2020年10月31日土曜日

アフガンの女司令官

若き日のビビ・アイシャ
ニューヨーク・タイムスの「アフガン二スタンの無敗の女性司令官の降伏が意味するもの」という記事に驚きました。無敗の司令官の降伏ではなく、アフガンに女性司令官がいることに驚きました。正確には軍人ではなく、アフガン北部の部族軍を率いる女性リーダーです。1979年のソビエトによるアフガン侵攻時、ソビエト特殊部隊を撃退して有名になり、その後もタリバンと戦い続け、無敗を誇ってきたと言います。もちろん、今や女性兵士が前線で戦う姿は珍しいものではなくなりました。ただ、戒律の厳しいムスリムの世界にあっては極めて異例と言わざるを得ません。

”司令官”ビビ・アイシャは、鳥のような優雅な動きで敵を殺すことから「カフター(鳩)」と呼ばれているそうです。部下の兵士は、皆男性で50~150名程度と言われます。アフガンでは超有名人で、アフガンにおける女性の地位を大きく変えた人物と言われているそうです。彼女は「戦士の心を持っていれば、男でも女でも関係ない」と話しています。かつて、彼女は、タリバンの指揮官と渡り合った際に「もし私がお前を拘束したら、ロバに乗せ、女に負けた男としてさらし者にする。もしお前が私を拘束したら、女を拘束した男として皆から批判されるだろう」と言ってのけたそうです。女性司令官ならではの話です。

ムスリムの世界では「女に殺された者は天国に行けない」と言われるそうです。19年に公開された実話に基づく映画「バハールの涙」に出てくる話です。バハールはイラクのクルド人自治区の弁護士。ISの襲撃で、夫を殺され、息子は連れ去られ、自身も性奴隷化されます。命からがら逃げだしたバハールは、息子を奪還するために、同じ境遇の女性だけを集め「太陽の女たち」なる部隊を組成し、ISと戦います。殺されたら天国に行けないことから、ISの戦闘員たちに恐れられる存在になっていきます。ビビ・アイシャも、同じ強みを持っていたものと想像できます。

この10月、タリバンは「彼女が“高く飛び続けた”日々は終わりを迎えた」と、ビビ・アイシャの降伏を宣言しています。タリバンに包囲されたビビ・アイシャは降伏を認めたようですが、彼女の息子は、あくまでも停戦であって、降伏ではないとコメントしているようです。既に70歳を超え、膝を痛めたビビ・アイシャは寝たきりの状態にあると言います。かつてのように先頭に立って戦えなくなったことが、初の敗戦につながったのでしょう。

ビビ・アイシャの一族には、流血の内部抗争の歴史があります。今回、ビビ・アイシャを降伏に追い込んだタリバンの司令官は、かつて彼女に追放された一族の者だといいます。その後、タリバンに合流し、司令官にまで昇進したようです。となると、今回の戦闘は、タリバンと部族との戦闘ではなく、部族の内部抗争と見ることもできるかも知れません。いずれにしても、アフガンで続く混乱の根深さを物語っています。(写真出典:hazara.net)

2020年10月30日金曜日

「ようこそ映画音響の世界へ」

 2019年アメリカ    監督:ミッジ・コスティン

☆☆☆+

冒頭に語られる「映画は映像と音響でできている」というメッセージに驚きました。確かにそのとおりです。本作は、映画における音響の歴史をたどるドキュメンタリーです。歴史を作った映画監督たちは音響にもこだわり、歴史を作った映画は音響的にも革新的であったことが、よく分かります。改めて映画における音響の重要性を教えられました。ミッジ・コスティン監督自身も音響デザイナーであり、多くの映画の音響を担当してきたようです。それだけに、よく整理され、よく構成されたドキュメンタリーになっています。映画ファンにとっては、たまらなく魅力的な映画だと言えます。

映画の誕生とともに、映像に音響をつける試みがなされたようですが、同期をとることが難しく、弁士や生バンドに頼らざるを得ませんでした。初の長編トーキー「ジャズ・シンガー」が公開されたのは1927年。その音響はレコードに録音され、映像と同期させる機械を使っています。その直後、フィルムに音響を収録するサウンド・トラックが発明され、現在に至ります。ちなみに本作でもクリップされている「ジャズ・シンガー」の有名なセリフが「You ain't heard nothin' yet!」です。初めてのトーキーにふさわしい歴史的名セリフです。ちなみに、和田誠は、これを「お楽しみはこれからだ」と訳し、映画の名セリフを集めた人気シリーズの書名にしました。

1933年の「キングコング」では、音響技師が、存在しない巨大生物の声をつくる必要に迫られます。ライオンの吠える声をスロー再生し、トラの鳴き声を逆再生して重ねる等して、キングコングの声が作られます。技師の執念にも近いこだわりに脱帽です。ただ、映画会社は、音響に関しては感心が低く、コストのかからないストック音源を使いまわす時代が続きます。つまり、どんな銃で撃っても、同じ音がしたわけです。大きな変化は、ラジオから始まったと言います。オーソン・ウェルズのラジオ・ドラマです。特に1938年の有名な「宇宙戦争」は、あまりの臨場感に、警察への問合せ電話が殺到したと言います。

その影響は映画にも広がり、音響が持つ表現力や観客への影響力の大きさが認識されました。以降、映画の音響技術は、ステレオ化、サラウンド・システム、マルチトラック化、デジタル化へと進化を続けています。興味深かったのは「スターウォーズ」の音響です。ジョージ・ルーカスが生音源にこだわったため、音響担当のベン・バートは、1年近く、様々な音源を生録したと言います。また、ルーカスは、R2D2について、何を言っているのか分かるようにしたい、と要求。数か月間、悩み抜いたベン・バートは、言葉とは音の表情だ、抑揚が意味を伝える、ということを発見。そして自らの言葉にキーボードの音を重ね、R2D2の音が生まれます。

映画音響は、言葉、効果音、音楽で構成されます。監督には、音楽を一切使わないという選択肢もあります。本作でも「スリルを高めるなら音楽は使うな」というフレーズが出てきます。近年の音楽の無い映画で最も高く評価されたのはコーエン兄弟の「ノーカントリー」だと思います。ドライでリアルな緊張感を持続させるために、音楽を使わないという選択が実に効果的でした。これも映画音響の奥深さを伝える話の一つなのでしょう。(写真出典:eigaonkyo.com)

2020年10月29日木曜日

ロマンスカー

私は、鉄道ファンというわけではありませんが、小田急ロマンスカーだけは、心惹かれます。恐らく、若いころ、小田急沿線に住み、しばしば見かけるロマンスカーに憧れていたからなのでしょう。その頃は、3100形NSE車、7000形LSE車と呼ばれる赤い塗装に展望車両のある車体でした。ロマンスカーと言えば、やはりこのスタイルだと思っています。赤いロマンスカーの車内サービスでいただくミルク・ティーも美味しく感じたものです。

小田急は、戦前からロマンスカーという言葉を使っていたようです。ただ、その当時は、固有名詞ではなく、正式にロマンスカーと命名されたのは戦後でした。ロマンスカーのルーツは、やはり戦前、新宿ー小田原間をノンストップで運行されていた「週末温泉急行」だとされます。1950年、小田急は箱根登山電車の箱根湯本駅への乗り入れを実現し、本格的に箱根開発に乗り出します。民間の鉄道事業は、阪急電鉄の小林一三が始めた宅地・レジャー一体開発が基本。小田急にとって、江の島と箱根の開発は、創業目的でもあるわけです。

1955年、小田急は、芦ノ湖畔の「山のホテル」を参加におさめ、ハイソサエティ向けのリゾート・ホテルとします。山のホテルは、1911年、三菱財閥の岩崎小弥太の別荘としてスタートします。そもそもは、欧州視察から戻った岩崎弥太郎が、古くからの温泉地である箱根を日本のリゾートにしようと発想したようです。小弥太の別荘は、火災で焼失後、ジョサイア・コンドルの設計で、アルプス風の石造りの建屋になります。それも関東大震災で崩れ、木造で再現。戦後に至り、ホテルとして開業しています。つつじで有名な庭は広大なものですが、それでも小弥太の別荘時代の半分以下だそうです。

高度成長期を迎えると、レジャー・ブームが到来します。ロマンスカーによる箱根観光も活況を呈するわけですが、例えば、社員旅行で大混雑の熱海とは多少異なる風情がありました。小田急は山のホテルを擁することで、別荘地箱根の高級感を維持することができたのでしょう。それがロマンスカーのステイタスや特別感につながったものと考えます。かつてほどではないにしても、山のホテルは、今でも上質感のあるいいホテルであり、高所得層のリピーターが客層の主体だとも聞きます。

21年春、小田急は、海老名にロマンスカー・ミュージアムをオープンする予定と聞きます。多くの鉄道ファンや子供たちが集まることでしょう。そして、おそらく高度成長期の企業戦士だった老人たちも多く訪れるものと思われます。(写真出典:excite.co.jp)

2020年10月28日水曜日

モンティ・ホール問題

モンティ・ホールは、アメリカのTVの人気ゲームショー「Let's Make a Deal」の司会を永年やった有名人です。1990年、このゲームショーがもとで、数学界を巻き込む大論争が勃発します。いわゆる「モンティ・ホール問題」です。きっかけは、雑誌「Parade」の人気コラム「Ask Marilyn」への投書。Marilynとは、マリリン・ヴォス・サヴァント。著名なコラムニスト、作家ですが、なによりもギネスが認定した世界一知能指数の高い人として有名でした。IQ値は228。アインシュタインですら、推定160~190です。

投稿のもとになったのは、新車を当てるゲームです。3枚のドアがあり、1枚には新車、残り2枚にはハズレの意味でヤギが隠されています。新車のドアを選択すれば、新車がもらえます。挑戦者は、まず1枚のドアを選びます。その時点で司会のモンティ・ホールが、残り2枚のうち、ヤギのいるドアを1枚開けます。ここで、挑戦者は、最初の選択を変える権利が与えられます。投稿者がマリリンに質問したのは、挑戦者は選択を変えるべきか、変えないべきか、というものでした。マリリンの答えは、ずばり「変えるべき。その方が新車が当たる確率が倍になるから」というものでした。

直観的に言えば、マリリンの答えには違和感があります。開いていない2枚のドアには、新車かヤギがいるわけで、確率は半々となります。この答えが問題となり、ついには数学界の大御所たちも参戦して、マリリンの答えは間違いだと大騒ぎになります。最終的には、コンピューターを使った分析までが行われ、マリリンが正しかったことが証明されます。数学的には前提が不十分だったり、統計上の事後確率の問題であったりとか、難しい話もあります。また、数式を使った説明も多いのですが、実は、とても単純な話のように思えます。

数学者も含め、多くの人たちは、どっちのドアに新車があるのか、という問題だと勘違いしたのではないかと思います。それなら確率は、半々に決まっています。ところが、そもそもの問題は、最初の選択を変えるべきか否か、ということです。最初の選択で新車が当たっている確率は1/3です。一方、ハズレの確率は2/3です。モンティ・ホールがヤギのドアを開けようが、開けまいが、これは変わりません。2回目の選択での確率は半々で決まっていますから、1回目の選択を変えた方が当たる確率は倍になるわけです。図に描いてみれば分かりやすいと思います。

アメリカ人は、IQ好き。多くの有名人がIQを公開しています。IQはエンジンの回転数に例えると分かりやすいと思います。エンジンの馬力は、”回転数Xトルク(軸を回す力)”で求められます。IQ=回転数が高くても、トルクがゼロであれば、馬力はゼロです。IQの高い人が、仕事や学業で結果を残せるとは限らないわけです。ただ、近年、IQの測定は、判定法によるブレも大きく、あまり意味はないと言われます。マリリン自身も測定は無意味だと発言、ギネスもIQ世界一の記録を抹消しています。(マリリン・ヴォス・サヴァント 写真出典:discogs.com)

2020年10月27日火曜日

「バナナ・パラダイス」

 1989年台湾   監督:ワン・トン

☆☆☆+

台湾映画と言えば、写実的に、淡々と日常を描写しながら、台湾社会を浮かび上がらせる、といった傾向の作品が多いように思います。そうした台湾映画の特徴を生み出す台湾の歴史や文化は何なのか、と考えたことがあります。答えは簡単でした。それは、台湾映画全ての特徴ではなく、80年代以降の台湾映画のほぼ全てが、エドワード・ヤンやホウ・シャオシェン等による台湾ニューシネマの影響下にあるということです。本作は、異なります。台湾映画の重鎮ワン・トンの89年の作品である本作は、ニューシネマ前世代の映画と言えます。

ストーリーは、山東省出身の兄弟が、国民党軍とともに、バナナ・パラダイスと呼ばれた台湾に渡ってくる。スパイ容疑をかけられた兄弟は脱走、弟はひょんなことから他人に成りすまし、その他人の妻子と暮らし始める。精神を病んで農家に居候していた兄も引き取り、公務員として台湾の成長期を生き抜く。改革開放後、本土に残る成りすました他人の実の父親と電話で話すことになり、実は妻も成りすましていたことが分かる、というものです。

兄弟と妻は、幹部ではなく一般外省人の象徴です。故郷を遠く離れた言葉も通じない台湾、パラダイスと呼ばれるがパラダイスではない台湾での生活は、明らかに仮住まい。その土地で、活発な兵士だった兄は精神を病み、弟と妻は別な人間として人生を送らざるを得ない。外省人が抱き続けたであろう違和感を直接的に表現しています。近年は、外省人も三世代目となり、もはや外省人も内省人もなく、すべて台湾人だと聞きます。ただ、反攻大陸を叫びながら内省人に対しては恐怖政治を敷いた第一世代、それを継承しつつも微妙な立ち位置に不安感を募らせた第二世代、両世代は常にロープの上を歩んできたとも言えます。

有名な「犬が去って、豚が来た」というフレーズは、日本が去り、国民党が来た、という意味です。国民党軍の統制はとれておらず、強盗、婦女暴行、腐敗等が頻発します。これに反発した内省人の抵抗は、 1947年の二・二八事件以降、白色テロとも呼ばれる国民党の恐怖政治によって弾圧されます。台湾ニューシネマの名作、ホウ・シャオシェン監督の「非情城市」(1989年)は、 この二・ニ八事件を内省人の目線で描いています。 同じ年に公開された本作は、国民党幹部ではなく一般外省人の苦難を描くという好対照をなしています。

本作の前半は勢いのある展開を見せ、後半ではテンポを落とします。1960年前後、国民党のテーゼである「反攻大陸」は現実味を失い、外省人はアイデンティティの危機に直面します。映画のテンポの切り替えは意図的なものでしょう。ちなみに、エドワード・ヤン監督も、4時間という大作「牯嶺街少年殺人事件」(1991年)で、60年前後の第二世代にあたる少年少女たちの漠たる不安を描いています。それは、第一世代の不安の反映でした。(写真出典:eiga.com)

2020年10月26日月曜日

パン祖

江川担庵
パン祖と呼ばれるのは、幕末の伊豆韮山代官、江川坦庵こと江川英龍です。江川家は、鎌倉時代から続く名門。36代目にあたる坦庵は、二宮尊徳を招いて農業改革を進めたり、領民に種痘を行うなど、領民のための政策を進め、大いに慕われていたようです。一方、幕臣として沿岸防備の強化に努めた人でもあります。海防を進めるなか、兵士の兵糧としてのパンを開発しました。これがパン祖たる所以です。当時のパンに近いものを食べたことがありますが、乾パンに近く、食べられた代物ではありません。あくまでも兵糧ですから、日持ち優先の固焼きだったわけです。

パンの日本への渡来は、 1543年と記録されます。種子島に鉄砲とともに伝えられました。 その後、 キリスト教の禁教令とともにパンの製造も禁止され、 広まることがなかったとされます。ただ、 当時の日本的食事のなかには、 パンの居場所が無く、 一般化しなかったというのが実際のところだったと思われます。 稲作が困難だった寒冷地や山間部に伝わっていれば、 根づいていた可能性もあります。江川担庵の兵糧パンを別として、商業ベースのパンの製造は、1860年、横浜の外国人居留地にオープンした日本初のホテル、横浜ホテルで始まっています。

江川担庵は、蘭学を学んでおり、早くから海防の必要性を訴えていたようです。高野長英、渡辺崋山等の蘭学者が集った尚歯会にも参加しています。また、西洋砲術の高島秋帆にも弟子入りしています。 幕府は、西洋に対するに、西洋の知識を持って臨むという方針で蘭学者を重用しますが、保守派の抵抗も強いものがあり、せめぎ合いがあったようです。東京湾に残る台場は、江川担庵が作った砲台です。また、砲身を作るための反射炉も作りました。世界遺産に登録された韮山反射炉です。

また、江川担庵は、近代的な兵制の必要性も認識しており、領地である武州多摩で自ら西洋式の農兵を組織しています。後に、この地で、農民近藤勇が新鮮組を組成したのは、単なる偶然ではありません。また、農兵を訓練する際、気をつけ、前へならえ、右向け右、といった今に続く号令を作ったとされます。もとになったのは、高島秋帆から習ったオランダ式の号令だったようです。兵糧としてのパンという発想も、蘭学と農兵から生まれたわけです。

江川担庵は、明らかに日本の近代化に貢献した人です。幕臣にして蘭学者という立ち位置が重要なポイントなのでしょう。ただのパン祖ではありません。福沢諭吉は、英雄とまで言っています。にもかかわらず、知名度はいま一つと言わざるを得ません。一説によれば、名だたる国防論者としての江川担庵をGHQが教科書から排除したからとも言われます。それはそうかもしれませんが、江川担庵が、生涯変わらぬ攘夷論者であったことも関係していると思われます。蘭学者たちが、軒並み、開国論へと進むなか、一人海防論にこだわり続けます。江川家の拠って立つところである幕府という存在を超えられなかったのでしょうか。変革期にあっては、組織の壁を打ち破った者たちが、英雄として名を残すものです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2020年10月25日日曜日

TAKE IVY

男性ファッション雑誌 "MEN’S CLUB(メンクラ)" の”街のアイビーリーガース(街アイ)”は、大人気コーナーでした。街角のおしゃれな一般人のスナップ集ですが、そこに掲載されることは、アイビー・ファンの憧れでした。70年代に起きた第二次IVYブームの頃、私も、撮影予告のあった場所へ、精一杯のおしゃれをして出かけたことがあります。残念ながら、掲載されませんでした。それはそうです。当時、普通の学生ができるおしゃれといえば、せいぜいがメンクラ掲載の写真かVANのマネキンのものまねでしかないわけで、掲載には値しません。

IVYリーグ・ファッションは、1950年代後半、アメリカ東部の大学のキャンパスから始まります。IVYリーグは、プリンストン、ハーバード、コロンビア等、東部の歴史ある名門大学8校で構成するフットボール・リーグです。IVYリーグの学生たちは、英国のオックスフォード大のファッションに憧れ、それをアメリカ的に展開しました。スーツからカジュアル・ウェアまで幅広くキャンパス・ライフをカバーします。上質でこざっぱりとした印象が特徴です。ブルックス・ブラザース、J・プレス等、アメリカン・トラディショナルのブランドが中心。後に登場するポロ/ラルフ・ローレンは正当な後継ブランドと言えます。

アメリカの安定と成長の50年代後期は、様々な若者の文化が花開き、ファッションも多様化した時代でした。ロックロール、バイカース、サーファー、ビートニク等、旧体制に否定的な文化が広がる中で、あえてトラディショナルというあたりが東部エスタブリッシュメントの矜持を感じさせます。要は、IVYリーグ・ファッションとは、東部のお金持ちの子弟のエリート意識に裏打ちされていたわけです。時代は異なるものの、ハーバード卒のジョン・F・ケネディのファッションが代表かも知れません。ブルックスのスーツやニューイングランドの富裕層の生活を感じさせるカジュアル・ウェア等は、実にIVYな印象です。

日本では、60年代に第一次IVYブームが起きます。石津謙介のVANジャケットとメンクラのコラボが主導しました。メンクラの街アイは63年スタートです。65年には、IVYリーグのキャンパスに取材した伝説の写真集「TAKE IVY」も出版されます。IVYルックのバイブルでした。64年、「平凡パンチ」が発刊し、IVYの知名度はさらにアップ。IVYファッションに身を包み、VANの紙袋を小脇に抱えて、銀座のみゆき通りを意味もなく歩くみゆき族も登場します。

メンクラは、アイテムのディテールを細かく伝えていました。例えば、ジャケットは、三つボタン段返り、ナチュラル・ショルダー、絞りのないウェスト、パッチ&フラップ・ポケット、ベント・フック、アウト・ステッチ等々。これがマニアックなブームにつながった面があります。そしてそれが、有名デザイナーはじめ、後に日本のファッション界をリードする多くの人材を生み出します。IVYブームは日本のファッション・ビジネスのゆりかごだったと言えます。IVYブーム自体は遠い昔の話ですが、ファッションは、今もアメリカン・トラディショナルとして立派に引き継がれています。(写真出典:amazon.co.jp)

2020年10月24日土曜日

九絵

大相撲の九州場所に関するエピソードには、よくアラ鍋を食べる話が登場します。高級魚のアラに力士はつきものと思っていました。昔の話ですが、福岡に赴任した先輩にアラを食べたかと聞くと、水揚げが少なく、滅多に食べられるものではないとのこと。割烹の常連客が「アラを食べる会」を作っており、入荷した際には20人くらいでアラ鍋を食べるとの話でした。それを聞くと、一層食べてみたくなりました。

九州ではアラ、全国的には九絵(クエ)と呼ばれます。十数年前、関西の料理屋で、九絵の煮物を何度か食べました。憧れの魚だったので感動しました。同じ高級魚のハタ科の魚らしく、淡泊ながらうま味があり、食感のよい魚でした。店の人に、鍋で食べてみたいと言うと、入荷が限定的、かつ高価なので難しいとのことでした。ところが、その後、各地で養殖に成功し、比較的安定的に食べられるようになりました。まだ出荷量も多くはないので、お安くというわけにはいきませんが。

あまり知られていないようですが、静岡県の御前崎では、県が中心となり20年以上前から九絵の養殖を行っています。御前崎では温水を使って養殖していました。温水を使うと、餌の摂取量が倍になり、生育が早いのだそうです。やや気になったのは、その温水が浜岡原発の冷却水だということです。もちろん、まったく汚染されていない温水であり、食用には問題ありません。頭では理解できるのですが、なんとなく気になりました。原発が稼働していない今、九絵の養殖はどうなっているのかな、と思います。

最近は、マグロの養殖で名を挙げた近大が、和歌山県で九絵の養殖もおこなっており、「紀州本九絵」というブランドで出しています。九絵の養殖は、なかなか難しいものらしく、冬場は紀州から奄美大島へ移して育てると聞きます。それにしても近大の養殖技術は見事なものです。マグロ、九絵の他にも多数取り組んでおり、あなごもブランド化しているようです。あくまでも噂話ですが、近大と和歌山県は共同で、イルカの養殖も試みていると聞いたことがあります。シーシェパード等からの批判に対応してのことなのでしょう。

養殖の広まりとともに、最近は、東京でも九絵を食べることができます。なかには天然をうたっている店もあります。もちろん冷凍でしょうが。数年前、和歌山で、寿司、刺身、から揚げ等に、最後は鍋という九絵づくしコースを食べたことがあります。当初、養殖ものと聞いていたのですが、当日、店に行くと、今日は天然ものが入った、どうする? と聞かれたので、迷わず天然ものでお願いしました。どの皿もとても美味しくいただきましたが、やはり鍋が絶品だと思いました。できれば年に一度くらいは食べたいものだと思います。ふぐ鍋と九絵鍋、いずれかと言われれば、おそらく九絵鍋を選ぶと思います。(写真出典:nagasaki-sasara.net)

2020年10月23日金曜日

オフサイド

かつて英国では「女はオフサイドを理解できない」と言われていたそうです。もちろん、そんなことはありません。待ち伏せは卑怯な行為であるという紳士的な発想に基きオフサイド・ルールは誕生した、よって女性には理解できない、ということだそうです。確かに、オフサイド導入には、そういう面もあったのでしょうが、実際は、ゲームを面白くするためだったと思われます。

フットボールの起源は諸説ありますが、現代のサッカーやラグビーにつながるボールゲームは中世のヨーロッパから始まったようです。文献上の初出は、10世紀、ネンニウスがウェールズで書いた「ブリテン人の歴史」と言われます。恐らくそれ以前からボール遊びは存在していたのでしょう。ローマが持ち込んだという説もあるようです。中世のフットボールは、村や町の祭りとして、数千人単位で行われていました。ルールらしきルールもなかったとされます。その当時のフットボールを偲ばせるのが、今でも行われているフィレンツエのカルチョ・フィオレンティナです。ボールは使いますが、ほぼ格闘技です。

19世紀になると、フットボールは英国のカレッジやプレップ・スクールで盛んになり、ケンブリッジからルール化が始まります。他にもルールが作られていったため、統一を図るべく、1863年にフットボール・アソシエーションが設立されます。その際、ルールの統一に関する議論のなかで、ボールを持って運ぶこと、脛を蹴ることが禁止されます。それに反対した一部が離脱、現在のラグビーへとつながります。その際、オフサイドについても統一ルールが定められます。

それ以前のオフサイド・ルールは、前方へのパス禁止だったようです。これはラグビーに受け継がれているわけです。1863年の会議では、前方へのパスが認められ、その代わり3人制オフサイドが導入されます。パスを受ける攻撃側の選手よりゴールライン側に守備側の選手が3人いれば前方にパスをしていいというものです。その後、1925年に至り、現在の2人制、つまりパスを受ける攻撃側選手よりキーパーと守備側選手1名以上がゴールライン側にいればパスできる、と変わりました。

以上は、あくまでも基本形。実際のゲームでは、常に選手たちは動いているので、実に様々なケースが生まれます。待ち伏せはいけないという理念はいいのですが、あらゆるケースをルール化すると、おそろしく複雑なものになります。日本には法の趣旨という考え方がありますが、欧米はあくまでも明文法が基本。書かれているものだけがルールになるので、複雑化します。「女は理解できない」どころか、選手ですら全てを理解しているとは思えません。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2020年10月22日木曜日

憂国

 1945年8月15日早朝、陸軍大臣阿南惟幾は、終戦の玉音放送を聞くことなく、自宅で割腹自殺します。「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」と書かれた半紙が、血のあとも生々しく残されていました。千年続いた武家社会が終わりを告げた瞬間であり、阿南惟幾陸軍大将は最後の武士であったと思います。

それから25年後の11月25日、 三島由紀夫と盾の会は、自衛隊市ヶ谷駐屯地の東部方面総監部を不法占拠します。三島は、バルコニーから自衛隊員に決起を呼びかけた後、 割腹自殺します。 ニュースは、 全国に衝撃を与えます。 私も 驚きはしましたが、 三島ファンとして、その行動は理解できないものではありませんでした。 国としての心と形を失った漂流国家日本を憂い、 国民に警告を発するための行動だったと理解します。いわば、 一死以て憂国を問う、 ということでしょうか。

それは、まさに三島の大義でした。バタイユではありませんが、人間が連帯感を求めて生きるのだとすれば、大儀に殉ずることは最上の死に方であり、エロティシズムの極致です。加えて、戦中派の独特な死生観があります。秩序や価値観の崩壊とともにアイデンティティの危機に直面したアプレゲール(戦後派)、あるいは変化を受け入れず過去の価値観に拘泥するアヴァンゲール(戦前派)とは異なり、戦中派は、一度死を覚悟して、死ねなかった人々です。おのずと死との向き合い方が、他の人々と異なります。

死と向き合った結果としての行動は、人によって異なります。ただ、多くの戦中派は、潜在的に、死に時、死に場所を探していたように思えます。高級官僚の家系に生まれ、学習院高等科主席卒業、東大法学部卒業というエリートであった三島も、例え天才的文学少年だったとしても、その傾向は同じだったのでしょう。さらに病気のために出征できなかったことに、家族は喜んだにしても、本人は「死ねなかった」という思いを強く持ったはずです。大義に殉ずるという解きがたいマインド・コントロールにかかっていたとも言えます。

三島の憂国論や”国体”という言葉は、極右思想や軍国主義と同列に見られる傾向があります。明治維新の際、薩長が中央集権化を進めるために打ち出したのが国体論であり、帝国陸軍が上手に利用したとも言えます。だからといって国体と軍国主義を同一のものとして批判することは間違いだと思います。国体を、国の、そして国民の拠って立つところと考えれば、国体の無い国など国として成りたたないとも言えます。三島の死から50年。マスコミに三島特集が組まれています。その美しい文体を語るだけでなく、国体を議論するきっかけもなってくれれば、と思います。(写真出典:zakzak.co.jp)

2020年10月20日火曜日

喜劇王

「あなたの最高傑作は?」と聞かれた喜劇王チャーリー・チャップリンは、「Next One(次回作)」と答えたという伝説があります。茶目っ気たっぷりとも、商売上手とも取れますが、私には、生真面目な映画人チャップリンの向上心の現れのように思えます。

チャーリー・チャップリンは、1889年、俳優夫婦の次男として生まれます。誕生直後に親は離婚。母親に育てられたチャップリンは、母親の代役として5歳で舞台に立ちます。その直後、母親は精神を病み療養所に入れられます。残された兄と幼いチャップリンは、手間賃仕事をこなしながら生きていきます。この時の経験が喜劇王チャップリンを作ったとも言われます。10歳で劇団に参加し、20歳前には人気俳優になっていたそうです。

アメリカへ巡業した際、無声喜劇映画の帝王マック・セネットの目にとまり、キートン・スタジオ入りしたのが24歳の時。ほどなく山高帽、ちょび髭、タイトな上着、ダブダブのズボンとドタ靴という独特のスタイルを生み出し、超売れっ子となります。デビューから、わずか3年で、チャップリンは、監督・脚本もこなすようになり、年収は、米国大統領の7倍を超えたと言います。そして第一次大戦特需を背景にローリング・トゥエンティーズ、狂騒の20年代を迎えると、チャップリンの映画はアメリカのみならず世界中で大ヒット。世界で知らぬものとていない映画人となりました。

市井の人々や虐げられた人々に対する目線はチャップリン映画の特徴です。笑いとペーソスという表現は、チャップリンの作風を語る際によく使われます。30年代以降、それはさらに純化され、ヒューマニズム、社会の矛盾、あるいは反戦が、チャップリン映画のテーマとなります。それが、冷戦を背景に1948年から本格化した赤狩りの餌食となります。容共的と判断されたチャップリンは、1952年、事実上の国外退去となります。アメリカ国民は政府を激しく批判しましたが、決定は変わらず、チャップリンは、スイスで隠居に近い生活を送ります。

1972年、チャップリンは、アカデミー名誉賞を受賞するために、20年ぶりに米国の土を踏みます。授賞式で舞台袖から登場した喜劇王を、会場はいつまでも終わらぬスタンディング・オベーションで迎えます。その際のチャップリンの感極まった表情は、彼のいかなる演技よりも強く印象に残りました。喜劇王の波乱に満ちた人生が凝縮されたかのような表情でした。そして、会場の全員が、チャップリン永遠の名曲「スマイル」を合唱し、彼の功績を称えます。涙無しには見れない最高のシーンでした。(写真出典:amazon.co.jp)

2020年10月19日月曜日

黒い庭

アゼルバイジャンのナゴルノ・カラバフ自治州を巡り、アゼルバイジャンとアルメニアは長く争ってきました。両国は帝政ロシアの崩壊とともに独立しますが、赤軍に敗れ、ソビエト連邦に組み込まれます。その際、アルメニア人が多く住むナゴルノ・カラバフ(山地の黒い庭)は、アゼルバイジャンの自治州とされます。アルメニアは、これに強く抗議、以来100年間、数次に渡る武力衝突も含め、紛争が続きます。同州は、1991 年「アルツァフ共和国」として独立宣言しますが、これは国際的承認がないままです。

この9月に再燃した紛争は、10月10日、ロシアの仲介で停戦したものの戦闘は続き、ロシアのプーチン大統領とトルコのエルドアン大統領が電話会談して、18日に再度停戦となりました。積年の恨みを持つアルメニア国民は武力対立を支持し、原油価格の低下で苦境に立つアゼルバイジャン政府も国民の不満を抑えるために強気の姿勢を崩せません。この紛争解決のため20年前に設置されたロシア・アメリカ・フランスによるヨーロッパ安全保障協力機構(OSCE)ミンスク・グループは、まったく機能していません。

ミンスク・グループが機能していないのは、米国は大統領選挙、フランスはコロナ対応に忙殺され、ロシアではプーチンの影響力が低下しているためと思われます。プーチン大統領は、野党指導者ナワリヌイ氏の毒殺未遂、ベラルーシの独裁者ルカシェンコ大統領の問題等でも苦境に立たされています。替わって影響力を強めているのがトルコです。トルコは、同じイスラム教国アゼルバイジャンと近い関係にあり、かつアルメニアとは古くからの深い因縁があります。

アルメニアは、最も古いキリスト教国であり、世界最古の都市の一つである首都エレバンは、エデンの園があった場所としても知られます。ただ、大国に周囲を囲まれた要所であるため、常に大国の干渉を受けてきました。オスマン・トルコの支配下にあった19世紀末にはアルメニア人虐殺が起こります。100~150万人が犠牲になったとされ、多くのアルメニア人が国を離れました。欧米の主要都市に必ずあるアルメニア人街の起源です。国連は、ジェノサイド認定していますが、トルコ政府は一切認めていません。また、ノアの箱舟で有名なアララト山はアルメニアの象徴とされますが、現在はトルコ領に編入されたままであり、アルメニアはこれを認めていません。

ロシアとトルコも長い対立の歴史をもち、近年はシリアやリビアでも対立してきました。ただ、この2年ほど、トルコはロシアのミサイルを購入するなど緊密な関係にあります。とは言え、大国トルコを目指すエルドアン大統領は、一筋縄ではいかない政治家。プーチンの影響力が低下しつつある今、この紛争を利用しないはずはありません。100年の紛争の趨勢を握るのは、トルコだと思います。トルコを含めた国際協議の場を早く設置すべきだと思われます。(エレバンから望むアララト山 写真出典:ja.wikipedia.org)

2020年10月18日日曜日

トップとアベレージ

 NYで仕事をしていた時のことですが、提携する大手保険会社の人事部長からランチに誘われました。業務上、直接関わりがないバック・オフィスの人たちと会うことは、ほぼ皆無だったので、意外なお誘いでした。私が、若いころ、人事部に所属していたことを聞きつけ、興味を持ったようです。彼は「日本の成功の要因は何か?」と聞きます。時は1980年代末、ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代でした。

ノーベル賞メダル
日本的社会主義や組織主義等が生む生産力の高さ、その大前提としての教育水準の高さが主な要因だろうと話しました。折しも、不法移民や新規移民を含めれば、実態的な米国の識字率は80%程度だというNewsweek誌の記事が話題になっていました。彼は、すかさず「それは平均的教育水準の話だろ。アメリカでは平均なんて何の意味もない。ノーベル賞受賞者はアメリカが圧倒的に多い」と言うのです。

言われてみみれば、確かに米国で統計的平均、アベレージと言う言葉は、ほとんど聞きません。日本人は、平均が大好きですが、米国人はトップとかベスト等がお気に入り。民族的にも文化的にも均一性の高い国と、歴史も浅く、他民族国家であり、何かと格差の大きい国との違いなのでしょう。もちろん日本にも格差は存在します。例えば経済的格差は、近年、拡大傾向にあります。それでも、欧米に比べれば、まだ小幅です。山がちで狭い国土、無常観に基づく文化、教育水準、あるいは社会主義的な体制等々も均一性を高めているのでしょう。

さらに、歴史的に見れば、世襲的な身分制度としての奴隷制の有無も大きな要因だと思われます。日本にも奴隷は存在し、人身売買も行われてきました。小作農も農奴に近いとも言えます。ただ、日本における奴隷は、身分制度として確立せず、日本の社会は一定程度の流動性が確保されていたと考えます。それは島国で、均一性の高い民族構成ゆえかもしれません。例えば、古代ローマの奴隷の供給源は敗戦国であり、パクス・ロマーナの時代になると供給は細り、人身売買や農奴制が生まれています。武力制圧した他国や他民族でなければ、奴隷化しにくかったということなのでしょう。

知識偏重、詰め込み型だった日本の教育は、その反省から90年代には「ゆとり教育」導入、それによる学力低下が問題となり、2010年代からは「脱ゆとり」の時代に入っています。ノーベル賞受賞者数は、依然として米国が圧倒的多数。ただ、2000年以降、日本は、米国、英国に次ぐ多数の受賞者を出しています。ま、教育行政と研究環境は関連する部分もありますが、別の問題だと思いますが。(写真出典:share.america.gov)

2020年10月17日土曜日

偽作の動機

偽書も様々ありますが、ここでは歴史資料系、つまり歴史を変えるような内容の偽書について書きます。そもそも歴史資料は、古いものほど真贋の判断が難しいようです。多くの偽書は、写本とされ、原典は失われているとするものが多く、物理的な時代判定は不可能です。設定が古いほど、参照できる記録や物証も乏しく、確定している歴史との齟齬、あるいは固有名詞や表現に後世のものが含まれていないか等が判定基準となるようです。学会で、しばしば意見が分かれるのも頷けます。

偽書と判定されたものには、歴史ロマンをくすぐる魅力的な代物が多いようです。歴史に"If"はない、と言われますが、偽書は"If"や仮説のかたまりです。偽書が魅力的である理由は、ある意味、皆の夢が詰まっているからだと思います。ただ、私が不思議に思うのは、その作成動機です。例えば、古事記や日本書紀以前の歴史を偽作しようとすれば、ほとんど記録や参照資料がないので、偽作しやすいとも言えますが、真書に見せるためには、深く広い専門知識と膨大な作業を必要とします。ましてや神代文字で記述された偽書は、文字の創作から始めるわけで、気が遠くなる作業です。しかし、そのとてつもない努力に見合う報酬は何なのでしょうか。少なくとも金銭とは釣り合いません。

自分の家系等に箔をつけたい、というのなら分かりやすい動機です。天地開闢から推古天皇までの歴史が書かれた「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」、いわゆる旧事記は、古事記よりも物部氏に関する記載が多く、物部氏の復権、権威付けがねらいと言われます。また、キリストの墓やモーゼ渡来地等で世間を騒がせた「竹内文書」は天津教の経典ですが、その作成動機は天津教の箔付けなのでしょう。ただ、例えば、日本が中国に文字や農業を伝えたとする「上記(うえつふみ)」、あるいは朝廷と敵対した北奥羽の歴史が記載された「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」等に至っては、動機不明に近いものがあります。

「東日流外三郡誌」全600巻は、和田喜八郎の自宅の屋根裏から見つかったとされます。この時点で、既に胡散臭さ満載です。和田は、若いころ、古い仏像等を発掘して注目を集めています。近親者に問い詰められ、偽作と白状しますが、世間に知れることはなかったようです。ちょっとした成功体験と言えます。世間の注目を集める快感が忘れられなかったのか、偽作をなじられたことから世間を見返したかったのか、いずれにしても、膨大な作業量に見合う動機だったのでしょうか。もはや病的な印象すら持ちます。歴史資料などと言わず、歴史大作小説として発表していれば、和田喜八郎は、歴史に残る作家として、名誉も金も手にできただろうと思います。

「東日流外三郡誌」は出版されています。出版元の宣伝文には「すべてを否定することは難しい」とあります。偽書とされたことを逆手に取った素晴らしいキャッチコピーだと思います。ある意味、偽書の本質を見事に表現しているように思われます。(東日流外三郡誌 写真出典:asios.org)

2020年10月16日金曜日

黒塚

能楽「黒塚」は、15世紀中葉に初演されています。安達ケ原の鬼婆の物語は、その頃までにはよく知られた話になっていたのでしょう。奈良時代、熊野の阿闍梨東光坊祐慶が、一夜の宿を求めた岩屋で鬼婆に襲われるが、如意輪観音がこれを成敗、祐慶が供養して成仏させたという話です。鬼婆の墓が黒塚、祐慶が供養のために建てたのが観世寺、寺には鬼婆の岩屋とされるものも残っています。いづれも福島県二本松市に現存します。

有名な話ですが、実はこれは話の後段であり、前段が存在します。能楽等の影響で、後段だけが有名になったのでしょう。都の公家屋敷で乳母を務める岩手が、世話をする姫の重い病に人の胎児の生き胆が効くと聞き、生後間もない実の娘を残して旅に出ます。長旅の果てに安達ケ原に着き、岩屋で妊婦を待ちかまえます。そこへ現れた身重の若妻と夫。夫が薬を買いに出た隙に、岩手は若妻を殺し、胎児を得ますが、若妻が身に着けていたお守りに気づきます。それは都を出るとき、我が娘に与えたお守りでした。精神錯乱に陥った岩手は、以降、旅人を食べる鬼婆になりました。

安達ケ原で猟奇的な事件が実際にあり、言い伝えになったのかも知れません。前段は、後付けではないかと思われます。ただ、全体を通しで聞けば、前段こそ話のメインだとしか思えません。菅原伝授手習鑑のセリフではありませんが、すまじきものは宮仕え、ということでしょうか。恩ある菅丞相の子の身代わりとして我が子の首を差し出す松王丸とは状況は違いますが、宮仕えのために我が子が犠牲になったわけです。思えば、日本の高度成長期には、企業戦士たちの家族が、結構、犠牲になっていたようにも思います。今も昔も、宮仕えはすまじきものなのでしょう。

ちなみに、安達ケ原の鬼婆の伝承地は、二本松以外にも複数あります。最も有力な対抗馬だったのは、埼玉県。一時期、福島県と本家争いをしていたようです。ただ、昭和初期、未開の地だと思われることは不名誉だとして、自ら身を引いたそうです。ま、鬼婆伝承も悪いことばかりでもないとは思います。能楽「道成寺」について書いた際にも、蛇女はいても蛇男は聞かない、と言いましたが、鬼婆はいても鬼爺は聞きません。家父長制に対する潜在的脅威としての女性の現れなのでしょう。ただ、安達ケ原の鬼婆には特徴的なことがあります。それは鬼婆が、単に成敗されるのではなく、供養され、成仏しています。母親の子を思う気持ちへの敬意だと考えられるのではないでしょうか。(観世寺に残る岩屋 写真出典:bpspot.com)

2020年10月15日木曜日

蒲鉾

Go To トラベル・キャンペーンを活用して、平日の箱根へ行ってきました。驚きました。平日とはいえ、行楽シーズンの土日なみの大渋滞。ロマンスカーは空いていたので、コロナを気にして、近間へ車で出かけようという人が多いのでしょう。湯本の手前の風祭にある「鈴廣かまぼこの里」へ初めて行ってみました。大きな店内は、かまぼこのディズニーランド状態。ついつい爆買してしまいました。

なぜ小田原で蒲鉾製造がさかんになったのかというと、もちろん材料の魚が豊富であること、いい水があること、加えて箱根八里を越す際の保存食として重宝されたからだと聞きました。恐らく縄文時代には、魚の保存など考えもせず、その日に食べる分だけ漁をしていたと思います。農耕が始まり、余剰生産物を備蓄する文化が生まれ、魚の保存も発想されたのではないでしょうか。魚の保存は、干すか、焼くなど火を入れるか、あるいは馴れ鮨など発酵させることで、可能になります。

蒲鉾は、手間がかかり過ぎます。保存のために生まれた食品ではないと思われます。11月15日は「かまぼこの日」だそうですが、歴史的に見て、蒲鉾の初出は、平安時代の『類聚雑要抄』。関白藤原忠実の転居祝いの宴席に竹輪が献立として記録されているようです。これが1115年のことであり、11月15日をかまぼこの日に制定したとのこと。恐らく竹輪自体は、もっと古くから存在していたのでしょう。いつ、どこで、だれが発明したかは不明ですが、手間のかかり方からして、日常の保存食ではなく、ハレの日の御馳走だったのではないかと思います。

蒲鉾は、日本固有の食文化です。英語で蒲鉾は"Kamaboko" 。近年は"Surimi" の方がとおりがいいようです。近年、すり身の生産は急拡大しており、全世界で年間150万トン、うち日本が50万トンと聞きました。世界的に、栄養、保存、原材料の豊富さといった観点から優秀な食品と認識されているようですが、知名度をあげたきっかけは「カニカマ」でした。カニカマは、70年代に登場しますが、起源は諸説あります。しかし、現在主流のスティック状のものは、広島の大崎水産が最初だったようです。その後、宇部のヤナギヤが、製造機械を開発し、一気に広がったようです。

おりしも欧米の健康志向が高まった時期と重なり、寿司ブームをきっかけにカニカマは世界に広がり、定番化していきました。カニカマ製造機の発明が大いに貢献したわけです。現在、蒲鉾の多くは機械生産されます。それはそれで美味いのですが、やはり、いい魚で職人が丁寧に作った蒲鉾は、格別です。お高いですが、鈴廣の古今など、ほれぼれとする味です。ちなみに、鈴廣は、正月用に超高級蒲鉾も売っています。紅白二本詰めで18,000円。まさに関白の宴席クラス。うまいのでしょうが、さすがに庶民の手には届きません。(写真出典:kamaboko.com)

2020年10月14日水曜日

帝国の外

国の名称が、国内外で異なる国がどれくらいあるのか分かりませんが、G7に限って言えば、日本とドイツだけだと思います。日本の場合、自称は、日いづる国に由来するのでしょう。世界的にはジャパンと呼ばれますが、中国南方の発音ジーベンが欧州に伝わり、語源となったようです。マルコ・ポーロの東方見聞録にある黄金の国ジパングが起源という説は、日本人のお気に入りですが、全くのデタラメです。

ドイツは、自称ドイッチュラント。ドイッチュは、ゲルマン語の大衆を意味する言葉が起源だそうです。ドイツは、英語圏ではジャーマンと呼ばれますが、これはゲルマン人の土地という意味です。フランス語ではアルマーニュ。スペイン語のアレマニアも、ゲルマンの一派アレマン人の土地を意味します。東欧では古いスラブ語で言葉が話せない人を意味するネメックを語源とする呼称が主流です。これは、発語障害のことではなく、言っている言葉が分からない人々ということです。英語の野蛮人を意味するバーバリアンの語源となったギリシャ語のバルバロイも同様で、聞きづらい言葉を話す人、つまり他民族のことです。ギリシャ人には、他民族の言葉は、バルバルバルと聞えたのだそうです。

プロイセン王国旗

第二次大戦のおり、チャーチルは、ドイツを「帝国の外である」と言っています。帝国とはローマ帝国のことであり、要はラテン語圏外の辺境だと蔑んでいたわけです。ドイツ、日本の共通点は、産業革命が起きた時に、中央集権化が遅れていたことです。ドイツは、17世紀、三十年戦争で荒廃し、神聖ローマ帝国とは名ばかりの群雄割拠状態が続きました。そのなかで台頭してきたプロイセンが、オーストリア、フランスを破り、1871年にドイツ帝国を建国します。日本は明治維新で中央集権化が実現します。その後、日本とドイツは驚異的速さで近代化を遂げます。

それが実現できた大きな理由は、既に資本が蓄積されていたこと、そして国が主導した重工業化だと思います。農業国プロイセンは富国強兵のために、表面的とは言えユダヤ人の同化政策を行います。ユダヤ人が軽工業を発展させ、資本が蓄積されていきました。日本では、江戸期の安定により、商業資本が蓄積され、軽工業の技術革新も進んでいました。中央集権化が実現した後は、国家主導による重工業化と海外進出が本格化します。英国の産業革命は、軽工業から始まり、時間をかけて重工業へと展開しましたが、ドイツや日本は、いきなり重工業化が進んだわけです。

経済的に遅れていた国は、新しい技術と設備をもって先行する国に追いつき、追い越します。それも、いつかは陳腐化し、さらに新しい技術と設備に投資した国に追い越されます。経済はその繰り返し。「帝国の外である」などと言っている国は、その帝国の外の国に追い越されるわけです。(写真出典:wikipedia.org)

2020年10月13日火曜日

日に新たに

苟日新、日日新、又日新(まことに日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり)

中国の四書五経のうち「大学」が原典とされる言葉です。殷の湯王が、顔を洗う水盤に銘していた言葉とされます。今日の行いは昨日より新しく良くなり、明日の行いは今日よりも新しく良くなるよう心掛ける、といった意味です。石川播磨重工社長、東芝社長・会長、経団連会長、そして第二次臨時行政調査会会長を務めた土光敏夫が愛した言葉です。土光さんは、この言葉を「今日一日に全力を傾け、有意義な日を過ごす」と解釈していたようです。土光敏夫は、IHIの再建、東芝の再建、臨調で振るった辣腕と、数々の実績を残した昭和の大経営者。明治生まれらしく、謹厳実直、清廉潔白を絵に描いたような仕事ぶりと私生活でした。

入社間もないころ、「これを読め」と会社の上司から渡された本が、土光敏夫著「経営の行動指針」(1970)でした。東芝の社長時代、社内報に載せた短文を集めたものです。一頁一言の名言集になっており、読みやすかったこともあり、繰り返し手にとりました。日本の高度成長を支えた企業戦士の心情と行動を、最も純粋な姿で伝えます。会社の先輩たちは、行動は伴わずとも、気持ちのうえでは、皆、土光さんを目指していたように思えます。

売上と市場シェア拡大に向けて一直線に走ってきた世代の迫力はすごいものがありました。いわゆるモーレツ社員です。高度成長期を戦ってきた先輩たちの薫陶を受けながらも、オイル・ショック世代の我々は、多少の違和感を感じていました。高度成長は終り、オイル・ショックを経験し、経営は利益と顧客シェア拡大へと移行しつつありました。環境が変化したとは言え、先輩たちの成功体験に、我々の脆弱な理屈などかなうわけもなく、徒労感がつのる日々が続きました。

土光さんの言葉は、根性論・精神論も多く、企業戦士のバイブルのようでもあります。ところが、過激な言葉の裏には、時代を超えたビジネスの合理性があります。プラグマティズムこそ、土光さんの真骨頂のように思えます。いかに厳しくとも、抗し難い真実の言葉ゆえ、人は土光さんについていったのでしょう。さらに言えば、通勤はバスと電車、接待を受けず、質素な家で粗末な食事をとる、その清廉な私生活ゆえ、厳しい言葉も人に通じたのでしょう。NHKで放送された土光家の夕餉はメザシと菜っ葉。以降、「メザシの土光さん」とも呼ばれました。

私の好きな土光さんの言葉に「仕事の報酬は仕事である」というのがあります。藤原銀次郎の言葉だと、土光さんは言っています。人は、給料ではなく、働き甲斐で満足感を得る、という意味です。いい仕事をすれば、もっと面白い仕事がもらえる、とも言えます。人は、その循環のなかで育ちます。究極の人材育成論だと思っています。(写真出典:kakunist.jimdo.com)

2020年10月12日月曜日

雨月物語

 久しぶりに溝口健二監督の「雨月物語」(1953) をデジタル・リマスター版で見ました。ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞を獲得した日本映画を代表する名作です。人間の欲望の深さ、戦乱に翻弄される庶民の苦悩等を、日本伝統の美学をもって表現しています。原作は、上田秋成の「雨月物語」(1776年)ですが、全9編のうち、「浅茅が宿」と「蛇性の婬」をベースに、川口松太郎と依田義賢がオリジナル脚本を書いています。

「浅茅が宿」は、下総国の男が、妻に半年で帰ると約束して、京へ商売に出かけるが、様々な事情で帰郷は7年後になる。変わり果てた妻と涙の再会を果たすが、夜が明けると、自宅は廃墟、妻はとうの昔に死んだことが分かり、ねんごろに弔う、という話です。男の家は、市川市に復元現存する「継橋」の近くであり、真間の手児奈伝説も登場することから、今の市川市真間にあったと思われます。夫婦を翻弄した戦さは、関東管領上杉家と古河公方・北条方の数次に渡る争いであり、関東一円が戦場となりました。

「蛇性の婬」は、紀伊国の男が、美女と知り合い、彼女の立派な屋敷で求婚され、承諾する。その後、女は大蛇の化身であることが判明したが、男は付きまとわれる。最終的には、道成寺の僧が大蛇を成敗する、という内容です。白蛇の化身が男と結婚するが、僧の法力で退治されるという中国の「白蛇伝」、そして恋焦がれた僧に裏切られた娘が蛇に化身し、鐘ごと僧を焼き殺す「道成寺」が下敷きなのでしょう。

映画「雨月物語」は、琵琶湖北岸の男が、妻を残し、西岸の大溝へ陶器を売りに出る。そこで男は美しい武家の姫と知り合い、女の立派な屋敷で求婚され、楽しく過ごす。実は、屋敷は廃墟で、娘はこの世のものではないことがわかり、僧によって助けられる。帰郷して妻と再会するが、翌朝、家は廃墟で、妻は野武士に殺されていたことが分かる、と翻案されています。

「浅茅が宿」と「蛇性の婬」の主人公には共通点があります。家業を疎かにするということです。「浅茅が宿」では、農業を嫌がり、財産を食いつぶし、一発勝負に出ます。「蛇性の婬」では、都に憧れ、働きもせず、稽古事の帰り道で女に会います。怠惰のバチが当たったわけですが、二人とも、ある意味、仏教に救われ、その後の人生を生きます。彼らの前に現れた異界のものは、彼らの業が投影されたものですが、それが投影されるということは、彼らに仏性が存在してるからだとも言えます。人間の強欲や異界の怨念を語りながら、実は、人間が本来持っている仏性による救いを伝える物語でもあるのでしょう。(写真出典:realsound.jp)

2020年10月11日日曜日

ノイシュヴァンシュタイン城

桃の産地である山梨の人たちは、桃を固いまま食べると聞き、驚きました。桃は、極限まで熟成させ、濃厚な甘さとトロッとした触感を楽しむものだと思っています。ただ、タイミングを逃すと、桃は、自らの甘さに耐えかねたように急速に腐敗します。バイエルン州南部にあるノイシュヴァンシュタイン城を思うと、いつも腐敗し始めた桃をイメージしてしまいます。

ディズニーランドのシンデレラ城のモデルとも言われるノイシュヴァンシュタイン城は、中世の城ではありません。19世紀、バヴァリアの狂王と呼ばれたバイエルン王ルードヴィッヒⅡ世が、夢を実現するために建てました。防御も政務も居住性すら考慮されていない城は、石造りではなく鉄筋コンクリート製。中に入ると、安っぽい映画のセットのような印象を受けます。城と言うよりは、城を模したモニュメントと言うべきなのでしょう。あくまでも遠景を楽しむべき建造物だと思います。

実は、ノイシュヴァンシュタイン城は完成していません。1869年に着工した城は、1886年に工事が中断したままになっています。施主であるルードヴィッヒⅡ世が死んだからです。ルードヴィッヒⅡ世は、1845年に生まれます。欧州は、フランス革命後のナポレオン戦争やウィーン体制、産業革命に伴う帝国主義化等、激動の時代にありました。両親の愛情に恵まれず、厳格な教育を施されたルードヴィッヒは、反動として神話や中世の騎士道を夢想する少年として育ちます。

19歳でバイエルン王に即位すると、政務は顧みず、夢を具現化する城の建設、憧れのワーグナーの庇護に熱中し、莫大な資金を投入します。普墺戦争が勃発すると、バイエルンはオーストリア側につき敗北します。その間、ルードヴィッヒは居城に隠れ続け、国民の信頼を失います。王の乱費で財政難だったバイエルンにとって賠償金は重荷でした。1886年、政府は、精神病を理由に王を退位させ、幽閉します。直後、ルードヴィッヒは湖で謎の死を遂げます。男色家の王が、唯一、心を寄せた女性は、姉と慕うオーストリア皇后エリザーベトだったと言います。王の死の知らせを聞いたエリザーベトは「彼は精神病ではない。夢を見ていただけだ」と語ったとされます。

衰弱したロマン主義には、甘ったるい腐敗臭がします。バヴァリアの狂王の生涯は、ドイツ・ロマン主義には遅すぎ、デカダンスの時代には早すぎました。「デカダンス、それは我々の血だ」と言った東欧の映画監督がいました。映画「ルードヴィッヒ」は、退廃とは何かを知っているミラノ貴族ルキノ・ヴィスコンティにしか描けなかったのでしょう。欧州とは何か、と考えるとき、ルードヴィッヒⅡ世を外すことはできないように思います。彼が何を成したかではなく、彼の心が欧州そのものだったように思えるからです。(写真出典:pinterest.jp)

2020年10月10日土曜日

パン籠

 「ローズマリーの赤ちゃん」やウッディ・アレン映画で知られる不思議女優ミア・ファーローは、子供の頃、ポルト・リガートのビーチで、不思議芸術家のサルバトール・ダリから、気分転換の方法を伝授されます。それは靴を左右逆に履くということだったそうです。気分が変わるかどうかは別として、確かにその違和感は別な世界を感じさせます。ダリらしいエピソードだと思います。

スペインのフランス国境に近い街フィゲラスは、サルバトール・ダリの生誕の地であり、終焉の地です。フィゲラスには、ダリ・シアター・アンド・ミュージアムがあります。建物、絵画、オブジェ等すべてが面白く、実に魅力的な美術館です。最も重要な展示品は、1945年作「パン籠~恥辱よりも死を」だと思います。テーブルの端にある食べかけのパンが入った籠が描かれた小品です。歪んでもいませんし、引き出しもついていません。実に写実的な作品です。その超絶技巧は、ダリが最も尊敬するフェルメールを思わせるものがあります。

ダリは、シュールリアリズムの作家です。 ただ、 抽象画ではなく、 具象をもってシュールな世界を提示します。 その世界が成り立つためには、 写実はより精緻である必要があります。 「パン籠」は、 精緻な描写、そしてテーブルの端という象徴性ゆえ、ダリのエッセンスがストレートに表出している作品だと思います。ダリにとって、パンは特別なものだったようで「 パンは私の作品の中で最も古くからフェティシズムと執念の対象の一つであり続け、私が最も誠実であり続けた最初の、そして唯一の主題だ」と語っています。

この作品が描かれたのはナチス崩壊直前だったようです。端しか残っていないパンはヒトラーを表していると言われます。さしずめ籠はナチズムなのでしょう。黒い背景、テーブルの端が、ヒトラーとナチズムの終わりを暗示しているのでしょう。また、ダリは、この作品は広島と長崎へ原爆が投下された週に描いた、とも語っているようです。「恥辱よりも死を」という副題が原爆投下の正当性を表す、とも解釈されています。原爆に関しては、全くの後付けの話であり、当時アメリカに在住していたダリのリップ・サービスであり、原爆の正当性云々は、米国人の都合の良い解釈だと思われます。

シュールリアリズムのねらいの一つは、シュールな世界を見せることで、現実を見る新しい目線を与える、あるいは日常を見つめ直させることだと思います。その意味で、ダリの具象をもってシュールな世界を描くという手法は現実的であり、子供にでも分かる一般性を持っています。ちなみに、子供の頃、家にあったダリの画集で見た「記憶の固執(柔らかな時計)」や「目覚めの直前、柘榴のまわりを一匹の蜜蜂が飛んで生じた夢」は強烈な印象を残し、高熱を出した時に限って夢に出てきました。それは30歳代になるまで続きました。(写真出典:musey.net)

2020年10月9日金曜日

梁盤秘抄#7 Guerreira

 アルバム名:Guerreira (2009)   アーティスト名:クララ・ヌネス

クララ・ヌネスは、70年代のブラジルで圧倒的な人気を誇ったサンバやMPB(ブラジルのポップス)の歌手。発音的には、ヌネスではなく「ノーニス」とすべきかも知れません。73年の「Tristeza Pe no Chao」は、ブラジルでは女性初の10万枚超え、翌年のアルバム「Alvorecer」は女性初の30万枚超えのヒットを記録し、名実ともにサンバの女王となりました。透明感がありながら力強い声、抜群の歌唱力、まさに唯一無二のアーティストだと思います。このアルバムは、彼女のヒット曲28曲を収めたベリー・ベスト盤です。

アルバム・タイトルにもなっている「Guerreira」は、彼女の代表曲の一つですが、戦士という意味です。歌詞は、私はサンバの戦士、サンバはブラジルであり、ブラジルに祝福を!といった内容です。サンバへの賛歌のようにも、彼女自身の信仰告白のようにも聞こえます。サンバの伝統である女性コーラスの使い方が特徴的です。コーラスをバックに、彼女は聖徒やブラジルを称えて叫び続けます。私が、クララ・ヌネスのファンになったのも、この明るく元気になれる歌を聞いたからです。

クララ・ヌネスは、1942年、リオの北西部に広がるミナス・ジェライス州の小さな町に生まれます。幼くして父母に先立たれ、年長の兄弟たちに育てられます。教会で歌いはじめ、コンテストでも賞を獲得するなど、早くから歌の才能は認められていたようです。14歳で織工として働き始め、16歳の時、兄が彼女のボーイフレンドを殺したことを契機に、州都ベロ・オリゾンチへ越し、働きながら、音楽活動を開始しています。

ベロ・オリゾンチのラジオやTVで活躍後、リオに進出して、66年にはファースト・アルバムをリリースしています。70年代には、ヒットを連発し、アルシオーネ、ベッチ・カリヴァリョと並ぶサンバの三大女王の一人として活躍します。その生い立ち、長い下積み等が、彼女の才能に磨きをかけたのでしょう。サンバ、MPBと幅広くこなしますが、サンバに現代的解釈を加えたことが、大きな功績だと思います。ただ、その音楽的ルーツは、アフリカ系ブラジル人の伝統にあり、そのことに一切のブレはなかったと思います。ステージ衣装も、常に白いドレスを着る等、伝統を踏まえています。ちなみに、82年には来日し、若き松坂慶子が司会するNHKの「夜の指定席 魅惑のファンタジー」に出演しています。

1983年、人気絶頂にあったクララ・ヌネスは、静脈瘤の切除手術を受けます。簡単な手術だったはずですが、麻酔医のミスによって昏睡状態に陥り、帰らぬ人となりました。享年38歳、女王の若すぎる死でした。リオの大通りを進む彼女の葬列は、カーニバル以上とも言われる多くの人々に見送られます。ブラジルは、長く続いた軍政のつけで経済的苦境にあり、民政移行の直前にありました。(写真出典:diskunion.net)

2020年10月8日木曜日

見えない公害

 大学で経済思想史のゼミに参加し、ネオ・リベラリズムを学びました。テキストには、ミルトン・フリードマンの「資本主義と自由」を使いました。公害に関する記述が一切ないので、フリードマンに手紙を出して、見解を聞こう、という話が盛り上がりました。私は、聞くまでもないと思いました。企業の公害対策は、短期的には利益を圧迫するが、それを行わないことによって、長期的には、社会的批判や訴訟を受けるリスク、あるいは存続自体が危ぶまれるリスクも想定される。よって、企業は公害対策を行う。フリードマンは、こう答えるはずです。結局、手紙は出しませんでした。

経済学は、利益だけで判断するホモ・エコノミクスという架空の人間を想定して、モデルを組みます。社会科学としては、正しいアプローチだと思います。ただ、現実の人間は、判断ミスもあり、感情的判断も行います。また、合理的判断を重ねても合成の誤謬に陥ることもあります。先進国では鎮静化した公害ですが、世界的に見れば、まだまだ大問題です。人種差別等も同様ですが、なかなかネオ・リベラリズムが想定したように現実は動いていません。フリードマン先生なら、変わりつつあるじゃないか、と言いそうですが。

久々に、スティーブン・ソダーバーグ監督の「エリン・ブロコビッチ」(2000年)を見ました。法律知識もないシングル・マザーが、公害訴訟で史上最高額の和解金を獲得した実話です。アメリカ人の大好きなアメリカン・ドリーム系の映画であり、大ヒットしました。主演のジュリア・ロバーツはアカデミーを獲得する等、その演技が高く評価されました。本質的には重い話ですが、彼女の軽さとソダーバーグの軽妙な演出が大ヒットにつながりました。モデルとなった公害は、六価クロムによる水質汚染ですが、60年代に始まっています。公害問題の多くは、60~70年代に表面化しています。

公害は、工場等による直接的な人体や環境への影響を指します。おおむね産業革命以降、人間の強欲と科学技術の進化とともに拡大してきました。先進国では、多くの犠牲を払いながらも、法的整備が進み、改善が進みました。しかし、対応できたのは個別の汚染j事案であり、温暖化、核による汚染、マイクロ・プラスティック等、地球規模での”公害”については有効な対策が打てていない状況にあります。工業に限らず、食品公害とも言える食の安全についても、同じことが言えます。やはり産業革命以降、食品安全問題が多く起こってきました。法や行政の対応によって、食の安全はおおむね守られています。しかし、例えば、南北アメリカや中国で栽培が進む遺伝子組み換え作物等、まだ評価が定まっていないものもあります。

科学技術の進化によって、人間は豊かな生活を享受してきました。しかし、反面、その豊かさと同程度の厄災を抱え込んできた歴史ともいえるのではないでしょうか。自然界に存在しないものを作り出すことは、利便性と環境的悪影響の両面があるように思えます。いわば広義の公害であり、見えない公害とも言えそうです。新たな素材や化成品等を作り出す場合、両面性があることを前提として、法体系を整備すべきと考えます。例えば、製品認可の際、考えられる人体や環境に対する悪影響のみならず、その完全な消滅法まで含めて評価すべきではないかと思います。(写真出典:amazon.co.jp)

2020年10月7日水曜日

奇跡の番組

 NHKの「ブラタモリ」は大好きなTV番組です。各地の地質と歴史の関係を楽しく伝える、いわば地質学エンターテイメント。山がちな国に住んで地形・地質に興味のない人は少ないと思いますが、改まった話を聞くこともなく、マニアックな地質学が敬遠される傾向もあります。地質マニアのタモリが、肩肘張らずに知的な興味を満してくれる貴重な番組です。2017年、日本地質学会は、ブラタモリを「奇跡の番組」と高く評価し、NHKを表彰しました。

ブラタモリは、2008年に放送が開始されていますが、当初は断続的なレギュラー放送でした。タモリが、平日昼の「笑っていいとも」に出演している関係で、制作には制限があったわけです。当初は、古地図に基づき東京の歴史を散歩するという内容でした。また、タモリらしく、ほとんど台本のないぶっつけ本番スタイルが、とても良い効果を生みます。30年を超える長寿番組「笑っていいとも」が終了すると、2015年からは土曜ゴールデンタイムでのレギュラー化がスタート。各地へのロケが始まり、地質学エンターテイメントが生まれます。

ブラタモリが業界に与えた影響は、とても大きかったと思います。まずは、知的エンターテイメント系の番組が増えたことです。昔からあったのでしょうが、予算も質も向上し、有名タレントを使い、分かりやすさを向上させた番組が増えました。NHKのEテレは、それが基本方針かと思うほどです。まだ硬さは残りますが「100分de名著」などは、伊集院光がホストになってから、とても分かりやすく楽しい番組になりました。民放のゴールデンタイムで放送される番組も増えました。やはり奇跡の番組と呼びたい「プレバト‼」の才能査定ランキングでは、俳句という、これまた地味な分野が、見事なエンターテイメントに仕立てられています。夏井いつき先生という得難い才能を見つけた幸運もありましたが。

そして限りなく薄い台本、ライブ感を前面に出す演出も増えました。これは、タモリが長寿番組「タモリ倶楽部」で得意としてきた手法でもあります。NHKの大人気番組「鶴瓶の家族に乾杯」や「チコちゃんに叱られる」もリハーサル一切なしの収録という手法が当たりました。かつて大橋巨泉が、TVの本質はトーク番組にある、と言っていましたが、ぶっつけ本番スタイルは、それに通じるのかも知れません。

ビジネスとしての民放の機能は、消費者にCMを見せることです。極端に言えば、CMの間にコンテンツが放送され、視聴率を上げるということはCMを見る消費者を増やすということに他なりません。時代とともに移ろう視聴者の興味を捕捉し続ける民放の皆さんのご苦労も大変なものがあると思います。かつては歌番組、その後吉本系のバラエティ全盛の時代が続きました。近年になり、知的エンターテイメントの要素を取り入れてきた背景には、TV を見ているのは若者ではなく老人という大きな変化があると思います。そういう意味では、もっと知的エンターテイメント系の奇跡の番組が増えることを期待したいものです。(写真出典:matome.never.com)

2020年10月6日火曜日

「真夏の夜のジャズ 4K」

1959年アメリカ   監督:バート・スターン

☆☆☆+

1958年のニューポート・ジャズ・フェスティバルを記録した伝説的映画の4Kデジタル・リマスター版です。59年のヴェネツィア映画祭で招待上映された時には、その斬新な映像で大喝采を浴びました。ステージだけではなく、ヨットのアメリカズ・カップの模様、ビーチの光景、リッチでスノッブな観客たち等のカットが効果的に挿入され、単なる音楽祭の記録映像を超えています。監督のバート・スターンは高名な写真家ですが、白人中産階級が安定と繁栄を謳歌したアメリカ最良の頃を、見事に切り取っています。

ロードアイランド州ニューポートは、メイフラワー号上陸からほどなく開かれた由緒ある街です。ナラガンセット湾に浮かぶロード・アイランド南端に位置し、天然の良港として、あるいは軍港としても栄えました。黒船のペリー提督の生誕地でもあります。産業革命後は、富裕層の別荘が多く建てられました。ゴルフやテニスのUSオープン、ヨットのアメリカズ・カップ等の発祥地であり、最初の野球グランドもここに作られたと言います。アメリカを代表する保養地ニューポートは、ニューイングランドの富の象徴でもあります。

1954年から続くニューポート・ジャズ・フェスティバルは、世界で最も有名なジャズ・イベントです。有名ミュージシャンが多数演奏し、多くのライブ・アルバムも録音されてきました。主催のジョージ・ウェインは、多彩なプログラムを組み、常に時代を反映させてきました。本作でも、ニューオリンズ・ジャズからバップ、クール、モダン・ジャズまで、さらにR&Bやロックまでと幅広い演奏が楽しめます。サッチモことルイ・アームストロングがトリで登場し、マヘリア・ジャクソンのゴスペルで締めるあたりは、当時のアメリカの価値観を感じさせます。

この年、ジョージ・ウェインが盛り込んだ新しい時代の風は、チャック・ベリーだったのでしょう。既に多くのヒットを飛ばしていたロックン・ロールの神様チャック・ベリーは、この年の大ヒット曲「スゥイート・シックスティーン」を、彼の代名詞であるダック・ウォークを披露しながら、スウィング・バンドと共演します。客席の若い人たちが大興奮して踊る様が映し出されます。チコ・ハミルトンの「ブルー・サンズ」も時代を感じさせます。ウェスト・コースト派のクールで知的なアプローチには、50年代のモダニズムが色濃く反映されています。なかでもエリック・ドルフィーの端正なフルートが印象的です。

ロードアイランドは、入植当初から、宗教の自由が認められており、保守的なプリマスを逃げ出した反律法主義者がニューポートを開いたとされます。反律法主義は、救いは律法ではなく信仰そのものから与えられる、という考え方であり、異端とされます。しかし、それが多様な宗教を持つ人々を集め、世界の海に開かれた港ニューポートの活気を生み出したのでしょう。多様性あふれるジャズ・フェスティバルの開催地として、誠に相応しいとも思えます。(写真出典:eiga.com)

2020年10月5日月曜日

韃靼海峡

てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていった 

詩人安西冬衛の「春」と題された一行詩。1929年の処女詩集「軍艦茉莉」に収められています。大陸とサハリン(樺太)の間にある韃靼海峡は、最狭部で7.3キロという狭い海峡。世界的にはタタール海峡、日本では間宮海峡と呼ばれます。タタールは、ボロディンの名曲「タタール人の踊り」でも有名ですが、ユーラシア大陸中央部の遊牧民です。「春」は、日本で最も有名な一行詩だと思います。やはり、この詩が好きだという知人が、樺太から蝶々が、群れではなく単独で海峡を渡る潔さ、韃靼という言葉から想起されるその先の大陸の雄大さが好きだと言っていました。詩ですから、読み手の勝手な解釈もありだとは思いますが、少し誤解があります。

安西冬衛は、若いころ、大連に渡り、長く暮らします。処女詩集も大連時代の出版です。大連で大病を患った安西冬衛が、おそらく病床で詠んだ詩が「春」だと思います。蝶は、春になると、シベリアから樺太、北海道へ渡ります。日本では間宮海峡と言うところを、あえて韃靼海峡と言っているのも、大陸から渡ることを表現しているのでしょう。海峡を渡る一匹の蝶は、病床の孤独の象徴。つまり、病を得た安西冬衛の望郷の詩なのでしょう。

それにしても、なぜ極東ロシアの海峡に中央アジアのタタールの名前がつけられているのでしょうか。タタールは、モンゴル高原東北部のテュルク系遊牧民たちを、同じテュルク系の突厥の人々が「タタル(他の人々)」と総称したことが起源とされます。後にモンゴル高原の中央部から東部一帯に分布します。13世紀になるとモンゴル帝国に支配され、欧州侵攻の中軸を担いました。長くモンゴルの支配を受けたロシアではタタール、西欧ではタルタルと呼ばれますが、タタールというよりはモンゴル全体を指していたようです。タルタルは、野蛮という意味合いも持ちます。タルタル・ステーキという名称も、生肉を食べる野蛮な料理ということなのでしょう。

中国では、ダーダー(韃靼)と呼ばれ、蒙古とは区別されていましたが、元を滅ぼした明朝では蒙古という呼称は使われず、モンゴル系全体を韃靼と呼んだようです。その後、ツングース系の満州族が清朝を建てると、再び蒙古と韃靼は区別されました。満州族は、もともと女真と呼ばれ、12世紀に中国北部から極東ロシアを支配した金朝を建てます。極東ロシアは、タタール人の土地ではなかったので、正確を期すならば、韃靼海峡は、ツングース海峡、女真海峡、金海峡の方が適切だったと思われます。ただ、金が早々にモンゴルに滅ぼされ、印象が薄かったため、欧州でも中国でも大雑把にモンゴルを意味するタタール、韃靼の方がしっくりきたのでしょう。

日本最大のモスクと言えば、代々木上原の東京ジャーミイです。現在は、トルコ政府が所有・管理し、トルコ文化センターも併設されます。都内にありながら、思いっきり異国情緒を感じさせます。もともと東京ジャーミイは、ロシア革命を逃れてきた極東ロシアのタタール人たちが建てたモスクでした。ある意味、安西冬衛の蝶と同じく韃靼海峡を渡ってきたわけです。(ウクライナ・タタールの少女  写真出典:dreamstime.com)

2020年10月4日日曜日

営業昔話(15)徹底力

昔々、皆、方針の徹底不足に悩んだとさ。 

米国のビジネス・コンサルタントのラム・チャランが、世界の名だたる企業2,500社以上の経営計画を調査しました。結果、失敗した計画の7割以上が、計画そのものではなく、実行段階に問題があったそうです。営業の世界でも、新しい方針や戦術がうまくいった例は、ごくわずか。それもそのはず、新しいプランが徹底できないうちに、結果がおもわしくないと判断され、次のプランが計画されるということの繰り返しでした。問題は、プランの良し悪しではなく、実は徹底力にあったのです。

組織とは、煎じ詰めれば、「目標共有と役割分担」ということになります。目標共有に関して言えば、個人目標と組織目標が完全に一致していれば、強い組織になります。まず個人目標があり、それを効率よく達成するために組織化したような、いわば原始的な組織は、これが出来ています。例えば、氷河期にマンモスを狩る時などがいい例でしょう。ところが社会が複雑化すると簡単にはいきません。例えば、株式会社の目的は株主のために利益をあげることです。従業員は、生活のために賃金を得ることが働く目的です。従業員は、より多くの賃金を望みます。利益が同じなら、人件費増は株主にとってマイナスとなります。

そこで組織の背骨とも言える「目標と評価」という仕組みが求められます。組織目標を分解して個人目標を設定し、その達成度を評価して処遇に反映させます。これが人事制度の主な機能です。個人目標には、各人の理解・納得が求められます。ここが一番難しいところであり、完璧ということはほぼありません。私は、まず組織目標をいかに達成するかというミーティングをさせます。組織目標を理解させ、その達成のために個人がすべきことを考えさせ、チームのためにという意識を自発的にセットさせるためです。これを行えば、個人目標の納得感は高まります。

組織の徹底不足は、しばしばPDCAがうまく回っていないことにも原因があります。営業組織でよく見かけるのは、結果の数字ばかり見て、責任を追及するスタイルです。Check段階で、最も重要なことは、責任追及ではなく、Whyを繰り返すことです。それがなければ、PDCAとは言えません。そもそもPDCAサイクルは生産現場で生まれたもので、営業組織には向いていない面があります。むしろCheckから回す方が適しています。近年では、アメリカ空軍が開発したOODAループが、営業組織には適しているとも言われます。OODAとは、Observe(観察)・Orient(適応:生データを情報に転換)・Decide(決定)・Action(実行)、その繰り返しと言う意味でループがつきます。

ちなみに、ラム・チャランは、その著書で、組織の徹底力に関して、リーダーシップのあり方が重要だとしています。それもその通りだと思います。(ラム・チャラン  写真出典:corporatebytes.in)

2020年10月3日土曜日

「メイキング・オブ・モータウン」

 2019年アメリカ・イギリス   監督:ベンジャミン・ターナー・ゲイブ・ターナー

☆☆☆☆

30年程前、家族でコネチカット州ノーウォークの海洋博物館に行った時のことです。白人だらけのカフェテリアの我々の隣の席で、小柄な黒人女性が家族と食事していました。カジュアルながら上品な装いでエレガントな風情でした。かみさんが「ダイアナ・ロスじゃない?」と言います。ダイアナ・ロスは、大スター中の大スター。子供連れとは言え、カフェテリアなんか来ないだろうと思いました。しかも、誰一人、彼女を見ていないのです。ところが、彼女が店を出る時には、全員が目で追っていました。間違いなくダイアナ・ロスでした。

ダイアナ・ロスは、モータウン・レーベルの大看板。60~70年代は、モータウンの時代でした。スモーキー・ロビンソン、スティービー・ワンダー、マービン・ゲイ、テンプテーションズ、ジャクソン5等々が所属し、独特のモータウン・サウンドで世界を席捲。例えば、60年代のビルボード・トップ10に97曲も入っています。しかし、1959年、ベリー・ゴーディがレーベルを立ち上げた時の資金は、家族から借りた800ドルだけでした。本作は、ベリー・ゴーディ本人が、その歴史的大成功の要因を振り返るドキュメンタリーです。

ゴーディは、フォードの工場で働いた時に見た工場生産方式を、レーベル経営に利用します。映画は、その”生産ライン”に則り進行します。よく整理された展開が、モータウン成功の要因を分かりやすく伝えます。スモーキー・ロビンソンはじめ優秀な作曲家たち、ベースのジェームス・ジェマーソンはじめジャズマンで構成されるバックバンド”ファンク・ブラザース”、ノーマン・ホイットフィールドをはじめとする敏腕プロデューサーたちが自由闊達で、かつ互いに競い合う風土がヒットを連発していきます。

特徴的な組織が、”アーティスト養成部門”と”品質管理会議”です。アーティスト養成は、アーティストに上品な立ち居振る舞いを教育します。白人にバカにされないよう自信とプライドを持たせることが狙いでした。”品質管理会議”は、幹部が全員参加し、リリースする曲を決めるという会議。ゴーディのセンスだけに頼らない仕組みです。マービン・ゲイ不朽の名作「ホワッツ・ゴーイン・オン」も、当初、政治的であることを嫌ったゴーディが反対したと言います。

モータウン最大の成功要因は、ゴーディが掲げた"The Sound of Young America"というスローガンでしょう。ゴーディは、泥臭い黒人音楽を、人種の壁を超えた音楽にしようとし、成功しました。モータウン・サウンドは、R&Bチャートではなく、ポップ・チャートでビートルズとトップを競いました。分離政策下の南部では、若者たちが、人種を越えて、一緒に踊りました。ダイアナ・ロス&シュープリームスは、TVのエド・サリバン・ショーに登場しました。幼いオプラ・ウィンフリーは、それを見て「白人の番組に黒人が出ている!」と叫んだといいます。オプラやホイットニー・ヒューストンは、ダイアナ・ロスがいたから、今の自分たちがいる、と語ります。モータウン最大の功績は、ヒット曲の量産以上に、黒人の地位向上だったのでしょう。(写真出典:amazon.co.jp)

2020年10月2日金曜日

夢幻の如くなり

 人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。
一度生を享け滅せぬもののあるべきか。

織田信長が好み、桶狭間の戦いを前にして舞ったとされる幸若舞「敦盛」の一節です。幸若舞は、14世紀、源義家の子孫とされる桃井直詮、幼名幸若丸が創ったとされる曲舞です。能楽の原型とも言われます。能と同様、武家に好まれましたが、江戸幕府の終焉とともに廃れました。現在、福岡県みやま市で復元保存されているようです。

下天とは、仏教に言う天界28層の最下層であり、そこでは人間界の50年が一日に相当すると言われます。つまり、人間の一生など下天ではわずか一日であり、夢や幻と変わらない、といった意味になります。ちなみに天界の最上層は、有頂天と呼ばれます。幸若舞では、一之谷の合戦で平敦盛を討った熊谷直実の言葉として歌われます。

木曽義仲に敗れた平家は、都から大宰府まで落ちのびます。都に入った義仲は、統治に失敗し、後白河法皇の命を受けた源頼朝によって滅ぼされます。この間に、勢力を盛り返した平家は福原まで進出、上洛をうかがいます。平家追討を命じられた頼朝軍は、福原挟撃を図ります。搦手の義経軍は、軍を二分し、義経は70騎のみを率いて難所鵯越を抜け、一之谷の絶壁の上に到達します。後背の絶壁を無警戒だった平家は、崖を逆落としに下った義経勢に蹴散らされ、海へと脱出していきます。

騎馬で船を目指す敦盛に、熊谷直実が追いつき「敵に後を見せるのは卑怯。お戻りなされ」と呼びかけます。潔く浜に戻った敦盛は、直実に組み敷かれます。首を搔こうとした直実が見たのは、我が子と同年齢の美少年。直実が「私は名乗るほどの者ではないが、武蔵野国の住人、熊谷直実」と名乗ると、少年は「ならば私は名乗らない。首を取ってから人に聞けば分かるだろう」と答えます。その凛とした対応に心打たれた直実は命を助けようとしますが、仲間が迫っており、やむなく「必ず私が供養しましょう」と約し、首を落とします。平敦盛、享年16歳。平家物語のなかで最もよく知られた段の一つです。

後に直実は、敦盛供養のために出家し、浄土宗開祖の法然の弟子となります。敦盛は、笛の名手として知られ、死に際しても、祖父が上皇から下賜された名笛「小枝(あるいは青葉の笛)」を帯びていたと言います。空海が中国から持ち帰ったというその笛は、敦盛の首塚のある神戸の須磨寺に保管されています。須磨寺を訪れた松尾芭蕉は「須磨寺や ふかぬ笛きく 木下闇」と詠んでいます。(須磨寺「青葉の笛」(右側) 写真出典:worldfolksong.com)

2020年10月1日木曜日

日本三大名菓

江戸期に言われた日本三大名菓とは、長岡市・越乃雪本舗大和屋の「越乃雪」、金沢市・森八の「長生殿」、松江市・風流堂の「山川」です。いずれも茶席のお干菓子であり、和三盆ともち米から作られます。「山川」に替えて、博多・松屋利右衛門の「鶏卵素麺」が入ることもあります。鶏卵素麺だけは、やや毛色が異なり、ポルトガル発祥。卵と砂糖で作ります。独特の触感と素朴な甘みが特徴です。

他の和三盆系の三銘菓は、 いずれも実に上品な甘さが特徴ですが、その触感は各々異なります。「越乃雪」は、持ち上げる際にも慎重になるほどのホロホロ感。「長生殿」は、やや硬めですが、口の中でサッと溶けます。「山川」は、ふんわりとした触感です。「常在戦場」で知られる質実剛健な長岡藩、言わずと知れた加賀百万石、松平不昧公で有名な文化都市、いずれも武士の心得としての茶道が盛んな土地柄です。

茶は8世紀には中国から伝わっていたようですが、平安期に入ると、発酵した褐色の団子茶が持ち込まれていたようです。茶色の語源です。本格的な喫茶の文化は、臨済宗開祖の栄西が持ち込みます。茶は大茶会の開催などブームの様相を呈したようですが、これに異論を唱えたのがわび茶です。わび茶を完成させたのは、千利休であり、武家社会に広まっていきます。能楽の無常観、茶道のわびさび、いずれも死と隣り合わせの武士の心情に強く訴えたのでしょう。

茶道は、日本の美感を形成していきます。茶室、掛け軸、花、道具、料理、菓子など、実に幅広く日本文化の礎となっています。しかし、茶道が、武家社会の文化、作法に留まっていたら、そうはならなかったものと考えます。安定した江戸の社会で急速に経済力をつけた商人層が茶道を嗜み始めたことで、茶道は、広がりと深さを獲得し、日本文化の基礎と成り得たものと考えます。抹茶や菓子は、日本的ブルジョワジー成熟の証でもあるわけです。

明治の世になると、薩長政権は、中央集権化をねらい、幕藩体制を破壊します。これが市民革命と同じ効果を生みます。江戸期に蓄積された商業資本が殖産興業の担い手として爆発し、近代的な産業資本を生み出していきます。奇跡と言われた日本の急速な近代化は、江戸期にしっかりと準備が整っていたとも言えるわけです。ちなみに、日本三大名菓を創る菓子舗は、いずれも営業を続けています。それは、茶道が日本に広く根付いていることの証左でもあるのでしょう。(越乃雪  写真出典:jalan.net)

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