2023年5月30日火曜日

山羊の刺身

牧志 さかえ
沖縄で開催された業界の大きな会合に参加したときのことです。若い人たちも、何人か手伝いに来ていました。彼らを慰労するために、沖縄おでんの店に行きました。大皿で出されたおでんには、豚足やテビチも入っていました。沖縄では、豚足はできるだけ姿のまま出すのが良いとされます。一人が、思わず「理科の実験室みたいだな」と言っていました。名言です。壁に「山羊の刺身あります」という張り紙がありました。沖縄では山羊をよく食べます。代表的な料理の山羊汁は、滋養強壮に良いとされるごちそうです。さらにお祝いごとがあると、山羊をつぶして、刺身で食べるとも聞いていました。これは、滅多にないチャンスと思い、注文しました。ところが、どうにも獣臭さと嫌な脂がしんどくて、1切れが限度でした。

それからしばらくの間、食事の好き嫌いを聞かれると「何でも食べます。ただし山羊の刺身以外は」と答えていました。もちろんウケねらいです。年長の知人から食事に誘われ、好き嫌いを聞かれたので、いつもの通り答えました。しばらく、その方から連絡がなく、どうしたのかなと思っていたところ、メールが届きました。「山羊の刺身を出す店を探したけど、どうも東京には存在しないようだ。和食で勘弁しろ」とのことでした。わざわざ嫌いだと言ったのが、逆にとられたようです。その後、沖縄に行った際、沖縄の人たちに、山羊の刺身だけは苦手だと言ったところ、お前が食べたのはいい加減な代物だ、専門店の山羊の刺身はうまいから食べてみろ、と言われました。また、名護の浜辺でさばいた山羊が一番良いとも言われました。

さすがに、それは無理なので、那覇の国際通り裏の牧志にある山羊(ヒージャー)専門店「さかえ」へ行ってみました。名物女将も含めて大人気の店で予約は必須。早い時間帯でしたが、超満員状態でした。もちろんお目当ての刺身をいただきました。綺麗なピンク色の刺身は、何のクセもなく、美味しく頂けました。また、名物だという睾丸の刺身もコリコリしたところがあるものの、まったくクセがありませんでした。要は、ヒージャーの刺身は、新鮮であること、適切な下処理を施してあることが大事だということなのでしょう。滋養強壮という点に関してはよく分かりませんが、その希少性や手間暇を考えれば、ヒージャーの刺身が、沖縄のフェスティバル・フードであることは十分に理解できます。

沖縄と言えば、豚肉の文化が有名です。ラフテーやソーキは、沖縄を代表する食文化です。実は、豚肉も、かつてはフェスティバル・フードであり、主に正月やお盆といった大きな祭事の際に振る舞われていたと言います。対して、山羊料理は、棟上式、親戚や地域の集まりなど、比較的規模の小さなイベントで食されていたようです。個体の大きさを考えれば理解できる話です。また、冷蔵技術の無かった時代を考えれば、さばいた豚も山羊も家庭料理というよりは大人数で一度に食べるしかなかったのでしょう。これがフェスティバル・フードが成立した背景だと思います。ちなみに、山羊は、犬に次いで2番目に古い家畜と言われますが、沖縄の山羊は、15世紀以降、中国や朝鮮半島から持ち込まれたものとされます。

沖縄に豚を持ち込んだのは、久米三十六姓だと言われます。久米三十六姓とは、14世紀末、明の洪武帝が琉球王国に下賜したとされる福建省の職人集団です。久米とは、彼らが住んだ那覇の地名に由来します。現在の久米には、那覇と福州との友好都市締結を記念する福州園もあります。近年の研究では、洪武帝下賜という話は後代の箔付け話であり、実態は、貿易目的で琉球に移り住んだ福建商人だったようです。恐らく山羊も福建商人が琉球に持ち込んだものなのでしょう。沖縄県民の外見的特徴は、縄文系の濃い顔立ちと言われますが、色白ですっきりとした顔立ちの人たちも多くいます。その人たちは、福建商人の血を今に引き継いでいるのかも知れません。本土、中国、南洋との交流のなかで形成された琉球の歴史を体現しているわけです。(写真出典:tabelog.com)

2023年5月29日月曜日

狼の墓

歴史上、最大の領土を誇った国は、全盛期の大英帝国だったとされます。世界の陸地と人口の1/4が大英帝国傘下にあったとされます。カナダ、オーストラリア、インド、アフリカ諸国等を支配していたことを考えれば納得できます。大英帝国に次ぐ第2位は、モンゴル帝国となります。西は東ヨーロッパ、東は朝鮮半島、南はミャンマー北部まで、全陸地の20%を領土としました。1206年、モンゴル高原の諸部族を統一したテムジンが、部族の最高会議であるクリルタイでハーンに即位し、チンギス・ハーンと名乗ります。モンゴル帝国の始まりです。チンギス・ハーンの祖先は、天からバイカル湖畔に降り立ったボルテ・チノ(蒼き狼)とその妻コアイ・マラル(青白き鹿)だとされます。

モンゴル軍の圧倒的な強さは、騎馬兵にあると言われます。当時の欧州軍と比べると違いがよく分かります。欧州軍は歩兵中心で、騎士団は貴族等一部に過ぎませんが、馬が無ければ生きていけないモンゴルでは、兵のほぼ全てが熟達の騎馬兵です。モンゴル軍の機動性の高さは歴然です。かつ、各モンゴル兵は、数頭の予備の馬を同行させることで、長距離を早く移動し、かつ戦場では勢いのある馬に騎乗できました。槍と刀剣による白兵戦を主体とする欧州軍に対して、モンゴル軍は騎射の達人が揃い、距離をとった攻撃が可能でした。戦い方の違いは、欧州軍の重い金属の甲冑、モンゴル軍の軽い革製の甲冑にも現れています。ただ、騎馬兵は中国や欧州の軍には脅威でしたが、同じ遊牧民に対する優位性はありません。

モンゴル軍の、今一つの強さは、組織力と統制力だとされます。当時の戦争では、大きな方針は共有されても、戦場における戦い方は隊長である諸侯に任されます。モンゴル軍は、千人隊長、百人隊長、十人隊長と組織が階層化され、本陣からの指示が速やかに伝達されたと言います。ポーランドで欧州連合軍が完敗した”レグニツァの戦い”では、モンゴル軽装騎兵が前線を騎射で蹴散らした後、一旦、偽装退却します。これを追った欧州軍の騎士団は、左右から騎兵攻撃を受け、全滅。さらに、その後方には煙幕が焚かれ、分断された歩兵はモンゴルの重装騎兵に突入されます。このように巧妙な戦術を可能にしていたのが、モンゴル軍の組織統制力だったわけです。

ちなみに、レグニツァの戦いを征したモンゴル軍は、数日のうちに、トランシルヴァニア、ハンガリーの各軍を撃破し、ウィーンに迫ります。ところが、突如、モンゴル軍は進軍を止め、撤退を開始します。第2代ハーンのオゴデイの死が伝えられ、モンゴル軍は葬儀に参列するために帰国の途に就いたのでした。モンゴル軍の統制力の高さを表わす出来事でもあります。ナポレオンは、良い兵士とは速く走れる兵士だ、と言っています。モンゴル軍の統制力と機動力は、近代戦に通じるところもあるのでしょう。それにしても、モンゴル軍の突然の撤退は、モンゴルにとっての戦争目的は何だったのか、という疑問にもつながります。また、欧州の深い森が、モンゴル軍の優位性を失わせたという説もあるようです。

チンギス・ハーンの墓は、いまだに判明していません。埋葬に関わった兵や葬列を目にした民衆は全員殺された、あるいは埋葬場所は千頭の馬で踏み固めて痕跡を消したとも言われます。現在、有力候補地は2つあるようです。チンギス・ハーンの末裔とされる高齢女性が、一族で守ってきた秘密を明かし、陵墓は四川省カンゼ・チベット族自治州にあると発言しています。また、各国による科学的探索によって、モンゴルのヘンティー山脈にあるブルカン・カルドゥンが陵墓であるとの見方が有力視されているようです。ただ、いずれも発掘調査は行われていません。モンゴル人の地面を掘り返すことを嫌う傾向、あるいは民族の英雄の墓を曝くことへの強い拒否反応に配慮しているとされます。蒼き狼は、死してなお強い影響力を持っているわけです。(写真出典:sekainorekisi.com)

2023年5月26日金曜日

「夢の涯てまでも(ディレクターズカット)」

 監督:ヴィム・ヴェンダース    原題:Until the End of the World         1991年(ディレクターズカット2019年)独・米・日・仏・豪

☆☆☆☆

(ネタバレ注意)

評価の良し悪しとは別に、好きな映画というのがあるものです。本作も、そういう映画の一つです。ロード・ムービーを得意とするヴィム・ヴェンダースの集大成と言うだけあって、実に多くの国を巡るSF映画です。ヴェンダースと言えば、詩的で哲学的なファンタジー「ベルリン・天使の詩」が一番に思い出されます。実は、「夢の涯てまでも」の撮影開始が遅れることになり、急遽、撮影されたのが”天使の詩”でした。”天使の詩”で映画デビューしたフランスの女優ソルヴェーグ・ドマルタンは、”夢の涯てまでも”でも主演し、ヴェンダースとともに脚本を書いています。不思議な存在感を持つ女優であり、才能豊かな人だったようですが、2007年、45歳で亡くなっています。

映画は、実態的に2部構成となっています。世界を股にかけた謎多き追いかけっこが第1部、オーストラリア・ノーザン・テリトリーのコミューンで展開されるSFが第2部です。制御不能に陥った核衛星に起因する人類滅亡の危機が、全体を覆っています。ヴェンダースが、この映画の着想を得たのは、1977年にノーザン・テリトリーを訪れた際だったようです。重層的に展開される追いかけっこも、ノーザン・テリトリーでのアボリジニとのコミューンも、あるいはマッド・サイエンティスト的シチュエーションも、決して新しいアイデアではありません。楽しげに演技する多彩なキャストも、いつもながら冴えた演出も魅力ではありますが、この映画の最大の魅力は、なんといっても映像と音楽だと思います。

映画は、作家による回想録というセンチメンタルでロマンティックなフレームのなかで展開されます。懐かしさすら感じさせるコミカルな味付けとともに、押しつけがましくない連帯感、皆が持つ曖昧な希望が表現されています。ヴェンダースらしいシャープでスタイリッシュな映像は、どの場面を切り取ってもスティールに出来そうなくらい見事です。そのシャープな映像が暖かみを感じさせるところが、この映画の魅力なのだと思います。ロード・ムービー、SF、やたら長い映画といったところに目がいきがちですが、ゆったりとした心地良いやさしさこそ、この映画の身上だと思います。アメリカで初公開された時の上映時間は約2時間、今回のディレクターズカットは約5時間です。その長さは、十分以上に意味があると思います。

音楽的には、劇伴はごくわずかで、様々なアーティストがこの映画のために提供した楽曲で構成されます。トーキング・ヘッズ、ルー・リード、U2、デペッシュ・モード、R.E.M.等々、映画のムードにピッタリの豪華アーティストが勢揃いしています。ヴェンダースは、映画の設定である10年後をイメージした曲作りを依頼したようです。”天使の詩”にも重要なモティーフとして登場していたニック・ケイブ&バッド・シーズの曲も含まれています。なかでも印象的だったのが、ジュリー・クルーズが歌うプレスリーの名曲”Summer kisses, Winter tears”です。ジュリー・クルーズと言えば、デヴィット・リンチ、アンジェロ・バダラメンティとのコンビが有名です。特に、一世を風靡したデヴィット・リンチのTVドラマ「ツイン・ピークス」が印象に残ります。この映画には、ピッタリの声と曲だと思います。

ノーザン・テリトリーでの脳波の映像化というSF話は、やや理屈っぽく、あるいは哲学的になりがちなテーマだと思います。映画に仕立てるには、ややそぐわない面もあり、評価が分かれるところです。ただ、おとぎ話的なアボリジニとのコミューンや、追いかけっこの参加者たちの連帯が、危うさをいい具合に中和しています。そして何よりも、ジャンヌ・モローとマンクス・フォン・シドーを起用したことが、見事にはまっています。この二人がいい味を出していなければ、結果は、随分と違っていただろうと思います。また、小津安二郎を尊敬するヴェンダースらしく、箱根でのシーンには笠智衆と三宅邦子も登場しています。当初、ショート・バージョンで公開された時には、商業的にも大失敗、評価も散々だったようです。思い入れたっぷりのヴェンダースの夢の映画は、5時間という長さを得て、初めて本当の姿を現わしたのでしょう。(写真出典:filmarks.com)

2023年5月24日水曜日

上下定分の理

林羅山
湯島聖堂は、元禄3年(1690年)、5代将軍徳川綱吉によって創建されています。上野忍岡の林羅山の私邸にあった孔子廟と家塾を移転したものです。聖堂は、度重なる江戸の大火で焼け、かつ幕府が実学重視へと舵を切ったこともあり、その後しばらくは廃れていたようです。ただ、1797年になると、幕府直轄の昌平坂学問所、いわゆる「昌平黌(しょうへいこう)」が併設されることとなり、再興されています。明治になると、政府直轄とされ、文部省、博物館、図書館、あるいは師範学校等として使われました。聖堂は、関東大震災で瓦解しますが、現在も運営を担う斯文会が中心となって、1935年に復興されます。その際、現在の大成殿、いわゆる孔子廟は、寛政期の建屋を模してコンクリートで再建されました。

平生は訪れる人もまばらな湯島聖堂ですが、受験シーズンには合格を祈願する学生たちが多くお参りするようです。孔子の霊にすがりたい気持ちは分からぬではありませんが、神仏ではないので、多少、違和感を感じます。我が家の初詣は神田明神と決めていますが、子供たちが学校に通っている間は、帰りしなに湯島聖堂にもお参りしていました。孔子、あるいは儒学の学ぶ姿勢にあやかりたいと思ってのことです。儒学には「聖人学んで至るべし」という言葉があります。ただ、孔子の言葉ではありません。12世紀に北宋の程頤、南宋の朱熹によって確立された新しい儒学、朱子学の理想を伝える言葉とされます。聖堂の元になった孔子廟を祀っていた林羅山は、日本における朱子学普及に大きな役割を果たした儒家とされます。

林羅山は、京都に生まれ、幼少の頃から神童と呼ばれるほど優秀だったようです。建仁寺で仏教を学びますが、僧にはならず、冷泉家出身の儒学者・藤原惺窩の弟子となり、朱子学を学びます。家康から出仕を求められた藤原惺窩は、自分に替わって高弟の羅山を推挙します。羅山は、家康以降の4代の将軍に仕えることになりました。将軍に儒学を講義するばかりではなく、幕府の政策立案に深く関与し、幕府の土台を築いた一人とされます。大坂の陣の直接的きっかけの一つとされる方広寺鐘銘事件において、鐘銘中の「国家安康」「君臣豊楽」の2文が、家康を呪詛し、豊臣の栄華を願うものと断じたのが林羅山でした。狡猾な言いがかりに過ぎませんが、家康と羅山の関係のあり方が如実に現れていると思います。

家康は、朱子学の世界観である”理気説”や”性即理”に心酔したわけではなく、武家や社会を統制するために”君臣父子の別”といった道徳的側面だけを利用しました。また、羅山もそのことを十分以上に心得たうえで、自らに利していたのでしょう。まさに蛇の道は蛇という関係です。羅山の”上下定分の理”は士農工商という身分制度の理論的背景となり、”存心持敬”は過度に礼儀作法・法度を重んじる風潮を生み、儒学の官学化を図るために儒学・神道以外を排斥したことは鎖国政策につながりました。羅山の思想は、幕府の安定、ひいては江戸期の安泰を生んだ面も否定できませんが、一方で官僚主義と硬直的な社会を作ったとも言えます。羅山の硬直的な朱子学は、江戸中期、様々な批判にさらされたものの、結局、260年続きました。

幕末に起こった尊皇思想は、江戸期に徹底された”君臣父子の別”に基づくと言われます。朱子学を利用した幕府が、飼い犬に手を噛まれたようなものです。260年続いた朱子学の影響は、明治維新後も、そう簡単には消えず、現在にもそのよすがを残していると言えます。興味深いことに、藤原惺窩の朱子学は、中国からの直接的伝来ではなく、文禄・慶長の役の際、李氏朝鮮からもたらされたものだったようです。李氏朝鮮は、朱子学を統治理念とし、他の宗教・学問を一切禁止し、社会の隅々にまで徹底させました。朱子学による統治は500年続き、その硬直性が近代朝鮮の苦難の要因になったと言われます。日本は260年で済んだとも言えますが、家康の換骨奪胎的な朱子学の利用が傷を浅くしたとも言えそうです。なにやら、実に日本的ないい加減さを感じさせる話でもあります。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2023年5月22日月曜日

「TAR」

監督: トッド・フィールド   原題:TÁR    2022年アメリカ

☆☆☆☆

(ネタバレ注意)

2023年のアカデミー賞で、作品賞、監督賞、主演女優賞、脚本賞などにノミネートされた作品です。トッド・フィールド監督が、ケイト・ブランシェット主演を念頭にオリジナル脚本を書き、彼女の出演が実現しなければ、制作を断念するつもりだったようです。脚本を気に入ったケイト・ブランシェットは、主演どころか、プロデュースまで引き受けています。彼女の演技は、キャリア・ベストとまで高く評価され、ヴェネツィアやゴールデン・グローブ賞等で主演女優賞を獲得しています。高名な指揮者で同性愛者のリディア・ターによるグルーミング等のハラースメント、そして、それによる没落を描いています。リディア・ターは架空の人物ですが、ボルティモア・フィルのマリン・オールソップがモデルとも言われているようです。

映画がテーマとしているのは、いわゆるキャンセル・カルチャーやハラースメント、あるいは権力が持つ危険性なのでしょう。キャンセル・カルチャーとは、言動が世間の非難にさらされ、社会的に抹殺(キャンセル)されることを指します。昔から存在したわけですが、近年は、SNSが、それを加速させています。ネットは、すべてのインターミディアリを抹殺すると思いますが、音楽界の奥の院のような守られた世界ですら、既にバリアを失っているということなのでしょう。映画の冒頭、ジュリアード音楽院のクラスで繰り広げられるハラースメントは、2014年の映画「セッション」(原題: Whiplash)を想起させます。また、グルーミングは、ハーヴェイ・ワインスタインやジャニー喜多川を思い起こさせます。

しかし、この映画の特筆すべきところは、そういったテーマそのものよりも、158分という長さにもかかわらず途切れること続く緊張感、一切押しつけがましところのないドラマ展開だと思います。それは、スロー・シネマが特徴とするテイストを持っていますが、ドラマ的なテンポをもって展開されています。その独特な表現は、監督の高い力量を感じさせます。そして、その不思議なテイストを生み出している要因の一つが、音楽というモティーフの使い方だと思われます。再現芸術としての音楽の世界は、権力を生み出しやすく、ハラースメントが起こりやすい世界だと言えます。厳密で保守的な音楽界を通して、観客は、ごく自然に権力とその弊害を認識していきます。そこには、余計な説明もドラマも必要ありません。

そうした表現方法において、最も重要になるのは、ターの演じ方ということになります。私利私欲のために権力を振るう独裁者はいません。国のため、国民のためと思い込み、独裁に走るものです。役得を求めて権力を乱用するなど小物のすることです。リディア・ターという役柄にも、音楽界の頂点に立つ揺るぎない自信と確信、そして権力乱用との認識などみじんもない思い込みが求められます。それを演じられるのは、ケイト・ブランシェットだけだという監督の判断は極めて正しかったと思います。ケイト・ブランシェットは、現代最高峰の女優だと言えるのでしょう。アカデミー賞における2度の受賞、6度のノミネートはもとより、なにせ女神、女王、そしてボブ・デュランまで演じているのですから。

ターへの抗議が形を成し始めると、その心の揺れも、音をモティーフとして表現されていきます。地位を追われた、つまりキャンセルされたターは、マニラと思しき街に降り立ちます。誤って紹介された売春宿で、居並ぶ女性の中から相手を選ばされます。オーケストラの中から餌食を選んでいた過去のフラッシュ・バックです。ラスト・シーンで、ターはゲームの大会でオーケストラを指揮することになりますが、客席はコスプレをした無表情の若者ばかりです。SNSの時代となり、若者たちから反撃を受けたターを象徴しています。モティーフとしての音楽では、マーラーの交響曲第5番が使われています。マーラー絶頂期の作品であり、第4楽章「アダージェット」は世界で最も美しい曲の一つだと思います。マーラーがこの曲を書いたのは、世間からの悪評によってウィーン・フィルの指揮者を辞任させられた直後でした。(写真出典:eiga.com)

2023年5月20日土曜日

名古屋めし(4)

 【台湾ラーメン】

名古屋の人たちは、「味仙」の台湾ラーメンが大好きです。味仙は、台湾人を父に持つ郭明優が、今池に開いた店です。1971年、郭は、台湾の担仔麺をアレンジして、激辛の台湾ラーメンを考案します。台南名物の担仔麺は、豚挽肉、エビ、椎茸等々で作る複雑でやさしい味の麺類です。小ぶりな器で食べることも含め、飽きの来ない、酒のシメに最適な麺です。対して、台湾ラーメンは、シンプルな鶏ガラスープの麺に、台湾ミンチとも呼ばれる挽肉・ニラ・唐辛子を炒めたものを乗せます。これがびっくりするほど真っ赤で辛いわけです。十数年前、激辛ブームが起きると、台湾ラーメンも注目を集め、全国区に躍り出ました。その後、台湾まぜそばも登場し、本家台湾ラーメンを超えるほどの知名度を得ています。

およそアジア系の辛い料理は、複雑なうま味をベースに辛味がいい具合に同居しているものです。意味のある辛さ、あるいは必然性の高い辛さとも言えます。対して、台湾ラーメンは、辛さだけが際立っている印象があり、あまり好みません。台湾ラーメンの人気の源は、最近人気の激辛料理と同様、辛さに対する我慢くらべ、あるいはアスリート感覚のチャレンジといった風情なのではないかと思っています。辛さ自体は、単なる刺激なので、味とは無関係です。辛い料理にはまると、どんどん刺激をエスカレートさせていくという傾向があります。一定レベル以上の辛さは、痛みに変わりますが、台湾ラーメンの辛さは、その直前くらいだと思います。ちなみに、味仙の他の料理は、総じて美味しいと思っています。(写真出典:ja.wikipedia.org)

【小倉トースト】

小倉トーストは、トーストした食パンにバターかマーガリンを塗り、その上に小倉あんを乗せたものです。美味いに決まっています。ジャムがあんこに替わっただけですから、実に理に適っているとも言えます。かつて栄にあった「満つ葉」という喫茶店が、1921年に考案したメニューとされます。ある日、学生客が、バタートーストをぜんざいに浸して食べているのを見た店主が考案したと言います。モーニングで知られる名古屋の喫茶店文化のなかで育ってきたメニューということなのでしょう。喫茶店メニューだけでなく、名古屋の家庭でも朝食の定番だと聞きます。各家庭には、必ずあんこのストックがあるようです。まさに名古屋のソウル・フードの一つだと言えます。

ただ、小倉トーストには大きな謎が存在します。間違いなく美味しいにも関わらず、全国に広まらなかったことです。喫茶店も、何の手間もかからない使い勝手の良いメニューだと思います。朝食にパンを食べる日本人の多さも考えれば、全国的な朝の定番になっていて当然だと思いますが、なぜかそうはなりませんでした。和と洋の違和感とも考えられますが、和洋折衷は日本人の得意とするところです。食事とおやつの境目が判然としないからかも知れませんが、ジャムやペイストリーを考えれば、理由にはなりません。いずれにしても、小倉トーストは、永らく名古屋周辺にしかありませんでした。実に不思議な話であり、答の想像すらつきません。近年は、あんバターとして、あるいはあんこジャムとして広がりも出てきたようです。その展開には、名古屋を代表する喫茶店チェーン・コメダの全国展開が大きく貢献しているようです。(写真出典:recipe.rakuten.co.jp)

【その他】

他にも名古屋めしと呼ばれるものはあります。八丁味噌ベースのどて煮や味噌おでん、天むす、鉄板スパゲティ、あるいは独特なカレーうどんもあります。また、ういろう、鬼まんじゅう、えびせん、コメダのシロノワールまで名古屋めしの範疇に入れる場合もあるようです。名古屋めしの特徴の一つは、明治期以降に誕生したものが多いこと、そしていわゆるB級グルメが多いことだと思います。江戸期までの尾張の特徴的な味と言えば、豆味噌くらいだったのではないかと思います。明治期以降、名古屋は、中京地区の中心として、あるいはものづくりの拠点として栄えます。名古屋めしは、活気あふれる庶民文化が生んだ名物と言えます。

名古屋めし(3)

 【あんかけスパゲッティ】

あんかけスパゲティは、明らかに中毒性があります。あらかじめ茹で置きした2.2ミリの極太麺に、トマト・ベースで胡椒を効かせた和風あんと、至ってシンプルなのですが、やみつきになります。茹で置きの麺は、注文が入るとフライパンに油を入れて戻します。この油の多さが中毒性の源かも知れません。また、このスタイルだと、注文に応じて、麺の量を自在に増やせます。この食べ応え、量的満足感も中毒性の源になっているのでしょう。あんかけスパゲッティを生み出したのは、「スパゲッティハウス ヨコイ」創業者の横井博です。丸栄ホテル(現名古屋国際ホテル)のシェフだった横井は、イタリア料理を普及させるために、デミグラ・ソースとミート・ソースを合わせ、かつ名古屋人好みに仕立てることを目指します。

結果、生まれたあんかけスパゲッティは、1961年、横井が親戚と立ち上げた「そーれ」で出され、人気を博します。2年後には独立して「ヨコイ」を開店させています。あんかけスパゲッティは、麺とあんは皆同じですが具材によってメニューが分かれます。一番人気は、ウインナー・ハム・ベーコン・オニオン・ピーマン・マッシュルームが入った”ミラカン”です。あんかけスパゲッティの王道ミラカンは、ミラノとカントリーという異なるメニューを合体させたものです。色々なメニューを試そうと思うのですが、席に着くと必ず”ミラカン”と言ってしまいます。ミラカンという独特なネーミングにも中毒性があります。名古屋には、あんかけスパゲッティを出す店が多くありますが、不思議なことに、どの店のメニューにもミラカンがあります。

ヨコイのスパゲッティは、基本が230gで、1.2倍、1.5倍、Wと選べます。通常、パスタの一人前は100gですから、基本で既に倍以上となっています。他の店では、さらに大盛りも可能となっています。東京では、有楽町のジャポネ、大手町のリトル小岩井等、いわゆるロメスパ(路面のスパゲティ)が根強い人気を誇ります。ソースこそ違いますが、あんかけスパゲッティと同じ茹で置きの2.2ミリ極太麺というスタイルは同じです。明らかにあんかけスパゲッティにインスパイアされたものなのでしょう。ちなみに、ジャポネのレギュラーは350g、ジャンボ560g、横綱720gですが、メニュー外に、親方900g、理事長1,100gもあります。(写真出典:yoki-ansupa.jp)

【きしめん】

名古屋の人たちに、きしめんの美味い店を教えてくれ、と言うと、多少悩んでから、新幹線のホームと答えます。確かに、名駅構内に展開する「住よし」のきしめんはとても美味しいと思います。基本的には、どの店舗の味も同じだと思いますが、東海道線ホームの住よしが一番うまいと言うマニアックなファンもいます。私も大のきしめんファンなので、一時期、関西出張から帰る際、一旦、名古屋で下車して、ホームで住よしのきしめんを食べてから、再度、新幹線に乗ることをルーティンにしていました。もちろん、市内には、きしめんを出す店も多くありますが、ほとんどは他のメニューも出す一般的な食堂です。きしめん専門店が少ないので、美味い店を聞かれた名古屋の人たちは、回答に困るのかも知れません。

平打ちのうどん自体は、名古屋独特のものではなく、各地にもあります。江戸期には、三河の芋川の名物とされていたようです。桐生名物の”ひもかわうどん”は、芋川がなまって”ひもかわ”になったと言われます。きしめんらしさは、鰹節の効いた出汁、上に乗せる花かつおだと思います。ある意味、とても贅沢な出汁であり、名古屋の底力も感じさせます。夏になると、冷やしたきしめんも食べられますが、名古屋ではこれを”ころ”と呼びます。ころは、香露とも書き、麺のつゆから来ているという説があります。ただ、他の説もあり、はっきりしていません。ころきしめんは、鰹だしが効いているだけに、なかなかの美味です。夏場、名古屋ゴルフ倶楽部和合コースのハーフウェイ・ハウスでよく食べました。汗をかいた後のころきしめんは、格段のうまさでした。(写真出典:maff.go.jp)

(つづく)

名古屋めし(2)

 【味噌カツ】

敗戦直後の混乱期、名古屋のある屋台でのことです。客が串かつをどて煮につけて食べたところ、これが美味いということになり、店主が味噌カツとして売り出します。屋台は大繁盛し、味噌カツの名店「矢場とん」になります。これは矢場とんが唱える味噌カツの起源です。味噌カツの発祥については複数の説が混在しています。総じて、名古屋めしは大好きですが、味噌カツだけは、どうにも理解できない面があります。味噌だれをトンカツの上に掛ける点が気になります。自分の好きな濃さで味噌だれを付けて食べるのがいいと思うわけです。矢場とん本店で、味噌だれをトンカツに掛けずに、別皿でもってきてくれ、と店員さんに頼んだことがあります。断られました。そこで、店長に聞いてこい、とごり押ししてみました。結果的には、キッパリ断られました。どうもそのこだわりが理解できません。

味噌カツの発祥については、自分なりの推論があります。戦後の混乱期、質の良い豚肉など入手困難であり、鯨カツをトンカツと称して出す店も多かったと聞きます。トンカツの味を濃い味噌味で誤魔化したのが、味噌カツの発祥なのではないかと思っています。現在の矢場とんのトンカツは、味噌がなくても十分以上に美味しいものです。トンカツの表面すべてに味噌だれをかける必要はないと思うわけです。というわけで、味噌カツだけは、あまり好んで食べません。(写真出典:aichinavi.jp)

【焼きとんかつ】

焼きとんかつは、名古屋めしとして語られることが少ない食べ物です。店が少なく、名古屋人でも知らない人の方が多いかも知れません。しかし、名古屋以外で見かけることのない立派な名古屋めしです。焼きとんかつは、細かいパン粉で薄い衣をまとわせた豚肉を鉄板で焼き上げたものです。ドイツのシュニッツェルとよく似ていますが、薄くのばした肉を使うのではなく、トンカツと同じ厚い肉を使います。トンカツよりも、香ばしく、あっさりとした印象です。名古屋らしく、味噌だれかソースを選べます。シュニッツェルの元になったのが、フランスのコートレットです。明治期、日本に伝わるとカツレツと呼ばれ、後に日本独特のトンカツに進化します。焼きとんかつは、いわば先祖返りしたトンカツと言えます。

焼きとんかつの有名店と言えば、発祥の店としても知られる中村区鈍池の「とんかつオゼキ」です。大きな店ですが、昼時はいつも満席状態です。焼きとんかつが、名古屋でもあまり知られていない理由の一つは、オゼキの立地だと思われます。名駅の西側は、江戸期まで湿地帯であり、明治期になると遊郭が作られ、笹島界隈はドヤ街になります。秀吉生誕の地でもありますが、人気(じんき)の良くない土地だったわけです。(写真出典:walkerplus.com)

【手羽先】

「世界の山ちゃん」の躍進で、有名になった感のある手羽先の唐揚げですが、元祖は「風来坊」です。大坪健庫が、人気メニューの甘だれをくぐらせた唐揚げを持って、北九州から名古屋へ出てきたのは昭和38年だったようです。名物は、鶏の半身を揚げた”ターザン焼き”でした。ある日、発注ミスで丸鶏が入荷せず、たまたま目にとまった手羽先を唐揚げにして甘だれをつけたところ、これが美味いと客の評判になったと言います。甘辛い味、手軽さが相まって、酒のつまみとして大人気になりました。骨を割って、歯でしごいて一気に食べるスタイルも広まりました。大坪は、風来坊の味を守るために、フランチャイズを拒否し、弟子を育て暖簾分けすることにこだわったと聞きます。胡椒が効いた山ちゃんの手羽先に比べ、風来坊はやや甘さが勝っています。この甘さは、いかにも九州らしいな、と思います。(写真出典:hotpepper.jp)

(つづく)

名古屋めし(1)

名古屋には、独特の食文化があります。いわゆる名古屋めしは、総じて美味しいと思います。大都市名古屋の影響力も考慮するなら、全国的に普及しても不思議はない食べ物が多いと思います。ところが、なぜか名古屋でしか食べられない代物に留まっています。その疑問を、名古屋財界の重鎮に話したことがあります。すると、なぜ全国に広める必要があるのだ、と言われました。言われてみれば、確かにそのとおりです。名古屋の食文化の背景には、尾張の農民文化があると聞きます。しかし、それだけでは、十分な説明にはなりません。個人的には、名古屋の”お値打ち”意識の高さ、排他性、そして工場労働者の多さが深く関わっているように思います。ま、お値打ちも排他性も、農民文化の特徴だということかも知れませんが。

【ひつまぶし】

蓬莱軒のひつまぶし
ひつまぶしは、名古屋めしの横綱格と言えます。うなぎの蒲焼きをざく切りにして、お櫃に入ったご飯の上に乗せたものです。茶碗によそった一杯目はそのままで、二杯目にはわさびや刻み海苔を乗せ、三杯目は出汁茶漬けにしていただきます。行列が絶えない「あつた蓬莱軒」や土用の丑の日には店を休むことで有名な「いば昇」といった有名店はじめ、市内にはひつまぶしを出す店が多くあります。まずはうなぎが美味しくなければ始まりませんが、その独特な食べ方は、まさにうなぎを味わい尽くす感があってクセになります。その発祥に関しては諸説あります。あつた蓬莱軒が明治の頃から出していたという説が有名ですが、文献上は、大正期のいば昇が初出とされます。また、三重県の津が発祥だとする説も根強い支持があります。

うなぎの養殖が始まる前、天然うなぎの大小を揃えるために発生する切れ端、あるいは調理の際に崩れた身がもったいないので生まれた食べ方と言われます。また、あつた蓬莱軒は、出前の際に丼が割れるので、お櫃を使うようになったとも言っています。いずれにしても、その発祥には”お値打ち”文化が深く関わっているように思います。太古の昔からあったわけではなく、近世に登場した食べ物なのに、その発祥が諸説あるという点が実に不思議だと思います。(写真出典:tabelog.com)

【味噌煮込みうどん】

初めて味噌煮込みうどんを食べた人たちが、一様に感じる違和感は、麺の堅さです。多くの人が生煮えではないかと疑うようです。味噌煮込み用のうどんは、小麦粉と水だけで作られ、一切塩を使いません。煮込んで熱々を提供することを前提としているので、固めに茹で、かつ塩を使わないということなのでしょう。私が初めて味噌煮込みうどんを食べた際には、色の濃さに比してさほど塩辛くない汁というギャップに驚きました。東北人としては、色が濃ければ塩っぱいと思ってしまいますが、それが裏切られるわけです。塩味は強くないものの、そのコクの深さは絶品です。その源は、言うまでもなく三河名産”八丁味噌”です。

岡崎城から八丁の距離にあったことから八丁村と呼ばれた一帯では、古くから豆味噌が造られていたようです。江戸初期、老舗”カクキュー”の創業者である早川久右衛門が、兵糧として作り始めたのが八丁味噌として知られるようになります。大豆、豆麹、塩だけで長期熟成される八丁味噌は、なんといってもそのコク深さが特徴です。八丁味噌を使った味噌煮込みうどんは、甲州の”ほうとう”が起源だとされます。江戸期から家庭で食べられていたようですが、飲食店で出されたのは、明治期の一宮が始まりだったようです。繊維産業で賑わう一宮の女工たちのアイデアだったとも言われます。

味噌煮込みうどんと言えば”山本屋”となりますが、それぞれ独立した会社である山本屋総本店、山本屋本店、山本屋が存在します。経緯は色々あるようですが、全ての大本になったのは、大正期、大須にあった”山本にこみ”だったようです。私が好きなのは、麺がさほど固くない久屋大通近くの”角丸”です。ちなみに、味噌煮込みうどんは、土鍋の蓋を使って食べます。そのため、蓋には穴が開いていません。名古屋に赴任してから知ったことです。(写真出典:maff.go.jp)

(つづく)

2023年5月18日木曜日

報道の自由度

ジャニー喜多川
2002年から続く「世界報道自由度ランキング」は、1985年、パリに設立された”国境なき記者団”によって発表されています。世界180カ国を対象に、報道機関と政府との関係を調査し、評価しています。傾向としては、北欧諸国の自由度が高く、先進国は、おおむね40位以内に入っています。日本は、民主党が政権を担っていた2010年に、最高ランクとなる11位を獲得しています。しかし、その後、東日本大震災が起こると、福島原発を巡る閉鎖的な報道が批判され順位を落とします。さらに第二次安倍政権が誕生すると、マスコミに敵対的、あるいは不公平なその姿勢ゆえに、50番以下へと順位を落とし、特定秘密保護法が強行採決されると60番台まで落ち込みます。

日本の低評価は、政府の姿勢に依るところが大きいのですが、排他的な記者クラブの存在も理由の一つとなっています。日本に特有な仕組みである記者クラブは、大手マスコミの官邸や官庁の番記者で構成され、情報へのアクセス、記者会見開催、常駐部屋の提供等において、優先的な扱いを受けています。氏素性の明らかな記者で構成されるセキュリティの高さ、秩序ある報道競争の確保、個別ではなく集団で情報開示を求める強み等がメリットとして強調されます。一方で、クラブ以外のマスコミに排他的であることに加え、癒着を生みやすい仕組みであるとの批判を受けてきました。前近代的な代物に思えますが、取材される側、取材する側、双方にとってメリットがあるため、温存されてきました。

日本の大手マスコミは、いわば脛に傷を持っており、報道自由度ランキングに関するニュースは、当然、浅いものに留まる傾向にあります。日本のマスコミの大きな問題点は他にもあります。新聞社とTV局の一体経営です。先進国の多くは、新聞社とTV局の兼営を認めていません。日本でも表面的には別会社にはなっていますが、資本や人事の面で関係会社化されています。そこに報道のゆがみが生じる危険があります。例えば、立派なギャンブルであるパチンコの違法性や中毒性に関するマスコミ報道はほとんどありません。パチンコ業界は、TVの大口CM発注者だからだと言われます。同様にゲーム関連業界も大口のTVCM発注者です。子供たちへの過度なゲームの課金が問題になった際、マスコミの反応は鈍いものでした。

さらに言えば、マスコミにとって、警視庁はニュースのネタを流してくれるありがたい存在です。警視庁はパチンコ業界への天下りが多いことで知られます。その関係への配慮もあるのでしょう。かつて検察庁のスキャンダルは報道されることがないという話がありました。検察もネタを流してくれるお得意様と言えるわけです。新聞とTVの一体経営の弊害は、ジャニー喜多川氏による性的虐待に関する報道でも明らかです。2019年の文藝春秋やBBCによる報道は、世界中で取り上げられ、大きな問題となりました。ジャニー氏に対する告発は、1980年代から間断なく続いていました。業界の常識でもあったようです。マスコミは、これを一切無視してきました。TV局にとって、ジャニーズ事務所は、視聴率を稼ぐためにはありがたい存在であり続けたからです。そのマスコミのスタンスが被害者を増産し続けた面もあります。

米国で始まった”#MeToo”のムーブメントは、2017年、ニューヨーカー誌による大物映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインの告発によって、一気に世界中に広がりました。その際、ジャニー喜多川氏の問題も注目されて当然だったようにも思います。しかし、日本では、ジャーナリストの伊藤詩織さんによる告発等もありましたが、大きな広がりにはなりませんでした。日本全体、あるいは一部業界が残す封建的体質ゆえ、という説もありますが、マスコミ報道の薄さも気になりました。伊藤さんが告発した元TBSの山口氏は、安倍晋三氏に最も近いジャーナリストと言われ、官邸によるマスコミ報道、あるいは司法に対する無言の圧力があるという噂も絶えませんでした。日本にも、立派なジャーナリストが多く存在することは理解しています。ただ、ネットの時代になっても、地上波TVが圧倒的影響力を保持する日本では、我々自身が、相当しっかりしなければならないわけです。(写真出典:asahi.com)

2023年5月16日火曜日

ウチナーンチュ大会

沖縄の鶏の丸焼き専門店「ブエノチキン」へたどり着くまでは、時間がかかりました。普天間に南米風ロースト・チキンの店があることは、本か雑誌で知りました。沖縄が受けた南米文化の影響に興味があったので、是非とも行ってみたいと思いました。ただ、知っている人は少なく、かろうじて浦添に越したという情報を得ました。その後、家族で沖縄に行った際、浦添の店へたどりつくことができましたが、なんと休業日。さらに後日、出張した際、移動中に店に寄ってもらい、ようやく食べることができました。パリパリに焼けた皮と強烈なニンニクの風味がやみつきになりそうな味でした。ブエノチキンは、1982年、南米帰りのご夫妻が普天間で創業、浦添に2号店を開きます。その後、2代目が浦添店一本に絞ったようです。

かつて、那覇で、スペイン語を話すおばさんに会いました。その流暢さに驚くと、沖縄にはスペイン語を話せる人がそこそこいるよと言われました。多くの沖縄県民が、南米へ移民し、なかには帰国した家族も、あるいは家族の一部だけが沖縄に戻ったケースもあるわけです。2011年、沖縄に出張した際、1990年から5年毎に開催される「世界のウチナーンチュ大会」に遭遇しました。沖縄にルーツを持ち、各国で暮らす移民とその家族が、世界中から集まります。琉球新報が長期連載した「世界のウチナーンチュ」という記事に触発された当時の沖縄県知事・西銘順治が始めたイベントです。2011年は第5回大会にあたり、各国から5千人を超える移民家族が集まりました。

日本における海外移民は、1868年、明治元年のハワイ移民153人に始まっています。幕末に来日したハワイのカメハメハ4世の要請によるものでした。その後、話が違うといった契約や待遇に関わる問題が頻発したものの、戦前には77万人、戦後には26万人が海外移住しています。最も海外移住者が多い県は広島県で11万人となっています。沖縄県は9万人で第2位ですが、戦後に限っては第1位となっています。沖縄戦で荒れに荒れ、かつ米軍に接収された農地に絶望した農民たちが移住を選択したものと思われます。沖縄からの移住先は、戦前はハワイ、ブラジル、ペルーが多く、戦後は、ブラジル、アルゼンチン、ボリビアが大層を占めています。ウチナーンチュ大会期間中の那覇は、南米風の人々であふれています。

ウチナーンチュ大会は、前夜祭、パレード、開会式で始まります。親睦会、シンポジウム、物産展も行われますが、海外ウチナーンチュによる琉球民謡、琉球舞踊、エイサー、琉球芝居、琉球古武術等の発表会が、各所で開催されます。私は、古武術の発表会を見学しましたが、各地でかなり稽古を積んできたとみえ、レベルの高い演武になっていました。歌や踊りも同様でしょうが、単に故郷を懐かしむということに留まらず、自らのアイデンティティーを確認するために厳しい稽古を積んできたのでしょう。琉球文化へのこだわりは、移民生活の厳しさの裏返しと言うこともできます。太平洋戦争直後、ブラジルの日系社会で、日本の敗北を認めない戦勝派、敗北を受け入れる認識派が激しく対立し、テロ事件が頻発した切ない歴史を思い出しました。

さて、話はブエノチキンに戻りますが、私が訪れた浦添の店は、わずかなイートイン・スペースのある小さな店でした。いかにも細々と経営しているといった風情でした。ロースト・チキンという食文化のなかった沖縄では、なかなか受け入れてもらえず、売れるのはクリスマス・シーズンだけだったようです。ただ、TVで取り上げられたことをきっかけに大ブレークし、今や沖縄の食の定番の一角を占めるまでになりました。先代のお嬢さんが跡を継ぎ、現在は、同じ浦添市内におしゃれで大きな店舗を構えるに至っています。移民しても、帰国しても、ものになるまでは、相当の時間を要するということでしょうか。(写真出典:ryukyushimpo.jp)

2023年5月14日日曜日

No Free Lunch

NYC Free Lunch
コロナ前のことですが、居酒屋のお通しについて、インバウンド客とのトラブルが起きているという報道がありました。関西では突き出しと呼ばれるお通しですが、確かに日本独特の風習です。注文していない品が出されれば、外国人がフリー(無料)のサービスと理解して当然です。ところが代金を求められるわけですから、もめても致し方ないところです。テーブル・チャージとして請求し、お通しをフリーのサービスとして提供すればまったく問題ないと思います。飲食店の卓上に置かれた食べ放題の漬物、あるいは韓国料理屋で出される多数のおかず等は無料です。無料とは言え、そのコストは料理代に含まれているので、これらも完全に無料とは言いがたいところです。

民放にとってTVは広告を流すための箱です。TV機器は客に買わせ、無料放送ですと言ってCMを流します。コンテンツは、あくまでもCMを見続けさせるための手段です。そして、それらの制作コストはCMで放送された商品の代金として客が負担します。悪魔的なほど巧妙に仕組まれたビジネス・モデルです。慈善事業ならいざ知らず、およそビジネスの世界にあって、無料などというものは存在するわけがありません。アメリカでは、”No Free Lunch”という言葉がよく使われます。タダのものなどない、というわけです。NYの弁護士に聞いた話ですが、ロー・スクールでは、この言葉が徹底されるというのです。ちなみに、NYの弁護士は、ランチの際でも、仕事の話が出れば、タイム・チャージを請求してきます。

”No Free Lunch”という言葉は、ロバート・A・ハインラインの傑作SF「月は無慈悲な夜の女王」(1966)に登場する”There ain't no such thing as a free lunch”という一文から広まったとされます。しかし、この言葉自体は、以前から存在し、TANSTAAFLというアクロニムでも知られます。フリー・ランチそのものはさらに古く、19世紀後半、ニューオリンズのサルーンから広まったとされるサービスです。1杯以上のドリンクを注文すればランチが無料になるというものです。カウンターの上に並べられた料理をセルフ・サービスで食べるスタイルが一般的だったようです。並んだ料理は、塩分の多い物が多く、ドリンクが追加注文されていくという仕組みです。大恐慌の時代、このサービスは廃れ、復活することはありませんでした。

ただ、ビジネス・モデルとしてのフリー・ランチは、様々な分野で残りました。10年ほど前に、”フリー経済”という言葉が注目されました。無料で提供されるアプリ等に関するビジネス・モデルのことですが、別に目新しいものではありませんでした。アプリを無料で提供し、有料のプレミアム会員等へ導く、購買意欲を高め商品購入へ導く、メディアとして広告ビジネスを展開する、あるいは集積されたデータをマーケティング用に販売する、といったビジネス・モデルです。デジタル世界では、生産に関わる限界費用がゼロに近いので、このモデルは効率が良いわけです。とは言え、マーケティング手法として見れば、古典的なものであり、やはり、There ain't no such thing as a free lunchということになります。

ビジネス社会にフリー・ランチは存在しないわけですが、ビジネスに限らず世の中全体にフリー・ランチなど存在しないという説もあります。金銭ではないものがトレードされている、あるいは個々には無料に見えても社会全体ではトレードオフの関係が成立しているという考え方です。例えば、世界中の無名のボランティアによって作られている非営利のネット百科事典Wikipediaは無料です。金銭は絡みませんが、書き込みをする人々は、表現欲や自己実現欲求を満たしているわけです。さすがに空気はタダじゃないか、と言われそうですが、物理学的に宇宙全体を閉鎖形とすれば、大気の生成も消費もトレードオフの関係が成り立っています。No Free Lunchとは、トレードオフを意味し、宇宙の唯一無二の原則だ、と言えるのかも知れません。(写真出典:cafr.ebay.ca)

2023年5月12日金曜日

水道水

大昔のことですが、ツアー旅行でパキスタンのカラチに滞在したことがあります。海外では、水に気をつける必要がありますが、当時のカラチはとりわけ危険と言われていました。試しに、ホテルの部屋でグラスに水道水を入れ、しばらく放置してみました。するとグラスの1/3ほどまで泥のようなものが沈殿していました。こうなるとサラダと氷は厳禁、歯磨きもミネラル・ウォーターを使わなければなりません。皆、十分に気を付けていたはずですが、結果、20数名のツアー参加者のほとんどがお腹をこわしてしまいました。結構、辛い料理が多かったことも関係しているのかもしれません。いずれにしても、私は、人一倍たくさん食べたにも関わらず、大丈夫でした。ここで妙な自信が生まれました。

2年後くらい、エジプトのルクソールでのことですが、神殿のライト・ショーを見てホテルに戻った際、やたらアイス・コーヒーが飲みたくなりました。氷の心配をすべきところですが、ホテルならミネラル・ウォーターで氷を作っているはずだと思い込み、かつ海外の水には強い方だという自信から、アイス・コーヒーを注文しました。ダメでした。すっかりやられました。翌日は、朝から王家の谷を見学する予定でしたが、とてもそれどころではありません。ツアーに参加していた薬局のご主人からいただいた抗生物質を服用すると、症状はかなり改善し、相当に遅れたものの皆さんに合流することができました。ただ、完全に回復とまではいかなかったので、夕食に予約していた鳩料理の名店はキャンセルせざるを得ませんでした。

以降、海外での水には十分気を付けています。また、しばらくの間、海外旅行には抗生物質を携行していました。それから随分経ちますが、清潔な軟水の水道水に慣れた日本人にとって、いまだ海外の水事情は厳しいままのようです。国交省が2018年に公表したデータに依れば、日本人が水道水を安心して飲める国は、日本を含む9カ国のみとのこと。他は、南アフリカ、アイスランド、アイルランド、ノルウェー、フィンランド、ドイツ、オーストリア、スロベニアとなります。安心できない国の問題点は、硬水の硬度が高い場合もありますが、主に取水源と水道設備によるものだとされます。上水設備が整っていても、老朽化していたり、メンテナンスが不十分な場合も多いようです。

さらに人口が密集する都市などでは、貯水槽が多く活用されています。これがまた大問題なわけです。日本では、法的に、かなり厳しい清掃・点検・水質検査が義務づけられていますが、国によってはルーズなところも多いようです。ちなみに、日本では、水道圧の改善が進み、貯水槽は減っているようです。かつて、東京の水道水は不味く、特に都心部の水は、田舎出身者には耐えがたいものがありました。現在では、東京都の水道水もかなり美味しくなったと思います。都水道局による水質改善プロジェクトの成果ですが、貯水槽が無くなったことも影響しているのでしょう。ちなみに、東京都は、水質改善をPRするために、水道水のペット・ボトル”東京水”を販売していました。販売は、2021年で終了しています。

日本は「安全と水がタダの国」と言われたものです。安全面は、多少変わってきたように思います。水も、タダの水ばかりではありませんが、依然として美味しい水が安価に飲めます。実にありがたいことだと思います。雨が多く、国土の8割が山岳という国ならではことです。余談ですが、日本の豊富な水資源は、水力発電にも利用されてきました。ただ、現在の総発電量に占める水力発電の割合は8%に達しません。日本の特性を活かし、もっと水力発電を増やせばいいのにと思い、専門家に聞いたことがあります。日本の河川は、水量や急峻さという点で、発電向きではないのだそうです。ということは無理して水力発電所を作っても発電効率が悪くなるということになります。なんとも歯がゆい話です。(写真出典:hands.net)

2023年5月10日水曜日

エンゼルパイ

子供の頃、森永エンゼルパイは、あこがれのお菓子でした。お値段が高めなので、なかなか買ってもらえませんでした。エンゼルパイは、1961年に全国発売されたベスト・セラー商品です。最大の魅力は、ビスケットに挟まれたマシュマロのムニュッとした食感です。母親が、そんなに好きならとマシュマロを買ってくれたことがあります。それはそれで美味しいのですが、やはりエンゼルパイがいいわけです。アメリカ駐在員時代、ヒューストンで、”Moon Pie”を発見した時には驚きました。見た目がエンゼルパイそのものなのです。いずれかがパクったことは明らかです。後で知ったことですが、森永は、アメリカのスクーター・パイを参考にエンゼルパイを開発したようです。

スクーター・パイは、ムーン・パイのパクリ商品です。ムーン・パイは、1917年にテネシー州のチャタヌーガ ・ベーカリーが発売し、現在も販売されているロング・セラー商品です。エンゼルパイはマシュマロをビスケットではさみますが、ムーン・パイには全粒粉で作るグラハム・クラッカーが使われています。よりサクッとしたパイに近い食感があります。主に南部で売られていたようですが、北部では1940~50年代あたりにパクリ商品のスクーター・パイが登場します。ただ、現在は売られていないようです。スクーターとは、当時、NYヤンキースの遊撃手として大活躍していたフィル・”スクーター”・リズート選手にちなんで命名されたようです。フィル・リズートは、小柄なイタリア系ゆえ”スクーター”と呼ばれました。

ムーン・パイは、ケンタッキーの鉱山労働者へのヒアリングに基づき生まれたとされます。食べ応えのあるスナックということなのでしょう。アメリカでは、なぜかローヤルクラウン・コーラ(RC)とのセットが、肉体労働者のランチの定番になっているようです。エンゼルパイの高級感とは大違いです。ジョージア州コロンバスで生まれたRCは、コークとペプシには遠く及びませんが、一応、売上世界第3位のコーラとなっています。一時期、日本でも販売されていましたが、現在は撤退しています。ちなみに、RCは、世界で初めて缶入りコーラを発売し、世界で初めてカフェイン・フリーのダイエット・コーラを発売した会社としても知られます。現在は、ドクターペッパー・スナップル・グループが製造・販売しています。

マシュマロは、19世紀にフランスで開発されました。当初原料とされていたウスベニタチアオイの仏語ギモーブ、英語名マシュマロが、そのまま菓子名になったようです。19世紀末には、現在のメレンゲ、シロップ、ゼラチンで作る手法が確立されていたようです。それから間もなく日本へも伝わり、1887年には、岡山の下山松壽軒がマシュマロを使った菓子「つるの玉子」を発売しています。新食感のつるの玉子は、大人気となったようです。ただ、アレンジ菓子ではなく、日本で初めてマシュマロそのものを商品として発売したのは、1892年の風月堂だったようです。また、1905年には、博多で鶏卵素麺を作っていた石村萬盛堂が、余った卵白を使い「鶴乃子」を発売、現在では博多土産の定番の一つとなっています。

日本の場合、マシュマロの消費量の多くは、エンゼルパイと鶴乃子系が占めているのではないかと思います。アメリカでは、たき火で焼いて食べるのが一般的です。また、焼いたマシュマロをチョコとグラハム・クラッカーで挟んで食べるスモアも人気です。家庭内では、溶かしたマシュマロをポップコーンと混ぜるといったアレンジも子供のおやつの定番です。近年、日本では、SNSでスモア・トーストなるものがバズったようです。食パンのうえに刻んだチョコを敷き、その上にマシュマロを隙間なく乗せてトーストするわけです。これはもう間違いなく美味しいに決まっています。2021年、森永は、発売60周年を記念して、エンゼルパイのブラッシュアップを行いました。あわせて電子レンジで温めて食べることも薦めています。スモア・トーストの流行を意識したのかも知れません。(写真出典:morinaga.co.jp)

2023年5月8日月曜日

際の島

アゼルスタン王
2世紀末から、ほぼ単一民族が、天皇家をトップとする国の形を継続してきた日本は、かなり特殊な国なのだろうと思います。当然ながら、日本人は自らの歴史を基準に他国を捉える傾向があります。英国に対しても同様です。英国の正式名称は、United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland (グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)。君主を同じくするイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドという4つの国が、複雑な歴史をそのまま背負った形で連合を組んでいます。日本人には分かりにくい面があり、UKではなく、イギリスや英国といった連合形態を無視した呼び方を好みます。結果、イングランド王国、特にステュワート朝以降を英国のすべてと誤解する傾向もあります。

4~5千年前のブリテン島には、ストーンヘンジ等の巨石文化で知られるビーカー人が住んでいました。そこへ鉄器を持つケルト人が移入してきたのが紀元前7世紀頃とされます。なかでも有力だったのがブリテン人でした。紀元前1世紀にはローマが進出を始め、5世紀初頭まで属州ブリタニアを運営します。ゲルマン族におされて衰退した古代ローマがブリテン島から撤退すると、ユトランド半島周辺から、ゲルマン族のアングル人、ジュート人、サクソン人が渡ってきます。いわゆるアングロ・サクソン人です。ブリテン人を制圧したアングロ・サクソンは、ブリテン島の南部から中部に七つの王国を築きます。七王国時代と呼称されますが、7つの主要国以外にもブリテン人の国も含めた多くの部族国家が林立していました。

七王国は、北にアングル人のノーサンブリア、マーシア、イースト・アングリア、南にはサクソン人のウェセックス、エセックス、サセックス、そしてジュート人のケントで構成されます。西進するサクソン人と激しく戦ったブリテン人の中からアーサー王伝説のモデルが生まれたともされます。9世紀には、ゲルマン系ノルマン人であるデーン人、いわゆるヴァイキングがブリテン島に進出してきます。そもそもアングロ・サクソンが、ブリテン島へ渡ったのは、スカンディナビアのデーン人がユトレヒト半島に進出してきたためでした。アングロ・サクソンは、再びデーン人に圧倒されることになったわけです。七王国で最後に残ったウェセックスのアルフレッド大王は、激戦の末、デーン人との棲み分けを確立します。

アルフレッド大王の孫のアゼルスタンは、イングランドを統一し、初代イングランド王となります。デーン人の第二波が押し寄せると、イングランドはデーン朝となります。一旦、王朝を取り戻したアングロ・サクソンでしたが、11世紀、ノルマン・コンクエストによってノルマン朝に取って替わられます。ノルマン朝は、征服王朝として強大な王権を実現し、部族社会は終わりを告げます。また後継のプランタジネット朝も含め、フランスにも領土を持ち、宮廷や役人は、フランス語が公用語となります。その後、百年戦争でフランスの領土を失い、薔薇戦争でテューダー朝が誕生すると、絶対王政の時代を迎えます。テューダー朝の後継者がいなかったことで、スコットランド王がイングランド王を継承し、ステュワート朝が誕生します。

スコットランドは、ピクト人やスコット人が支配してきましたが、14世紀後半からフランス起源のステュワート家が王となっていました。ステュワート朝は、イングランド、アイルランド、スコットランドの王として君臨します。以降、ドイツ系のハノーヴァー朝、そして同じくドイツ系のウィンザー朝へと続き、現在に至ります。思えば、中央アジアでフン族が勃興した余波が、次々と欧州の際のブリテン島を襲い、重層的な文化基盤を生んだと言えます。重商主義、植民地主義、市民革命、産業革命を経て誕生した大英帝国は、まさにこの多様性がゆえに成立したと考えられます。ブリテン島は、どん詰まりの際(きわ)の島であり、いわば欧州の吹きだまりのような島だったからこそ発展したのでしょう。際では様々なことが起こるものです。気になるのは、同じように際の島である日本で吹きだまり現象が起こらなかったことです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2023年5月5日金曜日

「ジャンヌ・ディエルマン」

タイトル:ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地       監督:シャンタル・アケルマン     1975年ベルギー・フランス

☆☆☆☆+

(ネタバレ注意)

ジャンヌ・ディエルマンは未亡人であり、高校生とおぼしき息子と、質素で小ぶりなアパルトマンに暮らしています。固定カメラの長回しが捉えるのは、毎日、家事を規則的にこなすジャンヌの日常です。劇伴もなければ、台詞もほとんどありません。日々のルーティンのなかには、夕方、自宅で行われる売春も含まれます。それとて、男を迎え、金を受け取って帰すシーンのみで淡々と伝えられます。規則的に繰り返されるジャンヌの日常ですが、2日目から、ルーティンに些細な綻びが生じます。それは、ジャンヌの心の揺らめきを象徴しているかのようですが、ジャンヌ自身はそれが何なのか理解していません。ルーティンの整然さが揺らぐ状態は3日目の夕方まで続きます。映画は、ここまでで3時間10分を超えます。

ジャンヌは、夕方のルーティン化した売春の後、突如、客の喉をハサミで刺します。そして、暗い居間に座るジャンヌが、延々5分以上に渡り映し出され、映画は終わります。放心したかのようなジャンヌですが、一瞬、満足げな表情を浮かべた後、まどろんでいきます。ジャンヌの横には、売春で得たお金を入れておく大きな陶器のポットが象徴的に映されています。これが英国映画協会が、史上最高の映画に選出したジャンヌ・ディエルマンのプロットの概要です。映画は、台詞と演技、カメラ・ワーク、劇伴などでドラマを構成しますが、ジャンヌ・ディエルマンは、そのすべてを否定し、ドラマそのものまでを否定しているかのようです。それは、観念的、あるいは図式的に過ぎるという批判を受けることになります。

観念的であるがゆえに、具象的描写を、丁寧に、かつ延々と積み上げる必要があったとも言えます。観客にとって、淡々と続く日常を描写する3時間20分は苦痛です。しかし、それは、女性の置かれた立場と苦悩を表現するため、そして観客にそれを体感させるために必要な時間だとも言えます。ジャンヌ・ディエルマンが、フェミニスト映画の最高峰とされる理由でもあります。しかし、アケルマンは、決してラディカルなフェミニストではありません。フェミニズムを、より客観的な視点で捉えているようなところがあります。そのスタンスが、ジャンヌ・ディエルマンの持つ強烈な印象につながっていると思います。キッチンで繰り返される家事労働も、何の感情もないままに行われる売春も、静的な描写がゆえの凄みを持って、女性の隷属的、抑圧的な立場を伝えます。

ジャンヌ・ディエルマンは、スロー・シネマというジャンルに分類されることがあります。あまり定義のはっきりしないジャンルですが、確かにアントニオーニ、パゾリーニ、タルコフスキー、ソクーロフ、アンゲロプロス等の映画には共通した表現ではあります。固定的カメラ、長回し、緩やかなテンポ等によって、押しつけがましいドラマの展開は否定され、観客自身に考えること、あるいは感じることを求めてきます。シャンタル・アケルマンも、スロー・シネマの作家であることは間違いありません。しかし、スロー・シネマの多くは、観客に判断を委ねたり、虚無感を表現するために、スローな表現が選択されているように思います。対してジャンヌ・ディエルマンの持つスローさは、多少、異なります。

シャンタル・アケルマン、特にジャンヌ・ディエルマンは、論理的にテーマを追究した結果としてのスローさだと思います。監督の意図を明確に観客に伝えるために採られた、ある意味、必然性の高い手法だとも言えます。絵画や音楽は、作家の意図に関わらず、受け手の好きか嫌いかが全てだと思います。スロー・シネマも似たところがあります。ただ、シャンタル・アケルマンの映画は、観客の好きにはさせません。緻密な構成によって観客の思考や感情をもコントロールしようとしています。そういう意味では、より文学に近いとも言えそうです。ジャンヌ・ディエルマンは、映画を根底から変えた作品とも言われますが、分かるような気もします。(写真出典:amazon.co.jp)

2023年5月4日木曜日

「一晩中」

監督: シャンタル・アケルマン    1982年ベルギー・フランス

☆☆☆+

ブリュッセルの夏の暑い一夜、男女が出会い、別れ、追い、追われるスケッチだけで構成される映画です。個々のスケッチはとても短いのですが、背景に横たわるドラマを十分以上に想起させ、見ていて飽きることはありません。それどころか、何本かのドラマを一気に見たような印象すら受けます。ある意味、映画監督なら一度はやってみたくなるハイライト・シーンのカタログのようなものです。ところが、それを一本の映画として成立させるのは、並大抵の技ではありません。一つ一つのスケッチの奥深さの勝負になるからです。極端に言えば、数十本の映画を制作するのと同じエネルギーが求められるわけです。20世紀を代表する巨匠シャンタル・アケルマンならではの作品だと思います。

シャンタル・アケルマンは、1950年、ブリュッセルのユダヤ人実業家の家に生まれています。15歳のおり、ジャン=リュック・ゴダールの「気狂いピエロ」に影響を受け、18歳で短編映画を制作しています。24歳で監督した「ジャンヌ・ディエルマン、ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地」(1975)は高い評価を得て、昨年も、英国の映画雑誌が企画した”史上最高の映画”で第1位に選出されています。フェミニズム映画の金字塔とも言われます。シャンタル・アケルマンは、ありきたりな文学作品など足元にも及ばないほど、完成度の高い映像文学を作り出します。それはフェミニズムという枠に収まること無く、映画史全体に大きな足跡を残していると思います。

アケルマンの映画の特徴の一つは、美しく、かつ緊張感のある映像です。必ずしも絵画的な美しさではなく、映画としての奥行きやダイナミズムを感じさせる映像です。また、ゆったりとしたロング・テイクも途切れることのない緊張感を生んでいます。いずれも監督の力量なくして実現できません。また、構造主義的アプローチゆえに生まれる緊張感なのかも知れません。アケルマンがテーマとするのは、フェミニズムと言われます。確かにそのとおりなのでしょうが、その背景には、人間の孤独という普遍性の高いテーマが横たわっているように思います。アケルマンが執着したのは、孤独がゆえに愛を求め、愛を知ったがゆえに一層深い孤独に陥る、というジレンマだったと思います。

アケルマンの映画には、モティーフとして死が多く使われていると言われます。それは孤独をテーマとする場合の必然的な選択だとも思えます。死は本質的に孤独なものですが、同時に孤独からの解放でもあります。プルーストの「失われた時を求めて」第5編「囚われの女(原題は囚人)」を原作とする「囚われの女(原題は捕虜)」(2000)では、女だけでなく男も孤独という檻の中に囚われています。また、彼女の長編ドラマの遺作となった「オルメイヤーの阿房宮」(2011)は、コンラッドの「オルメイヤーの愚行」を原作としています(阿房宮は翻訳本の意訳タイトル)。フェミニズム、人種差別という視点が注目を集めますが、オルメイヤーの絶望的な孤独の物語でもあります。

同じように「一晩中」で積み重ねられるスケッチが紡ぐのは、ブリュッセルの街の風情ではなく、孤独がゆえにもがく人々の姿のように思えました。もがけば、もがくほど、その孤独さが露わになります。市井は、囚われた男女やオルメイヤーであふれているわけです。シャンタル・アケルマンは、長編ドラマだけでなく、精力的にドキュメンタリーや短編映画も制作しています。また、ベルリン映画祭の審査員やNYのシティ・カレッジの講師などにも就いています。アケルマンは、2015年、パリで亡くなっています。鬱病を患ったうえでの自殺だったようです。(写真出典:imdb.com

2023年5月3日水曜日

氷菓

アイスクリームは好きですが、年に数回食べるという程度です。それもレストランの食後のデザートとして食べることがほとんどです。いわゆる”口直し”というわけです。ソフトクリームも好きですが、それとて機会があれば年に1~2回食べる程度でしょうか。かき氷に至っては、数年前、家族で台北へ行った際に食べたきりです。要は、美味しいとは思っても、冷たい食べ物が苦手なわけです。歯の調子が悪かったことにも関係していると思われます。氷菓と言えば、アイスクリーム、ソフトクリーム、アイスキャンデー、ジェラート、シャーベット、フラッペ、かき氷等が思い浮かびます。冷蔵・冷凍技術の進化とともに、裾野を広げてきたわけですが、最も原始的な氷菓はかき氷なのだと思います。

かき氷、あるいはシャーベットやソルベは、古くから世界各地で食べられていたようです。古代エジプト、古代ペルシア、あるいは古代中国にも記録が残ります。古代ローマでは、アルプスの氷を削り取り、夏に食べていたとされます。マルコ・ポーロが中国から持ち込んだ食文化という説もあります。ただ、パスタがそうであるように、東方見聞録のはるか以前から欧州に存在していたわけです。そもそもシャーベットの語源はアラビア語であり、欧州には中東から伝播したのかも知れません。日本でも、清少納言の「枕草子」に”あてなるもの(良いもの)”として登場しています。まさに世界各地で古くから食べられていたわけですが、いずれも支配階層しか食べられない貴重品でした。

大衆の口に氷菓が入るようになったのは近世以降ということになります。16世紀初頭、イタリアのパドヴァで、水に硝石を加えて水温を下げる技法が発見されます。自然の雪や氷を使わずに氷菓を作ることが可能になったわけです。ミルクに空気を含ませてクリーム状にし、それを凍らせて作るアイスクリームが登場したのは、16世紀のフィレンツェと言われます。カテリーナ・ド・メディチが、フランスのアンリ2世に嫁いだ際、職人を伴い持ち込んだという話は有名です。ただ、これは証跡に乏しい面があり、最近では、パリに現存するカフェ「ル・プロコープ」が、18世紀初頭、ホイップ・クリームを凍らせて作ったのがアイスクリームの始まりとされているようです。

アイスクリームの大衆化を一気に進めたのは産業革命だと言えます。その製法からして、工場生産に向いていたわけです。世界で最もアイスクリームを愛する国の一つは、世界最大級の工業国であり酪農国であるアメリカだと思います。各家庭の大きな冷蔵庫には、大型容器入りのアイスクリームが必ず入っています。TVを見ながら、アイスクリームの大きな箱を抱え、大きなスプーンで直接食べる姿は、アメリカ人の典型でもあります。19世紀半ば、ボルチモアの牛乳屋が、余ったミルクを活用するために、アイスクリーム工場を作ります。その後、禁酒法の時代を迎えると、アイスクリーム工場は一気に拡大し、国民食の地位を獲得することになりました。アメリカ人の体は、ステーキとアイスクリームで作られています。

日本のアイスクリーム事始めは、明治2年、遣米使節団の一員だった町田房蔵が馬車道に開いた氷水店の「あいすくりん」です。一盛りの価格は金二分、現在価値にして8,000円程度でした。工場生産は、大正9年、深川の富士食品(現冨士森永乳業)が始めています。日本のアイスクリーム市場は、バブル崩壊から2003年まで一時減少し、それ以降は拡大を続けています。商品別には、森永の「チョコモナカジャンボ」がトップを維持しているようです。手を汚すことなく持って食べられる気軽さに加え、最中の内側をチョコでコーティングし、かつ厳密な出庫管理を行うことで得られるパリパリ感が人気なのだそうです。私のイチオシは、ハーゲンダッツ・ミニカップのグリーンティーです。おやつではなく、食後のデザートには最適なアイスクリームだと思っています。(写真出典:haagen-dazs.co.jp)

2023年5月1日月曜日

天下普請

16世紀末江戸周辺
18世紀、江戸の人口は100万を超え、世界最大の都市だったと言われます。記録に残るのは町人の人口60万人だけであり、それに武士・僧侶・被差別部落民の推定を加えると100万を超えるようです。江戸が、ロンドンの86万、パリの54万を超え、北京や広州と並ぶ世界最大級の都市であったことは間違いないようです。1590年、家康は、秀吉の命によって国替えとなり江戸に入ります。当時の江戸は、交通の要所ながら、古びた小城と日比谷入江に面した寒村があるばかりだったようです。家康は、早速、埋め立て等に取り組みますが、1603年、征夷大将軍となって幕府を開くと、本格的に城と城下町の拡張整備を開始します。50年以上に渡って行われた大工事は、各地の大名が分担して行い、天下普請と呼ばれました。

大都市江戸を生んだのは、江戸期の天下太平だったわけですが、計画的、かつ大規模なインフラ整備によるところも大きかったのでしょう。埋め立てや河川の付け替えといった大規模な土木工事、上水道の建設、螺旋状の外濠に沿った水運の確保など、水を征したからこそ世界一の都市は生まれたと言えます。家康が、まず着手したのは、日比谷入江等の埋め立てですが、同時に、東京湾に注ぐ暴れ川を付け替えて太平洋に流す利根川東遷、行徳塩田の塩を安全に効率良く江戸城に運ぶ小名木川開削にも取り組みます。埋め立ては当初から水路を通すことが計画され、利根川東遷は洪水対策のみならず新田開発や水運も目的とされ、開削された小名木川の南北でも新田が開発されました。グランド・デザインの壮大さに驚かされます。

上水開発は、井の頭湧水を取り込む神田上水、多摩川の水を羽村付近から取水する玉川上水等が開発されます。上水は、地中に張り巡らされた木製の樋を通して庶民に届けられます。17世紀にあっては、世界最高水準の上水設備だったようです。また、城の石垣はもとより、各土木工事にも多くの石材が使われています。その多くは、伊豆半島から切り出された硬質の安山岩であり、船で江戸へ搬送されました。山中から切り出し、積出港まで下ろし、船積みするわけですから、大変な重労働です。石材を江戸へ運ぶために3千を超える船が建造され、うち時化等にあって沈んだ船は300叟と記録されます。石材の切り出しから運搬までも、他の工事と同じく、各大名に割り振られました。

天下普請は、大名にとって、大きな負担だったことは、各藩に残る文献からも明らかです。徳川政権による大名統制は見事なものであり、それゆえに260年の平和が実現したとも言えます。天下普請も、ギリギリのところで大名の忠誠を試すとともに、大名の財力を削ってゆく政策だったと思われます。ところが、不思議なことに、不満を抱える大名たちによる倒幕の動きはありませんでした。むしろ、競い合うように普請に取り組んでいます。もちろん、日本の主要部を握った幕府と親藩の武力に敵わないということでしょうが、武家諸法度、参勤交代等の統制策も効いていたのでしょう。参勤交代は、大名の財力を削るという面もありますが、何よりも正室と世継ぎを江戸に留め置くというえげつない人質政策でした。

幕府の命令に抗うことは難しかったわけですが、普請を競い合う構図の背景には、幕府の巧みなインセンティブ・システムが効いていたとも言えます。武力を背景とした強制だけではなく、普請への取組や成果によっては、官位の昇進や領地の拡大という人参もぶら下げられていました。太平の世になると、戦いによって領土を広げる可能性は無くなり、幕府への忠誠だけが残された道になったわけです。武力こそ武家のレゾンデートルですから、各藩は武力の維持に努めますが、明らかに武士のあり方は変質し、棘は抜かれたと言えます。それこそ家康が天下普請によって狙ったことなのでしょう。家康の最も優れた点は、その構想力だったように思えます。天下普請は、単に大都市・江戸を誕生させただけでなく、江戸期の太平をもたらし、近代日本発展の礎を築くことになったわけです。(写真出典:shiseki-chikei.com)

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