2025年12月10日水曜日

イマジン

90歳になる先輩をケアホームに訪ねました。先輩は、若い頃からモーツアルト協会に参加するほどのクラシック・ファンであり、今も、毎日のようにモーツアルトとバッハを聴いているとのことでした。ところが、最近、ロックも聞くようになったんだ、と言うのです。クラシック以外には縁のない先輩だっただけに、驚きました。よく聞いてみると、ジョン・レノンの「イマジン」が気に入ったらしいのです。そのきっかけとなったのは、NHKの「アナザー・ストーリー」を見たことだったようです。アナザー・ストーリーは、テーマを三つの視点から見ていくという面白い番組です。イマジンの回では、ジョンの死、プラハのレノン・ウォール、同時多発テロ後のNYという切り口から語られていました。

イマジンは、ポピュラー音楽といったジャンル、あるいはヒット・チャートといった産業レベルを遙かに超えた名曲です。人類が到達し得た最高水準の文化の一つだとさえ思えます。シンプルな歌詞、やさしいメロディ、耳に残るピアノ伴奏。一度聞けば忘れることのない曲です。オノ・ヨーコの詩に基づく歌詞は、無邪気で、夢想的に過ぎます。しかし、それゆえ究極の真実を伝えます。農耕以降、人類が1万年に渡って悩み続けてきた個人と組織という問題に対し、ジョンはわずか3分1秒で解決策を示しました。もちろん、それが現実の問題を解決できないことは分かっています。しかし、全ての人がイマジンを共有することは、人類にとって希望そのものです。イマジンは、人類連帯の歌です。それがイマジンという曲を偉大にしています。

ジョン・レノンは、1980年12月8日、住居のある高級マンション”ダコタ・ハウス”の前で射殺されます。訃報が流れた直後、ダコタ・ハウス前には数百人のファンが集まります。そこで、彼らが歌っていたのは「ギブ・ピース・ア・チャンス」(1969)でした。反戦歌、プロテスト・ソングの傑作です。映画「いちご白書」(1970)のラスト・シーンは、円陣を組んでこの曲を歌う学生たちを警察が一人づつ排除するというものでした。センチながら時代を象徴していました。しかし、そのわずか2年後、イマジンをリリースしたジョンは、反戦やカウンター・カルチャーといったレベルを易々と超え、宗教すらも超越した領域に達するわけです。1985年、ダコタ・ハウスに近いセントラル・パーク内には、ジョンを記念する「ストロベリー・フィールズ」が設けられました。

今も世界中から多くの人々が訪れるストロベリー・フィールズには、銅像も石碑もありません。あるのは地面に埋め込まれたプレートだけであり、そこにはイマジンと刻まれています。それはオノ・ヨーコの”生きた記念碑”という発想に基づくと聞きます。ストロベリー・フィールズは、現代アートの作家オノ・ヨーコの最高傑作なのではないかと思います。単なるポップ・スターではなく、全人類に明確な思いを共有させたジョンに相応しい記念碑だと思います。プラハのレノン・ウォールは、ジョンの暗殺直後に姿を表わしたようです。西側の情報が遮断されていたにも関わらず、壁はジョンへの献辞で埋められ、自由を希求する多くの若者が集まる場所になります。危険を感じた当局は、レノン・ウォールに集まる若者を弾圧・拘束します。反撥した若者たちがデモを行い、それが全土に拡大し、ついに1989年、ビロード革命として共産党独裁を終わらせます。

アナザー・ストーリーの第3の視点である同時多発テロ後の話は知りませんでした。当時のアメリカ社会は、反テロ、反イスラム一色で、強く団結していました。当時、ラジオ局は、放送すべきではない曲の一つとしてイマジンをリストアップしていたようです。世界の融和を訴えるイマジンは、火に油を注ぎかねない状況だったわけです。しかし、徐々にイマジンを歌う若者たちが現れ、広がっていきます。そして、ついにTVの追悼番組でニール・ヤングが歌うことにもなりました。テロを主導したオサマ・ビン・ラディンは極悪人です。しかし、この1世紀、石油欲しさに中東の政治に介入し、テロを起こし、戦争を誘導し、罪のない多くの人々を死に追いやってきたアメリカに罪はないのでしょうか。足下、ウクライナ侵攻、ガザでのジェノサイドが続いています。イマジンを歌わなくてもいい日が来るようには思えません。だからこそ、イマジンは歌い継がれていくのでしょう。(写真出典:amazon.co.jp)