2024年12月17日火曜日

八幡太郎

名古屋市章
名古屋の”丸八会”は、財界・官界の人々が自由に意見交換を行う場として永い歴史を持っています。戦後すぐの頃、名古屋を離任する役人を東大の同級生たちが送別したことが始まりと聞きます。私が参加していた15年前には、会員数は約450名、毎月の例会に加え、同好の士が集まるクラブ活動も盛んでした。また、準会員と呼ばれるナイトクラブが13軒あり、例会には店の女性たちがコンパニオン的に参加していました。例会の夜、準会員の店では、丸八会員は半額になりますが、一方で店をはしごしてお金を落とすというしきたりになっていました。経済団体やロータリー・クラブ等は他の街にもありますが、丸八会のような仕組みは、全国的にも極めて希だと思います。丸八会によって、名古屋財界は緊密な関係を保ってきたと言えます。

”丸八”とは名古屋市の市章です。そのいわれは諸説あるのですが、最も有力な説は、尾張徳川家の紋章に由来するというものです。尾張徳川家の丸八は、領地が八郡あったからとも、先祖とされる八幡太郎義家にちなんだとも言われます。しかし、史実として、徳川家は河内源氏とはつながっていないようです。家康が勢力を拡大していくなか、官位を得るための箔付けとしてねつ造されたという見方が一般的です。家系のねつ造は、戦国の頃の武士社会では、ごく一般的に行われていたことのようです。それにしても、八幡太郎義家の人気は、実績に比べて異様なほどに高く、何故なのかと不思議に思ってしまいます。ちなみに、源義家は、石清水八幡宮で元服した長男であたことから、八幡太郎と呼ばれました。

父・頼義に従って前九年の役(1050年)を戦い、出羽・清原氏の加勢を得て勝利します。その後、白河天皇の警護役として活躍します。陸奥守になった義家は、清原氏の内紛に介入します。後三年の役(1083年)です。これが朝廷から私闘とされ、恩賞がないばかりか、4年に渡った戦の間に陸奥守としての官物の貢納が滞り、義家の負債となります。それから十年後、負債を完済した義家は、白河法王の意向によって昇殿が許されています。義家には荘園の寄進が多く、また荘園を巡る争いも絶えなかったようです。荘園主たちは、当代随一の武士として名高い八幡太郎義家に荘園を寄進し、自分たちは荘園の管理者として残ります。その仕組みは、誤解を恐れずに言えば、みかじめ料のようなものだったのでしょう。

大化の改新以降、日本の土地制度は公地公民を基本としていましたが、公職遂行の財源としての田畑、あるいは開墾した土地の私有が認められ、私有荘園が広がっていきます。荘園は皇族や公家が所有していましたが、義家の時代になると、下級官吏に過ぎなかった武家が所有する荘園も広がりを見せます。つまり、武家が、明らかに貴族に対抗する勢力として形を成した時代と言えます。また、平将門の頃までの武士は、あくまでも個人単位であったものが、義家の頃には、一族郎党を率いる集団となり、その集団が重層化していったようです。つまり、将門は武士の台頭を象徴し、義家は貴族に対抗する勢力となった武家の存在を象徴していると言えます。その代表格が河内源氏であり、その領袖としての義家は、いわば武家の祖とも言える存在だったわけです。義家の子孫は、鎌倉幕府、そして室町幕府を開くことになります。

家康は、武力と政治力で幕府を開きましたが、やはり正統性にもこだわり、八幡太郎義家の系譜が欲しかったわけです。一般的には、武士の始まりは藤原秀郷とされています。将門を討ち、高官となった秀郷は、都と坂東に大きな勢力を持ち、実に多くの後裔氏族を生んでいます。しかし、秀郷が武士の始まりとは腑に落ちない話です。武士の起源には、自衛する農民説、朝廷警護の下級官吏説等があり、秀郷以前から存在していたはずです。その後、武士は武家を構成していくわけですが、その始まりは八幡太郎義家ということになります。ところが、羽曳野市にある河内源氏三代の墓は、いささか寂しいものです。家康はともかくとしても、鎌倉幕府や室町幕府が墓を整備し、立派なものにしていても不思議はないと思うのですが。(写真出典:nagoya-info.jp)

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