2021年10月9日土曜日

交渉術

Church's
近年でこそ、ビジネス上の交渉術に関する本は増えましたが、かつては、あまり見かけませんでした。恐らく、企業同士の交渉は、個人の裁量が少なく、組織的に行われることが多かったからではないかと思います。つまり、トップ同士の交渉でもない限り、交渉の場のやりとりで、物事が決することが少なかったからなのでしょう。交渉、折衝に関する心得としては、テクニックよりも、誠実であれ、といった精神的な面が強調される傾向もありました。1980年代、アメリカで仕事を始めると、交渉術の大事さを痛感することになります。というのは、企業の従業員でも個人の権限・裁量が大きい米国人と交渉する際、こちら側も一定以上の権限を持って交渉に臨む必要があったからです。 

ビジネス上、交渉が大きなウェイトを占めるアメリカ社会では、学んだか否かは別として、多くの人が、交渉術に長け、独自のテクニックも持っていました。NYのビジネス社会において、交渉は、話し合いの前に始まっています。例えば、服装です。パリッとしたスーツは当然としても、意外と大事なのが靴でした。いかにも高そうな靴で、自分は有能な高給取りであることを示し、相手を飲み込もうというわけです。かつて「ローズ家の戦争」(1989)という映画で、ダニー・デヴィートが「男の価値は、妻、家、車、靴を見れば分かる」と言っていました。女性幹部たちの靴も同様です。ちなみに、いわゆるキャリア・ウーマンたちは、重要なミーティングに臨む際、ブランド物の真っ赤なスーツ等といった勝負服をよく着用していました。

当時の日本では、仕事のできる奴は、服装にこだわらないといった風潮すらありました。何も、アメリカ東部の文化に合わせる必要など無いのですが、交渉を有利に進めるため、私も服装に気を使うようになりました。また、具体的な交渉に入る前の会話でも、スノッブぶりは炸裂します。例えば、天気の話から、さりげなくヨットでのクルージング、会員限定コースでのゴルフの話などが展開されます。また、著名な財界人のハウス・パーティに参加した話などで、自分がいかに重要人物であるかを示そうとしたりします。いずれにしても、俺は、お前より上の人間だと言いたいわけです。いかにも東部エスタブリッシュメントらしい、階級社会的でスノッブな文化です。仕事には、まったく関係ありませんが、彼らにとっては意味のあることなわけです。

具体的な折衝に入ると、ダブル・バインド、ミラーリング等々、よくあるテクニックが繰り出されます。彼らが、日本人向けに有効だと思っていたのは、バンド・ワゴンだったと思います。要するに、80%の企業がこれを選んでいますよ、ライバル会社もこれを使っていますよ、といったセールス・トークに多いパターンです。確かに有効だったと思います。東京本社を説得する際、これは実に効き目があったからです。いずれにしても、テクニックを駆使して交渉を勝ち抜く、という姿勢を全否定するつもりはありませんが、それは決して本質的なものではありません。基本的に、交渉は、互いの妥協点を探るために存在すると言えます。妥協は不満しか生み出しません。よって、交渉は、互いの不満の最小化や緩和をねらうものだと言えます。

交渉の大原則は、選択肢をより多く持っている側が有利だということです。ですから、交渉に際しては、靴も磨いた方がいいとは思いますが、当方および先方の目指すところを本質的なレベルで把握し、先方の出方も様々予測したうえで、複数の選択肢を持って臨むことが最も重要だと言えます。準備すべき選択肢のポイントは、双方に、何らかの形で将来的なメリットが生まれる可能性を持たせることだと思います。分かりやすい例としては、短期的には不利な条件でも、中長期的には収支への貢献が見込める、といったものです。別な言い方をすれば、妥協は妥協ながら、上司や関係者を説得できるストーリーがある妥協策ということです。そのような理解に勝る交渉術はないのではないかと思います。(写真出典:item.rakuten.co.jp)

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