タイトル:ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地 監督:シャンタル・アケルマン 1975年ベルギー・フランス
☆☆☆☆+
(ネタバレ注意)
ジャンヌ・ディエルマンは未亡人であり、高校生とおぼしき息子と、質素で小ぶりなアパルトマンに暮らしています。固定カメラの長回しが捉えるのは、毎日、家事を規則的にこなすジャンヌの日常です。劇伴もなければ、台詞もほとんどありません。日々のルーティンのなかには、夕方、自宅で行われる売春も含まれます。それとて、男を迎え、金を受け取って帰すシーンのみで淡々と伝えられます。規則的に繰り返されるジャンヌの日常ですが、2日目から、ルーティンに些細な綻びが生じます。それは、ジャンヌの心の揺らめきを象徴しているかのようですが、ジャンヌ自身はそれが何なのか理解していません。ルーティンの整然さが揺らぐ状態は3日目の夕方まで続きます。映画は、ここまでで3時間10分を超えます。ジャンヌは、夕方のルーティン化した売春の後、突如、客の喉をハサミで刺します。そして、暗い居間に座るジャンヌが、延々5分以上に渡り映し出され、映画は終わります。放心したかのようなジャンヌですが、一瞬、満足げな表情を浮かべた後、まどろんでいきます。ジャンヌの横には、売春で得たお金を入れておく大きな陶器のポットが象徴的に映されています。これが英国映画協会が、史上最高の映画に選出したジャンヌ・ディエルマンのプロットの概要です。映画は、台詞と演技、カメラ・ワーク、劇伴などでドラマを構成しますが、ジャンヌ・ディエルマンは、そのすべてを否定し、ドラマそのものまでを否定しているかのようです。それは、観念的、あるいは図式的に過ぎるという批判を受けることになります。
観念的であるがゆえに、具象的描写を、丁寧に、かつ延々と積み上げる必要があったとも言えます。観客にとって、淡々と続く日常を描写する3時間20分は苦痛です。しかし、それは、女性の置かれた立場と苦悩を表現するため、そして観客にそれを体感させるために必要な時間だとも言えます。ジャンヌ・ディエルマンが、フェミニスト映画の最高峰とされる理由でもあります。しかし、アケルマンは、決してラディカルなフェミニストではありません。フェミニズムを、より客観的な視点で捉えているようなところがあります。そのスタンスが、ジャンヌ・ディエルマンの持つ強烈な印象につながっていると思います。キッチンで繰り返される家事労働も、何の感情もないままに行われる売春も、静的な描写がゆえの凄みを持って、女性の隷属的、抑圧的な立場を伝えます。
ジャンヌ・ディエルマンは、スロー・シネマというジャンルに分類されることがあります。あまり定義のはっきりしないジャンルですが、確かにアントニオーニ、パゾリーニ、タルコフスキー、ソクーロフ、アンゲロプロス等の映画には共通した表現ではあります。固定的カメラ、長回し、緩やかなテンポ等によって、押しつけがましいドラマの展開は否定され、観客自身に考えること、あるいは感じることを求めてきます。シャンタル・アケルマンも、スロー・シネマの作家であることは間違いありません。しかし、スロー・シネマの多くは、観客に判断を委ねたり、虚無感を表現するために、スローな表現が選択されているように思います。対してジャンヌ・ディエルマンの持つスローさは、多少、異なります。
シャンタル・アケルマン、特にジャンヌ・ディエルマンは、論理的にテーマを追究した結果としてのスローさだと思います。監督の意図を明確に観客に伝えるために採られた、ある意味、必然性の高い手法だとも言えます。絵画や音楽は、作家の意図に関わらず、受け手の好きか嫌いかが全てだと思います。スロー・シネマも似たところがあります。ただ、シャンタル・アケルマンの映画は、観客の好きにはさせません。緻密な構成によって観客の思考や感情をもコントロールしようとしています。そういう意味では、より文学に近いとも言えそうです。ジャンヌ・ディエルマンは、映画を根底から変えた作品とも言われますが、分かるような気もします。(写真出典:amazon.co.jp)