森下仁丹社の仁丹は、1905年、「赤大粒仁丹」として発売されました。おなじみの銀粒になったのは1929年のことでした。梅毒薬の「毒滅」で成功を収めた創業者の森下博は、台湾で見た丸薬に注目し、研究を重ね、毒消しを効能とする懐中薬の仁丹を開発します。仁丹は、十数種類の生薬を、消毒効果の高い銀でコーティングしています。現代の薬事法下では、医薬部外品の口中清涼剤とされています。仁丹は、発売から2年で売薬のトップに躍り出ます。当時、コレラや梅毒が流行していたことが追い風になった面もあるのでしょうが、加えてマーケティングも見事なものでした。販売店に、幟や看板を提供し、自動販売機まで開発したようです。さらに販売店支援として新聞広告にも力を入れ、急速に認知度を上げていきました。
その際、大きな効果を発揮したのが「大礼服マーク」でした。仁丹社は、「毒滅」発売の際にも、ビスマルクの横顔をロゴとして、盛んに広告を打っていました。立派な髭を蓄えた大礼服の人物は、軍人だと思われがちです。実は、イメージされたのは外交官でした。創業者は、仁丹によって、日本国民のみならず、世界の人々を救いたいと思い、いわば外交官のような薬を目指したのだと聞きます。そもそも仁丹というネーミングも、中国への進出を念頭に、儒教最高の徳である仁を使ったようです。その効果もあったのか、後に仁丹は、中国でも成功します。その際、創業者は、ようやく恩返しができた、と発言したそうです。丸薬の発想、ネーミングに加え、原材料の仕入れ先としても恩を感じていたのでしょう。
仁丹社は、仁丹発売から2年後には輸出部を設置し、海外展開を開始しています。広い中国市場では、通信委託販売という手法を採り、各地の郵便局を販売代理店としました。その数、4,000。中国での売上は、アッという間に日本での売上を超えます。さらに、インドに進出し、大規模な広告の高価もあり、売上は中国に並びます。さらに、ハワイ、インドネシアはじめアジア各国、さらにはアフリカにまで販路を広げています。第二次世界大戦になると、日本製品の不買運動も起きますが、仁丹の海外売上は落ちなかったと言います。その浸透度の高さには驚かされます。その躍進の背景には、まだまだ不十分だった各国の医療事情があったのでしょう。また、販売拡大は、効能の高さというよりも、巧みなマーケティングが大いに効果を発揮した結果だったのではないでしょうか。仁丹社は、マーケの歴史に、大きな功績を残した会社と言えます。
仁丹は、1982年をピークに、売上が落ちています。ガムや各種タブレットといった競合品に押されたわけです。2003年には、ついに赤字企業へと転落します。仁丹社は、三菱商事から社長を招くという決断を行います。これが大当たりでした。過去の栄光に頼る古い体質の会社に、外部から新しい視点が導入されたことで、仁丹社は生き返ります。仁丹で培ったシームレス・コーティングの技術から派生したマイクロ・カプセルは、医薬品や食品の分野に留まらず、広く活用されているようです。また、ローズヒップ、サラシア、テニアンといったサプリメントの原材料でも成功を収めています。ちなみに、仁丹社は、1921年に、子会社として体温計製造会社も設立しています。現在、最大手の一角を占める医療機器メーカー・テルモの前身です。(写真出典:hmaj.com)