2020年7月31日金曜日

コルトレーン忌

7月17日は、ジョン・コルトレーンの命日。かつて、全国のジャズ喫茶では、この日、終日コルトレーンをかけていたものです。そんなことをやるのは、コルトレーンだけでした。実は、ビリー・ホリディも同じ命日ですが、コルトレーンだけ流し続けるわけです。今もそうなのかも知れませんが、  私も何十年も行っていないのでわかりません。 そもそも店の数が激減しましたけどね。

60〜70年代がジャズ喫茶最盛期でした。それ以前には、クラシック喫茶、ラテン喫茶、唄声喫茶等のブームもありました。 私は、 中学三年から、ジャズ喫茶通いを始めました。 小遣いで僅かなレコードを買ってしょぼいステレオで聞くより、音のいいジャズ喫茶で、 沢山のレコードを聞いた方がいい、 と思ったからです。 コーヒー1杯で最低2時間は粘りました。 手持ち無沙汰になるので、 タバコも覚えました。吸い残しても、家に持ち帰れないので、10本入りショートホープ専門でした。店のお姉さんは、あんた中学生でしょ、と言いながらも売ってくれました。

全共闘が隆盛を極め、そして敗北していった時代、ジャズ喫茶の学生たちは、  タバコをくわえ、 左翼系の本を片手に、 目を閉じ、リズムに合わせロング・ヘアーを振っていました。 そんな時代、 コルトレーンは、 ほぼ神でした。 もちろん、ジャズ・ジャイアントの一人でもありますが、トップ・ランカーとして活躍したのはわずか10年程度であったこと、40歳の若さで惜しまれつつ亡くなったことが、コルトレーンの神性を高めた面もあります。そして何よりも、傑作アルバム「至上の愛」でコルトレーンは神の領域に入りました。

コルトレーンは、誠実な努力家です。天才ではありません。音も単調で面白みに欠けます。ただ、猛練習を重ね、大きな音で多くの音符を吹くシート・オブ・サウンズと呼ばれるスタイルを確立します。その傑作が「ジャイアント・ステップス」です。その後「マイ・フェイバリット・シングス」をヒットさせ、さらに音楽と誠実に向き合い「至上の愛」へと到達します。晩年、フリー・ジャズを展開しますが、音楽を突き詰めていくコルトレーンの誠実さからすれば、当然の帰結だったと思います。恐ろしく速いスピードで、ジャズの過去と未来を駆け抜けた人でした。
ジョン・コルトレーン「至上の愛」  出典:amazon.co.jp

2020年7月30日木曜日

営業昔話(14)人助け

昔々、営業の極意は人助けと言ったもんだとさ。

一時の幸せを得たいなら、昼寝をしなさい
一日の幸せを得たいなら、魚釣りに行きなさい
一月の幸せを得たいなら、結婚しなさい
一年の幸せを得たいなら、遺産を相続しなさい
一生の幸せを得たいなら、人助けをしなさい

アメリカ人が好む話です。彼らは、中国の言い伝えと言いますが、出典も明らかではなく、また様々なバージョンがあります。例えば、釣り愛好家の皆さんたちは「一生の幸せを得たいなら、釣りをおぼえなさい」と変えています。おそらく、元はアメリカ人の創作ジョークなのでしょうが、よくできています。

ポジティブ心理学の第一人者で、TEDトークスの再生回数トップというショーン・エイカーによれば、成功して幸せになるのではなく、幸せだから成功するのだ、ということになります。いわゆる幸福優位性です。幸せをもたらす神経伝達物質ドーパミンの分泌が良い状態で実験すると、脳の生産性は31%アップ、営業の場合、成績は37%もアップしたと言います。

ハフィントン・ポストに、アメリカの各大学が幸せについて研究した結果が掲載されています。例えば、ハーバード大の研究によれば、時間を使って人助けをすると、オキシトシン、セロトニン、ドーパミンの分泌が高まり、他の人に比べ、仕事への集中力は10倍、昇給は40%も上回ったと言います。

イエール大やノースウェスタン大の研究では、外的要因が幸せに及ぼす影響は限定的だったそうです。つまり、宝くじに当たっても、幸せに与える影響は知れたものだったと言うのです。では幸せに大きな影響を与えるものは何か。それは習慣、そして他者との関わり方であり、特に他者を優先させることが幸せにとって大切だといいます。

つまり、営業成績を上げるために顧客に売り込むという姿勢ではなく、顧客の問題解決を手伝うという姿勢で日々臨めば、ドーパミンの分泌が増え、幸福感が高まり、おのずと成績も上がっていくということになります。
TEDトークスにおけるショーン・エイカー  出典;youtube.com

2020年7月29日水曜日

岩瀬で白えび

富山湾でしか獲れない白えびは、独特のコクと風味がたまらない絶品。唯一無二の味です。一年に一度は食べたいと思います。食べるなら、岩瀬港の「松月」で食べるのが理想的だと思います。北前船の栄華を偲ばせる岩瀬港にあって、明治時代創業という老舗料亭。白えびのコースが有名ですが、なかでも二百数十匹の生の白えびを団子にしてあぶった福だんごは絶品中の絶品。名物女将から、足の速い白えびは、氷水に浸した人の手で、一匹づつ殻むきすると聞きました。なんという贅沢。

富山湾は、立山連峰が、そのまま落ちる急こう配の深い海。そこへミネラル豊富な立山の清水が勢いよく流れ込みます。白えびは、その環境のなかでしか生育しないと言います。さくらえびが有名な駿河湾も類似した環境で、白えびも生息しているようですが、漁ができるほどではないようです。ホタルイカも同様ですが、足が速いので、港のすぐ前に深海の漁場があることが大きな利点となっています。旬は春から夏。

岩瀬港は、富山市内。北前船で栄えた港には、江戸期の街並みが残ります。国の重文にも指定される廻船問屋の森家は、全国から集めた貴重な建築資材に往時の隆盛を見てとれます。廻船問屋は、行きも帰りも、荷物を満載することで「のこぎり商売」とも呼ばれたそうです。行きは米や酒に薬、帰りは反物や薬の原料。越中富山の薬売りも、この港から全国へと営業に出かけたのでしょう。先用後利の置き薬は、見事なビジネス・モデル。江戸期の交通網の発展が前提の商売ですが、置き薬の全国展開を実現した緻密な経営は、世界に誇るべきものだと思います。薩摩藩の密貿易を支えたという薬売りによる昆布貿易も、ここ岩瀬港が拠点だったはずです。

富山は、勝駒、立山をはじめとする銘酒どころでもあります。岩瀬にも満寿泉の桝田酒造があり、おいしい酒が味わえます。白えびも酒も、富山の豊かな清水が生んだものと言えます。松月の女将さんは「富山の水は日本一美味しい。にもかかわらず、最近の若い人たちは、コンビニで、どこのものと知れぬペットボトル入りの水を買っている。嘆かわしい。」と言っていました。確かに、おっしゃるとおり。
松月の福だんご    出典:hitosara.com

2020年7月28日火曜日

銅像破壊

NY駐在員の頃、本社から多くの出張者が来ました。役員等をフルアテンドする場合もありました。そこで難儀な質問が二つありました。「あの木は何という木だ?」とても植物に興味があるとは思えない人からの質問です。先輩に教わったのは、「そういう時は、ジャーマン○○と言えばいい。どうせすぐ忘れるから」確かに、それ風に聞こえます。もう一つは「あれは誰の銅像だ?」とても歴史に興味があるとは思えない人からの質問です。NYには山ほど銅像があり、すべて覚えてるわけはありません。私は、植物も含め、例え名前を知っていても「知りません」と答えていました。答えれば、また聞かれるからです。

5月、ミネアポリスで発生した白人警官による黒人男性殺害に端を発したBLM(Black Lives Matter)運動が、世界中に拡散しています。BLM運動自体は、12年、フロリダで起きたトレイボン・マーティン少年の殺害事件から始まりました。言うまでもなくアメリカは人種差別大国です。法律は大事ですが、それですべて済むわけでもありません。恐らく戦い続けることだけが唯一の対応策なのだと思います。

今回、いささか気になることは、各地で起きている銅像破壊です。事の性格は様々でも、暴動ではしばしば銅像が倒されます。ロシアのレーニン像、イラクのフセイン像等、多くは直接的に暴動の原因につながる人たちの銅像です。暴動の象徴のようでもあり、倒すべき銅像が求めらる面もあります。今回の対象は、奴隷制度や植民地政策に関与した偉人達です。コルストン等の奴隷商人ならいざ知らず、ジョージ・ワシントン、マハトマ・ガンジー、ウィンストン・チャーチルに至っては、歴史の否定に近いものを感じます。

歴史は、常に勝者の歴史です。現在、世界史と呼ばれているのは、西洋史観でしかありません。日本史でも、明治維新は、薩長史観にすぎないという認識が広がっています。大いに賛同できます。ただ、それは解釈の問題であって、歴史的事実を変えることではありません。今回の動きが歴史的事実を否定することにならなければいいのですが。
河に捨てられるエドワード・コルストン像  写真出典:wsj.com

2020年7月27日月曜日

オートミール

私は、食べ物に好き嫌いがありません。何でも食べます。ただ、まずいものを好んで食べるほど酔狂でもありません。なかに、ちょっとしたトラウマになっているまずいものもあります。その一つがオートミールです。食べろ、と言われれば食べますが、できれば食べたくない代物です。中学生の頃と記憶しますが、アメリカ出張から戻った父親が、以降、我が家の朝食はオートミールにする、と宣言。とても健康に良い、アメリカ人は、皆、食べている、というわけです。地獄でした。幸いなことに、父親は、月の半分は出張で家にいなったものですから、地獄も半分で済みました。クエーカー・オーツの缶に描かれたクエーカー教徒を見ると、今でも嫌な気分になります。

近年は、健康食品ブームで、オート(燕麦)も人気があり、果物、ナッツ、糖分等を加えたグラノーラやミューズリー、あるいはフスマを原料とするオートブランも売れているようです。食物繊維、ミネラルを多く含み、コレステロール、血糖値、血圧を下げると言われます。ただ、オートミールを食べる人が増えたという話は聞きません。NYに駐在していた頃、アメリカ人に聞きましたが、オートミールは、子供の頃、食べさせられたという話ばかりでした。やはり、みんな嫌いなわけです。

それもそのはず、古代ローマ以降、19世紀まで、オートは馬の飼料でした。食用にしていたのは、スコットランドくらいと言われます。寒冷地や荒れ地等、厳しい環境でも育つオートは優秀な穀物です。ただ、グルテンを含まないので、パンにはできません。オートミールにするしかないわけです。19世紀になると品種改良が進んだこと、アメリカで押麦の技術が開発されたこと等から食品化が進みます。ヘンリー・クローウェルがクエーカー・オーツを創業しオートミールが普及、ジョン・ハーヴェイ・ケロッグがグラノーラを発明しシリアルが普及しました。

昔から青汁は健康に良いとされてきましたが、まずい代物でした。ところが、最近の青汁は、飲みやすいどころかうまいのです。私も、毎朝、飲んでいます。恐らく、最近のオートミールもおいしくなっているのでしょう。試してみようかとも思いますが、クエーカー教徒の顔を見ると、ついつい目を背けてしまいます。

2020年7月26日日曜日

「誰がハマーショルドを殺したか」

2019年デンマーク・ノルウェイ・スウェーデン・ベルギー 監督:マッツ・ブリュガー

☆☆

1961年9月、国連事務総長ダグ・ハマーショルドが乗ったチャーター機が、ローデシアのンドラ付近で墜落。時は、まさにコンゴ動乱の最中。ハマーショルドは、コンゴからの分離独立を狙うカタンガのチョンベとの停戦交渉に向かっていました。国連、ローデシアの調査は、墜落を事故とします。ただ、当時から謀殺説が有力ではありました。

マッツ・ブリュガーは、ジャーナリストにしてドキュメンタリー作家ですが、突撃取材型の監督です。マイケル・ムーアがそうであるように、まずは明解な自説があり、その証明を映像的に行うのが、この手の監督の特徴です。本作は、演出が過ぎる面があります。結論を明確に言うだけの証拠に欠けるので、取らざる得なかった手法なのかも知れません。そのことが、この映画のドキュメンタリー性を微妙なものにしています。

ベルギー人傭兵のパイロットの関与は、従来から知られています。彼に撃墜を命じたものとして、従来、カタンガ、その背後のベルギー政府、あるいは鉱山会社が疑われていました。そこにサイマーなる南アフリカの民間機関、英国、CIAが浮上したわけです。サイマーの胡散臭さは相当なものです。ただ、傭兵パイロットへの指示は不明瞭。また、イギリスとCIAの関与は、コンゴ動乱の経緯、内情を追わなければ、明確にはできません。それを避けたことで、この映画自体がキワモノ的になったと思います。まあ、突撃取材型にしては、標的があまりにも大きすぎたのでしょう。むしろ、テーマをサイマーに絞った方が良かったように思います。

コンゴ動乱を描いた近年の映画では、「ジャドヴィル包囲戦 6日間の戦い」(16年)が秀逸でした。国連の平和維持軍として駐留したアイルランド軍がカタンガのフランス傭兵部隊に包囲、攻撃されます。弾薬尽きたアイルランド軍は降伏し、捕虜となります。ハマーショルドが、急遽、コンゴへ向かう理由でもありました。コンゴ動乱の構図は、あまりにも複雑です。ベルギーからの独立、独立派の分裂、民族間の対立、軍事クーデター、米ソの代理戦争、利権をめぐる大国や企業の暗躍、周辺国の関与、国連軍の立ち位置、多数の傭兵の存在。アフリカ現代史の縮図でもあります。
写真出典:imageforum.co.jp

2020年7月25日土曜日

梁盤秘抄 #2 The Miseducation of Lauryn Hill

アルバム名:The Miseducation of Lauryn Hill(98) アーティスト:ローリン・ヒル

ハリのある声、歯切れのいい発音、抜群の歌唱力、独特な表現力、ローリン・ヒルは、ビルボードの歴代ラッパー・ランキングで第7位、女性ラッパーとしては不動のナンバー・ワンです。13歳でフージーズを結成し、アポロ・シアターのアマチュア・コンテストに出場、 94年フージーズ初アルバムを発表します。96年にリリースした「The Score」は、グラミー賞でベスト・ラップ・アルバム、収録曲の「キリング・ミー・ソフトリー」はベスト・グループ・パフォーマンスを獲得し、21歳でトップ・スターに躍り出ます。

「The Score」を境に、フージーズは、各々ソロ活動に入ります。98年、ローリン・ヒルは、ソロとして「The Miseducation of Lauryn Hill」を発売。世界中で1,200万枚を売りあげる大ヒット。グラミー賞ではアルバム・オブ・ザ・イヤーはじめ5部門を制覇、女性アーティスト初の快挙でした。とにかく全曲が粒ぞろいの名曲ばかり、ローリン・ヒルの魅力を余すところなく伝えます。また、曲と曲との間にメッセージが挿入されるという斬新な試みも話題になりました。ローリン・ヒルは、フージーズ時代から、ラップに初めてメロディを持ち込んだ、と言われます。ローリン・ヒルの才能は、ラップというジャンルには収まりきらなかったというべきなのでしょう。それをネオ・ソウルと呼ぶ人もいます。

ネオ・ソウルは、90年代から言われ始めたワードですが、明確な定義があるわけではなく、他のジャンルとクロスオーバーしているソウル、といった感じでしょうか。私は、マーヴィン・ゲイの「レッツ・ゲット・イット・オン」(73)こそネオ・ソウルの傑作だと思っています。ただ、 ローリン・ヒルは、ソウルを超えたソウルの世界を築いているので、ネオ・ソウルとは呼べないと思います。

若くして大傑作を作ると、 後がしんどいのかもしれません。 子育て、 麻薬、 脱税で入獄。 フージーズ再結成も含め、 ライブは続けます。 ライブCD「MTV Unplugged」は出ましたが、 声が出ていませんでした。  サンタナの「Super Natural」客演でグラミー賞も取りました。 しかし、 本作以降、 アルバムは出せていません。19年、映画「Queen & Slim」に曲を提供。その録音が、何の問題もなく行われたことがニュースになるほどのトラブル・メーカーですが、曲は見事にローリン・ヒル節を聞かせてくれます。

2020年7月24日金曜日

マウンティングの文化

BLACKPINK     出典:musicman.co.jp
いまや世界を席捲するK-Popですが、時々、外国と文化的摩擦を起こす傾向があります。海外展開につきものの悩みとも言えます。最近、女性グループが、PVのなかで、インドの神ガネーシャの像をおもちゃのように扱ったとして批判されました。まったく深い意味はないと思います。K-Popで、なぜこのような事象が頻発するのか、という記事を読みました。それは文化的無知が原因ではなく、90年代、軍政が終わると、韓国は無条件にアメリカ文化を受け入れ、同時に差別の風潮まで取り込んだからだ、と書いてありました。

あまりピンときません。むしろ韓国特有のマウンティングの文化が原因だと思います。その背景には、高麗、李氏朝鮮と続いた儒教支配の影響があります。例えば、日本の儒教は、学問として定着しますが、李氏朝鮮では、統治システムとして、より実践的に展開されました。無論、良い影響も多く残っていると思いますが、今も残る悪影響としては、絶対的な上下関係、男尊女卑が有名です。他に、激しい学歴社会、世界一の自殺率、罪人の完全否定、施しの弊害なども挙げられます。また、儒教支配ゆえに、近世の西洋文化移入に遅れたという説もあります。

受験一発の学歴社会は科挙の名残。自殺は閉鎖的社会の象徴。さらに罪を犯した人には徹底的に厳しい儒教文化は、自らは決して罪や間違いを認めない、という風潮も残しました。また、両班は貧しい者に施しを与えることが求められたことから、もらえるものは貪欲にもらうという傾向が生まれたとも聞きます。しかし、最大の悪影響は上下関係でしょう。長幼の序は尊重しますが、韓国の場合、度を越しています。マウンティングの根源であり、パワハラ、一方で媚び・へつらい、さらには贈収賄の温床でもあります。

世界中にマウンティングはあるでしょうが、韓国以外ではネガティブな受け止めが一般的だと思います。韓国では、マウンティングできる立場にあるとき、マウンティングしないと、軽んじられる傾向まであるようです。例えば、大統領も日本に対して強硬な姿勢を崩してはいけないわけです。K-PopのPVであっても、韓国の方が上だと思う国があれば、ついついマウンティングしてしまうわけです。

「9人の翻訳家」

2019年 フランス・ベルギー   監督:レジス・ロワンサル

☆☆+

「9人の翻訳家 囚われたベストセラー」は、プロットの着想がとても面白い映画です。ただ、良いミステリーは、良いプロットだけでできているわけではりません。ミステリーを構成する他の要素が、脚本上では中途半端、演出では説明的になっています。全体にゴチャついた印象を受けました。面白いプロットですが、ドラマに仕立てることが難しい面もあったのでしょう。

ダン・ブラウンの大ベストセラー、ダヴィンチ・コード・シリーズの「インフェルノ」発売時、事前流出を防ぐために翻訳家を缶詰にしたという実話から着想を得たようです。ダヴィンチ・コードは、本も映画も面白かったのですが、続編からは、少しバタついた印象や大仰さが鼻につきます。ゴルフも疲れてくるとスウィングが早くなります。翻訳も、スピード感重視ではなく、もう少し落ち着いたほうがいいようにと思います。ただ、そうするとページ数が増えすぎるのでしょうが。

翻訳は、本当に難しい仕事だと思います。直訳ですむならAIに任せておけば済みますが、そうもいきません。かといって意訳が過ぎると、まったく別物になったりもします。言葉は、文化の共有を前提に成り立っています。よって、そもそも翻訳には限界があります。日本の徹底した翻訳文化も無理があるわけです。植民地だった歴史を持つ国では、翻訳文化もそこそこ。原文を読めばいいわけですから。日本は、その点、ややこしくなります。

文学作品の翻訳は、創作に近いところもあります。ただ、エンターテイメント小説や映画の翻訳という仕事は、締め切りも厳しく、大変な割には報われない仕事のように思えます。本作では、そのあたりを、もう少し深堀してもよかったように思います。
写真出典:gyao-yahoo.com

2020年7月23日木曜日

沼津の干物

沼津港飲食店街     出典:youtube
昔、沼津に泊まると、ホテルの朝食はキャンセルして、港までタクシーを飛ばし、刺身か焼き魚の定食を食べていました。美味しくて安いわけです。今でこそ大観光地ですが、10年くらい前までは、店の数も知れたものでした。ある時、タクシーの運転手さんに、常々疑問に思っていたことを尋ねました。なぜ沼津の干物はうまいのか。「魚が新鮮だからですよ」という答え。それなら日本中の港の干物は等しくうまいはずです。

これは、間違いなく沼津の人たちが結託して、干物製造の秘密を隠しているんだと確信しました。私の仮説は、そのうま味の濃さからして、臭くない”くさや液”の開発に成功し、内緒にしているのではないか、というもの。その後、どうしても気になり、調べてみました。ほぼ当たりでした。臭くないくさや液は開発していませんでしたが、ただの塩水ではなく、しょっつる(魚汁)に近いものを通してから干していました。納得です。道理でうま味が濃いわけです。

この話を自慢気に話すと、物知りから、日本中の干物はそうやって作っている、と言われました。魚を塩水に通している間に、魚のうま味が溶け出しているというのです。だとすれば、他の干物は、結果としての魚汁で、沼津では、魚汁を多少発酵させ、ライトな魚醤を作ったうえで魚を通しているということだと思います。他の港でも、魚醤を使えばいいのに、と思いますが、おそらく塩分が濃くなりすぎるという問題があるのでしょう。ひょっとすると、私が沼津の干物を美味しく感じるのは、塩分の濃さも関係しているかも知れません。まあ、いずれにしても沼津の干物は、格別にうまいわけです。

魚汁を発酵させて作る魚醤は、歴史の古いうま味調味料であり、世界各地にあります。日本では、秋田のしょっつる、能登のいしるが有名ですが、各地に同様のものがあります。外国では、ヴェトナムのニョクマム、タイのナンプラーが有名ですが、これまたアジア中に存在するようです。もっと言えば、アンチョビ・ペーストも魚醤の一形態と言えそうです。

梁盤秘抄 #1 Palo Congo

後白河法皇は、今様を好み、後世、それらが失われることを恐れ、「梁塵秘抄」を編纂したと言います。梁塵とは、美声で知られた魯の虞公が歌うと梁の上の塵まで動いた、という故事から、音楽に優れることを言います。これはすごいと思うアルバムについて書いていきたいと思います。

アルバム名:Palo Congo(57)   アーティスト:サブー・マルティネス

大ヒット映画「ブエナビスタ・ソシアル・クラブ」のなかで、ピアノのルーベン・ゴンサーレスが、プロとして始めて参加した楽団のリーダーについて「盲目のギタリストで、大男だった。よく殴られたもんだよ」と語ります。盲目の大男とは、アルセ二オ・ロドリゲス。キューバを代表するギタリストです。

「Palo Congo」は、1957年、コンガ奏者のサブー・マルティネスが、アルセ二オ・ロドリゲスをNYに迎えて録音しました。というか、ロドリゲスが好き放題にやっている、ほぼロドリゲスのアルバムだとも言えます。ロドリゲスは、平生、ハバナで、白人向けビッグバンドを率いていました。野太い音、独特のリズム、聞いたらすぐにロドリゲスと分かる唯一無二のギタリストです。ルイス・”サブー”・マルティネスは、ディジー・ガレスピーやアート・ブレイキー等とも共演したコンガ奏者ですが、ジャズのリーダー・アルバムも何枚か出しています。

ロドリゲスは商売でやっている白人向けビッグバンドから離れ、サブーは商売でやっているジャズから離れ、二人のルーツであるアフロ・キューバンにどっぷり浸ります。まるで、日ごろの憂さを晴らすかのようにエネルギーがほとばしる怒涛の演奏。ギター、ベース、コンガ、パーカッションにヴォーカルというシンプルな構成ながら、奥深い世界を作っています。延々と続くリフは、もはやブードゥーの秘儀に参加しているかのような気分にさせられます。

キューバのソンは「ブエナビスタ・ソシアル・クラブ」で大人気となったわけですが、とても洗練された音楽です。「Palo Congo」は、そのルーツをはるかに遡った源流。ソンだけではなく、サンバやブルース等、南北アメリカ大陸の音楽の水源でもあるアフリカとアメリカがぶつかった日の音に近いと思います。
写真出典:hmv.co.jp

2020年7月22日水曜日

十九の春

那覇の国際通り周辺には、島唄を聞かせる店が多くあります。有名歌手の歌をじっくり聞かせる店もありますが、多くは観光客相手。若い歌い手の皆さんが、明るく盛り上げ、最後は、皆でカチャーシーという流れです。そこでは沖縄民謡「十九の春」も定番。ヤマトグチ(共通語)で歌われる数少ない島唄であり、よく知られた曲なので、当然の選曲だと思います。おしなべてアップテンポで明るく歌いますが、悲しい恋の唄なので、やや違和感があります。

「十九の春」の元歌は、明治末期に流行した「ラッパ節」だと言われます。兵士や労働者の目線で社会を風刺した俗謡。明治初期の軍歌「抜刀隊」の一節とも言われます。昭和初期、添田唖蝉坊がヒットさせましたが、もともと日本各地に様々な歌詞があったようです。明治末期、飢饉に見舞われた与論島の人々は、九州へ集団移住。石炭の積み出しに従事しますが、奴隷的労働、差別的取扱といった地獄を見ます。唯一の楽しみがラッパ節であり、それを元に「与論小唄」が誕生します。

沖縄本島に伝わった与論小唄は、「じゅりぐぁー小唄」になります。じゅりぐぁーとは娼婦のことで、唄は主に花街で歌われました。基本的には、男女の恋の掛け合い歌で、即興で歌われることが多かったようです。二百数十の歌詞が記録に残っていると聞いたことがあります。もともと恋歌ですが、決して悲恋の歌ではなかったわけです。後に島唄の大御所となる本竹裕助がヤマトグチで作詞、昭和50年に田畑義男がカバーして大ヒットしたバージョンは、20歳代後半と思しき(これは勝手な想像です)娼婦と妻子ある馴染み客との実らぬ恋路を歌っています。

恋の掛け合い歌を悲恋の唄に仕立てたことから、「十九の春」は沖縄の歴史を自虐的に歌っている、という説が出てきます。女性が琉球、男性が日本、という見立て。「十九の春」とは琉球が日本に組み込まれたこと、「今さら離縁」とは進駐軍による占領、占領は如何ともしがたいと日本が言えば、復帰させる気がないなら早く言えと琉球。同じ国なのに会えないのはつらいと日本。「奥山育ちのウグイス」とは、世間知らず、あるいは自ら何もできない琉球のことだというわけです。
本竹裕助のオリジナル「十九の春」        出典:youtube.com

2020年7月21日火曜日

日本の翼

ワシントンDCのスミソニアン航空宇宙博物館で、Mitsubishi Zero 、つまりゼロ戦の実物を見た方も多いはずです。ドイツの名機メッサーシュミットと並んで敵国機の部屋に展示されています。かつて軍用機の生産で世界をリードした両国ですが、敗戦後、航空機の生産を禁止されます。保有する航空機はすべて破壊され、製造会社も解散、大学の航空力学の講座すら禁止されます。

三菱重工は、技術を保全するために、進駐軍の航空機のメンテナンスを受注し、とにかく飛行機に触り続けようとしました。超一流の技術者まで、簡単なメンテナンスしかできなかった日々は、実に切ないものだったと言います。航空自衛隊が発足すると、練習機のノックダウンが開始され、サンフランシスコ講和条約によって再独立した後、1957年に至り、航空機生産が解禁されます。

56年、通産省主導で輸送機設計研究協会が発足します。国内の主だったメーカー、そしてゼロ戦を設計した堀越二郎はじめ、軍用機設計で名をあげた技術者たちが再結集し、再び日本の翼が日本の空を飛ぶ日を目指します。YS11が就航したのは、64年でした。2号機は、アテネから東京オリンピックの聖火を運びました。ちなみに、Yは輸送機、Sは設計、研究協会の名前がそのまま使われたわけです。

エンジンと電子機器の国産化はできませんでした。軍用機設計者たちが作った機体は頑丈さとバランスの良さで知られる一方、重く、操縦性が悪いとも言われます。それでも信頼性は高く、海外からの受注が増えていきました。ある意味、それがYS11の終わりの始まりでした。YS11最大の問題は、機体ではなく経営にありました。日本は、あまりにも航空機ビジネスを知らな過ぎました。赤字が嵩んだYS11の生産は、73年、182機で終了。旅客機としての運用は2006年に終了しています。技術革新、環境変化の激しい時代に、飛行機を作れない空白期間が存在したことが、たたりました。

現在、三菱スペースジェットが、型式証明を目指していますが、すでに7年遅れ。自前のエンジンまで搭載したホンダジェットは、小型ビジネス機では世界一売れています。飛行機は50年ビジネスと言われます。20年で開発、30年メンテナンス、それでようやく収支トントン。空はロマンの世界とも言えます。
写真出典:jal.com

2020年7月20日月曜日

トンブクトゥ

トンブクトゥは、マリ共和国北部、青の民トゥアレグ族の街です。歴史地区は、世界遺産に登録されています。日本では、あまり馴染みのない街ですが、欧州の人たちは、皆、トンブクトゥを知っています。ただし、実在する街とは知らない人が多いようです。というのも、欧州でトンブクトゥと言えば、地の果て、あるいはどこか遠い所、という意味で使われている言葉だからです。

サハラ砂漠の南西端に位置するトンブクトゥは、北アフリカ・欧州とブラック・アフリカの交易中継地として大いに栄え、16~17世紀に全盛を迎えます。金銀財宝で溢れる街は、黄金郷として欧州に伝わります。しかし、海の交易路が主流になるとともに衰退し、モロッコの侵略を受けた街は往時の輝きを失います。かつて栄えた交易拠点なら世界中にありますが、トンブクトゥには他と異なる特徴があります。成功した商人たちが貴重な文献の収集に力を入れ、イスラム社会を代表する教育拠点になったことです。

トンブクトゥ写本と呼ばれる文献類は、街の衰退とともに散逸しますが、20世紀後半、世界中の協力を得て、再びトンブクトゥに集められます。2012年、写本は重大な危機に直面します。マリ政府に敵対する複数のイスラム過激派によって支配されたトンブクトゥでは、聖廟の破壊等が行われます。写本も燃やされたという報道が流れます。ところが写本類は、奇跡的に、すべて無事でした。

写本収集の中心人物でもあったトンブクトゥ国立図書館員アブデル・カデル・ハライダは、過激派の目を盗み、深夜に小分けした写本をロバに載せ、多くの民家へと移します。さらに、夜陰に乗じて若者たちが船やトラックに載せて、首都バコマへと運び出しました。すべて運び出すためには、数か月という時間と多くの住民の協力が必要でした。武装した過激派の目の前で、密やかに行われた文化財の移送作戦は、ノーベル賞に値するのではないかと思います。

ちなみに、マリ政府の要請を受けたフランス軍によって、過激派は制圧され、トンブクトゥは解放されます。2013年、過激派は、その報復としてアルジェリアの石油精製プラントを襲撃、200人を人質にとります。5日後には、アルジェリア軍特殊部隊が突入・制圧しますがが、双方に80人の死者がでます。残念ながら、うち10人は日本人でした。
写真出典:aflo.com

2020年7月18日土曜日

焼きそば

焼きそばは好きな食べ物です。中華の炒麺も、ソース焼きそばも、塩焼きそばも好きです。ただ、あまり食べません。近年は、全国各地にご当地焼きそばがあります。簡単な料理ですから、アレンジもしやすいのでしょう。どれも美味しいだろうと思いますが、意味があるほどの違いは見いだせず、積極的に食べることもありません。

中華料理屋の炒麺は、他に食べたいメニューが山ほどあるので、自分から注文することはありません。唯一の例外は、神保町の「揚子江飯店」の上海炒麺(上海式肉焼きそば)。明治39年創業の揚子江飯店は、冷やし中華発祥の店として有名ですが、もう一つの名物が上海炒麺です。池波正太郎の大好物だったそうです。醤油味の炒めた麺に、細切肉、もやし、玉ねぎ等がのっています。あんかけではありません。実にシンプルなのですが、癖になる味で、年に何度か食べに行きます。

ソース焼きそば、塩焼きそばも好きですが、わざわざ店に行く、注文するということは、ほぼありません。自分で作ることも稀です。なぜなのか考えてみると、私の頭の中で、焼きそばは、食事ではなく、小腹が空いた時のおやつという分類になっているようです。実家のメニューに焼きそばはありませんでした。焼きそばを定期的に食べていたのは、中学時代。日曜に行われる剣道部の朝稽古の帰りには、必ず皆で焼きそば屋に寄っていました。朝飯と昼飯の中間です。歳をとると、さすがにおやつに焼きそばは重たく、結果、焼きそばを食べる機会も減っていたわけです。

そういえば、かつて有楽町のガード下に、立ち食いの「後楽そば」があった頃、名物が焼きそばで、これはたまに食べていました。もちろん、おやつとしてですが。大阪では焼きそば定食が定番らしいのですが、うまいだろうなと思います。ただし、食事として注文することはないと思います。ちなみに、私が一番うまいと思っているソース焼きそばは、難波の「味乃家」。ソースが美味しく、麺はちょうどいい塩梅、実にバランスの良い逸品。ソースも売っています。何度か買って帰りましたが、そもそも家で焼きそばもお好み焼きも作らないので、最近は買っていません。

ちなみに、ペヤング・ソース焼きそばは好物です。年に何度か食べます。おやつとしてですが。ただ、ペヤングはペヤングという独自の食べ物で、ソース焼きそばとは別物だと思います。
揚子江飯店の上海炒麺   写真出典:tabelog.com

老兵は死なず

老兵は死なず ただ消え去るのみ

1951年、ダグラス・マッカーサー元帥が、米国議会で行った退任演説の有名なフレーズです。日本におけるマッカーサー人気も相まって、知らぬものとていない名文句。退任、定年等の挨拶では定番となっています。なんとなく格好いいので使われますが、本当の意味はよく分からないフレーズです。

まず元歌がいまいち不明。マッカーサーは、単に「当時、最も有名だった軍歌の一つ」と言っているだけです。これだろうと推定される歌はあります。兵卒がみじめな軍隊生活を自嘲的に歌っているだけです。「(その歌は)大いなる誇りをもって『老兵は死なず、ただ消え去るのみ』と宣言しています」とマッカーサーは続けます。「兵隊さんはかわいそうだね」的な歌を、誇り高くとは言わないでしょうが、恐らく、一兵卒として国に尽くしてきた、あるいは命令に忠実であった、ということをアピールしたのでしょう。そしてマッカーサーにとって大事だったのは、歌全体の内容ではなく、リフの言い回しだけだったと思われます。

「老兵は死なず」とは、戦場を生き抜いたから老兵だということなのか、歴戦の老兵は簡単には死なないぞということなのか、よく分かりません。もっと難しいのが「ただ消え去るのみ」です。単に勇退するということなのか、あるいは自嘲的にどうせ消耗品ですよ、と言いたいのでしょうか。少なくとも日本では、へりくだって自分を老兵と呼びつつ「それなりに戦ってきました。まだ元気ですが、勇退の時を迎えました」といった意味で使われています。マッカーサーは、どんな意味で使ったのでしょう。

マッカーサーの真意は、歌自体を研究しても分からないと思います。単にリフを利用しただけであり、リフに秘めた真意がすべてだと思います。赫々たる戦果を挙げつつも、統制違反でトルーマン大統領から解任されたマッカーサーのくやしさ、そして解任されても大統領選に出馬するぞ、という、ある意味、トルーマンへの挑戦状なのでしょう。そう考えると、定年や退任の際の挨拶に相応しい言葉とは思えません。喧嘩売ってるようなものですから。
米国議会で退任演説を行うマッカーサー元帥  出典:sankei.com

2020年7月17日金曜日

「はちどり」

2018年韓国   監督:キム・ボラ

☆☆☆☆

思春期の少女と過渡期の韓国社会を、丁寧かつ無理なく重ね合わせた作品。初監督作品ながら、実にそつのない演出が見事。主役を演じた少女の演技が見事。思春期や変貌する社会を描こうとすれば、わりと臭くなりがちです。しかもメタファーに溢れる作品は、図式的になりすぎる傾向もあります。ところが、押しつけがましさのない演出、慎重に丁寧に構成された脚本、そして主役の少女の自然な演技があいまって、そんな懸念をさらりと乗り切っています。

エンターテイメント色が濃くなければヒットしない韓国で、この映画が、なぜ大ヒットしたのか不思議です。多くの賞を受賞するいほどよくできた映画であることもあるでしょうが、韓国社会の過渡期を、かなり丁寧に描いたことが共感を呼んだのでしょう。また、近年、青瓦台の顔色をうかがうような作品が多い中、とてもフラットな描き方をしたことも新鮮さにつながったのでしょう。

時は、軍政から民政に移行し、国際化が進み始めた頃です。97年のIMF危機に向かって動き始めた頃でもあります。映画が、最も象徴的に描いているのは、家父長制崩壊の兆しです。それを思春期の少女の心の成長とリンクさせたところが、この映画が成功したポイントだと思います。家庭内の微妙な変化に加え、金日成死去、ソンス橋崩落、立ち退き反対、受験戦争といった道具立てが、きれいにリンクしていきます。

特に、ソンス橋崩落に、多くのメタファーを集約させることで、見事なドラマを構成しています。家父長制や男尊女卑に代表される古い韓国社会の崩壊、主人公に大人を伝える塾教師の死、不良ゆえにバスに乗り遅れた姉の幸運、社会秩序崩壊の兆しにおののく暴力的な兄等々。監督の力量の高さを感じさせます。ただ、思春期の不安定さを伝えるファースト・シェークエンスだけは、やや思い入れが強すぎて、浮いていたかもしれません。
写真出典:animoproduce.co.jp

営業昔話(13)商品か営業か

昔々、商品が悪い、営業が弱い、と喧嘩している人たちがいたとさ。

「営業は強いのに、商品が悪いから売れない」とセールス・サイドが言えば、マーケティング・サイドは「商品はいいのに、営業力がないから売れない」と言うわけです。よく聞く話ですが、いずれも事の本質が分かっていない発言です。極端に言えば、どんな商品でも売るのがセールスであり、セールス不在ても売れる商品を作るのがマーケティングです。

2004年、二度目のリコール隠しに、三菱自工は社会的糾弾を受けます。その頃。三菱の車が路上で燃えると、映像付きのトップ・ニュースになっていました。車は、たまに燃えるものです。日本で一番燃えてる車は、明らかにトヨタ車。トップ・シェアだからです。そんな状況下、うちは会社の車も、家の車も三菱以外は乗らない、と言い切る中小企業の社長にお会いしました。三菱とは仕事上の関係はなく、ただ担当の営業マンを信頼しているからだ、と言っていたことが印象に残りました。

同じころ、三菱自工の営業担当役員にも会いました。「売上は3割まで落ちた。でも、いい車を作れば、必ず回復できる。最大の問題は、営業担当者が半分まで減ったことだ。これを回復するには、どれだけ時間がかかることか」と言っていました。誰が顧客をつかんでいるのか、それを明確にご存知だったわけです。

営業とは何か、その答えは、格言めいたものも含め、山ほどあるでしょう。また、 営業に携わる人は、 一人ひとり、それぞれの答えを持っているべきだとも思います。 私は、 煎じつめれば、 顧客を思いやる誠意だと思います。 ですから、 商品か営業か、 という問いは無意味。 その顧客にとって、 意味のある商品なら勧め、 意味がないなら勧めない、 ということになります。 その姿勢が、 永い信頼関係を築きます。

車の営業の話を、 もう一つ。 永くホンダに乗っている知人がいました。 営業担当者は、 半年に一度、 必ず顔を出すと言います。 そして、 必ず「あなたは、 本当にいい車を買った。 いつまでも大切に乗ってください 」とだけ言って帰るというのです。車の営業は、 新車を売って、 初めて成績が立つ世界にもかかわらず、ですよ。もちろん、知人は、その担当者から離れられなくなっていました。
写真出典:cio.com 

2020年7月16日木曜日

星になる

1972年、イスラエルのテルアビブ空港で乱射事件が発生。26名が死亡、73名が重軽傷を負います。一般市民を対象とする無差別テロは前代未聞であり、世界が驚愕します。パレスティナ解放人民戦線(PFLP)が計画し、実行したのは日本赤軍の3名でした。うち2名は、現場で射殺され、1名が逮捕されます。鹿児島大学生・岡本公三です。岡本は、法廷で「我々は死んでオリオンの星になる」と陳述します。極左テロリストは、大儀に殉じて、より大きな連帯を希求するロマンティストが多いのでしょう。

事件の半月ほど前、PFLPは、テルアビブ空港で、ハイジャックしたサベナ機の乗客を人質に、仲間の解放を要求します。しかし、交渉を拒否したイスラエルによって制圧されます。PFLPは、その報復として、空港襲撃を計画しますが、パレスティナ人では警戒されます。日本人なら怪しまれないので、義勇軍として合流していた日本赤軍に実行を依頼しました。

日本赤軍最高指導者 重信房子
1955年、日本共産党は武装闘争路線を放棄。それを不満とした学生党員らが、ブントと呼ばれる共産主義者同盟を結成します。いわゆる新左翼のスタートです。60年安保闘争に敗北したブントは分裂。その後、世界中で起きた学生運動は、党派を超えた全共闘が中心となり、70年安保闘争へと続きます。再び敗北した新左翼は派閥争いを激化。集合離散が続くなか、極左では、よど号ハイジャック事件等を起こした赤軍派から、山岳ベース事件やあさま山荘事件を起こした連合赤軍、そして日本赤軍が誕生しました。

日本赤軍によるテルアビブ空港襲撃事件は、その後の世界に二つの大きな流れを生み出します。一つは、空港のセキュリティ強化。今一つは、アラブ過激派による自爆テロです。それまでの主な闘争手段はハイジャックでした。イスラムでも自殺は認められていません。しかし、死を前提とした日本赤軍のテロに強く影響されたアラブ過激派は、ジハード(聖戦)の論理を持ち込みます。ジハードの戦死者は天国で安楽な生活を送れるというクルアーンの一節が持ち出されます。ジハードは、公式に選出された宗教指導者ムフティーの宣言によってのみ成立します。自称ムフティーたちのジハード宣言で天国の門が開くことはありません。
写真出典:sankei.com

2020年7月15日水曜日

ハバナ・ムーン

2016年3月25日、ハバナのシウダード・デポルティーバに、50万人を超す市民が集まります。夜8時35分、キース・リチャーズのギターが、ジャンピング・ジャック・フラッシュのあのイントロをかき鳴らします。キューバにとって、実に半世紀ぶりの、そして過去最大のロック・コンサートは、ローリング・ストーンズのフリー・ライブでした。永年恋焦がれたストーンズのライブに、会場は歓喜に沸き、皆がジャンプします。ある者はキューバの新しい時代に感動し、ある者は苦しかった青春を思い、泣き出します。

ストーンズは、ロシア、中国、南米等、永らくロックが禁止されていた旧共産主義国家や軍事独裁国家でライブを敢行、自由の風を届けてきました。60年のキャリア、数々のヒット曲等とともに、ストーンズの賞賛すべき偉業だと思います。キューバでのフリー・コンサートは、その集大成のように思えます。どんなに禁止されても、各国には、必ずストーンズ・ファンがいます。若者がいれば、ストーンズがいる、と言っても過言ではありません。

ストーンズの魅力は、「「ストリートのカッコよさ」だと思います。ストーンズは、一度たりともストリートを離れたことがありません。いつも、いつまでも、街の兄ちゃんたちであり、生涯の不良です。カッコよさは、世間に媚びないこと、ノリがいいこと、皆を喜ばせようとしていること、そしてブルースがベースにあることから来ていると思います。ストーンズも、ストーンズのファンも、まったく成熟しない奴らです。でも、それをロックと呼ぶんじゃないですか。

キューバでのフリー・ライブを記録したドキュメンタリーのタイトルは「ハバナ・ムーン」。ハバナ・ムーンは、チャック・ベリーのファースト・アルバムに収録されている曲です。アメリカ娘に捨てられたキューバ男の歌。リリースは、1957年。フィデル・カストロがハバナに向けて進軍を開始する前年です。革命を成就させたカストロは、当初、アメリカとの友好関係を築こうとします。しかし、親米政権を倒されたアメリカは、カストロを拒否します。カストロはソヴィエトに頼るしかありませんでした。ハバナ・ムーンというタイトルは、とても意味深です。
出典:uDiscover

2020年7月14日火曜日

大将たる者

大山巌元帥陸軍大将
日露戦争初期、1904年10月、遼陽会戦で敗れ、奉天まで撤退していたロシア軍は、クロパトキン大将率いる22万の大兵力をもって南下、沙河付近で反転攻勢をかけます。薩摩藩出身の大山巌大将率いる帝国陸軍は12万と劣勢ながら、これをよく守り、退けます。この沙河会戦の最中、ロシアの大軍に押されて殺気立つ参謀本部に、昼寝から起きた大山巌大将が顔を出し、「ドンパチ、ドンパチと、今日もどこかで戦(ゆっさ)でごわすか?」と言ったそうです。浮足立っていた参謀たちは、その一言で冷静さを取り戻し、効果的な反撃作戦を展開できたと伝えられます。

大山巌大将は、西郷隆盛の従兄弟。若いころは砲術の俊英として名をあげ、後には意識的に大物の風情を醸し出していたそうです。沙河会戦時の話には、さすが大物、これぞ日本の大将、と言いたくなりますが、実は真っ赤なウソ。後の創作どころか、捏造でした。記録に基づけば、大山巌大将は、本部に詰め、情報収集、戦況分析、作戦立案のうえ、全軍に指示を出し続けていました。前線に立つ司令官として、当然の姿です。大物話を捏造したのは、陸軍の中核を担う若手参謀たちでした。

海外で研鑽を積んだ彼らにとって、サムライの生き残りである大将たちは目障りな存在でした。そこで、大将たる者、豪放磊落、太い肝を持ち、委細部下に任せるもの、という神話を作り、流布します。この作戦は、恐ろしいほど成功します。昭和期に頻発する参謀たちによる独断専行の下地が作られたわけです。また、大物論は、日本人のリーダー像に、今も影響を残しています。

日本におけるリーダーシップ論は、ややもすれば資質論として語られます。古代中国の皇帝や日本の武将たちを引き合いにだした話は魅力的です。私も大好きです。実に面白いのですが、まったく実践的ではありません。経営学を確立したピーター・ドラッカーは「リーダーシップとは資質ではなく、仕事そのものだ。」と言い切っています。リーダーには成すべきことがあり、それを確実に実行せよ、という機能論です。まったくそのとおりだと思います。ただ、大物話とは異なりますが、リーダーの品格という問題は存在するように思います。品格の源泉は、信念だと考えておりますが。
写真出典:jpreki.com

2020年7月13日月曜日

「在りし日の歌」

2019年中国    監督:ワン・シャオシュアイ

☆☆☆+

中国第六世代の名匠ワン・シャオシュアイの3時間を超す大作。不幸な事故で息子を失った夫婦の30年。ちょうど中国が大きく変貌した時代を描いています。ただ、時代を語る口調が、やや生ぬるい点がもどかしいところです。検閲の関係で、これが精一杯なのでしょうが。主演の二人は、ベルリン映画祭で主演男優賞と主演女優賞をダブル受賞。抑えたいい演技でした。手練れたスキのない演出もさすがです。音楽が、また面白い。説明的音楽はなくて、「蛍の光」が効果的に繰り返されます。原曲は、スコットランド民謡であり、変わらぬ友情を歌っています。本作の原題「地久天長」は、蛍の光の中国語タイトルでもあります。

不幸な事故や国家政策に翻弄された二組の夫婦の友情は変わることがなかった、という物語は、国家のあり方に惑わされることなく、国民は一致団結しよう、と言いたいのかもしれません。回想が交差する複雑な時間軸ですが、時系列的に社会背景を見れば、国営企業がすべてだった時代、一人っ子政策の展開、市場経済化で崩壊する国営企業、改革開放で甘い汁を吸う党幹部、甘やかされた子供たち、海外への展開、格差の拡大といった流れでしょうか。大きな変化に翻弄され続けた民衆こそ、監督が描きたかったところなのでしょう。

過日、中国系アメリカ人監督による「一人っ子の国」(2019)というドキュメンタリー映画を見ました。一人っ子政策が、単なるスローガンではなく、残酷な徹底力をもっていたこがよくわかりました。中絶、不妊手術が強制され、母性を否定され女性たちが泣き叫び、党の末端にいる普通の人々が中絶を強制する、政府はその成果を表彰する、地方幹部は海外への違法養子ビジネスで儲ける。本作に描かれた一人っ子政策や、それに関わった人々の苦悩は、どこにでもある光景だったのでしょう。

指名解雇を行う国営企業の党幹部が「もう鉄の椀はない!」と叫びます。久しぶりに聞いた言葉です。「鉄の椀」とは、国家が食い扶持を保障するという意味で、完全雇用を象徴しています。映画は、国営企業が社会そのものだった時代を、皆が貧しく、皆が平等で、皆が幸せだった時代として描いています。

パリスの審判

結婚式に招待されなかった不和の女神エリスは、祝宴に乗り込み、最も美しい女神に与えるとして黄金の林檎を残します。三人の女神がこれを争います。ゼウスは、羊飼いパリスに審判を委ねます。パリスは、トロイの王子ですが、トロイを滅ぼす原因になるとの予言から、羊飼いにさせられていました。三美神は、それぞれパリスに賄賂を提示します。ヘーラーは富と権力、アテーナーは戦場の誉れと名声、アフロディーテーは最も美しい女性。パリスは、アフロディーテーに林檎を渡します。

アフロディーテーは、約束どおり、ギリシャで一番の美女ヘレネーを差し出します。パリスとヘレネーは恋に落ちますが、ヘレネーはスパルタ王の妻でした。二人は、トロイへと駆け落ちします。これを原因として、十年に及ぶギリシャとトロイの戦いが勃発。アキレスの活躍もありましたが、最終的には木馬の策略によってトロイは滅びます。ご存知「パリスの審判」です。ギリシャ神話らしい、示唆に富む因縁話です。実は、もう一つの「パリスの審判」があります。

1976年、パリで行われたワインの品評会です。建国二百年祭に際し、当時まだ無名だったカリフォルニア・ワインをプロモートするため、アメリカが提案した米仏ワイン対決です。ムートン・ロートシルトをはじめとする有名シャトー勢に、まだ無名に近かったナパ・ヴァレーが挑みます。まるで大人と子供の喧嘩。結果のしれた無謀な挑戦でした。フランスの名だたるワイン専門家たちが集められ、ブラインド・テイスティングが行われます。結果は、意外にも、赤・白ともナパ・ヴァレーのワインが一位に選ばれます。まさに天地がひっくり返った瞬間。ブルゴーニュのロマネ村じゃなくても、品種・土壌・天候に恵まれれば、世界中、どこでも美味しいワインができることが発見されたわけです。

「パリスの審判」は、世界に大きな変化をもたらしました。世界中でワインが作られるようになったのです。収まりのつかないフランスは、同じ条件で、10年後、20年後にパリスの審判を行っています。ただ、結果は、いずれもナパの勝ちだったそうです。とは言え、フランス・ワインの地位が低下したわけではありません。ナパを代表するオーパス・ワンは一本4~5万円。対して、ロマネ・コンティは、安いものでも、その10倍はします。
オーパス・ワン  写真出典:katachi-wine

2020年7月12日日曜日

茶碗に手を出すな

「茶碗に手を出すな」は、我が家に伝わる家訓です。書画骨董の類は、すべて同じでしょうが、ことに陶芸は、好きになると、おおむね病膏肓(こうもう)に入るもののようです。気にいったお手頃な品を買っているうちに、目が肥え、いいものが欲しくなる。すると、さらに目が高くなり、より高価なものに手を出す、というわけです。茶碗の魅力は、書画のそれとは明らかに異なります。道具としての親しみ、手にとる土の実感、人間の技と自然が生み出す偶然性。他では得られない魅力があるのでしょう。

北大路魯山人
川喜多半泥子
「東の魯山人、西の半泥子」とは昭和を代表する二人の陶芸家。二人とも、別な世界で名をあげた後に作陶を始めています。北大路魯山人は、書家として名を成し、美食家としても知られていました。魯山人は食の世界から陶芸の道へと進みます。半泥子こと川喜多久太夫政令は、豪商の末裔にして、百五銀行のオーナー頭取でした、多芸だったようですが、作陶は50歳を過ぎてから取り組みました。

名家に生まれた名工も多い中、なぜこの二人の名前があがるのか、その理由がここにあると思います。二人以前の陶芸は、狭い世界で成立していました。二人は、より広い世界から茶碗の魅力を見出し、広い世界へとその魅力を解き放ったと言えるのでしょう。魯山人は、食文化と陶器を融合させ、陶芸をより身近なものへと変えていきました。半泥子は、肩の力を抜いた、人間味あふれる作風で知られます。陶芸をより親しみの持てるものへと変えたのだと思います。

二人の共通点が他にもあります。半泥子は、生後間もなく、祖父と父を失い、まだ若かった母親は実家に帰され、祖母の手で育てられます。魯山人の父は、京都に代々続く神職の跡取りでしたが、魯山人が妻の不貞の子と知り、自殺します。魯山人は、6歳で木版師の養子に出されました。境遇は違えども、両親の愛情を知らずに育った二人が、壮年になって作陶にのめり込む。二人には、土の暖かさが必要だったのかも知れません。
魯山人写真出典:wagen-memo-jugem      半泥子写真出典:chitose.co.jp

2020年7月11日土曜日

春香伝

1997年、アジア通貨危機が発生すると、急速に外貨準備を減らした韓国は、IMFの支援を要請するしかありませんでした。IMFは、財政再建に向け、財閥解体、雇用法見直し等、徹底的な自由化政策を推進。中小企業の倒産が相次ぎ、街には失業者があふれます。一方、IMFは外貨獲得のための政策も展開します。その一つが、映像・音楽コンテンツの輸出でした。BTSによる全米ヒットチャート№1、ポン・ジュノ監督「パラサイト」のアカデミー作品賞獲得は、韓国が20年積み上げてきた国家政策の成果でした。

パンソリ     出典:konest.com
私は、韓国映画をよく見ます。エンターテイメント性が高く、特に脚本の素晴らしさには驚かされます。ただ、多くの外貨を獲得しているのはドラマの方だと思われますが、私は、一切見ません。ぶっ飛んだ設定に、強烈にくどい展開、どうも苦手です。そこで多く使われている構図が「才子佳人」です。地位や資産ある男性と市井の女性との恋愛。よくあるパターンですが、韓国の場合、その原型はパンソリの代表作「春香伝」にあると言われます。

地方に代官として赴任したヤンバン(両班・貴族)の息子・夢龍と、地元のキーセン(妓生・芸妓)の娘・春香が恋に落ちる。夢龍とその家族は、転勤で都に戻る。後任の代官がひどい奴で、春香を手籠めにしようとするが、拒否され、投獄・拷問する。都で科挙に合格した夢龍は、監察官として戻ってきて、代官の悪事をあばき、春香を助けだす。二人は身分の差を乗り越え結ばれる。

代官にいじめられる娘の苦悩、恋する二人に立ちはだかる身分の格差等、いくらでも話を膨らますことができます。歌い手と太鼓だけで演じられる民間芸能パンソリは「ハン(恨)」の文化を体現すると言われます。ドラマティックに歌い上げるパンソリに春香伝はピッタリの演目。ちなみに上演時間は、休憩なしで最低8時間かかると聞きます。

「才子佳人」パターンは、世界中にあります。ただし、それは身分格差が大きかった過去のものであり、時代劇でのみ見られる構図です。しかもかなり使い古した定番パターンにすぎません。それが韓国では、今でも現代劇でよく使われているわけです。韓国が抱える格差社会という問題点の一つが、ここにはっきり現れています。

世界は驚きに満ちている

「世界は驚きに満ちている」ワクワクさせられるいい言葉です。ユダヤ教ハシディズム派の創始者バアル・シュム・トーブの言葉ですが、正確には「世界は驚きと奇跡に満ちている。しかし、人間は、その小さな手で目を覆い、何も見ようとはしない」となります。私は、自分の好奇心の在り様との関わりにおいて大好きな言葉ですが、本来的には、汎神論的な、あるいはユダヤ教の万有内在神論的な世界観を伝える言葉です。

ハシディズムは、18世紀、東ヨーロッパに始まります。学究的で厭世的な神秘主義的方向へ進みすぎたユダヤ教を、より日常的な信仰生活を通じて神を見出す方向へと軌道修正しました。敬虔主義運動とも呼ばれます。17~18世紀、キリスト教でもイスラム教でも、権威主義に陥った宗教を信者に取り戻すといった復古的、原点回帰的宗教運動が起こります。まさに啓蒙主義の時代でした。ハシディズムの誕生も同じ流れのなかにあるのでしょう。

ユダヤ教は行動を重視する宗教であり、敬虔なハシディズムは、一層、厳格に宗教的生活を求めます。例えば、服装や身だしなみもその一つです。黒い帽子、黒いコート、白いワイシャツにノーネクタイ、ひげ、カールさせた長いもみあげ。男性は、完璧に同じ格好をしています。しかも必ず複数人で行動するので、遠目でもすぐ分かります。ハシディズム派であふれるNYのダイヤモンド・ストリートは、とてもアメリカとは思えない光景です。

近年、ハシディズムをテーマとした映画、ドラマ、ドキュメンタリーが多いように思います。Netflixのドキュメンタリー「One of Us」(2017)もその一つ。ブルックリンのハシディズム・コミュニティから独立しようとする若者を通じて、ハシディズムの実態を描いています。敬虔な宗教生活、独自の言語、独自の教育を持つ排他的コミュニティを抜けることは容易ではありません。コミュニティ最大の目標が、いまだにホロコーストから同胞を守ることだと言います。信じがたい話ですが、それがコミュティの引き締めに使われているわけです。衰退期の組織にありがちな恐怖による支配です。「世界は驚きと奇跡に溢れている」という言葉からは、随分と離れているように思えました。
写真出典:ny daily news

2020年7月10日金曜日

たんす預金

2004年の中越地震の際、エコノミークラス症候群が注目されました。自宅前の自家用車で避難生活を送る人々の間に症状が広がり、死者も出ました。食事や救援物資も豊富な避難所があるにも関わらず、避難場所として車を選択する理由が分かりませんでした。そこで、土地の人たちに聞いてみたところ、多かった答えは、ペットでした。犬は家族だ、避難所はペット禁止だからやむを得ない、というわけです。

地元金融機関で、この話をすると、「違うよ。たんす預金があるから家を離れられないんだよ。」と言われました。銀行に預ければ安心じゃないですか、と聞くと「田舎の人は、隣人に、いくら金を持っているかを知られたくないものだ。銀行員は、近所の息子や娘。それが嫌なんだよ。」守秘義務や職業倫理と言っても、通用しないのでしょうね。農村の保守性からすれば、納得できる話です。

日本のたんす預金は、50~80兆円と推定されています。個人の現預金は1,000兆円ですから、結構な規模です。その動機は、金融機関不審、へそくり、脱税等、いずれにしても「人に知られたくない」ということだと思われます。デメリットとしては、盗難、火災、災害、そして利益獲得機会の喪失。東日本大震災では、津波で相当のたんす預金が流出したものとみられます。近年続く豪雨水害でも、かなり流出していることでしょう。

社会的問題としては、流通するマネーの減少が、経済規模を縮小することです。米国では、麻薬合法化の議論が絶えません。非合法であるために、犯罪組織拡大、中毒の野放図な拡大等とともに、年間16兆円と言われるナルコ・マネーのアングラ化が進んでいます。また、ヴェトナムで聞いた話ですが、ヴェトナム人は、自国通貨であるドンを信用していないので、米ドルやゴールドを持ちたがると言います。その規模は、一人当たりGDPに換算すれば2,000ドル超に相当するとのこと。これを表の経済に参入すれば、ヴェトナムの一人当たりGDPは、一気に倍増します。

ナルコ・マネーも、ヴェトナムの米ドルも、流通している限りにおいては、なにがしかの富を生みます。しかし、たんす預金はいけません。完全に死んだお金です。
アメリカ人の好む紙幣のゴムバンドロール     写真出典:pixabay

2020年7月9日木曜日

大統領のスーツ

ブルックス・ブラザース経営破綻のニュースには驚きました。コロナの影響もさることながら、そもそもビジネス・シーンでのカジュアル化が進み、スーツが売れない時代が来ていたというのです。ボタンダウンとネクタイはブルックスを愛用してきたので、ややショックです。

ブルックス・ブラザースは、1818年、NYに創業した世界最古の紳士服販売店。アメリカン・トラディショナル・スタイルの総本山。リンカーン、ケネディ等、歴代大統領たちが好んだスーツとしても有名です。トラッドのジャケットは、三つボタン段返り、ナチュラル・ショルダー、絞りのないウェスト、フック・ベント、フラップ・ポケット等の特徴があります。これらはすべて、20世紀初頭、ブルックス・ブラザースが発売した№1サックス・スーツに由来します。また、イギリスのレンジメンタル・タイとは逆向きのレップ・ストライプ・タイ、ボタンダウン・シャツといったアメリカを象徴するファッションもブルックス・ブラザース起源です。

私は、リクルート・スーツの頃から、J.Press派ですが、NY駐在時代、一時期、ブルックスのスーツを着ていました。日本ではお高かったので、アメリカにいる時にしかできないと思ったわけです。とにかく軽いんです。上質な生地を使っていることに加え、もう一つ軽い理由があります。ブルックス本店で既製服を購入すると、すぐ2階のオルタレーション室へ連れていかれます。オルタレーションは、日本風に言えば「お直し」です。10人くらいのテーラーと助手がおり、手早く採寸してくれます。1週間程度で完成。試着してみると、信じられないほど体にぴったり。それがスーツの軽さを生みます。もちろん、ポケットに様々詰め込めば重くなるわけですが、そもそもポケットに色んなものを詰めるような奴の着るスーツじゃないってことですよ。

私は、1978年に会社務めを始めて以来、ボタンダウン・シャツ以外着たことがありません。先輩たちが言うには、それは衝撃的なことだったようです。というのは、それまでボタンダウンは、不文律として禁じられていたらしいのです。私の頃から、やむなし、ということになったのでしょう。入社3年目、人事部に勤務していた際、夏にカーキのコットン・スーツを着ていきました。「なんだ、それは!」と怒られました。「米国東海岸では定番ですが、なにか」と反論すると「ここは日本だ!」とさらに怒られました。今では信じがたい大昔の話ですが、ファッションは世に連れ、ということですかね。
Brooks Brothers 346 Madison Ave.       出典:Ivy-Style.com

2020年7月8日水曜日

じゃがたらお春

灘の大関酒造(現大関株式会社)のCMソング「酒は大関こころいき」は名曲です。1970年、小林亞聖作詞作曲、歌うは加藤登紀子。大好きな曲ですが、昔から気になることがあります。歌いだしが「長崎物語」(1938年)にそっくりなのです。特に2番は「赤い花なら はななすの」とはじまりますが、「長崎物語」の出だし「赤い花なら 曼殊沙華」に歌詞まで重なります。4小節以内は盗作に当たらないとされるようですから、問題はないのでしょうが。

「長崎物語」は、じゃがたらお春を歌っています。じゃがたらお春は、江戸初期、長崎で、イタリア人航海士と日本人女性の間に生まれます。頭脳明晰、容姿端麗だったそうですが、15 歳の時、鎖国令に基づき、バタヴィア(じゃがたら・ジャカルタ)へ追放されます。江戸中期に至り、天文学者・西川如見によって、お春がバタヴィアから故郷へ出したという手紙が「発見」されます。望郷の念を切々と訴える手紙は、涙なしには読めない「じゃがたら文」として有名になります。

コルネリアと家族の肖像
お春の流麗な手紙は、西川如見の創作だったようですが、お春や同じ境遇のコルネリア等数人の「じゃがたら文」が現存します。お春は、バタヴィアで、平戸生まれのオランダ人シモン・シモンセンと結婚します。シモンセンは、東インド会社で出世を重ね、退職後も貿易商として成功します。子宝にも恵まれたお春は、豊かな生活を送り、72歳で亡くなりました。悲劇の少女にとって、恵まれた生活は、せめてもの救いだったように思います。

お春が長崎で生まれる1年前、平戸で、明の商人と日本人妻との間に男子が生まれます。後に、明の復権をかけて清と戦う鄭成功です。皇帝から名字を賜ったことから「国姓爺」とも呼ばれ、近松門左衛門の「国姓爺合戦」でも有名です。中国本土で敗戦した鄭成功は、台湾に渡り、政権を樹立します。その間、アジア最大の武力を有する徳川幕府に対して、何度も救援要請を行っています。一部武器の供与は受けたようですが、派兵は断られます。鄭成功は、「開発始祖」として、いまも台湾で敬愛されています。

鄭成功やお春が生まれた頃、シャムでは日本人傭兵の山田長政が大活躍していました。日本とアジアの関係が広がった時代でした。鎖国なかりせば、と思ってしまいます。
写真出典:wikipedia

2020年7月7日火曜日

勝った者が強いのだ

少し前のことになりますが、格闘技団体がしのぎを削り、盛り上がっていた頃、しきりと言われた言葉が「強い者が勝つのではない。勝った者が強いのだ。」いい言葉だな、と思いました。あまりにも格闘技の世界にピッタリなので、誰か格闘家が言いはじめた言葉だと思っていました。

実は、70年代、世界のサッカー界に君臨した皇帝ことフランツ・ベッケンバウアーの言葉でした。ディフェンダーながら、ゲームを組み立て、攻撃の起点となっていくリベロ・システムを確立したと言われます。冷静沈着、静かながら強いリーダーシップ、貴公子のようなプレイ・スタイルから皇帝と呼ばれました。

74年のワールドカップ西ドイツ大会決勝は、ベッケンバウアー率いる西ドイツと、これまた70~80年代、フライング・ダッチマンと呼ばれ世界をリードしたヨハン・クライフ率いるオランダの戦いとなりました。当時のオランダ・チームは、理論上は最強ながら実現は難しいと言われた「トータル・フットボール」を武器に最強を誇っていました。トータル・フットボールは、ポジッションに関わらず、全員が守り、全員が攻撃するサッカーです。全プレイヤーが高い技術と強靭なスタミナを共有し、そのうえで鳥の目をもってゲームを俯瞰できるリーダーが求められます。

オランダには、それができるヨハン・クライフがいたわけです。試合前のオッズは、圧倒的にオランダ優位。それほどトータル・フットボールが機能していたわけです。試合開始早々、オランダはPKで得点します。ただ、気持ちに緩みが生じ、必死に戦う西ドイツに逆転を許します。以降、徹底的にマークされたクライフは身動きが取れず、ゲームを失います。

地元開催のプレッシャーからか、苦戦のすえ決勝進出した西ドイツは、見事に下馬評を覆しました。そして、試合後、ベッケンバウアーの名言が飛び出したわけです。実は、この時、クライフも見事な言葉を残しています。「いくら技術に優れていても、上には勝者がいる。」世界を極めた両雄の相呼応する言葉は、スポーツの素晴らしさと厳しさを見事に伝えています。
1974年ワールドカップ決勝 ヨハン・クライフ(左)とフランツ・ベッケンバウアー  出典:jiji.com

2020年7月6日月曜日

「去年マリエンバートで」

1961年フランス・イタリア  監督:アラン・レネ 脚本:アラン・ロブグリエ

☆☆☆☆

昨今は、デジタル・リマスター版なるのもで、かつての名作が見れるのが、楽しいと思います。「去年マリエンバートで」を名作と呼ぶには、異論もあるでしょう。ヴェネチアでは金獅子賞を獲っていますが、あまりにも挑戦的な作法が議論を呼びました。しかし、その独特な手法、そしてそれが醸し出しす独特のミステリーは、映画史に残すべき価値があると思います。

芥川龍之介の「藪の中」、それを原作とした黒澤明監督の「羅生門」から着想を得たと言われます。一つの事件に関与する複数の人たちが、それぞれ異なる見方・供述を示し、真相は分からないというスタイルです。「藪の中」での真相は、まさに藪の中のまま。「羅生門」では真相と思われる供述が最後に示されます。この2作で、各人の供述は、順番に、並列的に語られます。「去年マリエンバートで」が、この2作と最も異なる点は、各人の見方・供述が直列的に示されることです。例えて言えば、芥川も、黒澤も、複数のかまぼこを一本づつ見せます、ロブグリエは、紅白のかまぼこを輪切りにしたうえで交互に重ね、あたかも紅白まだら模様の一本のかまぼことして見せます。

極めてミステリアスとも、わけが分からないとも言えます。ただ、ロブグリエは、各人の見方である供述を慎重に裁断し、ダイアグラムを使って精緻に組み上げたと言っています。陳述する者毎に、衣装やセットを変え、観客が、誰の主観なのかを追えるように工夫されています。ある意味、数学的に構成された映画とも言えます。メモを片手に、その構成を分解してみたい衝動に駆られます。ま、面倒なので、やらないとは思いますが…。

演出も、そういった数学的趣向を生かすために、まるでスティール写真の積み重ねのような画面になっています。また、二ムというゲームが何度も登場します。これも必勝法が証明できるという数学的ゲームであり、本作の数学的趣向を象徴しているのでしょう。さらに、ココ・シャネルが担当した衣装が見事で、映像的な魅力をしっかり確保しています。

この映画を象徴する庭のロケは、ミュンヘンの二ンフェンブルグ宮殿で行われました。数年前、二ンフェンブルグ宮殿を訪れ、その庭を目にした時、今「去年マリエンバートで」の世界にいるんだと思い、やたら感動し、いつまでも浸っていたいと思いました。
写真出典:amazon.com

セットのイカ

セットは、南仏、地中海沿いの港町。ラングドックのヴェネツアとも呼ばれるリゾート。17世紀に地中海と大西洋を結ぶために掘削されたミディ運河の起点でもあります。運河沿いにはシーフード料理店が軒を並べます。人気は、名物のイカのセット風煮込み。ただ、私は、単純なイカの鉄板焼きを食べました。衝撃的なうまさでした。呼子のイカと共に、人生二大イカ料理です。呼子のイカは、刺身と天ぷらの甘さ、セットのイカは凝縮されたうまみ。

セットで食べたイカの鉄板焼きは、極めて単純な料理です。新鮮なイカを鉄板のうえで、オリーブオイルと塩をかけて、サッと火を通すだけ。思えば、日本は、新鮮な魚介を刺身で食べることが多く、他は焼く、煮るが中心。サッと火を通すと言った料理は、鰹のたたき等もありますが、少ないように思います。生食文化のない欧州だけに、欧州風刺身といった風情でしょうか。ただ、軽く火を通すだけで、魚介のうまみが増します。特にイカは、その傾向が強いような気がします。

もちろん、家でもやってみました。うまくいかないのです。鉄板も、火力も、オリーブオイルも、塩も違うのでしょうが、何といっても新鮮なイカがないと成立しないわけです。総じて地中海沿岸で食べるイカはおいしいと思います。単に新鮮だからなのか、種類が違うのか、よくわかりませんが、うまみが濃いように思います。どうも、スルメイカやヤリイカでは、あの味は再現できないように思います。やはり、うまいイカを食べに地中海まで出かける必要がありそうです。

ヌーベルヴァーグを代表するアニエス・ヴァルダ監督のデビュー作「ラ・ポワント・クールト」の舞台はセットです。のどかな漁村の暮らし、水上槍試合の盛り上がり、何より海辺の空気感を伝える感性豊かな映像が印象的です。おそらく、この映画に描かれたひなびた風情こそが、本当のセットの魅力なのでしょう。ちなみに、フランスの知性とまで呼ばれた詩人で評論家のポール・ヴァレリーは、セットの出身です。
写真出典:cruise-life

2020年7月5日日曜日

ダビデの星

シナイ山に登ったモーゼは、神から十戒を授かります。神は、この掟を守れば、汝の民は幸福に暮せると約束します。モーゼは「分かった。で、いくら?」と聞きます。驚きながら神は「無料だよ」と答えます。モーゼは「じゃ、全部もらうよ」と答えました。

ジョークの世界では、国や民族がステレオタイプ化され、笑いのタネになります。ポーランド人は間抜けだけど愛すべき人たち、日本人は利己的で集団主義、そしてユダヤ人はがめつい金の亡者というわけです。NYでは、ユダヤ人と同じように差別されている他の民族同士が、ジューイッシュ・ジョークで盛り上がります。まるで共感を得るためのツールかと思うほどです。自分たちよりも下がいるという安心感もあれば、裕福であることへの嫉妬もあり、団結力の強さへの嫌悪感もあるのでしょう。

NYのユダヤ人は、鉛筆一本買うのも、必ずユダヤ人の文房具屋から買う。ユダヤ人社会に入ってきたお金を、ユダヤ人社会のなかでだけ流通させ、他へ出さない。するとユダヤ人の商売はうまく回転し、各業界の大物になるほど成功する。できたお金は、子弟の教育に投下される。有名大学から、ユダヤ人の弁護士が多数輩出される。ユダヤ人は、大統領になれるとは思っていないが、ホワイトハウスのスタッフをユダヤ人で占め、事実上、この国を支配できると思っている。これもよく聞かされたユダヤ人陰謀説です。陰謀とまでは思いません。ただ、現政権でも女婿が中枢で「いい仕事」をしています。

同い年の弁護士から聞いた話です。彼は裕福なユダヤ人一家の息子でした。高校生の頃、サマー・キャンプで中西部へ行き、地元の可愛い女の子と仲良くなります。ある日、電話をすると「もう二度と会わない。電話もしないで」と言われます。「なぜ?」と聞くと、「パパから聞いたけど、あなた、頭に角が生えているんでしょ」と言われたそうです。NYは、まだ生きやすい方だよ、と言っていました。

差別はなくすべきですが、事は簡単ではありません。戦い続けることだけが、唯一向き合う道なのでしょう。ユダヤの象徴「ダビデの星」は、17世紀、ハプスブルグ家が、ユダヤ人部隊に与える旗印として、イエスズ会に相談して決めたものです。「ダビデ」の最初と最後ののDを組み合わせてあります。古代からあったものではありません。「ダビデの星」は、イスラエル国旗に描かれる一方で、差別的図形として、多くのソフトウェア上で禁止されています。複雑です。
イスラエル国旗   出典:wikipedia

2020年7月4日土曜日

「ペイン&グローリー」

2019年スペイン  監督:ペドロ・アルモドバル

☆☆☆☆

80歳で3度目のエベレスト登頂に成功した三浦雄一郎は「老いることが怖いのではない。目標を失うことが怖いのだ。」と言っています。人間、歳をとれば、体力も筋力も落ち、痛いところも薬も増え、大病を予感させる症状も現れ、気力も失いはじめます。気力が衰えると、老いは加速度を増し、ついに死を迎えるというのが普通なのでしょう。ただ、定年のない仕事、ことに創造的な職業を持つ老人は、気力が充実し、いつまでも精力的なものです。映画監督も同じなのでしょう。この春亡くなった大林宜彦監督も、ガンに侵された体に鞭打って映画製作を続けたわけで、まさに典型と言えます。

アルモドバル本人と思われる主人公の映画監督は、老境に加え、背中の痛み、そして多少のわだかまりを残した母の死が重くのしかかり、世捨て人の生活を送っています。本人は老いのせいだと思っていないところが、創造を天職とする人らしいところです。気力が失せる中、過去の作品、昔仲たがいした俳優、過去の恋人、そして母と過ごした子供時代と向き合うなかで、かつて自分が見出した生きる喜びを思い出し、再生していきます。老いを認めないものの、老人の特権でもある過去と向き合うことで、老いを克服していく姿が面白いと思いました。

色彩豊かなアルモドバルのショットが持つエネルギーやパワーに衰えは感じません。特に、アルモドバルの人間を映すショットは、いつもながら決まっています。アルモドバル映画常連のアントニオ・バンデラスが見事な演技。同じく常連のペネロペ・クルスも安定した味を出しています。アルモドバルの音楽の使い方も好きなのですが、今回は、チャベーラ・ヴァルガスの使い方がいいですね。かつて恋人と訪れたメキシコで聞いたという設定です。93歳で亡くなるまで、力強い声で歌い続けたメキシコの国民的大歌手は、老いと創造に関するアルモドバルの信念、あるいはこの映画を象徴しているのでしょう。

若い人たちがこの映画をどう見るのかは知りませんが、老境を迎えた自分としては、とても希望にあふれた映画のように思えました。
写真出典:pain-and-glory.jp

2020年7月3日金曜日

専業主婦作戦

フェミニンとは「女性の、女性らしい」等という意味ですが、フェミニストと言えば、日本では、女性にやさしい男性を指します。これは日本だけで通用する和製英語であり、英語では、男女同権、女権拡張、女性解放論者のことです。穏健な思想を持つグループから、強烈な主張に基づき過激な行動をとるグループまでいます。

性差別の根源は、家父長制度にあると言われます。狩猟採取の時代は、母権社会だったようです。乳幼児の死亡率が高かったこともあり、種の保存を担う女性がリーダーシップを取っていたのでしょう。農耕が始まると、種の保存は農業生産次第となります。土地と労働力が生産財として重要になり、所有権が生まれます。農耕の担い手が男であったこと、農耕と共に拡大した戦争の担い手も男であったことから、所有権は男に与えられたのでしょう。

古代ローマが制度化する以前から、家父長制は自然発生的に存在していたと思われます。差別は、おおよそ為政者の都合で作られると考えますが、性差別は、生物的役割区分や生存の前提の変化もあり、やや微妙です。ただ、明確に為政者が作り出した性差別も多数存在します。その一つが、第二次大戦後、米国で行われた「専業主婦作戦」だと考えます。

戦争が総力戦化すると、男性は戦場へ、生産は女性が担うという構図ができます。ところが、戦争が終わると、一千万人の若い男性が復員兵として国内に戻ります。国には、彼らの仕事、住まい、そして結婚相手を準備する必要が生じます。仕事は、既に女性が多くを占めています。大口雇用先は都市部に集中しますが、一千万人を一度に受け入れられるほど都市に住宅はありません。結婚相手たる女性は、皆、忙しく仕事をしていました。

そこで、政府は、まず土地の安い郊外に安価なプレハブ住宅を大量に建設。大型スーパーも誕生します。通勤のためには自家用車も必要です。都市と農村しかなかった米国に「郊外」が作られます。広い庭、近代的な家、モダンなスーパー、自家用車、最新の家電製品、魅力あふれる「夢の郊外生活」の誕生です。そして、そこで子育てに専念する「専業主婦」こそ女性の憧れであり、アメリカン・ドリームだと宣伝されます。「専業主婦作戦」は大成功でした。うまく行きすぎて、まんまと騙された女性がキャリアを取り戻すためには、大変な時間と戦いが必要だったほどです。
写真出典:pinterest

「凱里ブルース」

2015年中国  監督:ビー・ガン

☆☆☆☆

文化大革命収束後、中国映画界には、「さらば、わが愛/覇王別姫」等のチェン・カイコー、「紅いコーリャン」等のチャン・イーモウといった第五世代と呼ばれる監督たちが登場し、人間そのもの、貧しい社会等を正面から捉えたドラマティックな名作を生み出します。六四天安門事件後に登場したのが第六世代。「北京の自転車」のワン・シャオシュアイ、「長江哀歌」のジャ・ジャンクー、「二重生活」のロウ・イエ、ドキュメンタリーのワン・ピン等です。虚無感漂う都市部の暗部を、軽量化された撮影機材で撮ります。当局の検閲との戦いも激化し、テーマはより個人にフォーカスする傾向があります。

近年、第七世代と呼びたくなる監督たちが登場しています。厳しい検閲が生んだものかもしれませんが、優れて詩的な映像が特徴のように思います。例えば「薄氷の殺人」のディアオ・イーナンは第六世代なのでしょうが、感覚がさらに新しいと思います。そしてビー・ガンですが、映画監督というよりも、詩人、あるいは映像作家といった風情です。もはや世代ではなく、個性と考えるべきなのでしょう。映画の新しい形が誕生したのかもしれません。

「凱里ブルース」は、「ロングデイズ・ジャーニー」に先立つ、監督デビュー作。監督の故郷である貴州省凱里周辺の山深い村で撮影されています。ドラマ性を抑えたドキュメンタリー・タッチとも言えますが、むしろホームビデオ的であり、観客は容易に映像の中に取り込まれます。映像が、流れるような一つの詩を構成しており、淡々としているにも関わらず、飽きることがありません。湿潤で緑濃いミャオ族の村の生活は、郷愁を誘いますが、それ以上に人々の営みの深さを身近に感じさせます。

低予算のため、スタッフも役者も地元の人々の協力を仰いだとのこと。それはそれで良い風情を出しています。ただ、監督は不満だったようで、40分に渡るワンショットは、「ロングデイズ・ジャーニー」の60分3Dワンショットに比べると、確かに技術的制約をうかがわせます。ただ、それすらも味わい深さを感じさせています。
写真出典:imageforum.co.jp

2020年7月2日木曜日

ミリシア

アメリカの田舎で、黒っぽい大きなピックアップ・トラックに乗った迷彩服の男たちを見たら、ほぼミリシアだと思って間違いありません。ミリシアは、米国憲法修正第2条に規定される権利に基づく民兵組織です。しっかりとした組織を持ち、HPまである大組織から、田舎町の数人の組織まであります。正確な数は分かっていませんが、数百と言われます。

その性格も、明確な主義主張のあるものから、単なるハンティング同好会的なものまで千差万別。ただ、殺傷力の高い武器を手に攻撃的な訓練を行っている点は共通します。多くは反政府主義、反知性(反エスタブリッシュメント)主義、リバタリアン、人種差別といった傾向が強いと思われます。彼らが三度の飯より好きなのは連邦政府陰謀論。世の中で、彼らにとって具合の悪いこと、例えば、黒人や移民がはびこること、仕事が減ったこと、すべて連邦政府の陰謀だと信じています。スタンド・アローンは、アメリカ人の好む精神です。政府のみならず、介入されることが大嫌いな人たちと言えます。

95年、千人を超える死傷者を出したオクラホマ・シティの連邦政府ビル爆破事件は、ミシガンのミリシアによるテロでした。また、2016年、オレゴンで起きたマルヘア自然保護区占拠事件、通称オレゴン・スタンドオフでは、国有地の利用を巡る連邦政府と農民の争いに、全国から武装ミリシア150人が集結し、武装したFBIと長期に渡り対峙しました。最近のBlack Lives Matterデモには、ブーガルーと呼ばれる新手のミリシアが重装備で参加していると聞きます。武装アナキスト集団も参加しているようではありますが。

その歴史は、独立戦争までさかのぼります。招集されると1分で駆け付けるという意味で名付けられた民兵ミニット・マンは、独立戦争の英雄です。独立直後に制定された憲法修正2条において、民兵は国家の安全のために必要であるから、人民が武装する権利を侵してはならないと定められています。時代錯誤も甚だしいと言えばそれまでです。一方、ここまで多様性を許容するから民主主義は成り立っているとも言えます。昨今、ファシズム的国家やファシスト的手法を用いる政治家がはびこるなか、政府の関与を嫌うミリシアは「国家の安全のために」貴重な存在かもしれません。もちろん、法の範囲内でのことですが。
オレゴン・スタンドオフ時のミリシア  出典:Le Enforcement

2020年7月1日水曜日

伝国の辞

上杉鷹山公
江戸期を代表する名君と言えば、上杉鷹山公。財政破綻状態の米沢藩を再建した手腕が、いまだに高く評価されます。大統領就任時、尊敬する日本の政治家を問われたジョン・F・ケネディが間髪を入れずに鷹山公の名を挙げたことでも有名です。

いつの世も財政再建の基本は「出を減らし、入を増やす」ということになります。鷹山公も、まず「大倹約令」を発しますが、徹底的に率先垂範したところが非凡。また、倹約一本槍では人の心は荒びます。鷹山公は、漆・こうぞ・紅花等、新たな産業につながる農業も展開しますが、入を増やすこともさることながら、人々の心に、明日への希望を植え付けたのでしょう。

素晴らしいと思うのが、教育です。藩校「興譲館」を創設しますが、単なる人材育成だけでなく、倹約と謙譲を思想レベルまで高めることも大きな狙いだったと思われます。藩の思想となれば、鷹山公の取り組みは定着し、米沢藩は百年安泰。人の心理を重視した再建策こそ鷹山公の名君たるところであり、再建が成功した大きな要因なのでしょう。百年先を見越した政策の展開は、まさにトップにしかできないことです。

有名な「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」は、武田信玄の言葉に準拠した歌だそうですが、「伝国の辞」とともに、後継者に伝えられたと言います。「伝国の辞」は、わずか三行で、藩主の心得を伝えています。
 一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
 一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
 一、国家人民の為に立たる君にして君の為に立たる国家人民にはこれ無く候

日向高鍋藩主の次男として生まれた鷹山公は、母方の祖母の実家である米沢藩主の養子となり、16歳で家督を継ぎます。その後、前藩主に実子が生まれたため、34歳で家督を譲り、隠居します。「伝国の辞」は、実にシンプルですが、すべての公職につく者が忘れてはいけない大原則だと思います。世の政治家の皆さん、そして経営者の皆さんに、是非とも思い出していただきたい言葉です。
写真出典:wikipedia

夜行バス