2021年5月7日金曜日

もち本膳

小麦は粉にしてから食べることが多く、米は粒のまま食べることが多いわけですが、その違いは、外皮や胚芽の多さに違いがあるからだそうです。米の場合、糠と呼ばれる部分は5~6%に過ぎないのに対し、小麦のフスマは25~30%と多く、粒食には向かないようです。農耕が始まった頃には、小麦も米も、殻がついたまま荒く粉砕して焼く、あるいは殻を取っただけの状態を土器で煮て食べていたようです。その後、小麦は脱穀して粉砕し、パンや発酵パンへと進化します。米は、土器の熱効率が良いことから蒸すようになり、鉄釜等の登場で炊く、いわゆる炊飯へと進化します。

ただ、かなり古くから「しとぎ」なるものも存在したようです。水に浸して柔らかくした生の米をついて粉にし、それを水でこねて丸めた食べ物です。蒸す以前からあった古い料理法とも言われ、餅や団子の原型とも言われます。手間がかかること、火を使わないこと等もあり、神饌とされてきたようです。東北や九州の一部に、製法や言葉が残ります。方言も同じですが、都から遠い所に古いものが残る傾向があります。青森県では、米どころの津軽地方には”しとぎ餅”が、気候の厳しい南部地方には大豆を混ぜた”豆しとぎ”が、ハレの伝統菓子として残っています。韓国語で、餅は”トック”と言いますが、古語では”ストク”と言っていたようです。どうやら、稲作黎明期に、半島から入ってきた食べ方の一つということなのでしょう。

餅は、蒸して杵で搗いた搗き餅(つきもち)、米粉を練って蒸しあげた練り餅、いわゆる団子に大別されます。いずれも特別な日の食べ物であることからも、その祖先は”しとぎ”だと思われます。今でも、餅は、正月の食べ物という理解が一般的です。ところが、岩手県の県南地方、旧仙台藩領内では、日常的に餅を食べる文化があります。また、ハレの日やもてなし料理としてもち本膳という料理もあります。あらたまった席では、”おとりもち”と呼ばれる主人、あるいは仕切役の「本日は至っての堅餅でありますが、ところのしきたりに従って差し上げます」という口上からもち本膳が始まると言います。その起源は、伊達政宗にあるとされます。政宗は、領内の稲作を奨励し、毎月1日と15日には、餅を搗いて神前に捧げるよう下知したのだそうです。

稲作は、生産性が高い一方で、人手と時間がかかり、天候にも左右されます。豊作を神に祈り、感謝するのは当然です。ただ、稲が実るまでは数か月かかるわけですから、毎月2回、餅を神に捧げるというのは、いかにも頻繁にすぎます。もち米の生産量を増やすために指示したのではないかという見方もあるようです。また、仙台藩は、小麦の作付けも奨励しています。その点も考慮すれば、仙台藩の真のねらいは、農民が食べるうるち米の量を抑え、可能な限り流通に回すことだったのではないでしょうか。要は、歳入増を図るための政策だったと考えられます。政宗が、天下を狙っていたことは有名です。キリシタンでもない政宗が、慶長遣欧使節を派遣したのは、欧州との通商をねらってのことでした。政宗は、財力を高め、徳川と戦う日に備えていたのだと思います。

政宗の思惑通り、岩手県県南の餅文化は定着し、進化を続けました。餅の食べ方は、実に300種類に及ぶそうです。雑煮、あんこ、くるみ、ごま、じゅねん(えごま)、ずんだ、納豆、等々、延々と続きます。どれも美味しそうですが、問題は、そんなに沢山の餅は食べられないということです。餅文化の中心地は、一関・平泉界隈であり、少量づつの料理餅を多数出してくれる店もあるそうです。岩手県県南の餅文化は、政宗の野心の名残とも言えそうです。(写真出典:maff.go.jp)

マクア渓谷