2023年2月27日月曜日

「バビロン」

監督:デイミアン・チャゼル      2022年アメリカ

☆☆☆+

もはやデイミアン・チャゼル監督を新進気鋭の若手監督とは呼べないのかも知れません。メジャー・デビューとなった「セッション」で、アカデミー賞5部門ノミネート、3部門獲得した際は29歳。驚異的な大ヒット映画となった2016年の「ラ・ラ・ランド」では、32歳という史上最年少でアカデミー監督賞を受賞しました。2018年には、人類初の月面着陸を行ったニール・アームストロングを描いた「ファースト・マン」で、監督としての確かな腕前を見せ、再びヒットさせています。ハリウッドにとって、デイミアン・チャゼルは稼げる監督の一人になったわけです。「バビロン」の製作費は、「ラ・ラ・ランド」の3千万ドルに対して、1億ドル以上と言われ、3倍以上に膨らんでいます。

「セッション」は、ジャズをかじったことがある監督のジャズに対する愛情があふれた映画でした。「ラ・ラ・ランド」は、ハリウッド映画に対する愛情に満ちあふれた、幸せなおとぎ話でした。「バビロン」は、ハリウッド映画を生み出しているクレイジーな世界に対する深い愛情を感じさせます。異常な世界ですが、その猥雑さも含めて、チャゼル監督は愛してやまない、といった印象です。これをサイレント時代の終焉に伴う悲劇を描いた「サンセット大通り」の系譜的作品だと理解するなら、「バビロン」はとんでもなく狂った最悪の映画です。「バビロン」は、カルト・ムービーだと理解すべきでしょう。「バビロン」は、史上最高の製作費を投じたカルト・ムービーとして永く歴史に残るかも知れません。

ハリウッドは、まんまとデイミアン・チャゼルにだまされたとも言えます。監督は、興業成績が伸びず、評価も分かれることは承知のうえで、やりたかったことをやり遂げ、ニンマリしているはずです。エネルギッシュな映像は、監督の力量と思い入れを感じさせます。また、「バビロン」は、歴史を彩った映画へのオマージュにあふれています。例え、それらがドラマを構成する必然性に乏しくても、やりたいことをやっているといった印象です。各シークエンスは、必要以上に長い印象を受けますが、イメージを完全に映像化するという監督の強い意思を感じます。「バビロン」は、チャゼル監督が、プリンストンで育った映画オタクのチャゼル少年、そして同年代の熱烈な映画オタクのためだけに作った映画だと言えます。

監督は、クレイジーな人たちがクレイジーな現場で作っているからこそ映画は面白い、と言っているような気がします。猥雑なエネルギーこそ映画製作の源であることを示すには、サイレントからトーキーへ変わる時代が最も適しているということなのでしょう。主演したマーゴット・ロビーは、まさにはまり役。ハリウッドは、彼女の扱い方に悩んでいるように思えますが、少なくともカルト・ムービーには、ドはまりです。マーゴット・ロビーは、派手な目鼻立ちで現代版ソフィア・ローレンといった風情です。ソフィア・ローレンも、デビューからしばらくは単なる肉体派女優でした。マーゴット・ロビーも、いつか「ひまわり」のような映画を撮ることになるのかも知れません。

近年、監督自身の映画やハリウッドへの思い、あるいは自らの子供時代をモティーフとする映画が多く見られます。いわば映画の私小説化です。それが許され、資金が提供されるのは、力量のある、稼いだ実績のある監督に限られます。力のある監督が、思い入れたっぷりに撮るだけあって、なかなか良い映画ができるように思います。一方では、思い入れの強さゆえ、冗漫になりすぎる傾向もあります。「バビロン」も、映画への愛情あふれる映画ですが、多少スタンスは異なります。その違いは、製作サイドからではなく、映画ファンの視点から描かれているということなのでしょう。象徴的なのは、時代に乗り遅れたスターたちの死です。それは決して悲劇のハイライトとしてではなく、映画製作という猥雑な世界でまま起こる一つの事象として、多少距離をとって描かれているように思います。(写真出典:babylon-movie.jp)

2023年2月25日土曜日

茉莉花茶

茉莉花工芸茶
30年前、中国へ行ったおりのことです。上海では烏龍茶ばかりだったのが、北京では茉莉花茶一色となり、その違いが面白いと思いました。そのことを北京の人に話すと、ジャスミン茶には、喉の渇きを癒やす効果があるので、乾燥している北京では特に好まれる、と言っていました。それもその通りなのでしょうが、実は、ジャスミン茶が北京に根付いている理由は、他にありました。お茶の生産地は、中国南部です。清朝のころ、南部のお茶が北部へも運ばれるようになります。北京と杭州を結ぶ京杭大運河は、7世紀の隋代に完成していますが、その後衰退し、明・清代に再び整備されたと聞きます。お茶も、この京杭大運河を通って華北へ運ばれたのでしょう。

華北では貴重で高価なお茶でしたが、運搬に時間がかかることから、香りも味も劣化し、商品価値が下がったようです。そこで、香りの強いジャスミンの花をお茶に入れて運ぶというアイデアが生まれます。江南のお茶とは、まるで異なる花茶の誕生です。劣化したお茶を誤魔化す手段だったわけですが、これはこれで大人気となり、北京にジャスミン茶の文化が根付くことになります。中国のお茶は、発酵の度合によって、緑茶・白茶・黄茶・青茶・紅茶に分類され、他に微生物発酵させた黒茶があります。例えば、烏龍茶は青茶、普洱茶(プーアール茶)は黒茶になります。ジャスミン茶は、”その他”に分類され、武夷岩茶、西湖龍井、安渓鉄観音といった中国十大銘茶に入ることなど決してない安価なお茶です。

最近は多少変わりましたが、かつて日本の中華料理店では、ジャスミン茶を出すことが定番でした。もちろん、日本の中華料理店が、すべて北京料理の店だったわけではありません。日本の飲食店では、客が来ると、まずはお茶を出すという文化があります。お茶は無料のサービスです。対して、中国では、お茶はお金を出して飲むものです。お茶は無料という日本の文化と折り合いをつけるために、中華料理店では、安価なジャスミン茶を出すことにしたのではないかと思われます。結果、日本で中国茶と言えばジャスミン茶、という時代が長く続きました。それを一変させたのは、日本のあるアイドル・グループでした。1976年にデビューし、一世を風靡したピンク・レディーです。

1979年、ピンク・レディーは、人気番組「夜のヒットスタジオ」で、美容のために痩身効果のある烏龍茶を飲んでいると発言します。瞬く間に烏龍茶の売れ行きが伸び、年間輸入量は2トンから280トンに増加したと言います。その後、一旦収束した烏龍茶ブームでしたが、1981年に、伊藤園が世界初となる缶入りウーロン茶を発売、サントリーもこれに続き、手軽な清涼飲料水としてヒットし、さらに緑茶系も発売されたことから、お茶系飲料が定着することになります。また、ウーロン・ハイも定番化しました。烏龍茶の珍妙な飲み方に、中国の人たちは驚いたことだと思います。ただ、このヒットに伴い、中国茶に対する認識も徐々に広がっていきました。中国茶専門店も増え、飲茶の際にお金を払ってお茶を選ぶようになり、お湯を注ぐと花びらが開く工芸茶がブームになったこともありました。

さんぴん茶は、沖縄の定番飲料ですが、ジャスミン茶の一種です。中国語でジャスミン茶を表わす香片茶(シャンピェンチャ)が、その語源だといわれます。とは言え、北京のジャスミン茶とは、味わいも香りも随分と違います。その違いは、緑茶を使う北京に対して、半発酵茶を使うことなのだそうです。お茶の産地である台湾や福建に近い沖縄ならでは、というところでしょうか。さんぴん茶は、沖縄の風土気候によくマッチしています。やはり、ジャスミン茶には、喉の渇きを癒やすクイック・クエンチ効果があるように思います。(写真出典:item.rakuten.co.jp)

2023年2月24日金曜日

女殺油地獄

近松門左衛門と言えば、曾根崎心中、冥途の飛脚、心中天網島など世話物で知られます。ただ、実際のところ、近松の脚本は、時代物が大層を占めるのだそうです。浄瑠璃の影響から心中が流行り、世話物は上演禁止とされた時期もあったようですから、結果、時代物が増えたのかも知れません。そもそも見世物に始まった浄瑠璃や歌舞伎に庶民が求めたものとは、まずは取っ付きやすい時代物だったとも思われます。恐らく、世話物は、社会と芝居文化の成熟につれて人気を博していったということなのでしょう。1721年に初演された「女殺油地獄」は、近松最晩年の作品であり、キワモノ的なタイトルとは裏腹に、至ってシンプルなストーリーを持つ世話物です。2月文楽公演”近松門左衛門特集”での舞台を観てきました。

「女殺油地獄」というタイトルは、猟奇的、扇情的な芝居を思わせます。ただ、殺された”女”は町内の油屋の内儀であり、情人などではありません。”油地獄”とは、犯行現場が油屋の店先であり、油にまみれたというだけです。シンプルな話だけに、興行上、扇情的なタイトルが必要だったのかも知れません。修羅場では、人形が油に滑る様を見事に演じます。なかなかの見せ場ですが、これも地味な話ゆえの派手な演出だったのでしょう。「女殺油地獄」の主題は、今も昔も変わらぬ子育ての難しさだと思います。河内屋徳兵衛は、油屋の番頭でしたが、主の急死によって、主の妻と結婚し、店を継がされます。主の実子・与兵衛に対しては、遠慮がちに接します。与兵衛は、甘やかされ、愛情に飢えた放蕩息子に成長し、勘当され、金欲しさに凶行に及びます。

江戸幕府開闢から百年が経ち、安定した世情は、経済活動をも活発化させます。大阪では、商人が台頭し、商人文化が形成されます。「女殺油地獄」の初段は野崎参りの場面です。野崎参りは、信心もさることながら、行楽的な要素が大きく、また遊女連れの参拝などは遊郭の隆盛をも伝え、大阪の経済力の高まりを象徴しています。一方、社会が成熟すると、面倒なことも増えていきます。商人にとっては、商売を維持・拡大することが至上命題となり、与兵衛の継父・徳兵衛も、個人の意思とは関わりなく、難しい家族状況を持つ身代を継がされます。近松が注目したのは、経済成長につれて社会がいびつになり、本来的な人間の営みが疎外されていく状況だったのでしょう。

放蕩息子による殺人という話を借りながら世相を批判し、芝居的なギミックも少ない「女殺油地獄」は、興行的に大コケし、永らくお蔵入りすることになります。当時の大阪では、跡継問題や放蕩息子は、日常よく見かけるごくありふれた問題であり、共感を得るどころか、わざわざ金を払って観るまでもない、ということだったのでしょう。「女殺油地獄」が注目されるのは、約200年後のことでした。坪内逍遙が、近松研究のなかで取り上げたことから注目されるようになり、1909年、歌舞伎で再演されます。浄瑠璃での再演は、さらに遅く、戦後の1947年だったようです。近代化、西洋化が急速に進む明治の世は、江戸の初めの経済発展期に酷似していたのかも知れません。

勘当された与兵衛は、郭通いのために200匁という金を借ります。期日内に返済できなければ、5倍の1貫を返さなければならないという阿漕な契約でした。200匁は、現在価値で4~50万円ほどとのこと。勘当前なら大した金ではなかったもの、一文無しには大金です。勘当したものの倅を気遣う両親が、与兵衛に渡してくれと向かいの油屋の内儀に託した金では足りませんでした。返済期日を迎え、あせった与兵衛は、強盗殺人に及びます。ちなみに、江戸期の通貨といえば、両・分・朱という単位がよく知られます。これは金をベースとした通貨単位です。他に銀・銭も通貨として流通しており、三貨制度がとられていました。重量をベースとする銀では貫・匁・分、銅貨では文が単位として使われていました。(写真出典:ntj.jac.go.jp)

2023年2月22日水曜日

ピアソラ

この2年間は、アストル・ピアソラの生誕100年、没後30年と続き、記念のコンサートやTVでの特集が多くありました。タンゴ・ファンというわけではない私ですら、ピアソラの代表作「リベル・タンゴ」を何度も耳にしました。アストル・ピアソラは、アルゼンチン出身のバンドネオン奏者であり、作曲家です。そもそもタンゴはダンスの様式であり、音楽としてのタンゴは伴奏に過ぎませんでした。ピアソラは、タンゴに、クラシックやジャズの要素を取り入れ、聞く音楽としてのタンゴを確立した人です。ピアソラの音楽は、タンゴを踊る国アルゼンチンでは、踊れないタンゴとして批判されますが、タンゴを踊ることが少ない海外では高い評価を得て、多くのファンを魅了しました。

ジャズやサンバをあげるまでもなく、南北アメリカには、西アフリカと欧州の音楽が融合して生まれた新しい音楽が多数あります。ダンスとしてのタンゴは、18世紀のスペインで誕生しているようですが、それが貿易で賑わうラプラタ川河口地域へ伝えられ、独自の進化を遂げます。各地から伝わったマズルカ、ミロンガ、カンドンベ、ハバネラ等の影響を受け、19世紀末には、現在に至るタンゴの姿になったようです。個人的な印象で言えば、キューバのハバネラの影響が濃いように思います。フランスのコントルダンスに、アフリカ系の強いリズムが加わり出来たのがハバネラだと言われます。ハバネラは、キューバからスペインに伝わり、カルメンでも有名なとおり、スペインを代表する音楽の一つになっています。

タンゴは、2/4拍子、4/8拍子の第一拍、第三拍に強いスタッカートを入れるリズム、そして哀愁漂うメロディが特徴です。タンゴに付き物の楽器と言えばバンドネオンです。ドイツ発祥の楽器ですが、スタッカートを付けやすいことからタンゴで多用されます。エル・チョクロやラ・クンパルシータといったアルゼンチン・タンゴの古典は、誰もが耳にしたことがある名曲です。タンゴは、男女のペアが、体を密着させ、セクシーに、かつキレよく踊るダンスと一体化した音楽と言えます。ただ、ダンスと完全にシンクロすることで、発展性に乏しい、やや硬直化した音楽になった面があると思われます。簡単に言えば、どれも同じに聞こえるわけです。ピアソラは、タンゴに限界を感じ、新たな姿を求めます。

イタリア移民三世としてブエノスアイレスに生まれたピアソラは、少年期をNYで過ごしています。ブエノスアイレスでバンドネオン奏者として活動しますが、タンゴの演奏に行き詰まったピアソラは、33歳でパリに留学してクラシックの作曲を学んでいます。パリから帰国したピアソラは、革新的なタンゴに挑戦しますが、タンゴの破壊者として激しい批判にさらされ、命まで狙われたと言います。やむなくピアソラは、活動の場をNYに移しています。ピアソラの音楽は、タンゴに、バロックやフーガの構造、ジャズのリズムとアドリブを加えたものと言われます。ピアソラの改革とは、タンゴをダンスから解放し音楽として独立させたことであり、それが出来たのは、タンゴを国外から見る機会を持てたからなのでしょう。

タンゴは、他の新大陸系音楽と同様、強いリズムが特徴ですが、そのなかでは最もヨーロッパの色が濃いと思います。それは、恐らくタンゴ発祥の地として知られるブエノアイレスのラ・ボカ地区が、ジェノヴァ移民の街だったことが関係しているのでしょう。ラ・ボカは、町並みも、文化も、ヨーロッパの風情を強く残していると言われ、それが観光の売りにもなっているようです。アルゼンチンのピッツァ好きは有名で、国民食とまで言われますが、その発祥の地はラ・ボカです。また、アルゼンチンを代表するサッカー・クラブと言えば、マラドーナも在籍したボカ・ジュニアーズですが、ラ・ボカはその本拠地であり、サポーターは”ロス・セネイセス(ジェノヴァ人)”と呼ばれます。(写真出典:asahigunma.com)

2023年2月20日月曜日

かるかん

子供時分のことですが、父親が、会議等で全国各地へ出張することが多く、その土地土地の土産を買ってきてくれました。印象深いものがいくつかありますが、鹿児島の軽羹(かるかん)も、その一つです。なんて美味しいお菓子なんだろうと思いました。遠方の銘菓なので、かつては滅多に口にすることができず、いつも恋い焦がれてたものです。近年は、昔からあるプレーンな軽羹よりも、餡子の入った”かるかんまんじゅう”の方が主流になっているようです。かるかんまんじゅうは、明治40年、東京は木挽町の清月堂が考案したものです。それが今や本場鹿児島でもメインになっており、他国生まれの新参者が、本家本元を乗っ取った格好です。とは言え、軽羹は、やはり伝統的な棹状のものが美味しいと思います。 

軽羹は、いたってシンプルな材料と製法で作られます。かるかん粉と呼ばれる米粉、自然薯、砂糖を練って、蒸し上げれば完成です。伝統的な和菓子に使われるのは、もち米粉が多いのですが、かるかん粉はうるち米を粗挽きにした粉です。うるち米から作られる新粉やさらに細かい上新粉からは、団子類が作られます。かるかん粉は、新粉よりも荒い粉であり、軽羹以外で使われることは、ほぼないようです。このかるかん粉と自然薯が、軽羹の独特なふんわりとした食感を生んでいます。軽羹が生まれたのは江戸初期と言われます。当時、砂糖は貴重品でした。ただ、薩摩は奄美や琉球を支配していたので、砂糖は容易に手に入ったわけです。また、自然薯は、藩内の姶良カルデラや池田カルデラのシラス台地に多く自生していたようです。

軽羹という名前も、食感同様、ユニークです。羹は、もともとスープのことです。中国では南北朝時代に登場したという羊の羹を、禅僧が日本に持ち込み、小豆、小麦粉、葛粉等を使って再現します。これが日本式の羊羹のもとになります。軽羹が文献に登場する江戸初期には、羊羹はよく知られた菓子だったと思われます。軽い食感の羊羹という意味で、軽羹と命名されたのでしょう。軽羹の由来としては、1854年に島津斉彬の命に応じて作られたという説があるようです。斉彬公が江戸から招聘した菓子職人・八島六兵衛が考案したというものです。ただ、軽羹は、江戸初期の文献にも登場することから、六兵衛は、軽羹の安定的な製法を完成させたということではないかと思われます。

斉彬公が菓子職人を招聘したのは、雅な菓子を作るためではなく、滋味豊かで、かつ美味しい保存食を作るためだったとも言われます。斉彬公と言えば、造船、製鉄、地雷・水雷製造等、いわゆる集成館事業を起し、富国強兵に務めたことで知られます。実は、集成館事業のなかに、保存食の研究も含まれていたようです。つまり、六兵衛が担ったのは新たな兵糧の開発だったのではないでしょうか。六兵衛は、もともと薩摩で食されていた軽羹の素晴らしさに気づき、その製法を確立したものと考えられます。米、芋、砂糖ですからエネルギーは十分とれます。さらに、自然薯にはアルギニンなどの酵素類も多く含まれ、滋養強壮に良いとされます。また、薬効も多く認められ、もはや軽羹は、単なるお菓子とは言えないほどです。

軽羹は、兵糧の一種として製法が確立されたと考えられるわけですが、戊辰戦争終結と共にその役割は終わり、今度は菓子として市中に出されたのではないでしょうか。恐らく、兵糧バージョンよりも砂糖の分量を増やすことで、菓子として成立させたものと考えます。明石の出身だった六兵衛が開いた菓子舗は「安政元年創業かるかん元祖明石屋」として今に残ります。ただ、興味深いことに、六兵衛は、明治初年、職人に店を譲り、江戸に帰っています。その理由は、よく分かりません。ひょっとすると、斉彬公に命じられた兵糧開発という役割を終えたからだったのかも知れません。ちなみに、明石屋の軽羹饅頭は、有楽町にある鹿児島県のアンテナ・ショップでも購入できます。(写真出典:akashiya.co.jp)

2023年2月16日木曜日

「イニシェリン島の精霊」

 監督:マーティン・マクドナー  2022年アイルランド・イギリス・アメリカ 

☆☆☆+

国を愛する気持ちは、世界中、どこでも同じなのでしょうが、アイルランド人は、とりわけそれが強いように思います。極めて厳しい自然環境、隣国の干渉を受け続けた歴史、それらがアイルランド人の強い郷土愛を生んだのでしょう。しかし、愛情の深さは、しばしば憎悪につながる場合もあります。ロンドン生まれのアイルランド人であるマーティン・マクドナー監督の場合、アイルランドへの思いは、まさに愛憎相半ばしているように思えます。「イニシェリン島の精霊」は、実によくできた寓話です。観客によって様々な読み解き方があるのでしょうが、私には、アイルランドそのものが主人公のように思えました。

いい奴だけど甲斐性のない男は、日々行動を共にしてきた年上の友人から、突如、絶交を言い渡されます。絶交の理由は、自分の時間を大切にしたいということでした。いい奴は、それが理解できず、しつこく友人につきまといます。これが、メイン・プロットですが、誰にでも似たような経験があるのではないでしょうか。お節介に近い付き合い、プライバシーの欠如、日常を変えたくないという指向など、小さな共同体に特有な問題です。アイルランド社会における閉鎖性を象徴しているのでしょうが、個人と組織、あるいは人間の孤独という普遍的なテーマの寓話だとも思えます。

他にも、島の閉鎖性を伝えるモティーフが展開されます。ゴシップ好きで、人の悪口ばかり言っている雑貨店の女主人、毎日同じ顔ぶれが集うパブ、傲慢で封建的な警察官と知的障害のあるその息子、アイルランドらしいミステリアスな老女。そのなかで、いい奴の妹は、強い家族愛を持っていますが、島の閉鎖性にはうんざりしており、ついには兄を捨て、島を離れます。また、時はまさしくアイルランド独立戦争の最中という設定であり、イニシェリン島からはアイルランド本島であがる戦火を望むことができます。にもかかわらず島の人々は、全く無関心であり、好きな奴にやらせておけといった風情です。島の人々にとっては、島の日常が続くことこそが最大関心事なわけです。

アイルランドの美しい自然と人々の強い絆に愛情を感じつつも、その閉鎖性や後進性には辟易する監督が、一度、その愛憎相半ばする感情を形にしたかったというのが、この映画なのでしょう。マーティン・マクドナーは、英国演劇界を代表する大御所です。演劇人らしく、その脚本は見事なものですが、映像的な表現にも優れていると思います。簡単に言えば、芝居臭さを感じさせません。会話の使い方や暴力的なシーンが、タランティーノに似ているとも言われます。ただ、タランティーノの場合、それが目的化している面があり、対してマクドナーは、あくまでも演出上の必要性がベースにあると思えます。マクドナーの映画について、いつも思うのは、間の取り方の巧さだと思います。それは単にセリフの問題だけでなく、映像や演出でも言えていると思います。

映画を観ながら、アイリッシュ・ウィスキーのアイラモルトの臭い匂いを思い出していました。アイルランドは、ウィスキー発祥の地とされます。アイリッシュ・ウィスキーの特徴は、幾度かの蒸留をかけることで雑味のない滑らかな味となり、かつピートを焚かないのでスモーキーさよりも穀物独特の匂いが立つことだと言われます。あの独特な臭さにハマる人がいることは十分に理解できますが、私はあまり好みません。アイリッシュ・ウィスキーは、かつて世界最大の生産量を誇っていましたが、アイルランド独立戦争の混乱、かつ英国によるアイルランド製品ボイコットによって生産量を落としたと言われます。加えて言えば、世界の市場では、臭いアイリッシュ・ウィスキーよりも、芳醇でスモーキーな香りのスコッチ・ウィスキーの方が受け入れやすかったのだと思います。(写真出典:searchlightpictures.jp)

2023年2月15日水曜日

海明け

若い頃の誕生日といえば、友だちが集まってワイワイと祝ってくれるイメージですが、20歳の誕生日だけは特別であるべきだと思いました。そこへ、変わったアルバイトの話が舞い込みます。北海道庁の委嘱を受けて、地方で世帯アンケートをとるという仕事です。調査内容は忘れましたが、一定のルールに基づきサンプリングした家庭を訪問し、聞き取り調査をするというものです。行先は、オホーツク海に面した紋別。これは渡りに舟と思い、引き受けました。結局、誕生日前後の秋の日、一人で紋別へ赴き、駅前の旅館に3泊して調査を行いました。鉛色の空と海、冷たい風が吹く寂れた港町。深い感慨を持って20歳を迎えるというロマンティックな考えは吹っ飛び、ただただ寂しさがつのり、気が滅入るばかりの誕生日となりました。

紋別で、最も印象に残ったのは、朝の喫茶店でした。コーヒーが飲みたくて喫茶店に入ると、酒を飲んでいる漁師で混み合っていました。朝、漁から戻り、後片付けをした後、皆で喫茶店に集まり、一杯やるわけです。どうせなら、朝から居酒屋をオープンしたらいいようなものですが、恐らく軽く一杯程度の話であり、喫茶店が手頃だったのでしょう。滞在中の朝、2~3軒の喫茶店に入りましたが、どこも同じ光景が見られました。 紋別は酪農の街でもあり、かつては金鉱もありました。しかし、主要産業は、なんといっても漁業です。朝から喫茶店でお酒というのは如何なものかとは思いましたが、町を担う漁師の皆さんがそうしたのなら、止むなしといったところなのでしょう。

朝の喫茶店で、一人の漁師から話しかけられました。見慣れない若造に興味を持ったのでしょう。その際、漁師は、海明けの頃、もう一度来い、うまい毛蟹を食わせてやる、と言っていました。海明けとは、厳冬期に沿岸を埋め尽くしていた流氷が半分以下に減り、船を出せるようになる日のことです。その頃は、ちょうど毛蟹漁が始まるあたりであり、海明けとともに、最初に出ていく船は毛蟹漁船だと聞きます。海明けという言葉は、実にいい言葉だと思いました。単に流氷が岸を離れるということに留まらず、それは春の訪れであり、待ちに待った漁の再開であり、町全体が賑わいを取り戻す日ということでもあります。海明けは、オホーツクならではの希望あふれる言葉です。

オホーツク海の流氷は、ロシアのアムール川河口付近で結氷し、東樺太海流に乗って南下します。大きさも厚さもマチマチな流氷が海を覆い尽くし、ついには着岸して、港を閉じ込めます。北海道のオホーツク海沿岸は、流氷の最南下地点なのだそうです。シベリアから、海獣、小動物、鳥類等も、流氷に乗って、北海道に渡ってくるようです。また、流氷は、アムール川から流れ出る豊富な植物プランクトンを含んでおり、それが春に溶け出して、オホーツク海を豊かな海にしているとも聞ききます。日本では、ここでしか見られない流氷は、冬場の貴重な観光資源でもあります。砕氷観光船として有名な網走の「おーろら号」は乗り上げて氷を砕き、やや小型な紋別の「ガリンコ号」は先端のドリルで氷を砕いて進みます。

数年前、3月はじめに網走へ行く機会があったので、おーろら号に乗ろうとしました。滅多にない絶好の機会であり、これを逃したら、二度と流氷を見るチャンスは来ないだろうと思いました。ところが、その冬に限って暖冬。流氷は影も形も見えませんでした。沖に流氷があれば、おーろら号は運行するようですが、残念ながら、その日は欠航となりました。桜を見る旅は、当たり外れが大きいものです。一方、流氷観光は、その季節なら、ほぼ確実に流氷を見ることができます。それだけに、誠に残念な結果となりました。やむなく、船の発着場で、奇岩・帽子岩を眺めながら、名物網走ちゃんぽんを食べて帰りました。ちゃんぽんは、どこで食べても美味しいものです。ただ、網走ちゃんぽんは、流氷を見ることができなかった悔しさが勝ったのか、さほど記憶に残っていません。(写真出典:club-t.com)

2023年2月13日月曜日

ジビエ

友人の義兄が営むフランス料理店でアナグマのソテーをいただきました。アナグマは、脂身を落として煮込むことが多いようです。ところが、脂身が美味しいらしく、あえて脂身の多いソテーを出してくれました。確かに、脂身は甘く美味しかったのですが、赤身は固く食べにくいものでした。そもそもジビエの類いは、あまり好みません。ジビエは解体処理が命と聞きます。新鮮で、かつ適切に処理されたジビエを食べたことがないだけかも知れませんが、美味しいとまでは思ったことがありません。本当に美味しいのであれば、古くから牛豚鶏のように飼育して、量産できる体制くらいできているものではないでしょうか。なかには飼育に適さない動物もあるでしょうが、美味しければ、なんとかしたはずです。

熊、鹿、鳥類、海獣と様々なジビエを食べましたが、最も多く食べたのは、やはり猪だと思います。両国橋の東詰にある「ももんじや」は、漢方薬を商う店が、1718年に始めたという獣肉料理の老舗です。”ももんじ”は、百獣から転じた言葉だそうで、猪、鹿、熊等が食べられます。猪は”牡丹”、鹿は”紅葉”、馬は”桜”、鶏は”柏”等と呼ぶのは、肉食が忌避されていた江戸期の隠語であり、花札にちなんでいるとされます。また、猪は”山くじら”とも呼ばれ、両国界隈の名物だったようです。ももんじやで何度か牡丹鍋を食べました。柔らかく、クセのない猪肉は、腕のいい猟師がさばいたものなのでしょう。不味いわけではありませんが、美味というほどでもないように思います。

丹波篠山で、名物の猪汁を食べたことがあります。丹波篠山ABCマラソンに参加した際のことです。完走率が8割を超えるという大真面目なレースです。日頃から走ってもいない人間が参加すべきレースではありません。ただ、なんとか6.8kmの第一関門に制限時間内にたどり着き、”収容車”と書かれたバスでスタート地点まで戻してもらいました。その際、篠山の皆さんが猪汁をふるまってくれたわけです。3月、まだ冷えの厳しい山中、温かい猪汁が体にしみました。何杯かおかわりしてしまいましたが、豚汁との大きな違いまでは感じませんでした。猪は、精がつくなどと言われます。肉食が希だった江戸期なら、その通りだったと思います。肉食が一般化してからは、ももんじやも含め、珍しさが先に立っているのではないかと思われます。

ここ数年、ジビエがちょっとしたブームです。ジビエを売りにする店も増えました。ジビエは、フランス語ですが、フランス料理の世界では、野生肉が高級食材とされ、定番料理の一つです。野趣という観点もさることながら、入手困難という点が人気なのかもと思います。近年、日本は過疎化が進み、獣害が増加しています。一方で、日本における狩猟免許交付数は、ピーク時の1/3程度まで落ち込んでいるようです。主な減少要因は高齢化と言われますが、少子高齢化に加え、地方の人口減少も影響しているのでしょう。輸入飼料に頼る日本の畜産ですから、ハンターを増やし、ジビエ肉の安定供給を目指すことは、自給率改善、山林保護、そして温暖化対策にもつながると思います。

フランス料理は、フォンとソースの食文化だと言われます。ソースは、ジビエ肉の臭みを消すために発達したと聞いたことがあります。さすがに、これは言い過ぎだと思います。ただ、比較的寒冷なフランスでは、ジビエも含め、貯蔵された肉類を食材とすることが多く、臭みを消すソースへの関心は高かったのかもしれません。日本のももんじは、味噌を使ったり、鍋物にすることで、臭みを消し、衛生対策を行っていたのでしょう。近年、日本の冷蔵技術の発達には目を見張るものがあります。加えて、伝統の発酵技術の豊富さを考えれば、日本のジビエは、一層美味しく、かつ柔らかくなっていくかもしれません。(写真出典:gibier.or.jp)

2023年2月12日日曜日

梁盤秘抄#29 Left Alone

アルバム名:Left Alone(1959)                                                                       アーティスト:Mal Waldron 

マル・ウォルドロンは、NYシティ出身のジャズ・ピアニストです。1970~80年代の日本では、絶大な人気を誇りました。チャールズ・ミンガスの「直立猿人」、あるいはエリック・ドルフィとブッカー・リトルの「アット・ザ・ファイブ・スポット」といった名盤でも弾いていますが、晩年のビリー・ホリディのピアニストとしても知られています。ビリー・ホリディが亡くなる5ヶ月前に、彼女の作詞、マル・ウォルドロンの作曲で作られたのが名曲「Left Alone」です。もの悲しいメロディのなかにも優しさが漂う曲調は、学生運動に敗れた日本の若者たちの心に響いたのでしょう。

1960年代のはじめ、マル・ウォルドロンは、ヘロインの過剰摂取で倒れ、演奏から遠ざかります。しかし、リハビリに努めたウォルドロンは、見事に復活を果たします。復活後は、麻薬を常習するジャズマンが多いNYを離れ、欧州に活動拠点を移します。70年代に入り、日本で人気が高まったことから、しばしば来日するようになります。日本での滞在が長くなったウォルドロンは、日本人を二度目の妻にしています。私も、何度かライブを聴きました。高校時代には、ジャズ・クラブでのライブのあと、短い会話を交わすこともできました。どこか寂しげな表情を浮かべる物静かな紳士でした。

Left Aloneは、1959年の同名タイトルのアルバムに収録されています。トリオで演奏されたアルバムですが、Left Aloneだけは、ジャッキー・マクリーンが、アルト・サックスを吹いています。名手ジャッキー・マクリーンは、若くしてマイルス・デイビスと共演し、ミンガスの「直立猿人」、あるいはソニー・クラークの歴史的名盤「クール・ストラッティン」にも参加しています。Left Aloneは、マル・ウォルドロンの代名詞とも言える曲ですが、ジャッキー・マクリーンの十八番としてもよく知られています。マクリーンのシンプルな音とストレートな演奏が、曲調によくマッチしています。

20世紀を代表する偉大な歌手ビリー・ホリデイについては、もはや何も語る必要はありません。世の中のありとあらゆる悲惨を経験したビリー・ホリデイの歌には、いつも悲しさ、つまりブルーズがあります。作詞した彼女自信が歌うLeft Aloneを聞いてみたかったと、誰もが思っていることでしょう。ビリー・ホリデイは、1959年7月17日、44歳で亡くなっています。永年続けた麻薬とアルコールによって衰弱し、その年の3月に最後のレコーディングをしていますが、まともに歌えなかったと言われます。Left Aloneは、彼女が自らの死を意識して書いたのではないか、とすら思えます。だとすれば、彼女が録音できなかったこと自体が意味深いことなのかも知れません。

ウォルドロンが欧州に拠点を移した後の1966年にアルバム”All Alone”がリリースされます。その中の一曲”A View of S.Luca”は大好きな曲です。日本では”ルーカの眺め”というタイトルで知られます。S.Lucaとは、ボローニャ郊外の丘の上に立つサン・ルカ教会のことなのでしょう。教会の周囲は”サントゥアリオ・デッラ・マドンナ・ディ・サン・ルーカ”と呼ばれる聖域となっており、教会からのその眺めが有名です。曲は、聖母に捧げられた聖域を眺めながら、過ぎ去った過去や失った人々を偲んでいるように聞こえます。そのなかの一人は、間違いなくビリー・ホリデイなのだろうと思いながら聴いています。(写真出典:amazon.co.jp)

2023年2月10日金曜日

ヴァンゼー会議

ヴァンゼー会議は、1942年1月、ベルリン郊外のヴァン湖に面した別荘で、ナチス・ドイツの高官たちが集まり、ユダヤ人の移送と虐殺を決定した会議です。会議は、ナチス親衛隊(SS)のナンバー2で、国家保安本部を所管するラインハルト・ハイドリヒによって招集されます。金髪の野獣と呼ばれたハイドリヒは、その冷酷さで知られましたが、会議の5ヶ月後、英国の支援を受けたチェコ人レジスタンスに暗殺されています。議事録に基づき忠実にヴァンゼー会議を再現したというドイツ映画「ヒトラーのための虐殺会議(原題:Die Wannseekonferenz)」を観ました。TV用映画ですが、日本では劇場公開されました。映画というよりは、再現ドラマといった風情でした。

ヒトラーの反ユダヤ主義は、偽書として知られる「シオン賢者の議定書」によるところが大きいとされます。ヒトラーが1925~26年に発表した「我が闘争」のなかでも、大きな影響を受けたことが記されています。「シオン賢者の議定書」は、1900年前後のロシアで、大衆小説などをベースにねつ造された陰謀論であり、ユダヤ人が世界征服を企んでいるという内容になっています。今となっては、馬鹿馬鹿しいの一言ですが、2千年間、”キリスト殺し”として迫害されてきたユダヤ人の歴史が存在し、史上最悪の厄災となった第一次世界大戦を起こした真犯人が求められた時代にあっては、反ユダヤ主義者の間で大きな影響力を持つに至ったわけです。

ナチスにとって、人種問題は、ドイツ帝国の復権と表裏を成す政策でした。世界を支配すべき優秀なアーリア民族という発想には、それを阻む諸悪の根源である劣等人種ユダヤ人という構図が必要だったと言えます。ナチスの反ユダヤ政策は、経済面、市民権等への弾圧、”水晶の夜”に始まる暴力、国外移住、ゲットーへの封じ込めと展開していきます。ただ、ナチスにとっては、それでも不十分であり、また支配地域の拡大によって、対処すべきユダヤ人が増加したことも問題でした。そこで、”最終的解決”が立案され、ヴァンゼー会議へとつながります。会議の目的は、関連省庁への計画の徹底と、全ての権限をナチス本流の国家保安本部へ集中することでした。ナチス政権には、ユダヤ人虐殺に関する予算が存在しませんでしたが、この権限集中がゆえと言えます。

会議は、独裁政権が法律と官庁を超えて権限を集中していく過程そのものであり、興味深いものでした。人道的観点からの懸念は、虐殺に対するドイツ兵の心理的負荷の軽減という議論へとすり替えられ、法の尊重は、限定された譲歩と懐柔によって後退させられます。官僚は法に基づき行動しますが、官庁は政権によって存否が決まります。役人たちは、権限や縄張りにおいて、多少なりともメンツが立てば、体制に順応していきます。また、役人たちは、面倒なことは、すべて国家保安本部が引き受けるという提案に飛びつき、結果、法体系を超えた権限の集中が実現します。官僚の心理をよく心得たナチスの戦術は、実に見事なものです。なかでもアイヒマンの有能ぶりが、会議の趨勢を決めていた点が印象的でした。

ゲシュタポのユダヤ人問題担当課長だったアドルフ・アイヒマンは、戦後、アルゼンチンに逃れ潜伏します。1961年、モサドによって確保されたアイヒマンは、イスラエルで裁判を受け、死刑になっています。公判中のアイヒマンは、実に巧みに官僚言葉を操り、命令に従ったまでと無罪を主張します。アイヒマンは、極悪非道な殺人鬼ではなく、有能な一官僚でした。法を熟知し、法に準拠して存在・機能する官僚ですが、一定のベクトルが示され、立身出世が約束されると、その有能さをもって、いとも簡単に法を逸脱していくことになります。それは決して過去の話ではありません。近年、日本でも、安倍政権下で実例を見ることになりました。企業内部でも同様のことが、日常的に起こっています。企業でガバナンスに関わる人々は、反面教師としてのナチス政権を研究すべきだとも思います。(写真出典:hiroshimapeacemedia.jp)

2023年2月9日木曜日

ミント・ティー

ポリスの最後のアルバムにして最高傑作「シンクロニシティ」(1983)のなかに、「Tea in the Sahara」という曲があります。アルジェリアを舞台とするポール・ボウルズの小説「The Sheltering Sky」(1949)に感銘を受けたスティングが作詞・作曲したとのこと。砂漠の静謐さと小説の破滅的なムードが反映された名曲だと思います。「The Sheltering Sky」は、1990年、ベルナルド・ベルトリッチによって映画化もされています。美しい映像と悲惨な主人公たちの旅が印象に残る映画でしたが、残念ながら評価されることはありませんでした。スティングが歌う「Tea in the Sahara」のTeaは、ミント・ティーだと確信しています。砂漠に合うお茶と言えば、ミント・ティー以外に考えられません。 

1980年元旦、ジブラルタル港から、イブン・バトゥータ号に乗って、タンジールに渡りました。エキゾチックなモロッコでは、見るもの全てが新鮮でしたが、とりわけ印象に残ったものの一つが、ミント・ティーでした。モロッコの人たちは、のべつ幕なしにミント・ティーを飲みます。乾燥した土地で飲むミント・ティーの爽やかさは、ちょっとクセになります。モロッコ風のミントティーは、紅茶の葉、砂糖、それに新鮮なミントの葉をポットに入れて、少し煮出して飲みます。ポットにお湯を注ぐときには、高い位置から注ぎます。ミントの香りをたたせるためなのでしょう。また、ミントは、ポットに入れる前に、手のひらに乗せてポンと叩き、香りを立たせてから入れます。刺身の薬味に使う穂紫蘇と同じ要領です。

モロッコ発祥と言われるミント・ティーですが、その歴史は、決して古くはありません。モロッコは、アフリカと欧州を結ぶ交易の要所であり、古くからカルタゴや古代ローマ等の支配を受け、7世紀にイスラム化されると王朝が成立し、イドリス朝からアラウィー朝まで、政権は変わるものの独立を維持し、最盛期には、アフリカ北西部からイベリア半島南部にまで領土を拡大しました。欧州が植民地主義の時代に入ると、列強の干渉を受けたモロッコは、結果的にフランスの植民地となります。18世紀、モロッコに紅茶と砂糖をもたらしたのは英国人でした。捕虜の釈放交渉に際し、スルタンへの贈答品とされました。19世紀半ばまでには、紅茶に地元産のミントを加えたミント・ティーが国内に広がっていたようです。

ミント・ティーの効用は、喉の渇きを癒やすクイック・クエンチ効果だと思っていました。他にも、アレルギー症状の緩和、リラックス効果、そして消化促進効果もあるようです。モロッコを代表する料理と言えば、タジンやクスクスがあります。タジン鍋を使った蒸し料理は、一時期、日本でも流行しました。クスクスは、モロッコを含むマグリブ地域発祥と言われる粒状のパスタです。フランス料理の付け合わせにも多用されます。モロッコでは、ほぼ主食状態で、シチューのような煮込み料理をかけて食べます。正しい食べ方としては、右手ですくい、くるくると丸めて口に放り込みます。試してみましたが、うまくできませんでした。確かに、クスクスには、ミント・ティーが合うように思います。

加賀の山中温泉のかよう亭は、料理自慢の宿として有名です。ことに朝食は日本一とも言われる見事なものです。朝食後、女将さんが、ロビーで自家製のミント・ティーをふるまってくれました。広大な敷地内に自生しているミント、いわゆるハッカを、単純に乾燥させたものを使っているとのこと。モロッコ風ではなく、いわゆるハーブ・ティーとして出してくれました。これが、とても美味しくて、絶賛したところ、お土産として乾燥ミントを頂戴しました。ハーブ・ティーとしてのミント・ティーは、世界中で広く飲まれており、ティー・パックも多く販売されています。それはそれで美味しいのですが、たまにはモロッコ風ミント・ティーが飲みたくなります。(写真出典:destinationmorocco.co)

2023年2月8日水曜日

「SHE SAID」

監督:マリア・シュラーダー     2022年アメリカ

☆☆☆+

映画は、”ミラマックス”創業者で、映画界のドンと言われたハーヴェイ・ワインスタインによる永年のセクハラを、NYタイムスの記者たちが暴いた実話に基づきます。ワインスタインによる犯罪は、典型的な対価型セクシャル・ハラースメントです。映画界のドンの性的な要求を拒めば、以降、映画界で働くことはほぼ絶望的となります。尊厳のみならず、キャリア、希望が失われるわけです。ワインスタインに抵抗した女性たちもいましたが、守秘義務を条件とする多額な示談金が提示され、口を閉じられていました。金で解決するという倫理観もさることながら、法で被害者の口封じをする仕組み、ミラマックス社のガバナンスのあり方、そしてワインスタインの犯罪を黙認してきた映画界の体質も問題となりました。 

それにしても、守秘義務を条件とする示談とは、実に巧妙なスキームだと思います。法で守られるべき被害者が法に縛られ、法で裁かれるべき加害者が法に守られるわけです。訴訟社会アメリカならでは、といった印象です。アメリカは、法に記載がなければ、なんでもありという社会です。日本の場合、法の趣旨が重んじられ、公序良俗が重視されます。犯罪を隠匿する契約など、認められないと思います。一方、被害者も、お金以上に、このスキームを受け入れざるを得ない事情もあります。つまり、業界で仕事を続けられるということです。まさに悪魔的とも言えるスキームです。NYタイムスの記者たちが取材を進め、記事を掲載するに際し、立ちはだかったのが、ワインスタインの圧力とこのスキームでした。

一人でワインスタインと戦うのは怖くても、みんなで声をあげれば戦える。2017年10月に掲載されたNYタイムスの記事をきっかけに、被害者の一人アリッサ・ミラノが、被害者たちに声をあげるよう呼びかけます。いわゆる「#Me Too」キャンペーンの誕生です。#MeTooは、世界中に拡散し、大きな動きとなりました。2018年5月、既に業界から締め出されていたワインスタインは、正式に起訴され、現在も控訴審が継続中です。人間の尊厳を奪う性犯罪は、外傷以上に永く被害者の心に影響を残す凶悪犯罪です。ことに対価型は、卑劣な犯罪です。「#Me Too」キャンペーンによって、権力を持った人々が多く告発されました。しかし、性犯罪が持つ立件の難しさもあり、それは氷山の一角に過ぎないと断言できます。

回想や再現シーンもなく、派手な結末があるわけでもありません。しかも何が起こっていたかは明らかでも、それを証明できないというジレンマが続きます。映画化するには、非常に難易度の高いテーマだと思います。ところが、見事に緊張感を持続し、観客を引き込んでいきます。まずは脚本の良さをあげるべきだと思います。脚本は、英国の劇作家レベッカ・レンキェヴィッチによるものです。さらに、マリア・シュラーダー監督のテンポの良い演出もあります。また、アカデミー賞常連のニコラス・ブリテルによる音楽が大きな役割を担い、見事な効果をあげています。近年、ここまでBGMが大きな仕事をしている映画はないようにも思います。

実話に基づき、実在するジャーナリストの活躍を描く映画は、そこそこあります。最もヒットした作品は「大統領の陰謀」(1976)だと思います。ワシントン・ポストのボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインが暴いたウォーターゲート事件は、ニクソン大統領を退陣に追い込みました。事件の衝撃の大きさが、映画のヒットにつながった面があると思います。「SHE SAID」も、世界を動かした「#Me Too」を生んだ取材であり、映画の出来も良いと思うのですが、残念ながら興行的にはイマイチだったようです。理由として、ワインスタインの裁判が継続中であること、ワインスタインに対する世間の注目が薄れていることがあげられています。加えて言えば、ジャーナリストものは、国家権力や政治権力との戦いを描いたものの方がウケがいいのだろうと思われます。(写真出典:en.wikipedia.org)

2023年2月7日火曜日

ええじゃないか

日本の近代史のなかで、最もわけが分からない現象は「ええじゃないか」だと思います。ええじゃないかは、大政奉還が行われた1867年、慶応3年の夏に発生しています。伊勢神宮等の御札が空から降り、それを慶事の前触れとして熱狂した民衆が、”ええじゃないか”と連呼しながら踊り狂ったという出来事です。また、男は女装、女は男装という仮装姿も多かったようです。東は江戸、西は安芸、北は信州、南は紀伊・四国までという広範な地域で発生しています。発祥に関しては諸説あり、京都説、三河説、尾張説などがよく知られています。いずれにしても各地へと伝播していくわけですが、すべて御札が降るところから始まっています。この御札が、まずは胡散臭いわけです。

最初に降った御札は、風に飛ばされたものだった可能性もありますが、以降の降下御札は、ほぼねつ造だったと思われます。実際、御札を降らせた張本人が捕まったケースも記録されています。問題は、その動機です。いわゆる愉快犯の類いかもしれませんが、大騒ぎを起こす目的が、まったく不明瞭と言わざるを得ません。少なくとも、百姓一揆のように何かを訴えているわけではありません。また、倒幕派による世情攪乱工作という説もありますが、効果も限定的で、かつ証拠にも欠けます。信仰強化とも考えられますが、方法が異様に過ぎます。とすれば、神仏にかこつけ、仕事をさぼり、人の金で飲み食いし、大騒ぎして、憂さを晴らしたいという単純な理由だけが残りそうです。

目的が明確でないので、組織性も認められていません。騒ぎの中で、何らかの役割を担う者もいたのでしょうが、自然発生的であり、組織化されたものではなさそうです。興味深いことに、御札が降ると、多くの場合、奉行所等の役所に報告され、神事が許可されています。各地のええじゃないかは、数日から1週間程度で収束していますが、役人が沈静に当たっていたようです。もう、よかろう、というわけです。これは限りなく祭事に近い扱いだったと思うしかありません。もちろん、各地には、村祭りが存在し、日常=ケですり減ったエネルギーは、非日常=ハレとしての祭で再充填されていたはずです。通常のハレとケのサイクルでは対応できない状況が存在し、役人は、無意識に臨時的なハレが必要だと思ったのかもしれません。

別な言い方をすれば、常とは異なる状況が、民衆をさいなんでおり、放置すれば一揆につながる懸念があったわけです。ええじゃないかが発生する前年の1866年には、一揆や打ちこわしが頻発しています。背景にあったのは、黒船ショックとも呼ばれるハイパー・インフレでした。1858年の開港に伴い交易が開始されますが、幕府に為替をコントロールする能力はなく、金の流出はじめ経済は混乱します。さらに、財政難の幕府が続けてきた金の改鋳のつけ、長州征伐に伴う兵糧米の調達、等々が重なり、未曾有の物価高が起こりました。既に統治能力を失っていた幕府の無策が引き起こした人災が、一揆を起こしたわけです。その再発を恐れた役人たちが、いわばガス抜き策として、ええじゃないかを利用した面があるのではないでしょうか。

幕府や藩の指示があったわけではなく、いわば現場の知恵として、役人間に広がっていったものと考えます。もちろん、ええじゃないかが、民衆の世直しへの希求の表れであるとか、世の倒幕機運を加速させたとか、そういった後付講釈も否定はしません。ただ、ええじゃないかという現象発生の説明にはなっていません。各村落における個々のええじゃないかは、マスヒステリアだとは思いますが、各地へ伝播していくええじゃないか現象の全体をマスヒステリアとは言えないと思います。さすがに、役人が御札を降らせたとまでは言いません。ただ、役人たちが大衆のガス抜きとして利用したとでも考えないと、この摩訶不思議な現象は説明できないように思います。(写真出典:kotobank.jp)

2023年2月6日月曜日

「西部戦線異状なし」

監督:エドワード・ベルガー     2022年アメリカ・ドイツ 

☆☆☆+

小学校3年生の秋だったと記憶しますが、父親が近所の映画館に行くというので、連れて行ってくれとせがみました。子供向けの映画ではないと断られましたが、どうしても行きたいと騒ぎ、一緒に見ることになりました。映画は、1930年アカデミー賞受賞、ルイス・マイルストン監督「西部戦線異状なし」のリヴァイバル上映でした。戦争のあまりの悲惨さに耐えがたく、もう帰りたいと父親に言いました。もう少しで終わるからと諭され、有名なラスト・シーンまで見ました。原作は、エーリヒ・マリア・レマルクが、1928年からドイツの新聞に掲載した小説です。兵士の視点から描いた第一次世界大戦です。開戦直後から終戦まで、激しい塹壕戦が戦われ、300万人が戦死したという西部戦線が舞台となっています。

本作は、ドイツ人監督によるドイツ語映画としてリメイクされました。歴史的名作のリメイクは、製作会社にとっては、知名度に頼って一定の興業成績が見込まれ、監督にとっては「自分ならこう撮りたい」というインスピレーションが大いに沸く泉のようなものです。いずれにしても前作が傑作だから生じる製作動機であり、通常、前作を超える作品にはなりません。本作も同様です。ただ、かなりの上出来だと思います。悔やまれるのは、小綺麗に仕上がった映像が、血や土や硝煙の匂いを伝えきれていない点です。また、原作や前作とは異なる脚本・演出も気にはなりますが、現代風、あるいはドイツ人の解釈ということなのでしょう。Netflix配給のエンターテイメントとしては、これが限界なのかも知れません。

最も議論を呼びそうなのが、負傷した主人公が一時的に帰郷するくだりを削除したことだと思います。主人公は、故郷と戦場のギャップの大きさに孤独感や疎外感を感じ、戦場に戻っていきます。いつまでも戦場を負い続けなければならない兵士の厳しい現実を伝えるシーンです。監督は、あえてそのシーンを削除することで、戦場の悲惨さにフォーカスしたかったのだと思います。帰郷シーンまで加えれば、映画はさらに長尺にならざるを得ません。また、同時進行する終戦交渉シーンを加えたことも異論が出ると思います。政治という上部構造と戦場の悲惨さを対比させるねらいは理解できます。さらに、ドイツ人としては、次の大戦を生んだフランスの無慈悲な対応も描かざるを得なかったのかも知れません。

第一次世界大戦は、戦死者1,600万人、戦傷者2,000万人という史上最悪の戦争でした。ベルギー南部からフランス北東部に至る西部戦線は、最大最長の激戦地であり、最も多くの犠牲者を出しています。両陣営とも、鉄条網と機関銃で守られた塹壕を築き、繰り返される突撃で兵士の命は消耗されるものの、戦線は膠着したままでした。そこには、毒ガス、戦車、航空機等、新たに開発された兵器が投入されます。産業革命によって生みだされた大量殺戮兵器が、史上最悪の犠牲者数を生みました。開戦に至る状況は、種々複雑な面もありますが、性格的には、産業革命が生んだ植民地獲得競争がたどり着いた結末であり、しかも一度では済まず、第二次世界大戦へと続きます。

人類が、文明が巻き起こした帰結的厄災である第一次世界大戦は、折に触れ、描き続けられるべきだと思います。本作が、ロシアによるウクライナ侵攻が続くなかで公開されたことは、とても意義深いと思います。いかなる戦争においても、最大の犠牲者は、兵士とその家族です。国家の主権者が国民なのであれば、戦争など行ってはならないのです。戦争を描くにあたって、兵士の視点からその悲惨さを伝えることは、極めて重要であり、表現者の使命のようにも思えます。そういう意味において、レマルクの「西部戦線異状なし」は、時代を超えた傑作なのだと思います。(写真出典:filmarks.com)

2023年2月2日木曜日

エスプリ

クレーム・ブリュレは、17世紀の文献にも登場するほど古くから存在するデザートのようです。日本で、クレーム・ブリュレが、よく知られるようになったのは、映画「アメリ」のヒットがきっかけだったと言われます。 アメリは、ジャン・ピエール・ジュネ監督の2001年作品です。一言で言うなら”可愛い”映画として、世界中でヒットし、アメリ現象という言葉まで生みました。引きこもりがちの夢想家アメリが、恋を成就するというストーリーですが、恐らくフラン人らしい独立心のあり方がテーマだったのではないかと思います。ジャン・ピエール・ジュネらしい完成度の高い絵画的な映像、スピード感のある展開、そして何よりもフランス映画らしいエスプリにあふれた作品でした。

ジャン・ピエール・ジュネの作品は、ジャック・タチの映画を思い出させます。おしゃれなコメディ映画は、フランスのお家芸といえるのかも知れません。ジュネの「ビッグ・バグ」(2022)は、近未来の家庭が舞台となっており、タチの「ぼくの伯父さん」(1958)の21世紀版のように見えました。モダニズムもタチの特徴です。基本的には文明風刺なのですが、おしゃれでモダンなセット等は、さすがフランスといったところです。よく作り込まれた映像の美しさは、両者に共通します。特に色調へのこだわりは見事です。タチは、白を基調に差し色を巧みに配置します。ジュネは、色調のコントロールが絶妙です。しかし、ジュネが、ジャック・タチから受けついでいる最大の特色は、やはりエスプリだと思います。

エスプリ(esprit)は、英語で言えばスピリット(sprit)になり、精神や霊魂を表わします。同時に、知性的、機知、才気といった意味もあり、英語のユーモアに近いとも言えます。エスプリもユーモアも、ウィットに富んだ風刺や諧謔を展開するわけですが、その表現には国民性の違いがよく反映されているように思えます。民族も、宗教も、気候も異なる両国ですから当然なのでしょう。ユーモアは「人の心を和ませるような上品な笑い」とされ、一方のエスプリは「知的で乾いた笑い」と言われるようです。ただ、個人的な印象で言えば、英国のユーモアは、上品でありながらも冷たいシニカルさで相手を突き放し、フランスのエスプリは、小馬鹿にしながらも相手の存在までは否定しないように思えます。

フランス人のおしゃべりは有名ですが、個人主義で自信家、つまり自分をしっかり持っていることの現われだと言えます。おしゃべりには相手が必要です。フランス人の個人主義やプライドは優越感に支えられており、常に他者の存在を前提としているのでしょう。余談ながら、かつて植民地を統治するに際して、フランスは直接統治、イギリスは間接統治を採用します。直接統治は、植民地を自国の一部として取り込みます。間接統治は、自国と植民地を切り離し、現地人に統治させます。一見すると、間接統治は、植民地の自治を尊重しているように見えますが、実は、冷徹で効率的な搾取システムだと言えます。その違いには、経済体制の成熟度が関係しているのでしょうが、国民性も影響しているように思えます。

NYで仕事仲間のアメリカ人たちと飲んでいる時に、行ってみたい海外の都市という話になったことがあります。様々な地名があがりましたが、パリが一向に出てこないことに気がつきました。不思議に思い、「パリは?」と聞くと、皆は「自分たちが嫌われている街には行きたくない」と言うのです。それは二つの点で間違っていると話しました。まずは、パリの人々は、アメリカ人を嫌っているのではなく、馬鹿にしているだけだ、ということ。次に、パリの人々が馬鹿にしているのは、アメリカ人だけではなく、パリ以外の世界中の人々だ、ということです。エスプリは、プライド、あるいは自惚れの現われと言えるのかも知れません。タチやジュネの映画は、ギリギリのところで世界中の人々にも通じるエスプリであり、アメリは、最も理解されやすい形でエスプリを見せてくれた映画なのでしょう。(写真出典:movies.yahoo.co.jp)

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