2021年10月31日日曜日

鬼ノ城

岡山県総社市の鬼城山に築かれた鬼ノ城へ行ってきました。鬼ノ城は、7世紀後半に築城された神籠石式山城です。山頂の周囲、約3kmに渡って巡らされた石積み、東西南北の門、6カ所の水門、鍛冶場の跡、そしていくつかの建造物の礎石が残ります。うち西門だけは、再現されています。城跡からは、吉備平野、瀬戸内海、そして四国まで一望できます。特に、四国については、屋島や讃岐富士が、まるで地続きかのように見えます。瀬戸内海、山陽道を守る要塞としては、まさにうってつけの場所にあると思いました。

古事記に記載のある吉備津彦命の吉備平定に関する有名な伝承があります。吉備津彦命は、鬼ノ城を拠点に吉備地方を荒らしていた温羅(うら)という鬼と戦います。おおよそ敵対する豪族や疫病など、王権の思うままにならないものは鬼と呼ばれます。温羅は、製鉄技術をもたらした渡来人だとする説もあります。厳しい戦いの末、吉備津彦命は温羅を討ち取りますが、首だけになっても温羅はうめき続けます。ついには地中深くに埋めますが、その後も13年間うなり声が聞こえたと言います。実際には、平定後も、敵対勢力の残党の抵抗が続いたということなのでしょう。首を埋めた場所には、吉備津神社の釜殿が建てられ、今でも、炊いた釜の発する音で吉凶占いが行われています。吉備津彦命と温羅の戦いは、後に桃太郎伝説になったと言われます。

7世紀初頭、中国を統一した唐は、朝鮮半島三国のうち高句麗を攻め、新羅を冊封体制に組み込みます。高句麗を攻めあぐねた唐は、まずは百済を下し、挟み撃ちをねらいます。百済は、唐と新羅の連合軍に敗れ、滅びます。ただ、百済の残党は、復興を目指して、新羅と戦い続けます。百済と緊密な関係にあったヤマト王権は、援軍要請を受けて、出兵します。663年、白村江で、ヤマト王権が送った4万の兵と800の船は、13万の兵を擁する唐軍と交戦、完膚無きまでに撃破されます。兵力の差も歴然ですが、百済残党内での内紛、あるいはヤマト王権側も、斉明天皇の急逝もあり、リーダー不在だったことが敗因となったようです。

唐は、668年に高句麗を滅ぼします。勢いに乗った唐の来襲を恐れたヤマト王権は、戦後交渉に始まる外交努力を重ねるとともに、築城、烽火の整備、防人の増強など、国内の防御を固めていきます。唐が、朝鮮半島から瀬戸内海を通って、畿内へ攻め込むことを想定し、対馬、太宰府、長門、屋島、そして鬼城山に、百済難民の技術を用いた城が構築されます。また、都も飛鳥から、さらに内陸の近江大津へと遷都されます。さらに、挙国一致体制を作るために、律令制による中央集権化が進められます。国名も倭国から日本へと変えています。日本という国は、外圧によって、国家としての体を成していったとも言えるのでしょう。

ただ、唐の来襲はありませんでした。後に中国で唯一の女性皇帝となった武則天の暴政、チベットの吐蕃の反乱、そして、高句麗を滅ぼしたことで、かえって東北部が不安定になったこともあり、唐は朝鮮半島から兵を引きました。唐の脅威が薄れていくなか、鬼ノ城も忘れられ、山岳信仰の修行場となっていきました。戦国の世になり、武将たちが、鬼城山に城郭を構えなかったはことは不思議な気がします。もっとも城郭建築は、1576年の安土桃山城に始まります。当時、備中に勢力を持っていた三村氏は、現在の高梁市にある備中松山城を拠点としていました。御家人から地頭になった三村氏の領地でした。そして、三村氏は、1575年、城郭建築ブームが始まる前に、毛利氏に滅ぼされています。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年10月30日土曜日

「DUNE」

監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ    2021年アメリカ

 ☆☆☆+

「DUNE」は、1965年、フランク・ハーバートによって発表されたベストセラーSFです。同年にはネビュラ賞、翌年にはヒューゴー賞も獲得した傑作です。ただ、その文学的アプローチやかなりの長編であることから、すぐに売れたわけではありません。あまりにも壮大なスケールゆえ、映像化は困難とされていました。70年代には、アレハンドロ・ホドロフスキーが挑戦して挫折、1984年にはデビッド・リンチが映画化しますが、どうしようもない駄作でした。デビッド・リンチは、製作会社の締め付けを言い訳にしています。そんなわけで、「DUNE」と聞いただけで、大丈夫かい、と思ってしまいます。

結果、心配は、外れたとも、当たっていたとも、言えそうです。まずは、映像、音響、音楽が素晴らしいと思います。絵コンテ段階から、かなりしっかりと作り込まれていることがよく分かります。伝説のSFの映像化、という点では優等生レベルだと思います。ストーリー展開についても、よく出来た脚本であり、無理がないと思います。本作は、Part1とされており、やはり1本の映画という枠には収まっていません。十分に劇的盛り上がりも計算されてはいますが、やはり中途半端感は残ります。例えば、3部作といったアプローチも考えられますが、そうなると、原作に相当手を加えざる得ないことになります。これがDUNE映画化の難しさの一つなのでしょう。

また、DUNEは、その独特な世界観がゆえに、シークエンスの展開が難しくなります。要は、画面展開が、どうしても説明的にならざるを得ないわけです。特に前半では、ドラマ性が弱く、見事な映像も、やや紙芝居的になっています。例えば、スターウォーズでは、オープニングスクロールとして”a long time ago in a galaxy far far away”と、物語のフレームを文字で提示してしまいます。うまいやり方であり、説明的なシークエンス展開を省き、いきなりドラマに入れます。ところが、DUNEの独特な世界では、それをやることは極めて難しく、やるとすれば、とてつも長く複雑な代物になってしまいます。皆、オープニングの最中に席を立つこと間違いありません。

DUNEのウェザリングは、かなり意識的に抑えられているように思います。それは、DUNEの持つ神話性や宗教性を保つために、計算された工夫なのだと考えます。スターウォーズの見事なウェザリングは、リアルさゆえに冒険活劇への没入を促していました。DUNEは、単なる活劇ではありません。宗教的でもある”ベネ・ゲセリット”の世界観の物語です。ベネ・ゲセリットを説明することは、極めて困難です。それがDUNEの映画化にとって、大きなハードルになっています。ごく単純化して言えば、特殊な能力も持つ女性たちによって、延々と継承されてきた人類救済計画であり、なかば宗教的存在です、主人公ポール・アトレイデスの母親レディ・ジェシカは、ベネ・ゲセリットのメンバーであり、ポールにベネ・ゲセリットの訓練を施します。ポールは、ベネ・ゲセリットが待ち望んだ救世主であることが示唆されています。

ベネ・ゲセリットの物語を、Part2で完結できるのか、という心配もあります。実は、その前に心配すべきは、本当にPart2は制作されるのか、ということです。決してスターウォーズのように、分かりやすく、一般受けする作品ではありません。今回は、劇場公開とともにHBOでも配信されています。それが吉と出るか、凶と出るか、微妙なところです。一定以上の興行成績を稼げれば、シリーズ化もあり得ます。なにせ、DUNEシリーズは、全6作出版されていますから。(写真出典:warnerbros.cp.jp)

2021年10月29日金曜日

キャンベル・スープ缶

子供たちが、まだ小さかった頃、たまにNY近代美術館へ連れて行きました。”この展示室のなかで一番好きな絵を探しておいで”と言うと、子供たちは嬉々として走り出し、お気に入りの現代アートを選んできます。面白いことに、子供たちが選ぶ作品は、おおむね、その展示室のなかで最も有名な作品でした。美術や音楽、あるいは詩の評価とは、煎じ詰めれば、”好きか嫌いか”だけなのではないか、と思っています。もちろん、人気の絵画や音楽には、好まれる理由があります。それが分析されることはあっても、いわゆる評価とは多少異なるように思います。一方、文学や映画は、ストーリーを追うという性格上、説明的にならざるを得ない面があります。そこでは伝えるという技術が求められ、その点が評価の対象となります。

1950年代のイギリスで始まり、60年代のアメリカで花開いたポップ・アートは、反体制というカウンター・カルチャーの中核の一つでした。ロイ・リキテンスタインやアンディ・ウォーホルは、まさに時代の寵児でした。ロイ・リキテンスタインは、アメリカン・コミックのひとコマを拡大し、鮮やかな色のドットで表現していきます。アンディ・ウォーホルが、1962年に発表したキャンベルのスープ缶を題材とした作品は、ポップアートの誕生とまで言われます。いずれにも共通するのは、アメリカではどこにでもある、ごくありふれたコマーシャル・プロダクトを題材にしている点です。そして、いずれも議論を呼びながらも、多くの人々に、あるいは時代に受け入れられました。

アンディ・ウォーホルは、若くして成功した広告イラストレーターであり、商業デザイナーでした。マディソン街の売れっ子は、仕事に疲れ、32歳で引退してアートの世界に入ります。62年7月にはLAで、11月にはNYで個展が開かれ、ウォーホルのキャンベル・スープ缶がデビューします。どこにでもあるスープ缶の絵が並んでいるだけのギャラリーは、美術界に衝撃を与えます。思えば、それは、至って単純な議論でした。”これは芸術と呼べるのか”という疑問の声も多く、一方では、”現代文明への痛烈な批判である”という賛辞も起こります。同じ年の10月、英国の音楽界で似たような議論が起きます。ビートルズのデビューです。その音楽とヘア・スタイルが、世界を驚かせたわけです。

ウォーホルのキャンベル・スープ缶は、大量消費社会や画一化されたアメリカ社会への批判だと言うのは周囲の人たちであり、ウォーホルは”私のランチは、毎日キャンベル・スープです”としか言っていません。ウォーホルは、作品について何も語らず、”表面だけを見てください。私の内面には何もありません”とうそぶくわけです。私は、ポップ・アート好きですが、その面白さは、視点を変えることにあると思っています。日常的なものを非日常的に見せる、非日常的なものを日常のなかに置く、といったことです。それを面白いと思うか、美しいと思うか、あるいは、それによって物質文明を憂うるか、それは受け手の勝手です。ポップ・アートは、そうした機会を提供することで、より自由な世界を開いてくれる代物だと思っています。

ウォーホルのキャンベル・スープ缶は、アメリカ国内での受け止めと、日本や欧州のそれとでは多少異なる面があると思います。アメリカでは、ありふれた日常でも、戦争で疲弊した他国からすれば、物があふれる憧れの国アメリカの象徴だったのだと思います。我々の世代は、アメリカ文化の洗礼を受けて育ちました。アメリカの物は、なんでも輝いて見えたわけです。ちなみに、その影響もあってか、私は、いまだにキャンベル・スープのヘヴィー・ユーザーです。一番好きなのはマッシュルームです。飲むと幸せを感じます。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年10月28日木曜日

ジーンズ

労働者の単なる作業着として考案されたジーンズが、これほどまでに普及し、ファッションの定番になるとは、誰もが想像できなかったと思います。ジーンズは、1870年、ネヴァダ州リノの仕立屋ジェイコブ・デイヴィスによって発案されました。デイヴィスは、鉄道労働者のために、テントや幌等を仕立てていました。デイヴィスは、木こりの妻から、夫のために丈夫なズボンを作ってくれと依頼されます。厚手のキャンバス生地を使い、痛みやすいポイントをリベットで補強したズボンは、鉄道労働者の間にも広がって行きます。デイヴィスは、手元資金が無かったため、生地の仕入先だったサンフランシスコのリーバイ・ストラウスに、共同事業化を持ちかけ、共同で特許を取得します。

リーバイスのジーンズは、ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアの金鉱夫たちのために開発されたと言われますが、正しくはありません。リーバイスの原点となるデニム生地を使った501モデルが発売されたのが1890年代であり、ゴールドラッシュはとっくの昔に終わっていました。今でも、サンフランシスコのフットボール・チームに、その名を残す”フォーティーナイナーズ”という言葉は、ゴールドラッシュが爆発した1849年、カリフォルニアに押し寄せた人々のことです。48年に金が発見され、49年には世界中から10万人近い人々が押し寄せたと言われます。それから6年後の55年には、採掘しやすいところにある金は掘り尽くされたようです。とは言え、リーバイスの501は、鉄道労働者、木こり、カウボーイ等、西部の労働者に圧倒的に支持されました。

ジーンズという言葉の由来は、イタリアのジェノヴァにあるとされます。ジェノヴァは、リグリア海に面した良港として古代から栄えた街です。中世には、海運に関連して金融や商工業も大いに発達し、ヴェネツイアと覇権を争いました。近世になってからも、ジェノヴァの船は、世界中を巡りました。ジェノヴァの船員たちは、キャンバス地のズボンを愛用していました。アメリカでは、いつしか、そのキャンバス地を”ジェノヴァの”という意味で”ジェンズ”と呼ぶようになります。当初、デイヴィスのズボンの生地がキャンバス地であったから、ジーンズと呼ばれるようになったようです。ほどなくジーンズは、インディゴ染めのデニム地を使い、ブルージーンズになるわけですが、デニムという言葉は、フランスのニームに由来し、”セルジュ・ドゥ・ニーム”、ニーム地方の綾織という言葉が短縮されたもののようです。

あくまでも労働着であったジーンズが、一般化していく大きなきっかけは、映画でした。1953年の暴走族を描いた「乱暴者」でマーロン・ブランドがリーバイス501を履き、1955年の「理由なき反抗」ではジェームズ・ディーンがリーの101を着ていました。あえて労働着を普段着にすることがカウンター・カルチャーのシンボル化されたわけです。若者による旧体制批判に揺れた60年代、ジーンズは世界中に広がって行きました。とは言え、今でも、ジーンズお断りという場所は、少なからずあります。いかに高価なデザイナー・ジーンズやヴィンテージものであろうとも、労働着であることは変わらないというわけです。日本的に言えば、尻端折りに股引で宮中にあがるようなものでしょうから、分からぬではないですが。

ジーンズの普及に、日本のメーカーが果たした役割が大きいことも、よく知られています。ゴワゴワした触感のジーンズを、一度洗ってから製品化する「ワンウォッシュ」の考案です。倉敷のマルオ(現ビッグ・ジョン)が、ワンウォッシュの国産ジーンズを発売したのが、1968年でした。70年代には、ワンウォッシュが世界標準になります。三備地方と呼ばれる岡山県、広島県東部は、世界のジーンズの一大生産拠点です。日本三大絣の一つ、備後絣で知られた地方でもあります。思えば、絣も労働着であり、三備地方はヤマト王権に抵抗を続けた吉備国でもありました。三備地方は、成るべくして成ったジーンズ王国かも知れません。(写真出典:straatosphere.com)

2021年10月27日水曜日

松林図屏風


日本の絵画史の頂点に立つ画家は、最多6点が国宝になっている雪舟ということになります。中国の浙派に学んだものの、まったく独自の山水画を生み出し、狩野派が師と仰ぐなど、日本の画壇に大きな影響を及ぼした15世紀の画僧です。一方、日本の絵画史の頂点に立つ作品は、長谷川等伯の国宝「松林図屏風」だと思います。長谷川等伯は、画聖雪舟から100年後、「雪舟五代」を自称した人です。安土桃山時代、栄華を誇った狩野派のライバルとして活躍しました。「松林図屏風」は、日本の水墨画の極致であり、日本文化を最も端的に現している作品だとも言えます。この六曲一双の屏風を見れば、中国はじめ他国の文化と、日本文化との違いが一目瞭然で分かります。

中国の水墨画は、仏教の伝来とともに唐代で成立し、宋代に完成を見、南宋で頂点を迎えると言われます。水墨画が日本に伝わったのは鎌倉時代でした。禅とともに伝わったとされます。禅宗の教義と山水画には何の関係もありませんが、山水画を日本にもたらしたが禅僧であり、シンプルで奥深い山水画と禅宗との相性が良いということなのでしょうが、初期の水墨画は、主に禅僧たちによって描かれています。画題としては、中国禅宗の始祖である達磨大師等が描かれていました。他の渡来文化と同様に、当初は、模倣から始まっています。しかし、1469年、2年間に渡る留学を終え、明から帰国した雪舟は、中国には教わるべき師はいなかった、と語ったとされます。日本の水墨画が形を成したということなのでしょう。

中国の山水画は、山水を描きながら、自分の理想とする世界を強く打ち出しています。雪舟がたどりついた山水画は、自然を詩情豊かに描き、見る者がそれぞれの感性で向き合うという絵画です。いわば見る者の心を写す絵画です。紙や墨の違い、それに基づく技法の相違等もありますが、最も大きな違いは、山水を通じて表現したいものの違いにあります。雪舟が確立した日本の山水を、極限まで高めたのが長谷川等伯の「松林図屏風」だと思います。過剰な表現を一切排除し、松林を静かに浮かび上がらせる構図は、もはや松林を描いているのではなく、空気感を描いているとしか言いようがありません。ある意味、禅の思想を具現化しているようにも思えます。

「松林図屏風」には、制作年代の記録がなく、16世紀末、等伯50歳頃の作品と想定されています。描かれた松林は、雪舟の故郷である能登の海辺のものではないかと言われます。制作記録がないのは、依頼に基づいて描いたのではなく、自分自身のために描いた作品だからです。しかも、「松林図屏風」は、永らく人に知られることもなく、注目を集めたのは、昭和に入ってからのことでした。等伯は、「松林図屏風」を描く少し前、才能豊かだったと言われる長男を亡くしています。また、同じ頃、盟友であった千利休も切腹させられています。悲嘆に暮れた等伯が、最終的にたどりついた無常観が、この静謐な「松林図屏風」に表現されているように思います。

長谷川等伯は、1539年、能登の七尾に生まれ、地元での絵仏師を経て、30歳を過ぎてから都に上ります。40歳を超えてから、初めて障壁画を描き、知り合った千利休の口添えで秀吉に認められたのが40代後半でした。ライバルであった狩野永徳は名門の家に生まれた超エリートであり、底辺から大絵師にまで成り上がった等伯とは好対照と言えます。都に残る等伯の画業の多くは、大和絵であり、絢爛豪華な障壁画です。「松林図屏風」とは真逆とも言える画風です。それだけに、人生の悲哀を経験して得た境地を、自分だけのために表現した「松林図屏風」は、究極の山水であるとともに、近代絵画を予見させる画業でもあると思います。(出典:jbpress.ismedia.jp)

2021年10月26日火曜日

シナボン

昔、よく家族でハワイに行きました。子供たちもまだ小さく、最大のお楽しみは、ハナウマ・ベイでのシュノーケリングでした。私としては、カイルア・ビーチでのんびりしたかったのですが、ハナウマで魚に餌をやるという子供たちの楽しみにはかないません。昔、ハナウマ・ベイには、何の規制もありませんでした。朝、ABCマートで、一番安い食パンを3斤くらい買い込んで出かけます。透明度の高い海に、食パンをちぎってバラ撒くと、きれいな色の魚たちが、喜んで寄ってきたものです。その後、観光客が撒く餌で海が濁るということで、ビーチで売っている餌だけが許可されるようになりました。さらに、人数制限のために、入場料まで徴収するようになりました。今は、自然保護区に指定され、一層厳しい管理下にあるようです。

ハナウマ・ベイで、たっぷり遊んだ帰りには、カハラ・モールのシナボンに立ち寄るのが楽しみの一つでした。疲れた体に、シナボンの暖かさと甘さが心地よく、ハワイはいいな、と思ったものです。シナボンは、1985年に、シアトルに開店したシナモン・ロール専門店です。シナモン・ロールは、大体美味しいのですが、シナボンは、格別です。シナモン・ロールというよりは、やはりシナボンと呼びたくなるほど独特な風味を持っています。その風味の秘密は、インドネシアのマカラ・シナモンにあると言われます。シナボン専用に栽培されるマカラ・シナモンは、独特の香りを持ち、風味が際立っています。甘いのに、決して甘すぎないアイシングも、まさにいい塩梅です。他の材料もいいものを使っているのでしょう。

シナモン・ロール自体は、スウェーデン発祥のペイストリーだとされます。ペイストリーの起源は古代オリエントにあり、十字軍が欧州に伝えたようです。中東で定番のバクラウ等が、最も古いペイストリーの形を保っているのでしょう。また、ペイストリーの一種デニッシュは、デンマーク発祥ゆえデニッシュと呼ばれます。18世紀頃、欧州で一番のパン職人は、デンマーク人と言われたそうです。マリー・アントワネットがフランスに嫁ぐ際、ウィーンから連れてきたデンマーク人のパン職人が考案したのが、クロワッサンです。ちなみに、デンマークでは、デニッシュとは言わず、ウィーン発祥ゆえ”ウィーンのパン”と呼ばれるようです。デンマーク人のパン職人が、ウィーンで考案した、ということなのでしょう。いずれにしても、北欧は酪農が盛んだったことが、ペイストリーやデニッシュの誕生につながったのでしょう。

スパイスの王様とも言われるシナモンは、世界最古の香辛料です。セイロン島原産のクスノキ科の常緑高木であり、その内樹皮が香料となります。古代オリエントで珍重され、エジプトではミイラの防腐剤としても使われたようです。貴重さゆえ高価な香辛料でもありした。古代ローマでは、わずか1gが、労働者の半月分の給料に相当したようです。やがて欧州全般にも広まり、ヴェネチアとアラブ商人が貿易を独占します。アラブ商人たちは、シナモンの希少価値を守るために、中世末期まで産地を明かさなかったそうです。シナモンは、胡椒とともに、大航海時代を生み出す要因となりました。シナモンは、肉桂として知られる生薬でもあり、菓子類の香辛料としては、八つ橋も含めて、幅広く使われます。インドのガラムマサラはじめ、料理にも使われています。現代の主な生産地は、インドネシアと中国だそうです。シナボンも、まさにインドネシアの最高級品を使っているわけです。

それにしても、シアトル発祥の先進的企業が多いことには、驚かされます。ボーイング、マイクロソフト、アマゾン、スターバックス、コストコ等々、枚挙にいとまがありません。また、シアトルは、アートの街としても、あるいはジミヘンやニルヴァーナを生んだ音楽の街としても知られます。質の高い人材の集まる街であることが、有名企業や文化の発展に貢献していると言われます。ただ、それ以前に、太平洋に開かれた貿易港であったことが、挑戦的で、自由な街の気風を作ったのだと思います。シアトルの貿易先は、欧州ではなくアジアであり、長く危険な航海を前提とします。つまり、多様性の受容、リスクテイクこそ、シアトルを構成しているものなのでしょう。(写真出典:jrff.co.jp)

2021年10月25日月曜日

「007 ノー・タイム・トゥ・ダイ」

監督:キャリー・フクナガ      2021年イギリス・アメリカ

☆☆☆☆-

*ネタバレ注意

007シリーズ第25作目、ダニエル・クレイグ版ジェームス・ボンドの最終作だそうです。そのせいか、気合いの入った作品に仕上がっています。原点回帰的なアクション・シーンも見事ながら、前作「スペクター」に引き続き、ドラマ性を高め、作品の厚さを出しています。ドラマ的な部分で、結構、尺を使ったために、007としては長く重い映画になっています。アクション重視型に変わった007シリーズのなかでは、かなりいい出来だと思います。レア・セドゥが演じるヒロインのマドレーヌが、前作「スペクター」から継続してることも、新しい趣向です。

監督のキャリー・フクナガは、日系4世の俊才です。監督デビュー作となった「闇の列車、光の旅」は、中南米のストリート・ギャングと不法移民の世界を描き、印象に残る映画でした。「ビースト・オブ・ノー・ネーション」は、アフリカの少年兵の悲惨を伝える重い映画でした。キャリー・フクナガは、今村昌平ファンでもあり、作家主義的な社会派監督だと思っていました。ところが、マシュー・マコノヒーが主演したHBOのTVシリーズ「TRUE DETECTIVE」のシリーズ1では、スマートななセンスの良さも見せてくれました。TRUE DETECTIVEは、大好きな作品です。今回も、緊張感ある演出とキレのいい映像で、実力のほどを十分に発揮していると思います。

ダニエル・クレイグは、第21作「カジノ・ロワイヤル」(2006)から登場しています。ダニエル・クレイグが、6代目ジェームス・ボンドに起用されるとリリースされた時には、大ブーイングが起きました。初代のショーン・コネリーとは、あまりにも違うタイプだったからです。しかし、1962年の第一作「ドクター・ノオ」から、既に40年以上経ち、時代は大きく変わっていました。シリーズも、シリアスなアクション映画へと変貌を遂げ、新しいジェームス・ボンド像が求められていました。ダニエル・クレイグは、時代が求めたジェームス・ボンドだったと思います。と同時に、激しいアクション・シーンは、俳優に厳しい肉体的負荷をかけます。ダニエル・クレイグは、降板の理由を、肉体的限界と答えています。まだ、53歳。まだ、いけそうな気もしますが。

今回から、いわゆるボンド・ガールは、ボンド・ウーマンと呼ぶことにしたようです。前作で、モニカ・ベルッチをつかまえて、ガールというのも如何なものか、とは思っていました。これも、単に時代の変化ということではなく、シリーズの性格が大きく変わったことの現れです。かつてボンド・ガールは、映画に「花をそえる」と表現されていましたが、前作あたりからは、ストーリー性の高いドラマのヒロインそのものです。パルム・ドール女優レア・セドゥの継続起用は、まさに象徴的です。加えて言えば、ジェームス・ボンドの後任007号が黒人女性であること、あるいは脚本にフィービー・ウォーラー=ブリッジが参加していること等も、新鮮さにつながっています。そのなかで、逆の新鮮さを出していたのが、キューバ出身の売れっ子アナ・デ・アルマスです。ある意味、彼女だけが、007シリーズの伝統を体現していました。

今回のロケ地の一つが、南イタリアはバジリカータ州にあるマテーラです。洞窟住居で有名ですが、最近、人気急上昇中の世界遺産だと聞きます。映画への登場も増えています。新たなトレンドを取り込むあたりは、007シリーズの伝統でもあり、新鮮さを保つ要因でもあります。テーマソングが、ビリー・アイリッシュだったことにも驚かされました。ビリー・アイリッシュは、まだ、19歳であり、シリーズ最年少のテーマソング歌手だそうです。一方、エンドロールには、サッチモの「愛はすべてを超えて」が流れます。ボンドが妻を失う「女王陛下の007」(1969)で使われた曲です。面白い趣向です。ちなみに、エンドロールは、おなじみ”James Bond Will Return”が映し出されて終わります。新鮮さと伝統両面の趣向で、新しいジェームス・ボンドへの橋渡しを企図した作品かも知れません。(写真出典:tower.jp)

2021年10月24日日曜日

ミシャグジ

諏訪大社上社拝殿
歴史、特に古代史は、新たな発見や発掘によって、定説が覆ったり、新たな仮説が生まれたりします。近年、科学技術の発展とともに、新たな発見が増えているように思います。日本の古代史で最も人気があるのは、なんと言っても邪馬台国の所在地、そしてヤマト王権の成立に関わる議論です。邪馬台国は、九州説と畿内説で激論が交わされてきましたが、奈良の纏向遺跡で大型建造物等の痕跡が発掘されたことから、畿内説が有力になってきたようです。併せて、同遺跡内の箸墓古墳が、卑弥呼の墓ではないか、という説も人気です。また、全国で、多くの古墳が続々発見されており、特に前方後円墳の広がりから、ヤマト王権成立期の様子が明らかになってきています。 

技術の進化とともに、古代史への注目が高まっていることも、新たな発見が続く背景にあるのでしょう。邪馬台国とヤマト王権ばかりが注目される傾向もありますが、古代史の大スターとしての”諏訪”を忘れてはいけないとも思います。諏訪地方は、中央構造線と糸魚川静岡構造線が交差し、糸静線沿いの断層がずれたことで生まれた盆地です。八ヶ岳の裾野を通って甲府、その先の関東へもつながります。江戸期の五街道で言えば、甲州街道と中山道が交わる交通の要衝です。諏訪盆地には、多数の縄文遺跡が発見されています。諏訪は、縄文期の一大拠点だったわけです。その最大の要因は、良質な黒曜石が容易に採掘できたことにあります。薄く割れる黒曜石は、斧、矢尻になります。良質な諏訪の黒曜石は、関西から北海道にまで流通していたようです。

さらに諏訪の信仰には、縄文文化が弥生文化にオーバーラップされた痕跡を見ることができます。諏訪と言えば、御柱祭りの諏訪大社が有名ですが、諏訪の信仰の本質は、今でも、縄文中期から存在したミシャグジ信仰ではないかという説があります。ミシャグジの漢字表記は、石神、宿神はじめ様々ありますが、いずれも後世の当て字です。木や石を拝むミシャグジ信仰は、今も続いていますが、その本質は、物質ではなく、目に見えないパワーだと言われます。諏訪大社はご神体がなく、かつては歴代神氏が務める神官”大祝(おおほうり)”が現人神とされていました。大祝即位の祭祀を司るのは代々守矢氏が務める”神長(かんのおさ)”です。守矢氏は、古来、ミシャグジ信仰を司ってきた家であり、大祝即位の祭祀も、ミシャグジの力によって行われるとされています。

諏訪大社が祀る神は、建御名方神(諏訪明神)です。「古事記」の国譲り伝説によれば、天照大御神が出雲の大国主神に国譲りを迫った際、大国主神の次男である建御名方神が抵抗します。天照大御神が送り込んだ建御雷神に破れた建御名方神は、諏訪に逃げ込み、以降、諏訪を離れないことを条件に助けられます。建御名方神は、元々諏訪に君臨してきた洩矢神を倒して、諏訪に入ります。洩矢神は、代々ミシャグジを祀る守矢氏だったと考えられます。つまり、縄文社会が出雲系の弥生文化に取って代わられたわけです。出雲の場合、ヤマト王権的は、征服した大国主命を祀る出雲大社を建てることで、地元民の心情に配慮しつつ、統治下に組み込みました。諏訪大社も同様なのですが、多少、複雑な工夫が施されています。

建御名方神の入諏の逸話は、古事記にしか登場しないことから、後に挿入されたのではないかという説があります。想像するに、ヤマト王権による諏訪の征服は、かなり手こずり、時間がかかったのでしょう。抵抗勢力ということで、大国主命の次男と位置づけ、国譲り伝説に組み込んだのだと思います。とすれば、建御名方神は外来神となりますので、あえて御神体を置かず、在来神であるミシャグジの力で大祝を現人神にするという絶妙な折衷案を採ったのだと思われます。単なる豪族ではなく、ミシャグジが根強い信仰だったため考え出された策なのでしょう。諏訪は、農耕を開始した後も、しばらくは結束の強い縄文的社会が存続し、ゆえにヤマト王権も手を焼き、かつ今に至るまで縄文の色が残ったのだと思います。素人考えですが、諏訪大社の御柱は、建前上は建御名方神を封じ込めるための結界であり、かつ本当の狙いはミシャグジの封じ込めだったのかも知れません。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年10月23日土曜日

ロアノーク植民地

プリモス・ロック
マサチューセッツ州プリマスの海岸に「プリマス・ロック」と呼ばれる岩があります。1620年、英国での弾圧から逃れるために、ピューリタンの一団が、メイフラワー号で大西洋を横断、アメリカ大陸に上陸します。いわゆるピルグリム・ファーザーズであり、彼らの上陸第一歩が、このプリマス・ロックの上にしるされたとされています。実際に見ると大きな岩ではありません。元々は、もっと大きかったのが、移動させる際に割れ、上部だけが残されたようです。17世紀の文献には一切記載がなく、1741年に、トマス・フォーンスという老人が、言い始めたことのようです。彼が、当時、90歳を超えた入植第二世代であったことから、信憑性が高いとされたようです。

メイフラワー号とプリマス植民地が、あたかもアメリカ開拓の始まりのように思われていますが、必ずしも正しくはありません。16世紀、北米には、欧州から、探検家、漁労者、狩猟者、そして先住民と毛皮の取引を行う商人たちが、それなりに行き来してました。英国による最初の永住型植民地は、ウォルター・ローリー卿の出資により、1585年、ノース・キャロライナ州のロアノークに作られます。第一次隊は、7隻の艦隊で出航し、300人の植民者を予定していました。ただ、船が座礁するなどの困難に襲われ、約100名だけで植民地がスタートします。十分な食料や装備を持たなかった一次隊は、補給船が大幅に遅れたために、15名だけを残して、立ち寄ったフランシス・ドレークの私掠船で帰国しています。二次隊は、1587年に、117人が送られます。ただ、居残った一次隊の15名は見つけられませんでした。

二次隊も、先住民との戦いや食糧事情が厳しく、帰国する艦隊に母国への救援要請を託します。しかし、おりしも英国は、スペインとの戦争の最中であり、救援船の調達は困難を極めます。ようやく確保した船も、出航した途端にスペインの略奪にあい、英国へ戻っています。結局、救援隊がロアノークにたどり着いたのは、3年後の1690年でした。しかし、そこには誰一人おらず、襲撃された形跡もなく、建物は解体され、持ち運べるようなものはすべて無くなっていました。また、先住民かスペイン人に襲撃され、植民地を退去する場合に残すことになっていた目印も見つかりませんでした。ロアノーク植民地は、忽然と消えたわけです。ローリー卿自身も含めて、捜索隊も編制されましたが、成果を得ることはありませんでした。もっともローリー卿の捜索は名ばかりで、主たる目的は貿易だったようです。

1607年、ヴァージニア州にジェームスタウン植民地が建設されます。初めての永続した植民地であり、1699年、伝染病が多かったことから、ウィリアムスバーグに移転するまでの90年間存続しました。ジェームスタウン入植直後、先住民に捕まった入植者が、不思議な情報を入手します。ある部族に、洋服を着て、英語を話す白い肌の人間たちがいる、というのです。早速、探査隊が出されますが、その部族を見つけることはできませんでした。その後、時代は下って18世紀初頭、ロアノーク近くを探検した英国人の歴史家が、先住民の集落で、白い肌、灰色の目のインディアンを何人か確認しています。恐らく、ロアノークの植民者たちは、生きるために近隣の先住民たちに同化していったのでしょう。1世紀を経て、彼らのDNAが、子孫の肌や目の色に残ったわけです。

ロアノークでもなく、ジェームスタウンでもなく、規模も小さく、後発のプリマス植民地が建国の起点とされるのは、何故なのか、不思議なところです。実は、メイフラワー号、ピルグリム・ファーザーズ、プリマス植民地が注目されるようになったのは、アメリカ独立戦争前後からだと言われます。独立戦争という時代背景からすれば、英国重商主義の手先であるロアノークやジェームスタウンよりも、英国の弾圧を逃れて新天地を求めたピューリタンたちの方が、革命の理念に合致していたわけです。加えて言えば、ジェームスタウン植民地では、1619年に黒人労働者が投入されています。当初は奴隷ではなかったものの、後に奴隷化されます。要は、ジェームスタウンが、米国における黒人奴隷発祥の地であったことも影響したのでしょう。ちなみに、プリマスにもウィリアムスバーグにも、往時の町並みと生活を再現した野外博物館があります。いずれも興味深い人気の観光地です。(写真出典:washingtontimes.com)

2021年10月22日金曜日

坂東

太田道灌
太田道灌が、鷹狩に出かけたところ、村雨にあい、粗末な農家で雨具を貸してくれと頼みます。応対した娘は、黙って、山吹の枝を差し出します。道灌が戸惑っていると、側近が「古歌に『七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに 無きぞ悲しき』という歌があります。娘は貸せる蓑が無いことを恥じて、実のならない山吹の枝を出しているのでしょう」と助言します。納得した道灌は、己が歌の道に暗いことを嘆き、精進を重ねて、大歌人になりました。いわゆる「山吹の里」伝説です。歌は、兼明親王の作で、後拾遺和歌集に収められています。また、この話を下敷とする落語「道灌」もよく知られています。

江戸城を築いた道灌は、戦いに明け暮れる15世紀の関東で圧倒的強さを誇るとともに、学者としても、歌人としても大成した人でした。いつも不思議に思うのは、関東と言えば、鎌倉幕府、江戸幕府ばかりが注目される傾向にあります。それ以前と言えば、平将門、太田道灌の名前が出る程度です。教科書の記載からすれば、都から遠く離れた関東は、流刑地でもあり、未開の地に近かったような印象すら持ってしまいます。しかし、実際には、縄文期には最も多くの人口と集落が集まり、古墳時代には多くの豪族が割拠し、律令体制下では多くの国府も置かれています。また、平安期の三神宮とは、伊勢・鹿島・香取でした。関東の豊かさは、畿内をも凌いだと言われます。道灌の生涯は、ある意味、中世の関東を象徴しています。争いは絶えないものの、文化的なレベルは都に通じるところがありました。

それほど豊かなのに、なぜ日本の中心でもなく、歴史への記載も薄いのでしょうか。日本の中心が畿内であったことは、ヤマト王権が、その発生経緯や文化の受容といった面から、朝鮮半島や大陸との関係、あるいは距離感を重視せざるを得なかったからなのでしょう。また、関東は、豊かで広い土地であったことで、多くの豪族たちが並び立つことを可能にしました。結果、飛び抜けた大国が登場せず、歴史への登場も薄くなったのでしょう。関東には、前方後円墳が点在し、4世紀頃には、ヤマト王権の支配が行き渡っていたことを示しています。「宋書倭国伝」によれば、ヤマト王権が征服した関東の国は、55とも66とも記載されています。国が分立し、それぞれの規模が大きくなかったことが、ヤマト王権による制圧を容易なものにしたと思われます。

関東一円は、かつて吾妻、あるいは坂東と呼ばれていました。坂東とは、信濃国と上野国の界にあたる碓日峠、駿河国と相模国の界にある足柄坂、二つの坂の東に広がる地域という意味です。この大雑把な僻地観が、畿内の人々にとっての関東の捉え方を表しています。朝廷は、王族も含めた人材を投入し、関東の開拓と管理を行います。支配層は、都から遠かったこともあり、家督争いや領地を巡る争いに明け暮れ、ある意味、好き勝手していました。やむなくとは言え、天皇を自称するに至った平将門まで登場するわけです。それ以降も、関東は、平家系、源氏系の大小武士団が割拠し、争いは絶えませんでした。鎌倉幕府は、関東を初めて武力統一した勢力であり、数百年間、戦い続けてきた日本一屈強な武士団を持つことにもなりました。

源頼朝、徳川家康が、関東に拠点を定めた理由は、まずは魑魅魍魎が跋扈する朝廷から距離を置くことだったのでしょう。加えて、頼朝の場合、鎌倉が要害の地であり、関東が自らのホームグランドだったからなのでしょう。家康の場合、秀吉の嫌がらせで江戸に入るわけですが、江戸が、地政学上、天下を治めるのに適した地であることを見抜いたからだと思われます。ヤマト王権は、半島・大陸との関係から畿内に都を置かざるを得ず、日本が成熟してくると、元々、地政学的にも、経済的にも、より天下の中心として相応しかった関東が、政権の地になっていく、つまり、畿内から関東への政権移行は、日本の独立性獲得の過程とも言えそうです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年10月21日木曜日

タバスコ・ソース

初期のタバスコ
タバスコは、山ほど存在するチリ・ペッパー・ソースの一つに過ぎません。それを知ったのは、初めてアメリカ南部へ出張した時のことでした。ケイジャン料理から生まれたとされるチリ・ペッパー・ソースは、唐辛子、酢、塩から作られます。使う唐辛子の種類、熟成の仕方、香辛料の使い方によって、味も辛さも異なります。南部の都市で、普通に買えるものだけでも、50や60種類あると言われ、田舎の小さな業者が製造・販売しているものまで含めれば、数百種類に及ぶとも聞きます。恐らく、ケイジャンの家系では、家毎に自慢のレシピがあるということなのでしょう。

そのなかで、ビジネスとして最も成功したのがタバスコということになります。タバスコは、1868年、メリーランド出身の元銀行家エドモンド・マキルヘニーによって製造・販売されました。南軍兵士から、メキシコのタバスコ州原産の唐辛子の種をもらったマキルヘニーは、妻の実家があったルイジアナ州エイブリー島で栽培に成功します。ちなみに、エイブリー島は、海上の島ではなく、スワンプとバイヨーに囲まれた内陸の島です。岩塩の産地として知られます。マキルヘニーは、タバスコ・ペッパーをすりつぶし、熟成させたうえで、地元の岩塩と酢を加えて、タバスコ・ソースを完成させます。これを香水用の瓶につめて販売しました。タバスコの瓶は、以来、その形を継承しています。瓶だけではなく、マキルヘニー社は、今もエイブリー島で、手摘み、樽詰めといった創業以来の製法にこだわって、タバスコ・ソースを生産しています。

タバスコ・ソースの起源については、マキルヘニー社版とは異なる説があります。南北戦争以前、美食家として知られたプランテーション経営者マウンセル・ホワイトは、自ら考案したタバスコ・ソースを使った料理を客に振る舞い、ソースが欲しいという客にはボトルに入れて配っていました。しかも、ホワイトは、自宅の庭で、タバスコ・ペッパーの栽培も行っていたようです。エドモンド・マキルヘニーは、自分こそがタバスコ・ソースの発案者だとして、ホワイト発案説を退けようとがんばったようです。ただ、文献なども残っており、昨今では、タバスコ・ソースの発案者は、マキルヘニーより20年も早かったホワイトだとされているようです。とは言え、タバスコ・ソースの特許を取得し、販売を始めたのはマキルヘニーであり、世界にチリ・ペッパー・ソースを広めたことは間違いありません。

では、数多あるチリ・ペッパー・ソースのなかで、なぜタバスコだけが大成功を収めたのでしょうか。恐らく、それは、マキルヘニーがケイジャンではなくメリーランド出身者であり、農民ではなかったことが関係していると思います。ルイジアナのペッパー・ソースは、農民たちが各家庭で作るものであり、販売するにしても小規模だったわけです。それを大々的にマーケティングしようなどとは夢にも思っていなかったはずです。マキルヘニーがよそ者で、金融という異業種からの参入者だったことから、マーケティングの発想が生まれたわけです。タバスコの成功は、まさに異業種効果の産物だと言えます。マキルヘニーは、1870年代の末までに、全米、そして欧州へと販路を拡大したと言われます。今でも、タバスコは、全米規模、世界規模で流通する唯一のチリ・ペッパー・ソースです。

タバスコ・ソースのスコヴィル値は2,500-5,000と言われます。その後、世に紹介された激辛唐辛子は、ハバネロで20万ー45万、ブート・ジョロキアで100万、スコーピオンで150万と、辛さがエスカレートしていきました。アメリカで開発されたキャロライナ・リーバーは157万ー233万、その後継種ペッパーXは318万を記録しています。既に気が遠くなるような値ですが、調製されたホット・ソースの最高峰は、デスソース社の「16 MILLION RESERVE or 6 AM RESERVE」です。そのスコヴィル値は、1,600万。少なくとも、タバスコの3,200倍という辛さです。食べたら、恐らく死にます。もはや意味不明としか言いようがありません。私も、辛いものは嫌いな方ではありませんが、神保町エチオピアのカレーで言えば、辛さ5倍で、既に痛さしか感じません。私は、ブート・ジョロキア・クラスで、確実に死ぬような気がします。(写真出典:worthpoint.com)

2021年10月20日水曜日

青ひげ

ジル・ド・レー
17世紀に出版されたシャルル・ペローの童話集は、世界初の児童文学と言われています。18世紀には、英国でマザー・グース童謡集が出版されますが、マザー・グースという名称はペローの本のタイトルから取られています。また、19世紀ドイツのグリム童話集には、ペロー童話集と重なるエピソードも収録されています。いずれも、民間伝承を収集した児童文学です。ペロー童話集といえば、赤ずきんちゃん、シンデレラ、眠れる森の美女、ロバの皮、長靴をはいた猫等が有名ですが、なかでも青ひげは、少し風変わりな話です。グリム童話集の初版にも収録されていたようですが、二版目以降は削除されています。陰惨な面が児童向けには相応しくないと考えられたのか、あるいは青ひげのモデルとされる人物が恐ろしすぎたからかも知れません。

昔、大金持ちながら、ひげが青いことから恐れられていた男がいました。青ひげは、貴婦人の娘たちの一人との結婚を申し込みます。青ひげは、何度も結婚していましたが、妻たちが行方不明になってたこともあり、姉妹は結婚を躊躇します。青ひげは、貴婦人の家族と友人たちを招き、贅沢の限りを尽くした接待を行います。結果、好意をもった妹が嫁ぎ、妻になりました。ある日、青ひげは、旅に出ます。妻は家中の鍵を渡されますが、ある小部屋だけは入らぬよう厳命されます。青ひげが出発すると、妻は、我慢できずに小部屋を開けます。そこは、血の海で、青ひげの妻たちの遺体がありました。妻は、思わず鍵を落とします。呪いのかかった鍵は、拭いても血が落ちません。予定が変わって早く帰宅した青ひげは、何があったかを察知して、妻を殺そうとします。妻は、最後の祈りを乞い、元々、その日来る予定だった兄たちを待ちます。すんでのところで間に合った兄たちが青ひげを殺します。

ペロー童話集は、ご丁寧に、各話の末尾に教訓が書かれています。例えば、赤ずきんちゃんの場合は、若い娘が知らない人と口をきくのは災いのもと、といった具合です。青ひげの場合には、女性の特有の好奇心を戒めています。青ひげのモデルとされるのが、15世紀のナントの領主にして、フランス軍の元帥だったジル・ド・レー男爵です。レー家は、悪辣な手法で、領地を拡大してきた歴史があり、また、母親の家系も悪党揃いでした。幼くして両親を亡くしたジル・ド・レーは、なかなかの悪人だった祖父のもと、放任されて育ちます。長じて軍人となったジル・ド・レーは、百年戦争真っ只中で、ジャンヌ・ダルクと行動を共にし、フランスの勝利に貢献した英雄と称えられます。パリ包囲戦を境に退役したジル・ド・レーは、居城にこもって、錬金術や黒魔術に没頭していきます。ジャンヌ・ダルクが火炙りの刑に処されたことにショックを受け、精神を病んだとも言われます。

奇行を続け、散財するジル・ド・レーは、一族から禁治産者の訴えを起こされ、その広い領地は、王族からも狙われます。政略的だったのでしょうが、ジル・ド・レーは、黒魔術を使った容疑で宗教裁判にかけられ、絞首刑のうえ火炙りという刑に処されます。その裁判の過程で恐ろしい事実が明らかになっていきます。ジル・ド・レーが居城にこもり始めた頃から、ナント周辺では、子供の行方不明が頻発していました。児童性愛者だったジル・ド・レーが、拉致して、性的に虐待したうえで、殺していたのでした。その数は、150人とも1,500人とも言われます。いずれにしても、城の地下室から大量の白骨が発見されています。黒魔術も、自らの性的指向を満足させるために行っていたのではないか、と言われます。通常、物語は、ネタになった話を誇張するものですが、青ひげの場合、ネタの方がより恐ろしいという世にも珍しいケースです。

ジル・ド・レーの尋常ならざる行動は、汚れた血筋がゆえ、あるいは異常な幼少期に原因があると言われます。そのとおりなのでしょうが、実は、ジャンヌ・ダルクとの、ある意味、尋常ならざる宗教体験にこそ原因があるのではないか、と思います。オルレアンの少女は、華奢な体に甲冑をまとい、戦場にあっては、常に先頭に立ち、連戦連勝を続けます。激しい戦闘のなかで、その神がかった姿は、宗教的興奮と性的興奮が入り交じった複雑な感情をジル・ド・レーの心に生じさせ、それがいつまでも残ったのではないでしょうか。かなり特殊ではありますが、PTSDの一種とも言えそうな気がします。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年10月19日火曜日

「クーリエ」

監督:ドミニク・クック      2021年イギリス・アメリカ 

☆☆☆+

キューバ危機の際、重要な役割を果たした実在のスパイを描いた映画です。クーリエとは、外交文書を本国と在外大使館の間で運搬する業務、あるいはそれを行う人を指します。近年では、国際宅配便などもクーリエと呼ばれます。新たな大物情報提供者としてソヴィエト政府高官を確保したMI6とCIAは、担当クーリエとして、東欧への出張が多く、かつ政府とは無関係な英国人ビジネスマンをリクルートします。諜報機関が注目しそうにない人材が選ばれたわけです。二人の接触は順調に展開し、ソヴィエトがキューバに運び込んだミサイルの情報に至ります。

その情報は、キューバ危機回避に、大いに貢献することになります。ただ、キューバからミサイルが撤去される直前、二人は、モスクワで、当局に逮捕されます。ソヴィエト政府高官は処刑され、クーリエは、KGB のルビャンカ刑務所に2年収監された後、捕虜交換で英国に帰国しています。実に興味深い歴史的エピソードですが、映画に仕立てるには難しい題材だと思います。緊張感は演出できても、ストーリーとしての盛り上がり、あるいは映画的な広がりを確保するのは、結構、ハードルが高いと思います。ところが、本作は、その難易度の高い題材を、そつなく見事なエンターテイメントに仕上げています。英国映画界の職人芸を見せつけられた思いです。テンポの良い展開と演出、ヒリヒリとする緊張感、役者たちの達者な演技、そしてキューバ危機と逮捕を山場として成立させた脚本等、見事なものです。

それもそのはずです。監督のドミニク・クックは、本作が2作目ながら、元々は英国演劇界を代表する重鎮です。いわばドラマ作りの達人だったわけです。派手なアクションや映画的ギミックに一切頼ることなく、真っ正面からドラマを作り、かつエンターテイメントとして成立させています。クーリエ役のベネディクト・カンバーバッチは、英国王室の血を引く名優ですが、戸惑いながらも気骨を見せるといういい演技をしています。情報提供者役のメラーブ・ニニッゼは、グルジアの役者ですが、存在感のある演技で映画を引き締めています。いい人を選んだものです。監督が舞台の人とは言え、決して舞台くさい映画にはなっていません。映画としてのパースペクティブをよく心得た演出と映像だと思います。

実際、クーリエを行ったグレヴィル・ウィンは、捕虜交換で帰国後、実業に戻り、1990年、70歳で亡くなっています。コードネームHEROと呼ばれたオレグ・ペンコフスキーは、GRU(ソ連軍参謀本部情報総局)大佐であり、西側が確保した最も高位のスパイだったそうです。彼の情報は、機密度の高い超一級品ばかりであり、東西冷戦の方向を変えたとまで言われているようです。ペンコフスキーは、抱き込まれたのではなく、自らアメリカと接触して、情報提供者になっています。KGB上層部は、早くからペンコフスキーがスパイであることを知っていましたが、KGBが英国のMI6上層部に確保しているスパイを守るために、あえて泳がせていたようです。まさにスパイ戦における虚々実々の駆け引きということです。ただし、本作は、そのあたりに一切触れていません。ジョン・ル・カレの小説ならともかく、実話であり、テーマを絞り込むという観点からは大正解だったと思います。

同様に、映画のハイライトに据えられたキューバ危機についても、そつなく、あっさりと描かれています。人類滅亡の直前までいったキューバ危機ですから、下手に踏み込むと大変なことになってしまいます。深い入りしないという本作の描き方は、これまた大正解だったと思います。キューバ危機といえば、ジョン・F・ケネディとニキータ・フルシチョフばかりが注目されます。ただ、実際には、ペンコフスキーやウィンのようなスパイはじめ、多くの人々が関与し、かつ重要な役割を果たしていたわけです。歴史は、名を残すこともない多くの実務家たちによって動かされていることを、あらためて思い起こさせる映画でした。(写真出典:eiga.com)

2021年10月18日月曜日

規格化

アメリカのホーム・センターで、一番驚いたのは、既にガラスまで入った窓、あるいは仕上げまで終わった階段が、店頭で販売されていたことです。要するに、アメリカは、完璧に規格化された社会なので、サイズさえ合えば、窓や階段も、店で買って帰り、自分でパカッとはめることが出来るわけです。アメリカの大量消費社会は、ライン化された工場、よく整備されたハイウェイ網、そして徹底的な規格化によって成立したのだと思います。アメリカのハイウェイを走っていると、出来あがった家を運んでいるトレーラーをよく見かけます。実際には、工場で生産されたモジュール、つまり家の部品であり、現地で家として組み立てるわけです。規格化社会ならでは光景だと思います。

規格、あるいは標準には、計測単位、最低基準、互換性標準があると言われます。計測標準に関して言えば、その歴史は、農耕とともに始まったとも言えます。シュメールは、既に計測単位を持っていましたし、秦の始皇帝による天下統一は、度量衡の統一でもありました。産業革命後、欧州では、度量衡の国際標準化が一気に進んでいます。私が、ここで、言っているのは、度量衡ではなく、互換性標準のことです。アメリカにおける互換性標準の起源は、18世紀フランスの軍事産業にあるとされます。当時、フランスの軍需産業では、多様化する兵器の製造にあたり、互換性の高い部品を増やすことで、製造工程の効率化を進めていました。これを見たアメリカの国防関係者が、標準化という考え方を国に持ち帰ります。

新興国アメリカでは、産業革命が始まったばかりでした。欧州に遅れをとったものの、ひとたび工業化が進むと、欧州をはるかに上回るスピードで発展していきます。軍需産業を中心とした標準化の流れは、金属加工の進化と相まって、徐々に他の産業にも伝播して行きます。互換性標準がアメリカ産業界に一気に広がったのは、1904年に起きたボルティモアの大火がきっかけだったと言われます。火の勢いが強く、なかなか鎮火できないので、ワンシントンD.C.やニューヨークからも消防隊が応援に駆けつけます。ところが、それぞれのホースの規格が異なっており、消火栓とホースを接続することができませんでした。火は36時間燃え続けたと言います。この悲惨な経験が、ホースと消火栓の標準化を実現し、さらには工業全般へと広がって行きました。

アメリカで、互換性標準が発展した背景には、特許制度と独禁法があるのではないかと思います。近代的な特許は、15世紀のヴェネチアに始まり、欧州に広がります。なかなか難しい面も多い仕組みであり、各国で激論が続いた制度でもあります。欧州で特許制度の完成度が高まった頃、アメリカは建国され、その憲法にも特許の考え方が記載されています。建国時から特許制度が一般化されていたことは、アメリカの産業拡大にとって、大きなメリットだったと思います。また、アメリカは、独禁法を発明した国でもあります。大企業による独占を制して、健全な競争を確保することこそが、消費者の利益につながる、という考え方は、アメリカの産業を形作る基本的思想だと言えます。いずれも、技術が広く活用される下地になったと思われます。

ただ、アメリカには、政府による規格や標準の押しつけを嫌う精神風土があり、デジュリ・スタンダード(法などで定められた標準)よりもデファクト・スタンダード(事実上の標準)が多い傾向があります。かつて、日本企業によるビデオ規格を巡るVHSとベータの争いがありましたが、これもアメリカでのデファクト・スタンダード獲得を巡る競争でした。もちろん、それらも、後にはISO等国際標準化されていきます。東西冷戦が終わり、アメリカ一強が明確になると、アメリカの産業界は、地球規模でのデファクト・スタンダード化を進め、圧倒的優位を確保しようとします。いわゆるフラット化戦略です。しかし、それは物を作らない国アメリカを生み出し、結果、中間層が没落、トランプ政権を誕生させました。(写真:NZでの光景 出典:rnz.co.nz)

2021年10月17日日曜日

百科事典

高度成長期、農地の宅地化が進むと、都市近郊の農家は、土地成金化していきます。トラクターといった大型農機具、クラウンといった高級車が購入され、バカに立派な日本家屋が建てられ、そして家の中には、家具のように重厚なステレオと全40巻近い平凡社の百科事典が据えられました。ステレオで聞いていたのは美空ひばりであり、百科事典は、一度もページが開かれることはなかったと思われます。いつの頃からか、サラリーマン世帯でも、百科事典が普及し、なぜか応接間に鎮座してたものです。応接間にあること自体が、当時の百科事典の性格を物語ります。知識の宝庫として活用されるのではなく、ソファーと同様に、応接間に標準装備すべき家具だったわけです。 

辞典や事典の類いの歴史は古く、紀元前から存在していたようですが、最初のアルファベット順辞典として知られているのが、10世紀ギリシャの「スーダ辞典」です。編集したスイダスにちなみ、今でも辞典類の接尾語として”ダス”が使われています。近代的な百科事典の始まりは、1751年、フランスで、ディドロ、ヴォルテール、ルソー等、いわゆる百科全書派が編集した「百科全書」ということになります。啓蒙主義の流れのなかで、知識の一般化を目指したわけです。そして1768年には、スコットランドのエディンバラで、後に百科事典の代名詞ともなる「ブリタニカ百科事典」の刊行が開始されます。以降、各国で、様々な百科事典が刊行されますが、近代国家であることを証明するために編纂されたといった面もあったようです。

この時点で、百科事典は、啓蒙主義的な知識の宝庫という本質に加え、ステイタスという側面を持つようになったとも言えます。そして、20世紀後半には、それが一般家庭のステイタスにまでなり、”家具化”していったわけです。決して安いものではないにも関わらず、なぜ一般化したのか、不思議なところです。もちろん、ブリタニカの個別訪問セールスの大成果という面は外せません。ブリタニカが使ったセールス・トークは「お子さんのために」だったと言われます。経済の成長とともに、知的労働者が高収入を得る構図が明確になってきた時代にマッチした話法でした。また、百科事典の普及には、別に面白い説があります。TV普及の反動説です。

TVの普及を”一億総白痴化”と看破したのは大宅壮一でした。世界で初めてTV放送を行った英国等は多少異なりますが、少なくとも米国や日本では、CMを多くの人に見せることがTVの目的になり、視聴率競争が起こります。TVは、家庭の居間の中心を占めていきますが、一方で、知的なものではないという認識もそれなりにあり、その反動として、百科事典が売れていったというわけです。本来の目的はさておき、どちらかと言えば、並べてあるだけで安心だったわけです。多くの本で書棚を埋めればいいわけですが、百科事典なら一度に揃えられる便利さがあります。ステイタス説、TV反動説、いずれにしても百科事典が一般家庭に普及した瞬間から、ほぼ家具化していたわけです。

百科事典の黄昏は、ネット化とともに訪れます。ブリタニカは、2012年に、書籍版の販売を終了しています。Wikipediaが、百科事典を殺した、と言われますが、正しくはありません。PCが家庭に入った段階で、終わっていたのだと思います。ビル・ゲイツは、早い段階から、百科事典の電子化を行い、PC普及のカードに使っていました。さらにグーグル検索によって、書籍版の百科事典は役割を終えたのでしょう。ただ、別な見方をすれば、使われることのなかった家具的百科事典に比べて、グーグル検索やWikiの方が相当に活用されています。ヴォルテールやルソーは、草葉の陰で、PCの時代になって良かった、と思っているかもしれません。(写真出典:aucfree.com)

2021年10月16日土曜日

下山事件

下山定則
下山事件は、占領下の1949年7月、国鉄総裁の下山定則が失踪、轢死体で発見された事件です。同月、無人列車が暴走・脱線し6名が死亡した三鷹事件、翌月、走行中の列車が妨害によって脱線し3名が死亡した松川事件と合わせ、国鉄三大ミステリーと呼ばれます。当時、外地からの帰還者で人員過多だった国鉄は、人員削減せざるを得ず、猛反発する労働組合と激しく対立していました。また、中国で共産党政権樹立が確実となり、GHQによる日本の占領政策は、民主化から反共へとシフトします。GHQは、日本社会から右翼を根絶すべく、労組や左翼をも利用していましたが、政策は真逆の方向へと転換されました。

下山事件は、当初から、自殺説をとる警視庁捜査一課や毎日新聞、他殺説をとる捜査二課と朝日新聞という対立構図の中で激論が交わされます。いずれの説も決め手に欠けたままでしたが、警視庁は、同年中に捜査を終了します。翌年、自殺説に立った警視庁の報告書が、リークという形で明らかになっています。以来、現在に至るまで、戦後最大の謎として、研究・分析が行われ、多数の書籍も出版されています。とりわけ有名なのが松本清張の「日本の黒い霧事件」です。松本清張は、独自の分析から、GHQ謀略説を唱えています。民主化から反共へと政策を転換したGHQ内部では、容共民主化政策を進めた民政局と反共拠点化を急ぐ参謀第2部との対立が激化していました。参謀第2部は、労組に濡れ衣を着せるつもりで下山を謀殺しますが、民政局を警戒して、自殺・他殺両面のシナリオを準備していました。他殺説に、GHQの関与が浮上しそうになったので、自殺説で幕引きを図ったという説です。

自殺説では、説明のつかない証拠が多すぎます。例えば、自殺直前に3時間休憩した旅館では、煙草好きの下山が1本も吸っていないこと。これは自殺を偽装する替え玉説の根拠となります。東大古畑教授による有名な死後轢断裁定。殺害された後、線路に置かれた可能性を示唆します。スーツではなく、下着にだけヌカ油が大量に付着していたこと。これは替え玉用にスーツを脱がされた後、監禁場所か移動の際に付いたものと想定できます。多数の血痕が、列車の進行方向に数百メートル発見されていること。殺害後に運ばれてきたを示すと思われます。靴に、いつもとは異なるメーカーの異なる色のクリームが塗られていたこと、等々があげられます。松本清張の推理で秀逸なのは、失踪直前の下山の不可解な行動の解釈です。詳細は省きますが、下山は偽装された情報提供者との接触を試みていたという推理は、実に納得性が高いと思います。

これだけ自殺を否定する証拠がありながら、強引に捜査を終了させた警視庁には、捜査上の制約と相当の圧力があったとしか思えません。報告書をリークという形で公表したのは、警視庁のせめてもの抵抗だったかも知れません。実行と隠蔽工作には、それなりの人数が関わっていると思われます。これほど時間が経てば、いかに巧妙にカバーアップされたとしても、綻びも生じ、口を割る関係者が出てきてもよさそうなものです。しかし、それは起こっていません。実行に際しては、分断された複数のチームが、個々のパートだけを担当したのだと思われます。しかも関係者は、既に殺されたか、朝鮮戦争の最前線に送り込まれて戦死したか、あるいは脅迫されていたのでしょう。今の日本では信じがたい話ですが、占領下、GHQが絶大な権限を持ち、参謀第2部のスパイ網が全国に張り巡らされていた時代を思えば、十分にあり得る話です。また、その後、何らかの文書が発見されるようなこともありませんでした。なぜなら、既に日本には存在しなかったからなのでしょう。

いかにGHQといえども、労組排除のためだけに、初代国鉄総裁を謀殺するでしょうか?下山は、技術系の高官でした。GHQは、国鉄の首切りを断行するにあたり、政治的な紐の付いていない人材として、下山の就任を許可したようです。下山も、大量罷免は覚悟のうえでの就任でした。ところが、下山は、GHQが要求する労組幹部や左翼をねらった罷免リストに難色を示し、業務の継続性確保という技術的観点から代案を出していたと言われます。技術系ならではのこだわりと言えます。何でも思い通りになると思っていたGHQ幹部にとって、下山は目障りな存在になりつつあったのでしょう。下山事件はじめ国鉄三大ミステリ-は、占領された国で何が起こるのか。ということを象徴しています。二度と占領などされてはいけない、と思ってしまいます。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年10月15日金曜日

海南チキンライス

シンガポールに行くなら、海南チキンライスのファンとしては、 名店「チャター・ボックス」は外せないと思い、勇んで出かけました。一番印象に残ったのは値段の高さでした。シンガポール名物のホーカーと呼ばれる屋台村なら、7~8皿は食べられる値段でした。とは言え、さすがにシンガポールで一番の有名店であり、厚みがあって、しっとりとした鶏肉は、ホーカーでは味わえない絶品ではありました。チキンライスは、あえて味や香りを抑えたと思われる上品な仕上がりでした。美味しいソースを活かすようにしてあるのでしょう。

シンガポール名物なのに、なぜ”海南”なのか、気になるところですが、中国の海南島出身の人たちが、故郷の味を懐かしんで作った料理ということのようです。海南島の名物料理”文昌鶏”が起源とも言われますが、まったく異なる料理です。つまり、海南チキンライスと言いながら、海南島には存在しない移民料理なのです。また、タイの”カオマンガイ”はじめ、インドネシア、マレーシアなど東南アジア一帯には、似たような料理が存在します。ただ、”海南”という地名が付いているのは、シンガポールだけです。恐らく、海南島出身者がシンガポールで作り、各地へ伝播していった料理なのでしょう。

海南チキンライスは、茹でた鶏肉、そのスープで炊いたタイ米、という組み合わせですが、手順、香辛料の使い方等で、微妙に異なる、様々なレシピがあるようです。もちろん、店によっても秘伝のレシピがあるのでしょう。値段の違いは、使う鶏肉の質と米の種類にあります。米は、タイ米を使うのですが、いい店では、高級なジャスミン米、カオホンマリを使います。香ばしさが違います。また、海南チキンライスに添えられるソースは3種類と決まっています。主に鶏飯にかけるダーク・ソイソース、鶏肉用のチリ・ソース、ジンジャー・ソースです。これも店によって味は異なりますが、店の評価に直結する大事な要素です。ちなみにカオマンガイは、味噌系のタレが主流です。

食べログに登録されているタイ料理店は、東京だけで650店を超えるそうです。タイ料理は人気で、カオマンガイ専門店も少なからずあります。一方、海南チキンライス専門店も増えました。海南鶏飯食堂、シンガポール海南鶏飯などは、複数の店舗を展開しています。なかでも、田町の「威南記(ウィーナンキー)海南鶏飯」は、シンガポールを代表する名店の東京支店です。シンガポール政府が国賓をもてなす際には、ウィーナンキーの海南チキンライスが饗されるとも聞きます。たまに海南チキンライスが食べたくなるのですが、ありがたいことに、シンガポールまで行かなくても、田町で上質なものが食べられます。ちなみに、この店舗、以前にはハノイで人気のきのこ鍋店の支店が入っていました。ハノイで食べたことがありますが、なかなか美味しい店でした。

それにしても、東南アジアには鶏肉料理が多いように思います。ユーラシア大陸北部は羊肉の文化で、欧州まで行くと牛肉が加わります。大型の家畜は、飼育するために広い土地が必要になります。対して豚や鶏、とりわけ鶏は狭い場所で飼育できますから、密林や湿地帯の多い東南アジアに向いています。さらに気温の高い東南アジアでは、大型肉の貯蔵には限界があり、小型な鶏が食用に適していたのではないか、と思います。また、ムスリムも多く、かつ歴史的にはムスリム商人との関係が深かったことも影響しているのかも知れません。(写真:威南記海南鶏飯 出典:tabelog.com)

2021年10月14日木曜日

さよならだけが人生だ

川島雄三
「さよならだけが人生だ」という言葉は、実によく知られています。唐代の詩人であった于武陵の五言絶句「勧酒」が原典ですが、井伏鱒二の訳詩集「厄除け詩集」の名訳で有名になりました。原典は「勧君金屈巵 満酌不須辞 花発多風雨 人生足別離」となっています。後半2行を直訳すれば、花開けば雨風多く、人生には別れ多し、ということになります。それを井伏鱒二は「ハナニアラシノタトヘモアルゾ 『サヨナラ』ダケガ人生ダ」と訳します。お見事の一言につきる名訳です。この言葉を愛した著名人は数多くいますが、日本を代表する映画監督の川島雄三も、その一人です。川島の弟子であった藤本義一や今村昌平が、夭折した師匠を追悼した本のタイトルにも使われています。

川島雄三は、1918年、青森県下北半島のむつ市に、老舗酒店の息子として生まれます。明治大学卒業後、松竹に入社しますが、当時、既に難病の筋萎縮性側索硬化症を患っていました。小津安二郎や吉村公三郎の助監督を務め、1944年、26歳にして、織田作之助原作の「還って来た男」で監督デビューしています。オダサクとは、生涯の親友になっています。戦後は、会社指示に基づくコメディ映画を量産します。その当時の作品にも、川島の天才ぶりは見て取れますが、川島にとって、この時期は自らの映画文法を磨くいい機会だったのでしょう。1954年には日活へ移籍します。言ってみれば、噺が上手いと評判の二つ目が、いよいよ真打ちに昇進したようなものです。以降、川島雄三の名を映画史に残す傑作を生み出していきます。

川島雄三のベストは何か、という話は、映画好きが喜ぶテーマの一つです。ただ、日本映画を代表する傑作「幕末太陽伝」(1957年)だけは、いつも別格扱いです。太陽伝は、オールタイム・ベスト企画でも、常に上位にランクされています。落語の「居残り佐平治」を主に、他の噺や幕末の世相も重ねた、川島オリジナル脚本のコメディです。テンポの良さ、スムーズな演出、しっかり組み立てられた映像など、日本映画とは思えないほど洗練されています。また、フランキー堺の名演なしには成立しなかった作品でもあります。フランキー堺演じる佐平治の世渡りのうまさには、労咳病みという影があり、厚みのある喜劇になっています。精力的に多くの映画を撮り、夜ごと、大酒をくらって生きた川島ですが、常に難病という死の影と共にあった自分自身が投影されているのでしょう。「さよならだけが人生だ」は、川島の覚悟のあり様とも言えます。

太陽伝には、数々のエピソードがありますが、最も有名なのは幻のラスト・シーンという話です。太陽伝は、撮影当時の品川の赤線地区の映像から始まります。同様に、川島が構想したラストは、佐平治がスタジオから現代の街へと駆けだしていく映像だったようです。フランキー堺はじめ周囲の猛反対でボツになっていますが、フランキー堺は、生涯、反対したことを悔やんだと言います。佐平治は、時代の環境に左右されながらも、たくましく生きる江戸庶民の姿であり、それは戦後の混乱期の大衆にも受け継がれます。好きなセリフがあります。佐平治が、石原裕次郎演じる高杉晋作に「だんなはお侍には惜しいねェ」と言うと、高杉晋作は「世辞を申すな」と返します。これこそ、川島雄三流の民主主義なのでしょう。

太陽伝の幻のラスト・シーンは、多くの映画人に影響を与えていると言われます。川島の弟子の今村昌平は「人間蒸発」で、川島と同郷の寺山修司は「田園に死す」で、実現させています。また、最近では、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」のラストで、あれっ、と思わされました。どうやら、庵野秀明は、昔から、太陽伝がやりたい、と言っていたようです。映画人たちが抱くテーマは、煎じ詰めていけば、普遍性を持つに至ります。ストーリーが持たざるを得ない時空の制約を超えて、それを直接的に映像化したいと思うのは、映画人に共通する想いなのでしょう。(写真出典:cinra.net)

2021年10月13日水曜日

梁盤秘抄#18 Chronicle

アルバム名:Chronicle, Vol. 1 (1976)                                             アーティスト名:Creedence Clearwater Revival

今風の音楽が流れる若者の車に乗ったクリント・イーストウッドが「本物の音楽をかけろ」と言います。若者は「本物の音楽って?」と聞きます。イーストウッドは、やや間をおいてから「CCR」と答えます。思わず吹き出してしまいました。実は、何の映画だったか思い出せないのですが、やたら印象に残っています。CCR、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルは、1968~1972年という短い活動期間に、数々のヒット曲を生み出した伝説のバンドです。サンフランシスコ出身ながら、南部の匂いが濃い、いわゆるスワンプ・ロックの代名詞的バンドです。クリント・イーストウッドは、アメリカの大衆、特に田舎者を喜ばせることに関しては天才です。”CCR”の一言で、映画館は、”イェー”の掛け声とともに、拍手喝采の大騒ぎになったはずです。アメリカの地方にあって、CCRは、いまだ絶大な人気を誇ります。

”Chronicle”は、解散しても一向に人気が衰えなかった1976年に発売されたベスト・アルバムです。CCRのアルバムとしては、アメリカだけでも600万を超すという最大のセールスを記録しています。CCRは、1959年、ジョン・フォガティと2人の同級生によって結成されたバンドから始まります。そこにジョン・フォガティの兄が加わり、1968年、デイル・ホーキンスの「スージーQ」のカバーでデビューしています。ジョン・フォガティの一度聞いたら忘れないほど力強いヴォーカル、耳に馴染みやすいメロディ、単純なリズム、キレの良いギター等が、大ヒットにつながりました。続いてリリースされたスクリーミン・ジェイ・ホーキンスのカバー「アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー」もヒットします。R&B色が強いスタートでしたが、それ以降は、カントリー色の強いジョン・フォガティのオリジナル曲が立て続けにヒットしていくことになります。

リリースしたシングルの約半数が、ビルボードのトップ10以内という驚異的なセールスにも関わらず、CCRは、一度たりともビルボード1位を獲得していません。誰もが知っているCCRの大ヒット曲でも2位どまりであり、それが5曲もあります。その都度、強力なライバル曲が存在し、かつ人種構成も影響していたのかも知れません。また、CCRの曲は、瞬間爆発型ではなく、じっくり順位をあげるタイプだったとも言えます。絶大な人気を誇ったヒット・メーカーが、なぜ4年で解散したのかは疑問です。。ヴォーカル、リード・ギター、作詞・作曲を担当するジョン・フォガティばかりが目立ったことで、バンド内に不協和音が生まれ、修復出来なかったと言われています。解散後、ジョン・フォガティは、ソロ活動を始めますが、なかなか思い通りにはいきませんでした。ただ、85年には、アルバムがビルボード1位となり、97年にはグラミー賞も獲得しています。

90年頃。中西部で、地元のアメリカ人と昼飯を食べているとき、店内に「プラウド・メアリー」が流れてきました。CCRは、一番アメリカ的なバンドだよね、と言うと、彼は「皆、この曲でカウボーイ・ダンスを踊るんだ。南部じゃ、アメリカ国家よりもポピュラーだよ」と言っていました。ただの誇張とも思えませんでした。また、私が一番好きなCCRの曲は「雨を見たかい」ですが、人生のなかで、たまに出くわす厳しい現実と天気雨をかけた歌です。ただ、当時、雨とは、ヴェトナム戦争で米軍が多用したナパーム弾の比喩であり、この曲はヴェトナム反戦歌だと受け取られていました。本人達は、これを否定しています。どちらの話もCCR的であり、やはり最もアメリカらしいバンドだったように思います。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年10月12日火曜日

「コレクティブ」

監督:アレクサンダー・ナナウ    2019年ルーマニア・ルクセンブルグ・ドイツ

☆☆☆+

ルーマニアの腐敗の深刻さに、ただただ驚くばかりです。政治が国民を、医療が患者を犠牲にしてまで、蓄財に走る様には、身の毛がよだちます。本作のジャーナリスティックな存在感は、映画の域を超えているとも言えそうです。2015年、ブカレストのライブハウス「コレクティブ」で火災が発生。出入口が一つしかなかったことで、27人が焼死します。さらに、救助された180人のうち37人が入院先の病院で死にます。出入口が一つという店の営業を許可していた行政の問題もありますが、軽度の火傷だった患者も含めて、なぜ多くの人が病院で死亡したのかという疑問が浮かびます。

そんななか、死亡した人々は、火傷で死んだのではなく、皆、感染症で死んでいる、という内部告発が、スポーツ新聞に寄せられます。記者達が調べると、病院で使われている消毒薬が粗悪で、かつ病院はそれを10倍に薄めて使っていたことが判明します。火傷の最大の敵とされる感染症が、院内感染で広がっていたのです。消毒薬を製造していた製薬会社は、キプロスに設立したダミー会社に原材料を仕入れさせ、それを7倍の価格で調達していました。そうして生み出した不正利益を、政府、病院への賄賂の財源にしていたという疑惑が生じます。製薬会社社長は、取り調べを受けた直後、謎の事故死を遂げます。欧州水準の医療が公平に施されている、と言い続けていた社会民主党政権は退陣を余儀なくされます。

暫定政権下で、新たに任命された保健相は、密着取材を許可します。そのこと自体、極めて異例ですが、保健相は、透明性確保という観点もさることながら、腐敗した政治家や病院経営者たちとの戦いに保険をかけたのではないかと考えます。事は、それほど深刻だったわけです。新たな内部告発者たちも現れ、病院経営者たちによる患者を無視した蓄財が明らかになっていきます。巻き返しを図る社会民主党は、肺の移植手術の認可に関する根拠のない批判をもって、保健相を非難し、おりから行われた総選挙で大躍進、政権を奪還します。社会民主党は、独裁者チャウシェスクの取り巻きだった政治家の集団です。腐敗の温床どころか、腐敗の量産工場とも言える政党です。

とは言え、社会民主党は、国民から絶大な支持を得ています。2019年、司法の権限を弱めようとした社会民主党の大統領が、汚職の実刑判決を受け退陣しています。ところが、翌年行われた選挙で、社会民主党は勝利し、再び政権の座に返り咲いています。信じがたい話です。選挙での強さは、分かりやすいバラ撒き政策を公約に掲げていることによるものなのでしょう。そして、それ以上に、社会の底辺にまで根を広げた腐敗構造により、社会民主党と利権を共有し、かつ一定の社会的影響力を有する者が多数存在するからなのではないかと推察します。どうしようもない状況に陥っているとしか言いようがありません。しかも、それはルーマニアに限らず、旧東欧諸国にありがちな構造でもあります。

永らく共産党独裁政権が続き、そこで育った政治家や官僚には、腐敗という習い性が、拭いきれないほど染みついているのかも知れません。別な言い方をすれば、いまだ民主主義が定着どころか、理解すらされていないとも言えます。旧東欧諸国の腐敗した政権は、得てしてロシアの支持や支援を受けています。民主主義、自由主義が完璧だとまでは言いません。そこにも腐敗は存在します。ただ、それを是正する仕組みを持っています。しかし、独裁政権は、構造的に腐敗を生み出し続ける体制だとしか思えません。”絶対的権力は絶対的に腐敗する”というアクトン卿の言葉は、いまでも絶対的に正しいと思うわけです。(写真出典:eiga.com)

2021年10月11日月曜日

新版画

川瀬巴水「芝増上寺」
川瀬巴水と言えば、代表作「東京二十景」の「芝増上寺」や「馬込の月」が、世界的にもよく知られています。巴水は、吉田博とともに、浮世絵の伝統を、”新版画”として、明治・大正の世に受け継ぎ、かつその魅力を世界に発信しました。浮世絵は、 制作サイドの絵師・彫師・ 摺師と、プロデューサーとしての版元が協同して作品を作りあげます。作家が、全ての工程をこなす西洋的な”創作版画”に対して、工房制の新版画は、商業主義的、画一的との批判がされます。これはおかしな議論だと思っています。例えば、舞台芸術等も、すべて否定されることになりかねません。作品は、あくまでも作品であり、単に制作過程の違いがあるに過ぎないと思います。

西新宿のSONPO美術館で、川瀬巴水回顧展を見てきました。初期の作品から網羅的に展示されていて、見応えがありました。数年前に久留米の旧石橋美術館で吉田博の回顧展を見ましたが、それに匹敵するような充実ぶりだと思います。川瀬巴水は、1883年、芝の糸屋に生まれ、家業を継ぎながら、画家を目指します。一度は断念したものの、想いは強く、鏑木清方に弟子入りします。巴水が日本画から始めたことは、吉田博の洋画スタートと好対照だと思います。もっとも、巴水は、一時期、岡田三郎助に師事したようですが、洋画に馴染めず、日本画に戻ったようです。アプローチは異なっても、二人は風景画で名を成していきます。二人が新版画の世界に入ったきっかけは、ともに版元の渡辺庄三郎との出会いでした。

この渡辺庄三郎こそ、新版画という分野を切り開き、一時代を築いた大立役者でした。大正の蔦屋重三郎とでも呼びたくなるような人です。12歳で質屋の小僧となった庄三郎は、貿易商を目指し、英語の勉強をしていたようです。それも幸いしたか、横浜の外国人相手の美術商に勤めることになり、浮世絵の世界に入っていきます。後に独立して「渡辺版画店」を開くことになりますが、欧米におけるジャポニズム・ブームに乗って、商売は繁盛したようです。庄三郎は、浮世絵を扱うばかりでなく、合いそうな絵を錦絵のシステムを使い、版画化していきます。これに興味をもった伊東深水が参加したことで、新版画が確立されていきました。つまり、新版画は、その誕生経緯からして、当初から海外に目が向いていたとも言えるわけです。

風景画が確立されたのは、17世紀オランダでのことだっただと言われます。風景画では、木々の緑もさることながら、空と雲が重要なモチーフとなります。そこでは、光をどう捉えるかが絵の出来を左右します。もっと言えば、私は、空気感こそ風景画の命ではないか、と思っています。油絵でも、水彩でも、空気感が絵を超えて広がっている作品こそ良い風景画だと思います。新版画は、空気感の表現に、実によく適しているように思います。例えば、吉田博の「フワテプールシクリ」は大好きな版画ですが、空気そのものが画題なのではないか、とさえ思います。巴水の代表作には、夜の静寂、雪や雨の風情が描かれているものが多いと思います。建造物もさることながら、やはり空気感を描きたかったのではないか、とさえ思えます。

1984年に発売されたアップルのマッキントッシュ初号機が、プレゼンに際し、最初に映し出したのは、橋口五葉の新版画「髪梳ける女」でした。これは、スティーブ・ジョブスにまつわる様々な伝説の一つとなっています。ただ、ジョブスが川瀬巴水のコレクターであったことは、今回の回顧展で初めて知りました。ダイアナ妃が、吉田博の版画を愛好していたことを思い出しました。エキゾチシズムもあるのでしょうが、新版画が海外で愛される本当の理由は、西洋絵画にはない、その空気感の表現にこそあるのではないかと思います。(写真出典:asahi.com)

2021年10月10日日曜日

コロニア

逮捕後のシェーファー
コロニア・ディグニダ(尊厳の共同体)は、チリ南部の内陸に存在したドイツ人によるカルト教団です。元ナチス党員の衛生兵だったパウル・シェーファーが、第二次大戦後、バプテスト教会と孤児院を設立したことから始まっています。シェーファーは、小児性愛者でした。少年たちに対する性的虐待で有罪となったシェーファーは、1961年、信者とともにチリに渡り、コロニーを建設します。山手線の内側とほぼ同じという広大な土地を開墾し、禁欲的な自給自足生活をおくります。コロニーは、閉鎖的な独立国家のような存在になっていきます。しかし、実体的には、シェーファーによる暴力的支配のもと、重労働が強制されていました。また、シェーファーは、自分への依存を高めるために、家庭を壊し、男女、大人子供を別々に共同生活させました。その間、シェーファーによる少年達への性的虐待が続けられます。

とは言え、コロニア・ディグニダは、原始的な生活を送っていたのではなく、近代設備や機械を欧州から導入し、工場、鉱山、病院、空港まで保有していました。1973年のチリ・クーデター後は、ピノチェト政権と親密な関係を築き、武器の製造や不法取引の仲介まで行います。また、軍や秘密警察から300人を超すと言われる左翼活動家の拷問・処刑を請け負ってもいました。また、ナチス残党の一大拠点でもあったアルゼンチンとは地理的にも近く、南米におけるナチス・ネットワークの拠点の一つだったという疑惑もあります。実際に、アウシュビッツで人体実験を繰り返していたヨーゼフ・メンゲレを匿っていたという事実も確認されています。また、本国ドイツで、コロニア・ディグニダを支援する組織を立ち上げたのは、ナチスの残党として知られる武器商人のゲルハルト・メルティンズでした。

シェーファーは、何度か告発を受けますが、チリやドイツの政財界、法曹界に張り巡らしたネットワークによって守られます。チリのドイツ大使館がシェーファーに便宜を図っていたことも明らかになっています。しかし、ピノチェトが退陣し、影響力を失っていた1997年、少年達に対する性的虐待で告発されたシェーファーは、アルゼンチンに逃亡。2005年には逮捕され、2010年、獄中死しています。シェーファーの死後、コロニア・ディグニダは名前を変え、オープンな教団として運営され、宿泊施設やレストランも備えたレクリエーション施設も営業しています。ただ、チリ政府は、シェーファーの性的虐待は裁いたものの、他の犯罪に関しては沈黙を守っています。被害者の家族達が、実態解明を要求していますが、いまだ明らかになっていないことも多くあります。

2016年には、エマ・ワトソン主演、フローリアン・ガレンベルガー監督の「コロニア」がリリースされています。コロニア・ディグニダのカルト教団としての恐怖を背景としたフィクションでした。また、最近、元信者たちの証言に基づくNetflixのオリジナル・ドキュメンタリーもリリースされました。こちらは、主に少年達への虐待がテーマとなっていました。不思議なことに、いずれの作品も、ナチスとの関係について、ほとんど触れられていません。そこを深掘りしようとすれば、チリやドイツの政財界とシェーファーとの関係に踏み込まざるを得ません。ただ、両国政府が明らかにしていないことも多い現状では、エビデンス不足ゆえに有力者から名誉毀損で訴えられる可能性が高く、描き切れなかったのだと思います。

私が、どうにも理解できないのは、その豊富な資金の出所です。後に武器の不正取引や産業面で得た収入は理解できるとしても、設立当初から欧州風の建築や近代的な設備の導入を可能にした潤沢な資金は、どこから出たのか疑問と言わざるを得ません。チリ政府の支援もあったのでしょうが、やはりナチス・ネットワークとの関係なしには理解できない面があります。犠牲になった人々の無念を晴らすためにも、我々が歴史から教訓を得るためにも、戦後のナチス・ネットワークに関する疑惑解明は徹底されるべきだと思います。(写真出典:nbcnews.com)

2021年10月9日土曜日

交渉術

Church's
近年でこそ、ビジネス上の交渉術に関する本は増えましたが、かつては、あまり見かけませんでした。恐らく、企業同士の交渉は、個人の裁量が少なく、組織的に行われることが多かったからではないかと思います。つまり、トップ同士の交渉でもない限り、交渉の場のやりとりで、物事が決することが少なかったからなのでしょう。交渉、折衝に関する心得としては、テクニックよりも、誠実であれ、といった精神的な面が強調される傾向もありました。1980年代、アメリカで仕事を始めると、交渉術の大事さを痛感することになります。というのは、企業の従業員でも個人の権限・裁量が大きい米国人と交渉する際、こちら側も一定以上の権限を持って交渉に臨む必要があったからです。 

ビジネス上、交渉が大きなウェイトを占めるアメリカ社会では、学んだか否かは別として、多くの人が、交渉術に長け、独自のテクニックも持っていました。NYのビジネス社会において、交渉は、話し合いの前に始まっています。例えば、服装です。パリッとしたスーツは当然としても、意外と大事なのが靴でした。いかにも高そうな靴で、自分は有能な高給取りであることを示し、相手を飲み込もうというわけです。かつて「ローズ家の戦争」(1989)という映画で、ダニー・デヴィートが「男の価値は、妻、家、車、靴を見れば分かる」と言っていました。女性幹部たちの靴も同様です。ちなみに、いわゆるキャリア・ウーマンたちは、重要なミーティングに臨む際、ブランド物の真っ赤なスーツ等といった勝負服をよく着用していました。

当時の日本では、仕事のできる奴は、服装にこだわらないといった風潮すらありました。何も、アメリカ東部の文化に合わせる必要など無いのですが、交渉を有利に進めるため、私も服装に気を使うようになりました。また、具体的な交渉に入る前の会話でも、スノッブぶりは炸裂します。例えば、天気の話から、さりげなくヨットでのクルージング、会員限定コースでのゴルフの話などが展開されます。また、著名な財界人のハウス・パーティに参加した話などで、自分がいかに重要人物であるかを示そうとしたりします。いずれにしても、俺は、お前より上の人間だと言いたいわけです。いかにも東部エスタブリッシュメントらしい、階級社会的でスノッブな文化です。仕事には、まったく関係ありませんが、彼らにとっては意味のあることなわけです。

具体的な折衝に入ると、ダブル・バインド、ミラーリング等々、よくあるテクニックが繰り出されます。彼らが、日本人向けに有効だと思っていたのは、バンド・ワゴンだったと思います。要するに、80%の企業がこれを選んでいますよ、ライバル会社もこれを使っていますよ、といったセールス・トークに多いパターンです。確かに有効だったと思います。東京本社を説得する際、これは実に効き目があったからです。いずれにしても、テクニックを駆使して交渉を勝ち抜く、という姿勢を全否定するつもりはありませんが、それは決して本質的なものではありません。基本的に、交渉は、互いの妥協点を探るために存在すると言えます。妥協は不満しか生み出しません。よって、交渉は、互いの不満の最小化や緩和をねらうものだと言えます。

交渉の大原則は、選択肢をより多く持っている側が有利だということです。ですから、交渉に際しては、靴も磨いた方がいいとは思いますが、当方および先方の目指すところを本質的なレベルで把握し、先方の出方も様々予測したうえで、複数の選択肢を持って臨むことが最も重要だと言えます。準備すべき選択肢のポイントは、双方に、何らかの形で将来的なメリットが生まれる可能性を持たせることだと思います。分かりやすい例としては、短期的には不利な条件でも、中長期的には収支への貢献が見込める、といったものです。別な言い方をすれば、妥協は妥協ながら、上司や関係者を説得できるストーリーがある妥協策ということです。そのような理解に勝る交渉術はないのではないかと思います。(写真出典:item.rakuten.co.jp)

2021年10月8日金曜日

渋滞

Jakarta Traffic Jam
グリッドロック という言葉を初めて聞いたのは、10年ほど前のジャカルタでした。通常、グリッドロックとは、交差点に進入した車が、渋滞のために交差点内で停止することによって、交差するいずれの道でも車の流れが止まる現象を言うようです。交差点付近が混雑している場合、先行車が交差点を出て、かつスペースが生まれない限り、交差点に進入してはいけないというのが交通ルールです。ルールが守られている限り、グリッドロックは発生しません。ジャカルタで聞いたグリッドロックは、多少異なりました。ジャカルタでは、街中の自動車を縦に並べた長さが、道路の総延長距離と等しくなっているというのです。それをグリッドロックと呼んでいました。むしろデッドロックじゃないか、とも思いました。

ジャカルタの渋滞は、バンコック、メキシコ・シティと並んで、世界三大渋滞とも言われるようです。確かに異常なレベルでした。一人あたりのGDP(国内総生産)が3,000ドルを超えると、モータリゼーションが起こると言われます。インドネシアも同様でした。要は、急速なモータリゼーションに、ジャカルタのインフラがついていけなかったわけです。先進国は、皆、経験してきたことです。かつて東京も同じでした。東京は、1964年の東京オリンピックを機に、首都高速道路を中心とした交通インフラの整備を、一気に進めました。ジャカルタも、オリンピック等、国際的大イベントを誘致したらどうですか、と現地の人たちに言ってみました。そこまでの資金はない、というのが皆さんの回答でした。しかし、東京も潤沢な資金があったわけではなく、国際借款でオリンピック準備を行っています。

高速道路で渋滞に巻き込まれると、いつも思うのが、渋滞の先頭はどうなっているのか、ということです。工事や事故による渋滞は別として、自然渋滞が発生する主な要因は、高速道路では坂道、一般道では信号だと言われます。坂道では、ドライバーが意識せずともスピードが落ち、それが連鎖して、結果渋滞が発生するというメカニズムです。また、高速道路の渋滞が、追越車線から始まるという傾向も、よく知られています。これは、交通量が多い時、頻繁に車線変更する車が現れると、後続車がブレーキを踏むことが多くなり、結果、渋滞を引き起こすのだそうです。確かに、私も、混雑時、急いでるわけでもないのに、ついつい車線変更を繰り返すことがあります。

かつて、ひどい渋滞の時には、どうせチョボチョボとしか進まないのだから、アクセルとブレーキ、そしてハンドルから解放されたいと思いました。昨今、自動運転が、限定的ながら導入され、それが実現しつつあります。そもそも自動運転が進むと、渋滞も無くなるのではないかと思っています。とりあえず高速道路に限っての話ですが、車の自動運転システムと、高速道路全体を管理するシステムがリンクすれば、渋滞も事故も発生しないものと思われます。ゆくゆくは、全ての道路を、そのシステムがカバーすることもあり得ます。ただ、そうなると、車を運転する楽しみはなくなり、実につまらないものになります。列車に車を積んで輸送しているのと大差ありません。それは、もう自動車ですらなく、自動車の時代は終わりを告げるということなのでしょう。

15年ほど前に、デンソーのショー・ルームを案内してもらったことがあります。その高い技術力に驚かされました。中でも印象に残ったのは、交差点で、建物の影になって見えていない歩行者や車を可視化する技術でした。ここまで技術が進めば、もう空飛ぶ車を開発した方が早いんじゃないですか、と冗談のつもりで話したら、デンソーの方は、笑うこともなく、何の返しもありませんでした。車に関する技術的進化が、自動車産業の首を絞めることになるというアイロニーを分かっているんだろうな、と思いました。(写真出典:jakartaexpart.id)

2021年10月7日木曜日

銀座の底力

明治後期の銀座
かつて銀座2丁目の伊東屋の裏に「八眞茂登」 という戦後を感じさせる佇まいの食堂がありました。名物は「ベトナム・ラーメン」。醤油ベースのラーメンの上に、醤油漬けにしたニンニクが房のまま乗っていました。ベトナム料理とは思えなかったので、名前の由来を聞いたことがあります。発売当時はベトナム戦争が激しかった頃で、”なんかすごい”ラーメンという意味で命名したということでした。確かに、なんかすごいのですが、味としは凡庸でした。その後、伊東屋が拡張した新しいビルを建てると、八眞茂登は、そのビルの地下に入り、姉妹店も出来ました。ニンニクの醤油漬けは、食べにくいということで、荒く刻んだものに変わっていましたが、ベトナム・ラーメンは健在でした。ただ、10年くらい前に閉店し、姉妹店も今はありません。

私は、ベトナム・ラーメンに、銀座の底力を垣間見たように思っていました。老舗が軒を並べ、表通りには欧州ブランドの旗艦店がひしめく銀座は、伝統を守るとともに、常に時代の新しい流れを取り込み、鮮度の高さを確保してきました。これが銀座というブランドの強さなのだと思います。それは老舗の皆さんのご努力の賜物でもありますが、銀座の歴史が形成した街の特性でもあります。江戸幕府開闢の頃、銀座周辺は江戸前島と呼ばれる砂州でした。江戸城との間には、日比谷入江が広がっていましたが、これは埋め立てられ、武家屋敷となります。江戸前島は、町人地として整備され、銀の貨幣を鋳造する銀座が置かれます。能楽堂等も建てられましたが、基本的には幕府御用達の職人町になっていきます。商店が軒を並べ、庶民で賑わう日本橋や京橋とは大違いの地味な町だったわけです。

明治初期、大火で焼かれた東京の町を、明治政府の都市計画が作り変えていきます。新橋停車場と日本橋の間に位置する銀座は、文明開化を象徴するレンガ街として整備され、商店の進出が始まりました。とは言え、依然として庶民の繁華街は日本橋・上野あたり、歓楽街は浅草でした。銀座の商店の顧客は、主に華族等の上流階級、そして役人等の中流階級でした。政府肝いりのハイカラな町だったこと、そしてアッパー・クラスの住居が赤坂、番町といった山の手にあったからなのでしょう。ここで銀座という町の特色が生み出されました。銀座の百貨店や老舗を支えるコアな顧客は、家族三代、四代と続く贔屓客であり、なかには皇族も含まれます。これが、銀座ブランドのコア・コンピタンスなのでしょう。

大正期には、東京駅が開業し、市電も開通したことにより、銀座には、百貨店や劇場が進出します。それに伴い、カフェーが花盛りとなり、モボ・モガが闊歩するという、進歩的な繁華街の一面を見せ始めます。ブランドの鮮度を保つという伝統が生まれたわけです。戦後は、周辺開発も進み、銀座は順調に日本一の繁華街として成長していきます。ただ、東京の人口が増え、郊外への拡張が進むのに伴い、新宿、池袋、渋谷といった私鉄のターミナル駅を擁する街が勢いを増していきます。相対的に銀座は地盤沈下していきました。それを救ったのが、欧州ブランドの路面店だったと言えます。海外旅行が一般化し、海外ブランドが人気を博していました。地盤沈下で経営が悪化した老舗の跡地が、ブランドの旗艦店へと変わっていき、銀座は、これまでとは異なる輝きを獲得します。それが爆買中国人を引きつけることにもなりました。

銀座は、夜の街としての顔も持ちます。戦後から50年代中頃までは、文化人や政治家が集う夜の社交場でした。それが高度成長期からは、接待中心の社用族の街へと変わり、文化人たちは「銀座も変わったもんだねぇ」と嘆きながら去って行きました。バブル崩壊後、接待の街には新宿等からキャバクラ系の店が進出してきます。そもそも交際費を減らされていた社用族は「銀座も落ちたもんだねぇ」と嘆きながら去って行きました。社用族の端くれだった私も、同様の印象を持っていますが、ただ、それはそれで、新しい時代の流れを取り込んで変貌していく銀座の本質だとも思えます。新旧が混在する街銀座ですが、これからも”高級”ではなく”上質”という言葉を大事にしていってもらいたいものだと思います。(写真出典:kodokei.com)

2021年10月6日水曜日

ヒュパティア

ヒュパティア
世界三大発明と言えば、火薬・羅針盤・ 活版印刷のことです。いずれも中国で発明されていますが、15~16世紀の欧州を大きく変えたという意味で三大発明と呼ばれます。羅針盤は、11世紀の中国で実用化されています。それが欧州に伝わり、航海のあり方を大きく変え、大航海時代につながります。人類にとっては、まさに歴史的大発明だったと言えます。それまでの航海は、陸の目印を頼りにするか、星を頼りにしていました。陸を遠く離れた航海も、曇り空が続く航海も、不可能だったわけです。そんな時代、航海するうえでの必需品は、アストロラーベ(天体観測器)とクワドラント(四分儀)でした。

アストロラーベは、現代の星座早見盤に、アナログ計算器がセットされたようなものです。天体の高度や方位を把握し、それによって、方角、時間、距離等を割り出すことができます。古代における天文学の粋が詰まっていると言えるのでしょう。4~5世紀頃の地中海東部では、既に実用化されていたようです。その後、アストロラーベは、天文学が盛んだったオリエント、イスラム世界で進化を続け、西欧には、11世紀頃に伝わっています。アストロラーベは、紀元前2世紀に、ギリシャの天文学者ヒッパルコスが発明したという記述もありますが、アレクサンドリアの哲学者・数学者・天文学者ヒュパティアが、4世紀に発明したとする文献もあるようです。恐らく、原型をヒッパルコスが開発し、ヒュパティアが、それを精緻化、実用化したということなのでしょう。

アレクサンドリアのヒュパティアは、アレクサンドリア図書館の最後の館長にして、哲学者・数学者・天文学者だったテオンの娘として生まれ、幼少期から英才教育を受けました。アレクサンドリア図書館は、古代社会における世界最大級の図書館であり、ムセイオンと呼ばれる学堂でもありました。古代の英知の宝庫は、カエサルが防衛のためにアレクサンドリアに放った火によって焼失したとされます。ただ、実際には、その後も、かつての規模には及ばないものの、運営されていたようです。アレクサンドリア図書館の姉妹館として残存していたセラペウム図書館が、異教徒の神殿であるという理由で、キリスト教徒によって破壊され、図書館とムセイオンの歴史は終ります。

3~4世紀、ローマ帝国とキリスト教は、大きな変化の時代にありました。帝国は4帝支配を経て、西ローマと東ローマに分裂します。キリスト教は、迫害を受けながらも信者を増やし、コンスタンティヌス1世によって公認され、テオドシウス1世によって国教化されます。勢いに乗ったキリスト教徒は、他宗教への弾圧を強めます。そのなかで、新プラトン哲学を講義するヒュパティアの科学的姿勢は、神を冒涜するものとしてキリスト教徒の怒りをかいます。公会議の論者でもあったアレクサンドリア総主教のキュリロスとその一派は、ヒュパティアを誘拐し、蠣の貝殻を使って、生きたまま彼女の肉をそぎ落とすという残虐な方法で殺します。

一神教の恐ろしい暴走ですが、さすがにキリスト教内部でも、これは批判され、キュリロスは失脚します。また、これを機に、アレクサンドリアでは、古代からの知恵を継承する研究が認められています。キリスト教徒を激怒させたというヒュパティアの「真実として迷信を教えることは、とても恐ろしいことです」という言葉が残っています。すべては神が創りたもうた、と言った瞬間、科学は、その歩みを止めます。科学に誠実であったヒュパティアは、その死をもって、一神教の暴走に歯止めをかけ、学問の継承を確保したとも言えます。加えて言えば、一神教における女性差別という面にもつながる象徴的な事件だったとも言えるのではないでしょうか。(写真出典:kyoto-inet.or.jp)

2021年10月5日火曜日

ドーナツ

ゼッポレ
NYのリトル・イタリーは、30年前ですら、 縮小気味で、隣接するチャイナ・タウンに取り込まれつつありました。それでも「グロッタ・アズーロ」といった人気レストランもあり、奥のテーブルにマフィアっぽいおじさん達がたむろしている店もありました。さびれたリトル・イタリーが、年に一度、異常に盛り上がるのが、サン・ジェナーロの祭りです。売り物を連呼する露店がずらりと並び、狭い道は人でごった返し、その中を素朴な楽隊を従えたサン・ジェナーロの像が練り歩きます。まるで、イタリアの田舎町のお祭りに迷い込んだかのようでした。私も、毎年、楽しみにしていましたが、お目当ては、なんといっても生ソーセージのサルシッチャのBBQ、そしてイタリアのドーナツ「ゼッポレ」でした。

ドーナツに類した揚げ菓子は、世界中に存在するようです。どこでも、お祭りの際に食べる、いわゆるフェスティバル・フードだったようです。油も砂糖も貴重なものだったでしょうから、理解できる話です。食べたことのあるドーナツ類のなかで、私が一番好きなのはゼッポレです。イタリア系の人に聞いた簡単な作り方は、スーパーで売っているピザの生地を揚げ、粉砂糖をかけるというものです。これで十分に楽しめます。日本でも一般的なアメリカ式ドーナツは、母親が揚げたドーナツで馴染んでいたにも関わらず、あまり好みではありません。アメリカ人は、ドーナツが大好きです。日本のお握りに相当するような気がします。NYでは、朝食にドーナツを食べる人が大半を占めます。朝のミーティングでは、会議室にドーナツとコーヒーが置いてあるのが定番でした。ただ、私は、一度も手を出したことはありません。

ドーナツの起源は、オランダのオリボーレンだと言われますが、揚げ菓子自体は、古くから世界中にあったと思われます。オリボーレンは、ピューリタンが持ち込んだアメリカ式ドーナツの起源ということなのだと思います。オリボーレンは、丸く揚げて、上にクルミを乗せていたことから、ドー(生地)ナッツ(木の実)となったようです。アメリカ式ドーナツを特徴づけるは、なんと言ってもリング状のドーナツです。公式的には、19世紀半ば、船乗りのハンソン・グレゴリーという人が、火の通りを良くするために穴をあけたとされています。アメリカで、ドーナツが普及したのは、第一次大戦の際だったとされます。慈善団体などが、兵士への慰問の一環としてドーナツを無料配布したことがきっかけだったそうです。その後、ドーナツ・ショップが全米でフランチャイズ展開し、種類も様々増えて、アメリカのドーナツ文化ができあがります。

ドーナツと言えば、アメリカの警察官の大好物というイメージがあります。映画やTVのなかで、警察署には、いつもドーナツが置いてあり、勤務中にも街で頬張り、差し入れの定番もドーナツといった具合です。そのせいか、アメリカの警察官は、太った人が多いように思います。映画のなかの警察署のドーナツと言えば、クリスピー・クリームのドーナツが多いように思います。ただ、警察官とドーナツというイメージを作ったのは、世界最大のドーナツ・チェーンであるダンキン・ドーナツでした。店に立ち寄った警察官には無料でドーナツを提供するというキャンペーンを行ったことから、イメージが定着したのだそうです。なかなかうまい手です。警察官が、よく来る店となれば、セキュリティ上は極めて安心。ドーナツで警備会社を雇ったようなものです。

世界のドーナツ類と言えば、ゼッポレの他にも、フランスのベニエ、ドイツのクラップフェン、スペイン発祥のチュロス、ポルトガル発祥ながらハワイで有名なマラサダ等々が、よく知られています。お菓子好きのアラブにも揚げ菓子は多数あります。そして、沖縄のサーダーアンダギーも、忘れてはいけません。起源ははっきりしませんが、中国の開口笑というお菓子が琉球に伝わったものだとされます。縁起ものとされ、祝いの席にも出されるようです。日持ちすることから、沖縄土産の定番でもあります。ただ、やはり揚げ物系は、揚げたてが一番美味しいに決まっています。恩納村へ行った際などには、三矢本舗のサーダーアンダギーは避けて通れません。(写真出典:tiraccontounaricetta.it)

2021年10月4日月曜日

最も危険な男

オットー・スコルツェニーは、旧ナチス親衛隊中佐でした。背の高い偉丈夫であり、学生時代の決闘で得たという顔の大きな傷が特徴的な人物です。戦争末期に、連合軍の後方を攪乱する作戦を指揮した際には、「ヨーロッパで最も危険な男」と呼ばれました。戦後は、フランコ独裁下のスペインを拠点に胡散臭い実業家として暗躍しました。スコルツェニーの妻が保管していた日記や文書類が明るみに出て、研究者たちによって分析が行われています。その一部をドキュメンタリー化したスペイン映画を、Netflixで観ました。ナチスの中核的人物が、なぜ戦後も活躍できたのか、という謎を追っています。多くは、既に知られている事実を裏付ける史料でしたが、なかには意外なものもありました。政治が本質的に持っている闇の部分を、明瞭に伝えるドキュメンタリー映画でした。

ウィーンに生まれたオットー・スコルツェニーは、大学卒業後、土木技師になりますが、ナチスの党員でもありました。第二次大戦が始まると、ナチス親衛隊に入隊し、SS装甲師団の技術将校となります。東部戦線で負傷し、療養中だったスコルツェニーは、ナチスのコマンド部隊の創設に関わります。スコルツェニーは、人材や装備の調達に政治的手腕を発揮し、かつ英国のコマンド部隊を研究して、優れた部隊を作り上げます。1943年、ヒットラーは、連合軍のイタリア上陸を背景に解任・幽閉されていたムッソリーニを救出する作戦を発動します。その実行を任されたのが、スコルツェニーのコマンド部隊でした。大胆な救出作戦は無事成功し、スコルツェニーは名を上げ、ヒットラーの厚い信頼を得ます。

その後、ユーゴスラビアのチトー誘拐事件、ソ連との講話を進めようとしたハンガリー摂政ホルティ・ミクローシュの息子を誘拐し、辞任させ、極右政権を誕生させるなどの活躍をします。戦争末期には、後方攪乱作戦の後、赤軍のドイツ侵入を許すことになったオーデルの戦いで、独立軍を指揮しますが、敗戦ともに降伏します。2年間、収容所に入ったスコルツェニーは裁判で無罪となり、収容所から出ています。ホロコーストには直接的関与が無かったとしても、ナチスの中核的人物が無罪になった背景には、米国の戦略情報局(OSS)、後のCIAが関与していました。要は、利用価値を認めたCIAがアセット化するために収容所を出したわけです。敗戦時、スコルツェニーが管理していたといわれるナチスの秘密資金も関係しているかも知れません。

スペインに渡ったスコルツェニーは、武器の輸出、米軍基地の建設等にからみ、フランコを助けます。また、アルゼンチンのペロン大統領のコンサルタントになり、事業で連携する一方、元ナチス党員を欧州からアルゼンチンに逃す組織も運営します。南米のナチ・ネットワークは、南米各地の共産化を阻止したいCIAと裏で連携していたとされます。また、イスラエル攻撃のために弾道ミサイルを開発したエジプトのナセル大統領の顧問も務め、元ナチスの科学者をエジプトに送り込みます。一方、それを阻止したいイスラエルは、スコルツェニーに対して、身の安全を交換条件に、ナセルの弾道ミサイル計画粉砕の手助けをオファーします。アイヒマンが捕まった直後のことであり、スコルツェニーは提案を受け入れます。スコルツェニーが誘い出した科学者グループのトップを、モサドが消しています。

つまり、スコルツェニーは、東西冷戦という新たな政治構造をうまく利用し、隠れるのではなく、ナチスの英雄であることを逆手にとって、戦後を泳ぎ切ったわけです。米国はじめ各国は、イスラエルでさえ、スコルツェニーを利用し、影でサポートし続けていたわけです。スコルツェニーは、堂々とSS同志会を運営していたこともあり、真のナチス党員とも言われますが、それすら大事な隠れ蓑だったのでしょう。ナチスが育てた真の政治ゴロと言うべきでしょう。ちなみに、ドキュメンタリーのなかで最も驚いたのは、ケネディ大統領暗殺事件の謎を追うと、スコルツェニーのネットワークが、頻繁に顔を出しているということです。関連の詳細は、いまだ不明とのことですが、CIAの闇の深さには、驚きを通り越して、心底恐ろしさを感じます。(写真出典:plaza.rakuten.co.jp)

2021年10月3日日曜日

カバディ

カバディ
とにかく、インドは驚きに満ちた国です。ホテルでTVを見ていたら、カバディの専門チャネルが3つもあり、プロ・チームも存在していました。これには驚きました。聞けば、カバディはインドの国技とのこと。プロ・スポーツ化され、専門チャネルがあっても、何の不思議もないわけです。例えて言えば、来日した外国人が、大相撲のTV中継を見て、驚くようなものなのでしょう。カバディは、「ラーマーヤナ」と並んでインドを代表する叙事詩「マハーバーラタ」にも登場していると言いますから、少なくとも1500年を超える歴史を持っているわけです。素手で行っていた狩猟が起源だとされています。

カバディは、10名前後で構成される2チームが、攻撃側と守備側に分かれてプレーします。攻撃側は、一人が守備側陣地に入り、守備側のメンバーにタッチして、自陣に戻れば得点となります。攻撃するプレイヤーは、カバディ、カバディと言い続けなければなりません。これは、一回の攻撃が、一呼吸分と決められているので、それを担保しているわけです。カバディという言葉には意味がないのだそうです。一方、守備側は、攻撃側が自陣に戻ることを阻止できれば、得点が入ります。タッチされたり、自陣に戻れなかったプレイヤーは、ペナルティとして、コートの外に出て、自軍が得点するまで戻れません。スポーツというよりも、とても単純な遊びのように思えます。

南アジアでは、盛んにプレーされているようですが、多くの日本人がカバディを知ることになったのは、1990年に北京で開催されたアジア大会でした。この大会から、カバディは、正式種目とされました。同時に、マレーシア発祥と言われる球技セパタクローも正式種目となり、なじみの無い二つの競技は、日本で大いに話題になりました。4年に一度行われるアジア競技大会、通称アジア大会は、1951年、ニューデリーで第一回が開催されました。その源流となったのは、戦前、日本、フィリピン、中国の3カ国で行われていた極東選手権競技大会、そしてインドで行われていた西アジア競技大会だとされます。アジア大会は、政治的状況、あるいは種目を巡る争い等、紆余曲折はあったものの、現在に至るまで継続されています。

直近のアジア大会は、2018年、ジャカルタで開催されています。競技は40種行われています。基本的には、東京オリンピックで行われた競技とほぼ同じですが、ウズベキスタンの格闘技クラッシュ、ロシアの格闘技サンボ、あるいはクリケットやスカッシュなども行われています。カバディ、セパタクロー以上に驚きなのは、カードゲームのブリッジです。英国の植民地が多かった影響なのでしょう。ちなみに、ジャカルタ大会のMVPは、池江璃花子選手が獲得しています。次回大会は、2022年、杭州で開催されます。杭州大会では、e-スポーツが正式種目化されるようです。おそらく中国のハイテク産業がスポンサーに名を連ねているのでしょう。また、2026年には、名古屋で開催されることも決まっています。

アジア大会に各国の国技を持ち込むことはかまいませんが、さすがに競技者の国際的広がりが前提だと思います。おそらく競技の種目選定に関する何らかの規定が存在するのでしょうが、杭州大会では、中国将棋のシャンチーまで種目化されると聞き、耳を疑いました。このままだと、名古屋大会では、相撲が正式種目になるのではないかと心配になります。相撲も世界選手権が開かれてはいますが、アジア大会の秩序ある発展のためには、やめておいた方がいいでしょう。(写真出典:indiatoday.in)

2021年10月2日土曜日

阿伝加寿利

井上伝
天明8年(1789年)、久留米の米屋に娘が生まれます。家が貧しかったので、少女は、7歳から機織りを始めます。12歳の頃には、大人顔負けの腕を持つまでになります。ある日、着古した藍染布に白い斑点を見つけた少女は、あらかじめ糸を染色して織り上げ、紋様を作ることを思いつきます。工夫を重ねて織り上げた少女の布は評判となり、15歳の頃には、20人を超える弟子を抱えるまでになります。少女の名前は井上伝。久留米絣(かすり)誕生の物語です。井上伝の絣は「阿伝加寿利(おでんかすり)」として大人気を博すことになります。これを久留米藩が奨励し、絣は、久留米を代表する一大産業にまでなります。

絣の技法は、インド発祥とも言われますが、古くから世界中に存在したようです。正倉院の宝物のなかに、中国伝来と思われる絣生地もありますが、技術は伝来しなかったようです。その後、琉球経由で、絣の技術は伝わったものの、広がりを見せることはありませんでした。井上伝の技術は、まったく独自に編み出されたものでした。実は、伊予国でも、同じ頃、同じ事が起きていました。井上伝とほぼ同年代の農家の嫁鍵谷カナが、絣柄を考案し、後の伊予絣が生まれています。また、幕末に至り、備後国の医師の息子であった富田久三郎が、阿波の織絹法にヒントを得て、備後絣を生み出しています。久留米絣、伊予絣、備後絣は、日本の三大絣と呼ばれます。

江戸末期から幕末に開発された木綿の絣は、明治の世になると、和装の普段着として、爆発的な広がりを見せます。全国各地で特色ある柄が織られ、年間、数百万反が生産されていたと言います。明治中期以降の自動織機の普及が、大きな役割を果たしたことは言うまでもありません。太平洋戦争中、絣の着物はモンペに仕立て直され、作業着としてだけではなく、割烹着と併せて女性の普段着の定番となりました。伝統的な絣柄としては、十字,井桁,田の字,蚊絣などがありますが、なかでも矢絣は、明治期から昭和初期にかけて、若い女性の間で大流行しました。近年、卒業式に袴を着用する女性が多くなりましたが、大正浪漫を感じさせる伝統的な矢絣も定番の一つになっています。

歴史の中で人類が重ねてきた技術的進歩の多くは、名も無き人々が、ちょっとしたことに疑問を持ち、しぶとく工夫を重ねた結果、生まれたものだと思います。絣に関しては、技術を編み出した少女たちの名が残りました。近世に起きたことであり、その後、産業化に結びついたからのでしょう。また、背景には、江戸期の商工業の発達、あるいは教育レベルの高さもあったと言えそうです。興味深いことに、井上伝は、その技術を独占するのではなく、弟子を取って広く伝授しています。弟子の数は、3,400人に達したと言います。うち400人が、その技術を持って各地に散り、絣の技術を全国に広めたそうです。また、井上伝は、15歳の頃、絵絣の技法も完成させています。その開発にあたっては、同じ久留米の「からくり儀右衛門」こと田中久重の協力を仰いだと言われます。「東洋のエジソン」とも呼ばれた田中久重は、後に東芝を創業しています。

最近、久留米絣は、面白い取り組みを始めています。絣のモンペを細身に仕立て、「日本のジーンズ」として売り出しているのです。通気性、肌触り、耐久性に優れる久留米絣ですから、普段着としては理想的だと思います。早速、ネットで買ってみようと思いました。ところが、気に入ったサイズ、色、柄のものは売り切れていました。絣の風合いを活かす伝統的な織り方をしていることもあり、決してお安くはありませんが、人気を博しているようです。恐らく、一度着用したら、手放せなくなるのでしょう。(写真出典:kurume-kasuri.com)

2021年10月1日金曜日

華僑

福建土楼
アメリカの地方に行くと、どんな町にもマクドナルドのハンバーガー・ショップがあるのには驚かされます。同時に、どんな小さな町にも、必ずと言っていいほど、チャイニーズ・レストランがあることには、さらに驚かされます。ある時、中西部の田舎町の小さなチャイニーズ・レストランで、一体、食材等はどうしているのか、と聞いたことがあります。すると、食材に限らず、チャイニーズ・レストランに必要なもの一切合切を、シカゴの問屋が、定期的にデリバリーしてくれるというのです。異境の地における中国人の商売のあり方、そのネットワークの強さに、改めて驚かされました。

華僑、Overseas Chineseは、明代の鄭和による南海遠征、および倭寇から始まるとされます。最初の大きな波は、明代末期に起こります。海禁政策のもとで行われた朝貢貿易や勘合貿易、後には海禁の緩和によって、中国の海外貿易は拡大し、多くの中国人がアジア一帯に貿易拠点を築いていきます。満州族の清朝が起こると、圧迫された漢民族の海外脱出の波も起きています。次の大きな波は、清朝末期の政情不安を背景とした海外脱出、およびクーリー(苦力)貿易として起こっています。クーリーの多くは、鉄道建設や西部開拓に沸くアメリカに渡り、奴隷貿易の衰退で減ったアフリカ人奴隷の代替となっていきます。華僑は、ユダヤ人、アルメニア人、インド人と共に、四大移民とも呼ばれるまでになります。

その後、移民たちは、世代を超えて現地化していきます。各地の経済を握り、財力を背景に政治にも進出していきます。タイの首相タクシン・インラック兄弟、フィリピンのマルコス・アキノ両大統領、シンガポール首相のリー・クアン・リュー親子等は、現地化した華僑です。また、インドネシアの現地化した華僑たちは、5%程度の人口で、富の8割を保有するとも言われます。華僑の出身地は、広東、福建が多いとされますが、なかでも興味深い存在が客家です。客家は、漢民族ですが、春秋戦国時代、中原での戦いに敗れ、南部に逃れた王族たちを祖先とします。土着民ではないので、客家と呼ばれ、一族で団結して生きてきました。一族が集合して暮らす円形の福建土楼は、世界遺産としても有名です。中国のユダヤ人とも呼ばれるほど優秀な人材が多く、華僑の中核を成していると言われます。

華僑の団結と成功には、言語が深く関わっていると言われます。中国は、多民族・多言語国家です。漢字が、表意文字として成立したのは、多言語ゆえとも言われます。華僑が移民先で商売を始めると、家族、一族、そして同じ言葉を話す同郷の者が呼び寄せられます。その中から独立する者が現れ、同じ事を繰り返します。こうして同じ言語という強い絆で結ばれたネットワークが形成されていきます。華僑ネットワークは、その成立経緯からして排他性が強くなります。それが世界各地にチャイナ・タウンを生んでいくことにもなりました。サンフランシスコ、NY、横浜、シンガポール等々のチャイナ・タウンは、街の名物・名所となるほど大きな規模を誇ります。サンフランシスコで聞いた話ですが、チャイナ・タウンで生まれ育った中国人のなかには、英語を話せない人たちもいるとのこと。それで生きていけるほどの規模を持っているとも言えます。

旧植民地で構成される英国連邦のなかに、いまだエリザベス女王を国家元首とする国々があります。英連邦王国です。そのなかのカナダ、オーストラリア、ニュージーランド等といった主要国は、英国移民が建国した国々です。産業革命以降、人口が爆発的に増えた英国では、海外移民が急増しました。武力で奪取した土地は、武力で奪われる可能性があります。しかし、移民の数と財力によって勝ち得た土地は、その支配が固定化していきます。圧倒的に人口の多い中国とインドにおける今後の移民動向は、世界の地図を塗り替え、固定化していく可能性を持っているとも言えます。(写真出典:sumally.com)

夜行バス