2020年10月5日月曜日

韃靼海峡

てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていった 

詩人安西冬衛の「春」と題された一行詩。1929年の処女詩集「軍艦茉莉」に収められています。大陸とサハリン(樺太)の間にある韃靼海峡は、最狭部で7.3キロという狭い海峡。世界的にはタタール海峡、日本では間宮海峡と呼ばれます。タタールは、ボロディンの名曲「タタール人の踊り」でも有名ですが、ユーラシア大陸中央部の遊牧民です。「春」は、日本で最も有名な一行詩だと思います。やはり、この詩が好きだという知人が、樺太から蝶々が、群れではなく単独で海峡を渡る潔さ、韃靼という言葉から想起されるその先の大陸の雄大さが好きだと言っていました。詩ですから、読み手の勝手な解釈もありだとは思いますが、少し誤解があります。

安西冬衛は、若いころ、大連に渡り、長く暮らします。処女詩集も大連時代の出版です。大連で大病を患った安西冬衛が、おそらく病床で詠んだ詩が「春」だと思います。蝶は、春になると、シベリアから樺太、北海道へ渡ります。日本では間宮海峡と言うところを、あえて韃靼海峡と言っているのも、大陸から渡ることを表現しているのでしょう。海峡を渡る一匹の蝶は、病床の孤独の象徴。つまり、病を得た安西冬衛の望郷の詩なのでしょう。

それにしても、なぜ極東ロシアの海峡に中央アジアのタタールの名前がつけられているのでしょうか。タタールは、モンゴル高原東北部のテュルク系遊牧民たちを、同じテュルク系の突厥の人々が「タタル(他の人々)」と総称したことが起源とされます。後にモンゴル高原の中央部から東部一帯に分布します。13世紀になるとモンゴル帝国に支配され、欧州侵攻の中軸を担いました。長くモンゴルの支配を受けたロシアではタタール、西欧ではタルタルと呼ばれますが、タタールというよりはモンゴル全体を指していたようです。タルタルは、野蛮という意味合いも持ちます。タルタル・ステーキという名称も、生肉を食べる野蛮な料理ということなのでしょう。

中国では、ダーダー(韃靼)と呼ばれ、蒙古とは区別されていましたが、元を滅ぼした明朝では蒙古という呼称は使われず、モンゴル系全体を韃靼と呼んだようです。その後、ツングース系の満州族が清朝を建てると、再び蒙古と韃靼は区別されました。満州族は、もともと女真と呼ばれ、12世紀に中国北部から極東ロシアを支配した金朝を建てます。極東ロシアは、タタール人の土地ではなかったので、正確を期すならば、韃靼海峡は、ツングース海峡、女真海峡、金海峡の方が適切だったと思われます。ただ、金が早々にモンゴルに滅ぼされ、印象が薄かったため、欧州でも中国でも大雑把にモンゴルを意味するタタール、韃靼の方がしっくりきたのでしょう。

日本最大のモスクと言えば、代々木上原の東京ジャーミイです。現在は、トルコ政府が所有・管理し、トルコ文化センターも併設されます。都内にありながら、思いっきり異国情緒を感じさせます。もともと東京ジャーミイは、ロシア革命を逃れてきた極東ロシアのタタール人たちが建てたモスクでした。ある意味、安西冬衛の蝶と同じく韃靼海峡を渡ってきたわけです。(ウクライナ・タタールの少女  写真出典:dreamstime.com)

マクア渓谷