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2026年9月9日水曜日

テンションの追求

メアリー・ハルヴァーソン
ブルー・ノートで、 初めてメアリー・ハルヴァーソンのライブを聴き、いささか驚きました。近年のジャズの新しい傾向の中では異彩を放つ見事な演奏でした。メアリー・ハルヴァーソンは、ダウンビート誌で、ここ9年間連続で、全米No.1ギタリストに選出されています。小柄で、地味な服装と髪型は、地方大学の文学部の先生といった風情です。実際、彼女はNYのニュー・スクール大学の講師も務めています。また、2019年には、天才賞とも言われるマッカーサー・フェローシップも受賞しています。今回が、初来日であり、自身のアマリリス・セクステットを率いての登場でした。彼女はMCを全て日本語で通していました。頭のいい人なのでしょう。

ジャズの歴史は、ヨーロッパ音楽と西アフリカ音楽が融合して生まれたニューオーリンズ・ジャズ、ないしはデキシーランド・ジャズに始まるとされます。20世紀初頭のことでした。黒人たちの北部への大移動が始まると、ビッグバンドによる都会的なダンス音楽スウィングが生まれ、大人気を博します。1940年代以降、スウィングがマンネリ化してくると、少人数編成のコンボで即興演奏を中心とするビバップの時代を迎えます。ビバップは、ハード・バップ、クール・ジャズ、モード・ジャズ等へ展開し、いわゆるモダン・ジャズの時代が始まります。マイルス・デイビスのモード奏法以降、モダン・ジャズはスリリングなテンションを追求する音楽となり、その延長線上にフリー・ジャズも登場します。現代人の不安定な心情が表現されているのだと思います。

1970年代になると、電子楽器やロック・テイストの導入され、いわゆるフュージョン主流の時代になります。ジャズの新しい形として人気を博す一方、時代に媚びていると批判され、ジャズは終わったとも言われました。マイルス・デイビスが先導したフュージョン化ですが、実は彼のトランペットの演奏は何も変わっていなかったと思います。マイルスは、新たなテンションの表現を求めただけなのだろうと思います。また、フュージョンは、ジャズの多様性を生み出すきっかけにもなりました。つまり、クロスオーバーという発想が、オーセンティックなジャズの世界から、ミュージシャンの個性を解き放ったのではないでしょうか。ロック系、ソウル系、スムース・ジャズ、民族系、室内楽的ジャズ、モダン・ビッグバンド、そしてポストバップと多様化が進みます。

近年、主流になってきたのが、ネオ・ソウル系と室内楽的ジャズのように思います。室内楽的というのは私の勝手な印象ですが、要は高度なテクニックを前提に、実によくコントロールされたジャズという意味です。スナーキー・パピーが代表格だと思います。音楽としての完成度は極めて高いと言えます。ただ、印象的にはジュリアードの優等生が超絶テクニックを披露しているだけで、何を表現しようとしているのか、さっぱり伝わりません。例えて言うなら、スーパー・リアリズムの絵画のようなものです。ところが、メアリー・ハルヴァーソンは、まったく異なる道を進んでいるように思います。ジャンルにこだわらないスタイルは、結果的に今風だと言えますが、テンションの表現に関しては実に独創的です。室内楽的ジャズとは似て非なるものだと思います。

ハルヴァーソンは、モードやフリー・ジャズが求めたテンションを、現代的なアプローチで表現しようとしているように思います。ハルヴァーソンは、1980年、ボストン郊外で生まれています。ジミ・ヘンドリックスを聴いてギターを始めたようですが、アンソニー・ブラクストンに出会い独自の音楽を指向するようになりました。アンソニー・ブラクストンは、フリー・ジャズの演奏家ですが、現代音楽の作曲家としても知られます。ブラクストンは、フリー・ジャズ・シカゴ派の重鎮です。アルトサックスのソロだけで録音されたアルバム「For Alto」は、フリー・ジャズの金字塔の一つです。シカゴ派のフリー・ジャズは、現代音楽に近く、知的で、よく構成されていました。室内楽的ジャズもハルヴァーソンも、ともにシカゴ派の血を継承していると言えるのかもしれません。しかし、テンションを追求するというスピリットにおいては、ハルヴァーソンこそが正統なのでしょう。(写真出典:rollingstonejapan.com)

2026年7月15日水曜日

ウクレレ

名手エディ・カマエ
定年退職後に新たに趣味を持とうとする人たちがいます。現役時代、無趣味だった人が多いのでしょう。新たに見つけた趣味にハマって楽しそうに日々を送っている人たちがいる一方で、当初の意気込みはどこへやら、早々にあきらめる人も多くいます。典型的だと思うのが写真です。知人を見渡すと、高価なカメラを買ったにも関わらず、開店休業状態の人が何人かいます。実は、私も、老後の楽しみとして写真を考えました。ニコンの知人に相談すると、いきなり一眼レフではなく、まずは高機能なデジカメで遊んでみたら、と言われました。その通りにしてみました。しばらくは旅行に携えて行きました。ただ、ドロミテでバッグからカメラを出そうとして転倒、骨折して以来、止めてしまいました。スマホで十分だと気付いたからでもあります。

ウクレレも老後の趣味の典型の一つだと思います。長続きしなかった人を2人ばかり知っています。カメラもウクレレも簡単そうに見えるのでしょう。ウクレレは、小型で4弦だけなので扱いやすく、かつ、のんびりとしたムードのハワイアンゆえ無理なく弾けると思うのでしょうが、小型な楽器ほど、扱いも難しくなるものです。間口が広ければ、奥行きも深いと思うべきです。いずれも表現手段ですから、表現する欲求と表現したい対象がなければ、まったく無意味だと思います。ウクレレをあきらめた知人の1人は、多少は続きましたが、その理由は、フラダンスの先生でもある女性講師が魅力的だったからと聞きました。動機は不純なほど長続きするものですが、ひょっとすると、講師がきれいに見えたのは、彼女がハワイの文化を体現していたからかもしれません。

ウクレレの起源は、19世紀後半、ポルトガル移民が持ち込んだブラギーニャだとされます。ウクレレは、ハワイ語で”飛び跳ねるノミ”を指します。細かな指使いに由来するのでしょう。19世紀のハワイでは、社会、文化、そして音楽が大きく変わります。1795年、西洋の銃を手に入れたカメハメハ1世がハワイを統一し、ハワイ王国を建国します。西洋からの移民や文化の流入が始まります。1874年に選挙で国王になったカラカウアは、廃れていた伝統芸能の復活に努めます。その妹で最後の王となったリリウオカラニは音楽の才能に恵まれていたこともあり、その治世下で西洋音楽を取り入れたハワイアン・ミュージックが形成されていくことになります。ウクレレのみならず、ハワイ発祥のスティール・ギターやスラック・キー・ギターも、この時代に生まれています。

20世紀初頭になると、ハワイ音楽は世界的ブームになります。1915年にサンフランシスコで開催されたパナマ・パシフィック国際博覧会での演奏がきっかけの一つになったようです。ハワイの音楽は、地元観光でも欠かせない存在となり、ハワイに赴任した多くの米軍兵士たちが広めたとも言われます。ハワイ移民の多かった日本でも、日系2世のスティール・ギター奏者バッキー白片がハワイアンを広げたとされます。敗戦後も、進駐してきた米兵がもたらしたハワイアンは大ブームとなっています。アメリカ本土でも日本でも、ハワイは憧れの島です。アメリカ資本がリゾート化したという背景もありますが、そもそも気候風土が魅力的だったと言えます。そして、ピースフルなハワイアン・ミュージックと文化が人々を惹きつけてきたことも大きな要因なのでしょう。

南北アメリカの大西洋岸では、西洋音楽と西アフリカ音楽が融合して、サンバ、ソンやカリプソ、そしてジャズが生まれています。実は、太平洋の真ん中でも、西洋音楽とハワイの伝統音楽が融合してハワイアン・ミュージックが生まれていたわけです。余談ですが、ポルトガルからブラジルに渡ったブラギーニャは、スティール弦のカヴァキーニョとなり、今でもサンバやショーロに欠かせない楽器になっています。また、インドネシアに伝わったものは、クロンチョ音楽のチャッ・チュッという3弦の小型ギターになりました。あらためて、大航海時代を切り開いたポルトガルの影響力には感心させられます。ちなみに、ハワイ風ドーナッツのマラサダも、ポルトガル移民がハワイに持ち込んだものです。(写真出典:eddiekamaesongbook.org)

2026年7月3日金曜日

カントリー・ラインダンス

テネシー州ナシュビルには、仕事で何度も行きました。提携先の本社があったからです。 ナッシュビルは、カンバーランド川沿いの交易拠点から発展した町で、アップランド・サウス、ないしはアッパー・サウスの中心地です。また、カントリー・ミュージックのメッカとしても知られます。ナッシュビルから放送される”グランド・オール・オープリー”は、カントリー・ミュージックのライブ放送ですが、1925年に放送が開始されたというアメリカ最古にして、今でも大人気のラジオ番組です。この番組を放送するWSMは”The Air Castle of the South ”とまで呼ばれ、アメリカ南部の精神風土を支える柱の一つにもなっています。また、ダウンタウンのミュージック・ローには、200を超えるスタジオが並んでいることでも知られます。

グランド・オール・オープリーのライブ会場であるグランド・オール・オープリー・ハウス周辺は、様々な施設が作られて、いまやテーマ・パーク化しているようです。30年以上前にも、ホテル、コンベンション・ホール、ショッピング・モール、ゴルフ場等はありました。提携先のスタッフが、オープリー・ハウスの社長と友人だったことから、ホテルに泊めてもらい、リンクス・タイプのゴルフ場でプレイさせてもらったことがあります。ライブの放送日でもないのに、ホテルやモールには人があふれていました。南部の人たちにとっては、あこがれの場所であり、一度は行ってみたい場所になっているのでしょう。もちろん、ミュージッシャンにとっても、グランド・オール・オープリーに出演することは、日本の紅白歌合戦出場なみに名誉なことなわけです。

週末にカントリー・ミュージックのライブ・ハウスに案内してもらったことがあります。元は貨物集積場だったという駅近くの広い敷地に、納屋を模した大きな建物が建っていました。中に入ると、大小様々な部屋があり、それぞれ異なったタイプの音楽が演奏されています。客のいでたちは、男女問わず、皆一様に、カントリー・シャツ、バンダナ、ジーンズ、カウボーイ・ブーツ、そしてテンガロン・ハットというウェスタン・スタイルでした。聞けば、近郷近在の農家の人々が、週末のお楽しみとして、精一杯のおしゃれをして集まっているとのことでした。つまり、ウェスタン・スタイルは正装であり、ほぼ伝統的な民族衣装とも言えるのでしょう。もちろん、ハットもジーンズも、農作業で着用しているものではなく、よそ行きの新品だったわけです。

違う国に来たな、と思ったものです。NYやLAでは感じたことのない異国情緒でした。最も印象的だったのは、一番大きな部屋で踊られるカントリー・ラインダンス、いわゆるカウボーイ・ダンスでした。カントリー・ラインダンスの起源は、17世紀のイングランドとされます。皆が整列して、ステップを揃えて踊ります。基本的には、全員がステージのバンドに向かって整列しますが、二列で男女が向かい合うなどのパターンもあります。ステップも曲によって異なり、多くの種類があるようです。1970年代の日本のディスコを思い出させます。当時は、ステップ・ダンス全盛であり、その後、フリー・ダンスへと変わっていきました。カントリー・ラインダンスは盆踊りに近いものがあり、NYの人たち、特に黒人たちから見れば、田舎くさい代物だったのでしょう。

ロバート・アルトマンの最高傑作「ナッシュビル」(1975)は、アメリカという国をシニカルに描いた群像劇です。カントリー・ミュージック界をアメリカの縮図とし、大統領選挙の予備選をからめることで、アメリカの政治、社会の立ち位置をコミカルにえぐっています。当然、舞台はナッシュビルしかあり得ません。カントリー&ウェスタンは、アメリカ南部を代表する文化であり、ビッグ・ビジネスでもあります。日本でも、ヒット曲や有名歌手は多少知られていますが、その文化的広がりや深さに関する理解は薄いと思います。日本の民謡や演歌が近いのでしょうが、カントリー&ウェスタンは今もメジャーな文化であり続けています。「アメリカ人の8割は田舎者よ」というフレーズは、スーザン・ストラスバーグが映画「女優志願」(1958)のなかで語ったセリフです。カントリー&ウェスタンや福音派といった南部の文化抜きに、MAGAといった現象、あるいはアメリカという国は理解できないように思います。(写真出典:hudsonvalleycountry.com)

2026年5月12日火曜日

レゲエ

ボブ・マーリーは、偉大なミュージシャンだと思います。たまに聴くと、やっぱりいいなあ、と思います。レゲエのリズムによく合う声ですし、歌い方もリズムを強く感じさせます。ラスタファリに基づくシンプルな歌詞も力強いと思います。裏打ちの2ビートが生むグルーブは、とても心地良いだけでなく、中毒性すらあるように思います。ラスタファリが大事しているガンジャ(大麻)の影響もあるのかもしれません。しかし、私はレゲエ好きというわけではありません。ボブ・マーリー以外のレゲエでは、単調なリズムに飽きてしまうからです。私にとって、レゲエはボブ・マーリー以外の何ものでもない、ということになるのでしょう。

レゲエは、ジャマイカ独自の音楽文化であるメント、スカ、ロックステディを経て、1960年代後半に生まれたとされます。1940~1950年代に人気の高かったメントは、ジャズや中南米音楽と同様、西アフリカと欧州の音楽が混じり合って誕生した音楽とされます。トリニダードトバゴ発祥のカリプソと混同されることが多いようです。メントの歌手で世界的名声を得たのがハリー・ベラフォンテです。「バナナ・ボート」は世界的なヒットとなりました。ただ、その歌は、メントではなくカリプソと思われがちです。確か似てはいますが、メントの方がゆったりとしたテンポが特徴だと思います。また、アメリカでは、カリプソの方が知名度が高かったために、マーケティング上、ハリー・ベラフォンテの音楽もカリプソとして紹介されていたようです。

ラジオが普及し始めると、ジャズやR&Bの影響を受けてスカが誕生します。スカの2・4拍目が強いオフビートは、ラジオの受信状況が悪く2・4拍目だけが強く聞こえたために生まれたという説があります。ただ、スカは、ドラム・アンサンブルと賛美歌で構成されるラスタファリのナイヤビンギの影響が強く、リズムの根源もそこにあるとされています。さらに、ジャマイカ発祥のサウンド・システムがスカを育てたとも言われます。サウンド・システムは、移動できるターンテーブル、アンプ、大きなスピーカーで構成されます。1940~1950年代はレコード・プレイヤーが普及しておらず、大衆がレコードを聴けるのはサウンド・システムだけだったようです。以降、サウンド・システムにはDJが入り、トースティングも生まれます。後のラップの原点だったわけです。

スカのアップ・テンポに疲れて、1960年代前半にロックステディが生まれます。60年代後半、それがレゲエのゆったりとしたグルーブにつながっていきます。レゲエの特徴として、2・4拍目にカッティング・ギターが強調され、ドラムは3拍目にアクセントを置き、ベースはうねるように演奏されます。ドラムは、3拍目のスネアのリムショットとキック(バスドラム)が特徴的ですが、これはボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのドラマーだったカールトン・バレットが生み出したリズムです。と言っても、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズがレゲエを作ったわけではありません。レゲエには、ジミー・クリフはじめ先人たちがいたわけですが、レゲエを確立させ、世界に広めたのがボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズだったと言っていいのでしょう。

ボブ・マーリーが世界に広めたのは音楽としてのレゲエだけではありません。世界の人々は、彼を通じて、ラスタファリを知ることになりました。ラスタ・カラーとドレッド・ヘアはレゲエを象徴するファッションとして広がりました。ラスタファリは、信仰でも、思想でもなく、宗教的思想運動とされます。それも理解しにくいところではありますが、最も引っかかるのがジャー(神)です。ジャーと呼ばれているのは、1975年まで存命だったエチオピアのハイレ・セラシエ1世です。ラスタファリが、アフリカ回帰運動でであることも理解できます。ハイレ・セラシエ1世が聡明な皇帝として知られていたことも知っています。だとしても、他国の存命する王を神として崇めることは、違和感の塊だとしか言いようがありません。(写真:映画「One Love」ポスター 出典:tower.jp)

2026年4月24日金曜日

ファルセット

 R&Bにファルセットは欠かせません。その始まりはよく分かりませんが、広めたのはスモーキー・ロビンソンなのでしょう。ファルセットと言えば、個人的にはスタイリテックスの「誓い(You Make Me Feel Brand New)」、シュープリームスとテンプテーションズの「君に愛されたい(I'm Gonna Make You Love Me)」を思い出します。「誓い」はラッセル・トンプキンスJr.、「君に愛されたい」はエディ・ケンドリックスが見事なファルセットを聞かせます。他にもファルセットの名曲は数多くありますが、若い頃によく聞いたこの2曲には思い入れがあります。「誓い」は、ディスコに通いまくっていた頃の大ヒットですから、とりわけ印象深いものがあります。また、モータウンらしさ満開の「君に愛されたい」は、今でも聞くと幸せな気分になります。

ファルセットはイタリア語ですが、高音域で歌う際に使われる発声技法を指します。一般的には、裏声と理解されています。ただ、裏声も、発声技法的には、ファルセットのみならず、ヘッドヴォイス、ミドルヴォイスなどがあります。オペラなどで使われるのがヘッドヴォイス、R&Bやポップスではファルセットやミドルヴォイスが使われます。ニュー・ソウルのカーティス・メイフィールドの歌い方もファルセットと思われがちですが、マウスレゾナンス(口腔共鳴)を使ったミドルヴォイスです。ミドルヴォイスは、地声と裏声の中間という意味で、声の幅が広く高音から低音への移動がなめらかなので、ポップスで多く使われます。対してファルセットは、喉をリラックスさせ、腹式呼吸で息を多く使うことで、透明感のある声を出しています。

また、ファルセットは、民族音楽でも使われます。スイスのヨーデルは、地声とファルセットを交互に繰り出します。トルクメンの叙事詩もファルセットで歌われるようです。東欧のロマの音楽でも、しばしばファルセットが登場します。最も有名なのはハワイアンかも知れません。地元の言葉で”レオ・キエキエ”と呼ばれるハワイアン・ファルセットは、、男性によって歌われる伝統的な歌唱法です。ハワイでは、毎年、複数のハワイアン・ファルセット・コンテストが開催されているようです。西欧におけるファルセットの歴史は16世紀の教会に始まります。ローマ教皇が、女性が教会で歌うことを禁じたため、高音部を少年たちが歌うことになります。しかし、合唱に際しては、少年たちの声量不足が問題となり、成人男性がファルセットで歌うようになったのだそうです。

高音部を歌う少年たちは、当然、声変わりしていきます。それを避けるために、少年たちを去勢するというとんでもないことまで行われます。去勢された男性歌手は”カストラート”と呼ばれ、ピークを迎えた17~18世紀には4,000人以上が存在していたようです。それほどまでに、男性の高音域での歌は魅力的だとも言えます。18世紀に活躍したカルロ・ブロスキ、通称ファリネッリは、最も有名なカストラートです。声域は3オクターブ半あったとされます。大人気を博したファリネッリは、数回の公演で一国の首相の年俸を超える収入を得ていたとも伝えられます。ベートーヴェンも、才能豊かなボーイ・ソプラノだったので、カストラートにされそうになったようです。19世紀後半に至り、ローマ教皇が、人道的観点からカストラートを禁止しています。

日本のポップス、いわゆるJポップをよく聴くわけではありませんが、いつの頃からか、ファルセットを使う曲が増えたように思います。それも傾向としては、サビの部分で一部だけファルセットにするスタイルが多いと感じます。地声と裏声のスムーズな切替えには、なかなかの技量が求められます。恐らく、優れた歌唱力を持つ歌手たちが始めたトレンドなのでしょう。サビにファルセットを使うことで感情表現の幅を広げることが可能になり、楽曲の印象を際立ったものにできます。しかし、そのスタイルも、ここまで多用され、一般化すると、もはや楽曲の個性ではなく、Jポップの特性のようにも思います。ひょっとすると、西洋音階に乗りにくいとされる日本語の弱点をカヴァーする解決策の一つなのかもしれません。(写真:スタイリテックス「誓い」 出典:ticro.com)

2025年12月18日木曜日

演歌

藤圭子
どうも演歌は好きになれません。名曲もあれば、耳に馴染んだ曲も多いのですが、やはり苦手です。ヨナ抜き音階が嫌いというわけではありません。むしろ体に染みこんでるので、心地良く感じます。問題は、そのうら寂れた世界観です。演歌の全てではありませんが、自己憐憫的で哀愁の押し売り的な安っぽい世界が好きになれないわけです。演歌ファンにとっては、そこが最大の魅力なのだろうと思います。世間の荒波のなかで厳しい状況に置かれた人々はそれなりに存在し、また、理不尽な境遇や状況を嘆く人々も多くいるものと思います。そういう人々にとって、演歌は、まさに代弁者なのだろうと想像します。それもそのはず、演歌は、高度成長が生んだひずみに咲いた徒花ですから。

演歌のルーツは、明治期の自由民権運動で歌われた演説歌だとされます。また、大正期に大ヒットした「船頭小唄」を直接的な先祖とする説もあります。「オレは河原の枯れススキ、同じお前も枯れススキ・・・」という歌詞と暗い曲調は、関東大震災後の社会を反映しているとも言われます。しかし、まだ、この時点では演歌という言葉は存在していません。1950年代後半に入り高度成長期が訪れると、農村の労働力が都市部へと移動し始めます。そうした状況を反映して、「別れの一本杉」といった民謡調、あるいは田舎調と呼ばれる望郷の歌がヒットします。さらに工場労働者で賑わう都会の盛り場には、楽器を持って酒場を回り歌を聞かせる「流し」が登場します。流しの歌は”艶歌”と呼ばれ、北島三郎、こまどり姉妹等、メジャー・デビューする歌手も出ます。

こうした流れを受けて、1960年代中期から、村田英雄、都はるみ等がヒットを飛ばし、文壇では、竹中労、五木寛之、あるいは新左翼がエンカを一つの文化として賞賛します。そして、1969年、演歌の世界そのものとも言える暗い過去を持つ藤圭子がデビューし、歌謡界を席巻します。「演歌」という言葉が生まれ、世間に広まることにもなりました。以降、70年代、80年代は演歌全盛の時代でした。美空ひばりをはじめとする大物歌手たちも、こぞって演歌を歌うようになります。1977年に登場したカラオケが、ブームを加速させた面も大きかったと思われます。しかし、80年代後半、若者たちの人気が、ニュー・ミュージック、J-Popに流れると、演歌は急速に地盤沈下していきます。つまり、演歌は、日本の伝統ではなく、歌謡界のブームだったわけです。

市場規模は縮小したものの、演歌は、老人、労働者、地方で根強い人気を保っています。老人は懐古趣味なのでしょうが、労働者、地方での人気は、演歌の本質を語っているように思います。70年代以降、日本経済は、オイル・ショックや円高を経験しながらも、着実に成長を続け、人々は豊かさを実感するに至ります。しかし、そこにはメジャーな流れから取り残された人々が確実に存在し、演歌はその人たちに寄り添ってきたということなのでしょう。しかし、演歌は、アンチ・メジャーのプロテスト・ソングではありません。ベクトルは、あくまでも自己憐憫的です。演歌は時代の産物と言えますが、ここがしぶとい人気を保っている理由なのだと思います。その姿は、どこかアメリカのカントリー・ミュージックに通じるものがあると思えてなりません。

カントリー・ミュージックが、一定規模以上の売上を保ち続けている理由は、南部の白人農民・労働者といった明確な市場があるからだと思います。その背景には、アメリカの歴史的、人種的、宗教的分断があります。演歌の場合、分断があるとまでは言えません。そこが弱いところです。ちなみに、錦糸町駅前にセキネという演歌専門の小さなCDショップがあります。よく店先で新人演歌歌手がキャンペーンを行っています。着物を着てビール・ケースの上で歌う新人に30~40人程度の人が拍手を送っています。そのすぐ前に喫煙所がある関係で、その歌声をたまに聞くことがあります。曲自体は相も変わらぬド演歌ですが、皆、歌がうまいのには驚かされます。得てして演歌歌手は歌唱力に優れています。意図的とは思いませんが、ルックスとプロモーションで売上を伸ばす音楽界へのアンチ・テーゼのようでもあります。(写真出典:amazon.co.jp)

2025年12月10日水曜日

イマジン

90歳になる先輩をケアホームに訪ねました。先輩は、若い頃からモーツアルト協会に参加するほどのクラシック・ファンであり、今も、毎日のようにモーツアルトとバッハを聴いているとのことでした。ところが、最近、ロックも聞くようになったんだ、と言うのです。クラシック以外には縁のない先輩だっただけに、驚きました。よく聞いてみると、ジョン・レノンの「イマジン」が気に入ったらしいのです。そのきっかけとなったのは、NHKの「アナザー・ストーリー」を見たことだったようです。アナザー・ストーリーは、テーマを三つの視点から見ていくという面白い番組です。イマジンの回では、ジョンの死、プラハのレノン・ウォール、同時多発テロ後のNYという切り口から語られていました。

イマジンは、ポピュラー音楽といったジャンル、あるいはヒット・チャートといった産業レベルを遙かに超えた名曲です。人類が到達し得た最高水準の文化の一つだとさえ思えます。シンプルな歌詞、やさしいメロディ、耳に残るピアノ伴奏。一度聞けば忘れることのない曲です。オノ・ヨーコの詩に基づく歌詞は、無邪気で、夢想的に過ぎます。しかし、それゆえ究極の真実を伝えます。農耕以降、人類が1万年に渡って悩み続けてきた個人と組織という問題に対し、ジョンはわずか3分1秒で解決策を示しました。もちろん、それが現実の問題を解決できないことは分かっています。しかし、全ての人がイマジンを共有することは、人類にとって希望そのものです。イマジンは、人類連帯の歌です。それがイマジンという曲を偉大にしています。

ジョン・レノンは、1980年12月8日、住居のある高級マンション”ダコタ・ハウス”の前で射殺されます。訃報が流れた直後、ダコタ・ハウス前には数百人のファンが集まります。そこで、彼らが歌っていたのは「ギブ・ピース・ア・チャンス」(1969)でした。反戦歌、プロテスト・ソングの傑作です。映画「いちご白書」(1970)のラスト・シーンは、円陣を組んでこの曲を歌う学生たちを警察が一人づつ排除するというものでした。センチながら時代を象徴していました。しかし、そのわずか2年後、イマジンをリリースしたジョンは、反戦やカウンター・カルチャーといったレベルを易々と超え、宗教すらも超越した領域に達するわけです。1985年、ダコタ・ハウスに近いセントラル・パーク内には、ジョンを記念する「ストロベリー・フィールズ」が設けられました。

今も世界中から多くの人々が訪れるストロベリー・フィールズには、銅像も石碑もありません。あるのは地面に埋め込まれたプレートだけであり、そこにはイマジンと刻まれています。それはオノ・ヨーコの”生きた記念碑”という発想に基づくと聞きます。ストロベリー・フィールズは、現代アートの作家オノ・ヨーコの最高傑作なのではないかと思います。単なるポップ・スターではなく、全人類に明確な思いを共有させたジョンに相応しい記念碑だと思います。プラハのレノン・ウォールは、ジョンの暗殺直後に姿を表わしたようです。西側の情報が遮断されていたにも関わらず、壁はジョンへの献辞で埋められ、自由を希求する多くの若者が集まる場所になります。危険を感じた当局は、レノン・ウォールに集まる若者を弾圧・拘束します。反撥した若者たちがデモを行い、それが全土に拡大し、ついに1989年、ビロード革命として共産党独裁を終わらせます。

アナザー・ストーリーの第3の視点である同時多発テロ後の話は知りませんでした。当時のアメリカ社会は、反テロ、反イスラム一色で、強く団結していました。当時、ラジオ局は、放送すべきではない曲の一つとしてイマジンをリストアップしていたようです。世界の融和を訴えるイマジンは、火に油を注ぎかねない状況だったわけです。しかし、徐々にイマジンを歌う若者たちが現れ、広がっていきます。そして、ついにTVの追悼番組でニール・ヤングが歌うことにもなりました。テロを主導したオサマ・ビン・ラディンは極悪人です。しかし、この1世紀、石油欲しさに中東の政治に介入し、テロを起こし、戦争を誘導し、罪のない多くの人々を死に追いやってきたアメリカに罪はないのでしょうか。足下、ウクライナ侵攻、ガザでのジェノサイドが続いています。イマジンを歌わなくてもいい日が来るようには思えません。だからこそ、イマジンは歌い継がれていくのでしょう。(写真出典:amazon.co.jp)

2025年11月12日水曜日

ヤシの木にプール

NHKのETV特集で「POP 大滝詠一 幸せな結末」という番組を見ました。大滝詠一は、いわゆるJ-POPという地平線を切り開いた巨人だと言えます。我々の世代にとっては、同時代の音楽や文化を決定づけた人です。大滝詠一以前の大衆音楽は、歌謡曲と洋楽に区分されていました。彼は、そこに日本語のポップ・ミュージックという新たなジャンルを創設します。個人的には、ジャズやR&Bに狂っていたので、彼のレコードを買ったこともなければ、好んで聴いていたわけでもありません。しかし、音楽に限らず、大滝詠一が提供してくれたポップ・カルチャーが、我々の文化や感性を形成してきた面は大きいと思います。彼の楽曲を聴くと、とても幸せな気分になります。 

大滝は、1948年、現在の岩手県・奥州市江刺に生まれます。小学5年の夏、コニー・フランシスの「カラーに口紅」を聴いて衝撃を受け、以降、アメリカン・ポップの世界にのめり込みます。釜石の高校を卒業し東京で就職しますが、すぐに退社して音楽活動に入ります。1970年には、細野晴臣、松本隆、鈴木茂と伝説のバンド「はっぴいえんど」を組んでデビューします。1971年には、名曲「風をあつめて」を含むアルバム「風街ろまん」をリリースしています。しかし、フォーク・ロック調の楽曲は注目されることもなく、知られることもありませんでした。70年代中頃になって、その完成度の高さがじわじわと評価されていきます。私がはっぴいえんどの存在を知ったのは芸術雑誌の「ユリイカ」でした。松本隆の「風をあつめて」の詞が取り上げられていたのです。

はっぴいえんど解散後、大滝はCMソングの制作や若手のプロデュースなどを行います。山下達郎をデビューさせたことは有名です。また、福生にスタジオを作り、自らのプライベート・レーベル「ナイアガラ・レーベル」を設立します。そして、1981年3月には、作詞に松本隆を迎えて、ソロ・アルバム「A LONG VACATION」をリリ-スします。発売直後は低迷したものの、徐々に売上を伸ばし、結果、オリコン初のミリオンセールス、年間売上第2位を記録しています。それどころか、今も売れ続け、累計で200万枚を超えるロング・セラーとなっています。ジャケットは、青い空、プール・サイド、ヤシの木、白いビーチ・パラソルが描かれた永井博のイラストでした。この大滝詠一、松本隆、永井博のセットが、時代の空気を作ったと言えます。

大滝は、積極的に楽曲提供も行い、松田聖子「風たちぬ」、森進一「冬のリヴィエラ」、小林旭「熱き心に」、薬師丸ひろ子「探偵物語」等は大ヒットします。ヒット曲の多くがCMとタイアップしていることでも知られます。また、吉田美奈子、シリア・ポールが歌い、後にラッツ&スターで大ヒットした「夢で逢えたら」は、日本で最も多くカバーされた曲でもあります。大滝の音楽は、50年代アメリカの豊かさを象徴するポップ音楽がベースであり、ゆえに多幸感をもたらすのだと思います。その多幸感が、高度成長期を経て、豊かになった日本社会にフィットしたと言えるのでしょう。若者には、輸入雑貨、ドライブ、サーフィン、リゾート、海外旅行等々が大人気でした。音楽の世界でも、演歌中心だった歌謡曲の時代が終わり、Jポップの時代が始まります。

海外の文化を我が物にすることは日本の得意技です。大滝が、アメリカン・ポップからJポップを生み出したことは、かつて漢字から仮名文字が編み出されたことに似ています。また、70~80年代、豊かな時代を迎えたと言っても、改革開放後の中国が拝金主義に流れたのとは大違いで、生活の中でささやかな夢を見ていただけのように思います。大滝の音楽や永井博のイラストは、そうした日本の特性をも反映しているように思います。2013年暮れ、大瀧詠一は、突然、動脈瘤で亡くなります。享年65歳。時代が切り替わったことを象徴しているように思います。最後のレコーディングは、竹内まりやとデュエットした「恋のひとこと(Somethin' Stupid)」でした。フランク・シナトラ、ナンシー・シナトラ親子が歌った1967年の大ヒット曲です。大瀧は、何のアレンジも加えず英語で歌っています。カバーというよりもコピーそのものです。それは過ぎた時代への惜別の賦でもあったのでしょう。(写真出典:amazon.co.jp)

2025年4月15日火曜日

ダブ・セクステット

菊池成孔がダブ・セクステットを再結成したというので、ブルーノートに出かけました。とてもエキサイティングなライブでした。ダブ・セクステットは、2007年に結成され、4年ほど活動します。私は、2度ほどライブを聴く機会がありました。1960年代っぽいモダン・ジャズとダブを融合するというチャレンジでした。サックス、トランペット、ピアノ、ベース、ドラムというモダン・ジャズの主流とも言えるコンボに、ダブ・エンジニアを加えた6人編成は、実に斬新でした。ダブは、1970年頃、レゲエから派生した手法です。エコーやループといった電子的なエフェクトを利かせた音楽の作り方です。ダブ・セクステットの場合、レゲエ調のジャズをやるのではなく、あくまでもモダン・ジャズにダブを利かせるスタイルです。

エフェクトをかけることで、モダン・ジャズが本来持っているつテンションやスリルが、より一層際立ってきます。面白いことに、エフェクトは、リードをとっている奏者ではなく、ダブ・エンジニアの感性で繰り出されます。それによって、ダブ・エンジニアは、ミキサーではなく、演奏者の一人となります。菊池成孔は、ライブは格闘だと言っています。そもそもモダン・ジャズの演奏は格闘だと思うのですが、ダブ・セクステットのライブは、プロレスのバトル・ロイヤル状態にまでなります。マイルス・デイビスもエフェクトを多用していましたが、ダブ・セクステットの場合は、かなり様子が異なります。多少、オーネット・コールマン的なアバンギャルドの要素も入りますが、あくまでもモダン・ジャズの王道をキープしながら、テンションを高めていくわけです。

ダブ・セクステットがリユニオンされた背景には、中国の音楽事情があったようです。数年前、ロンドンで火が着いた日本のシティ・ポップ・ブームが世界に拡散しました。ネット時代らしい話です。中国のおしゃれな若者たちの間でも、シティ・ポップ・ブームが起こり、日本に残っていたレコード盤が買い漁られ、ついには市場から姿を消すまでになったと聞きます。その後、若者たちの興味は、シティ・ポップの源流の一つとされる1970年代の日本のジャズへと流れたのだそうです。注目が集まるなか、北京と上海のブルーノートからの依頼を受けて、ダブ・セクステットのリユニオンが実現したというわけです。中国の巨大な消費パワーは、マグロ、カカオ、コーヒー豆等に次いで、日本のジャズ・シーンまで動かし始めたということになります。

ダブ・セクステットと言えば、ダーク・スーツに細いネクタイという60年代っぽいステージ衣装も注目されたものです。そのスタイルは、一時期、ブランド化され販売もされていました。今回も、基本的には同じ衣装で登場していました。このあたりも含めて、菊池成孔という人は、単なる演奏者を超えたところのある面白い人だと思います。銚子の食堂の息子として生まれますが、兄はSFやファンタジー系の小説家の菊地秀行です。菊池は、音楽にのめり込み、兄の蔵書を読みあさって育ったようです。テナー・サックス奏者としては、下積みが長く、結構、遅咲きでしたが、その個性は、エッセイスト、ラジオ・パーソナリティ、作曲家、大学講師などと幅広く開花します。ジャズマンというよりも、マルチに活躍する文化人といった風情です。

ダブ・セクステットのドラムは、多彩なドラミングを展開する本田珠也です。彼は、ヴォーカリストのチコ本田とピアニストの本田竹広の間に生まれています。チコ本田は、渡辺貞夫の妹で、ドラムの渡辺文男の姉です。いわゆるジャズ一家に育ったわけで、そのセンスの良さも頷けます。バークレー出のベーシスト・鈴木正人もセンスの良さは抜群です。坪口昌恭は大学で教鞭もとるピアニストですが、今回はシンセも取り入れた演奏を披露していました。トランペットの類家心平は、自衛隊音楽隊出身という異色の経歴の持主ですが、パワフルな音を響かせていました。今回のライブには、菊池ファミリーの一員ラッパーのQNも一曲だけ参加していました。スローな曲でしたが、意外にも違和感なく聞けました。これも菊池マジックかと感心した次第です。(写真出典:bluenote.co.jp)

2025年1月5日日曜日

Mojo

”Mojo” という言葉は、もともとブードゥー教のお守り袋を指しますが、音楽の世界では、男性の性的能力に関するおまじない、さらにはディープ・サウスの呪術的イメージを象徴する言葉として知られます。Mojoといえば、まずはシカゴ・ブルースの父マディ・ウォーターズのヒット曲”Got My Mojo Working”(1957)が思い起こされます。彼の曲は、4曲がロックの殿堂入りしています。”Rollin' Stone”、”Hoochie Coochie Man”、”Mannish Boy”、そして”Got My Mojo Working”です。私がこの曲を初めて聴いたのは、ポール・バターフィールドのアルバムでした。”Got My Mojo Working”はブルースのスタンダードとして、プレスリーはじめ実に多くのミュージシャンがカバーしています。

”Got My Mojo Working”は、プレストン・レッド・フォスターが作曲しています。彼は、この曲以外の活動がほとんど知られていません。フォスターは、この曲をバトン・レコードに持ち込み、1956年にはアン・コールによって録音されています。この頃、アン・コールは、マディ・ウォ-ターズのツアーで前座を務めており、この曲も歌っていたようです。これを気に入ったマディ・ウォーターズが、1957年、シカゴで録音し、大ヒットにつながります。しかし、マディ・ウォーターズの曲にMojoという言葉が登場するのは、これが初めてではありません。1954年にヒットした”Hoochie Coochie Man”も呪術と性的魅力を自慢する内容であり、お守りとしてのMojoが登場します。

ミシシッピ・デルタを歌おうとすれば、Mojo的なものは避けて通れない、なぜなら黒人たちが信じていた唯一のものだからだ、とマディ・ウォーターズは語っています。Mojoバッグは、もともと中部および西アフリカで、グリグリ、あるいはジュジュなどと呼ばれており、奴隷貿易とともにアメリカに伝えられました。袋の中には、鳥の羽、動物の骨、木の根っこ、ハーブ等が入っており、魔除けとして使われました。20世紀初頭、アメリカ南部の黒人たちは、北部工業地帯へと大移動を始めます。害虫被害やミシシッピ川の大洪水を受け綿花を摘む仕事が失われたこと、第一次大戦の影響で欧州移民の流入が止まり北部の工場が人手不足に陥ったこと、そして南部の差別から逃げたいという黒人たちの思いが大移動の背景にありました。

大移動に伴い、黒人を取り巻く環境は激変するわけですが、文化面でも大きな変化が起こります。その一つとされるのがブルースの変化であり、泥臭いデルタ・ブルースは都会的に洗練されたシカゴ・ブルースへと変わっていきます。その動きを先導したのが、マディ・ウォーターズであり、シカゴ・ブルースの父とも呼ばれます。黒人の都市化とともに、ブードゥーの文化も失われていくことになります。その過程において、雇用主から身を守ることが主だったMojoバッグの意味が失われ、より下世話な性的能力を高めることへと変わった、あるいはそれだけが残ったものと思われます。都会化されたとは言え、依然、デルタ・ブルースを基礎としていたブルース・ミュージシャンの間で、その変化が一般化したことは十分に理解できます。

つまり、Mojoの意味の変化とマディ・ウォーターズの新しいブルースは、ともに大移動とその結果生まれた文化的変化を象徴しており、表裏一体を成しているとも言えるのでしょう。都市に流入した黒人たちにとって、辛い過去とは言え、南部は故郷であり、Mojoは郷愁にもつながる言葉だったのではないでしょうか。そういう意味では、ブラジル音楽のエッセンスと言われる”サウダージ”に似ている面もあるように思います。もちろん、両者は大いに異なりますが、遠いアフリカの記憶にもつながるという点において興味深いものがあります。ちなみに、ローリング・ストーンズというバンド名がマディ・ウォーターズの”Rollin' Stone”(1950)に由来することはよく知られています。この曲は、生まれながらの女好きの歌です。(写真出典:amazon.co.jp)

2024年9月23日月曜日

ローレル・キャニオン

私が、初めてローレル・キャニオンを知ったのは、先日亡くなったジョン・メイオールのアルバム「ブルース・フロム・ローレル・キャニオン」(1968)でした。ミック・テイラーのブルース・ギターがいい味を出していますが、サイケデリックな曲も含まれており、時代を感じさせるアルバムでした。ローレル・キャニオンは、LAのハリウッド・ブールバードのすぐ北側に位置する自然豊かな山間の別荘地です。ハリウッド至近にも関わらず、街から隔離され、自然豊かだったことから、20世紀初頭から別荘地として開発されます。多くの映画スターや有名人が住みました。1960年代中葉以降は、若いミューシャンが多く集まり、自由に行き来する環境のなかでフォーク・ロックが生まれていくことになります。

アリソン・エルウッド監督の「ローレル・キャニオン 夢のウェストコースト・ロック(原題:LAUREL CANYON: A PLACE IN TIME)」(2020)というドキュメンタリーをAmazon Primeで観ました。フォーク・ロック、ウェストコースト・ロックには、あまり興味がないのですが、優れたミュージシャンや名曲も多いことは知っています。特に60年代後半から70年代前半には、一世を風靡したヒット曲も多く、懐かしく観ました。当時、ウェストコートのドンだったママス&パパス、フォークロックの元祖とも言えるバーズ、ウッドストックで大観衆をうならせたクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、史上最高のソングライターとも言われるジョニ・ミッチェル、現代を代表するフォーク歌手ジャクソン・ブラウン等々に加え、モンキーズまで登場しています。

ドアーズのジム・モリソンも住んでいたようです。ドアーズは、時代を超える音楽性の高さを持っており、明らかにローレル・キャニオン的ではありません。ただ、ジム・モリソンは詩人としても高く評価されていますから、理解できるような気もします。もう一人、驚いたのがスティーブ・マーティンです。穏やかな笑顔と嫌みのない笑いが大人気のトップ・コメディアンですが、かつて、ライブの前座として、バンジョー片手に皆を笑わせていたようです。その後、コメディ分野で多くの賞を獲得し、”サタデー・ナイト・ライブ”で大ブレークすることになります。いずれにしても、カウンター・カルチャーの時代、ローレル・キャニオンは新しい音楽と文化を象徴する場所だったわけです。

あまりにも大物すぎて、ローレル・キャニオン時代があったとは思ってもいなかったのが、リンダ・ロンシュタットです。ロックの殿堂入りも果たしたリンダは、病気で引退していなければ、今頃、大御所中の大御所になっていたと思います。彼女のバック・バンドから巣立ったのがウェストコースト・ロックの王様イーグルスです。花と麻薬でサイケデリックに彩られたミュージック・コミューンも、カウンター・カルチャーの終わりとともに変わっていきます。巨大な音楽ビジネスに取り込まれ、ツアーやアリーナ・ライブに振り回され、金を手にしたミュージシャンたちはローレル・キャニオンを離れていきます。最も大きな変化をもたらしたのは、1969年のチャールズ・マンソン事件だったと言います。マンソンもミュージシャンくずれでした。

ママス&パパスの「カリフォルニア・ドリーミン」(1965)が、ミュージシャンたちをローレル・キャニオンへと呼び寄せ、音楽の中心地をNYからLAへと移したのでしょう。そして、ジョニ・ミッチェルが作詞・作曲し、映画「いちご白書」(1970)のテーマ・ソングになった「サークル・ゲーム」が、カウンター・カルチャーの次の時代を象徴していたように思います。ちなみに、映画は印象に残る駄作でした。原作は、コロンビア大の学生運動に関する学生の回想です。雑で甘い青春映画でしたが、時代的共感があったことはユーミンが曲を書いたことでも明らかです。州兵に包囲された体育館のなかで、学生たちが座って輪を作り、ジョン・レノンの「ギブ・ピース・ア・チャンス」を歌うラスト・シーンには涙したものです。なお、いちご白書とは、学生の意見などいちごが好きだと言っているのと変わらない、というコロンビア大学部長の暴言に基づきます。(写真出典:IMDb.com)

2024年8月30日金曜日

チャールダーシュ

世の中には、中毒性の高い麻薬のような音楽があります。人それぞれには、好きな曲も思い出の曲もあり、なぜか頭から離れない曲もあるものです。ここで言う中毒性の高い音楽とは、そうした個人的なものではなく、多くの人々が何度でも繰り返し聞きたくなるような音楽のことです。その代表の一つが、ハンガリーのダンス音楽チャールダーシュであり、代表的曲はヴィットーリオ・モンティ作曲の「チャールダーシュ」(1904)だと思います。ヴィットーリオ・モンティは、ハンガリー人ではなく、イタリアはナポリの音楽家です。ただ、この曲以外の活動はほとんど知られていません。「チャールダーシュ」は、確かにモンティの名曲ですが、ハンガリー音楽チャールダーシュの魅力をうまくまとめあげた曲だと思います。 

18世紀初頭にさかのぼるチャールダーシュの起源は、ハンガリー常備軍の兵士募集のために、酒場で演奏されたヴェルブンクだとされます。兵士の募集方法としては珍妙な印象を受けますが、まずは人を寄せ、軍隊は楽しいところだよ、という幻想を売り込んだものなのでしょう。18世紀末になるとヴェルブンクを引き継ぎ、さらに洗練させたヴェルブンコシュが広まります。印象だけで言えば、やたら手足を叩いて踊るジプシー・ダンスの曲といった風情です。19世紀になると、作曲家マルク・ロージャヴォルギが登場し、ヴェルブンコシュを都会的に洗練させたチャールダーシュへと昇華させていきます。ロージャヴォルギは、”チャールダーシュの父”と呼ばれているようです。

チャールダーシュの魅力は、明暗、緩急のコントラストの妙にあると思います。ラッサンと呼ばれる遅いパートとフリシュカという速いパート、哀愁に満ちたメロディと明るく活き活きとした印象のメロディとの対比です。哀愁あふれるメロディには、絶望でも悲嘆でもなく、宿命に対する諦めのようなものを感じます。それも自己憐憫という甘い味付けがされています。そして明るいパートは、人生悪いことばかりじゃないよね、といった希望を感じさせます。つまり、誰にでもあり得る人生の浮き沈みやささやかな希望を思わせるものがあります。チャールダーシュは短い曲ながら、人生の機微が詰まっているとも言えます。それが人を惹きつけるのでしょう。チャールダーシュは欧州で大流行し、一時、ハプスブルク家が禁止令を出したこともあるようです。

ハンガリーという国は、広大なハンガリー平原がほとんどを占める国です。冷涼な気候と豊かな牧草が、古くから遊牧民たちを引き寄せ、多くの民族が行き交ってきました。ハンガリー人の大層を占めるマジャル人は、ウラル山脈に起源を持ち、チュルク系との混血を繰り返しながらドナウ川に至ったようです。11世紀にはハンガリー王国が誕生し、モンゴルの侵入を許したものの、その後は周辺の国々を制圧し、多民族国家を築いています。16世紀になるとオスマン帝国に侵入され、国は分割されます。17世紀末、陰りの見えたオスマンは、ハプスブルク家のオーストリアに敗れ、ハンガリーもその支配下に入ります。いずれにしても、ハンガリーという国は多様な民族・文化が行き交う地であり、それが独特な文化を生んできたのでしょう。ちなみに、マルク・ロージャヴォルギもマジャル人ではなくユダヤ人です。

モンティの「チャールダーシュ」は、ヴァイオリンやピアノで聞くことが多いのですが、もともとはマンドリンのために作曲された曲です。マンドリンでもピアノでも、あるいはクラリネットでも良い演奏が聴けますが、やはりヴァイオリンが最も適した楽器のように思います。「チャールダーシュ」の哀愁に満ちたメロディや超絶技巧は、ロマ音楽に通じるところがあり、やはりフィドルが似合うように思います。チャールダーシュは、楽譜どおりに演奏する曲ではないと聞きます。アドリブという意味ではなく、演奏者個々の解釈が大胆に反映されるべき曲という意味だと思います。確かに、緩やかなラッサン・パートでは演奏者がそれぞれ思い入れたっぷりに演奏します。その表現の違いが面白いと思います。西洋系よりも東欧系の、それもロマ系の演奏者の方が、情感たっぷりに弾いており、より魅力的だと思います。(写真出典:mnte.hu)

2024年7月1日月曜日

インスト・ロック

荒く処理された画面にLAのヒスパニック地区が映し出され、遠くの空を飛ぶ旅客機が見えます。そこに往年の大ヒット曲「スリープ・ウォーク」が流れます。1959年、17歳で夭折したリッチー・ヴァレンスの伝記映画「ラ・バンバ」(1987)のオープニング・シーンです。チカーノ初のロック・スターは、飛行機事故で亡くなっています。リッチー・ヴァレンスの短い生涯を象徴する印象的な映像でした。とりわけ「スリープ・ウォーク」という選曲が見事だったと思います。「スリープ・ウォーク」を演奏するサント&ジョニーは、NY出身のイタリア系兄弟によるインストゥルメンタル・デュオです。この名曲に限らず、50年代後半から60年代前半までは、ロック・インストゥルメンタル・バンドが多くのヒットを飛ばした時期でした。

インスト・ロック最初のヒット曲とされるのは、R&Bのキーボード奏者ビル・ドゲットの「ホンキー・トンク」です。以降、多くのバンドが多くのヒットを飛ばします。耳に残る曲と言えば、「スリープ・ウォーク」以外にも、ジョニー・アンド・ザ・ハリケーンズの「レッド・リバー・ロック」、チャンプスの「テキーラ」、デュアン・エディの「レベル・ラウザー」、ファイヤー・ボールズの「ブルドッグ」、ザ・シャドウーズの「アパッチ」、ベンチャーズの「ウォーク・ドント・ラン」、ブッカーT&ザ・MG'sの「グリーン・オニオン」、ロニー・マックの「メンフィス」等々があります。サーフ・ミュージックのディック・デイルの「ミザルー」は、タランティーノ監督の「パルプフィクション」のテーマ曲としても有名です。

いずれの曲も、私にとっては同時代の音楽ではありません。何曲かは耳に残っていたかも知れませんが、いわゆるオールディーズとして聴いたものばかりです。ただ、ベンチャーズ、ブッカーT、あるいはMG'sのスティーブ・クロッパーとドナルド・ダック・ダン等のライブには行ったことがあります。MG'sの「タイム・イズ・タイト」は大好きな曲です。不思議だと思うのは、1960年代半ば、突然、インスト・ロックが勢いを失ったことです。その後もインストゥルメンタル・グループが消えたわけではありませんが、少なくとインスト・ロックのブームは去ったと言えます。インスト・ロックは、60年代半ばに訪れたブリティッシュ・インヴェイジョン(英国の侵略)に押されて消えたという説がもっぱらです。要は、ビートルズに殺されたわけです。

英国のロックは、50年代後半、R&Bやジャズに影響された若者たちの間から自然発生的に生まれます。同じ頃に発生したモッズやロッカーズといった風俗と同様、労働者階級の若者たちの間から生まれます。厳しい階級社会にあって、多少経済的な余裕の生まれた労働者階級の若者たちが旧体制に反旗を翻したというのが、その本質的性格でした。米国で生まれたロックンロールは、黒人音楽を白人の若者が演奏するというカウンター・カルチャー的要素を持っていたわけですが、階級差別の激しい英国では、その傾向がより先鋭的になって現れます。英国のロックが米国を侵略する契機となったのが、ビートルズでした。英国で起こっていたビートルマニア現象がTVで報道されたことがきっかけだったとされます。

英国音楽がブームになると、インスト・ロックはラジオから閉め出されていきます。ラジオを起点にブームを起こしたインスト・ロックは行き場を失ったわけです。確かにそれが事実なのでしょうが、勢いを増しつつあったカウンター・カルチャーに押し出されたというのが真実だと思います。50年代的なあっけらかんとした明るさを持つインスト・ロックは過去のものとなり、旧世代にNOを叩きつける英国のロックが支持されたわけです。つまり、インスト・ロックは時代の変化を捉えることができなかったということです。その理由の一つは、皮肉にも、歌詞を持っていなかったことなのではないでしょうか。つまり、インスト・ロックは、若者の思いを代弁できなかったわけです。例えば、ローリング・ストーンズの「Paint it Black」がインスト曲だったとしたら、全米No.1ヒットにはなっていなかったと思います。(写真出典:en.wikipadia.org)

2024年6月23日日曜日

ZAPPA

1970年代、フランク・ザッパは、すでに伝説的存在でした。ただ、名前は知っていても、音楽はほとんど聞いたことがありませんでした。ヒット・チャートを賑わせるような音楽ではなかったからです。 それでも、たまに聞く機会はあったのですが、面白いとは思っても、自分の好きなタイプではないのでレコードを買うこともありませんでした。先日、2020年に制作されたアレックス・ウィンター監督のドキュメンタリー「ZAPPA」を見ました。よくあるミュージシャンのドキュメンタリーとは大いに異なりました。単なるロック・ミュージシャンとしてのザッパではなく、その希有な存在の全てを描こうとしていたからこそ興味深い映画になったのだと思います。

天才フランク・ザッパは、ジャンルを超越した作曲家にして前衛芸術家でした。自分の音楽を形にするために、身近にあったギターを手に取り、組成しやすかったロック・バンドという形を選んだだけなのでしょう。ザッパは「自分で書いた曲を演奏し、録音し、聞きたいだけだ。それを他人が聞きたいというのであればうれしい」と語っています。自身のバンドであるマザーズ・オブ・インベンションやマザーズのライブでは、常に新曲や新たに編曲された曲が演奏されていたようです。完璧を期すために、メンバーには高い演奏水準が求められ、長時間のリハーサルが行われていたようです。あたかもオーケストラの公演のようです。現に、ザッパは、ギターをタクトに持ち替えて、自作をロンドン・フィルやドイツのアンサンブル・モデルン等と演奏しています。

ザッパにとっては、オーケストラの指揮もバンドのライブとなんら変わらぬ音楽活動だったのでしょう。彼の曲は、今でもオーケストラで演奏されています。ザッパは現代音楽の作曲家として認知されているわけです。ザッパのジャンルを超えた音楽は、レーベルの営利主義と対立し、ロック・ミュージシャンとしては初となる自身のレーベルも設立しています。また、議会が、CDのレーティング導入に動いた際には、検閲であるとして反対の声をあげ、参考人として議会で証言もしています。議会に敵対し仕事を失うことを恐れたミュージシャンたちが口をつぐむなか、ザッパは身を挺して表現の自由を守ったわけです。自らのレーベルを持っていることも強みでした。ザッパは大統領選出馬に意欲を見せたことがありますが、この問題が契機となったものと思われます。

ザッパは、正式な音楽教育を受けていません。音楽活動は、高校時代のR&Bバンドのギター担当に始まっています。ただ、興味深いことに、その頃からエドガー・ヴァレーズやアントン・ヴェーベルンの現代音楽もよく聴いていたようです。また、許可を得て大学で和声の講義を受けたこともあるといいます。高校を卒業すると、大学には席をおいただけで、バンド活動、録音スタジオ経営、作曲等に勤しみ、19歳でオペラの作曲も行っています。1965年、25歳のおり、ヴァーヴ・レコードと契約し、ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションとしての活動を開始します。翌年にはデビュー・アルバム「フリーク・アウト」が2枚組でリリースされます。ロックにおける最初のコンセプト・アルバムとして知られます。

映画は、1991年、チェコでのソ連軍撤退を祝うライブの模様から始まります。ザッパは、熱狂的な歓迎を受け、異様な盛り上がりのなかでギター・ソロを披露します。ビロード革命で民主化を成し遂げる以前のチェコでは、ザッパの音楽は禁止されており、反体制の象徴として地下で広がっていました。チェコの人々にとって、ザッパは自由の象徴だったわけです。ある意味、チェコの人々は、ザッパの本質をよく理解していたとも言えます。カウンター・カルチャーというマントを翻しながら荒野を一人歩んできたというイメージがザッパを伝説的存在にしているのでしょう。しかし、マントの下の生身のザッパは、スタートから終始一貫、誰に媚びることもなく、ひたすら頭の中で鳴り響く音楽を形にすることだけに執着し続けた生粋の作曲家だったのでしょう。(写真出典:amazon.co.jp)

2024年6月17日月曜日

エレクトリック・ギター

最初に買ったジャズのアルバムは、マイルス・デイビスの「フォア&モア」でした。しかし、最初に手に入れたのはタル・ファーロウの「ザ・スウィンギング・ギター」でした。ラジオ番組で音楽にちなんだダジャレの募集があり、一等賞になるとレコード・プレゼントという企画でもらったものです。とりわけタル・ファーロウ・ファンというわけでもなく、初めて買ったスウィング・ジャーナル誌の今月のお薦め盤だっただけのことです。1950年代に活躍した白人ギタリスト・タル・ファーロウは、抜群のテクニックで一世を風靡した人です。オクトパスとあだ名される大きな手から繰り出される単音の早くて音域の広いパッセージが特徴です。

ギター、ピアノ、ベースというトリオ編成もいい味を出しています。ジャズのエッセンスとも言える演奏ですが、やはり白人っぽい淡泊さを感じさせます。スウィングのギターなら、なんと言ってもチャーリー・クリスチャンがベストだと思います。 チャーリー・クリスチャンは、ジャズにエレクトリック・ギターを持ち込んだ最初のギタリストであり、ギターを単なるリズム楽器からソロ楽器に変えた人とされています。スウィンギーなだけでなく、音に豊かな表情とブルーズを感じさせます。登場間もないエレクトリック・ギターだったわけですが、既にその特性をよく心得ていたように思います。1939年、23歳でスウィングの王様ベニー・グッドマンのバンドに参加し、当時としては目新しかった楽器とともにその名を轟かせました。残念なことに、25歳のおり、結核で亡くなっています。

エレクトリック・ギターの試作は、1910年代には始まっていたようです。ビッグ・バンドの流行とともに、ギタリストは大きな音が必要になり、奏者たちが自ら試行錯誤しました。当初は、単純にアコースティック・ギターにマイクを付けて音を拾う方式を試していたようです。今につながる電磁式のピックアップが登場したのは、1931年です。アドルフ・リッケンバッカーとジョージ・ボーチャムが発明しています。商品化された最初のエレクトリック・ギターは、リッケンバッカー・エレクトロA-22、通称「フライパン」であり、当時のハワイアン・ブームを背景に開発されたラップ・スティール・ギター、いわゆる横置きのハワイアン・ギターでした。エレクトリック・ギターは瞬く間に人気となり、ギブソンはじめ多くの製造業者が誕生します。

その後、エレクトリック・ギターは、楽器としても、奏法としても進化していくことになりますが、機器としての最も大きな変化はエフェクターの登場だったと思われます。エフェクターは、1940年代後半には試作されていたようですが、一般化する契機となったのはボー・ディドリーのデビュー曲「ボー・ディドリー」だったとされます。ボー・ディドリーが使ったのはトレモロ効果をかけるフロア・タイプのエフェクターでした。60年代に入るとトランジスタを使ったエフェクターが登場し、なかでも倍音を強調するファズは、ローリング・ストーンズのキース・リチャードが「サティスファクション」で使ったことから大ブームとなります。時は、まさにギター・ブルースの時代を迎えており、各種エフェクターが大流行していきます。

ジミヘン、エリック・クラプトンといったギター・ブルース時代のギタリスト達の源流は、ハウリン・ウルフ・バンドのヒューバート・サムリンだと言われます。南部の黒人に言わせれば、ジミヘンなどサムリンのギターの音量を上げただけということになります。ヒューバート・サムリンは、ロバート・ジョンソン以降続いたブルース・ギターの伝統を、より自由なものへと変化させ、主役の座に据えていきました。ブルースだけでなく、ロック・ギターの源流でもあります。ジャズの世界では、多くの名手が生まれていますが、奏法に大きな変革をもたらしたのはウェス・モンゴメリーだと思います。オクターブ奏法やコード演奏を用いることで、単音・早引きのスタイルをよりモダンで深みのある世界へと変えました。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2024年6月13日木曜日

ミニマル・ミュージック

テリー・ライリーのライブを聴いてきました。ミニマル・ミュージックの先駆者も御年88歳になります。ステージは、息子でギタリストのギャンとのデュオでした。テリー・ライリーは、2020年、佐渡島のイベント準備のために来日しますが、コロナのパンデミックが発生したため、日本に滞在することを選択します。以降、山梨県に移住し、日本での音楽活動を展開しています。私がテリー・ライリーを知ったのは50年以上前のことです。実験映画の上映会で「corridor」というタイトルの映画を見ました。カメラが様々な廊下を進むだけの映像がコマ送りで延々と映し出されます。その音楽をテリー・ライリーが担当していました。映像と音楽が完全に一体となり、印象に残る実に不思議な体験をしました。

ミニマル・ミュージックは、1960年代のアメリカで生まれています。テリー・ライリーはじめ、ラ=モンテ・ヤング、スティーヴ・ライヒ、フィリップ・グラスら、現代音楽の作曲家たちが始めた音楽です。最低限の音で構成する音楽ゆえ、ミニマルと呼ばれます。単音を長く伸ばす、あるいは短いフレーズを反復することが特徴と言えます。それが、バッハ的な音楽とは全く異なる不思議な音楽体験を生み出していきます。ミニマル・ミュージックの代表作とされるテリー・ライリーの「In C」では、35人以上が望ましいとされる演奏者によって、53の短いフレーズが、各々の任意によって繰り返されます。バックでは、ピアノなどによりCの音が8分音符で繰り返され、パルスと呼ばれる基調を形作ります。

一定のフレーズとリズムがベースにありますが、即興音楽そのものと言えます。例えば、西アフリカ音楽の特徴の一つは延々と続くリフであり、その伝統はアメリカ、カリブ海、ブラジルの音楽に引き継がれています。西アフリカ系のリフには、明らかに麻薬的効果があり、ダンスと組み合わせることで、人々を恍惚状態へと導きます。その絶大な効果は、しばしば原始宗教でも活用されています。テリー・ライリーの音楽にも同じことが言えるように思います。インド音楽のマスターでもあるテリー・ライリーの音楽にはエスニックな要素も入ってきます。1960年代、カウンター・カルチャーの時代を迎え、マリファナが広まり、サイケリック・ブームが起きるなか、ミニマル・ミュージックは勢いを増していったと言えるのでしょう。

現代におけるミニマル・ミュージックの代表といえば、映画音楽の世界で大活躍するマイケル・ナイマンなのでしょう。映画音楽の世界では、ピーター・グリーナウェイやパトリス・ルコントの映画で名を成しますが、最もよく知られるのはジェーン・カンピオンの「ピアノ・レッスン」です。ミニマル・ミュージックという言葉を生んだのはナイマンだとされますが、ミニマリズムに共感しアンビエント・ミュージックという言葉を生んだのがロキシー・ミュージックで知られるブライアン・イーノです。ちなみに、ロキシーは好きなバンドの一つでした。ブライアン・フェリーの独特な歌い方がクセになります。なお、日本のミニマル・ミュージックの作曲家としては、アニメ音楽で成功した久石譲がいます。

マイケル・ナイマンは、オール・ナイト・コンサートを開きますが、その生みの親もテリー・ライリーです。アンビエント・ミュージックという言葉も示唆的ですが、ミニマル・ミュージックはリラックスした状態で楽しむ音楽だと思います。今回のライブ会場では150人くらいが丸椅子に座らされぎゅうぎゅう詰めになっていました。商売上やむを得ないのでしょうが、ミニマル・ミュージックの本質とかけ離れた会場の環境はやや残念でした。テリー・ライリーはシンセサイザーを使い、約60分間、ノンストップで演奏していました。アンコールでは、ピアニカにループなどのエフェクトをかけて演奏していました。面白い使い方です。理想的には富士山麓あたりで、オールナイト・コンサートをやってもらいたいところですが、ご年齢からすれば、まあ難しいでしょうね。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2024年5月18日土曜日

サウダーヂ・モデルナ

とりわけ人生に思い残すことなどないのですが、あるとすれば、リオデジャネイロに行けなかったことくらいでしょうか。しばらくリオに滞在し、毎晩、サンバのライブを聴き、サンバ漬けの日々を送ってみたいと思っていました。ただ、リオは、あまりにも遠く、かつ治安も恐ろしく悪く、二の足を踏んでしまいました。ところが、私がリオが行かなくても、過日、リオの方からやってきてくれました。ブラジルを代表するMPBの歌姫マリーザ・モンチのブルーノートでのライブです。私は、ここ20年弱、サンバにハマっていますが、そのきっかけとなったのがマリーザ・モンチの唄うサンバでした。生きている間に彼女のライブが聴けるなど、まさに夢のような話だと思いました。

実に完成度の高いライブは、私の生涯ベストの一つだと思いました。ブラジルのミュージシャンの演奏レベルは、とても高いものがあります。2億人を超える音楽好きの国民がひしめくブラジルでは、音楽業界の競争も激しく、まずは相当なテクニックを持っていないと場末のステージにも上がれないと言われます。マリーザ・モンチのステージは、テクニカルに完璧なだけでなく、彼女の抜群の表現力が遺憾なく発揮されていました。スタジオ録音とほぼ変わらないレベルの高さに感服しました。そう言えば、1989年にリリースされたマリーザ・モンチのデビュー・アルバムはライブ録音でした。にもかかわらずブラジル中を熱狂させ、いきなりトップ・シンガーに躍り出ています。

マリーザ・モンチは、ややかすれたユニークな声で、独特な世界観を展開します。イタリアで声楽も学んでいますが、そのベースとなっているのはサンバです。父の影響で、幼少の頃からリオの名門サンバ・チーム”ポルテーラ”に出入りし、体中にサンバのリズムとサウダーヂを染みこませているわけです。ステージでは、彼女のよく知られたオリジナル曲を中心に歌っていましたが、古いサンバも数曲歌ってくれました。とりわけ大好きな”Danca Da Solidado”、”De Mais Ninguém”を歌い始めた時には鳥肌が立ちました。これは、ラストかアンコールで”Esta Melodia”を歌う前ぶりではないかと期待しましたが、歌いませんでした。一緒に歌う気満々だったのですが、残念です。

約90分のワン・ステージのみというセッティングに彼女の気合いを感じました。圧巻のステージのラストでは、満員の客席の拍手が鳴り止むことはありませんでした。彼女が、ブラジルで圧倒的な人気を誇るのは、サンバをベースとしながらも、現代的にサウダーヂを表現しているからだと思います。サウダーヂ・モデルナとでも言えばいいのでしょうか。ブラジルの音楽は、その背景にすべてサウダーヂを持っていると言われます。7thコードの使い方など聞くと、それが良く分かります。サウダーヂは、ポルトガル語独特の表現であり、日本語への翻訳は難しいと言われます。郷愁、憧憬、思慕、切なさ等が入り交じっているとされます。言葉の由来に関しても諸説あるようです。

ポルトガル人には、ケルト人の血が入っているようです。司馬遼太郎は、ケルト人を百敗の民と言っています。もともと中欧にいたケルト人は、ゲルマン人等に追われて、ついに欧州の西の外れの海辺にたどり着いたわけですが、その敗走の歴史や終着点の厳しい風土もサウダーヂという言葉の誕生に関係しているのでしょう。ポルトガルのファド、ブラジルのサンバ、アイルランド音楽は似ても似つかぬ代物ですが、実は、すべてサウダーヂと呼んでいいような同じ根っこを共有しているように思えます。(写真出典:cantodampb.com)

2024年2月4日日曜日

リトル・ガール・ブルー

Janis Joplin
1960年代を象徴する音楽イベントと言えば、1969年のウッドストック ・フェスティバル(Woodstock Music and Art Festival)ということになります。NY州キャッツキルに、40万人を超える若者が集まり、30組以上が出演しました。カウンター・カルチャー時代の頂点ともいえるイベントであり、記録映画も大ヒットしました。ただ、もう一つ忘れてはならないイベントは、ウッドストックに先立つ1967年、カリフォルニア州で開催されたモンタレー・ポップ・フェスティバルです。その後、世界中に広がったロック・フェスの原点と言われる音楽イベントです。モンタレーでは、1958年からジャズ・フェスティバルが開催されていました。それにヒントを得て開催されたと言われています。

モンタレー・ポップ・フェスティバルは、ママス&パパスのジョン・フィリップスが中心となって開催されました。ママス&パパスは、多くのヒットを飛ばし、LAの音楽界ではリーダー的存在だったのでしょう。フェスは、サンフランシスコを中心に盛り上がっていたヒッピー文化を背景に、ロック、ブルース、フォーク、R&B、民族音楽等々、実に多様なジャンルのミュージシャンが出演しています。3日間で、30組超が出演し、20万人の観客を集めました。その記録映像は、映画「モンタレー・ポップ」として公開されました。また、フェスのプロモーションのために、ジョン・フィリップスが作詞作曲し、スコット・マッケンジーが歌った「花のサンフランシスコ」も大ヒットしました。私もレコードを買いました。歌詞をカタカナで書き取り、懸命に覚えたものです。

モンタレー・ポップへの出演をきっかけに、全米にその名を轟かせることになったミュージシャンが3人います。R&Bの世界では既に有名だったオーティス・レディング、前年からロンドンで活動を始め、注目を集めていたたジミ・ヘンドリックス、そしてヒッピーのメッカ、サンフランシスコから呼ばれたビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーのジャニス・ジョプリンです。この3人は、一発で観客を総立ちにさせるとともに、全米を、そして世界を熱狂させることになります。実は、ホールディング・カンパニーは映像契約にサインしていなかったため、撮影されておらず、音源だけが残りました。関係者全員の説得とジャニスの思いもあって、急遽、契約にサインしたホールディング・カンパニーは、翌日、もう一度ステージに立っています。

テキサスの田舎町に生まれ育ったジャニスは、変人として疎外された少女だったようです。20歳になったジャニスは、テキサス大をドロップ・アウトし、サンフランシスコで音楽と麻薬漬けの日々を始めます。1966年、ホールディング・カンパニーに参加すると、そのしゃがれたダイナマイト・ボイス、黒人ばりのリズム感、歌唱力、シャウトが注目を集めます。自身が抱える孤独を絞り出すように歌うジャニスの歌はブルースがベースになっています。ジャニスの出世作ともなった「ボール&チェイン」もビッグ・ママ・ソートンの曲です。「クライ・ベイビー」、「ムーブ・オーバー」、「サマータイム」、「ミー&ボビー・マギー」等もジャニスらしさ満開ですが、恐らく最も彼女の内面をストレートに表現した曲が「リトル・ガール・ブルー」なのだと思います。2015年にリリースされた彼女のドキュメンタリー映画のタイトルにもなっています。

「リトル・ガール・ブルー」は、1935年、ロジャース&ハートがミュージカルのために書いた曲で、ニーナ・シモンのデビュー曲でもあります。大人になりきれない孤独な少女を歌っています。ステージの上では大観衆を熱狂させたジャニスですが、孤独な少女であることに変わりはなかったのでしょう。モンタレーからわずか3年後の1970年、27歳になったジャニスは一人モーテルで死にます。ヘロインのオーバードーズでした。2週間前、ジミ・ヘンドリックスも27歳で死んでいます。ブライアン・ジョーンズ、ジム・モリソン、カート・コバーンと併せ27クラブとしても知られます。さらに、オーティス・レディングもフェスから半年後、飛行機事故で26歳の生涯を閉じています。モンタレー・ポップ・フェスティバルが世に送り出した3人が、3人とも同じ年に若くして命を落としたことは、どこか因縁めいた、そして、なんとも切ない話です。(写真出典:genius.com)

2023年10月19日木曜日

Jeremiah the Innocent

テキサス州の州都であるオースティンと言えば、音楽・映画・IT系の祭典であるサウス・バイ・サウスウェスト(SXSW)が開催される街として知られます。また、オースティンは「世界のライブ・ミュージックの都」と自称するだけあって、ライブハウスが300店近くあるとも聞きます。土地柄、カントリーやブルースの店が多いと思われますが、実に多様な音楽が演奏されているようです。ギター・ブルースのスティーヴィー・レイ・ヴォーンの本拠地でもあり、彼はライブで「from Austin, Texas」と紹介されていました。他にも多くのミュージシャンがオースティンから生まれているのでしょうが、伝説的人物の一人が、ローファイ・シンガー・ソング・ライター、アウトサイダー・アーティストのダニエル・ジョンストンです。 

ダニエル・ジョンストンは、ビートルズと並び賞されるほど才能豊かなソング・ライターですが、精神的、身体的な病に苦しみ、生涯を、ほぼアンダーグラウンドのアーティストとして過ごしました。高校生の頃から、ウェスト・バージニア州のニュー・カンバーランドにあった自宅地下室で、自作の歌を安っぽいサンヨーのラジカセに録音していました。その後、オースティンに移り、地元の新聞社に自作テープを持ち込みます。それが始まりでした。多少、知られる存在となった彼は、オースティンに訪れたMTVの取材に押しかけ、取り上げてもらいます。1985年のことです。ただ、地元の有名人になったのも束の間、双極性障害が悪化して、入院を余儀なくされます。以降、10年弱、入退院を繰り返し、その後も薬を飲み続けることになります。

私が、ダニエル・ジョンストンを知ったのは、ドキュメンタリー映画「悪魔とダニエル・ジョンストン」(2005)でした。冒頭で流れる「Story of an Artist」にやられました。家族にも、周囲にも理解してもらえない孤独と苦悩がストレートに歌われ、それでいて例えようのない優しさに包まれた奇跡の歌だと思います。社会的コミュニケーションに障害がある一方で、特定分野で高い集中力を発揮するアスペルガー症候群の人たちは、高い確率で総合失調症や双極性障害といった二次障害を起こしやすいと聞きます。恐らくダニエル・ジョンストンもそうだったのでしょう。アスペルガー症候群と芸術家は深い関係があります。音楽と絵画に優れた才能を開花させたダニエル・ジョンストンは、ベートーベンやモーツァルト、ゴッホやアンディ・ウォホール等々の才能と苦悩を引き継いでいたわけです。

カセット・テープのみだったダニエル・ジョンストンの音楽は、友人が版権確保のために設立した会社でレコード化されます。メジャーに注目された彼は、1995年、アトランティックで1枚だけアルバムをリリースします。評価されたものの、売上は振わず、再びアンダーグラウンドの世界へと戻ります。あまりにも純粋で素朴な彼の歌は、時代とかけ離れ過ぎていました。ニルヴァーナのカート・コバーンは、ダニエル・ジョンストンに魅せられ、代表作であるカエルの「Jeremiah the Innocent」のTシャツを好んで着ていました。それが、ダニエル・ジョンストンの名を世界に知らしめることになります。双極性障害を患うカート・コバーンは、同じ苦しみを持つダニエル・ジョンストンに自分を重ねていたのでしょう。コバーンは、超メジャーになった自分に苦しみ、持病を悪化させ自殺しています。

人と違うというダニエル・ジョンストンの孤独と苦悩は、音楽と絵画によって救われた面もあるのでしょう。献身的に彼を支え続けた家族の存在も大きかったと思います。もう一つ、彼を完全な破滅から救っていたのが、ローリーの存在だったのでしょう。ローリーは、学生時代に彼があこがれた女性です。結ばれることはありませんでしたが、ダニエル・ジョンストンは、生涯、ローリーを思い続け、多くの曲が彼女を歌っているとされます。ダンテのベアトリーチェそのものです。「悪魔とダニエル・ジョンストン」のDVDには特典映像として、映画の公開を機に、彼とローリーが20数年ぶりに再会する様子が収められています。言葉を発することもなく、ひたすらローリーを抱きしめるダニエル・ジョンストンに涙が止まりませんでした。ダニエル・ジョンストンは、2019年、心臓発作を起こし亡くなっています。58歳でした。(写真出典:en.wikipadia.org)

2023年10月15日日曜日

月の光

そもそも音楽のジャンル分けなどは無意味であり、音楽は音楽だと言えます。ただ、聞く前に、その音楽の傾向を知ろうと思えば、なかなか有用でもあります。”クラシック音楽”というジャンルは実に奇妙な命名だと思います。一般的には、17世紀から20世紀初頭にかけてのバロック音楽、古典派、ロマン派を指すとされます。同時代にあっては、クラシックと呼ばれたわけもなく、後世の命名であることは明らかです。ただ、現代に作曲された音楽もクラシックに分類されます。また、作曲家が譜面を書き、宮廷やホールで演奏された音楽に限られることが多く、大衆音楽は除外されます。芸術的、非商業的という言い方もありそうですが、それも曖昧な定義です。歴史ある楽器で演奏される音楽かと言えば、そうとも限りません。

ひょっとすると、クラシック音楽の定義は、音楽の父と呼ばれるバッハが構成した楽理の枠内で作曲された音楽ということにつきるのかも知れません。”クラシック”ではなく、バッハ音楽という呼び方が適切で分かりやすいと思います。バッハ音楽は、優れた作曲家を輩出し、数々の名曲を生み出してきました。バッハ音楽は、石材でしっかりと組み上げられた西洋建築を思わせるものがあります。その音楽は、宮廷、あるいはコンサート・ホールに出入りする特定階層を対象としているとも言え、スノッブなところがあります。素人考えですが、それを大きく変えたのはドビュッシーだったのではないかと思います。ドビュッシーは、決してバッハ音楽を否定した革命家ではなく、あくまでも音楽の解放者だったように思えます。

フランス料理に例えれば、壮麗な宮廷料理をコース料理に展開したエスコフィエに重なるものがあります。20世紀の音楽は、より人間的で、より多様で、より身近なものとして展開していったように思います。個々人のあいまいな感性に訴えるかのようなドビュッシーの音楽は、すべての20世紀の音楽の起源なのではないかとさえ思います。最も良く知られるピアノ曲「月の光」などは、ポップスの曲、ジャズの曲、あるいは映画音楽と言われても何の違和感もありません。ドビュッシーは、しばしば印象派の始まりと言われ、ラヴェル等が後に続きます。20世紀初頭に生まれた印象派音楽は、19世紀の主流であったロマン派音楽へのアンチテーゼとされます。確かに、ドビュッシーはワーグナーの対極と言えます。

バッハ音楽は、その理論的に構成された調和性の高さゆえに急速に普及しましたが、同時に、その制約がゆえに行き詰まっていきます。ロマン派は、そのピークだったのでしょう。ドビュッシーは、音楽形式の否定、長調と短調の曖昧化、非機能和声(モード)、全音音階、不協和音等々を用いて、バッハ音楽を解放したとされますが、それらを音楽理論として説明することは、門外漢にとって至難の業です。ただ、全てのパーツが寸法通りに結合される建築がバッハ音楽だとすれば、ドビュッシーの音楽は近代絵画のように多彩な色を曖昧に塗り重ねて全体を構成しています。例えば、輪郭線の曖昧な筆遣いが絵画の表現力を高めたように、音階を拡張的に使うモードはバッハ的和声を超えた表現を獲得したわけです。

そもそも、モードは、ペルシャ、インド、中国、ジャワ等において、古くから存在していました。西洋でも、古代ギリシャに存在し、バッハ以前の教会音楽でも使われていました。世界の長い音楽の歴史のなかで、バッハ音楽はモードを制限的に単純化することで高い調性を得た特殊な例に過ぎないのかも知れません。ドビュッシーの解放とは、バッハ音楽の成果を踏まえた上での原点回帰とも言えそうです。また、ドビュッシーの音楽は、一人の才能と探究心から生まれたものですが、同時に、時代が生み出した音楽という側面もあると思います。産業革命を経て、市民の時代が到来し、バッハ音楽を育んだ宮廷や教会は力を失いました。また、植民地競争によって、西洋は他文化に対する知見を深めることになりました。ドビュッシーの音楽は、産業革命が生んだと言えば、やや言い過ぎでしょうか。(写真出典:ja.wikipedia.org)

「オデュッセイア」