島の南側に、唯一の船着場があり、急な石段を登り詰めると、宝厳寺の本堂があります。宝厳寺は、724年、聖武天皇の勅願によって行基が開山しています。ご本尊は、大弁財天であり、都久夫須麻神社の本殿を本堂としていました。仏教寺院としては廿日市の大願寺、江ノ島の金亀山与願寺と並び、神社としては厳島神社、江島神社と並び、日本三大弁財天の一つとされます。まさに神仏習合の時代を象徴するような寺社だったわけです。明治の廃仏毀釈によって、宝厳寺は廃寺と決まりますが、反対運動が起こり、存続されました。本堂から一段下がった斜面に観音堂があります。ご本尊は、千手千眼観世音菩薩であり、秘仏として60年に一度だけ開帳されます。観音堂は西国三十三所観音巡りの札所ともなっています。
観音堂に接して建つのが国宝の唐門です。もともとは秀吉の大阪城の極楽橋が、豊国廟に移築されて極楽橋となり、さらに竹生島に移築されたものです。今となっては、秀吉の大阪城の唯一残る遺構とされます。見事な彫刻に極彩色の着色がされた桃山形式の傑作です。また、観音堂は、舟廊下で都久夫須麻神社とつながっています。懸造の渡廊下は、朝鮮出兵の際、秀吉が乗船した御座船の木材で作られていることから舟廊下と呼ばれます。また、他にも秀吉の書面や寄進した宝物も残り、その関係の深さが偲ばれます。竹生島は、実に興味深い信仰の島ですが、私が島へ行きたいと思った最大の理由は、宝物殿に安置される「面向不背の玉」を見ることでした。10cm弱の水晶玉のなかに精巧に細工された釈迦三尊像があり、四方いずれから見ても、常に正面を向き、背中を見せないことから面向不背と呼ばれます。
面向不背の玉は、讃岐の志度寺に伝わる海士伝説に登場し、興福寺の中国伝来の三宝の一つとされます。1060年に興福寺中金堂が炎上すると、他の二つの宝物は無事だったものの、面向不背の玉だけが焼失します。ところが、竹生島文書には、1346年に良恵という僧が、この宝玉を弁財天に奉納し、1565年には厨子が作られたという記録が残ります。その後、行方知らずとなり、1976年になって発見されています。やや胡散臭い経緯からか、いまだに正式な調査は行われておらず、本物か否か、唐代のものか否か、はっきりしていません。面向不背の仕組みは、玉を4面に仕切り、各々に釈迦三尊像を入れているものと考えられます。素人目には、像の微細な細工も含めて、見事なものだと思います。
唐の高宗から贈られたとされる興福寺の三宝ですが、恐らく遣唐使の僧侶が持ち帰った土産なのでしょう。華原磬(かげんけい)は、石で作られた打楽器であり、一度鳴らすと、僧侶の法衣を被せるまで鳴り続けるとされます。泗浜浮磬(しひんふけい)は、硯であり、墨を擦り始めると、自然と水が湧き出るとされます。そして面向不背の玉には、海士の玉取り伝説があります。華原磬は、細工の見事さから国宝に指定されています。ただ、他の二品については、貴重ではあっても、そこまでの価値がなかったので、箔付けのために大層な尾ひれが創作されたのかも知れません。だとすれば、ご丁寧な伝承で飾られた面向不背の玉が、最も価値が低かったのかも知れません。いずれにしても、その胡散臭さも含めて興味の尽きない面向不背の玉は、不思議さを宿す竹生島にふさわしい宝物のように思えます。(写真出典:cotosanpo.com)