2022年10月31日月曜日

こんにゃく

蒟蒻の花
世の中には、なぜこんなものを食べようと思ったのか、不思議になってしまう食品があります。ナマコやウニなどは典型で、最初に食べた人は、尊敬に値します。見た目では、とても食べようとは思わない生き物です。好奇心だったのか、よほどひもじかったのか、いずれにしても、食べるには、結構、勇気が必要だったと思います。ナマコやウニ以上に、感心させられる食べ物にこんにゃくがあります。蒟蒻の花は、西洋で「悪魔の舌」と呼ばれるほどグロテスクで、かつ臭いものであり、いかにも毒性が強そうです。実際、食用にする球根は、シュウ酸カルシウムの毒性が強く、生では食べられません。

蒟蒻を食べるためには、アルカリ処理をして毒性を抜かなければなりません。実に手間がかかります。蒟蒻芋は、粉にしてから水を入れてこね、そこに消石灰などの水酸化カルシウム、あるいは炭酸ナトリウムなどの水溶液を加え、煮沸して固め、はじめてこんにゃくになります。中国や東南アジアでも、同じ方法がとられます。動物がこんなことをするわけもなく、蒟蒻を食べるのは人間だけだそうです。蒟蒻の原産地はインド、あるいはインドシナ半島とされ、日本には、中国経由でもたらされたようです。鎌倉時代には、精進料理として定着し、そこから一般に広がったようです。寺院から一般へという典型的パターンです。

それにしても、何故、これほど手間のかかる代物を食べるようになったのでしょうか。しかも味がないわけで、一層、謎は深まります。試行錯誤を重ねた結果だったとは思えません。試行錯誤は、ある程度、到達点がイメージできていなければ行われません。恐らく、何らかの偶然が、アルカリ処理を発見させたのでしょう。発見した人に、発見の経緯を聞いてみたいものです。よほど空腹だったのでしょうか。こんにゃくは、味も無く、低カロリーですが、空腹は満たされます。逆に言えば、ダイエットにはもってこい、ということになります。現代病には最適でも、カロリーを必要としていた古代人には不適だったはずです。

こんにゃくで思い出すのは、那覇の八重山料理の名店「譚亭」で食べたアダンの実です。ご亭主の説明によると、アダンは毒性があるので、彼らは食べません、とのこと。彼らとは、沖縄本島の人たちのことです。琉球王朝時代、先島諸島の人々は、人頭税などで弾圧され、アダンの実まで食べるしかなかったと言います。アダンは、悲しい過去を伝える食物なわけです。実は、アダンの実に毒性はありません。ただ、強いえぐ味を生み、舌を刺激するシュウ酸塩を含みます。かなり丁寧なあく抜きが必要であり、またかなりの繊維質なので、実際に食べるまでは、数日間に渡る下処理が必要になります。結果、食用には適さないわけです。

 こんにゃくには味がないので、料理は味付け次第です。逆に言えば、どんな料理でも使えるとも言えます。おでん、ピリ辛炒め、タラコ和えなど、好きな料理は数々あるのですが、一番のお気に入りは、山形の玉こんにゃくかもしれません。かつて、あの味を再現しようと、色々考え、作ってみましたが、どうもうまくいきませんでした。山形の人に聞いたところ、謎が解けました。するめイカを使うのです。昆布だしに、醤油と酒、そして少量のするめイカを加えだし汁をつくります。ゆでた玉こんにゃくをからめて、少し置いておきます。その後、水を加えて一日ほど寝かせます。後は、食べる前に、水が少なくなるまで加熱して完成です。味をつけるのにも、手間のかかる代物なわけです。(写真出典:gakii.ti-da.net)

2022年10月30日日曜日

梁盤秘抄#28 Otis Blue

 アルバム名:Otis Blue(1965)                                                                           アーティスト:Otis Redding 

今も昔も、”King of Soul”と言えば、オーティス・レディングを指します。オーティスは、1962年、21歳のおり、スタックス傘下のヴォルトからリリースした”These Arms of Mine”がヒットし、一躍、注目を集めます。そして、わずか5年後の1967年、自家用飛行機が墜落し、返らぬ人となりました。享年26歳。死ぬ3日前に録音した”The Dock of the Bay”は、ビルボードのヒット・チャートで全米No.1となり、今も、サザン・ソウルを代表する曲というに留まらず、R&Bの不朽の名作として記憶されています。アルバム”Otis Blue”は、1965年にリリースされ、R&Bのアルバム・チャートで1位を獲得しました。オーティスのアルバムのなかでは、最も評価の高い歴史的名盤です。

既に絶大な人気を誇るオーティスでしたが、このアルバムでは、自作3曲、盟友サム・クックの作品3曲の他に、テンプテーションズの”My Girl”、ウィリアム・ベルの”You Don't Miss Your Water”、あるいはローリング・ストーンズの”Satisfaction”といったヒット曲もカバーします。しかも、カバー曲は、Satisfactionですら、オーティスのオリジナル曲かと思うほど、彼の世界が小気味よく展開されています。Satisfactionのカバーは、ストーンズのオリジナルが発売された1ヶ月後に録音されています。さる評論家は、ストーンズがオーティスをカバーしたのだと誤解し、キース・リチャーズは、オリジナルのアレンジが気に食わず、オーティス版のように演奏したかったとも語っています。

R&Bの新たな地平線を確立したオーティスは、さらなる高みを目指していたのでしょう。このアルバムは、人種の壁を超えたR&Bの立ち位置を目指した最初の試みだったと思われます。その後、オーティスは、周囲の反対をよそに、LAのウィスキー・ア・ゴー・ゴーやモントレー・ポップ・フェスティバルに出演します。ロック・ファンの前で黒人シンガーが歌うことなど皆無という時代でしたが、観客の心をしっかり掴みます。そして、それらの試みは、R&Bを超えたR&Bの傑作”The Dock of the Bay”へとつながっていきます。従来のR&Bと違いすぎることから、周囲はリリースをためらったと聞きます。ただ、当人は、俺の初めてのNo.1ヒットになる、と予言し、死後でしたが、まさにそのとおりとなりました。

強烈なリズム感、力強いシャウト、正確なピッチで歌いあげるバラード等も、オーティスの魅力です。しかし、オーティスの、少しザラついた声、メリハリある強弱で表現する歌い方は、伝統的なR&B歌手とは異なる独自性を生んでいます。オーティスが、人種の壁を越えた存在になった要因の一つかも知れません。Satisfactionのカバーを提案したのも、The Dock of the Bayを共作したのも、スティーブ・クロッパーです。彼は、同じ白人のベーシストであるドナルド・ダック・ダンと共に、スタックスのスタジオ・ミュージシャンとして、あるいはブッカーT&MG'sのメンバーとして活躍しました。1966年、オーティスのロンドン入りを迎えたのは、ビートルズが手配したリムジンでした。”The Dock of the Bay”は、ビートルズの”Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band”に刺激された曲とも言われます。

”The Dock of the Bay”は、絶望的な歌詞なのに、何故か癒やされます。人間や人生に対する共感や慈愛がベースにあるからだと思います。それは、当然、人種を越えた普遍性を持っています。オーティスが、”Otis Blue”で歩み始めた道は、そこが到達点だったように思えます。涅槃の境地に達したオーティスが死ぬのは、ある意味、必然だったのかも知れません。ロックンロールを生んだメンフィスという街、サザン・ソウルを生んだスタックスというレーベル、そこは黒人音楽と白人のセンスが出会った場所です。人種の壁を超えた時、新しい音楽が生まれます。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年10月29日土曜日

中村仲蔵

落語「中村仲蔵」は、サクセス・ストーリーです。天才や良い血統のもとに生まれた者が、順調に大家になるのであれば、サクセス・ストーリーは成立しません。何の後ろ盾もなく、苦労を重ね、あるいはいじめられ、後に大輪の花と咲くからこそサクセス・ストーリーです。中村仲蔵は、そういった要素をすべて持つ出世噺であり、確実に観客の涙を誘います。先日、国立名人会で、柳家さん喬の中村仲蔵を聞きました。場内では、涙を拭く観客が多くいました。さん喬は、聞かせる噺家です。国立名人会のトリの持ち時間30分では、やや短いようにも思います。六代目三遊亭圓生は、小一時間かけて話していました。もっとも、中村仲蔵を得意とした八代目林家正蔵(林家彦六)は、30分程度で話していたようです。

モデルとなった初代中村仲蔵は、江戸中期、名人と呼ばれるまでになった立志伝中の歌舞伎役者です。出生に関しては諸説ありますが、幼少期には踊りの師匠の養子となったようです。その後、踊手から役者に転じ、舞台に立ちます。一時期は、役者から身を引き、商売をしたり、踊りの稽古を付けていたようです。18歳になると、歌舞伎に復帰しますが、なかなかうまくいかず、蔑まされ、いじめも受け、自殺未遂まで起こしています。それでも、仲蔵は、一心に芸を磨き、その姿勢が、四代目市川團十郎の目にとまり、庇護をうけることになります。腕をあげ、名代となり、屋号まで持った仲蔵に、仮名手本忠臣蔵五段目の斧定九郎の役がきます。客が弁当を食べる弁当幕のセリフも少ない端役です。出世した仲蔵へのやっかみで行われた配役だったのでしょう。

定九郎は、塩冶判官の家老の息子ながら、放蕩の末に勘当され、盗賊に身をやつしています。おかるの父親を殺して金を奪いますが、猪と見間違えた勘平に鉄砲で撃たれ、あっけなく死にます。仲蔵以前の定九郎は、山賊の姿で演じられていたようです。仲蔵は、それを黒羽二重に献上博多帯、朱塗りの鞘という現在にまで至る衣装に替え、一躍、定九郎を人気の役にしました。また、破れ傘を振り回したり、血糊を使うなど演出も派手だったようですが、後の歌舞伎では、セリフも減り、かなり簡略化されました。文楽で五段目を見たことがありますが、浄瑠璃の方が、仲蔵時代に近い演出かも知れません。いずれにしても、仲蔵は評判をとり、一気に看板役者にまで登り詰めます。

落語では、仲蔵が新しい定九郎の姿を思いついた場面が語られます。人が驚くような定九郎の着想を得ようと、仲蔵は妙見様に願をかけます。良い案も浮かばぬままに満願を迎え、家路を急ぐ仲蔵は、雨に降られ、蕎麦屋で雨宿りします。そこへ黒羽二重を雨に濡らした木っ端旗本が、破れ傘を片手に駆け込んできます。それを見た仲蔵は、これだ!と思います。落語では重要な場面ですが、実際のところは、団十郎たちが定九郎の新たな衣装の話をしているのを聞いた仲蔵が、興味をひかれ、是非とも、その定九郎をやらせてくれと頼み込んだのだそうです。四代目団十郎も、芝居茶屋の次男坊から名跡を継ぐまで出世した人であり、歌舞伎を変えたとまで言われる名人です。名人の発想を名人が、見事に演じきったというわけです。

初代中村仲蔵の妻お岸は、長唄の七代目杵屋喜三郎の娘でした。落語では、このお岸さんが、実に賢く夫仲蔵を導きます。端役にくさる仲蔵を諭し、舞台に失敗したと思い込み、上方へ逃げようとする仲蔵を、快く送り出そうとします。サクセス・ストーリーにおいては、真の理解者の存在は欠かせません。主人公には、折れた心と消えない向上心の二つが同居しています。その向上心を体現しているのが、出世噺の妻ということになります。出世噺の主人公は、いつも夫と賢い妻の二人だと言えます。(写真:四代目尾上松緑の定九郎 出展:shouroku-4th.com)

2022年10月28日金曜日

「輝かしき灰」

監督:ブイ・タック・チュエン    2022年ベトナム・フランス・シンガポール

☆☆☆☆ー

ホーチミン市へ行った際、メコン・デルタ・クルーズというツアーに参加しました。メコン・デルタを船で進み、小舟に乗り換えてジャングルのなかを巡るというものでした。昼食は、ジャングルのなかに建屋が点在するようなレストランでいただきました。そのヴェトナムらしいしつらえと川魚料理の味の良さが印象に残りました。また、メコン・デルタの農村の素朴な生活ぶりを垣間見れたことも良かったと思います。一つ、意外だったのが、川の匂いです。例えば、バンコクでは、うっすら漂う川の匂いが気になります。それが無かったのです。

「輝かしき灰」は、ヴェトナム南端の農村が舞台となっています。東京国際映画祭のコンペティション部門に参加するワールド・プレミア作品であり、意外にも、ヴェトナム映画としては、コンペ部門初参加とのこと。監督・プロデューサー・俳優たちも出席し、主にマスコミ向けなのでしょうが、上映後にはQ&Aも行われていました。原作は、ヴェトナムを代表するグエン・ノック・トゥという作家による小説だそうです。ブイ・タック・チュエンは、海外でも多くの賞を獲得してきた著名な監督であり、ドラマもドキュメンタリーも撮っています。作品は、一部、日本でも公開されているようです。

映画は、三人の女性と、そのパートナーとの関係を描いています。料理、裁縫も得意な美人で華やかな女性は、優しい美男子と結婚します。ただ、彼女の不注意で娘を亡くすと夫は心を病んでいきます。地味で堅実な農民の娘は、妊娠したことで憧れていた無骨な青年と結婚します。ただ、夫は前述の美人への思いを断ち切れず、海で働き、家には居着きません。今一人の女性は、少女時代にレイプされ、精神のバランスを失っています。彼女は、刑期を終え、村に戻ったレイプ犯を慕い続けます。三者三様の愛の形とも言えますが、ヴェトナム社会の今日的な姿が投影されているようにも思えます。

アジアの映画は、おおよそ台湾ニューシネマの影響下にあります。ブイ・タック・チュエン監督も同様に、自然主義的、写実的で、じっくりとカメラを構えます。ただ、台湾ニューシネマの叙情性とは異なり、キッチリと計算されたドラマ性があります。クリアに、緑と川と雨を映し出すカメラも見事なものです。特に、夜のジャングルのなかで燃え上がる家を、川越しに撮った映像は、美しく、象徴的で印象に残りました。また、民族的なテーマに基づくモダンな音楽も、実に効果的で耳に残ります。本作は、単純でエモーショナルな映画だと言っていた女性プロデューサーは、アオザイをデフォルメした美しい服を着用していました。伝統をしっかり踏まえたモダンさが、今日的ヴェトナム文化の特徴かもしれません。

さて、川の匂いの話ですが、バンコク市内を流れるのは、チャオプラヤー川です。泥色の大河です。都市部を流れる川は、どうしても汚れ、ヘドロも堆積しやすく、匂いが発生しやすいのでしょう。一方、メコン川も泥色をした大河がですが、メコン・デルタあたりは、ジャングルのなか、あるいは水田地帯を流れます。これが匂いの違いにつながっているのでしょう。本作に登場する川も、やはり泥色です。ただ、恐らく嫌な匂いはしないのではないかと思われます。水田の国ヴェトナムは、上手に自然のバランスを保ってきたように思います。ヴェトナム社会も同様な面があるように思いますが、そのバランスは、まだまだ女性の犠牲のうえに成り立っているのかもしれません。(写真出典:kinhteplus.com.vn)

2022年10月27日木曜日

カルバチネ

Carbatinae
父親が、イタリア製の靴は世界一だ、と言っていたことを覚えています。デザイン性の高さのことだと理解していました。ところが、初めてローマを訪れた時、デザインの問題だけではないことが、よく理解できました。ローマは、石畳の町です。なかには古代ローマにまでさかのぼれるような古い石畳もあります。柔な靴では、あんな道を歩けませんし、すぐに壊れてしまいます。デザイン性だけではなく、かなりしっかりした作りの丈夫な靴でなければ、ローマでは暮らせません。従って、ローマの人たちの靴を見る目も厳しくなり、結果、世界一の靴が生まれたのでしょう。

人類が、いつ靴を履き始めたかは、太古の昔からとしか言いようがないと思います。7000年前のヨモギの樹皮で作られた靴がアメリカで発見され、一応、これが最古とされています。ただ、残っていないだけで、数万年前から履いていたのでしょう。3000~4000年前頃からは、皮の靴が履かれていたようです。ただ、古代ギリシャの人々は、あまり靴を履くのが好きではなかったようです。どうも、靴を履くことは軟弱だと思っていたようです。かのアレキサンダー大王も裸足で、裸足の兵を率いて大遠征を行ったわけです。あらゆる点においてギリシャを手本とした古代ローマですが、靴だけは履いていたようです。土地や気候、あるいは戦った地域の広さの違いなのかも知れません。

古代ローマの兵士の靴は、数多く出土しています。”カリゲ”と呼ばれるサンダル状のブーツのようなものです。厚い皮底に鋲を打ち付け、多数の皮紐で足首までを固定しています。寒冷地では、ソックスを併用していたようです。2世紀頃には、一般人も使用していた足全体を皮で覆う”カルバチネ”という靴に変わります。その後、古代ローマでは、サンダルからブーツまで、実に多様な靴が作られていったようです。支配地域が広大であり、様々な気候や風土に対応する必要があったのでしょう。また、社会の成熟とともに、靴は身分を示すものとして使われていたようです。イタリアの人々は、2000年に渡り、靴を作り続けてきたわけです。そりゃ、世界一の靴ができるわけです。

ただ、イタリアの靴造りは、その長い歴史が仇になり、機械化や工場生産といった近代化が遅れます。職人の多かったイタリアは、産業化が進んだイギリスやアメリカにお株を奪われる格好となったわけです。第二次世界大戦後、イタリアの製靴産業も、ようよう近代化が進むことになります。すると、スチール芯の入ったセクシーなピン・ハイヒール、マッケイ製法による軽やかでおしゃれな紳士靴など、技術力に裏打ちされたデザイン性の高さで、世界を魅了することになります。レディースではサルヴァトーレ・フェラガモ、プラダ、ヴァレンティノ等、メンズではサントーニ、マリーニ、ア・テストーニ等、イタリアの靴業界は、高級ブランドがひしめいています。

紳士靴に関して言えば、イギリス製とイタリア製は、好対照と言えます。どっしりとして格調の高さを感じさせるイギリス製に対して、軽やかで洒落のめした印象のイタリア製ということになります。その外見の違いは、主に製法の違いによります。イギリスのグッドイヤーウェルト製法は、アッパーと中底とウェルトを一体的に縫い付け、それをアウトソールに縫い付ける製法です。ウェルトとは、アッパーとアウトソールを接合するための縁取りです。従って、上から見ると、靴底が張り出しているような感じになります。イタリアのマッケイ製法は、アッパーと中底を直接アウトソールに縫い付けます。軽やかで、皮で足を包み込むような印象になります。雨の多いイギリスと乾燥したイタリアという気候が生んだ違いなのでしょう。マッケイ製法は、どことなく、一枚皮から加工した古代のカルバチネの伝統が活きているように思います。(写真出典:der-roemer-shop.de)

2022年10月26日水曜日

爆弾三勇士

1932年、日本の謀略によって第一次上海事変が勃発します。日本は、満州事変後に高まった中国の抗日運動を抑え、かつ列強の目を満州からそらす目的がありました。戦線が拡大すると、日本軍は、十九路軍が上海郊外の廟行鎮に構築した陣地の攻略に苦慮します。日本軍は、破壊筒をもって鉄条網の爆破を決行します。日本軍では破壊筒と呼ばれたバンガロール爆薬筒は、長い筒状の爆薬筒で、接近が困難な障害物を除去するために使われます。独立工兵大隊所属の一等兵3名が1組となり、3mの破壊筒を抱え、敵陣に向かいます。一人が被弾し、一旦、止まりますが、再び敵陣に突っ込み、見事、鉄条網を爆破します。ただ、3名とも爆発に巻き込まれ、戦死します。

有名な「爆弾三勇士」です。人命の軽視は、後の神風特攻隊にもつながる日本軍の伝統のようにも思いますが、当時は、まだそのような風潮はなく、自爆攻撃に、日本中が驚かされたようです。それだけに、この英雄的行動は、国民を熱狂させます。普通に考えれば、軍部とマスコミが、国民を煽ったとしか思えません。ところが、実際には、ごくシンプルな第一報に国民が過剰に反応し、軍部とマスコミがその後を追う形で展開していったようです。国民の反応を背景に、関連報道は過熱し、巨額の弔慰金が寄せられ、緊急出版が相次ぎ、映画・芝居・歌が多数作られ、あやかり商品が出回り、ついには教科書で賛美されることになります。日本が軍国主義へと向かうなか、爆弾三勇士は、まさにブースターとなったわけです。

国民の熱狂の背景には、世界恐慌によって疲弊した日本社会の惨状があったのでしょう。そういう意味では、爆弾三勇士の熱狂も、軍部による満州進出も同根だったと言えます。 関東大震災や金融恐慌の傷が癒えぬまま、世界恐慌に直面することになった日本は、生糸中心に輸出が激減、株価は暴落、企業倒産が相次ぎ、失業者が街にあふれます。同時期に行われた金解禁の影響もあり、深刻なデフレも進行します。特に農村部のダメージは大きく、農作物は売れず、価格も低下、そこへ冷害による凶作、三陸津波にまで襲われ、壊滅的とも言える状況に陥ります。食べるものにも事欠き、少女たちの身売りも横行します。国民にとって、満州は避けがたい選択肢であり、爆弾三勇士は、闇を照らす光明だったのでしょう。

爆弾三勇士に関する事実は、巷間伝わる話とは、多少異なるようです。決死隊とされますが、実際には、バンガロール爆薬筒を鉄条網の下に設置し、点火して戻るというのが手順だったようです。しかし、鉄条網の下で点火する余裕がなかったことから、予め点火して突撃したようです。それでも帰還する時間はあったようです。三勇士が爆死したのは、途中で被弾した兵士が倒れ、そこで時間のロスが生じたためだったようです。再度、立ち上がって突撃させたのは、上官の命令でした。上官は、爆死の可能性を十分に認識していたと思われます。三勇士が決死隊を志願したという話も後付けということになります。このあたりの事情は、軍部も把握しており、記録にも残っているようです。ただ、それを声高に言える状況ではなかったのでしょう。

日本軍の人命軽視の風土を生むことにもなった爆弾三勇士ですが、上海事変では、「生きて虜囚の辱を受けず」という戦陣訓のもとになったとされる事案も起こっています。空閑昇少佐の自決です。負傷して人事不省に陥った空閑少佐は、国民党軍に助けられ、捕虜交換で日本軍に戻されます。上官の供養のために、自身が捕虜になった場所へ戻った空閑少佐は、そこで拳銃自殺を遂げます。空閑少佐の自決は、マスコミと国民の間で、美談としてもてはやされ、後の戦陣訓へとつながったという説もあります。軍国主義の時代を象徴する形となった爆弾三勇士も、空閑少佐も、痛ましい戦争の犠牲者であったことは間違いありません。ちなみに、爆弾三勇士が爆破した鉄条網の穴から突撃した日本軍は、廟行鎮の制圧に成功しています。(写真:芝・青松寺にあった三勇士の記念碑 出典:asahi.net.co.jp)

2022年10月25日火曜日

フット・スロー

いつの頃からか、ホテルのベッドの足側に、帯状の厚手の布が掛けてあるようになりました。米系の高級ホテルから始まったように記憶します。それが、瞬く間に広がりを見せ、今ではビジネス・ホテルのようなところでも、見かけるようになりました。見た目、高級感があっていいのですが、正直なところ、ベッドに入るときには、邪魔くさい飾りだと思っていました。そこそこ綺麗な布なので、床にほうるのもいかがなものかと思い、たたんで椅子の上に置きますが、それも面倒な一手間です。最近になって、それがフット・スロー(Foot Throw)、あるいはベッド・スローと呼ばれるものであることを知りました。

フット・スローは、単なる飾りではなく、土足のまま、ベッドのうえに寝転んだ際、掛け布団が汚れないように置かれているのだそうです。靴を脱ぐ習慣のある日本人からすれば、あまり意味はありませんが、欧米人にとっては実用的だということになります。しかし、土足用にしては綺麗に過ぎて、足を乗せにくいような気もします。かつて、良いホテルのベッドには、ベッド・カバーが掛けてあったものです。ベッド・カバーがあれば、土足のまま乗ることも、あまり気になりませんでした。いつの間にか、ホテルでベッド・カバーを見かけなくなりました。ベッド・カバーよりも生地が少なくて済むフット・スローに替えて、コスト・ダウンを図ったのかと思いました。

それも、多少はあるのかも知れませんが、フット・スローが登場したのは、別に立派な理由がありました。ホテルにおけるベッド・メイキングの変革です。かつては、マットレスをシーツで覆い、その上にトップ・シーツのかけ、その上に毛布を乗せ、端をマットレスの下に折り込んでいました。トップ・シーツの首元は折り返しておきます。そして、ベッド・カバーを掛けるというのがスタンダードでした。ところが、近年、デュベ・スタイルというのが主流になったのだそうです。デュベとは、フランス語で羽毛のことです。ホテルでは、重い毛布に比べ、軽くて、寝心地の良い羽毛布団を使うことが多くなりました。毛布の重さで安定していたトップ・シーツは、軽い羽毛布団では塩梅の悪い代物になります。

そこで、トップ・シーツをやめ、羽毛布団にカバーをかけるスタイルが増えたのだそうです。随分、手間がかかりそうですが、カバーには大きな開口部があり、軽い羽毛布団なら扱いやすいわけです。デュベ・カバーの端はマットレスに折り込んでおきます。デュベ・カバーがベッドを覆っていることに加え、羽毛布団の軽さを維持するためにも、重いベッド・カバーを止めたのでしょう。ベッド・カバーに代わりとして、土足用にフット・スローが必要になったというわけです。10年ほど前、飛行機か新幹線の備付誌のコラムで、裏千家の千玄室大宗匠が、フット・スローについて、なんじゃこれは、馬鹿なことをするな、と書いておられました。まったく同感だと思ったものです。大宗匠にも、デュベ・スタイルについて、お知らせしたいところです。

余談になりますが、やはり最近知った話に、玄関ドアの話があります。日本の玄関ドアは、外開きが主流で、欧米では内開きが基本なのだそうです。そもそも、ドア自体は、欧米から入ってきた文化なので、欧米と同様に内開きであって当然のように思います。ところが、屋内では靴を脱ぐという日本の文化からして、玄関には、靴を脱ぐスペースが必要になります。そこで、外開きが主流になっているだそうです。靴を脱ぐ文化にとって、フット・スローは意味がなく、ドアの外開きは必要不可欠ということになります。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年10月24日月曜日

茶粥

昔、和歌山県で聞いた話ですが、和歌山県民は、毎日のように熱々の茶粥をかきこむことから、ガンになる人が多いというのです。確かに、和歌山県は、ガン罹患率の高い県でした。しかし、それと茶粥との関係は、今一つピンと来ませんでした。実は、その話のもとは、茶粥発祥の地とされる奈良県の話でした。熱々で、塩を入れた茶粥は、奈良県民のソウル・フードです。明治期に編纂された「古事類苑」では、「大和では農家にても一日に四五度の茶粥を食する」とまで記載されているそうです。ところが、戦後、胃潰瘍、胃ガンの罹患率が高かった奈良県では、その原因が茶粥だとされ、茶粥禁止が呼びかけられます。後に、茶粥とガンとの関係は否定されたものの、以降、茶粥の文化は、徐々に廃れていったようです。

とは言え、茶粥は、依然として奈良を代表する食文化です。日本を代表するクラシック・ホテルである奈良ホテルは、その朝食のメニューに茶粥を掲げます。ほうじ茶で炊いた茶粥は、香ばしく、上品な味わいがあります。ただ、塩分も控えめ、味もかすかなものです。奈良ホテルの朝食時のテーブルには、塩昆布と梅干しが置かれています。やはり、塩気と味が物足りないと思う客が多いのでしょう。茶粥の発祥ははっきりしないものの、粥自体は、文献上、8世紀の大仏建立時の記録にも登場するようです。茶粥が一般化したのは、鎌倉時代の寺院からだったとされます。一節によれば、茶箱の底に溜まりがちな茶粉を始末(節約)するために、茶粥が生まれたとも言われます。

近畿地方には、「大和の茶粥、京の白粥、河内のどろ食い」という言葉があるそうです。河内の粥は、ドロドロなのだろうと思われますが、対して奈良の茶粥はサラサラ系です。奈良では、番茶やほうじ茶を煮出し、そこに冷飯を入れて朝食に出すことが多く、熱いお茶漬けといった風情です。これを”入れお粥”と呼び、お茶で炊き上げたものは”揚げお粥”と呼ばれます。東大寺二月堂の修二会、通称”お水取り”は、堂舞台で火のついた松明を振り回す光景が有名です。修二会自体は、二週間に渡る苦行であり、食事は日に一度だけ。ただし、夜食として茶粥が出るのだそうです。炊いた茶粥の米だけを半分すくい、お櫃に入れます。これを”げちゃ”と呼び、食べる時には、その上に”ごぼ”と呼ばれる炊いた茶粥をかけるのだそうです。

恐らく、この修二会の茶粥が、簡素化されて、一般にも広がっていったのでしょう。そのせいか、朝の茶粥には、どことなくお寺さんの匂いがするように思います。そもそもお茶とお寺さんは切ってもきれない縁があります。お茶は、遣唐使たちが日本に持ち込んだようです。8世紀初頭には、天皇がお茶を僧に振る舞った記録があります。茶の栽培に関する伝承としては、最澄起源説をとれば甲賀の朝宮茶、空海起源説をとれば宇陀の大和茶が始まりとなります。しかし、長く唐に滞在した僧永忠が茶の種子を持ち帰ったのが本当の起源ではないかとされます。遣唐使の廃止とともに、一旦、茶は廃れますが、12世紀末、臨済宗の開祖・栄西が宋から茶の種子と文化を持ち帰り、茶の湯の文化が開花します。

茶粥の起源は判然としないものの、鎌倉期あたりに、寺院から広まったとみるのが妥当なのでしょう。ただ、不思議なのは、古くから茶粥を食べてきたのは、奈良県・和歌山県・三重県の一部であり、他の地域への伝播は、ごく限られています。粥自体は、古くから全国で食べられてきました。お茶も全国へ広がりました。想像するに、他の地域では、簡便で単純な茶漬けとして普及したのであって、奈良のような熱々のほうじ茶という香ばしさや手間に対するこだわりが抜け落ちていったのでしょう。その違いを生んだのは、大和の歳時記としてみじかな存在だった東大寺二月堂のお水取りの存在なのではなか、と思います。(写真出典:daiei.co.jp)

2022年10月23日日曜日

サンレモ音楽祭

ジリオラ・チンクェッティ
 1960年代の日本には、シャンソンとカンツォーネの大ブームが起きました。いずれも、単に「歌」を意味する言葉であり、それぞれ長い歴史を持ちますが、ここでは当時のポップスを指しています。つまり、フランスとイタリアの流行歌が、日本でもバカにうけたわけです。オリジナル曲が大ヒットし、カンツォーネは、本国イタリアのセールスを日本が上回る事態まで発生します。さらに、日本の歌手がカバーをリリースし、これも大ヒット。また、オリジナル曲を歌う歌手が、日本語ヴァージョンを発売し、これまた売れるという大ブームでした。カンツォーネ・ブームは、1959年、ミーナ・マッツィーニが歌った「月影のナポリ(原題:Tintarella di luna)」から始まったとされます。

「月影のナポリ」は、岩谷時子が詞をつけ、森山加代子とザ・ピーナッツがカバーし、大ヒットしています。面白いことに、原題にも歌詞のなかにも、一切、ナポリは登場しません。また、ミーナ・マッツィーニは言いにくいと思ったのか、日本では、単にミーナとクレジットされました。カンツォーネの輸入には、それなりの工夫もされていたわけです。1964年、ミーナ・マッツィーニは「Un Buco Nella Sabbia(砂に消えた恋)」をヒットさせ、弘田三枝子、伊東ゆかり、ザ・ピーナッツ等がカヴァーしています。ちなみに、ミーナ・マッツィーニと言えば、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「太陽はひとりぼっち」の印象的なテーマ・ソングも歌っています。

1964年になると、日本のカンツォーネ・ブームは、ジリオラ・チンクェッティとボビー・ソロの登場で勢いを増します。その年のサンレモ音楽祭で、16歳のジリオラ・チンクェッティは「 Non ho l'età(夢見る想い)」を歌い優勝します。そして、「Una lacrima sul viso (ほほにかかる涙)」を歌ったボビー・ソロも入賞します。この2曲が、日本でも、爆発的なヒットを記録します。以降、サンレモ音楽祭は、日本でも注目されことになり、テレビ放送まで行われました。なお、ボビー・ソロは、翌年に「Se piangi, se ridi(君に涙とほほえみを)」で優勝、さらにその翌年66年には、再びジリオラ・チンクェッティが「Dio, come ti amo(愛は限りなく)」で優勝しています。

サンレモは、イタリアの西部、モナコに近い地中海沿いにあります。1951年から、サンレモ音楽祭が開催され、1955年からは、イタリア全土に中継されるイベントになります。1958年の優勝曲「Nel blu dipinto di blu」が"Volare(ボラーレ)”の名で世界的にヒットし、音楽祭は勢いづきます。その後も、「チャオ・チャオ・バンビーナ」や「アルディラ」等のヒット曲を生み出していきます。しかし、1960年代も終わりに近づくと、イタリア経済の衰退とともに、規模は縮小されていきました。それと同時に、日本のカンツォーネ・ブームも廃れていったとされます。しかし、ブームの終焉は、イタリア経済が原因というわけではなく、世界的な時代の変化を受けたものだったと思われます。

甘いメロディやせつなく歌いあげるカンツォーネのスタイルは、混迷の60年代後期、そして世界が方向性を失った70年代にはそぐわないものになっていました。シャンソンも同様ですし、アメリカでは、モータウンも社会の変化に直面し、ブラジルでは、軍事政権下でボサノヴァの弾圧が行われます。パックス・アメリカーナ(アメリカによる平和)に陰りが見え始めると、日本のシャンソン・ブームも、カンツォーネ・ブームも消えていったわけです。ただ、サンレモ音楽祭は、今も継続されています。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年10月22日土曜日

魅力度ランキング

抗議する群馬県知事
かつて会社に入ると、自分の印鑑が必要になり、私は、一番安い竹製のものを持っていました。立派な印鑑である必要を感じなかったので、それで十分でした。30歳前後、営業現場でセールス・マネジャーになると、近所の銀行の支店長から、マネジャーになったら、そんな印鑑じゃダメだと言われました。それもそうだと思い、出入りの印鑑屋3軒に声を掛けました。当時の印鑑屋の商売は、無料で姓名判断を行い、そこから販売につなげるというものでした。姓名判断は、どこも同じような結果でした。いい名前だ、出世する、ただ、一カ所、家族を失う相がある。それを回避できる印鑑の作り方がある、というわけです。

会社の後輩に、学生時代、占術同好会に所属し、手相見もやっていたという奴がいました。何度か、手相を見てもらううちに、彼らの手法が分かってきました。手を持つと、しばらくは何も言わずに、広げたり、すぼめたりしています。すると、「う~む」と一回だけうなります。こっちは、何か悪い相でも出ているのか、と心配が募り、早く結果を聞きたくなります。この時点で、何を言われても信じる態勢が出来上がっているというわけです。不安を煽り、依存を高めていくという、初歩的なマインド・コントロールの手法だと思います。同じような匂いを感じさせるのがブランド総合研究所の「都道府県魅力度ランキング」だと思います。 

都道府県魅力度ランキングは、同社が、毎年行っている「地域ブランド調査」のなかの一項目だそうです。調査の目的は、各県・各市のブランド力を総合的に調査し、そのデータを販売するとともに、ブランド力醸成のコンサルティング契約を獲得するということのようです。データ販売に関しては。400を超す自治体が購入しているようです。マスコミに公表されるのは都道府県魅力度ランキングだけであり、いわば広告塔の役割を担っています。マスコミも、面白おかしく報道し、最下位グループの県は、一喜一憂します。まさにブランド総合研究所の思うつぼです。ただ、県民は冷静だと思います。大騒ぎするのは、県庁の役人、それも観光課などに所属する人たちだけだと思います。

栃木県や群馬県の知事は、調査が信頼性や妥当性に欠けるとして、研究所に抗議しています。しかし、印鑑屋や手相見の手法に抗議するようなもので、意味がないと思います。魅力度ランキング自体は、統計としての要件を満たしています。ただ、順位付けに意味があるとは思えませんし、根本的には「魅力度」なるものの定義が判然としません。旅先としての訪問意向、好きか嫌いかといった好感度の調査なら、定義は明確です。魅力度では、回答者によって定義がブレすぎるので、統計手法上は成立しても、データとしては無意味だと思われます。ましてや、順位付けなどあり得ません。魅力度ランキングの公表は、マスコミの特性、統計のマジック等を、よく心得た巧妙な手法だと思います。

青森県庁の人から依頼を受け、会社で青森フェアを開催したことがあります。物販コーナーを設け、社員食堂では、名物料理や青森の食材を使ったメニューを出し、夕刻は食堂のバー・コーナーで地酒の利き酒会を開きました。大成功でした。それを聞きつけた茨城県関係者から、同様のフェア開催の依頼がありました。当時、茨城県は、魅力度ランキングで不動の最下位を続け、マスコミでいじられていました。最下位脱出のために協力してくれ、というわけです。ただ、最下位を脱して、ワースト2位か3位になれば、話題性を失うのではないですか、と申しあげたところ、当然ですが、嫌な顔をされました。(写真出典:tokyo-np.co.jp)

2022年10月21日金曜日

米粉

日本では、麺と言えば、おおむね小麦粉かそば粉から作られます。中国南部や台湾、そして東南アジア一帯では、麺と言えば、多くは米粉から作られます。日本も稲作の国です。なぜ米粉の麺がないのか不思議でした。どうやら、それは米の品種の違いによるところが大きいようです。粘着性が高く短い粒のジャポニカ米とパサパサとした細長い粒のインディカ米の違いです。インディカ米は、脱穀の段階で、割れる粒が多く、それを無駄にしないという発想から米粉の文化が生まれたと言われます。一方のジャポニカ米は、米粉に加工することが難しいため、米粉麺は日本に根付かなかったようです。

麺の発祥については、諸説あるようです。アラビア説、イタリア説もあるようですが、中国では、4,000年前に雑穀から作られた麺の痕跡が見つかっています。中国に小麦と製粉技術が伝わったのは、3世紀の漢代でした。種々の麺料理も生まれ、上流階級では、主食にまでなります。ただ、麺が一般化するのは、12世紀の宋代になってからです。宋では、夜、庶民が外出することが認められ、屋台での食事が流行します。その中心となったのが、麺、饅頭、餃子といった麺料理だったとされます。北方の金王朝の圧迫を受けた宋は、中国南部へと展開し、南宋の時代を迎えます。麺の文化は、中国南部にも伝播し、南方の主食だった米を使った麺づくりが始まります。

中国には、多様な麺文化があります。製麺方法、麺の形、スープの味、トッピングなどによって、多種多様です。米粉麺も同様ですが、代表的なものとしては、福建省発祥で台湾の新竹などが有名なビーフン(米粉)、雲南省発祥で過橋米線に使われるミーシェン(米線)、あるいは広東省発祥のホーフェン等々があります。ホーフェン(河粉)は、ヴェトナムのフォー、タイのクイティアオ、カンボジアのクイティウ等に展開しました。ヴェトナムのフォーは平麺ですが、丸麺はブンと呼ばれます。タイのクイティアオは、麺の太さに応じて、おなじみのセンヤイ・センレッ・センミーに分かれます。米粉麺は、通常、塩を加えず、粉と水だけで作られるので、やさしい味になります。

日本でも、米粉は古くから存在はしていました。ただ、外皮が硬く、粉にして食べるしかなかった小麦と異なり、米は粒食が基本です。奈良時代には、米粉を使ったせんべい等が渡来します。以来、日本の米粉は、菓子類の材料として使われることになります。うるち米から作る上新粉は団子になります。もち米から作る白玉粉は白玉団子になります。他にも、おはぎや桜餅になる道明寺粉、大福などになる餅粉等々があります。近年、米の消費量が減少し、一方で技術が発展したことから、米粉が見直されています。特に微細粉米粉は、小麦粉の代用として、麺類はもとより、パン、ケーキ等々、かなり幅広く使われるようになりました。また、油の吸収率が小麦粉よりも低いことなどから、料理でも使われるようです。

米粉は、小麦粉に比べ、アミノ酸を多く含み栄養価が高いことに加え、グルテン・フリーであることから、依存性や血糖値の急上昇も抑え、ダイエット効果が認められるそうです。健康面に加え、食料自給率を上げる効果も期待されています。大いに結構なことではあります。ただ、麺に関して言えば、ふくよかな味わいの小麦粉麺、やさしい味わいの米粉麺と異なる味わいがあり、料理としては、それぞれ独立した存在となっています。例えば、米粉パンも小麦粉パンも、同じパンとして売られていますが、米粉パンは、しっとりして、もちもち感が強く、香ばしさやふくよかさには欠ける傾向があります。米粉を、いつまでも小麦粉の代用品と位置づけていたのでは、米粉の特性を活かすことにも、消費の拡大にも限界があるように思えます。米粉の特性を活かした新たな食品ジャンルとしての開発や販売がなされるべきかと思います。(写真出典:owned.kanazaki-okome.jp)

2022年10月20日木曜日

化け猫

10万人が犠牲になったとされる明暦の大火の後、将軍徳川家綱は、無縁仏を供養するため、両国に万人塚を建立します。回向院の起源です。有縁・無縁、人・動物に限らず、生きとし生けるものものを供養するという趣旨から、回向院には、馬・猫・犬・小鳥等の供養塔があります。ちなみに、回向院には、義賊・鼠小僧次郎吉の墓、関東大震災の供養塔などもあります。また、回向院は、勧進相撲発祥の地としても知られます。その縁で、力塚と呼ばれる相撲協会の歴代年寄を供養する碑もあります。回向院の猫塚建立に関しては、古典落語の演目としてよく知られる話があります。 「猫定」です。

表向は魚屋ながら博打打の定吉は、行きつけの居酒屋で、殺処分される寸前の黒猫を譲り受けます。この猫は化けるよ、と居酒屋の主人に注意されます。猫には、思わぬ博才がありました。大儲けした定吉は、猫を可愛がり、いつも懐にいれているので、猫定と呼ばれるようになります。定吉は、事情があって、しばらく江戸を離れ、身を隠すことになります。その間に、妻は間男といい仲になります。妻は、江戸に戻った定吉が邪魔になり、ある夜、間男を使って定吉を殺害します。家で待っていた妻は、何者かによって、喉をちぎられ死にます。町内の者たちが集まっているところへ、定吉が殺害されたという知らせが入ります。定吉の横には、喉をちぎられた若い男の死骸もあります。

町内の者たちが通夜を営んでいると、棺桶の蓋があき、定吉と妻の遺骸が立ち上がります。皆は逃げますが、一人の浪人が意を決して、棺桶の前に行きます。桶の向こうにペラペラ動く紙を見て、浪人は刀を刺します。そこには、人の喉仏を二つ持った黒猫が倒れていました。敵討ちをした忠義な猫の話を聞きつけた町奉行が金を出し、回向院に葬ります。これが猫塚になったというわけです。もちろん、創作ですが、実は、この話、元になった話があります。生活に困窮した魚屋の飼い猫が、ある日、小判をくわえて戻ります。魚屋は、大いに助かります。別な日、猫は商店から小判を盗むところを見つかり、殺されます。それを知った魚屋が、商店主に事情を話すと、店主は、その忠義に感銘を受け、猫を回向院に葬りました。真偽のほどは別としても、江戸では、よく知られた話だったようです。

化け猫の話と言えば、有名なのは「鍋島化け猫騒動」です。佐賀藩の相続問題を題材に、化け猫が主の恨みを晴らすという芝居です。不思議なことに、忠犬という言葉はあっても、忠猫という言葉は聞きません。猫が忠義を果たす時には、決まって化け猫になりますが、一方、化け犬という言葉は聞いたことがありません。猫が化けるという発想は、猫の目が光ることや、瞳の形が変わること等から連想されたという説があります。化け猫は、猫の特性である「ツンデレ」から発想されたのではないかとも思います。猫は、注意深い夜行性のハンターであり、群れを作らず単独で行動します。また、縄張り意識が強いことでも知られます。猫の性格は、毛の色や模様で多少異なるようですが、共通するツンデレ傾向は、単独行動のハンターであることに由来するのでしょう。

ペットとしての猫の歴史は、随分と古いようですが、愛玩動物というよりは、ネズミ退治が主な目的で飼われていたのでしょう。中世のヨーロッパでは、魔女の手先として、猫は迫害されます。結果、ネズミが増え、ペストの流行につながったとも言われます。ネズミ退治のために飼われた猫ですが、愛玩動物としての面も強めていきます。いわゆる”ベビースキーマ”ゆえ、可愛がられたのでしょう。人間は、幼児を可愛いと思います。小顔、目が大きい、口が小さい、体に比して頭が大きい、などといった猫の特徴は、人間の幼児に通じるところがあります。ベビースキーマと孤独なハンターとしての性格のギャップが、化け猫伝説を生んだということなのでしょう。(写真出典:nationalgeographic.com)

2022年10月19日水曜日

ソフィスティケイテッド・レディ

若い頃には、激しい恋に落ちるものだけど、その炎はすぐに消え、幻滅した君は、恋のとりこもすぐに賢くなれることを学んだよね。

流れた年月が、君をすっかり変えてしまった。タバコを吸い、お酒を飲み、ノンシャランと生き、明日のことは考えない。ダイヤモンドのきらめきとともに、ダンスをし、誰かと食事する。でも、それが、本当に君の望むことかい? きっと違うよね。

君が、遠い昔に失った恋を懐かしんでいることは知っているよ。そして、そばに誰も居ないとき、君が泣いていることもね。

1932年に、デューク・エリントンが作曲した「ソフィスティケイテッド・レディ」は、美しく、都会的で、センチメンタルな名曲だと思います。当初は、インストゥルメンタル曲でしたが、後にミッチェル・パリッシュが詞をつけます。デューク・エリントンは、パリッシュの詞を素晴らしいと評し、出版を認めますが、自分が作曲した時のイメージとは異なるとも発言しています。エリントンが作曲した時にイメージしたのは、学校で教えながら、夏には欧州を旅していた小学校時代の3人の先生たちだったと言っています。エリントンには、それがとても洗練されたことのように映り、このタイトルを付けたと言います。

”Sophisticated”という言葉は、都会的、知的、洗練された、といった意味があります。ただ、一方では、世慣れた、すれた、ひねくれたといったニュアンスもあり、ネガティブに使われることも多いようです。ミッチェル・パリッシュは、その語感を見事に詞に落とし込み、ちょっとした都会のスケッチを見せてくれています。エリントンのスタイリッシュな曲は、パリッシュの詞によって、都会的な女性を描く、センチメンタルで、深みのある曲に変わっています。夜遊びに明け暮れる都会の女性が、人知れず、若い頃に失った恋に涙するというストーリーは、都会の孤独を描いているとも言えます。あるいは、女性は、終わりを迎えたローリング・トゥエンティーズのNYそのものなのかも知れません。

ミッチェル・パリッシュは、リトアニア生まれですが、誕生直後にアメリカへ移民し、20歳代後半には、NYの音楽出版界ではよく知られる作詞家となっています。特定の作曲家とコンビを組むことなく、依頼に基づき作詞しました。ホーギー・カーマイケル作曲の「スター・ダスト」は、アメリカを代表するスタンダード・ナンバーですが、失った恋を星屑に見立てたパリッシュの詞も、普及の名作とされます。また、グレン・ミラーの「ムーンライト・セレナーデ」の春の恋の高揚感をよく伝えるロマンティックな歌詞もパリッシュの手になるものです。ちなみに、エリントンの名曲「ムード・インディゴ」の作詞はアーヴィング・ミルズとされますが、実際には、パリッシュが作詞したようです。いずれにしても、天才的な作詞者だったと思います。

スウィング・ジャズの巨人デューク・エリントンは、自らのビッグ・バンドを率いて、ハーレムのコットン・クラブで演奏していました。同時に、エリントンは、ジャズ界を代表する大作曲家でもあります。A列車で行こう、キャラバン、イン・ア・センチメンタル・ムード、サテン・ドール等々、今もよく演奏されるスタンダード・ナンバーを作曲しました。もちろん、デューク(公爵)はニックネームですが、幼少のころから、立ち居振る舞いが上品だったことから、そう呼ばれたそうです。ソフィスティケイテッド・レディなども、まさにデュークの名にふさわしい曲だと思います。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年10月18日火曜日

築地場外

築地市場が、豊洲へ引っ越してから、はや4年が経ちます。当時、場外市場は、どうなるのかと心配したものです。結局、豊洲へ越した店もありましたが、場外市場に残った店も多くありました。いつの頃からか、場外市場は、インバウンド客が殺到する東京名所になりました。コロナ前は、昼飯も食えず、まっすぐ歩くこともできないほど外国人で混み合っていました。過日、平日の昼時のことですが、ついでがあったので、久々に場外市場に寄り、まぐろ丼を食べ、店を冷やかしてみました。市場の移転や火災もあって、さすがに店の数は減っていました。ただ、少し戻ってきたインバウンド客も混じって、なかなかの人出でした。

築地は、名前のとおり、埋め立て地です。1657年、明暦の大火後の復興計画として、海が埋め立てられ、武家屋敷と横山町から本願寺が越してきました。後に築地市場となる場所は、寛政の改革で知られる老中・松平定信の下屋敷であり、隠居後、ここに浴恩園という庭園を築いたようです。浴恩園は、海水を取り込んだ広大な池が中心となっていたようです。東京都は、遺構が見つかれば、発掘調査を行うと発表しています。明治になると浴恩園周辺は、海軍が占有していたようです。1923年の関東大震災で、日本橋にあった魚河岸も焼失し、海軍省の土地を借り受ける形で築地市場がオープンしました。

築地は、大東京の食を支える市場として栄えていきます。場内市場は、仲買のための卸売市場ですが、小規模な仕入れのニーズに対応するため、隣接地に商店が広がっていきます。築地場外市場の誕生です。全盛期には、600を越す店舗がひしめいていたようです。現在でも大小400以上の店が営業しています。鮮魚に限らず、なんでも揃うのが場外であり、また飲食店も、鮨屋のみならず、ありとあらゆる業態が存在します。ある意味、食のテーマパークといった風情です。私が、一番好きだったのは、井上のラーメン屋ですが、2017年に店から出火し、現在も閉じられたままになっています。

聖路加国際病院とその東側一帯は、明石町となります。幕末、明石町には外国人居留地が作られました。しかし、明治の世になると、あたりの大名屋敷は遺棄され、大名を顧客と見込んで進出した外国商人たちは、横浜へと移っていきます。また、日本初のホテルである”築地ホテル”もオープンしますが、外国人の流出とともに、すぐに閉館したようです。その後、東京の近代化とともに外国人も戻り始めたようですが、相場師や麻薬業者も多く紛れ込み、治安の悪い土地になります。当局も、治外法権ゆえ、取締に苦慮したようです。結局、1899年の不平等条約撤廃とともに、居留地は閉鎖されました。

築地場外市場は、小口の仕入れ向け商店街なので、朝は早く、昼前には店じまいというパターンが基本でした。飲食店も、仕入れに来た人たちや市場関係者のための店でしたから、同様の営業時間でした。最近は、一般客や観光客が増え、市場も移転したからなのでしょうが、組合が統一する営業時間は、6時から9時を業務用仕入れ、9時から14時までが一般販売、それ以降は自由営業としているようです。かつて、築地の夜はひっそりとしていたものでした。最近は仕入れの人たちではなく、一般客や観光客がメインという店が増え、築地の夜も、それなりに灯りがともっているようです。(写真出典:next.rikunabi.com)

2022年10月17日月曜日

異次元の円安

黒田日銀総裁
もの皆すべて、値上がりする秋です。家計への影響は、年間平均7万円という試算があり、 インフレ率は3%をうかがう形勢です。2012年に発足した第二次安倍内閣のアベノミックス構想では、2%のインフレ目標が設定されました。以来、相当のお金をつぎ込んでも目標は達成できませんでした。ここへ来て、日銀がこだわる低金利政策が、極端な円安をもたらし、結果的にインフレ率が上がっています。今回のインフレ率上昇は、景気の回復によるものではないため、低金利を継続する姿勢は理解できます。今、金利を上げれば、景気へのダメージは大きいものになるでしょうから。

今回の物価高の要因は、複合的です。コロナ感染が落ち着くなか、各国の景気は急回復し、金利引き上げへとつながりました。日本と海外との金利格差が拡大し、円安は異次元のレベルへと突入。エネルギー・食品はじめ多くのものを輸入に頼る日本にとっては、円安効果を差し引いても、大きなダメージを与えるものと思われます。さらにロシアによるウクライナ侵攻は、エネルギー・小麦・食用油・肥料などの輸出大国である両国からの物流に多大な影響を与えています。また、温暖化による世界的な異常気象、新興国の輸入拡大、原発の停止状態などの影響も加わります。それらが相乗的に日本に影響し、あたかも四方八方から津波に襲われているような状態にあると思います。

来年には、物価は落ち着くという楽観的な見方もあります。しかし、もともと構造的な問題が存在し、それらが、今回、露呈した面もあり、それほど楽観視もできないように思います。その最たるものが、エネルギーと食の分野だと思います。食の問題に関して、岸田政権は、若者の就農拡大や農業のDX化を対策として掲げています。それも必要でしょうが、根本的な問題は、その奥にあるように思います。よく自給率が議論され、カロリー・ベースか生産ベースか、あるいは廃棄食品の問題等がよく取り上げられます。ただ、日本の農業は、輸入した肥料や飼料、そしてエネルギーに依存しています。見た目の自給率が上がったとしても、本質的な輸入依存体質は変わりません。

日本の農政は、”No政”と揶揄されるとおり、一貫性に欠け、米作に拘泥しすぎた面があります。農村を大票田として囲い込んだ自民党の責任も大きいと言えます。ただ、日本のように資源に乏しく、耕作に適した平地も少なく、さらに高齢化が進めば、輸入に頼らざる得ないことは明らかです。食料の国内生産、輸出と輸入との安定的なバランスを確保することこそが、基本方針であるべきだと思います。生産に関しては、欧米に比べ、日本は、農家への補助が極端に少ない国となっています。輸入に関しては、安定的な輸入元の確保を目指して、分散化を進めるべきなのでしょう。しかし、根本にあるのは、為替の安定であり、国際市場での購買力の確保だと思います。

低金利の景気下支え効果は認めますが、メーカーが生産を海外に移転し、かつ、そう簡単には戻せないことを考えれば、景気浮揚策として十分だとは思えません。効果の薄い政策が、国民生活を犠牲にして継続されているとも言えます。輸入を前提に成り立つこの国にあって、円安誘導など危険な賭であり、やるとしても短期間であるべきだと思います。精緻な計算のうえに成り立つ日銀の政策なのでしょうが、全体のバランスという観点からすれば、疑問だとしか言いようがありません。日本は、国力を落とし続け、失われた30年は、さらに長引き、沈没へと向かいつつあるように思えます。なお、金融政策、財政政策、成長戦略を、毛利元就の3本の矢に例えたアベノミクスでしたが、成長戦略の核心とした規制緩和は不発と言わざるを得ず、結果、矢は折れてしまったように思えます。(写真出典:tokyo-np.co.jp)

2022年10月16日日曜日

ちゃんこ

過日、相撲協会主催のファン感謝デーなるものが、国技館で開催されました。ファン感謝デーの開催は久々であり、前回は2010年に開催されたようです。その頃、大相撲は、八百長疑惑、暴力沙汰、野球賭博問題等で揺れに揺れ、入場者数も大いに落ち込んでいました。人気絶頂だった若貴時代が終わり、日本人横綱が誕生しない時期に入ってもいました。かつて、大相撲は、何もしなくても観客が集まり、むしろチケットは入手困難という時代が長く続きました。慢心の塊となっていた相撲協会が、はじめて冷や水を浴びたわけです。苦肉の策として、ファン感者デーが開催されたのでしょう。

コロナ禍で、本割は人数制限、巡業も限定的という期間が長引くなか、ようやく出口が見えてきたので、ここで一気に人気回復をねらったイベント開催だったのでしょう。相撲協会は、お金持ちとして有名なので、コロナくらいではビクともしないのでしょうが、さすがに減収も3年続くと痛いはずです。さて、感謝デーの開催内容ですが、愚にもつかない高校の学園祭レベルのものであり、行きたいとも思いませんでした。ただ、ファン・クラブの有料会員には、招待券が送られてきました。また、有料会員限定で、国技館の支度部屋などバックヤード見学もさせるというので、のこのこ出かけました。

悪天候のなか、平日にもかかわらず、国技館は、結構、ごった返していました。様々なイベントには目もくれず、まっすぐバックヤードに向かいました。普段、入れないところに入るというだけで、特段の感慨も感想もありませんでした。もう一つだけ狙っていたのが「相撲部屋ちゃんこぐらんぷり」です。そのために昼飯を抜いて出かけたのですが、なんと大人気で、受付は既に締め切ったとのこと。がっかりでした。コロナ前の相撲観戦時には、国技館の地下で担当部屋が出す500円のちゃんこを食べ、観戦後には、「巴潟」で、絶品の塩ちゃんこを食べながら相撲談義に花を咲かせるのが恒例でした。

力士の食事全般を、ちゃんこと言いますが、特にちゃんこ鍋は定番中の定番。様々な味付けと具材が楽しめます。ちゃんこ鍋の代表的なスープは、ソップ炊き、水炊き、味噌炊き、塩炊きの4種ですが、なんでもちゃんこ鍋になるので、部屋によって特色もあります。伝統のソップ炊きとは、鶏ガラスープでとった出汁であり、スープがなまった呼び名だとされます。鶏は、良質なたんぱく源であるだけでなく、二本足で手を着かないことから、力士にとっては縁起が良いとされます。具材は、なんでもいいのですが、力士のスタミナ確保、健康維持を考え、定番の鶏団子等に加え、野菜が多く入ります。

多くの具材を大きな鍋で炊けば、様々な出汁が出て、うまいに決まっています。ちゃんこ鍋は、味と具材が変わるので、毎日でも食べられるわけです。ちゃんこという妙な名称の起源には諸説ありますが、炊事当番の古参力士を、父親を意味する”ちゃん”と呼んだことに始まるという説、また大鍋料理を中国鍋と称したことからきているという説もあります。ちゃんこ鍋を食べると太るという誤解があるようです。ちゃんこ鍋は、栄養バランスの良い健康的な食事です。力士の体が大きくなるのは、激しい朝稽古の直後に、大量の食事を摂り、昼寝をするからです。(写真出典:moranbong.co.jp)

2022年10月15日土曜日

錦帯橋

日本三大名橋の一つ、岩国の錦帯橋は、その美しさ、技術力の高さで知られる五連のアーチ橋です。一度見てみたいとは思うものの、橋を見るためだけに岩国に行くことはないだろうとも思っていました。今般、厳島神社の観月能を見に行くついでに、足を伸ばしてみようと思いました。事前に、岩国出身の人に、錦帯橋だけ見て帰るつもりだと話すと、岩国城へ登りなさい、吉香公園を見なさい、いろり山賊で食事しなさいと言われました。その通りにしてみたところ、とても良い観光になりました。岩国の観光戦略は、誤解を生んでいるように思います。錦帯橋が有名すぎるので、錦帯橋しかないのかと勘違いしてしまいます。私のように、橋だけなら行かなくてもいいか、と思っている人も少なからずいるように思います。 

岩国と言えば、海軍と海兵隊が駐屯する米軍キャンプの街、瀬戸内工業地帯の一角を担う工場の街という印象が強く、錦帯橋だけが浮いた印象を持っていました。しかし、岩国を正しく把握するには、まずは城下町として認識すべきであることが、今回、よく分かりました。毛利一族の吉川広家は、関ヶ原の戦いのおり、東軍側につき、西軍の総大将である毛利軍を動かさなかったことで知られます。東軍の勝利を確信した広家は、毛利領安堵を条件に東軍につきました。この働きを評価した徳川家康は、広家に周防・長門2カ国を与えますが、広家は辞退します。結果、広家は、幕府からは大名として認められ、毛利藩内では家臣として岩国を治めるという複雑な状況に置かれます。幕府が認めた岩国城の建築でしたが、1615年の一国一城令によって廃城とされています。

岩国城の本丸は、低山ながら険しい横山の山頂に築かれました。現在の城は、1962年に再建されたものです。天守は、桃山風南蛮造の美しい姿を持ちます。足下には、城を囲むように蛇行する錦川が流れ、天然の外堀となっています。特筆すべきは、天守から眺望です。錦川、錦帯橋、岩国の街、瀬戸内海、宮島や四国までを一望できます。錦川と横山山頂の岩国城という景色は、ライン川の古城を思わせるものがあります。横山と錦川の間の狭い土地には、君主の平時の居館である土居が作られ、現在は桜の名所でもある吉香公園になっています。大きくはありませんが、吉香神社、錦雲閣などが配置され、風情のある良い公園です。そして、吉香公園から錦川を超えて城下へ至るには、錦帯橋を渡ることになります。

錦帯橋、蛇行する錦川、吉香公園、横山と岩国城、すべてが一体となって見事な景観を生んでいます。錦帯橋は、その一部として知られるべきだと思います。むしろ「岩国城」と言い切った方が、全体像を伝えられるのではないでしょうか。錦帯橋は、なぜアーチ構造にしたのか、ということが気になっていました。錦帯橋は、錦川の氾濫でも流されない橋を目指したようです。石組みの橋桁はもちろんのこと、流木等から橋を守るために、アーチが組まれたわけです。橋を下から見ると、その複雑な構造が見事であり、美しくもあります。3代目領主・吉川広嘉が餅を焼いている時、餅が反り返るのを見てアーチ橋という着想を得たとされます。建造の手本としたのは、杭州の西湖にかかる6連のアーチ橋だったようです。

錦川河口の岩国港は、江戸時代から整備されてきたようですが、大正期に入ると、帝人、山陽パルプ、東洋紡等の大型工場が進出し、工業化が進みます。戦時中は、陸軍燃料廠や海軍の潜水艦や航空隊の基地が設けられ、岩国は軍都になります。そして敗戦後、海軍の滑走路を利用して、進駐軍の航空基地が置かれることになりました。つまり、岩国は、城下町、工業都市、基地の街へと顔を変えてきたわけです。多様性を持つ岩国の街を作ったのは、錦川だったと言えるのかも知れません。なお、2012年には、岩国錦帯橋空港が、自衛隊・米軍との共用空港としてオープンしています。(写真出典:山口いいとこ大好き.club)

2022年10月14日金曜日

いろり山賊

岩国市玖波の山中にある飲食店「いろり山賊」は、知らない人に説明するのが難しい店だと思います。田園地帯を山に入ると、突如、戦国時代の隠れ砦のような建物群が現われます。大きな幟、陣幕、提灯などが目に入り、人や車でごった返しています。谷の斜面を利用した敷地に、古民家、小屋、異様な和風建築等があり、屋外にテーブルが多く並べられています。また、いろりやかまどから立ち上る煙が祭を思わせる風情を高めています。名物料理は、鶏ももを串焼きにした「山賊やき」、焼き鮭、昆布、梅が入った巨大なお握り「山賊むすび」ですが、焼肉、ステーキ、麺類などもメニューに並びます。週末ともなれば、2時間待ちは当たり前という超人気店です。

炭火でじっくり焼いた「山賊やき」は、皮がパリパリ、中はジューシーといういい焼き加減です。たれは、意外とあっさりしており、醤油と酒と味醂を主体に、やや甘めの仕上がり。香川県の骨つき鶏のようなパンチのあるたれが主流の時代にあっては、珍しいほど正統派だと思います。一口目のインパクトの弱さはあるものの、ちょうどいい塩梅のたれであり、食後、後を引く旨さがあります。また、人に勧められて食べた「山賊うどん」が美味しくて、また食べたいと思いました。あっさりながらコクのある出汁が特徴的で、やや太めでもっちりとした麺は田舎の家で打ったうどんのような風情がありました。このうどんも人気メニューだそうです。

「いろり山賊」は、1971年に創業しています。もともと広島で居酒屋を経営していた店主が、さまざま制約の多い都市部を離れてオープンしたと言います。それにしても山中に店を開くなど、実に思い切ったものです。以来50年、日に日に人気を増してきたと言います。地元のタクシー運転手の話によれば、娯楽の乏しい土地柄に、一人一台という車社会ゆえ、多少離れていても、話題になった店には人が集まる傾向があると言います。それにしても、50年つづく人気の背景には、インパクトのあるしつらえだけでなく、飽きのこない味付けがあるように思いました。加えて、家族向けというコンセプトを、ブレることなく保ってきたことも勝因なのでしょう。

「いろり山賊」のしつらえや雰囲気は、子供たちにはわくわく感を、都会育ちの人には物珍しさを、そして田舎の人間には郷愁を与えてくれます。かつて、田舎では、祭はじめ、行事・イベントの都度、人々が集まって煮炊きをし、大勢で食事を共にしたものです。いかに田舎でも、今は失われた光景だと思います。「いろり山賊」では、薪や炭からの煙が立ち上り、多くの人が詰めかけています。戸外での食事、たくさんの人も、非日常感、高揚感を高めています。まさに、田舎の祭礼の日の様子が再現されているわけです。人間が持つ潜在的な古い記憶に、強烈に働きかけていると言えます。私が行ったのは日中のことですが、夜にこそ、最も「いろり山賊」らしさが出ると聞きます。ライトアップされると、一層、非日常感が醸成されることは間違いないのでしょう。

山口県内では、知らない人はいないと言われる有名店ですが、中国地方一円や四国からも人が来るようです。私は、TVの旅番組で知りましたが、好みの店だと直感し、憧れていました。また、岩国には、日本最大級の米軍基地があります。「いろり山賊」は、アメリカ人にも大人気だそうです。世界中、祭のムードや非日常感が嫌いな人など、いないということなのでしょう。不思議なのは、これほど成功しているわけですから、全国各地に、「いろり山賊」もどきが出現してもおかしくないと思うのですが、あまり聞いたことがありません。絶妙な立地だったということなのでしょうか。(写真出典:suonada.co.jp)

2022年10月13日木曜日

アートかポルノか

見逃していた「ヘルムート・ニュートンと12人の女たち(原題:The Bad and the Beautiful)」(2020年ドイツ)を観ました。ヘルムート・ニュートンは、20世紀後半、商業写真の分野を中心に活躍した写真家です。ヴォーグ誌を中心とした美しいファッション写真の世界に、サディズム、マゾヒズム、フェティシズムといった暴力的でエロチックな要素を持ち込んだ人です。カウンター・カルチャー時代を経て、ファッション誌も新しいテイストを求めていたのでしょう。そのインパクトの強い作品は、読者に強い印象を与えるだけでなく、社会的に物議を醸しました。賛否両論ながら、商業写真の世界を大きく変えたことは間違いありません。

映画は、生前にヘルムート・ニュートンに密着取材したフィルムと彼を巡る女性たちへのインタビューで構成されています。妻でビジネス・パートナーでもあったジューン・ニュートン、被写体となったモデルや女優たち、そして「写真論」で知られる評論家のスーザン・ソンタグまで登場します。ソンタグについては、TVの討論番組でニュートンを女性差別主義者と罵るシーンが使われています。出演者は、それぞれ、ニュートンの人となり、仕事ぶりを語っていますが、なかでも女優イザベラ・ロッセリーニは、包括的で、示唆に富んだ話をしていました。ちなみに、イザベラは、ロベルト・ロッセリーニとイングリット・バーグマンの娘であり、デヴィッド・リンチ監督の「ブルー・ヴェルヴェット」(1986)が印象に残ります。

ベルリン出身のヘルムート・ニュートンは、しばしば、ナチスの影響が取り沙汰されています。彼自身は、裕福なユダヤ人の息子であり、ナチスのユダヤ人迫害を逃れて、国外に脱出しています。ただ、作風には、ナチス御用達であった映画監督レニ・・リーフェンシュタールの影響が濃いとされます。また、興味深いことに、イザベラ・ロッセリーニは、ドイツ表現主義の影響について言及しています。ドイツ表現主義は、20世紀初頭、客観的な表現を否定し、内面を主観的に描いた芸術運動です。その後、ドイツではワイマール共和国時代に、冷徹な視線で即物的に描く新即物主義が台頭し、表現主義は否定されます。しかし、表現主義が切り開いた新たな地平線は、あらゆる前衛的、近代的表現に影響を与え続けたと思われます。

ヘルムート・ニュートンは、ワイマール時代からナチス時代初期のベルリンで、青春時代を送っています。第一次世界大戦後に成立したワイマール共和制は、帝政を廃し、民主制を実現しました。ただ、政治的にも社会的にも混乱の時代であり、ナチスを生んでいくことになります。文化的には、帝政から解放されたことで、パンドラの箱を開けたごとく、新しい芸術が展開され、黄金の時代とも、狂騒の時代とも言われます。新即物主義、ダダイズム、シュールレアリズム、バウハウスなどが起こっています。いずれも表現主義を否定しつつも、その影響下にあったと言えます。恐らくヘルムート・ニュートンの骨身には、このワイマール期の熱狂が染みついているのだと思います。

実は、ワイマール共和制時代のドイツの特徴の一つとして、ユダヤ人の活躍が挙げられます。ユダヤ人は、政治家、学者、芸術家等、各分野で大活躍し、ノーベル賞も多数獲得しています。そのなかに、世界初のファッション写真家といわれるイーヴァもいました。彼女は、ファッション、肖像、ヌード等の分野で、前衛的手法を用い、ジェンダーレスなアプローチをもって女性を表現していきます。女性が被写体であった時代に、まさに革新的な存在だったわけです。そして、彼女のアシスタントの一人が、若き日のヘルムート・ニュートンでした。ニュートンは、技術的な面だけでなく、彼女のファンション写真への傾倒、性的認識をも継承することになったのだと思います。なお、イーヴァは、ユダヤ人の退廃的芸術家としてゲシュタポに逮捕され、収容所で亡くなっています。(写真出典:theartpostblog.com)

2022年10月12日水曜日

あなごめし

観月能を観るために渡った宮島で、能の前の腹ごしらえに何を食べようかと迷いました。牡蠣か穴子かという二択です。牡蠣ははしり、穴子はなごりと、いずれもやや旬をはずしています。宮島と言えば、やはり穴子かと、名店「ふじたや」の”あなごめし”を食べることにしました。大人気店「ふじたや」は、行列が絶えないと聞きますが、夕刻、閉店間際なら大丈夫だろうと思いました。案の定、行列はありませんでしたが、店内は、ほぼ満席状態でした。1902年創業、ミシュラン一つ星だけあって、客足は絶えないわけです。メニューは、酒肴は別として、”あなごめし”一本という潔さです。

素焼きして、たれを付けて何度か焼いたと思われる天然穴子は、一口大に切られ、ご飯の上に並べられます。たれは、穴子の出汁がよく効いた絶品です。おそらく継ぎ足しなのでしょう。穴子とご飯をどんぶりに盛った状態で、せいろ蒸しにしてあるようです。たれのかかったご飯が、穴子に負けないくらい美味しく艶やかに仕上がっています。穴子は、蒸しの工程で、多少ふっくらするのでしょうが、直焼きの野趣を残す風味と歯触りです。東京のふっくらとした煮穴子とは、まるで別物です。東京も穴子と言えば、天然ものですが、穴子の違いからか、煮穴子が多いのかも知れません。ちなみに、目の前の浜で獲れるふじたやの穴子は、腹が脂で黄色味がかり”黄金あなご”と呼ばれます。

印象的には、鰻を蒸して焼く関東風と直焼きの関西風との違いに近いものがあります。鰻の場合、関東の背開きに対して、関西の腹開きと言われます。江戸は武士の町であり、切腹を連想させる腹開きを嫌ったと言われます。穴子も同様、東京では背開きにしますが、理由は、煮穴子にしやすいからと聞きます。西日本の直焼きの穴子は、腹開きが主流ですが、宮島だけは背開きだそうです。それが何故なのかはよく分かりません。宮島は、神の島ですが、神様には、背も腹も関係ないように思います。厳島神社が、平清盛、毛利元就など武家に庇護されたからかも知れません。ただ、恐らくは、脂の乗った腹身を堪能するために、あえて背開きにしているのではないか、と思います。

東京で、あなごめしと言えば、日本橋の「玉ゐ」の”箱めし”ということになります。お重ですが、なぜか箱めしと呼びます。箱めしは、”煮上げ”と呼ばれる煮穴子、”焼き上げ”という直焼きを選べます。また、両方を食べ比べできる”合いのせ”もあります。日本橋の本店は、江戸風情を感じさせる店構えですが、実は、2005年創業という新しい店です。東京初の穴子専門店を目指したと聞きます。実際、「玉ゐ」以外に、あなごめし専門店は聞いたことがありません。やはり、東京の穴子は、江戸の頃から、寿司ネタが中心だったということです。鮨屋の穴子は、職人の腕が出ると言われます。手間もかかり、仕上がりにも大きな違いが出やすいネタです。東京の煮穴子は、鮨屋の激しい競争が生んだ逸品なのでしょう。

穴子は、鰻に比べ、脂が少なく、あっさりしています。ゆえに、江戸では醤油を使った煮穴子になったものと思われます。個人的には、好んで穴子を食べるほうではありません。どうしても鰻と比べるところがあって、穴子は、常に分が悪いわけです。ただ、希ではありますが、無性に食べたくなることはあります。その際、イメージしているのは、やはり煮穴子です。ふじたやの直焼きのあなごめしも美味しくいただきましたが、次回、宮島に行く際には、商店街にある「牡蠣屋」を選択することになりそうです。(写真出典:crea.bunshun.com)

2022年10月11日火曜日

厳島観月能

人間国宝・友枝昭世氏が、毎年、舞っている厳島観月能を観ることができました。毎年10月、満月か、その前後の日を選び、厳島神社の能舞台で行われます。1996年に開始され、コロナ禍で中断されたものの、2年振り、24回目となる厳島神社の恒例行事です。マイクは使わず、照明も最低限にし、客席には、厳島神社の西回廊がそのまま使われます。あたかも室町時代の能舞台が再現されているかのようです。海の上の舞台、海の上の客席、その間を隔てるのも海というしつらえです。おぼろ月に波の音、そして波に揺れる光が舞台を照らします。能の幽玄の世界が、これほど見事に出現する機会もないのではないかと思いました。

厳島神社の能舞台は、1605年に、福島正則により創建されています。1568年、毛利元就が、厳島神社に、観世太夫を招いて、能を奉納したことがきっかけとなったようです。以降、2度の建替えを経て、現在の姿になっています。2度目の建替えは、1994年に完成していますが、台風で被災した建屋の建材を用いて再建されたそうです。通常、能舞台の下には、音響効果を高めるために、甕が設置されています。海のうえに建つ厳島神社の能舞台では、甕を置くことはできません。その代り、舞台の床板自体の反響性を高めるため、根太を三角形にする等の工夫がなされているそうです。建物全体は、水に強い松材で作られていますが、能舞台、そして音響効果を高める舞台後方の鏡板はヒノキ造りとなっています。

友枝昭世氏は、現存する三人のシテ方人間国宝の一人であり、御年82歳です。その舞や所作は、無駄がなく、力まず、実に美しいものです。舞台上の、どの瞬間も絵になる能楽師です。また、朗々と響く声にも衰えがありません。個人的には、友枝昭世氏の背中がわずかに前傾するその角度が、このうえなく理想的だと思っています。それが、美しい絵姿、舞姿の根源にあるように思います。友枝昭世氏の最大の問題は、チケットが取れないことです。友の会にも入会していますが、東京での上演は、なかなかチケットが入手できません。逆に、地方での舞台の方が取りやすい面もあります。状況が許せば、毎年、厳島神社観月能を鑑賞したいものだと思います。

厳島神社は、593年、土地の豪族が神託を受け、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)を祀る社殿としいて建立されています。宗像三女神の一柱である市杵島姫命は、水の神とされます。島全体が神の島として神聖視されていたため、北側の浜辺に社殿が設けられたようです。厳島の名は、この市杵島姫命から来ているようです。1168年には、当時、安芸守でもあった平清盛によって、現在の姿に至る社殿が作られています。隆盛を誇った平家の氏神として栄えますが、平家滅亡後も信仰を集め続けます。その後、16世紀になり。毛利元就の厚い庇護を受けることになります。毛利元就にとって、厳島は、陶晴賢を破り、芸備防長雲石の6ヶ国を支配するきっかけとなった土地でもあります。一入ならぬ思い入れがあり、能楽を奉納したことも理解できます。

毛利元就が陶晴賢を破った厳島の戦いは、1555年に起こっています。陶軍25,000人に対して、毛利軍5,000人という劣勢ながら、山から毛利軍、浜では小早川軍、海は村上水軍と、三方からの奇襲をかけ、打ち破ったとされます。優れた軍略家とされる毛利元就の名を知らしめた戦いです。しかしながら、実際に、その戦場跡に立ってみると、随分と狭い土地であり、そのような大人数での戦いは考えにくいように思いました。実数はともかくとしても、現在ロープウェイが通る紅葉谷からの奇襲は、実に効果的だったものと想像できます。嵐の翌日で、陶軍は油断していたともされます。嵐のなか、奇襲の態勢を整えたことも、軍略家らしい見事な判断と言えます。なお、戦いの最中、陶軍が厳島神社に火を放ち、毛利軍が必死で消火したという逸話も残ります。(写真出典:bunka.nii.ac.jp)

2022年10月10日月曜日

最後の母系社会

世界最後の母系社会と言われるのは、雲南省と四川省にまたがる雲南高原北西部に暮らすモソ族です。標高2,600mの鹿谷湖周辺に、約9万人が住んでいると言われます。少数民族の宝庫とも呼ばれる雲南省には25もの少数民族が暮らします。しかし、モソ族は、中国政府による少数民族分類の一つではなく、ナシ族の亜氏族と整理されているようです。少数民族の分類は、非常に難しく、現在、中国政府が認めているのは55の少数民族ですが、実際には、もっと細分化できるということなのでしょう。近年、鹿谷湖の自然とモソ族の特異な文化は、観光客を集めるようになっているようです。

モソ族は、古くから、家畜を飼い、漁を行い、雑穀を育てて、生活してきたようです。漢民族やモンゴル族の支配を受けると、トウモロコシやジャガイモも栽培するようになり、ことにジャガイモは、永らくモソ族の主食だったようです。モソ族は、ほぼ完全な母系社会を維持しています。家長は女性であり、母系相続が行われ、結婚という概念を持っていません。男女が交わり、子供をもうけますが、それは結婚という枠組みとは関係なく成立しています。便宜上、中国語で”走婚”、英語では”Walking Marriage”と呼ばれますが、それは、決して結婚ではありません。

夜、男性は女性の部屋に窓から入り、一夜を共にし、夜明け前には実家に帰ります。ここまでなら、夜這いや妻問婚のように見えます。ただ、本来的な夜這いは求婚プロセスであり、妻問婚は結婚の一形態に過ぎず、いずれも婚姻制度のうえに成り立ちます。モソ族の場合、結婚という制度は存在せず、男女の関係は、両者が合意すれば簡単に始まり、一方からの申し出で簡単に終わるようです。ただし、同時に複数と関係を持つことはないようです。子供が生まれても、その関係は変わらず、子供は女性の家族全員で育てます。モソ族には”父親”という言葉すらないと聞きます。

家父長制、あるいは一夫一婦制に馴染んだ我々の目から見れば、誠に奇異に映ります。ただ、農耕が始まる前には、母系社会が一般的だったとされますので、人類の最も古い社会形態を維持しているとも言えるのでしょう。農耕は、所有という概念を生みます。また、農耕は、組織的な労働力を必要します。土地や労働力を独占し、効率よく生産を行う手段として家父長制が生まれ、結婚という制度を通して一夫一婦制が確立されていきます。人間の長い歴史のなかでは、家父長制や一夫一婦制の歴史はごく短く、むしろモソ族のような母系社会や恋愛の仕組みの方が永らく主流だったわけです。

しかも、家父長制や一夫一婦制は、人間にとって無理のある制度なのかも知れません。農業の生産性を高めるために、人間の本質を犠牲にしている、と言える面があるかも知れません。モソ族には、離婚問題も、浮気問題も、親権問題も、相続問題もありません。高地に暮らすモソ族が、米や小麦を栽培してこなかったことが、母系社会を温存できた最大の要因なのでしょう。ただし、モソ族も、20世紀中期からは、稲作を始めたようです。外界との交流が増え、稲作はじめ外の文化が持ち込まれると、モソ族の母系社会は失われていくことになると思われます。(写真出典:refinery29.com)

2022年10月9日日曜日

モニュメント・ヴァレー

John Ford Point
1903年に、エジソン社が製作したサイレント・ムービー「大列車強盗」は、本格的なプロットを持ち、映画技法を使った最初の映画だとされます。初めての西部劇でもあります。西部劇は、映画の歴史とともにあったとも言えます。特許を使ったエジソン社の締め付けを嫌った映画界は、まだ未開の土地であったハリウッドへと逃れます。そこで西部劇は、映画のメイン・ジャンルへと育ちます。特に、第一次大戦後から1960年頃までは、西部劇の黄金時代と言われます。映画は、時代を映す鏡でもあります。西部劇は、世界最強国となったアメリカの力とプライドの象徴だったわけです。

いわゆるワイルド・ウェストの時代は、19世紀後半のたかだか20~30年の間のことです。にも関わらず、あらゆる障害を乗り越えながら、西へ、西へと進む開拓者たちの姿は、強国アメリカの精神を象徴しているとされたわけです。私の世代は、TVでローン・レンジャーを見て育ちましたが、映画館で黄金期の西部劇を見ていたわけではありません。それでも、リヴァイバル上映やTVで、さんざん見せられました。「真昼の決闘」(1952)、「シェーン」(1953)、「OK牧場の決斗」(1957)などは超有名でした。しかし、西部劇と言えば、やはりジョン・フォード作品ということになります。ことにジョン・ウェインが主演した「駅馬車」(1939)、「黄色いリボン」(1949)、「捜索者」(1956)等が有名です。

ジョン・フォード映画のロケ地として多く使われたのが、ユタ州とアラバマ州にまたがるモニュメント・ヴァレーです。現在は、ナヴァホ族の居留地となっています。その異様な景色は、西部劇のイメージそのものとも言えます。メサと呼ばれるテーブル状の台地が風化・浸食され、ビュートと呼ばれる頂上が平らな岩山が点在しています。その間を、騎兵隊、駅馬車、ガンマン、そしてインディアンが、馬にまたがって疾走するわけです。まさにジョン・フォードの世界です。かなり広いエリアですが、砂埃をあげなら車を走らせると、映画で見たことがあるような景色が、次から次へと現われます。特に、ジョン・フォードが、よくカメラを設置したというジョン・フォード・ポイントなどは鳥肌ものでした。

要は、印象的な景色以上に、今、自分はジョン・フォード映画のなかにいるんだ、という感動の方が大きかったということだと思います。いわゆる聖地巡礼です。また、モニュメント・ヴァレーの朝焼けと夕焼けは、特に美しいとされます。私も、家族で観光したおり、皆を、夜明け前にたたき起こして、見物に出かけました。幻想的な景色に感動しました。連なるビュート群の向こうに朝日が昇ると、思わず合掌したくなりました。ネイティブ・アメリカンのなかで最大規模を誇るナヴァホ族は、モニュメント・ヴァレーを聖地としてきたとされます。よく理解できます。この景色は、まさに神の御業、あるいは神が住まうところと思ってしまいます。

1960年代に入り、人種問題、公民権運動、ヴェトナム戦争などでアメリカ社会が揺らぎ始めると、伝統的な西部劇の数は減り、従来とは視点の異なる西部劇が現われます。アメリカの西部開拓とは、とりもなおさずネイティブ・アメリカンの虐殺と略奪のことだったという認識が一般化していきました。開拓者の敵インディアン、あるいは「インディアン、嘘つかない」といったハリウッドが作ったネイティブ・アメリカンのイメージは消えていきました。1970年に公開された「小さな巨人」と「ソルジャー・ブルー」では、ともにネイティブ・アメリカンの虐殺が描かれ、西部劇を変えたとされます。古くさい西部劇の象徴だったモニュメント・ヴァレーが、現代的な西部劇に登場することは、まったくありません。(写真出典:mapio.net)

2022年10月8日土曜日

干し柿

杣の木漏れ日
中津川名物「栗きんとん」の季節になりました。中津川の栗きんとんは、栗にわずかな砂糖を加え、栗の水分だけで炊き上げ、巾着絞りにしたものです。栗は、しっとり炊き上がっていますが、若干の粒々を残した絞り方が絶妙です。栗の上品な甘さを堪能できる最も良い食べ方だと思います。中津川の栗きんとんの名店は2店あります。「すや」と「川上屋」です。「すや」は、もともと元禄元年創業の酢屋だったそうです。対して「川上屋」は、これまた江戸末期創業という老舗です。「すや」のホロホロ感、「川上屋」のしっとり感、といった違いでしょうか。私は「すや」派です。

中山道の宿場街と言えば、 江戸風情を残す妻籠宿と馬篭宿が人気ですが、中津川も重要な宿場街でした。その中津川の和菓子の名店の一つが、「満天星(どうだん)一休」です。満天星とは、ドウダンツツジのことです。満天星一休と言えば「杣(そま)の木漏れ日」が有名です。東濃名物の甘い市田柿の干し柿のなかに、高千穂産の栗を使った栗きんとんを詰めたものです。ねっとりとした甘さに上品な甘さという、美味しい物2つの組み合わせです。美味しくないわけがありません。ほぼ反則技の世界です。毎年11~3月の期間限定商品です。かつては、店頭販売のみだったので、なかなか口に入れることはできませんでした。近年は、お取り寄せも可能になっているようです。

中国原産といわれる柿は、実に不思議な果物です。柿には、甘柿と渋柿があります。甘柿は、突然変異種であり、発見されたのは、13世紀初頭、川崎の王禅寺だったと記録されています。つまり、柿は、もともと渋柿しかなかったわけです。タンニンの多い渋柿など食べられた代物ではありませんが、乾燥すると渋味が抜け、甘柿よりも、砂糖よりも甘くなります。これを発見した人はノーベル賞ものだと思います。どうやら、昔、中国の人が、木につけたままの柿が腐る直前、渋味が抜けて甘くなることに気づいたようなのです。これが干し柿に発展していったものと考えられています。要はドライ・フルーツなわけですが、干し柿は、単に保存用に留まらず、加工品に近いものと言えます。

それにしても、中国の乾物文化は見事なものだと思います。もちろん、水分を抜いて保存食にすることが第一義ではありますが、味が変化する、あるいは滋味が増すことを発見したわけです。中華料理の三大珍味と言われるのは、ツバメの巣、フカヒレ、干しアワビであり、いずれも乾物です。これに干しナマコを加えて、四大珍味ということもあります。私は、干しアワビの煮込みの深い味わいが大好きですが、新鮮なアワビの刺身や焼き物は好みません。まるで別物です。興味深いことに、日本には、干したアワビやフカヒレを食べる習慣がなく、昔から中国への輸出品とされてきました。干しアワビ、フカヒレ、干しナマコは、俵物三品と呼ばれ、江戸期の中国貿易の花形でした。

さて、大人気の「杣の木漏れ日」ですが、昔から気になっていることがあります。栗きんとんも、干し柿もとても美味しいのですが、その2つが化学反応を起こし、新たな味が生まれているといった気配はありません。かと言って、喧嘩しているわけでもありません。「杣の木漏れ日」ファンの皆さんは、その贅沢とも言える組み合わせがお気に入りなのであって、組み合わせの妙が生む味わいを楽しんでいるとは思えません。もちろん、私も、嫌いなわけではなく、美味しく頂きますが、できれば、好物の栗きんとん、そして甘い干し柿は、別々にいただたきたいと思うわけです。(写真出典:myrecommend.jp)

2022年10月7日金曜日

「3つの鍵」

監督: ナンニ・モレッティ       2021年イタリア・フランス

☆☆+

(ネタバレ注意)

イタリアを代表するナンニ・モレッティ監督の新作です。原題は「Tre piani(3つのフロアー)」であり、原作となったイスラエルの作家エシュコル・ネヴォの作品名も「Shalosh Qomot(3つのフロアー)」です。邦題に鍵をもってきた理由は、やや解せません。高級アパートの3つのフロアーに住む3つの家族の物語です。原作は、3つの独立した物語という構成であり、その構成自体が、フロイト的な思想やイスラエルの現実を象徴しているようです。舞台をローマに移し、住民同士が多少すれ違う程度の味付けをし、ドラマを同時進行させた時点で、この映画の失敗は始まっていたのでしょう。

3つの家族の3つのドラマは、同時進行するものの、一つに収斂していくわけでもなく、互いに相乗効果を高めていくわけでもありません。同時進行が生む効果に対する観客の期待は裏切られます。逆に言えば、なぜ同時進行させたのか、ということになります。恐らく原作は、アパートを”無意識”の館に見立て、リビドーの現れ方を3つのフロアーとして表現しているのだろうと思います。同時進行するドラマは、その関連性について語っていません。ナンニ・モレッティは、それぞれのドラマ性だけに注目して映画化したのか、と思えるほどです。同時進行させたのは、映画人らしいギミックに過ぎないように思えます。

とは言え、三大映画祭すべてで賞をとったナンニ・モレッティの腕の良さは、間違いありません。3つのドラマそれぞれは、巧みな演出で、いい味を出しています。3本の独立した映画にすれば良かったのに、とさえ思います。ナンニ・モレッティの映画には、イタリアの伝統芸能的な面白さを感じます。イタリア人独特の人生観やユーモアを感じるからです。日本ではあまり評価されなかった「ローマ法王の休日」(2011)などもいい味を出していて、結構、好きな映画でした。一見すると、バチカンを批判しているようにも見えますが、決してそうではなく、しっかりとカソリックの心情のうえに成り立ったドラマだったと思います。

キャストが、いいですね。存在感のあるいい役者を揃えたものです。裁判官の夫に支配され、夫の死後、自立していく妻を演じたのはマルゲリータ・ブイです。数々の賞を獲得してきたブイは、さすがの演技を見せています。夫が不在がちで、育児ノイローゼに陥っていく女性を演じたアルバ・ロールヴァッハーは、あいまいな表情だけで演じきるという見事な演技力を見せています。他のキャストも素晴らしいと思います。また、お約束ですが、ナンニ・モレッティ自身も裁判官の夫役で出演しています。

総じて言えば、ナンニ・モレッティの演出の巧みさを示す映画でしたが、同時にナンニ・モレッティらしくない映画だったと思います。古典芸能の魅力は、人間の本質に関わる不変的テーマ、そして時代を経ても色あせず、より一層磨かれてきた表現だと思います。老境を迎えたナンニ・モレッティが、どこへ行こうとしているのかは分かりませんが、イタリアの風土に根ざした古典芸能的な味わいは失わないでほしいなと思います。(写真出典:child-film.com)

2022年10月6日木曜日

コーヒーの国

近年、世界のコーヒー豆の生産は、毎年、増えており、国別生産量ではブラジルの第1位は不動ですが、2位にヴェトナム、以下、コロンビア、インドネシア、エチオピアと続きます。数年前、ヴェトナムで、コーヒー豆の輸出量では、ついにヴェトナムがブラジルを抜いて第1位になったと聞きました。両国は、ここ数年、僅差で1位を争っているようです。コーヒーの生産や輸出において、アジアの躍進が著しいわけです。なお、ヴェトナムで栽培されるコーヒーの多くはアラビカ種ではなく、ロブスタ種であり、主にインスタント・コーヒーの原材料として利用されているようです。

一方、輸入量や消費量を見て驚くのは、日本の順位です。輸入量では、EU、米国、日本と続きます。消費量の順位を見てみると、EU、米国、ブラジル、日本となっています。人口は、EU4億5千万人、米国3億2千万人、ブラジル2億1千万人に対し、日本は、1億2千万人と大きな違いがあります。そこで、一人当たり消費量を見てみると、ノルウェー、スイス、EU、米国、日本という順番になります。ノルウェーやスイスは、日照時間の少なさから、伝統的に浮腫予防のためにコーヒーを飲んできたのでしょう。いずれにしても、日本の輸入量・消費量の多さが目立ちます。いつの頃からか、日本は、コーヒー大国になっていたわけです。

とは言え、日本国内でのコーヒー消費は、緑茶には敵わないだろうと思っていました。大間違いでした。緑茶・紅茶・コーヒー消費の構成比を見ると、1964年前後3か年平均では、緑茶が63%、コーヒーが29%でした。それが、2020年前後3か年平均では、緑茶33%、コーヒー60%と、大きく変わっていました。日本は、緑茶を飲むのを止めて、コーヒーの国へと変わっていたわけです。この50~60年間に、日本では何が起こったのでしょうか。簡単に言えば、いわゆる”食の洋風化”が進んだということになります。とりわけ、朝食がパン食主体に変わったことが大きく影響しているものと考えます。

農林水産省の説明によると、”食の洋風化”は、戦後、アメリカの援助で始まったパンとミルクの給食が大きく影響し、その後、輸入自由化や海外渡航の増加によって、洋風化が進んだということになります。パン給食に関しては、日本の小麦輸入量を増やすためにアメリカが行った戦略だったという陰謀説もあります。味覚は10歳までに決まるとも言われますので、嗜好に関する給食の影響は否定できないと思います。一方、朝食が、より簡便なパン食になったのは、専業主婦が減り、共稼ぎ世帯が増加したことが背景にあるのでしょう。戦後、女性が強くなったからだという言い方もされます。パン食に合うのはコーヒーということで、消費が増加してきたのでしょう。

緑茶・紅茶・コーヒー消費の構成比を地域別に見てみると、現在も緑茶が50%を超えているのは、静岡市と鹿児島市という2大茶葉生産地だけです。ちなみに、他の街を見ると、50年前、山形市と甲府市は、緑茶の占率が8割を超えていました。ところが、両市とも、現在は、3割にまで減っています。緑茶の減少は、全国的傾向と言いながらも、両市の激減ぶりは目を引きます。山形と甲府では、一体、何が起こったのでしょうか。ネットで調べる限りは、さっぱり分かりませんでした。興味深いところです。(写真出典:ejcra.org)

2022年10月5日水曜日

ソブリン・シチズン

Noble Drew Ali
アメリカのA&Eが、2019年から放送するTV番組「Court Cam(邦題:密着!アメリカ裁判24時)」は、アメリカ各地の裁判所の監視カメラの映像をもとに構成される人気ドキュメンタリーです。この3月までに、5シーズン、128話が放送されました。一度見たら、なんとなくハマってしまい、結構の数のエピソードを見ました。広いアメリカのことですから、裁判所ですら、実に様々なことが起こります。逃げる奴、裁判官に襲いかかる奴、被害者側と加害者の殴り合い、暴言の数々。精神疾患や知能障害を疑いたくなる被告人の多さには驚かされます。なかに、一人、とても興味を引いた被告がいました。

その被告は、16歳の少女であり、罪状は、友人への暴行だったと思います。彼女は、自分はソブリン・シチズンである、よって逮捕も裁判も認めない、と繰り返します。何度目かの裁判で、法廷侮辱罪を問われ、収監が決まると、彼女の態度は激変します。裁判官へ謝罪したうえで、判決を受け入れました。”Sovereign citizen(主権市民)”とは、習慣法のみを尊重し、合意しない限り、連邦政府が定めた法や法手続きには一切従わないと宣言している人たちです。もちろん、連邦政府はソブリン・シチズンの主張を違法としています。反政府主義者ではありますが、連邦法上は、脱税、国有地の不法占拠、 偽造、公務員に対する脅迫、銀行詐欺、小切手詐欺等の犯罪者が大半を占めます。

実は、その16歳のソブリン・シチズンについて、最も驚いたことは、彼女がアフリカ系アメリカ人だったことです。ソブリン・シチズンとミリシア(民兵)は、反連邦政府という点で、ほぼほぼ重なります。実際、ソブリン・シチズンが引き起こした政府との対立には、各地からミリシアが、武器を持って集結し、武力衝突すら起こしています。ミリシアは、連邦政府、大企業、東部エスタブリッシュメントの陰謀論に凝り固まっており、白人至上主義者でもあります。連邦政府は、アフリカ系アメリカ人と結託し、白人の仕事を奪っているというわけです。BLMといった人権運動も、ミリシアにとっては、政府の陰謀ということになります。従って、アフリカ系アメリカ人の少女が、ソブリン・シチズンであると宣言することなど、あり得ないと思いました。

ところが、調べてみて、ソブリン・シチズンは白人だけではないこと、ミリシアも白人だけではないことを初めて知りました。例えば、2021年、マサチューセッツ州のインター・ステート95号線で”ウェイクフィールド・スタンドオフ事件”が発生します。大量の武器を持って95号線を走っていたアフリカ系アメリカ人グループが、警察によって止められます。グループは、アフリカ系アメリカ人ミリシア”Rise of the Moors”のメンバーであり、9時間に渡り95号線を占拠し、警察と対峙しました。結果、逮捕されたミリシアは、ムーア市民を名乗り、ソブリン・シチズンとして連邦法、州法の制約を受けないと主張します。ムーア市民という概念は、20世紀初頭、ノーブル・ドリュー・アリが創設したイスラム教組織ムーリッシュ・サイエンス・テンプルに始まります。

自らをムーア人イスラム教徒と定義したムーリッシュ・サイエンス・テンプルは、分裂を繰り返しながらも、ネーション・オブ・イスラムやワシトー・ネーション等へと引き継がれていきます。ネーション・オブ・イスラムは、アメリカ最大のアフリカ系アメリカ人民族主義団体であり、かつてマルコムXやモハメッド・アリが在籍していたことでも知られます。1990年代に至り、ムーリッシュ・サイエンス・テンプル分派の一部は、自らをソブリン・シチズンであると宣言します。その根拠は、18世紀にモロッコとアメリカが締結した条約だと主張しますが、実際の条約は単なる通商条約に過ぎません。また、主権国家であると宣言するワシトー・ネーションも、ソブリン・シチズン運動の一部と理解されています。アメリカ全土でソブリン・シチズンと主張する人々の数は不明ですが、数万人に及ぶと見られています。自由の国アメリカは、実にややこしい国でもあります。(写真出典:etsy.com)

2022年10月4日火曜日

湯布院

ようやく小鹿田(おんた)焼の飯椀を手に入れました。数年前、湯布院へ行ったおり、小鹿田焼が気に入り、30年使い続けてきた清水焼の茶碗が割れたら、次はこれにしようと決めていました。ある日、ついに清水焼が割れたので、小鹿田焼をネットで購入しようとしました。甘かったとしか言いようがありません。小鹿田焼は大人気で、特に狙っていた飛び鉋の飯椀は売り切れ状態でした。小鹿田焼は、すべて手作り、しかも生産者も少ないので、そもそも市場に出る製品が少ないようなのです。ちなみに、飛び鉋とは、専用の工具の刃先で、連続した削り目をつける小鹿田焼独特の技法です。

小鹿田焼は、18世紀初頭、天領であった日田の代官が、住民の生活雑器を賄うために興した窯です。秋月藩の小石原から招聘された陶工によって開かれました。市場が日田の領民だけに限られていたので、わずかな窯元によって営まれてきました。しかも、必ずしも作陶向きの土があったわけではなく、随分と手間暇をかけて粘土を仕上げる必要もありました。それが良い風合を出すとも言えますが、窯元が増えない要因でもあったのでしょう。素朴な生活雑器であった小鹿田焼が脚光を浴びるのは、昭和初期、柳宗悦によって見いだされたからでした。小鹿田焼という名称も、柳が命名したと聞きます。

小鹿田焼が全国に知られ、需要が増したのは、湯布院温泉の人気が高まり、訪れる人が増えたからだと思います。由布岳の麓に位置する湯布院は、もともとひなびた温泉だったようです。大正期、行政区画整理で別府十湯から外れたものの、道路や鉄道の整備も行われたようです。戦後の高度成長期になると、全国は、空前の旅行、レジャー・ブームに沸きます。熱海・別府はじめ、名だたる温泉地は、団体客受け入れのために大箱ホテルの建造を進めます。そのなかで、湯布院は、まったく別の道を選択します。欧州の保養温泉地を見習い、自然と環境を守りながら、いわば癒やしの温泉を目指しました。

山向こうの別府でどんちゃん騒ぎが続く中、それは難しい判断だったと思います。湯布院が、ダム建設によるダム湖の観光地化、温泉街の歓楽地化、ゴルフ場建設といった構想を、ことごとく退けた背景には、岩男頴一という名町長がいました。1975年に発生した大分県中部地震で大きな被害を受けた湯布院は、復興に向けて、音楽祭や映画祭といった文化イベントを行い、知名度を得ていきます。1987年のリゾート法が制定され、開発の波は湯布院にも押し寄せます。しかし、町は条例を作り、町を守ります。その後、バブル崩壊と共に、団体旅行ブームは去り、個人旅行の時代が到来します。大箱を抱えた温泉地が凋落していくなか、ついに湯布院の時代がやってきます。

いまや湯布院は、規模は小さいながら、全国屈指の人気温泉地となりました。癒やしを与えてくれる上質な温泉宿は、なかなか予約が取れないことでも知られます。私が、家族と泊まったのは「ゆふいん月燈庵」ですが、広い森のなかに離れが点在する良い宿でした。湯布院御三家と呼ばれる亀の井別荘・山荘無量塔・玉の湯は、全く予約できませんでした。月燈庵も、御三家も、落ち着いたたたずまいのなかに、上質なモダン・テイストを取り込んだ、とてもおしゃれな宿になっています。湯布院は、間違いなく、日本の今日的な温泉宿の方向性を決めた町であり、小鹿田焼は、そのテイストを見事に体現していると言えます。(写真出典:hibinokurashi.com)

2022年10月3日月曜日

エンパイヤ・ステート・ビルディング

NYは、アメリカの経済・文化の中心地というだけでなく、世界有数の観光地として、年間5,000万人の観光客を集める街でもあります。NYの観光スポットは、自由の女神、メトロポリタン美術館、NY近代美術館、セントラル・パーク、タイムズ・スクウェア、ロックフェラー・センターなど、挙げればきりがありません。なかでも、私のイチオシは、NYの象徴でもあるエンパイヤ・ステート・ビルディングです。日本から訪問客が来ると、必ずと言っていいほど案内しました。しかも、状況が許せば、夕食後に案内していました。展望台から見るNYの夜景は絶景だと思います。

展望台から北側を見れば、セントラル・パークとミッド・タウンのビル群、南を見れば、ロウワー・マンハッタンのビル群と自由の女神が一望でき、かつてはそこにはワールド・トレード・センターも建っていました。東は、イースト・リヴァー越しに、JFK空港を離着陸する飛行機、西は、ハドソン川の向こうにニュー・ジャージーの工場地帯が見えます。特に素晴らしいと思うのは、ビルの谷間を埋める車のヘッド・ライトとテール・ランプです。NYは一方通行の道がほとんどなので、白い光の川、赤い光の川が、交互に流れています。何度見ても、見飽きることのない景色です。その光の川を見ると、NYだな、としみじみ思うわけです。

エンパイヤ・ステート・ビルディングは、1929年に着工、1931年には竣工しています。驚異的な早さです。建設を急いだ理由は、前年、同じマンハッタンに竣工したクライスラー・ビルディングが獲得した「世界一高いビル」の称号を、一日でも早く奪うためだったとされます。ちなみに、エンパイヤ・ステート(帝国の州)とはNY州のニックネームです。米国最大の都市であり、経済・文化の中心であるNY市があることから、ジョージ・ワシントンが名付けたとされます。エンパイヤ・ステート・ビルディングが建設されたのは、世界恐慌の最中であり、多くの雇用を生み出す一方で、竣工後、しばらくは空室だらけのビルでもあったようです。

エンパイヤ・ステート・ビルディングへの来訪者のなかで、最も有名なのはキング・コングということになります。映画「キング・コング」は、1933年に公開されました。AFIの歴代アメリカ映画ベスト100の43位にランクされる歴史的名作です。ことにコングが、故郷の島の高い山を思い出して、エンパイヤ・ステート・ビルディングに登るシーンは印象的でした。一方、歓迎されざる来訪者もありました。1945年のB-25ミッチェル爆撃機突入事故です。79階と80階が燃え、14人の死者を出しています。とは言え、40分で鎮火され、2日後には営業再開されています。B-25が中型機であり、かつ着陸直前で燃料が少なかったことも幸いしましたが、なにせビルの頑丈さを物語る事故でした。

エンパイヤ・ステート・ビルディングは、クライスラー・ビルディングとともに、アール・デコを代表する建築です。アール・デコは、世紀末のアール・ヌーヴォーの曲線に対して、直線や幾何学的模様が特徴です。ある意味、機械的でもあり、工業の発展を取り込んだ様式とも言えます。当時としては、近未来的でモダンなスタイルだったのでしょう。エンパイヤ・ステート・ビルディングは、外見に留まらず、内装も徹底的にアール・デコ様式が施されています。恐らく、それが建物としての頑丈さにもつながっているのでしょう。(写真出典:de.wikipedia.org)

2022年10月2日日曜日

国家機密としての地図

シーボルト
詳細な地図は、国家機密である、というのが世界的認識だと思います。衛星写真とグーグル・アースの時代になっても、依然、地図は国家機密です。軍事侵攻や諜報員の潜入に際しては、詳細な地図の存在が、計画を左右し、成否を分けます。例え、侵攻などを想定せずとも、国や地方に関する情報を求めるとすれば、地図は基本中の基本です。日本では、地図を管掌するのは国土地理院であり、市中では、お金さえ出せば、詳細な地図であっても買うことができます。そんな国は、他にはないのではないでしょうか。地図を管理しているのは国防省か軍、というのが世界の常識だと思います。

戦前の日本では、当たり前に地図は国家機密でした。陸軍陸地測量部は、国内の地図はもとより、近隣諸国の詳細な地図を、極秘に入手するか、あるいは秘密裏に測量のうえ作成し、保有していました。戦後、米軍が進駐する前には、詳細な国内地図を内務省に避難させています。進駐軍に対しては、軍事機密ではなく、国内の開発や防災のための地図だと説明し、接収を免れたようです。ただ、国内開発用と説明した以上、地図は復興のために用いられることになり、建設省国土地理院が管理し、公表されることになります。戦争放棄を掲げた憲法が制定されると、日本に軍事機密など存在しないということになったのでしょう。

情報公開法に基づき、アメリカの陸軍地図局やCIAが持っていた帝国陸軍作成の地図が公開されています。多くは、進駐時に接収したものと思われます。米国陸軍は、セキュリティ確保の観点から、地図を分散管理しており、大学施設や研究所からも、日本が作成した近隣諸国の地図が発見されているようです。帝国陸軍は、明治初期から、外国の地図作成を始めていたようです。各国が持つ外国の地図は、全体図・詳細図と体系的に作成されていたようですが、帝国陸軍の地図は、目的別に作成・管理されていたようです。想定される事態に対して、地図の作成が緊急を要したということなのでしょう。

伊能忠敬以来の伝統なのか、帝国陸軍の地図は、詳細をきわめた、レベルの高い地図だったようです。伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」は、1816年に完成しています。1828年には、この伊能図を国外に持ち出そうとしたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが捕まり、本人は国外追放に、国内の関係者多数が処分されています。いわゆるシーボルト事件です。事件の発覚に関しては、従来、台風で座礁したシーボルトの船から伊能図はじめ禁制品が発見されたという説が通説でした。近年では、江戸で露見し、長崎で捕らえられたという説が有力となっているようです。シーボルトから植物標本の提供依頼を受けた間宮林蔵が、これを幕府に通報したことが引き金になったとも言われます。

シーボルトに伊能図を渡したのは、幕府天文方・書物奉行の高橋景保でした。高橋は、樺太方面の情報を入手するために、シーボルトが持っていたロシア海軍提督クルーゼンシュテルン著「世界周航記」と伊能図を交換したとされてきました。ただ、近年の研究では、高橋は、国防強化のために、伊能図の銅版印刷を行い、各地の防衛拠点に配布することを計画していたという説があるようです。当時、日本国内に銅版印刷の技術は乏しく、シーボルトを介して、バタヴィアで印刷する計画だったというのです。関係者に累が及ぶことを恐れたシーボルトは、動機はあくまでも学術的興味だったと繰り返しています。なお、シーボルトの国外追放は日蘭修好通商条約の締結と共に解除され、シーボルトは二度目の来日を果たしています。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2022年10月1日土曜日

津軽の馬鹿塗

日本は漆器の国だとも言えます。ウルシは、東アジアから南アジアに存在し、主に漆器として活用されてきました。漆器の起源は、中国と言われてきましたが、最近の研究では、縄文期の日本の方が古いことが分かりました。福井県の鳥浜貝塚で出土した漆は、実に 12600年前のものであることが確認されています。縄文期の赤い漆は、今でも綺麗な色を保っています。長い歴史を持つ日本の漆器は、青森から沖縄まで、日本各地で生産されてきました。各地の名産漆器のなかでも、青森の津軽塗は、独特の紋様で異彩を放っていると思います。通常、漆器の絵付けは、漆を塗ったうえに施されます。津軽塗は、塗りの工程が絵付けそのものでもあります。

津軽塗には、唐塗・七々子塗・錦塗・紋紗塗という4つの技法があり、独特な紋様を生み出します。最もよく知られるのが唐塗です。唐模様と呼ばれる複雑で奥行きのある斑点模様が特徴です。技法としては、”髪漆研ぎ出し変わり塗り”と呼ばれるようです。全48工程のなかほどで、卵白と顔料を混ぜた漆を、仕掛けベラと呼ばれる道具で塗り、紋様を仕込みます。それを削ることで、紋様を浮かびあがらせます。この工程を繰り返すことで、地から浮かび上がるような複雑な紋様を生んでいきます。また、七々子塗は菜の花の種、錦塗は七々子に錫粉、紋紗塗は籾殻の炭を使い、独特な風合を持つ紋様を出していきます。

津軽塗は、17世紀末に起こっているようです。日本各地の工芸品は、この時期に誕生したものが多いと聞きます。世の中が安定し、参勤交代等で情報交流が起こり、各藩が産業育成に乗り出した時期ということなのでしょう。弘前藩の第4代藩主であった津軽信政も、産業育成のために、全国から職人を集めます。そのなかに若狭国の塗師・池田源兵衛がいました。藩命を受けた池田は、江戸の青海太郎左衛門のもとで修行します。後を継いだ息子は青海から”青海波塗”という秘技を伝授され、青海源兵衛を名乗ります。帰藩した青海源兵衛は、様々な技法を磨き、津軽塗を生み出したと言われます。

弘前城の一画に工房を構えた青海源兵衛は、当初、刀の鞘の塗りから始め、その後、各種生活漆器へと展開していきます。江戸中期には、全国的に知られるまでになっていたようです。弘前藩は、津軽塗を、朝廷や幕府への献上品としても用いています。明治の世になり、藩の後ろ盾を失った津軽塗でしたが、青森県が、その保護に乗り出します。青森県は、1873年(明治6年)のウィーン万博に津軽塗を出品し、賞を獲得しているようです。津軽塗という名称は、この時、初めて使われ、以降、定着していきます。昭和恐慌、戦時中には、打撃を受けたようですが、戦後、復興し、1975年には指定伝統工芸品、2017年には重要無形文化財に指定されています。

塗りと削りを繰り返して作られる漆器は、美しさだけでなく、強度にも優れます。津軽塗は、別名”津軽の馬鹿塗”とも呼ばれます。70数工程といわれる輪島塗に比べ、津軽塗は48工程と少ないわけですが、仕掛け塗りには膨大な手間暇がかかることから、馬鹿塗と呼ばれるようです。津軽の厳しい風土が、このひたすらに塗りと削りを重ねる馬鹿塗を生んだということなのでしょう。ちなみに、私が使っている津軽塗の箸と椀は、四半世紀、毎日使っても、いまだに鮮やかな唐紋様を保っています。(写真出典:ebisuyatsugarunuri.net)

夜行バス