監督:ヨルゴス・ランティモス 原題:Poor Things 2023年英国・米国・アイルランド
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ランティモス監督と主演のエマ・ストーンが創作したおとぎ話は、映画ならではの技法で語られ、映画が持つパワーを見せつけているように思えます。原作は、スコットランドを代表する作家アラスター・グレイの同名小説です。ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を獲得し、アカデミー賞でも主要部門の多くにノミネートされています。ただ、今年のアカデミー賞は、クリスファー・ノーランの”オッペンハイマー”が総取りするだろうと言われています。本作がアカデミー賞の主要部門を獲得することはないと思いますが、各方面で非常に高い評価を得ています。余談ですが、昨年夏、世界的に大ヒットした”オッペンハイマー”が、いまだ日本で上映されていないことは、米国人の原爆観を現わしていて興味深いと思います。19世紀、天才的で孤独な外科医が、投身自殺した妊婦にその胎児の脳を移植して、生き返らせます。大人の体に乳児の脳を持つモンスターのベラが急速に知識を吸収していく、というのがメイン・プロットです。トリッキーな構成を持つアラスター・グレイの原作の一部だけが使われているようです。グレイは、スコットランドの愛国主義者でもあり、原作におけるベラの成長はスコットランドの歴史の比喩になっているようです。映画は、スコットランドの歴史をフェミニズムに置換えたかのような理解がされているようです。確かに、一見すると、性的なエピソードの扱いからしてフェミニズム映画のように見えます。しかし、監督のねらいは、より普遍性が高く、より深い”個人と社会”というテーマにあるように思います。
社会的にはほぼ動物に近い純粋無垢なベラは、知識を吸収していきますが、それは社会に取り込まれ、制約でがんじがらめにされていく過程でもあります。一方、ベラは本能的に性の喜びを発見します。社会と本能、制約と自由という構図が提示され、ベラは歓喜を求めて逃避行を行います。ただ、自由と歓喜の追求は、複雑で面倒な人間関係を生むことも知ります。さらにベラは社会の最低の悪を知ることになります。差別と貧困です。衝撃を受けたベラは、ブルジョア階級らしく喜捨による解決を図り、自らも娼婦に身をやつすことになります。社会運動も知りました。実に端的に、個人と社会という関係の縮図が提示されていると思います。結局、ベラが選択した人生は、外科医から引き継いだブルジョアジーの世界で外科医として生きることでした。
これは、救いのない結末のように思えます。ベラは、人間の本質を問うような経験をしつつ、社会を変えることも、人間としてのあり方を追求することもありませんでした。突き放したような結論です。しかし、人間なんてこんなものだよ、という監督の悲観論、あるいは現実主義を批判することもできないでしょう。グレイが原作で意図したこととは大いに異なるとしても、ランティモス監督は、この魅力的なモティーフを使って、自らの哲学を見事に表現して見せたと思います。しかも、見事なおとぎ話に仕立てるあたりは、希有な才能を感じさせます。幻想的でシンボリックなセット・デザイン、衣装、そしてタイトル・バックは記憶に残ります。また、ジャースキン・フェンドリックスという人の音楽は、ジャンルを超えた繊細さと面白さがあります。
それらとエマ・ストーンの存在感が一体となり、極めてユニークで、レベルの高い映像になっています。ランティモス監督は、特異なシチュエーションのなかでの人間と人間の関わり、つまり個人と社会の関係を切れ味鋭く描きます。監督は、ギリシャの人です。さすが悲喜劇を生み出した古代ギリシャ人の末裔、と思ってしまいます。前作「女王陛下のお気に入り」は、2019年に見た映画のベストの一つでした。エマ・ストーンとのコンビはこの映画で生まれたようです。”ラ・ラ・ランド”でアカデミー女優となったエマ・ストーンですが、本作ではプロデュースも行っています。アリゾナから出てきた小娘くらいの印象でしたが、ラ・ラ・ランドで化け、本作では、さらに大化けしたように思います。(写真出典:pt.wikipedia.org)