三韓征伐は、神功皇后の戦いのなかで最も有名なものです。神功皇后は、夫である仲哀天皇とともに熊襲征伐に向かいますが、夫が急死します。皇后は、そのまま戦いを続けて熊襲を征伐し、ヤマト王権の全国制覇を成し遂げたとされます。その後、神託を受けた皇后は、自ら男装し、兵を率いて朝鮮半島へと侵攻します。その時、皇后は、後の応神天皇を懐妊しており、出産を遅らせる手立てを講じて、海を渡ります。皇后に恐れを成した新羅は、戦わずして朝貢を誓い、これを見た百済・高句麗も朝貢を約したとされます。中国・韓国の各種文献、高句麗の広開土王碑に加え、百済王から贈られた七枝剣等によっても、3~4世紀頃、倭国が、新羅・百済・伽耶・任那等、半島南部に攻め入ったことは歴史的事実のようです。
しかし、中国・韓国の文献には、神功皇后に相当する名は一切登場しません。また、皇后は、応神天皇の摂政を70年間務め、100歳で崩御したとされます。やはり、実在性については疑問と言わざるを得ません。そもそも歴代天皇の実在性に関しては諸説あり、実証性の高さからすれば、6世紀に越前ないしは近江から迎えられたという継体天皇以降とする説が有力です。第26代天皇である継体天皇は、応神天皇の5世の子孫とされます。万世一系の危機に際し、継体天皇の正統性を強調するためには、在位60年、渡来人を用いて国を大いに発展させ、130歳で崩御したという応神天皇の伝説が必要だったのでしょう。応神天皇の実在性も疑問ですが、宋書に言う倭の五王の時代と重なることから、実在天皇は応神天皇以降という説もあります。
部族連合の頂点に立つヤマト王権は、2世紀末頃に誕生し、纒向遺跡を中心に勢力を全国に広げたとされます。天皇という呼称は、7世紀後半の天武天皇から使われています。ヤマト王権時代は大王(おおきみ)と呼ばれていました。連合の長としての大王が実在していたことは間違いないと言えます。天皇の実在性に関する議論は、あくまでも古事記や日本書記に記載される存在を歴史的に証明できるか否かということです。また、大王が存在したとしても、記紀に記載される伝説が事実かどうかは、また別の話です。歴史は、常に勝者の都合によって語られてきました。記紀における神武天皇や応神天皇の神格化は十分に理解できます。ただ、なぜ応神天皇の母親である神功皇后の伝説まで作る必要があったのかは大いに疑問です。
古事記と日本書記が書かれたのは、8世紀前半であり、元明天皇、元正天皇と2代続いた女性天皇の時代でした。2人の天皇は初めての女帝ではなく、その前には、推古、皇極、斉明(皇極の重祚)、持統と4代3人の女帝がいました。女性天皇は、それぞれ皇位を巡る複雑な政治状況のなかで、妥協策として、あるいは緊急避難的な中継ぎとして即位する傾向があります。それだけに、女性天皇に配慮して、女性の能力の高さを示す神功皇后の伝説が創造されたのかも知れません。ただ、その必要性があったのかどうかは、多少疑問です。また、8世紀前半における新羅との緊張関係に配慮して、三韓征伐は天皇ではなく、皇后が神託に基づいて行ったというストーリーが必要だったのかも知れません。ただ、それも、そこまでの配慮が必要だったとも思えません。やはり、神功皇后伝説創設の意図は、よく分かりません。(写真:佐々木尚文「神功皇后」出典:kyoto-kyuteibunka.or.jp)