2021年5月31日月曜日

純連

15~16年前、久々に札幌へ出張し、仲間たちと宴会をして、真夜中近くにホテルへ戻りました。空腹だったわけではないのですが、無性にラーメンが食べたくなり、いつも行く店ではなく、新しい人気店を試してみようと、フロントで聞いた店に入りました。驚きました。豚骨醤油の店でした。札幌で、わざわざ豚骨醤油はないだろうと、多少腹立たしくも思いました。ただ、冷静に考えてみれば、観光客のニーズと地元の人たちのニーズは同じではないわけです。札幌の若い人たちだって、全国的に流行するこってり系を食べたいわけです。豚骨醤油を紹介されたことに、ムッときたわけですが、実は、ラーメン自体のレベルは高く、結構、良い味でした。 

札幌のラーメンの発祥は、北大正門前にあった「竹家食堂」だとされます。ラーメンと言う言葉も、ここで生まれたという説もあります。しかし、それは札幌におけるラーメンの歴史であって、札幌ラーメンの誕生とは異なります。札幌ラーメンは、戦争直後、狸小路に出店した松田勘七の「龍鳳」、西山仙治の「だるま軒」という2台の屋台から始まる、というのが定説です。ちなみに、西山仙治は、その後、製麺に特化し、西山製麺を起こしています。そして、札幌ラーメンは、1959年、「味の三平」の大宮守人が7~8年かけ開発したという味噌ラーメンの登場で確立されました。翌年、「暮らしの手帳」の花森安治が週刊朝日に書いた「ラーメンの街札幌」という記事がブームを巻き起こし、味噌を中心とした札幌ラーメンというブランドが定着しました。

大宮の味噌味をベースに、多くの店が味噌ラーメンを出すなか、64年、村中明子が中の島に「純連(すみれ)」を出店します。その画期的な味噌ラーメンは、口コミで広がっていきます。ただ、中心部から離れていたこともあり、はじめて私が食べたのは、85年、中島公園に移転後のことでした。衝撃的でした。コクのある複雑な味わいは、三平スタイルとは全く違うものでした。伝統的な味噌ラーメンは、今でも大好物です。ただ、この革命的なラーメンは、まったく別ジャンルとして虜になりました。その後、長男が継いで澄川に出店したのが87年。翌88年には三男が中島公園に「すみれ」をオープンします。もともと村中明子の店は”純連”と書いて”すみれ”と読み仮名を振っていました。暖簾の読み仮名が薄れ、客たちが”じゅんれん”と呼び始めたので、そのまま店名にしたと言います。三男は、読みを復活させたわけですが、味は焦がし味噌という進化を遂げていました。

2000年、すみれで7年修行した奥雅彦が独立し、美園に「彩未(さいみ)」を開くと、瞬く間に札幌ナンバーワンに躍り出ます。これまた都心部から離れているので、出張のついででは、なかなか行けなくて、10年ほど前に初めて行きました。純連系ではあるものの、野菜の甘味を活かしたやさしいスープが時代を感じさせました。近年、札幌のラーメンの多様化が、相当に進んでいるようですが、札幌ラーメンの背骨を構成するのは、三平・純連・すみれ・彩未だと思います。もし札幌にラーメン博物館を作るなら、玄関前に置くべきは、三平の大宮守人、純連の村中明子、この二人の銅像だと思います。ちなみに、個人的なベストは、すみれです。札幌に行った際には、無理してでも行くようにしています。

札幌ラーメンの歴史を変えたのが、女性だったという点は、とても興味深いと思います。三平をはじめとする、豚骨、ラード、味噌、にんにくといった男っぽい札幌ラーメンを、濃厚でありながら、繊細なコクとうま味の世界に変えることができたのは、女性ならではの感性だったのではないかと思います。(写真:初代純連 出典:junren.co.jp)

2021年5月30日日曜日

ドラゴン・レディ

マダム・ヌーことチャン・レ・スアンは、かつて南ヴェトナムの大統領だったゴ・ディン・ジエムの実弟ゴ・ディン・ヌーの夫人でした。夫のゴ・ディン・ヌーは、大統領顧問として、秘密警察を率い、反対勢力に対して徹底的な武力弾圧を行った人物として有名です。義兄ゴ・ディン・ジエムは、生涯独身だったので、マダム・ヌーが、事実上のファースト・レディとして、外交の場等で活躍します。もともと過激な言動で知られるうえに、筋金入りの反共主義、強硬な対米姿勢、そしてサイゴンで焼身自殺した僧侶を”人間BBQ”と呼んだことから、ドラゴン・レディとも呼ばれました。

チャン・レ・スアンは、1924年、フランス支配下のハノイで、上流階級の子女として生まれます。父はフランスに学んだ弁護士、母はバオ・ダイ帝の従姉妹という貴族でした。レ・スアンは、徹底的にフランス人としての教育を受けます。ただ、それは、彼女に、自分がフランス人ではないことを知らしめたという面も持っていたようです。彼女は、母が勧める結婚相手立ちを蹴って、フエの貴族ゴ・ディン・ヌーと結婚します。若いレ・スアンは、家を出ることが最優先だったと語っているようです。1954年、ヴェトミンがフランスを追い出すと、彼女は、親フランスの上流階級として軟禁、迫害されます。この経験が、彼女の徹底的な反共姿勢の根本にあるとも言われます。

同じく強硬な反共主義者である義兄のゴ・ディン・ジエムは、バオ・ダイ帝の内相を務め、1954年には、バオ・ダイを首班とするフランスの傀儡政権ヴェトナム国の首相に就任します。翌年、不正な選挙によってバオ・ダイを退任させ、ヴェトナム共和国を建国し、大統領に就任します。ヴェトミンとフランスを中心とした停戦協定であるジュネーブ協定では、一旦、17度線以北はヴェトミン、南はフランス支配としたうえで、56年に選挙を実施して統一国家をつくる予定でした。しかし、アメリカの後ろ盾を得たゴ・ディン・ジエムは、これを無視し、北ヴェトナムとの対決姿勢を鮮明にします。東西冷戦下、中国の支援を受ける北ヴェトナム、アメリカの支援を受ける南ヴェトナムという、朝鮮戦争に続く代理戦争の構図が生まれたわけです。

とは言え、インドシナにおける共産勢力拡大を阻止したいジョン・F・ケネディ、そしてキリスト教をベースとした新たな王朝を築きたいゴ・ディン・ジエムとでは、その思惑にズレがありました。アメリカから、北と戦うことだけを期待されたゴ・ディン・ジエムですが、ゴ・ディン・ヌーを使って、国内の反対派を駆逐し、独裁強化に血道を上げます。ケネディ大統領はいらだち、ついにヴェトナムへの兵力投入を決定します。両者のズレの上に咲いたあだ花がマダム・ヌーでした。渡米して、積極的にマスコミへに登場した彼女は、権力欲をむき出しに、米軍の支援を求めつつ、内政干渉を拒否します。ゴ・ディン・ジエム体制の象徴とも言える彼女に対し、ケネディ政権は激怒します。それも災いしてか、63年、CIAのバックアップを受けた軍事クーデターが発生、ゴ・ディン・ジエムとゴ・ディン・ヌー兄弟は射殺され、マダム・ヌーは、フランスへ亡命します。

CIAによるクーデター支援を黙認したケネディでしたが、ゴ・ディン・ジエムの死にはショックを受けたと言われます。クーデター直後、ゴ・ディン・ジエムは自殺したという報告が届きます。ケネディとジエムは、ともにカトリック信者です。カトリックが自殺を厳に禁じていることから、ケネディは衝撃を受けたのだ、と言われています。それも事実なのでしょうが、実は、ホワイトハウスが恐れたのは、アメリカは用済みとなった同盟国の元首を殺す、という評判が広がることでした。アメリカ政府を信用する人間がいなくなる恐れがあります。その後も、アメリカは、いくつかの国のクーデターに関与しますが、敗れた元首を救出・保護、ないしはその努力をしています。フィリピンのマルコスも、その実例です。ちなみに、マダム・ヌーは、その後、帰国を拒否され続け、故郷を見ることなくローマで客死しています。87歳でした。(写真出典:pinterest.com)

2021年5月29日土曜日

アリソン・バンカー

2021年全米プロゴルフ選手権は、フィル・ミケルソンが、メジャー最年長記録となる50歳で、16年ぶり、2度目の優勝を手にしました。ミケルソンの衰えぬ技量に驚きました。海風が強く吹き付ける砂と湿地だらけの難コースにも驚きました。もっと驚いたのは、1万人に制限されたというギャラリーの熱狂ぶりです。アメリカのギャラリーのにぎやかさは有名ですが、大人気のミケルソンの活躍に加え、コロナの憂さ晴らしかのような大騒ぎ。インドの宗教行事クンブ・メーラと見紛うばかりの密集ぶりでした。皆、この日を待っていたのでしょう。会場となったは、サウス・カロライナ州のキアワ・アイランド・ゴルフ・リゾートのオーシャン・コースです。米ゴルフ・マガジン誌が選出する世界のベスト100コースにも入っています。

そもそもゴルフ場は、世界の209カ国に32,471コースあります(2019R&A調べ)。その半数にあたる14,640がアメリカにあり、次いでカナダの2,265、日本の2,227、英国の1,936と続きます。競技人口は、世界で6,300~6,500万人おり、バスケットボール、サッカー、クリケットに次ぐ第4位ながら、減少傾向が続き、ゴルフ・コースも減っているようです。そのなかで、ベスト100コースのトップに輝き続けてるのは、NJ州のパイン・ヴァレーです。フィラデルフィア近郊にあり、1913年に創設されたプライベート・コースです。「18の個性的で美しいチャレンジ」とも形容されるそうです。設計者は、ジョージ・クランプですが、完成前に亡くなったため、仕上げたのは、チャールズ・アリソンだったそうです。

アリソン・バンカーと呼ばれる深いバンカーで有名なチャールズ・アリソンは、1930年に来日し、東京ゴルフ倶楽部朝霞コース(閉場)、藤沢カントリー倶楽部(閉場)、川奈ホテル富士コース、廣野ゴルフ倶楽部を設計しています。20~21年版の世界のベスト100コースに入った日本のコースは2つ。廣野が39位、川奈が56位と、いずれもアリソン設計のコースです。他にも、霞ヶ関カンツリー倶楽部東コース、鳴尾ゴルフ倶楽部、茨木カンツリー倶楽部東コースの監修や改造にも関わりました。日本を代表するゴルフ・コース設計者と言えば、霞が関、日光、大洗、茨木等で知られる井上誠一です。井上は、来日中のアリソンに出会ったことで、コース設計者を目指します。井上は、アリソンが図面を書いた霞ヶ関カンツリー倶楽部東コースの改造に参加することで、徹底的にアリソンを研究し、後のコース設計に活かしたと言われます。

神戸の廣野ゴルフ倶楽部では、仕事の関係で何度かプレイしました。1932年開場のコースは、日本最高のコースとして有名ですが、厳密にメンバー同伴を求めていることもあり、なかなかプレイできません。英国風の古いクラブハウスは趣があり、自分で量を決めるチャーハンとカレーのハーフ&ハーフは昼食の名物であり、プレー後の歓談の際には、神戸牛の網焼きが有名です。私の好物は、ヘレかつサンドです。日本一美味しいカツサンドだと思います。一度、併設された博物館を見せてもらいました。興味深い展示が多く、もっと多くの人に見せるべきだと思いました。コースは、よく手入れされた美しい公園を、我々だけで散歩しているような風情です。アンジュエーション、砲台グリーン等、私のような素人にはなかなか厳しいコースですが、最も恐ろしいのは、広大なウェスト・エリアとアリソン・バンカーです。ま、本家本元のアリソン・バンカーですから、来場したら、是非とも楽しむべきだとは思います。

ゲストとして廣野でプレーすると、キャディバッグに金メッキの来場記念タグをつけてくれます。わざわざ外すまでもないので、いつもキャディバッグに5~6個くらいつけていました。すると、別のコースでご一緒した方々数人から、貰えませんか、と言われたことがあります。もちろん、差し上げました。聞けば、ネット・オークションでは千円以上する人気アイテムなのだそうです。特にご婦人方は、バッグに付けるのがおしゃれなのだそうです。プレイしたこともないのに、そんなものをぶら下げる気持ちが、よく分かりませんでした。(写真 川奈のアリソン・バンカー 出典:pargolf.co.jp)

2021年5月28日金曜日

百花運動

中国のドキュメンタリー作家ワン・ビン( 王兵)の唯一の劇映画「無言歌」(2010) を観ました。1957年に、毛沢東が発動した反右派闘争で犠牲となった人々を描いています。ワン・ビンは、2018年、8時間を超える大作ドキュメンタリー「死霊魂」をリリースしていますが、これは反右派闘争を生きのびた犠牲者へのインタビューで構成されます。また、2007年の「鳳鳴 中国の記憶」も同様のテーマでした。残された記録映像も無く、生存者のインタビューだけでは十分に伝えきれない面もあり、反右派闘争の実態をより明らかにするためには、ドラマ化せざるを得なかったのでしょう。舞台は、ゴビ砂漠に存在した夾辺溝再教育収容所であり、撮影も同地で行われました。ドラマではありますが、セミ・ドキュメンタリーと言っていいのだと思います。人権を否定され、不毛の地で”再教育”される収容者の姿から、全体主義の恐怖が浮かび上がります。

1956年、毛沢東は、「百花斉放・百家争鳴」を打ち出します。多彩な文化を開花させ、多様な意見を論争する、という意味ですが、共産党批判も含め、多くの大衆の意見を集めるという運動でした。ソヴィエトでは、53年にスターリンが死に、56年にはフルシチョフによるスターリン批判が行われました。スターリンによって支持された毛沢東独裁体制にも影響が及び、微妙な陰りが生じます。毛沢東は、スターリン批判を行ったフルシチョフを修正主義と呼び、中ソの関係は悪化していきます。百花運動のねらいは右派のあぶり出しだったとも言われますが、大衆を動員して自らに批判的な官僚体制に攻撃を加え、再度、権力を固めることが真のねらいだったと思われます。後の文化大革命と同じ手法です。毛沢東は、大衆を動員することで体制を覆す、という革命的手法に、絶対の自信を持っていたのでしょう。

ただ、百花運動は、毛沢東の意図どおりには進みませんでした。主に知識階層から、官僚体制ではなく、共産党そのものに対する批判が続出します。57年、焦った毛沢東は、右派が革命を攻撃している、として反右派闘争を発動します。少なくとも55万人が、処刑、あるいは僻地の再教育収容所送りとなり、多くの人が収容所で命を落としました。批判しろと言われ、批判すると収容所送りになったわけです。さらに言えば、反右派闘争は、官僚体制内での派閥争い、出世競争に利用され、右派とは言えない多くの人々が失脚させられました。毛沢東の死後、77年には、胡耀邦が、反右派闘争の犠牲者の復権を行いました。ほぼ全員が名誉を回復し、結果、100人弱だけが、正真正銘の右派と再認定されたようです。100人のために、55万人が巻き添えになったわけです。

その後、毛沢東は、58年、フルシチョフのソヴィエトに対抗するために、工業生産、農業生産の飛躍的拡大をねらう大躍進政策を打ち出します。大躍進政策で設定された無理なノルマに自然災害も加わり、空前の大飢餓が発生し、3~4千万人が犠牲者になったとされます。批判された毛沢東は、権力の座から退きますが、巻き返しをねらって起こしたのが文化大革命でした。毛沢東は、単なる権力亡者だったとは思いません。革命は、官僚によって劣化、堕落させられるものであり、革命そのものである自分が、プロレタリアを先導して戦い続けなければ、革命を成就することはできないと信じきっていたのでしょう。しかし、それは、プロレタリア独裁を目指して戦う純正独裁者という矛盾でもあります。あるいは、神になった男の大いなる勘違いかも知れません。

毛沢東が発動した政治運動は、常に多大な犠牲者を生みました。毛沢東の意図をも超えた極端な行動に走るは、下級官吏や学生といった末端の人たちです。「革命無罪」という毛沢東の言葉のとおり、大儀実現のための犠牲は止む無しとする共産主義の特徴でもあります。ただ、それ以上に、やらなければやられる、極端に振れておかなければやられる、といった恐怖の蔓延が背景にあるように思われます。一神教による苛烈極まりない宗教戦争とも似ています。それは、教義上のユートピアを共有しない不完全な宗教としての共産主義の特徴でもあります。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年5月27日木曜日

かぎやで風

沖縄の古典音楽「かぎやで風」は、琉球音曲の特徴を余すことなく伝える名曲だと思います。また、唯一の翁踊りともいわれますが、これまた琉球舞踊のエッセンスが詰まっています。沖縄の祝いの席の座開きとして、あるいは新年を寿ぐ曲として演奏されます。もともとは、尚王朝時代の宮廷音楽です。王の御前で演奏される御前風五節の一つとして、300年前に成立しました。”かぎやで風”は書き言葉であり、発音は”かじゃでぃふう”となります。”かぎやで”とは何を指すのか、あるはその起源については、諸説あるようです。

第二尚王朝の開祖である尚円王は、故郷である伊是名島を追われ、国頭村にたどり着き、土地の若い鍛冶屋に助けられます。王の座についた尚円王は、鍛冶屋を出世させます。それを感謝した鍛冶屋が詠んだ琉歌が「鍛冶屋手風」になったという説があります。尚円王は、第一尚王朝の尚泰久王に見いだされ、最高位まで出世します。しかし、尚泰久王の没後、尚徳王が即位すると、血気盛んな若い王と合わず、隠居します。尚徳王は、家臣団の信頼を失いクーデターが起こります。そこで王に担ぎ出されたのが尚円王でした。この間の経緯についても諸説あるようですが、いずれにしても15世紀中期のことです。「かぎやぎ風」は、それから2百年以上たってからの成立です。恐らく、尚王家におもねって、尚円王のエピソードをこじつけたのでしょう。

興味深い説があります。かぎやで風は、能楽・狂言の式三番の影響を受けて始まり、その古い演出に登場する延命冠者から、”冠者手風”と命名されたいうものです。式三番は、古くからあった老体の神が祝言を行うという民間芸能が猿楽へと継承されたもので、父尉・翁・三番叟で構成される儀式的な芸能です。現在、能楽では翁、狂言で三番叟が舞われます。また歌舞伎等でも、やはり祝言として演じられます。かつて、父尉は、老人と延命冠者によって舞われたようですが、現在では、能楽の翁の特殊演出に姿を留めるだけのようです。老人、祝言といったあたりは、まさにつながるものがあります。薩摩藩による琉球侵攻は、1609年に始まります。能楽は武家に愛好されたわけですが、ことに薩摩藩は能楽が盛んだったことが知られています。かぎやで風のルーツとしては理解しやすい話です。

琉球古典芸能の粋と言えば組踊ですが、18世紀初頭、尚王朝の重臣であった玉城朝薫が創作したと言われます。朝薫は、日本の芸能に造詣が深く、琉球の古典芸能に、能・歌舞伎、そして中国の京劇・崑劇の要素も取り入れ、組踊を作ったとされます。琉球王朝にとって、清の冊封使の接待は、極めて重要な政治的行事であり、そのメインとして演じられました。今も演じられる「二童敵討」や「女物狂い」といった組踊の代表的演目は、朝薫の作です。東京での組踊公演は、年に1回程度です。2005年に開場した国立劇場おきなわでは、月に1~2回の公演があります。沖縄に遊びに行くときは、公演スケジュールを確認し、可能な限り、日程を合わせるようにしています。

いずれにしても、琉球古典芸能のいくつかは、琉球の伝統と日本の古典芸能が出会い、生まれたと言えます。ただ、日本の影響は、様式的な部分に限られ、根本を成す、琉球音階による音曲、そして宮廷で育まれた舞踊は、琉球の伝統そのものだと思います。沖縄は、芸能の島、とも言われます。芸能を職業とする人は、500~600人いると言います。その多くは、観光客相手の島唄バーで歌う人たちなのでしょう。魅力あふれる琉球古典芸能を継承する観点からも、国立劇場だけでなく、もっと気軽に公演を楽しめる場もあってもいいように思います。(写真出典:ryukyushimpo.jp)

2021年5月26日水曜日

ヒマラヤン・データベース

Elizabeth Hawley '63 
海外へ旅行した際、現地ツアーを利用することがあります。日本語ツアーの場合、ガイドの多くは、現地に住む日本人の方です。その方々が、異邦人として、そこに住むことになった経緯は、結婚、留学、研究、修行等々、実に様々なのでしょう。異邦人という言葉の持つ、やや詩的で哲学的なムードも相まってか、興味を感じます。フランス語でエトランジェ(étranger)と言えば、ロマンティックな響きがありますが、意味は単なる外国人です。英語では、エイリアン(alien)とも言います。これでは、なんの詩情も感じません。ネパールのカトマンズには、極めて有名なアメリカ人の女性エイリアンがいました。ヒマラヤ登山の年代記編者として知られたエリザベス・ホーリー女史です。

興味深いことに、彼女は、登山家でもなく、ヒマラヤに登ったこともなかったようです。エリザベス・ホーリーは、1923年シカゴに生まれ、ミシガン大学を優秀な成績で卒業後、フォーチューン誌のリサーチャーになります。57年に世界一周の旅に出て、カトマンズに魅せられます。59年には、職を辞してカトマンズに移住。以降、タイム誌、後にロイターの現地特派員として活躍しました。彼女は、ヒマラヤに入る全ての登山隊にインタビューします。その粘り強く、正確な調査は、世界の山岳界から高く評価され、他に記録組織もないことから、なかば公的なヒマラヤ登山のデータ・ベースとして認められていました。山岳界のシャーロック・ホームズともあだ名され、交流のあったエドモンド・ヒラリー卿は「少し怖い存在でもある」と語っているそうです。

なぜ怖いのか、という点は興味深いところです。登山は、審判のいないスポーツとも呼ばれ、登頂の成否は自己申告に基づきます。彼女の徹底的な調査は、その真偽を明らかにするという側面も持っていたのです。事実、彼女が暴いた虚偽申告もありました。韓国の女性登山家オ・ウンソンによるカンチェンジュンガ登頂も、その一例です。オ・ウンソンが、女性初となる8000メートル峰全制覇を成し遂げたという報道がなされます。しかし、彼女がカンチェンジュンガ山頂で撮ったという写真の角度に疑問を持ったエリザベス・ホーリーは、彼女が実際には登頂していないことを暴き、公式記録は抹消されました。エリザベス・ホーリーは、まさにシャーロック・ホームズだったわけです。

地球上に、8,000mを超す山は、14座あります。最初に登頂されたのは、1950年のアンナプルナ(8091m)です。以降、50年代に12座まで登頂され、60年にはダウラギリ(8167m)、64年には最後の未踏峰シシャパンマ(8027m)への登頂が成功しています。50年代以降に初登頂が集中しているは、政治的状況の安定、そして装備の進化も関係しているのでしょう。また、8,000メートル峰全14座制覇を成し遂げた登山家は、33人います。イタリアのラインホルト・メスナーが、史上初となる全14座制覇を成し遂げたのは86年でした。恐らく、相当の資金が無ければ達成できないことであり、登山がビジネスとして成熟した証でもあるのでしょう。実は、疑義ありとされた有名登山家の登頂は、90年以降に多く摘発されています。登山のビジネス化が、虚偽申告を生んだということなのでしょう。

かつて登頂を証明するものは、写真、同行シェルパの報告、そして本人の証言の整合性だけだったのでしょう。まさにシャーロック・ホームズが必要だったわけです。逆に言えば、エリザベス・ホーリーのお墨付きが得られれば、登頂は公式記録として認定されたとも言えます。ある意味、牧歌的な世界だったとも言えます。現在は、GPSはじめ、数々の電子機器の存在が、公式記録をサポートする時代になりました。それを見届けるかのように、2018年、エリザベス・ホーリーは、カトマンズで94歳の生涯を終えています。(写真出典:americanalpineclub.org)

2021年5月25日火曜日

ジェット・ラグ

超音速旅客機コンコルドは、1976~2003年、ブリティッシュ・エアとエール・フランスの定期便として就航されていました。NYのJFK空港では、ロンドン便とパリ便が運航され、専用ターミナルもありました。巡航速度は、マッハ2を超え、NY-ロンドン間は、通常の約半分の3時間で飛んでいました。 大きな三角翼に細い機体、離着陸時には下方に折れ曲がるドループ・ノーズ等の外見から怪鳥とも呼ばれていました。エンジン音は、信じがたいほどうるさく、かなり遠くからでも、コンコルドだと分かるほどでした。客席は100席で、全席スーパー・ソニック・クラスというファースト・クラスの2割増しの料金設定。搭乗した人たちに聞くと、うるさい、狭い、壁が熱い、と言っていました。通常の旅客機の倍の高度を飛ぶのですが、それでも空気抵抗は大きく、壁は常に熱を持っていたようです。

就航時から、コンコルドは、ソニック・ブームと呼ばれる衝撃波による騒音の問題、機体が高額なうえに、席数が少なく、燃費が悪いという収益性の問題等を抱えていました。航空業界が価格競争に入ったこと、同時多発テロによって需要が低迷したこと、そして墜落事故が発生し、安全性に疑義が生じたことから、2003年に現役を引退しました。実際に運行された超音速旅客機は、後にも先にもコンコルドだけです。超音速旅客機の最大のメリットは速さということになりますが、商業ベースとしてはコストが見合わないわけです。私は、長時間のフライトが苦手です。例えば、東京ーNYの13時間など、考えるだけで気が滅入ります。それが、2~3時間で済むなら、大歓迎ですが、コスト以外にも、気になることがあります。

狭い空間に押し込められる時間は短い方がいいに決まっていますが、経験上、旅の疲れは、時間ではなく、移動距離に応じるのではないか、と考えます。加えて、ジェット・ラグ、いわゆる時差ボケの問題があります。東京とNYのフライトは約13時間かかり、時差も13時間です。東京を18時に発てば、NYには日本時間の7時に到着しますが、現地時間では20時となります。いかにフライト時間が短くなろうとも、これだけは変わらないわけです。音速旅客機で、東京を18時に発ち、3時間後にNYに到着するとします、日本時間では21時到着ですが、現地時間では10時ということになります。そうなると、むしろ13時間のフライトのなかで、多少なりともジェット・ラグへの備えができる方がいいようにも思えます。

ジェット・ラグは、実時間と体内時間のズレのことです。時差がある以上、やむを得ない代物です。西へ向かう方が、東向きに比べて、ジェット・ラグは軽くなります。地球の自転との関係とも言われます。睡眠と太陽光との関係から、到着した日は、ゴルフをするなど太陽光を浴びた方が、早くジェット・ラグを解消できるとも言われます。しかし、なかなか決定的な対処法はありません。強いて言えば、事前に、可能な限り、目的地の時間に合わせた睡眠に変えておくことくらいでしょうか。かつて、さる商社の方から、画期的なジェット・ラグ対策薬がある、と聞いたことがあります。それは、一つのパッケージのなかに、睡眠薬と覚せい剤がセットになっているのだそうです。効くことは効くのでしょうが、実際に販売しているとは思えません。

今でも、超音速旅客機の開発は行われているようです。ニーズも無いわけではないと思います。今も昔も、ビジネスにおいて、当事者が直接会うことの重要性は変わらないと思います。しかし、ネットの時代、その必要性は激減しているとも思います。そんな時代に、莫大なコストをかけて開発、運用すべきことか、と言えば、大いに疑問です。オリンピックのモットー「より速く、より高く、より強く」は、競技スポーツの世界を端的に表す言葉だと思います。この言葉は、かつてビジネスの場でも使われていました。ただ、今となっては、直線的に過ぎ、昭和の香り濃い言葉のように思えてしまいます。(写真出典:afpbb.com)

2021年5月24日月曜日

菊の花

”菊の花”
初めて高知へ行った夜は、皿鉢料理で宴会、スナックで二次会、お開きとなったのが真夜中でした。驚いたことに、平日の夜中の帯屋町は、まるで休日のような人通り。その雰囲気に飲み込まれ、数人で、もう一軒行きました。普通の居酒屋でしたが、ほぼ満席。気が付くと、やはり3件目だという隣の席の若い女性たちと、じゃんけんして負けたら日本酒を一気飲み、というゲームを始めていました。酒飲みの街とは聞いていましたが、心底、たまげました。

酒類の成人1人当たり1ヶ月の消費量、つまりごく単純な酒類の消費量で見ると、東京、沖縄、宮崎、大阪、高知という順番になります(2018年国税庁資料)。東京、大阪、沖縄あたりに関しては、他県からの通勤者、観光客が消費する分も含み、それを住民数で割るので、どうしても大きな数字になります。アルコール度数を加味したアルコールの成人1人当たり1ヶ月の消費量になると、東京、鹿児島、宮崎、沖縄、秋田となります。アルコール度数の高い焼酎の消費量が多い鹿児島、宮崎、沖縄あたりが高順位になります。個人的な印象として、酒飲みが多いのは、東北・新潟、そして九州だと思いますが、何といっても一番は高知だと確信しています。

例えば新潟の人たちは、日本酒自慢でもあり、本当に良く飲みます。一度、新潟から大勢で伊香保温泉へ出かけた時のことです。宿のご主人が、新潟のお客さまは、朝から日本酒を沢山飲んでくれるのでありがたいと言うのです。宴席なら分かるけど、まさか朝は飲まないでしょう、と応えると、いえいえ、明日の朝、確かめてください、と言われました。ご主人の言う通りでした。驚きました。まさに日本酒好きということです。対して、高知の人たちは、大酒飲みもさることながら、”おきゃく”と言われる宴会が大好きなのだと思います。宴席で、どれだけ沢山飲めるか、という一点に文化が集約されているようにも思えます。沢山飲めるように酒はすっきり辛口に仕上げ、女性も腰を据えて飲むために皿鉢料理が生まれ、何度も繰り返す返杯のマナーが根付き、沢山飲むための伝統的な遊びがあります。

最も有名な遊びと言えば、”箸拳”でしょう。二人で、手に隠して出した箸の本数を当てる遊びです。負けたら一気飲みです。高知弁の調子の良い歌に合わせて行いますが、これは訓練が必要です。”可杯(べくはい)”は、もっと簡単です。専用の独楽を使い、軸が向いた人が、出た絵柄の盃で一気飲みします。盃は、穏やかなおかめ、鼻に酒がたくさん入る天狗、口の先に穴の開いたひょっとこの3種類。これも、「べろべろの神様は正直な神様だ」で始まる歌に合わせて独楽を回します。それから「菊の花」があります。丸いお盆に、人数分の盃を伏せて並べ、一つだけ菊の花ひとひらを隠しておきます。一人が一つ開けていき、菊の花に当たれば、それまでに開いた全ての盃で一気飲みです。これも「菊の花、菊の花、開けてうれしや菊の花」という調子の良い歌に合わせて進めます。これも、人数が多いと、なかなかしんどいことになります。

高知の人たち30人くらいと、純高知式の宴会に臨んだことがあります。酔いつぶれることを覚悟して出かけました。返杯の嵐から始まり、お決まりの遊びが続きます。ところが、その夜に限って、一度たりとも一気飲みが当たりません。歌を歌い、手拍子を取るだけで、夜は更けていきます。店を出る頃には、ほぼ素面の状態でした。運が良いのか、悪いのか、まあ、こういう高知の夜もありかな、と思いながら、月の帯屋町をホテルへと戻りました。(写真出典:city.kochi.kochi.jp)

2021年5月23日日曜日

ガザ・ストリップ

ガザ・ストリップの”ストリップ”とは、細長い土地という意味です。パレスティナ自治政府のガザ地区は、西は地中海に面し、南はエジプト、東と北はイスラエルに囲まれた細長い土地です。東京23区の半分程の土地に、200万人が暮らしています。パレスティナ解放機構(PLO)とイスラエルによるオスロ合意に基づき、1994年、ヨルダン川西岸とガザ・ストリップをもってパレスティナ自治政府が誕生します。PLOの主流である穏健派のファタハが政権を担いますが、強硬派のハマスとの主導権争いが起こり、武力衝突も発生します。2007年以降、ガザ・ストリップは、ハマスによる占拠状態が続いています。ハマスは、ただの軍隊組織ではなく、行政も機能させていますが、食糧はじめ、ガザの人々の生活は支援に頼っている状況にあります。

ハマスは、1987年、インティファーダ(民衆蜂起)の際に結成されたイスラム原理主義組織です。ムスリム同胞団の流れを組み、武力闘争によるパレスティナ国家樹立を目指します。いかなる宗教でも、世俗化が進むと、原点回帰を訴える宗派が、必ず登場します。イスラム教原理主義は、シャリーア(イスラム法)に基づく政治、社会の実現を目指します。近年、イスラム原理主義は、過激派の代名詞にもなっていますが、例えば、サウディアラビアも、原理主義を根本に置く国です。アラビア半島中央部の有力部族であったサウディ家が、原理主義のワッハーブ派と手を結び成立したのがサウディアラビアです。前近代的な刑罰や男女差別等、世界中から人権問題への批判が集まっていますが、法体系が1,300年前のシャリーアを基本にしているからこそと言えます。

政治は、妥協を生み出すための仕組みですが、宗教、特に原理主義において、妥協は堕落に過ぎません。ハマスとイスラエルの対立は、イスラム原理主義とシオニズムの対立であり、政治的解決を困難なものにしています。間断なく続けられてきた両者の衝突ですが、武力の違いは、あまりにも大きく、大人と子供どころではありません。そこでハマスはテロも行うわけですが、一方のイスラエルも暗殺を常套手段にしています。イスラエルが、本気でガザ・ストリップを武力制圧しようと思えば、恐らく3日も要しないでしょう。ただ、国際的批判、イスラム諸国の干渉、そして占領後のゲリラ戦に悩まされることは明確であり、根本的解決にはなりません。ハマスも、それは十分に理解しています。ハマスが戦い続ける理由は、理念もさることながら、世界の目をパレスティナ問題からそらさないためでもあります。

国家を失い、2千年間も流浪してきたユダヤ人が、自らの国家を求める心情は、痛いほどよく分かります。しかし、入植して、住民と争いを起こし、安全確保のためと称して、武力を投入し、領土を拡大していくというシオニストの手法は、到底、許容できるものではありません。ホロコーストは、人権に対する史上最悪の犯罪ですが、だからといってシオニストの横暴が許されるものでもありません。2千年前は自分たちの土地だった、あるいは神が約束した土地だと言っても、それは自分勝手な言い分でしかありません。諸悪の根源を作ったのは大英帝国ですが、それを非難しても解決にはなりません。だからと言って、未来永劫、戦闘と停戦を繰り返すわけにもいきません。現実的には、究極の妥協策である両国家併存しか道はないと思います。

妥協が生むのは不満だけです。互いを信用できない者同士の合意では、将来の火種を温存するだけになりかねません。それを回避するためには、国際社会全体が関与した合意が必要となります。双方の不満は理解できます。双方が流してきた血の重さも分かります。それでも1947年の国連総会決議181号の分割案に立ち戻るしかないのだと思います。双方が国民の合意を取り付けるのは至難の業だと想定されます。しかし、それ以上に難しいのは、アメリカはじめ大国が自らの思惑を封印できるかどうかです。既に、問題はパレスティナだけに留まらず、中東全域に複雑に関わる政治問題になっているからです。(写真:21/5/14 Gaza Strip 出典:abcnews.go.com)

2021年5月22日土曜日

バグダッド・カフェ

例えば100年後、映画の歴史を編纂するとしたら、パーシー・アドロン監督の「バグダッド・カフェ」は、必ず取り上げるべき作品の一つで、かつ最も扱い方が難しい作品の一つになると思います。1987年に制作されたこの西ドイツ映画のストーリーや各種データを記載することは簡単です。しかし、映画史の中で、どう位置付けるかについては、とても悩ましい問題です。突然、現れた大人のためのおとぎ話、とでも言うしかありません。ただ、突然変異種だからと言って、無視することはできません。なぜなら、最も長く、最も多くの人に愛された映画の一つだからです。

南ドイツのバイエルン州ローゼンハイムからアメリカ旅行に来たヤスミンは、モハーヴェ砂漠の旧66号線で、夫と喧嘩し、車を降ります。何もない灼熱の砂漠で見つけたのは、寂れ切ったガソリン・スタンド兼モーテル兼ダイナーのバグダッド・カフェでした。夫を追い出した黒人女性ブレンダが経営し、彼女の家族、英語が書けないヒスパニック系の従業員、永く居着く女刺青師、世捨人のような常連が集うカフェでした。暇を持て余すヤスミンは、掃除をしたり、赤ん坊をあやしたりしますが、ブレンダに嫌われます。間違えて夫の荷物を車から持ち出したヤスミンは、そのなかにマジック・セットを見つけ、手品の稽古を始めます。手品が皆とヤスミンを打ち解けさせ、カフェには、手品目当ての客が押し寄せてきます。

映画の舞台となるのは、砂漠のなかにポツンと残るオンボロ・カフェ、登場人物は、黒人、ヒスパニック、刺青師、世捨人、トラック運転手、そして外国人だけです。いわば、忘れられた道路沿いの忘れられた人ばかりです。アメリカの田舎が舞台にも関わらず、ドキュメンタリー作家だった監督の淡々とした描写、ハリウッドではあり得ない欧州的タッチが、実に不思議な世界を作ります。うがった見方をする人たちは、欧州の目線でアメリカ社会の矛盾を描いているとか、ヤスミンとブレンダの関係から脱家父長制を象徴しているとも言います。ただ、ヤスミンは求婚され、ブレンダの夫は戻ってきます。政治性を全面的に否定するわけではありませんが、そこまで政治的な映画ではなく、やはり大人のおとぎ話なのだと思います。だからこそ、世界中で永く愛されてきた映画なのだと思います。

日本での公開は、1989年。渋谷にあったシネマライズというミニ・シアターで、4か月間という異例のロングランになりました。これが、日本のミニ・シアター・ブームの先駆けとなったと言われます。実は、この異例のロングランは、日本に限った話ではなく、世界中で、限られた映画館で上映され、ロングランを記録したといいます。スペインでは、この映画だけを上映する、その名も「バグダッド・カフェ」という映画館が、長く存在したそうです。30年の間に、何度もリバイバル上映され、再編集版やデジタル・リマスター版も出そろっています。ロケは、カリフォルニア州にかつて存在したバグダッドの町の郊外にあるカフェで行われました。その後、カフェは、名前をバグダッド・カフェに変え、いまも世界中から訪問客が絶えないと言います。

一言で言えば、押しつけがましくなく、人のぬくもりを思い出せてくれる、心安らぐ奇跡の映画だと思います。この映画のテーマやムードを象徴しているのは、オリジナル主題歌の「Calling You」です。アカデミー賞歌曲賞にノミネートもされ、実に多くの歌手がカバーしています。砂漠の午後のけだるさを思わせるアンニュイな曲調に、人のつながりを静かに示唆する歌詞は、映像とともに心に残る名曲です。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年5月21日金曜日

山火事

30年以上前、初めてロスアンゼルスへ行った時のことです。ちょうど週末が重なったもので、日系人や駐在員のゴルフ・コンペに誘われ、参加しました。ダウンタウンから西へ1時間ばかり行ったところにある真っ平なコースでした。コースの名前は憶えていません。何番ホールかのティー・グランドに立った時、信じがたい光景が目に入りました。コースの真正面、隣接する裸山の斜面が燃えているのです。間近に火事など見た経験が無かったので、腰を抜かしました。私が「火事だ!」と叫ぶと、同伴プレイヤー諸氏は「ああ、LAではよくあるんだよ」と言いながらプレイを続けます。炎は、瞬く間に斜面を駆け上り、山頂へと近づいていきます。あたふたする私をしり目に、平然とプレイを続行するLAの人々にも驚きました。

ほどなくして、大型のプロペラ機が飛来し、オレンジ色の消火剤を巻き始めました。遠目には、その分量が頼りなげにしか見えず、到底、効果があるようには思えませんでした。地上からの消火活動は、気配すらありませんでした。飛行機は、その後、何度か飛来していましたが、結局、鎮火することはありませんでした。パーティも終わって、帰るころには、すべて焼き尽くしたのか、火の手は見えなくなっていました。ホテルに戻り、ローカル・ニュースをチェックしましたが、一切、山火事に関する報道はありませんでした。”よくあること”だったわけです。夜は、日系人会が主催するチャリティ・ショーを見に行きました。しかし、何を見ても、何を聞いても、昼に見た山火事が瞼から消えることはありませんでした。

カリフォルニアは、基本的には乾燥した土地ですが、秋から冬にかけては雨のシーズンとなります。それが、近年、雨期にも雨が降らない状況が続いていることから、山火事が頻発し、かつ巨大化しています。山火事の原因は、自然発火、人間の不注意等、様々です。アメリカの場合、7月4日の独立記念日の後、花火が引火して山火事が発生しがちとも聞きます。また、雨が降らないと、数か月前の山火事の火種が地中の根に残り、しぶとく火の手をあげることもあるようです。山火事は、厄災とばかりは言えない面もあり、人為的に火を入れる焼畑や野焼きも行われてきました。また、自然界には、火事をトリガーに発芽する植物も存在しているそうです。

映画「オンリー・ザ・ブレイブ」(2017) は、ハリウッド伝統の消防士ものですが、よくできた実話ものでもありました。アメリカには、ホットショットと呼ばれる山火事専門の消防部隊があります。2013年にアリゾナで発生したヤーネル・ヒル火災は、19名のの消防士が犠牲となった史上最悪の山火事でした。その消火活動の最前線で活躍したホットショットを描いた映画です。山火事の消火には、放水の他に、防火帯を作り、可燃物を排除する方法があります。さらに映画でも描かれていた火を使った消火方法もあります。単に、可燃物を焼いて防火帯を作るだけでなく、バック・ファイア、あるいは迎え火によって、山火事の延焼方向を変える方法があります。ただ、失敗すると延焼を拡大するというリスクがあり、地形、気象条件、火の勢い等を総合的に勘案し、慎重に実行する必要があります。熟達の専門家が必要になるわけです。

今年も、山火事シーズンがやってきます。近年では、住宅火災も含めた山火事の直接的被害に加え、煙が持たらす都市部での被害も多く発生しています。同時多発的な山火事に囲まれた街が、数日間に渡り、オレンジ色の濃い煙に襲われます。視界が悪くなるだけではなく、有害な物質も多く含まれるようです。雨以外の根本的な予防策は難しいのでしょうが、防火帯として燃焼しにくい樹木を植林する試みも始まっているようです。(写真出典:kpax.com)

2021年5月20日木曜日

Om(オウム)

国際ヨガ・デー(ニュー・デリー)
一時期、パワー・ヨガの教室に通っていました。クラスは、マントラ(真言)「Om(オウム)」を唱えるところから始まります。初めの頃は、正直、気持ち悪さを感じました。「オウム」は、バラモン教以来の長い歴史を持つ、インドでは最も一般的なマントラです。それは理解しているのですが、やはり、信じがたい凶行を繰り返したカルト教団「オウム真理教」と重なり、気持ち悪く思うわけです。「オウム」の意味するところは、宗派によって多少異なるようですが、創造・維持・破壊の三位一体を表し、世界を守るもの、世界の秩序をただすもの、とされています。仏教でも使われます。例えば、密教のお経では、”オン”という音が多用されますが、これも「オウム」のことです。

ヨーガの歴史は古く、その誕生は5千年前とも言われます。4.500年前のモヘンジョダロやハラッパーの遺跡からは、ヨーガのポーズをとるレリーフが出土しています。ヨーガの語源は、サンスクリット語で牛や馬と車をつなぐ”くびき”を意味する「ユジュ」だと言われます。アートマン(自己の真理)とブラフマン(宇宙の真理)の合一をはかり、輪廻からの解脱を目指すものです。体と魂を統一して集中力を高め、涅槃を求めると言ってもいいと思います。インドでは、宗派を越えた修行法として続いてきました。仏教では、釈迦も瞑想法として取り入れており、紀元5世紀には、「ヨーガ・スートラ」が編纂され、古典ヨーガが体系化されています。その後、16世紀には、高度な瞑想(ラージャ・ヨーガ)に至る準備として、身体を鍛錬し浄化するハタ・ヨーガが確立され、概ね現在のヨーガへと継承されます。

日本では、既に遣唐使が仏教のなかのヨーガである「瑜伽」を紹介しているようです。ハタ・ヨーガの実践は、大正時代、右翼にして実業家でもあった中村天風が、インドで修行して、帰国後に設立した「天風会」に始まるとされています。1970年代には、日本に第一次ヨガ・ブームが起こります。ブームを主導したのは、沖正弘でした。東洋医学と東洋宗教の研究家であった沖は、独自の理論に基づく修道場を運営するとともに、ヨーガ普及のために講演や執筆も行いました。1990年代には、エクササイズの要素を入れることで、第二次ブームが起こっています。ところが、オウム真理教に関する一連の事件が発生すると、日本のヨーガは壊滅的ダメージを受けることになります。日本のヨーガ人口は激減し、多くのヨーガ教室が閉鎖に追い込まれたようです。

麻原彰晃こと松本智津夫が、「オウムの会」というヨーガ教室を始めたのは1984年のことでした。この頃から、天理教をロール・モデルとした新興宗教を構想していたようです。教義は、松本智津夫が独学で得た仏教やヒンドゥー教の知識を継ぎはぎしたものだったようです。ただ、いいとこどりの教義では、当然、矛盾も、綻びも出ます。それを糊塗するため、そしてマインド・コントロールを徹底するために、過激化していったのではないでしょうか。最終的には、神的人間が、動物的人間を抹殺して、人間を進化させるというのが目的であったとも聞きます。極めて特異なカリスマ性を持った人間による、戦後稀に見る異常な事件でした。いずれにせよ、オウム真理教とヨーガの外見上の類似性が、ヨーガ界に致命的なダメージを与えたわけです。

日本のヨーガ界を救ったのは、2000年代のフィットネス・ブームでした。ハリウッド・スターたちの間で、フィットネス系ヨーガがブームとなり、世界中に新しいヨーガが広まりました。それは、ヨーガの持つ宗教色や瞑想的な部分を抑えたフィットネスとしての再出発でした。私が通っていたパワー・ヨガも、アーサナと呼ばれるポージングを連続的に行う、より動きのあるフィットネスでした。一方、忘れ去られた感もあった瞑想ですが、近年、宗教色を消したマインドフルネスとして脚光を浴びています。ヨーガは、肉体と精神という人間の本質に作用するからこそ、5,000年も続き、また、これからも、姿を変えながら続いていくことでしょう。(写真出典:en.wikipedia.org)

2021年5月19日水曜日

豚まん

大阪へ出張し、土曜は東京に帰るだけという日程の場合、私は、必ず神戸に寄って、新神戸から新幹線に乗っていました。最大のお目当ては、老祥記の豚まんです。一番好きな豚まんですが、通販や冷凍販売は、まったく行っていないので、南京町へ行って、行列に並ぶしかないわけです。10時開店ですが、午後1時くらいには、売り切れてしまいます。一日当たりの販売個数は、約1万3千個。店内では、5~6人が餡を生地に包み、次から次と蒸しています。蒸しあがると、皆、数十個単位で買っていきます。私は、60個ばかりをお土産に、3個は店で食べるというスタイルです。赤ちゃんの握りこぶしと言われるサイズなので、60個といっても、さほどの量ではありません。帰宅すると、20個はすぐに家族で食べ、40個は冷凍します。冷凍すると、さすがに風味は落ちますが、それでも十分に楽しめます。

老祥記の豚まん最大の特徴は、独特の皮にあると思います。他の店とはまったく異なる風味がクセになります。豚まんの生地は、通常、イースト菌を使って発酵させますが、老祥記は麹菌を使い、まる一日かけて自然発酵させているとのこと。麹菌は、手間も暇もかかるわけですが、創業以来、変わらぬ製法を守っているようです。また、具材は、豚肉に少々の牛肉、そして青ネギだけです。玉ねぎを使って甘味を出すのが一般的だと思いますが、老祥記は、皮との相性を考え、一切使わないのだそうです。また、小ぶりなサイズは、老祥記の豚まんのルーツである天津包子の伝統らしいのですが、これまた皮との相性が、最もいいサイズなのだそうです。いずれにしても、皮こそ、老祥記の豚まんの命だと言えます。

老祥記は、1915年創業。日本で最初に豚まんを商った店だとされます。1927年、新宿中村屋という説もありますが、それは日本風の中華まんじゅうのことのようです。老祥記の創業者曹松琪は、浙江省寧波出身ですが、故郷から麹を持って来日したと言います。伝統の天津包子を、日本人にも親しまれるようにと豚饅頭と名付けて販売しました。開店当時は、中国の船員たちが故郷の味を求めて集まる店だったようです。さすが、港神戸です。戦争中、神戸も空襲を受けます。曹松琪は、既に亡くなっていましたが、その妻千代が、必死で麹を守り抜いたと言います。また、阪神淡路大震災の折も、南京町は大きなダメージを受けますが、麹だけは守ったそうです。皆、あまり気が付いていないようですが、店内には古い引き戸があります。以前の店の引き戸なのですが、取っ手の部分に穴が開いています。客の出入りが多すぎて、穴が開いたのだそうです。老祥記の勲章です。

そもそも、中華まんじゅうは、諸葛孔明が発明したという話があります。諸葛孔明は、南蛮征伐から帰還する際、川が氾濫しており、渡れませんでした。人間の首を生贄として川の神に捧げると、氾濫は収まると、地元の人から聞きます。ただ、部下の中から人柱を出したくないと思った諸葛孔明は、首に見立てた饅頭を作り、川に捧げました。すると、氾濫は見事に収まり、無事に渡河できたといいます。実際にあったことなのかもしれませんが、これが中華まんの始まりだとは、とても思えません。諸葛孔明から遡ること2~3千年、農耕が始まり、蒸し料理が発明されるとほぼ同時に、饅頭、包子の類は存在していたものと考えます。

蒸したての老祥記の豚まんは、とてもいい匂いがします。しばらくは冷めないので、新幹線のなかでも、その匂いが広がります。皆が好きとも限らないので、いつも気になったものです。そこで、南京町一番の老舗である民生廣東料理店やお気に入りのパティスリー・トゥース・トゥースに寄ったり、あるいはサ・マーシュまで足を延ばしてパンを買ったりしながら、豚まんを冷まし、新幹線に乗っていました。神戸は、いくらでも時間が潰せる街です。(写真出典:tabelog.com)

2021年5月18日火曜日

都市の憂鬱

最近、観光地での立ち食い系グルメが増えているように思います。何でも串に刺して売っています。例えば、築地場外等では、インバウンドの観光客の増加とともに、串売りが増えました。日本の食文化のサンプラーとして人気です。また、鎌倉の小町通等は、若い人たちが気軽に、様々なものを少しづつ食べるという文化を作っています。ファストフード世代向きなのかも知れません。いずれにしても、これを「食べ歩き」と呼んでいる場合が多く、気になります。食べ歩きとは、名物料理を出す店等を複数訪ねることです。歩きながら食べることを言うなら、”歩き食べ”とすべきところだと思いますが、いまいち語呂がよくありません。なにかいい表現はないものかと思います。

戸外で食べれば、何でも美味しい、というのが私の持論です。キャンプでの食事、テラスや庭の縁台での食事、BBQ、縁日や観光地での立ち食い等をイメージしていますが、だいたい美味しく感じるわけです。屋外の空気が味覚に良い影響を与えるということであれば、庭に面した部屋の窓辺のテーブルでも同じはすです。これはこれで気持ちいいのですが、ちょっと違います。やはり屋内の食事なわけです。恐らく気持ちの問題であり、非日常性がポイントなのでしょう。屋内で、食卓に向かい、食器に盛り付けられた食事を食べる、という日常があればこそ、屋外での食事や立ち食いが魅力的になるわけです。では、キャンプの魅力も非日常性にあるのかと言えば、それだけではないように思います。

登山等で必要に応じて行うキャンプではなく、キャンプそれ自体が目的の場合、その魅力の源泉として、非日常性は大きいと思います。ただ、それ以上に、自然の中に身を置くことが重要な要素なのではないでしょうか。古代ローマの時代から存在するという別荘も同じではないかと思います。世界中の別荘には、避暑・避寒という目的もさることながら、早くから保養という目的もあったようです。社会的分業や経済活動が拡大するとともに都市が生まれます。都市は、実に効率的な代物です。ただ、人間は、長時間、そこに滞在すると息苦しさを感じる傾向があるように思います。つまり都市は、非人間的な面を持っていると言えます。そこで財力のある者は、庭を作り、別荘を持ったのでしょう。また、レジャーとしての旅も同じです。単なる非日常性ではなく、自然への逃避という面もあるように思えます。

やはり、人間も動物なので、自然の中が一番心地よい、と言ってしまえば、それまでですが、気になるのは、都市の非人間性の背景にあるものです。人間は、自然の脅威から身を守るために壁を築きます。いわば自然を遮断することで、安全を確保するわけです。しかし、これは家屋の話であって、都市の特性ではありません。都市の歴史は、農耕とともに始まります。社会的分業が進むと、効率が求められ、より機能的な都市が構成されていったのでしょう。つまり、都市の本質は、組織化なのだと思います。都市に居住するほとんどの人間のは何らかの形で組織に組み込まれ、生活の糧を得て、暮らしています。組織の一員になることで、人間は、安全や生活の保障を得られるわけですが、同時に一定の制約を受け入れざるを得ません。都市の非人間性とは、草木が少ないことではなく、個人としての自由が制限されていることなのだと思います。

都市の束縛に対して、自然は自由の象徴なのだと思います。都市生活者が、キャンプに行く本質的な目的が、束の間、組織からの自由を実感することだとすれば、なにも自然のなかである必要はありません。都市が抱える歓楽街やダークサイドも、同様の効用があるのではないでしょうか。都市生活者が、多少の自由を味わうことで、人間としてのバランスを回復しようとする意図においては、キャンプもキャバクラも同じだということになります。魅力的な都市には、必ず、それなりのダークサイドが存在します。実は、それは都市にとって必要欠くべからざるものなのだと考えます。ただ、歓楽街でサービスを提供する側にも、昼の世界以上に厳しい組織社会が存在していることも事実ですが。(写真出典:buzz.ap.jp)

2021年5月17日月曜日

奇跡の十年

愛・地球博トヨタ館
名古屋へ赴任して、初めに驚いたことの一つが、歴史ある大都市にも関わらず、ほぼ屋台が存在しないことでした。その延長線上にあると思われますが、立ち食いの店も、ほぼありません。私は、大のきし麺ファンです。駅のホームには立ち食いのきし麺屋があり、美味しいのですが、街中には立ち食いがありません。東京では、小腹がすいた時、おやつ替わりに立ち食いソバを食べていたので、誠に残念でした。名古屋の人たちにも、なぜ、と聞いてみましたが、皆、キョトンとするばかりでした。名古屋人にとっては、屋台が存在しないことが普通なので、存在を前提とする私の質問にとまどったのでしょう。

私が推理した名古屋に屋台がない理由は、「お値打ち」文化との関係でした。名古屋人は、お値打ちという言葉が大好きです。例え10円でも、9円の価値しか無ければ、名古屋人はお金を出しません。ただ、100万円で101万円の価値があれば、ポンと払うのです。要するに、同じような値段であれば、屋内で座って食べるほうがお値打ちということなのではないか、と思ったわけです。まったく違いました。かつて名古屋は、伏見界隈を中心に屋台があふれていたようです。それが昭和48年に、市の条例で屋台禁止が打ち出されたのだそうです。理由までは分かりませんでした。当時の名古屋は急速な都市化が進み、モータリゼイションの波が押し寄せていたはずです。再開発や渋滞解消が背景にあったのでしょうが、屋台禁止とは、随分、極端な政策のように思えます。名古屋の近代化に対する思いの強さを感じます。

屋台禁止令から4年後、名古屋はオリンピック招致に動きます。名古屋が進めてきた都市の近代化の最終段階的な意味合いもあったのでしょう。おおよそオリンピック等の開催を機に、都市のインフラ整備は進みます。64年には東京でオリンピック、70年には大阪で万博、72年は札幌オリンピックと続き、次は名古屋という思い、あるいはあせりもあったのでしょう。結果、88年大会は、競合するソウルに決定します。いくつかの落選原因が挙げられていますが、64年東京、72年札幌と続いた後での日本開催は厳しかったと思います。名古屋は自信満々で、招致決定は確実と思っていたようです。それだけに落胆は大きく、街全体が沈んだようになったと聞きます。それが動機かどうかは明確ではありませんが、当時の仲谷愛知県知事は、ソウル・オリンピック開催を見届けるように自殺しています。

その無念の思いは、2005年の愛知万博開催へとつながりました。当時の経済状況等、あるいは環境をテーマとする初の21世紀型万博でもあり、失敗を懸念する声もありました。ただ、結果は、2,200万人の来場者を集める大成功。見事、オリンピックのリベンジを果たしたとも言えます。成功の背景には、名古屋奇跡の十年と呼ばれる経済成長がありました。バブル経済崩壊後の日本は、失われた20年、あるいは失われた30年とも言われる長い低迷期に入ります。ところが、名古屋だけは、多少異なりました。名古屋人は、伝統を重んじます。先祖伝来の土地を売るなど、ほぼあり得ません。東京等と違って、地上げはうまくいかず、バブル経済も生じませんでした。全国の金融機関やメーカーが、不良債権処理に追われるなか、無借金経営が特徴の名古屋企業では、順調に設備投資が進められました。プラザ合意後の円高で、企業体質も筋肉質になっていたこともあり、ものづくりの文化は、海外への直接進出拡大につながりました。

2008年春、中日新聞に、全3段抜きの大きな見出しが掲載されました。曰はく「章男氏副社長へ」。もちろん、豊田章男氏のことです。ただ、新聞の見出しとして名字抜きで「章男氏」だけというのには驚きました。愛知県の人には、それだけで通じるわけです。もう一つ、社長ならともかく、副社長昇進で、全3段抜きの見出しというのにも驚きました。尾張名古屋は城で持つと歌われますが、今やトヨタで持つということです。名古屋奇跡の十年は、トヨタが世界一へ昇りつめていく十年でもありました。(写真出典:ja.wikipedia .org)

2021年5月16日日曜日

暗殺教団

アムラート城砦跡
英語で暗殺を意味する"assassin" の語源となったのは、十字軍等が伝えたイスラム暗殺教団の名称だと言われます。暗殺教団アサシンは、イスラム教シーア派の神秘主義で知られるイスマーイール派の分派、ニザール派のことだとされます。ハサン・サッバーフを開祖とするニザール派は、イラン高原のアラムート渓谷に築いた城砦を拠点に、敵対するセルジューク朝と戦い、時には暗殺も行っていたと言われます。一説によれば、サッバーフは、村々から拉致した若者を大麻ハッシシで朦朧とさせ、酒と若い女性たちで天国状態を味わさせます。その後、正気に戻った若者に対し、戦士になれば、また天国に行ける、と吹き込んだと言います。ただ、この話は、欧州のオリエンタル趣味による捏造とされています。アサシンという名称は、大麻のハッシシから来ているとも言われます。

シーア派のサッバーフが、スンニー派のセルジューク朝と対立するのは、当然ではありますが、実は、個人的な経緯もあったようです。ペルシャ人であるサッバーフは、かつてセルジューク朝の高官でもありました。テュルク系のセルジューク朝は、文官をペルシャ人で構成したようです。ある日、君主が国土の総支出の報告を求めます。宰相ニザーム・アル=ムルクは、報告をまとめるのに1年はかかると言います。対して、サッバーフは、40日で完成させると明言し、実際に成し遂げます。嫉妬した宰相は、君主への報告直前、サッバーフの資料の順番をグジャグジャにします。プレゼンに失敗したサッバーフは宮廷を去ります。後にニザール派が暗殺を開始した際、最初に殺されたのが宰相ニザーム・アル=ムルクだったとされます。

ハサン・サッバーフは、あらゆる学問に精通し、城砦では、個室に閉じこもり、教義の研究に没頭していたようです。カイロへの留学経験もあるサッバーフは、学者としての一面も持つ暗殺者だったようです。面白い逸話があります。イラン東部ホラーサーンでもっとも偉大とされた指導者のもとに三人の優秀な弟子がいました。三人は、一番偉くなった者が、他の二人と幸運を分かち合う、という約束をします。後に、そのうちの一人ニザーム・アル=ムルクはセルジューク朝の宰相になりました。他の二人は、ニザーム・アル=ムルクに、幸運の分け前を求めます。一人は、名著「ルバイヤート」を著すことになるウマル・ハイヤームですが、研究に勤しむための年金を求めます。今一人がサッバーフであり、宮廷高官の地位を求めます。ニザーム・アル=ムルクは、二人に望み通りのものを与えました。皮肉なことに、ニザーム・アル=ムルクは、引き立てたサッバーフに暗殺されることになるわけです。

面白い話ですが、ニザーム・アル=ムルクと他の二人の年齢が離れすぎており、眉唾ものの話です。ウマル・ハイヤームのルバイヤート(四行詩)は、高校時代のお気に入りの一冊でした。無神論者のペシミスティックな詩です。ハイヤームは、イスラム教など、アラブ人の宗教に過ぎない、とうそぶいていたようです。アーリア系の本家ペルシャ人にとって、セム族のアラブ人は、歴史的にも格下にしか見えなかったのかも知れません。テュルク系のセルジューク朝も同様なのでしょう。サッバーフとセルジューク朝の対立にも、そういった要素があるのかもしれません。もっと言えば、1980年のイラン・イラク戦争も、経済的問題がトリガーとは言え、明らかにシーア対スンニーの戦いであり、アーリア人とアラブ同盟を叫ぶフセインとの戦いでもあったと言えるかも知れません。

実際に、十字軍を襲った暗殺教団は、ラシード・ウッディーン・スィナーンが率いたシリアのニザール派です。ハサン・サッバーフが没して数十年後のことです。事実と共に様々な伝説が欧州にもたらされ、暗殺教団の伝説が生まれたのでしょう。暗殺を実行する者たちは、フェダイーンと呼ばれていました。アラブ語で、自己犠牲をいとわない者、という意味です。その後、この言葉は、イスラム世界で、ほぼ戦士という意味で使われていたようです。現代では、自爆テロを実行する者をフェダイーンと呼んでいます。ハサン・サッバーフは、イスラム世界や欧州に対して、ニザール派の教義以上に大きな影響を残したとも言えます。(写真出典:sophia-net.com)

2021年5月15日土曜日

圓山ホテル

昔から、台北に行くなら、宿泊は圓山大飯店と決めていました。1952年、国民党政府が、海外からの使節団用に建てたホテルです。日本統治時代には台湾神社があった圓山中腹に建てられ、台北市内を一望できます。市内各所へのアクセスは、あまり良くはありません。かつて、宿泊する要人たちは、黒塗りの車で送迎されていたので、これで良かったのでしょう。圓山大飯店の中国建築様式を強調した外観は、今も、その威容を誇ります。台北きっての名所でもあり、歴史を見てきたホテルには、今でも十分な魅力があります。

圓山大飯店は、蒋介石夫人にして、国民党政府の外交を担った宋美齢の指示で建てられました。宋美齢は、大富豪宗家の三姉妹の三女です。父親は、メソジスト派の牧師でしたが、ボストンの中国人実業家の養子となり、実業界に転じます。印刷業で財を成し、浙江財閥の中心的人物となりました。また、早くから孫文の支援者でもありました。次女の宋慶齢は、孫文と結婚し、孫文没後も国民党の幹部として活躍します。ソ連と協力し、中国共産党を容認するという孫文の「聯俄容共」方針に忠実だった宋慶齢は、反共に転じた蒋介石と離れていきます。蒋介石と妹の宋美齢が台湾に逃れた後も、宋慶齢は大陸に残りました。中国共産党は、孫文夫人としての宋慶齢を厚遇します。実権はないものの、全人代常務委員長代行にまでなっています。

宋美齢は、蒋介石と結婚した直後から、国民党幹部として行動します。蒋介石が、張学良によって捕らわれた西安事件の際には、自ら西安に赴き、奪還交渉を行っています。また、日中戦争が始まると、世界中、特にアメリカから支持と支援を引き出すべく、大活躍します。宗家の姉妹は、幼少期から大学卒業まで、アメリカで教育を受けています。英語に堪能で、かつ上流階級に学友が多かったことも幸いでした。マスコミも、美しく、豪華な衣装をまとった宋美齢を追いかけます。第二次大戦が終わると、中国では国共内戦が激化します。アメリカ大統領は、蒋介石夫妻と親しかったルーズヴェルトから、むしろ距離を置くトルーマンに変わり、国民党への援助は削減されます。一方、ソヴィエトからの支援が増えた共産党が優位となり、国民党は、台湾へと逃れました。

その後も、宋美齢は、本土奪還を目指す国民党のスポークスマンとして、外交の場で活躍しました。しかし、蔣介石が亡くなり、前妻との長男蔣経国が後継者になると、公職を退き、アメリカに住居を移します。その後、再び台湾には戻りましたが、既に影響力はなく、再びアメリカへ戻ります。豪華な住居で余生を送った宋美齢は、2003年、105歳で亡くなりました。外交の場で華やかな姿を見せていた宋美齢ですが、実は冷淡で怖い人だったと言われます。あるいは姉宋慶齢の誠実な人柄とは対照的に大富豪ゆえの傲慢さにあふれていたとも言われます。その通りなのでしょうが、美貌と笑顔だけで激動の時代を戦い抜くことはできません。相当の強さが求められたはずです。宋美齢は、時代が作った列女だったと思います。

圓山大飯店は、実に見栄えの良いホテルであり、かつて世界十大ホテルに選出されたこともあります。ただ、ホテル内部に関しては、当時、突貫工事で建築されたためか、外見に比して、やや見劣りします。ハリボテとまでは言いませんが、いささか残念に思います。何やら国民党政権、あるいは宋美齢その人を象徴しているような気もしてきます。(写真出典:crea.bunshun.jp)

2021年5月14日金曜日

トルネード


 「オズの魔法使い」は、アメリカで最も親しまれている児童文学です。今だに本が売れ続け、ジュディ・ガーランド主演の1939年の映画も、その主題歌「虹の彼方に(Over The Rainbow)」も、人気が衰えません。アメリカ人が、オズを好む理由は、ファンタジーの傑作であることに加え、歴史の浅いアメリカで、その風土が織り込まれた初めてのおとぎ話だったからでもあります。舞台はカンザス州の田舎町、農家に育った少女が主人公であり、トルネードに巻き込まれることからファンタジーが始まります。実にアメリカ的であり、いずれも身近な設定だったわけです。

世界で発生するトルネードの約8割は、アメリカ中西部で起こる、と聞いたことがあります。ロッキー山脈とアパラチア山脈に挟まれた大平原地帯は、メキシコ湾から北上する暖気とカナディアン・ロッキーから南下する冷気が出会い、スーパーセルと呼ばれる巨大積乱雲が発生しやすい場所となっています。そのスーパーセルが、時としてトルネードを発生させます。中西部は、まさにトルネードの通り道であり、トルネード回廊と言えます。毎年5~6月は、中西部のストーム・シーズンです。この時期の中西部への出張は、なかなか難儀なものでした。フライトがキャンセルになったり、長く待たされたり、着陸空港が変更になったりしたものです。どこの空港も、右往左往する人たちでごった返していました。

一度、トルネードに襲われた直後の町に行ったことがあります。シカゴ近郊の小さな町でした。もともと予定されていた出張でしたが、2~3日前にトルネードが直撃。被害にあった木造住宅は、残骸の一部を残して消え去り、小学校のコンクリートですら崩され、犠牲者も出ていました。とにかく、その破壊力のすごさには驚きました。トルネードが破壊するのは、その通り道に存在するものだけです。しかもトルネードは、タッチ・ダウンしたポイントだけを完全に破壊し、それ以外には、さほど大きな被害を与えません。青々とした畑には、丸くえぐられたタッチ・ダウン跡が、トルネードの通り道に沿って、点々と続いていました。また、跡形もなく破壊された家の隣には、ほぼ無傷のままの家が残っています。運不運と言えば、それまでですが、なんともやるせない状況です。

トルネードには、解明されていないことが多くあるようです。いつ発生するかも知れず、発生すれば危険すぎてデータを収集できないからだと言われます。トルネードを追いかけるストーム・チェイサーと呼ばれる人たちは、その威容に魅せられているだけでなく、謎が多いからこそ、追い続けているのでしょう。不明ことが多いと言っても、アメリカは、世界で唯一、トルネードの警報体制を持っています。しかし、警報は直前にしか出せません。常日頃、警戒を怠らない住民たちは、警報が出されると、即座に地下室に逃げ込みます。唯一安全が確保できる場所だからです。それが間に合わない場合には、バスタブに入って、身をかがめろ、と言われます。ある程度の重さがあり、鉄製のパイプがつながっているからです。実際、バスタブで命拾いした例も多いようです。

近年、日本でも竜巻被害が増えています。温暖化の影響なのでしょう。特に北関東では、しばしば発生しています。アメリカほど巨大化しないとは言え、その破壊力はあなどれません。しかし、日本には、地下室のある家は、ほとんどありません。北関東一円では、大きな犠牲が出る前に、行政による補助等も検討し、地下室の設置を進めていくべきではないかと思います。(写真:2018年ワイオミング州で発生したトルネード 出典:earthreview.net)

2021年5月13日木曜日

アザミの棘

アザミ
 10世紀、デンマーク軍に攻め込まれたスコットランド軍は劣勢を強いられ、砦に籠城します。デンマーク軍は、夜陰に紛れて砦を包囲し、スコットランド軍の寝込みを襲おうとします。ところが、密かに進軍する兵士たちは、野生のアザミを踏み、そのトゲに刺されて思わず声を挙げます。夜襲に気づいたスコットランド軍は、奮戦し、デンマーク軍を追い返しました。以来、アザミは、スコットランドを守る花として大事にされ、国の花ともなっています 。事実か否かは別としても、他国に攻められ続けたスコットランドを象徴するような話です。

紀元前10世紀ころから、スコットランドにはケルト系のピクト人が住んでいたようです。紀元前1世紀から古代ローマがイングランドに進出、属州ブリタンニアを築きますが、全島支配は出来ず、5世紀には撤退します。その後、スコットランドは、ケルト系の民族による群雄割拠状態が続き、9世紀に至り、スコット人が統一、スコットランド王国が建国されます。その後、長い間、南のイングランドとの勢力争いが続きます。戦いは絶えないものの、両国王家には婚姻関係も生じます。1603年、スコットランド王であるステュアート朝のジェームズ6世は、テューダー朝のエリザベス1世没後、ジェームス1世として、イングランド王を継承します。スコットランドとイングランドは、同君連合となります。欧州では、しばしば見られる形態ですが、国としては、各々独立した国家として存続します。

以降、ステュアート王家はイングランドに留まります。イングランドによるスコットランドへの圧政が行われ、紛争も起きています。苦境に立たされたスコットランドは、ついに1707年、独立を失います。合同法によって両国は合併、連合王国グレート・ブリテンが誕生しました。スコットランドにとっては、苦難の時代の始まりますが、一方では、18世紀末から、産業革命と帝国主義の恩恵も享受します。スコットランドの石炭、造船、機械工業等は、大いに栄えます。ただ、それも二つの大戦と世界恐慌によって打撃を受け、スコットランドは大英帝国のお荷物と化します。ところが1960年、北海油田の採掘が始まると、スコットランド経済は浮揚、イングランドへの対抗意識も高まります。1999年には、スコットランド出身のブレア―首相のもと、300年ぶりにスコットランド議会が再開され、2014年には、独立を問うスコットランド独立住民投票が行われました。結果は、反対55%で、独立は否決されました。

2021年5月に行われたスコットランド議会選挙では、与党を含む独立賛成派が過半数を占めました。与党は、当面は、コロナ対策に当たるとしながらも、その後、再度、独立問題に取り組むと表明しています。歴史的経緯や住民感情が大きな動機であり、北海油田の存在が背景にあるのも事実です。他に、英国のEU離脱問題もあります。スコットランドは、大陸との経済的つがりが大きいと言われますが、実は、地理的に近接していることもあり、北欧との関係が深いようです。それは交易ばかりではなく、文化的にも深いつながりがあるようです。ただ、実際に独立ということになれば、当然、様々な問題があります。最も大きな問題は、通貨だと言われます。スコットランドは独自通貨を持たず、またユーロを単一通貨とすることは、EU内の財政的アンバランスが大きなリスクを生じるリスクがあります。当然、イングランドも離脱に反対します。

スコットランド独立問題が再燃すれば、飛び火も避けられないと思われます。英国内では、独立機運が出始めているというウェールズ、スペインではカタルーニャと鎮静化しているバスク、さらにはベルギーでも、フランデレンとワロンとの根深い対立等々が刺激を受けて、動き始めると見られています。日本では、なかなか感覚的に理解できない問題ですが、高度な自治権等で対応できないほど、歴史的経緯、それに基づく住民感情は根深いものがあるということなのでしょう。ちなみにアザミの花言葉は「独立、報復、厳格、触れないで」となっています。(写真出典:horti.jp)

2021年5月12日水曜日

M資金

Bernard L. Madoff
「電話で、金やる、金くれ、は詐欺です」という防犯キャッチフレーズは、なかなかの傑作だと思います。実にストレートですが、まったくそのとおりだと思います。いわゆる”オレオレ詐欺”は、手口が多様化してきたので、近年は”特殊詐欺”と呼ばれているようです。それにしても、これだけ認知の広がった詐欺にも関わらず、いつまでも被害者が出るということは、もはや驚きです。もちろん、それなりに手口も進化しているのでしょう。特殊詐欺は、弱者を狙う卑劣な詐欺ですが、本格的な詐欺師の手口は、時として芸術的ですらあります。そして、同時に、詐欺師は、極めて鋭い心理学者でもあります。

戦後日本を代表する詐欺事件に「M資金」があります。間隔を置きながら、何度も繰り返されてきました。あまりにも有名になり過ぎて、詐欺師も避ける手口ではないかと思うのですが、忘れた頃に、必ず再発します。M資金とは、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が占領下の日本で接収した財産が、今も秘密裡に運用されているという資金のことです。Mは、GHQ経済科学局長であったウィリアム・マーカット少将の頭文字だとされています。デタラメな話に決まってます。少なくとも、金融庁は、その存在を否定しています。ただ、戦後の混乱期には、金融面でも、様々、不可解なことが起こっており、M資金を信じる人も多いわけです。

典型的な手口として、まずは、ターゲットとして、功成り名を遂げた成功者を探し出します。政財界の奥の院、あるいは皇室と関係のある者を装い、ターゲットに近づきます。ある程度、信頼を勝ち得たところで、M資金の話を切り出します。極秘でM資金からの巨額融資を斡旋するが、契約金や準備金が必要だとして、大金を詐取するという手口です。本格的な詐欺師ともなれば、舞台や道具立てのすべてに細心の注意を払い、完璧を期すはずです。ただ、この詐欺の成否を握る鍵は、細部ではなく、あくまでもターゲットの選定にあるのだろうと考えます。政財界の有名人との関係をチラつかせて信頼を得るわけですから、保守本流の外にいる人、いわゆる成り上がりが望ましく、かつプライドが高い人ほど、だましやすいのだと思います。

実は、そういったターゲットに特有な付随的メリットがあります。騙されたことが分かっても、金銭的余裕とプライドの高さから、訴えないことです。ターゲットの多くは、非上場のオーナー経営者であり、個人資産から金を出すか、あるいは会社経費を詐取されたとしても、表沙汰にすることなく処理することが可能です。M資金詐欺の被害件数はそこそこありますが、表に出ていない事案が数多くあるとも言われます。思うに、M資金詐欺の被害者たちは、融資が欲しかったのではなく、政財界のインナー・サークルに認めらることを熱望した人たちなのだろうと思います。ついに俺も保守本流の仲間入りか、というわけです。詐欺師は、それがよく分かっており、ある意味、欲しいものを差し出すわけです。

この4月、歴史上、最大とされる詐欺事件を起こしたバーナード・マドフが獄中で死にました。被害総額は、4兆円とも5兆円とも言われます。ウォール・ストリートの立役者として、50年間、証券会社を経営したマドフの手口は、典型的なポンジ・スキームでした。高いリターンを謳って出資を募り、実際には運用せず、次の出資金を配当に充てる詐欺です。自転車操業が破綻したのは、サブプライム・ローン危機の時でした。高いリターンを示されると飛びつく人たちがいる限り、世にポンジ・スキームの被害者が絶えることはありません。「高いリターン、確実なリターン、は詐欺です」ということになります。(写真出典:ja.wikipedia,org)

2021年5月11日火曜日

最後のキャッチボール

石丸進一投手
東京ドームの21番ゲート付近に、太平洋戦争で戦死したプロ野球選手73名を慰霊する「鎮魂の碑」があります。もともと後楽園球場にありましたが、東京ドーム建設の際、今の場所に移設されました。石碑の前で立ち止まる人は少ないのでしょうが、最も目立つ場所に移設した東京ドームの関係者には、心から敬意を表したいものです。また、東京ドームに併設される野球殿堂博物館内には、戦没した中等学校野球(現高校野球)、大学野球、社会人野球選手167人の名が刻まれた戦没野球人モニュメントもあります。

日本初のプロ野球チームは、1920年、早稲田大学OBが設立した日本運動協会だとされます。そして、日本のプロ野球リーグは、1936年(昭和11年)に、東京巨人軍、大阪タイガース、名古屋軍、東京セネタース、阪急軍、大東京軍、名古屋金鯱軍の7チームでスタートしています。拠点とした球場は、かつて東陽町にあった洲崎球場でした。海岸近くの低地にあったため、満潮になると水が出て、潮が引くとカニが歩くという劣悪な球場だったそうです。翌年には、建設中だった後楽園スタヂアムが完成し、本拠地も移転しています。リーグ初年度の優勝決定戦は、東京巨人軍と大阪タイガースで戦われ、巨人軍が勝利しています。巨人軍の沢村栄治投手が投げ、タイガーズの景浦將選手が打つという、いまや伝説となった試合でした。

沢村栄治は、足を高く上げるフォームから剛速球を繰り出す球界屈指の大投手です。当時の映像を分析した結果、球速は160kmとされています。三重県出身、京都商業中退後、巨人軍入りしています。その名は、最も活躍した完投型先発投手に与えられる「沢村栄治賞」として、今に残ります。一方、大阪タイガースの4番バッター景浦將は、松山商業、立教大でエースとして活躍し、優勝も経験しています。プロ入団後は、腰をねじ切るほどのフルスイングで鳴らし、史上最強打者とまで言われます。水島新司の人気漫画「あぶさん」の主人公・景浦安武の名字にも使われています。黎明期のプロ野球を大いに盛り上げた二人ですが、太平洋戦争が始まると、幾たびか召集され、残念ながら戦死しています。沢村栄治、享年27歳。2歳上だった景浦將は、享年29歳でした。

実は、東京ドームの鎮魂の碑には、石碑が2枚あります。1枚には戦没者名が記され、もう1枚には、遺族を代表して、石丸進一選手の兄でプロ野球選手だった石丸藤吉による追悼文が彫られています。石丸進一投手は、佐賀商業卒業後、名古屋軍に入団します。42年には17勝、43年には20勝をあげ、かつノーヒット・ノーランも達成しています。しかし、石丸投手の活躍もここまででした。44年春には召集され、筑波海軍航空隊に配属されます。翌45年、敗戦の年に、石丸進一は、神風特別攻撃隊に志願、帰らぬ人となりました。石丸投手は、プロ野球界でただ一人の特攻隊でした。10球ばかりキャッチボールを行い、「これで思い残すことはない」と言って、出撃したと言います。享年22歳。その最後のキャッチボールを目撃していた従軍作家がいました。戦後、ロングセラー「徳川家康」を執筆することになる山岡荘八です。

後に、山岡荘八は、目撃した情景を「あらゆる欲望や執着から解放された人々が、いちばん美しい心を抱いて集っていた」と書いています。特攻は、人権に対する許しがたい大罪です。ただ、「いちばん美しい心」という言葉は、特攻を巡る様々な思いや議論を、遥かに、遥かに超えたところに浮かんでいる真実のように思います。若者たちの純粋さに涙を禁じ得ません。(写真出典:dragons.jp)

2021年5月10日月曜日

ちょんまげ移民論

高見山大五郎
30年くらい前、日本はもっと移民を受け入れるべきだと、よく人に話していました。日本の少子高齢化は進む一方で、国内経済も、社会福祉 も、先細りどころか、破綻も懸念されるからです。よくある反応は、治安が悪くなるので、移民は受け入れるべきではない、というものでした。確かに、日本の治安は、世界的に見れば、良好だと思います。治安悪化懸念を完全に否定することは難しいと思います。ただ、それはまったく別な問題でもあります。状況が変われば、治安を保つ方策も変えればいいとも言えます。例えば、日本の刑法犯罪の検挙率は高いと言われてきました。戦前は9割以上を誇り、戦後は、隣組制度に代表されるような戸籍管理が薄れたためか、80年代まで6~7割で推移します。それが、さらに低下し、2000年代初頭には2割を割り込みました。外国人が増えたからだとも言われましたが、むしろ社会の変化に対する警察の対応が遅れたためではないでしょうか。それが証拠に、近年は、また検挙率は上がりつつあります。

30年前の在留外国人数は、120万人程度であり、不法滞在も入れると200万人と言われていました。現在は、登録者数だけでも300万人に近づきつつあります。とは言え、人口比2%程度であり、移民鎖国状態だった頃に比べれば上がりましたが、世界的には、かなり低いと言えます。例えば、人口850万人のスイスは、人口に占める移民の割合が3割近くになります。経済発展が進むと、出世率は低下する傾向があります。家族労働力の確保や老後を子供に頼る必要がなくなり、子供を持つベネフィットよりもコストが上回っていくからです。スイスも出世率は低く、少子高齢化が進んでいます。その悪影響は、人口が少ないために、より早く出てくる可能性があります。移民を受け入れなければ、国を維持することすら難しくなるわけです。

世界最大の移民受入国は、アメリカです。アメリカの人口は、1915年に1億人を超え、50年後の1967年に2億人を突破しました。そして40年後の2006年に3億人に達し、現在は3.3億人です。アメリカでも出生率は下がってきました。要は、年間、数百万人という移民を受け入れ続けた結果の人口増ということになります。アメリカの社会保障が破綻することはないと言われてきました。移民を受け入れ続ける限りは、ということになりますが。もちろん、移民の受け入れに伴うデメリットもありますが、経済規模の拡大、社会補償の維持といったメリットは、極めて大きいわけです。トランプは、移民の受入を制限しました。白人から仕事を奪ったのは移民だ、というわけです。デタラメにもほどがあります。ポスト・トゥルース政治の典型です。白人中間層の没落は、産業構造の転換によるものです。むしろ、移民を止めることでアメリカ経済は悪化します。

日本も状況は変わりません。日本政府は、移民受入に対して消極的中立の立場を取っています。しかし、実態的には、移民は増えてきています。双方に経済的メリットが存在するからです。むしろ、日本は、移民受入を制度的にしっかりしたものとし、野放図な受入から秩序ある移民に転換すべきと考えます。そして、経済規模の確保、社会保障の維持等とともに、社会の治安維持、日本文化の維持を図るべく制度を整備すべきなのではないでしょうか。また、そうしない限り、日本は移民先としての魅力を失い、頼んでも来てもらえない国になるかも知れません。近い将来、国際的な移民受入競争が起こり、激化していく可能性も否定できません。移民ではありませんが、中途半端な日本の研修生制度は不人気で、他のアジア各国に労働力が流れる傾向にあるとも聞きます。

そもそも、日本は、誕生時から移民国家だったとも言えます。しかも外国文化を柔軟に受け入れ、国を発展させてきました。むしろ、江戸期の鎖国は例外的だったとも言えます。もちろん、鎖国の効用もありましたが、安土桃山時代の国際性を失ったことは大きかったように思えます。多様性が社会を活性化することは明らかです。持論ですが、日本政府は、日本相撲協会に学ぶべきだと思います。なにせ外国人力士が、ちょんまげを結い、日本語を話し、前近代的な稽古に勤しみ、浴衣を着て、ちゃんこを食べているわけですから。下手な日本人よりも日本的です。大関昇進時には、四文字熟語まで言うのですから。(写真出典:bunshun.jp)

2021年5月9日日曜日

脚のない鳥

ウォン・カーウァイ監督の第2作目「欲望の翼( 原題:阿飛正傳、英題:Days of Being Wild)」(1990) を初めて見ました。スタイリッシュでセンチメンタルな映像に、見事な音楽の選択。ウォン・カーウァイ作品は、心に残り、妙にムードを引きずる映画ばかりです。ただし、「花様年華」(2000) までという限定付きです。それ以降も、腕の確かさは間違いないものの、ウォン・カーウァイらしさは変わっていきます。「欲望の翼」は、2作目ながら、事実上のデビュー作のように思えます。監督の思い入れが詰まっており、夜明け直前の光のような瑞々しさが印象的です。オープニングの、ヴェールのかかったような濃いジャングル、そしてバックに流れるロス・インディオス・タバハラスの”Always in My Heart”が、強く印象に残ります。甘酸っぱさが胸から消えない傑作だと思います。

この映画は、レスリー・チャンの存在なしには成立しなかったのではないか、と思えるほど、その存在感が際立っています。若さゆえの純粋さ、不安、傲慢さを体現しています。作中、レスリー・チャンが語る「脚のない鳥は飛び続け、疲れたら風の中で眠り、生涯で1度だけ地上に降りる。それが最後の時」という言葉は、テネシー・ウィリアムズの戯曲「地獄のオルフェウス」の一節だそうです。青春そのものを表現した言葉のようでもあり、レスリー・チャン自身を語る言葉のようにも思えます。アジアを代表する映画スターでアイドル歌手でもあったレスリー・チャンは、2003年、マンダリン・オリエンタル香港から飛び降り自殺しています。チェン・カイコ―監督の傑作「さらば、わが愛/覇王別姫」での演技が記憶に残ります。

ウォン・カーウァイ作品は、ヌーベル・ヴァーグ的と言われます。散文詩的な、と言った方がいいかもしれません。例えば、黒澤明の絵コンテに忠実な七言絶句的映画の真反対にあります。その瑞々しさをうまく表現しているのは、盟友とも言える撮影監督クリストファー・ドイルの存在です。手持ちカメラの多用で有名ですが、光と色彩の扱い方もうまいカメラだと思います。監督は、しばしば現場で脚本を書き換えると言われます。それもあって、二部構成の作品として撮影が始まった本作も、タイムアップで一部だけとなったようです。ラストには、突然、トニー・レオンが登場し、身支度をするシーンで終わります。まったく謎の終わり方ですが、どうやら第二部の冒頭シーンだったようです。あえて言うなら、行き当たりばったり的な撮影が、奇跡的にポエトリーを生み出しているのかも知れません。

ウォン・カーウァイが執着するものの一つが、1960年前後のモダニズムだと思います。時代設定と言えばそれまでですが、空気感、会話、インテリア、ラテンを中心とした音楽、そしてファッション、特にノースリーブのタイトなワンピースへの強いこだわりを感じます。ヌーベル・ヴァーグへの憧憬でもあるのでしょうが、幼少期の記憶が原風景化しているのだと思います。ほぼ同じ年代の私も、まったく同じ傾向があります。50年代モダニズムには、そこはかとない心地良さを感じます。実は、本作のこだわりの一つが、靴音ではないか、と思いました。ハイヒールの靴音です。会話との間の取り方が絶妙でした。「花様年華」、「2046」は、本作とともに60年代三部作と呼ばれますが、監督の、本作への、あるいはレスリー・チャンへの追憶、あるいは未練に過ぎないようにも思えます。

気になるのは原題の「阿飛正傳」です。”阿”は、姓の前に親しみを込めてつける接頭辞だと言います。飛(ヨディ)は主人公の名前です。明らかに魯迅の「阿Q正伝」がベースとなっています。阿Qは中国の大衆そのものでした。魯迅は、海外から押し寄せる近代化の波に対して、あまりにも蒙昧な大衆を深く憂慮し、警告の意味で「阿Q正伝」を書いたと言われます。ヨディ(レスリー・チャン)は、返還が迫る香港そのものなのでしょう。二人の女性を袖にして、フィリッピンまで探しに行った生母に拒絶され、異国で命を落とするヨディは、90年当時、ウォン・カーウァイが危惧した香港のアイデンティティそのもなのでしょう。監督の心配が現実のものになってしまったようにも思えます。(写真出典:filmarks.com)

2021年5月8日土曜日

クンブ・メーラ

2019年クンブ・メーラ
カサブランカからマラケッシュへバスで向かう時のことです。道の両側には、乾燥地帯が広がり、白壁の農家が点在していました。たまに、カラフルな色で文字や下手な絵が壁に描かれた家が出てきます。特徴的だったのは、必ず飛行機の絵が描いてあることでした。ガイドに聞くと、ハッジ、つまりメッカへの巡礼を行った者が、その道中を描く風習があるとのこと。ハッジは、イスラム五行の一つであり、一生に一度は行なうことが義務づけられています。とは言え、お金も暇も必要なことゆえ、ハッジを行った者は、自慢でもあり、尊敬もされるということでした。イスラム暦12の月、メッカのカアバ神殿は、300万人と言われる巡礼者で埋め尽くされます。異様な光景には宗教の力を感じさせられます。

しかし、300万人が少人数に思える宗教行事があります。インドで行われるヒンドゥー教の祭クンブ・メーラです。数千万人が聖地に集まり、2ヵ月に渡り、沐浴を行います。参加者数は、到底把握できないので、空撮して推計されます。2019年、ウッタル・プラデーシュ州のイラーハーバートで行われた際には、1億3千万人と記録されました。巡礼者の簡易テントだけでも、NYのマンハッタン島と同じ面積だったと聞きます。間違いなく、地球上最大の宗教イベントです。クンブ・メーラは、3年に一度、4つの聖地で順番に開催されます。各々の聖地では12年毎の開催となります。他にも、小規模なクンブ・メーラも開催されます。小規模といっても、1,000万人は下らないようですが。

クンブは、水瓶を意味し、メーラは祭りです。祭りの起源は、ヒンドゥーの天地創造神話「乳海攪拌」にあります。ヴィシュヌ神とアスラ(悪鬼)が協力して乳海を千年間攪拌し、そこから太陽や月をはじめとする自然、そして多くの神々が生み出されます。最後に、ダヌヴァンタリ神が、不老不死の霊薬アムリタの入った水瓶を持って現れます。その際、4滴のアムリタが地上に零れ落ちます。それがクンブ・メーラが行われる4つの聖地となりました。罪を洗い清めるとされる沐浴ですが、クンブ・メーラでの沐浴は、10年分に相当するそうです。ヒンドゥーでは、ガンジス川の水は聖水とされます。インドへ行った際、インド人ガイドから興味深い話を聞きました。自分は、西洋教育を受け、迷信は一切信じないタイプだが、10年前にワーラーナシ―で自ら汲んだガンジスの水が、いまだに腐らないことに驚いている、とのことでした。

インドのコロナ・ウィルス感染が止まりません。1日当たりの感染者数は40万人、死者は3千人を超えています。生産国ながらワクチンも足りません。医療は完全に崩壊し、重症者用の酸素ボンベは奪い合いになっています。変異株の影響と言われます。ただ、この4月、州議会選挙とクンブ・メーラが行われています。開催を許可したモディ政権への批判が高まっています。インドの選挙は熱狂的なことで知られます。人口13.5億人のインドでは、州といえども人口は1~2億人となります。州議会選挙といっても、大騒ぎの規模が違います。コロナ・ウィルス感染防止を理由に、選挙やクンブ・メーラを、延期、あるいは中止すれば、とんでもない大騒ぎになることは間違いありません。下手すれば政府は崩壊しかねません。

そういう意味では、恐らくモディ首相の政治家としての判断は妥当だったのでしょう。しかし、コロナ禍にあって、国のリーダーは国民の命を預かっています。どれほど厳しく批判されようとも、国民の命を守る覚悟が必要だと思います。ニュージーランドは、わずかな感染が確認されただけで、ロックダウンに踏み切り、結果、コロナとの戦いに勝利しました。アーダーン首相の勇気ある決断に賞賛が集まっています。翻って、日本政府の現状を見れば、実に情けないことになっています。極めて難しい判断が求められる時には、何を最終目的とすべきか、何を最優先とするべきか、ここが明確、かつブレないことが最も重要になります。(写真出典:afpbb.com) 

2021年5月7日金曜日

もち本膳

小麦は粉にしてから食べることが多く、米は粒のまま食べることが多いわけですが、その違いは、外皮や胚芽の多さに違いがあるからだそうです。米の場合、糠と呼ばれる部分は5~6%に過ぎないのに対し、小麦のフスマは25~30%と多く、粒食には向かないようです。農耕が始まった頃には、小麦も米も、殻がついたまま荒く粉砕して焼く、あるいは殻を取っただけの状態を土器で煮て食べていたようです。その後、小麦は脱穀して粉砕し、パンや発酵パンへと進化します。米は、土器の熱効率が良いことから蒸すようになり、鉄釜等の登場で炊く、いわゆる炊飯へと進化します。

ただ、かなり古くから「しとぎ」なるものも存在したようです。水に浸して柔らかくした生の米をついて粉にし、それを水でこねて丸めた食べ物です。蒸す以前からあった古い料理法とも言われ、餅や団子の原型とも言われます。手間がかかること、火を使わないこと等もあり、神饌とされてきたようです。東北や九州の一部に、製法や言葉が残ります。方言も同じですが、都から遠い所に古いものが残る傾向があります。青森県では、米どころの津軽地方には”しとぎ餅”が、気候の厳しい南部地方には大豆を混ぜた”豆しとぎ”が、ハレの伝統菓子として残っています。韓国語で、餅は”トック”と言いますが、古語では”ストク”と言っていたようです。どうやら、稲作黎明期に、半島から入ってきた食べ方の一つということなのでしょう。

餅は、蒸して杵で搗いた搗き餅(つきもち)、米粉を練って蒸しあげた練り餅、いわゆる団子に大別されます。いずれも特別な日の食べ物であることからも、その祖先は”しとぎ”だと思われます。今でも、餅は、正月の食べ物という理解が一般的です。ところが、岩手県の県南地方、旧仙台藩領内では、日常的に餅を食べる文化があります。また、ハレの日やもてなし料理としてもち本膳という料理もあります。あらたまった席では、”おとりもち”と呼ばれる主人、あるいは仕切役の「本日は至っての堅餅でありますが、ところのしきたりに従って差し上げます」という口上からもち本膳が始まると言います。その起源は、伊達政宗にあるとされます。政宗は、領内の稲作を奨励し、毎月1日と15日には、餅を搗いて神前に捧げるよう下知したのだそうです。

稲作は、生産性が高い一方で、人手と時間がかかり、天候にも左右されます。豊作を神に祈り、感謝するのは当然です。ただ、稲が実るまでは数か月かかるわけですから、毎月2回、餅を神に捧げるというのは、いかにも頻繁にすぎます。もち米の生産量を増やすために指示したのではないかという見方もあるようです。また、仙台藩は、小麦の作付けも奨励しています。その点も考慮すれば、仙台藩の真のねらいは、農民が食べるうるち米の量を抑え、可能な限り流通に回すことだったのではないでしょうか。要は、歳入増を図るための政策だったと考えられます。政宗が、天下を狙っていたことは有名です。キリシタンでもない政宗が、慶長遣欧使節を派遣したのは、欧州との通商をねらってのことでした。政宗は、財力を高め、徳川と戦う日に備えていたのだと思います。

政宗の思惑通り、岩手県県南の餅文化は定着し、進化を続けました。餅の食べ方は、実に300種類に及ぶそうです。雑煮、あんこ、くるみ、ごま、じゅねん(えごま)、ずんだ、納豆、等々、延々と続きます。どれも美味しそうですが、問題は、そんなに沢山の餅は食べられないということです。餅文化の中心地は、一関・平泉界隈であり、少量づつの料理餅を多数出してくれる店もあるそうです。岩手県県南の餅文化は、政宗の野心の名残とも言えそうです。(写真出典:maff.go.jp)

2021年5月6日木曜日

科挙

科挙の試験場
高校入試に際して、受験勉強をした記憶がありません。大学入試についても、ほぼ同様です。生来の怠惰な性格、好きなことにだけ熱心という性分がゆえなのでしょう。高校3年生の時、まわりは受験勉強に勤しんでいましたが、私がしたことは、自分の平生の学力でも受かる大学を探すことでした。当時は、個人情報も大っぴらでした。閲覧できる資料から、先輩たちの高校時代の試験成績と合格した大学との付け合わせを行いました。当時は、まだ偏差値が出始めだったので、いわば独自にその調査をしたわけです。これがかなり面白く、相当な時間をかけ、統計学も勉強しました。周囲からは、そんなことをやる暇があったら勉強しろ、と揶揄されました。結果、選択した大学に一発で合格し、大学入試は、その一回だけで済みました。

いつの時代も大学等の入試は、受験者に大変な努力を強いてきました。種々の弊害も指摘され、それに応じた方法の改変も行われてきましたが、受験者数と合格者数とに差がある限り、厳しいことには変わりありません。最も過酷で、かつ社会的影響の大きかった試験に中国の科挙があります。6世紀末、隋の文帝によって、始められていますが、貴族の世襲制に替わって官僚制度の根幹として機能するのは10世紀の北宋の時代からでした。身分を問わず優秀な人材を登用する仕組みとしては、世界初の画期的なものでした。科挙は、1905年、清朝の西太后が廃止しています。元朝での中断はあったものの、実に1300年間も続いたわけです。テキストは儒学の「四書五経」のみであり、物心つくかつかいないうちに詰め込み教育が始まり、多くのステップを踏んで選別されましたが、合格する年齢の平均は、35~36歳だったようです。なかには朱子の19歳、蘇東坡の22歳といった驚異的な記録もありますが、老年に至るまで挑戦し続ける人たちも少なからず存在したようです。

少なくても30年くらいは受験勉強を続けるわけですから、家が裕福でなければ挑戦できません。また、そこまで挑み続けるのは、リターンが大きかったからでもあります。かつて高級官僚は、ピンハネ、賄賂と、存分に私腹を肥やせたものだそうです。ネポティズムも当然のことであり、一族郎党の期待も大きいものがあったのでしょう。科挙は、公平な人材登用というメリットとともに、その過酷さゆえの弊害、あるいは官僚の腐敗や硬直化というデメリットもありました。科挙の制度は、朝鮮半島でも取り入れられ、今もその影響が残ります。日本でも、平安時代に試行されましたが、短命に終わります。稲作、仏教はじめ多くの文化、そして律令等の統治体制をも大陸から直接、あるいは半島経由で取り込んできた日本ですが、科挙と宦官だけは取り入れていません。その理由は、王権の強さ、あるいは統治システムの違いにあると考えられます。

中国でも日本でも、王権は貴族たちによって支えられます。有力な貴族は、互いに争い、時には王権を奪取します。世襲制の貴族にとって、科挙は、存在を脅す厄介な存在です。王権が強まった隋では、貴族の力が弱まり、あるいは一層弱めるために科挙が導入されました。対して日本では、ヤマト王権が支配地域を拡大する過程で、有力な貴族が発生し、以降、その勢力が衰えることなく国家が形成されていきます。親政を布いた天皇も存在しますが、神でもあった天皇は、早い段階から象徴的な存在だったわけです。平安末期、貴族政治は武家に取って代わられますが、状況は変わりません。武力を力の源とする武家は、応仁の乱以降、下克上の世界を生み出します。日本は、科挙に依らず、優秀な人材が世に出る仕組みを持ったと言えます。

北宋以降の中国における教育とは、ほぼ科挙のために存在し、江戸期の日本において、学問とは教養でした。中国の教育は、限られた受験者たちのための儒学に限定され、日本の学問は、町人も含めた多くの者たちのための実学や多様な教養でした。これが、西洋文明を取り込んで近代化を進める際、結果的に大きな違いを生んだとも言えます。(写真出典:ja.wikipedia .org)

2021年5月5日水曜日

100億円のうさぎ

Jeff Koons "Rabbit"
世界の美術品市場の規模は、7~8兆円まで拡大しています。中国を含め、世界的な富裕層の増加が背景にあります。取引の多くは、現代アートが対象であり、かつ投資目的だとされます。1990年代、オークションにかけられる古典作品が先細りとなり、危機感を抱いたサザビーズが、現代アートの市場を開拓したと言われます。現代アート市場を取材した映画「アートのお値段」(原題:The Price of Everything、2018)は、興味深く、かつ不愉快な映画でした。映画は、芸術とは全くかけ離れた世界となった現代アート市場の異様さを伝えています。アートを投資対象化した富裕層と仲介業者、そしてそれに乗っかるアーティストの存在が不快でした。

ほとんどのアーティストは、お金のために作品を制作しているのではありません。しかし、彼らも、衣食住が必要であり、画材やアトリエにもお金がかかります。昔は、王侯貴族といったパトロンがおり、また注文生産が基本だったために、市場はほぼ存在せず、閉鎖的なバランスが存在したのでしょう。市民革命以降は、アーティスト、画商、美術愛好家であるコレクターによって市場が形成されます。アーティストのみならず芸術そのものにとっても、画商やコレクターは必要な存在です。コレクターや画商が、若いアーティストを支援し、育てるという側面もありました。また、ある意味、コレクターと同質的な位置づけに、フランス革命以降に設立が本格化した美術館もあります。コレクターによる美術館への貸出や寄贈も行われました。

昔から、美術品は、投資対象としての側面を持っていました。しかし、コレクターと現代的な投資家は大いに異なります。かつて価格は芸術的価値に基づいて決まっていました。公に認知されたゆるぎない価値だからこそ、投資対象であり得たわけです。近年、落札価格は、作品の芸術的価値ではなく、投資的観点から決まっていきます。いまや現代アートは、投資ではなく、投機の対象となっていると言えます。巨大化した個人資産は、分散投資先を求め、オークションが投機を煽ります。もはや、美術館や美術愛好家が現代アート市場で、有名作品を購入する機会は、ほぼ失われているとも言えます。もちろん、投機を行う資産家も、芸術に対するリスペクトは持っているのでしょう。ただ、投機は、芸術性とはまったく別な領域で判断されます。そこでのアーティストの存在は、ほぼ部外者でしかありません。

かつて美術愛好家が購入した作品は、公的な存在でもありました。多くの場合、何がどこにあるかは、よく知られていたわけです。それが古典的名画であれば、なおのことです。サザビーズが創出した現代アート市場では、世界各地の投資家が匿名で購入する場合が多く、作品がどこにあるのかも判然としません。倉庫に眠っていることも多いのではないでしょうか。ここに最大の問題があると思います。ひとたび投機の対象として作品が購入されると、我々の見る機会が失われてしまう可能性が高いことです。優れたアート作品は、多くの人に見せるべきものだと思います。例え個人が所有していたとしても、それは人類の遺産であり、皆に鑑賞する機会が与えられるべきだと考えます。

2019年春、クリスティーズNYで、ジェフ・クーンズの「ラビット」が100億円で落札されたことが話題になりました。生存する作家としては最高額だそうです。驚きのニュースです。大笑いしたニュースもありました。2018年秋、サザビーズ・ロンドンで、バンクシーの作品が1億5千万円で落札された直後、バンクシー自身が額に仕掛けたシュレッダーで絵が裁断された事件です。実にバンクシーらしい、投機市場へのテロです。拍手喝采です。ただ、半ば裁断されたその作品は、倍の値段が付いているとも聞きます。現代アート狂騒曲は、どこまで続くやら、といった感じです。(写真出典:art-techne.com)

2021年5月4日火曜日

マンカラ

コロナ禍で、アナログなボードゲームが良く売れているとのこと。若い人たちに趣味を聞けば、ゲームと答える人が増えました。任天堂が、ファミリー・コンピューター、いわゆるファミコンを発売したのが、1983年でした。爆発的人気を誇りましたから、30歳代以下は、ファミコン、あるいは同様のゲーム機で育った世代と言えます。いまやゲームと言えば、ゲーム機、あるいはスマホ、パソコンのソフトのことです。そんな時代になっても、ボードゲームは根強い人気を保っていましたが、ステイホームのなか、家族全員で遊べるという点が評価されて、ちょっとしたブームになっているようです。

世界三大ボードゲームというネット記事を見ると、カタン・ドミオン・カルカソンヌという、すべてドイツのゲームがリストされていました。世界大会も開かれているようですが、まったく知らないゲームばかりです。かつて、世界で最も売れたゲームと言われたのが、1935年発売の「モノポリー」でした。不動産投資ゲームであり、寡占化を進め、相手を破産させれば勝ちとなります。1903年に、エリザベス・マギーが教育目的で開発した「ランドロード・ゲーム」を、チャールズ・ダローが改良を加え、発売されました。やや古い情報ですが、世界100ヵ国で、総計2億5千万セットを売り上げたと言います。1973年から世界大会も開かれており、糸井重里を会長とする日本モノポリー協会も国内大会を続けています。驚異的な売上記録は、今も破られていないものと思います。うちも家族でよくやっていました。

ボードゲームに対して、世界四大テーブルゲームと言われるのが、ポーカー・ドミノ・チェス・バックギャモンです。最も歴史が浅いのが、19世紀頃に始まったというポーカーです。トランプ自体は、中国発祥で、アラブ経由で中世ヨーロッパに伝播しました。ドミノは、12世紀中国発祥とされます。実は麻雀も同じ起源を持ちます。チェスや日本の将棋は、すべて古代インドのチャトランガが祖先だとされます。紀元前4世紀の記録があるとも言われますが、判然としません。バックギャモンは、世界最古のゲームとも言われ、メソポタミアで5千年前から存在したようです。サイコロを使う世界中の双六ゲームの起源です。同じ頃、エジプトには、セネトというサイコロを使うゲームがありました。残念ながらルールが不明だそうです。実は、同じ頃、もう一つのゲームも生まれています。マンカラです。

マンカラは、アフリカ起源と言われ、他に中東、東南アジアでも盛んです。二人で遊びます。横長のボードに、各6個の穴が並列し、手前が自陣となります。ボードの両端にはストアと呼ばれる大きめの穴が各1個あります。ストア以外の各穴に石を3個づつ入れます。先攻は、任意の穴を選び、その穴にある石を全て手に取り、反時計回りに隣の穴から順番に、ストアも含めて1個づつ石を入れていきます(sowing:種まき)。手に取った最後の石がストアに入れば、自分のターンが継続します。他の穴に入れば、相手のターンになります。百通りもの遊び方があるようですが、我が家がやっていたのはシンプルな”カラハ”で、自陣の穴に石が無くなったら勝ちです。

マンカラは、別にボードが無くても、小石か豆類が36個、そして相手さえいれば、どこでも遊べます。わざわざ立派なボードを買う必要はありません。我が家は、雰囲気を出すために、アフリカのアンティーク調のボードを使っていましたが、卵が入っているプラスチックのケースで十分です。ルールは、実にシンプルですが、偶然性は皆無です。相手のソーイングも含めて、先の先まで読み、かつ相手を妨害するソーイングも考える必要があります。結構、頭を使いますし、結構、ハマります。(写真出典:etsy.com)

2021年5月3日月曜日

初心忘るべからず

世阿弥「花鏡」
「他山の石」は、誤用が多い言葉として有名です。もともとは詩経の「他山の石 以て玉を攻むべし」から一般化した言葉です。玉にもならない他山の石は、当山の玉を研磨するために使え、という意味ですが、転じて、他人の誤りや失敗なども、自分を磨く助けにする、という訓えになります。誤用の多くは「他人の良い言行を自分の行いの手本にする」という意味で捉えていることです。また、この言葉は目上の人の言動には使いませんが、結構、誤って使う人もいるようです。政治家等が「他山の石とせず」と使う例も散見されますが、「他山の石として」が正しい用法です。よって、最大級の誤用例は「先輩のお言葉を他山の石とせず、がんばっていきます」ということになります。

文化庁が、毎年実施している「国語に関する世論調査」によれば、日本語が乱れていると思う人は、年々減ってきています。言葉は、時代とともに変化して当然、と考える人が増えているようです。どういうところが乱れているか、という質問に対しては、「敬語の使い方」と「若者言葉」という答えが多くなっています。若者言葉は、時代と共に生まれるものなので、乱れているという言い方は当たらないと思います。一方、敬語の乱れは微妙な問題です。尊敬語や謙譲語は、日本語が持つ美しい文化の一つだと思います。尊敬語や謙譲語の新しい形が一般化しつつあるのであれば、時代の変化と言えますが、単なる誤用であれば、正すべきだと思います。そして、正しい意味や使い方に最も忠実であるべきは、格言、箴言、アフォリズムだと思います。

「他山の石」と同様に誤用が多いとされるのが「情けは人のためならず」です。情けをかけるとその人のためにならない、と理解している人が多いようです。正しくは、人にかけた情けは、いつか自分に戻ってくる、という意味です。他にも、似たような誤用は数多くあるのでしょうが、私が気になるものの一つが「初心忘るべからず」です。世阿弥の「花鏡」の奥段に書かれた芸能の真髄とも言われる言葉です。よくある間違いは、何事かを初めて行った頃の初々しい真摯さを忘れずに励みなさい、という理解です。それはそれでいい言葉だと思いますが、世阿弥が言っている初心とは、能を習い始めた頃の未熟さを忘れるな、ということです。その未熟さを基準とし、それを乗り越えるべく修練を重ね、熟達していくのが芸道だということです。初心なくして後心なし、つまり未熟さを忘れずに努力するから熟達するというわけです。

世阿弥は、続けて「時々の初心」、「老後の初心」とも言っています。芸事に終わり無し、とも言われます。芸事には、これでいい、これで完璧、ということがありません。以前にも書きましたが、義太夫語りの人間国宝だった八代目豊竹嶋太夫は、70余年の芸歴を振り返り、「下手だから続きました」と語っています。年齢を重ね、熟達すれば、そこにはそこで新たな世界が広がり、そのレベルでの未熟さ、時々の初心が生まれます。老境に至れば至ったで、そこにも新たな挑戦と未熟さ、つまり老後の初心があります。初心、つまり未熟さを基準点として、常に、謙虚な気持ちで、真摯に芸に向き合い続けなさい、ということです。これが能楽に限った話であれば、ここまで広く知られることはありません。諸芸どころか、人生そのものに通じる深い言葉です。

日本を代表する天才としては、まずは弘法大師空海を挙げるべきだと思います。世阿弥は、その次のクラスに位置するほどの天才だと考えます。滑稽な物まねに始まる猿楽を一気に幽玄能の高見へと昇華させ、それが400年このかた、変わることなく演じられているわけですから、天才としか言いようがありません。また、それは芸をアートの域にまで高めた改革でもありました。世阿弥は、あらゆる芸道に影響を与えた大改革者だったと言えます。芸を極めた世阿弥は、仏教でいえば、如来に限りなく近い菩薩クラスだとも思えます。菩薩のような世阿弥の言葉は、正しく理解し、使われるべきだと思います。(写真出典:www2.ntj.jac.go.jp)

2021年5月2日日曜日

黒パン

私の父は、満州で軍政に携わり、終戦直前に召集され、戦後はシベリアに抑留されました。2年に渡る抑留生活の間に、凍傷で人差し指を第二関節から失い、健康を害して帰国しています。しばらく療養生活を続け、中央官庁への復帰要請も断らざるを得ませんでした。苦労させられた、あるいは人生を狂わされたシベリア抑留ですが、一方では懐かしくもあり、老後、ソヴィエトへでかけ、わざわざシベリア鉄道に乗って抑留されていたあたりを見に行っています。そして、私も協力させられたのが、本物の黒パンを探すことでした。抑留中の食事は、固い黒パンとほぼ具材が入っていないスープだけだったそうです。その不味かったはずの黒パンも懐かしかったわけです。

黒パンとは、ライ麦パンのなかで、全粒粉など精製度の低い粉を使い、黒く焼きあがったパンです。小麦に比べ、発酵させてもあまり膨らまず、固い焼き上がりになります。また、発酵には、イースト菌ではなく、サワードウを使うので、独特の酸味があります。しかし、この酸味と固さゆえに日持ちするという特徴もあります。欧州北部で食べられますが、酸っぱさと固さが貧しい食べ物という印象を与えます。ライ麦と小麦を混ぜ、なおかつライ麦の比率が低いライブレッドなら、日本にもあります。しかし、本格的な黒パンは、日本人にとってはハードルが高すぎるのか、パン屋で見かけることはありませんでした。父も、かなり探したようですが、なかなか見つからず、私にも指示が飛んだわけです。

虎ノ門あたりの小さなパン屋で、偶然、本格的な黒パンを見つけたが、場所が判然としないので探せ、と父に言われたことがあります。虎ノ門界隈のパン屋をかなり回りましたが、ついに見つけられませんでした。ドイツから輸入したライ麦100%のロッケンブロートを見つけたことがあります。これはさすがに高評価を得ましたが、上品にすぎる、と言われました。シベリア旅行の際、本物の黒パンは食べたのか、と父に聞くと、近いものはあったとの答えでした。それはそうです。戦後すぐのシベリアで、捕虜同然の元日本兵に食べさせる黒パンなど、恐ろしく粗末な代物だったに違いありません。結果的に、沢山、ライブレッドを食べた私も、黒パン好きになっていったように思います。最近美味しいと思うのは、札幌の「ブルクベーカリー」の”ブルクライヤー”です。黒パンではなく、小麦とライ麦の配分が絶妙なライブレッドです。

終戦直後、満州にいた元日本兵57万人がシベリアへ連行され、極寒の地で強制労働させられました。きつい労働に加え、劣悪な環境と食事がもとで約1割が亡くなりました。シベリア抑留は、スターリンによる明らかな犯罪行為であり、明らかなポツダム宣言違反です。ソヴィエト、およびロシアは、戦闘中の捕虜との強弁を続けていますが、スターリンが命令を発したのは8月23日であり、日本兵の武装解除後のことです。1956年の日ソ共同宣言によって、抑留の損害賠償も、未払いとなっていた賃金も、一切の請求権が放棄されました。2010年に至り、日本政府は、シベリア特措法を定め、生存している抑留者約7万人に対し、一人当たり平均28万円を一時金として支給しました。また、1993年に来日したロシアのエリツイン大統領は、シベリア抑留を非人道的行為として陳謝しています。とは言え、スターリンの大罪は、いまだ清算されていません。

貧しい食べ物といった印象の強い黒パンですが、近年の健康ブームのなかで、見直されているようです。小麦のパンよりも低カロリーで、かつ栄養素が多く含まれています。固いので咀嚼回数が増え、健康に良いだけでなく、満腹感が増すとも言われます。また、低GI食品であり、血糖値を上げにくいことも評価されています。さらに、ライ麦はグルテンが作られにくいので、ライブレッドは、グルテン・フリー、あるいは低グルテン食品でもあります。(写真出典:mydeliciousmeal.com)

2021年5月1日土曜日

サンチャゴの雨

1973年のチリ・クーデターを描いた「サンチャゴに雨が降る」(1975)は、ピアソラの哀愁漂う音楽とともに印象に残る映画でした。当時は、コスタ・ガブラス監督の「Z」に始まる三部作等、政治的な映画が高い評価を得ていた時代でもありました。特に、この映画は、クーデターから、わずか2年後に公開されており、世界中の注目を集めました。チリ・クーデターは、CIAの支援を受けたピノチェト陸軍司総令官が左派のアジェンデ政権を武力で転覆させた政変です。アジェンデ大統領は、亡命を拒否し、自ら銃を取って大統領府で戦い、命を落としました。クーデターに続いて行われた苛烈な左翼狩りでは、数万人が帰らぬ人になったと言われます。犠牲者のなかには、ノーベル賞作家のパブロ・ネルーダ、国民的歌手ビクトル・ハラも含まれていました。ちなみに、クーデター当日、ラジオから流れた「サンチャゴに雨が降る」という言葉は、クーデター勃発を伝える暗号でした。

チリは、南米の優等生と言われます。銅や硝石といった鉱物資源、アンチョビやワイン等の農水産物の輸出で、一人当たりGDP等は、南米の上位に位置します。ただ、南米各国と同様の歴史を経て、政治の不安定さはありますし、貧富の格差も存在します。それでもチリが優等生である最大の理由は、大規模土地所有の少なさだと思われます。つまり、他国に比べ、プランテーションには不向きな土地柄であったことが、他の南米各国との違いを生んでいると思います。南米の格差社会、あるいは腐敗政治やネポティズムの背景には、大規模土地所有が温存されてきたことがあります。19世紀には革命や独立も起こりましたが、欧州の民主化の波を食い止めるために富裕層が行ったものでした。商業資本の蓄積による市民革命も起こらず、産業革命による産業資本の進展も限定的、あるいは、それすらも大規模土地所有者が独占してきました。

左翼運動も起こりましたし、左派政権も誕生してきましたが、政権が左右いずれであっても、国の経済を握るのは一部富裕層であり、遅かれ早かれ、政治の腐敗が進み、結果、格差解消には至りませんでした。また、アルゼンチンのペロンやベネズエラのチャベスのようなポピュリストも登場しますが、所詮付け焼刃のバラマキ政策は、根本的解決どころか、経済を悪化させるだけでした。東南アジア各国が、経済発展を続け、格差を解消しつつあることと好対照を成します。中南米も似たような国が多いのですが、南米各国は、世界の歴史とは全く異なる道を歩み、富裕層が自らを利するように政治や社会をコントロールし、古い秩序を保ってきたのだと思います。諸外国は、自らの利益のために、それを利用してきました。アメリカが主導したとも言えるチリ・クーデターは、その極端な例なのでしょう。

アジェンデは、今も高い人気を保っているようです。ただ、アジェンデも、ある意味、ポピュリストでした。農地改革を行ったことは高く評価すべきですが、経済的にはボロボロでした。替わって軍事独裁を布いたピノチェトは、左翼の徹底弾圧を行う一方、経済政策としては、ネオ・リベラリズムを教科書的に展開し、これまた大失敗しています。軍事独裁は90年まで続きました。民政移管後は、左右拮抗するなかではありますが、主に中道左派が政権を握り、経済も成長してきました。ただ、命綱の輸出に陰りが見えはじめると、再び貧富の差は拡大します。2018年には、右派政権が誕生し、右傾化が進みました。2019年、公共交通機関の値上げに端を発し、大規模な反政府デモが起きました。コロナ・ウィルスの感染対策で小康状態にありますが、問題が解決したわけではありません。

世界的にも貧富の差が拡大する傾向にあるようです。グローバル化、IT化といった産業構造の転換に伴うものなのでしょう。経済格差の拡大は、経済全体の縮小をもたらす懸念があります。とは言え、まだ、機会均等までは失われていないと思います。南米では、それすらも十分ではありませんでした。思えば、南米は、20世紀中に、格差解消に向けた道筋をつけておくべきだったと思います。それを阻んだのは、富裕層の狡猾さだけではありません。利害関係を有する諸外国も、間接的には関わっていたとしか言いようがありません。(movies.yahoo.co.jp)

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