2021年9月13日月曜日

仇討ち

豊国「曾我兄弟」
日本三大仇討ちとされるのは、曾我兄弟の仇討ち、赤穂浪士の討ち入り、鍵屋の辻の決闘です。仇討ち、あるいは敵討ちは、大昔から、世界中で行われてきたはずです。親族の仇討ちが義務と捉えられる社会もあります。イスラム法のように、合法化されている場合もあります。江戸期の日本でも、一定の制約のもと、合法化されていました。しかし、基本的に、殺人者は、司法当局が逮捕し、裁判を行います。江戸期の仇討ちも、司法の手が足りないので、一般人に、逮捕権と処刑権を委ねるという佇まいになっています。ちなみに、現行犯に限っては、現行法でも、一般人の逮捕権が認められています。

具体的には、武士階級の直系尊属の仇討ちだけが合法とされましたが、他の場合も、大目に見られていたようです。仇討ちは、まず藩の許可を得ることが必要です。そのうえで、司法当局が妥当性を判断し、台帳によって管理されていました。仇討ちの実行者は、台帳をもとに出された免状を携行し、全国で敵を探すことになります。また、”助太刀”という助力者も認められていました。仇討ちされる側の正当防衛、いわゆる“返り討ち”も認められていました。仇討ちされた側の直系卑属が、さらに仇討ちする”重敵”、あるいは返り討ちにあった仇討ち側が、さらに仇討ちを行う”又候敵討”は、認められていませんでした。

江戸期以前、例えば鎌倉幕府は、武家のための法令である御成敗式目によって、仇討ちを禁じています。源頼朝が、富士の裾野で催した巻狩の最中に、父の仇を討った曾我兄弟ですが、捕縛された弟は、その場で斬首されています。赤穂浪士の場合は、合法的な仇討ちではなく、非合法な復讐と判断されます。赤穂浪士の討ち入りは、単なる仇討ちではなく、松の廊下での刃傷沙汰に関する処分への不満表明でもありました。幕府は、浅野内匠頭だけに切腹を命じており、武家の習わしである喧嘩両成敗が無視されたというわけです。討ち入り後、幕府は、浪士たちを斬首の刑に処することもできたわけですが、武士の対面を保つ切腹を命じています。討ち入りを、忠義と見なす幕臣も少なからずいたからなのでしょう。

鍵屋の辻の決闘、あるいは伊賀越の仇討ちは、江戸時代初期に起った事件です。岡山藩主池田忠雄が寵愛する小姓に横恋慕した家臣河合又五郎は、拒絶されたことに腹を立て、これを殺害します。河合又五郎を追った藩主が病没すると、殺された小姓の兄渡辺数馬の仇討ちが認められます。例外的措置ですが、おそらく上意討ちという性格もあったからなのでしょう。数馬は、助太刀としての荒木又右衛門と共に、伊賀上野の鍵屋の辻で仇討ちを果たします。数馬と河合又五郎の死闘は5時間に及び、最後は、荒木又右衛門がとどめを刺します。仇討ち後、紆余曲折はあったものの、二人は鳥取藩預りとなっています。

仇討ちを願い出て、認められた者は、事を成すまで、故郷に帰ることは許されませんでした。なかには、50年かかった例もあるようです。合法化されたことによる悲哀も、少なからずあったのでしょう。仇討ちの合法化は、武家の慣習である喧嘩両成敗を管理することによって、武士の面目を保ちつつ、報復の連鎖を断ち切るという政策でした。ただ、それだけではなく、忠義を美徳化することによって、武家社会を律し、ひいては幕府による支配を強固なものにするというねらいもあったのでしょう。(写真出典:weblio.jp)

マクア渓谷