津軽塗には、唐塗・七々子塗・錦塗・紋紗塗という4つの技法があり、独特な紋様を生み出します。最もよく知られるのが唐塗です。唐模様と呼ばれる複雑で奥行きのある斑点模様が特徴です。技法としては、”髪漆研ぎ出し変わり塗り”と呼ばれるようです。全48工程のなかほどで、卵白と顔料を混ぜた漆を、仕掛けベラと呼ばれる道具で塗り、紋様を仕込みます。それを削ることで、紋様を浮かびあがらせます。この工程を繰り返すことで、地から浮かび上がるような複雑な紋様を生んでいきます。また、七々子塗は菜の花の種、錦塗は七々子に錫粉、紋紗塗は籾殻の炭を使い、独特な風合を持つ紋様を出していきます。
津軽塗は、17世紀末に起こっているようです。日本各地の工芸品は、この時期に誕生したものが多いと聞きます。世の中が安定し、参勤交代等で情報交流が起こり、各藩が産業育成に乗り出した時期ということなのでしょう。弘前藩の第4代藩主であった津軽信政も、産業育成のために、全国から職人を集めます。そのなかに若狭国の塗師・池田源兵衛がいました。藩命を受けた池田は、江戸の青海太郎左衛門のもとで修行します。後を継いだ息子は青海から”青海波塗”という秘技を伝授され、青海源兵衛を名乗ります。帰藩した青海源兵衛は、様々な技法を磨き、津軽塗を生み出したと言われます。
弘前城の一画に工房を構えた青海源兵衛は、当初、刀の鞘の塗りから始め、その後、各種生活漆器へと展開していきます。江戸中期には、全国的に知られるまでになっていたようです。弘前藩は、津軽塗を、朝廷や幕府への献上品としても用いています。明治の世になり、藩の後ろ盾を失った津軽塗でしたが、青森県が、その保護に乗り出します。青森県は、1873年(明治6年)のウィーン万博に津軽塗を出品し、賞を獲得しているようです。津軽塗という名称は、この時、初めて使われ、以降、定着していきます。昭和恐慌、戦時中には、打撃を受けたようですが、戦後、復興し、1975年には指定伝統工芸品、2017年には重要無形文化財に指定されています。
塗りと削りを繰り返して作られる漆器は、美しさだけでなく、強度にも優れます。津軽塗は、別名”津軽の馬鹿塗”とも呼ばれます。70数工程といわれる輪島塗に比べ、津軽塗は48工程と少ないわけですが、仕掛け塗りには膨大な手間暇がかかることから、馬鹿塗と呼ばれるようです。津軽の厳しい風土が、このひたすらに塗りと削りを重ねる馬鹿塗を生んだということなのでしょう。ちなみに、私が使っている津軽塗の箸と椀は、四半世紀、毎日使っても、いまだに鮮やかな唐紋様を保っています。(写真出典:ebisuyatsugarunuri.net)