2020年11月30日月曜日

梁盤秘抄 #10 Electric Ladyland

 アルバム名:Electric Ladyland (1968)  アーティスト名:ジミ・ヘンドリックス

私は、音楽が好きだという人に、「あんたの神様は誰だ?」と聞きます。本当に音楽が好きな人は、間髪入れずに答えてくれます。音楽好きは、結構、幅広いジャンルの音楽を聴いているものですが、神様が誰かによって、その人の好む音楽の傾向も分かります。私の場合、マイルス・デイビスとジミ・ヘンドリックスと答えます。もちろん、他に大好きなミュージシャンもいますし、好きなジャンルもありますが、煎じ詰めれば、やはりこの二人です。

ジミ・ヘンドリックスは、その早すぎる死までの短い活動期間で、エレキ・ギターの概念を根底から覆し、多くのギタリストに影響を与えました。今でも、ロック・ギタリストのナンバー・ワンであり続けています。ジミヘンと言えば、その超絶技巧やエフェクターの話が多いのですが、実は最も驚嘆すべきは、その音楽的センスだと思います。それを強烈に感じさせられるのが、ライブです。スタジオで作り込んだ音楽も驚異的ですが、ライブでは、感性を解き放ち、さらに変幻自在なソロを聞かせます。その典型とも言えるのが、ウッドストックで弾いた「Star Spangled Banner」でしょう。マイルス・デイビスも、あんな音感のいい奴は滅多にいるもんじゃない、とまで評しています。人をほめないマイルスにとっては、ほぼ最上級の誉め言葉です。

ジミヘンの生前にリリースされたアルバムは、5枚。うち2枚は、スマッシュ・ヒットとバンド・オブ・ジプシーズのライブ盤です。ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのスタジオ録音は、わずかに3枚ということになり、このElectric Ladylandが最後のアルバムです。名演奏だけでなく、名曲も多いジミヘンですが、私の一番好きな曲は、「Voodoo Child (Slight Return)」です。最もジミヘンを感じさせる曲だと思います。また、最高のカバー曲は、ボブ・デュランの「All Along the Watchtower」でしょう。本家本元まで、ジミヘン・ヴァージョンで演奏するというカバーを超えたカバーです。

ジミヘンのギターは、音量を大きくしたヒューバート・サムリンだ、と言う人もいます。まったく否定しません。なぜならハウリン・ウルフ・バンドのギタリストだったヒューバート・サムリンは、単にジミヘンに影響を与えたのではなく、60年代以降のロック・ギターとギター・ブルースのドアを開けた人だからです。ジミヘンの特色は、サムリン風のギター・フレーズではなく、オリジナリティあふれるその音楽世界ものです。例えば、ブルース・ギターの頂点を極めた名手スティービー・レイ・ヴォーンが、Voodoo Childを完璧にコピーしていますが、ジミヘンとは異なるテイストに仕上がっています。スティービーが味付けをしたのではなく、ジミヘンが極めてユニークな演奏者だったからです。

名演奏、名曲、エピソードに事欠かないジミヘンですが、気になることの一つは、その死の真相です。ジミヘンは、27歳で死んだミュージシャンを総称する27クラブの筆頭です。他の連中は、概ね麻薬のオーバーが原因で死んでいます。ジミヘンの場合、急性アルコール中毒が死因と言われます。ただ、死亡時の血中アルコール濃度は低かったという話もあり、死亡時一緒にいたフィギア・スケーターのモニカ・ダンネマンの証言も二転三転し、不審な点が多いとも言われます。ジミヘンは、マフィアとの関係も取りざたされていました。アルコールに弱かったジミヘンを、マフィアがアルコールで窒息させたという説も有力視されています。(写真出典:discogs.com)

2020年11月29日日曜日

「シカゴ7裁判」

監督:アーロン・ソーキン    2020年アメリカ   

☆☆☆☆

1968年のアメリカは、大きな混乱のなかにありました。4月にはマーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺され、6月には民主党大統領選挙候補だったロバート・ケネディも暗殺され、学生たちによるヴェトナム戦争反対運動が高まりを見せた年でした。8月、シカゴで大統領選挙に向け民衆党大会が開催され、ヴェトナム戦争反対を訴える5千人の若者も押し寄せます。シカゴ市長リチャード・デイリーは、警察官、機動隊、州兵等総勢3万人態勢で警戒にあたります。26日夜、リンカーン・パークに残る若者たちと報道陣に対して、警察の弾圧が開始されます。警察による暴行は5日間に渡り、数百人に及ぶ負傷者が出ました。

ジョンソン政権は、デモのリーダーたちを不起訴とする判断をしていましたが、翌年誕生したニクソン政権は、出身母体の異なる8人を共謀罪で逮捕、起訴します。ただ、ブラック・パンサーの委員長だけは切り離され、7人が残ります。いわゆるシカゴ7です。本作は、無理を通そうとする検察と評判の悪い独善的な裁判官に対して、人権派弁護士と被告たちが立ち向かった数ヵ月間を描いています。判決は、5人に対して5年の懲役と罰金を科すものでした。しかし、その後、控訴審は、裁判官の横暴を理由に、すべての有罪判決を覆しています。

本作は、既にアカデミー賞の有力候補とされています。多くの話題作の手がけた脚本家のアーロン・ソーキンが、「モリーズ・ゲーム」に続き、自ら監督しています。2007年には完成していた脚本を、当初はスティーブン・スピルバーグが監督する予定でしたが、ストライキの関係等で紆余曲折があり、結局、自ら監督することになったようです。パラマウントが配給する予定でしたが、コロナの影響から劇場公開を断念、Netflixに売却され、公開されました。Netflixとしては、本作の制作には関与していないものの、「ローマ」、「アイリッシュマン」に続くアカデミー賞候補となりそうです。

さすがに良く出来た脚本だと思います。アメリカ人が好む映画のツボをきっちり押さえています。事実とは異なる脚色も少なからずあるようですが、法廷映画の場合、構図を際立たせ、映画的展開を確保するためには、ある程度止むを得ない麺もあります。キャスティングも見事に達者な役者を揃えています。なかでもクンスラー弁護士を演じたマーク・ライランス卿、ホフマン判事役のフランク・ランジェラという両名優が、いい演技をしています。映像的には、多く存在する記録フィルムに頼らなかったことが好ましい効果をあげていると思います。

もともと9月に公開し、大統領選挙にぶつけていこうと意図していたようです。独裁的なトランプ政権に対する民主主義の戦いを鼓舞しようとしたのでしょう。民主主義とは、実に面倒くさく、非効率で、時には痛い目にもあいます。にもかかわらず、愚直に民主主義にこだわり続けるアメリカの伝統には頭が下がります。作中、エイブラハム・リンカーンの大統領就任演説から「人民は政府を改める憲法上の権利を持つ。革命的権利の行使により、政府を解散させ、転覆させることができる」という言葉が引用されます。監督が、最も強調したかったことなのでしょう。


2020年11月28日土曜日

タブラ

 

アラ・ラカ
タブラは、北インドを代表する打楽器です。それぞれ独立した高音のタブラと低音のバヤが一対となりタブラと呼ばれます。密閉型の胴にヤギの皮を張り、表面中央部には、鉄粉などで作った黒い塗料が塗られ、低音を出しやすくしてあります。タブラの胴は木製、バヤは金属製が多いようです。20数種類という多彩な音を表現することができ、複雑なインドのリズムを鮮やかに刻みます。

かつて、世界中、どこにでも太鼓があることに気づき、行く先々で、手ごろなサイズと値段の太鼓を買っていた時期があります。パキスタンのカラチで、バザールへ行った際、近くにタブラの製造販売をしている店を見つけました。ツアーで知り合った人と二人で店に入り、タブラを買うことにしました。高音のタブラだけ欲しいと言うと、バヤと一対なので単品販売はしないと言われました。そこで一対のタブラを買い、二人で分けることにしました。まぁ、本格的に演奏するということではなく、ただの土産ですから、それで十分だったわけです。じゃんけんに勝った私は、迷わず高音のタブラを選択しました。見様見真似で叩いても、十分に楽しめました。多様な音を出す極めて水準の高い打楽器と言えます。

インダス文明、インド・アーリア人による支配にはじまるインドの長い歴史ですが、7世紀、イスラムの勃興にともない、しばしばその侵攻を受け、17世紀のムガール帝国へとつながります。13~14世紀にインド北西部を支配したのは、トルコ・イスラム系のハルジー・スルターン朝。その宮廷音楽家だったアミール・クスローがタブラを発明したとされます。タブラという呼称も、もとはアラビア語です。ちなみに、同じく北インドを代表する楽器シタールも、アミール・クスローの発明とされています。

日本で、タブラが知られるようになったのは、明らかにラヴィ・シャンカールの影響です。ラヴィ・シャンカールは、インド音楽を世界に広めたシタール奏者です。おりしもサイケデリック・ミュージック全盛の頃、ウッドストックやモントレーのフェスにも参加、ビートルズはじめ多くの音楽家に影響を与えました。そして、シャンカールと常に同行していたのが、タブラの達人アラ・ラカでした。ちなみに、シャンカールの娘はシタール奏者のアヌーシュカ・シャンカールとジャズ・シンガーのノラ・ジョーンズ、アラ・ラカの息子はタブラ奏者のザキール・フセインと、いずれも世界的音楽家として活躍しています。

インド文化のほぼ全てが、4千年前の宗教文書ヴェーダを起源としています。インド音楽もヴェーダの朗誦に始まるとされます。歌唱を主とする南インド音楽は、宗教色が色濃く残り、即興を重視する北インド音楽は、イスラムの影響も含め、宮廷で育まれた音楽と言えます。独特のメロディは、ラーガと呼ばれる旋律体系で細かく定められ、リズムはターラで体系化されています。ラーガは、3万5千種類あるとも聞きます。スキがあれば踊り出すボリウッド映画の音楽も、古い伝統を持つラーガとターラに則り演奏されています。(写真出典:indianexpress.com)

2020年11月27日金曜日

飯寿司

北国の正月料理の定番の一つが紅鮭の飯寿司です。我が家でも、正月と言えば飯寿司です。かつては、皆、各家庭で漬けたものです。私の実家でも漬けていました、さすがに今時は家で作ることが難しく、毎年、小樽の栗原恒次郎商店から取り寄せています。昔ながらの製法で仕込んでいるようで、木樽のなかに笹の葉で包んだ状態で届きます。これが本当に美味しいわけです。毎年、家族で争うように食べるので、2kgの一樽では間に合わないほどです。

鮭は冬の味覚の代表。王道は何といっても焼鮭だと思います。私は、飯寿司の他に、三平汁も大好きです。寒い日の三平は最高です。生ではなく、塩鮭を使うと、うま味、油、塩の塩梅もとても良くなります。鮭は塩を振ることで、うま味が引き出される、と聞きます。開高健の「OPA! OPA!」だったと思いますが、かつてアマゾン流域に入植した日本人が、鮭によく似た味の魚を見つけ、塩をして故郷の味だと喜んで食べた、という話が出てきます。ただ、塩鮭もどきばかり食べていたので、皆、脳卒中になり、村は壊滅状態になったそうです。アマゾン開拓の厳しさを思えば、何とも切ない話です。

さて飯寿司ですが、基本的には、魚類等を飯と塩を使って乳酸発酵させるなれずしの一種です。北海道から日本海側北部にかけて郷土料理として分布します。なれずしと言えば、琵琶湖の鮒ずしが有名ですが、金沢のかぶら寿司、福井のへしこ、秋田の鰰(はたはた)の飯寿司もよく知られています。発酵期間中、腐敗しやすいので、空気に触れさせないこと、そして気温の低さが絶対条件となります。ですから、寒冷地ならではの食文化だったわけです。

なれずしは、稲作と同じくらい古い歴史を持つと言われます。中国南部の少数民族から発祥し、東南アジア全域に広がったようです。中国南部の山間部では、数十年も川魚が漬けられていると聞きます。なれずしは、稲作と同時に日本にもたらされたという説があるようですが、確認できません。琵琶湖の鮒ずしは、奈良時代の木簡等に確認できるそうです。平安中期の延喜式には、各地のなれずしが、租として納らていることが記載されているとのこと。いずれにして、動物性たんぱく質の保存法としては随分古い歴史があるわけです。

なれずしは、発酵に時間がかかるため、酒や糀を使って早く作る方法が編み出されます。いわば浅漬けですが、発酵に使った飯も食べるようになります。発酵が浅く、酸味がものたりなかったのか、調味料に酢を使い始めたようです。さらに江戸期になると、酢で飯に酸味を効かせながら、魚は発酵させない早ずしが考案され、大人気となります。いわば”なんちゃってなれずし”ですが、これが今に続く寿司になるわけです。寿司は発酵させていないので、なれずしとは明らかに別物です。すしとは呼べないのではないかとも思います。(写真出典:sato-suisan.co.jp)

2020年11月26日木曜日

「ホモ・サピエンスの涙」

 2019年スウェーデン・ドイツ ・ノルウェイ  監督:ロイ・アンダーソン

☆☆☆+

ロイ・アンダーソンの映画は、なぜか好きです。クセになります。ただ、どんな映画なの、と聞かれると困ってしまいます。よくジャック・タチが引き合いに出されますが、コミカルであっても断じて異なる作風です。シュールではありますが、典型的なシュールとも多少違うように思います。強いて言うなら、エドワード・ホッパーの絵に、シニカルなダーク・コメディの要素を乗せて、動きを付けたもの、という感じでしょうか。1シェークエンス、1カット、固定カメラ、そして動かない人々という手法が絵画的印象を与えます。「ホモ・サピエンスの涙」は、その傾向が行くところまで行った感じです。もはや、少しだけ動く絵画、と言っても過言ではないでしょう。

ロイ・アンダーソンは、1947年、スウェーデン生まれ。27歳で初監督作品「スウェーディッシュ・ラブ・ストーリー」を撮り、高い評価を得ます。しかし、同じ傾向の作品を期待されることに反発し、5年をかけて準備した後、ダーク・コメディ「ギリアップ」を発表します。しかし、評価は最悪、興行は大失敗となり、以降、映画の世界を離れ、コマーシャル・フィルムの監督として25年間を過ごします。CF制作の傍ら、短編映画の制作を開始。91年には「World of Glory」を発表。短編映画史に残る傑作とされました。既に絵画的作風が明確で、よりダークな表現になっています。

そして2000年、「散歩する惑星(原題:2階からの歌)」で長編映画制作に復帰し、いきなりカンヌで審査員賞を獲得するなど、高い評価を獲得します。2007年にリリースされた「愛おしき隣人(原題:あなたは生きている)」も各映画祭で受賞し、2014年には「さよなら、人類(原題:鳩が枝にとまり人生を考えてみた)」で、ヴェネチア国際映画祭の金獅子賞を獲得しました。以上の3部作は、リビング・トリロジーと呼ばれ、ロイ・アンダーソンの独特のタッチを世界に知らしめました。

実は、ロイ・アンダーソンの独特のタッチは、北欧の人々にとっては違和感のないものかもしれません。もちろん、表現自体はユニークなものですが、その感性においては北欧らしさを感じます。北欧の人々に共通する、よそよそしさ、冷めた印象等は、ルター派という宗教的背景、ジャンテ・ロウに代表される価値観に基づくものだと思います。ハマースホイやムンクの絵、ベルイマンの映画、あるいはTVのノルディック・ノワールにすら、同じ匂いがあります。いずれにしても、北欧ならでは映画だと思います。

ロイ・アンダーソンの”動く絵画”という印象は、撮影手法によるところも大きいと思います。CGを使わず、セットを組み、ミニチュアやペインティングで遠景を作り込みます。CGかセットか、という単なる方法論ではないのでしょう。彼は、撮影するための絵画を描いているのだと思います。例え、どれだけ時間がかかろうとも、それがロイ・アンダーソン映画の本質である以上、セットで撮り続けるのでしょう。(写真出典:eiga.com)

2020年11月25日水曜日

スポーツ・ビジネス

ロジャー・フェデラー
アメリカのフォーブス誌が発表するスポーツ長者番付ですが、2020年のトップは、テニスのロジャー・フェデラーの約114億円でした。一方、毎年、上位に最も多くランクインするスポーツは、いつもバスケットボールです。トップ3に入ることはありませんが、トップ30では、およそ1/3がバスケットボール選手です。アメリカにおけるプロ・バスケットボールの市場規模は、アメリカン・フットボールの約半分程度です。ただ、選手数が圧倒的に少ないので、アメリカのプロ・スポーツ界で最も平均年収が高いのはバスケットボールだと言われます。

日本で最大の収入規模を誇るプロ・スポーツは、プロ野球で、2,000億円程度。ついで、サッカーのJ リーグが、約半分の1,100億円となります。 アメリカの四大プロ・スポーツでは、 アメリカン・フットボールのNFLが1.5兆円、 野球のMLBが1.1兆円、バスケットボールのNBAが0.8兆円、アイスホッケーのNHLが0.5兆円となっています。ヨーロッパでは、イングランドのサッカー、プレミア・リーグがダントツで、約0.7兆円。他国のサッカー・リーグは、その半分程度となります。いずれにしても日本とは随分違う規模となっています。違いを生んでいるのは動員する観客数ではないと言われます。国際展開するTVの放映権とスポンサー契約による収入の差が大きいわけです。

TVの放映料は、視聴率、ないしは視聴者数で決まります。アメリカン・フットボールは、いわばアメリカの国技であり、試合数が少ないこともあり、常に高い視聴率を誇ります。加えて、スーパー・ボウルは、もはや国民的祭典の様相を呈しています。その視聴率は40%を超え、視聴者数は約1億人、CMの出稿料は30秒一本で5.5億円であり世界一高額と言われます。ハーフ・タイム・ショーは、ビッグネームが出演し、常に注目の的ですし、専用に作成されるCMコンテンツも話題になります。NFLにとっても、スポンサーにとっても、まさに金のなる木と言えます。

対して野球のワールド・シリーズの視聴率は平均して8%程度。今年は、コロナ禍の影響から5%と散々だったようです。日本シリーズですら、初戦12%でした。レギュラー・シーズンも含め、日米とも、プロ野球の視聴率低下傾向は続いていると言えます。プロ野球の視聴率を改善するためには、野球人気の回復に努めることですが、他にもできることはりあそうな気がします。例えば、試合時間が長いこともネックになっているで、試合のテンポを改善することも一案です。お勧めしたいのは、地上波での放送日を、例えば水・金・日だけに完全固定し、固定客の視聴率をしっかり確保することです。例えば、NFLのマンディ・フットボールは国民に定着しています。

ジョン・スポールストラのベスト・セラー「エスキモーに氷を売る」(2000)は、CRMのお手本のような本でした。全米最弱、経営破綻寸前のバスケットボール・チームの経営を任されたスポールストラは、1年で、全米屈指の高収益チームを作り上げます。スター選手を獲得すれば話は簡単ですが、そんなお金はありません。そこで、これまで試合に来てくれたファンに、もう1枚だけ多くチケットを買ってもらう作戦を展開したのです。いわゆる「1対5の法則」です。新規顧客の獲得コストは、既存顧客の維持コストの5倍になる、というものです。リピーター戦略であり、リテンション・マーケティングとも呼ばれます。(写真出典:forbes.com)

2020年11月24日火曜日

「国葬」

 2019年オランダ・リトアニア   監督:セルゲイ・ロズニツァ

☆☆☆☆

リトアニアで発見されたスターリンの国葬に関する大量のフィルムをもとに制作されたドキュメンタリー映画です。時系列的に、ソヴィエト各地の映像をつなぎ、克明に独裁者の国葬をドキュメントしています。ナレーションもなく、あざとい編集もなく、実に客観的に記録フィルムだけがつなぎ合わされています。弔問の列に並ぶ膨大な数の国民の無表情な顔、おびただしい数の画一的な花輪、幹部たちによる事大主義的な追悼式典などが、客観的ではありますが、息苦しくなるほどの圧倒感を持って迫ります。見ているうちに、全体主義の耐え難い悪臭が立ち込め、嫌悪感が極大化するという仕掛けを持った映画と言えます。監督が、観客を不愉快にさせる実験をしているとも言えます。これを映画と呼ぶかどうか、多少考えさせられますが、ドキュメンタリー映画に新たな歴史を刻む映像といえるかも知れません。見ているうちに、本作のキャッチコピーを思いつきました。「スターリンは死してなお私たちを苦しめる」

監督のセルゲイ・ロズニツァは、1964年ウクライナ生まれ。大学では数学を専攻し、卒業後は、人工知能の研究にあたり、同時に日本語通訳もしていたようです。その後、映画撮影学校で学んだあと、主にドキュメンタリー映画作家として活躍します。2010年からはドラマも撮り、各国映画祭で高い評価を得ている監督です。監督が、数学者にして、AIの研究者と聞き、観ている者を意図的に不愉快にさせるというこの映画の構図が理解できたようにも思います。また、出身地ウクライナは、スターリンによる人為的な大飢饉によって400~1.450万人が虐殺されたホロドモールの起きた地であり、テーマへの思い入れは相当のものがあるはずです。

エンドロール直前の字幕で、スターリンの粛清による犠牲者が2,700万人、他に餓死者が1,500万人、そして56年にスターリン批判が起こったことが伝えられます。スターリンの大粛清とそれに続く日常的な粛清、そしてホロドモールに加え、他の強制力を伴う実験的な集団農場や農業政策の失敗が生んだ大飢饉を指しているのでしょう。ただ、その犠牲となった人々の数は、もっと多いという説も多数あります。悪魔ですら眉を顰めそうな大衆の犠牲者数ですが、党や軍の幹部に占める粛清された人々の割合は相当のものだったと思われます。

グルジア出身で背が低く、障害もあったスターリンは、若いころから、コンプレックスの塊で、冷酷な男だったと言います。権力を握ると病的な被害妄想に陥ります。政敵はもちろんのこと、批判的発言した者、邪魔になった者、さらには期待に応えられなかった側近でさえも、次々と処刑されています。話している時に、スターリンの目を見ていなかっただけで処刑された人々もいると言います。異常な世界としか言いようがありません。

毛沢東は「政権は銃口から生まれる」と言っていますが、暴力革命で独裁政権を樹立した共産主義者たちは、次に銃口を向けられるのが自分であることを知っています。マルクスが共産主義社会の青写真を提示できなかったために、幹部たちの価値観は共有されておらず、国家の運営に関する対立は尽きることがありません。共産党独裁国家に処刑を伴う粛清が絶えることはありません。(群衆三部作のポスター 写真出典:eiga.com)

2020年11月23日月曜日

蝶の烙印

森英恵は、日本を代表する世界的ファッション・デザイナーです。蝶をモティーフとしたデザインから、マダム・バタフライとも呼ばれました。1926年、島根県の裕福な医師の家に育った森英恵は、1951年、新宿に洋裁店を開き、54年には銀座にブティックをオープンしています。数々の映画の衣装を担当し、65年、ニューヨーク・コレクションに参加し好評を得ます。その後、パリ・コレクションにも参加、自身のブランド「ハナエモリ」を立ち上げ大成功します。オートクチュールでは、モナコ王妃はじめ世界のセレブを顧客とし、バルセロナ・オリンピックの公式ユニフォーム、ご成婚時の雅子妃のローブ・デコルテもデザインしました。

生い立ちを反映したと思われる、女性的でエレガント、かつ上質感あるデザインこそ、彼女のブランドとしてのコア・コンピタンスでした。ブランド・ビジネスは驚異的とも言える大成功を納めます。一時期、日本中のありとあらゆる物に蝶のロゴが付いていました。しかし、「ハナエモリ」は、2002年倒産、プレタポルテは三井物産に引き継がれ、オートクチュールは自身が別会社で継続しました。ブランドとしての「ハナエモリ」の失敗は、デザイナーが森英恵だけだったことに起因する、と言われます。

昔、「ブランドはプロミスだ」とよく言われていました。ブランドは、お客さまに約束した価値を、安定的、かつ継続的に提供する、という意味です。約束した価値とは、単なるロゴではありません。あらゆる商品を一人でデザインすることは無理があり、「ハナエモリ」はロゴを売るビジネスに近い状態に至ったのかも知れません。結果、本来的なブランド価値までも傷め、ブランドとしての鮮度も失われることになったように思えます。

マーケティング的に言えば、ブランドは、認知度、忠実度、鮮度で構成されます。「ハナエモリ」のブランド認知は高く、顧客のリピート率も高かったと思われます。ただ、一人のデザイナーに依存した鮮度の確保には限界があります。欧州の老舗ファッション・ブランドは、次々と気鋭のデザイナーを採用し、新たなラインを提案していきます。常に新鮮な驚きを与えることの重要性を心得ているわけです。時代に迎合するのではなく、ブランド価値の新たな展開によって、時代を切り開いていると言えます。ロゴも定番商品も大事にしますが、それらはブランド価値そのものではありません。

記憶が曖昧なのですが、かつてアパレルの寿命は「ショップ5年、ブランド10年、会社30年」と聞いたように思います。いずれにしても移り変わりの激しい業界ですが、そのなかで長く続くブランドは、心底、賞賛に値すると思います。「ブランドはプロミス」を、ブランドは信用、と言い換えることもできます。顧客が支持した価値観をブレることなく保ち続けることなのでしょう。よろず商いは信用ということでしょうか。(写真出典:hanae-mori.com)

2020年11月22日日曜日

ダンバー数

数年前のデータですが、ギャラップ社が、アメリカの若者に、友人は何人いるか、という調査をしたところ、平均は250人だったそうです。結構多いな、と思いましたが、その多くはSNSだけの付き合いだそうです。友人の定義もはっきりしませんが、SNS上だけでの付き合いを友人と呼ぶ感性もよく分かりません。若い人たちは、いいね!をもらえば、それが社会とつながっているという認識になるようです。

ロビン・ダンバー
英国の人類学者ロビン・ダンバーが、1990年代に提唱した「ダンバー数」は、霊長類が、互いを認知し、安定的な集団を維持できる個体数の上限をさします。おおむね100~250であり、人間に限って言えば、150程度だと言われます。ダンバー数は、大脳の新皮質の許容量と相関的な関係にあるとのこと。新皮質は、大脳の表層にあり、言語機能、合理的思考、分析的思考をつかさどっているようです。人間のダンバー数の実例としては、狩猟採取時代の氏族、新石器時代の村落、クリスマス・カードの数、アーミッシュが村落を分ける基準、そして軍隊の戦術単位等々があげられます。

軍隊の編成において、戦術単位の基本となる組織は、独自に戦術を運用できるCompany(中隊)と言えます。それは古代ローマ軍の背骨と言われたケントゥリアの時代から変わっていません。ケントゥリアは、いわゆる百人隊ですが、実際の人員数は。80~150人程度だったようです。戦場で指揮官の声が届く範囲ということだそうです。150人程度という中隊規模は長く維持されてきました。現在の米軍歩兵中隊の定員は200人。戦闘も情報伝達手段も変わった現在でもその規模が踏襲されているわけです。

企業活動等においてもダンバー数は活用されています。ゴアテックスで有名なWLゴア&アソシエイツ社やスウェーデン税務局の例が有名です。ゴア&アソシエイツ社の場合、一つの社屋の人員が150人を超えると、何らかの社会的問題が生じるという経験則があったと言います。ダンバー数を意識せずとも、150~200人程度が、執行権限を持つ組織のごく一般的な上限だと思えます。経験値による管理スパンの限界です。逆に、それを超える組織にあっては、強制力のある統制システムがなければ、組織を維持することは難しいとも言えます。

経営者が、組織編制において、ダンバー数にこだわる必要性などありません。機能優先で考えるべきであり、機動性を確保する権限移譲といった手法もあれば、コミュニケーションを維持する様々な手法もあります。とは言え、一つの組織が安定的であり、チームスピリットを発揮しやすい自然数の上限が150人程度だと覚えておくことは意味があると思います。(写真出典:aichetron.com)

2020年11月21日土曜日

船弁慶

静の白拍子舞
国立能楽堂の定例公演で「船弁慶」を見てきました。シテは京都の観世流片山九郎右衛門。重キ前後之替と舟唄替之語という小書の入った派手目の演出が楽しめました。平家追討で武勲をあげた義経は、東国武士の恨みをかい、頼朝から追われる身となります。西国へ逃れるために摂津国大物之浦から船を出します。厳しい船旅を考え、義経は静御前を京に帰すことにします。旅立ちに際し、別れを惜しむ静御前が烏帽子をつけて舞うのが前段。穏やかな日和のなか義経一行は船出します。船頭役の狂言方によるアシライ間の後、天気は急変、一行を平家一門の亡霊が襲います。義経に迫る平知盛の亡霊を弁慶が法力で退治するのが後段です。

情感溢れる静とスペクタルな動が一つの舞台でくっきりと分かれ、シテが静御前と知盛の亡霊を演じ分ける演出が、見ごたえのある、ある意味、分かりやすい作品となっています。静御前の立烏帽子をつけた白拍子舞が惜別の情をよく伝え、知盛の亡霊の荒々しさは囃方の激しい拍子で際立ちます。舞台芸術の魅力を見事に伝える作品といえるのでしょう。観世小次郎信光の作とされます。観世信光は、世阿弥の甥の子ですが、応仁の乱で公家や武家の後ろ盾を失った能楽に、より大衆受けする演出を取り入れたと言われます。船弁慶は、その典型なのでしょう。今も最大流派を誇る観世流の基礎を築いた人でもあります。

義経は、戦術に長けた独断専行型のリーダーだったのでしょう。いわばやり手の現場リーダーです。加えて兄頼朝に認められたいという思い、あるいは源氏直流としての気位の高さもあり、それらが平家追討を成功させるとともに、鎌倉武将の恨みや妬みを買ったのでしょう。屋島から壇ノ浦の戦いで、頼朝側近の梶原景時の意見を無視したり、鎌倉武将よりも西国武将を多く用いたことが批判されます。義経の行動の背景には、源氏の本隊は源範頼が率いていたこと、あるいは急遽の参戦となったこともあり、また西国勢の土地勘ということも考慮されたはずです。ただ、東国武将にとってみれば、戦功を横取りされたという思いが強かったのでしょう。

武家政権をもくろむ戦略家・頼朝にとって、勝手に動く戦術家・義経は頭痛の種だったはずです。特に朝廷との駆け引きを展開する頼朝にとって、許可なく法王から官位を授かったり、壇ノ浦での性急な攻めで安徳天皇と宝剣を失ったことは、戦略を揺るがす失態だったわけです。義経追討は、頼朝の宿意と言われますが、現代の企業経営者たちなら、頼朝の戦略に基づく判断を支持するはずです。企業のなかにも、義経型の現場リーダーはしばしば見受けられるからです。彼らは、本社経験に乏しい場合が多いものです。鎌倉と京都がもっと近ければ、あるいは義経が頼朝の近くで育ち頼朝の戦略を理解していれば、義経の後生は随分違ったものになっていたのでしょう。

今治沖の三島にある大山祇神社で、国宝ともなっている義経奉納の鎧兜を見たことがあります。見るからに他の鎧より小さく、小柄な美男子と伝えられる九郎判官義経を実感できます。身長の低い人は攻撃的な性格が多いとも聞きます。義経もそうだったのかも知れません。ちなみに船弁慶の義経役は子役がやります。(写真出典:hakusho-kai.net)

2020年11月20日金曜日

アーミッシュ

 

「刑事ジョン・ブック目撃者」(1985)は、心に残る映画でした。単なる刑事物などではなく、違う世界に住む二人の切ない恋物語と言うべきなのでしょう。違う世界とは、アーミッシュの宗教的世界と刑事の住む荒んだ世界であり、刑事の世界はアメリカそのものを表しているのでしょう。監督はピーター・ウィアー。本作でアカデミー監督賞にノミネートされました。主演は、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだったハリソン・フォードでした。

アーミッシュは、宗教的に結束した共同体です。ペンシルベニア州のダッチ・カウンティを中心に、中西部からカナダに分布し、その人口は30数万人と言われます。宗教改革時、ルターやツヴィングリとは一線を画したメソナイトの分派とされます。より聖書に忠実であろうとする原理主義的傾向から迫害を受けます。ドイツ南西部に潜んでいたようですが、17世紀後半、アメリカに移民します。今でも、その宗教的信条から、国家からは独立的であり、外界との接触も限定的です。電気などの文明を拒み、移民当時のままの自給自足の生活を送り、ドイツ古語を起源とする独自の言語を話します。その存在は、アメリカの多様性を伝えるものでもあります。

二度ほど訪れたダッチ・カウンティは、ローリング・ヒルズが連なる美しい田園地帯でした。アーミッシュの村と普通のアメリカ人コミュニティが混在する不思議な世界です。アーミッシュの馬車とアメリカ人の自動車が同じ道を走り、街の通りには伝統的服装のアーミッシュも行きかいます。アーミッシュ々が作ったジャムなど農産品を買うこともできます。いわば17世紀と現代が同居しているわけです。アーミッシュの思いは別として、明らかにアーミッシュはダッチ・カウンティの観光資源となっています。ちなみに、原発事故を起こしたサスケハナ川の中州スリー・マイル島も近くにあります。

アーミッシュに関して、私が最も興味深いと思うのは、教会を持たず、牧師もいないことです。教会や職業的牧師の存在は、布教上、効果的だったと思いますが、一方で、世俗化、あるいは腐敗の源にもなったのではないでしょうか。アーミッシュが、強い絆で結ばれた共同体をここまで維持できているのは、教会と牧師を持たないからだとも言えそうです。農耕が余剰を生み、分業化が進み、文明が栄えます。それは同時に、社会的矛盾拡大の過程でもあったのでしょう。空想的な原始共産主義を良しとするものではありませんが、アーミッシュの存在は、文明論そのものでもあるように思えます。

2006年、アーミッシュの小学校に、精神を病んだ外部の人間が侵入し、銃を乱射します。13歳の少女が、他の小さな子供たちを守ろうと侵入者の前に立ちはだかり、射殺されました。そのけなげさに涙が止まりませんでした。後日、アーミッシュは犯人を許し、その家族を葬儀に招いたと伝えられます。アーミッシュが250年間保持してきた共同体としての真の強さを、改めて認識させられました。(写真出典:history101.com)

2020年11月19日木曜日

神々とスターウォーズ

スターウォーズの第一作であるエピソードⅣ「新たなる希望」の日本公開は1978年でした。そのファースト・シーンで受けた衝撃は、今でも忘れることはありません。レイア姫の乗るブロッケード・ランナーを追って、画面上部から銀河帝国の巨大なスター・デストロイヤーが登場し、その下部構造が延々と映し出されます。その映像は、まるで観客席にのしかかるような効果を生んでいました。斬新な映像に、やられた!と思ったものです。その年、私は就職し、スターウォーズの最終章が公開された2019年度末まで勤めました。私の会社人生は、スターウォーズの42年間と時を同じくしていたわけです。

スターウォーズの魅力は、革新的なキャラクター、宇宙船や武器、スピード感、音楽、音響等々、数え上げたらキリがありません。なかでも衝撃的だったのはウェザリングです。風化や汚れを施す処理です。スターウォーズ以前のSF映画に登場する宇宙船や武器は、真っ白いものが主流でした。ウェザリングは、リアルさを別次元へと高めました。しかしながら、スターウォーズ最大の魅力、かつ永年支持されてきた理由は、そのストーリーにあります。ジョーゼフ・キャンベルの比較神話学をベースに、人間の二面性、父と子の確執、といった普遍的テーマが描かれています。

ジョーゼフ・キャンベルの「千の顔を持つ英雄」(1949) は、世界中の神話を比較研究し、そこに共通する構成を明らかにした名著です。神話の基本的な構成は、1) 天命が下る、2) 従者と旅に出る、3) 別世界へと入る、4) 指導者・協力者と出会う、5) 悪と出会う、6) 戦いのなかで成長する、7) 戦いを征する、8) 帰還してリーダーになる、というものです。スターウォーズのみならず、ロード・オブ・ザ・リングスにも大きな影響を与えたとされます。神話ではありませんが、桃太郎の話も、よく似た構図だと思います。恐らく、男の人生が持つ普遍性を表しているのではないか、と考えます。

フォースの持つライト・サイドとダーク・サイドという設定も、人間の持つ二面性の直接的な比喩になっていると思います。不安や怒りがアナキン・スカイウォーカーをダークサイドに落とします。人間は、いつでもダース・ベイダーになる要素を持っているわけです。また、共和制と帝政という構図も普遍的なものです。共和制の機能不全をついて帝政復活を実現したパルパティーン(ダース・シディアス)など、古代から現代まで実例に事欠きません。非効率な民主制に対する独裁の効率の良さは、極めて今日的なテーマでもあります。

2012年、ルーカスフィルムはディズニー傘下に入り、スターウォーズのエピソードⅦ~Ⅸが制作されました。活劇としての面白さは十分以上であり、オールド・ファンへのくすぐりもありましたが、スターウォーズが持つサーガとしての奥深さは影を潜めました。世界中のファンが嘆きましたが、スターウォーズの42年間を今日的に全うするためには、必要なことだったようにも思えます。May The Force Be With You. (写真出典:angly-space-triangle.com )

2020年11月18日水曜日

通過儀礼

 絶叫マシーンと呼ばれるジェット・コースター等が典型ですが、お金を払ってまで怖い思いはしたくないと思います。バンジー・ジャンプもその一つです。南太平洋バヌアツ発祥のバンジー・ジャンプは、大人として認められるための典型的な通過儀礼です。同様の通過儀礼は、世界中に存在します。日本の元服といった儀式、バンジー・ジャンプのような恐怖心を克服するタイプ、そして登山等肉体的強さを試すタイプ等があります。通過儀礼は、フランスの文化人類学者アルノルト・ファン・ヘネップによって定義されました。

通過儀礼は、典型的に、隔離・過渡期・再統合という三つの局面を持つとされます。例えて言えば、皆に守られた子供の世界から隔離され、精神や肉体の強さを試す試練が与えられ、それらを克服して一人前の大人として社会に参加する、といった流れです。隔離は、他の小さな子供たちから離され、特定の施設で暮らす、あるいは山中や密林のなかで一定期間過ごすといった形を取ります。身を清めるといった意味もあるのでしょう。そのうえで、試練や儀式に臨むわけです。

北朝鮮の金王朝の独裁者になるための通過儀礼は、あまりにも物騒なものです。まずは指導者候補とされ、精神的な意味で他から隔離されます。与えられる試練は、韓国に対する軍事行動を立案・実行することです。そのうえで、後継者としての認知が行われるわけです。金正日の場合、87年の北朝鮮工作員による大韓航空機爆破事件、韓国高官が爆殺された88年のラングーン事件等が相当するのでしょう。金正恩の場合には、2010年の延坪島砲撃事件等もありますが、何といっても一連の核兵器やミサイル開発がそれに当たると思われます。

北朝鮮独裁者の通過儀礼で試されるのは、軍と人民の掌握です。軍は、最高司令官たる独裁者に隷属しますが、独裁者の喉元のナイフにもなり得ます。自分は韓国と戦う、よって軍は必要不可欠であり、軍と軍幹部を粗末に扱うことはない、というメッセージを、行動をもって示す必要があるわけです。人民に対しては、戦争状態であるからして、苦難を耐え忍べ、というのが王朝の基本姿勢です。ですから、韓国を利用することはあっても、平和的に統合することなどあり得ません。あり得るとすれば、南北が協同して、日本やアメリカと戦う場合だけです。

北朝鮮に人民蜂起はありません。密告制度と情報統制が徹底されているからです。クーデターの噂はありますが、成功したことはありません。平壌に住む党や軍の幹部は、いわば王朝の貴族であり、その安楽な生活を維持しようとします。王朝と一蓮托生の存在である貴族がクーデターを阻止する仕組みと言えます。ただ、王朝を維持しつつ独裁者を替えることはできます。そこで個人崇拝を徹底することで、そのリスクを回避しようとしているわけです。北朝鮮の支配体制は、ある意味、よく機能していると言わざるを得ません。(写真出典:sankeibiz.jp)

2020年11月17日火曜日

イン・ザ・ロック

オイミャコンの冬
日本における最低気温の公式記録は、1902年1月、旭川でー41°と記録されています。委託観測まで含めると、1931年1月、旭川と稚内の中間位に位置する美深町でー41.5°が記録されています。もちろん、定住地の観測ですから、山の中とかでは、もっと低い気温になっている可能性もあります。ちなみに、世界で最も低い気温が観測されたのは、1926年1月、シベリア北東部のオイミャコンでー71.2°です。これに比べれば、旭川も比較的暖かい所ということになりますか。

オイミャコンは、シベリア北東部、北極圏からわずか南に位置し、永久凍土の上にある村です。1年の半分以上が冬で、年間平均気温はー15°、1月の平均気温はー50°という信じがたい土地です。とは言え、短い夏もあり、最高気温は30°を越すこともあるとのこと。永久凍土ながら温泉があり、真冬でも水が確保できることから、もともとツングースの人々に知られた場所だったようです。人が住み始めたのは金の採掘のためでした。人間の欲深さには驚かされます。

作物の栽培は無理なので、人は肉や魚、夏の間に摘んだ野イチゴを食べています。もの皆すべて瞬間冷凍されるので、肉や魚は新鮮なままだと言います。冬の北海道でも似たような現象はありますが、素手で金属にさわるとくっついて離れなくなります。外での眼鏡も厳禁。洗濯物は外に干します。即刻、布の水分が凍り付くので、表面の氷を取れば、乾いているとのこと。自動車もありますが、もちろん特別仕様。エンジンに直接バーナーを当てて暖め、スタートさせます。一度エンジンをかけたら、決して切ってはいけないわけです。

そんな過酷な土地ですが、長寿でも知られているとのこと。要は、寒すぎて、ウィルスも細菌も生存できないと言われています。通常、寒くなり乾燥すると、ウィルスの表面の水分も失われ、浮遊しやすくなります。人間も、乾燥で気道の繊毛機能が低下すること等からウィルスを取り込みやすくなります。ウィルスは、高温で死滅しますが、低温には強く-70°でも数年間生きるそうです。ですから、寒くてウィルスが死ぬのではなく、食品は加熱して食べ、外で皮膚を露出することも無く、口も常にマスクで覆われているので、感染しにくい環境にあるということだと思います。

大学時代の友人が士別の出身でした。士別は、旭川と美深町の中間に位置し、同じく極寒の地です。正月休みで帰省していた彼が札幌に戻った時、札幌は暖かいな、と言い、皆を驚かせます。札幌も、連日、最低気温がー10°以下でしたが、士別はー30°の日々だったらしいのです。その時、私は、初めて極寒地での冷蔵庫の使い方を知りました。要は、食品を凍らせないために冷蔵庫に入れると言うのです。また、ウィスキーが凍る温度はー25°前後らしいのですが、士別では凍るわけです。彼が言うには、士別では、オン・ザ・ロックではなく、イン・ザ・ロックが飲める。確かに。(写真出典:travelerstoday.com)

2020年11月16日月曜日

梁盤秘抄#9 What's Going On

アルバム名: What's Going On (1971)  アーティスト名:マーヴィン・ゲイ

1984年4月1日、最も偉大なソウル・シンガーであるマーヴィン・ゲイは、自宅で実父の撃った銃弾に倒れます。享年44歳。誕生日を翌日に控えた死でした。両親の喧嘩を仲裁している最中、激高した父親が思わずマーヴィンを撃ちます。父親は故殺判決を受け、実刑に服しています。 幼少期のマーヴィンは、説教師であった父親の虐待を受けます。それが生涯のトラウマとなります。父親との関係に悩んだマーヴィンの因縁めいた死とも言えます。

マーヴィン・ゲイは、1939年、ワシントンD.C.に生まれます。空軍除隊後、コーラス・グループを結成し、活動を開始。60年に、モータウンのベリー・ゴーディと出会います。モータウンのタムラと契約したマーヴィンは、ジャズ・シンガーを目指していたようです。この時、本名のGayをGayeに変えています。ホモ・セクシャルと誤解されないようにと言われますが、実は父親との決別を意図していたようです。当初、ヒットに恵まれなかったマーヴィンは、ドラマーとして活動しました。その後、ヒットが生まれ始め、モータウンの看板歌手になったマーヴィンは、タミー・テレルとのコンビで名声を確たるものにします。しかし、タミーは脳腫瘍のために24歳で夭折。落ち込んだマーヴィンは、音楽活動を休止します。

こうした精神的不安定は、幼少期のトラウマに起因していたのでしょう。休業中、ヴェトナム戦争から戻った弟から戦場の悲惨さを聞き、マーヴィンは戦争はじめ様々な社会問題に憤りを感じ、それが創作意欲を掻き立てます。そして、ソウルの最高傑作「What's Going On」が生まれました。ベリー・ゴーディは、政治から距離を置くヒット・メーカーとしてのモータウンに固執し、この名曲のリリースを拒否します。しかし、以降モータウンでは歌わないというマーヴィンのストライキに折れ、ついに71年1月にはシングルとして発売。「What's Going On」は、瞬く間に大ヒットとなり、ダブル・ミリオンを獲得。5月には歴史的傑作となるアルバムも発売されました。シングルのヒットで稼ぐモータウンにとって、アルバム・ヒットは異例中の異例でした。

「What's Going On」は、明らかに伝統的なR&Bとは異なります。モータウンが目指した、黒人のためではなく、若者のための音楽というコンセプトをも超えています。まさに普遍性を持った独自の音楽世界です。ネオ・ソウルの先駆的存在と言えます。シンプルに見える歌詞も、短く単純な言葉のなかに強いメッセージ性を持っています。" war is not the answer "、" only love can conquer hate" 等の名言もさることながら、1番の mother、2番の father という冒頭の呼びかけが興味深いと思います。若い世代から親の世代へ呼びかけているのでしょう。ただ、兵士の親たちに呼びかけているようでもあります。さらに言えば、自分の両親、特に父への呼びかけであり、それまでのマーヴィンの思いをぶつけているようでもあります。

ビッグ・ネームとなったマーヴィンでしたが、泥沼の離婚調停、二度目の結婚生活の破綻等から、また精神的に不安定な状態に陥り、薬物依存が強まります。70年代の終わりが近づくと、アメリカ本土から逃げるような生活が始まり、活動も低迷します。しかし、その才能を惜しむ多くの人々の支援を得て復活し、82年には「セクシャル・ヒーリング」を大ヒットさせ、グラミーも獲得しています。マーヴィンの人生を思えば、父親とのこじれた関係が、天才を育て、名曲を生み、死をもたらした、と言えそうです。(写真出典:amazon.co.jp)

2020年11月15日日曜日

振袖火事


自然災害や戦争を除けば、ローマ大火、ロンドン大火、そして明暦の大火が世界三大大火と言われるそうです。64年7月のローマ大火は、ローマの2/3を焼き、1666年9月のロンドン大火では、街の85%が燃え、1657年3月の明暦の大火では、江戸の6割が焼失、江戸城本丸も焼けています。焼死者は、ローマ大火の場合、奇妙なことに一切の記録がないとのこと。ロンドンでは、大火にも関わらず、たった5人。対して明暦の大火は10万7千人と記録されます。江戸で焼死者が多く出た理由は、火の回りの速さ、人口の多さ、密集度の高さ等に加え、江戸城防衛を目的に作られた町の構造が避難を阻んだからとも言われます。典型的には墨田川の橋の少なさです。なお、大火当時、ローマやロンドンも木造の家が大半だったようです。ロンドンでは、大火後、家を石造りにすることが義務づけられました。

いずれも、火元は特定されています。ローマでは、チルコ・マッシモ近くの商店街。ロンドンは、シティのプディング・レーンにあるトマス・ファリナーのパン屋。明暦の大火は、当時本郷にあった本妙寺とされます。火災が起きると、犯人探しがはじまり、陰謀説など流言飛語が広がるのは、古今東西まったく変わりません。ローマでは、皇帝ネロが、キリスト教徒に罪を被せ、処刑しています。ロンドンでは、宗教対立の最中であり、カトリックの仕業との噂が流れたそうです。江戸では、本妙寺にまつわる振袖の因縁という説が出回ります。明暦の大火が、「振袖火事」と呼ばれる所以です。

繁盛する質屋の娘・梅乃は、上野の山で見かけたイケメンに恋をし、せめてとの思いで若者の着物と同じ柄の振袖を作る。梅乃は、恋の病で死に、棺にはその振袖がかけられ本妙寺に埋葬される。寺男が、その振袖を古着屋に売る。それを買った町娘・きのも病で死に、本妙寺に埋葬される。寺男は、振袖を再度転売する。それを買った町娘・いくも死に、振袖は本妙寺に戻る。本妙寺住職は、祟りかもしれないと、振袖を火にくべ供養する。すると火のついた振袖は、誰かが着ているような姿で空に舞い上がり、江戸に大火をもたらした。

振袖の話は、25年後の天和の大火で有名になった八百屋お七の影響とも言われます。振袖話は別として、不思議なことがあります。最大級の大火にもかかわらす、本妙寺は一切お咎めがなく、防災観点から他の神社仏閣が郊外へ移転されるなか、同じ場所に復興することが許され、さらには幕府が法華宗のリーダー格の寺へと昇格させています。実は、本妙寺が、幕府の指示で火元を引き受けたという説があります。本妙寺近くの老中阿部忠秋の屋敷が本当の火元ながら、それでは幕府の威信が失われると、幕府が本妙寺に火元引受けを指示したというわけです。阿部家は、江戸期を通じ、本妙寺に多額の寄進を続けていたようです。振袖話も、本当の火元を隠ぺいするために広められたとも考えられます。

他に幕府放火説もあります。江戸も、ローマも、ロンドンでも同じですが、大火後、大規模な都市開発が行われています。防災観点も含め、当然のことだと思います。ただ、時の政権が都市開発を進めるために放火したのではないか、という陰謀説も人気なわけです。(写真出典:tokyo-np.co.jp)

2020年11月14日土曜日

北京の箪笥

かつての北京友誼商店
四半世紀も前のことですが、初めて訪れる北京で、楽しみにしていたことは3つ。故宮見物、前門劇場での京劇鑑賞、そして中国風の木製椅子の購入でした。アンティーク・マーケットのようなところに、多くの椅子があり、そこで買えると思ったのですが、どうもイメージにピッタリの椅子がありません。椅子は半ばあきらめて、友誼商店へ茅台酒を買いに行きました。今は4~5万円もする高級酒ですが、当時は2~3千円で買えたと記憶します。茅台酒を買って、帰ろうと階段を降りたところ、階段下に処分品のような家具がありました。残念ながら、椅子は無かったものの、気になるチェストがありました。

腰ほどの高さで、黒い漆に玉で婦人を3人あしらったものでした。我が家の妻と2人の娘かと思い、気に入りました。値段を見ると日本円で約1万円。もちろん安物家具でしょうが、随分お得なので、椅子の替わりに買うことにしました。日本へ船便で送る手続きをすると、輸送経費は1万5千円。送料の方が高いのは馬鹿げているとも思いましたが、当時の中国の遠さを考えれば止む無しと思い、輸送を依頼しました。2~3か月かかると言われましたが、意外と早く、ひと月半ほどで届きました。

横浜の輸入代行会社から電話があり、荷物が届いているとのこと。自宅まで届けてもらうことにして、通関手続き等の手数料と送料の合計を聞いて驚きました。8万円だと言うのです。既に2万5千円支払っているとは言え、安物のチェストに、さらに8万円など冗談じゃありません。馬鹿らしいから捨ててくれ、と言って電話を切りました。ただ、思いついたことがあり、すぐに業者に電話しました。諸手続きと輸送を自分でやるとすれば、いくらだ、と聞きました。それなら料金は一切発生しません、とのこと。

早めに来れば、倉庫の保管料も発生しないと言われ、早速、横浜へ出かけました。代行業者の事務所で必要書類を受け取り、横浜税関へ行きました。そこで簡単な書類を一枚記入し、税額の査定を待ちます。関税が高ければ、あきらめようと覚悟していました。ところが、びっくり。関税は、100円でした。元が安いので当然なのでしょう。受け取った書類を持って、保税倉庫へ向かいます。さほど待たされることもなくチェストが出てきました。当時、車がステーション・ワゴンだったので、ギリギリ積み込むことができました。

もし100万円の荷物を送ったのであれば、8万円と聞いても、やむなく支払ったと思います。素人が、通関手続きや保税倉庫と聞けば、よろしくお願いします、ということになります。そいう意味では、輸入に限らず、代行業者の存在は、実にありがたいものであります。ただ、その代行してもらう手続きの内容は確認すべきです。そして代行してもらうに値するかどうかを、しっかり判断すべきだと思います。(写真出典:kknews.cc)

2020年11月13日金曜日

居反り

2020年11月場所5日目、十両の宇良が大技「居反り(いぞり)」で旭秀鵬を破りました。十両以上で居反りという決まり手が出たのは、実に27年ぶりです。27年前には、智の花が居反りを決めていますが、34年ぶりと言われました。いずれにしても極めて珍しい決まり手です。幸いにも、私は、正面のマス席で、宇良の居反りを見ることができました。コロナ対策で、声を出していなけない国技館ではありますが、思わず「居反りだ!」と叫んでしまいました。滅多には見れない大技に、館内には大歓声が沸き上がりました。

宇良は、旭秀鵬の左手を掴んだまま、左脇をくぐり抜け、後ろに反っています。相撲協会の決まり手82手のなかに、反り技は6手あります。そのなかで居反りは「腰を低く落とし、相手がのしかかるようにしてきたとき、両手で相手の膝のあたりを抱えるか、押し上げて後ろに反って相手を倒す」とあります。関西学院1年生だった宇良は、大型選手を相手に、これを見事に決め、「居反りの宇良」と呼ばれるようになりました。その時の決まり手は「撞木反り」ともされますが、相撲協会の決まり手に沿うならば、典型的な居反りだと思います。一方、今回の宇良の決まり手は、居反りと言うよりは「伝え反り」だと思われます。

いずれにせよ珍しい技なので、反り技は、すべて居反りと呼ばれる傾向があります。それはそれでまったく問題はないと思います。本能とタイミングから生まれる技ですから、状況は個々で、決まり手どおりとはいきません。そもそも相撲というよりはレスリングの技に近いものがあり、稽古場で覚え、稽古する技でもありません。ただ、宇良の場合、レスリングの経験があり、学生時代に決めた経験からして、明らかに狙っていたものと思われます。4年前にも、一度仕掛けて、失敗しています。仕掛けただけでも評判になっていましたが、今回、見事に決めたことで「居反りの宇良」は、相撲の歴史に名を残すことになりました。

宇良は、大阪府寝屋川市出身、木瀬部屋の十両力士です。4歳で相撲をはじめ、小学校3年からレスリングも始め、全国2位にもなっています。高校から相撲に専念しますが、体も小さく、レギュラーにはなれなかったといいます。関西学院に進むと、体重別では全国優勝、世界チャンピオンにもなります。また肉体改造に取り組み、無差別級でも全国4位に入るなどの活躍をして、木瀬部屋に入門。2015年3月初土俵、2017年3月入幕とスピード出世を果たします。しかし、小兵でアクロバティックな相撲を取る宇良は膝の怪我に苦しみ、序二段106枚目まで番付を落としました。

しかし、2019年11月場所から本格復帰、各段優勝も果たし、2020年11月場所、十両に復帰しました。まさに不屈の闘士です。力士の大型化が進んだ大相撲ですが、小兵力士が活躍してこその大相撲でもあります。あくまでも無差別級を貫く大相撲の象徴とも言えます。怪我に十分気をつけながら、土俵を沸かせ、観客に勇気と希望を与え続けてもらいたいものです。(写真出典:sankei.com)

2020年11月12日木曜日

USSモニター

アメリカの南北戦争は、産業革命に伴う技術革新が投入された最初の戦争だと言われます。例えば、銃の破壊力に革新をもたらしたミニエー銃、あるいはガトリング砲に代表される機関銃も、南北戦争で初めて実戦配備されています。ガトリング砲は、複数の銃身を回転させ、1分間に200発撃てる驚異の兵器でした。ちなみに、最新の多銃身機銃の一つがファランクスですが、1分間に4,500発撃てます。もはや発射音はブーンとしか聞こえません。南北戦争終結後、大量の中古武器が世界に流れ、日本では戊辰戦争で使われています。なかでも有名なのが、長岡藩のガトリング砲です。河合継之助が購入し、自らも北越戦争で撃っています。

技術革新は、海軍でも起こりました。世界初の装甲船や潜水艦が実戦に投入されています。北軍のUSSモニターは、実戦投入された初の鉄製軍船、かつスクリューを装備した初の軍船です。USSモニターは、河川での戦闘を想定し、喫水線を水面スレスレにした半潜水艦で、砲撃による被害を抑えるために甲板の上には砲台くらいしかありません。南軍のCSSヴァージニアと戦ったハンプトン・ローズ海戦は、世界初の装甲艦同士の海戦と言われます。

CSSヴァージニアは木造船ですが、甲板の上は鉄製の装甲で覆われています。砲弾を弾くために角度をつけ、かつ鉄で覆った砲郭が甲板の大部分を占めています。USSモニター同様、喫水線はほぼ水面という半潜水艦となっています。奇しくも米国海軍の最新鋭ステルス駆逐艦ズムウォルトによく似た形状です。1862年のハンプトン・ローズ海戦における両艦の勝負は決着がつきませんでした。ただ、世界中が装甲艦の威力に目を見張ったと言います。以降、各国の軍船は、木造船から鉄製船に替わっていきました。

潜水艦については、南軍のハンリー潜水艇が、実戦投入されています。世界で初めて単独で敵艦を沈没させた潜水艦とされています。士官1名と水兵7名が乗り組み、手回しプロペラで推進しました。1864年、チャールストン外港で北軍の軍船を、外付けの水雷で攻撃、撃沈させました。ただ、水雷が爆発した時、敵艦から十分な距離を取れておらず、衝撃で乗員全員が死亡したようです。なお、ハンリー以前に実戦投入されたのが、独立戦争時、米国側が使った一人乗りのタートル潜水艇です。残念ながら、実用的ではなく、戦果もなく、その存在を疑う声もあるようです。

実は、世界で初めて実戦投入された潜水艦は、大坂冬の陣で徳川側についた九鬼水軍が使った「盲船」だという説もあります。タートル潜水艇から150年も前のことです。盲船の存在自体は、複数の文献から確認されています。ただし、絵図は残されていません。文献からすれば、喫水線を水面ギリギリにし、盾などで上部を覆った半潜水艦のようなものだったようです。そういう意味では、ハンリー潜水艇の先祖ではなく、USSモニターの先祖だったと言えます。(ハンプトン・ローズ海戦 左がUSSモニター 写真出典:fineartamerica.com)

2020年11月11日水曜日

「親愛なる同志たちへ」

2020年ロシア   監督:アンドレイ・コンチャロフスキー

☆☆☆☆

今年83歳になったというロシアの巨匠アンドレイ・コンチャロフスキー監督の作品。今年、ベネチア国際映画祭で特別賞を獲得し、東京国際映画祭のワールド・フォーカス部門にも出品されました。1962年、黒海の東部、ドン川流域の街ノヴォチェルカッスクで、実際に起こった暴動がモチーフとなっています。政府による厳しい弾圧から虐殺事件とも呼ばれます。保守本流とも言える巨匠の映画文法の見事さには驚かされます。 ファースト・シーンから引きずり込まれ、テンポ良くグイグイ引っ張られます。

1962年、農業政策の失敗から食糧難に陥っていたソヴィエトは、6月1日、肉とバターの値上げに踏み切ります。同時に、フルシチョフ首相は工業生産のノルマを引き上げます。ノヴォチェルカッスクの電気機関車工場では、労働時間を延長するとともに、賃率を引き下げ、政府要請に対応します。食料配給が滞るなかでの労働条件改悪が引き金となってソヴィエト時代最大の暴動が起こります。政府はコズロフ、ミコヤン等閣僚級を送り込み鎮圧にあたります。軍も出動しますが、民衆に向け発砲することは拒否します。ただ、フルシチョフの許可を得たKGBと憲兵隊が発砲し、26人が死亡、87人が負傷、扇動者とされた多くが逮捕され、7人が処刑されます。

政府は、徹底的な隠ぺいをはかり、ノヴォチェルカッスク虐殺事件が明るみに出たのはソヴィエト崩壊後の1992年でした。映画は、現地で撮影され、事実を忠実に再現しています。スターリンを信奉する市当局の女性幹部を主人公に、暴動に参加して行方不明になったその娘を探すという構成になっています。暴動を起こした側の視点で描かれることが多いテーマだと思いますが、当局側の女性が主人公という設定が本作のポイントです。党組織の末端にある市当局幹部は、いつもは権力を享受していますが、事件が起こると政府と民衆の板挟みになり、まったく無力な存在となります。そして娘を思う母性が組織の論理を超えていきます。共産党による一党独裁国家の矛盾が、あらわにされる構成となっています。

本作には、独裁国家と民衆や個人との関係に加え、赤軍に支配された国や文化という視点も盛り込まれています。主人公と同居する年老いた父親は、足が悪く、タバコだけが楽しみという老人ですが、暴動が起きた夜、コサック兵の制服を引っ張り出して着用します。主人公は、脱がないと逮捕されると叱責します。ノヴォチェルカッスクは、16世紀から高い独立性を保ってきたドン・コサックの拠点でした。ロシア革命時、コサック軍は赤軍に敗れ、ソヴィエトに編入されます。コサック兵の制服は、各地のナショナリズムや文化を押さえつけてきたソヴィエトへの直接的批判です。

黒澤明にあこがれて映画監督になったというコンチャロフスキー監督の白黒映像には熟達の技を感じます。第一次大戦の記録映像に着色した映画「彼らは生きていた」(2020年)は、過去の記録としてではなく、現実の戦争としての臨場感を伝えていました。本作は、逆に、白黒にすることで、実際に起きた事件としての生々しさを醸し出しています。(写真出典:realgood.com)

2020年11月10日火曜日

ギムレット

近頃、滅多にバーに行くこともありませんが、いつも注文するのはジン・トニックです。国産ジンが人気も評価も上げた余波か、輸入ものの種類も増え、様々な味が楽しめるようになりました。私は、ライム・ジュースを少し入れてもらいます。以前は、お願いして入れてもらっていましたが、最近は、はじめから入れてある店が増えたように思います。ジンとライムのカクテルと言えば、ギムレット。ごくごく稀にしか飲みません。嫌いだからではなく、あまりにもフィリップ・マーロウの色が濃すぎて、注文することが憚られるからです。

ハードボイルドの頂点を極めたのは、レイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウ・シリーズだと思います。タフでセンチなLAの私立探偵は、皆の憧れでした。なかでも「ロング・グッドバイ(邦題:長いお別れ 1954年)」は、名セリフ満載のすこぶるセンチメンタルな作品。「I suppose it's a bit too early for a gimlet.(ギムレットにはちょっと早すぎるよね)」は、この小説の主題とも言える友情を切なく語る名言です。ギムレットは、マーロウと友人テリー・レノックスがバーで飲む際の締めの一杯であり、再会を約する一杯です。友情を裏切ったテリーが、マーロウと再会した時、かすかな期待を込めて「ギムレットには…」と言うわけです。

マーロウは、お前との付き合いは終りだ、でもここでさよならは言いたくない、とテリーを拒みます。「To say Good bye is to die a little(さよならを言うことは、わずな間死ぬことだ)」もロング・グッドバイの名言です。ハードボイルド界を代表するカクテルになったギムレットのレシピは、ジン3:ライム・ジュース1をシェイクします。ただ、テリーは、本当のギムレットは、ジンとローズ社のライムジュースを半々と語っています。ちなみにエスピオナージュ界を代表するカクテルと言えば、ジェームス・ボンドの「ステアじゃなくシェイクしたウォッカ・マティーニ」。ギムレットとウォッカ・マティーニは、娯楽小説界を代表する二大カクテルです。

ハードボイルドとは固ゆで卵に由来しますが、ハードな文体で、暴力や非情な世界も客観的に扱う探偵小説と言えます。1920年代、「マルタの鷹」で知られるダシール・ハメット等から始まります。最も隆盛を極めたのが1950年代だったと思われます。チャンドラーはじめ、ロス・マクドナルド、ミッキー・スピレイン等が描く魅力的な探偵たちが活躍しました。その時代を象徴する言葉が「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格はない」だと思います。チャンドラーが「プレイバック」のなかでマーロウに語らせています。

60年代になり、社会が難しくなってくると、探偵たちも、単純にタフで、単純にセンチでもいられなくなります。より内省的になり、悩みを抱えた人間として描かれます。ロス・マクドナルドのリュウ・アーチャーが代表なのでしょう。70年代になると、社会はもっと複雑になり、家庭に問題を抱え、組織と個人の板挟みに悩み、社会の矛盾に直面する刑事たちが主人公になっていきます。すでにハードボイルドは過去のものになっていました。とは言え、その血を受け継ぐ者たちもいます。マイクル・コナリーであり、ドン・ウィンズロウなのでしょう。ウィンズロウの「犬の力」三部作のハードさたるや、固ゆで卵どころか、もはや岩石に近いところまで固くなっています。(写真出典:diffordsguide.com)

2020年11月9日月曜日

鍋焼きうどん

冨美家鍋
寒くなると、鍋焼きうどんが恋しくなります。北国では、蕎麦屋の通年メニューですが、東京では季節メニューとなります。近年、それすら消えつつあります。温暖化も多少関係しているかも知れませんが、中途半端にお高くなった値段が原因ではないかと思います。庶民的な食べ物でしたが、年と共に、具材が高くなりなり、高級化が進んだように思います。さらに言えば、さぬきうどんブームも影響したと思います。うどんはコシが命といった風潮が広がり、麺の柔らかい鍋焼きうどんの衰退につながったのだと思います。蕎麦の街東京にもさぬきうどん専門店が増えましたが、もちろん鍋焼きうどんというメニューはありません。

鍋焼きうどんと言えば、かつてはアルマイトの小鍋で出されていたものですが、今や小ぶりな土鍋が定番化しています。これも高級化の証左です。北国では、アルマイトにホーロー引きの鍋が定番でした。鍋蓋には、よく海老の絵がありました。今では、まったく見かけません。今でも、アルミ鍋にこだわっているのが、鍋焼きうどんをご当地グルメとしている愛媛県松山市です。そもそも松山が鍋焼きうどんを名物にしていること自体が不思議です。聞けば、昭和22年、砂糖など手に入らなかった時代、「アサヒ」が甘い出汁の鍋焼きうどんを出したところ、大評判となり、2年後には「ことり」が開店。この2店の人気が、鍋焼きうどんの街を作ったようです。

「ことり」で鍋焼きうどんを食べましたが、甘いというよりも、いりこ出汁の風味が見事でした。北国も、かつては煮干し出汁でしたが、独特のえぐみが安っぽい印象でした。それはそれで懐かしいのですが、今は、どこも昆布出汁になりました。「ことり」のいりこ出汁はえぐみのない、さすが瀬戸内と言いたくなるようなものでした。具材は、海老天も入らず、極めてシンプルでした。愛媛県も讃岐うどん文化圏だとは思いますが、松山の鍋焼きうどんに限っては、コシは強くありません。やはり、出汁がからみやすい麺を選択しているのでしょう。

他に鍋焼きうどんの街と言いたいのは、京都です。京都はうどんの街です。出汁自慢ゆえ、柔らかい麺が主流。「山元麺蔵」、「岡北」はじめ大行列店も美味いのですが、私のお気に入りは「冨美家」です。京都へ行った際には、冨美家鍋は欠かせません。実にやさしい出汁は癖になります。京都は、底冷えの街ゆえ、あんかけうどんが名物。卵とじ、九条ネギいっぱいのネギうどんもいいのですが、鍋焼きうどんも定番です。私は、冬に限らず、夏でも冨美家鍋です。イタリアで骨折して、自宅療養を始めた際、いの一番に食べたいと思ったのも、冨美家鍋でした。取り寄せも可能なので、美味しく食べることができました。

鍋焼きうどんの歴史は、はっきりしません。江戸後期には、大阪の屋台で人気だったようです。明治になって東京にも伝わり、深川界隈でブームに火が付いたようです。あまりの人気に、江戸の名物夜鷹そば屋が姿を消したと言います。その深川ですが、現在は、鍋焼きうどん不毛の地となっています。江東区全体まで広げてみても、鍋焼きうどんは、なかなかお目にかかれません。(写真出典:kyoto-fumiya.co.jp)

2020年11月8日日曜日

「アラヤ」

2020年中国   監督:シー・モン(石梦)

☆☆☆+

東京国際映画祭でワールド・プレミアとなった「アラヤ」は、中国の若い女性監督シー・モンの初監督作品です。タイトル・バックは、重厚な大作を思わせる見事な映像から入ります。ただ、途中、ややトーンを崩すきらいがあり、ある意味、本作の傾向の一つを象徴していました。つまり、よく練り上げた脚本、しっかりとした絵コンテに基づく画面などが監督の力量を感じさせる一方、やや多くの思い入れを詰め込み過ぎた印象があります。完成時には3時間30分だったものを2時間30分まで編集し直したことが影響しているかも知れません。ただ、テーマからしても、墨絵のごとく、余計なものをもっとそぎ落とす覚悟が必要だったと思います。

現題は「無生」ですが、仏語では絶対の真理、つまり悟りを意味します。随分、重いタイトルを選択したものです。英文タイトルを「アラヤ」としたことも含め、監督の強い思い入れが伝わります。映画終盤で、舞台となった村の名が「阿頼耶村」と映し出されます。明らかに仏教で言う「阿頼耶識」を意味するのでしょう。大乗仏教の唯識論では、知覚や意識の構造を八段階とし、その最深部を阿頼耶識と呼びます。阿頼耶識は、無意識領域ですが、他の七識を生み出す根本とされます。サンスクリット語でアラヤは蔵を意味することから蔵識とも呼ばれます。ちなみに、サンスクリット語で雪はヒマ、ヒマラヤは雪の蔵という意味だそうです。

一人ひとりが認識する世界は、すべて個々人の阿頼耶識が生み出す主体的なもので、客観的存在ではありません。よって存在には実態が無く、「色即是空」となるわけです。登場人物の業が生み出す因果の絡み合う世界を、二つの実相から見せる、という試みは、唯識的であり、色即是空を伝える新たな説話を創造しようとしているかのようです。また、映画の最後には金剛経の「諸相は相に非ずと見るは如来を見るなり」という一説が挿入されます。目に見えている世界だけが世界ではないと認識できれば悟りに近い、と締めくくるわけです。

では、本作は仏教を説く映画なのか、と言えば、そうでもないように思えます。映画祭のインタビューで、監督は「阿頼耶識を、過去に捉われた村人のいるマジック・ボックスと考えた」と語っています。検閲が強化された中国映画界ですが、検閲対象は習近平、政府への直接的批判にフォーカスされ、それ以外は緩和されたようにも思えます。若い監督たちは、直接的表現を上手に避けながら、中国の現状を描いているとも言えます。本作も、共産党がコントロールできていない中国人の現状、あるいは中国社会の矛盾を象徴的に伝えているようにも見えます。

映像詩的アプローチのビー・ガン監督、そしてこの観念的アプローチのシー・モン監督といい、中国映画の新しい波は、とても面白いと思います。シー・モン監督の次回作が楽しみです。(写真出典:eiga.com)

2020年11月7日土曜日

「相撲道~サムライを継ぐ者たち」

 2020年日本  監督:坂田栄治

☆☆

2019年初場所前から夏場所までの間、境川部屋と高田川部屋を取材したドキュメンタリーです。今年、引退した元大関豪栄道の男っぷりの良さに惚れ直します。相撲ファンというものは、何度でも本割の取り組みを見たいものです。また、なかなか見る機会のない稽古場での申し合いも興味つきないものがあります。しかも、それを大画面と迫力ある音響で楽しめるわけですから、もう最高ですよ。

一方、映画ファンとしては、ドキュメンタリー映画のテーマに迫っていくプロセスに魅力を感じるものです。それはミステリーの謎解きに近い快感でもあります。残念ながら、この映画には、それがありません。何をしたかったのか、まったく不明な映画です。なにかTVの密着取材のようにしか見えません。同じTVでもNHK特集等はテーマへの切り込みに鋭さがありますけどね。

ある意味、謎に満ちた映画ですが、これが初監督作品となる坂田監督のバックグランドや制作経緯を読んで、すべて納得しました。坂田氏はTBS局員で、バラエティー番組の制作をしてきたそうです。担当する「マツコの知らない世界」で相撲界に触れ、感動した坂田氏は、もっと相撲を知り、世間にその魅力を伝えたくて、私財を投げうって、この映画を制作したとのことです。道理で薄い映画になっていたわけです。男豪栄道の相撲人生に絞っていれば、結構、いいドキュメンタリーになっていたと思います。

気になるのは、坂田氏が、相撲を、武術、あるいは格闘技と捉えている、ないしはそのようにプレゼンしていることです。相撲はサムライの武術ではありません。確かに相撲の発展のなかで武家相撲がありました。ただし、それは、あくまでも日ごろの鍛錬が目的であり、戦場での組み合いを想定した訓練でした。体系化され教練されたものではありません。武道は、明治に確立された概念で、それ以前の武術は古武道とされました。古武道の武芸十八般に柔術はあっても、相撲は含まれていません。現在、相撲道は武道に含まれます。武道の”道”は、稽古を通じて人格を形成するという意味です。相撲のスポーツとしての一面や格闘技としての一面は否定しません。ただ、それだけでは相撲を理解できないと思います。

もともとプリミティブな争いの形態だったものが、相撲として、遊びや鍛錬、さらには勧進や興行へと進展してきたのでしょうが、現在の相撲につながる根本は神事にあります。土俵の内外で行われる所作は、神事に基づいており、取り組みは、そのなかの一つです。相撲をコンタクト・スポーツとして見た場合、ルール、ことに禁じ手の少なさは世界一だと言われます。握り手で殴る、急所をつく等、わずか八つだけです。それはルールが古いからではなく、神事由来の武道だからと言えます。近年、相撲の国際化に伴い、神事由来の武道としての理解が薄らぐ傾向も見受けられます。ただ、相撲の多くの所作が、神事由来の相撲に対する理解を下支えしていると思います。(写真出典:kumin.news)

2020年11月6日金曜日

遷都

京都御所紫宸殿
京都の人に言わせると、日本の首都は東京かもしらへんけど、日本の都は京都どす、ということになります。実は、単なるプライドの問題ではなく、事実を踏まえた発言です。都を移す場合、天皇が「遷都の詔」を発します。明治時代になり、天皇が東京へ行幸した際、遷都の詔は出ていません。日本の首都は、法定されていないものの、実態上、中央政府のある東京ということになりますが、都については平安京のままなわけです。何故、遷都の詔は発せられなかったのか。チコちゃん風に言えば「タイミングを失ったから」となります。

幕末には、大阪への遷都案が出ていたようです。天皇親政を目指す薩長は、すべてを新しくしたかったのでしょうが、他に、御所が狭くて古い、京都の街も狭い、京都人はうるさい等も背景にあったようです。ところが、戊辰戦争で新しい皇居と目されていた大阪城が焼失したこともあり、にわかに江戸案が浮上します。徳川家を駿府に移し、江戸城を新たな皇居とするという案です。江戸城の広大さ、江戸が世界一の大都市だったこと、地理上も日本の中央に位置すること等が考慮されたのでしょう。

ただし、宮廷内や京都の人々の反対に配慮し、遷都ではなく、京都御所はそのままに、江戸にも御所を置く、つまり二都制が指向されました。江戸は東京に改称されたのではなく。東の都という意味で東京と呼ばれれるようになったわけです。実態を先行させ、落ち着いた頃に遷都の詔を発するつもりだったと思われます。ただ、東京の首都機能が、あまりにも早く定着したので、詔を発するタイミングも、発する意義も失ってしまったというのが実態だったのでしょう。東京を首都とする法令が定められなかったのも同じ理由と考えられます。

バブル期には、首都移転という議論が盛り上がり、候補地も絞り込まれます。東京への一極集中は多くの弊害を生んでいますし、防災上の観点も考慮すべきです。実に難しい話ですが、検討に値する議論でもあります。ただ、議論の背景には、バブルによる東京の地価高騰がありました。バブル崩壊とともに地価が下がると、首都移転という話は急速にトーン・ダウンしました。その後、地方創生という政策のなかで、省庁の一部が地方への移転を始めました。総務省の和歌山、消費者庁の徳島、今後予定される文化庁の京都等ですが、あくまでも一部機能のみです。今年のコロナ禍を受け、リスク管理の観点から、政府機能の分散という議論が起こっているようです。

20世紀以降の首都移転で成功した例は一つもない、と言われます。都市が成長を遂げてきた理由は、首都機能の所在ではなく、産業、交通、文化等が背景にあるからです。5Gを前提とすれば、リスク管理、東京一極集中の解消、地方創生といった観点から、首都移転ではなく、政府機能の分散という選択は、かなり有望だと考えます。(写真出典:discoverjapan-web.com)

2020年11月5日木曜日

黄金比

友人が、アメリカ南部の大学院へ留学した際の話です。寮で同室になったのが、アフリカ西部の族長の息子。ある春の日、陽気に誘われ、二人で公園へ散歩に出かけたところ、ビキニ姿で日光浴する若い女性たちがいたそうです。私の友人が「すげぇ、いい眺めだなぁ!」と言うと、同室の彼は「気持ち悪い」と応えたというのです。なんで、と聞くと「肌が白くて、髪が金色で気色悪い。一番気持ち悪いのは腰がくびれていることだ」と言ったそうです。美感、価値観は、国や個人で見事に異なるわけです。

随分と昔の話ですが、ニューズウィーク誌に面白い記事がありました。「なぜ私たちは美しい人に惹かれるのか」といったタイトルだったと記憶します。人類が登場してから数百万年の間、男性は狩りを行い、どれだけ多くの獲物を持って帰れるか、ということがその価値だったわけです。一方、女性は、強い子をどれだけ沢山生み育てられるかが価値でした。ところが、いずれも見た目だけで、その能力を判断することは不可能で、やってみなければ分かりません。そこで、パートナー選びの際には、体のバランスの良さが一つの尺度になっていたのではないかというのです。

つまり、人間の体は、機能的に作られているので、バランスが良いということは、機能が効率よく発揮され、良い成果も期待できるわけです。顔の造作も同じことが言えます。やはり、目鼻立ちのバランスが良い方が、機能的に優れていると判断されるわけです。現代に生きる私たちも、その延長線上で、体のバランスの良い人をスタイルがいいと評価し、目鼻立ちのバランスの良い人を美しいと評価するわけです。記事では、いわゆる黄金比や他の貴金属比をベースに、整った顔と判断できる目鼻立ちの構成比率を算出し、実際の美しい顔に当てはめ、検証していました。

黄金比は、線を一点で分け、長い部分と短い部分との比が、全体と長い部分との比に等しくなるようにしたときの比率です。正しくは算式で示されますが、おおむね1:1.618であり、これを縦横とした長方形が黄金長方形と呼ばれ、最も美しい長方形とされます。古代ギリシャで発見され、建造物ではパルテノン宮殿、彫刻ではミロのヴィーナス、絵画ではモナ・リサ等で多く活用されてきました。また、身近には名詞、ハガキ、あるいはアップル社のロゴ等といったデザインの基本となり、メークや美容整形でも活用されています。

実は、その記事で最も気に入ったのは最後の言葉でした。さんざん構成比で整った顔を分析したうえで「それでも、なぜ私たちはアンバランスな顔に惹かれるのだろうか」と結んでいました。そしてマリリン・モンローの写真が添えられていました。(写真出典:eiga.com)

2020年11月4日水曜日

梁盤秘抄#8 Plays Misty

 アルバム名:Plays Misty(1954)   アーティスト名:エロール・ガーナー

エロール・ガーナーは、アンダーレイテッドなジャズ・ピアニストだと思います。歴史的名曲「ミスティ」が、あまりにも有名で、ジャズというよりもポップなピアニストと誤解されがちです。確かに、ミスティのヒット後、特に歌詞がつけられジョニー・マティスが世界的ヒットを飛ばした後は、ラウンジ・ミュージック的なレコードが多く録音されています。時代がハード・バップからモダンへと進むなかでは、やや古臭い感じもあったのでしょう。ただ、独特なビハインド・ザ・ビート奏法やビートの強さは、今でも魅力的です。唯一無二な音楽を奏でるジャズ・ピアニストだと思います。

エロール・ガーナーの独特なピアノ奏法については、有名なエピソードがあります。拍に対してやや遅れ気味のタッチで弾くビハインド・ザ・ビートは、彼が楽譜を読めなかったためだと言われています。そうなのかも知れませんが、楽譜の読めないミュージシャンなど、ザラにいます。全員がビハインド・ザ・ビート奏法ってわけではありません。また、楽譜の読めない一流ミュージシャンほど優れた音感の持ち主でもあります。エロール・ガーナーのビハインド・ザ・ビートは、彼の感性に基づく独特な表現方法だと思います。また、ビートの強さは、彼が左利きだったからとされます。左手が強いタッチを生み、小気味よいビートにつながっている面はあるのでしょう。まあ、これとて決定的な話とは思えません。左利きのピアニストも多くいるはずですから。

名曲「ミスティ」は。濃霧のなか、NYからシカゴへ向かう飛行機の中で、ひらめいたメロディだと言われます。楽譜が読めない彼は、採譜することができず、忘れないようにメロディを口ずさみながら空港からホテルへ向かい、テープレコーダーを借りて急ぎ録音したと言います。絶妙なテンションの高さが、甘く都会的なメロディに独特な清冽さを与えています。まるで霧の中にいるような幻想的で不安定な印象を与えます。多くの歌手が歌っており、どれもいい味を出していますが、やはりエロール・ガーナーの弾くミスティが、 曲の魅力を最もストレートに伝えていると思います。

映画監督としてのクリント・イーストウッドは、実に多作な監督です。その第一回監督作品が1971年の「恐怖のメロディ」です。原題は”Play Misty for Me”でした。今風に言えば、ストーカーの恐怖が主題の映画であり、史上初のストーカー映画とも言われます。映画は、主人公であるラジオのDJのもとに、毎日、同じ時間にミスティをリクエストしてくる謎の女性から始まります。甘いだけではなく、都会的なアンニュイも感じさせるミスティという曲の選択が、映画のムードを決める大きな要素になっていました。

それにしても、ジャズのスタンダードには、甘いメロディに都会的なセンチメントが入った大人の曲が多かったな、と思います。明らかにミスティは、その代表格です。ちなみに都会的なバラードの神髄は、デューク・エリントンの”Sophisticated Lady”ではないかと思っています。失恋の痛みを忘れるために都会の遊び人を気取る女性が、人目のないところで涙する、という歌詞も都会の夜の一コマを描いています。(写真出典:hmv.co.jp)

2020年11月3日火曜日

新喜劇

 大阪へ行く機会があると、今でもワクワクします。東日本の人間にとっては、全く異なる文化圏なので、海外旅行に近いものがあります。ことに食文化は興味がつきないものがあり、毎回、何を食べようかと悩みます。近年、時間的余裕がない時でもかかせないと思っているのは、道頓堀今井のうどん、はなくじらのおでん、たこ八かはなだこのたこ焼き等。要は、大阪の出汁文化が手軽に味わえるものということなのでしょう。一方、お好み焼きは、あまり食べません。嫌いなわけでもなく、まずいと思っているわけでもないのですが、その魅力がいまいち分かりません。とは言え、難波は味乃屋の焼きそばは天下一品だと思っています。

吉本新喜劇 辻本茂雄座長公演
時間に余裕があれば、いつも行きたいと思うのが、なんばグランド花月です。レベルの高い漫才、TVでは見れない芸人等も楽しみですが、何といってもお目当ては吉本新喜劇。吉本新喜劇は、MBS毎日放送とのタイアップで、1959年にスタートしています。なんば花月から中継される新喜劇は、西日本中心に60年も続く長寿番組。ただ、全国放送されたのは一時期だけであり、東日本ではなじみの薄い存在です。東日本では視聴率が取れなかったわけですが、ここが文化圏の違いとして面白いところです。

藤山寛美に代表される松竹新喜劇は、 笑いとぺーソスの軽演劇ですが、 吉本新喜劇は、演劇というよりは少し長めコントといったところ。 決まりきった筋書と設定に、 いつもの芸人のいつものギャグで構成されます。 マンネリの極みですが、 これは大阪の人々が好む笑いのあり方に関わっていると思います。それは、 東西の落語の違いにも感じられます。 東京の聞かせる落ち話に対し、同じ演目でも、大阪はちょいちょい笑いを入れてきます。要するに、大阪の人の好む笑いは、より日常的であり、より瞬間的であり、より反射的であるように思えます。

まずは、武家文化の身分格差前提の江戸社会、ほぼ商人だけで構成される同質的な大阪社会という違いがあります。格式ぶった江戸と、それを嫌う大阪ということでしょうか。商売の会話は、 ややもすればギスギスしがちなものです。 大阪の商人たちは、会話に笑いを織り込むことで、 コミュニケーションの潤滑油としたのではないでしょうか。それが、笑いの日常化、反射的笑いの伝統を生んだものと考えます。同質的社会だからこそできたことだと言えます。江戸で同じことをやれば、失敬な、ふざけてやがる、となりそうです。

なんばグランド花月で感じる文化の違いがもう一つあります。舞台と客席の一体感です。客席からも声が飛び、演者も客をいじります。いかにつまらないパフォーマンスでも、東京なら、とりあえず拍手はすると思いますが、NGKでは野次の嵐となります。四半世紀前、似たような光景を上海で見ました。上海雑技団です。最初からかなり高度な技を繰り出してきますが、誰一人拍手しません。オリジナリティある極めて危険な技で初めて拍手が起こります。一流の芸人を育てるのは、師匠ではなく、厳しい観客だと思います。(写真出典:news.yoshimoto.co.jp)

2020年11月2日月曜日

ホット・スシ

Fried Sushi Roll
20年近く前、ローマでのことですが、イスタンブール在住のトルコ人から「スシは大好物だ。特にホット・スシが最高だ」と聞きました。関西には蒸し寿司の文化がありますが、彼が言っているのは、どうもにぎり寿司のようでした。そこで、スパイシーな寿司なのか、温かい寿司なのかを聞くと「温かい寿司のことだ、お前、知らないのか」と言われました。そこで邪魔が入り、それ以上詳しく聞くことができず、そのまま忘れていました。

海外の寿司屋は、おおむね韓国人か中国人が経営し、日本の寿司とは随分異なる代物が出されます。当然ながら、これは本当の寿司ではないと言いたくなります。ただ、考えてみると、日本でも、日本人が、日本にしかないような中華、フレンチ、イタリアン等々を提供しています。しかも、我々は、それを美味しいといって食べています。そう考えれば、世界各地の地元料理のローカル化を一概に否定することもできないのでしょう。料理は、各地の風土の中から生まれますが、異なる文化が交じり合い、新たな伝統料理ができた例も数知れずあります。

数年前、新潟の人気寿司店で、シャリが結構温かい寿司を食べました。違和感を感じました。江戸前のにぎりなら、シャリは人肌と言います。それは人肌と炊き立ての間くらいでした。ご一緒した新潟の人は、これが普通だと言っていました。そもそも新潟の寿司には多少の違和感を持っていました。ネタは申し分ないのですが、粒の小さいコシヒカリのシャリはふんわり感に欠け、米自慢ゆえか酢の効きが弱いのです。要は、おにぎりっぽいのです。温かいまま握るのは、コシヒカリのシャリにふんわり感を出すための工夫なのかも知れません。

そこで、トルコ人から聞いたホット・スシを思い出し、ネットで調べてみました。なんと、海外でホット・スシは定番。温かいシャリはもちろんのこと、ネタが温かかったり、ロール・スシそのものをベイクしたり揚げたりと、実に多様なホット・スシがありました。しかも、それを食べた日本人が、おしなべて、意外と美味しかったと言っているのです。まったく食べようとは思いません。ただし、それを寿司だと思わなければ、印象も異なります。例えば、シャリとチーズをサーモンで巻いたロール・スシなど、ベイクすれば美味しいのではないか、と思えます。

これも古い話ですが、NYで、アメリカ人から「東京のイタリアンはまずい」と言われました。どこで食べたのか聞くと、どうも青山のサバティーニらしいのです。本店は、ローマのトラステベーレにあります。一度ローマ本店でも食べたことがあります。東京店は、さすがに本店とは多少違いますが、まずまず美味しい本場の味と言えます。一方、彼の基準はNYのイタリアンです。これもまたNY独特のイタリアンであって、ローマの味ではありません。ま、それはそれでいいのでしょう。(写真出典:jp.freepic.com)

2020年11月1日日曜日

鎮西八郎為朝

源為朝は、日本史上、最強の武将だったではないかと言われます。武家支配へのきっかけとなった保元の乱での活躍は複数資料から確認され、大柄な弓の名手であったことは事実のようです。ただ、その生涯は、鎌倉時代に書かれた軍記物「保元物語」によるところが大きく、どの程度、事実を踏まえているかは大いに疑問です。ただ、多くの伝承を残すということは、並外れた武将であったことの証左でもあろうかと思います。なかでも、琉球に渡り、その統一に貢献し、実子舜天が初の中山王になった、という伝説は実に興味深いと思います。 

為朝は、身長2m10cm、左腕が右腕よりも12cmも長く、五人張の弓、つまり4人が弓を曲げ、一人が弦を張るほどの剛弓を射ったと言われます。生来乱暴であったことがたたり、豊前国に流されますが、3年で九州全域を支配し、鎮西八郎為朝を名乗ります。九州での狼藉が訴えられ、朝廷の召喚をうけますが、これを無視。父為義が官位をはく奪されたことを聞き、上洛します。そして保元の乱では、父とともに上皇側で戦います。剛弓を武器に活躍しますが、戦さには敗れ、腕の筋を切られ伊豆大島に流されます。そこで力を盛り返した為朝は、伊豆七島を支配しますが、五百を超える追討勢に攻められ、自害します。

実は、自害したのは替え玉であり、為朝は琉球に逃れ、今帰仁の運天港に上陸した、というところから琉球の伝承は始まります。為朝とその子舜天の伝承は、1650年、琉球王朝の「中山世鑑」に正史として記載されています。ただ、これは1609年の薩摩支配後に書かれた正史であり、為朝と同じ河内源氏の流れをくむ薩摩の島津家におもねったものだとされています。ところが、為朝の伝承は、薩摩支配以前の1605年に書かれた「琉球神道記」に記載されています。他の資料等と合わせ考察すると、為朝伝説は16世紀後半に登場しているようです。

当時、琉球は1469年に始まる第二尚王朝の時代でした。200年も前の別系統の王権の箔付けをする必要性など考えられません。14世紀の三山時代から始まった中国への朝貢は継続されており、王朝にとっては大きな負担になっていたようです。王朝は、その財源確保のため、先島諸島を支配し、15世紀後半には奄美諸島へも侵攻します。ただ、反乱が相次ぎ、完全に制圧したのは16世紀末と、平定には相当苦労したわけです。そこで、大和との関係がより強い奄美を鎮撫するために、為朝伝説が生み出され、活用されたのではないでしょうか。

為朝の琉球渡り伝承は、江戸後期、曲亭馬琴が「椿説弓張月」として連載小説化し、大ベストセラーとなります。浄瑠璃や歌舞伎にも取り入れられますが、全体のストーリーを歌舞伎化したのは、三島由紀夫です。三島は、近代歌舞伎を良しとせず、「椿説弓張月」を使って、江戸初期の歌舞伎の復興を図ったと言われます。それにしても、源氏の一番人気は九郎判官義経なのでしょうが、鎮西八郎為朝も、もっと人気があって然るべきだと思います。ただ、やさ男ぶり、悲劇性においては、甥っ子にはかなわないということなのでしょう。(月岡芳年「源為朝」 写真出典:ja.ukiyo-e.org)

夜行バス