監督:マーティン・マクドナー 2022年アイルランド・イギリス・アメリカ
☆☆☆+
国を愛する気持ちは、世界中、どこでも同じなのでしょうが、アイルランド人は、とりわけそれが強いように思います。極めて厳しい自然環境、隣国の干渉を受け続けた歴史、それらがアイルランド人の強い郷土愛を生んだのでしょう。しかし、愛情の深さは、しばしば憎悪につながる場合もあります。ロンドン生まれのアイルランド人であるマーティン・マクドナー監督の場合、アイルランドへの思いは、まさに愛憎相半ばしているように思えます。「イニシェリン島の精霊」は、実によくできた寓話です。観客によって様々な読み解き方があるのでしょうが、私には、アイルランドそのものが主人公のように思えました。いい奴だけど甲斐性のない男は、日々行動を共にしてきた年上の友人から、突如、絶交を言い渡されます。絶交の理由は、自分の時間を大切にしたいということでした。いい奴は、それが理解できず、しつこく友人につきまといます。これが、メイン・プロットですが、誰にでも似たような経験があるのではないでしょうか。お節介に近い付き合い、プライバシーの欠如、日常を変えたくないという指向など、小さな共同体に特有な問題です。アイルランド社会における閉鎖性を象徴しているのでしょうが、個人と組織、あるいは人間の孤独という普遍的なテーマの寓話だとも思えます。
他にも、島の閉鎖性を伝えるモティーフが展開されます。ゴシップ好きで、人の悪口ばかり言っている雑貨店の女主人、毎日同じ顔ぶれが集うパブ、傲慢で封建的な警察官と知的障害のあるその息子、アイルランドらしいミステリアスな老女。そのなかで、いい奴の妹は、強い家族愛を持っていますが、島の閉鎖性にはうんざりしており、ついには兄を捨て、島を離れます。また、時はまさしくアイルランド独立戦争の最中という設定であり、イニシェリン島からはアイルランド本島であがる戦火を望むことができます。にもかかわらず島の人々は、全く無関心であり、好きな奴にやらせておけといった風情です。島の人々にとっては、島の日常が続くことこそが最大関心事なわけです。
アイルランドの美しい自然と人々の強い絆に愛情を感じつつも、その閉鎖性や後進性には辟易する監督が、一度、その愛憎相半ばする感情を形にしたかったというのが、この映画なのでしょう。マーティン・マクドナーは、英国演劇界を代表する大御所です。演劇人らしく、その脚本は見事なものですが、映像的な表現にも優れていると思います。簡単に言えば、芝居臭さを感じさせません。会話の使い方や暴力的なシーンが、タランティーノに似ているとも言われます。ただ、タランティーノの場合、それが目的化している面があり、対してマクドナーは、あくまでも演出上の必要性がベースにあると思えます。マクドナーの映画について、いつも思うのは、間の取り方の巧さだと思います。それは単にセリフの問題だけでなく、映像や演出でも言えていると思います。
映画を観ながら、アイリッシュ・ウィスキーのアイラモルトの臭い匂いを思い出していました。アイルランドは、ウィスキー発祥の地とされます。アイリッシュ・ウィスキーの特徴は、幾度かの蒸留をかけることで雑味のない滑らかな味となり、かつピートを焚かないのでスモーキーさよりも穀物独特の匂いが立つことだと言われます。あの独特な臭さにハマる人がいることは十分に理解できますが、私はあまり好みません。アイリッシュ・ウィスキーは、かつて世界最大の生産量を誇っていましたが、アイルランド独立戦争の混乱、かつ英国によるアイルランド製品ボイコットによって生産量を落としたと言われます。加えて言えば、世界の市場では、臭いアイリッシュ・ウィスキーよりも、芳醇でスモーキーな香りのスコッチ・ウィスキーの方が受け入れやすかったのだと思います。(写真出典:searchlightpictures.jp)