2024年2月28日水曜日

王朝交替説

応神天皇陵
「万世一系」とは、永遠に一つの血統が続く、という意味であり、天皇家を象徴します。言葉としては、幕末に岩倉具視が初めて使ったとされますが、考え方としては古代から存在します。神話時代は別としても、3~4世紀にヤマト王権が誕生して以降、天孫家の血統が天皇として、日本の頂点に立ってきました。1,600年以上、神話時代も含めれば2,700年近くに渡り一つの王朝が継続しているわけです。神話時代込みで世界最長とされるのはエチオピア王朝ですが、現存していません。王朝がよく変わる中国や欧州からすれば驚異的と言えます。日本ではなぜ王朝交代が起きなかったのか、昔から不思議に思っていました。分かりやすい説明としては、他国の王たちは人間で天皇は神だったこと、親政の期間が短かったことがあげられるのでしょう。

例えば、天皇の外戚として、天孫家をしのぐ権勢を振った藤原家ですら、天皇になろうとはしていません。神を否定すること、あるいは新たな神になることは、あまりにもハードルが高かったのでしょう。むしろ、天皇を神として祭り上げ、実権を握る方が合理的だったと言えます。日本は神国であるという思想は、天孫家の万世一系と表裏を成しています。天皇を中心とする中央集権化を図った明治期、万世一系は侵さざる神聖なものとして、より徹底されます。いわゆる皇国史観です。1924年、「神代史の研究」で、歴史学の立場から天孫家の神話を創作とした津田左右吉は、皇室の尊厳を冒したとして有罪判決を受けています。敗戦とともに皇国史観は否定され、より科学的な津田史観が主流となりました。

戦後は、皇国史観への反動、そして左翼思想の流行に基づき、万世一系を否定する学説が相次ぐことになります。最も典型だったのが、1952年に発表された水野祐の三王朝交替説だとされます。大雑把に言えば、崇神王朝、応神王朝、継体王朝と血統が交替しているとする説です。第10代崇神天皇は、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)という名前に加えて、初めての戸口調査や課役、四道将軍の派遣等の実績があることから、実在可能性のある初の天皇とされます。第15代応神天皇は、八幡神、八幡大菩薩としても知られますが、近年の考古学的成果も含め、実在可能性が高いとされています。両者は、三輪を拠点とし名前に”イリ”が付く崇神系、河内を拠点とし名前に”ワケ”が付く応神系と分かりやすい違いがあります。

さらに荒唐無稽な応神の生誕譚等も含め、王朝交替があったのではないかと推定されたわけです。文献や物証があるわけでもなく、やや無理のある説だと思います。第26代継体天皇に関しては、崇神、応神とは大きく異なる状況があります。武烈天皇が継嗣無く崩御し、応神天皇から5代目の子孫に当たる継体天皇が、近江、あるいは越前から連れてこられ、武烈の姉と結婚し即位したとされます。それが、王朝交替説では、地方豪族による王位簒奪だったということになるわけです。確かに血統は薄いかも知れませんが、王位簒奪となれば、大きな争いの痕跡が残るものと思われます。また、万世一系を守るために、記紀の記述が創作されたとしても、どこか矛盾が生じる、あるいは何らかの示唆が読み取れるものではないでしょうか。

三王朝交替説は、現在、ほぼ否定されており、実在天皇に関する議論はあるものの、天皇家の血縁は継続されてきたとされます。例えば、歴史に関する偽書の記述内容は、エビデンスがないがために、肯定も否定も難しいと言われます。王朝交替説も完全否定することは難しいのでしょうが、いかにもこじつけのような違和感が漂います。皇国史観を全否定するために、その根本である万世一系を崩壊させることが目的だったとしか思えません。学者としての姿勢を疑いたくもなりますが、考古学的な発見や科学的分析も不十分だった時代でもあり、ある程度は理解せざるを得ないのかも知れません。ただ、それまでタブーとされてきた天皇研究の可能性を大いに広げたという点に関しては、王朝交替説の貢献は大きかったものと考えます。(写真出典:at-s.com)

2024年2月26日月曜日

「ボーはおそれている」

監督:アリ・アスター    制作:A24     2023年アメリカ

☆☆+

アリ・アスターの長編デビューはA24制作のホラー「へディタリー/継承」(2018)です。低予算映画ながら世界的な大ヒットを記録し、当時、A24の興業成績の歴代トップにもなりました。次作「ミッドサマー」(2019)は、北欧を舞台とするホラーでしたが、これも大ヒットしました。アリ・アスターの映画は、シナリオやシーンの構成にラフさを残すものの、面白いアイデアをグイグイと押し込んでくるパワーがすごいと思いました。ホラーの伝統に沿いながらも、それを超えるユニークなアイデアが光りました。力業は監督の若さの現れでもありますが、そのレベルが違いました。新しいホラー映画というよりは、新しい才能の登場だと思いました。本作も、まさにアリ・アスター・タッチの映画になっていると思います。

しかし、今回は、ホラーではなく、コメディ・タッチのファンタジーです。ホラーの直線的な構成ではなく、縦軸らしきものとしてエディプス・コンプレックスが存在するのみです。そうなると、アイデアをたたみかけるアリ・アスター・スタイルは、収斂することなく、ひたすら拡散するだけといった印象を与えます。また、アリ・アスターの脚本は、二段三段構えの展開を特徴としています。本作でも同様なのですが、それが散漫な印象をより強くしている面もあります。3時間という上映時間も含め、冗漫さを感じました。ただ、飽きずに観られたという事に関して言えば、まさに監督の力量、そしてホアキン・フェニックスの演技力ゆえなのでしょう。

アリ・アスターの前2作は、観客のために作られたエンターテイメントです。本作は、監督が作りたいと思っていた、いわば自分のための映画だと思います。近年で言えば、イニャリトゥの”バルド”、デイミアン・チャゼルの”バビロン”と同じです。アリ・アスターは、作家主義のアート作品を撮りたかったのかもしれません。それが映画監督の夢であることは理解できますが、若くして名声と富を得たアリ・アスターの奢りでもあり、10年、20年早いと思います。アリ・アスターの前2作は、10ミリオン程度の予算で、それぞれ80、40ミリオンを稼ぎました。いわば自分のための映画を撮れることは、ヒット・メーカーだけに許される特権です。なお、本作の予算は30ミリオンと大幅増額されましたが、大コケしています。

歌舞伎の世界に「けれん(外連)」という言葉があります。見た目本位の奇をてらった演出を指します。宙乗り、早変わり、放れ業などがあり、多くは道具や仕掛けを使います。芸道の本筋ではないという意味で”外連”と呼ばれるわけです。転じて”はったり”や”ごまかし”を意味する言葉としても使われます。一方、「けれん味のない」という言葉もあります。これは、”まっとうな”、”真面目な”という意味で使われます。しかし、歌舞伎や浄瑠璃のエンターテイメント性からすれば、外連も舞台の本質の一つなのだと思います。アリ・アスターの前2作は、けれん味たっぷりの映画ではありますが、外道ではありません。娯楽映画の正統であり、ど真ん中だと思います。

しかし、歌舞伎の世界にあっても、義理人情や愛情を語ることの多い世話物にけれん味たっぷりの演出はありません。一般論として、相性が良くないわけです。哲学的なテーマを持つ映画に、けれん味など持ち込むな、と言っているのではありません。ただ、そのような演出を行う際には、深掘りしたシナリオと熟練の演出力が求められるものと考えます。コメディ仕立てなら、なおさらだと思います。作家主義の熟達の監督たちは、そこを心得ているわけです。本作において、そのことを理解しているのはホアキン・フェニックスだけだったように思います。自らの個性をぶつけながら本作に取り組んだアリ・アスターの挑戦は称賛に値すると思います。ただ、残念ながら、監督の青さが目に付くイマイチな結果と言わざるを得ません。(写真出典:eiga.com)

2024年2月24日土曜日

ハバナ・シンドローム

2016年、ハバナに駐在するアメリカの外交官や軍人20名以上が、原因不明の耳鳴り、認知障害、あるいは痛みを訴え始めます。その後、この症状は、キューバ以外の大使館にも広がります。一時は1,000件を超える事案が報告されますが、そのほとんどが実害のないものだったようです。綿密な調査が行われますが、その原因を特定することはできませんでした。マスコミは、この現象をハバナ・シンドロームと名付け、報道をヒートアップさせます。そして、トランプ大統領に主導される米国政府は、敵対的な国による何らかの攻撃であると断定するに至ります。原因も根拠も不明なまま行われたキューバ批判は、外交問題にまで広がります。2023年に至り、米国の7つの情報機関が、敵対国による関与は無さそうであるとの結論を出しました。

ハバナ・シンドロームが何だったのかは、いまだ不明ですが、当初から指摘があったとおり、マス・ヒステリアであり、集団心因性疾患だった可能性が高いと思われます。それが容易に想像できる状況が在キューバ米国大使館にはありました。1959年にキューバ革命が起きるとキューバとアメリカの関係は悪化し、1961年のキューバ危機以降、両国の国交は断絶状態が続きました。そして関係改善を公約としたバラク・オバマが大統領に就任すると、いわゆる雪解けが進み、2015年には両国の大使館が開設されます。ところが、キューバへの経済制裁継続を主張するドナルド・トランプが大統領戦に勝利すると状況は一変、2017年からは、緩和されていた様々な規制が再強化され、両国関係は悪化します。

トランプのキューバ政策は、例によって、根拠もシナリオもない単なるウケねらいだったと思われます。オバマ大統領の政策に反対することが最大の目的だったのでしょう。その背景には、保守的な米国民が抱く左翼政権に対する嫌悪感があります。TV界の人気者は、常に視聴率ファーストです。そのためには、ウソをつくことも厭わないのがトランプです。いい迷惑だったのが現場の政府関係者です。様々な分野で関係改善のために奔走していた大使館員たちは、突然、真反対の行動を取らされます。親交を深めていた政府関係者はじめキューバの人々から、突然の方針転換の理由を問われても答えようがない状況は、まさに地獄だったと思われます。ストレスは、極限まで高まっていたはずです。

マス・ヒステリアや集団パニックと思われる事象は、古くから多く記録されています。ファティマの奇跡など宗教関係が多いように思いますが、それに限った話ではありません。また、ペストが大流行した際の死の舞踏など科学が未成熟だったがために起こった場合もありますが、それが全てでもありません。あるいは、報道体制が十分であれば、防げたケースもあるのでしょうが、マスコミ報道がトリガーとなって引き起こされたオイル・ショック時のトイレット・ペーパー騒動などもあります。さらに言えば、人間に限った話ですらありません。いずれにしても人間の集団性の高さ、外的要因に左右されやすい心、心の動きが身体に影響を及ぼすことからして、マス・ヒステリアは、いつでも、どこでも起こり得ると言えます。

2024年は、米国大統領選挙の年です。民主党は高齢のバイデン大統領がほぼ唯一の候補であり、共和党ではトランプの勢いが止まりません。何の希望も感じさせない、何とも気の滅入る展開です。トランプは民主主義にとって悪夢ですが、アメリカの民主主義が生み出した産物でもあります。もちろん、大衆がトランプを求める背景があることは否定できません。白人優位が崩壊しつつあるアメリカでは、東部エスタブリッシュメントが進めたグローバル経済化に不満を持つ白人たちが多く存在し、熱狂的なトランプ支持者となっています。民主主義の象徴とも言える議会を襲撃した彼らの行動は、もはやトランプに先導されたマス・ヒステリアそのものです。アメリカ国民の冷静で良識ある判断に期待したいものです。(写真:在キューバ米国大使館 出典:yomiuri.co.jp)

2024年2月22日木曜日

餃子

私は、不味い餃子を食べたという記憶がありません。店による味の違いはあるものの、おおよそどこの餃子も美味しいと思うのです。餃子は好きな食べ物の一つであり、大量の餃子にビールは最強タッグだとも思っています。ただ、普段、中華料理店やラーメン屋で餃子を注文することは、ほぼありません。自分でも不思議だと思っています。焼売に関しては好きな店がはっきりしていますが、餃子を目当てに行く店もありません。強いて言うなら、歌舞伎町の「大陸」くらいでしょうか。大陸は、かつて歌舞伎町の奥にありました。50年前、初めて食べた大陸の餃子はとても美味いと思いました。今もその記憶を引きずっているのでしょう。

年に2~3度、宇都宮へ行く機会があります。行けば、仲間たちと大量の餃子にビールを楽しんでいます。宇都宮と浜松に近年は宮崎も加わり、餃子日本一を競っていますが、味の争いではなく、一人当たり消費量の争いです。いずれも、独特な味やレシピがあるわけではなく、店によって味は様々です。浜松餃子は、丸く並べた餃子の真ん中にもやしが添えられている点が特徴と言えば特徴ですが、味は関係ありません。東陽町で働いていた頃、たまにタンギョウの有名店「来々軒」に行っていました。その来々軒が、ある時、雑誌の餃子特集で東京ナンバー・ワンに選ばれたことがあります。もちろん、美味しいのですが、ごく普通に美味しいスタンダードな餃子であり、東京一と言われてもピンときませんでした。

食べログの餃子ランキングを見ても、上位店は同じような点数で大差ありません。美味しい餃子を評する言葉としては、概ね「パリパリ、ジューシー」が主流です。焼餃子の食感の話であり、味を語ってはいません。日本は焼餃子が主流ですが、中国はほぼ水餃子オンリーです。私の実家では水餃子がメインでした。満州経験のある父親が、餃子は水餃子が本物だというこだわりがあったからです。日本で餃子が一般化したのは戦後のことです。うちの父親も典型的ですが、中国在留経験者が持ち帰った料理なわけです。歌舞伎町の大陸も、引揚者が始めた店であり、引揚者たちが大陸を懐かしんで集まった店だと聞きます。いずれにしても、焼餃子と水餃子は、食感の違いこそあっても、味は同じく美味しいと思います。

私は「餃子はどれも美味しい」と思っているのですが、その理由を考えてみました。様々な食材を生地で密封した状態で加熱することによって、多様な旨味が凝縮される、これが餃子の美味しさの根源なのではないかと考えます。つまり、餃子1個は小さいながら、具材の多い鍋物と同じだということです。誤解を恐れずに言えば、餃子は小さなちゃんこ鍋です。ちゃんこも、様々な具材を様々な出汁で煮込みますが、どれも美味しくなります。その理由は、多くの具材が多様な旨味を出すからだとされます。餃子の具材も、店によって様々ですが、多くの食材が使われます。さらに餃子は、人間に幸福感を与える小麦粉で包まれるわけですから、それが焼餃子であろうが、水餃子であろうが、確実に人を幸せにするわけです。

餃子は中国発祥とされます。山東省の紀元前6世紀頃の遺跡から餃子の痕跡が発見されています。また、3,000年前のメソポタミアの遺跡からも小麦の皮で包んだ料理が発見されているようです。餃子に類したものは、ユーラシア大陸の各地に存在します。ロシアのペリメニ、ポーランドのピエロギ、イタリアのラビオリ、インドのサモサ、ネパールのモモなど、よく知られています。小麦を粉にし、水で溶き、加熱するという料理は、世界各地で同時発生的に生まれたのでしょう。餃子も、その延長線上にあります。餃子は、米を主食とする中国南部、東南アジア、日本などには存在しなかったわけです。そうした米食の国々の餃子類は、中国伝来だったと考えられます。単に食材を小麦粉に包んで加熱するだけでなく、様々な食材を混ぜて餡を作り、それを小麦で包んで加熱するという発想は、偉大な発明だったと思います。(写真出典:orangepage.net)

2024年2月20日火曜日

邪馬台国は謎なのか?

三輪山
古代史は、謎に満ちあふれているわけですが、最も人気のある謎と言えば、邪馬台国と卑弥呼ということになるのでしょう。魏志倭人伝など中国の史書に記述されているにも関わらず、古事記・日本書紀には言及がないこと、そして何よりも考古学的な裏付けが一切発見されていないことから、大きな謎とされてきました。江戸期以降は、その所在地を巡る議論が盛んとなります。主に、畿内説、九州説がぶつかり合い、今も結論を得ていません。いずれの説も一長一短あるわけですが、近年、考古学的発見や科学的分析が進み、畿内説が優位に立ったようです。畿内説は、古代史のもう一つの人気テーマである「空白の4世紀」、つまりヤマト王権誕生の謎にも直結します。とは言え、依然、決定的な物証があるわけではありません。

畿内説・九州説の議論の中心となっているのは、魏志倭人伝に記載される邪馬台国に至る道程です。朝鮮半島から、対馬、壱岐を通って、松浦半島に至るわけですが、その先が問題となります。素直に読めば、邪馬台国は太平洋上にあることになります。よって方角の間違いなど様々な解釈に基づく仮説が生まれます。大昔、遠い国で、伝聞に基づき記述された資料に、どこまで正確性を求めるのか、という問題もあります。昔から私が疑問に思っていたことは、そもそも邪馬台国は”ヤマタイコク”ではなく”ヤマトコク”なのではないか、ということです。もともと邪馬台国は、ヤマトコクの当て字と理解されていたようですが、ヤマタイコクに変えたのは新井白石だったようです。日本人の通訳の発音に基づき変えたと言います。かつての魏の発音ではないわけです。ここが間違いの始まりであり、邪馬台国が謎になった根源のように思えます。

ヤマトコクが正しい読みならば、邪馬台国はヤマト王権の国と理解できます。邪馬台国なる謎の国が記紀に登場しなくて当然です。しかし、卑弥呼という謎は残ります。やはり記紀には一切登場しません。ヤマト王権が誕生するあたりまでの日本にはヒメ・ヒコ制という共立的統治形態が存在したとされています。ヒメは、祭祀、農耕、女性集団の長として機能したようです。魏の人々は、ヤマトコクを統治するヒメ・ヒコを”ヒミコ”と聞き違え、卑弥呼という漢字を当てたのかも知れません。かつ当時の中国では珍しい女王というエキゾチックな存在に過剰反応したのではないでしょうか。魏志倭人伝にも、卑弥呼の側仕えのような男子が記載されていますが、実はこれが王であり、後の天皇だったように思えます。そして、それは”ハツクニシラススメラミコト”と呼ばれる崇神天皇だったのではないかと思われます。

近年、大型建物を含む日本初の都宮として注目され、崇神天皇との関わりも指摘される纒向遺跡は、3世紀に、突如、現れています。当時の日本としては空前の規模であり、大型建造物跡、巨大な運河跡、全国各地の土器等が発見されています。よって、ヤマト王権最初の都宮とされるとともに、魏志倭人伝と時代的に符合することから卑弥呼の都ではないかという説も出ています。近くには、初の前方後円墳である巨大な箸墓古墳はじめ、古墳が多く見られます。箸墓古墳こそ卑弥呼の墓ではないかという意見もあります。また、卑弥呼が魏から贈られた銅鏡100枚と関連づけられる三角縁神獣鏡も畿内で多く発見されています。また、昨年、桜井茶臼山古墳から出土した銅鏡の破片を調査したところ、その数は100枚以上になり、うち26枚が三角縁神獣鏡だったとの報道もありました。

どうも畿内説が有力になり、卑弥呼とヤマト王権が直結し始めたようです。もちろん、確定的ではなく、反論もありますが、とても納得性の高い説のように思えます。鍵を握る纒向遺跡は戦前から調査が継続されています。2010年には祭祀に使われた大量の桃の種、2011年にも新たな大型建物跡が発掘されています。しかし、発掘が終わったのは、全体の10%にも満たないと聞きます。今後の発掘で、いよいよ古代史の大きな謎が解明されるのかもしれません。ちなみに、ヤマトとは三輪山の麓を意味すると聞きます。三輪山は、神宿る山とされ、麓には大物主大神を祀る大神神社があります。付近には、纒向遺跡、箸墓古墳、崇神天皇陵等々、多くの遺跡・古墳があります。記紀によれば、箸墓古墳は、第7代孝霊天皇の皇女であり大物主大神と結婚した倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)の墓とされます。現在も宮内庁管轄であり、一切、調査は行われていません。(写真出典:oomiwa.or.jp)

2024年2月18日日曜日

「梟ーフクロウー」

監督:アン・テジン          2023年韓国

☆☆☆

(ネタバレ注意)

韓国で異例のロングヒットを記録し、国内映画祭25冠を獲得したという話題作です。よくできた歴史サスペンスですし、ベテラン映画人ながら本作が初監督というアン・テジンの手際の良さ、キャストの名演もなかなかのものです。よく知られた史実と俗説をベースにフィクションを構成する手法は、観客に受け入れられやすいとも思います。ただ、全体的には、こじんまりとした娯楽映画といった風情があり、映画的な深さや広がりはありません。いつも見事な韓国映画の脚本ですが、本作では昼盲目という興味深いモティーフを用いながらも、ストーリー展開は凡庸な印象を受けます。この映画で最も興味深いことは、これといって際だった特徴がないにも関わらず、驚異的ヒットを記録したことだと思います。

ストーリーの背景となる史実は、17世紀前半、李氏朝鮮の第16代国王・仁祖とその世子・昭顕に関わるものです。仁祖は、王の庶子の子ながら、クーデターによって王にかつがれます。親明反後金(清)という姿勢を貫く仁祖は、清に攻め込まれ屈辱的な降伏を強いられます。その際、清は昭顕世子を人質として連行します。清が明を制圧すると、世子は国に戻されます。反清にこだわる仁祖は、親清を目指す世子とその一派を疎ましく思います。そんな中、突如、世子が亡くなります。死因は感染症とされます。昭顕の子を世子とすべきところですが、仁祖は昭顕の弟を世子に立てます。昭顕の正室である愍懐嬪姜氏は、アワビ粥に毒を盛り仁祖殺害を図ったとして自殺させられ、子供達は済州島へ流されます。

朝鮮王朝の正史には、昭顕世子が、目・耳・鼻・口から血を流して死んだと記録されていることから、仁祖によって毒殺されたのではないかという説があるようです。その俗説に、盲目の宮廷鍼灸師を登場させ、フィクションが展開されます。宮廷内にあっては、盲目の鍼灸師は重宝されます。ただ、主人公は、光があると全盲状態で、光のない状態では微かに見えるという症状を持っており、世子毒殺を目撃してしまいます。王による陰謀ですから、殺人を目撃したと言えば、本人も家族も抹殺される恐れがあります。全盲者による目撃という異常さ、目撃を明言できない事情、証言しなければ不義がまかり通る状況、というジレンマが生まれます。このジレンマこそが韓国の人々の共感を呼び、映画はヒットしたのでしょう。

儒教を社会統制の柱とした李氏朝鮮の治世は、1392~1897年の500年に及びます。現在も、韓国社会には、厳しいタテ社会という儒教の影響が色濃く残ります。権力におもねる人々は少なからずいるものですが、儒教的な風土を持つ韓国ではなおさらだと思います。鍼灸師が置かれたジレンマは、韓国の人々が日常的に直面するものでもあり、盲目の鍼灸師は韓国の人々を象徴していると思えます。事実を事実と言えない状況は、フラストレーションそのものです。盲目の鍼灸師は、勇気をもって「私が目撃しました」と声をあげ、かつ、自らの手で正義を行います。観客は、自分では到底できない鍼灸師の行動に喝采し、日頃の憂さをはらすことになるのでしょう。

韓国では、娯楽映画と言えども政治状況に左右される面があります。文在寅政権時代には、保守派を批判する映画が多く作られています、2024年春、韓国では、国会議員選挙が行われます。韓国の人々は、大統領と議会のバランスを取るような投票をすることが多いと聞いたことがあります。だとすれば、今回の議会選挙は野党有利ということになりますが、足元の状況では与野党ともに苦戦しているようです。そのような状況下、3割超を占めると言われる無党派層の票の行方が注目されているようです。本作は、無党派層に向けて、勇気を持って正義を成せ、と語っているのかもしれません。(写真出典:news.yahoo.co.jp)

2024年2月16日金曜日

おかげ横丁

私が、アメリカで最も好きな町は、コネチカット州のミスティックです。ミスティック・リヴァー河口に広がる町は、美しい景観、そして捕鯨や造船の歴史で知られます。ミスティックの楽しみの一つは「オールド・ミスティック・ヴィレッジ」です。敷地内に点在する開拓時代風の小屋の一つひとつが店舗というショッピング・モールです。1990年前後のアメリカは、大型ショッピング・モール全盛の時代でした。ショッピング・モールは、買い物をするための施設ですが、当時は、行く事が目的化し、まるでテーマ・パークに近いものがありました。巨大になるほど多くの人でごった返していたものです。広大な駐車場のなかに立つ巨大なショッピング・モールは、あたかも城塞都市のようでした。

そこへ行くと、オールド・ミスティック・ヴィレッジは、植民地時代の村に入り込んだような感覚を持たせる風情あふれるショッピング・モールでした。店舗も、衣料品だけでなく、土産物店やマニアックな趣味の店等もありました。いわば観光ショッピング・モールといったところです。伊勢神宮前のおかげ横丁を初めて訪れた際には、日本版オールド・ミスティック・ヴィレッジだと思いました。おかげ横丁は、1993年、内宮前のおはらい町の中心部に作られました。江戸末期から明治はじめ頃の門前町を再現しています。江戸期のお陰参りブームに始まり、明治政府の天皇を中心とした国家作りの影響もあり、お伊勢さんは、常に多くの参拝客を集めてきました。

お伊勢さんへの参拝客は、多少の変動はあるにしても、年間600万人をキープしており、式年遷宮の年、翌年のお陰年には800万人を超えています。それにつれ門前のおはらい町も賑わってきたわけですが、高度成長期を過ぎると、売上は激減します。時代は、国内での団体旅行ブームが終わりを告げ、人々の目が海外に向かい始めていた頃です。参拝客、旅行者の意識が変わったということなのでしょう。お伊勢さんの人気にあぐらをかいた商売の弊害が出始めたと言うこともできると思います。おはらい町では、老舗中の老舗である赤福を中心に打開策が検討されます。そして、赤福は、当時の年間売上に匹敵する140億円を投じて、おかげ横丁を建設します。

結果、おかげ横丁は、来場者数が10年で10倍に増えるという大成功を収めます。おかげ横丁で感心することの一つは、店舗のバラエティの広さです。お決まりの饅頭やキーホルダーを並べるありきたりな土産物屋が何十軒集まっても、おかげ横丁の成功はなかったと思います。おかげ横丁では、一つひとつの店舗が特徴のある専門店として運営されています。ここが他の門前町と大きく異なる点です。顧客ニーズの変化を確実に捉えたプロデュースであり、赤福という、ほぼ単一のデベロッパーだからこそ成しえたことなのでしょう。赤福は、単におはらい町の賑わい再生を狙ったのではなく、特色ある新しいショッピング・モールを目指したのだと思います。おかげ横丁は、間違いなく、日本一成功したショッピング・モールです。

全国の名だたる神社仏閣の門前町の状況も、かつてのおはらい町と同じなのでしょう。さすがに近年は、昔ながらの土産物屋だけではなく、おしゃれな店も見かけるようにはなっています。ただ、あくまでも個別の店舗ベースの話です。零細な土産物屋の集まりでは、おかげ横丁のような大規模開発は、望むべくもありません。創業400年という赤福の財力と判断が、いかに大きかったかということです。おかげ横丁の成功を好事例として、大規模再開発に取り組む観光地も出てきました。しかし、おかげ横丁を超える、あるいは匹敵する事例はないように思います。例えば、彦根城前の夢京橋キャッスルロードなどは良い取り組みだと思いますが、おかげ横丁の賑わいにはほど遠い状況にあります。(写真出典:okageyokocho.com)

2024年2月14日水曜日

焼蛤

東海道五十三次で唯一の海路が”七里の渡し”です。名古屋の熱田神宮あたりにあった宮宿から桑名宿までの満潮時七里、干潮時十里の船旅です。所要時間は4時間ほどだったようです。もちろん、陸路もあるのですが、随分と遠回りになるため、この海路が選択されたようです。海上交通は天気次第というところもあり、どうしても船待ちが生じます。そのせいか、宮宿と桑名宿は、旅籠の数において東海道随一を誇っていたようです。現在、桑名側の渡船場跡は公園として整備され、往時の面影が再現されています。その近くに、1923年、大正年間に創業した「蛤料理 日の出」があります。蛤と言えば桑名、桑名で蛤と言えば日の出です。

今般、15年振りに日の出に出かけました。木造2階建ての店の風情も、もちろん味も変わっていませんでした。焼蛤はじめ、しゃぶしゃぶ、天麩羅など蛤づくしを堪能しました。蛤はすべて東京で言うところの大蛤のサイズです。桑名の蛤の身は、プリッとして大ぶりなだけでなく、とても柔らかく、また旨味が濃いことも特徴だと思います。加えて、前から不思議に思っていたのですが、日の出で蛤を食べると、何故か酒が進みます。貝類は肝臓にいいと聞きますが、食べた端から効くとも思えません。理由は判然としないものの、今回も沢山に燗酒をいただきました。コースの締めは、蛤雑炊が定番となっていますが、今回は、わがままを言って、中華麺も追加していただきました。これが、また絶品なわけです。

その手は桑名の焼蛤というくらいで、焼蛤は桑名名物です。名物だけに、日の出のこだわりもなかなかです。東京で焼蛤を食べると、貝の蓋がパカリと開いた状態で出てきます。二枚貝を焼けば、当然そうなります。貝の蝶番の部分には靱帯があり、常に貝を開く方向に力が掛けられています。貝が閉じているのは、貝柱の引っ張る力に依ります。火を入れて、貝柱が死ぬと、引っ張る力が失われ、貝は開くことになります。ところが、日の出では、完璧に閉じた状態で焼蛤が出されます。実は、焼く前に、この靱帯を、包丁を使って切断しているのだそうです。これは板前の技としか言いようがありません。貝を閉じたまま焼くので、いい具合の蒸し焼きになって旨味が閉じ込めらます。

国内で流通する蛤の多くは、チョウセンハマグリ、シナハマグリと呼ばれる外来種だと聞きます。桑名の蛤は、在来種である内湾性ハマグリです。外来種は外湾性であり、貝の殻が厚くなります。対して内湾性のハマグリは、海水の流れが穏やかなところで育つので、殻が薄く、身がプリッとして柔らかくなるのだそうです。桑名の蛤は、木曽三川が運ぶ豊富な栄養によって大きく育つとも言われます。ただ、ご多分に漏れず、桑名の蛤も漁獲量が激減しているようです。地元では、資源の保全のために様々な取り組みを行っているとのことです。漁獲量の制限はもとより、一定の大きさ以下の蛤は獲らない、人工干潟を整備する、さらには稚貝の種苗生産と放流も行われ、潮干狩りも禁止されているようです。

ところで、江戸地口の”その手は桑名の焼蛤”は、単なるダジャレの類いだと思っていましたが、どうやらそれなりに由来があるようです。桑名の焼蛤は、江戸末期に大ヒットした十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも登場します。江戸の職人である弥次さん喜多さんは、上方、讃岐の金比羅宮、安芸の宮島、信州の善光寺までと長旅をしますが、本来の目的はお伊勢参りです。七里の渡しで船を下りた弥次さん喜多さんは、軒を連ねる蛤茶屋の女性の呼び込み攻勢を受けます。今も観光地でしばしば目にする光景です。呼び込みが様々な甘言を弄することも変わらぬ光景だったようです。その甘言にだまされまいとする弥次さん喜多さんが”その手は桑名の焼蛤”と言い放つわけです。(写真出典:tabelog.com)

2024年2月12日月曜日

創業の地

名古屋駅の桜通口を出て、北に少し歩くと、住所は則武新町になります。洋食器のノリタケ発祥の地です。今も本社やノリタケの森と呼ばれる博物館や庭園などがありますが、工場跡地の大半は、ショッピング・モールに変わっています。則武新町の北側は、西区と中村区にまたがる栄生(さこう)という地区になります。もともとは愛知郡中村の栄(さこう)だったようですが、名古屋市に編入される際、既に存在した栄(さかえ)と区別するために栄生と改称しました。1912年、豊田佐吉は、この地に豊田自働織布工場、後の豊田紡織を創業します。現在、その跡地は、トヨタ産業技術記念館として、トヨタの歴史を展示する企業博物館になっています。なお、現在の住所は則武新町となっています。

名古屋に赴任し、トヨタにもお世話になったにも関わらず、私は、産業技術記念館を訪れる機会がありませんでした。名古屋を離れて、15年になるのですが、いまだにそのことが気になっていました。今般、ついに訪れることができました。広大な産業技術記念館は、紡織と自動車の展示から成りますが、自動車エリアには製鋼に関わる展示もされており、まさにグループの歴史博物館になっています。展示は、紡織機そのもの、あるいは自動車の生産設備が中心であり、正直言って、門外漢や興味のない者にとっては、やや退屈なものです。ただ、紡織機や生産設備の巨大な現物やレプリカが展示されている様は、トヨタ・グループの技術へのこだわり、そして財力の大きさを十分以上に感じさせるものでした。

見学を終えて、出口に向かうと、大ホール周辺に、カメラ・クルーを含むマスコミ関係者と思しき人たちが大勢いました。ガードマンに、何事か、と聞くと、今日はトヨタ・グループがホールを貸し切っています、との回答。それ以上は話してくれませんでした。正面玄関にはセンチュリーが停まっていました。玄関を出て歩き始め、ふと振り返ると豊田章男氏らしき人物が車に乗り込むところでした。センチュリーが発車すると、楽屋口の方から黒いレクサスが数台続きました。夜のニュースで知ったのですが、豊田会長が、グループ・ヴィジョンを公表するために記者会見を開いたのでした。ただ、ヴィジョンに関する報道は一切なく、豊田自動織機の不正に関する豊田会長の発言のみが取り上げられていました。

ヴィジョン発表を口実に、不正に関して豊田会長がコメントする場を設ける、というトヨタ側の意図を感じます。日野自動車、ダイハツというグループ企業ながら外様企業の起こした不祥事とは異なり、本家である自動織機の不正は重大事件と言わざるを得ません。ここは社長ではなく、豊田家の人間が、世間、そしてサプライヤーに向けて、直接、語るべきところなのでしょう。記者会見場として産業技術記念館を選んだのも、単なる偶然ではないと思います。豊田佐吉が興した豊田紡織は豊田自動織機を生み出し、そこからトヨタ自動車、さらに愛知製鋼が独立しました。豊田紡績はトヨタ・グループの礎です。その創業の地で、豊田彰男氏が不正について語るということは、とても重い判断であり、重い決意だったのでしょう。

2008年5月、中日新聞は、やたら大きな見出しで「章男氏、副社長へ」と伝えました。副社長就任でこの大きな見出し、しかも苗字なし。トヨタの存在の大きさを感じさられました。その年に発生したリーマン・ショックを受け、章男氏は、急遽、社長に就任します。豊田家の人間がトップに立つことでグループの結束をはかり、リーマン・ショックを乗り切るという意思の現れです。それは見事に功を奏したと思われます。一方では、章男氏のカリスマ性が高まり過ぎて、現場現物主義に基づく活発な議論、あるは大番頭の存在といったトヨタの伝統が薄れていくことにもなったのではないでしょうか。記者会見における章男氏の発言は、その認識、反省を踏まえた、かなり踏み込んだ内容だったと思います。それが出来るのも創業家ならではのことであり、家臣団とも言えるサプライヤーをまとめあげるトヨタのお家芸とも言えます。(写真出典:tcmit.org)

2024年2月10日土曜日

とんてき

四日市名物となった”とんてき”は、ビフテキの豚肉版といった意味から命名されたのでしょう。ステーキ(steak)は、厚切りの肉を意味します。従って、ポーク・ステーキと呼べばよかったわけですが、あえて”とんてき”としたところが庶民的で実に良いネーミングだったと思います。とんてき発祥の店とされるのは、「まつもとの来来憲」です。まつもととは、四日市西部の地名であり、店の近くには近鉄の伊勢松本駅もあります。基本的には中華料理店ですが、連日、大行列を作る客のお目当ては、何といっても”大とんてき”です。とんてきがメニューに加わったのは、昭和後期だったようです。2005年に至り、とんてきを四日市のご当地グルメにしようという動きがはじまりました。

来来憲の大とんてきは、厚切りにした250gの豚肩ロースを、ウスターソースとにんにくで仕上げたソースで柔らかく焼き上げ、荒く千切りにしたキャベツとともに供されます。とんてきは、グローブの愛称でも知られます。熱の通りやすさ、ソースのからみよさ、食べやすさを考え、肉には切り込みが入っています。その姿が、野球のグローブのように見えるわけです。厚い肉は、しっとり柔らかく焼き上がっています。ソースで水分を保ちながら弱火でじっくり焼いたか、あるいは余熱で中まで熱を加えているものと思われます。ソースは、すぐにウスターソースと分かる味ですが、コクがありながらもあっさりとしています。大とんてきの中毒性の源は、このソースと肉の柔らかさにあるのではないかと思います。

四日市とんてき協会には、現在、20店舗ほどが参加しています。東京からも、浅草橋の「グラシア」、秋葉原の「東京とんてき」が参加しています。グラシアのソースはデミグラっぽい印象、東京とんてきはコンフィした肉を使っており、いずれも来来憲とは似て非なるものになっています。とは言え、来来憲は、食べたくなったらすぐに行ける場所にはありません。平生は、代用品で我慢するしかありません。過日、十数年ぶりに来来憲の行列に並びました。13時過ぎ、行列も多少短くなった頃をねらい、運良く30分ほどで入店できました。現在は、お取り寄せもできるようになっています。一度、試してみようとは思いますが、店で食べる味にはならないだろうと思います。やはり伊勢松本まで出向くべきでしょう。

四日市は、四のつく日に市が立っていたことから命名されたわけですが、古代から畿内と東海・関東、あるいは伊勢を結ぶ交通の要所として栄えてきました。江戸期には天領でした。家康の伊賀越えに功績があったため天領になったとされますが、交通の要所、良港がゆえのことなのでしょう。明治以降、港や鉄道が整備されると、物流・生産の拠点となります。高度成長期になると、国内有数の規模を持つ石油コンビナートが稼働し、東海経済圏の中核の一つとなります。一方、コンビナートは、四日市ぜんそくという公害問題を起こした過去もありますした。いずれにしても、四日市は、工業都市であり、多くの労働者を抱える街だったわけです。とんてきは、安価に、労働者の胃袋を満たし、スタミナをつけるために考案され、定着してきた食べ物だと言えるのでしょう。

豚肉と言えば、近年、とんかつ界では厚切り化が相当進んでいます。そこには二つの流れがあって、一つはSPF豚と呼ばれる無菌育成された豚肉を使うスタイル、もう一つは白いとんかつ系とも呼ばれる低温調理スタイルです。厚切りでも固くならないように熱を入れるには、やはり低温がキー・ポイントになるわけです。低温加熱することで、鶏肉もしっとり柔らかく、エビもプリッと仕上がります。最近は、低温調理器も売られています。ただ、低温調理にはデメリットもあります。一つは時間がかかること、そして、しっかり火が通ったのかどうか、素人では見分けにくいことです。ま、やはり、本物のとんてきを食べたくなったら、来来憲へ行く事ですな。(写真出典:kankomie.or.jp)

2024年2月8日木曜日

「哀れなるものたち」

監督:ヨルゴス・ランティモス  原題:Poor Things  2023年英国・米国・アイルランド

☆☆☆☆

ランティモス監督と主演のエマ・ストーンが創作したおとぎ話は、映画ならではの技法で語られ、映画が持つパワーを見せつけているように思えます。原作は、スコットランドを代表する作家アラスター・グレイの同名小説です。ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を獲得し、アカデミー賞でも主要部門の多くにノミネートされています。ただ、今年のアカデミー賞は、クリスファー・ノーランの”オッペンハイマー”が総取りするだろうと言われています。本作がアカデミー賞の主要部門を獲得することはないと思いますが、各方面で非常に高い評価を得ています。余談ですが、昨年夏、世界的に大ヒットした”オッペンハイマー”が、いまだ日本で上映されていないことは、米国人の原爆観を現わしていて興味深いと思います。

19世紀、天才的で孤独な外科医が、投身自殺した妊婦にその胎児の脳を移植して、生き返らせます。大人の体に乳児の脳を持つモンスターのベラが急速に知識を吸収していく、というのがメイン・プロットです。トリッキーな構成を持つアラスター・グレイの原作の一部だけが使われているようです。グレイは、スコットランドの愛国主義者でもあり、原作におけるベラの成長はスコットランドの歴史の比喩になっているようです。映画は、スコットランドの歴史をフェミニズムに置換えたかのような理解がされているようです。確かに、一見すると、性的なエピソードの扱いからしてフェミニズム映画のように見えます。しかし、監督のねらいは、より普遍性が高く、より深い”個人と社会”というテーマにあるように思います。

社会的にはほぼ動物に近い純粋無垢なベラは、知識を吸収していきますが、それは社会に取り込まれ、制約でがんじがらめにされていく過程でもあります。一方、ベラは本能的に性の喜びを発見します。社会と本能、制約と自由という構図が提示され、ベラは歓喜を求めて逃避行を行います。ただ、自由と歓喜の追求は、複雑で面倒な人間関係を生むことも知ります。さらにベラは社会の最低の悪を知ることになります。差別と貧困です。衝撃を受けたベラは、ブルジョア階級らしく喜捨による解決を図り、自らも娼婦に身をやつすことになります。社会運動も知りました。実に端的に、個人と社会という関係の縮図が提示されていると思います。結局、ベラが選択した人生は、外科医から引き継いだブルジョアジーの世界で外科医として生きることでした。

これは、救いのない結末のように思えます。ベラは、人間の本質を問うような経験をしつつ、社会を変えることも、人間としてのあり方を追求することもありませんでした。突き放したような結論です。しかし、人間なんてこんなものだよ、という監督の悲観論、あるいは現実主義を批判することもできないでしょう。グレイが原作で意図したこととは大いに異なるとしても、ランティモス監督は、この魅力的なモティーフを使って、自らの哲学を見事に表現して見せたと思います。しかも、見事なおとぎ話に仕立てるあたりは、希有な才能を感じさせます。幻想的でシンボリックなセット・デザイン、衣装、そしてタイトル・バックは記憶に残ります。また、ジャースキン・フェンドリックスという人の音楽は、ジャンルを超えた繊細さと面白さがあります。

それらとエマ・ストーンの存在感が一体となり、極めてユニークで、レベルの高い映像になっています。ランティモス監督は、特異なシチュエーションのなかでの人間と人間の関わり、つまり個人と社会の関係を切れ味鋭く描きます。監督は、ギリシャの人です。さすが悲喜劇を生み出した古代ギリシャ人の末裔、と思ってしまいます。前作「女王陛下のお気に入り」は、2019年に見た映画のベストの一つでした。エマ・ストーンとのコンビはこの映画で生まれたようです。”ラ・ラ・ランド”でアカデミー女優となったエマ・ストーンですが、本作ではプロデュースも行っています。アリゾナから出てきた小娘くらいの印象でしたが、ラ・ラ・ランドで化け、本作では、さらに大化けしたように思います。(写真出典:pt.wikipedia.org)

2024年2月6日火曜日

師弟

ダウンタウン
孔子の高弟・子路は、 孔門十哲の一人にも数えられます。孔子が、最も怒り、最も愛した弟子とされます。中島敦の「弟子」は、この師弟を描いた短編です。無頼の徒であった子路は、孔子を辱めようと訪れます。学問など無用だ、と言い放つ子路に対し、孔子は、君主に諫臣がいなければ正を失う、馬に鞭が、弓に檠(弓を曲げる道具)が必要なように、人も放恣な性情を改める学問が必要であると説きます。子路は、南山の竹は曲げなくても、斬って使えば犀の革をも通す、と反論します。孔子は、南山の竹に矢羽と矢尻をつければ、犀の革を通す以上の働きをするだろうと諭します。言葉に窮した子路は、しばらく立ちすくんだ後、弟子にして下さい、と頭を下げます。

多くの場合、師匠は、学問、武術、芸術等の専門家であり、弟子の指導育成が専門ではありません。弟子は、師匠の技を習うのではなく盗め、と言われます。弟子は、師匠の身の回りの世話も行うなど、封建的な関係でもあります。現代では、多くが学校や教室といったオープンな育成機関に置換えられました。ただ、芸術、工芸、古典芸能、武術等の分野には、伝統的な師弟関係が残ります。角界の師弟関係は、協会の枠組みのなかで、育成に特化しています。落語界は、伝統的な師弟関係を保っています。落語以外の寄席芸能の世界でも、制度化まではされてないようですが、師弟関係は存在します。そこに大きな変革をもたらしたのが、漫才の吉本総合芸能学院、通称NSC(New Star Creation)だったということになります。

吉本は、大人気となった紳助・竜介の新しさに、漫才界における師弟制度の限界を感じてNSCを設立したと言われます。また、師匠が、経済的理由から弟子をとらなくなったという背景もあったようです。吉本は、NSCを軌道乗せするために、一期生のダウンタウンをスターに仕立てていきます。当人たちの新しい漫才スタイルもあり、ダウンタウンは時代の寵児となります。結果、NSCには多数の応募者が押し寄せ、吉本の中核を成す人材を輩出するに至ります。一方、漫才は学校で習うものか、という素朴な疑問もあります。NSCは、育成組織というよりも、新しい才能の発掘システムのようにも思えます。応募者から授業料を取って、発掘を行うわけですから、悪魔的に賢いビジネス・モデルとも言えそうです。

吉本は、ただひたすらダイヤモンドの原石が露頭する瞬間を待てばいいということになります。あるいは、アドヴァイスは行うにしても、アマチュアが競い合って腕を上げるのを待てばいいわけです。漫才のアマチュア化と言えるかも知れません。苦労人でもあった横山やすしはじめ、厳しい師弟関係のなかで育ったベテラン漫才師たちが、NSCを目の敵にしたというのも理解できる話です。舞台とTVの相乗効果は、吉本の基本戦略です。NSCは、TVに軸足を置き始めた吉本のマーケティング・スタンスに沿っていました。それは漫才のターゲットを、劇場に通う世代から、TVの前の若者にフォーカスしたということでもあります。一方で、吉本は、劇場中心の新喜劇をしぶとく継続し、古いファン層も失いませんでした。実にしたたかなものです。

吉本と朝日放送が主宰するM-1グランプリの昨年のエントリー総数は、8,500組を超えていました。2001年の第1回大会は1,600組でした。NSCが進めた漫才のアマチュア化が拡大している証左でもあります。かつて、若い芸人たちは師匠に食わせてもらいながら、芸道に専念していました。今どきの若手は、吉本に面倒を見てもらうこともなく、ひたすらアルバイトに精を出しているようです。かつて、芸人の色事と言えば、玄人衆が相手か業界内に限られていました。昨今では、一般人が対象となったトラブルが多いようです。これもアマチュア化がもたらした現象なのでしょう。かつては、師匠の元に通い詰め頭を下げ続けて弟子にしてもらったと聞きます。NSCは、基本的には授業料を払えば誰でも入学できます。その道に入る覚悟が違うとも言えます。NSCは、多くの若い人材を犠牲にする構造ではないか、とさえ思います。(写真出典:youtube.com)

2024年2月4日日曜日

リトル・ガール・ブルー

Janis Joplin
1960年代を象徴する音楽イベントと言えば、1969年のウッドストック ・フェスティバル(Woodstock Music and Art Festival)ということになります。NY州キャッツキルに、40万人を超える若者が集まり、30組以上が出演しました。カウンター・カルチャー時代の頂点ともいえるイベントであり、記録映画も大ヒットしました。ただ、もう一つ忘れてはならないイベントは、ウッドストックに先立つ1967年、カリフォルニア州で開催されたモンタレー・ポップ・フェスティバルです。その後、世界中に広がったロック・フェスの原点と言われる音楽イベントです。モンタレーでは、1958年からジャズ・フェスティバルが開催されていました。それにヒントを得て開催されたと言われています。

モンタレー・ポップ・フェスティバルは、ママス&パパスのジョン・フィリップスが中心となって開催されました。ママス&パパスは、多くのヒットを飛ばし、LAの音楽界ではリーダー的存在だったのでしょう。フェスは、サンフランシスコを中心に盛り上がっていたヒッピー文化を背景に、ロック、ブルース、フォーク、R&B、民族音楽等々、実に多様なジャンルのミュージシャンが出演しています。3日間で、30組超が出演し、20万人の観客を集めました。その記録映像は、映画「モンタレー・ポップ」として公開されました。また、フェスのプロモーションのために、ジョン・フィリップスが作詞作曲し、スコット・マッケンジーが歌った「花のサンフランシスコ」も大ヒットしました。私もレコードを買いました。歌詞をカタカナで書き取り、懸命に覚えたものです。

モンタレー・ポップへの出演をきっかけに、全米にその名を轟かせることになったミュージシャンが3人います。R&Bの世界では既に有名だったオーティス・レディング、前年からロンドンで活動を始め、注目を集めていたたジミ・ヘンドリックス、そしてヒッピーのメッカ、サンフランシスコから呼ばれたビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーのジャニス・ジョプリンです。この3人は、一発で観客を総立ちにさせるとともに、全米を、そして世界を熱狂させることになります。実は、ホールディング・カンパニーは映像契約にサインしていなかったため、撮影されておらず、音源だけが残りました。関係者全員の説得とジャニスの思いもあって、急遽、契約にサインしたホールディング・カンパニーは、翌日、もう一度ステージに立っています。

テキサスの田舎町に生まれ育ったジャニスは、変人として疎外された少女だったようです。20歳になったジャニスは、テキサス大をドロップ・アウトし、サンフランシスコで音楽と麻薬漬けの日々を始めます。1966年、ホールディング・カンパニーに参加すると、そのしゃがれたダイナマイト・ボイス、黒人ばりのリズム感、歌唱力、シャウトが注目を集めます。自身が抱える孤独を絞り出すように歌うジャニスの歌はブルースがベースになっています。ジャニスの出世作ともなった「ボール&チェイン」もビッグ・ママ・ソートンの曲です。「クライ・ベイビー」、「ムーブ・オーバー」、「サマータイム」、「ミー&ボビー・マギー」等もジャニスらしさ満開ですが、恐らく最も彼女の内面をストレートに表現した曲が「リトル・ガール・ブルー」なのだと思います。2015年にリリースされた彼女のドキュメンタリー映画のタイトルにもなっています。

「リトル・ガール・ブルー」は、1935年、ロジャース&ハートがミュージカルのために書いた曲で、ニーナ・シモンのデビュー曲でもあります。大人になりきれない孤独な少女を歌っています。ステージの上では大観衆を熱狂させたジャニスですが、孤独な少女であることに変わりはなかったのでしょう。モンタレーからわずか3年後の1970年、27歳になったジャニスは一人モーテルで死にます。ヘロインのオーバードーズでした。2週間前、ジミ・ヘンドリックスも27歳で死んでいます。ブライアン・ジョーンズ、ジム・モリソン、カート・コバーンと併せ27クラブとしても知られます。さらに、オーティス・レディングもフェスから半年後、飛行機事故で26歳の生涯を閉じています。モンタレー・ポップ・フェスティバルが世に送り出した3人が、3人とも同じ年に若くして命を落としたことは、どこか因縁めいた、そして、なんとも切ない話です。(写真出典:genius.com)

2024年2月2日金曜日

蒲焼

30年前、一人で上海へ行った際、豫園商城にある「上海老飯店」で食事しました。創業1875年という堂々たる店構えの老舗です。中華料理は、多数で囲むことが前提になっています。それは重々承知していたのですが、有名店の味を試したく出かけました。上海料理の定番の一つは紅焼(ホンシャオ)です。とろみのある醤油ベースの甘いタレが特徴の煮込料理です。老飯店へ行った目的の一つは鰻の紅焼でした。輪切りにして紅焼にした鰻が一尾まるごと出てきました。見た目に驚きましたが、野趣あふれる鰻の風味と上品な紅焼の甘さが相まって、なかなかの逸品でした。ただ、紅焼と蒲焼、いずれが好きかと聞かれたら、慣れ親しんだ蒲焼と答えることになります。

大昔、蒲焼は、紅焼と同様に、輪切りにした鰻を串に指して焼いていたようです。その様子が、蒲の穂に似ていたことから蒲焼(がまやき)と呼ばれ、それがなまってカバヤキになったとされます。鰻は、縄文期から食べられていたようです。輪切りの蒲焼という時代が長く続き、江戸期に入ってから、腹を裂いて串を刺して焼く、という現在につながる蒲焼が上方で生まれます。それが江戸に伝わると、背開きにして蒸して焼く、という江戸前の蒲焼になります。背開きにしたのは、武士の町であった江戸では、切腹をイメージさせる腹開きが嫌われたからだとされます。東西の蒲焼は、背開きと腹開き、蒸すか直焼きかだけではなく、タレにも違いがあります。

関西のタレは、砂糖を多く使い、とろみがある甘いタレが主流です。脂と臭みが多めに残る直焼きには、ちょうどいいと思います。関東は、比較的サラッとしています。江戸末期創業の「駒形前川」は大好きな店ですが、砂糖を一切使っていません。色は黒いがさっぱりとして、素材の味を活かす、まさに深川の味だと思います。鰻のタレは、継ぎ足し、継ぎ足しで鰻の旨味が濃縮されていると言われます。鰻屋が火事になると、ご亭主は、店の命であるタレの入った壺を抱えて逃げるとまで言われます。タレは、濃口醤油、みりん、砂糖に酒を加えれば、簡単に作れます。ただ、家で作っても、鰻屋の味にはなりません。鰻屋の継ぎ足しのタレは旨味が凝縮されおりコクが違うわけです。

店の歴史が古いほど蒲焼が美味いのであれば、食べログの上位は老舗が独占しているはずです。そうはなっていません。老舗は、人々に評価されたからこそ時代を超えて生き残ってきましたが、仕入れ、焼き方、タレの味等で、それらを超える店も登場するわけです。現存する日本最古の鰻屋は、室町時代創業という大津の「うなぎ料亭山重」とされます。江戸期創業の鰻屋は、全国に40軒以上あると聞いたことがあります。関東に多いようですが、東京都内に限ってみれば9店舗あります。元禄年間創業という田端の「源氏」が都内最古で、池之端の「伊豆栄」が続きます。いずれも300年を超える歴史を誇ります。ただ、江戸期創業で、食べログのベスト10に入っている店は「明神下神田川」だけです。

蒲焼と言えば鰻ですが、なにも鰻に限った話ではありません。細長い魚であれば、穴子、鱧、太刀魚、サンマでも蒲焼になります。ただ、鰻以外で、蒲焼が主な調理法となっている魚はありません。穴子は煮穴子、鱧は湯引き、太刀魚は塩焼きか煮付け、サンマも塩焼きが代表的な食べ方だと思います。やはり、蒲焼は鰻のために考案された料理と言ってもいいのでしょう。ただ、なかなかに難しい調理でもあり、「串打ち三年割き八年焼き一生」とまで言われます。焼き方で感動させられた店があります。高知空港そばの「かいだ屋」です。外はカリカリではなく、サクサクに近く、中は超フワフワでした。長蛇の行列、かつオーダーしてからも相当時間がかかりますが、十分以上に並ぶ価値があります。(写真出典:komagata-maekawa.com)

夜行バス