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シーボルト |
戦前の日本では、当たり前に地図は国家機密でした。陸軍陸地測量部は、国内の地図はもとより、近隣諸国の詳細な地図を、極秘に入手するか、あるいは秘密裏に測量のうえ作成し、保有していました。戦後、米軍が進駐する前には、詳細な国内地図を内務省に避難させています。進駐軍に対しては、軍事機密ではなく、国内の開発や防災のための地図だと説明し、接収を免れたようです。ただ、国内開発用と説明した以上、地図は復興のために用いられることになり、建設省国土地理院が管理し、公表されることになります。戦争放棄を掲げた憲法が制定されると、日本に軍事機密など存在しないということになったのでしょう。
情報公開法に基づき、アメリカの陸軍地図局やCIAが持っていた帝国陸軍作成の地図が公開されています。多くは、進駐時に接収したものと思われます。米国陸軍は、セキュリティ確保の観点から、地図を分散管理しており、大学施設や研究所からも、日本が作成した近隣諸国の地図が発見されているようです。帝国陸軍は、明治初期から、外国の地図作成を始めていたようです。各国が持つ外国の地図は、全体図・詳細図と体系的に作成されていたようですが、帝国陸軍の地図は、目的別に作成・管理されていたようです。想定される事態に対して、地図の作成が緊急を要したということなのでしょう。
伊能忠敬以来の伝統なのか、帝国陸軍の地図は、詳細をきわめた、レベルの高い地図だったようです。伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」は、1816年に完成しています。1828年には、この伊能図を国外に持ち出そうとしたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが捕まり、本人は国外追放に、国内の関係者多数が処分されています。いわゆるシーボルト事件です。事件の発覚に関しては、従来、台風で座礁したシーボルトの船から伊能図はじめ禁制品が発見されたという説が通説でした。近年では、江戸で露見し、長崎で捕らえられたという説が有力となっているようです。シーボルトから植物標本の提供依頼を受けた間宮林蔵が、これを幕府に通報したことが引き金になったとも言われます。
シーボルトに伊能図を渡したのは、幕府天文方・書物奉行の高橋景保でした。高橋は、樺太方面の情報を入手するために、シーボルトが持っていたロシア海軍提督クルーゼンシュテルン著「世界周航記」と伊能図を交換したとされてきました。ただ、近年の研究では、高橋は、国防強化のために、伊能図の銅版印刷を行い、各地の防衛拠点に配布することを計画していたという説があるようです。当時、日本国内に銅版印刷の技術は乏しく、シーボルトを介して、バタヴィアで印刷する計画だったというのです。関係者に累が及ぶことを恐れたシーボルトは、動機はあくまでも学術的興味だったと繰り返しています。なお、シーボルトの国外追放は日蘭修好通商条約の締結と共に解除され、シーボルトは二度目の来日を果たしています。(写真出典:ja.wikipedia.org)