軽羹は、いたってシンプルな材料と製法で作られます。かるかん粉と呼ばれる米粉、自然薯、砂糖を練って、蒸し上げれば完成です。伝統的な和菓子に使われるのは、もち米粉が多いのですが、かるかん粉はうるち米を粗挽きにした粉です。うるち米から作られる新粉やさらに細かい上新粉からは、団子類が作られます。かるかん粉は、新粉よりも荒い粉であり、軽羹以外で使われることは、ほぼないようです。このかるかん粉と自然薯が、軽羹の独特なふんわりとした食感を生んでいます。軽羹が生まれたのは江戸初期と言われます。当時、砂糖は貴重品でした。ただ、薩摩は奄美や琉球を支配していたので、砂糖は容易に手に入ったわけです。また、自然薯は、藩内の姶良カルデラや池田カルデラのシラス台地に多く自生していたようです。
軽羹という名前も、食感同様、ユニークです。羹は、もともとスープのことです。中国では南北朝時代に登場したという羊の羹を、禅僧が日本に持ち込み、小豆、小麦粉、葛粉等を使って再現します。これが日本式の羊羹のもとになります。軽羹が文献に登場する江戸初期には、羊羹はよく知られた菓子だったと思われます。軽い食感の羊羹という意味で、軽羹と命名されたのでしょう。軽羹の由来としては、1854年に島津斉彬の命に応じて作られたという説があるようです。斉彬公が江戸から招聘した菓子職人・八島六兵衛が考案したというものです。ただ、軽羹は、江戸初期の文献にも登場することから、六兵衛は、軽羹の安定的な製法を完成させたということではないかと思われます。
斉彬公が菓子職人を招聘したのは、雅な菓子を作るためではなく、滋味豊かで、かつ美味しい保存食を作るためだったとも言われます。斉彬公と言えば、造船、製鉄、地雷・水雷製造等、いわゆる集成館事業を起し、富国強兵に務めたことで知られます。実は、集成館事業のなかに、保存食の研究も含まれていたようです。つまり、六兵衛が担ったのは新たな兵糧の開発だったのではないでしょうか。六兵衛は、もともと薩摩で食されていた軽羹の素晴らしさに気づき、その製法を確立したものと考えられます。米、芋、砂糖ですからエネルギーは十分とれます。さらに、自然薯にはアルギニンなどの酵素類も多く含まれ、滋養強壮に良いとされます。また、薬効も多く認められ、もはや軽羹は、単なるお菓子とは言えないほどです。
軽羹は、兵糧の一種として製法が確立されたと考えられるわけですが、戊辰戦争終結と共にその役割は終わり、今度は菓子として市中に出されたのではないでしょうか。恐らく、兵糧バージョンよりも砂糖の分量を増やすことで、菓子として成立させたものと考えます。明石の出身だった六兵衛が開いた菓子舗は「安政元年創業かるかん元祖明石屋」として今に残ります。ただ、興味深いことに、六兵衛は、明治初年、職人に店を譲り、江戸に帰っています。その理由は、よく分かりません。ひょっとすると、斉彬公に命じられた兵糧開発という役割を終えたからだったのかも知れません。ちなみに、明石屋の軽羹饅頭は、有楽町にある鹿児島県のアンテナ・ショップでも購入できます。(写真出典:akashiya.co.jp)