2025年9月26日金曜日

南都焼討

平重衡
東大寺の盧舎那仏、いわゆる奈良の大仏には、高校の修学旅行以来、何度もお参りしてきましたが、毎回、その偉容には圧倒されます。高さは14.7mであり、中国やタイの大仏、あるいは牛久大仏には及びもつきません。ただ、それらを凌ぐほど大きく見えます。その最大の理由は、他の大仏と違って、大仏殿という屋内に安置されているからなのでしょう。かつて、東大寺大仏殿は、世界最大の木造建築とされていました。現在は、さらに大きな木造建築物も存在するようですが、軸組も木造という建物としては、依然、世界最大とのことです。大仏は、巨大な大仏殿の天井と相まって、実際の高さ以上の偉容を見せているのでしょう。しかも、それが8世紀の建立ということを考えれば、まさに驚異的と言うしかないと思います。

奈良の大仏は、その長い歴史の中で、幾度か焼失し、再建されています。建立以来、最初となった焼失は、1181年1月のことでした。南都の仏教勢力と対立した平家が兵を進め、東大寺、興福寺などを焼き討ちにします。いわゆる南都焼討です。平治の乱で台頭した平清盛は、大和国を領地に加えます。鎮護国家体制を担ってきた東大寺や藤原氏の菩提寺である興福寺は、平家の支配に抵抗します。以仁王の挙兵が起こると、仏教界は反平家の動きを鮮明にします。その先頭に立つ園城寺(三井寺)に対して、清盛は五男・重衡を総大将に攻撃を仕掛け、炎上させます。続けて、不穏な動きを見せていた南都仏教界に対しても、進撃を開始します。興福寺は、僧兵を集め、堀を築くなど防御を固めていきます。1月14日、戦闘が開始されますが、膠着状態に陥ります。

翌1月15日の夜、重衡が灯りを求めると、部下が民家に火を放ちます。折からの強風に煽られた火の手は、瞬く間に南都を焼き尽くします。主だった寺院や仏像が焼失し、僧侶、避難していた住民など3,500人が焼け死んだとされます。南都焼討は、インドや中国でもこれほどの法難はないであろうと言われる大惨事でした。平家物語のなかの重衡は、あれほど火の手が広がるとは思っていなかった、と悔述します。三井寺攻めと同様に、火を放つことは当初から計画されていたものの、想定以上に延焼したのは偶然だったということなのでしょう。南都焼討から2ヶ月後、清盛は、謎の病気を得て、ほどなく亡くなります。当然のことながら、祟り、因果応報と騒がれることになります。南都焼討、清盛の死とともに、奢る平家は、坂道を下るように没落していきます。

平家は、その栄華の極みを治承三年の政変(1179年)で迎えます。清盛は、後白河法皇の院政を停止し、孫の安徳天皇を即位させ、所領する知行国も最大となります。栄華の頂点は没落の起点でもあります。翌1180年には、以仁王が反平家の烽をあげて挙兵します。源平合戦とも呼ばれる治承・寿永の乱の始まりです。頼朝の挙兵、義仲の挙兵、一ノ谷の合戦、屋島の戦い、そして1185年の壇ノ浦の戦いへと続き、平家は完全に滅びます。本質的には、権勢をむさぼり尽くした清盛の自滅ということになるのでしょう。個人的には、1179年に、清盛の子である重盛と盛子が亡くなったことが没落の要因ではないかと思っています。院と平家のパイプ役だった二人を失い、清盛は歯止めが利かなくなります。南都焼討は、清盛の暴走を象徴する事件だったわけです。

南都焼討の実行犯と言える平重衡は、その後、一ノ谷で生け捕りにされ、平家一門で唯一人の捕虜となります。鎌倉に送られ、最後は南都に引き渡されて処刑されています。ところで、平家物語の重衡に関する描き方には、やや違和感を覚えます。重衡は、前代未聞の大罪人にも関わらず、好意的、かつ詳しく描かれています。そもそも、重衡は、平氏一門にありながら、気さくで人間味があり、かつ懐の深い人だったようです。頼朝ですら、その器量には感じ入ったともされます。そう言えば重盛も好意的に描かれています。重盛や重衡に対する世間の好意的な評価が反映されているのかもしれません。もっとも、清盛の極悪人ぶりと比べて好印象という程度だった可能性もあります。平家物語でも、清盛の強欲を強調するために、重盛や重衡が好意的に描かれた可能性もあります。それにしても、重衡に関する記述は長すぎるようにも思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

南都焼討