2023年4月28日金曜日

丼物

後輩が、福井県へ行って、名物のソースカツ丼を食べたら、美味しかったと言うのです。それは、ソースカツ丼ではなく、とんかつが美味しかっただけでしょ、と返しました。私はカツ丼好きですが、どうにもソースカツ丼だけは理解できません。カツ丼は、とんかつ、出汁、玉子、たまねぎが醸し出す絶妙なハーモニーが魅力だと思います。ソースカツ丼は、ご飯にとんかつを乗せただけであり、とんかつ定食と変わらないと思います。実は、海鮮丼も苦手です。まずは、食べにくいと思います。寿司か刺身定食でいいのではないかと思います。それにしても、日本人は、ご飯のうえに何かを乗せて食べるのが大好きです。ご飯のおかずになるものなら、なんでも丼物になるとも言えそうです。

丼物は2系統あると思います。丼用に食材を調理してご飯にのせた料理系、そして既存の料理をご飯に乗せた上乗せ系です。料理系は、カツ丼、牛丼、親子丼、他人丼、玉子丼、木の葉丼、衣笠丼等々でしょうか。上乗せ系でも、うな丼、天丼、焼鳥丼、豚丼などは、タレをご飯にまぶすことで一体感を出しています。ちらし寿司から派生したと思われる鉄火丼や海鮮丼も、酢飯を使うことで、ただの上乗せ系とは異なるように思います。他の丼物は、おおむね上乗せ系であり、ビフテキ丼、麻婆丼、天津丼、中華丼などが代表でしょう。上乗せ系は、性格からして、どんどん新メニューも登場します。しかし、プルコギ丼、唐揚丼、餃子丼あたりになると、丼物を名乗ること自体、如何なものかと思います。

かなり珍妙なものとしてカレー丼があります。それってカレーライスだろ、とつっこみたくなります。ただ、カレーライスとは、似て非なる物です。蕎麦屋で出てくる正しいカレー丼のルウは、デンプンを出汁で溶いたあんにカレー粉を足したものです。カレーとも、カレーうどんの汁とも異なります。いずれにしても、広い裾野を、さらに広げ続ける丼物ですが、その起源は室町期に生まれた「芳飯」だとされます。刻んだ野菜や乾物をご飯に乗せ、その上に味噌汁を掛けたものです。いわゆる汁物の”ねこまんま”です。中国の泡飯が伝えられ芳飯になったとも言われます。しかし、ご飯に、何かを乗せたり、汁を掛けたりして食べることは、米食を始めてすぐの頃から、自然発生的に、各地で行われてきたことだと思われます。

18世紀、英国のサンドイッチ伯爵が、賭博を中断することなく食事できるようにサンドイッチを発明したと言われます。しかし、パンに何かを挟んで食べることは、丼物と同様、古代から、各地で行われていました。サンドイッチも丼物も長い歴史があるわけですが、現在、我々が親しんでいる丼物の姿は、19世紀の江戸で誕生しているようです。うな丼、天丼、深川丼あたりから形を成したようです。かけ蕎麦は、蕎麦にめんつゆを掛けるから、かけ蕎麦と呼ばれます。せっかちな江戸の職人たちが、蕎麦にめんつゆをぶっかけて食べたことから生まれたようです。丼物も、全く同じ発想から誕生したわけです。上品な食事からはほど遠い、いわば江戸のファストフードだったわけです。

上品な食べ物ではないから、マナーなどいらない、というわけでもないように思います。食事を手早くかきこむための丼物ですから、ゆっくりと味わって食べるのは、ちょっと違うように思います。過日、行列のできる豚丼の店で、スマホをいじりながら食べている若者がいました。また、男女の二人連れが、会話しながら食べ、食べ終わった後もぺちゃぺちゃと話していました。許しがたいマナー違反だと思います。単に行列に配慮しろというだけでなく、早さが身上の丼物は、もくもくとかきこむことが暗黙のルールだと思います。なんなら、噛まずに飲み込む位の勢いが欲しいところです。批判を覚悟で申せば、本来、女性に丼物は不向きな食事だと思います。ことに恋人と一緒の時なら、なおさらです。(写真出典:kagome.co.jp)

2023年4月26日水曜日

箙の梅

箙(えびら)
久々に、生田神社にお参りしてきました。神戸を代表する生田神社ですが、かつては中央区一帯を領地にしていたと聞きます。租税や使役を神社に納める領民は、神封戸、あるいは神戸(かんべ)と呼ばれたようですが、神戸の場合、それがそのまま地名になったわけです。日本書記によれば、生田神社の創建は201年ということになります。神功皇后が朝鮮半島へ出兵したおり、生田で船が進まなくなったために神占を行ったところ、稚日女尊が現れて、私をこの地に祀るようにと言ったのだそうです。延喜式には、神職が酒造りをしており、新羅の使者を神酒でもてなしたと記載されているようです。これが灘の酒造りの起源だとも言われます。天然の良港である神戸は、誕生期から海外との縁が深かったわけです。

生田神社の楼門の横には、梶原景季ゆかりの「箙(えびら)の梅」があります。箙とは、矢を入れて、背中や腰に携帯する武具です。1184年、一ノ谷の戦いの緒戦となったのが生田口の激戦でした。早朝、平家が守る生田口の陣に、梶原景時率いる源氏方が襲いかかります。戦いのなかで突出した景時の次男・景高が敵に囲まれると、景時は手勢を率いて敵中に突入し救出します。その際、今度は、長男・景季が敵中に取り残され、景時は再び、突入して救出します。世に言う”梶原の二度懸”です。その舞台となったのが、生田神社の鎮守の森あたりだったようです。敵に囲まれた際、景季は、手折った梅の花を箙に差し込み、そのまま奮戦します。激闘の最中の風流に、平家からも賛嘆の声が上がったと言います。

梶原景季は、一の谷の戦いで、平重衡を生け捕りにするという手柄を立てます。また、源義経が木曽義仲を打ち破った宇治川の戦いで、佐々木高綱と繰り広げた先陣争いは、後世の語り草となっています。武勲の誉れ高い景季ですが、和歌に優れた教養人でもありました。箙の梅のエピソードの背景には、和歌に長けた景季という評判があったのでしょう。都暮らしの平家の人々にとって、農民あがりの東国侍は嘲笑の的だったと思われます。それだけに景季の風流は驚きだったのでしょう。とかく評価の高い景季ですが、その父・景時の評判はすこぶる悪く、「讒言の景時」とまで呼ばれます。源頼朝の信頼厚い武将でしたが、その讒言で、多くの者が失脚したとされます。その最たる例が、源義経ということになります。

頼朝亡きあとも、二代将軍・頼家に仕えていた景時ですが、ある御家人を讒言すると、多くの御家人の反感を買い、ついに失脚します。北条家が編纂した幕府の史書「吾妻鏡」では、多年の積悪が遂に身に帰した、ということになります。しかし、別な文献では、景時が讒言したのは、頼家を廃して、その弟・実朝を将軍にする陰謀だったとされます。その影には北条がいました。そして、その謀反は実現されています。つまり、吾妻鏡以降の景時の悪評は、陰謀に気づかれた北条によるプロパガンダだったというわけです。所領に戻った景時は、一族郎党を引き連れ、都に上ろうとします。駿河国で、在地の御家人と争いになった景時は、景季・景高ともども討たれています。これも、北条の差し金という説があります。歴史は、常に勝者の歴史というわけです。

元箱根の箱根神社第一鳥居の近く、旧東海道の横に”身替り地蔵”があります。ここを通りかかった景季は、景時と間違えられて襲われます。その際、この地蔵が身替りとなって刀を受けたために、景季は助かったという伝承があります。地蔵には、確かに刀傷が残っているそうです。信じがたい話ではありますが、景季人気を物語っています。実は、景季の歌人としての一面は、景時譲りでした。景時の歌は、武家百人一首にも選ばれています。武芸にも内務にも長けていた景時は、頼朝から大目付のような職責を与えられていたという見方もあります。讒言も職務のうちだったのでしょう。いずれにしても、北条が目の敵にしたのは景時であり、人気者の景季まで悪しく言うことは得策ではない、という判断があったものと想像できます。(写真出典:marutake.shop)

2023年4月24日月曜日

「郊外の鳥たち」

監督: チウ・ション    2018年中国

☆☆☆+

(ネタバレ注意)

チウ・ション監督のデビュー作です。監督は、ビー・ガン(凱里ブルース)、グー・シャオガン(春江水暖)、フー・ボー(象は静かに座っている)等とともに、中国第8世代の監督と呼ばれているようです。文化大革命を経験し、80年代後半からの活躍が国際的に高い評価を得たチェン・カイコーやチャン・イーモウ等は、第5世代と呼ばれました。続く第6世代は、改革開放と天安門事件を生き、2000年頃から活躍するワン・シャオシュエイ(在りし日の歌)、ロウ・イエ(ふたりの人魚)、ジャ・ジャンク-(長江哀歌 )等です。以降に登場した監督たちも、大雑把に第6世代とされてきましたが、昨今では80~90年代生まれの監督たちを第8世代と呼ぶようです。恐らくディアオ・イーナン(薄氷の殺人)あたりが第7世代なのでしょう。

第6世代は、個人的な視点、あるいは自然主義的な表現を重視し、かつ当局の厳しい弾圧を受けました。その後、検閲は強化されたと言われますが、第8世代の監督たちは、情緒的な表現を前面に出すことで、当局と折り合いを付けているように思います。ただ、映画は本来的に政治的存在であり、監督の歴史観や社会を見る目が失われたわけではありません。本作も、移りゆく中国社会を批判的に捉えていると思います。地盤沈下を調査する土木チームは現在を象徴し、無邪気な子供たちの世界は過去を表わし、その境目を明確にしないという不思議なパラレル構造を持つ映画です。郊外の鳥がいなくなった、あるいは鳥はいても鳴かなくなったということが象徴するのは、共産党政権による無闇な経済開発なのだろうと思います。

土木チームのハオは、地盤沈下の原因について一定の確信を持っています。明確には語られていませんが、急速な、あるいはアンバランスな開発が引き起こした現象なのだと想像できます。上司もそれに感づいていますが、ハオの発言に蓋をします。これが独裁制を強める習近平体制の現状を表わしているのでしょう。土木チームを映すカメラは、ぎこちないズームやパンを繰り返します。対して、子供たちの世界はスムーズなカメラ・ワークで撮影されています。子供たちの世界でも、郊外の開発は進行中ですが、まだ自然は残り、鳥は鳴いています。牧歌的とも言えるスケッチの積み重ねの中で、学校に来なくなった太っちょの家への小さな旅がハイライトを構成します。

皆の中心にいた太っちょは、毛沢東なのではないかと思われます。中国共産党の公式見解によれば、毛沢東は7割正しく、3割は間違っていた、ということになります。大躍進運動、文化大革命など、大衆に大きな犠牲を強いた毛沢東でしたが、毛沢東時代の国民は、目標を共有し、連帯感を持っていたとも言えます。より個人主義的になった鄧小平の改革開放時代も、豊かになるというベクトルは共有されていたと思います。貧しくとも、明確な目標が共有され、一定の連帯感が存在すれば、国民は幸福を感じるものだと思います。経済成長を遂げた習近平の中国では、豊かになった官僚とその取り巻き、そして貧しいままの大衆という二極化が進んでいるように見えます。本作は、牧歌的な佇まいのなかで、それをやんわり批判しているように思えます。

自殺したフー・ボー監督の傑作「象は静かに座っている」などは、かなりストレートな社会批判を行っていました。それでも、批判的な視点の有無を監督に問えば、間違いなく否定するはずです。それが、厳しい検閲をかいくぐり、自らの表現を追求する第8世代の監督たちに共通するスタンスだと思います。文化や表現の自由に対する厳しい弾圧は、時に優れた作家と表現を生むものだと思います。これからしばらくの間、中国第8世代の監督には、優れた作家と作品が生まれてくるものと思われます。(写真出典:cinemacafe.net)

2023年4月23日日曜日

山崎の百年

1970年代、海外旅行のお土産と言えば、洋酒と洋もくは必須品でした。洋もくとは、外国製のタバコです。洋酒は、主にウィスキーやブランデーを指します。喫煙や飲酒の習慣がない人も、こぞって購入してきたものです。いずれも関税が極めて高く、免税店と国内小売りとの価格差が大きかったからです。60年代末のことですが、酒を飲まない父親が、免税店でオールド・パーを買ってきて、皆に振る舞っていたことがありました。ボトルが空くと、父親は、サントリー・レッドを買ってきて詰め、酒飲みの叔父を家に呼びます。オールド・パーだ、ありがたく飲め、と言って飲ませます。一口飲んだ叔父は、レッドに似た味だと言っていました。酒飲みの舌もバカにしたものではありません。

本格的な国産ウィスキーは、1929年に発売された「サントリーウ井スキー」、通称”白札”、後のサントリー・ホワイトでした。明治期から、まがい物が国内で製造されていたようですが、1923年、寿屋(現サントリー)の鳥井信治郎は、スコットランドでウィスキー醸造を学んだ竹鶴政孝を迎え、北摂の山崎で本格的な醸造を開始します。ご存じの通り、竹鶴政孝は、後にニッカ・ウィスキーを創業しています。戦後の混乱期を過ぎた1950年、モルト混和率の低い3級ウィスキーが登場し、高度成長期にはウィスキー・ブームが起きています。サントリー、ニッカ、オーシャンがしのぎを削り、宣伝広告にも力が入ります。当時、サントリー宣伝部に所属していた開高健のコピーが、ブームに火を付けたとも言われます。

宣伝広告以外にも、トリス・バー、水割り、ボトル・キープといった日本独特の文化も生まれ、国産ウィスキーの消費は拡大していきます。ことにサントリー・オールド、通称”だるま”は、1981年時点で、世界トップの売上、国内シェア33%というお化け商品でした。ところが、1983年をピークに、ウィスキーの売り上げは急落、長い冬の時代に突入します。底となった2008年の売上は、ピーク時の1/5まで落ち込みます。その背景には、越乃寒梅に代表される地酒ブーム、白波のCMに始まった焼酎のお湯割りブーム、あるいは若者に広まった缶チューハイ等の存在があったとされます。多様化の時代を迎えたこと、酒税改訂、バブル崩壊が追い打ちを掛けたこと等も影響したのでしょう。

個人的には、海外旅行機会の増加や輸入食品の増加などで、日本人の舌が肥えたことも関係しているのではないかと思います。当時の欧州では、サントリー・オールドは、ウィスキーと認定されていないとも聞きました。いずれにしても、国産ウィスキーは厳冬期に入ったわけですが、各メーカーは進化を止めてはいませんでした。それが花開いたのは、2008年頃でした、きっかけとなったのはハイボールとクラフト・ウィスキーのブームでした。ハイボール・ブームは、サントリーが仕掛けました。クラフト・ウィスキーは世界的潮流でしたが、日本では秩父ウィスキーが先達となります。クラフト・ウィスキーのブームは、取りも直さずシングル・モルト・ブームでもありました。ここで、日本のメーカーが培ってきた品質の高さが世界に認められることになります。

いまやサントリーのシングルモルト・ウィスキー山崎・白州・響は、欧州でも高く評価され、原酒不足から高騰し、かつ入手困難となっています。今年は、竹鶴政孝が、山崎で醸造を開始してから100年ということになります。やはり、完成度の高い酒には、それくらいの時間がかかるということでしょうか。ちなみに、若い頃、新幹線の車窓からサントリー山崎工場を”発見”したときには驚きました。昔から、サントリーのCMで見てきた山崎工場は、うっすら霧がかかる山中深くに佇むといったイメージでした。ところが、実際には新幹線や高速道路に面しているわけで、何かだまされたように思いました。サントリーの宣伝上手は、折り紙付きです。サントリーが今あるのは、決して品質の高さだけというわけではありません。(写真出典:amazon.co.jp) 

2023年4月19日水曜日

停学騒動

レトロテント
中学から高校にかけて、キャンプにはまり、仲間とテント等を共同購入して、よく出かけたものです。学校で、キャンプの楽しさを宣伝していると、今度、クラスで行こうよ、という話になりました。高校2年の夏休み、よせばいいのに実行してしまいました。クラスの半分以上が参加したと思います。そういう大人数のイベントは、教師の同行が必須となっていたので、担任にお願いし同行してもらいました。ご飯を作ったり、キャンプ・ファイヤーを囲んだり、一通りのことはやりました。その後、あらかじめ皆のテントから少し離れたところに張った悪ガキのテントで、タバコを吸いながら安酒で宴会をしました。実に楽しかったのですが、後日、真面目なある女子から、喫煙と飲酒が学校にたれ込まれてしまいました。

告発を受けた学校は、調査を行い、事実であれば、処分を行う必要があります。処分は、過去の例からすれば、停学1~2週間が相場でした。告発されたのは7人でしたが、皆、停学を覚悟しました。ところが、いつまでたっても処分は伝えられませんでした。事実上の不問扱いになったわけです。理由は明かにされませんでした。皆で、想像したのは政治的判断でした。というのも、7人のうち4人が、様々な運動部のキャプテンであり、彼らが停学処分となれば、チーム全体が試合への出場を辞退せざるを得ない事態となります。学校としては、とんでもない不名誉です。我々のゲスの勘ぐりかも知れませんが、いずれにしても停学は免れたわけです。ところが、担任教師から、突如、別の形での処分が伝えられました。

秋に予定される修学旅行への参加を辞退しろ、というのです。停学処分を行わない代わりに、修学旅行を辞退させるという判断だったわけです。もちろん校則に記載などない非公式な処分であり、かつ政治的判断が背景にあったせいか、教師からも停学の代替という言葉などはありませんでした。辞退しろ、と強く言われましたが、何の拘束力もない強い要請です。無論、我々も処分は覚悟していたものの、高校生活最大のイベントを簡単に諦めることはできませんでした。そこで、雁首揃えて教師の自宅まで押しかけ、それだけは勘弁してくれと頼みました。担任としては、本件が自分の責任であることもあり、まったく譲歩しません。ついには、7人の母親が連れ立って、教師宅へ陳情に出向く事態となりました。

それでも、教師の態度が変わることはありませんでした。もはやこれまでと諦めかけた頃、突如、我々の修学旅行への参加が認められました。旅行の2週間ほど前のことだったと記憶します。修学旅行辞退という脅しが、当人たちや親にとって、いい薬になっただろう、という判断だったのかも知れません。結果的には、停学にもならず、修学旅行にも行けたわけですが、旅行直前になって、仲間の一人だけが本当に修学旅行への参加を辞退しました。オレはもともと修学旅行には興味がない、オマエらは行ってこい、と彼は言っていました。彼の性向からして、興味がなかったのは事実だと思います。ただ、それ以上に、この2ヶ月間のやりとりにうんざりしたのだろうと思いました。

停学は、誠に不名誉な処分ですが、実際的な影響は、あまりありません。大学への入学に際し、推薦入学の場合には影響があるのでしょう。ただ、当時、そのような仕組みは希であり、入試の結果がすべてでした。恐らく最大の影響は、親にこっぴどく叱られることだったと思います。だとすれば、停学処分を行わなくても、修学旅行を辞退させることで、同じ効果は得られるわけです。親たちが揃って教師に詫びを入れた時点で、停学と同じ効果をあげたということだったのかも知れません。この騒ぎを通じて、世の中には、政治的判断、超法規的措置というものが存在することを知りました。ちなみに、超法規的措置という言葉がよく知られるようになったのは、後年発生した日本赤軍による一連の人質事件の際でした。政府は、人命第一を掲げ、テロリストの要求に従って囚人を釈放しています。(写真出典:amazon.co.jp)

2023年4月17日月曜日

竹生島

竹生島は、琵琶湖の北部に浮かぶ緑濃い島です。湖中から突き出た花崗岩の一枚岩であり、浸食された節理が織りなす切り立った崖に囲まれています。神秘性を帯びた島は、古くから信仰の対象とされてきました。8世紀に編纂された”近江国風土記”には、伊吹山の神である多々美比古命と争った際にはねられた浅井岳の神・浅井比売命の首が竹生島になったという伝説が記載されています。島には、古くから浅井比売命が祀られており、都久夫須麻神社へとつながります。また、8世紀には宝厳寺が創建されています。さらに、島の周囲の湖底には、なぜか縄文・弥生期の土器が多く沈んでいるようです。琵琶湖最深部であることや水流の関係で、ほとんど調査が進んでおらず、 謎は解明されていません。

島の南側に、唯一の船着場があり、急な石段を登り詰めると、宝厳寺の本堂があります。宝厳寺は、724年、聖武天皇の勅願によって行基が開山しています。ご本尊は、大弁財天であり、都久夫須麻神社の本殿を本堂としていました。仏教寺院としては廿日市の大願寺、江ノ島の金亀山与願寺と並び、神社としては厳島神社、江島神社と並び、日本三大弁財天の一つとされます。まさに神仏習合の時代を象徴するような寺社だったわけです。明治の廃仏毀釈によって、宝厳寺は廃寺と決まりますが、反対運動が起こり、存続されました。本堂から一段下がった斜面に観音堂があります。ご本尊は、千手千眼観世音菩薩であり、秘仏として60年に一度だけ開帳されます。観音堂は西国三十三所観音巡りの札所ともなっています。

観音堂に接して建つのが国宝の唐門です。もともとは秀吉の大阪城の極楽橋が、豊国廟に移築されて極楽橋となり、さらに竹生島に移築されたものです。今となっては、秀吉の大阪城の唯一残る遺構とされます。見事な彫刻に極彩色の着色がされた桃山形式の傑作です。また、観音堂は、舟廊下で都久夫須麻神社とつながっています。懸造の渡廊下は、朝鮮出兵の際、秀吉が乗船した御座船の木材で作られていることから舟廊下と呼ばれます。また、他にも秀吉の書面や寄進した宝物も残り、その関係の深さが偲ばれます。竹生島は、実に興味深い信仰の島ですが、私が島へ行きたいと思った最大の理由は、宝物殿に安置される「面向不背の玉」を見ることでした。10cm弱の水晶玉のなかに精巧に細工された釈迦三尊像があり、四方いずれから見ても、常に正面を向き、背中を見せないことから面向不背と呼ばれます。

面向不背の玉は、讃岐の志度寺に伝わる海士伝説に登場し、興福寺の中国伝来の三宝の一つとされます。1060年に興福寺中金堂が炎上すると、他の二つの宝物は無事だったものの、面向不背の玉だけが焼失します。ところが、竹生島文書には、1346年に良恵という僧が、この宝玉を弁財天に奉納し、1565年には厨子が作られたという記録が残ります。その後、行方知らずとなり、1976年になって発見されています。やや胡散臭い経緯からか、いまだに正式な調査は行われておらず、本物か否か、唐代のものか否か、はっきりしていません。面向不背の仕組みは、玉を4面に仕切り、各々に釈迦三尊像を入れているものと考えられます。素人目には、像の微細な細工も含めて、見事なものだと思います。

唐の高宗から贈られたとされる興福寺の三宝ですが、恐らく遣唐使の僧侶が持ち帰った土産なのでしょう。華原磬(かげんけい)は、石で作られた打楽器であり、一度鳴らすと、僧侶の法衣を被せるまで鳴り続けるとされます。泗浜浮磬(しひんふけい)は、硯であり、墨を擦り始めると、自然と水が湧き出るとされます。そして面向不背の玉には、海士の玉取り伝説があります。華原磬は、細工の見事さから国宝に指定されています。ただ、他の二品については、貴重ではあっても、そこまでの価値がなかったので、箔付けのために大層な尾ひれが創作されたのかも知れません。だとすれば、ご丁寧な伝承で飾られた面向不背の玉が、最も価値が低かったのかも知れません。いずれにしても、その胡散臭さも含めて興味の尽きない面向不背の玉は、不思議さを宿す竹生島にふさわしい宝物のように思えます。(写真出典:cotosanpo.com)

2023年4月13日木曜日

少子化対策

岸田首相
人口の増減は、出産・死亡・移動という3つの要素で決まるわけですが、人口統計学として、その背景・要素を探るとなれば、多くの因子が相互に作用しあう複雑な話になります。しかし、最も根本的には、食料の生産・供給が主たる要素となるのだと思われます。例えば、文明が一定程度進化すれば、人口は停滞・減少期に入るという話をよく聞きます。文明が進化していく背景には食料の増産があり、生産が限界に達すると文明の進化も人口の増加も頭打ちになるということなのでしょう。少なくとも、これまでの人口の増減は、それで説明できたように思います。しかし、ここ数十年、日本を含めた多くの先進国が直面している人口停滞は、理由がまったく異なるように思えます。

日本の人口は横ばいながら、高齢者が増え、14歳以下の年少人口と生産年齢人口は減少を続けています。少子高齢化の主因が、食料生産でないことは明らかです。多くの先進国も同様ですが、日本は、そのスピードが速く、明らかに人口減少期に入っています。医療の進化、栄養の充足等によって高齢者人口が増えるのは当然ですが、最大の問題は少子化ということになります。特殊出生率の低下は、未婚化・晩婚化によるところが大きいわけですが、夫婦が子供を望まない傾向も影響しているようです。未婚化・晩婚化が進んだ理由としてあげられるのは、女性の社会進出、生活レベルの維持指向、経済的不安等です。足元に透けて見える問題は、育児環境の不十分さ、育児コストの高騰、経済格差の拡大等であり、最も気になるのが将来の不透明感です。 

かつて、終身雇用、年功序列という雇用環境を背景に、将来は計画しやすいものでした。さらに言えば、未来というものは、誰にとっても明るいものでした。バブル崩壊後の失われた30年のなかで育った世代が、将来を見通せないのは当然だとも思います。目先の問題や政争に終始し続けてきた政治の責任は重いものがあります。加えて気になることがあります。それは家族という概念の変容です。伝統的に家族の機能は、社会の秩序を守る性的機能、育児などの養育的機能、生産と消費の単位としての経済的機能、介護等の福祉的機能、そして心の安定をもたらす精神的機能などがあると思われます。環境変化とともに、それが大きな曲がり角にさしかかっていると言わざるを得ません。

人間にとって、家族が極めて重要であることに変わりはありませんが、農耕を始めて以降、主な労働力であった家族という枠組みは失われつつあります。あるいは、核家族化の進展によって、親の老後の面倒は子供が見るというシステムも崩壊しつつあります。伝統的な家族の機能が失なわれつつあるなか、結婚し子供を産んで育てるという概念も揺らいでいるのではないでしょうか。気になるデータがあります。日本の婚外子の少なさです。2016年のOECD加盟国における婚外子率の平均は39.7%であり、欧州各国はおおむね50%を超えているのに対して、トルコの2.9%、日本の2.3%、韓国の1.9%が最下位グループとなっています。そして、この3カ国は、最も早いスピードで少子高齢化が進む国としても知られています。

政府は、”異次元の少子化対策”の叩き台なるものを発表しました。地方統一選挙に向けた現金ばらまき策としか思えません。ばらまき政策の効果が極めて限定的であることは衆知の事実です。それを”異次元”などと言うあたりが、失われた30年を生み出し、三流国家への道を進ませる政治センスなのでしょう。ばらまき策は数兆円規模の予算を必要とします。その予算で、育児環境の整備をした方が、よほど効果的だと思われます。さらに言えば、国会でばらまき策を議論する時間があるのであれば、婚外子の法的環境を整えるための議論をした方が生産的です。政治家の皆さんには、表面的な対処療法ではなく、より本質的な議論をしてもらいたいものだと思います。(写真出典:kantei.go.jp)

2023年4月10日月曜日

金亀城

最も広い定義で言えば、日本の城は4~5万あったと聞いたことがあります。安土桃山城に始まる天守を備えた城郭は170城ほどあったようです。江戸期以前から存在し現在も残る天守は12基、現存12天守と呼ばれます。そのうち姫路城、彦根城、犬山城、松本城、松江城の5城が国宝とされています。他に復元・復興されたものが80基ほどあります。2006年、公募に基づき制定された”日本百名城”は、アイヌ民族のチャシ、琉球王国のグスク、あるいは古代山城までを含む、幅広い定義となっています。後輩が、百名城をすべて制覇したと聞きました。天守のある城ばかりなら回りやすいと思いますが、山頂や辺鄙なところにある城跡も多く、なかなかの難行だったと思われます。

その後輩に、最も好きな城を聞いたところ、丸岡城との答えでした。丸岡城は、福井県北部にある現存12天守の一つです。かつては国宝とされていましたが、1948年の福井地震で倒壊し、指定が解除されています。その後、1955年に、もともとの部材を使って組み直されています。小ぶりながら、最も古い城郭建築の様式を持つとされる人気の城です。日本一短い手紙と言われる本多作左衛門重次の「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」に登場する”お仙”とは、長じて丸岡城主となった本多成重の幼名です。さて、後輩からは、返す刀で、あなたの好きな城はどこか、と聞かれました。いくつかお気に入りの城はあるのですが、それぞれタイプも異なり、一つ選ぶというのはなかなか難しいものです。

結局、私は、伊予松山城と答えました。伊予松山城は、松山市の中心部にそびえ立つ勝山の上に築かれた、いわゆる連立式の平山城です。別名、勝山城、あるいは金亀城とも呼ばれます。天守は、幕末に再建されており、現存12天守のなかでは最も新しいとされます。江戸初期の武家諸法度によって、新たな城郭建造は禁じられ、修理も幕府の許可が必要となります。そのなかで、天守の再建が認められたのは、伊予松山藩が親藩であり、葵のご紋を掲げる松平家の居城であったためなのでしょう。ちなみに、戊辰戦争においては、親藩として幕府方についたために朝敵とされます。ただ、鳥羽・伏見の戦い直後に、戦うことなく城を土佐藩に明け渡し、かつ朝廷に多額の献上金を納めます。これが評価されことから赦され、城も残りました。同じ賊軍ながら、徹底的に城を破壊された奥州越列藩とは大違いです。

伊予松山藩は15万石。頻繁に水害や干ばつに襲われ、財政的には厳しい状態が続いていたようです。そのなかでも天守の再建に際しては、最高級の木材と高度な技術が投入されたようです。天守を持つ城郭建築は、すべて安土桃山時代から江戸初期にかけての約50年間に建造されています。伊予松山城は、安土桃山時代の様式を、250年後の最新技術と最高の建材で再現した、いわば夢の建築だったと言えるのではないでしょうか。昭和初期まで、建造物は40棟あったようですが、その後、火災・落雷などで19棟を失っています。21棟が現存しているわけですが、これは二条城に次ぐ規模です。規模や壮麗さでは、江戸城、大阪城、名古屋城、あるいは姫路城等には及びもつきませんが、とても良い状態で、日本の城郭建築の真髄を見せてくれていると思います。

それにしても、徳川一族とは言え、なぜ幕府は、幕末の世情不安ななか、豊かでもない伊予松山藩に天守再建を許可したのでしょうか。天守が再建されたのは1852年であり、ペリー来航の前の年にあたります。情報収集能力が高かったと言われる幕府は、アヘン戦争に代表される東アジアの混乱を十分に知っていたはずです。西洋列強の船が、東シナ海から京都・大阪を目指すとすれば、伊予松山は、極めて重要なルート沿いということになります。幕府は、防衛的観点も踏まえて、再建を許可したのではないでしょうか。もちろん、天智天皇が、九州から瀬戸内一帯に対大唐防衛拠点を整備した時代とは大いに異なります。日本の首都機能は江戸にあり、かつ蒸気戦艦は、難なく太平洋を航行できます。従って、防衛的観点と言っても、念のため程度ではあったのでしょうが。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2023年4月8日土曜日

マクド

飲料の自動販売機には、飲み終えた缶やペット・ボトルを捨てるためのゴミ箱が付設されていることがあります。分別回収のため、投入口を丸くして、他のゴミを入れられないように工夫してあります。過日、新大阪駅のプラットフォームで面白いものを見つけました。その丸い投入口の下に大きく「カン・ペット専用」と書かれていたのです。その必要はないと思うのですが、わざわざ書くあたりが関西っぽいなと思いました。それ以上に関西を感じさせたのが、「ペット」という簡略表現です。もちろん動物のペットでないことは明らかですが、他では見たことのない表記です。言葉の簡略化は、どこでもいつでも行われていることですが、関西のそれは、一種独特なものを感じます。

マクドナルドはマクド、ミスター・ドーナッツはミスド、ロイヤル・ホストはロイホ、ユニバーサル・スタジオはユニバ等々、関西風の簡略形は様々あります。他にもセルフ・サービスをセルフと略すパターンもあります。大阪は商人文化の街です。商人の世界では、独特な符牒がよく使われます。大阪人の簡略表現好きは、ここから来ているのかも知れません。しかし、それだけでは、大阪の独特な簡略形の説明にはならないと思います。例えば、ミスドはミスター、ロイホはロイヤルの方が簡便な簡略法だと思いますが、大阪の人は、簡略形を3音節にまとめるのがお好きなように思えます。かつ、決まってアクセントは2音節目が高くなります。他の地域では、3音節の場合、3音節目が低くなることが多いように思えます。

この3音節で2音節目アクセントの言葉は、実に関西っぽく聞こえます。大阪人の会話は、テンポの良いものですが、そのリズムを生み出している要素の一つのが、この3音節2音節目アクセント言葉なのではないかと思います。大阪人は、感覚的に、そのことをよく理解しており、簡略形も、自然と3音節にする傾向があるのではないでしょうか。日本は、古くから五七調のリズムに馴染んできました。短歌や俳句のみならず、芝居の台詞や歌詞などでも使われます。実は、7は3と4で構成される場合が多く、日本語のリズムの基本は、357だとも言えるのではないでしょうか。そのことを商売に活かした一人が、日本マクドナルドや日本トイザらスを創業した藤田田です。藤田は、大阪出身で、東大在学中から起業した希代の実業家でした。

日本マクドナルド開業にあたり、マクドナルドの米国本社は、アメリカでの発音に近い「マクダーナルズ」という商標を要求します。当然と言えば当然です。ところが、藤田は、日本語のリズム感にこだわり、3・3で構成できる「マクド/ナルド」を主張します。両者譲らず、交渉は決裂直前までいったそうです。藤田のこだわりは、見事に当たり、マクドナルドという名称は浸透し、ハンバーガーの代名詞ともなります。マクドという簡略形は、そもそも藤田田が言いはじめたと、大阪人が主張する場合があります。しかし、藤田が主張したのは3音節のリズム感であり、マクドと言ったわけではありません。いずれにしても、藤田を含め、大阪の人々は、357の日本語のリズムが肌身に染みこんでいると言えそうです。ちなみに、現在、マクドナルドの店舗の多くでは、カタカナ表記は使われていません。

NYへ赴任した当初、アメリカ人に、日本では”McDONALD'S”をマクドナルドと呼ぶんだと話すと、まるで高級レストランの名前だな、と言われました。すべての音に母音が入る日本語は、重い印象となり、高級店の重厚な名前のように聞こえるのでしょう。母音の多さは、ポップな曲調の歌では壁となる場合もあり、わざと英語っぽい発音で歌うことがあります。五七調は、母音で重くなる日本語にリズム感を持たせる工夫なのかもしれません。常々、京都の人たちは、多彩な言語表現を巧みに使いこなす才能があると思っているのですが、対して、大阪の人たちは、言葉にリズムを持たせることに優れていると言えそうです。上方落語や漫才の小気味よい語り口では、その才能がいかんなく発揮されています。(写真出典:1goten.jp)

2023年4月5日水曜日

精密爆撃

アメリカ人の友人から「Bombing Mafia」という本をもらいました。カナダのジャーナリストであるマルコム・グラッドウェルが、自らのポッドキャストで人気だった話題を、2021年に出版し、NYタイムスで第2位にまでなったベスト・セラーです。爆撃マフィアとは、精密爆撃(Precision bombing)を追究したヘイウッド・ハンセル少将らのグループです。精密爆撃とは、敵国の心臓部をピンポイントで空爆することによって、爆撃による犠牲者を減らし、かつ戦争を早期に終結させるという戦略理論です。第一次世界大戦で登場した軍用機ですが、当時は陸軍傘下で補助的役割を担うのみでした。それを戦争の中心的武力に押し上げ、第二次大戦後には空軍として独立するまでにした中心的理論だとされます。

 最初に、空爆の有用性を主張したのは、第一次大戦で陸軍飛行隊を率いたウィリアム・ミッチェル准将でした。第二次大戦が勃発する20年も前に、英国とナチスで戦われた空中戦”バトル・オブ・ブリテン”を予測し、日本が太平洋戦争を起こし、真珠湾を攻撃することを予言したことでも知られます。ミッチェルは、戦艦無用論を唱えるなど、あまりにも過激に持論を展開したため、退役に追い込まれています。その意志を継いだのが、米国空軍生みの親ヘンリー・アーノルドでした。第二次大戦勃発時、米国は世界第6位の空軍力しか持っていませんでした。ルーズベルト大統領を説得したアーノルドは、巨額の予算を獲得し、急速に空軍力を強化しました。なかでも原爆開発費を凌ぐ予算を獲得したのがB29爆撃機の開発でした。

航続距離が長く、かつ前人未踏の1万メートルという高高度から、防空体制に煩わされることなく爆撃できるB29は、夢の爆撃機でした。しかも、自動計算機能を持つノルデン爆撃標準器を搭載し、まさに戦争を変える精密爆撃の実現となるはずでした。構想から実戦配備まで10年を要したB29は、1944年11月、ヘイウッド・ハンセル将軍の指揮下、マリアナから東京への爆撃飛行を行います。ところが、日本上空を吹くジェット気流と冬場の厚い雲に阻まれ、思うような戦果を得られませんでした。膨大な開発費に対して貧弱な成果、アーノルドは大統領から責められ、陸海軍からはB29を渡せと迫られます。アールドは、戦争に革命をもたらす精密爆撃の実現という目的を忘れ、目に見える手近な戦果を求めることになります。

それは、精密爆撃を運用するためには空軍の独立が不可欠という信念から逸脱して、空軍独立が目的化する過程でもありました。アーノルドは、ハンセンを解任し、カーティス・ルメイを司令官に任命します。同時に、B29の長所を無視した夜間低空飛行を行い、精密爆撃の対局である焼夷弾による非人道的な無差別爆撃を指示します。1945年3月10日の東京大空襲は、東京を焼き尽くし、一夜にして10万人の命を奪います。カーティス・ルメイは、この指示に大いに戸惑いますが、自分一人で責めを負う覚悟を決め、命令に従います。日本では、皆殺しのルメイと呼ばれるカーティス・ルメイですが、裏にはアーノルドがいたわけです。結局、60以上の都市が焼かれ、8月には、広島、長崎に原爆が投下されることになります。

「Bombing Mafia」は、ルメイが戦いに勝ち、ハンセンが戦争に勝った、と結論づけています。つまり、ハンセンら爆撃マフィアが追究した精密爆撃の理想は、近年の誘導ミサイルやドローンによって実現されたというわけです。しかし、精密爆撃が、戦争の犠牲者を減らすことや戦争を早期に終わらせることに貢献しているかどうかは、多少疑問もあります。また、原爆投下は戦争を早く終わらせ、それ以上の犠牲者が出ることを防いだというアメリカ人の好む理屈がありますが、その背景には精密爆撃の思想があるのでしょう。犠牲者には日本人も含まれることは理解できます。ただ、自国の兵士の犠牲を減らすために、敵国の市民を大量に殺しても良い、などといった馬鹿げた話が正当化されるわけがありません。原爆は、精密爆撃の思想とは、明らかに異なると思います。(写真出典:amazon.co.jp)

2023年4月3日月曜日

うつけ

安土桃山城 大手道
歴史上、織田信長ほど人物評の振れ幅が大きい人はいないのではないかと思います。革新的で合理的、かつ一面では短気で残忍、といった革命家イメージは、司馬遼太郎の「国盗り物語」以降に定着したものだと言われます。江戸期には、徳川家康をあがめるために、対比的な暴君として喧伝されたようです。大正になると、天皇の威信を回復するために室町幕府を倒した尊皇の武将とされた時期もあったようです。「国盗り物語」では、高度成長を背景に、旧態を打破する姿が強調されたと言えます。いずれも、時の為政者や時代背景に都合良く合わせたイメージが伝えられてきたわけです。近年では、朝廷や幕府と協調した保守的武将という評価も出てきており、革新性についても疑問視されているというので驚きです。 

過日、初めて安土桃山城跡に行ってきました。安土桃山城は、信長が安土山に築いた日本初の天守を持つ城郭でした。安土山は、標高190mという低山ですが、なかなか急峻で、頂からは、琵琶湖、近江平野を一望できます。信長の居城であった岐阜城よりも京に近く、北陸道、東海道への睨みがきき、かつ琵琶湖の水運を活用できる優れた立地でした。安土桃山城は、六角氏の観音寺城を手本にしたという総石垣の城です。加工していない自然石を用いた野面積みは、比叡山麓を拠点とする石工集団・穴太衆の手になるものです。以降、穴太衆は多くの城の石垣を手がけていくことになります。もともと日本の山城は土塁作りでした。初めて城郭に石垣を使ったのは信長の岐阜城と小牧山城とされています。

天守を備えた安土桃山城は、以降、日本の城郭建築の基本形となります。城の中央部は吹き抜けという斬新な構造になっており、そこには宝塔が安置されていたと推測されています。信長は、欧州の城郭にインスパイアされて安土桃山城を築城したという話もあります。確かに、5重6階地下1階という高層建築、金色に輝く最上階、その下には朱塗りの八角堂という偉容は、日本の常識をはるかに越えていました。それは、もはや防御施設としての山城ですらなかったのかも知れません。安土桃山城には、桝形虎口や櫓といった後の城郭に見られる防御のための仕掛けがほとんどありません。信長は、安土桃山城を、防衛のためではなく、天下布武を目前にした政治的象徴として建造したとしか思えません。

その最大の証左が、摠見寺の存在ではないかと思います。摠見寺は、安土桃山城内に建造された七堂伽藍を備える臨済宗の寺院です。今も三重塔や二王門が残ります。城郭内に伽藍のある城など、他にはありません。比叡山焼き討ち、石山の戦いなどから、神仏を恐れぬ信長というイメージがありますが、あくまでも戦略上の必要から行ったことであり、当人は至って信心深かったわけです。ただ、大手道のごつごつとした石段には、石材として使われた石仏が多く見られます。建造時、多くの石材を集める必要があり、近隣の石仏も徴収されたのだそうです。さして信心深くない私ですら、踏む気にはなりません。石は石だ、という信長の合理性と言えますが、それ以上に、旧態に対する信長の挑戦的なスタンスをも感じさせます。

安土桃山城跡だけでも、十分に信長の革新性を認めることができるように思いました。ただ、革命家なのかと問われれば、やや異なるように思います。物事の本質を見極める合理的精神に富んだ革新的な武将ではあったのでしょうが、そのゴールとするところは、あくまでも天下布武であり、それ以上ではなかったと思われます。若い頃、信長は奇行が多く、周囲からは大うつけと呼ばれていたようです。恐らく、奇行のための奇行ではなく、合理性に根ざした行動だったのでしょう。いつの時代でも、常識に外れた行動が世間に理解されることはありません。思えば、時代を変えた人々の多くが、大うつけだったようにも思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2023年4月1日土曜日

オルガン²

学生時代、マース・カニングハム・ダンス・カンパニーの公演を観たことがあります。マース・カニングハムは、アメリカのモダン・ダンスをリードし続けた人でした。公演の際、客席の前方に大きなシンセサイザーが置かれ、その前に、枯れ木を思わせる老人が立っていました。ジョン・ケージです。生ける伝説を目の当たりにして、感動しました。カニングハムとジョン・ケージのコラボレーションは、1950年代に始まり、芸術だけでなく、私生活におけるパートナーとしても生涯を共にしています。二人は、ダンスと音楽、それぞれの分野で、芸術における権威主義への批判と再構築を試みました。特に、二人が、偶然性を音楽やダンスに取り込んだ”チャンス・オペレーション”はよく知られています。

20世紀前衛芸術の立役者ジョン・ケージは、1912年、LAで発明家の父のもとに生まれています。幼少期から音楽に親しんでいたようですが、大学では神学を専攻します。学校教育に幻滅したケージは、大学を中退し、欧州へ渡り、建築を学びます。その後、各地を放浪したうえで、米国に戻り、アーノルド・シェーンベルクに師事し、音楽を学びます。十二音技法で知られるシェーンベルクは、現代音楽の巨匠です。ケージは、シェーンベルクに、自分には和声の感覚がない、と言うと、それは君が音楽を続けるうえでの大きな障害になる、と言われます。ケージは、ならば私は生涯その壁に頭を打ち続ける、と答えた、という有名な話が残ります。後に、シェーンベルクは、ケージを、作曲家ではないが、発明の天才だと言っています。

ジョン・ケージの”発明”で最も有名なのは「4分33秒」(1952)だと思います。3楽章すべてにTachet(長い休み)と記載され、楽器は音を発しないまま終わります。しかし、それは無音を意味するのではなく、聴衆が音楽として環境音を聞くことが意図されています。ジョン・ケージの音そのものや偶然性へのこだわり、あるいは禅の研究などが込められた作品だと言われます。あるがままの音へのこだわりは、1940年の「バッカナル」でのプリペアード・ピアノの使用にも現れています。プリペアード・ピアノは、グランド・ピアノの弦に、金属、ゴム、木片などを挟み、打楽器的な演奏を行う手法です。いずれも賛否両論の大激論をもたらしますが、完成された西洋音楽の権威に対する挑戦であったことは間違いありません。

ジョン・ケージによる既成概念からの解放と本質の追究は、音楽界に留まらず、多くの人々に自由と勇気を与えたと思います。まさに前衛芸術の世界を切り開いた偉人なのでしょう。西洋音楽は、絶対王政と産業革命を背景に完成されました。それは西洋が世界を征するに至る過程とも重なり、西洋音楽は完成された音楽の究極の姿かのように認識されてきました。確かに極めて完成度は高いと思いますが、世界的に見れば、それがすべてというわけではありません。例えば、インドやペルシャの音楽は、西洋音楽のはるか以前に、楽理も含めて高い完成度を獲得しています。アフリカのポリリズムは、伝統的な西洋音楽よりもはるかに躍動感にあふれています。音楽が感性に深く関わる以上、多様性があって当然だと考えます。

世界で一番長い楽曲の一つとして知られるのが、ジョン・ケージの「オルガン²/ASLSP」(1985)です。ASLSPとは、”As Slow as Possible”という意味です。その演奏は、2001年、ドイツのハルバーシュタットにある元教会で始められています。演奏が終わるのは、639年後の2650年とされます。次に音程がかわるのは、2024年2月5日とされています。恐らく、その瞬間に立ち会うために、世界中から人が集まることになるのでしょう。ちなみに、世界最長とされる曲は、イギリスのロック・バンド”ザ・ポーグス”のメンバーだったジェム・ファイナーによる「ロング・プレイヤー」です。2000年に演奏が始まり、2999年までの1000年間に渡り演奏される予定と聞きます。(写真出典:berlinerfestspiele.de)

夜行バス