ハードボイルドの頂点を極めたのは、レイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウ・シリーズだと思います。タフでセンチなLAの私立探偵は、皆の憧れでした。なかでも「ロング・グッドバイ(邦題:長いお別れ 1954年)」は、名セリフ満載のすこぶるセンチメンタルな作品。「I suppose it's a bit too early for a gimlet.(ギムレットにはちょっと早すぎるよね)」は、この小説の主題とも言える友情を切なく語る名言です。ギムレットは、マーロウと友人テリー・レノックスがバーで飲む際の締めの一杯であり、再会を約する一杯です。友情を裏切ったテリーが、マーロウと再会した時、かすかな期待を込めて「ギムレットには…」と言うわけです。
マーロウは、お前との付き合いは終りだ、でもここでさよならは言いたくない、とテリーを拒みます。「To say Good bye is to die a little(さよならを言うことは、わずな間死ぬことだ)」もロング・グッドバイの名言です。ハードボイルド界を代表するカクテルになったギムレットのレシピは、ジン3:ライム・ジュース1をシェイクします。ただ、テリーは、本当のギムレットは、ジンとローズ社のライムジュースを半々と語っています。ちなみにエスピオナージュ界を代表するカクテルと言えば、ジェームス・ボンドの「ステアじゃなくシェイクしたウォッカ・マティーニ」。ギムレットとウォッカ・マティーニは、娯楽小説界を代表する二大カクテルです。
ハードボイルドとは固ゆで卵に由来しますが、ハードな文体で、暴力や非情な世界も客観的に扱う探偵小説と言えます。1920年代、「マルタの鷹」で知られるダシール・ハメット等から始まります。最も隆盛を極めたのが1950年代だったと思われます。チャンドラーはじめ、ロス・マクドナルド、ミッキー・スピレイン等が描く魅力的な探偵たちが活躍しました。その時代を象徴する言葉が「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格はない」だと思います。チャンドラーが「プレイバック」のなかでマーロウに語らせています。
60年代になり、社会が難しくなってくると、探偵たちも、単純にタフで、単純にセンチでもいられなくなります。より内省的になり、悩みを抱えた人間として描かれます。ロス・マクドナルドのリュウ・アーチャーが代表なのでしょう。70年代になると、社会はもっと複雑になり、家庭に問題を抱え、組織と個人の板挟みに悩み、社会の矛盾に直面する刑事たちが主人公になっていきます。すでにハードボイルドは過去のものになっていました。とは言え、その血を受け継ぐ者たちもいます。マイクル・コナリーであり、ドン・ウィンズロウなのでしょう。ウィンズロウの「犬の力」三部作のハードさたるや、固ゆで卵どころか、もはや岩石に近いところまで固くなっています。(写真出典:diffordsguide.com)