2021年9月30日木曜日

夢のかたまり

From Russia With Love
ジョン・ヒューストン監督の処女作「マルタの鷹」(1941)は、ハードボイルド系映画を確立した金字塔的作品です。ダシール・ハメットの人気探偵サム・スペードを、ハンフリー・ボガートが演じます。粋なセリフも多い作品ですが、なかでも映画史に残る有名なセリフがあります。証拠品としての秘宝”マルタの鷹”を手にした刑事が、「重いな。何だ、これは?」と聞くと、サム・スペードが「夢でできてる代物さ(The stuff that dreams made of)」と答えます。日本語字幕では、「夢がつまっているのさ」となっていおり、名訳とされています。夢でできている、あるいは夢のたまりと言いたくなる映画があります。007シリーズ、特に初期の作品群です。

007シリーズは、1962年の「007は殺しの番号(ドクター・ノオ)」に始まり、2021年秋公開予定の「ノー・タイム・トゥ・ダイ」までの25作、60年に渡る超ロング・シリーズです。イアン・フレミングの原作のネタはとうに尽きてオリジナル脚本となり、ジェームス・ボンド役も6代目になっています。映画のフレームは、相も変わらず、荒唐無稽な冒険スパイ映画といったところですが、さすがに時代の移り変わりとともに、変化したことも多くあります。常に時代の変化を取り込むようでなければ、長続きもしません。最も大きな変化は、コミカルな要素も含めて漫画チックだった作風が、シリアスなアクション映画へと変わってきたことでしょう。

ショーン・コネリー時代の007には、ボンド・ガールと呼ばれる美女たち、彼女たちが一目で惚れるボンドの容姿と紳士ぶり、超一流の射撃や格闘の腕前、無尽蔵な知識と鋭い見識、スマートなスポーツ・カー、数々の秘密兵器、英国の上流階級的こだわりを見せる服装と嗜好品と皮肉等々、当時の大衆のあこがれが詰まっていました。娯楽映画は、常に観客のあこがれをスクリーンに映し出す役割があるのでしょう。当時、大衆があこがれたものの一つが海外旅行や高級リゾートです。当時は、誰もがヴァケーションで海外旅行を楽しめる時代ではありませんでした。夢のある舞台やロケ地は、007シリーズの重要な要素だったのだと思います。それは007に限らず、スパイ・アクション小説や映画には、必須のファクターでした。

暇にあかして、007の主なロケ地を作品毎にリストアップしてみました。大雑把に言えば、高級リゾート系とエキゾチック系に大別できます。無論、エキゾチック系は、欧米人がエキゾチシズムを感じるところです。シリーズ当初は、両者が交互に登場しますが、近年は、高級リゾート系が減っています。このあたりは、時代の変化を反映しています。欧米の旅雑誌が、ありきたりな高級リゾートをお薦めすることは無くなりました。そもそも旅雑誌そのものも減っています。多様化、情報化時代の現れなのでしょう。登場回数の多いリゾートは、カリブ海とヨーロッパ・アルプスのスキー・リゾートです。それも前半の作品に集中しており、時代を感じさせます。12作目の「ユア・アイズ・オンリー」に登場するコルティナ・ダンペッツォは、今でも風光明媚なところですが、そこでスキーをしたいと思う人は大幅に減ったと思います。

エキゾチック系にも変化が見られます。例えば、2作目「ロシアより愛をこめて」といった初期の作品では、旅へ誘うような異国情緒が強調されています。近年の作品では、特異性に着目してるように思えます。例えば、23作目「スカイ・フォール」に登場する長崎の軍艦島等です。”場所ありき”から”アクションありき”へと変化しているのでしょう。別な言い方をすれば、007シリーズも、旅ガイドとしての役割を終えていると言えるのでしょう。余談ですが、中学生の頃、セカンド館で「ロシアより愛をこめて」を見た私は、すっかりイスタンブールに魅せられ、父親に「俺は、将来、イスタンブールに住む」と言ったことがあります。父親は、即座に「どうぞ」と言っていました。後年、イスタンブールへ旅した時には、映画のロケ地を探しまくりました。今風に言えば、聖地巡礼というわけです。(写真出典:flashbak.com)

2021年9月29日水曜日

眠り猫

日光東照宮の眠り猫
東海道藤沢宿の安宿に、ボロをまとい、大酒を飲んで贅沢三昧をしている客がいます。亭主は、宿代を請求します。すると客は、竹で水仙の蕾を作ります。水に刺し、売り物と張り紙して店先においておけ、と言うのです。翌朝、蕾は花になります。参勤交代で通りかかった肥後の細川越中守が、これを気に入り、側用人に、買って陣屋へ持ってこいと命じます。側用人が、これはいくらかと聞くと、亭主は、客にいわれるままに二百両(2千万円くらい)と答えます。とんでもない値段に怒った側用人は越中守に報告します。殿様は、1万両でも2万両でも買え、と厳命します。あわてて宿屋に戻った側用人は、三百両で竹の水仙を買い求めます。驚いた亭主が、客に名を問うと、名乗るほどの者ではないが、飛騨高山の左甚五郎と申す、と答えます。

落語「竹の水仙」です。落語には、他にも「三井の大黒」や「ねずみ」といった左甚五郎の噺があります。どれも同じような構図を持った噺になっており、ボロをまとい、皆に馬鹿にされる男が、ある日、とんでもない傑作を彫り、名前を聞いて皆がひれ伏すという次第です。水戸黄門、遠山の金さんはじめ日本人の大好きなカタルシス・パターンです。東洲斎写楽と左甚五郎は、江戸期を代表する謎の名工だと思います。いずれも名作が今に伝えられますが、人物については判然としない面があり、実在を疑問視するむきすらあります。左甚五郎の傑作として知られるのが、日光東照宮の眠り猫です。裏には雀が彫られています。眠っている猫なら雀も襲われない、という世の安泰を願う作品と言われます。

実存説を裏付けるという文献によれば、左甚五郎は、16世紀末に播磨国の武家に生まれ、父の死後、飛騨高山の叔父のもとで養育されます。甚五郎は、京で宮大工に弟子入り、後に江戸で活躍します。江戸城改築の際、抜け穴に関わる秘密保持のために殺されかけ、讃岐国の藩主に匿われます。晩年は京に戻り、禁裏大工の棟梁になったとされます。各地に残る甚五郎作と言われる作品の製作年代を調べると、前後三百年くらいの幅があると言います。一人の人間ではなく、飛騨高山の名工たちの総称ではないか、という説もあります。左と言う名字も、飛騨がなまったものだとも言われます。恐らく実在した名工なのでしょうが、飛騨の腕の立つ職人が彫った作品を、周りの人々が甚五郎作と言いはじめたのではないでしょうか。

左甚五郎と言えば、忘れてはならないのが、知恩院七不思議の一つ、御影堂の忘れ傘です。御影堂の軒裏に見えるボロボロの唐傘です。知恩院の説明によると、忘れ傘の由来については二説あるそうです。御影堂を建てた左甚五郎が魔除けの効力があるとされる傘を置いたという説、そして、御影堂再建前、ここに住んでいたという白狐が置いていったという説です。しかし、ごく一般的に知られる話は、甚五郎が、完璧な出来を避けるために置いたという説です。当時、完璧に完成した建造物は、神の怒りに触れると信じられていたようです。そこで、一部だけ未完成、あるいはわざと間違いを作り込むということが行われてきました。東照宮陽明門の逆柱、姫路城の逆さアゲハ紋、あるいは、知恩院の瓦の葺き残し等も知られています。建物は完成した瞬間から崩壊が始まるので、あえて未完成のままにするとも言われます。人間の思い上がりを戒めるという意味合いもあるのだと思います。

石清水八幡宮には、落語顔負けの伝承があります。西門に見事な猿の彫刻があり、左甚五郎作と言われます。この猿、よく見ると片目に釘が打ってあります。猿は、あまりにも完璧に彫られたために魂が宿り、夜な夜な八幡宮を抜け出し、里で悪さを働いたそうです。困った農民たちが、八幡宮に相談したところ、止むなく目に釘を打ち、抜け出せないようにしたというのです。左甚五郎自身が、完璧を避けるために行ったことかも知れません。もし、そうだとしても、目に釘を打つのはやり過ぎのように思います。甚五郎がやってないとすれば、一体、誰が、何のために、という謎が残ります。あながち伝承は作り話とも言えないのかも知れません。(写真出典:4travel.jp

2021年9月28日火曜日

メメント・モリ

死の舞踏
メメント・モリ(memento mori)は、ラテン語で「死を忘れるな」という意味です。不平等、格差、差別にあふれる世界ですが、万民が平等に、公平に1回だけ経験するのが、“死”です。大昔から、人間は、死とは何か、死後の世界はどうなっているのか、死とどう向き合うべきか、ということを悩んできました。宗教は、その答えとして、死後の世界を提示します。もちろん、誰一人、死後の世界を見た人はいないわけですが、概ね、どの宗教も、天国と地獄を示して、より良い生き方を実践する動機付けとしてきました。メメント・モリという言葉は、古代から存在したようですが、キリスト教以前と以後で、捉え方が大いに異なるという、実に興味深い言葉です。

キリスト教以前の古代のメメント・モリは、”明日は分からない”、あるいは”今を楽しめ”という意味で使われていたようです。古代ローマでは、凱旋パレードに際して、将軍が背後に使用人を控えさせ、”今日は絶頂だが、明日は分からない”という意味で、メメント・モリとささやかせていたと言います。絶頂にあっても自惚れることなく、気を引き締めようとしていたわけです。一方、享楽的な”今を楽しめ”の背後にはペシミズムがあります。死に対する典型的な向き合い方の一つだと思います。11世紀ペルシアの天文学者にして詩人だったウマル・ハイヤームの「ルバイヤート(四行詩)」が最も有名かもしれません。ひとときの命ゆえ、飲めよ、歌えよ、というわけです。

古代のメメント・モリが、現世に関わる警句だったのに対し、キリスト教では、来世を意識させる言葉となっていきます。つまり、死を思えば、この世の栄華も名誉も空しいものに過ぎない、よって死後の天国と地獄を意識せよ、という意味になります。中世になると、死を象徴する骸骨が、イメージとして絵画や墓石などに多用されていきます。ことに有名なのが「死の舞踏」ということになります。身分や貧富の差も関係なく、すべての人が、骸骨や死者と共に踊るというモティーフです。もともとは14世紀フランスの詩が起源と言われ、現世の空しさ、天国と地獄というキリスト教の死生観に加え、百年戦争やペストの大流行を背景とする中世的な終末感が大流行につながりました。

キリスト教の死生観におて、重視されるのが”復活”という考え方です。最後の審判が下される時、永遠の命を授かる者と地獄の業火に焼かれる者とに分けられるというものです。ユダヤ教、イスラム教にも共通する思想であり、それゆえ火葬は行われません。火葬を行うインド系では、肉体と魂は別ものであり、魂は”輪廻転生”していきます。バラモン教、ウパニシャッド哲学、ヒンドゥー教と受け継がれ、仏教にも反映されます。古代エジプトの死生観も、中核を成すのは復活ですが、一神教とは異なり、死後の世界で復活して、生前と変わらぬ生活を送るというものです。いずれにしても、宗教の世界では、死後の世界を前提として、現世での生き方を諭しているわけです。現世というところは、仏教的に言えば”一切皆苦”ゆえ、来世を信じることが大事だったのでしょう。

メメント・モリの、近代的で、かつ肯定的な解釈は、死ぬことは避けられないのだから、今、この時を精一杯生きよう、ということだと思います。いまや巨匠となったクリストファー・ノーラン監督の出世作「メメント」(2000)は、ショート・メモリー症の男を主人公に、真逆のタイムラインが交差するという知的で不思議な映画でした。”メメント”は”忘れるな”という意味ですから、映画のプロットをストレートに表しています。ただ、監督の弟が書いた原作のタイトルは「メメント・モリ」でした。ラスト・シーンで、主人公は、世界は実在するのか、と自問し、実在する、そして記憶は自分を確認するためにある、と独白します。これが近代的な、実存主義的なメメント・モリなのかも知れません。(写真出典:weblio.jp)

2021年9月27日月曜日

フレンチ・トースト

サラベスのフレンチ・トースト
フレンチ・トーストは大好物です。卵、ミルク、砂糖等を溶いた液にパンを浸し、バターを溶かしたフライパンで焼く、というのが、日本における定番レシピだと思います。その歴史は古く、古代ローマには、ミルクに浸したパンを焼くレシピが残り、欧州では、各国に同様の料理が存在し、異なる名称で呼ばれてきました。卵の黄色から黄金のトーストと呼ぶ地域も多く、また液体に浸すことからスープと呼ばれることもあり、貧しい騎士クラスがデザートにしていたことから”貧しい騎士”と呼ぶ地域もあります。特徴的なのは、フランスの”pain perdu(失われたパン)”だと思います。失われたパンとは、残って堅くなったパンのことであり、それを液体に浸すことで、再度、柔らかくして食べる料理ということです。つまり、残り物を活用する倹約料理として広まったわけです。

フレンチ・トーストという名称は、主にアメリカと日本だけで使われるようです。フレンチ・トーストというくらいですから、フランス発祥の料理だと思っていました.。ところが、実際には、古くから欧州全域に存在していたわけです。では、なぜフレンチ・トーストと呼ぶのか。実は、フレンチとは国名ではなく、人名でした。1724年、ニューヨーク州アルバニーの酒屋ジョーゼフ・フレンチが、自分の名前を付けて売り始めたことから広まった名称のようです。ちなみに、フライド・ポテトはベルギー発祥ですが、アメリカではフレンチ・フライと呼びます。これは、初めてフライド・ポテトを食べたアメリカ人が、ベルギー人のフランス語を聞いて、フランスの食べ物だと勘違いしたからなのだそうです。

実は、フレンチ・トーストという名前の由来には、ジョーゼフ・フレンチ命名説とは、異なる説があります。元々フレンチ・トーストは、ドイツ系移民が持ち込んだので、ジャーマン・トーストとして知られる料理だったと言うのです。第一次世界大戦で、アメリカがドイツと敵対すると、敵国の名前では具合が悪いと、フレンチ・トーストに変えられたという説です。戦時中の日本でも盛んに行われた敵性語の使用禁止です。ハンバーグ・ステーキも、一時、ソールズベリー・ステーキと呼ばれていたようです。2003年のイラク戦争の折、アメリカとフランスは、派兵を巡って対立することになりました。アメリカ議会のレストランでは、フレンチ・フライがフリーダム・フライと名前を変えられました。同様に、フレンチ・トーストも、一部では、フリーダム・トーストという呼び方に変えられていたようです。

NYで、一番人気のフレンチ・トーストと言えば、サラベスのものだと思います。”NYの朝食の女王”とも呼ばれるサラベスは、日本にも進出していますので、行列さえ覚悟すれば、東京でも食べられます。バゲットを使うサラベスのフレンチ・トーストは、奇をてらったものではなく、ごくオーソドックスなものです。ところが、なぜか美味いのです。そもそもバゲットが美味しいのでしょうが、ヴァニラ・ビーンズ等の使い方も上手なのだと思います。東京には、様々なアレンジを加えたフレンチ・トーストを売りにする店が増えました。ただ、伝統的レシピで言えば、ホテル・ニューオータニのフレンチ・トーストこそ王道だと思います。一晩、液に浸すという厚いトーストは、見事に幸福感を感じさせてくれます。

私の基本レシピは、卵、ミルク、バニラ・エッセンスの液に、デニッシュ生地の食パンを浸し、片面30秒づつ、レンジにかけます。これで、一晩浸す手間を省けます。バターを溶かしたフライパンで蒸し焼きにして、シナモン・シュガーとメイプル・シロップをかけて完成です。私の理解では、フレンチ・トーストは、パンを台に使った厚い卵焼きです。(写真出典:sarabethsrestautrant.jp)

2021年9月26日日曜日

洞爺丸

1954年9月26日、日本海を早い速度で北上する台風15号の接近に、函館港は大騒ぎになっていました。台風が、津軽海峡に最も近づくのは、17時頃と想定されていました。青函連絡船の午前中の便である洞爺丸は、荒波を縫って、無事、函館に到着します。洞爺丸は、折り返し、14時40分、青森に向けて出航予定でした。13時近く、海峡を通過中の貨物船から、風雨が強まっているとの連絡があり、既に青森に向けて出港していた連絡船2隻も、運行を中止して函館港に戻ります。引き返した連絡船から米軍関係の車両・人員を洞爺丸へ移すことになりますが、予想外に時間がかかり、かつ折からの停電で可動橋がストップします。定時の出航が絶望的となった洞爺丸は、運行中止を決定します。

17時頃、風雨が弱まり、青空も見えてきます。台風の目が通過していると思われました。想定より早く台風が通過中であり、天候の回復は早いと判断した近藤船長は、18時30分の出航を決めます。しかし、それは台風の目ではなく、閉塞前線の通過であり、台風自体は、速度を緩め、渡島半島に接近中でした。当時、日本の気象観測は、まだ米軍頼りであり、もちろん、衛星による観測もありませんでした。札幌管区気象台は、台風が速度を落としたことを把握できていませんでした。18時39分、乗員乗客1,337名を乗せた洞爺丸は、函館港を出航します。しかし、防波堤を過ぎたあたりから、猛烈な風にさらされ、投錨して天候の回復を待たざるを得なくなります。

ほどなく、最大瞬間風速50mという暴風と高い波を受け、船は、走錨、つまり錨を引きずりながら、風に流され始めます。同時に、車両甲板、機関室への浸水が始まります。22時前後、左右のエンジンが停止し、近藤船長は、洞爺丸を、函館市西部に位置する遠浅の七里浜に座礁させ、転覆を回避する決断をします。洞爺丸は、海岸から数百メートルのところで、45度傾きながら座礁します。鉄道管理局は、救助船を出そうとしますが、暴風に阻まれます。依然、吹き付ける暴風に、船を支えていた錨の鎖が切れ、船は横転、積載していた列車も荷崩れを起こし、洞爺丸は、ついに転覆します。激しい暴風雨のなかで、救助はままならず、泳いで脱出した乗客も浜で息絶えたと言われます。

死亡・行方不明は1,155名、生存者は182名のみ。当時としては、サルタナ号、タイタニック号に次いで、史上3番目に大きい海難事故でした。事故の原因として、船長の天候に関する判断ミス、船体の構造的欠陥が指摘されています。船長の判断に、法令・規定違反はなかったものの、結果的には、台風の位置や速度に関する誤認がありました。判断ミスの背景に、当時、本州と北海道を結ぶ幹線であった連絡船を止めるわけにはいかないというプレッシャーがあったとも言われます。しかし、気象観測に基づくデータが乏しかったことは考慮されるべきかと思います。船体の構造に関しては想定外ということなのでしょうが、むしろ、船体の強度や構造に応じて、風速や波の高さ等に基づく運行停止基準が明確化されていなかったことの方が問題のように思えます。

洞爺丸事件を受けて、運行管理体制の見直しや船体構造の見直しも行われました。さらに、注目すべきは、これを機に、青函トンネル建設という議論が本格化していったことです。青函トンネルは、事件から7年後の1961年に着工され、1988年に開通しています。実に27年に及ぶ難工事でした。しかし、皮肉なことに、その時、鉄道は既に物流の主役の座から陥落していました。世界最長となる海底トンネンルの開通を、米国のニューズウィーク誌が”Tunnel to Nowhere”と揶揄していたことを覚えています。(写真出典:pinterest.jp)

2021年9月25日土曜日

尾の身

北斎「千絵の海五島鯨突」
魚の仲卸業のせがれという友人がいました。ある時、友人2~3人が、彼の自宅に呼ばれ、高級品の鯨の尾の身を刺身でごちそうになりました。尾の身は、鯨の尻尾あたりの霜降り肉で、希少な最上部位として珍重されます。「いいか、おまえら、これが人生最後の尾の身だと思って、心して食えよ」と言われました。そう言われると感慨ひとしおでもあり、美味しかったように記憶します。その年、ナガスクジラの禁漁が決まりました。最上の尾の身は、シロナガスクジラのものと言われていましたので、確かに最後の尾の身とも言えたわけです。ちなみに、その後も、何度か、尾の身を食べる機会はありましたが・・・。

鯨肉を食べる文化は、世界中に、昔からあったようです。日本でも同じですが、貯蔵の限界もあり、海辺の食文化にとどまっていたようです。戦後の食糧難の時代を迎えると、鯨肉は、肉の代用品として急速に普及します。代用品ですから、さほど美味しいものでもありませんでした。戦後の苦労話のなかで、あの店はとんかつと称して鯨かつを出していた、という話を聞いたことがあります。まがい物扱いだったわけです。鯨の大和煮の缶詰、鯨のベーコンなどもよく見かけた品です。いまや高級品ですが、当時は、安物だったのでしょう。家で食べることはありませんでしたが、学校の給食には、竜田揚げなどが出ていました。鯨の皮下脂肪であるコロを使った鍋物は美味しかったように記憶しますが、鯨である必要はなかったようにも思います。

ある意味、戦後の日本人の栄養補給を担っていたとも言える鯨ですが、1960年代に入ると資源保護の観点から、国際捕鯨委員会(IWC)は、種別の捕鯨禁止を打ち出し始めます。また、商業捕鯨から撤退する国も増えていきます。IWCは、鯨資源を守りつつ、捕鯨産業の秩序ある発展を目指して設立されました。ところが、ここに動物愛護の思想が入り込んできます。IWCの議論の根拠となるべき科学的データも、恣意的に使われる傾向が出始めます。反捕鯨国と擁護国の数は拮抗しますが、やや反捕鯨国が有利に展開します。日本が票を買っているとの批判も出ました。いずれにしても、議論がかみ合わない以上、一旦、捕鯨を保留すべきというモラトリアムが、1982年に宣言されます。日本、ノルウェー、旧ソ連などは異議を唱えます。ノルウェーは、独自の管理捕鯨を継続しています。日本には、調査捕鯨という道だけが残されました。

その後も議論は、平行線をたどります。というよりも、科学的な議論は成立せず、もはや宗教戦争の様相を呈していきます。この間、動物愛護団体は勢いを増し、グリーン・ピース等、過激な実力行使に出る団体も現れます。ついに、2018年、日本は、IWCを脱退します。自然保護と秩序ある捕鯨産業の両立を確保しようとする日本の主張は、ある意味、正論だとは思いますが、思想を異にする世界各国からは、大いに批判されています。東京オリンピックをボイコットしようという運動まで起こりました。ヴィーガンならまだしも、ビーフ・ステーキを食べながら、動物愛護を訴える人たちの主張は、どうもピンときません。鯨は知能があり、子育てをする動物だから愛護すべきであり、食べるために育成する肉牛は別、というわけです。固有の食文化まで否定する曖昧な線引きは、疑問と言わざるを得ません。

日本は、仏教の影響から、永らく、生き物を食べることが禁忌とされていました。しかし、仏教の本旨は、悟りをひらくことであり、生活戒律ではありません。不殺生を訴えますが、本来、肉食を完全否定しているものでもありません。しかも僧侶の肉食は禁じても、一般信者に関しては、努力目標であったとも聞きます。日本では、それが極端な形で定着していったと言えます。とは言え、必要最小限の魚食は許容され、一部、肉食も継続され。鳥類は別枠とされていました。鯨は、大きな魚という理解で許されていたのでしょう。ちなみに、江戸期、イノシシは”山鯨”と呼ばれ、うさぎは、あえて1羽、2羽と数え、鳥類に擬しています。いずれにしても、地球の多様性を確保するための生物保護であれば、大いに理解できます。動物愛護を否定するものではありませんが、こと食料に関する議論は、どうも腑に落ちないものがあります。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年9月24日金曜日

カン・リンポチェ

カン・リンポチェは、チベット高原西部にそびえる標高6,656mの独立峰です。チベット語で”尊い雪の山”を意味します。サンスクリット語では、水晶という言葉から転じたとされるカイラーサ。西洋では、それを英語読みしたマウント・カイラスと呼ばれます。チベット仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の聖地であり、登頂が禁止されてる未踏峰です。チベット仏教においては、コルラと呼ばれる巡礼が、祈りのかたちとして重視されますが、カン・リンポチェは最上級の巡礼地とされます。巡礼者は、山の周囲に巡らされた巡礼路を右回りに13周します。巡礼路で最も標高が高い地点は5,630mであり、極めて厳しい巡礼路と言えます。

カン・リンポチェへの正しい巡礼は、五体投地によって行われます。五体とは、両手、両膝、額のことです。つまり、立って祈り、体を地面に投げ出して祈り、また立って祈り、少しづづ進むわけです。カン・リンポチェの周囲を巡る際だけでなく、自宅を出た時から五体投地は始まります。自宅の所在地にもよりますが、数ヶ月から1年かかる巡礼です。物見遊山的な要素もある”一生に一度はお伊勢参り”とは大違いです。伊勢神宮では、20年に一度の式年遷宮の翌年が”御陰年”とされ、最も御利益が大きいとされます。カン・リンポチェでは、午年のコルラが1回で12回分の功徳が得られるとして、多くの巡礼者を集めるそうです。

キリスト教的な巡礼は、神との対話、あるいは自らとの対話の時間のように思えます。一方、仏教的な巡礼とは、歩く禅のようでもあり、ひたすら歩くことで、無我の境地に至らんとするものだと理解しています。ただ、カン・リンポチェでの五体投地を見ると、まるで異なり、仏への完全帰依を表そうとしているように見えます。釈迦の入滅から千年近くを経て隆盛するチベット仏教は密教的であり、原理主義的な禅とは大いに異なるわけです。素人考えですが、同じ密教ながら、四国八十八カ所巡りとも、随分、思想的な違いがあるように思えます。須弥山に見立てられるというカン・リンポチェへの崇拝のあり方自体、東アジアの大乗仏教とは、随分違う印象を持ちます。

世界で最も高い未踏峰といわれるのは、ブータンのガンカー・プンスム(7,570m)です。世界の未踏峰の多くは、宗教上の理由で登頂禁止とされています。ガンカー・プンスムも、カン・リンポチェ同様、ブータン政府が聖地として登頂を禁止しています。ただ、カン・リンポチェには、過去に唯一登頂したとされる人物がいます。チベット仏教カギュ派の開祖ミラレパです。釈迦の悟りの境地に、最も近づいた偉大な修行者として知られます。ミラレパは、若くして呪術を修め、復讐のために35人を呪い殺します。それを反省したミラレパは密教の門をたたき、山中に入って尋常ならざる修行を重ねます。悟りに近づいたミラレパは、数々の奇跡を起こし、カン・リンポチェの頂にもひとっ飛びで到達したと言われます。ということは、少なくとも、徒歩でカン・リンポチェを極めた者は、まだいないということになります。

仏教は、仏像を礼拝する宗教です。ただ、原始仏教には仏像は存在せず、釈迦の入滅後、ストゥーバ(仏塔)等が作られるのみでした。紀元前1~2世紀頃に至り、ヘレニズム文明の影響下にあったガンダーラで、はじめて仏像が作られます。チベット仏教も、同様に仏像を礼拝します。加えて、チベットでは、カン・リンポチェが釈迦如来に見立てられ、周囲の山々が菩薩に見立てられたようです。中国でも日本でも、そのような信仰は聞いたことがありません。恐らく仏教以前からあったチベットの土着信仰の影響なのでしょう。日本の大仏は、盧舎那仏ですが、カン・リンポチェは、チベットにおける大仏といったところなのでしょう。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年9月23日木曜日

ZD運動

米国で、保険ブローカーとして、日系企業向けの医療保険の設計やセットアップを行っていた時の話です。さるメーカーの大工場と制度設計の詰めを行っている際、引受保険会社の給付センター長を連れて行き、給付体制に関するプレゼンをさせました。通常、交渉時の企業側出席者は、フリンジ・ベネフィット担当の米国人たちですが、その日は、日本から出向してきた幹部たちも出席していました。給付センター長が、所定期間内でミス無く給付される割合は、目標93%のところ、わがセンターでは94%を達成していると、自慢げに話しました。逆に言えば、ミスや遅延の発生率は7%以内の目標に対して、6%に留めているということになります。日本人幹部たちは、どよめきます。

米国の医療保険給付の世界では常識的数字でしたが、日本のメーカー目線では、ミスの発生率が6%など、信じがたい数字だったわけです。実は、ミスや遅延の発生率を、1%以内にすることも可能です。ただし、膨大なコストがかかり、それは保険料へと跳ね返ります。コスト面も含めて、多くの人が納得できるレベルが、6~7%だったわけです。ミスを撲滅し、ある程度コストも吸収し、品質の良い製品を作ることが、日本企業のプライドであり、世界も認めた日本の品質でもあります。”いいものを作れば、必ず売れる”という日本企業の神話です。実に素晴らしいことではありますが、経営効率、生産性という面から見れば、やや疑問と言わざるを得ない面もあります。また、品質最優先というユーザーばかりではなく、価格重視派も多くいます。

私が、社会人になった頃、日本の企業では「ZD運動」が盛んでした。ZDとは、”Zero Defect”、つまり欠陥ゼロ運動です。米国の軍需産業マーティン・マリエッタが、1962年に始めた取り組みです。元フォード自動車社長だった国防長官のロバート・マクナマラが推奨したこともあり、米国のメーカーに広まります。品質管理運動、いわゆるQCサークル活動が盛んだった日本でも、小集団活動の一環として導入されていきました。結果としてのミスを減らすのではなく、ミスが発生しない態勢を作る、つまり”正しい仕事をする”取り組みと言われました。生産や事務部門だけでなく、企画部門でも、無理やり数値目標を設定して取り組んでいたものです。ほどなくZD運動は下火となります。恐らく、ZDの目指すところではなく、数値結果ばかりがフォーカスされるようになったからだと思われます。ただ、結果重視の風土は継続されます。

10年ほど前、事務のアウトソーサーである関連会社を担当した際、そのミス発生率の低さに驚きました。発生率は、もはやパーセント表示ではなく、部署によっては、パーミル(千分率)、ベーシス・ポイント(万分率)、PPM(百万分率)単位でした。盛んに行われていた小集団活動は、それをさらに減らすことに取り組んでいました。箱根駅伝における東洋大学のモットー「その1秒を削り出せ」を思い起こします。もちろん、その取り組み自体が、さらにミスを減らすというよりも、品質を維持する効果も大きかったと考えます。品質と効率、いずれも重視すべきです。ただ、どこかで線引きは必要であり、それは経営判断そのものです。日本の場合、小集団活動などを通じて、それが現場の従業員に押しつけられる傾向があります。経営は、どっちもがんばれ、と督励するだけになりがちです。

私も、従業員の皆さんの熱心さに乗っかりました。とても、それで十分だ、それ以上は必要ない、とは言えませんでした。言えば、品質が悪化することを恐れたわけです。判断が鈍ったのは、データに基づかない経営が行われていた結果でもあります。そこでトライしたのが、結果重視型からプロセス重視型への転換です。具体的には、ISO9000を取得し、品質管理のフォーマット化を行い、プロセスの精度を上げる循環を作ろうとしました。考えてみれば、ZD運動への回帰だったのかも知れません。

2021年9月22日水曜日

蚤の市

Porta Porteseの蚤の市
最近では”フリマ”と呼ばれることも多いフリー・マーケットですが、”自由なマーケット”と理解している人が多いようです。正しくは”Flea Market”であり、”蚤の市”ということになります。日本フリーマーケット協会は、それを分かったうえで、”Free Market”としているようです。ただ、”Free Market”は経済用語の”自由市場”のことですから、やや気になります。蚤の市発祥の地はパリです。19世紀のパリに、廃品のなかから使えそうなものを回収し、販売する商売が誕生します。パリ改造に際し、彼らは市外へと追いやられ、郊外に拠点を作ります。これが”marché aux puces”、蚤の市と呼ばれるようになりました。

19世紀、フランスの産業革命が高まりを見せると、パリへと流入する労働者が急増します。結果、パリの人口密度は異常なまでに高くなり、昔ながらの狭い街路が、不衛生極まりないゲットーを形成していきます。この問題を解決するために、1853年から、10年以上をかけて、パリ改造が行われました。凱旋門から放射状に道が整備され、沿道の建物の高さと意匠が統一された美しい街並みは、パリ改造の賜物です。パリ改造がなければ、「花の都パリ」も生まれなかったわけですが、同時に「蚤の市」もなかったかもしれません。

蚤の市には、骨董品も売っていますし、骨董商が店を出していることもあります。一方で、骨董市もありますが、一般の人が店を出しているような場合もあります。このあたりの区分は判然としませんが、とにかく蚤の市は、なんでもありといった風情です。欧州へ旅する時には、滞在する街の蚤の市の開催状況を確認し、可能な限り、冷やかしに行くことにしています。一番楽しかったのは、ローマの泥棒市とも呼ばれるポルタポルテーゼの蚤の市です。ローマの下町トラステヴェレで、毎週日曜日に開催されます。かなりしっかりした骨董品から、バッタものの日用雑貨まで、ありとあらゆる物が並んでいます。なかには意味不明なものもあり、まさに泥棒市の風情です。

蚤の市は、19世紀に始まったわけですが、「市(いち)」自体は、太古の昔から、世界中にありました。市は、開催日が決められ賑わうようになり、都市化が進むと常設化されるものも登場し、商店街や市場になっていきます。不思議だと思うのは、日米に比べて、欧州では、蚤の市に限らず、生鮮食料品等の古い市が多く残っています。古い町並みを残す欧州ならでは、とも思います。アメリカの町は歴史が浅く、日本の町は空襲で焼け野原になりました。結果、モータリゼーションの進展に伴い、日米では、郊外型大型店舗へ移行していったように思えます。ただ、欧州のモータリゼーションは日米と大差なく、また、希に郊外型の大型店舗も存在します。それでも、古い形の市が多く残っているわけです。

恐らく、最大の理由は、大型店舗に対する規制法のあり方なのだと思います。欧州各国では、早くから大型店舗に対する厳しい規制が設けられています。また、出店法に関しては、自治体が権限を持っている国も多く存在します。古い町並みと伝統を守るため、そして小規模な生産者や商業者を守るために、住民たちが大型店舗を否定したわけです。欧州には、都市の自治に関する長い歴史があります。幕藩体制を崩し、一気に中央集権化を進めた日本とは大違いです。日本にも大型店舗の規制はありました。ただ、1990年代の日米構造協議に基づいて規制は緩和され、一気に大型店舗が出店し、地方都市の空洞化、シャッター街化が進みました。2006年には、地方都市の再生や高齢化対策として、大型店舗の出店規制が再び強化されています。(写真出典:minube.net)

2021年9月21日火曜日

あうん

英語は論理的で、日本語は非論理的だという話を聞いたことがあります。欧米人は、幼少期から目に見えない神を信じるので、日本人よりも論理的思考に優れるとも言っていました。実に馬鹿げた話です。論理的でない言語など存在しません。よく引き合いに出されるのが、主語の使い方です。英語は常に主語が明確であり、日本語は曖昧だというわけです。日本語の主語は、曖昧なのではなく、省略されているだけです。要は、言語の論理性という問題ではなく、物理的には語順の自由度の違いだと言えます。日本語が曖昧だとか、特殊な言語だとか言う議論は、意味がないと思います。言語は、環境に応じて、表現や語彙に特色が生まれるという単純な話だと思えます。

日本語の曖昧さの象徴として、阿吽(あうん)の呼吸、以心伝心が、よくあげられます。阿吽とは、サンスクリット語の最初の字音である「ア」と最後の字音である「フーム」をさす言葉であり、ものの始まりと終わりを象徴し、特に密教では、原因と結果を意味する言葉とされます。万物の全体を表す言葉と言ってもいいのでしょう。阿吽は、神社仏閣の門に立つ対の仁王像や狛犬でも、よく知られています。ちなみに、五十音も”あ”で始まり、”ん”で終わります。アルファベットも”A”から始まります。何かサンスクリット語との関係があるのかも知れません。ただ、印象的には、人間の発音のメカニズムとの関係なのだろうと思います。

言葉にせずとも、互いの考えていることを共有しているかのごとく行動することを「あうんの呼吸」と言います。非言語的なコミュニケーションの一つだと思いますが、これは、なにも日本独自の文化ということではありません。世界中に、普遍的に存在するコミュ二ケーション形態だと思います。また、すべての日本人が、常に、あうんの呼吸で動いているわけでもありません。むしろ、あうんの呼吸と思っていたら、互いの認識が異なっていた、という場合の方が多いように思います。つまり、互いの思い込みによる見込み違い、というわけです。

島国で、文化と言語を共有する日本社会では、明確かつ完全に言語化せずとも、十分にコミュニケーションが成立する面があります。むしろ、明確化しない方が、良いコミュニケーションや集団の結束を保つ効果もあります。一方、欧州は、ほぼ陸続きゆえ、常に、異なる民族、異なる文化、異なる言語と接触せざるを得ず、より慎重で正確な言語コミュ二ケーションが求められてきました。現代英語は、厳格な語順が特徴ですが、古英語では、日本語同様、語順の自由度が大きかったと聞きます。単語の変化によって文脈を確保していたようです。ノルマン族が、英国へ侵入したことで、異民族間の正確なコミュニケーションが、広く、日常的に求められました、結果、英語は単純化され、厳格な語順へと変化したようです。

外国語の習得という面から見れば、語順がカッチリしていて、単語を並べるだけの英語の方が楽だと思います。日本語は、世界で一番習得が難しい言語とも言われます。そもそも文字が、漢字、ひらがな、カタカナと3つもあり、アクセントやイントネーションが平板で、助詞の使い方も多様です。英語は、ノルマンの侵入によって単純化されたわけですが、日本は、元寇を退け、戦後の占領も限定的だったことで、原型に近い日本語を保ってきました。占領時代が長引き、多くの欧米人が移民していたとすれば、日本語も、随分と変わっていた可能性があります。(写真出典:kotobank.jp)

2021年9月20日月曜日

タンツーリーユイ

タンツーリーユイ
かつて知人から聞いた話です。信州佐久の友人が、名物の鯉を送ってくれた。段ボール箱を開けると、 濡れた新聞紙に立派な鯉が一匹包まれていた。箱から出そうとすると、突然、鯉が暴れ始め、たまたま開けてあった勝手口から、裏を流れる神田川に飛び込んだ。嘘のような話ですが、ご当人の話ですから、事実なのでしょう。それほど、鯉という魚は生命力が強いというわけです。古代中国には、黄河の龍門という滝を登れた鯉は龍になるという伝説もあります。いわゆる”鯉の滝登り”であり、立身出世の象徴でもあります。また、その生命力からして、鯉を食べれば、精がつくと言われてきました。

正直なところ、鯉が美味しいと思ったことは、ほぼありません。泥臭くて嫌だという人もいます。しっかり泥抜きした鯉でも、さほど美味しいとは思えません。鯉料理と言えば、味噌ベースで味濃く煮付けた”鯉こく”、あるいは酢味噌で食べる刺身”鯉の洗い”が代表格と言えます。いずれも、淡泊な味を濃い味噌の味でごまかしているわけです。貯水池や田んぼで簡単に養殖できる淡水魚は、昔、内陸部の極めて貴重なタンパク源だったと思います。ただ、味が淡泊に過ぎるので、精がつくと喧伝して、養殖と消費を促したのだと思います。時代とともに、どこでも多様な食材が入手可能になると、鯉の養殖も出荷も、減少の一途をたどってきたようです。

一つ気になる鯉料理があります。子供の頃、食べて大感動した中華料理「糖醋鯉魚(タンツーリーユイ)」です。鯉を丸揚げして、甘酢あんかけにしたものです。お祝いごとがあり、宴席の後、親族だけで中華料理店へ行きました。そこで出てきたのがタンツーリーユイでした。小学校低学年だった私は、うまいと大騒ぎして、バクバク食べました。大人たちは面白がって、料理の名前を覚えさせました。恐らく、私が、初めて覚えた中国語です。以来、なぜか、タンツーリーユイという言葉だけは忘れませんでした。成人した後に、数回、食べる機会がありましたが、初めて食べた時の感動はありませんでした。見た目の派手さに驚き、甘酢の味とサクサクの食感に、食欲が刺激されたということなのでしょう。鯉の味が気に入ったわけではなかったと思います。

鯉を食べると精がつく、という話は、鯉の生命力の強さにあやかろうという話なのだろうと思っていました。ところが、古くから、様々な効用が認識されていたようです。3世紀頃に書かれたという中国最古の薬学書「神農本草経」でも、鯉は“養命薬”とされているようです。肝臓病に効く、母乳の出が良くなるなどといった効用も知られていたと言います。実は、これらの薬効は、科学的にも証明されているようです。例えば、疲労回復や肝機能の強化に効果があり、栄養ドリンク剤にも使われているタウリンが、鯉の肉には豊富に含まれているのだそうです。なかなか優秀な食品だったわけです。

とは言え、近年、鯉と言われて食用をイメージする人は、ほとんどいないと思われます。やはり、”泳ぐ宝石”といわれるニシキゴイを思い浮かべる人が大半なのでしょう。観賞用のニシキゴイの養殖は、新潟県で、明治期に始まりました。その美しさゆえ、瞬く間に国内でファンを獲得し、いまや世界中へと広がっています。年間出荷額は40億円に迫り、1尾の取引額で過去最高は2億円だと聞きます。(写真出典:tabi-mind.com)

2021年9月19日日曜日

茶坊主

日活「河内山宗俊」
最近、”茶坊主”という言葉を、見聞きすることがなくなりました。既に死語なのかも知れません。代わって、近年、政治の世界で、よく耳にするのが“ポチ”という言葉です。誰それのポチというのは、特定の権力者に従順な人を、飼い犬に例えて蔑む言葉です。茶坊主に似ていますが、多少ニュアンスが異なります。権力者におもねるだけではなく、その威を借りて、横柄に振る舞うのが茶坊主の意味だと思います。 あまりにも漫画チックですが、さすがに最近では、そういう人も減ったということなのでしょう。別な言い方をすれば、茶坊主は、階級が明確だった社会ならではの存在だったと言えそうです。

茶坊主は、室町時代、僧侶が武士に茶の湯を指南したことが始まりと聞きます。以降、武家において、茶、食事、身の回りを世話する接待係として定着したようです。僧侶ではありませんが、剃髪し、僧衣を着用したことから、坊主と呼ばれました。武家の少年たちが、厳しく礼儀作法をたたき込まれたうえで、奉公したものだそうです。職務柄、城内の奥まで入り、機密事項に触れる機会もあったので、厳選された武家の師弟が登用されたのでしょう。身分は高くないものの、主君や上層部の側に仕えるため、その発言には一定の影響力があったようです。そうなると、おもねる者も現れ、本人も勘違いして、横柄に振る舞うということがあったようです。

最も有名な茶坊主は、江戸後期、江戸城で将軍や幕臣の世話をした数寄屋坊主の河内山宗俊ということになります。幕末の講釈師松林伯円の「天保六歌仙」のなかで、義賊的な面も持つ悪党として描かれ、人気を博します。明治以降、多く芝居や映画の題材にされています。実態は、ただの悪党だったようです。腹黒で有名な幕臣・中野清茂、隠居後は碩翁と称しますが、その後見を得て、好き放題やっていたようです。そもそも中野碩翁は、見目美しい少女を3人養女にして、すべて大奥に入れることで将軍の歓心を買い、出世したという人です。将軍に近いことから、賄賂を取りまくり、大名顔負けの豪奢な暮らしぶりを送ったと言われます。師匠が師匠ですから、河内山宗俊の行状も、推して知るべしです。

講談「玉子の強請」は、宗俊の小悪事の話です。宗俊は、身分を隠して、乾物屋で玉子を買います。亭主の見てぬ間に、持参のゆで卵を生玉子の山の上に置き、亭主が見ている前で、それを袂に入れます。怒った亭主は、返せと言います。これは自分の玉子だ、いや俺は見た、という押し問答のうえ、宗俊は、袂の玉子を床に投げつけます。ここで、宗俊は、わしを盗人呼ばわりしたな、わしを誰だと心得る、と出るわけです。宗俊は、百両をせしめて店を出ます。百両とは、やや大げさですが、分かりやすい宗俊のイメージです。悪事を重ねるうちに、より大胆になり、より勘違いも激しくなった宗俊は、あろうことか大名をも恐喝するようになります。それも相手が悪い。松平出羽守邸や水戸徳川家邸でも恐喝をはたらき、ついには捕縛され、獄死しています。

かつて、企業にも茶坊主と蔑まされる人々がいました。一般的には、秘書部長や社長室長といったポストで発生しやすいわけですが、人事の常識としては、そういったポストには在任年数のリミットを設けます。ただ、実際に茶坊主が発生するのは、いわゆるワンマン社長が、自ら取り巻きを作るケースです。本来、長たる者は、孤独であるべきです。ただ、ワンマンと呼ばれるような人は、取り巻きを作りたがる弱さがあります。中野碩翁と河内山宗俊の関係も、同じだったのでしょう。宗俊の大名への強請の裏には、中野碩翁がおり、宗俊はトカゲの尻尾だったと考えられます。ちなみに、碩翁は、水野忠邦の天保の改革の際、賄賂がとがめられ、登城禁止、加増地没収のうえ、自邸に幽閉されています。(写真出典:nikkatsu.com)

2021年9月18日土曜日

エクソシスム

これまで観た映画のなかで、最も怖いと思ったのは、ウィリアム・フリードキン監督の1973年作品「エクソシスト」です。ホラー映画を多く観ているわけではありませんが、間違いなくレベル違いの怖さであり、歴史を変えた映画だと思います。エクソシスト以前のホラー映画と言えば、怖いぞ、怖いぞ、ほ~ら怖い、といった子供だまし的なものがほとんどであり、B級映画の典型でした。エクソシストは、ホラー映画というよりは、オカルトを題材に取り、かなりしっかりと作りこまれたA級映画でした。アメリカでは、その年の興行成績第1位となり、アカデミー脚本賞と音響賞を獲得しています。ちなみに、エクソシストは、ノストラダムスの大予言とともに、日本の第一次オカルト・ブームの起爆剤となりました。

エクソシスムは、ギリシア語の”厳かに勧告すること”が語源であり、いわゆる悪魔払いのことです。悪霊を払うことは、世界各地のシャーマンの主な役割の一つですから、随分、古くから行われてきたと言えます。キリスト教に関して言えば、旧約聖書にも新約聖書にも登場します。広い意味では、洗礼もエクソシスムと言えますが、正式なエクソシスムは、教皇庁が任命したエクソシストによって、厳密な規則に則って行われます。あくまでも浅薄な素人の考えですが、神がすべてを創ったという世界には、神の御業とも思え得ないことも起こります。その一部は、悪魔の所業とされます。いわば矛盾は、すべて悪魔や魔女に負わせる傾向があるようにも思えます。

では、全能の神と悪魔は対等なのか、という疑問が生じます。当然ながら、キリスト教的には、悪魔も神の僕と整理されます。人間に試練を与えるために存在するというわけです。だとすれば、悪魔を退散させてください、と神に祈るだけで十分であり、わざわざエクソシスムとして、神の力を借りた司祭が悪魔と直接対決する必要はないように思えます。屁理屈はさておき、いかにも中世的なエクソシスムですが、現在も堂々と行われていますし、しばしば事件になることもあるようです。歴史上、最も有名なエクソシスムは、1634年、フランス西部のルーダンで起こった修道女の集団憑依事件だと言われます。エクソシスムが行われ、司祭のウルバン・グランディエが、悪魔と契約を交わし、修道女たちに憑依させていたことが判明し、火あぶりの刑に処されます。

しかし、この事件は、色男だったグランディエ司祭に振られた修道院長の仕返しとも、カソリックとプロテスタントの宗教対立の産物とも言われます。ルイ13世の宰相であるカソリックのリシュリュー枢機卿は、プロテスタントのユグノーが大層を占めるルーダンの城壁解体を進めようとします。当然、ユグノーたちは激しく抵抗していました。ブルボン朝を隆盛させたリシュリュー卿は、マキャベリストとしても知られます。ルーダンの憑依事件は、ユグノーの中心的人物であったグランディエ司祭を貶めるために、リシュリュー卿が描いた陰謀だったというわけです。ありそうな話です。人知を超えた現象や事件が起こることはあり得ます。ただ、悪魔払いや魔女狩りは、しばしば政治的に利用されてきた面も否定できません。

ルーダンの憑依事件は、文献が多く残り、広く研究されているようです。また小説や映画の題材にもなっています。オルダス・ハックスリーの小説「ルーダンの悪魔」、それを原作とするケン・ラッセル監督の「肉体の悪魔」は政治的な描き方をし、ポーランドのイェジー・カワレロウィッチ監督による「尼僧ヨアンナ」は、事件の後日談を描いています。「エクソシスト」もこの事件に細部の着想を得ていると言われます。ちなみに、スタンリー・キューブリックがエクソシストの監督を熱望していたことは有名な話です。ただ、プロダクション側は、予算と時間の大幅超過を懸念して、フリードキンを選びます。エクソシストの大ヒットに気を大きくしたプロダクション側は、続編の監督をキューブリックに依頼します。キューブリックは、これを断り、傑作「シャイニング」を撮りました。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年9月17日金曜日

南蛮貿易

オランダ東インド会社ロゴ
鉄砲は、1543年8月、種子島に漂着したポルトガル船によって、日本に伝来したとされます。実は、ポルトガル船ではなく、倭寇の王直の船であり、ポルトガル人も乗船していたというのが真相です。結果からすれば、大きな違いとは言えないのでしょうが、倭寇の船だったことが、当時のアジアの状況を、よく物語っているように思います。種子島以降、日本とポルトガルの貿易、いわゆる南蛮貿易は、100年近くに渡って続けられました。鉄砲をはじめ、ジャガイモ、カボチャ、トウモロコシ等の農作物、パンやカステラ、あるいはタバコ・めがね等が日本に伝えられました。

1498年、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマは、喜望峰を回って、インドのカリカットに到達します。ポルトガルは、当地で香辛料貿易を一手に担っていたイスラム商人たちを武力で駆逐し、ゴアに貿易拠点を築きます。欧州では、オリエント・ヴェネツィア・ルートが衰退し、リスボン・アントワープ・ルートが香辛料貿易の中心になっていきます。南インドを追い出されたイスラム商人たちは、マラッカを新たな拠点とします。ポルトガルは、これをも襲い、イスラム商人を皆殺しにして占拠します。さらにポルトガルは、マカオに進出し、対明貿易を開始しますが、倭寇対策として禁止されていた日明貿易に関しても、中継貿易として担っていきます。明からは、生糸・絹織物等、日本からは主に銀が輸出されました。

当初、明朝や琉球は、ポルトガルによるマラッカ占拠という蛮行を知っていたので、ポルトガルとの交易を拒否します。ポルトガルのマカオ進出で大きな役割を果たしたのは、イエズス会でした。当時、プロテスタントに押され収入減を余儀なくされたカソリックは、新たな収入源として、アジアでの信者獲得に乗り出しました。それを担ったのが、イエズス会のフランシスコ・ザビエルでした。ポルトガルのアジア進出は、武力と宗教という両面作戦によって成されたと言えます。ザビエルは、日本人を、名誉と礼儀を重んじ、武器を大事にする好戦的民族であり、アジアのなかで最高の国と評します。これを受け、ポルトガルは、武力制圧ではなく、宣教をもって浸透する戦略を取ることになります。

しかし、この作戦は、秀吉、家康による禁教令によって、裏目に出ます。基本的には、イエズス会が、体制に組み込まれることを拒否したために行われた禁教令ですが、裏では、日本貿易に参入したいイギリスとオランダというプロテスタント勢によるプロパガンダも奏功しました。つまり、ポルトガルによる日本制圧という野望が喧伝されたわけです。結果的には、家康がヤン・ヨーステンを気に入ったこともあり、オランダが独占的地位を獲得します。ヨーロッパにおける宗教対立が、極東でも繰り広げられたというわけです。後に、資本主義を生み出し、世界経済を席巻することになるプロテスタントのカルヴァン派が、日本でも勝利したことは、歴史の必然だったのかも知れません。

異端は、正統を批判することから生まれます。現代風に言えば、プロテスタントは、原理主義者です。イエスと聖書から遠く離れてしまったかのようなカソリックに対して、プロテスタントは、原点回帰を叫びます。カルヴァンは、神による救済は、あらかじめ決まっているという予定説を唱えます。つまり、カソリック教会への金銭的貢献による救済などを否定したわけです。神による救済の対象になるためには、禁欲的に生活し、勤勉に職業を全うすることが重視されます。そこで得た利益は、教会に寄進するのではなく、事業の拡大に使われることが認められたわけです。江戸期の安定や経済発展に、カルヴァン派の思想が影響したとは思えませんが、カルヴァン派のオランダとだけ交流を続けていたことは、実に興味深いことだと思います。明治期の爆発的な近代化に、なにがしかの貢献があったのではないかとも思えます。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年9月16日木曜日

カンドンブレ

Candomle
音楽の起源には、「言語起源説」、「感情起源説」、「求愛起源説」、「労働起源説」、「信号起源説」、「呪術起源説」等、諸説あります。恐らく、どれか一つが起源ということもなく、同時発生的だったのではないでしょうか。また、赤ん坊も音楽に反応することや、人間以外で音楽やビートに反応する生物が希であることから、ヒト科独特の特徴だとする説もあるようです。もっとも、人間が太古の昔に音楽を獲得してから、DNAに刻まれてきた記憶ということかも知れません。ただ、最初の音楽は歌声であり、最初の楽器は打楽器だったことだけは間違いないでしょう。言語や歌は、直立二足歩行の結果、喉を自在に使えるようになった人間だけが持つ特徴です。 

音楽は、目的に応じて、それぞれ進化を遂げていくわけですが、信仰や宗教のなかでも大きな存在になっていきます。神への祈りの形として、神の言葉を伝えるため、神を供応するため等々と、様々な使い方がされます。恐らく、音楽、ないしは音楽的要素を持たない信仰も宗教も無いのではないでしょうか。例をあげればキリがありませんが、よく知られたところでは、キリスト教の聖歌や賛美歌、仏教の声明や御詠歌、あるいはイスラム教のアザーンも音楽的です。なかでも、アフリカのアニミズムを起源とする信仰で用いられる打楽器と歌と踊りは、最も古い信仰と音楽の関係を伝えているように思えます。さらに言えば、最も古い人間と音楽との関係そのものでもあるのでしょう。

奴隷貿易による南北アメリカへの黒人の流入は、西アフリカ文化の流入でもあります。音楽的には、欧州文化と西アフリカ文化が出会い、ブルース、サンバ、ソン等が生まれます。多くは、教会音楽などに西アフリカ的センスが加えられたものですが、なかには西アフリカ文化そのものが保持され、西洋的な要素を取り込んだものも存在します。代表的なものとして、ブラジルの土着宗教カンドンブレの音楽が挙げられます。カンドンブレは、最も古い黒人奴隷上陸の地でもある北東部バイーアを中心に、今も200万人以上の信者がいると言われます。ナイジェリアのヨルバ族の信仰がベースとなっており、多数のオリシャと呼ばれる神が信仰されます。打楽器と歌に合わせて踊ることが祈りの形であり、音楽も踊りもオリシャによって異なります。間違いなく、サンバの源流がここにあるのだと考えます。

カリブ海一帯に広がるブードゥーは、ハイチ発祥と言われます。源流は、ペナンのフォン族の信仰であり、ペナンでは国教とされているようです。加えてキューバには、ヨルバ族起源のサンテリア、パロという宗教もあり、その祈りは、やはり打楽器と歌と踊りで構成されます。西アフリカの民族音楽、そしてそれを起源とする南北アメリカの土着宗教に共通するのは、長いリフ、女性コーラス、そしてコール&レスポンスだと思われます。延々と続く打楽器のリフと踊りは、間違いなくトランス状態を生み出します。そして、女性コーラスとコール&レスポンスは、集団性を獲得・強化することをねらいとして、音楽が使われていることの現れだと思えます。古い形のサンバやソンにも、その様式は受け継がれています。

ひょっとすると、集団性と音楽の関係は、何も土着宗教に限った特徴ではなく、すべての音楽に共通することなのかも知れません。つまり、音楽は人間の集団性と深く関係していると言えるのではないでしょうか。それゆえ、音楽は、集団性を最大の特徴とする人間に限って見られる習性なのだとも考えられます。(写真出典nowinrio.com)

2021年9月15日水曜日

夢の国

WDW Magic Kingdom
東京ディズニー・シーが、開業20周年を迎えるとのこと。比較的近くに住んでいるにもかかわらず、一度も行ったことがありません。ディズニー・ランドには、何度も行きました。スポンサー企業に勤める友人の計らいで、開業直前にも行きました。子供も、大人も楽しめる、まさに”夢の国”だと思います。とは言え、子供たちが大きくなり、友達と行くようになると、親世代にとっては、行きたくても行けない、別な意味での”夢の国”になるわけです。私の世代以降は、ディズニーで育ってきた世代です。初めて見た映画がディズニー映画ですし、TVでもディズニーのアニメが流れていました。日本では、ディズニーがDNAに組み込まれた最初の世代と言えます。

NYにいた頃、何度かウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート(WDW)に行きました。フロリダのオランドーにある世界一の”夢の国”です。マジック・キングダム、エプコット、アニマル・キングダム、ハリウッド・スタジオという4つのテーマ・パークを中心に、ウォーター・パーク、ショッピング・センター、ホテル、ゴルフ場などで構成され、その広さは、山手線が二つ入って余りあるほど広大なものです。1週間かけても、すべてを楽しむことは、到底無理です。また、近隣にはユニバーサル・スタジオ、シー・ワールド等もあり、少しドライブすれば、ケープ・カナベラルのケネディ宇宙センター、カー・レースのデイトナ500で有名なデイトナ・ビーチもあります。子供のいる家族にとっては、地球上で最高のヴァケーション・センターです。

WDWは、広大であることに加え、世界中から人が押し寄せますから、何よりも事前の計画が大切になります。当時は、オフィシャル・ガイド・ブックの他に、アンオフィシャル・ガイド・ブックなるものも出版されていました。例えば、時間帯別のアトラクションの平均待ち時間、あるいはエプコットは左回りで攻めろといった裏技も満載されたユーザー目線の情報誌でした。大いに活用し、随分と助けられました。また、人気のレストランやショーなどは、事前予約が欠かせません。ネットのない時代ですから、予約開始とともに、電話しまくりました。WDW内のホテルやヴィラに泊まると、一般より早く予約できる特典があり、これは便利でした。とにかく、WDW行きが決まると、計画立案や事前準備で、半年間はアドレナリンが洪水状態でした。パソコンに細かな計画を打ち込み、WDWへ行くという人がいれば、参考に渡してもいました。

WDWのなかで、私が最も好きな場所は、マジック・キングダムへのアプローチです。いくつかのアクセスがありますが、メインは湖を船で渡ります。朝一番の湖は、とても気持ちが良く、新しい一日の始まりにふさわしいものでした。また、夕暮れは、楽しい夜への期待に胸が高まります。そして、日が落ちてから、煌々と輝くマジック・キングダムを目指して、暗い湖の上を進む様は、まさに夢の国へのアプローチそのものでした。WDWは、1971年に開業していますが、そもそもウォルト・ディズニーは、ここに理想の街を作ろうとしたようです。エプコットにその名残があります。EPCOTとは、 Experimental Prototype Community of Tomorrow(実験的未来都市)の略です。建設予定地は、広大な沼地であり、まずは潅漑工事から始めたと言います。建設は、8年に及び、ウォルト・ディズニーは、完成を見ることなく亡くなっています。

東京ディズニー・ランドは、1983年の開業ですから、もうすぐ40周年を迎えます。オリエンタルランド社は、早くからディズニー・パークの誘致を行っていたようです。ただ、当時、ディズニーは、巨額を投じてWDWを建設中であり、また、アメリカ以外での開園というリスクにも慎重でした。結果、世界のディズニー・パークで、唯一、ライセンス方式の運営という選択がなされたわけです。開園10周年の際、絶好調のTDLを訪れたディズニー社の社長は「その判断は、わが社にとって、史上最悪のミスだった」と挨拶しています。(写真出典:wdwnt.com)

2021年9月14日火曜日

「サマー・オブ・ソウル」

監督:アミール・“クエストラブ”・トンプソン   2021年アメリカ

☆☆☆☆

1969年、ウッドストックに50万人を超す若者が集まったその夏、NYのハーレムでは、毎週日曜日、6週間連続で、のべ30万人を集めた無料コンサート「ハーレム・カルチュラル・フェスティバル」が開催されました。本作は、その記録映画です。黒人のために、黒人によって開催されたコンサートは、ウッドストックの影に隠れ、世界に知られることもありませんでした。フィルムも買い手がつかないまま、半世紀近く民家の地下室に眠っていました。その存在を知ったラッパーのクエストラブが、フェスティバルの出演者や観衆、そして当時を象徴する黒人たちのインタビューも加え、単なる記録映像ではなく、時代を描いたドキュメンタリーとして映画化しました。ある意味、奇跡の作品です。

東京でも、本作は、結構、観客を集めています。週末ともなれば、席は売り切れ、私が観た平日の昼ですら8割方という入りでした。プログラムは売り切れ、増刷したと言います。やはりオールド・ファンが集まっている印象です。なにせ、若い頃に熱狂したミュージシャンが多数出てきて、よく知っている曲を演奏するのですから、それはもう涙ものです。よく知っていても、映像を観るのは初めてというミュージシャンもいました。演奏されるジャンルも、ゴスペル、ブルース、R&B、ジャズ、プロテスト・ソング、ラテン、ポップまでと実に多様でした。特に、大御所マヘリア・ジャクソンを中心としたゴスペル・パートは圧巻でした。ゴスペルと対照的に新しい音楽としてフィーチャーされていたのがスライ&ザ・ファミリー・ストーンでした。

白人が2人、うち1人はドラマー、女性が2人、うち1人はトランペッターというファミリー・ストーンのメンバー構成は、当時、話題になりました。ましてやハーレムの黒人たちにとっては、驚きだったようです。2曲ばかり演奏が紹介されますが、映画の最後には、象徴的に「I Want to Take You Higher」の演奏シーンが流れます。数万人の黒人たちとのコール&レスポンスは鳥肌ものです。スライは、ファンクの頂点を極めた音楽性の高さに加え、その歌詞の過激さでも有名です。当時、スライのステージが黒人たちの暴動を誘発する恐れがあるとして、常にFBIがついて回っていたとも聞きます。”Higher”や”Stand!”といった曲の強烈なリフは、FBIの懸念が理解できるほど、盛り上がります。ちなみに、私の数少ない自慢は、六本木のブルーノートで、スライと肩を組んで、Higher!と叫んだことです。

このコンサートは、1年前に暗殺されたマーティン・ルーサー・キング牧師を追悼するために開催されました。NY市も後援しており、暴動発生を防ぐために開催されたという面もあったようです。 60年代後半は、 アメリカの政治と文化の分水嶺とも呼ばれます。黒人社会にも、大きな変化が訪れていました。象徴的には、二グロという差別的な呼び方が、ブラック、あるいはアフロ・アメリカンに変わりました。黒人音楽の世界でもダイナミックな変化が起きていました。 それまで黒人だけが聞く音楽だったR&Bが、モータウンによって、若者向け音楽として大ヒットする一方で、ニーナ・シモンに代表されるストレートなプロテスト・ソングも歌われるようになります。スライの音楽には、それを、さらに挑発的に進化させたという面もあります。

映画には、その夏、月面に着陸したアポロ11号のニュースに沸き立つアメリカが映し出されます。コンサート会場でインタビューされたハーレムの人々は、口々に「そんな金があったら、貧困対策に使え」と応じます。つまり、黒人の自意識が大いに高まった時代だったわけです。思えば、ウッドストックは、一つの時代の終わりを告げるコンサートでしたが、ハーレム・カルチュラル・フェスティバルは、新しい時代の到来を告げるコンサートだったわけです。(写真出典:eiga.com)

2021年9月13日月曜日

仇討ち

豊国「曾我兄弟」
日本三大仇討ちとされるのは、曾我兄弟の仇討ち、赤穂浪士の討ち入り、鍵屋の辻の決闘です。仇討ち、あるいは敵討ちは、大昔から、世界中で行われてきたはずです。親族の仇討ちが義務と捉えられる社会もあります。イスラム法のように、合法化されている場合もあります。江戸期の日本でも、一定の制約のもと、合法化されていました。しかし、基本的に、殺人者は、司法当局が逮捕し、裁判を行います。江戸期の仇討ちも、司法の手が足りないので、一般人に、逮捕権と処刑権を委ねるという佇まいになっています。ちなみに、現行犯に限っては、現行法でも、一般人の逮捕権が認められています。

具体的には、武士階級の直系尊属の仇討ちだけが合法とされましたが、他の場合も、大目に見られていたようです。仇討ちは、まず藩の許可を得ることが必要です。そのうえで、司法当局が妥当性を判断し、台帳によって管理されていました。仇討ちの実行者は、台帳をもとに出された免状を携行し、全国で敵を探すことになります。また、”助太刀”という助力者も認められていました。仇討ちされる側の正当防衛、いわゆる“返り討ち”も認められていました。仇討ちされた側の直系卑属が、さらに仇討ちする”重敵”、あるいは返り討ちにあった仇討ち側が、さらに仇討ちを行う”又候敵討”は、認められていませんでした。

江戸期以前、例えば鎌倉幕府は、武家のための法令である御成敗式目によって、仇討ちを禁じています。源頼朝が、富士の裾野で催した巻狩の最中に、父の仇を討った曾我兄弟ですが、捕縛された弟は、その場で斬首されています。赤穂浪士の場合は、合法的な仇討ちではなく、非合法な復讐と判断されます。赤穂浪士の討ち入りは、単なる仇討ちではなく、松の廊下での刃傷沙汰に関する処分への不満表明でもありました。幕府は、浅野内匠頭だけに切腹を命じており、武家の習わしである喧嘩両成敗が無視されたというわけです。討ち入り後、幕府は、浪士たちを斬首の刑に処することもできたわけですが、武士の対面を保つ切腹を命じています。討ち入りを、忠義と見なす幕臣も少なからずいたからなのでしょう。

鍵屋の辻の決闘、あるいは伊賀越の仇討ちは、江戸時代初期に起った事件です。岡山藩主池田忠雄が寵愛する小姓に横恋慕した家臣河合又五郎は、拒絶されたことに腹を立て、これを殺害します。河合又五郎を追った藩主が病没すると、殺された小姓の兄渡辺数馬の仇討ちが認められます。例外的措置ですが、おそらく上意討ちという性格もあったからなのでしょう。数馬は、助太刀としての荒木又右衛門と共に、伊賀上野の鍵屋の辻で仇討ちを果たします。数馬と河合又五郎の死闘は5時間に及び、最後は、荒木又右衛門がとどめを刺します。仇討ち後、紆余曲折はあったものの、二人は鳥取藩預りとなっています。

仇討ちを願い出て、認められた者は、事を成すまで、故郷に帰ることは許されませんでした。なかには、50年かかった例もあるようです。合法化されたことによる悲哀も、少なからずあったのでしょう。仇討ちの合法化は、武家の慣習である喧嘩両成敗を管理することによって、武士の面目を保ちつつ、報復の連鎖を断ち切るという政策でした。ただ、それだけではなく、忠義を美徳化することによって、武家社会を律し、ひいては幕府による支配を強固なものにするというねらいもあったのでしょう。(写真出典:weblio.jp)

2021年9月12日日曜日

祭りとラッパ

藤崎八幡宮例大祭
ラッパを吹きまくる祭りは、まず間違いなく”やばい”祭りです。浜松まつり、諏訪の御柱祭、熊本の藤崎八幡宮例大祭、花巻の蘇民祭、岸和田のだんじり祭等です。そもそもラッパ(喇叭)は、軍隊の信号用であり、ビューグルと呼ばれます。ビューグルの語源は、ラテン語の雄牛の指小形に由来し、牛の角で作った角笛がその起源と言われます。ただ、軍隊が使う金属製のビューグルの発祥は定かではなく、18世紀から多用されるようになったことだけは判明しています。会戦の規模が大きくなり、特に国民兵を前提にナポレオンが戦争のあり方を変えると、戦場には必要不可欠なものになっていったのだと思われます。

日本では、幕末にイギリス軍のビューグルが紹介され、明治政府が近代的軍隊を作る際、フランス軍によって持ち込まれました。なぜ、日本でビューグルがラッパと呼ばれるようになったのかは、はっきりしていません。その語源は、オランダ語、中国語、サンスクリット語等、諸説あるようです。除隊した兵たちが一般社会に持ち込み、軍国主義的な風潮のなか、特に日清・日露戦争の祝勝ムードが、ラッパを広めていったものと思われます。なかでも突撃ラッパが、勇壮さを誇る祭りで使われるようになっていったことは、ごく自然な流れだったのでしょう。

ラッパを吹く祭りのなかには、直接的に戦役と関係する祭りもあります。熊本市の藤崎八旛宮秋季例大祭です。神輿とともに、「随兵(ずいびょう)」と「飾り馬(かざりうま)」がパレードし、神宮に奉納されます。歴史の古い祭りですが、随兵と飾り馬は、文禄・慶長の役に出兵した加藤清正が、無事に朝鮮から帰国したことを祝って始められたと言われます。行列の掛け声が「ボシタ、ボシタ」だったことから、かつては”ボシタ祭り”と呼ばれていました。70~80年代、これが不適切との批判が起こり、掛け声は「ドーカイ、ドーカイ」に変わり、ボシタ祭りという名称も、公的に使われることはなくなりました。

不適切とは、ボシタの語源が「朝鮮滅ボシタ」であり、差別的だというわけです。しかし、清正が熊本に連れ帰った朝鮮人たちが、祭りを見て発した言葉が語源という説もあります。また、そもそも五穀豊穣を願う祭りであり、性的な意味合いを持つ言葉だという説もあるようです。いずれにしても語源ははっきりしないわけですが、恐らく、日清戦争以降、韓国併合もあり、国威発揚という観点から、「滅ボシタ」説が強調されるようになったのではないかと思います。戦後すぐ、GHQがボシタ禁止令を出しています。戦前・戦中は、GHQが禁止せざるを得ないほど、軍国主義的になっていたということなのでしょう。突撃ラッパは軍国主義的と批判されても、否定できない面があります。

軍国主義的色彩もあったでしょうし、韓国の人からすれば感じの悪い掛け声だったとは思います。ただ、民間の古い祭りであり、本意は清正の無事を祝っているわけですから、別な対応も考えられたようにも思います。やや気になるのは、戦後すぐではなく、なぜ70~80年代に至って、批判が起こったのか、ということです。漢江の奇跡と呼ばれた、韓国の経済成長とリンクしているのかも知れません。さらに、この祭りでは、飾り馬を長時間歩かせたり、鞭や棒を当てることが、動物虐待であると愛護団体から批判されています。一概に否定するわけにもいかないのかも知れませんが、古い祭りを現代的視点で見れば、突っ込みどころ満載というところなのでしょう。(写真出典:fujisakigu.or.jp)

2021年9月11日土曜日

9.11

9.11同時多発テロ発生から、20年経ちます。9.11は、3.11東日本大震災とともに、自分の人生の中で、最も衝撃を受けた日かも知れません。その場にいたわけではありませんが、かつて住んだ街で、しかも仕事でよく出入りしていたワールド・トレード・センターが崩れる映像は、とてつもない衝撃でした。その犠牲者数の多さに震えました。また、その後の喪失感も大きいものがありました。その後、グランド・ゼロを訪れる機会がありましたが、10年を経て、なお現実感に欠けるような印象を持ちました。既にオサマ・ビン・ラディンは殺され、この8月をもって、最後の米軍もアフガンから撤退し、アメリカ史上最長の戦争は終わりました。

1980年正月早々、私は、トランジットでモスクワ空港に立ち寄りました。すると機内待機が命じられ、カラシニコフを持った兵士たちが乗機し、通路に立ちました。アフガン侵攻直後のソヴィエトは、極度の緊張状態にあったわけです。1978年、アフガンに共産党政権が誕生すると、各地の反政府ゲリラは、ジハード(聖戦)を宣言し、ムジャーヒディーン(ジハードを遂行する者)を称します。翌79年末には、ソヴィエトが軍事介入します。ジハードは、イスラム社会に侵入してきた異教徒との戦いであり、ウンマ(イスラム共同体)を守るムスリムの義務でもあります。ジハードで戦死したムジャーヒディーンには天国が約束されます。ムジャーヒディーンには、アメリカから大量の武器と資金が供与され、イスラム各国から多くの義勇兵も参戦します。サウディの大富豪の息子オサマ・ビン・ラディンも、その一人であり、潤沢な資金を投じて、義勇兵の組織化や訓練に、中心的役割を果たします。

ビン・ラディンは、近代的教育を受けて育ちますが、次第にイスラム原理主義のムスリム同胞団に傾倒していきます。サウディアラビア自体が、サウディ家と原理主義のワッハーブ派によって建国された国であり、より過激な原理主義への傾倒は自然だったのかもしれません。ムスリム同胞団は、1920年、エジプトで、近代化・西洋化に反対し、シャリーア(イスラム法)に基づく国作りを求めて組織化されます。その思想的中核を担ったサイイド・クトゥブは、ジハードにより真のイスラム国家の建設すべきと主張します。ビン・ラディンは、クトゥブの思想に最も影響を受けたとされます。その思想からすれば、パレスティナを占拠するイスラエル、湾岸戦争でアラブに派兵したアメリカは、排除すべき異教徒であり、両国とのジハードを戦うことは、ムスリムの義務です。

10年に及んだソ連軍の侵攻が、事実上、ムジャーヒディーンの勝利に終わると、ビン・ラディンは、自身が組織した軍事組織アル・カイーダとともに、イスラム世界のヒーローとなり、その思想と行動は、より先鋭化します。1990年、イラクがクウェートに侵攻するとアメリカを中心とした多国籍軍が、サウディアラビアに集結し、湾岸戦争が起こります。ビン・ラディンは、マッカとマディーナという聖地を擁するサウディに異教徒アメリカを入れるな、と国王に掛け合いますが、拒否されます。サウディを追放されたビン・ラディンは、拠点を移したスダーンからも追放され、かつての同胞タリバンが支配するアフガンへと移ります。この間、アル・カイーダは、世界貿易センター爆破事件、ナイロビとダルエスサラームのアメリカ大使館爆破事件、アデンでの米艦襲撃事件と対米テロを続け、ついに9.11へと至ります。

テロとは、概ね、政治的目的を達成するための暴力的手段と捉えることができます。タリバンや他のイスラム原理主義が目指すものは政治的である以上に宗教的です。近代化を進めてきた欧米が、それを理解することは難しいように思えます。ジハードの構図からして、アメリカが得意とする武力制圧は、ヴェトナムと同様の泥沼しか生みません。それが、アフガンにおけるアメリカの20年だったと思います。それにしても、イラクによるクウェート侵攻の際、なぜアメリカは、あれほど早く派兵を判断したのでしょうか。イラク戦争の際も、大量破壊兵器の存在とアル・カイーダとの関係を理由に、異様な早さで派兵を決めました。しかし、大量破壊兵器は存在せず、そもそもビン・ラディンとフセインは不仲でした。イスラエルの強い要請があったのかも知れませんが、やはり石油との関連を疑ってしまいます。(写真出典:news.postseven.com)

2021年9月10日金曜日

「プロミシング・ヤング・ウーマン」

監督: エメラルド・フェネル     2020年アメリカ

☆☆☆☆

アカデミー作品賞を獲得するような映画は、商業面も含めて、三拍子も四拍子も揃った映画です。ですから、監督賞や脚本賞等、複数受賞することが多くなります。一方、作品賞にノミネートもされない、あるいはノミネートされても全く本命視されていないのに、脚本賞だけ獲得する作品もあります。そういった作品は、ほぼ間違いなく名品です。典型的な例が「ユージャル・サスペクツ」です。そして、この「プロミシング・ヤング・ウーマン」も典型例に加わることになります。スタイリッシュでコミカルなテイストのサイコ・スリラーです。レイプという重いテーマを扱いながら、上質なエンターテイメントとしても、十分に成立しています。

監督・脚本のエメラルド・フェネルは、英国の女優、小説家、脚本家であり、本作が長編初監督作品です。アカデミー監督賞にもノミネートされていましたが、英国女性としては初のノミネートだったようです。まだ若いのに、なかなかの才人です。なにせ脚本が良いということになりますが、本作のスタイリッシュな仕上がりには、彼女のセンスの良さを感じます。演出、カット割り等を巧みに構成して、スピード感を出しています。それもスティーブン・ソダーバーグばりの早さということではなく、心地よいテンポの速さです。さらに、色彩と音楽の使い方が秀逸です。現代風という意味でもありますが、若い世代のセンスと思い切りの良さを感じさせます。

主人公カサンドラ・トーマス役のキャリー・マリガンは、英国の女優です。本作で、はじめてアカデミー主演女優賞にノミネートされました。今年公開された「時の面影」では、嫋やかな未亡人のなかに意思の強さと英国の伝統を感じさせる演技が印象に残りました。本作では、「時の面影」とは180度違う女性を演じています。典型的に見えて、決して典型的ではないアメリカの若い女性を演じています。複雑な人格を演じきる演技力もさることながら、イギリス的なイギリス人がアメリカ人を演じることで生まれた微妙な違和感が、役作りに反映されていると思います。キャスティングの妙と言えます。

Netflixの「ジョン・オブ・ゴッド」というドキュメンタリーを見ました。ブラジルの田舎町の霊媒医ジョアンのもとに、評判を聞きつけた人々が、世界中から、毎日、数千人も集まったそうです。一方で、霊媒医は、気に入った信者を、治療と称して個室でレイプするという性癖を持っていました。霊媒と信者という関係のなかで、告発は封じ込まれます。ただ、数人の女性が声をあげると、次々と被害者が名乗り出て、その数は数百人に達しました。レイプは、癒えることのない傷を与える犯罪ではありますが、被害者が告発するには高い社会的ハードルがあります。「プロミシング・ヤング・ウーマン」は、被害者自身による復讐劇という構図をとらなかったことで、この重いテーマを広く知らしめることに成功しているように思います。

背景には、もちろん女性差別問題があります。近年は、相当に理解が進んだようにも見えますが、あまりにも社会に長く深く根を張りすぎていて、他の差別同様、そう簡単には解消できそうにありません。アフガニスタンでは、タリバンが政権を奪取しました。イスラム法シャリーアに基づく国作りを標榜しています。千年以上も前に成立したシャリーアにおいて、女性の権利は想定されていません。国際社会は、いかにタリバンの女性差別撤廃を求めていけるか、ということが問われていくことになります。(写真出典:movies.yahoo.co.jp

2021年9月9日木曜日

奇妙な味

「トランス・ワールド」
「奇妙な味」は、ミステリーのなかの一つのジャンルです。犯人と追う者がいて、謎解きがあるという典型的なミステリーとは異なり、異様な設定やストーリー展開で、不気味な印象を与える小説です。ロード・ダンセイニの「二壜のソース」、ロアルド・ダールの「南から来た男」などがよく知られています。例えば「二壜のソース」は、村はずれに越してきた男女のうち、女性の姿が見えなくなる。男は、毎日、薪割りに精を出す。村人との接触はないが、週に一度、村の雑貨店で二壜のソースだけを買う。そのソースは、肉用だった、といった具合です。

ユニークな着想とストーリー・テリングの力量だけの勝負であり、ほとんどは短編です。昔、結構、はまりました。奇妙な味にSFが含まれることはありません。SFの短編は、超現実的ゆえにSFなのであり、実生活の一定枠内で奇妙な味わいを楽しむという風情に欠けます。いわば、ハンドありのサッカーのようなルールを超越した世界と言えます。ただ、SFというよりも奇妙な味と呼びたくなる作品も少なからずあります。フィリップ・K・ディックの短編の多くは、奇妙な味と呼べると思います。そんな奇妙な味系SF映画をAmazonで見ました。B級映画専門のジャック・ヘラーが監督した「トランス・ワールド(原題:Enter Nowhere)」です。

ここからは、完全ネタバレになります。この映画の劇場公開はなく、ライオンゲートが買って、直接DVD化したようです。超低予算で、着想勝負の小品ですが、楽しめました。まるで映画好きな大学生たちが、サークルで撮ったような作品です。映画作りの楽しさを思い出させてくれる映画とも言えます。学生映画との大きな違いは、そこそこのキャスティングをしていることです。と言っても、登場人物は、ほぼ4人だけですが。おそらく製作費の大半が出演料なのでしょう。脚本は、ミュージシャンでもあるショーン・クリステンセンです。

ガス欠や事故など、それぞれの事情を抱えた男女3人が、深い林の中のうち捨てられた狩猟小屋にたどり着きます。次第に3人の、場所、時間に関する認識が、大きく異なる事が分かってきます。時間に関しては、それぞれが、今年は1962年、1985年、2011年だと言うのです。そこへ第二次大戦中のドイツ兵が現れます。ドイツ兵は、女性二人が身につけていたロケットに動揺します。妻の写真でした。今年は62年だと主張する女性は、ドイツ兵の娘であり、85年だと言う女性はそのまた娘であり、2011年だと言った青年は、そのまた息子であることが判明します。時空を超えて4世代が集まったわけです。自軍の爆撃で戦死したとされるドイツ兵を助ければ、自分たちの運命も変わることに気づいた3人は、ドイツ兵を助けようとします。

私が、この学生映画っぽい小品を面白いと思ったのは、かつての人気TV番組「トワイライト・ゾーン」や「ヒッチコック劇場」を思い起こさせたからだと思います。子供の頃の懐かしさですね。10年ほど前に、”奇妙な味”系のちょっとしたブームがあり、懐かしい短編集が再発行されていました。おそらく若い人たちが、奇妙な味の面白さを発見したのではなく、暇になった老人たちが、昔を懐かしんで需要が生まれたのでしょう。一時期、CDの売り上げ上位を、ユーミンやサザンのベスト・アルバム等、懐かし系が占めていました。同じ現象なのでしょう。そもそも若い人たちは、配信中心で、CDは買いませんからね。(写真出典:en.wikipedia.org)

2021年9月8日水曜日

縄文パワー

私は、三内丸山遺跡、棟方志功、ねぶた祭、津軽三味線をもって、青森の「縄文パワー」と名付けています。もちろん、まったく認知されていません。遺跡はともかくとして、他の三点については、プリミティブなエネルギーの奔出が特徴であり、都の文化にはないパワーが感じられます。より人間の本質に近いエネルギーのように思えます。なお、縄文パワーの川下には、岡本太郎を置きたいと思います。太陽の塔をはじめ、岡本太郎の作品は、縄文文化にインスパイアされています。縄文パワーも”爆発だ!”というところです。

三内丸山遺跡は、江戸期から知られていたようですが、本格的調査は、1992年、県営球場建設に向けた事前調査として始まったようです。大規模建築跡、800に及ぶ住居跡、食物栽培の痕跡、夥しい数の土偶・土器等、縄文文化に関する常識を覆すような遺跡であることが判明し、球場建設は断念されました。なんとものんびりした話に聞こえますが、そもそも縄文遺跡に関する発掘調査が盛んになったのは、近年のことです。三内丸山は、その流れに勢いをつけたと言えるのでしょう。今般、「北海道・北東北の縄文遺跡群」として、ユネスコの世界遺産に登録されることになり、ここのところの縄文ブームも、一つ形を成した格好です。

棟方志功は、ヴェネツィア・ビエンナーレでグランプリを獲得するなど、日本を代表する世界的版画家です。木版にこだわり、極度の近視ゆえ、板に顔をこすりつけるように彫る姿が印象的でした。その際、いつも軍艦マーチを歌っていたという話も、天才らしい逸話です。棟方志功の版画は、自由で大胆な彫りが特徴ですが、人間の表現欲求が、ストレートに出ているように思えます。迸るエネルギーは、プリミティブな人間本来の力にあふれています。代表作である”釈迦十大弟子”からは、人間が持つ慈愛が、飾り気ない姿で現れています。その棟方志功が、生涯、愛してやまなかったのがねぶたです。

棟方志功の作品は、ストレートにねぶたのパワーにつながっています。ねぶたは、神も仏も一切関係ない、極めて希な祭りです。その起源は、はっきりしていません。恐らく盂蘭盆会の供養だったと思われますが、観光協会は、坂上田村麻呂が蝦夷をおびき出すために行ったことが始まりとしています。東北における田村麻呂起源ものは、讃岐の弘法大師起源ものと同じで、やや怪しげなものが多くなっています。実家の前の神社には、田村麻呂が座ったという岩までありますが、そもそも、記録によれば、田村麻呂は、多賀城以北に足を踏み入れていません。巨大な人形灯籠に勢いのある囃子、「ラッセラー」のかけ声とともに、ただただジャンプするだけの跳人(はねと)の踊りは、奇祭と言ってもいいくらいだと思います。一晩、跳ねれば、足はパンパンになり、血豆が潰れ、歩けやしません。ところが、夕方、ねぶた囃子が聞こえてくると、体はシャキッとし、また跳ねるわけです。

津軽三味線のダイナミックな弾き方も、ねぶたに通じるものがあります。元々、越後の瞽女の門付け芸から派生した津軽三味線でしたが、次第に大きな音を競い合うようになり、細棹は太棹に、バチさばきは叩きつけるようになったと聞きます。”津軽じょんがら”をはじめ、よく知られた曲もありますが、基本的にはすべて即興演奏です。同じ曲でも、弾く者によって、音色も曲調も多様であり、個々のエネルギーの放出ぶりが魅力です。ねぶたも津軽三味線も、長い”ケ”の期間に加え、半年近くは風雪に耐えるという土地柄のため、ひとたび”ハレ”になれば、溜まりに溜まったエネルギーが、一気に噴き出すということなのでしょう。(写真出典:hitachi.co.jp)

2021年9月7日火曜日

パンとサーカス

ジェン・シュアン
”パンとサーカス”は、古代ローマの愚民政治を象徴する言葉として有名です。紀元前3~1世紀、三次に渡ったカルタゴとのポエニ戦争によって、ローマは地中海の覇者となります。各地から安価な小麦が流入し、ローマ軍団の担い手でもあった小規模な自作農が没落していきます。一方、富裕層は海外での投資機会が増え、貧富の格差は拡大します。ローマに流入した没落農民は、職もなく、子供しか持たないという意味でプロレタリーと呼ばれます。選挙権を持つプロレタリーの不満が爆発しないように、時の為政者たちは、豊富な小麦を低価格、あるいは無償で配布します。食が足りれば、娯楽を求めるものです。チルコ・マッシモにおける戦車競走やコロッセオでの剣闘士の試合等が提供されていきます。こうしてプロレタリーの政治的無関心が形成、維持されていきました。

古代ローマは、その後の世界が経験することになる政治的制度や施策のすべてを、既に行っていたように思えます。逆に言えば、人類は、ローマ以降、一切政治的に進化していない、とも言えます。社会主義市場経済を掲げる現代中国でも、パンとサーカス的な現象が進んでいるように思えます。経済発展の恩恵は、官僚、官僚につながる一部民間人が独占しているように思えます。北京、上海等は、世界トップレベルの豊かな都市文明を享受する一方、農村部の貧困は改善されていません。中国共産党は、上海をショーケース化し、大衆のあこがれと期待を醸成しているようにも見えます。また、各種給付の拡充や貧困村の移住等、大胆な貧困対策も打たれてはいますが、根本的な格差解消へは、まだ遠い道のりのように見えます。

「共同富裕」は、習近平が打ち出した新たな方針です。皆で豊かになろう、という意味だそうです。この方針自体が、中国の格差問題の根深さ、あるいは危うさを伝えています。鄧小平の「豊かになれる者から豊かになれ」という先富論は、見事な成果を挙げました。一部富裕層に加え、中間層も6億人まで拡大したと聞きます。全体主義国家ならではの驚異的スピードとも言えます。とは言え、農村部を中心に、まだ人口の半数以上が貧困状態にあるわけです。歴然たる格差は、常に不満の温床となります。マーケティングの世界には、安売りで獲得した市場は安売りで奪われる、という常識があります。大衆の貧困と不満を力に革命を成就した中国共産党は、常に大衆の貧困と不満に怯える宿命にあります。

習近平の腐敗撲滅運動は、政敵排除という狙いとともに、官僚の不満を買わないレベルで、見世物としての役割も果たしてきました。ジャック・マーや巨大IT企業への締め付けも、同様の性格を持っているのでしょう。今般、ジェン・シュアンやヴィッキー・チャオといった芸能界のトップスターたち、つまり大金持ちへの締め付けが、大々的に行われています。かつてファン・ビンビンが脱税で告発されましたが、今回は、多少性格が異なるように思えます。13億人を統治するためには、一罰百戒的アプローチをとるしかないわけですが、それ以上に貧困層の不満を和らげるねらいがあるように思えます。ここ数年、政府や党への直接的批判が含まれない限り、芸術表現に関する検閲は比較的緩やかだったように思います。今回のキャンペーンは、表現に関する一層の統制強化につながる懸念もあります。

格差解消は、世界各国が抱える政治課題です。大きな犠牲を伴う北欧方式を除けば、それは叶わぬ夢のようでもあります。格差は必ず生まれます。問題は、それが皆の納得を得られない構図を持って固定化し、それが皆の不満となって爆発するレベルかどうかということだと思います。大衆の不満が存在し、そこに核となり得る組織が生まれる気配があれば、中国共産党は、徹底的に潰してきました。まったく政治色も組織性も持たなかった太極拳の”法輪功”を弾圧した例など典型です。また、今回の芸能界への締め付けも、ファンクラブという巨大組織を恐れたという面もあるのかも知れません。中国共産党の現時点における方針は、大衆の政治的無関心化を図り、組織化を徹底的に弾圧する、という対処療法に見えます。(写真出典:malaysia.news.yahoo.com)

2021年9月6日月曜日

蕎麦切り(2)

へぎそば
田舎そばは、そば粉十割以外は考えられませんが、生蕎麦で、もっとも多いのは、そば粉8割につなぎが2割の”二八そば”です。打ちやすく、切りやすい。つまり、のどごしのいい、手繰りやすい蕎麦ができるわけです。つなぎは、小麦粉が一般的ですが、他には、自然薯や山ごぼう、あるいは卵を使うものもあります。珍しいところでは、新潟の”へぎそば”は、布海苔を使います。中越地方は織物が盛んな土地です。横糸をピンと張るために、布海苔が使われていたことから、つなぎにも使われるようになったと聞きます。のどごしの良さが特徴です。ちなみに、”へぎ”とは木片と書き、要するに板に乗ったそばという意味です。

新潟のそば屋は、圧倒的にへぎそば中心です。美味しいのですが、時折、無性に二八そばが食べたくなりました。名古屋に赴任している時も、そばには困りました。きしめん王国名古屋は、蕎麦不毛の地でした。もちろん大都市ですから、いい店もありますが、極めて蕎麦屋が少ないわけです。恐らく高松の次くらいに少ないと思います。意外と大阪や福岡の方が蕎麦屋は多いように思います。ただ、人口あたりの蕎麦屋の数を都道府県別で言うと、圧倒的に少ないのが高知県だと聞きます。次いで奈良県、滋賀県と続くようです。奈良と滋賀は、外食文化そのものが乏しい土地柄ではあります。逆に蕎麦屋が多い県ベスト3は、長野県、山形県、福井県となります。納得できます。

福井県の蕎麦文化は特色があります。なにせ福井県の人たちは、やたら”越前おろしそば”を食べます。おろした辛味大根をぶっかけにして食べます。強力粉をつなぎに使った力強いそばと大根おろしがよく合います。福井県の人たちは、三食、これでいいとまで言います。私も、越前おろしそばは好みです。私は、基本的に、蕎麦はもりそばに限る、と思っていますから、冬でも、ほとんど種物は食べません。ただ、山形の冷たい”肉そば”だけは別です。神田美土代町の「河北や」の冷たい肉そばは絶品です。締めに肉そばを食べたいがために飲みに通っていました。山形の蕎麦は美味しいのですが、やや風変わりな蕎麦文化も持っています。

面白いと思ったのが、天童の「水車」発祥と言われる”鳥中華”です。要は、蕎麦のつゆに中華麺が入っているという代物です。不思議なことに、これが良く合って、実にやさしい味になります。鶏肉が乗って、油分もあるせいか、満足感もあります。また、姫路駅の名物”えきそば”も、薄めのそばつゆに中華麺という取り合わせです。定番は、油揚げを乗せた”きつねえきそば”です。初めて食べた時には、やや頭が混乱しました。ところが、これまた、何とも言えないほっこり感のあるやさしい味でした。鳥中華やえきそばを食べて感じるやさしさは、逆に、蕎麦という麺が持つ力強さを、改めて教えてくれているようにも思います。

そば粉を使った料理は海外にもあります。フランスのガレットが有名ですが、欧州、ロシア、アジアに分布しています。細い麺にして食べるのは、中国、ブータン、韓国、そして日本だけです。日本以外の3カ国では、射出型、いわゆるところてん方式の製麺機を使います。伸ばして、たたんで切るのは日本だけです。近年、新潟のメーカーが開発した射出型の製麺機が普及しつつあるようです。十割そばが、職人の技がなくても、簡単に作れます。昔、射出器も大陸から伝来していた可能性はありますが、蕎麦文化が広がらなかったため、忘れさられたのかも知れません。蕎麦切りは、器用な日本人ゆえの独特な食文化と言えそうです。(写真出典:hotpepper.com)

2021年9月5日日曜日

蕎麦切り(1)

志な乃の合い盛り
蕎麦は、私の大好物ですが、名店の蕎麦だけでなく、立食そばも大好きです。かつては、駅そばを素通りできないほどでした。3分あれば、一杯食べられるというのも自慢でした。立食そばは、江戸期の屋台が発祥ですから、随分長いこと、しかも姿を変えることもなく、庶民に愛されてきたと言えます。もちろん、長続きの秘訣は「うまい、やすい、はやい」につきます。 日本に蕎麦が入ってきたのは、随分古かったようですが、広まることはなく、わずかに山岳部で栽培されるのみでした。当時の食べ方としては、蕎麦掻き、蕎麦餅くらいだったようですが、16世紀、細い麺にした蕎麦切りが信州で誕生します。

これが、日本の蕎麦文化の夜明けです。蕎麦は、単身赴任の侍、忙しい職人が多い街・江戸のニーズにマッチし、瞬く間に広がっていきます。江戸の蕎麦屋は三千軒を超え、寿司・蕎麦・天ぷらは江戸の三大名物とまで言われます。蕎麦屋の多くは、担い屋台で夜に営業する”夜鷹蕎麦”あるいは”夜泣き蕎麦”でした。実に合理的に設計された担い屋台の発明も、蕎麦の普及につながったと思います。一杯の値段は、落語の””時そば”で知られるとおり、16文。200~300円に相当します。今とあまり変わらなかったわけで、その点も実に優秀な食品だと言えます。

蕎麦は、実に良い楽しみです。食べて良し、打って良し、といったところです。病膏肓に入り、道具を揃えて、自ら蕎麦を打つ人も多くいます。実際に打ってみると、気温や水で変わる蕎麦の奥深さがよく分かると言われます。また、こね方でも味が変わり、つなぎなしの十割蕎麦等は、素人がこねるのは無理とも聞きます。蕎麦自体は、極めてシンプルな食品ですが、そば粉の挽き方、そば粉の割合、つなぎ、打ち方、切り方、つゆ、薬味、種(具材)、冷温等の違いに加え、腕の善し悪しでも味が変わるわけです。さらに、地方によって、それぞれ特色ある蕎麦文化も存在します。蕎麦は実に多様な食文化性を持っていると言えます。

蕎麦は、挽き方によって、三種類に分類されます。一番粉と言われる中心部の胚乳だけを使う更科そば、三番粉という緑色の薄皮まで挽いた薄緑の藪そば、殻まで挽いた黒い田舎そばです。それぞれの良さがあり、どれも美味しいのですが、私の好みは、香りの強い田舎そばです。それも十割がいいですね。かつて、札幌にあった「藤そば」は、大のお気に入りでした。太く短く不揃いで、まさに無骨な十割そばは、香りが良く、味わいが深く、傑作でした。ご亭主が亡くなり、その技を継ぐ人もなく、随分と前に閉店しました。藤そばに近いと思っているのが、赤羽橋の「志な乃」です。虎ノ門にあった頃から、定番は、けんちん合い盛りでした。けんちん汁と腰の強いうどんも名物です。

ズズッと”手繰る”江戸の蕎麦も大好きです。麻布十番の「更科堀井」や「かんだやぶそば」は、香りが鼻に抜けて、うまいですね。手繰るとは、江戸っ子が、粋を気取った言葉だと言われます。江戸時代の大工の符牒で、蕎麦を下縄と言ったことから出てきた言葉のようです。また、「うどん一尺そば八寸」という言葉もあります。八寸(24cm)は、蕎麦を切る際のたたみ方に由来する長さですが、勢いよく手繰るのにも、ちょうどいい長さだと思います。たまに、馬鹿に長い蕎麦がありますが、手繰り難くていけません。また、蕎麦をつゆにどっぷりつけて食べる人がいますが、気になります。そいう食べ方をしていたアメリカ人に、先の方をちょっとだけつけて手繰るんだ、と教えたら、数段美味しくなったと感動していました。(写真出典:tabelog.com)

2021年9月4日土曜日

三合会

14K創始者葛肇煌
10年程前のことですが、北九州市へ出張した際、空いた時間で市内を散歩したことがあります。わずか1時間の間に、やくざとおぼしき人を5~6人見かけました。やくざだと思ったのは、服装や歩き方が、他では見かけることがなくなった戦後のやくざそのものだったからです。当時、小倉の街では、一般人を標的とする発砲事件が相次いでいました。小倉を牛耳る工藤会の仕業だと、皆、分かっていましたが、犯人は一切捕まっていませんでした。福岡県警と工藤会の癒着を疑う声もあるほどでした。当時、工藤会は、誰が小倉を守っていると思っとんじゃ、と言っているとも聞きました。

工藤会は、中国から押し寄せる蛇頭や三合会と水際で戦い、その浸透を防いでいるというのです。もちろん、事の真偽はわかりません。ただ、ありそうな話だと思えるほど、中国犯罪組織による日本への浸透が進んでいたわけです。蛇頭は、日本のやくざのような犯罪組織と思われがちですが、実態は、世界中に広がる密入国ブローカー組織です。蛇は、頭だけを出して水の中を泳ぐことから、そう呼ばれるようです。コンテナにギュウギュウ詰めにされた密入国者たちが、命を落とすケースが、欧米でも散発していました。一方、三合会は、香港に拠点を持つ複数のやくざ組織の総称です。

三合会の起源は、19世紀、清朝末期の中国各地に起こった洪門という秘密結社にあります。洪門は、満州人が建てた清朝に対する漢民族による武力抵抗組織です。“反清復明”を掲げ、起源は鄭成功まで遡るとも言われます。太平天国の乱、辛亥革命でも大きな役割を果たしています。孫文も、洪門のメンバーであったことはよく知られています。国共内戦で共産党が勝利すると、洪門の一部は、香港へと移り、三合会が生まれます。三合とは、天地人を表し、その調和を目指す組織とされます。武力闘争のための資金調達から始まり、次第に黒社会に根を張っていったのでしょう。

三合会は、世界中の華僑社会に拠点を持ち、中国人がいれば三合会もいる、と言われるほどでした。最大組織と言われる“14K”は、世界最大の犯罪組織とも呼ばれていました。三合会は非合法組織であり、構成員であることが分かれば、即刻逮捕されます。それゆえに地下に深く潜り活動していると言われます。ただ、鄧小平はじめ中国要人が、三合会を許容するような発言も行ってきました。香港で民主化運動が激しさを増すと、反動的な愛国者グループがデモを襲う光景をよく見かけます。おそらく当局と結託した三合会なのだろうと想像できます。政治と裏社会の微妙な関係は、世界中に存在します。日本も同様ですが、特に戦前は、なかば公然たる関係でもありました。

ちなみに、三合会の最大組織14Kの誕生に関しては、旧日本軍が関わっているという話があります。日中戦争のおり、陸軍の広東特務機関は、三合会の影響力の大きさを知り、ダミーの犯罪組織を作って内部情報の収集にあたったそうです。敗戦後、国民党軍の葛肇煌が、その組織を接収し、後の14Kがスタートしたと言われます。歌舞伎町は三合会が支配している、と言われはじめてから、随分になります。今般、工藤会トップに下された極刑、あるいは暴力団排除条例等は、法学的に疑問がないわけではありませんが、反社勢力に対する国の厳しい姿勢を感じさせます。日本の反社勢力が弱体化することは好ましいのですが、そこで生まれる空白を三合会等が埋める懸念もあります。司法当局には、そのあたりへの目配せもお願いしたいところです。(写真出典:hkcd.com)

2021年9月3日金曜日

近江屋事件

龍馬記念館近江屋復元
1867年12月10日、京都河原町の醤油問屋・近江屋で、坂本龍馬と中岡慎太郎が襲撃され、命を落とします。突如襲われた二人は、刀を抜くこともできず、鞘で応戦します。近江屋の二階は天井が低く、刀が抜きにくかったともいわれます。龍馬は額に受けた深手で即死。慎太郎は、一命を取り留めたものの、2日後に亡くなっています。高知の坂本龍馬記念館で、事件のあった部屋に掛けられていた掛け軸を見たことがあります。竜馬のものとされる血が、斜めに飛び散るという生々しいものでした。

世の中には、”維新好き”という人たちが少なからずいます。神戸を代表する企業で、社長・会長を歴任された方も、その一人でした。ある晩、食事をしながら、竜馬を殺したのは誰か、というお話を承りました。後日、関連図書まで送っていただき、勉強させてもらいました。実行犯にも、黒幕にも、諸説入り乱れ、いまだに議論があります。証言も多くありますが、微妙な食い違いも多く、混沌としています。ただ、当事者による有力な証言もあり、京都見廻組が実行犯であるという説が有力とされます。見廻組は、幕府が組織し、京都守護職の会津藩主・松平容保の配下にあった組織です。

事件発生当初は、中岡自身の見立てもあり、また現場に残された刀の鞘の特徴から、新選組説が有力だったようです。しかし、近藤勇の処刑直前の尋問、他の文献や証言からも、これは否定されています。海援隊は、 いろは丸事件の遺恨から、和歌山藩士が暗殺したのではないか、 という疑念を持ち、 襲撃までしています。 しかし、1870年に至り、箱館戦争で捕虜となった元見廻組の今井信郎が、 与頭の佐々木只三郎以下6名の見廻組で近江屋を襲った、 と供述します。今井の供述には、他の目撃情報や物証と矛盾する点もありました。見廻組の多くは、鳥羽伏見の戦いや戊辰戦争で戦死していましたが、今井は、生存している者に累が及ばないように気遣って供述していたようです。

実行犯は見廻組だとしても、誰が、なぜ命じたのかについては、まだ不明な点があります。彼らの上司であった小笠原長遠は、関与を強く否定しています。佐々木只三郎が、生前、京都所司代・松平容保の指示だと語っていたという記録もあります。当時の政治的状況は、目まぐるしく動いており、大政奉還を実現した龍馬に恨みを抱く者もおれば、徳川慶喜を含めた龍馬の新政権構想に反対する者もおりました。最も人気がある説は、薩摩藩による陰謀説です。幕末における薩長のねらいは、あくまでも打倒徳川であり、龍馬の新政権構想は許容できるものではありませんでした。また、トーマス・グラバー陰謀説もあります。内戦が勃発し、武器が売れないと商売にならないジャーディン・マセソン商会にとって、龍馬の案は好ましくなかったわけです。

三条河原町の池田屋事件跡地には、チムニーが経営する居酒屋チェーンはなの舞いの「池田屋」があります。あまりにも面白いので、一度行ったことがあります。何があるわけではありませんが、”池田屋”で飲むというところが気に入りました。現在、近江屋の跡地には”かっぱ寿司”があります。不謹慎かもしれませんし、また種々の制約もあるのでしょうが、幕末居酒屋「近江屋」くらいにしたら、より身近に幕末の京都を感じられると思います。一番のお薦めメニューは、当夜、龍馬が食べそこねた「軍鶏鍋」で決まりです。軍鶏は「とり新」で仕入れてもらいたいものです。(写真出典:tripadviser.jp)

2021年9月2日木曜日

なぜ人は裸なのか

ボノボ
霊長類のなかで、人間だけ体毛が薄いのは何故か、ということが気になっていました。哺乳類全般を見れば、鯨やイルカにも体毛がありません。これは水の抵抗を減らすためと推測できます。象やサイにも体毛はありません。大型動物は、体温を保つより下げることが難しく、体毛が無くなったのではないかと想像できます。友人たちに、人間はなぜ裸なのか、と聞くと、皆、人間だけが毛皮などの衣服を着るからと答えます。これは本末転倒です。体温を保ち、体を防護したければ、体毛を濃いままにしておけば良かったわけです。本やネットで調べた限り、諸説ありますが、結論的には、まだ完全には解明されていないようです。

人間と他の霊長類や哺乳類との大きな違いは、森から平原に出て、直立二足歩行をしたことだと思われます。平原で直立二足歩行を始めたことで、獲物を追ったり、外敵から逃げたりする際、活発に活動することになり、体温を下げる必要が高まった、という説があります。なかなか説得力があります。しかし、二足歩行だけなら、恐竜や鳥類の一部も行います。哺乳類ではカンガルーたちも二足歩行します。なかには活発に動くものもいます。また、直立が主たる要因ではなく、活発に動くことが原因だとすれば、二足歩行を行わない哺乳類でも、活発に動くものは数多く存在します。

人間は、アフリカの大地溝帯で誕生したとされていました。地溝帯が生まれ、雨は西側に降り、乾燥した東側の森林はサバンナに変わります。森で暮らしていた人間は、樹上から地上に降りざるを得なかったという説です。熱い地域で直立二足歩行を始めたので、体温を下げる必要が生まれたとも言われます。残念ながら、大地溝帯の東側には、他にも活発に活動する哺乳類が存在します。人間だけという説明にはなりません。しかも、近年、大地溝帯以外の森林地帯からも猿人が発見され、従来定説だった人類の大地溝帯発生説は、概ね否定されているようです。人間が裸である理由は、他にも、寄生虫から身を守る説、ネオテニー(幼体成熟)説、海の生物だった説までありますが、どれも科学的合理性に欠けます。

人間の体毛が薄くなった理由として、最も有力視されているのが、脳との関係です。人間は、直立二足歩行を始めたことで、両手が自由になり、道具を巧みに使うようになります。喉がまっすくになることで、様々な声を出すことが可能になり、言語を巧みに使うようになります。そして道具や言語を多用するために脳が発達します。そして、直立していることで、重い脳を支えることが可能になりました。脳は熱に弱い性質を持っています。大きな脳が活発に働けば、冷却の必要性も高まります。鼻を使った空冷システムだけでは十分ではなく、血流を使った、いわば水冷システムも併用する必要が生まれます。その際、体の表面温度を低く保っておくことが効果的だったわけです。

納得できる話です。ただ、一方で、人間には、一部、濃い体毛が残っています。頭髪は、大事な脳を衝撃や紫外線から守るためだと考えることができます。髭、腋毛、陰毛が残ったことについては、諸説あります。摩擦への耐性説、効果的なフェロモン発出説等ありますが、これまた定説はないようです。また、女性よりも男性の方が体毛が濃い傾向についても、同様に定説はないようです。最近、私は、頭髪が薄くなる一方で、耳毛の伸びが早いな、と思っておりますが、これは人間の進化に関わる問題ではなく、単に老化の問題なのでしょう。(写真出典:pri.kyoto-u.ac.jp)

2021年9月1日水曜日

貴妃とライチ

数年前の春、上海へ行った際、露天の果物屋に生のライチがたくさん並んでいました。生のライチは、最近、日本でも食べられるようになりましたが、かつては冷凍ものがほとんどでした。うれしくなって、何度か買って食べました。瑞々しく、上品な甘い香りが際立って、とても美味しくいただきました。ライチは、私の最も好きなフルーツです。中国原産の茘枝(レイシ)の実ですが、唐の楊貴妃が愛したフルーツとしても有名です。楊貴妃は、数千キロ離れた中国南部から、早馬を仕立てて、長安の都まで運ばせたといいます。

ライチは、楊貴妃のイメージによく合います。楊貴妃こと楊玉環は、719年6月22日、現在の山西省に生まれます。類い稀なる美貌で知られ、15歳のおり、玄宗皇帝の十八子である李瑁の妃となります。5年後、楊貴妃を見初めた玄宗は、一旦、彼女を女道士として出家させたうえで、後宮に迎い入れます。いかに皇帝とは言え、さすがに、直接、息子の嫁を奪うことは憚られたのでしょう。後宮三千人と言われた玄宗のハーレムに入った楊貴妃は、皇帝の寵愛を一身に集め、皇后と同等に扱われます。また、彼女の一族も、宮廷で重用されていきます。玄宗は、唐の絶頂期を築きますが、楊貴妃を迎えてからは、政務が滞ったとされます。

そのなかで、安禄山とその家臣史思明による安史の乱が起こり、唐は衰退していきます。安史の乱の原因が、楊貴妃の一族である楊国忠と安禄山が宰相の座を争ったためとされることから、楊貴妃は、唐を滅ぼした悪女とも言われます。事実無根とまでは言いませんが、やや楊貴妃に厳しい見方のように思います。楊貴妃を喜ばせようと一族を登用したのは玄宗であり、楊貴妃が仕掛けて権勢をふるったわけではりません。ソグドと突厥の混血である安禄山は、優れた軍人であると同時に、権力欲が強く、裏表のある人だったようです。楊国忠は、安禄山に謀反の恐れありと玄宗に訴えますが、当然の務めとも思えます。楊貴妃が責められるべきは、その美しさだけかも知れません。

安禄山の軍が長安に迫り、玄宗は都を捨てて逃げます。楊国忠は唐軍に殺されます。臣下から楊貴妃の処刑を求められた玄宗は、やむなく楊貴妃に自殺を請います。楊貴妃は、 国の恩に背いたので恨むことはない、と言って潔く死んだとされます。玄宗の歓心をかうために楊貴妃の養子にもなったていた安禄山は、楊貴妃の死を聞き、数日間、泣いたとも言われます。後世、ここまで楊貴妃が有名になったのは、華やかな宮廷生活と非業の死というドラマチックな人生がゆえなのでしょうが、それを伝えた白居易の「長恨歌」によるところが大きいと思います。”比翼の鳥”、”連理の枝”という、いずれも男女一体を象徴する言葉とともに、広く愛されました。

楊貴妃の名前は、花の名前にも残っています。桜、梅、牡丹には、楊貴妃という品種があり、いずれもピンクで艶やかでふっくらとした花が特徴です。当時の文献や美の基準からして、楊貴妃は、ふっくらとした体形だったようです。その名がつけられた花にも通じるところがありそうです。ちなみに、中国では、楊貴妃は牡丹の花神としても知られるようです。また、楊貴妃が愛したフルーツは、ライチの他にもありました。不老不死の薬ともいわれる「蟠桃」という平たいピンクの桃です。楊貴妃は、その強い香りを愛したと言われます。日本でも栽培、出荷されていますが、栽培が難しく、希少価値が高いようです。(写真出典:amazon.co.jp)

夜行バス