2022年3月15日火曜日

「白い牛のバラッド」

監督:マリヤム・モガッダム ベタシュ・サナイハ  2020年イラン・フランス

☆☆☆

(ネタバレ注意)

ギリシャ悲劇を思わせる構造的な作品です。人間が作り出した制度、宗教、社会に対して、個人が持つ感情の動きを対比させてドラマが構成されています。ただ、結末に向かうまでのドラマの積み上げ方が、やや甘いように思います。ラスト・シーンの緊張感は見事な演出と演技だったと思いますが、映画全体としては、それが十分に活かされなかったように思います。いずれにしても、イラン映画には、ペルシャ以来続く文芸に関する伝統の厚みや深さを感じさせられます。ギリシャ悲劇は、西洋文芸の根源と言われますが、2500年前、ギリシャと激しく戦ったペルシャもまた文芸大国でした。

夫を冤罪による死刑で失った女性、死刑判決を下してしまった判事、二人は救いを求めますが、国家、宗教、世間、家族といったしがらみが絡んできます。夫の死を悼み、懸命に子供を育てようとする女性に対して、困窮する生活、子供の教育、子供を奪おうとする夫の家族など、世間は冷たいものでした。それでも健気に戦う女性でしたが、夫の冤罪が判明すると、彼女の怒りは無実の夫を死刑にした国家制度へと向かいます。しかし、国家は、制度を盾に謝罪を拒み、宗教も世間も従順を求めます。彼女の哀しみと怒りは出口を失います。そこに現われたのが、”夫の友人”こと判事でした。

制度的にはやむを得ない判決であっても、間違いを起こしたことに悩む判事の姿は、人間的です。職を辞し、女性への援助を行いますが、体制を守るために、国家はそれを許しません。判事のたった一人の家族である息子は、父と距離を置くために軍に入隊し、麻薬の過剰摂取で死にます。判事への報いともとれます。自分を失った判事を救ったのは、夫を失った女性でした。ギリシャ悲劇であれば、ここからがドロドロとした展開になっていくところですが、判事が身分を明かしていないことから、ドラマは淡々と進みます。自分が何者であるかを明かさなかった理由を、判事は「勇気がなかった」とだけ言っています。ここがこの脚本、ないしは原案の弱点だと思います。

「勇気がなかった」というのであれば、そこを掘り下げなければ、組織と個人というテーマは訴求できないと思います。さらに、女性が判事の正体を知るくだりにもドラマ性が足りません。結果、正体を偽り、弱った女性の心と体につけ込んだ男が、女性の怒りに触れて殺されるというメロドラマのようになってしまい、国家制度に翻弄された男女の悲劇というには、深掘りが足りないように思います。ユニークなフレームだけに、実に残念な仕上がりです。女性の耳の聞こえない娘の存在は、やや図式的ですが面白いと思いました。娘は、耳が聞こえないことで、世間と切り離され、ある意味、純粋に人間的な存在となり、夫を失った女性の心情を具現しています。娘が映画好きで、名前も映画から付けられていることから、娘はイラン映画界、あるいはイランの人々の置かれた現状の象徴にもなっています。

白い牛とは、クラーンに記述される生け贄であり、刑務所の中庭の白い牛という映像が、イランという国の現状を象徴しているのでしょう。女性がミルク工場勤務であり、何度も製造ラインが映し出されるのも、生け贄のメタファーなのでしょう。ちなみに、本作は、イラン本国の映画祭で公開された後、上映禁止処分を受けています。カメラは、わずかにパンとズームを行うだけで、ほとんど固定され、映像はカット割りだけで構成されています。説明的な音楽もほとんど使われていません。その分、自然音が丁寧に拾われています。主演のマリヤム・モガッダムは、夫と共に監督・脚本も担当しています。イラン映画の伝統を継承するなかなかの才能だと思います。(写真出典:joqr.co.jp)

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