2022年7月31日日曜日

駄菓子屋

世界中に駄菓子の類いは存在するのでしょうが、”駄菓子屋”は日本独特の文化だと思われます。海外では、キオスク、タバコ屋、新聞屋等に、駄菓子もおいてありますが、決して子供だけがターゲットの店ではありません。駄菓子自体は、江戸期、砂糖の国内生産の開始されると、ほどなく誕生したようです。茶道などに用いられる上菓子に対して、雑穀類を使った安価な菓子は駄菓子と呼ばれました、また、田畑で働く際のおやつとして田菓子と呼ばれたとも言われます。各地で、様々な駄菓子が作れられ、街道の発達とともに、全国に広まったようです。江戸期、駄菓子の販売は、飴売りなど行商によって行われていたようです。他に、縁日の露店での販売もありました。 

駄菓子屋が誕生した経緯は、はっきりしていません。江戸町内の番所で小使役をしていた人たちが、番所近くの自宅で菓子や玩具を商う風習が生まれ、番太郎小屋と呼ばれていたようです。これが駄菓子屋になったという説もあります。駄菓子屋は、明治後期には広く存在していたようです。その頃、菓子類も扱うようになった雑貨屋に子供たちが集まるようになり、おのずと駄菓子屋へと変化していったとも言われています。いずれにしても、その背景には、明治期の工業化の進展とそれによる都市部への人口流入があるものと思われます。サプライ・サイドでは、菓子製造の工業化によって、安価な菓子類の供給が可能になったわけです。また、店舗への改装コストも安く済みました。

一方、デマンド・サイドでは、学制の整備による尋常小学校の誕生が大きな要因だったのではないかと考えます。つまり多くの子供たちが、毎日通る通学路の誕生です。そして、駄菓子屋が成立する大前提は、学校帰りの子供たちがお金を持っていたことです。いわゆるお小遣いの普及です。駄菓子屋は、繁華街や高級住宅街ではなく、下町の住宅街で生まれたものです。工場労働者が増えたことで、子供の面倒を見る親の時間が失われ、一方では安定した現金収入を得られるようになったことから、子供へお小遣いをあげる習慣が広まったのではないかと思います。しかし、ここまでの背景であれば、日本の独自のものとは思えず、先進国なら同じだったはずです。

駄菓子屋最大の特徴は、駄菓子にあるのではなく、そこに子供たちだけの世界があったことではないかと思います。駄菓子屋が日本独自の文化になり得たのは、子供たちが、子供たちだけで自由に過ごせる時間と環境があったからではないかと思います。欧米では、親が同行せずに、子供だけで店に行き、買い物することなど考えられません。子供の安全に関する認識が大いに違うわけです。NYにいた頃、夕方、子供たちだけを家に残し、ご主人を駅に迎えにいった奥さんが、チャイルド・アビューズ(幼時虐待)で、警察に通報されたという話を聞きました。日本の当たり前が通用しないから気をつけろ、と先輩に言われたものです。欧米社会の特徴でもある個人主義や法治主義が色濃く反映されているとも思います。

日本の場合、稲作文化のなかで強固に培われたコミュニティの結束が影響しているのでしょう。つまり、子供たちは、各家庭で育てられるというよりも、コミュニティ全体で守り、育てるものという認識が、潜在的に共有されていたと思われます。かつて急速に都市化した日本では、農村部のコミュニティ意識が都市部にも持ち込まれていたのでしょう。都市化が進めば、当然、それは失われていきます。1991年には約7万軒あった駄菓子屋が、2016年には1.5万まで減少しているようです。少子化、過疎化、コンビニの誕生、スナック菓子の普及等が、その要因と言われます。加えて、都市化が進み、文化が欧米化されるなか、日本の農村的コミュニティが崩壊したことが、駄菓子屋の減少につながっているものと考えます。(写真出典:ikishuppan.co.jp)

2022年7月30日土曜日

巨済捕虜収容所

巨済島(コジェド)は、朝鮮半島南部に位置します。現在は、巨加大橋で釜山市とつながっています。面積は、種子島よりやや小さい程度ですが、韓国では、済州島に次ぐ大きな島です。古代から、日本と半島をつなぐ海上交通の要衝であり、元の大軍が日本へ出発し、秀吉軍が日本から到着した島でもあります。朝鮮戦争時の1950年9月、劣勢に立った韓国軍を支援すべく、国連軍が仁川上陸作戦を成功させます。韓国南部にまで侵攻していた北朝鮮軍は、挟み撃ちとなり、多くの捕虜が発生します。巨済島には、巨大な捕虜収容所が設置され、最大時、17万6千人が収容されていました。

捕虜は、北朝鮮兵士10万人だけではなく、中共義勇兵2万人、北朝鮮軍に強制徴募された韓国人兵士、北朝鮮軍に協力した韓国民間人の計5万人も収容されていました。まるで朝鮮戦争の縮図が、巨大収容所内に出現したようなものです。当然、捕虜のなかで北と南の対立が発生し、主導権争いが繰り広げられます。空前の規模に加え、ジュネーブ協定も想定していない内部対立と、まさに前代未聞の収容所の管理に、国連軍の主体である米軍は大いに苦慮します。看守の数が、圧倒的に不足していたこともあり、国連軍は、収容所の周囲だけを警備し、内部へは、ほとんど立ち入りませんでした。これが、収容所内の南北対立を過激化させる要因ともなりました。

朝鮮戦争では、同じ民族同士の戦いの特徴でもあるスパイ活動や破壊工作が頻発します。収容所にも、北朝鮮軍司令部から、指示が届くだけでなく、反乱指導者や連絡要員も送り込まれます。捕虜の送還に関するスクリーニングが開始されると、対立は頂点に達します。スクリーニングとは、北に帰りたいか否かという意思を捕虜個々人に問うことです。北朝鮮は、スクリーニング無しで全員帰国を主張します。収容所内で反共側に立っていた捕虜にとって、それは死刑宣告のようなものです。朝鮮戦争の休戦協定は、1953年7月、国連軍、北朝鮮軍、中国軍の間で成立しますが、交渉自体は、1951年から開始されています。交渉が難航した理由は、スターリン、毛沢東、そして韓国の李承晩の反対があったためですが、捕虜の扱いも大きな争点でした。

北朝鮮軍に強制的に協力させられた韓国人捕虜たちが、北への送還を希望しないことは当然です。ただ、なかには、北に協力したことで、もう南に残れないという人たちも少なからずいたようです。一方、韓国国内に収容されていた北朝鮮人・中国人捕虜12万人のうち、相当数が、北への送還を望んでおらず、これが交渉を難しくした面があります。北朝鮮と中国は、国連軍によるスクリーニングが恣意的に行われていると非難します。同時に、北朝鮮軍司令部は、巨済島収容所での反乱も指揮していきます。戦時捕虜の任務は、後方攪乱と言われます。巨済島収容所の場合、反乱は、イデオロギーの違いによる捕虜同士の争いという特殊な側面も持っていたわけです。

ネット上で見る限りですが、巨済島収容所に関する書籍や記録が少ないことに驚かされます。これだけ多くの人が収容され、かつ歴史上例を見ない特殊な状況を考えれば、もっと多くの経験談や研究があってもいいように思います。ただ、何が起きていたかということに関しては、北側、反共側の水掛論に終始する可能性もあり、また、暴露合戦は、あまりにも生々しく、多くの人びとに影響を与える懸念もあります。休戦後、韓国には厳しい反共体制が構築され、一方ではスパイ戦も絶えず、とても収容所に関する話などできる状況ではなかったのかもしれません。(写真出典:britannica.com)

2022年7月29日金曜日

アペリティーヴォ

中世の佇まいを残すフィレンツェは、本当にいい街だと思います。ローマへ家族で旅行した際、ローマ・テルミニ駅近くにアパートを借りたので、朝早くの電車でフィレンツェへ出かけ、まる一日、ウフィツイやドゥオモ観光をし、夜の電車で戻りました。前身がイタリア国鉄というトレニタリアの高速鉄道フレッチャロッサを使えば、ローマ・フィレンツェ間は90分弱。チケットは、ネットで日本からも買うことができ、席も予約できます。やはり事前にチケットを購入しておいたウフィツイ美術館もピッティ宮殿も、すんなり入れて、たっぷり楽しむことができました。

昼食には、ビスティッカ・アラ・フィオレンティーナを堪能しましたが、夕食は、初めて、イタリア名物アペリティーヴォを楽しみ、夕食代わりとしました。アペリティーヴォは、食前酒という意味ですが、プラス料金を払うと、つまみ食べ放題になります。飲み物代だけで、つまみは無料という地域もあるようです。つまみの種類は、街や店によって異なるようですが、ピンチョス・スタイルが多いように思います。プラス料金も店によって区々ですが、おおむね数ユーロといったところです。イタリア人は、夕方にアペリティーヴォを楽しみ、夜9~10時頃から、夕食を食べるわけです。種類豊富なつまみのなかにはパスタ等もあり、日本人にとって、アペリティーヴォは夕食として十分以上だと思います。

アメリカ由来のハッピー・アワーのイタリア版といったところです。酒を割引く代わりに、つまみを無料で、あるいは安く提供するわけです。ハッピー・アワーの語源は、アメリカ海軍にあり、街で広がりを見せたのは1960年代以降と言われます。アペリティーヴォは、ミラノ発祥とも言われますが、時期も含めて、どうもはっきりしません。もともと、世界中の都市部には、仕事終わりに、軽く1~2杯の酒を楽しみ、その後、帰宅するという文化があります。NYでも同じであり、職場の近くの店で、皆、飲んでいます。腰を据えて飲むというよりは、カウンターのあたりで立ち飲みが一般的です。同僚はもとより、近所の会社で働く人たちとも、気軽に交流できます。いい文化だと思いますが、当時の日本人駐在員は、残業が多く、あまり参加していませんでした。

仕事終わりの一杯という文化は、イタリアでも同じです。夕暮れ時のバーは、外にまであふれた客で混み合っています。実にイタリア的な光景です。アメリカのハッピー・アワーで定番の飲み物と言えばビールかウィスキーですが、イタリアでは、ワインが多いように思います。北イタリアに行くと、プロセッコと呼ばれるヴィネト州のスパークリング・ワイン、カンパリ、そしてスプリッツが主流です。スプリッツは、北イタリアを代表するカクテルです。プロセッコに、氷、炭酸水、カンパリかアペロールを加え、オレンジかレモンのスライスを入れます。カンパリを使えば苦味がきいたスプリッツ、アペロールなら色も味もソフトになります。プロセッコの代わりに白ワインを使う場合もありますが、お薦めできません。

いずれにしても、スプリッツは、イタリアの夕暮れ時に、実によくあうカクテルだと思います。それが、イタリア料理好きの日本で、なぜ一般化していないのか不思議です。さるイタリア料理店で聞くと、そもそもプロセッコの生産量が限られ、日本にはあまり入ってこないからだと言っていました。それもそうなのでしょうが、プロセッコは、決して高価なものではありません。日本では、スパーリング・ワインと言えば高価なものなので、高く売れないプロセッコは、輸入業者にとっても、店にとっても好ましい酒ではないのではないでしょうか。いずれにしても、夏場になると、余計にスプリッツが恋しくなります。(写真出典:iiyanitalia.com)

2022年7月28日木曜日

式年遷宮

伊勢神宮の上棟際
神社の式年遷宮は、一定年数毎に、社殿を変えることを指します。古い社殿をリニューアルするのではなく、新たな社殿を建造し、神座を遷します。式年遷宮は伊勢神宮にはじまるとされ、歴史ある他の神社でも行われます。伊勢神宮の式年遷宮は、685年、天武天皇が定め、690年に初めて実施されました。戦国時代の中断もありましたが、2013年の第62回に至るまで、20年毎に行われてきました。ところが、何故、式年遷宮を行うかということについては、何の記録も残っておらず、不明のままだと言われます。 

社殿は古い方が、箔が付くようにも思えます。ただ、確実に老朽化するわけですから、新たな社殿を建造することは理解できます。特に白木作りの伊勢神宮では、それは不可避とも言えるのでしょう。しかし、建屋の老朽化だけが問題なのであれば、他にも選択肢があるように思います。最も理解しやすいのは修繕を重ねる方法ですし、建材に漆を塗る、銅板を貼る等の腐食予防策も考えられます。ところが、あえて新築が選択されているわけです。さらに、式年遷宮は、単に建屋を新築するだけではなく、社殿に収められている御装束、宝物、神具等も、すべて新しく再現されます。式年遷宮の背景には、”常若(とこわか)”という思想があるという説があります。つまり、常に新しい状態こそが、最も清浄であるという考え方です。

伊勢神宮の式年遷宮に関する諸儀式・祭事は、遷宮の9年前から始まります。まずは、建材の伐採に関わる諸儀式から始まります。同時に、御装束を織るための生糸の繰り始め、続いて織り始めの儀式も行われます。その数714種、1576点と言われる神宝類には、漆、鋳金、象眼はじめ、かなり幅広い伝統技術が使われています。その一つひとつが、受け継がれた工法によって、丁寧に、時間をかけて、寸部違わず再現されていきます。奈良・平安時代からの技法が、脈々と受け継がれてきているわけです。”現代の正倉院”と呼ばれる所以でもあります。実は、式年遷宮には、こうした伝統技術の継承というねらいもあったのではないか、という見方もあります。

だとすれば、日本国の礎を築いた天武天皇の慧眼は、まさに驚くべきものだったと言わざるを得ません。壬申の乱を経て、673年に即位した天武天皇は、部族社会とも言えるそれまでの日本を、国家としての体裁を持つ国に変えました。日本、天皇という言葉も、天武天皇時代に生まれています。663年、ヤマト王権は、白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に大敗を喫します。日本は、その勢いをかった唐が攻め込んでくることを恐れました。天武天皇は、防衛拠点の整備はじめ軍備増強、中央集権の強化、官制の整備、永続的な都と副都の建設等、政治・軍事体制の強化に努める一方、伊勢神宮の整備、仏教の国家宗教、記紀の編纂等、文化面でも国としての形を整えていきます。伊勢神宮の式年遷宮も、そうした政策の一環だったと考えられます。

極端な言い方をすれば、日本国は、外圧によって成立したということになります。式年遷宮も、唐の脅威がゆえに始まったと言えば、言い過ぎでしょうか。式年遷宮があった翌年は”御陰年”と呼ばれます。御陰年の参拝は、特に御利益があるとされますが、これも常若思想の現われなのでしょう。江戸期に3度発生した爆発的なお伊勢参りブームは”お陰参り”と呼ばれ、この御陰年に起こっています。2014年の御陰年の3月に、家族でお参りしましたが、大混雑でした。いつも混み合う伊勢神宮ですが、今でも、御陰年は、一層混み合うようです。(写真出典:shikoku-np.co.jp)

2022年7月27日水曜日

豆かん

梅むらの豆かん
浅草の「舟和」といえば、なんと言っても芋羊羹ということになります。芋羊羹は、舟和が発祥の店です。1902年、芋問屋だった創業者の小林和助が、当時、高価だった練羊羹を、安価に多くの人に食べてもらおうと、芋を材料に作りあげました。売り物にならない芋の活用というエコな発想もあったようです。 芋羊羹の共同開発者であった石川定吉が船橋の出身者であったことから舟、自分の名前から和をとって、舟和という店名が生まれたと聞きます。実は、翌1903年、舟和はもう一つの大発明をしています。”みつ豆”です。上新粉で練った舟に赤エンドウ豆と蜜を入れた江戸期の駄菓子がヒントになったようです。

みつ豆は、賽の目状の寒天、茹でた赤エンドウマメ、求肥、干し杏子、シロップ漬けのミカン等に黒蜜をかけたものです。舟和は、これを銀の器に盛り付け、銀のスプーンを添えて出しました。大人の甘味を目指したと言われます。当時、流行していたビアホールやミルクホールの向こうを張って”みつ豆ホール”と称した店舗で売り始めたそうです。みつ豆に餡子をのせた“あんみつ”は、1930年に、銀座の「若松」が考案したとされます。その後、様々なヴァリエーションが登場します。アイスクリームをのせたもの、白玉団子を入れたもの、カットしたフルーツをのせたもの、あるいは、それらを組み合わせたものなどがあります。

店による味の違いは、黒蜜と赤エンドウマメで決まります。寒天やその他の食材に大きな味の違いはありません。そこで登場するのが”豆かん”、つまり豆かんてんです。赤エンドウマメ、寒天、黒蜜というシンプルさは、味に自信がなければ出せない代物です。野球で言えば、剛速球といった風情です。1968年、浅草の観音裏に開店した「梅むら」が考案したとされます。豆かんも、甘味処の定番メニューですが、やはり「梅むら」の赤エンドウマメが最上だと思います。厳選した豆は、黒光りする色合い、塩味と甘みのバランス、ほどよい歯ごたえが絶妙な炊き上がりです。「梅むら」最大の問題は、観音裏まで行かないと食べられないことです。

なかなか浅草まで出向く機会も少なく、豆かんが食べたくなると、舟和のお土産を利用しています。暑い日が続くと、冷やした豆かんは格別美味しく感じます。それは、間違いなく寒天の食感ゆえだと思います。寒天は、17世紀の日本が発祥とされます。諸説ありますが、伏見の宿屋美濃太郎左衛門が、戸外に放置し凍ったトコロテンを見て発見したとされます。寒天という絶妙な命名をしたのは、中国から渡ってきて黄檗山萬福寺を創建した隠元禅師だと言われます。海外でも凝固剤として活用され、戦前は、日本の主要輸出品だったとも聞きます。ほとんどカロリーがないことから、現在は、健康食品にも多く使われるようです。

観音裏は、吉原と浅草寺の間に位置し、かつては色町として賑わったものだそうです。1958年の売春禁止法以来は、寂れる一方の街でした。かつて、梅むらへ行くと、周囲には、他の街とは明らかに異なるムードが漂っていたものです。以前から、おにぎりの宿六、釜飯のむつみ、大学芋の千葉屋等の有名店もありましたが、近年は、おしゃれな店が増え、人気スポットになりつつあるようです。かつてほどの賑わいはないとは言え、東京を代表する歓楽街浅草の底力は、なかなか侮れないものがあるわけです。(写真出典:otonano-shumatsu.com)

2022年7月26日火曜日

フーダニット


推理小説、ないしはミステリ小説の始まりとされるのは、1841年にエドガー・アラン・ポーが発表した「モルグ街の殺人」だとされます。1887年には、アーサー・コナン・ドイルが、「緋色の研究」で、後に最も有名な探偵となるシャーロック・ホームズを登場させます。20世紀に入ると、それまで短編中心だったミステリ界は、長編が主力になっていきます。そのなかで、1920年代以降、ミステリは、本格長編の黄金時代を迎えます。そのブームを牽引したのが、英国のアガサ・クリスティ、ドロシー・L・セイヤーズ等々であり、米国では、S.S.ヴァン・ダイン、エラリー・クイン等でした。

黄金時代を牽引したのは、”フーダニット(Who done it)”と呼ばれる本格謎解きスタイルでした。フーダニットは、まるでパズルのようなプロットや構成が特徴であり、読者も謎解きに挑戦するといった風情が人気を集めます。小説の構成は、表裏一体となった二重構造であり、表側では探偵による捜査が読者に語られ、一方、裏側には、探偵と読者が知らない真実が存在します。表側には、裏側の真実を示唆する伏線が張られます。また、犯人と疑われるような登場人物を多く配置し、探偵によるミス・ディレクションも織り込むなど、読者を真実から遠ざける仕組みも使われます。いずれにしても、最終的には、探偵が関係者を集めて、解き明かした真実を伝えます。いわゆる大団円です。

パズル的なフーダニットでは、閉鎖的なロケーションが望ましく、田園にある貴族の屋敷、保養地の島、列車や船、そして密室等が舞台とされます。また、パズルを小説化するためには、多彩で魅力的な登場人物、大時代的なしつらえ、ペダントリーといったデコレーション等に加え、個性的な探偵が必要となります。S.S.ヴァン・ダインのファイロ・ヴァンス、エラリー・クインのエラリー・クイン、フリーマン・ウィルス・クロフツのフレンチ警部、アール・デア・ビガーズのチャーリー・チャン、E・S・ガードナーのペリー・メイスン、アガサ・クリスティのミス・マープル等々、枚挙に暇がありません。フーダニットは、名探偵ものとも言えます。

なかでも、シャーロック・ホームズ以降で最も有名な探偵と言えば、アガサ・クリスティのエルキュール・ポアロということになります。ベルギー人の小男、なでつけた黒髪、八の字髭といった、どこかコミカルな風情の名探偵です。ポアロの際だった特徴は、捜査対象者との会話から、その人となり、心理状況、隠された嘘等を明らかにしていく洞察力です。その能力を、ポアロは「灰色の脳細胞」と呼びます。外国人であること、背が低いこと、コミカルな風体であることが、捜査対象者の油断を引き出す面もあります。1920年の「スタイルズ荘の怪事件」に始まり、長編33編、短編50編という驚異的な作品数を誇ります。「オリエント急行の殺人」、「アクロイド殺し」、「ABC殺人事件」、「ナイルに死す」等が有名です。

本質がパズルであるフーダニットは、斬新なプロットの発想にも限界があり、様式的になりがちな面もあり、マンネリ化します。フーダニットの”Who”は、“How”に、そして”Why”へと展開し、それが、そのままミステリの進化につながります。また、黄金時代には、大衆的な読物雑誌から、ダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラー等が登場し、ハードボイルドが生まれています。探偵は、書斎ではなくストリートに身を置き、より社会的、より心情的なテーマに取り組みます。チャンドラーのフィリップ・マーロウは、ハードボイルドの代名詞でもあります。ポアロの後継者よりも、フィリップ・マーロウの後継者の方が数は多いと思います。ハードボイルドの読者は、疲弊した社会、募る孤独感にリアリティや共感を覚え、人と人との絆にかすかな希望を託すセンチメンタリズムに惹かれるわけです。(写真:アルバート・フィニー演じるポアロ 出典:amazon.co.jp)

2022年7月25日月曜日

行列の文化

学生の頃、1年間に渡るインド放浪の旅から帰ってきた先輩に聞いた話です。映画好きなインド人は、夕方になると映画館の前にたくさん集まる。切符売り場がオープンすると、皆、そこを目がけて殺到する。インド人は、行列が作れない民族だ、と言うのです。30年前、北京で地下鉄に乗ろうとした時のことです。切符の自販機などはなくて、ネズミの穴のようなところへお金を出すと、係の人が切符を出してくれる方式でした。私が、お金を出そうとしていると、バスが着いたようで、大勢の人が切符売り場に殺到し、お金を握った無数の手がネズミの穴目がけて出されました。私は、もみくちゃになり、結局、切符が買えたのは、騒ぎが収まってからでした。

東日本大震災のおり、一切暴動も起きず、支援物資や水を手にいれるために、粛々と行列を作る日本人が、世界中から注目されました。日本に来た外国の人たち、特にアジア各国の人たちは、日本人が、そこここで整然と行列を作っている光景に驚くようです。先進国と発展途上国の民度の違いだという説もありますが、どうも日本だけが極端な行列の文化を持っているようです。他国では、行列ができたとしても、割り込む人が後を絶たないとも聞きます。 儒教の影響や道徳観の違いとも言われますが、どうもピンときません。外国人が、良く言うのは教育の問題です。日本では、幼稚園の頃から、行列の文化がたたき込まれるが、他国には、そのような教育は存在しないというわけです。

そこで気になるのが、江戸時代以前の行列事情です。江戸時代の行列と言えば、まずは参勤交代の大名行列ということになります。大名がその威信を示し、競い合うという面もあったのでしょうし、対内的には身分の上下を明らかにする意味もあったのでしょう。また、祭礼における行列も珍しくありません。これも大名行列と同様の意味合いだったのでしょう。ただ、一方で、庶民が、何かを手に入れるために行列するというイメージは、まったくありません。例えば、浮世絵や落語のなかで、庶民が行列する姿は、見たことも、聞いたこともありません。人が少なかったとも言えますが、100万都市江戸は人であふれていたはずです。江戸期に、行列の文化がなかったとすれば、やはり教育に起因するという説が有力になります。

1872年、明治5年に“学制”が公布され、日本の国民教育がスタートします。その3年後、小学校の数は、既に2万4千を超えていたようです。その早い普及の背景には、寺子屋の存在があったのでしょう。1886年には、義務教育制が布かれています。明治政府による教育体制は、富国強兵の一環として整備されたものです。軍服調の学生服など象徴的です。”体育”という教科名は、戦後、GHQの指示で定められたものです。明治期には”体術”、”体操”と呼ばれ、良き兵士を育てる礎とされました。そして、戦時下にあっては、よりストレートに”体錬”と呼ばれることになり、教練・体操・武道を教育内容としました。いずれにしても、戦前までの体育教育は、軍隊式だったと言うことができます。恐らく日本の行列の文化は、そこで形成されたのではないかと思います。

コロナ禍のなか、世界中で、PCR検査、ワクチン接種を受けるために、長蛇の行列を作っている姿が見られました。ただ、世界中が行列文化を持つようになったわけではないのでしょう。当局によって統制、強制された行列です。コロナに関しては、官に頼らざるを得ない状況があります。行列には、官との関係という側面があるように思えました。つまり、行列とは、社会統制の浸透度の現われであり、官に対する従順さが、行列の文化の根底にあるようにも思えます。日本の行列文化は、明治以降の軍国主義の産物というだけでなく、長きに渡った江戸時代、日本人に染みこんだ”お上”には逆らえないという精神風土が、深く関係しているのかも知れません。(写真出典:shinbashi.keizai.biz)

2022年7月24日日曜日

カサブランカ

アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)は、映画製作者の教育、アメリカ映画の顕彰を目的とする団体です。そのAFIが、2005年に、アメリカ映画の名セリフ・ベスト100を選出しています。1,500人以上の映画人が投票した結果だと言います。第1位に輝いたのは、「風と共に去りぬ」(1939)のなかから、クラーク・ゲイブル演じるレッット・バトラーの”Frankly, my dear, I don't give a damn.(正直なところ、俺の知ったことじゃない)”というセリフでした。映画終盤、スカーレットに愛想を尽かしたレットのセリフです。映画を象徴するセリフではありますが、それ以上に、アメリカ人にとって「風と共に去りぬ」がいかに大事な映画であるかを示しているとも言えます。

1位は逃したものの、ベスト100のなかに6つも名セリフが選ばれた映画があります。「カサブランカ」(1942)です。第5位には、カサブランカの代名詞とも言える”Here's looking at you, kid.(君の瞳に乾杯)”が選ばれてます。ハンフリー・ボガート演じるリックが、イングリッド・バーグマン演じるイルザに幾度も語りかけます。かつてパリで愛し合った二人でしたが、イルザは理由を告げずに去ります。そしてカサブランカのリックの店で、二人は再会します。イルザには、夫がおり、政治的事情を抱えています。しかし、再会した二人の愛は消えてはいませんでした。二人の変わらぬ愛を象徴するセリフです。カサブランカは、脚本の見事さ、名セリフの多さで知られます。ただ、私のお気に入りのセリフは、ベスト100番外でした。

「昨夜はどこにいたの?」と愛人に聞かれたリックは「そんな昔のことは覚えていない」と答えます。重ねて女性が「今夜、会える?」と聞くと、リックは「そんな先のことは分からない」と答えます。なんともしゃれたセリフです。ダンディなボガートにピッタリのセリフです。カサブランカは、ラブ・ロマンスではありますが、欧州の戦争が色濃く反映され、スパイ・サスペンスの要素、反ナチ・プロパガンダの要素も、たっぷり盛り込まれています。テンポよく、流れるように展開する映画には、象徴的なシーンや名セリフが多く散りばめられています。また、カサブランカというエキゾチックなロケーションが、ドラマ全体のムードを支えていると思います。エキゾチックな街では、なんでも起こるのです。

カサブランカは、映画ファンなら、一度は訪れたい街です。私も、40年前に、一度訪れました。白い家という意味のカサブランカは、モロッコ最大の都市です。商業・金融の中心地であり、活気あふれる近代都市です。近代化は、都市の個性を奪います。経済都市では、その傾向が一層強くなります。上海しかり、バルセロナしかりです。メディナと呼ばれる旧市街は面白かったのですが、リックの店があるわけでもなく、イルザが歩いているわけでもなく、やや印象の薄い街でした。それもそのはず、映画カサブランカは、すべてハリウッドで撮影されました。カサブランカで、最も楽しかったのは、マラケシュへの遠出でした。乾燥地帯をアトラス山脈に向かって片道3時間という道のりでしたが、たっぷりとエキゾティシズムを楽しむことができました。

モロッコ・ロケは行っていませんが、映画カサブランカは、スタッフにもキャストにも欧州人材を多用して撮られました。バーグマンがそうですし、監督のマイケル・カーティスはハンガリー人です。そのせいか、カサブランカの英語は、とてもシンプルで癖がないと言われます。しばしば英語教育の教材にも使われています。映画の名セリフとは、映画の世界観や登場人物の心象風景が、ごく短い言葉のなかに詰まっているものだと思います。その際、使われる言葉は、よりシンプルな方が、インパクトが強いように思います。そういう意味でも、カサブランカが、名セリフの宝庫であることは当然なのかも知れません。(写真出典:movies.yahoo.co.jp)

2022年7月23日土曜日

醍醐味

再現された蘇
江戸期まで、日本人があまり肉食をしなかった理由は、仏教の教えによるものと言われています。仏教によって国を治めようとした飛鳥時代、天武天皇は、日本初となる殺生禁止令を出しています。もちろん、仏教の殺生戒に基づくわけですが、具体的に禁止されたのは牛・馬・犬・猿・鶏だけであり、しかも農繁期に限ってという禁令でした。当時、イノシシや鹿は食用とされていましたが、対象から外されています。その後も、何度か殺生禁止令が出され、野鳥類以外の肉食は禁じられていくことになります。ただ、魚は、当初から殺生禁止令の対象ではありませんでした。もちろん、仏教的に言えば、全ての生き物が殺生戒の対象です。

つまり、日本の殺生禁止令は、始めから努力目標的であり、至って形式的なものだったわけです。仏教を国家宗教としたことにより、体裁を保つ必要もあったのでしょう。にもかかわらず、そこそこ定着していったということは、驚くべきことではないかと思えます。常に魚類が除外されていることも含め、結構、緩い禁止令がゆえに定着したのかも知れません。そこで、さらに不思議な展開を見せるのが、牛乳や乳製品だと思います。まず、牛乳は生き物ではありません。お釈迦様も飲んでおり、仏典にも記載があります。平安期までは、日本の貴族たちを中心に、牛乳は飲まれ、乳製品も食べられていました。ところが、そこから明治期にいたるまでの長い間、牛乳は飲まれていません。

その理由も、仏教の影響と言われています。ただ、仏教の殺傷戒とは関係ありません。大般涅槃経には「牛より乳を出し、乳より酪を出し、酪より生酥を出し、生酥より熟酥を出し、熟酥より醍醐を出す、醍醐は最上なり」という、いわゆる五味の記述があります。ここから”醍醐味”という言葉が生まれます。製法が失われているので、確かな事は分からないようですが、おおよそ、酪はヨーグルト、生酥(なまそ)はクリーム、熟酥はバターとされているようです。よく分からないのが醍醐になります。醍醐は、濃厚で、甘味があるという文献もあるようです。バターミルクという説もありますが、むしろ、熟酥はチースに近く、熟酥を熟成したものが醍醐と考える方が自然ではないかと思えます。ただ、チーズに近い蘇は加熱せず、酥は加熱したものという説もあります。

日本の牛乳事始めについては、7世紀半ば、百済から来た善那が、孝徳天皇に牛乳を献上したという記録があるようです。8世紀に入ると、酪農が文献に確認され、10世紀の「延喜式」にも乳製品の記載があります。平安期が終わると、貴族が好んだ乳製品は姿を消します。16世紀になると、宣教師や南蛮人によって再登場することになりますが、禁教令で、これも途絶えます。将軍吉宗が、馬の薬用に使ったという記録はあるものの、牛乳の一般化は、明治まで待たなければなりませんでした。1871年、明治天皇が、日に2杯の牛乳を飲むという新聞記事が出て、一気に普及していったようです。牛乳を飲む習慣が途絶えた理由は、仏教とは無関係であり、時代的に言えば、武家政権の成立と関係がありそうです。

要するに、武家によって軍馬が重宝され、牛の飼育そのものが少なくなったということなのでしょう。鎌倉以降、人荷を運ぶのも、田畑を耕すのも、牛から馬主体に変わったようです。なお、鶏卵の歴史も興味深いものがあります。鶏卵は生き物ですから、殺生戒の対象です。ところが、16世紀、南蛮渡来のカステラが人気を博すと、鶏卵は、生き物ではないという都合のいい解釈が広がったようです。栄養価の高さから珍重され、江戸期には、卵売りまで登場しています。高価だった鶏卵が、一般家庭に普及したのは、1950年代後半からだったようです。日本には、何でも仏教の影響と整理する傾向があります。確かに仏教が日本の文化の根底にあることは事実ですが、敬虔な仏教国とまでは言えないわけです。(写真出典:withnews.jp)

2022年7月22日金曜日

アンコール・ワットの夜明け

シェムリアップへ行く目的はただ一つ、アンコール・ワットを見ることです。アンコール・ワットへ行ったなら、欠かすべきではないただ一つのことは、夜明けのアンコール・ワットを見ることです。暗いうちから、アンコール・ワットには人が詰めかけ、リフレクティング・プール前は大混雑になります。席があるわけではないので、皆が立ったまま、夜が開け、朝日が差すのを待ちます。朝焼けが始まり、紅に染まった空にアンコール・ワットのシルエットが浮かぶと、感嘆のどよめきが広がり、シャッター音がしきりと響き、なかには手を合わせる人、感動のあまり涙ぐむ人までいます。富士山頂で拝むご来光と同じなのでしょう。

9世紀に成立し、インドシナ半島のほぼ全域を支配下においたクメール王朝は、15世紀、最後の首都となったアンコール・トムがアユタヤ朝に攻められ、滅亡します。クメール族は、ヒンドゥーを信仰していました。クメールの王たちは、即位のおり、そして慶事の都度、ヒンドゥー寺院を建てる習わしがあったと言います。結果、アンコール・ワット周辺には、大小、千を超える寺院があったとされます。なかでも最大の規模を誇るのが、12世紀、スーリヤヴァルマン2世が30年をかけて建設したアンコール・ワットです。その後、カンボジア王国時代には仏教寺院へと改修され、現在に至ります。アンコール・ワットは、広大なカンボジア平原を支配したクメール王朝の絶大な権力を、今もまざまざと見せつけています。

17世紀初めに、初めてアンコール・ワットを見た日本人は、これを祇園精舎だと思ったようです。四角い壕に囲まれた広大な敷地に、正方形の回廊が三層に連なり、中央の高い塔とそれを囲む4つの塔を持つ寺院は、確かに立体曼荼羅のようにも見えます。江戸幕府の海外渡航禁止令が出るまでの間に、多くの日本人が参拝に訪れたようです。当時の日本人による落書きが、今も壁に残されています。落書きは、各国の言葉で書かれており、アジア中から人が訪れていたことを示しています。大いに栄えたクメールですが、王権を巡る争い、ヒンドゥーと仏教との争いによって弱体化し、加えて寺院の建設ラッシュが財政を圧迫し、500年以上に渡ってインドシナを支配した王朝も、ついに新興のスコタイに敗れます。

アンコール遺跡には、長い間、うち捨てられてきた寺院等も多く、映画の撮影にもよく使われるタ・プローム等では、ガジュマルの木が寺院を覆っています。ただ、アンコール・ワットは、信仰を集めてきただけに、比較的保存状態はいいとされます。フランス統治下に入ると、本格的な修復が始まり、途中、内戦による被害もありましたが、1995年には、遺跡保存のためにアプサラ機構が立ち上げられ、世界中が修復に協力しています。まさに世界遺産というわけです。2019年には、世界中から660万人がアンコール・ワットを訪れたようです。シェムリアップの街も発展しつつありますが、まだまだ観光需要に追いついていない状況です。

近年、シェムリアップを訪れる中国人が急増しました。中国人は、中国の飛行機でやってきて、中国人が働く中国資本のホテルやレストランばかりを利用し、急増した中国人ガイドのみ雇うと聞きました。現地ガイドは、中国人は、一切、シェムリアップの街にお金を落としていないと怒っていました。強権政治の手を緩めないフン・セン首相の中国依存は、強まる一方です。アンコール・ワットを訪れる人は、この先もどんどん増えることは間違いないでしょうが、シェムリアップの主要通貨が人民元となり、主要言語がマンダリンになったとしても、さして驚きません。(写真出典:rtrp.jp)

2022年7月21日木曜日

エルピス

NHKのさるバラエティ番組で、アナウンサーから、今年の抱負を聞かれたタモリは、やや怒気を含んだ声で「抱負?70を超えた人間に抱負なんか聞いちゃいけませんよ!」と返していました。思わず吹き出してしまいましたが、なかなか深い言葉だとも思いました。60歳代後半も、立派な老人ですが、さすがに70歳を超えると、本格的に「老境に入れリ」といった印象があります。70歳は古希の祝いとされますが、杜甫の詩の一節「人生七十古来稀なり」に由来します。私も数年後に70歳を迎えます。決して希ではなくなったものの、やはり70歳は大きな節目だと思います。

聖路加病院の日野原先生が、生前、自ら経営するホスピスに関する取材を受け、最も困る患者さんは死を受け入れることができない人だと語っていました。70歳を超えれば、これから何かを成してやろうというよりも、全てを受け入れるという構えになるものなのでしょう。もちろん、そのなかには、死も含まれます。日々の目標のようなものはあったにしても、確かに抱負というのは違和感があります。若い頃は、希望が大きなモチベーションとなり、絶望は耐えがたいものです。70歳を超えると、希望も絶望も等しく、フラットに受け入れることができるようになる、と言えるかも知れません。

パンドラは、ゼウスから、箱を贈られますが、決して開けてはならぬ、とも言われます。しかし、好奇心にかられたパンドラは、箱を開けてしまいます。すると、人間にとってのありとあらゆる災いが飛び出し、世界に拡散します。ただ、箱の中には、一つ残っていたものがありました。それがエルピスです。パンドラは、それに気づかず、箱を閉めてしまいます。古代ギリシャ語のエルピスは、予兆、期待、希望等と訳されるようです。世の中は災いに満ちたが、人間の手元には希望が残された、という理解がごく一般的なのだろうと思われます。しかし、果たして、そうなのでしょうか。さほど単純な話でもないように思えます。

プロメテウスが人間に火を与えたことに怒ったゼウスは、人間に災いをもたらそうとします。そこで、人間初の女性パンドラを泥から作らせ、箱を持たせて、人間界に送り込みます。ゼウスの意図からすれば、エルピスも災いの種の一種と考えて当然だと思います。では、なぜエルピスだけが箱に残され、かつパンドラによって閉じ込められたのでしょうか。エルピスは、他の災いとは大いに異なる特徴があります。直接的ではなく、じっくりと内面から災いをもたらすという点です。つまり、希望は必ずしも叶うものではなく、希望を抱くことは、むしろ大きな絶望を生み出す遅効性の爆弾とも考えられるわけです。エルピスは、ゼウスが考えた最も厳しい災いだったのかも知れません。

パンドラの話は、紀元前7世紀に吟遊詩人ヘシオドスが記述したものが初出とされます。ヘシオドスは、エルピスが意味するものを解説していません。よって、エルピスの解釈を巡る議論は、古代から現代に至るまで続くことになりました。ただ、ヘシオドスは、パンドラの話の最後に「かくてゼウスの御心からは逃れがたし」と書いています。ヘシオドスは農民でしたが、相続を巡る不正な裁判に敗れ、土地を失います。絶望したヘシオドスは、旅に出て、吟遊詩人になりました。ヘシオドスが、何歳の時にパンドラの話を書いたのかは定かではありませんが、老境に入ってからのことだと想像できます。エルピスが、人に生きる力を与えるものだとしても、同時に絶望をもたらす面があることも十分に心得ている年齢だったのでしょう。(写真:ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス「パンドラ」出典:musey.net)

2022年7月20日水曜日

ペンション

清里のペンション
後にも先にも、たった一度だけペンションを利用したことがあります。1980年代、八ヶ岳の清里を中心にペンション・ブームが起きました。洋風の小規模宿泊施設ですが、目新しいカテゴリーでした。1976年にTBSで放送された「高原へいらっしゃい」というドラマがきっかけだとされますが、実際のところは、アンアン、ノンノといった女性雑誌が作ったブームです。とにかく大ブームでした。どんなものなのか、興味津々で、一度試してみたいと思いました。当時、札幌に住んでいたので、富良野のペンションに泊りに行きました。スキー場近くの、ログ・ハウス風のペンションでした。結果的に言うと、二度とペンションには泊まるまいと思いました。 

理由は二つあります。一つは、部屋にTVがないこと。自然を楽しんで下さい、ということなのでしょう。ネットがない時代、情報が遮断されるのは耐えがたいものがありました。また、夜も退屈至極なものになりました。二つ目は、なかば宿泊客の交流を強要するような運営です。とても嫌な感じでした。多少おしゃれになっているものの、要はユース・ホステルじゃないか、と思いました。ユース・ホステルを否定するものではありませんが、ご亭主がギターを弾き、みんなで歌いましょうといった空気が、民主青年同盟のサークルを思わせ、気持ち悪いものがあります。泊まったペンションでは、夕食後、宿泊客が集められ、自己紹介させられ、ギターと歌が始まりました。それはそれは耐えがたいものがあり、中座させてもらいました。

そんなペンションばかりではないのでしょうが、とにかくがっかりでした。そもそもペンションという呼称も、かなり不思議な代物です。ペンションと言えば、英語では年金のことです。年金暮らしの老人が営む小さな宿というところから、ペンションと呼ばれるようになったようです。ドイツ、イタリア、スペインあたりで一般化したようです。英米のB&B(Bed and Breakfast)、つまり朝食付き民泊に近いものがあります。日本でのブームを作った女性雑誌的には、格安民泊を紹介するということではなく、なんとなくおしゃれな宿が新しいということだったのでしょう。ペンションの写真写りの良さも、まさに雑誌向けでした。最近のエアB&Bの写真の多さに比べ、当時のペンションの写真は、ごく一部の写真映えするところだけ使っていました。

清里に行ったことはありませんが、最盛期の駅前の映像を見ると、まるで渋谷のスクランブル交差点状態でした。ブームが去り、清里は廃墟のようになったと聞きます。ブームとは罪なものです。インスタント・マネーをねらって開業した適当な宿ほど、早く撤退するのでしょう。美しい自然のなかで、息の長いペンション経営を夢見た人たちもいたはずです。なかには、東京での生活を精算して、移住してきた経営者もいたと思います。そういう人たちにとっては、ブームが去ったことは幸いなのかも知れません。ペンションは、リピーター・ビジネスのように思います。いわば田舎の親戚みたいなものです。また、ガーデニングやペットといった趣味を持つ人が集う場所、あるいはオーベルジュ的に食事をメインにするペンションもあるのでしょう。

今は、エアB&Bが世界を席巻しています。エアBは、食事が無くて、部屋だけ貸すイメージです。英米のB&Bは、朝食付きのホームステイのようなものですが、現在、特にアメリカのB&Bは、エアBに押されて減少しているものと想像できます。日本のペンションも、往時に比べたら減っていると思います。2019年のデータに依れば、旅行客の宿泊先のなかで、民宿・ペンション・ロッジというカテゴリーの利用者は、4.2%に留まっています。ただ、箱が小さいわりには、健闘している数字のようにも思えます。ちなみに、このカテゴリーを利用する人が多い都道府県は、長野、茨城、山梨だそうです。最も少ない県は福井です。そもそも施設が極端に少ないということなのでしょう。(写真出典:jtb.co.jp)

2022年7月19日火曜日

言文一致

二葉亭四迷
京都の人たちは、日本語が上手いな、と思わされることがあります。そう思う理由は、語彙の豊富さにあります。京言葉が持つ語彙の奥深さもありますが、知ってはいても使うことがほぼ無いような言葉がスンナリと出てくることがあります。さすがに都の人は違うものだと関心します。対して、TVで見かける若い人たちの語彙の貧弱さは驚くべきものがあります。何でも、ヤバっ、かわいい、と言って済ませる傾向があります。それを”国語の乱れ”という人たちも多くいます。ただ、それは乱れではなく変化であり、時代とともに変わるのが言葉だとすれば、至って自然なことなのかも知れません。

昨今の語彙の変化は、流行語、外来語、新語、専門用語等による、という説もあります。そのとおりでしょうが、それが時代の変化なのだと思います。ただ、新しい言葉が生まれる一方で、語彙全体が減少している傾向もあるように思えます。では、江戸時代、長屋の熊さんや八っあんの方が、より豊かな語彙を駆使していたかと言えば、そうでもなさそうです。要は教育や教養の問題でもあり、言葉は、時代の移り変わりとともに、コミュニティのあり方によっても、大きく変化するわけです。とは言え、語彙が少なくなってきたのは事実だと思います。そして、それは書き言葉、つまり文語が非日常的になったことが最大の原因だと思います。

明治の言文一致運動は、言葉を民主化した大革命であったものの、一方では、平安から続く文体のみならず、多くの美しい言葉も失わせたとも言えるのでしょう。言文一致とは、言葉を変える運動ではなく、文章を口語体で書くという運動です。私は、能・狂言をよく観ますが、口語で語られる狂言を理解するのに、字幕の必要はありません。もちろん、室町期の言葉には、耳慣れない言葉や使い方もありますが、意味不明ということはありません。対して、能楽で使われる文語体の謡には、字幕を必要とすることが多くあります。文語は、そもそも渡来文化の漢字で構成されており、その誕生の時から口語とはまったく異なり、いわば外国語だったわけです。

言文一致の動きは国文学の世界からはじまり、物集高見が「言文一致」(1886)において、啓蒙的観点から、その重要性を説きます。その後、言論界に広がり、文学界からは、写実主義の影響を受けた二葉亭四迷の「浮雲」(1887)、あるいは山田美妙の「武蔵野」(1887)が発表されます。二葉亭四迷は、言文一致体で執筆するにあたり、初代三遊亭圓朝の口座筆記を参考にしたとされます。言文一致は画期的でしたが、一気に広がったというわけではなく、行きつ戻りつしながら、普及していったようです。官界や軍部、特に法曹界では、言文一致など、全く論外だったようです。結局、言文一致が完成されるのは、敗戦後だったと言います。さほど昔の話でもなかったわけです。

戦前までの日本の体制が否定され、いわゆる民主化が進み、アメリカ文化が大量に流れ込んだ混乱の時代に、言文一致が完成されたことは興味深いと思います。ある意味、外圧によって言文一致が進んだとも言えるのではないでしょうか。GHQによる国粋主義の否定は理解できるとしても、その際、文語に根ざした語彙や表現までもが否定されたという面もあったように思えます。そのことが、端的に表れているのが、教科書だったと思われます。今更悔やんでもしょうがないのですが、誠に残念なことだったと思います。。ただ、近年の俳句ブームなどは好ましいことだと思いますし、時代劇なども、妙に現代的な言葉使いにせず、あえて往時の言葉を使うようにすることで、多少なりとも失った文化を回復できるのではないでしょうか。(写真出典:web-trans.jp)

2022年7月18日月曜日

サウナ

近年、サウナが空前のブームに入っているようです。古参サウナ・ファンとしては、同慶の至りといったところです。このブームは、第3次ブームとも言われます。第1次ブームは、1960年代後半に始まり、70年代初めのオイル・ショックとともに終わっています。64年の東京オリンピックの際、フィンランド選手団が選手村にサウナを持ち込んだことがきっかけになったようです。当時、家庭内の風呂の増加とともに劣勢となった銭湯が、サウナを設置して起死回生を図ったという背景もあるようです。一旦、ブームはピークアウトしたとは言え、確実にサウナ・ファンは増えており、各地にサウナ施設はしぶとく残っていました。

私が、サウナに通い始めたのは80年代半ばからですが、サウナ施設は多くはなかったものの、探すのに苦労はありませんでした。決して安くはありませんでしたが、仕事の疲れが解消されるような気がして、よく使いました。1990年代、バブル崩壊とともに、第2次ブームが起こります。いわゆる“安・近・短”と言われた手近な行楽が人気となり、スーパー銭湯や日帰り温泉といった温浴施設がブームとなります。スーパー銭湯は、単なる銭湯ではなく、大型施設のなかに、趣向を凝らした多くの湯船、レストラン、休憩室、理髪店、マッサージ店等があります。そして、サウナも、必須と言える設備だったわけです。

一方で、サウナ専用施設は、若干、減少したように思います。スーパー銭湯が増え、サウナはじめ、その他の設備も安価に利用できるわけですから、当然の流れでした。ただ、サウナ・ファンが増えたとも、減ったとも言いかねる状態が続いたと言えます。それが、ここのところの第3次ブームで、サウナ専用施設も増え、自宅や野外用のサウナ設備まで売れるようになりました。”ととのう”、”サ道”、”ロウリュウ”、”熱波師”などと言った言葉が、頻繁にマスコミに登場しています。健康指向の高まりの一環なのかも知れませんが、どうも何がブームのきっかけになったのか分かりません。一つ言えることは、若いファンがブームを支えているということです。サウナに馴染みの薄かった若者たちが、その魅力を発見したということなのでしょう。

サウナは、フィンランド発祥と言われますが、蒸し風呂自体は、古代から世界中に存在していました。むしろ、風呂と言えば蒸し風呂が永らく主流だったとも言えます。近年、日本を含め、多くの国で、サウナと言えばフィンランド式サウナが大半を占めていることも事実です。フィンランド式とは、ストーブの上に石を積み重ね、サウナ室を熱します。その石に水をかけて水蒸気を発生させるロウリュウも特徴の一つです。設備に加え、サウナから出て、水風呂などで急速に体を冷やすこともフィンランド式です。サウナの効用は、血行促進につきます。副次的効果としては、代謝促進や気分転換もあります。つまり、その効用は、温浴と同じです。ただ、天然温泉は別として、大量のお湯を準備するより効率的だと言えるのでしょう。フィンランドなど北極圏では、なおさらと言えます。

サウナと温浴の効果は同じだとしても、受ける印象は相当に違います。一番の違いは、汗のかき方だと思います。温浴では、穏やかに体を温めていきますが、サウナでは、入った途端に大量の汗が噴き出します。強制的に汗を排出することで、体中の悪いものが押し出されるような印象を受けます。いわゆるデトックス効果です。さらに水風呂が体を引き締めるような印象もあります。これがサウナの醍醐味と言えます。ただ、科学的には、デトックス効果も引き締め効果も、ほぼゼロだと聞きます。それが事実であれば、血行促進以外のサウナの効用は、気分的なものだということになります。つまり”ととのう”ことこそが、サウナの醍醐味だというわけです。(写真出典:myvirtualworldtrip.com)

2022年7月17日日曜日

藪知らず

市川市役所の千葉街道を挟んだはす向かいにある「八幡の藪知らず」は、孟宗竹等が生い茂る100坪ばかりの森です。古くから、禁忌地、あるいは禁足地とされ、足を踏み入れると二度と出てこれない、とされています。現在も、冊に囲まれ、立ち入り禁止となっています。柵の外側には、小さな社も置かれています。本八幡駅も近く、人通りも車の通りも多い場所に禁忌地が残っていることは珍しく、それだけに一層異様な印象を受けます。江戸期から有名だったようで、「八幡の藪知らず」は、出口が分からないこと、迷うことの例えとして広辞苑にも掲載されています。

「八幡の藪知らず」の起源については、江戸期の多くの文献に記載があり、いくつかの説が残されています。日本武尊(やまとたけるのみこと)の陣所跡であり、神聖な場所とされた。藪知らずの北には9世紀創建とされる葛飾八幡宮があり、石清水八幡宮から勧請された最初の場所ゆえ神聖な地とされた。10世紀、新皇を自称し、朝敵となった平将門が朝廷軍と戦った際の鬼門であった。平貞盛が将門を討伐した際、妖術をもって八門遁甲の陣を敷き、ここを将門の死門とした。また、将門の墓という説もあるようです。将門は、日本三大怨霊とされる一方、関東での人気は高く、藪知らずをはじめとして、市川にもいくつかの伝承が残っています。

黄門様として知られる徳川光圀は、これらの伝承を馬鹿げた話だとして、藪知らずに単身乗り込みます。すると白髪の老人が現われ「戒めを破って入るとは何事か、汝は貴人であるから罪は許すが、以後戒めを破ってはならぬ」と告げます。顔面蒼白となって藪知らずを出た光圀は、村人たちを集め、以降、誰も入れてはならぬと命じたとされます。この伝承は、明治の初め、月岡芳年が錦絵に仕立て、広く知られることになりました。また、藪知らずのなかに、機を織る娘が見えた、という伝承もあります。娘は、血で真っ赤になった筬(おさ、シャトルのこと)で機を織っていたと言われます。

藪知らずの中心は、やや凹んでいると言われます。市川市の見解によれば、これは放生会(ほうじょうえ)に用いた池の跡と思われるということになります。放生会は、仏教の不殺生という考えに基づき、魚や鳥を放つ法会です。また、石清水八幡宮の放生会は、多くの死者を出した戦乱の償いとして行われたとされます。放生会が行われる場所は、神聖な場所であり、禁忌地とされたわけです。葛飾八幡宮の縁起、将門の乱と重ねれば、納得性の高い話だと思います。また、より現実的な説としては、ここが行徳村の飛地であり、八幡村の人々が立ち入らないよう話が作られたという説もあります。

日本で最も有名な禁忌地と言えば、宗像神社のご神体である沖ノ島ということになります。現在でも、一般人の立ち入りは禁止されており、年一回の祭祀には、神職以外の特定の氏子だけが上陸を許されます。とは言え、女人禁制、島で見たことは口外無用、島のものは小石たりとも一切持ち出し禁止とされています。沖ノ島は、朝鮮半島への海路の要所にあたり、恐らく朝廷が半島との交流を独占的に管理するために、近隣の漁民などを遠ざけたということだと思われます。いずれにしても、禁忌地にまつわる伝承は、むやみに人を入れない、人を遠ざけておくという目的で生まれたものなのでしょう。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2022年7月16日土曜日

トムヤムクン

暑い日が続くと、トムヤムクンが食べたくなります。家族で、年に何度かタイ料理屋に行き、トムヤムクンも食べているのですが、やはり暑くなると、あの突き抜けるような酸味と辛味が欲しくなります。タイ語で、トムは煮る、ヤムは混ぜる、クンは海老を意味します。例えば、鶏肉を使えば、トムヤムガイとなります。大雑把なレシピとしては、まず海老の殻、レモングラスやプリッキーヌ等の香辛料をチキンスープで煮込んでベースを作ります。ナンプラー等で味を調えたら、海老とふくろ茸を入れます。ココナツ・ミルクを入れる場合もあります。タイを代表する料理であり、ブイヤベース、フカヒレスープと並んで世界三大スープの一つとも言われます。

トムヤムクンは、14~18世紀に栄えたアユタヤ朝がフランスの使節団をもてなすために、ブイヤベースをタイ風に作ったことが起源だとも言われます。眉唾な話ではありますが、各国の料理の影響を受けて成立したというタイ料理の歴史には相応しい話かも知れません。タイ料理の特徴は、複雑さにあると言われます。タイ料理の場合、辛いものは辛い、甘いものは甘いということがなく、全ての料理に、うま味、酸味、甘味、塩味、辛味があり、この構成の違い、素材の味、香りで多様性を生んでいると言われます。さらに、北部、中部、南部、そしてイサーンと呼ばれる東北部、と4つの地方がそれぞれ独特の味を持っています。

塩味と辛味が強い東北部イサーンの料理の代表は、青パパイヤのサラダ”ソムタム”や鶏の炭火焼き”ガイヤーン”あたりでしょうか。北部では、酸味と辛味が抑えられたマイルドさが特徴とされます。代表と言えば豚皮炒めの”ケープムー”やミャンマー風といわれる豚の煮込み”ゲーン・ハンレー”が有名です。南部は、激辛、酸味、甘みに香りと、実にタイ料理らしい味が特徴です。イエロー・カレーの代表”ゲーンルアン”や激辛ドライカレーの”クアクリンスィークームー”が知られます。中部は、各地の要素が全て入った料理と言われます。タイ料理の代表的メニューは、ほぼ中部系です。CNNで世界一美味しい料理に選ばれた”ゲーン・マッサマン”、ソフトシェル・クラブの大人気カレー”プー・パッ・ポン・カリー”も中部生まれです。

タイ族の起源は、元に圧迫され雲南から逃げてきたスコータイ族だと言われてきました。タイで初めての王朝はスコータイで間違いないのですが、近年、発掘や研究が進み、その民族構成は古代からイサーンに土着していたタイ族だったとされているようです。その後クメールの支配下に入り、13世紀にスコータイ王朝が誕生しています。世界遺産にも登録されたイサーンのバンチェン遺跡では、紀元前3世紀頃の陶器や農耕の痕跡が発掘されています。複雑な味のタイ料理ですが、実は、ナンプラーはじめ発酵が大きな役割を果たしています。恐らく、発酵の発祥地とされる中国南部から、稲作とともにイサーンへ伝播したものと思われます。ちなみに、トムヤムクンは、現在、世界文化遺産への登録申請中とのことです。

東京には、タイ料理店が、600店以上あると言われます。例えば、”マンゴツリー東京”の上品な味は間違いのない美味しさです。ういろうのようなデザート”カノムチャン”は大好物ですが、ここでしかお目にかかれません。ただ、私が、これぞタイ料理と思うのが、歌舞伎町の”バンタイ”です。バンコクの下町を思わせるような店内にはタイ人客が多く、いつも活気に満ちています。以前には、小岩と新御徒町にある”いなか村”もお気に入りでした。特に小岩の本店は、店名も含めて居酒屋を居抜きでタイ料理店にしており、焼き魚用の角皿にパッタイが出てくるという珍妙な店でしたが、味は抜群で、タイ人のためのタイ料理という印象でした。(写真出典:sbfood.co.jp)

2022年7月15日金曜日

GHQの淀君

鳥尾鶴代
本来的に”疑獄”という言葉は、白黒がはっきりしない裁判を指す言葉です。ところが、明治末期から戦後しばらくに関しては、政治が関与する大規模な贈収賄事件を”疑獄”と呼ぶようになります。ただ、一時期からは、この言葉も使われなくなりました。恐らく、1954年の造船疑獄が最後だったと思われます。残念ながら、政治も絡む贈収賄事件が無くなったわけではありません。単に、マスコミが古くさい言葉を使わなくなったのか、あるいは政治家等が検挙・起訴されても無罪とされるケースが無くなったからなのか、どうも良く分かりません。ひょっとすると、検察による起訴のあり方が変わったからなのかも知れません。

1948年の昭電疑獄は、復興金融金庫の融資を得るため、昭和電工の日野原節三社長が、多額の金品を、政界、官界にばら撒いた事件です。64名逮捕、うち37名が起訴され、時の芦田内閣は総辞職します。実は、昭和電工の賄賂は、GHQの民政局(GS)にも多く渡っていたようです。敵対するGHQ参謀2部(G2)が、GSを潰すために情報をリークし、昭電疑獄は始まったとされます。平和憲法を作り、公職追放と財閥解体を行う等、リベラルな政策を進めてきたGSは、ここで急速に勢力を失い、GSの中心人物だったケーディス大佐も帰国し、日本に戻ること無く翌年には辞任しています。米国政府の意向により、GHQの政策の主体は、民主化から反共へと変わったわけです。

多くの人々が関与した昭電疑獄ですが、”GHQの淀君”と呼ばれる女性も登場し、世間を騒がせます。ケーディス大佐の愛人であった子爵夫鳥尾人鶴代です。鳥尾鶴代は、明治の画家で貴族院議員だった下条桂谷の孫で、平民受入を始めた学習院で学びます。奔放な学生だったようですが、華族からのいじめにもあったようです。そこで、なんとしても華族になるべく鳥尾子爵と結婚します。遊興に明け暮れた子爵夫妻は、戦前、既に財産を失っていたようです。戦後、近所同士だった内閣書記官の楢橋渡は、生活に困窮する彼女に目をつけ、政財界とGHQの接待役として使い始めます。美しく、上品で、英語も堪能な元華族とくれば、まさに適役だったわけです。

ケーディスと鳥尾鶴代は、官邸でのパーティで出会い、恋仲となります。その関係は、半ば公然たるものだったようです。絶大な権力を持つケーディスへの口利きを依頼する人々が、彼女を取り囲み始めます。昭電疑獄についても、GSへの賄賂の窓口だったのではないかと疑いがかかります。彼女は、自伝のなかで、本件も含め、口利きの依頼は全て断ったとしています。ただ、逮捕された日野原社長の愛人で新橋の名妓と言われた秀駒が、金を包んで、ケーディスへの口利きを依頼してきたことは認めています。自伝や取材記事も残っていますが、信頼性には疑問もあり、GHQに関係する資料も国内にはほぼ残っていません。真実は闇のなかです。ケーディス帰国後、彼女は、バーを経営したり、企業の渉外役になったり、森コンツエルンの御曹司といい仲になったりしたようですが、1991年、79歳で亡くなっています。

敗戦直後、占領下の日本は、米国政府とGHQの思惑に振り回され、世相的には”なんでもあり”という極めて異様な時代でした。鳥尾鶴代子爵夫人は、戦後強くなった女性の象徴とも言えますが、むしろ乱世で輝く個性の持主だったのでしょう。お淑やかに接待役を務めただけでなく、ケーディスを落としたという面も否定できず、保守勢力のスパイだったという説もあります。日本の保守勢力は、G2と結託し、独裁者とまで言われたケーディス追い落としを狙っていました。結局、日本再軍備論に傾いた米国政府にケーディスは敗れます。アイケルバーガー将軍は、ケーディスを評して「空虚な理想主義者は奢りと腐敗に溺れ自滅する」と語ったそうです。日本におけるケーディスの3年間を、見事に言い得ていると思います。その”空虚な理想主義”の遺産の一つが日本国憲法であり、現在に至るまで多くの議論を残すことになりました。(写真出典:bunshun.jp)

2022年7月14日木曜日

FAB4

ビートルズとは何だったのだろう、と思うことがあります。音楽的には、20世紀最大の出来事であり、あれほどまでに名曲を量産したことは、モーツアルト以来とも言えます。また、アレンジや演奏レベルの高さも驚異的でした。もちろん、既にロックンロールは存在していました。ビートルズが影響を受けたアーティストも存在します。ただ、それまでには無かったスタイルのポップ・ミュージックが、突如、生まれたわけです。しかも、米国ではなく英国から、ロンドンではなくリヴァプールから誕生しました。音楽や絵画の世界は、しばしば天才が登場します。ビートルズ、特にレノン=マッカートニーは天才というほかないのでしょう。

後に”FAB(fabulous)4”と呼ばれたビートルズの歴史は、1956年に、当時、まだ16歳のジョン・レノンが結成した”クオリーメン”に始まります。その後、バンド名もメンバーも替わり、そこへポール・マッカートニー、ジョージ・ハリソンが参加します。クラブ・バンド、バックバンドとしてのツアーなども経験した後、ハンブルクのクラブで演奏します。3ヶ月間に渡り、毎日6~8時時間演奏させられたビートルズは、高い演奏技術を獲得します。帰国後、リヴァプールのキャバーン・クラブのレギュラーになりますが、再び3ヶ月間、ハンブルクで演奏します。リヴァプールに戻ったビートルズは、徐々に人気をあげ、ブライアン・エプスタインがマネジャーとなります。1962年、メジャー・デビューが決まり、リンゴ・スターが参加します。

デビュー時のビートルズは、素人あがりの新人バンドなどではなく、若くても既に豊富な経験と実力を持ったプロのバンドだったわけです。ハンブルク時代の過酷な経験は、厳しい長期合宿だったとも言えます。演奏技術が上がっただけでなく、様々なアイデアを試すことでアレンジのセンスを磨き、また、それがレノン=マッカートニーの作曲の才能を開花させることにもなったのでしょう。ビートルズの名曲は、単に歌詞とメロディで成り立つのではなく、アレンジも含めて、初めから楽曲全体として存在するわけです。いわば、アレンジと一体となって発想される作曲法だと言えます。これが、ビートルズの新しさを構成する一つの要素だったと思います。しかし、ビートルズ登場の衝撃は、音楽界に留まるものでもありませんでした。

世界中の若者たちを熱狂の渦に巻き込んだビートルズ旋風は、その新しい音楽だけで起こったのではありません。マッシュルーム・カット、ファッション、彼らの発言、すべてが新しいカルチャーの到来を告げていました。マッシュルーム・カットは、ハンブルク時代、写真家のアストリッド・キルヒャーのアイデアから生まれたとされます。しかし、髪形と襟なしスーツを、ビートルズのトレードマークにしたのはマネジャーのブライアン・エプスタインでした。ビートルズ旋風は、マーケティングの勝利でもあったわけです。インタビューにおける彼らのストレートな発言は、世間に衝撃を与えますが、田舎の青年ならでは、とも言えます。ロンドンの業界でたたき上げたバンドなら、もっと違っていたはずです。

ビートルズ旋風を担ったのは、世界中のベビー・ブーマーでした。二度の大戦を起しながらも古い価値観を押しつけてくる旧世代が存在し、それに対して違和感を持っていたこの世代は、ビートルズによって翼を与えられたわけです。彼らの精神が解放されたことが、反抗の60年代につながったものと考えます。警察は、ビートルズに5千人規模のホールでのコンサートを開かないよう求めます。なぜなら、会場の外に押し寄せた5万人に対応できなかったからです。球場でのコンサートは、当時のPA技術では無理があり、もはや音楽ではなく、見世物でした。66年、ビートルズは、コンサートからの撤退を決めます。ベビー・ブーマーの解放者としてのビートルズの役割は、ここまでであり、それ以降は音楽の求道者として活躍していくことになります。アルバムとしては「ラバー・ソウル」(1965)が大きな転機となり、傑作「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」(1966)につながります。(写真出典:IMDb.com)

2022年7月13日水曜日

「マルケータ・ラザロヴァー」

監督: フランチシェク・ヴラーチル   1966年チェコスロバキア

☆☆☆+

「マルケータ・ラザロヴァー」は、1942年にゲシュタポによって処刑されたチェコの作家ヴラジスラフ・ヴァンチュラが、1931年に発表した同名小説を映画化したものです。13世紀のボヘミアが描かれています。古語を使った前衛的な小説をシナリオ化するのに4年、細部に至るまで忠実に中世を再現したという撮影には3年を要したという大作です。1967年に公開され、高い評価を得たものの、その後、しばらくお蔵入りされていたようです。今回は、日本初公開となります。過去に何度か、歴代チェコ映画の最高傑作という栄誉も獲得しています。

まずは、音楽の素晴らしさに驚かされます。フィルム・オペラとも評されるほど、音楽が重要な役割を担っています。オリジナル・スコアですが、グレゴリオ聖歌を手本とし、中世の構成そのままに作曲されているようです。チャントは、祈祷書に旋律を付けて無伴奏で歌唱されます。なかでも、7~8世紀のカロリング朝フランク王国で成立したグレゴリオ聖歌は実に複雑に様式化され、チャントを代表する曲とされます。無伴奏歌唱は、原始キリスト教時代から存在していたようですが、グレゴリオ聖歌で頂点を極めたのでしょう。音楽としてチャントが使われていることは、この映画の宗教性の高さを象徴していると思われます。

族長の美しい娘マルケータが、敵対する一族の息子ミコラーシュに連れ去られ、強姦され、後に深く愛し合うようになるというプロットが、物語の中心を成します。また、物語は、実に多くの二重構造にあふれています。王と豪族、敵対する豪族、ドイツ貴族とボヘミア豪族、父と子、兄と妹等々ですが、最も重要な二重構造は、キリスト教とボヘミアの野蛮さであり、いわば聖と俗が、この映画のテーマと言えます。支配者である王とその部隊は、キリスト教を代表しています。一方、部族の世界は、野蛮そのものですが、そこには家族や一族の絆、夫婦の愛、恋人たちの愛が満ちています。キリスト教に支配されてゆくボヘミア、ひいては欧州の原風景が描かれているように思えます。

父を救出するために王宮に向かうミコラーシュは、一旦、マルケータを実家に返します。しかし、実家は、マルケータを穢れた存在として受け入れず、もともと入る予定だった修道院へ送ります。修道院でも、罪深いものとして扱われたマルケータは「この人たちの言葉に真実はない」と叫び、ミコラーシュを追って王宮へと向かいます。しかし、再会したミコラーシュは、王兵に討ち取られ、死の間際にありました。二人は、キリスト教の形式に則って結婚し、同時にミコラーシュは息を引き取ります。それは、ボヘミアがキリスト教に支配された瞬間を意味するのか、あるいはキリスト教によって救われたという象徴なのか判然としません。

その後、マルケータは、ミコラーシュとの間にできた息子、そしてミコラーシュの妹とドイツ貴族の間に生まれた息子を、兄弟のように育てたが、長じて、二人は不仲になった、とナレーションが伝え、映画は終わります。後のボヘミア、あるいは欧州を示唆しているのでしょう。野蛮ながらも人間的な暮らしを営んでいたボヘミアが、キリスト教支配によって、より複雑に憎しみ合う世界へと変わっていった、と伝えているように思えます。映画的な映像美よりもリアルさにこだわった映像、中世のままに作曲されたチャント、当時と同じ製法で作ったという小道具類、そうした監督のこだわりが、キリスト教への疑問を象徴しているように思えます。(写真出典:imageforum.co.jp)

2022年7月12日火曜日

仁丹

会社に入ってほどなくの頃のことです。周囲の先輩たちは、高度成長期を戦ってきた企業戦士ばかりで、よく働き、よく勉強し、よく麻雀をし、よく飲みました。飲んでも仕事の話ばかりで、よく激論を戦わせていました。飲み方も激しいものがあり、毎回、正体をなくす人、記憶を失う人、電車で乗り過ごす人が少なからずいたものです。当然ながら、翌朝、二日酔いという人がほとんどでした。飲んだ翌日は、遅れずに会社に来い、例え、午前中、仕事にならなくてもいいから、必ず来い、それが酒飲みの仁義だ、と教えられました。そう語る先輩たちの机の上には、必ず仁丹のビンが置いてありました。二日酔いの解消というよりは、酒臭さを誤魔化すためでした。結果、部室は、いつも仁丹臭かったことを覚えています。

森下仁丹社の仁丹は、1905年、「赤大粒仁丹」として発売されました。おなじみの銀粒になったのは1929年のことでした。梅毒薬の「毒滅」で成功を収めた創業者の森下博は、台湾で見た丸薬に注目し、研究を重ね、毒消しを効能とする懐中薬の仁丹を開発します。仁丹は、十数種類の生薬を、消毒効果の高い銀でコーティングしています。現代の薬事法下では、医薬部外品の口中清涼剤とされています。仁丹は、発売から2年で売薬のトップに躍り出ます。当時、コレラや梅毒が流行していたことが追い風になった面もあるのでしょうが、加えてマーケティングも見事なものでした。販売店に、幟や看板を提供し、自動販売機まで開発したようです。さらに販売店支援として新聞広告にも力を入れ、急速に認知度を上げていきました。

その際、大きな効果を発揮したのが「大礼服マーク」でした。仁丹社は、「毒滅」発売の際にも、ビスマルクの横顔をロゴとして、盛んに広告を打っていました。立派な髭を蓄えた大礼服の人物は、軍人だと思われがちです。実は、イメージされたのは外交官でした。創業者は、仁丹によって、日本国民のみならず、世界の人々を救いたいと思い、いわば外交官のような薬を目指したのだと聞きます。そもそも仁丹というネーミングも、中国への進出を念頭に、儒教最高の徳である仁を使ったようです。その効果もあったのか、後に仁丹は、中国でも成功します。その際、創業者は、ようやく恩返しができた、と発言したそうです。丸薬の発想、ネーミングに加え、原材料の仕入れ先としても恩を感じていたのでしょう。

仁丹社は、仁丹発売から2年後には輸出部を設置し、海外展開を開始しています。広い中国市場では、通信委託販売という手法を採り、各地の郵便局を販売代理店としました。その数、4,000。中国での売上は、アッという間に日本での売上を超えます。さらに、インドに進出し、大規模な広告の高価もあり、売上は中国に並びます。さらに、ハワイ、インドネシアはじめアジア各国、さらにはアフリカにまで販路を広げています。第二次世界大戦になると、日本製品の不買運動も起きますが、仁丹の海外売上は落ちなかったと言います。その浸透度の高さには驚かされます。その躍進の背景には、まだまだ不十分だった各国の医療事情があったのでしょう。また、販売拡大は、効能の高さというよりも、巧みなマーケティングが大いに効果を発揮した結果だったのではないでしょうか。仁丹社は、マーケの歴史に、大きな功績を残した会社と言えます。

仁丹は、1982年をピークに、売上が落ちています。ガムや各種タブレットといった競合品に押されたわけです。2003年には、ついに赤字企業へと転落します。仁丹社は、三菱商事から社長を招くという決断を行います。これが大当たりでした。過去の栄光に頼る古い体質の会社に、外部から新しい視点が導入されたことで、仁丹社は生き返ります。仁丹で培ったシームレス・コーティングの技術から派生したマイクロ・カプセルは、医薬品や食品の分野に留まらず、広く活用されているようです。また、ローズヒップ、サラシア、テニアンといったサプリメントの原材料でも成功を収めています。ちなみに、仁丹社は、1921年に、子会社として体温計製造会社も設立しています。現在、最大手の一角を占める医療機器メーカー・テルモの前身です。(写真出典:hmaj.com)

2022年7月11日月曜日

キリル文字

日本人は、ラテン文字のアルファベットに馴染んでいることもあり、ギリシャ文字やキリル文字のアルファベットに違和感を感じます。特にキリル文字は、ラテン文字と同じ文字もあり、反転させたような文字もあり、余計に混乱します。スラブ系の国々に、欧州からラテン文字が伝えられた際、船が大揺れして文字がゴチャゴチャになり、それがキリル文字になった、という話をよく聞かされたものです。恥ずかしながら、疑うこともなく、キリル文字の歴史を調べることもなかったので、長い間、その話を信じていました。

もちろん、ただのジョークです。もともとスラブ系諸国には、文字がありませんでした。9世紀、モラヴィア国王が、キリスト教を布教するために、東ローマ帝国に伝道師の派遣を要請します。ギリシャ正教会は、キリルとメフォディという宣教師兄弟を派遣します。二人は、布教にあたり、ギリシャ文字をベースに、スラブ語を表記する文字を考案します。これがグラゴル文字であり、キリル文字の原形となります。グラゴル文字は、スラブ社会に浸透していきます。ただ、ローマ教会が二人の布教を妨害したことから、メフォディの没後、キリルと弟子たちはブルガリア王国に逃げ布教を続けます。

ブルガリアでは、一部、ギリシャ文字が使われていたこともあり、グラゴル文字は、よりギリシャ文字に近い形となり、900年前後には、現在に至るキリル文字が完成を見たようです。その時、すでにキリルは没していたようですが、その功績に敬意を表して、キリル文字と呼ばれているようです。大雑把に言えば、グラゴル文字はギリシャ文字の小文字をベースにスラブ語の発音を取り入れ、キリル文字は大文字をベースにしているようです。アルファベットを枠組みとする表音文字ゆえ、ギリシャ文字からコンバートできたわけです。表意文字である漢字にはできない芸当です。漢字は、伝播した各国で、同じ文字が使われ、発音が異なるわけです。

現在、キリル文字のみが使われている国は、ロシア、ベラルーシ、ウクライナ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、北マケドニア、ブルガリア、キルギスです。かつては、ソヴィエトの衛星国でも広く使われていましたが、各国が独立すると、ラテン文字への転換が進んできたようです。アルファベット・ベースなら、キリル文字よりラテン文字の方が国際性が高く、使い勝手がいいわけです。パソコンの時代にあっては、なおさらです。ロシアでは、法律でキリル文字の使用が規定されているようです。ロシアでも、ラテン文字への転換が議論されたことがあったのではないでしょうか。歴史にIFは禁物ながら、ロシアが、その歴史のどこかで、ラテン文字への転換を行っていたとすれば、その後の世界の歴史は大きく変わっていたように思います。

漢字文化圏で、大胆なラテン文字への転換を行ったのが、ヴェトナムです。1945年の独立時に正式に変えています。脱漢字については、韓国も15世紀に行っています。ハングルという独自の表音文字を作りました。ヴェトナムの場合、フランス統治下であったことが影響してラテン文字を選択したのでしょう。日本のローマ字方式でラテン文字化したわけですが、6つの声調、12の母音といったヴェトナム語独特の発音をラテン語化することは、なかなか難しかったようです。結果、ヴェトナムの文字には、やたら補助記号がついており、新たに学ぶ外国人にとっては、大きなハードルになっていると聞きます。(写真出典:4travel.jp)

2022年7月10日日曜日

アフォガート

初めてアフォガートを食べたのは、夏休みに家族で出かけたローマでのことでした。真夏のローマの日差しは、かなり厳しいものがあります。観光の合間に、ジェラートを食べたり、エスプレッソを飲むことは必須とも言えます。カフェでエスプレッソを飲もうとした時、娘からアフォガートを勧められました。その美味しさに腰を抜かしました。美味しいだけではなく、まさに夏には最適の食べ物だと思いました。以来、夏になると、そして元気を取り戻したい時には、アフォガートが欠かせないものになりました。

アフォガートは、ヴァニラ・アイスクリームに飲み物をかけたものです。アフォガートとは、イタリア語で”溺れる”という意味だそうです。最も一般的なのは、入れ立ての温かいエスプレッソをかける”affogato al caffè”です。ヴァニラ・アイスの冷たさと甘さに、エスプレッソの苦みとカフェインが加わり、絶妙の逸品になります。食べれば、元気回復、間違いなしです。エスプレッソ以外の飲み物は試したことがありません。ただ、濃いめに入れたアール・グレイなども美味しいのではないかと思います。アイスクリームは、何種類か試しましたが、やはりシンプルなヴァニラが良く合います。

アフォガートの起源は、どうもはっきりしません。難しいレシピでもなく、誰でも思いつきそうなドルチェです。とは言え、冷たいものに温かいものをかけるという発想は驚きであり、最初にやった人には脱帽です。五味と言われる甘味、旨味、苦味、酸味、塩味は、人間の体温に近い温度の時に一番強く感じるものなのだそうです。特に、甘味、旨味、苦味は温度依存性の高い味とされます。例えば、アイスクリームは、口の中に入れた瞬間は、冷たさしか感じません。ただ、口の中で溶け始めると、甘みが広がっていくわけです。アフォガートも同じ原理で美味しいのだと思います。エスプレッソの熱さとアイスクリームの冷たさが中和され、苦みと甘みを強く感じるというわけです。

アフォガートを、結果的にはコーヒーフロートと同じじゃん、と言う人がいます。とんでもありません。フロート類は、冷たい飲み物に、アイスクリームを乗せたものです。コーヒーフロートは、アイスコーヒーを使います。要するに、冷たいものに、冷たいものをのせただけです。徐々に溶けていくアイスクリームは、主にミルクと糖分で作られます。つまり、コーヒーフロートとは、冷たくて甘いカフェ・ラテだということになります。組み合わせによる味の変化は起きません。私は、コーヒーフロートも好きです。他にも、コーヒー・リキュール、あるいはコーヒーゼリーやティラミスも大好きです。ただ、アフォガートは、味覚の変化という意味で、一段、格上だと思っています。

ちなみに、コーヒーゼリーは、日本にしかないと言われます。レシピとしては、英国にも米国にもあようです。ただ、食べられることは、ほぼありません。これも不思議な現象だと思います。ところで、ローマの夏の定番としては、グラニータも忘れてはいけません。イタリア版かき氷とも言われますが、氷を削ったものではなく、固まりかけた氷を、ザクザクと砕いたものです。エスプレッソを凍らせて作れば、グラニータ・ディ・カッフェになります。ホイップした生クリームを乗せて食べます。とても美味しいと思います。ただ、やはり美味しさではアフォガートにかないません。(写真出典:mystyle.ucc.co.jp)

2022年7月9日土曜日

「リコリス・ピザ」

監督:ポール・トーマス・アンダーソン     2021年アメリカ

☆☆☆☆+

とにもかくにも、楽しくて、うれしくなる、気持ちのいい映画です。それ以外に、なにか言う必要すらないように思えます。文句なしの傑作です。今更ながらに、ポール・トーマス・アンダーソンの腕の確かさに感服しました。15歳の少年と25歳の若い女性との恋物語と言えば、それまでですが、そこには70年代初頭のサン・フェルナンド・ヴァレーという時代が詰まっており、それ以上に優しさや思いやり、温かいふれ合いがあふれています。ノスタルジックな映画とも言えますが、アンダーソンの力量によって、人間に対する希望の火を灯してくれるような作品になっています。

ポール・トーマス・アンダーソンは、40歳のおり、デビューからわずか6作で、世界三大映画祭の監督賞を総なめにした当代きっての監督の一人です。LAで俳優の息子として生まれたアンダーソンは、早くから映画監督を目指していたようです。26歳のおり、「ハードエイト」で長編デビューして以降、常に評価の高い映画を撮り続けています。特に、私が好きなのは「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド 」、「ザ・マイスター」、「ファンタム・スレッド」あたりです。ポール・トーマス・アンダーソンは、映画というものを知り尽くしている、と思います。シンコペーションの無いモーツアルトの音楽のように、アンダーソンの映画文法は、端正かつ流麗で、観客は、ストレスなくテーマに没入していけます。

1970年代初頭と言えば、アンダーソンは生まれたばかりですが、映画はノスタルジックに、彼の育ったサン・フェルナンド・ヴァレーを描いています。この春に公開されたケネス・ブラナーの「ベルファスト」もノスタルジックな傑作でしたが、自らの幼少期をモデルにしていない分、本作の方が客観性を保っているように思います。また、土地柄もあり、ハリウッド文化が色濃く反映されているあたりは、アンダーソンの生い立ちに関係するのでしょう。コーエン兄弟の「ヘイル、シーザー」やタランティーノの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」など、映画愛、ハリウッド愛が詰まった作品に通じる面もあります。楽屋落ちのつまった、ある意味、わがままな、まるで私小説のような映画が許されるのは、彼らの商業的成功が背景にあるからなのでしょう。

同じ俳優を使うことでも知られるアンダーソンですが、今回は、主演した二人の新人の起用が、見事だったと思います。クーパー・ホフマンは、アンダーソン映画の常連だった名優フィリップ・シーモア・ホフマンの遺児です。 アラナ・ハイムは、三人姉妹のバンド「ハイム」の末娘です。二人ともデビュー作となりますが、フレッシュであると同時に、ベテランなみの見事な表情を見せてくれます。特に、アラナ・ハイムの表情は、印象深く、彼女の起用が、この映画の成功を支えているとも思います。ちなみに、アラナ・ハイムの姉たちも出演し、かつ彼女たちの母親は、かつてアンダーソンの小学校時代の先生で、バンドのPVもアンダーソンが撮っています。さらに姉妹は、クーパー・ホフマンのベビー・シッターをしたこともあるようです。

ウィリアム・ホールデンを彷彿とさせるショーン・ペン、サム・ペッキンパらしきトム・ウェイツ、この二人の怪演も楽しめます。バーバラ・ストライサンドの「スター誕生」のプロデューサーらしき人物を演じるのは、レディ・ガガの「アリー/スター誕生」をプロデュースしたブラッドリー・クーパーです。ディカプリオの父親も登場します。すべての役柄や店などは、実在するモデルがあるようです。知り合いだらけのキャスト、たくさん詰め込まれた楽屋落ちは、楽しく本作を撮っているアンダーソンの姿を想像させます。しかし、そんな細かな楽屋落ちを知らなくても、十分以上に楽しめる映画になっていることが、アンダーソンの力量なのでしょう。ちなみにリコリスのピザは登場しません。そんなもの、想像しただけでゾッとします。実は、当時のスラングで”レコード盤”のことなのだそうです。(写真出典:justwatch.com)

2022年7月8日金曜日

鉄面無私

「包晴天」の包拯
官僚は、稲作の開始からほどなく誕生したものと考えます。余剰生産物の発生が、社会の機能分化を促し、その過程で役人が生まれ、官僚も誕生したのでしょう。そして、官僚は、生まれ落ちた瞬間から、構造的に腐敗を内包していたものと思われます。コミュニティの合意に基づき、一定の職権を託された官僚は、権限を権力と誤解しやすい構図にあります。自らが所有しないものを、あたかも所有してるかのように錯覚するわけです。また、農業は、所有という概念を生み、余剰生産物の所有には、それを増やすというベクトルしか存在しません。生産しない官僚は、その社会的ベクトルの外にあります。官僚にとって、余剰を増やす手立ては限られます。

7世紀初頭に、聖徳太子によって作られたという十七条の憲法の第5条は、官僚の賄賂を戒める内容となっています。古代日本に限らず、世界中が、大昔から同じ問題を抱えていたはずです。売春婦を、世界最古の職業と言いますが、官僚による賄賂は、世界最古の腐敗と言えるのかも知れません。古くから官僚と庶民という構図を持つ中国には「清官」という言葉があるそうです。その存在こそ、官僚の腐敗が多いことの証左でもあります。中国では絶大な人気を誇るものの、日本ではさほど知られていない偉人の一人に「包拯(ほうじょう)」がいます。11世紀の北宋の時代、科挙に合格した廬州、現在の安徽省出身の官僚です。清官を代表する人として知られ、中華圏におけるその知名度は、諸葛孔明や関羽に引けを取らないとまで言われます。

包拯は、1027年、29歳で科挙に合格し、一旦任官しますが、高齢であった両親の面倒を見るために、退官します。その後、両親は亡くなり、喪が明けた包拯は、38歳で、再度、任官します。勤勉で公平な執務ぶりが評価され、最終的には、北宋の枢密副使として政権中枢にまで登り詰めています。開封府尹代理という、いわば都の行政長官代理を務めていた頃には、厳格に賄賂を摘発し、相手が権力者であっても恐れなかったとされます。民衆の間では「閻魔の包拯がいる限り賄賂は通用しない」とまで言われたそうです。しかしながら、包拯は、あくまでも一官僚に過ぎず、記録は残っていても、実に簡略なものだけだと言われます。包拯の名が、広く世間に知られることになったのは、没後のことでした。

没後200年近く経った南宋末期、包拯が冥界を仕切っているという噂話が流布します。以降、包拯は、講談や芝居の人気演目となり、様々なエピソードが創作され、話は膨らんでいきます。清官の鑑とされ、鉄面無私という言葉も生まれます。また、閻魔大王と包拯がだぶり、芝居における包拯は、黒い顔、眉間に三日月型の傷が定番となりました。モンゴルに圧迫されていた南宋は崩壊直前でした。政府に対する不満、存亡の危機にあっても汚職まみれの役人に対する不満の現われだったのでしょう。その後も包拯人気は衰えず、1970年代から台湾で制作された「包晴天」というTVシリーズは、中華圏で知らない人はいないという大ヒットとなりました。広大な中国を統治するには、中央集権体制は必須であり、それは官僚上位の社会に直結します。中国史は、官僚の横暴が反乱や革命を起こすという歴史の繰り返しです。

 思えば、包拯の話は、大岡政談に酷似しています。大岡越前守忠相は、実在した旗本です。そのキャリアのなかで江戸町奉行も務めています。享保の改革の実を挙げるべく活躍しています。また、裁判の見事さでも知られ、名奉行と呼ばれていたようです。ただ、大岡政談はじめ、後の芝居や講談等々で語られるエピソードは、ほぼすべて後代の創作であることが知られています。包拯も大岡越前も、官僚に対する庶民の不満の現われです。もちろん立派な官僚も少なからず存在しますが、古今東西、役人に対する庶民の不満がなくなることはないのでしょう。(写真出典:nestia.com)

2022年7月7日木曜日

フライング・スコット

モナコ・グランプリは、モンテカルロの市街地をコースとして、フォーミュラ・カーで競われるF1レースです。インディ・カーで行われるインディ500、市販車をベース・カーとするル・マン24時間レースとともに、世界三大レースとされます。1周3,334mのコースを78周します。市街地コースは、コースの狭さやバンプ等、サーキットとは大いに異なる特徴があり、F1レース屈指の難コースとしても知られます。大富豪が集まる高級リゾートで開催されるモナコ・グランプリは、F1を代表する最も華やかなレースでもあります。また、モナコ公国にとっても、国を代表するイベントであり、王室も全面的にバックアップしています。

ドキュメンタリー映画「ウィークエンド・チャンピオン~モンテカルロ 1971~」(2015)を見ました。1971年のモナコ・グランプリを走るジャッキー・スチュワートを、友人でもあるロマン・ポランスキーが密着取材します。映画は、ベルリン映画祭で公開後、お蔵入りとなります。40年後に、年老いた二人が再開し、当時の映像を見ながら語る、といった内容です。お蔵入りとなった理由は分かりません。ただ、運転技術にフォーカスしたややマニアックな内容であること、ポール・ポジッションを獲得したジャッキー・スチュワートが危なげなく優勝したことで、F1に求められた華やかさや派手さに欠ける結果となり、一般公開を断念したのかも知れません。

スコットランド出身のジャッキー・スチュワートは、フライング・ダッチマンにかけてフライング・スコットとも呼ばれました。F1レース27勝、ワールド・チャンピオンも3度獲得しています。モナコでも3度優勝しています。冷静で知的なドライビングで知られ、F1レースを変えたとも言われます。ポランスキーを横に乗せ、コースを解説するシーンがあります。ここまで4速で引っ張る、ここは2速で入る、ここで軽くブレーキングといったタクティクスが詳細に語られます。非常に興味深いシーンですが、語りすぎたことがお蔵入りの原因かも知れません。かつて、モナコ・グランプリでのギア・チェンジは4,500回以上といわれ、ドライバーは、手にまめができ、場合によっては血まみれになると言われました。なお、現在は、7速ギア・ボックスの電子制御方式に変わっています。

ジャッキー・スチュワートが活躍した時代、1960~70年代は、レーサーの死亡事故が多かった時代でもあります。マシーンがどんどん早くなる一方で、ドライバーの安全に対する配慮は遅れたままでした。F1に限ってみれば、80年代以降の死亡事故は、わずか4件です。1994年のサンマリノ・グランプリでアイルトン・セナが死亡します。音速の貴公子とも呼ばれたセナは、モナコ最多6度の優勝を誇りました。セナ以降の死亡事故は、現在に至るまで1件だけです。マシーン、レギュレーション、装備、全ての面からドライバーの安全が考慮され、かつドライバーの技術や意識も高まっているからだと聞きます。実は、ドライバーの安全確保を、主催者やファクトリーに主張した初めてのレーサーが、ジャッキー・スチュワートでした。40年後の対談でも、この点がクローズアップされていました。

F1の代名詞とも言えるモナコ・グランプリですが、次年度以降の開催が危ぶまれているというニュースがあります。開催国側とF1側が、いくつか理由で対立しているようです。大きなポイントは開催料と言われます。いまやレースの開催を希望する国は、相当の開催料をF1側に支払っているようです。モナコも同様ですが、過去の経緯もあって、例えば新参のカタール等に比べると1/3程度に留まっているようです。F1側は、大幅アップを要求しているわけです。他にも、コース・レイアウトの変更、モナコ側が離さないライブ映像権やスポンサーの広告料なども争点になっているようです。なんとか妥協点を見つけ、伝統のレースを維持してもらいたいものだと思います。(写真出典:curbs-magazin.com)

2022年7月6日水曜日

烏帽子

衣服を身に纏う動物は人間だけです。遺伝子に寄らない素早い環境適応という人類の優位性を実現しています。衣服には、寒暖や異物から身を守るという機能性以外にも、身分、集団属性、祭礼等といった社会的側面もあります。そのなかでは、装飾という発想も大きな存在となります。機能性から見れば、意味不明の服装も多くあります。ネクタイなど、その最たるものです。帽子も、衣服と同様ですが、一義的には頭部を守るために被ります。ただ、当然、社会性もあり、加えて、時代によって変わる髪形との関係もあります。私が、いつも不思議に思うのが、烏帽子(えぼし)です。烏帽子は、日本の歴史のなかで、最も長く、かつ広く利用された帽子です。

672年の壬申の乱に勝利し、翌年即位した天武天皇は、日本の統治、宗教、文化の基礎を築いたとされます。後に律令制で整備される官位相当制の原型も、天武天皇が作っています。その際、衣服に関する規定も整備され、冠り物についても、公式の場では冠、私生活の場では烏帽子の着用が定められたようです。いずれも唐から渡った文化が原型になっています。その後、烏帽子は、身分に応じて、形状、材質も含め、多様化が進み、社会に定着していったようです。室町時代末期には、武士の髪形が変化したこともあり、形骸化し、儀式等での着用に限定されるようになりました。現在でも、宮廷儀式等で着用されますし、学生帽も、デザインの原型は烏帽子だと言われています。

往時、男子たるもの、常に烏帽子を着用すべし、とされていたようです。例え、丸裸になったとしても、烏帽子だけは着けていなければならない、つまり露頭はいけないというのが常識だったようです。なぜ烏帽子が社会規範の領域にまでなったかのか、実に不思議だと思います。機能性の問題でないことは確かです。また、儀礼上の問題でもありません。どうも意味不明です。もちろん、20世紀におけるネクタイ着用も、流行ならば理解できますが、マナーの領域にまでなったのは不可解と言えます。法制化されたわけでもなく、何か契機になった事案があったわけでもありません。烏帽子も、ネクタイ同様、知らず知らずのうちに常識化していたということかも知れません。

また、烏帽子の形状は、多様に変化しています。基本形は、公家等でおなじみの長い立烏帽子です。髪形との関係もあって、背が高くなっていたのでしょう。しかし、活動的ではないので、あらかじめ途中で折り込んだ風折烏帽子が生まれ、さらに折り込みを増やして、折烏帽子、侍烏帽子となります。大相撲の行司が被る烏帽子にその姿を見ることができます。さらに、武士の髪形が変わると、後頭部の高さも不要になり、舟形烏帽子へと行き着きます。しかし、大きく変化しながらも、基本形は立烏帽子であり、それをどのように折り込むかという変化だけでした。その変化は、機能性や髪形の変遷に応じたものです。ここも大疑問です。複雑な折り方などにこだわらず、機能や髪形に応じた新たな冠り物を作れば済む話のように思えるわけです。

この異常なまでの烏帽子への執着は異様とも言えます。学生帽まで勘定に入れると、日本人は、実に1300年の長きに渡って、烏帽子にこだわってきたわけです。その最大の理由は、烏帽子が、庶民にとって天皇とのつながりを感じさせる唯一のものだったからではないか、と思います。烏帽子は、もともと貴族のものであり、宮中、ひいては天皇とのつながりを想起させます。烏帽子は、貴族の私生活から庶民に広がったわけですが、意識するか無意識かは別としても、庶民の心の中では、宮中につながる尊いものとして受け止められてきたのではないでしょうか。烏帽子は、日本における天皇制のあり方を物語っているのかも知れません。(写真出典:costume.iz2.or.jp)

2022年7月5日火曜日

コリア・タウン

かつて、LAのウィルシャー・ブールバード沿いにあったアンバサダー・ホテルは、LA繁栄の象徴でした。地中海風建築のアンバサダー・ホテルは、1921年に開業し、アカデミー賞の授賞式が行われ、著名人が住居とし、ナイトクラブ”ココナッツ・グローブ”はLA社交界の中心地でもありました。1960年代に入ると、ウィルシャー地区は勢いを失い、アジア系の流入が始まります。1968年、大統領選に向けて遊説中だったロバート・ケネディが、アンバサダー・ホテルで暗殺されると、街は急速に衰退し、韓国人の街へと変わっていきます。1987年、私が初めてLAを訪れた際、ホテルは、既に休業状態であり、1989年、正式に廃業しています。

LAのウィルシャー地区は、世界最大のコリア・タウンと言われます。1992年に勃発したLA暴動の際には、黒人による略奪と韓国人商店主たちによる無差別発砲で有名になりました。世界のコリア・タウンは、歴史の古い中国の延吉、NYの32~34丁目界隈、あるいは大阪の生野区等がよく知られています。ただ、日本で、近年、急速に伸びたのが新大久保界隈です。韓国人が多く住む街というよりも、観光目的にコリア・タウン化が進んだという意味で、独特な街だと言えます。韓国料理店、韓国発祥のファスト・フード店、韓国コスメ店、韓流グッズ店などが軒を並べ、歩けないほど若い人たちであふれています。ここでは、政治的緊張等は、全く無縁です。

新大久保駅のある百人町界隈は、江戸期、伊賀組百人鉄砲隊の屋敷があったことから名付けられた街です。戦前は、閑静な住宅街で、著名な文化人や外国人も住む街だったそうです。戦後復興が進み、新宿歌舞伎町が一大歓楽街として成長すると、隣接する百人町は、歌舞伎町で働く人々の住居、そして風俗街へと変わっていきます。なかには韓国人もいたようですが、1950年、ロッテが新宿工場を建設し、そこで働く人や出入り業者の韓国人が集まってきたことが、コリア・タウン化を進めたようです。また、1948年に起きた済州島四・三事件、あるいは1950年の朝鮮戦争から逃れた人々が、東京に多く流入したという背景もあるようです。

韓国で海外旅行が自由化された1980年代末から、いわゆる”ニューカマー”と呼ばれる韓国人が増え、2003年、TVドラマ「冬のソナタ」の大ヒットから起きた韓流ブームが、新大久保コリア・タウン化を決定づけました。1997年、通貨危機に陥った韓国は、IMFに救済を求めます。それは、とりもなおさず、米国による経済支配の始まりです。外貨獲得策の一つとして、アメリカは、韓国にコンテンツ産業の強化を要求します。こうして、海外をマーケットとする映画や音楽の育成が始まりました。2000年以降に始まるアジアでの韓流ブームは、その成果だったわけです。極端に言えば、IMFによる韓国介入が、新大久保コリア・タウンを成立させたとも言えます。

新大久保以前、東京で、リトル・ソウルと呼ばれたのは赤坂でした。多くの韓国料理店やコリアン・バーがありました。現在、赤坂プリンスのクラシックハウスとなっている李王東京邸があったことから、赤坂には韓国人が多く集まっていたようです。東京のコリア・タウンとしては、若い人たちが集まる新大久保に対して、落ち着いた赤坂といったところです。赤坂も、近年は、新大久保的な勢いのある店も増えています。赤坂の韓国料理店では、昔、よく使ったのが「チョンギワ」でしたが、最近は「ヌルンジ」がメインです。空輸される韓国野菜を使ったサンパッが人気の店です。東京では珍しくソルロンタンがいただける「一龍」も、たまに行きます。高齢者には、やはり赤坂がいいわけです。(写真出典:asahi.com)

2022年7月4日月曜日

節電

猛暑のなか、電力需給の逼迫を背景に、節電が呼びかけられています。ついには”電力需給ひっ迫注意報”なるものまで発出され、7月1日から9月末までは節電期間と設定される事態となっています。連日、行政も、マスコミも、節電しないとブラックアウトが起きると、脅しまがいの節電を呼び掛け、節電のポイントを喧伝しています。 電力需給が逼迫するという予測は事実であり、当面、取るべき対策は節電だということは理解できます。しかし、どこか腹立たしい話でもあります。自然災害による停電はともかくとして、需給に対応できない停電などもってのほかであり、三流国家というしかないと思います。

さらに、節電ポイントなどというお粗末な案が出るに及んでは、呆れすぎて、開いた口が塞がりません。コロナ対策の給付金などで、バラマキ慣れした政治家が、参院選を前に思い付いた下策中の下策です。コロナの感染拡大で、政治家の倫理観も病んでしまったのかと思います。今回の電力需給逼迫の背景として、記録的猛暑の他に、原子力発電所、火力発電所の稼働率の低さ、コロナによる家庭電力消費の増大、ウクライナ情勢によるエネルギー市場の不透明化等が挙げられています。火力発電所は、脱炭素化という圧力のなかで老朽化が進んだことに加え、3月の福島沖地震で東北の発電所が被害を受け、依然として稼働できていないことも理由とされています。

ウクライナ以外は、すべて想定の範囲内の話です。しかも、ウクライナ関連の不安定要素は理解できますが、まだ足元の影響はわずかなものに留まっています。つまり、政府が、十分な対応を取っていなかったことが電力逼迫を招いていると言えます。そのつけを国民に節電という形で回しているわけです。この電力の無策は、参院選の争点にすらなっていません。政府を無策と批判するのは間違いという可能性もあります。政府は、原子力発電所再稼働に向けた世論形成のために、意図的なサボタージュを行っている、という見方もできます。だとすれば、国民を馬鹿にした対応です。姑息な手法であり、安倍元首相お得意の手法です。政府は、中長期の電力政策を提案し、議論し、ロードマップとして具体化すべきだと思います。

EVはじめ電力への依存を高めつつ、カーボン・ニュートラル化を進めるためには、代替エネルギーに頼らざるを得ません。しかし、代替エネルギーの発電効率は、極めて悪く、かつ有効な蓄電技術も不十分な状況です。急速な代替エネルギー化は、コスト増に直結します。必要ならば、国民は、コスト増も節電も受け入れざるを得ません。冷房の効いた部屋で、原子力発電反対など議論してはいけません。より現実的には、原子力発電の安全性を高めつつ、火力発電の効率を高めつつ、その間に、代替エネルギーや蓄電の技術を進化させていくしかないと思います。それをロードマップとして国民が共有することこそが、今、最も必要とされる電力政策だと思います。

東日本大震災直後の節電や計画停電は、まだ記憶に新しいものがあります。薄暗く、人出の消えた東京は、実にさみしいものでした。しかし、一方で、平生、いかに無駄な電力消費を行っているか、ということも知らされました。中国共産党は、三峡ダムで生み出す電力で、上海をド派手にライトアップしています。明るい夜は、人類の夢でもあり、進化の象徴でもあるのでしょう。しかし、無駄な電力消費が地球と人類に与える影響を考えるべき時が来たとも言えます。私案ではありますが、一定規模以上のネオンサインやライトアップ等については、料金か税金を上げてもいいのではないでしょうか。(写真出典:suzuki.co.jp)

2022年7月3日日曜日

「わたしは最悪。」

監督:ヨアキム・トリアー 2021年ノルウェー・フランス・スウェーデン・デンマーク 

☆☆☆☆

とても不思議な感性を持つ映画でした。原題は” Verdens verste menneske(世界で最悪の人)”です。瑞々しい映像と音楽は、水彩画のスケッチを見ているようでした。序章と終章のある13章建てという趣向が、ありきたりな重いドラマ展開ではなく、スケッチの積み重ねのような軽さとテンポの良さを生んでいます。加えて、主演のレナーテ・レインスヴェンの表情豊かな演技が、この新しい映画表現にピッタリ合っています。重苦しいドラマに仕立てるべきかも知れないストーリーを、軽やかに展開してみせることは、この映画の主題にとって、とても重要な要素だったのだと思います。

主人公の気まぐれさは、周囲の人々に困惑や苦痛を与えていきます。周囲の人々とは、かくあるべきという社会的規範とも言えます。特に、子供を持つべきということが象徴的に取り上げられています。それに対して、主人公は反発するというのではなく、違和感を覚えます。一方で、違和感を覚える彼女の特性に、周囲の人々は魅せられます。レナーテ・レインスヴェンが演じてみせる屈託のない笑顔、子供のように純粋な好奇心、困惑を隠さない表情等が、実に雄弁に主人公の人となりを語っています。周囲との違和感こそが、彼女を彼女たらしめている何かであり、同時に、周囲の人々が、彼女に魅せられる何かでもあるのでしょう。

一見すると、大人になりきれない女性が、様々な経験を経て、個人を確立していく、といった映画に見えます。ただ、主人公が感じる”違和感”は、より普遍的な人間性への誠実さでもあります。社会的な規範と人間的であることの葛藤を軽やかに描くという、難易度の高いテーマに取り組み、成功した映画だと思います。本作は、ヨアキム・トリアー監督のオスロ三部作の三作目と聞きます。他の2作は、日本未公開です。ヨアキム・トリアーの類い希な才能は、「テルマ」(2017)で世界をうならせました。北欧的な構図のなかで、スタイリッシュな映像と斬新な演出で展開される新しいホラーの世界は、強烈な印象を残しました。「テルマ」は、ホラーの形をとりながらも、ノルウェー社会が抱える葛藤が描かれていたと思います。

ノルウェーは、経済的にも、教育の面でも、寿命も、男女格差の無さでも世界トップ・レベルの開かれた国です。国連の幸福度ランキングでも、幸福度に関する国民アンケートでも、常に世界トップ・ランクにあります。一方で、自殺やアルコール中毒が多いことでも知られます。宗教的には、原理主義的なプロテスタント・ルター派が大層を占めます。常に謙虚であることが求められる社会であると言えます。しかし、表面的には調和のとれた世界であっても、個々人の内面を押し殺すことで成り立っているとも言えます。社会と個人の調和は、永遠のテーマとも言える難しい問題です。それを見事に調和させているように見えるノルウェーは、個人の内面に大きな葛藤を抱える国でもあるのでしょう。どうも、ノルウェーというとムンクの「叫び」を思い出してしまいます。

ノルウェーの一人当たりGDPは、漁業・工業・石油を背景に約9万ドルに上ります。日本の倍以上です。NATO設立時からの加盟国である一方、いまだEUには参加していません。過去、2度に渡り、EU加盟に関わる国民投票が行われ、否決されています。ただ、各種協定によりEU域内と同等の待遇を受けてはいます。悪い言い方をすれば、相応の負担もせずにいいとこ取りだけしているお金持ちとなります。ノルウェーは、かつてデンマークやスウェーデンの支配下にあり、20世紀初頭に独立します。以降、大国の思惑がうごめく地域にあって、絶妙に生き延びてきた国です。その歴史には、ノルウェーのしたたかさ、そして、ある種の頑迷さを感じます。(写真出典:natalie.mu)

2022年7月2日土曜日

巴御前

世界的に大ヒットしたHBOのTVシリーズ「ゲーム・オブ・スローンズ」には、”タースのブライエニー” という巨躯の女性騎士が登場します。主要な登場人物の一人であり、身長191cmというグェンドリン・クリスティーが演じました。彼女は、スターウォーズにも出演しています。ファンタジーの世界は別として、歴史上、女性騎士は存在しなかったようです。希に、騎士団から騎士として叙された貴族女性の記録はありますが、あくまでも名誉騎士であり、戦場で戦ったわけではないようです。恐らく、騎士の身分ではなくとも、実際の戦場には女性戦士もいたのではないでしょうか。ただ、記録として残るのは、ジャンヌ・ダルクくらいとも聞きます。

それに比べ、日本には、女性の武将や戦士が、それなりに登場しています。鎌倉期までの武家では、女子にも相続権があり、特に東国武士にあっては、一家総出で領地を守る必要もあったのでしょう。戦国の世にあっては、弓が引けて、刀を扱えれば、男も女もなかったのだと思います。江戸幕府が、嫡子相続を制度化すると、女性武将の記録が抹消されていったとも聞きます。大名や家老格の家などでは、幕府から難癖を付けられないように、記録を改ざんしたもののようです。女性領主の記録は、NHK大河ドラマで有名になった井伊直虎はじめ、いくつか残っています。また、上杉謙信女性説も人気があります。宣教師が母国への報告のなかで、謙信を”彼女”と書いていることが論拠の一つになっています。

当時、武芸に秀でた女性は多くいたはずです。白兵戦では、男女の体格差がでますから、多くは弓矢の使い手だったのでしょう。ほとんどが無名のまま消えたわけですが、戦場で名をあげ、あるいは軍記物語のスターになった女性もいます。ただ、彼女たちも、実在した記録は乏しいようです。実在が確認されている女性武将と言えば、小田原征伐で武名をあげ秀吉の側室にもなった武蔵の甲斐姫、弓の名手として鎌倉幕府軍と戦った越後の板額御前、女城主でもあった筑後の立花誾千代等がいます。三島水軍を率いた伊予の大祝鶴姫は、着用した甲冑も残っていますが、実在性は微妙と言われます。最も有名な女性武将と言えば、やはり巴御前ということになります。木曽義仲四天王の樋口兼光・今井兼平兄弟の妹であり、弓矢の名手にして義仲の愛妾だったとされます。

「平家物語」では”色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者なり”とされています。兼光・兼平、そして巴は、義仲の乳母の子であり、幼少期から兄弟のように育ち、強い絆で結ばれていたのでしょう。巴御前に関する伝説は数多くあります。ただ、いずれも軍記物語に記載されるのみで、歴史書や文献には見当たらず、その実在については疑問視されているようです。特に、義仲亡き後、鎌倉に連れて行かれ、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだという説は有名ですが、年代が合わないようです。この説は、板額御前の実話が元になっていると言われます。鳥坂城の合戦で敗れた板額御前は、鎌倉に召され、甲斐源氏の弓の名手浅利義遠に見そめられ、妻となって一男一女をもうけました。ちなみに、板額御前も美しい人だったようです。

「平家物語」では、巴御前とともに、山吹御前という女性も、義仲の側で世話をする便女として登場します。山吹御前は、病を得て都に残り、義仲の最後には同行していません。また、「源平盛衰記」には、葵御前なる女性武将も義仲の従者として登場し、倶利伽羅峠の戦いで戦死したとされます。それぞれの伝説も残っていますが、巴御前以上に、実在性は疑わしいとされています。木曽義仲の没年は1184年。「平家物語」の成立は、13世紀のいずれか、あるいは13世紀初頭とも言われます。13世紀初頭の作だとすれば、義仲の死から、さほど年数が経っていないわけで、あまり荒唐無稽な話は盛り込みにくいと考えます。脚色は当然としても、巴御前、ないしはそれに類した女傑は実在したのだろうと思えます。(写真:関月「巴御前出陣図」出典:ja.wikipedia.org)

2022年7月1日金曜日

プゴクッ

ソウルに行くと、朝、必ず寄る店があります。ソウル市庁裏手にある”ムギョドン(武橋洞)プゴグッチッ”です。30年ほど前、初めてソウルへ行った際に教えてもらった店です。メニューは、プゴクッと呼ばれる干したらのスープだけです。韓国では、二日酔いの特効薬として知られています。朝7時のオープン前には行列が出来ています。韓国の人は、酒をよく飲むので、やはり二日酔いになるわけです。干したらは栄養豊富で、特にタンパク質は、豆腐の8倍と聞きます。プゴクッは、デトックス効果が高く、二日酔いに効くだけでなく、美容にも良いのだそうです。武橋洞プゴグッチッでは、朝から渋い顔をしたおっさんたちが、一言も発することなく、プゴクッをすすっています。

体内に入ったアルコールを分解するのは肝臓ですが、処理しきれなかったアセトアルデヒドが血中に混入すると、頭痛や吐き気といった二日酔いの症状を起こします。対策としては、水分、タンパク質、ビタミンB、糖質等を補給することだと言われます。日本の二日酔い対策では、よくシジミの味噌汁が挙げられます。オルニチンやタウリンが肝機能を高めるだけでなく、アセトアルデヒドの分解にも有効だとされます。干したらには、タンパク質だけでなく、ビタミンB類はじめ、多くの栄養素が含まれています。プゴクッは、実に理に適った二日酔い対策だと言えます。体に染み入るようなスープに、キムチとご飯を入れれば、さらに二日酔い対策としての完成度を増すわけです。

韓国では、味の良さ、栄養の高さから、料理に干したらをよく使うようです。韓国の干したらは二種類あります。風干しのプゴと、凍結乾燥のファンテです。北東部カンウォンド (江原道)産のファンテが最も品質が高いとされます。冬期オリンピックが開催されたピョンチャン(平昌)もカンウォンドにあります。そもそも日本海でのたら漁も盛んなのでしょうが、極寒で乾燥した土地柄が、良質な干したらを作るということだと思います。おおよそ魚介類は、乾燥させると、うま味が凝縮されるものです。日本では、棒鱈として知られ、古くから保存食として北日本で作られ、北前船に乗って日本各地に広がりました。京都平野屋の名物いもぼう等が、代表的な料理です。北欧でも作られ、輸出先であるポルトガルのバカリャウ等はよく知られています。

韓国の食文化の特徴は、スープ類にあります。韓国のスープ類は、日本の主菜と味噌汁が一緒になったようなイメージです。韓国の人にとって、スープのない食事など食事ではない、とも聞きます。スープ類は、薄めのスープである”クッ”、じっくり出汁をとった”タン”、熱いスープの鍋類”チゲ”、スープ少なめの鍋”チョンゴル”などに分類されます。これに、様々な出汁、様々な具材、様々な調味料が組み合わされ、さらには地方による調理法の違いも加わり、実に多くのスープ類が存在します。代表的なクッとしては”ミヨックッ(わかめスープ)”があり、クッにご飯を入れると”クッパ”になります。タンはサンゲタン、ソルロンタン等、チゲはキムチチゲやスンドゥブチゲ等が良く知られています。韓国は、まさにスープの国です。

実は、干したらさえあれば、家でも簡単にプゴクッを作れます。干したらを、10分程度、水で戻し、水分を切って、ごま油とすりおろしにんにくで軽く炒めます。そこに水とダシタを加えて煮ます。ダシタは、実に便利な牛肉出汁です。最後に長ネギと溶き卵を入れて完成です。薄切りの大根や他の野菜を加えれば、一層スープらしくなります。一番、面倒のないプゴクッは、裂いた干したらに水とダシタを加えて煮て、ごま油をかければ出来上がります。コロナ禍で激減していた飲み会が復活しつつあります。干したらを買っておいた方がいいかも知れません。(写真出典:tripping.jp)

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