2023年8月30日水曜日

ベーコン・マニア

ここ10~15年、アメリカで起きたベーコン・マニアのブームには、やや異常な印象を受けました。もともとアメリカ人はベーコン好きです。1980~90年代、炭水化物の摂取を抑え、タンパク質と脂肪の摂取を増やすアトキンス・ダイエットがブームになると、にわかにベーコンが注目を集めたことがあるようです。しかし、今回のブームは、実利を伴わず、SNSが巻き起こした馬鹿騒ぎといった風情があります。ダイエットや健康食品ブームの反動でもあるのでしょうが、どこか愛国主義と結びついている印象もあり、気になるところでした。単なるイメージですが、ブームを支えているのは、田舎の白人貧困層のように思えてなりませんでした。その後、トランプ旋風を起こした人たちです。

ベーコン・マニアに言わせると、ベーコンはアメリカ独自の国民食であり、べーコンこそアメリカだ、ということになります。ベーコンは、アメリカの国民食かも知れませんが、アメリカに限った食品ではありません。古代中国に始まったという豚の塩漬けは、冷蔵技術が限られていた時代、世界各国で作られ、食されました。思うに、冷蔵・冷凍技術が進化した今、塩漬けにする必要性はなくなったわけで、ベーコンは絶滅しても不思議はありません。ただ、その独特な風味が人々を魅了し続けているわけです。必要性や合理性に欠ける存在は、時として人々の深い愛情の対象となります。各国に残るベーコンですが、アメリカ人が、アメリカのベーコンをユニークだと主張する理由も、まったくないわけではありません。

例えば、欧州の多くの国では、ベーコンといえば主に豚の背中の肉を使って作ります。そもそもベーコンという言葉もバック(背中)と同じ語源とされます。ところが、アメリカでは、主にサイドバック(豚バラ肉)を使って、細長いベーコンを作ります。アメリカでベーコンと言えば、どこでも、このサイドバック・ベーコン、ほぼ一択です。サイドバック・ベーコンに限って言えば、確かにアメリカ独自の食品と言えるのかも知れません。日本のベーコンも同じくアメリカ式です。ただ、日本の場合、よくスーパーで売られているパックされたベーコンは、加熱処理し、半分に切ったものです。また、カナディアン・ベーコンと呼ばれるものは、主に背中の肉を使った脂身の少ないバック・ベーコンです。

アメリカ人は、カリカリに焼いたベーコンが大好きです。ベーコンはこうでなくちゃ、というわけです。加熱済のベーコンを軽く焼いて食べる日本人には、かなり違和感があります。そもそも、アメリカでサイドバック・ベーコンが主流となったのは、安価であり、移民たちも手に入れやすかったからだと思われます。そのサイドバック・ベーコンは生の状態で販売されてるので、よく火を通す必要があります。脂身の多いサイドバック・ベーコンをよく焼けば、流れ出た脂で、おのずとカリカリになるわけです。つまり、焼き加減の好み以前に、アメリカのベーコンは、カリカリにするしかなかったのだと思います。それが、時とともに、アメリカの味として定着していったわけです。

サイドバック・ベーコンが健康的な食べ物ではないことは容易に理解できます。脂身、塩味、高カロリー、防腐剤等の添加物、と健康に良くないもののかたまりです。ただ、その風味の良さは、棄てがたいものがあり、私もよく食べます。私の場合、朝食時に、ベーコン・エッグとして食べることが多いのですが、量は多くならないように気を使っています。ほとんどの場合、スーパーで買うパックのハーフ・ベーコンを食べていますが、たまにまともなベーコンを食べたくなります。例えば、御殿場ハムのしっかりと燻製されたベーコンなどは、確実に人を幸せにする食べ物の一つだと思っています。アメリカのベーコン・マニアは異常だと申しあげましたが、実は、決して他人だとも思っていません。(写真出典:ei-sta.com)

2023年8月28日月曜日

地雷原

2014年、カンボジアのプレアヴィヒア寺院の遺跡へ行きました。天空の寺とも呼ばれるプレアヴィヒア寺院は、9世紀にクメール王朝が創建したヒンドゥー寺院です。その後、ヒンドゥー教が衰退すると仏教寺院に変えられています。 2008年には、世界遺産にも登録されました。ただ、2012年頃まで、永らく観光できない状態が続いていました。理由は二つあります。一つは、タイとの領有権を巡る紛争です。1904年に国境協定によってカンボジア領となりましたが、これを不服とするタイは、フランスの占領軍とも戦い、カンボジアとも紛争を繰り返してきました。つまり戦場だったわけです。いま一つの理由は、ポル・ポト派が埋設したべらぼうな数の地雷です。プレアヴィヒアへの道は、広大な地雷原のなかにあったわけです。

膨大な時間と資金を投じて地雷原は撤去され、タイとの紛争も小康状態となったことから観光が再開されました。カンボジアでは、内戦終了後から30年近く地雷除去が進められてきましたが、現在でも600万個が残っていると言われます。世界に残る地雷の数は推定不能とされ、約80カ国に1億個という説もあります。地雷は、人を殺傷するばかりではなく、耕地を奪い、自然を破壊します。1999年には、永年にわたるNGOの働きかけによって対人地雷全面禁止条約が発効しています。NGOは、ノーベル平和賞を受賞しました。現在、アメリカ、ロシア、中国等を除く164カ国が批准しており、地雷の新規埋設は大幅に減少したようです。ただ、無力化されていない無数の残存地雷は、依然として多くの被害者を生み続けています。

地雷汚染が深刻な国としては、イラク、ボスニア・ヘルツェゴビナ、エチオピア、カンボジア、タイが挙げられます。ポル・ポト派が埋めたカンボジア・タイの地雷以外は、全てこの30年以内に埋設されたものです。地雷は、安価で効果的な防衛兵器です。その効果は、進路妨害だけではありません。殺傷力は高くありませんが、負傷者救護に要員が割かれることで敵の戦闘能力は落ちます。埋めるだけではなく、空からばら撒くことも可能で、実に容易に地雷原を作れます。一方で、除去ということになると、数の問題だけでなく、危険を伴う困難な作業が求められます。人手もコストもかかる地雷除去ですが、地雷汚染は貧しい国に多く、NGO頼みの現状にあります。日本でも、複数のNGOが地雷除去にあたっています。

過日、ロシアの地雷に苦しむウクライナから、山梨県の建機製造・販売業「日建」に研修団が訪れました。日建創業者の雨宮清氏は、ビジネスで訪れたカンボジアの地雷被害を目の当たりにし、1995年から建機を応用した自作の地雷除去機の開発に着手します。危険を顧みず、現場で自ら操縦し、改良を重ね、カンボジア、アフガニスタン、ニカラグア等で実績を積み重ねてきました。日建の地雷除去機で驚いたのは、前で地雷を除去しながら、後ろでは土を掘り起こし、農地転用の準備をするという機能です。地雷除去には、他にも、広範囲を爆破する、ロボットを使う、探索に動物や食物を使う等、様々な手法があるようですが、多くは、依然として危険な人力に頼っているようです。

残存地雷の問題は、核兵器、温暖化などと同様、人類の負の遺産です。対人地雷全面禁止条約は、新たな地雷の製造や埋設を禁じましたが、残存地雷の除去に関してはNGOに頼っている現状があります。現在、千を超すNGOが、国連とも連携し、各地で地雷除去に取り組んでいるとのこと。その活躍は称賛に値します。ただ、国連傘下に地雷除去機構でも設立し、より効果的、効率的に除去を進めるべきではないかとも思います。ただし、その大前提は、アメリカ、中国、ロシアの参加ということになります。負の遺産という人類共通の課題解決に向けた国際協調が難航するうちに、人類と地球が滅亡する日は、加速度的に近づいているように思います。そのことは、今年の夏の異常な暑さ、大雨、干ばつのなかで、より一層強く実感させられます。(写真出典:aoav.org.uk)

2023年8月27日日曜日

テケテケ

サーフ・サウンドの元祖ザ・ベンチャーズは、1960~70年代に世界を席巻しました。特に日本での人気は抜群で、歌謡曲も多くリリースし、今でも日本ツアーを行っています。ベンチャーズは、1960年、メジャー・デビューとなった「ウォーク・ドント・ラン」をいきなりヒットさせます。その後も「10番街の殺人」、「ダイヤモンド・ヘッド」、「パイプライン」等々のヒットを飛ばします。60年代後半、日本で社会現象化したエレキ・ブームやグループ・サウンズ・ブームは、ベンチャーズとビートルズがもたらしたとされます。低音弦をスライド・ダウンしながらピッキングする”トレモロ・グリッサンド奏法”は、ベンチャーズの代名詞ですが、日本では”テケテケ”と称され、エレキ・ブーム全体を指す言葉にもなりました。

小学校高学年の頃、友人の家でベンチャーズを聞き、なんてカッコいい音楽なのだろうとシビれました。私の洋楽事始めです。我々の年代は、皆、似たような経験から洋楽を聴くようになったと思われます。おおむね年長の兄弟がいる友人たちから洋楽が広がっていったものです。ベンチャーズにシビれていると、友人の兄が来て、おまえら、もっとカッコいい曲があるぞ、とビートルズやストーンズを聞かされました。ほどなくラジオの深夜放送を聞くようになると、洋楽の世界はさらに広がり、ジミヘンやR&Bにハマってしまいました。同じ頃、エレキ・ブームが沸騰し、音楽は聞くものから、演奏して楽しむものへと変りました。私までもが、中古のエレキ・ギターを買いました。

当時、エレキの神様と言われたのが寺内タケシでした。10代でエレキ・ギターとアンプを自作した寺内は、米軍キャンプ等で演奏していました。1962年、当時、大人気だったロカビリー・バンドを結成しますが、すぐにエレキ・バンドに転じます。”寺内タケシとブルージーンズ”の誕生です。寺内が牽引したエレキ・ブームのなかからグループ・サウンズが登場したのが、1965年とされます。最初のレコードは、田辺昭知とザ・スパイダースの「フリフリ」でした。翌年には、ビートルズが来日し、ジャッキー吉川とブルー・コメッツが「青い瞳」をリリースし、急速にブームは盛り上がっていきました。スカウトされたセミ・プロや素人バンドが、次々とメジャー・デビューしていきます。

多くのヒットが生まれ、なかには今も残る名曲もあります。ただ、彼らがレコーディングしたのは、レコード会社がプロの作詞家・作曲家に書かせた曲でした。バンドを始めた時、彼らが目指した音楽があったはずですが、ビジネスに組み込まれると、それらとはかけ離れた音楽をやらされたわけです。タイガースとテンプターズの登場で、ブームは頂点を迎えますが、音楽性の問題からメンバーの脱退や解散が相次ぎ、かつルックスだけのバンドが淘汰されたこともあり、ブームはわずか3~4年で消滅しました。グループ・サウンズとは、エレキ・ブームを背景に、レコード会社が仕掛けた商売に過ぎなかったわけです。しかし、解散したグループのメンバーの多くが、その後、音楽の世界を中心に活躍し、日本のポップスを進化させることにはなりました。

そういう意味では、グループ・サウンズの効用もあったわけです。音楽を目指す若者たちに、自分たちの音楽を追究することの大事さを教えてくれたという面もあります。また、ヨナ抜き音階の演歌中心だった日本の歌謡曲界に、ポップスを定着させた効果は大きかったと思います。1960年代は、世界的にカウンター・カルチャーの時代でした。エレキ・ブームやロング・ヘアーは、旧世代からすれば教育上好ましくない非行であり、厳しく批判されたものです。グループ・サウンズは、レコード会社が作りあげたブームとは言え、若い世代が古い価値観を打破していく効果はあったと思います。明らかに、日本のポップスの多様性はそこから生まれ、発展していったのだと思います。(写真:ザ・スパイダース「フリフリ」出典:amazon.co.jp)



2023年8月26日土曜日

夏祭

祇園祭
春祭は、農耕の始まりを祝い、神仏に今年の豊作を願うという意味があり、秋祭は、農作物の実りを祝い、神仏に感謝を捧げるという趣旨なのでしょう。夏祭だけは、農耕のサイクルと無関係に思えます。恐らく、多くの夏祭は、盂蘭盆会との関係で行われてきたものなのでしょう。祭とまでは言わないにしても、盆踊りは、全国各地で行われます。盆踊りや精霊流しに由来する祭も多くあります。ただ、お盆とは無関係な夏祭も多くあり、それらは都市部に集中しているように思えます。例えば、祇園祭系の山車とお囃子、あるいは三社祭系の御神輿などです。これらの祭は、疫病退散を神仏に願ったことを起源とする場合が多いようです。疫病除けなら、夏場に多く、都市部に多い理由も頷けます。

思えば、人類の歴史は、疫病との戦いの歴史でもあります。一定の土地に、そこで生まれ育った人たちだけで暮らす場合、疫病に対する集団免疫が獲得されます。パンデミックが起こることはありませんが、文明の進化も遅くなります。ただ、戦争や交易によって、人の交流が起こると、文明の進化とともにパンデミックも発生することになります。しかも、それは人口が密集し、衛生環境も食糧事情も劣悪だった都市部で大きな被害を生むことになります。農耕によって文明が誕生し、文明の進化によって疫病との戦いが生まれたと言えます。あるいは、自然の一部であった人間が、自然をコントロールしようとした瞬間、自然に逆襲されたと言えるかも知れません。

日本最古のパンデミックの記録は、3世紀末から4世紀前半と推定される崇神天皇の時代に起きています。中国や朝鮮半島との交流が活発化した頃と重なります。天然痘か麻疹だったのでしょうが特定できません。民の半数以上が死んだと記録されます。次のパンデミックの記録は、735~737年に起こった天然痘の大流行です。九州で海外から持ち込まれた菌によって流行が起き、平城京には、朝廷が新羅に送った使節団が持ち込んだとされます。その後、全国に蔓延し、人口の25~35%が死んだと推定されています。聖武天皇は、仏教に深く帰依し、東大寺に盧舎那仏(大仏)を建立します。その後も、数十年毎に、天然痘、麻疹、赤痢、マラリア等々の流行が発生しています。

9世紀中葉には、インフルエンザによるパンデミックが、複数年にわたり発生します。民衆は、怨霊の祟りを鎮めるために御霊会(ごりょうえ)を開き、読経とともに、歌舞音曲、相撲なども行ったようです。863年には、朝廷内でもインフルエンザが猛威を振るったため、初めて朝廷主催の御霊会が開催されます。864~866年には、富士山の貞観大噴火が起こり、869年には激烈な貞観地震と大津波が発生します。前後して、火山の噴火や地震が続いたことから、厄災を払うとされる牛頭天王を祀った御霊会が神泉苑で大々的に行われ、祇園社、現在の八坂神社から神輿も繰り出します。これが祇園祭の始まりとされます。明治時代までは、祇園御霊会と呼ばれていたようです。祇園祭こそ、神社系の夏祭の大本だということになります。

天然痘のパンデミックは、その後も、世代が変わる毎に発生を続けます。WHO が天然痘根絶宣言を出したのは1980年のことでした。人類が、初めて、かつ唯一根絶できたウィルスと言われます。エドワード・ジェンナーが、1796年に発見した人類初のワクチン”種痘”が功を奏しました。それに先立つ1792年、秋月藩の藩医だった緒方春朔が人痘法の接種に成功していますし、さらに言えば、4,000年前のインドでも人痘法は行われていたようです。ただ、ジェンナーの牛痘法は、より安全性が高く、瞬く間に世界中に広まったようです。日本でも、1810年には初めての接種が行われていますが、普及したのは40年後だったようです。効果があると言われても、牛の疱瘡を体内に入れることなど、相当の抵抗があって当然です。人類にとっては、種痘も文明の進化の一つですが、一方、ウィルスも進化を続け、そのスピードは人類のそれをわずかに上回っているように思えます。(写真出典:yasaka-jinja.or.jp)

2023年8月24日木曜日

ヘッド・アップ・ディスプレイ

アメリカにいる時、スウェーデンのサーブ900に乗っていました。マーケティング・データによれば、オーナー・ドライバーの学歴が最も高い車とされていました。アメリカ人の仕事仲間に言わせれば、サーヴィー(彼女はサーブ・オーナーをそう呼んでいました)は、高い確率で、眼鏡をかけ、ヒゲをはやし、頭髪が薄い、ということになります。今はなきサーブ・スカニアは、スウェーデンを代表する航空機・軍需品メーカーのサーブとトラック・バス・メーカーのスカニアが統合して誕生したカー・メーカーです。航空機製造の技術を活かした独特の車作りはユニークで、長いボンネットに直立的なフロント・ガラスという外観も実に印象的でした。サーブのオーナー・サービスには、定期的な広報誌の配布もありました。

その広報誌に、ヘッド・アップ・ディスプレイ(HUD)が紹介されていたのは、1988年のことだったと記憶します。戦闘機メーカーらしい先進性に驚きました。HUDは、フロント・ガラスに直接、あるいはその前に装着された光学ガラス等に、スピードや種々のデータを映し出す技術です。第二次大戦中、英国のデ・ハビランド社が、モスキート夜間戦闘機の風防にレーダー映像を映し出したのが始まりとされます。ちなみに、モスキートは木製のボディを持ち、世界最初のスティルス機とも言われます。その後の技術的進化もあり、HUDは、ジェット戦闘機の標準的装備となります。さらに、ヘルメットに組み込まれたヘッド・マウント・ディスプレイも開発されています。

米国でのHUDの車への搭載は、1988年にオールズモービルが実用化し、その後、カトラス・シュープリーム・サルーンに装備されます。オールズモービルは壊れにくい車として人気が高く、我が家のセカンド・カーも、中古で買った大きなカトラス・シュープリーム・セダンでした。決しておしゃれでもなく、先進性を誇るわけでもない車が、初めてHUDを搭載したという点が面白いと思います。一方、日本では、同じ1988年、おしゃれなデート・カーとして人気のあった日産シルビアに採用されています。しかし、HUDは、一般化しませんでした。コストの問題もあったのでしょうが、当初、表示されるのはスピードくらいであり、ユーザー側から必要性そのものが疑問視されたわけです。

しかし、近年、HUDを搭載する車が増えているようです。まだ、10%に満たないものの、標準装備化が進むと言われています。その背景には、車とネットのリンク、いわゆるコネクテッド化の進展による情報量の増加と精緻化があるものと思われます。エンジンの電子制御やABSシステムは1970年代に登場し、90年代後半にはGPS型のカー・ナビゲーションが生まれ、2000年代に入るとネットとのリンクが本格化します。さらに2010年代後半には、運転支援システムが導入され、自動運転化が急速に展開しつつあります。増加した情報量は、従来のメーター類では対応できず、ナビも兼ねたディスプレイに表示されます。運転中のドライバーの視線は、かつてより頻繁に上下するようになり、HUDの有用性が再認識されたのだと思います。

一方で、HUDの危険性を指摘する声もあります。前方視野における遠近の焦点が頻繁に変わることが危険だというわけです。いささか驚きです。ジェット戦闘機のHUDは、無限遠の点に結像するよう設定されています。車の場合でも、焦点は数メートル先にあり、遠方視野とほぼ違和感なく同化しています。つまり、遠近の焦点移動は発生しないよう設定されているわけです。もちろん、慣れの問題はあり、当初は煩わしいと思うドライバーもいるとは思います。新しいHUDでは、簡略化されたナビの投影もされるようです。車の進化には感心させられますが、そうなると、もう一気に自動運転化すればいいのではないかとも思います。ただ、最新のHUDや運転支援システム欲しさに、車を買換えるかと言えば、そこまでではないとも思います。人間の情報処理能力は、まだまだコンピューターに勝っていると確信しているからです。(写真出典:autocar.jp)

2023年8月22日火曜日

志怪小説

蒲松齢
”白い目で見る”と言う言葉は、冷たい視線、蔑むような態度を意味しますが、もともとは”青い目で見る”という言葉とセットでした。青眼は、うれしさあふれる視線を意味します。この言葉は、3世紀、中国三国時代の思想家・阮籍に由来します。阮籍は、世俗に背を向け、哲学論議、いわゆる清談をよくした“竹林の七賢”のリーダー格とされます。阮籍は、気に入らない人には白眼を向け、気に入った人には青眼を向けたとされます。政治や俗世を拒む姿勢の現れなのでしょう。いわゆる六朝時代は、戦乱の世であるとともに、宗教の時代とも言われます。竹林の七賢は、哲学、宗教を論じ、その具体例として、巷で語られている伝承や噂話をよく使ったとされます。それが、怪奇小説の先祖と言える”志怪小説” を生むことになります。

志怪小説とは、怪異なことを記すという意味で、民間に伝わる伝承や噂話を集めたものです。怪談の類いは、”本当にあった話”として語られることが多いわけですが、そもそも始まりからそのスタイルを持っていたわけです。また、当時の書籍と言えば、為政者の命で作成された歴史書が主であり、民間の話を書物にしたという点も画期的だったのでしょう。ただ、内容は、採録した話を簡略に記述したものであり、創作された小説とは大いに異なるものでした。”小説”という言葉は、荘子が、つまらない説と定義したことに始まるとされます。とすれば、志怪小説は、小説の元祖なのかも知れません。干宝の「捜神記」等が代表作とされますが、残念ながら原本は失われており、後の編纂本に、一部収録されるのみと言われます。

その後、唐代には、沈既済の「任氏伝」等、いわゆる伝奇小説が登場しています。志怪小説のシンプルな採録スタイルとは異なり、物語性を高め、登場人物の心情も描かれるようになります。エンターテイメント性が高まった背景には、唐の華やかな宮廷文化、あるいは科挙の制度によって民間の知識レベルが上がったことも挙げられています。ところが宋代になると、再び簡潔な採録スタイルに戻ります。宋は官僚の国であり、科挙や儒教が盛んでした。恐らく享楽的な読み物は嫌われ、教訓めいた話が好まれたのでしょう。そうした歴史的経緯も踏まえ、清代前期に登場したのが蒲松齢の「聊斎志異」です。怪異小説の最高峰とも、短編小説の最高傑作とも言われます。

聊斎志異が書かれた時期は、1670~1700年代初めと推定されています。原本には、約500編が収録されていると言われます。いくつかの写本もあったようですが、刻本は、1766年に全16巻として発刊されています。聊斎志異は、作者が没してから半世紀を経て世に出たわけです。六朝時代の志怪小説の復興とも言われるようです。神仙、妖狐といった内容は、確かに伝統的だと言えます。ただ、先立つ明代には「三国志演義」、「水滸伝」、「西遊記」、「金瓶梅」が書かれています。いわゆる中国四大奇書の時代を経て書かれた聊斎志異の文学的成熟度は、先祖である志怪小説とは格段の違いがあるのでしょう。江戸後期には日本にも伝わり、翻訳もされています。また、芥川龍之介、太宰治、佐藤春夫等々も、聊斎志異を翻案した作品を書いています。

聊斎志異の世界は、日本の怪談や欧州の怪奇小説とは大きく異なります。美しく、慎ましやかな女性が多く登場しますが、多くの場合、その本性は神仙、妖狐、あるいは幽霊ということになります。日本や欧州の場合、彼女たちは悪さを行い、主人公は恐れおののきます。聊斎志異に登場する誠実な男たちは、この世のものではない女性と幸せに暮らします。ただ、ちょっとしたことから、彼女たちの本性が明らかになるのですが、主人公たちは、恐れるのではなく、そのことを受け入れ、愛しく思い続けます。この日欧との違いは、恐らく道教がゆえに生まれるのでしょう。中国には、儒教も仏教もありましたが、最も影響力のある思想は、老子に始まる道教だと聞きます。不老長寿を理想として、神仙思想を説く道教の教えが庶民にまで浸透しており、聊斎志異の世界が生み出されているのでしょう。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2023年8月20日日曜日

ファーブルトン

小学生のころ、将来の夢という題の作文を書かされたことがあります。ほとんどの子が、野球選手とか医者とか、将来なりたい職業について書いていたようです。それこそ、まさに教師がイメージしていた内容だったのでしょう。私は、ヤクルトを一升瓶でラッパ飲みしたい、バケツくらい大きいプリンを食べたい、と書き、失笑をかいました。ウケをねらったわけではなく、常々、ヤクルトもプリンも大いに不満の残るサイズだと思っていたので書いたまでです。長じても、その夢は覚えており、定年退職した日に、それを実現したいと思っていました。 ただ、実際には実現していません。理由は単純です。いまだにヤクルトもプリンも好きですが、歳とともに、そこまで大量に飲みたい、食べたいと思わなくなったからです。

プディングは、大雑把に言えば、卵や牛乳等を蒸した料理の総称であり、英国発祥とされます。カスタード・プディングは、その一種のスウィーツということになります。カスタード・プディングは、実に裾野の広いスウィーツです。卵・牛乳・砂糖を基本材料とする点は同じですが、製法の違い、あるいは国の違いによって、ババロア、ブラマンジェ、パンナ・コッタ、クリーム・ブリュレ、フラン、クレマ・カタラーナ等々があります。また、ティラミスやカヌレも仲間だと言えます。スペインの家庭料理ミルク・フライは好物ですが、これも同族なのだと思います。私は、総じてカスタード・プディングが大好きです。間違いなく、人を幸せにする食べ物の一つだと思います。

日本で一般的に販売されているメーカー製のプリンもおいしいとは思います。いわゆるケミカル・プリンですが、熱を加えず、ゼラチン等で固めたものです。とてもなめらかな口当たりになりますが、カスタード・プディングというよりも、ほぼババロアだと思って食べています。ちなみに、グリコのヒット商品「プッチンプリン」は、世界でもっとも売れたプリンとしてギネス世界記録に認定されているようです。さて、そのカスタード・プディング系のなかでのお気に入りと言えば、二つあります。一つは、お袋が作ってくれたプリンです。永いこと食べていたからということなのでしょうが、伝統的な作り方が生む食感が好きでした。今一つは、フランス菓子のファーブルトンです。

ファーブルトンは、ブルターニュ地方で生まれたスウィーツです。”ファー”は牛乳で煮た粥を意味し、”ブルトン”はブルターニュ地方を指します。卵、牛乳、砂糖に小麦粉を混ぜ、プルーンを入れて、オーブンで焼き上げます。しっかりとした質感、プルルとした食感がたまりません。私が、初めてファーブルトンを食べたのは、神戸の「PATISSERIE TOOTH TOOTH」です。洋菓子店としては、1997年に、トアロードと三宮中央通の角、生田神社一の鳥居横に創業しています。神戸と西宮だけに5店舗を展開しています。初めて食べたファーブルトンは、まさに至福の味、即刻、最も好きな食べ物の一つに認定しました。ただ、日持ちしないという難点があり、神戸から帰る日に、老祥記の豚まんとともに買って、新幹線に乗ったものです。

過去形で語るには理由があります。10年ほど前から、トゥース・トゥースの店先からファーブルトンが消えたのです。今でも神戸へ行くとトゥース・トゥースには立ち寄ります。焼き菓子等を買うのですが、その際、店員さんに「ファーブルトンはないんだよね」と、必ず言うことにしています。ファーブルトンを忘れていない客がいることを伝える、私なりの復活要望運動だと思っています。東京でも商っている店はいくつかあります。最近も、神保町で新しい店を見つけました。どれも美味しいのですが、トゥース・トゥースの味とは、多少異なります。トゥース・トゥースの濃厚なファーブルトンは、どこか田舎臭さの残る素朴な代物でした。恐らく、伝統的な作り方を踏襲し、ブルターニュらしさを残したファーブルトンだったのでしょう。(写真出典:prune.jp)

2023年8月18日金曜日

「バービー」

監督:グレタ・ガーウィグ       2023年アメリカ

☆☆☆+

(ネタバレ注意)

コメディではありますが、ただのおちゃらけ映画でも、子供用映画でもありません。むしろ15歳以下では理解できない映画だと思います。ピンク色とプラスティックにあふれるアウトフィットにも関わらず、実存主義的なテーマを持つ映画だと言えます。構造のみならず、本作は多くの二元論的モティーフを笑いのなかに散りばめ、押しつけがましくない形でテーマを訴求しています。映画は、メガヒットを記録しました。ノスタルジーだけでも、ピンクだけでも、実存論だけでも、このヒットはあり得ません。糖衣錠のようなもので、観客は口の中で甘さを感じながらも、中身が薬であることを知るわけです。その世界観を成立させたのは、周到に構成された脚本、徹底的な色やセットの作り込み、そしてマーゴット・ロビーの巧みな演技だと思います。

フェミニズム映画と理解する人もいるのでしょうが、それは多少違うと思います。確かに、バービーランドは母権社会であり、ケンたちが持ち込んだ家父長制的な世界は、バービーたちの策略によって排除されます。ただ、バービーが予定調和の世界に疑問を持ち、より困難な現実世界へと入っていくストーリーは、フェミニズムも、家父長制をも超え、人間の成長という普遍的なヒューマニズムを象徴していると思います。同時に、それは、少女たちが、差別的環境を克服しながら大人になっていく過程そのものだ、と監督は言いたいのでしょう。映画はキューブリックの「2001年宇宙の旅」のパロディから始まります。原始人の進化を促したモノリスが、ここでは巨大なバービーとなり、少女たちを目覚めさせます。

幼児が主体だった少女向け人形の世界に登場したバービーは画期的だったのでしょう。ある意味、バービーの登場は、女性を育児や家事労働から解放した革新だったわけです。ただ、その革新性も、あくまでも女性的という枠の中にあり、今となっては、ヴェニス・ベーチで好奇の目を集め、若い女性からはファシストと罵られます。そこで流すバービーの涙、またバービーが死を意識した瞬間に始まる肉体的劣化、あるいはラスト・シーンで人間になったバービーが明るく婦人科健診を受けに行くといったモティーフは、直線的なフェミニズムを超えていると思います。さらに家父長制の世界に目覚めたケンたちが取り憑かれる争いというロジックも併せ考えれば、監督のヒューマニズムという目線が見えてきます。

グレタ・ガーウィグは、「フランシス・ハ」(2012)の主演と脚本で注目され、自らの脚本を初監督した「レディ・バード」(2017)は、アカデミー賞の作品賞・監督賞等にノミネートされました。監督2作目の「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」も作品賞にノミネートされています。彼女は、インディペンデント系のマンブルコア映画運動に参加していたことでも知られます。レディ・バードは、夢見がちでプライドが高く、かつナイーブな少女が大人になっていくという自伝的なプロットでした。マンブルコア的な日常的スケッチを積み重ねていく手法が光っていました。バービーでは、作風が変わったようにも見えますが、スケッチを積み重ね、監督の主張を押しつけないスタイルは、グレタ・ガーウィグそのもののように思えます。

バービー人形の発売元であるマーテル社が、制作に参加しているのには驚きました。マーテルの協力なしには成立しない映画ですが、脚本には、マーテルを茶化したり、批判的な部分があります。にも関わらず、ビジネスにはプラスと判断したわけです。マーテルの創業者で、バービーの生みの親として知られるルース・ハンドラーの幻影も登場し、バービーの自立を促します。ちなみに、バービー人形は、1959年に発売されていますが、当初から日本で生産されています。当時の日本の人件費の安さ、着せ替え服を作る繊維産業の存在が背景にありました。日本製品は、安かろう悪かろう、と言われていた時代のことです。ただ、当時としては精巧な人形を米国で生産するにはコストがかかり過ぎたのでしょう。日本製であっても、価格は他の着せ替え人形の1.5倍だったようです。それでも大ヒットし、長く愛されたわけです。(写真出典:oricon.co.jp)

2023年8月17日木曜日

パンジャブの霧

タイガー・ジェット・シンは、ブラッシー、デストロイヤー、アブドーラ・ザ・ブッチャー等と並び、昭和のプロレス界を代表するヒールでした。ターバンを巻き、サーベルを持って登場し、対戦相手ばかりか観客にも襲いかかり、時にはリング外でも襲撃事件を起こすなど暴れ回りました。しかし、そのヒールぶりは日本向けの演出であり、実際には、パンジャブ出身の礼儀正しいインド人であり、本拠地のカナダやアメリカでは、しっかりとしたレスリング・テクニックを持つベビー・フェイス(善玉)として活躍していました。また実業家としても成功を収め、北米におけるインド人社会ではなかなかの著名人だとも聞きます。思えば、日本に、インド人=ターバンというイメージを定着させた一人かも知れません。

ターバンを巻いたインド人は、ほぼシーク教徒であり、ほぼパンジャブ州民であり、その数はインドの人口13億人のなかでは2%にも達しません。パンジャブは、インドの北西、インダス川とその支流に囲まれた肥沃な土地であり、インド・パキスタン両国にまたがっています。4,500年前には、ドラヴィダ族が、ここにインダス文明を築きました。3,500年前には、インド・アーリア人がハイバル峠を越えてパンジャブに侵入します。その後、ガンジス川流域まで侵出したインド・アーリア人は、今に続くヒンドゥー教ベースのインド社会を形成しました。同時に、自分たちを疫病から守る為に講じた策から、カースト制が生まれます。職業・結婚等に関わる差別は、法的に禁止されたものの、今も大きな問題として残ります。

16世紀初頭、神の啓示を受けたグル・ナーナクがシーク教を起し、パンジャブで布教を開始します。形骸化したヒンドゥー教やイスラム教を批判し、日々の生活を真摯に送ることで神との合一を目指します。ヒンドゥーとイスラムを融合させた宗教改革とも言えるのでしょう。そこでは、カーストによる差別、あるいは男女差別も否定されます。シーク教は、比較的裕福な層に広がったことで、よく教育された優秀な人材を生んできたと言われます。また、イスラム教やヒンドゥー教、あるいはイギリスから攻撃されたことで武装し、結果、優秀な軍人を生んできたとも言われます。恐らく職業選択を自由化したことで、適性の高い優秀な人材を輩出する社会を築いたということなのでしょう。

Netflixで、パンジャブでパンジャブ語を使って制作されたミニ・シリーズ「霧」を観ました。殺人事件をモティーフとする刑事ものですが、テーマとしていたのは宗教と土地に囚われたパンジャブの現状だったように思います。カーストは否定されていても、農業国だけに土地の保有が全てであり、大地主が政治や行政を牛耳っています。親の世代は子の世代のためにと信じて、土地の保有、そして因習の保持にこだわり続けます。肥沃な土地で農業生産の高さを誇り、シーク教徒の多いパンジャブは、もっと開かれた州なのだと思っていました。海外へ出て高い評価を得ているシーク教徒も多くいます。ヒンドゥー中心の国内の環境を嫌って海外へ進出していると聞いていました。実は、封建的なパンジャブから逃れるためだったのではないかとさえ思わされます。

インドが、英国から独立したのは1946年ですが、パンジャブが州としての独立したのは1966年になってからでした。インド新政府が掲げた政教分離という建前が災いしました。英国領時代、英国と戦って獲得してきたパンジャブの独立性はインド政府によって否定されます。8割以上の国民がヒンドゥー教徒という国にあって、少数派は過酷な状況に直面します。対立が続くなか、1984年、黄金寺事件が発生します。シーク教の本山であるゴールデン・テンプルに陣取った分離独立派を、インド政府軍が包囲、殲滅します。双方の犠牲者は、数百人とも千人以上とも言われます。以降、シーク教徒とヒンドゥー教徒は、暴力の応酬を繰り返し、ついには首相暗殺、民航機爆破事件まで起きます。今でこそ、かなりの独立性を確保しているようですが、パンジャブは、内外とも、依然、濃い霧の中なのかも知れません。(写真出典:imdb.com)

2023年8月14日月曜日

ポロ・シャツ

カジュアル・ウェアの王道だったポロ・シャツは、1980年代以降、Tシャツに押されっぱなしだったようです。ところが、近年、また復活しつつあるとのこと。恐らく、2011年に始まったスーパー・クール・ビズの影響だと思われます。クール・ビズ自体は、2005年、小池百合子環境大臣の提唱によって始まりました。ただ、ビジネス界のとまどいは大きく、すぐには定着しませんでした。その頃、人事部長に就任した私は積極的にクールビズを進め、まずは社長・会長にネクタイを外すようお願いしました。抵抗されましたが、ことは環境問題に対する姿勢の問題である、と強弁し、外してもらいました。金曜は、カジュアル・デーと定め、私は率先してビジネス・カジュアルに徹しました。

当時、京都のさる銀行も、なかなかネクタイを外しませんでした。西陣のネクタイ産業を顧客とする身としては当然とも言えました。さはさりながら、そろそろ外したら如何かと言ったところ、顧客がまだネクタイをしているから外せない、と言われました。それを銀行の顧客に話すと、銀行がネクタイを外さないから、わしらも外せない、と言っていました。役所と銀行がネクタイを外したことで、クールビズは一気に進んだように思います。実に日本的な話だと言えます。2011年の東日本大震災の際には深刻な電力不足が起こり、会社の室温設定を上げるともに、スーパー・クール・ビズが推奨されます。ここで、チノパン、スニーカー、そしてポロ・シャツも、ビジネス・カジュアルとして認められることになりました。

ポロ・シャツは、ポロ競技で着用していたからポロ・シャツと呼ばれるのだろうと思っていました。ところが、あるとき、ポロ・シャツを発明したのはラコステだという記事を読みました。ラコステは、1933年、元プロ・テニス・プレイヤーだったルネ・ラコステによって創業されたフランスのアパレル・ブランドです。ラコステがテニス・ウェアとして開発したのであれば、なぜテニス・シャツと呼ばれないのか疑問です。実際、テニス・シャツと呼ばれていたこともあったようです。調べてみると、ポロ・シャツの起源、由来には、やや複雑な経緯がありました。そもそもポロ・シャツの原型は、19世紀半ば、インドのポロ競技で生まれ、後に英国でも着られるようになったようです。

生地は厚手のオックスフォードで、風ではためくことを避けるために襟はボタンダウンになっていたようです。ちなみに、ボタン・ダウンは、ブルックス・ブルザースによる発明です。その後、生地にはジャージー生地が使われるようになります。ジャージー生地は、17世紀、イギリスのジャージー島で、漁師のシャツとして誕生しました。いわゆる織物ではなく、編物、つまり伸縮性に優れたニットです。ジャージーのポロ・ウェアに着目したのが、ルネ・ラコステでした。グランド・スラムで7度優勝したラコステでしたが、当時の硬いテニス・ウェアを不快に思っており、綿のジャージー生地、平たい襟、後ろの裾が長いシャツを開発します。現在に至るポロ・シャツの誕生です。

ちなみに、ラコステのロゴ・マークであるワニは、ルネ・ラコステのニック・ネームに由来します。食らいついたら放さないというプレイ・スタイルから付いたニック・ネームだそうです。さて、誕生の経緯はともかくとして、ポロ・シャツと呼ばれることになった経緯は判然としません。少なくとも、ポロ・シャツという名称を広めたのはラルフ・ローレンだったとされます。ラルフ・ローレンの「ポロ」というブランドは、1968年に誕生しています。ラルフ・ローレンは、1972年、コットン・メッシュの生地、多彩な色、ポロ選手のロゴをあしらった”ポロ・シャツ”を主力商品として発売します。これが、プレッピー・スタイルの典型的なカジュアル・ウェアとして大ヒットすることになりました。テニス、ゴルフ、カジュアル・ウェアとして一般化していたニット・シャツは、これ以降、ポロ・シャツとして知られるようになったわけです。(写真出典:ralphlauren.co.jp)

2023年8月12日土曜日

フェニックス

日本三大花火大会と言えば、8月末に大曲で開催される「全国花火競技大会」、11月初めの「土浦全国花火競技大会」 、そして8月初めの「長岡まつり大花火大会」となります。大曲と土浦の花火大会は、100年を超える歴史を誇り、全国の煙火師が内閣総理大臣賞を競います。対して長岡の花火は競技会ではなく、戦後の1947年、長岡空襲の慰霊と復興を願って始められました。もっとも、その起源とされる花火は、1879年に八幡神社の祭りで打ち上げられていたようです。中越地方は、もともと煙火業の盛んな土地柄です。2004年10月、その中越地方を地震が襲います。中越地震です。2005年の長岡花火では、地震復興を願って「フェニックス」が打ち上げられ、以降、正三尺玉とともに、長岡花火の象徴となりました。

フェニックスは、全長2kmに渡り、同じ花火が、同時に打ち上げられる超ワイド・スターマインです。復興の象徴として、翼を広げた不死鳥の姿がイメージされています。会場には、平山綾香の「Jupiter」が流れ、約5分間、打ち上げが続きます。大曲でも土浦でもワイド・スターマインが名物となっているようですが、その長さは500~600mと聞きますから、いかにフェニックスが桁違いかが分かります。打ち上げコストも桁違いです。一般的なスターマインが約200万円前後と聞きますが、フェニックスは2,600万円以上。毎年、全国から集めた寄付をメインに賄っているようです。ちなみに、隅田川の花火大会は5~6号玉が中心で、1玉15,000円程度。それが尺玉(10号)になると5~6万円はかかると聞きます。

正三尺玉はじめ、尺玉以上を中心に打ち上げることで有名だった長岡花火は、フェニックスの登場で、一段と名を上げたと言えます。正三尺玉は、直径が90cm、重さは300kgに及びます。一晩に2発打ち上げられますが、大きすぎて失敗することもあるようです。その打ち上げ音はすざまじく、腹の底に響きます。花火は音を楽しむという好事家たちは、花火がよく見える場所を捨て、正三尺玉の打ち上げ場所付近に陣取るようです。正三尺玉の上を行くのが、中越の片貝村の正四尺玉です。120cm、400kg超えの大玉は、球形に開くことは難しく、下側に尾を引くような姿になります。ちなみに、ギネス記録は、2020年、コロラドのスキー場で打ち上げられた157cm、1,270kgの超大玉だそうです。

高齢になった今でも、花火と聞けば、ワクワクします。ただ、実際に、花火大会の会場へ行く事はもうありません。さすがに、あの雑踏は耐えがたいものがあります。有料の観覧席を確保する手はありますが、うんざりするのは花火が終わった後の大混雑です。長岡花火は100万人を集めます。平成の大合併以前、長岡市の人口は20万人を下回っていました。観覧席はまだしも、ホテルなど絶対に確保できません。観光客は、例えば新潟市などに宿を取るしかありません。花火が終わるとJR長岡駅に向かって大行進が始まります。信濃川から駅までは1.5km程度ですが、1時間くらいかけてゆっくり進むことになります。混乱は見られないものの、やはりうんざりします。新幹線も増便されますが、新潟市まではぎゅうぎゅう詰めです。

長岡空襲は、1945年8月1日夜、125機にも及ぶB29爆撃機によって行われました。焼夷弾による絨毯爆撃は、市の8割を焼き尽くし、約1,500人の市民が亡くなっています。地方都市だった長岡が空襲されたのは、山本五十六の故郷だったから、という話があります。ただ、実際には、金属加工業が多く、兵器関連工場が多かったからなのでしょう。一方、新潟県最大の人口を抱え、鉄道網の要衝、大陸への海運拠点でもある新潟市は空襲されていません。なぜなら新潟市は原爆の投下候補地の一つとなっており、原爆の威力を正確に把握するため、事前の空襲は行われなかったようです。7月20日朝、1機のB29が長岡郊外に飛来し、1発の爆弾を投下しています。これは新潟市への原爆投下の訓練だったようです。ちなみに、7月末時点における原爆投下候補地は、広島、長崎、小倉、新潟でした。(写真出典:mainichi.jp)

2023年8月11日金曜日

ホット・ドッグ

ネイサンズ1号店
1990年8月に勃発した湾岸戦争には、54万人の米兵が投入されました。翌91年3月に戦争が終結すると、米国各地の空港に、続々と米兵が帰還します。多くの空港では、帰還兵にホット・ドッグが振る舞われていました。故郷の味、というわけです。ハンバーガー、ホット・ドッグ、アイス・クリームは、アメリカの国民食です。食品名ではありませんが、これにバックヤードBBQを加えれば完璧にアメリカ人の食文化を伝えることができます。1970年代、米国のTVCMで流れた「ベース・ボール、ホット・ドッグ、アップル・パイ、そしてシボレー」 というコピーは有名です。”巨人・大鵬・卵焼き”を思い出させるスタイルですが、アメリカ人の好きなものといったところなのでしょう。

ホット・ドッグは、温めたパンとソーセージに、マスタード、ケチャップ、サワー・クラウト、レリッシュをトッピングするのが、最も一般的だと思われます。シンプルな食べ物だけに、ヴァリエーションも様々あります。チリ・ソースをかけたチリ・ドッグ、溶けたチェダー・チーズをかけたチーズ・ドッグ、あるいはサルサ・ソースをかけるサルサ・ドッグなどです。私の夏の定番朝食の一つは、サルサ・ドッグです。トーストしたパスコの超熟ロールに、茹でたシャウエッセン、レタス、ホット・サルサ・ソース、みじん切りのタマネギ、シュレッドしたチーズをはさみます。これにガスパチョを合わせれば完璧です。手間がかからず、かつ満足感の高い朝食です。

ホット・ドッグは料理なのかという疑問もありますが、立派な食事ではあります。アメリカ人は、パンにはさめば何でも食べますが、ホット・ドッグとハンバーガーが両巨頭といったところです。いずれもドイツ移民由来というところが面白いと思います。ホット・ドッグの発祥は判然としません。ドイツ系移民の屋台で、ソーセージが熱いのでパンにはさんで客に渡したことが始まりとも言われます。少なくとも、19世紀半ばのNYには存在していたようです。ドイツ系移民が各地に分散するとともに、ホット・ドッグも全米に広まっていきます。1867年、ドイツ系移民チャールズ・フェルトマンは、コニー・アイランドでホット・ドッグの屋台を始めます。これがホット・ドッグ屋台の始まりとされます。

屋台のホット・ドッグは大人気となり、フェルトマンはコニー・アイランドに大型レジャー施設を作ります。そこでパン切り職人として働いていたポーランド移民のネイサン・ハンドワーカーは、わずかな元手で、ホット・ドッグ・スタンドを開きます。1916年のことです。これまた大当たりして、ネイサンズは、ホット・ドッグの代名詞となり、コニー・アイランドの象徴となります。こうしてコニー・アイランドは、ホット・ドッグの聖地となったわけです。コニー・アイランドには、ビーチ、ボード・ウォーク、ネイサンズを含む飲食店等とともに、今も現役の遊園地が残っています。歴史的遺産ともなっているカルーセルや観覧車とともに、1927年に運行開始した木製ジェット・コースターのサイクロンもあります。1度乗りましたが、サイクロン最大のスリルは、やたらキシキシ音をたてる木組みの危うさです。

ホット・ドッグがここまでアメリカ人に愛される理由は、立ったまま片手で食べられる手軽さとともに、なんと言っても価格が安いことだと思います。1990年前後、NYの屋台なら、60c~1$といったところでした。最近は3~5$になっているようです。日本なら、価格は立ち食い蕎麦、手軽さはおにぎりといったところです。ちなみに、ネイサンズと言えば、ホット・ドッグの早食い競争が有名です。2001年、日本人が驚異的な記録で優勝したことが世界的ニュースとなり、以来、この大会は、世界で最も有名な早食い競争となり、近年はTV中継まで行われているようです。その歴史は、実に古く、ネイサンズがスタンドを始めた1916年に第1回が開催されています。事の起こりは、誰が最も愛国的かという移民たちの議論に決着を付けるためだったようです。なんとも牧歌的な話に聞こえますが、翌1917年、アメリカは第一次世界大戦に参戦しています。(写真出典:restaurants.nathansfamous.com)

2023年8月9日水曜日

エンジェルズ・ラダー

Angel's Ladderとは、雲の切れ間から、太陽の光が放射状に地上に降り注ぐ様子を言います。語源は旧約聖書にあり、雲の切れ間から注ぐ光に沿って、天使が天上と地上を行き来している夢を見たというヤコブの話に基づきます。ヤコブのはしごと呼ばれることもあるようです。また、レンブラント光線とも呼ばれます。確かに、光と影の画家であるレンブラントの絵には多く登場しているように思えます。先輩の一人は、ターナーの絵と言えば家族に通じるとも言っていました。気象学的には、薄明光線と呼ばれるようです。古代日本では何と呼ばれていたのかが気になり、調べてみましたが、よく分かりませんでした。

仏教には御光という言葉があります。一般的には後光と書き、仏や菩薩の体から出る光を指します。”後光が差す”という慣用句でも知られます。後光を彫像や絵画で表現すれば、光背ということになり、仏教に限らず、キリスト教でも用いられる表現手法です。形状としては、放射線状、円形、炎型などがあり、頭部後方が出ているもの、体全体の後ろから出ているものなど多様です。これはこれで興味深い表現ですが、薄明光線とは異なります。また、光芒という言葉もありますが、一義的には、彗星のように尾を引く一筋の光のことであり、やはり薄明光線を指す言葉ではありません。

日本の古代には、ダイレクトに薄明光線を指す言葉は無かったのではないかと思えます。当然のことながら、気象現象としての薄明光線はあったはずです。とすれば、古代の人々は、薄明光線に興味を持たなかったということになります。美しいとは思ったかも知れませんが、それにさしたる意味を見いださなかったという言い方の方が的確かも知れません。旧約聖書の世界と日本の古代では、”天”の捉え方が異なるということではないかと思います。天と地という二元論は、古代日本も含め、世界中どこにでもあります。ただ、天を、人知を越えた霊的存在と捉えるか、より物理的な場所と捉えるか、という違いはあります。

一言で言えば、宗教と神話・信仰、あるいは一神教と多神教の違いということになるのかも知れません。一神教における神は天上に存在しますが、天上とはどこかの上ではなく、霊的、抽象的、概念的な存在です。日本の天孫降臨に言う高天原も天上にあるとされます。ただ、高天原は、より物理的な側面が強く、神々が地上と同じような生活を営んでいます。ギリシャ神話も似ているように思います。つまり、より高次ではあっても、場所の違いと理解されているように思います。というのも、天孫降臨において最も重要なことは、天皇の先祖が天上の神であることであり、天上の天照大神に帰依せよということではありません。従って、高天原はどこかという議論も起こり、自称高天原が全国各地に存在しているわけです。

つまり、古代日本の人々にとって、薄明光線は、特段の意味を持つものではなく、単に太陽と雲との関係の一つに過ぎなかったのでしょう。旧約聖書の世界では、それが天上の神に関わる現象の一つとして認識されたというわけです。実は、虹に関しても同様な状況があります。古代日本には、虹という言葉は存在したようですが、虹を詠んだ和歌は皆無に近いと聞きます。一方、ノアの方舟が登場する旧約聖書創世記において、虹は、神と人間を含む全ての生き物との契約の証とされます。ありのままの花鳥風月を愛で、それらが織りなす妙を”いとをかし”としてきた日本文化ですが、”全ては神が作りたもうた”とする一神教では、全ての事象に意味がなければならないのかも知れません。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2023年8月7日月曜日

ミッション:インポッシブル・・・

ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE

監督:クリストファー・マッカリー    2023年アメリカ

☆☆☆+

TVシリーズ「スパイ大作戦」を夢中で観ていたのは、もう半世紀も前のことになります。毎回、よくできたプロットを楽しみ、ラロ・シフリンのテーマ曲にワクワクしたものです。また、指示を伝えるテープの「おはよう!フェルプス君」は流行語にもなりました。1996年、それを映画化したのはトム・クルーズでした。プロデューサーとしての処女作品です。以来、シリーズ全7作は、すべて大ヒットし、来年、本作のPAT TOWの公開も決まっています。ただ、ブライアン・デ・パルマが監督した第1作以降の数作は、トム・クルーズの派手なアクションにも関わらず、やや退屈な映画でした。それが、5作目「ローグネイション」から一段とギアが上がり、俄然、面白い映画になりました。

ローグネイション以降の監督は、クリストファー・マッカリーが務めています。つまり、トム・クルーズとマッカリー監督のコンビが、ミッション:インポッシブル・シリーズの完成度を高めたわけです。トム・クルーズは、ノー・スタントでアクション・シーンをこなすことで知られますが、単なる俳優ではなく、アクションの本質をよく心得、かつ多くのアイデアを持っている映画人だと思われます。ただ、いかにアクション・シーンがよく出来ていたとしても、器としての映画がしっかりしていなければ、印象には残りません。トム・クルーズにとって、彼のアイデアを本物の映画に仕立てあげる才能を持ったクリストファー・マッカリーを発見したことは、とてもラッキーなことだったと言えるのでしょう。

マッカリー監督は、脚本家として知られていた人です。脚本家としては、なんといっても1995年の歴史的傑作「ユージュアル・サスペクツ」を挙げなければなりません。アカデミー脚本賞も獲得しています。2000年には監督にも挑戦しますが、結果はイマイチ。ところが、2012年、トム・クルーズがプロデュースする「アウトロー」(2012)を監督し大ヒットさせます。アウトローの原作は、リー・チャイルドの「ジャック・リーチャー・シリーズ」です。原作のリーチャーは身長2m、枯れた風情の大男です。個人的には、クリント・イーストウッドが適役と思っていました。小柄なトム・クルーズで大丈夫か、と心配しましたが、結果として、二人の才能が、身長差をものともせず、新たなリーチャーを作り出していました。

本作の主なアクション・シーンは、アブダビ空港での追かけっこ、ローマでのカー・チェイス、ヴェネチアのパーティでの乱闘、オリエント急行でのマクガフィン争奪戦、といったところです。決して目新しい設定はありません。ところが、想像をはるかに超えるアクションが展開されます。ツボを心得たトム・クルーズの職人ぶりに感心させられました。さらに、クリストファー・マッカリーの脚本が、映画にしっかりとした背骨を通しています。また、お馴染みのキャラクターやキャストも安定感を増しているように思います。なかでも、ヴァネッサ・カービーの存在感が際立ちます。1作目でヴァネッサ・レッドグレーブが演じた武器商人の娘を演じています。この人の個性的な顔立ちは、画面に出るだけで強烈な印象を与え、映画を映画らしくしてくれます。

最近のアクション映画の特徴は、スピード感、過激さ、そして上映時間の長さだと思います。スピードと過激さは、ゲームの影響も大きいわけですが、エスカレートするというベクトルしかありません。長尺になっている理由は、似たようなシチュエーションのなかでアクションの斬新さを競うために、結果、長くなっているということだと思います。いずれにしても、それらを実現させているのは、CG、モーション・ピクチャー等の最新技術です。近年、話題の生成AIは、映像の世界でも存在感を増しているようです。近い将来、映画は、俳優もセットも不要となり、少ないスタッフがパソコンで作ることになるのかもしれません。いや、スタッフすら不要かもしれません。しかし、そこで新鮮な感動や衝撃が生まれるとは到底思えませんが・・・。(写真出典:eiga.com)

2023年8月6日日曜日

モッズ

Jane Birkin
昔は、封切落ちの映画を2~3本建てで上映するセカンド映画館があり、中学生の頃には、毎週、通っていました。ただ、いつの頃か、また何故か、セカンド館は、すっかり姿を消しました。その頃、セカンド館でミケランジェロ・アントニオーニ監督の「欲望(原題:Blowup)」(1967)を観て、衝撃を受けました。当時観ていた映画と言えば、怪獣、若大将、007系、マカロニ・ウェスタンがほぼ全てでした。こんな映画があるのかと驚き、強く惹かれました。「欲望」はカンヌ国際映画祭でパルムドールを獲得し、アントニオーニはアカデミー監督賞にもノミネートされています。

「欲望」にも出演していたジェーン・バーキンが亡くなりました。時代の象徴として登場し、その後もセレブリティとして名を馳せ続けた希有な人だったと思います。準男爵家に生まれ、17歳で女優となり、18歳で映画音楽の巨匠ジョン・バリーと結婚。21歳のおり「欲望」に出演。翌年、フランス映画に出演した際、セルジュ・ゲンズブールと出会い、事実婚の関係になります。フランスでは、ブリジット・バルドーに始まるフレンチ・ロリータ系の女優としてもてはやされます。1969年には、ゲンズブールとデュエットした「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」をリリース。性交中を思わせる大胆な曲は各国で放送禁止になりますが、大ヒットしました。物議を醸したものの、フランスのエスプリを感じさせるゲンズブールの名曲です。以降、彼女は、歌や映画、そして私生活で話題を振りまき続けました。

エルメスの看板商品である”バーキン”は、彼女が飛行機で隣り合わせたエルメスの会長ジャン=ルイ・デュマにこぼした愚痴から生まれました。東日本大震災の際には、積極的な支援活動を行ったことでも知られます。決して演技や歌がうまいわけではありませんが、独特のムード、オーラを持った人でした。 ジェーン・バーキンの名前を聞くと、いつも1960年代のロンドンを思い起こしてしまいます。名家に生まれながらも、社会の常識や欺瞞に反抗的な姿勢を決して失わず、モッズとして生涯を全うした人だと思えます。モッズは、1950年代末から60年代、ロンドンに起こった若者文化です。ジャズやR&Bを聞き、独特なファッションを身につけ、イタリア製のスクーターに乗り、深夜営業のクラブにたむろしていました。

モッズという言葉は、モダン・ジャズ、あるいはモダニストが由来とされます。同時期、ロックンロールとオートバイを好むロッカーズというグループもあり、両者は対立します。1964年、両者はブライトンビーチで数千人規模の乱闘事件を起こします。それ以降、モッズは収束に向かったと言われます。アントニオーニの「欲望」は、モッズ文化をモティーフとしたミステリー仕立てになっています。ジェーン・バーキンは、まさにうってつけの配役だったわけです。カウンター・カルチャーの時代、世界の大都市には、似たような若者文化が存在していました。モッズは、ロンドンらしく、どこか洗練され、やや屈折し、そして甘えた都市文化だったと言えます。モッズ文化は、キューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」(1971)にも反映され、後のスキン・ヘッズへとつながっていったとされます。

「欲望」の音楽は、当時、まだマイルス・デイビス・クインテットに参加していたハービー・ハンコックが担当しています。また、ヤードバーズがクラブで演奏するシーンは有名です。リード・ギターはジェフ・ベック、サイド・ギターはジミー・ペイジが弾いています。アンプの調子が悪いことに腹を立てたジェフ・ベックがギターをたたき壊して客に投げ込むと、それまでまったく無表情だった若者たちが、突如、熱狂してギターの残骸にむらがります。混乱のなかでネックを掴んだ主人公は、そのままクラブから走り去ります。アントニオーニは、モッズの本質をニヒリズムと見抜いていたかのようなシーンだったと思います。ちなみに、ジェフ・ベックは、平生、ステージでギターを壊すことなどなく、モッズの象徴でもあったザ・フーのピート・タウンゼントを意識した演出だったようです。(写真出典:vogue.co.jp)

2023年8月5日土曜日

座る文化

縄文式倉庫
”椅子に座る”という言い回しは、よく使いますが、恐らく正しくないのでしょう。”座る”という言葉は、床や地面に腰を下ろすことを指し、椅子の場合には、”掛ける”あるいは”腰掛ける”が正しいのではないかと思います。”椅子に座る”を、文字通りに解釈すれば、椅子の座面に正座するか胡坐をかくような仕草なのでしょう。無論、目くじらを立てるような話ではありません。もともと座る文化の日本でも、椅子の生活が当たり前になったということの現れです。世界的に見れば、床に座る文化圏と椅子に腰掛ける文化圏は明らかに分かれています。大雑把に言えば、欧州は椅子、アジアは座る文化のように思えます。もともと人間は、座ったり、様々なものに腰掛けたりしていたのでしょうが、椅子そのものが発明されたのは古代エジプトだったようです。

当初、椅子は、権威の象徴として生まれますが、瞬く間に一般化し、かつ世界中に伝播しました。世界に広まった最大の理由は、座るより椅子に腰掛ける方が、体への負担が少なかったからだと思われます。ただ、アジアでは、椅子が普及した後も、座る生活が継続されます。中国は、多少異なり、4世紀に華北を統一した北魏によって椅子がもたらされると、椅子の生活が一般化したようです。では、日本や韓国、あるいはイスラム圏等が、あえて座る文化を選択した理由はなんだったのでしょうか。イスラム教はテントで暮らす遊牧民の宗教であり、かつ礼拝のスタイルから座る文化を説明できるように思います。韓国では、床下暖房のオンドルが必須だったので、座る文化が継続されたと考えられます。

日本の場合には、高温多湿な気候が関係していると思われます。木造の日本家屋では、床が地面から数十センチ高くなっています。床下の風通しを良くして湿度を抜き、快適に暮らすとともに木材の腐食も防ぎます。縄文集落の貯蔵庫も高床式でした(ネズミ除けでもあります)。東南アジアの農村地帯でも、高床式の住居が伝統的です。高床の上で、椅子の生活をすると、より高温な空気のなかで暮らすことになります。むしろ、風を感じられる床、あるいは風で冷やされた床に直接座った方が、より快適に過ごすことができるわけです。日本人が、家で靴を脱いで生活するのは、清潔好きだからと言われます。実は、そうではなくて、単純に湿度対策の結果だったと思われます。

前々から疑問に思っていることの一つが、なぜ日本人はズボンではなく袴を選択したのかということです。埴輪などから類推すれば、日本人は、大昔、ズボンを穿いていたと思われます。ところが、平安末期頃から小袖、いわゆる着物が服装の中心になると、必要に応じて小袖の上に袴を着用する文化が定着します。小袖は、宮廷文化における下着から始まっています。宮廷文化の影響とは言え、実用性を考えれば、上下別れた服装でズボンを穿いた方が効率的です。現に、江戸期の農民や職人は、ポルトガル文化の影響とされる股引きを着用しています。それでも小袖と袴にこだわったのは、やはり湿度対策ではないかと思われます。つまり、風通しの良い小袖を基本とし、必要な場合のみ袴を着用したのではないでしょうか。

たまに温泉宿の和室に泊まると、立ったり、座ったりが厳しくなってきました。もちろん、加齢によるところが大きいわけですが、昔の老人は、今の私よりもスムーズに立ち座っていたのではないかと思われます。健康面から考えれば、座る生活、椅子の生活、それぞれ一長一短あるようです。ただ、少なくとも足腰の筋力維持という観点から見れば、明らかに座る生活の方が効果的です。和式トイレも同じ話です。和式トイレを避けるようになって何十年も経ちます。思えば、かつては、どこへ行くにも歩いていたわけです。明治以降の日本の近代化は、明らかに日本人の足腰を弱めてきたと言えます。(写真出典:info-toyama.com)

2023年8月3日木曜日

ギネス・ブック

先日、中野区で、盆踊りの世界記録更新を目指して、約3千人が踊ったというニュースがありました。これまでのギネス世界記録は、2017年、大阪の八尾市で2.872人が河内音頭を踊り、達成されたものとのこと。今回の中野区の盆踊りは、閉館した中野サンプラザへの感謝の思いを込めた挑戦なのだそうです。 結果は、残念なことに、世界記録まで7名足りなかったようです。最多人数で盆踊りを踊るギネス世界記録の認定基準は、伝統衣装を着用する、9割以上が間違えることなく5分間踊る、といったことだそうです。いつも納得がいかないと思うのは、日本でのみ行われていることを世界一とすることです。それは日本一と言うべきで、複数の国で行われていることを比較して、はじめて世界一と言えるのでしょう。

さらに言えば、世界に唯一無二の記録を世界一と認定することがあれば、それも問題だと思います。ま、目くじらを立てるほどのことではありませんが・・・。ギネス世界記録への登録申請は、年間6万件を超えるといいます。申請は基本的に無料ですが、有料の優先サービスもあり、料金は7万円とのことです。また、結果はギネス・ブックとして世界中で出版されるわけですから、往復でお金を稼ぐうまい商売です。ギネス世界記録は、公序良俗に反しないことを旨とするポリシーのもと、種々の厳格な基準に基づき、透明度の高い認定がなされているようです。興味深いことに、記録が更新される可能性が存在することも、条件の一つになっています。唯一無二の記録である可能性を排除する要件なのでしょう。

世界一大きなピザといった食品に関する記録挑戦をよく見かけますが、挑戦に際して作られた食品は、すべて消費されることも条件の一つになっています。他にも、不法行為、環境破壊、年齢・性別・人種等の関する人権侵害、健康への悪影響等々も考慮されているようです。また、記録のためだけの無意味な挑戦、あるいは数的な判定の正確性に問題がある場合も対象外とされるようです。マリリン・ボス・サバントのIQ228という世界記録は、かつて認定記録でしたが、後に取り消されています。高いIQの測定が困難であること、最高IQの認定自体に意味がないことを理由に取り消されました。恐らくIQそのものの有用性に対する社会的批判が起こったことが真の理由だったのでしょう。

いずれにしても、このような商売では、権威の維持こそが生命線ですから、ギネスの厳格な運営方針は当然のことだと思います。ただ、そのなかで、やはり気になるのが、比較対象が複数の国に存在するのか、という問題です。申請時点で、記録が一つの国や地域に限定されるもの、あるいは特殊に過ぎるものは却下されるとのことです。ただ、例外も存在するようで、ポリシーが厳密に運用されているとは言い難いようです。日本固有と思われる盆踊りも大いに疑問です。例えば、宗教的背景を持ち、古くから毎年行われてきた群舞、とでもすれば、世界的に存在するかも知れません。ただ、盆踊りに関しては「最多人数で”盆踊り”を踊る」と定義されており、明らかに日本に限った話のように思えます。

もっとも、米国や南米の日系人社会の一部でも盆踊りは踊られていると聞きますので、世界的な競争が可能という理屈が成り立つのかも知れません。とは言え、ギネス記録も含めてランキング好きの日本ということを考えれば、微妙に商売の匂いも感じます。そう言えば、最長の巻き寿司という記録もあり、熊本県の高校が持っているようです。これも同類かと思いました。ただ、熊本の高校が破った前の記録はロシアで樹立されたものだったと聞き、驚きました。ギネスの世界記録というビジネスは、どこか格付会社を思い起こさせます。世界の三大格付会社と言われるスタンダード&プアーズ、ムーディズ、フィッチは、いずれも100年を超す歴史を持ち、金融の世界では絶大な信頼を得ています。人のふんどしで相撲を取ると言えば言い過ぎかもしれませんが、実にうまい商売を考えたものだと感心します。(写真出典:kadokawa.co.jp)

2023年8月1日火曜日

グランド・ツアー

 

17世紀の旅行ガイド
国立西洋美術館で「スペインのイメージ:版画を通じて写し伝わるすがた」展を見てきました。どうも版画系は人を集めにくいところがあるようで、会場は閑散としていました。ゆっくり楽しめたこともあり、なかなか良い展示だったと思います。ゴヤ、ピカソ、ダリといったスペインの画家だけでなく、フランスや英国の画家たちの作品も多く展示されています。あらためて感心したのは、18~19世紀頃の旅行記あるいは旅行ガイドの挿絵の完成度の高さです。17世紀から19世紀初頭に、英国に始まり、欧州・米国にまで広がった”グランド・ツアー”ブームの背景の一つには、明らかに旅行記と精巧なエッチングがあったものと思われます。今見ても、十分以上に旅心をくすぐられます。

グランド・ツアーは、規模感の違いはあるものの、昨今の日本の卒業旅行のようなものです。裕福な貴族の子弟が、学業を終えるにあたり、見聞を広げるために欧州を旅しました。家庭教師等が同行し、数ヶ月から数年をかけて回ったようです。単なる観光旅行ではなく、各地で、歴史、政治、語学等を学ぶとともに、上流社会と交流し、洗練された礼儀作法や社交術を会得することも目的だったようです。多くは、フランスに渡り、アルプスを越え、イタリアを最終目的地としたようです。もともと英国人は旅好きとして知られていたようです。島国であること、あるいは多民族がルーツであることも背景にあったのでしょう。さらに言えば、グランド・ツアー隆盛には植民地獲得競争が大きく影響していると思われます。

大航海時代の幕を開けたのは、ポルトガルとスペインでした。15世紀、レコンキスタで、イスラム勢力を駆逐し、強力な王権を確立した両国は、海洋進出を始めます。ただ、地中海は、オスマン・トルコ、ヴェネチア、ジェノヴァに支配されおり、アフリカへ向かうしかありませんでした。大航海時代の始まりです。両国に遅れて絶対王権を確立した英国、スペインから独立したオランダも後に続きます。西欧列強の船は、瞬く間に世界を巡り、その後に起こったことは植民地獲得競争でした。富は、農場からではなく、海の向こうからもたらされることになったわけです。英国の富裕層も、この大きな変化の波に乗っていきます。跡取息子のグランド・ツァーは、教養のためだけではなかったのでしょう。

グランド・ツアーのガイドブックも多く発刊されており、各地の案内だけでなく、事前に学んでおくべきことや準備すべきこと、あるいは心構えも記載されていたようです。近年で言えば、海外留学ガイドのようなものなのでしょう。ところが、旅の実態は、結構、お寒いものだったようです。家庭内で厳しく育成された若者が、家庭教師付とは言え、大金を持って野に放たれたわけですから、何が起こるかは明らかです。18世紀の英国の詩人ホープによれば、グランド・ツアーに行った若者は「すべてを見、何一つ理解しなかった者」となります。要は、各地で英国人だけで群れてパーティ三昧だったようです。ローマでは、お金を落とす上客ながら、コロッセオがどこにあるか知らないまま帰国する、と馬鹿にされていたようです。

その姿は、後の米国人、日本人、中国人ツーリストに通じるものがあるようにも思えます。ただ、英国のグランド・ツアー・ブームは、まったく無駄だったのかと言えば、そうでもないと思うのです。旅先でひたすら遊びまくった若者たちは、後に大英帝国を築いていくわけです。道楽旅の経験は、英国の世界進出という気風を大いに後押ししたのではないかと思います。フランス革命とナポレオン戦争によって、グランド・ツアーは下火となりますが、19世紀には再び活発化します。蒸気船と蒸気機関車が後押ししたわけです。世界の陸地の1/4を征した英国人たちは、さらに遠くまで足を伸ばすようになりました。(写真出典:lotsearch.net)

夜行バス