2023年6月29日木曜日

ハレイワ

ハワイへ行った際には、よくノース・ショアへドライブしました。サンセット・ビーチをはじめノース・ショアは、冬にビッグ・ウェーブが押し寄せるサーフィンのメッカとして知られます。私のお気に入りはワイメア渓谷です。渓谷沿いの植物園には、南国の植物が咲き誇り、ハワイへ来たことを実感させてくれます。奥まったところにあるワイメアの滝では、ダイビング・ショーも行われます。サンセット・ビーチやワイメア渓谷の手前にハレイワの町があります。ハレイワ名物と言えば、なんと言ってもマツモト・シェイブ・アイスということになります。ただのかき氷にカラフルなシロップがかかっているだけです。日本人にとっては、珍しくもありませんが、アイスクリームが国民食のアメリカでは、もの珍しかったのでしょう。

マツモト・シェイブ・アイス店は、日系移民の多かったハレイワの小さなグローサリー・ストアでした。マツモト・マモルが、タナカ・ストアーを引き継いで店を始めたのが1951年のことでした。かき氷を商ってはどうか、と勧められ、1960年代、日本からかき氷の機械を輸入し、シェイブド・アイスを売り始めます。正しくは、シェイブド・アイスですが、シェイブ・アイスとしたのは、いかにも日系移民らしいところです。シェイブ・アイスは、サーファーたちの間で人気となり、70年代には有名店として行列ができ始めたようです。私が、初めて訪れたのは1990年のことだと記憶します。人が集まってはいましたが、田舎道沿いの寂れた店舗でした。暗い店内には、まだ多少の食品や雑貨も置いてありました。

ハワイ移民の歴史を感じさせる店でしたが、その後、ハワイ名物の一つにまで知名度を上げたマツモト・シェイブ・アイスは、今や立派な店を構えています。同時に、田舎道にも多くの店が増えました。その一つが、1975年、サンドイッチ店として開店した「クア・アイナ」です。クア・アイナとはハワイの言葉で、田舎の土地を意味します。そのハンバーガーは、サーファーの間で人気を高め、1997年には、ホノルルと青山にも出店しています。現在は、ハレイワ本店の他に、英国に2店舗、台湾2店舗、そして日本に30店舗を構えます。ほぼ日本の店です。青山の店は、グルメ・バーガー・ブームに乗って出店されました。日本ではファスト・フードのイメージが強かったハンバーガーですが、アメリカでは、もともとピンキリでした。

例えば、NYにいた頃、家の近くにあったファッド・ラッカーズというバーガー店では、バンズも、肉の量も、そして焼き加減も指定できました。値段は、マックの4~5倍でしたが、美味しいハンバーガーでした。過日、かなり久しぶりにクア・アイナの青山本店に行きました。これが、やはり美味しいわけです。特にパテの塩味や焼き加減の香ばしさが絶品だと思いました。2015年、NYから東京にも出店して大人気となったシェイク・シャックよりも、はるかに美味しいと思います。グルメ・バーガーは、日本にすっかり定着したようです。食べログで、評価3.5以上のバーガー店が、東京だけでも90店に及びます。ちなみに、外苑前のシェイク・シャックの評価は3.48、クア・アイナ青山本店は3.39となっています。

ノース・ショアには、もともとオアフ島最大の祭祀場があり、神聖な土地だったようです。19世紀、白人が入り込むと、サトウキビとパイナップルのプランテーションが作られます。日系人は、その労働力として移民したわけです。19世紀末、プランテーション経営者のベンジャミン・ディリンガムが、産物と労働力輸送のためにホノルルとノース・ショア間に鉄道を敷き、終着駅のハレイワにホテルを建設します。これがハレイワ集落の始まりとなったようです。ハレイワを有名にしたマツモト・シェイブ・アイスとクア・アイナが、ともに日本にゆかりがあることは面白いと思います。ハレは、ハワイの言葉で家、イワは軍艦鳥を意味します。ハレイワと聞くと、私の頭の中では自動的に「晴岩」という漢字が浮かびます。それは、まったく故なきことでも無さそうな気がします。(写真:クア・アイナのハレイワ店 出典:kua-aina.com)

2023年6月27日火曜日

「ザリガニの歌うところ」

監督:オリヴィア・ニューマン       2022年アメリカ

☆☆☆

原作は、動物学者のデリア・オーエンズが書いた2018年の小説「Where the Crawdads Sing」です。同書は1,800万部を売上げ、NYタイムスのベスト・セラーに150週ランクインするなど大ヒットを記録しました。日本でも本屋大賞の翻訳部門で第1位を獲得しています。一般的に、アメリカではザリガニを"Crawfish"と呼びます。"Crawdad"はザリガニとは別な生き物かと思いましたが、実は方言なのだそうです。当然、アメリカにも、地方によって呼び方が異なるものが多くあります。例えば、北部では炭酸飲料全般をソーダと呼びますが、南部では全てコーラと言います。物語の舞台は、ノース・カロライナの沼沢地にある架空の町であり、"Mash Girl(沼の娘)"と呼ばれる主人公は、家族が離散し、一人孤独に沼地で育った女性です。

原作の著者デリア・オーエンズは、ジョージア州の沼地で育っています。主人公には、著者とその人生が色濃く反映されているのでしょう。沼地の自然、貧困とDV、差別、自然を愛する女性、彼女の恋、そして殺人事件が織りなす半世紀前の南部の物語です。アメリカ人は、南部の貧困地帯を舞台とする小説や映画が大好きです。ただ、本作は、それらとは色合いが異なり、自然そのものがテーマだと思われます。アメリカの自然の素晴らしさ、それを犯してきた人間という構図が背景にあり、動物も昆虫も必死に生きているという動物学者らしい信念が物語を構成しています。ミステリというよりも、自然がテーマであるがゆえに大ヒットしたのでしょう。なにせ、アメリカ人の大層は自然と共に暮らしているわけですから。

ベストセラーの映画化は、本当に難しいものだと思います。全体像を、そのまま映像化することは不可能であり、制作は何を捨てるかという判断から始まります。ましてや、小説家ではない作者が自らの人生を重ねた原作は、実に多くの要素が複雑に詰め込まれています。原作を読んだ全ての人を満足させることを諦め、むしろ未読の人をターゲットにする方策もありです。ただ、本作は、あまりにも多くの人が原作を読んでいるため、主な読者である女性をターゲットとして制作するしかなかったのでしょう。冒頭から、そのリアリティを犠牲にしたスタンスに違和感を覚えました。自然がテーマなだけに、リアリティは重要な要素ですが、丁寧に描こうとすれば、かなり長尺になり、かつストーリーの展開は困難になります。

評論家からは酷評されながらも、興業的には成功したという事実が、この映画のすべてを語っているように思います。映像は美しく、音楽もスムーズであり、主人公を演じたデイジー・エドガー・ジョーンズの演技も見せます。エンドロールには、テイラー・スウィフトのオリジナル・ソングも流れます。ただ、映画としては中途半端なものになりました。監督のにとって、本作は、長編2作目。デビュー作の「First Match」は、貧しい黒人少女がレスリングを通じて成長してゆく物語でした。原作も脚本も監督自身の作であり、低予算ながらも瑞々しい青春映画でした。SXSWで絶賛され、Netflixが配給しました。今回、プロダクションが、彼女を監督に起用した理由は分かるような気もしますが、恐らく彼女の良さは、オリジナル脚本なのではないかと思います。今後が楽しみな監督の一人だと思います。

それにしても、自然科学系の学者が、殺人事件や法廷場面を盛り込んだ小説を書くというのは、実に興味深いと思います。自らの半生や思想を語るなら、自伝を選択するのが普通だと思います。本作における殺人や法廷劇といったミステリのプロットは、至ってシンプルなものであり、稚拙と言ってもいいかもしれません。恋愛や恋敵といったプロットも、さほど目を引くものはありません。ただ、全体を貫く、自然への愛、あるいはより自然な人間の生き方への憧憬は、力強さを感じさせます。それを、ありきたりな自伝のなかで述べたとすれば、恐らく読者数は、1/1,000程度だったかも知れません。恐らく、動物学者というだけでなく、自然保護運動家としての側面が、この小説を書かせたということなのでしょう。(写真出典:sonypictures.jp)

2023年6月24日土曜日

プロテスト・ソング

岡林信康
大阪では、40年以上、中之島のリーガ・ロイヤル・ホテルを定宿としてきました。大阪を代表する老舗中の老舗ホテルですが、会社の関係があり、リーズナブルに泊めてもらえました。1980年代の初め、ホテルの玄関でタクシーに乗り、釜ヶ崎を見てみたい、と頼みました。釜ヶ崎は、あいりん地区とも呼ばれる西成のドヤ街です。東京の山谷と並ぶ日雇労働者と浮浪者の街です。運転手さんからは、勘弁してくださいと断られましたが、結構なチップを提示したところ、ちょっとだけですよ、と言って連れていってくれました。事前に、窓を開けるな、住民たちと目を合わせるな、と厳重に注意されました。朝10時頃のことですが、街には酔っ払いがあふれ、道に倒れている人までいました。3階建て程度の高さの木賃宿は、部屋の天井を低くすることで5階建てになっているようで、目がおかしくなりました。 

興味本位と非難されそうな行動ですが、日本の現実を見たいという思いがありました。そして、その背景には、いつまでも耳に残る岡林信康の「山谷ブルース」がありました。岡林は、日本を代表する希代のシンガー・ソング・ライターだと思います。特に、デビュー当初の1960年代末期は、数々のプロテスト・ソングの名曲を発表し、”フォークの神様”と呼ばれました。当時の曲の多くは、発売禁止、あるいは放送禁止とされました。ジャズ・ファンの私には縁遠い世界でしたが、行きつけのレコード屋で、岡林の存在を知り、衝撃を受けました。山谷・釜ヶ崎の存在、被差別部落問題、貧困問題も岡林の曲で知ることになりました。世界的なカウンター・カルチャーの流れのなかで、日本のタブーにも目を向けた岡林の曲は、とても新鮮に聞こえました。

一つのジャンルとして、あるいは文化的運動としてのプロテスト・ソングは、フォーク・ソング・ベースのウディ・ガスリー、ピート・シーガー、ボブ・デュラン、ジョーン・バエズ等々の音楽を指します。ただ、大衆的な音楽にとって、プロテストは普遍的なテーマの一つだと思われます。典型的には社会を風刺した唄として現れ、その歴史は、とてつもなく古いと思われます。60年代のいわゆるプロテスト・ソングは、カウンター・カルチャーの一つの態様であり、ヒッピー的な服装と同様、ファッションだったように思います。日本のプロテスト・ソングの嚆矢は、中川五郎、高石ともやということになるのでしょう。ボブ・デュランの曲をベースに二人が作詞・作曲、高石が歌った「受験生ブルース」は、1968年に大ヒットしました。

1969年、世を変える力を持たないプロテスト・ソングの限界を感じ、増幅する自分のカリスマ性を負担に思った岡林は、一時、雲隠れします。数ヶ月後、ステージに戻った岡林は”はっぴいえんど”をバックに、ボブ・デュラン風ロックを披露します。その後、数年間、岡林は山中で農耕生活に入ります。再び活動を開始した岡林は、つきものがとれたかのように奔放に音楽を展開します。演歌にハマって美空ひばりとコラボしたり、ニューミュージック風のアルバムを発表したり、あるいは民謡とロックを融合させたりしました。岡林の音楽変遷は、時代の変化そのものでもあります。70年安保闘争に敗北した若者たちは、目的を失い彷徨い始めます。フォークは、プロテストを失い、ただのポップに成り下がりますが、皮肉にもフォーク・ブームを起こします。まさに、歌は世に連れ、世は歌に連れ、というわけです。

高度成長、あるいは社会の構造的変化が生んだひずみと言える釜ヶ崎では、1961年以降、20数回、暴動が発生しています。ただ、景気低迷期に暴動は発生していません。日雇労務者は、仕事にあぶれると福祉や支援に頼らざるを得ないからなのでしょう。現在、釜ヶ崎周辺は、再開発されつつあります。西成は、交通の要所にも関わらず、治安の悪さから開発が遅れてきました。梅田から新今宮をつなぐ新線が2031年開通を目指して工事中であり、大阪市は特区構想を進め、星野リゾートのホテルも開業しました。日雇労務者の高齢化が進んだ釜ヶ崎は福祉の街になり、木賃宿も若いインバウンド旅行者向けのゲストハウスに変わりつつあるようです。都市は、闇の部分を持つから成立している面があります。釜ヶ崎は、様々な事情を抱えた人々のラスト・リゾートでした。それが不要な時代になったとは思えません。(写真出典:amazon.co.jp)

2023年6月22日木曜日

アール・グレイ

私は、コーヒー好きですが、日に何杯くらい飲むのか、と聞かれることがあります。いつも答えに困ります。また、制ガン効果があるので、日に3~4杯のコーヒーを飲むべきだという話もあります。これも戸惑います。要は、一杯のコーヒーと言っても、カップのサイズも、飲み方や濃さも大いに異なるからです。対して、緑茶・紅茶を問わず、一杯のお茶という言い方は、イメージしやすく、普遍性を持っていると思います。コーヒー好きとは言え、私は、日に1杯の緑茶、2杯程度の紅茶を飲みます。紅茶は、ストレート・ティーやチャイを飲むこともありますが、基本的にはアール・グレイをミルク・ティーにして飲んでいます。消費量が多いので、スリランカ茶葉を使ったリプトン社の大袋をコストコで買っています。

紅茶は、摘み取った茶葉をしおれさせ(萎凋)、揉み込んで(揉捻)、完全発酵させて作ります。それにミカン科の柑橘類ベルガモットの香りを付ければ、フレイバー・ティーとしてのアール・グレイができます。フレイバー・ティーの歴史は、ジャスミン茶に始まるのでしょう。明代に、中国南部から北部に輸送する際に劣化する緑茶を、花の香りで誤魔化したことから生まれました。アール・グレイの誕生は、18世紀、英国のグレイ伯爵に由来するとされます。”Earl”は伯爵という意味です。伯爵は、入手困難なラプサン・スーチョン(正山小種)茶が気に入ります。そこで、出入りの茶商に、普通の紅茶に何かフレイバーを付けて再現することを命じます。結果、ベルガモットの香りが選ばれ、アール・グレイが生まれます。

ラプサン・スーチョンは、半発酵茶の岩茶で有名な福建の武夷山周辺に産します。ラプサンは、漢字で立山と書きます。立山や正山は、武夷山の俗称なのだそうです。使う茶葉は、岩茶と同じくスーチョンという等級の茶葉です。茶葉を、松葉で薫じて着香させ、完全発酵させるとラプサン・スーチョンができます。17世紀、戦争のあおりを受けた村で、乾燥できず発酵が進んだ茶葉を、松葉を焚いて強制乾燥したところ、ラプサン・スーチョンができたと言われます。紅茶の起源と言われることもあります。その味と香りは、やや上品な正露丸といったところです。正露丸のクレオソートと松葉の薫香の成分が似ているのだそうです。確かに、強い香りと渋味は漢方薬に近い印象です。事実、かつては薬としても用いられていたようです。

ラプサン・スーチョンは、今でもイギリスで人気の高い紅茶だと聞きます。希少価値が高いこともあり、高価で取引されているようです。アール・グレイ好きは、皆、ラプサン・スーチョンが好きかと言えば、そうでもないと思います。上品とは言え、やはり、漢方薬臭さは、なかなか高いハードルです。ただ、欧州の硬水で入れると、ラプサン・スーチョンの強い香りや渋味は和らぐのだそうです。一度、エビアンで試してみようかとも思います。また、アール・グレイの茶葉に少しだけラプサン・スーチョンを加えて入れると、キリッとした奥深さが加わり、なかなかの絶品になります。これならば、グレイ伯爵がラプサン・スーチョンにハマったわけが、十分に理解できます。

アール・グレイの起源については、17世紀のグレイ伯爵説の他にも、多くの説が存在します。つまり、発祥は明らかではないということです。そういう場合、業者の仕掛けも疑われます。ジャスミン茶と同様、質の悪い茶葉や劣化した茶葉にベルガモットの香りを付けて売ったのが始まりではないかと想像します。グレイ伯爵やラプサン・スーチョンの話は、箔付けのために、業者が考案したのではないかとも思います。ちなみに、グレイ伯爵が開発を命じたとされる茶商は、トワイニング社かジャクソン社かという論争があったようです。ところが、30年ほど前、トワイニング社とジャクソン社が合併したことで、その論争は立ち消えになっているようです。いずれにしても、紅茶にベルガモットの香りを付けることを思いついた人は天才だと思います。(写真出典:kaldi.co.jp)

2023年6月20日火曜日

線香と雪

武原はん「雪」
国立演芸場の花形演芸会で、笑福亭喬介の「たちぎれ線香」を聴いてきました。喬介は、クセのある独特な話し方をするので、気になっていました。それが、大ネタ中の大ネタ 「たちぎれ線香」を掛けるというので、行ってきた次第です。大ネタとは、長いだけではなく、高い技量が求められる噺です。「たちぎれ線香」は、江戸末期の噺家で笑福亭一門の祖とされる初代松富久亭松竹の作とされます。桂米朝の名演でも知られます。喬介は、米朝の長男、米團治に稽古をつけてもらったようです。笑福亭一門としては外せないネタなのでしょうが、一門に稽古をつけてくれる師匠がおらず、あえて米團治に頼んだのかも知れません。米朝と比べるのは酷というものですが、喬介もなかなかに聴かせました。

大店の若旦那と、お茶屋の娘で芸子の小糸は、相思相愛の仲となります。大店では、お茶屋通いが過ぎる若旦那をどうするか話し合うために親族会議が持たれます。番頭の提案によって、若旦那は、百日間、蔵に閉じ込められます。若旦那と番頭とのやりとりは、聴かせどころの一つです。音信不通となった若旦那を恋い焦がれた小糸は衰弱し、若旦那にもらった三味線を抱えながら命を落とします。ようやく蔵を出された若旦那はお茶屋へ駆けつけますが、小糸の死を告げられます。詫びながら線香をあげていると、仏前の三味線が鳴り始め、地唄が聞こえてきます。小糸の声でした。自分が好きな地唄を唄う小糸の声に若旦那は涙を流しますが、突如、三味線は止みます。動揺する若旦那に、女将は、仏壇の線香がちょうど”たちぎれ”ました、と告げます。

かつては、芸子の花代を勘定するために線香が焚かれていました。タイム・チャージを計る時計の代わりです。京都の花街では、今も線香代という言葉が残っています。”たちぎれ”とは、経ち切れと書くのが正しいのでしょう。今となっては分かりにくい落ちですが、枕で線香代の解説が行われます。また、上方落語では、しばしば噺のなかに囃子方による演奏が入ります。ハメモノと呼ばれています。「たちぎれ線香」に入るハメモノの地唄は、名曲「雪」と決まっているようです。「黒髪」等とともに、地唄の傑作とされる「雪」は、江戸末期、流石庵羽積の歌詞に峰崎勾当が曲を付けています。男に捨てられて出家した芸妓が、雪の降る夜、かつての恋人を思い、一人寝のわびしさに涙する、といった内容の唄です。

単によく知られた地唄と言うだけでなく、「たちぎれ線香」には相応しい曲だと言えるのでしょう。後に「雪」には踊りが付けられ、地唄舞としてもよく知られた曲になります。文化功労者にも選ばれた上方舞の武原はんの代名詞でもあり、東京で、上方舞、そして「雪」が知られるようになったのは、彼女の功績だとされます。武原はんは、徳島の花街近くに生まれ、12歳で大阪・宗右衛門町の置屋に入り、14歳で芸妓となります。20歳で著名な装丁家と結婚して上京し、“なだ万”の若女将を務めながら、上方舞の普及にも努めます。離婚後、新橋で芸妓に戻りますが、後に料亭「はん居」を赤坂に開きます。上方舞の名手として名を成しながら、自らの流派を作ることもなく、弟子をとることもなかったと聞きます。

武原はんの「雪」は、YouTubeで見ることが出来ます。同じ上方舞とは言え、祇園の井上流とは大いに異なり、独特な艶っぽさを感じさせます。座敷舞の粋と言えるのでしょう。同時に、生涯を個人舞踊家として通した武原はんの芸妓としてのプライドも感じさせます。吉原に代表される江戸の廓は、遊女中心のビッグ・ビジネスといった趣きです。対して、上方のお茶屋は、芸妓中心のお座敷遊びとして文化と芸を育ててきた面があります。成り立ちの違いと言えば、それまでですが、花魁と太夫では大違いです。落語の世界で言えば、江戸の廓噺も、上方のお茶屋噺も、本質的には大差ありませんが、風情に違いが出ているように思います。「たちぎれ線香」は、東京落語でも「たちぎれ」として演じられますが、やはり上方でしか生まれ得なかった噺なのでしょう。(写真出典:waseda.jp)

2023年6月18日日曜日

「ソフト/クワイアット」

監督:ベス・デ・アラウージョ      2022年アメリカ

☆☆+

毎年3月に、テキサス州オースティンで開催される「South by Southwest」、略称SXSW、あるいはサウス・バイは、もともと音楽の見本市としてスタートしましたが、いまや、音楽だけでなく、映画、インタラクティブ系、ゲーム等の祭典となりました。本作は、2022年のSXSWで上映されて大評判になったという映画です。近年の”Black Lives Matter”に代表されるアメリカの人種差別問題を、白人女性の側から描いているというので、これは面白い着想だと思いました。ただし、人種差別をテーマとして深掘りするなら面白い映画になり、人種差別を単なるモティーフとするなら退屈な映画だろうと思っていました。残念ながら、後者でした。監督の意図したところとは異なるのかもしれませんが・・・。

デ・アラウージョ監督の初長編となる本作は、自主制作され、SXSWでブラムハウスに買われています。同社は、アカデミー賞を何部門かで獲得した「セッションズ」(2014)、あるいはアカデミー脚本賞を獲得した「ゲット・アウト」(2017)などを制作しています。主に低予算のホラー映画を得意としています。予算は少ないものの、制作は監督に任せるというスタンスが、話題作を生んでいます。本作は、予算をかけず、制作日数は4日、うち撮影は1日半で終えたようです。全編ワン・テイクの映画に見えますが、正確には2テイクです。最近、ワン・テイク映画が増えたように思います。映画の進行と観客の時間感覚を同時にすることで、臨場感、リアリティ、没入感、共感性等を高める効果が得られます。

映画は、人種差別の意識が、偶発的に暴力へと展開していく様が描かれています。どこでも、いつでも起こり得る突発的な狂気をリアル・タイムに映像化することは十分以上に意味があると思います。やや荒い演出やカメラのブレなどもリアリティを高める効果があるとも言えます。しかし、例えば”ブレア・ウィッチ・プロジェクト”(1999)等の没入感が、ここで必要かどうかは、多少疑問です。本作のねらいが、差別意識が暴力を生みやすいということであるなら、エスカレートしていく暴力を、より客観的に、かつ緊張感を持って描く、あるいは丁寧にテイクを重ね、編集でワン・テイクに見せる手法もあったのではないかと思います。予算的制約もあったのでしょうが、テーマと手法にズレがあるように思えます。

監督が、この映画を撮るきっかけとなった事件があるようです。日本では報道されていないと思いますが、2020年にNYのセントラル・パークで起きた事件です。ランブルと呼ばれる森でバード・ウォッチングをしていた黒人男性が、リードを外して犬を散歩させていた白人女性に注意します。ランブルでリードを外すことは禁じられているのです。言い争いになり、女性は、警察に黒人に脅されていると電話します。結果的に、白人女性は虚偽通報で罰せられ、勤務先も解雇されます。白人が黒人に襲われそうだと言えば、白人警官たちはそれを鵜呑みにして即応する傾向があります。それを心得た白人女性の差別意識が問題とされました。監督は、ネオ・ナチでもKKKでもないごく普通の白人女性の差別意識に怒りを覚え、それが暴力へと発展するリスクを懸念し、本作の制作を思い立ったようです。

もう一つ、本作の設定の背景となったものがあります。”Trad Wife”運動です。白人女性が、”普通”の結婚をして、専業主婦となり、より多くの白人を産むことを提唱する運動です。白人至上主義そのものと言えます。ちなみに、映画の中の女性グループの名称は、そのものズバリの”Daughters for Aryan Unity”です。デ・アラウージョ監督は、元オリンピック選手のブラジル人の父、中国系アメリカ人バレリーナの母のもとに生まれています。いかに裕福で文化的な家庭に育とうとも、バークレイ校で学ぼうとも、AFIで修士学を得ようとも、彼女は、白人による差別を実感し続けてきたはずです。逆差別と叫びたくなる白人の気持ちも分からぬではありませんが、人種差別の歴史と、それを生み出してきた根源は明確です。映画のなかで女性たちが、BLMに対して”White Lives Matter”と言いのけますが、正しくは”All Lives Matter”でしかあり得ません。(写真出典:imdb.com)

2023年6月16日金曜日

アローン・アローン・アンド・アローン

HI-NOLOGY
ジャズを聴き始めたのは、1969年、中学3年生の頃でした。ジミ・ヘンドリックスやエリック・クラプトンの影響からブルーズやR&Bを聴くようになり、そこでブラスの魅力を知りました。折しも、BSTやシカゴといったブラス・ロックの盛り上がりもあり、またジャズ界では、マイルス・デイビスの「ビッチェズ・ブリュー」がリリースされ、フュージョン化が加速していました。世界的にも、この年、多くのロック・ファンがジャズに流れたと聞いたことがあります。夏頃からは、ジャズ喫茶に通い始め、スイング・ジャーナルを購読し、秋には、人生初のジャズのライブにでかけ、日野皓正クインテットの演奏を聴きました。日野皓正は、白いスーツにレイバンのサングラスをかけ、エネルギッシュに吹きまくっていました。

当時、日野皓正は、渡辺貞夫とともに、日本のジャズ・シーンを引っ張るスタイリッシュなスターでした。1967年のデビュー・アルバム「アローン・アローン・アンド・アローン」、69年のライブ・アルバム「HI-NOLOGY」が、国内外で高く評価されていた頃でもあります。マイルス・デイビスに傾倒したその演奏スタイルは、モダン・ジャズのエッセンスそのものでした。1975年からは、活動拠点をアメリカに移しています。過日、ブルー・ノートで、久々にライブを聴きました。若いメンバーを引き連れ、最近作曲した曲を中心に演奏していました。さすがに往年のエネルギーは感じられませんでしたが、御年80歳とは思えぬ若々しさを見せていました。期待通りとは言いませんが、楽しいステージでした。 

ジャズが誕生したのは、20世紀初頭のニューオリンズだったとされます。日本には、早くも1910年代に伝わり、関西を中心にダンスホールの音楽として人気を博したようです。30年代には、”日本のサッチモ”と呼ばれたトランペッター南里文夫が世界的名声を得ています。スイングの時代を迎えると、ジャズ喫茶も誕生し、ジャズは一層浸透していきます。服部良一等がジャズのブームを作りますが、軍国主義の時代になると敵性音楽として弾圧されます。敗戦後は、一転して、アメリカ文化の流入とともにジャズ・ブームが起きます。米軍のキャンプで演奏していたミュージシャンたちが大活躍します。なかでもジョージ川口、松本英彦、中村八大、小野満が組んだジョージ川口とビッグ4は絶大な人気を誇りました。

進駐軍が去る頃、ジャズはスイングからビバップ、ハードバップへと移り、モダン・ジャズの時代を迎えます。1959年にリリースされたマイルス・デイビスの「カインド・オブ・ブルー」は、よりスリリングなモード・ジャズの世界を開きます。日野皓正は、まさにその洗礼を受けたミュージシャンだったと思います。1942年生まれの日野皓正は、中学時代から、キャンプで吹いていました。タップダンサーでトランペッターだった父親の影響だったのでしょう。弟は、1999年、惜しまれつつ亡くなったドラマー日野元彦です。トコさんの愛称で親しまれた日野元彦は、日本を代表する天才ドラマーでした。日本人離れしたリズム感、多彩なテクニック、何よりもグルーブ感が魅力でした。日野兄弟のコンビは最強だったと思います。日野皓正は、過日のブルーノートでのライブでもトコさんの曲を演奏していました。

フリー・ジャズで鳴らしたピアニスト山下洋輔も、サベサダや日野皓正とともに日本のジャズ・シーンを牽引してきた一人です。過日、山下洋輔のコンサートにも行きました。オーケストラを率いて、ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」を演奏していましたが、実に素晴らしいパフォーマンスでした。ただ、ステージ袖へ下がる際、足が少しもつれていました。山下洋輔も81歳。サベサダにいたっては90歳。依然として、皆、ライブ活動を行っています。日本のジャズ界を率いてきた彼らの情熱には、本当に頭が下がります。久々に、日野皓正のメローで都会的な「アローン・アローン・アンド・アローン」を聴きながら、半世紀なんて、アッという間だったな、と思ってしまいました。(写真出典:tower.jp)

2023年6月14日水曜日

未来時制

大昔、初めてパキスタン航空(Pakistan International Airlines)に乗った時のことですが、フライト・スケジュールを告げる機長のアナウンスの最後が「インシャ・アッラー」で終わったので、驚きました。インシャ・アッラーは、直訳すれば、アッラーの思し召すままに、ということになります。イスラム教徒と何か約束すると、必ず最後にインシャ・アッラーを添えるという話を聞いていました。日本人の感覚からすれば、約束を守る気があるのかどうか不安になります。ましてや、機長のインシャ・アッラーは、とても無責任に聞こえ、心配になってしまいます。実際のところは、PIAは元空軍の熟達のパイロットを揃えていることで有名な航空会社であり、安全でスムーズなフライトは間違いないのですが。

インシャ・アッラーは、アッラーを称えるために添える言葉であり、さほど意味はないのだろうと思っていました。ところが、なかなかに深い意味を持つ言葉でした。クルアーン(コーラン)のなかで、将来に関することについては、すべてインシャ・アッラーという言葉を添えることが求められています。つまり、イスラム教では、人間の意志よりもアッラーの意志が優先されるので、将来のことに関して、人間が決めるのは不遜だということになります。イスラム社会を規定するイスラム法”シャリーア”は、ムハンマドがアッラーから託された言葉を記すクルアーンとムハンマドの言行録を記したハディースで構成されます。当然、アッラーの言葉であるクルアーンが最も重要なわけです。クルアーンに記載されていることは絶対です。

欧米の列車に乗ると、日本と異なり、車内アナウンスがほとんどないことに驚かされます。NY時代は、通勤にメトロ・ノース鉄道を使っていましたが、メトロ・ノースは、珍しく次の駅を伝えるアナウンスが流れます。当初、そのアナウンスに、とても違和感を覚えました。”The next stop will be Scarsdale”とアナウンスされます。もちろん、意味は通じますが、”will”という助動詞の使い方に驚いたわけです。日本の電車なら”次の停車駅はスカースデール”と言うところです。それを英訳すれば”The next stop is Scarsdale”となります。これはこれで間違いでありません。客観的、確定的な事実を言う場合、例えば、路線図を見ながら言うとすれば正解です。ただ、走行中の電車内では、また状況が異なるわけです。

つまり、次の駅がスカースデールであることは事実ですが、次にスカースデールに停まることは事実ではなく、あくまでも予定です。運転手の意志が関わるので、willが使われるわけです。その違いを日本語に反映させるなら”次はスカースデールに停まるつもりです”となるのでしょう。日本の乗客としては、ふざけるな、必ず停まれよ、と言いたくなります。日本語は、過去形と非過去形しかないと言われます。”停まった”は過去形、”停まる”は非過去形となり、習慣や意志、あるいは未来時制も含まれます。日本語は、動詞の語尾変化や細分化された助動詞を使わず、他の言葉との組み合わせ、あるいは文脈から未来時制を伝えるわけです。外国人が、日本語は難しいとか曖昧だと感じるポイントの一つなのでしょう。

厳格な未来時制は、一神教と関係があるかもしれないとも思いました。ただ、ラテン語にも動詞の語尾変化による未来形があるので、どうも無関係だと思われます。英語は、ブリテン島で、多民族が使うことによって簡素化が進んだと聞きます。簡素化とは、ある意味、数式にも例えられる整然たる体系へと収斂されることでもあります。多民族間でのコミュニケーションでは、簡素であると同時に正確性も一層重要になります。細分化された未来形の助動詞が必要だったわけです。対して、日本語に、未来形がない、あるいは必要なかった理由については、どうもスッキリ納得できる理由が見当たりません。恐らく、同じ見方、感じ方、考え方をする民族の中でのコミュニケーションにおいては、厳密さよりも利便性が優先され、正確性よりも融和性が重視され、結果、他民族から見れば、曖昧さを持った言語が生まれるということなのでしょう。(写真出典:amazon.co.jp)

2023年6月12日月曜日

「AIR/エア」

監督:ベン・アフレック   原題:Air   2023年アメリカ 

☆☆☆+

"It's just God disguised as Michael Jordan(彼はマイケル・ジョーダンの姿をした神だ)”という有名な言葉は、自身も殿堂入りバスケット・ボール・プレイヤーであるラリー・バードによるものです。これ以上、マイケル・ジョーダン(MJ)を的確に表現した言葉はないと思います。”バスケの神様”ではなく、”神”だと言い切っている点が見事です。無論、MJは史上最高のバスケット・ボール・プレイヤーであり、史上最高のアスリートですが、それ以上に、社会的にも文化的にも、20世紀アメリカが生んだ偉大なスターです。エルヴィス・プレスリーと比較されることもありますが、プレスリー以上の存在だと思います。MJが絡めば、それは一級品になるか、少なくとも人々の耳目を集めることになります。

Airは、ナイキ社が、エア・ジョーダンを発売するまでの実話に基づくサクセス・ストーリーです。Amazonがネット配信を前提に制作しましたが、劇場公開も行われました。MJものであること、アメリカ人がサクセス・ストーリー好きであることを考えれば、当然のごとくヒットしました。観客だけでなく、批評家からも高い評価を得ています。まずは脚本が良く出来ています。エア・ジョーダンは、単なるヒット商品というだけでなく、様々、革新的な要素を持っていますが、そこがうまく捉えられています。さらに、MJ本人が、脚本に種々のアドヴァイスや示唆を行い、ブラッシュ・アップしています。監督だけでなく、フィル・ナイト役で出演もしているベン・アフレックのそつのない、テンポの良い演出も見事です。

ベン・アフレックは、「グッド・ウィル・ハンティング」(1997)でアカデミー脚本賞、監督した「アルゴ」ではアカデミー作品賞も獲得した才人です。アメリカ人の琴線をよく心得た人だと思います。主演は、ベン・アフレックの盟友マット・デイモンです。二人は「グッド・ウィル・ハンティング」の脚本を共同執筆し、今回も共同プロデューサーになっています。脚本、演出も上出来ですが、全編に流れる80年代のヒット曲の数々も重要な要素を担っています。MJの大活躍、エア・ジョーダンの衝撃を同時代的に目の当たりにした我々の世代にとって、当時のヒット曲も、車も、オフィスも、服装も、すべてたまらないものがあります。映画の隠れた主役は、MJ、そして80年代のアメリカそのものかもしれません。

神戸のオニヅカタイガーの総代理店から始まったナイキ社は、ランニング・シューズでは成功していたものの、バスケット・シューズでは、コンバース、アディダスのはるか後塵を拝していました。起死回生をかけたナイキが、全予算をつぎ込んで契約したのが、当時、契約選手候補の第3位に過ぎなかったMJです。その将来性を確信し、MJを押しまくったソニー・ヴァッカロは、高校バスケ界の立役者であり、ナイキの広報担当に就任していました。エア・ジョーダンの革新性は、そのスペックや色使いだけではありません。選手名を商品名とするシグニチャー・シューズの先駆けとなり、同時に契約に歩合制を持ち込みました。MJは、単なる広告塔から、商品そのものになったと言えます。このコンセプトに心を動かされたMJの母親は、アディダス好きのMJを説得して、ナイキと契約させています。

MJあってのエア・ジョーダンであることは間違いないのですが、エア・ジョーダンの成功は、MJの驚異的活躍にのみ依存していたわけではないように思います。MJが、革新的バスケットボール・プレイヤーだったように、エア・ジョーダンもビジネスに革新をもたらし、両者の相互作用が、両者をアメリカ文化の頂点に押し上げたのではないかと思います。MJの活躍は、彼自身の天才によるものです。一方、エア・ジョーダンの成功は、ソニー・ヴァッカロの情熱、技術者たちのプライド、フィル・ナイトの決断、彼が作り上げたナイキの社風、あるいはスパイク・リーが撮ったTVCM等も含め、多くの人々の思いが一つになってアメリカン・ドリームを実現したのだと思います。MJとエア・ジョーダンは、それぞれのやり方を貫き、かつ協調しあいながら夢を実現した奇跡のチームだったと言えます。(写真出典:eiga.com)

2023年6月10日土曜日

「KIMI/サイバー・トラップ」

監督:スティーブン・ソダーバーグ   原題:Kimi  2022年アメリカ

☆☆☆

大人気のゾーイ・クラヴィッツを主演に迎え、名手スティーブン・ソダーバーグが撮ったHBOのサスペンス映画です。ゾーイは、マルチプレイヤー・ミュージシャンとして知られるレニー・クラヴィッツの娘です。コロナ禍、モダン・テクノロジー、広場恐怖症といった現代的な要素を取り込んでいるものの、伝統的なヒッチコック・タッチの映画です。食後に見るのに適した映画であり、私は“デザート・ムービー”と呼んでいます。魅力的な俳優、軽めなプロット、おしゃれな設定、コメディ要素等をそつなくまとめ上げた映画のことです。だからといってバカにはできません。デザート・ムービーは、洗練されていて、かつテンポ良く仕上げて、はじめて上質のデザートになります。高い職人技が求められるわけです。

スティーブン・ソダーバーグが「セックスと嘘とビデオテープ」で、カンヌのパルム・ドールを獲得したのが、わずか26歳の時でした。「トラフィック」(2000)では、アカデミー監督賞を受賞しています。他に「エリン・ブロコビッチ」や「オーシャンズ11」等が代表作と言えるのでしょう。ソダーバーグは、スピーディで、スタイリッシュな映画が身上の才人です。その多彩な表現方法は、革新的で実験的であり、しばしば制作会社ともめてきました。ただ、アートハウス系の作品を指向すると、つまらない作品になる傾向があります。表現手法が先行してしまうわけです。ソダーバーグの魅力がマックスとなるのは、犯罪映画、特にケイパー・フィルムと呼ばれる複数の主人公たちがグループとして犯罪に挑む映画です。

そんなソダーバーグにとって、ヒッチコック・タッチのデザート・ムービーなど、お茶の子さいさいといったところなのでしょう。本作では、主人公の部屋の通りを隔てたアパートに住む男性たちが窓越しに描かれ、プロットに関わってきます。このあたりは、ヒッチコックの傑作「裏窓」を思わせ、観客をくすぐります。ヒッチコック・タッチと言えば、悪人が明確であること、観客は知っているが主人公は知らないというシチュエーション、ヒッチコックが広めたという”マクガフィン(登場人物たちが追う宝石や書類等)”の活用などが挙げられるのでしょう。ただ、最もヒッチコックらしいと思えるのは、緊張と緩和の巧みな切り替えだと思います。緩和パートは、上質なユーモアで構成されることが多いと思います。

ソダーバーグは、このツボをよく心得ています。また、ゾーイ・クラヴィッツも、そこをしっかり押さえた演技をしています。監督と主演のセンスの良さが、この映画をおしゃれな佳作に仕立てているように思います。ちなみに、この映画におけるマクガフィンは、犯罪の証拠となるフラッシュ・メモリーです。プロット上重要な小道具をマクガフィンと呼ぶ理由は判然としません。ただ、ヒッチコックが語る由来は有名です。ヒッチコックが電車で聞いたと言う小話です。一人が「棚の荷物は何?」と聞くと、一人が「あれはマクガフィンさ」と答えた。「マクガフィンとは何?」と聞くと、「スコットランドで使われるライオンの罠さ」と答えた。「でもスコットランドにライオンはいないぞ」と言うと、「じゃあ、あの荷物はマクガフィンではないな」と答えた。

実にイギリス的なジョークです。ただ、それにだまされてはいけないと思います。 ”McGuffin”とは、典型的なアイルランド系の苗字であり、Mcは息子を意味します。イングランドには、アイルランドの支配にこだわり続けてきた歴史があります。この言葉が生まれる直前の1919~21年には、アイルランド独立戦争が戦われています。イングランドの政治姿勢を揶揄して、命名されたのがマクガフィンなのだろうと思います。そのことを十分に理解しているからこそ、ヒッチコックは由来をジョークで語ったのだと思います。なお、ヒッチコックが、このジョークを語った頃には、北アイルランド問題がくすぶっていました。そこへの配慮もあったのでしょう。(写真出典:eiga.com)

2023年6月8日木曜日

神功皇后

昨今、神功(じんぐう)皇后を語れる人は少ないと思います。明治期は、武勲の誉れ高きスーパースターとして誰もが知る存在でした。ただ、軍国主義の時代になると、徐々に影が薄くなったようです。軍部が生きた軍神を重視しためとも言われます。いずれにしても、戦後は、一部地域を除き、ほとんど馴染みのない人物になりました。全国に4万4千社以上存在する八幡宮は、武士が厚く信仰したことで知られますが、その主祭神は、八幡大神、比売大神、神功皇后です。八幡大神は応神天皇であり、神功皇后はその母親です。全国で八幡様に手を合わせる人の数は相当なものでしょうが、神功皇后を拝んでいると認識している人は少ないと思います。八幡宮以外にも、神功皇后を祀る神社は、西日本を中心に存在し、皇后の三韓征伐にちなんだ祭も残っています。

三韓征伐は、神功皇后の戦いのなかで最も有名なものです。神功皇后は、夫である仲哀天皇とともに熊襲征伐に向かいますが、夫が急死します。皇后は、そのまま戦いを続けて熊襲を征伐し、ヤマト王権の全国制覇を成し遂げたとされます。その後、神託を受けた皇后は、自ら男装し、兵を率いて朝鮮半島へと侵攻します。その時、皇后は、後の応神天皇を懐妊しており、出産を遅らせる手立てを講じて、海を渡ります。皇后に恐れを成した新羅は、戦わずして朝貢を誓い、これを見た百済・高句麗も朝貢を約したとされます。中国・韓国の各種文献、高句麗の広開土王碑に加え、百済王から贈られた七枝剣等によっても、3~4世紀頃、倭国が、新羅・百済・伽耶・任那等、半島南部に攻め入ったことは歴史的事実のようです。

しかし、中国・韓国の文献には、神功皇后に相当する名は一切登場しません。また、皇后は、応神天皇の摂政を70年間務め、100歳で崩御したとされます。やはり、実在性については疑問と言わざるを得ません。そもそも歴代天皇の実在性に関しては諸説あり、実証性の高さからすれば、6世紀に越前ないしは近江から迎えられたという継体天皇以降とする説が有力です。第26代天皇である継体天皇は、応神天皇の5世の子孫とされます。万世一系の危機に際し、継体天皇の正統性を強調するためには、在位60年、渡来人を用いて国を大いに発展させ、130歳で崩御したという応神天皇の伝説が必要だったのでしょう。応神天皇の実在性も疑問ですが、宋書に言う倭の五王の時代と重なることから、実在天皇は応神天皇以降という説もあります。

部族連合の頂点に立つヤマト王権は、2世紀末頃に誕生し、纒向遺跡を中心に勢力を全国に広げたとされます。天皇という呼称は、7世紀後半の天武天皇から使われています。ヤマト王権時代は大王(おおきみ)と呼ばれていました。連合の長としての大王が実在していたことは間違いないと言えます。天皇の実在性に関する議論は、あくまでも古事記や日本書記に記載される存在を歴史的に証明できるか否かということです。また、大王が存在したとしても、記紀に記載される伝説が事実かどうかは、また別の話です。歴史は、常に勝者の都合によって語られてきました。記紀における神武天皇や応神天皇の神格化は十分に理解できます。ただ、なぜ応神天皇の母親である神功皇后の伝説まで作る必要があったのかは大いに疑問です。

古事記と日本書記が書かれたのは、8世紀前半であり、元明天皇、元正天皇と2代続いた女性天皇の時代でした。2人の天皇は初めての女帝ではなく、その前には、推古、皇極、斉明(皇極の重祚)、持統と4代3人の女帝がいました。女性天皇は、それぞれ皇位を巡る複雑な政治状況のなかで、妥協策として、あるいは緊急避難的な中継ぎとして即位する傾向があります。それだけに、女性天皇に配慮して、女性の能力の高さを示す神功皇后の伝説が創造されたのかも知れません。ただ、その必要性があったのかどうかは、多少疑問です。また、8世紀前半における新羅との緊張関係に配慮して、三韓征伐は天皇ではなく、皇后が神託に基づいて行ったというストーリーが必要だったのかも知れません。ただ、それも、そこまでの配慮が必要だったとも思えません。やはり、神功皇后伝説創設の意図は、よく分かりません。(写真:佐々木尚文「神功皇后」出典:kyoto-kyuteibunka.or.jp)

2023年6月5日月曜日

鯛めし

鯛を丸ごと米と一緒に炊き込む鯛めしは、各地に見られる料理です。炊き込みご飯の一種というわけです。農水省の「うちの郷土料理」では、愛媛、徳島、広島の郷土料理として登録されています。愛媛県では、炊き込みスタイルの鯛めしは、東予の鯛めしと呼ばれます。対して、南予の鯛めしと呼ばれる料理も存在します。鯛の刺身を、醤油ベースのタレに生卵・海苔・胡麻・ねぎといった薬味を加えたものに和えて、ご飯にかけて食べます。その歴史は、以外と浅く、1970年代に宇和島で生まれたと言われます。ただ、当地には、古くから刺身を使った漁師めしとして”ひゅうが飯”が存在し、その鯛バージョンが南予の鯛めしとも言えます。なお、ひゅうが飯は日向から伝わったとされます。

宇和島には、ひゅうがの他に”さつま”という料理もあります。焼いた魚の身をほぐし、味噌と薬味をいれただし汁にいれ、ご飯にかけて食べます。宮崎名物の冷や汁とほぼ同じです。”さつま”の方が、より”ひゅうが”ではないかとも思えます。南予の対岸の大分にも、同じ”ひゅうが”があります。面白いことに、大分には、他に”りゅうきゅう”という郷土料理も存在します。ひゅうがの方が、すりごまを使い甘めのタレになっている程度の違いしかありません。同じ料理も、所によって名前が異なるのは当然です。大分では、これらに出汁をかけて茶漬けとしても食べます。これを鯛の刺身で食べれば、いわゆる”鯛茶漬け”になるわけです。鯛茶も、全国各地に存在しますが、長崎県が発祥という説もあるようです。

鯛茶と言えば、名古屋の「鯛めし楼」を思い出します。伊勢湾で獲れたばかりの新鮮な天然鯛を分厚く切り、出汁の効いたタレをまぶして、茶漬けにします。シンプルながら、これが、実にうまいわけです。ランチ・メニューですが、なかなかお高いので、滅多には食べられませんでした。福岡へ行った際には「割烹よし田」の鯛茶も素通りできません。また、炊き込み系の東予の鯛めしは美味しいのですが、私はファンという程ではありませんでした。ところが、今治の海辺の魚料理店で食べた鯛めしの美味しさには驚きました。炊きたてということもあるのでしょうが、要は、鯛めしも、鯛茶も、新鮮な鯛を使うか否かで、大いに味が異なるということなのでしょう。欲を言えば、天然ものに越したことはありませんが。

鯛めし、鯛茶の、もう一つ大事なポイントは、鯛の出汁だと思います。炊き込み系鯛めしは、もちろんいい出汁がでます。南予の鯛めしのタレにも、鯛の出汁が使われます。鯛茶は、お茶を掛けるのではなく、鯛からとった出汁をかけます。昔、祝宴土産の折り箱には、鯛の塩焼きが入っていたものです。我が家では、それを昆布と一緒に煮て、鯛のすまし汁にしていました。また、スーパー等で安く売っている鯛のアラで作る潮汁は絶品です。”腐っても鯛”という言葉があるくらいで、やはり鯛は魚の王様なのでしょう。そのうま味は抜群であり、また余すところなく食べられます。刺身、塩焼きも美味しいのですが、身の美味しさ、加えて出汁の美味しさまで味わえる鯛めし、鯛茶は、鯛の楽しみ方の王道かも知れません。

鯛の名産地は多くあるわけですが、マダイの漁獲量では、長崎県、福岡県、愛媛県が常に上位3県となっています。愛媛県は、鯛の養殖でも知られ、全国の漁獲高の半分以上を占めています。鯛は、愛媛県の県の魚にもなっています。実は、もう一つ鯛を県の魚にしている県があります。千葉県です。かなり意外な感じがします。恐らく鴨川に鯛の浦が存在するからなのでしょう。本来、深い海に生息するマダイが、鯛ノ浦では浅い海に群生しています。国の天然記念物にも指定されています。浅い海に群生する理由は、解明されていません。1222年、安房小湊に日蓮が誕生すると、鯛の群れが海面に上がってきて飛び跳ねたと言われます。以来、この地は鯛の浦と呼ばれ、鯛は日蓮の化身として一切の漁が禁止されてきました。(写真出典:kurashiru.com)

2023年6月3日土曜日

裏の帝王

甘粕正彦
旧満州国の青写真を描いたのは、帝国陸軍きっての天才とも、異端児とも言われる石原莞爾ということになります。その著作「世界最終戦論」(1940)は、東洋の盟主としての日本と西洋の代表たるアメリカの最終決戦を予言しています。満州国建国も東亜結束のため、つまり対米戦の備えの一環でした。ただ、石原が満州国に抱いた夢は、東洋のアメリカを作ることであり、満州国のキャッチフレーズ「王道楽土」・「五族協和」は、石原が真に理想としたところでした。しかし、石原が去った満州は、野望と陰謀渦巻く植民地へと変貌していきます。そこで実権を握ったのは”弐キ参スケ”と呼ばれる関東軍参謀・東条英機、国務院総務長官・星野直樹、満業社長・鮎川義介(日産総帥)、総務庁次長・岸信介、満鉄総裁・松岡洋右でした。

商工省のエリート官僚だった岸信介は、満州に渡ると「産業開発5ヶ年計画」を展開し、徹底的な計画経済体制を築きます。後に「昭和の妖怪」と呼ばれた岸信介ですが、満州時代は、その影響力の大きさから「表の帝王」とも呼ばれたようです。表があれば、裏もあるわけで、裏の帝王と呼ばれる人物も存在しました。甘粕正彦です。1923年9月に発生した関東大震災の直後、東京憲兵隊麹町分隊長だった甘粕大尉は、下位者とともに、アナキストの大杉栄、伊藤野枝、大杉の6歳の甥の3人を拉致・殺害し、死体を古井戸に遺棄します。いわゆる甘粕事件です。犯行は、自供に基づき甘粕大尉の単独犯行とされ、禁固十年の判決を受けます。しかし、不可思議な点も多く、上層部による指示が疑われています。

収監から3年後、甘粕は恩赦で出獄、翌年には、妻とともにフランスへ留学します。留学資金は、すべて陸軍から出されています。日本へ帰国すると、満州へと渡り、国家主義者の大川周明が主宰する東亜経済調査局に所属します。この組織は、南満州鉄道、いわゆる満鉄の調査機関としてスタートし、一旦独立しますが、後に、日本最高のシンクタンクとも言われる満鉄調査部に統合されています。満州での甘粕は、関東軍参謀の板垣大佐、石原中佐と接触し、奉天特務機関長・土肥原大佐の下に軍外の特務実行部隊として甘粕機関を作ります。満州事変のきっかけとなった柳条湖事件が起こると、甘粕機関は、ハルピン出兵の口実作りのテロ、あるいは関東軍の暴走を警戒する日本政府が厳重に警戒するなか、愛新覚羅溥儀を天津から脱出させる任務等をこなします。

存在感を増す甘粕は、それを疎ましく思う関東軍参謀部との間に溝ができ、むしろ日本政府・岸信介ラインと接近します。岸信介の満州国運営は、能吏としての力量だけでなく、金も使う政治家的手法だったようです。その資金を提供していたのが甘粕だとされます。甘粕は、満州におけるアヘン売買を一手に握り、ロンダリングした利益を岸信介に上納していたようです。1939年、甘粕正彦は、満州映画協会、いわゆる満映の理事長に就任します。岸信介が、甘粕の功に報いた人事と言われます。理事長としての甘粕は、すこぶる評判が良かったようです。終戦を迎えると、甘粕は青酸カリを飲んで自殺しています。一方、岸信介は、A級戦犯として収監されるも不起訴となり、サンフランシスコ講和条約締結で公職追放も解除され、政治の世界へと入っていきます。

同じく帝王と呼ばれながらも、象徴的な違いが出ることになったわけです。甘粕正彦の半生は、統帥権干犯を盾にとって暴走する帝国陸軍を象徴しているかのようです。大杉栄殺害の罪を一身に背負うことで主君を守り、その後も城外で主君のために汚れ仕事をこなし、また主君もそれに応えて処遇するという構図は、まさに封建社会そのものです。滅私奉公を旨とする武家文化そのものです。武力による支配を本質とする武家政権の時代は、平安末期における平家の台頭に始まり、太平洋戦争敗戦の時まで続いたわけです。さらに言えば、戦後、高度成長期の企業風土にも、その文化は受け継がれました。ちなみに、甘粕家は、川中島の戦いで武勲をあげた上杉家家臣の家系です。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2023年6月1日木曜日

ハウス・オブ・ザ・ドラゴン

 「ハウス・オブ・ザ・ドラゴン」は、HBOの大ヒット歴史ファンタジー「ゲーム・オブ・スローンズ」のスピン・オフです。ジョージ・R・R・マーティンの「炎と血」を原作にHBOが制作し、2022年8月からシーズン1が公開されました。時代設定はゲーム・オブ・スローンズの約200年前、ウェスタロスの七王国を支配するターガリエン家の衰退の始まりを描きます。ウェスタロスは、中世のブリテン島南部・中央部をベースに設定された架空の地です。七王国を統一したのは征服王エイゴン・ターガリエンとされますが、史実としては9世紀にアングロサクソン七王国を統一したウェセックスのエグバート王に相当するのでしょう。ターガリエン家の居城があるキングス・ランディングは、おおむねロンドンだと思っていいと思います。

ジョージ・R・R・マーティンのファンタジー「氷と炎の歌」シリーズを原作とするゲーム・オブ・スローンズは、2011年から2019年まで、8シーズン73話が放送されました。驚異的な人気を誇り、データを見たわけではありませんが、恐らく世界で最も多くの人が見たTVシリーズだと思われます。私は、各シーズンを4~5日で一気見していたので、次のシーズンまでの1年間は耐えがたいほど長く感じたものです。膨大な予算をかけて作り込まれた映像は見事であり、多数の登場人物が織りなす複雑なドラマにハマりました。放送当時は、アメリカ人の友人とよくゲーム・オブ・スローンズの話をしました。ただ、最終話におけるデナーリス・ターガリエンやサーセイ・ラニスターの扱い方だけは気にくわず、アメリカの友人も全く同じ意見でした。

ハウス・オブ・ザ・ドラゴンは、タイトル・バックにゲーム・オブ・スローンズの音楽をそのまま使っています。もうこの時点で、ファンはメロメロです。さらに、なじみ深い家名、地名、城の名前等々が出てきます。まるで故郷の実家に帰ったかのような懐かしさを覚えます。時を超えてゲーム・オブ・スローンズにつながる重要なモティーフも埋め込まれています。見事に、ゲーム・オブ・スローンズ・ファンの心理をくすぐっているわけです。また、ドラゴンとヴァリリア語が多く登場する点もグッときます。ターガリエン家は、かつて栄えた対岸のヴァリリア出身ですが、ヴァリリアの崩壊とともに、ドラゴンを率いてウェスタロスに渡ってきました。ヴァリリア語は、言語学者が、このドラマのために新たに創作した言語です。

ドラマとしてのハウス・オブ・ザ・ドラゴンは、ターガリエン家の王位継承を巡る話なので、ゲーム・オブ・スローンズのスケールの大きさには及びもつきません。言わばドラゴンの出るホーム・ドラマといった感じです。ドラマの性格上かも知れませんが、ややテンポも悪いように思います。ただ、映像、モティーフ、俳優陣は、見事にゲーム・オブ・スローンズの世界を継承できていると思います。視聴率は、多くの記録を破るものとなったようです。それは、世界中のゲーム・オブ・スローンズ・ファンが、やや物足りなさを感じながらも、もう一度、あの雰囲気を味わいたいと思ったからだと思います。とは言え、作品としての評価も高く、ゴールデン・グローブも獲得しています。

それにしても、なぜゲーム・オブ・スローンズが記録的ヒットを達成できたのか、ということも気になります。例えば、ファンタジー系の大ヒット映画「ロード・オブ・ザ・リングス」は、ジョーゼフ・キャンベルの「千の顔を持つ英雄」を下敷きにしたような神話的英雄物語であり、万人向けです。対して、ゲーム・オブ・スローンズは、人間の泥臭い歴史を踏まえたダークなファンタジーになっています。ケーブルTVならではの、残忍なシーンや性的描写も含めて、大人向けのファンタジーと言えます。大人向けダーク・ファンタジーは、ファンタジーのアンチ・テーゼとして小説の世界にはあったものの、マイナーな存在に過ぎませんでした。それを膨大な予算をつぎ込んで映像化したのは、ゲーム・オブ・スローンズが初めてだったと思われます。つまり、ゲーム・オブ・スローンズは、新しいジャンルを切り開いたと言っていいのでしょう。(写真出典:natalie.mu)

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