ヤマト王権の政治体制や官職は、氏姓制度に立脚していました。氏(うじ)とは、物部、蘇我といった血縁を中心とする部族です。姓(かばね)とは、臣(おみ)、連(むらじ)といった氏の格付けを意味します。倭国大乱の後、部族連合として成立したヤマト王権の性格が反映されています。王権が強化され、中央集権化が指向されはじめた飛鳥時代になると、官僚組織も形を成してきます。ヒエラルキーを明確にして効率的な運営を目指す官僚組織に、部族単位の氏姓制度は不都合であり、604年、個人を単位とする冠位十二階が定められます。広く人材を登用することが可能になりました。とは言え、人選にあたっては、科挙の制度が導入されたわけではないので、やはり氏姓制度に依るところが大きかったようです。
その後、中央集権化がさらに進んで律令体制が築かれると、官僚機構はより精緻な姿になっていきます。中央では、いわゆる二官八省体制が登場します。二官とは、天皇の下に直接置かれる神祇官と太政官を指します。神祇官が祭祀を担当し、太政官が国政を統括します。太政官は、いわば内閣に相当し、太政大臣、左大臣・右大臣、大納言等からなる組織です。補佐組織である少納言局や左右の弁官局も含まれます。太政官の下に、実務組織である八省が置かれます。中務省、式部省、治部省、民部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省です。八省の他にも、行政監察を行う弾正台、警護に当たる衛府、皇太子に仕える東宮、厩を司る馬寮、武器庫を担当する兵庫、后妃に仕える後宮などが置かれています。後には、規定にない令外官も置かれていくことになります。
メーカーも市場も未成熟な時代ですから、各省が、運営上、必要な物品があるとすれば、自ら作るしかありません。工芸品については、主に中務省、大蔵省、宮内省で制作されていたようです。中務省は、朝廷の政務を担当する組織ですが、図書寮、内蔵寮、縫殿寮、内匠寮、画工司等で工芸品が制作されています。大蔵省は、天皇の蔵の出入庫を管理しますが、織部司や、後に中務省に併合される縫部司、漆部司、典鋳司といった組織を持っていました。宮内省は、朝廷の庶務を担いますが、木工寮、鍛冶司、内染司、筥陶司なども抱えていました。各部署には、腕に覚えのある者が集められ、また育成も行われていたようです。細かく分化することで専門性が高まり、その仕事を担う家が登場することで技術が磨かれ、かつ継承されていきます。
歴史上、美術、音楽、文学、舞踊、工芸といった芸術が生まれ、育まれるのは宮廷です。強い王朝があれば、より高度な芸術が生まれます。王族と、その取り巻きの貴族や武家が文化の担い手であり、経済の高度化にともない商家にも広がっていきます。直接的な食糧生産から最も遠いところにあるのが宮廷と芸術だと言えます。律令体制による権力構造の組織化は、国家の始まりであるとともに、芸術の始まりでもあったわけです。正倉院の宝物の一部は、再現模造の取組が行われてきました。技術・技法の研究はもとより、技術の継承という観点からも取り組まれています。また、伊勢神宮の式年遷宮では、宝物類は全て新調されます。ここでも技術が継承されているわけです。いずれも、1300年間変わることなく、国家予算によって賄われています。(写真出典:diamond.jp)
