・ヴァレーの店でした。田園地帯にある築200年を超える建屋と美味いアメリカ料理が自慢の店です。皆さんに喜んでもらえました。昔、行ったことがのあり、いい印象を持っていたから選んだのですが、州境を超えてまで行った最大の理由は、フィラデルフィア市内に魅力的な店が見つからなかったからです。(写真出典:seesight-tours.com)

2022年3月8日火曜日

米穀手帳

山口良忠判事
終戦から2年後、食糧難にあえぐ日本で、衝撃的なニュースが報道されます。当時の東京区裁判所の山口良忠判事が、闇米を拒否し、配給米だけを食べ続け、栄養失調のために亡くなりました。山口判事は、経済事犯専任判事として、主に闇米を所持する食糧管理法違反を裁いていました。闇米所持を裁くものが、闇米を食べるわけにはいかない、という筋を通した壮絶な死でした。1942年に制定された食糧管理法は、主食の受給と価格安定のために、米、その他穀物、いも類の生産・流通を国が統制する仕組みです。敗戦後も、食糧難のなか、配給制を維持するために存置されました。配給する食料にも事欠く状態であり、国民は、生き延びるために、闇米はじめ闇物資に頼らざる得ませんでした。他にも、東京高校の亀尾英四郎教授、青森地裁の保科徳太郎判事が、食管法を遵守し餓死しています。

山口判事は、経済犯を厳罰に処していたのではなく、かなり恩情的な裁きを行っていたようです。もちろん法は法ですが、司法当局が闇米の取り締まりを行った背景には、GHQの指示もあったようです。日本の飢餓状態が世界に喧伝されると、占領政策がうまくいっていないとの批判を浴びる恐れがあったため、GHQは、司法当局に、闇米の取締強化を指示したとされます。そんなことで、食糧事情が変わるわけもなく、結局、日本に対する食料援助が開始されます。その主力となったのが、いわゆる”ララ物資”です。LARA(Licensed Agencies for Relief in Asia)は、盛岡出身の在米ジャーナリスト浅野七之助が設立した”日本難民救済会”が母体でした。1946~1952年まで行われたララ物資は、当時の金額で、総額400億円分に達したと言われます。

1950年代半ばになると米の生産量は拡大し、食管法の意義も薄れます。ただ、価格統制、および農民の収入確保へと性格を変えて、存続されます。政府が農民から高く米を買い、安く消費者に売るわけです。水田も増え、生産性も上がったことから、在庫、いわゆる古米も発生し、食管会計は赤字になっていきます。1969年には自主流通米がスタートします。その後、1981年には、食管制度の目的は、統制から管理に下げられ、流通の自由化が進みました。そして、GATTウルグアイ・ラウンド合意に基づき、日本は、米の輸入を認めざるを得なくなり、1995年、食管法は廃止されました。日本の農業政策は、戦略性や計画性に欠けると言われます。食管法は、その象徴だったわけです。工業化に伴う労働人口の移動、土地の高騰、自民党の大票田としての農村部といった要素との兼ね合いも難しく、政策がブレ続けた面も否定できません。

実態と大きくかけ離れた食管制度下では、結構、奇妙なことも起こっていました。1981年の法改正まで、国民は米穀配給通帳、通称米穀手帳なるものを持たされていました。要は配給を受けるための通帳です。身分証明書の役割も担っていたようですが、いつの頃か有名無実化します。実家にもあったのでしょうが、見たこともありません。ただ、1966年、小学校の修学旅行の際、家から米を持参させらたことを覚えています。皆が持参した米を炊いたとも思えませんし、宿にも米が無いことなどなかったはずです。既に、そんな時代でもなく、まったく無意味な対応ですが、食管法上の建前として、宿泊施設は、米穀手帳の提示、あるいはそれに替わる米の持参を求めざるを得なかったのだと思います。多くの場合、宿も宿泊者も、当局ですら無視していたはずです。ただ、公立学校としては、法令違反するわけにもいかなかったのでしょう。

大学のゼミは、新自由主義をテーマにしていました。国防的観点から食管法を見直した方がいい、と発表したら、ボコボコにされました。ネオ・リベラルな観点からすれば、食管法など悪の権化だったわけです。ただ、新自由主義で全ての問題を解決できるわけでなく、国防もその一つだと考えたわけです。食料の受給を国が統制する時代ではないとは思います。ただ、無制限な自由化によって、食料の自給率がゼロになる可能性もあります。その方が効率的ではあるかも知れませんが、有事の際に兵糧攻めされると、日本は即刻崩壊します。食管法とは言いませんが、輸入元の多角化や食料備蓄といった政策とともに、ある程度の生産を確保する仕組みがあってもいいように思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2022年3月7日月曜日

名作と名演

五代目古今亭志ん生
「ジャズに名作なくして名演あり」とは、日本のジャズ評論の草分けである野川香文の言葉だとされます。アドリブを重視するジャズの本質をついた名言です。とは言え、もちろん名曲も存在します。落語も似たところがあるように思います。古典落語の名作は数多く存在しますが、演じる噺家によって、随分と趣が異なり、腕の違いが出ます。人情噺における演技力の差も大きいのですが、むしろ粗忽噺の方が違いが出るように思います。粗忽噺は、実にバカバカしい筋立てゆえ、客をその世界に没入させなければ、成立しません。落語は、名演なくして名作もなし、といったところでしょうか。 

粗忽噺のなかで最も演じるのが難しいと言われるのが「粗忽長屋」です。浅草寺で素性の知れない行き倒れがあり、それを見た八っあんは、長屋の熊さんだと確信します。「今朝も具合が悪いと言ってたからな」と言う八っあんに、周囲の人は、行き倒れたのは昨晩だから別人だよ、と言います。いや、熊に違ぇない、あいつはそそっかしいから気がついてねぇんだ、今、呼んでくらぁ、と八っあんは長屋へ一目散。お前は死んだと言われても納得いかない熊さんでしたが、八っあんに丸め込まれて浅草寺へ行きます。死体を抱きかかえ、抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺はいったい誰だ、と下げます。

粗忽どころか、もはやシュールな世界です。それを笑いを取りながら、最後まで聞かせるには、相当の芸が求められます。名人を通り越して達人と言われた五代目志ん生は、テンポ良く軽妙に進めます。五代目小さんは独特の間とテンポで引き込みます。談志は、勢いでもっていきます。談志は、粗忽長屋を、主観性がテーマの落語だと言っていますが、確かに聞きようによっては哲学的かも知れません。まったく異なる意味で傑作だと思うのが上方落語の「持参金」です。随分と図式的な噺だけに、演じ方、落とし方が難しい面があると思います。もとは「逆さの葬礼」や「捨米」という古典落語であり、現代感覚では陰惨と言える落ちを削ったものだと聞きます。

番頭はんが、清さんに、催促なしで貸した20円を今晩中に返してくれと言ってきます。困った清さんのところへ金物屋の佐助はんが縁談を持ってきます。器量が悪く、しかも臨月ながら、20円の持参金付きと聞き、清さんは即決し、その晩、祝言を挙げます。翌朝、番頭はんが金を取りにきます。清さんは、今、金が届くと答えます。金を待ちながら、番頭はんが、急に金が入り用になったわけを話し出します。実は、番頭はんが手を付け妊娠させた女中が臨月を迎え、困っていると、金物屋の佐助はんが、20円用意したら、後は何とかしましょうと請け合います。そして、佐助はんは、清さんのところへ縁談を持ち込んだのでした。清さんは20円を番頭に返す、番頭は20円を佐助に渡す、佐助はそれを持参金として清はんに渡す、清はんがそれを番頭に返す、という構図です。金は天下の回りもの、というわけです。

聞いていて心地良くなるほど流暢な語りの米朝は、いつも軽妙な芸で笑わせてくれます。その弟子である枝雀は、メリハリのきいた語りに独特な身振りを加えて演じます。いずれも大阪ことばの達人ですが、師匠の温かみのある笑いに対して、弟子は爆笑系という違いがあります。枝雀の「持参金」は、やや演じることに汲々としている印象があります。爆笑系にとっては不向きな噺かも知れません。高座の天才ぶりとは異なり、枝雀は至って生真面目な人でした。芸道の探求に身も心も捧げ、プレッシャーとの板挟みになった枝雀は、鬱病を患い自殺します。志ん生は、満州で死線を越えたことで一皮むけ、天衣無縫の達人になったと言います。枝雀も、何か、一皮むける機会さえあればと、今更ながらに悔やまれます。(写真出典:asahi.com)

2022年3月6日日曜日

ウォルドルフ・アストリア

大好物のエッグ・ベネディクトを、最初に食べたのは、いつ、どこでだったのか思い出せません。ただ、NYに赴任した時、エッグ・ベネディクト発祥の地が、事務所近くのウォルドルフ・アストリア・ホテルだと聞き、うれしくなって食べに行ったことを覚えています。なお、その起源に関しては、ダウンタウンのデルモニコスなど諸説ありますが、いずれも証券ブローカーとして成功したベネディクト夫妻、ないしはベネディクト夫人の示唆に基づくという点で共通しています。イングリッシュ・マフィン、ハム、ポーチド・エッグ、上からオランデーズ・ソースというシンプルさながら、理想的な朝食メニューだと思います。

 NYどころか、アメリカを代表するホテルとも言えるウォルドルフ・アストリアは、1893年、5番街で開業しました。当時は、ウォルドルフとアスターという隣り合う二つのホテルでした。1929年、エンパイア・ステート・ビルディングの建設に伴い、二つのホテルは取り壊しとなり、1931年、現在のパーク・アヴェニューにウォルドルフ・アストリアとして再オープンします。ウォルドルフとアスター両ホテルは、大富豪アスター家の従兄弟同士の経営でした。落成当時は、世界一高いビルだったそうです。1949年には、コンラッド・ヒルトンが経営権を手に入れ、現在もヒルトン・グループによって運営されています。ただし、建物は、2014年、中国の安邦保険集団に買収されました。安邦は、経営者が訴追された後、国営企業化されましたので、現在の所有者は中国政府ということになります。

開業時、ウォルドルフ・アストリアは、アールデコ調の贅をこらした内装と最先端の設備を持ち、食事とサービスは、アメリカ随一と言われたそうです。NY社交界の中心であるとともに、資金調達パーティー、各種レセプション、国際会議等についても、アメリカ最上級の会場とされていました。一つの国家機関に匹敵するとまで言われたウォルドルフ・アストリアは、まさに20世紀の歴史が動いた場所の一つといえます。また、宿泊に関しては、米国大統領、各国の国家元首、王族、富豪、著名人等の定宿として知られます。1975年、昭和天皇が訪米した際にも宿泊されています。天皇による史上初の訪米は、大きな話題となりました。天皇陛下一行は、セキュリティ面を考慮して、タワーの3フロアーを貸し切ったと聞きます。なお、ホテルの地下には、メトロノース鉄道の大統領専用プラットフォームまであります。そこには、足が不自由だったルーズベルト大統領の車を乗せられるエレベーターまであったようです。

また、開業時、1/3の部屋が、レジデンシャルとされ、各界の著名人が住んでいたことでも知られます。フーバー大統領、アイゼンハワー大統領、マッカーサー将軍はじめ、各国の王室や大富豪、そしてフランク・シナトラやマリリン・モンローといった映画スターも住んでいました。また、NYマフィアの有名な首領も何人か住んでいます。いくつかあるレストランやバーも有名です。世界中から取り寄せられた豪華な食材が並び、レシピ本も多数出版されています。ゴッドファーザーなど映画のロケ地としても有名でした。エディ・マーフィの1988年のヒット作「星の王子ニューヨークへ行く(ひどい邦題です。原題は”Coming to America”です)」のロケが行われているとき、知らずにカメラの前を横切り、クルーに文句を言われました。映っていないかな、と楽しみにしていましたが、さすがにカットされていました。

産業革命による植民地競争が行きついた先が、2度に渡る世界大戦だったわけですが、戦場となった欧州を尻目に、アメリカは世界最強国になります。20世紀はアメリカの時代とも言われますが、ウォルドルフ・アストリアは、まさにその象徴だったわけです。2014年、中国に買収されたことは、アメリカの一強時代が終わったことを象徴しているとも言えます。1989年、三菱地所がロックフェラー・センターを買収した時には、NYに衝撃が走りました。アメリカは、魂を売ったとまで言われました。これが、いわゆる終わりの始まりだったのでしょう。(写真出典:en.wikipedia.org)

2022年3月5日土曜日

「シラノ」

監督:ジョー・ライト   原題: Cyrano  2021年イギリス・アメリカ

☆☆☆+

19世紀末に、エドモン・ロスタンが書いた傑作戯曲「シラノ・ド・ベルジュラック」を、2018年、エリカ・シュミットがミュージカルの舞台に仕立て、大ヒットさせます。本作は、そのエリカ・シュミットが脚本を書き、舞台でも演じたピーター・ディンクレイジとヘイリー・ベネットをそのまま主演させ、才能豊かなジョー・ライトが監督しました。脚本の良さ、そつのない演出、主演の二人の名演もあり、なかなかよく出来たミュージカルになっています。

ロスタンのシラノ・ド・ベルジュラックは、大きな鼻を恥じて、恋の告白ができません。シュミットのシラノは、小人症という設定であり、「ゲーム・オブ・スローンズ」のピーター・ディンクレイジが演じました。大ヒットTVシリーズ「ゲーム・オブ・スローンズ」のなかで、ティリオン・ラニスターを演じたディンクレイジは、エミー賞を4度も受賞するなど、その演技は大絶賛されました。2011~2019年に放送されたゲーム・オブ・スローンズは、極めて中毒性の高いシリーズで、次のシーズンを待つ6~8ヶ月間は地獄のようでした。なかでも、ディンクレイジ演じるティリオン・ラニスターは、助演ながら主役達を食うほど大人気でした。実に魅力的な俳優です。本作の魅力の一つは、明らかにディンクレイジを見れることだと思います。

ヘイリー・ベネットは、うまいキャスティングだと思います。俳優としてはB級映画中心の出演ですが、歌手としても活躍しています。ゴージャスな美人ではなく、どこか子供っぽさと田舎くささを残しているところが、映画にちょうどいいバランスを生んでいます。なかなかいい味を出していると思います。そう思うのは、「ヒルベリー・エレジー」のお姉ちゃん役だったからかも知れません。デスナー兄弟による音楽も上出来です。兄のブライスは映画音楽も手がける作曲家、弟のアーロンは、オルタナティブ・ロックの才人ですが、テイラー・スウィフトとのコラボ等でグラミー賞を2度受賞しています。クラシックな楽調から、モダンなテイストまで、多才なスコアを提供していますが、滑らかなメロディが心地良く感じました。

シラノ・ド・ベルジュラックは、17世紀に実在した人物です。作家、詩人、哲学者にして、剣の名手でもあったという人です。100人を相手に戦い、2人を殺害、7人を負傷させたという話が有名であり、映画のなかでも、ちょっとだけいじっています。作家としては、「月世界旅行記」と「太陽世界旅行記」が、SF小説の嚆矢としても知られます。もちろん、鼻が大きかったという記録はないようです。ロスタンは、剣と文章の達人だったシラノ・ド・ベルジュラックを、うまく使って不思議で魅力的な恋の物語を仕立て、今日まで上演され続ける定番戯曲を書いたわけです。天才的とも言えますが、残念ながら、シラノ・ド・ベルジュラック以外の作品は、評価されることも、ヒットすることもなかったようです。

まったくの余談になりますが、シラノ・ド・ベルジュラックの「月世界旅行記」は、1657年に出版されています。3段ロケット、月が球体であること、月にも引力があること等が書き込まれ、4本足で歩く知的生物体や彼らが持つ機械仕掛けのしゃべる本が登場するそうです。ジュール・ベルヌに先立つ200年前のことです。剣や韻文詩ではなく、彼のSFに関する先進的な想像力を題材に、映画「シラノ・ド・ベルジュラックSF版」が撮れそうな気もします。(写真出典:screenonline.jp)

2022年3月4日金曜日

カーニバル

ヴェネツィア・カーニバル
キリスト教における四旬節とは、”灰の水曜日”から復活祭(イースター)までの40日間を指し、復活祭の準備期間とされます。キリストが荒野で40日間断食したことにちなんでおり、かつては、実際に断食も行われたようです。現代では、慎ましやかな食事を取る期間とされています。ただ、灰の水曜日と復活祭前の聖金曜日には日に一回の食事、期間中の毎週金曜には肉を食べないなど、断食を思い起こさせる習慣も残ります。その四旬節の直前に行われるのが、謝肉祭、いわゆるカーニバルです。

カーニバルは、宗教上の教義に基づく行事ではありません。ゲルマンの春の到来を祝う祭りと四旬節が結びついて生まれたとされます。断食の前に、たらふく飲み食いしておこうということだったようです。カーニバルの語源は、ラテン語の”肉を取り除く”という言葉だと聞きます。断食を意味するのではなく、断食の前に、今ある肉を食べ尽くすということなのでしょう。聖書に記載のない民間行事ですから、お祭りの内容も、期間も、各地で実に様々です。ただ、カーニバルの終わりだけは、世界共通であり、灰の水曜日の前日となります。世界三大カーニバルと言われるのが、リオ・デ・ジャネイロ、ヴェネツィア、トリニダード・トバゴのカーニバルです。

トリニダード・トバゴのカーニバルは、首都ポート・オブ・スペインで行われ、トリニダード・トバゴ発祥の音楽”ソカ”の早いリズムで踊ります。映像で見る限り、派手な衣装やグループでのコンテストなど、リオのカーニバルによく似ていますが、リオのエスコーラほど統制はとれていなく、より自由で、より他民族的な印象です。ソカは、1960年代に、ソウルとカリプソの組み合わて誕生したいわれますが、とにかくテンポが早いことが特徴です。また、トリニダード・トバゴで生まれ、カリプソを象徴する楽器となったスティールパンが多用されます。スティールパンは、ドラム缶を切って作られますが、独特な甘い音色が魅力的です。カーニバルの時期に合わせて、世界最大のスティールパンのコンテスト”パノラマ”も開催されます。

ヴェネツィアのカーニバルの始まりは12世紀までさかのぼります。最も有名なマスクと仮装は、身分の違いを超えて、人々が交流し、楽しむためのものと言われます。ただ、後にマスクは、娼館へ通う際や秘密の逢瀬でも用いられるようになり、一時期は、カーニバル以外での着用が禁じられたこともあったようです。千年の都ヴェネツィアのカーニバルは賑やかなものだったようですが、ナポレオンやオーストリア帝国支配下では抑圧され、下火になっていきます。ヴェネツィアにカーニバルが復活したのは、1979年のことでした。ただ、庶民の祭りというよりは観光的な色合いが濃くなっていることは否めません。とは言え、かつて開催されていた”メアリーの饗宴”と呼ばれる美人コンテストも復活され、あるいはマスクと衣装のコンテストなども開催されるなど、派手に行われているようです。

リオのカーニバルについては、何の説明も必要ないでしょう。世界最大のカーニバルであり、サンバの祭典です。エスコーラ・ジ・サンバと呼ばれるサンバ・グループが競うパレードが最も有名です。他に街頭で市民によって行われるカーニバル・パレードもありますが、今年もコロナ感染予防として中止されました。ただ、コンテストは、4月に延期して実施されるようです。個々のエスコーラには、数千人が所属し、1年をかけてパレードの準備をしています。メイン会場でパレードするエスコーラは12団体ですが、これがいわば一部リーグにあたります。その下にも多くのエスコーラがあり、コンテストは入れ替え戦でもあります。従って、当局への開催圧力は相当に強いものがあるはずです。また、カーニバルによる観光収入は、リオにとって重要な財源であることも間違いありません。(写真出典:cafetalk.com)

2022年3月3日木曜日

長崎ちゃんぽん

四海楼のちゃんぽん
江戸時代から続く長崎随一の料亭「花月」へ、家族で卓袱料理を食べに行ったことがあります。卓袱(しっぽく)とは、テーブルとクロスを意味する中国語であり、発音はヴェトナム方言とも言われます。江戸中期に、中華料理、オランダ料理、日本料理が合体して生まれた料理です。お膳文化の日本では、テーブルで供される料理自体が珍しく、卓袱料理と呼ばれたようです。花月は、卓袱料理と共に、見事な庭園、築200年を超える建屋、そして酔った坂本龍馬が柱に付けたという刀傷で有名です。花月のある丸山界隈は、江戸期、京都の島原、江戸の吉原、大阪の新町と並ぶ花街でした。なかでも衣装の豪華さは日本一だったようです。出島、唐人屋敷を抱える貿易港の経済力を物語っているのでしょう。

卓袱料理は、とても美味しいと思います。様々な料理が出されますが、やさしい味付けが全体の統一性を保っています。その味付けは、福建料理に通じるものがあるように思いました。長崎と福建華僑の関係は濃いものがあります。平戸生まれの鄭成功も、実家は福建でした。さらに、長崎名物ちゃんぽんも、福建料理がベースと言われます。ちゃんぽんは、明治中期、福建省出身の「四海楼」初代店主が、中国人留学生に、安くて栄養価の高い食べ物を提供したいと思い、考案したと言われます。野菜、かまぼこ、豚肉等を炒め、豚骨ベース等のスープと独特なかん水で作った麺を入れます。混ぜるという意味の中国語「攙(チャン)」と炒めて調味料を加える「「烹(パァン)」から生まれた言葉だとされます。沖縄のチャンプルーも同じ語源です。

多くの食材から取ったスープは、間違いなく美味しくなります。ちゃんぽんのベースとなるスープは、豚骨、鶏ガラ、海鮮等、様々ですが、具材の多さは共通です。野菜のグルタミン酸、豚肉と魚介のイノシン酸が混ざり合い、深いコクが出ます。元祖四海楼のちゃんぽんは、 白濁したとんこつスープがベースです。臭みなどなく、バランス良く、まさに王者の風格です。中華街の人気店”江山楼”も、王道の味です。いずれも長崎を代表するに相応しい上品な仕上がりですが、一方、庶民派として挙げたいのは”思案橋ラーメン”です。タクシーの運転手さんに教えてもらった昭和の香り濃い店です。あっさりしているのに深いコクのスープは、まるですっぴんのちゃんぽんの姿を見た思いでした。

美味しくて、 栄養価の高いちゃんぽんは、 九州各地へ広がり、 各地の素材を活かしたご当地ちゃんぽんになっていきます。小浜、水俣、天草、戸畑などが有名です。印象に残っているのは、八代の”みやべ食堂”です。人気だからと連れて行かれたその店は、かなり郊外にあるにもかかわらず、行列ができていました。鶏ガラスープに、野菜のうま味が半端なく、甘みすら感じるほどでした。九州以外にも、ご当地ちゃんぽんは存在しますが、滋賀県の彦根のものも有名です。一時期、銀座インズに”ちゃんぽん亭総本家”が近江から出店していました。ただ、これは相当に甘くて、私の好みではありませんでした。豚骨ラーメン発祥の店は久留米の”南京千両”とされますが、長崎ちゃんぽんがそのルーツと言われます。ちなみに、久留米の豚骨ラーメンは、あっさりとしていてコクのある”沖食堂”が美味しいですね。ここだけは、どんぶりをあおってしまいます。

長崎ちゃんぽんの名を全国に知らしめたのは、”リンガーハット”だと言われます。1974年に1号店がオープンしています。ややさらっとした味ですが、結構好きです。一度、長崎で衝撃の光景を見ました。リンガーハットに、軽く行列が出来ていたのです。画一化された味の全国チェーン店に、本場長崎の人たちが行列することなど、まったく考えられません。もっと美味しい店が山ほどあるじゃないですか。聞けば、リンガーハットの味は、長崎の人たちも認める味なのだそうです。ところが、タクシーの運転手さんに言わせると、なんといっても値段の安さが大人気の理由なのだそうです。やや微妙な感じの話ですが、実は、ちゃんぽんのルーツに根ざしているとも言えます。(写真出典:allabout.co.jp)

2022年3月2日水曜日

シンデレラ

「源氏物語」は、世界最古の小説、あるいは世界最古の長編小説と言われますが、どうも腑に落ちないところがあります。 小説は、神話や伝説とは明らかに異なり、作者が創造した散文形式の物語と理解できます。だとすれば、”源氏”以前にも、ギリシャ、ローマ、中国にも散文の物語はあるでしょうし、長編に限れば、ペトロニウスの「サテュリコン」等があります。日本では、”源氏”以前に「竹取物語」があり、「宇津保物語」や「落窪物語」は小説と呼べるのではないかとも思います。単にストーリーを語るだけではなく、心象を叙述していることが小説の条件なのかも知れません。そういった観点からすれば、”源氏”は最古なのかも知れませんが、小説か否かの判断は、なかなか難しいものになります。

「落窪物語」は、”源氏”に先だつ985~995年、三十六歌仙の一人である源順によって書かれたとされます。ただ、これには異説もあり、判然としません。生母と死別した中納言源忠頼の娘は、継母のもとで暮らしています。継母から虐待された姫は、床が落ち窪んだ家の隅の小部屋に住まわされ、落窪の姫と呼ばれています。侍女阿漕(あこぎ)の手引きで姫と会った右近の少将道頼は、姫と恋に落ちます。それを知った継母は、姫を納戸に幽閉し、老人と結婚させようとします。道頼は、阿漕らの助けを得て、姫を救出し、二人は結ばれます。道頼は継母に復讐を果たし、そのうえで、継母も含めた中納言一家を庇護します。これが、「落窪物語」の大雑把なあらすじとなります。

世界中のおとぎ話に共通する定番「継母」ものです。最も有名な継母ものと言えば、シンデレラということになります。文献上のシンデレラ系の初出は、紀元前1世紀、ギリシャのストラボンが採録したロードピスの話とされています。継母、靴、王様という主要要素は完全に一致します。しかし、あくまでも文献上の話であって、もしかすると中央アジアから世界各地に伝播した物語かもしれません。中国では、9世紀、、段成式が古典集「酉陽雑俎」に採録した「葉限」があります。設定は異なりますが、継母、靴、王様というパターンは同じです。靴は登場しないものの、落窪物語も、明らかにシンデレラ系と言えます。19世紀に、民俗学者達が、調査したところ、世界中に345種のシンデレラ系が確認されたと言います。これらは、すべて一つの話が伝播したものか、あるいは同時発生的だったのか、判然としません。

ただ、少なくとも、継母によるいじめの話は、世界中で共感され、受容されてきたわけです。近世では、シャルル・ペローの「サンドリヨン」、グリム兄弟の「灰かぶり姫」、そしてウォルト・ディズニーの「シンデレラ」が世界の定番となりました。かつて、医療が不十分だった頃、出産は命がけであり、産褥熱で亡くなる母親が多かったと聞きます。継母も、継母によるいじめもごくありふれたことだったのでしょう。さらに、子供達は、親に厳しく叱られると、自分はこの家の子供じゃないのかも、母親も実は継母かも、と思うものです。いつか見返してやるという思いをもったまま大人になる人も多かったのでしょう。それは、世界中、どこでも同じ状況であり、シンデレラは、広く受け入れられることになったわけです。ちなみに、グリム兄弟の「灰かぶり姫」は、当初、継母ではなく、実母のいじめとして出版され、世間の批判の受けて、継母に書き換えられたそうです。

日本には、もう一つ有名なシンデレラ系の話があります。「御伽草子」に収められている寝屋川の「鉢かづき姫」です。お伽草子は、主に室町時代の民間伝承を集めたものですが、18世紀には、23編を収録した「御伽草子」が出版されます。「鉢かづき」は、長者夫婦が、長谷観音にお願いして娘が生まれる。母親が亡くなる際、観音様のお告げによって、娘にお鉢を被せる。お鉢は取れなくなる。継母に虐待され、家を出された娘は、宰相に見初められるが、宰相の母に反対される。宰相の母は、嫁比べをさせる。ところが嫁比べの前日、お鉢は外れ、娘の見目麗しい姿と秀でた知識・才能が現れ、娘は嫁比べに勝ち、宰相と結ばれる。落窪物語にも、鉢かづき姫にも、靴は登場しません。日本は、わらじの文化だからということなのでしょうか。(写真出典:disney.fandom.com)

2022年3月1日火曜日

梁盤秘抄#22 Learning to Crawl

アルバム名:Learning to Crawl(1984)                                                                       アーティスト:プリテンダーズ

30歳のおり、セールス・マネジャー職に就きました。営業成績が評価のほぼ全てであり、それ次第では今後の会社生活も左右されるという仕事でした。当時、日本の企業文化は、高度成長期の成功体験を色濃く引きずっており、精神論と長時間労働が信仰されていました。業績が悪いと人格を否定されるほど厳しい叱責を受け、退社時刻が遅いほど褒められました。そんな時代遅れのセールス文化を、マーケティング主導に変えていくことが、我々の使命だとは思っていました。とは言え、まずは業績を上げて、認められないことには、若造の戯言などに耳を貸す人などいるはずもありません。結局、プレッシャーのなかで、長時間労働の日々を続けました。

その頃、通勤も仕事も車を使っていましたが、カーステレオで聴く音楽だけが救いでした。そもそも”自分は束縛されていない”と思えることに喜びを感じるタイプなので、長時間の激務は地獄のようでした。音楽は、わずかな時間とは言え、自由を感じさせてくれました。車の中で最もよく聴いていたのは、パキスタンで買った民族系歌謡曲のテープ、そしてプリテンダーズでした。パキスタン音楽は、趣味の世界に浸ることで、現実から逃避できます。プリテンダーズに関しては、理由はよく分かりませんが、とにかくよく聞きました。長時間労働の日々が、ヒット曲「Back on the Chain Gang」に重なったからかもしれませんが、恐らく、ストレートなロックが、多少は自由を感じさせ、クリッシー・ハインドの声に癒やされたからなのでしょう。

プリテンダーズは、1978年、オハイオ州アクロン出身のクリッシー・ハインドが、ロンドンで結成したバンドです。クリッシーは、大学卒業後、ロンドンに渡り、アパレル・ショップや音楽雑誌社で働き、デビューしたのは20代後半と遅咲きでした。バンド名は、クリッシーの元彼が好きだったプラターズのヒット曲”The Great Pretender”(1955)からとったといわれます。デビュー・アルバム「Pretenders」から、いきなり "Brass in Pocket"と”Kid”がヒットします。いわゆるディスコ・ブームの最中、ストレートなロックンロール・テイスト、クリッシーの艶のあるコントラルト・ヴォイス、シンプルなギター・サウンドが、とても新鮮に響いたのでしょう。モータウンやカントリーの影響を感じさせるクリッシーの曲と声が、ロンドンのロック・スピリットと出会って生まれたサウンドだと思います。

突っ張った曲であっても、どこか哀愁を帯びているのがクリッシーの書く曲の特徴でもあります。それがよく出たアルバムが、3作目となる「Learning to Crawl」です。名曲揃いだと思いますが、最もヒットした曲は”Back on the Chain Gang”であり、プリテンダーズを代表する曲ともなりました。他にも、ロック・スピリット溢れる”Middle of the Road”、パースエイダーズのカバー”Thin Line Between Love and Hate”、故郷の変わりようを歌った”My City Was Gone”、そして、前年、オーバードーズで急死したギターのジェイムス・ハニーマン・スコットに捧げた”2000Miles”は、クリスマス・ソングの定番にもなりました。私のお気に入りは、プリテンダーズ・テイストとは多少異なる”Show Me”でした。やや哲学的な歌詞ですが、滑らかなメロディは、聴いていて気分が良くなります。ちなみに、86年にヒットした” Don't Get Me Wrong”も好きな曲です。

話は、セールス・マネジャーに戻りますが、幸いなことに業績は順調で、これはいい仕事だと思えるようになりました。業績さえ上がっていれば、何でも許される、と思ったからです。ただ、プライベートな時間が持てないほどの忙しさは変わりませんでした。2年間、セールス・マネジャーを務めた後、NYへ転勤となりました。結局、2年間、プリテンダーズを聴きまくったわけです。フィールドでの経験は、NYでの仕事はじめ、その後の会社生活に大きなプラス効果を与えてくれたと思っています。ただ、マーケティング主導の営業体制への転換に着手できたのは、10年後のことでした。(写真出典:amazon.co.jp)

夜行バス