2022年3月14日月曜日

出石そば

東北出身にも関わらず、盛岡のわんこそばを一度も食べたことがありません。わんこそばの老舗である”東屋本店”には、何度も行ったことがあります。蕎麦も美味しいのですが、カツ丼も絶品です。ただ、いつも仕事の合間に行くので、わんこそばに挑戦したことはありません。蕎麦は蕎麦ですが、多少、味の感じ方も違いそうな気がするので、一度、やってみたいところです。ただ、あくまでもお祭りの余興のようなものであり、平生の蕎麦の食べ方とは言えません。わんこそばは、南部藩主が、蕎麦を食べてみたいと所望するので、気を使って朱塗りの腕に、ごく少量を出ししたところ、いたく気に入り、何杯もおかわりしたことから生まれたと聞きます。

似たような食べ方に、出雲の割子そばがあります。こちらは、お椀ではなく、お銚子の袴のような、丸い平底の塗り物に小分けした蕎麦を盛って出されます。割子とは、松江の言葉で重箱のことだったようです。風流人が多い松江で、外で蕎麦を食べる際に使われたようです。ただ、洗いにくく不衛生だということで、明治期、円形になったようです。出雲そばは3段重ねで一人前となります。かつて、神保町には割子蕎麦を出す”出雲そば本家”があり、10枚くらい食べると、店に名前が張り出され、さらに多く食べると割引券などがもらえました。美味しい蕎麦でしたが、さすがに7~8杯くらいが限界でした。わんこそばも割子そばも、蕎麦のうえに少量の麺つゆをかけて食べます。ところが、兵庫県出石のそばは、割子タイプですが、やや異なった食べ方をします。

出石は、但馬の小京都と呼ばれます。江戸中期、信濃国から国替えになった殿様が、蕎麦打ち職人を連れてきたことから、出石そばは生まれたようです。うどん文化圏にあっては、極めて希な存在です。出石そばの特徴は”三たて”といって、挽きたて・打ちたて・茹がきたてが自慢です。出石焼の白磁の小皿に盛って出されるので、出石皿そばとも呼ばれます。皿そばのスタイルは、幕末の頃、屋台のそば屋が扱いやすかったことから始まったとされます。もともとは、出雲そばと同じく、蕎麦にそばつゆをかけて食べていたようですが、昭和30年頃から、蕎麦ちょこで受けて食べるスタイルに変わったようです。なぜそのように変えたかは不明ですが、薬味に、鶏卵やとろろを出すところをみると、薬味の扱いやすさから蕎麦ちょこになったのではないかと思われます。

出石で一番人気という”近又”という店で食べてみたのですが、三たてというわりには、蕎麦の風味が薄いように思いました。恐らくつなぎが多いのでしょう。ただ、蕎麦としては、まずまずだと思いました。ただ、問題は、皿そばというスタイルです。一皿には、2~3口程度の蕎麦が乗っています。一人前は5皿ですが、何枚でも追加できます。つるつるとした磁器の皿に少量の蕎麦というのは、掴みにくいものがあります。江戸っ子なら、「しゃらくえせぇ!」とちゃぶ台を返しそうな気がします。また、薬味のとろろも鶏卵も、いかがなものかとと思います。いずれも多すぎて、つゆの風味が消されます。そこで、鶏卵は、最後の一皿で試したのですが、卵の味しかせず、かつその後のそば湯まで卵の味しかしませんでした。蕎麦には、せいぜいうずらの卵だと思います。出石そばの鶏卵は、うどん文化の影響なのだろうと思いました。

出石藩は、もともと秀吉方だった小出家が、関ヶ原の戦いで徳川について本領安堵された6万石の小藩です。絹織物や磁器で稼ぐ一方、水害や大火で苦労し、果てはお家騒動で3万石まで落とされています。小藩が生き抜くのは並大抵のことではなかったはずです。出石そばも、名産の磁器を使ったり、あるいは、つなぎを多くしたり、薬味に鶏卵を使うなど、うどん文化に妥協しながら生き抜いてきたと言えるのでしょう。ちなみに出石名物「辰鼓楼」は、日本最古の時計台とも言われます。ただ、誠に残念ながら、辰鼓楼が稼働するひと月ほど前に、札幌の時計台が動き始めており、正確には、日本で二番目に古い時計台となりました。残念。(写真出典:jaran.net)

マクア渓谷