2023年6月10日土曜日

「KIMI/サイバー・トラップ」

監督:スティーブン・ソダーバーグ   原題:Kimi  2022年アメリカ

☆☆☆

大人気のゾーイ・クラヴィッツを主演に迎え、名手スティーブン・ソダーバーグが撮ったHBOのサスペンス映画です。ゾーイは、マルチプレイヤー・ミュージシャンとして知られるレニー・クラヴィッツの娘です。コロナ禍、モダン・テクノロジー、広場恐怖症といった現代的な要素を取り込んでいるものの、伝統的なヒッチコック・タッチの映画です。食後に見るのに適した映画であり、私は“デザート・ムービー”と呼んでいます。魅力的な俳優、軽めなプロット、おしゃれな設定、コメディ要素等をそつなくまとめ上げた映画のことです。だからといってバカにはできません。デザート・ムービーは、洗練されていて、かつテンポ良く仕上げて、はじめて上質のデザートになります。高い職人技が求められるわけです。

スティーブン・ソダーバーグが「セックスと嘘とビデオテープ」で、カンヌのパルム・ドールを獲得したのが、わずか26歳の時でした。「トラフィック」(2000)では、アカデミー監督賞を受賞しています。他に「エリン・ブロコビッチ」や「オーシャンズ11」等が代表作と言えるのでしょう。ソダーバーグは、スピーディで、スタイリッシュな映画が身上の才人です。その多彩な表現方法は、革新的で実験的であり、しばしば制作会社ともめてきました。ただ、アートハウス系の作品を指向すると、つまらない作品になる傾向があります。表現手法が先行してしまうわけです。ソダーバーグの魅力がマックスとなるのは、犯罪映画、特にケイパー・フィルムと呼ばれる複数の主人公たちがグループとして犯罪に挑む映画です。

そんなソダーバーグにとって、ヒッチコック・タッチのデザート・ムービーなど、お茶の子さいさいといったところなのでしょう。本作では、主人公の部屋の通りを隔てたアパートに住む男性たちが窓越しに描かれ、プロットに関わってきます。このあたりは、ヒッチコックの傑作「裏窓」を思わせ、観客をくすぐります。ヒッチコック・タッチと言えば、悪人が明確であること、観客は知っているが主人公は知らないというシチュエーション、ヒッチコックが広めたという”マクガフィン(登場人物たちが追う宝石や書類等)”の活用などが挙げられるのでしょう。ただ、最もヒッチコックらしいと思えるのは、緊張と緩和の巧みな切り替えだと思います。緩和パートは、上質なユーモアで構成されることが多いと思います。

ソダーバーグは、このツボをよく心得ています。また、ゾーイ・クラヴィッツも、そこをしっかり押さえた演技をしています。監督と主演のセンスの良さが、この映画をおしゃれな佳作に仕立てているように思います。ちなみに、この映画におけるマクガフィンは、犯罪の証拠となるフラッシュ・メモリーです。プロット上重要な小道具をマクガフィンと呼ぶ理由は判然としません。ただ、ヒッチコックが語る由来は有名です。ヒッチコックが電車で聞いたと言う小話です。一人が「棚の荷物は何?」と聞くと、一人が「あれはマクガフィンさ」と答えた。「マクガフィンとは何?」と聞くと、「スコットランドで使われるライオンの罠さ」と答えた。「でもスコットランドにライオンはいないぞ」と言うと、「じゃあ、あの荷物はマクガフィンではないな」と答えた。

実にイギリス的なジョークです。ただ、それにだまされてはいけないと思います。 ”McGuffin”とは、典型的なアイルランド系の苗字であり、Mcは息子を意味します。イングランドには、アイルランドの支配にこだわり続けてきた歴史があります。この言葉が生まれる直前の1919~21年には、アイルランド独立戦争が戦われています。イングランドの政治姿勢を揶揄して、命名されたのがマクガフィンなのだろうと思います。そのことを十分に理解しているからこそ、ヒッチコックは由来をジョークで語ったのだと思います。なお、ヒッチコックが、このジョークを語った頃には、北アイルランド問題がくすぶっていました。そこへの配慮もあったのでしょう。(写真出典:eiga.com)

マクア渓谷