2021年11月30日火曜日

梁盤秘抄#19 Synchronicity

アルバム名:Synchronicity(1983)                                                                      アーティスト名:The Police

ポリスのデビュー・アルバム「アウトランドス・ダムール」(1978)がリリースされた頃、私は、ジャズばかり聞いており、たまにソウル系を聞くことはあっても、ロック、特にイギリスのロックなど、何の興味もありませんでした。それが、たまたま同アルバムからのシングル・カット「ロクサーヌ」を聞く機会があり、その新しさに驚きました。以降、何となく程度ですが、ポリスの曲はフォローしていました。1985年にリリースされたSynchronicityには、やられたと思い、すぐ購入しました。そこにはポリスが提示してきた新しいファクターの極致とも言えるサウンドが詰まっていたからです。そして、これがポリスのラスト・アルバムにもなりました。

ポリスのアルバムとしては、最大のヒットとなり、シングル・カットされた「Every Breath You Take (邦題:見つめていたい)」も、記録的ヒットを飛ばします。この時点で、ポリスは、史上最も売れたバンドの一つになりました。6つのグラミー賞を獲得し、ロックの殿堂入りも果たしています。また、5枚のアルバム中、4つまでが、ローリング・ストーン誌のベスト・アルバム500にランクインしています。まさにブリティッシュ・ロック史上、ビートルズやストーンズに並ぶバンドになったわけです。しかし、人気絶頂にあったポリスは、1986年に解散します。才能あふれる3人のエゴがぶつかり合ったためだといわれています。

ポリスの音楽の新しさは、ロックにレゲエを持ち込んだことだと言われます。ポリスは、パンク・バンドとしてスタートしていますが、レゲエやジャズのエッセンスをも包括したサウンドは、パンクを超えていたと思います。ただ、新しい音楽を創造するという精神は、確かにパンク的とも言え、また、それこそブリティッシュ・ロックの伝統とも言えそうです。ポリスの音楽をリードしたのは、作詞作曲も担当し、特徴的なヴォーカルを聞かせるスティングということになります。しかし、3人の極めてレベルの高い演奏技術も、当時の他のバンドをはるかに超えていたと思います。

ポリスはリズムのバンドだと思っています。彼らの音楽を特徴づけていたものは、スチュワート・コープランドのドラムだと思います。バス・ドラムでオフ・ビートを刻む事や高い音のスネアといったユニークな奏法もさることながら、メロディアスなドラムと言えるほど、多彩なリズムと音を出していた唯一無二のドラマーだと思います。アンソニー・ウィリアムス等と並ぶドラムの天才の一人だと言えます。スティングの甲高い声、センス抜群のベース、アンディ・サマーズのキレのいいギターも、コープランドのドラムゆえに活きたと思います。Synchronicityでは、”Walking in Your Footsteps”のポリリズムはじめ、コープランドのドラムが全体のトーンをリードしています。

コープランドのソロ・アルバム「リズマティスト」(1985)は、アフリカで収集したサウンドをサンプリングし、独特の世界を打ち出していました。名盤だと思いますし、私は、このアルバム以降、西アフリカ音楽に興味を持つようになりました。ポリス解散後のコープランドは、様々なミュージシャンとコラボしたり、映画音楽を手がけたり、ポリスのドキュメンタリー映画を監督したり、と多彩に活躍しているようです。2008年、ポリスが再結成され、東京ドームでのライブに行くことができました。私は、ひたすらコープランドのドラムに集中して聞きましたが、相変わらず色彩豊かなドラミングを披露していました。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年11月29日月曜日

左上右下

京都の内裏様
仕事で、京都へ通っていた頃、ホテルは京都ホテルオークラにお世話になっていました。部屋は広くありませんが、上質感のある、とても落ち着いたホテルです。ロビーは、いつも季節を感じさせる飾り付けになっていました。早春の頃には、立派なお雛様が飾られます。ある時、正面からお雛様を見てみると、何か違和感を感じました。それが何なのか分からず、しばらく見ていました。すると、ホテルの人が、お気づきになりましたか、と話しかけてきました。要は、男雛と女雛の位置が、通常とは逆だったのです。一般的には、男雛は、向かって左、つまり内裏様側からすれば右に位置しています。それが京都では逆になると教えてもらいました。

古来、日本の儀礼においては「左上右下」が原則とされてきました。つまり、上位者は、向かって見れば右側、当人側からすれば左側に位置する、ということです。唐の「天帝は北辰に座し南面す」に倣い、天皇は南を向いて座ります。そのうえで、陽の昇る東側、つまり南を向いた天皇の左側が上位とされたわけです。もっとも中国では、王朝が変わると、それも変わったものだそうですが、日本では、終始一貫、左上右下だったようです。薩長政府は、天皇を中心とした国家統一を目指し、明治天皇のご真影を広く配布しました。なかには天皇ご夫妻の立像も多くあり、その際、天皇は、必ず、向かって右に位置しています。ところが、昭和天皇ご夫妻になると、それが逆になり、天皇は、必ず、向かって左、天皇側からすれば右に位置しています。

左右が逆転したのは、大正天皇からでした。欧州では、伝統的に「右上左下」が原則だったため、国際的な会合等が増えてくると、「左上右下」では都合が悪くなり、欧州標準に合わせたのだそうです。内裏様の位置も、これに倣ったわけです。ただ、京都では、日本古来の左上右下の伝統が守られ続けているというわけです。なお、欧州の右上左下の起源は、よく分かりません。ただ、夫妻の場合を例にとれば、恐らく夫の心臓に近い方に妻、あるいは組織で言えば、上位者の心臓を下位者が守る、といった発想だったのではないでしょうか。ちなみに、英国のエリザベス女王ご夫妻の写真では、女王は、必ず、向かって左に位置しています。

実は、日本古来の左上右下の原則は、儀礼上の話にとどまるものではありません。「左尊右卑」とまで言われます。「天帝は北辰に座し南面す」の北辰とは、北極星のことです。常に真北に輝く北極星を基準とすれば、太陽が昇る東は左ということになります。左という言葉の語源については、諸説あるようですが、陽の出る方角、つまり”日(ひ)出(だ)方(り)”だとする説もあるようです。天照大御神は、伊邪那岐命の左眼から生まれています。陰陽道においても、左が陽、右が陰とされています。左大臣は右大臣より上に位置します。現代にも、その伝統は残されており、例えば、ビジネス・ナマー上、上位者は、左に位置するのが正しいとされていますし、舞台上では、舞台から見て左側を上手、右側を下手と呼びます。

左右は、相対的なものなので、客席から向かって右、舞台からは左、といった説明も、ややこしいところがあります。”左上右下”も、基準点を、常に真北に置いておかないと、ややこしくなります。余談ながら、京都の左京区・右京区も、はじめは戸惑います。旅行者は、京都駅を背に判断してしまうのですが、京都では、すべてが南面した天皇の目線から決められているわけです。武家が築いた名古屋の街では、すべて地理を東西南北で表す傾向があり、実に分かりやすいと言えます。ただし、一つ落とし穴があります。名古屋駅では線路が南北に走り、正面玄関は東を向いています。ところが、東海道線が東西に伸びる路線であることから、名古屋駅の正面は、北に面していると誤解する旅行者が少なくありません。ここで間違うと、東西南北と言われても、すべて混乱してしまいます。(写真出典:fujingaho.jp)

2021年11月28日日曜日

藻塩

笹川流れ
数年前、しまなみ海道を観光した際、大島の亀老山展望公園にも立ち寄りました。しまなみ海道沿いにある展望台からの景色は、どこも見事なものです。加えて、亀老山展望公園は、隈研吾設計になるモダンな展望台で有名です。もう一つ、亀老山には名物があります。大人気の塩ジェラートです。これが、なかなか美味しいわけです。ジェラートにかかった藻塩のやさしい塩気が、実にいい塩梅です。しかも、その藻塩も販売されていました。店のおじさんに、瀬戸内の藻塩か、と聞くと、日本海方面から取り寄せている、とのことでした。やや興ざめではあったものの、ちょうど、いい塩はないかと探していたので、さっそく購入しました。

以来、お気に入りで、何にでもこの藻塩を使っていました。残り少なくなり、取り寄せしようとしましたが、通販は行っていないようでした。ならば製造元の塩を探そうと、日本海、藻塩、で検索してみたところ、すぐに見つかりました。商品名こそ違うものの、ラベルの意匠がまったく同じものがあったのです。商品は、新潟県村上市の笹川流れで作られた「玉藻塩」でした。笹川流れは、日本海に面して奇岩・絶壁が連なる海岸線です。やや変わった名称ですが、その由来は、岩の間をダイナミックに流れる潮流が見られることから来ているようです。船に乗って観光するわけですが、なかなか見事な景観です。それにしても、新潟に赴任し、村上市にも毎月行っていたにも関わらず、こんな美味しい塩を知らなかったとは驚きです。

言うまでも無く、人間が生きるために、塩は不可欠です。古来、海水製塩や岩塩採掘は重要な産業であり、塩は重要な交易品でした。よって塩の専売制は、世界各国で古くから存在しました。江戸期の日本でも、各藩が専売制を敷いていました。明治になると、外国から、安くて質の良い塩が入り始めます。これに危機感を抱いた明治政府は、1905年から、塩の専売制を始めます。専売制のもとで、製塩の工業化が進み、1970年頃からはイオン膜を使った装置産業へと変わりました。サラサラとした「食塩」の誕生です。いわば化学的に作られた塩であり、純度は高いものの、ミネラル分が出すうま味に欠けるわけです。そこで、従来、専売公社に塩を納めてきた業者等が中心となって、自然塩復活の動きが起こります。

1997年に至り、100年近く行われてきた塩の専売制は廃止されます。それ以降、伝統的な製法で作られた各地の塩が販売されるようになりました。日本の製塩法には、入浜式や流下式などありますが、古代における製塩法は、乾燥したホンダワラ等の海藻についた塩、あるいは海藻を燃やして得た灰から鹹水を作り、煮詰めていく方法です。こうして作られたのが、いわゆる藻塩です。海水のミネラル分、海藻のうま味成分が豊富に含まれ、まろやかで、やさしい塩です。また、うま味が強いので、ナトリウムの取り過ぎを防ぐことにもなります。塩は、料理に応じて使い分けるものなのでしょうが、私は、味付け用の塩としては、やたらと藻塩を使っています。

塩の自由化とともに、塩の多様化も進みました。海外からも特色ある塩が入ってきます。同時に、料理における塩の使い方も変化してきました。分かりやすいところで言えば、ステーキや刺身も塩で食べるスタイルが出来ました。また、低温調理の白色系を中心に、とんかつも塩で食べることが増えました。確かに、うまいとんかつはわさびと塩で食べると、肉の味が引き立ちます。ただ、個人的には、とんかつは、やはりソースと辛子だろうと思っています。(写真出典:nikkei.jp)

2021年11月27日土曜日

海人族

五斗長垣内遺跡
天地開闢神話を司る神世七代の最後に登場するのが伊弉諾尊(イザナギ)・伊弉冉尊(イザナミ)です。国生み神話として知られるとおり、イザナギとイザナミは日本の国土を生みます。また、イザナギの左眼から、天皇家の皇祖神である天照大御神が生まれ、高天原を統べます。その五代後に、神武天皇が誕生することになります。イザナギとイザナミが、天の浮橋に立って、天沼矛で混沌とした大地をかき回すと、矛先から滴り落ちた塩の雫が固まって「淤能碁呂(オノゴロ)島」ができます。オノゴロ島で結ばれたイザナギとイザナミは、大八洲(オオヤシマ)を生んでいきます。大八洲とは、古代における日本の国土を表し、今風に言えば、淡路、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州という順番で生んでいきます。

なぜ淡路島が最初の島なのかは、実に興味深い話であり、諸説あります。まずは、オノゴロ島とはどこなのか、ということになります。有力なのは、淡路島の南にある沼島だとする説です。1億年以上前という極めて古い地層を持ち、奇岩が多く、なかでも海上に起立する上立神岩は、国生み神話に登場する天の御柱だとされています。沼島がオノゴロ島だとすれば、ほぼ時計回りに島を配置していき、最後、それらの真ん中に本州を置いたと理解できます。陰陽道的に見た説もあります。琵琶湖と淡路島は、ともに勾玉の形をしており、合わせると太極太陰図になるというわけです。初めに淡路島、最後に琵琶湖を擁する本州を置き、太極図が完成するというわけです。たしかに、琵琶湖と淡路島の形状も、大きさも、妙に対を成しているように見えます。

淡路島が始まりの島であった理由として、淡路島が天皇の「御食国」であったことが、よく挙げられています。淡路島の塩と海産物が、ヤマト王権御用達だったというわけです。しかし、塩と海産物なら他国でも産し、もっと王宮に近いところから調達することもできたはずです。始まりの島とする理由としては不十分に思えます。むしろ、なぜ御食国だったのかという方が問題だと思います。そこで登場するのが「海人族」です。沖縄の海人(ウミンチュ)のような職業的呼称ではなく、一つの民族と理解すべき一族です。中国南部からベトナム北部に存在した百越系の種族とも、ヤマト王権を作る天孫族とは別系統の半島系とも言われます。また、海人族とアタ・隼人族は同一という説もあるようですが、いまだ定説はないようです。海人族は、先進的な航海技術や漁労技術、そして青銅器文化を有し、弥生前期には、九州から始まり、各地に展開していたようです。

安曇一族が率いる九州の海人族は、天孫族と争いますが、比較的早くその配下に入ったようです。天孫族の東征に際しても、その航海術が活用されたのでしょう。天孫族は、葦に付着した水中の鉄分を使って製鉄を行う種族でした。ヤマト王権の東征は、原材料を求める旅であったことは定説となっているようです。一方、砂鉄を原材料に製鉄を行う”たたら”の技術を持って渡来したのが、出雲のスサノオ族です。後に天孫族に下され、神話に取り込まれます。淡路島は、安曇一族の一派が支配していました。近年、淡路の海人族も、製鉄技術を持っていたことが分かってきました。2001年、淡路島の五斗長垣内遺跡が発見され、紀元1世紀頃の製鉄所跡が出てきたのです。不思議なことに、この製鉄の集落は、100年程度続いた後、消え失せたようです。ちょうどヤマト王権の東征の時期に当たるのではないでしょうか。

天孫族は、出雲と淡路を征することで、製鉄技術を独占し、ヤマト王権の力の源泉としていったということなのでしょう。その後、淡路の海人族は、塩や魚をヤマト王権に納めるとともに、その高い航海技術をもって水軍としても王権を支え、かつ全国に分布する海人族を統括したようです。つまり、淡路島の海人族は、天孫族に下り、製鉄技術を奪われたものの、ヤマト王権内で一定の処遇を受けたわけです。あるいは、一定の処遇を条件に、ほぼ平和裏に配下に入ったのかも知れません。それが地方豪族を従えていくヤマト王権の得意とする戦略だったようにも思います。スサノオ族の大国主命と同様、淡路の海人族の神であるイザナギとイザナミも天孫族の神話に組み込まれました。ヤマト王権の統治スタイルをよく伝える話なのかも知れません。(写真出典:awajishima-kanko.jp)

2021年11月26日金曜日

虚礼廃止

明治神宮初詣
私がいた会社では、かつて、仕事始めの朝には、社内の賀詞交換会が開かれていました。金屏風の前で、社長・会長が挨拶し、伝統の乾き物三種を並べて、立食で酒を酌み交わします。賀詞交換会は、人事部主催でした。人事部の若手だった私は、年末、銀座の田中金属店に屏風を借りにいき、乾き物を買いに御徒町へ走ったものです。当時は、本社の課長以上、百数十人が参加していましたが、組織が肥大化するとともに人数が増えたので、部長級以上に変わりました。乾き物は、決められた縁起物三種でしたが、見通しが良いというレンコンだけ覚えています。仕事始めには、役員はじめ、本社内各部署への年賀挨拶が、一日中行われていたようですが、その非効率を解消するため、一同に会しての賀詞交換会が行われるようになったと聞きました。

ちなみに、2006年新春、人事部長だった私は、伝統に則った賀詞交換会を止め、会長・社長の年頭説示を聞くだけの会に変えました。そんなことをやっている時代じゃないと思ったからです。様々な会社の人事部長が集まる会で聞くと、同様の考えで賀詞交換会を止める会社が増えていました。新しい年の始まりを寿ぎ、年始挨拶を交わすことは、気持ちを新たにするという意味でも、とても良い文化であり、伝統だと思います。ただ、近代になって始まった初詣、賀詞交換会、年賀状といった新たな風俗には、多少疑問も感じます。私は、賀詞交換会も止めましたが、年賀状も止めました。神田明神での新年昇殿参拝だけは、家族の行事として続けています。

初詣は、もともと大晦日から元旦の朝にかけて、家長だけが氏神様に籠もる「年籠もり」として行われていたようです。江戸期には、恵方参りとして、その年の恵方にある神社へのお参りが行われていました。今の形の初詣は、明治中期になって、鉄道会社と神社がタイアップして始めたものだそうです。これが大当たりとなり、京成や京急は、そのために設立されたとも聞きます。有名神社には、毎年、数百万人が初詣に押し寄せます。毎年、参拝客数トップは、明治神宮です。これには暗黙のルールがあって、他の神社は、決して明治神宮を超えてはいけないのだ、と聞きます。成人の日に、もう初詣客もいないだろうと思って、伊勢神宮にお参りしたことがあります。宇治橋から本殿まで2時間もかかりました。伊勢神宮では、例年、2月中旬まで初詣が続くそうです。

それぞれの家を年始挨拶のために訪問する、いわゆる年始回りは、奈良時代から行われていたようです。官僚が誕生するとともに、本来の意味とは異なる、形式的な媚びへつらいの文化も生まれていたわけです。歳暮・中元も似たような来歴を持つのでしょう。官僚文化が完成された江戸の正月、江戸城へ新年挨拶に向かう大名や旗本が引きも切らず、それぞれ大層なお共を連れて行くので、庶民は道を歩くこともできなかったと言います。将軍家への挨拶が済むと、上役、同僚の屋敷への挨拶が行われ、正月三が日の江戸は大混雑だったようです。薩長政権は、江戸文化を否定しますが、この官僚文化だけは、しっかり継続されます。それが一般企業にも広がり、得意先回りが加わり、今に続きます。企業の新年は、経済団体等による賀詞交換会がありながら、挨拶に行ったり来たりで暮れていきます。非効率極まりないと思います。経団連あたりが先導して、止めるべきだと思います。

年始回りに行けないところに出すのが年賀状であり、これも古く存在していたようです。現在の年賀状は、当然、明治以降に始まっています。年始回りの代りですから、本来的には、知れた数のはずです。そもそもビジネス以外の年始回りが廃れているわけですから、年賀状も廃れて当然とも思います。ちなみに、私がいた会社では、毎年、暮れになると、人事部から「虚礼廃止」として、社内での年賀状のやりとりや歳暮の贈答を慎むよう通達を出します。かつてに比べ、減ってはきましたが、通達があったからではないと思います。その通達自体が形式的になってしまったわけです。いずれにしても、新年を迎えることはめでたいことだと思いますが、時代は変わっていきます。あまりに形式的で非効率なことは、勇気を持って止めるべきだと思います。(写真出典:dime.jp)

2021年11月25日木曜日

美味礼賛

IGPも獲得している”ブリア・サヴァラン・フレ” は人気のフランス・チーズです。これに、メープル・シロップをかけて食べれば、最上級のレア・チーズになります。”ブリア・サヴァラン・フレ”は、20世紀になってから開発されたチーズであり、ブリア・サヴァラン氏が作ったわけではありません。ジャン・アンテルム・ブリア・サヴァランは、18世紀末から19世紀初めに活躍した法律家、科学者、音楽家ですが、ことに美食家として名高い人です。この美味しいチーズには、美食家ブリア・サヴァランの名前が相応しとして、命名されたようです。フランスには、この希代の美食家にあやかって命名された食品が、多々あるようです。日本でもよく知られているケーキの”サヴァラン”も、その一つです。

ブリア・サヴァランは、その著書「美味礼賛」で、よく知られています。実に素晴らしいタイトルですが、これはフランス文学者の関根秀雄が、本書を初訳した際に付けたものです。原題は「味の生理学」であり、「あるいは、超越的美食学をめぐる瞑想録、文学・科学の学会員である一教授によりパリの食通たちに捧げられる理論的、歴史的、時事的著述」という長い副題が付けられています。この本は、グルメ・ガイドでも、料理本でもありません。食を巡る哲学書とも言われますが、むしろブリア・サヴァランが、その博識を駆使して書き上げた、味に関するディレッタント的な蘊蓄本といった風情です。生物学的、医学的、文化人類学的、あるいは哲学的なアプローチがされていますが、決して学術書ではありません。

アカデミー会員たるものが、学術書とは呼べないような代物を書くことは、さすがに気が引けたと見えて、くどくどと言い訳をしています。同時に、やたら科学的な風情を漂わせることに熱心でもあります。とは言え、その豊富な知見や、鋭い考察は、傾聴に値します。ブリア・サヴァランが開く晩餐会は、パリで評判だったようです。恐らく、その席上、気分良く傾けた蘊蓄や、思わず口から出たアフォリズムの数々を記録して、一冊にまとめたものなのでしょう。さすが当代一流の文化人だけあって、そのアフォリズムは、ウィットに富んで、なかなか面白いものが多いと思います。なかでも最も良く知られているのは「君が何を食べるか言ってみたまえ。君が何者であるかを言い当てよう」だと思われます。

「美味礼賛」だけが注目されがちなブリア・サヴァランですが、フランス革命が進行するなか、激動の波にさらされた一人でもあります。フランス東部のベレーの法律家の家に生まれたブリア・サヴァランは、法学、医学、化学等を、ディジョンで学び、弁護士になります。フランス革命へつながる三部会や国民会議にも代議士として参加しています。フランス革命は、バスティーユ牢獄の襲撃後、様々な勢力が政権を巡って血みどろの戦いを続けます。そのなかで、ブリア・サヴァランも追われる身となり、スイス、オランダを経て、アメリカ東部にたどりつきます。ニューヨークやボストンで、フランス語とヴァイオリンの教師として生計をたてたようです。その後、フランスに戻り、ナポレオンの第一帝政期に、パリ控訴裁判所の裁判官になっています。海外での生活は、語学力とともに、多くの食に対する知見をも培ったわけです。

近年、炭水化物ダイエットは、常識になりました。実は、ブリア・サヴァランこそが、炭水化物ダイエットを最初に提唱した人として注目を集めているようです。ブリア・サヴァランは、小麦などデンプン質を多く摂取する人間だけ肥満すること、炭水化物を餌として与えた家畜も肥満することに着目し、デンプン質こそ肥満の原因だとしています。これこそ「美味礼賛」的アプローチの典型だと思います。十分に科学的ではないものの、豊富な知見と鋭い洞察眼から導き出された、結果的には正しい推論です。(写真出典:researchgate.net)

2021年11月24日水曜日

河童

芥川龍之介「河童屏風」
河童のミイラを見たことがあるのですが、どこで見たのか思い出せません。恐らく、各地に似たようなものがあり、どうせ偽物だと思っているので、印象に残らないのでしょう。 河童、天狗、人魚等々のミイラは、おおむね江戸期に制作されたものが多いようです。複数の動物のミイラや骨を組み合わせて作るわけですが、実によく出来ています。見事な職人技とも言えます。見世物小屋のネタとして制作されたようですが、当時の人たちを驚かすに足るクオリティだと思います。見世物だったものが、どういう巡り合わせか、今もお寺さんや旧家に残っているわけです。

河童は、日本独特の妖怪であり、全国各地に分布して、名称も、姿も、性質も多様だったようです。それが、現在の河童のイメージに統一されたのは、江戸末期のことでした。見た目は、子供ほどの身長、いわゆるおかっぱの髪型、頭頂に皿、緑色の肌、手足に水かき、背には甲羅といった外見を持ち、河に住み、人や動物を水に引き込む一方、恩義に厚く、相撲好きで子供たちと遊ぶといった特性があります。恐ろしい妖怪でありながら、どこか人間に近く、愛嬌もある、といったところでしょうか。起源は、どうもはっきりしません。大陸から伝来し、九州で日本型に変わったという説もありますが、東日本では、古くから九州型と異なるタイプが存在します。恐らく江戸末期以前の河童は、一つの妖怪ではなく、複数の水陸両生型妖怪だったと理解すべきなのでしょう。

最も納得性の高い起源は、間引きされ、河に捨てられた子供という説です。水死体の外的特徴、子供っぽさや人間への親近感も、理解できます。子供たちを水死体から遠ざけるための方便としても理解できます。妖怪と誤魔化さざる得なかった親の切なさも感じます。だとすれば、実に悲しい妖怪だと言えます。河童を有名にしたのは、芥川龍之介の自殺直前の作品「河童」だという話もあります。「河童」は、当時の軍国主義へ向かう社会、あるいは人間社会そのものを、痛烈に批判した作品だと言われます。「河童」は、ページをめくると、「どうか Kappa と発音して下さい。」という言葉が登場します。副題といわれますが、実に不可解な言葉です。「河童」は、社会批判だけの作品ではないことを示唆する言葉でもあると思います。

「河童」は、精神病患者である語り手と病院職員と思しき書き手の二重構造になっています。物語としてはそうなのですが、芥川自身に目線を置けば、もっと複雑にレイヤーが重ねられた作品であり、その最初のレイヤーが「どうか Kappa と発音して下さい。」なのだと思います。この副題を語っているのは芥川自身であり、自らを河童に擬している言葉だと思います。芸術と社会、創造と生活の間に広がる裂け目の水底深く沈んでいく芥川自身なのだと思います。”人間とはあべこべ”と書いた河童の世界に住んでいる自分を複雑なレイヤーで包み隠しつつも、私は河童です、河童と呼んでください、と言っているように思えます。河童好きとして知られた芥川は、次第に混濁していく精神のなかで、水中でも陸上でも生息し、人間的ながらも妖怪である河童と自分を同化させていったのではないでしょうか。

古典を題材とする作品の多い芥川は、芸術と生活は相容れないとしていたことは、よく知られています。ただ、晩年、精神を病み始めると、自らを語るような作品が現れ始めます。「河童」も、社会批判という側面だけが強調されますが、実は、その一つだと理解できます。よらず言語芸術は、私性を否定することは難しく、芸術性を追求すればするほど、ディレンマに落ちていく傾向があるのでしょう。まるで、河童に引きずりこまれるようであり、人と関わりながらも人間になりきれない河童のようだとも言えます。(写真出典:nagasaki-r.seesaa.net)

2021年11月23日火曜日

若大将

最初に見た若大将シリーズは、「エレキの若大将」(1965)でした。1961年、「大学の若大将」でスタートしたシリーズは、「エレキの若大将」で5作目でした。既に人気シリーズではあったのですが、エレキ(ギター)ブーム、加山雄三ブームなどを爆発させた、まさにエポック・メイキング的な映画だったと思います。私は、小学校5年生でしたが、いまでも多くのシーンを記憶しているほど強い印象を受けました。東京での大学生活、華やかなスポーツ、社会人の恋人、高級リゾート、高級な老舗料理屋、そしてエレキ・ギター等、高度成長期の若者たちが目指すべきものがすべて提示されており、加山雄三は、それらのすべてを具現化した存在でした。

加山雄三は、人気俳優・上原謙と華族出身の女優・小桜葉子の間に生まれ、湘南で育ち、慶応高校・慶応大学と進み、スポーツ万能で、船は自ら設計し、スキーは国体の神奈川県代表になったほどの腕前、しかも作詞作曲もこなすミュージシャンでした。そのうえ、端正な顔立ちと素直でまっすぐな性格を持つ、まさに湘南のサラブレッドでした。同じく湘南出身ながら、偽悪的な石原裕次郎とは、まさに好対照を成していました。大学卒業後、就職しようとしていたところ、芸能界に入って船を作る資金を稼いだら、と言われ、東宝に入ったと言います。そのギラギラ感のなさも、まさに湘南のお坊ちゃまぶりを伝えます。役としての若大将は、リアルな加山雄三そのものだったことが、シリーズ成功の主因だったのでしょう。

「エレキの若大将」の挿入歌であった「君といつまでも」は、空前の大ヒットを記録します。「幸せだなぁ。僕は君といるときが一番幸せなんだ」というセリフは、大流行しました。また、エレキの神様こと寺内タケシとブルージーンズがバックに入った「夜空の星」は、エレキ・ブームを象徴する曲となり、いわゆるグループ・サウンズを生んでいきます。また、エレキ・ブームの背景には、ビートルズやローリング・ストーンズの世界的ヒットがあったわけですが、日本ではベンチャーズが大きな影響を与えます。クロマチックダウン奏法が生む“テケテケテケ”という音は、エレキの代名詞ともなりました。なお、翌66年には、ビートルズが来日。伝説の武道館コンサートは、ブームの頂点を形作っていきました。

エレキも典型ですが、若大将シリーズは、極めて敏感に若者の流行をリードをしていました。また、シリーズの特徴の一つは、若大将が毎回異なる運動部に所属し、大活躍することです。「エレキの若大将」では、アメリカン・フットボールでした。他に、水泳、ボクシング、ヨット、スキー、サッカー、ラリー、フェンシング等、その時々、オリンピック等で脚光を浴びていくことになるスポーツが取り上げられていました。また、若大将の恋人澄子さんの勤務先も、スーパー、宝石屋、化粧品、楽器店、パンナム等と変っていき、見事に時代の先端を捉えています。軽薄とも言われそうですが、ブームの兆しを捉えるセンスの良さは、見事なものだったと思います。次から次へと新たな変化が起こっていくのも、高度成長期ならではの現象なのかも知れません。

1作目の「大学の若大将」がシリーズ最高の観客動員数を記録し、6作目の「アルプスの若大将」(1966)がそれに次ぐようです。以降、68年まで大学生シリーズ、71年までが社会人シリーズとして続いています。時代をリードした若大将シリーズも、時代に超されていったということなのでしょう。実のところ、私は、エレキとアルプスくらいしか見ていません。年代的なズレもありますが、私が、中学に入ると、ほぼ洋画と洋楽専門になっていったからです。人気絶頂だった加山雄三もグループ・サウンズも、ジミヘンのサウンドには、到底かないませんでした。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年11月22日月曜日

面向不背の玉

宝厳寺蔵「面向不背の玉」
藤原不比等の妹は、絶世の美女であり、唐の高宗に嫁ぎます。高宗は、藤原家の菩提寺である興福寺に三つの宝物を贈ります。その一つ「面向不背の玉」が、讃岐沖で龍宮に奪われます。奪還しようと讃岐に来た不比等は、土地の海士(あま)との間に一子を設けます。不比等に玉の奪還を頼まれた海士は、我が子を跡取にすることを条件に、龍宮へ向かいます。体に綱を巻き、合図とともに引き上げるよう依頼して、海に潜ります。海士は、首尾良く玉を奪ったものの、龍たちに追われます。海士は、龍たちが死人を避けることを思い出し、自らの乳房の下を切り、玉を入れます。龍たちから逃れた海士は、綱で浜に引き戻されますが、体の一部は食い千切られていました。瀕死の海士は、胸から玉を取り出し不比等に渡し、事切れます。海士の子藤原房前は、後に太政大臣となります。

四国八十八箇所霊場の第八十六番札所、香川県の志度寺の縁起にまつわる玉取り伝承です。この話をベースに書かれた能楽「海士」は、人気の演目です。この曲は、世阿弥以前の金春流で演じられていたようです。能楽は、世阿弥以降、夢幻能として、幽玄の世界を展開していきます。夢幻能の前の時代に書かれたこの曲は、ドラマチックでスペクタクルな要素が濃い曲になっています。曲の中で、成長した房前は、讃岐を訪れ、亡き母の亡霊に出会います。成仏出来ずにいた母の霊は、房前の供養によって、龍女となって成仏し、喜びあふれる早舞を舞います。この地を志度寺と号して、栄えたのも、房前の孝行あってのこととして、曲は閉じます。

記録によれば、既に存在していた志度寺を「死渡道場」と命名し、堂を増築したのは不比等です。その子房前も、行基とともに堂を建立しています。確かに、藤原家とは、縁浅からぬ寺ではあります。高宗が贈ったとされる三つの宝物は、一度打つと僧侶の袈裟をかけるまで鳴り止まないという楽器「華原磐」、墨をすると自然に水が湧き出るという硯「泗濱石」、そしてどの角度から見ても中の仏が正面に見えるという玉「面向不背の玉」です。華原磐と泗濱石は、確かに興福寺に現存しています。また、面向不背の玉は、一旦、興福寺に納められたようですが、何故か琵琶湖の竹生島にある宝厳寺に所蔵されています。宝厳寺を開いたのは行基であり、房前との関係も深く、興福寺から贈られたものかも知れません。また、言うまでもありませんが、藤原鎌足の娘が、唐の高宗に嫁いだという記録は、日本にも中国にも存在しません。

この時代、白村江の戦い(663)で唐に大敗したヤマト王権は、唐による日本本土への侵攻を恐れていました。九州や瀬戸内に砦や山城を築き、防衛を強化すると共に、中央集権化を進めるために律令体制を確立します。日本初の本格的律令である大宝律令(701)制定を主導したのが、藤原不比等でした。同じ頃、戦後交渉や唐の動静を探るため、遣唐使が派遣されていますが、三つの宝物とは、遣唐使の土産だったと考えられます。讃岐沖で、遣唐使が帰国する船から、面向不背の玉が海中に落ちる事故が発生し、それを回収したのが海士だったのでしょう。讃岐の人たちは、志度寺と縁のある藤原家に、この恩を忘れさせないために、玉取り伝承を創作したのではないか、と考えます。多くの伝承は、実際に起きた事象や背景を持って創作されるものですが、この伝承も、事実を巧みに織り込んだ上出来の伝承だと思います。

能楽「海士」は、子を思う母の強さを伝える曲です。同時に、仏教的意味合いも濃い作品です。女性は成仏できないとされていた仏教を変えたのは大乗仏教でした。法華経のなかでは、女性は龍女になって成仏するとされています。能楽は、興福寺に奉仕した大和猿楽四座から生まれています。結城座からは観阿弥・世阿弥親子が出て今の観世流となります。円満井座は金春流、外山座は宝生流、坂戸座は金剛流となって、今に至ります。能楽と藤原家の興福寺との関係は深いわけです。(写真出典:chikubushima.jp)

2021年11月21日日曜日

熱海

30年近く前、労働組合の中央執行委員をしていたことがあります。全国から数百人の代議員が集まる定期大会は、熱海で行うことが伝統になっていました。前後の会議も多いので、中央執行委員は、1週間近く滞在することになります。温泉はうれしいのですが、1週間も雑魚寝が続くのは、しんどかったことを覚えています。 当時、多くの労働組合が、熱海で定期大会を開催していました。随分とご気楽な印象ですが、大人数を考えれば、東京開催よりも、熱海の大箱の方が、会場費、宿泊費、懇親会経費も安くあがったわけです。ただし、雑魚寝になるわけですが。

かつて、熱海、別府はじめ、日本の温泉地の多くは、団体旅行で賑わっていました。社員旅行、慰安旅行、各種会議等で、ホテルのなかは、新宿の雑踏並に混雑していたものです。大型ホテルには、巨大な宴会場や会議場、10人くらいが雑魚寝できる個室はじめ、ショーを行うクラブ、カラオケ・ルーム、雀荘、居酒屋、ラーメン屋まで完備してあり、外に繰り出すことなく、二次会、三次会まで行えました。浴場も、趣向を凝らした遊園地的なものを売りにしていました。料理は、お決まりの宴会料理で、食欲がわくようなものではありませんでした。宴会開始後、5分もすれば、皆、ビール瓶やお銚子を持って移動しはじめ、会場のそこここで車座ができたものです。そんな調子ですから、深夜には、皆、空腹になり、館内のラーメン屋が混雑するわけです。そして、仕上げは、夜半過ぎ、個室に集合して始まる飲み会です。

今、思えば、ゾッとしますが、当時は、それが当たり前で、楽しみでもあったわけです。団体旅行は、1950年代後半、高度成長、鉄道・道路の整備とともに、ブームとなっていきます。戦前の旅行業は、修学旅行や新婚旅行が目玉であり、団体旅行は始まったばかりだったようです。戦後の団体旅行ブームを支えたのは、企業と農協だったのでしょう。もちろん、観光という側面もありますが、やはり温泉地での宴会が主たる目的だったように思えます。江戸期、農民の間で定着した湯治の文化が背景にあり、慰労会と言えば温泉だったのでしょう。ブームに対応して、温泉地のホテルは、多額の借入を行い、改築、増築を重ねていきます。しかし、ブームは、突然のように終わりを告げることになりました。いわゆるバブル崩壊です。

あれほど賑わった熱海からも、団体客は減っていき、街は寂れていきます。時代は、ゆるやかに個人旅行へと変化していきました。かつて団体旅行ブームから取り残されていた温泉地が脚光を浴び始めます。団体旅行を当て込んだ大型化投資が徒となって、倒産するホテルも散見されました。熱海は、歴史的役割を終えた昭和の遺産になりつつありました。ただ、古代から続く温泉場の実力は残っていました。2000年前後でしょうか、地元商店街を中心に、熱海の魅力をアピールするキャンペーンが始まります。当初、資金もないなかでの手作り感満載のキャンペーンには、効果のほどを疑わざるを得ませんした。しかし、熱海は見事に復活を遂げます。復興への大きな足がかりとなったのは、ホテルが個人旅行シフトに対応し始めたことでした。キーワードは、露天風呂付個室、地元食材を使った料理でした。

山高ければ谷深し、と言いますが、バブル崩壊後の熱海は、まさにそういう状態だったと思います。その後、立ち直った熱海は、個人旅行客で混雑していきます。コロナや天災の打撃は大きかったはずですが、一方で、今、熱海のマンション・別荘が高騰していると聞きます。リモート・ワークの普及に伴い、東京に近い立地が人気なのだそうです。昔、大手ホテルチェーンの社長から、ホテル業の成否は、一に立地、二に立地、三、四が無くて、五に立地、と聞きました。熱海は、やはり東京の奥座敷、ないしは離れなのでしょう。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年11月20日土曜日

Own Risk

アメリカへ赴任して驚いたことの一つが、納税方式に関する考え方の違いでした。アメリカは、日本で言うところの確定申告を全員が行います。申告はとても簡便なもので、驚いた事にIRS(内国歳入庁)のチェックもありません。自己申告どおりに、納税や還付が行われるわけです。ただし、サンプリングによる査察が行われ、不正や違反が見つかると、極めて厳しい処罰を受けます。うまいやり方だと思いました。行政は、実に効率的な運営ができます。思えば、鉄道の改札方法も同様な考え方に基づいています。構内に入る前に全件チェックする日本のスタイルに対して、欧米は、列車のなかでの検札という方式が主です。 どちらが効率的かは微妙ですが、車掌が常に乗務しているのであれば、車内検札の方が要員効率は良いと思います。

この春、アメリカの年金を受給する元駐在員たちに、突然、アメリカ財務省から小切手が送られてきました。コロナ支援金です。決定から実行までの早さが、日本とはあまりにも違うので驚きました。実は、この小切手は間違いであることが判明します。法によれば、米国市民か米国在住者が対象でした。米国財務省のHPで、間違えました、小切手は送り返してください、と告知されていました。小切手なので、元を止めれば、それで済む話とは言え、実に簡単なものです。日本なら、完全回収をめざして多くの人員を使うのだろうと思います。こうした行政等の合理的な対応は、実にアメリカ的ですが、その背景には日本とは大いに異なる思想が存在しています。

やや異なる話ですが、アメリカでは、よく”at your own risk”と書かれた看板を目にします。例えば、金網を回した公園なら”Play at your own risk”、監視員のいないビーチでは”Swim at your own risk”といった具合です。翻訳するとすれば、自己責任でどうぞ、となるのでしょう。日本の感覚で言えば、自分で判断して、遊んでいいよ、泳いでいいよ、と言ってるように思えます。アメリカ的には、何かあっても当局は一切関知しない、ということであり、許可しているのではなく、事実上の禁止にあたる警告です。訴訟社会ならではの表現と言えるかも知れません。書かれたものだけが法律という英米法の特徴とも言えます。準拠法がないので”禁止”とは言えない、個人の自由は侵害しない、しかし当局として安全は一切保証しない、という厳しい警告です。

こうした考え方の背景には、厳密な個人主義の思想があります。個人の権利と義務、個人の自由と責任、ということになります。アメリカでは、多くの事象に、個人主義の思想を見て取れます。個人の判断は尊重されますが、その結果に関する責任も個人に帰属し、厳しく問われるわけです。コロナ・ウィルス・ワクチンの接種に関しても、接種に反対する人たちが存在し、国が強制することはできません。一部の企業で接種の義務化を打ち出していますが、批判も多くあります。接種に反対する人たちは、死をも覚悟して個人の選択を主張しているわけです。日本のご都合主義的な個人主義とは覚悟が違います。個人主義の風土が薄い日本では、お役所も、おせっかいにならざるを得ない面があります。半ば強制的にでも徹底しておかなければ、役所が批判されるからです。

NYにいた頃、銀行・保険会社の破綻が続きました。日本をよく知るアメリカ人が、こういう場合、日本では金融庁(当時は大蔵省)が批判されるけど、アメリカじゃ、潰れるような金融機関を選んだ奴が悪いということになる、と言っていました。確かに、損害を被った人たちからも、マスコミにも、金融行政を批判する声はありませんでした。本質をついた名言だと思いました。ただし、リーマン・ショックの時は違いました。そこには違法な行為が認められたからです。(写真出典:soundcloud.com)

2021年11月19日金曜日

「最後の決闘裁判」

監督:リドリー・スコット      2021年イギリス・アメリカ

☆☆☆+

リドリー・スコット監督は、映像の力で、数々のヒット作を生み出してきました。エイリアン、ブレードランナー、テルマ&ルイーズ 、グラディエーター 、ブラックホーク・ダウン、悪の法則、ゲティ家の身代金等々大ヒットがある一方で、実はハズレも多い監督でもあります。つまり、映画作家というよりも、映像の職人に近いものがあり、良いシナリオとの出会いが必須という監督なのだと思います。83歳になった大監督は、今回も見事な映像を見せてくれています。ただ、脚本は、やや残念なものだったと思います。

 本作は、14世紀に起こったレイプ事件の顛末を、ほぼ史実に忠実に描いた作品です。騎士ジャン・ド・カルージュは、その妻マルグリットをレイプしたとして、友人でライバルでもある従騎士ジャック・ル・グリを告発します。決定的な証拠や証言に欠けたこと、および政治的介入もあり、法廷では白黒がつかず、ド・カルージュは決闘による決着を要求し、ル・グリも、これを受けて立ちます。当時、正式な決闘は、神による審判とされていました。ル・グリの弁護士の詳細な記録が残り、世間を騒がせた事件だったことから複数の年代記にも記載があり、フランスでは、よく知られた事件のようです。

映画は、黒澤明の「羅生門」のスタイルで、ド・カルージュ、ル・グリ、ド・カルージュの妻マルグリット、それぞれの視点による三部構成になっています。ただ、羅生門のように、全く異なる事実が提示されるのではなく、事の経緯が説明的に加えられる程度の違いです。強姦なのか、一定の合意があったのか、という点の描き方も微妙なものになっています。つまり、羅生門スタイルを採った意味、あるいは効果が曖昧なわけです。映画のテーマは、社会的リスクを冒してでもレイプを告発したマルグリットの、いわば今日的とも言える姿勢なのだと思います。三部構成にしたことで、そのテーマの訴求もキレが悪くなっているように思えます。

歩き始めた我が子を、複雑な表情で見守るマルグリット、あるいはその遠くを見るような視線というラスト・シーンも、やや曖昧な印象を受けます。決闘に勝ったド・カルージュは、程なく十字軍に参加して戦死しています。マルグリットは、我が子を育てながら、裕福に暮らしたようです。単に、そのことを示唆したラストなのか、あえてレイプを告発したマルグリットの意思の強さなのか、あるいはレイプを告発することの難しさを表現しているのか、今一つはっきりしない印象を受けました。ひょっとすると、あえて曖昧な表現をすることによって、見る者に判断を委ねたのかも知れません。

リドリー・スコット監督の見事な映像に加え、俳優たちの名演も光ります。決闘した二人の人格の違いを際立たせていたマット・デイモンとアダム・ドライバー、女性の複雑さを表情で表現したジョディ・カマー、いずれも見事な演技だと思います。ただ、興業成績は、散々な結果に終わったようです。三部構成をとったことが、映画のキレを悪くし、かつ上映時間も長くなり、結果、不振につながったものと思います。(写真出典:movies.yahoo.co.jp)

2021年11月18日木曜日

なんでも鑑定団

テレビ東京の人気番組「開運!なんでも鑑定団」は、1994年から続く長寿番組です。英国のBBCが、1979年から放送する”Antiques Roadshow”が原型と言われます。BBCの番組は、今も継続していますが、鑑定士が地方を訪れ、住民が持ち込んだ品々を鑑定します。また、アメリカやカナダにも、なんでも鑑定団と同様、”Antiques Roadshow”を原型とする番組が存在するようです。何度か”Antiques Roadshow”を見たことがありますが、まさに好事家による好事家のための番組です。一方、なんでも鑑定団は、バラエティ番組としての構図を基本とし、作品や作家に関する情報提供も行うなど、より多くの視聴者をターゲットに制作されています。

なんでも鑑定団は、バラエティ番組らしく、司会者に芸能人や芸人を使っています。さらに、鑑定を依頼する出演者から、古美術品・骨董品の入手経緯、あるいは、その人の人生や家族の歴史を聞き出し、視聴者に親しみを持たせるとともに、様々な人生を垣間見せてくれます。番組としては、登場する骨董品以上に、これが重要な要素かも知れません。また、旧家や大金持ちが、偉そうに持ち込んだ古美術が、実は偽物だったというケースも多くあります。これなどは、ある意味、一般人が「ざま見ろ」とばかりに溜飲を下げる場面でもあり、番組の隠れた狙いなのではないかとさえ思います。番組に登場することは、大恥をかく恐れもあるわけです。

さすがに、一級の古美術・骨董愛好家などは参加しないと思われます。番組に参加をするのは、さほど興味はないものの古美術品を相続した人、そしてちょっとした骨董好きの皆さんが大半です。数年前、流通センターで行われたラルフ・ローレンのファミリー・セールへ行った際、ちょうど骨董市が開かれており、冷やかしに覗いたことがあります。人でごった返す広い会場に、数百万円の古美術品を商う店から、ガラクタ専門の類いまで、二百軒を超す骨董商がひしめき合っていました。私も、嫌いな方ではないので、結局、隅々まで見てしまいました。会場で配布されていた資料に、東京で開かれる骨董市の日程がありました。骨董市が、方々で、しょっちゅう開催されていることを知り、驚きました。なんでも鑑定団の人気が衰えないわけです。

骨董を投資対象とし、その価値を楽しむ人々もいますが、そういった人たちは、骨董というよりも古美術愛好家なのだろうと思います。多くの骨董好きは、古い品を観賞して楽しむ人たちだと思います。なかには、コレクションという病を患う人もいますが、ほとんどは雑多な骨董品を楽しんでいるのだろうと思います。骨董品の魅力は、懐古趣味はもちろんのこと、民芸同様、簡素で飾らない用の持つ美しさ、あるいはその風情にあるのだろうと思います。加えて、大事な要素は、その人なりの「発掘」の楽しさなのだろうと思います。つまり、思い入れの世界です。そういう意味では、古美術以外は鑑定など無用であり、自慢したいだけで参加する人も多いのでしょう。

昔、エジプトのカイロで、常設の骨董市のようなところへ行ったことがあります。薄暗く、広い店内に、雑多に古いものが積んでありました。魔除けらしき翼のある蛇の木彫りが目に付き、買うことにしました。これは150年位前のもので、アンティークではないが、いいのか、と骨董商に念押しされました。150年前なら、日本では立派に骨董品です。さすがエジプトと感心してしまいました。ちなみに、1934年に、アメリカの関税法が、100年を超えた工芸品や美術品をアンティークとすると定義をしたことから、世界的には、100年が一つの目安になっているようです。(写真出典:tv-tokyo.co.jp)

2021年11月17日水曜日

大きな旅

本人の了承も無しに書くので、ここは仮にAちゃんとしますが、Aちゃんに出会ったのはNYのピアノ・バーでした。当時、日本はバブル経済絶頂にあり、強くなった円を背景に、NYは日本の駐在員であふれていました。日本人ビジネスマンの夜の社交場がピアノ・バーでした。日本のクラブの簡易版のような場所です。ピアノ・バーで働く若い女性たちの多くは、語学留学でNYに来て、小遣い稼ぎをしている人たちでした。AちゃんがNYに来た理由は、多少変わっていました。もともと地方の理髪師だったのですが、「ティファニーで朝食を」のオードーリー・ヘップバーンを見て感動し、何が何でもNYで働くと覚悟を決め、観光ヴィザで渡米してきたというのです。 

随分と無謀な話ですが、彼女の明るい性格、前向きな姿勢に、皆、感銘を受けました。彼女は、就労ヴィザを持っていないので、美容室の一席だけを借りて、もぐりの床屋をやっていました。以降、仲間たちと、散髪はAちゃんにやってもらうことで、彼女を支援することにしました。2~3年くらい、彼女のもぐり床屋に通い、私は、NYを離任しました。それから20年ばかり経って、私は、国際会議に出席するため、シンガポールへ出張することになりました。出発の1週間くらい前、丸の内の交差点で、偶然、NYで一緒だった後輩に会いました。彼は、NYの後、シンガポール駐在員も経験していたので、そういえば、来週、シンガポールに行くよと、と伝え、少しばかりシンガポールの話をしました。

すると、彼が、NYのAちゃん、覚えていますか、と言うのです。もちろん、覚えていました。彼女、結婚して、今、シンガポールで美容室をやっていますよ、と言うわけです。懐かしさもあり、ゆとりのある日程でもあったので、現地の駐在員に、美容室を探してもらうことにしました。雲を掴むような話ですが、彼女の性格からして、店名に自分の名前を入れているはずだから、と伝えると、一発で見つかりました。駐在員にお願いし、繁華街にある彼女の店へ行ってもらいました。会社名を告げると、即座に私の名前が出たようです。それがうれしかったので、彼女の中国系シンガポール人のご主人、駐在員も交え、4人で食事することにしました。

食事しながら聞いた彼女とご主人の人生は、実に驚くべきものでした。ご主人の父親は、シンガポールの都市計画の責任者であり、息子に同じ道を歩ませたいとNYで都市工学を学ばせていました。そんなご主人と知り合ったAちゃんは、彼の助けで就労ヴィザも取得し、小さな美容室を始めます。彼女の腕の確かさと明るい性格で、アッという間に店は繁盛店になります。まったく経営にうといAちゃんを見かねて、ご主人は学業を放りだし、経営を手伝います。シンガポールへ帰ってこい、という親の話も聞かず、二人は努力を重ね、ついに五番街に大きな店を開くまでになり、二人は結婚します。まさにアメリカン・ドリームそのものです。

ところが、ご主人の両親が介護状態になります。二人は、五番街の店を整理し、シンガポールへ戻って両親の介護を行うという判断をします。苦労して築き上げた繁盛店を閉めるということは、なかなか出来る判断ではありません。Aちゃんは「彼がいなければ私の店は存在しませんでした。今度は、私が彼を助ける番だと思いました」と言っていました。聞いていて、思わず涙がこぼれました。店をたたんだ二人は、世界中を旅し、覚悟を決めた後に介護生活に入りました。その後、しばらくして、介護も一段落した頃、Aちゃんは、紹介予約限定の一席だけの美容室を始めたと言います。店は、再び繁盛しているようでしたが、店を大きくするつもりはない、とも言っていました。二人が歩んだ人生の旅路に感銘を受けました。まさに明るく前向きなAちゃんの性格が生んだ大きな旅だったと思いました。(写真出典:goo.ne.jp)

2021年11月16日火曜日

酉の市

浅草酉の市
東陽町にある子会社を担当した際、深川に所在する会社が、熊手の一つも飾っていないのは、如何なものかと思い、同僚何人かを誘って、富岡八幡宮の酉の市に出かけました。富岡八幡の酉の市は、さほど規模の大きなものではありませんが、大賑わいでした。派手に飾り付けられた大小の熊手が並ぶ様は、見事なものでした。縁起物とは言え、お値段も、実に見事なものでした。会社の経費が使えるわけでもなく、自腹で買わざるを得なかったので、小ぶりなものを選びました。毎年、大きなものに買い換えていく代物だから、初めは小ぶりでいいんだとも聞きました。

購入したい熊手が決まると、値段交渉が始まります。粋な交渉などできませんが、値引きしてもらった金額は、ご祝儀として渡すという粋な習慣は守りました。ま、結局、言い値どおりに買ったのと同じです。交渉が成立すると、その場で、会社名を木札に書いて熊手に挿してくれます。それを待つ間、一同に日本酒が振る舞われます。いよいよ熊手が渡されると、酉の市名物の威勢のいい手締めが行われます。これが年末の下町らしい、とてもいい風情なわけです。買った熊手は、福を逃がさぬよう、やや前かがみに持って、境内を後にします。その後、近所の居酒屋に上がり込み、熊手を上座に据えて、宴会を行ったことは言うまでもありません。

酉の市は、もともと鷲や鳥にちなむ寺社の行事であり、関東に特有と聞きます。足立区花畑の大鷲神社の秋祭りが酉の市の起源とされています。秋祭りは、収穫祭であり、境内には農機具の市が立っていたようです。農機具を買うと、おかめの面などの縁起物がおまけに付いたものだそうです。どうも縁起熊手の起源は、このあたりにあるようです。農村部で始まった酉の市は、次第に江戸市中の寺社に広がり、熊手は商売繁盛の縁起物へと変わっていったようです。浅草の鷲神社に伝わるところでは、東征に成功した日本武尊が、戦勝のお礼参りをしたのが11月の酉の日であり、その際、神社前の松に熊手を立て掛けたことから、酉の市と縁起熊手が始まったとされているようです。いかにも後付け話といったところです。なお、日蓮聖人起源説もあります。

三大酉の市と言えば、浅草の鷲神社、新宿の花園神社、府中の大國魂神社です。いずれも江戸後期から盛んになったようです。商売繁盛を願うという意味では、酉の市と共にえびす講が有名です。えびす講は、全国にあるようですが、最も盛んなのは関西です。特に大阪の今宮戎神社、通称えべっさんの十日えびすは、福笹と「商売繁盛で笹もってこい」という囃子で有名です。笹は、まっすぐ育ち、折れない弾力があり、常に青々していることから商売繁盛の象徴となったようです。対して、関東の熊手は、鷲の爪のように福をつかんで放さない、あるいは福を掃き込む、という意味があるようです。多少、関東の方が、えげつない印象です。

日本で一番社の多い神社は、お稲荷さんだと言われます。京都の伏見稲荷大社を総本宮とする稲荷神社は、もともと五穀豊穣の神様でしたが、いつの頃からか、商売繁盛の神様になります。昔、大きな商家なら、皆、分祀したお稲荷さんの社を敷地内に持っていたものです。それが、そのまま街のお稲荷さんとして残り、お社が多くなったのだと思われます。商家の信仰はお稲荷さんが中心です。対して酉の市の熊手は縁起物ということになります。思えば、日本は、縁起物大国とも言えそうです。だるま、七福神、招き猫等々、数え上げたらキリがありません。ただ、なんとなく商売に関わる縁起物が多いようにも思います。(写真出典:4travel.jp)

2021年11月15日月曜日

正倉院展

平螺鈿背円鏡
十数年前のことですが、京都出張の際、偶然、ホテルで名古屋のお客さまに会いました。立ち話をすると、「週末から正倉院展が始まる。せっかくだから見て行きなさい」と言われました。折良く金曜は奈良で仕事があり、土曜は帰京するだけという日程だったので、初めての正倉院展に行くことにしました。展覧会は、切符売り場で大行列が発生するものですから、前売り券も買い、当日の朝は、開場40分前に国立奈良博物館に行きました。驚きました。既に1,000人を超える行列が出来ていました。

毎年秋に開催される正倉院展は、整理済みの宝物9.000点のうち、毎回70点だけが公開されます。主な宝物だけでも、すべてを見るためには、毎年通う必要があり、かつ会期が2週間と短いこともあって、いつも大混雑です。もっと大々的に、長期間、かつ東京で開催すればいいとも思いますが、実はそうもいきません。1,300年近くを経た天平の宝物は、平生、適切に管理された温度・湿度のもと保管されています。それを展示すること自体がリスクであり、所管する宮内庁としては、正倉院展などやりたくないはずです。展示の準備だけでも、慎重なうえにも慎重を重ねて行うので、1ヶ月以上かかると聞きます。従って、開催地は奈良に限定され、点数も少なく、会期も短くせざるを得ないわけです。もっとも、5年に一度は、東京でも、ごく一部が公開されています。

正倉院は、756年,聖武天皇の四十九日の法要にあたり,光明皇后が、宝物600数十点、薬物60種を東大寺の大仏に奉献したことが始まりとされます。その後も、光明皇后の奉献や東大寺の宝物等が加えられていきます。建物は、何度も補強されているものの、奇跡的に大火や戦火を免れてきました。古代の文物と言えば、多くは掘り起こされた出土品となりますが、正倉院の宝物は、世界的にも希な倉庫保管の伝世品です。宝物は、唐から伝来したもの、あるいは唐から伝来した技術を用いて国内で制作されたもの、そして文書類ということになります。唐伝来の文物は、さらに西方、インド・イラン、ギリシャ・ローマ、そしてエジプト起源のものも多く含まれます。正倉院は、”シルクロードの終着点”とも呼ばれます。まさに、古代のダイナミックな交易のあり様を、如実に語っていると言えます。

よく知られた宝物の一つが”平螺鈿背円鏡”です。鏡の背面に、花弁紋様の螺鈿細工が施された美しい鏡です。その細かく美しい加工技術にも驚かれますが、その材料には、さらに驚かされます。花弁は、東南アジア産の夜光貝であり、花芯、そして花弁の一部にはミャンマー産の琥珀が埋め込まれています。花弁の間には、イラン産のトルコ石やアフガニスタン産のラピスラズリを砕いたものが敷き詰められています。世界は、中央アジアを中心に回っており、東西の両端に唐とローマが栄えたという構図が浮かび上がります。平螺鈿背円鏡は、鎌倉時代に盗難にあい、破壊されたものが多く、現存するものは1面を除き修復されたものと聞きます。ただ、それにしても世界史観を証明するかのような宝物が、今日まで保管されてきたことに感銘を受けます。

それが実現した大きな要因は、もちろん、正倉院が、天災や火災を奇跡的に免れてきたということでもありますが、やはり天皇家が、古代から一度たりとも変わること無く、君主として日本の中心に存続し続けてきたことだと思います。天皇家は、現存する世界の王朝のなかでは最長を誇ります。天皇家の氏神を祀る伊勢神宮の式年遷宮は、7世紀から20年毎に行われてきました。単に社を移すだけではなく、膨大な数の御物の全ても、新しいものに変えられます。それが、伝統工芸に関わる技術と技術者を、連綿と守ってきたと言われます。延々と続けられてきた正倉院の宝物のメンテナンスも、まったく同様の効果をもたらしてきたのでしょう。正倉院の宝物は、伝世品という以上に、生きた宝物であり続けたことが、世界的文化遺産としての価値なのだと思います。(写真出典:shosoin.kunaicho.go.jp)

2021年11月14日日曜日

タレントCM

かつて広告や宣伝に関わる仕事をしたことがあります。その際、TVCMの制作現場に、スポンサー代表として、何度か行きました。まず、驚いたのは、スタッフの多さです。70~80人はいたと思います。映画のエンド・ロールには、延々とスタッフの名前が流れます。フィルムを作るということでは、CMも同じです。良いものを作るためには、相当な人数が必要なのでしょう。それは理解できます。とは言え、ランチのために料理人が3人も来て、数種類の美味しい料理を作っていることには驚きました。あるいは、天井からホコリが落ちるという演出があり、そのために3人のスタッフが天井の吊り格子にスタンバイしていました。いずれも必要なのでしょうが、人件費はじめコスト削減をうるさく言われる一般企業の感覚からすれば、まったく信じがたい光景でした。

一方で、タレントの才能の豊かさにも驚かされました。タレント(才能)と呼ばれるくらいですから、当然であり、特に知名度の高い人たちのセンスの良さは、群を抜いているのでしょう。演出家の曖昧極まりない要求に対しても、的確に対応していく様には、本当に驚きました。レディ・デイとも呼ばれた伝説のジャズ・ヴォーカリスト、ビリー・ホリディの逸話を思い出しました。映画に出演した際、監督から“Yes”の言い方にダメ出しされたレディ・デイは、即座に40種類を超える”Yes”を言ってみせ、どれがいい、と監督に迫ったと言われます。多少、お値段が高くても、良いCMを作るためには、良いタレントを選択すべきなのでしょう。

世界的に見ると、TVCMにタレントを多用するのは、東アジアに特有な傾向だそうです。ミルウォード・ブラウン社が、10年前に行った調査では、全CMに占めるタレントCMの割合は、日本が56%、韓国が47%、中国が33%と続きます。対して、アメリカは9%、イギリスは10%に過ぎません。TVCMにタレントを使う目的は、その知名度を利用して、一気に商品の認知度を上げる、あるいは定番化をはかることです。常套手段ではありますが、リスクも伴います。企業側のリスクは、タレントの不祥事や不適切な発言、あるいは現役スポーツ選手の成績不振等です。一方、タレント側のリスクは、スポンサー企業の不祥事や商品トラブルが発生した場合、自身の人気や評判にまで累が及ぶことです。これが、アメリカで、大物がTVCMに出演しない理由の一つと言われます。訴訟社会アメリカでは、CM出演者まで訴えられる恐れもあります。

ただ、TVCMのタレント起用率の高さは、日本人の国民性に関わる特性とは思えません。俳優や歌手といったタレント好きは、世界中どこでも変わりありません。日本のタレントCMの多さは、実は広告代理店の戦略、深慮遠謀なのではないかと思います。TVCMで露出を高めることによって、タレントの知名度はさらに上がります。結果、そのタレントが出演する番組の視聴率も上がっていきます。視聴率が上がれば、GRPも上がり、広告収入も増していくという構図です。GRP(グロス・レイティング・ポイント)は、CMの本数と視聴率を掛けた数字であり、電波広告の世界では、料金の計算上、最も重視される指標です。広告代理店、放送局、芸能事務所、全てにとってウィン・ウィンの好循環を生むわけです。

TVCMに関わるコストは、商品の価格に反映され、結果的には、消費者が負担することになります。いつも不思議に思っていたことがあります。それは、不景気になり、CMの発注が減っても、電波料金やCM製作費だけは安くならないことです。また、価格破壊を売りにする放送局も代理店もありません。需要と供給によって価格が変動するという市場経済の原則の外にあるわけです。認可事業であり、電波にも限りがあるため、とも言えますが、それにしても、業界全体で、しっかり価格を守っています。CMタレント起用のメカニズムは、悪魔的に賢い戦略ですが、TV業界が、CMを通じて薄く広くお金を集めるという仕組みの一部であり、業界の宿命でもあります。世界的に、映像の世界が、地上波からケーブル、そしてネットへと流れるなか、日本のTV業界は、団結堅く健闘しているとも言えそうです。(写真出典:jiji.com)

2021年11月13日土曜日

「モーリタニアン」

監督:ケヴィン・マクドナルド     2021年アメリカ・イギリス 

☆☆☆ー

アメリカ同時多発テロ直後に連行され、14年間、グアンタナモ収容キャンプに拘束されたモーリタニア人モハメドゥ・オールド・サラヒの回想録に基づいた実話映画です。アメリカ政府と軍が、グアンタナモで行ったことは批判されるべきものに違いありませんが、その映画化は、とても難しい取り組みだと言えます。映画は、サラヒ本人、弁護士、海兵隊検事の3つの視点から構成されています。残念ながら、それが散漫な印象につながり、監督の凡庸な演出もあって、残念な出来上がりになりました。ただ、辛うじて映画として成り立っているのは、弁護士を演じたジョディ・フォスター、そしてサラヒを演じたタハール・ラヒムの名演に依るところが極めて大きいと思います。

収容所のあったグアンタナモ湾海軍基地は、キューバ島の南東部にあります。1898年、米西戦争に勝利したアメリカは、キューバを保護国化します。1902年、キューバはスペインから独立し、アメリカは、グアンタナモ湾を永久租借します。以来、キューバ、アメリカ、いずれの法律も適用されず、海軍法だけが支配する土地として存続してきました。一時期、難民収容所としても利用されました。2001年に、同時多発テロが発生すると、ブッシュ政権は、拷問や不法拘留を禁じるアメリカ国内法が適用されないグアンタナモに、テロ容疑者の収容キャンプを開設します。

イラク戦争が始まると、収容者は急増し、250人以上になった時期もあるようです。いかなる法の支配も受けないとはいえ、拷問と長期拘留は、人権問題として、国際社会の注目を浴びます。オバマ大統領は、就任直後から閉鎖を表明しますが、共和党と軍に阻まれ、在任中に実現することはできませんでした。バイデン大統領も、閉鎖の意向を明かにしていますが、現時点では、動きはありません。軍は、釈放後、テロリストに戻った者がいることを盾に取っています。実際、タリバン政権中枢には、2名のグアンタナモ経験者がいます。しかし、約20年間で起訴に至った収容者は、わずか8名に過ぎません。

アカデミー主演女優賞2回受賞の大女優ジョディ・フォスターも、58歳になりました。「タクシー・ドライバー」(1976)で世界を驚かしてから、45年になります。今回、ジョディ・フォスターは、新たな次元を見せてくれていると思います。単に、実際の年齢に応じた役柄を演じたと言うに留まらず、この年齢でなければだせなかったであろう新たな魅力や存在感を示したと言えます。これからのジョディー・フォスターは、かなり楽しみだと思います。海兵隊検事約で、ベネディクト・カンバーバッチも出演していますが、ぼやけた脚本と演出がために、やや損な役回りになっていました。いずれにしても、もうちょっとやりようがあったのではないか、と思わせる映画でした。(写真出典:eiga.com)

2021年11月12日金曜日

木崎村小作争議

豪農の館
政令指定都市化とともに新潟市の江南区に組み込まれた沢海(そうみ)に、越後随一と言われた豪農伊藤家の邸宅があります。現在は、北方文化博物館の豪農の館として公開されています。広大な屋敷と庭に、豪農の豪奢な暮らしを見ることができます。私のお気に入りは、豪農になったつもりで、大広間に寝そべり、見事な庭園を見ることでした。マナー違反ではありますが、とがめられることもなかったので、毎回、やっていました。実に気分の良いものでした。新潟は、豪農の多い土地柄と聞きます。豪農がいれば、小作農も多く存在したということになります。日本三大小作争議と言われる「木崎村小作争議」は、伊藤邸から阿賀野川を北東に越えたあたりで起こりました。

 1922年、困窮を極めた木崎村の小作農たちは、込米の撤廃を地主たちに要求します。込米とは、年貢米を納める際、輸送の際に減る分を考慮し、1俵につき1升の米を上乗せして納める仕組みです。地主が拒否したことで、小作人たちは、小作人組合を結成し、社会運動家たちが結成した日本農民組合にも参加します。大半の地主が要求を飲みますが、一部強硬派の地主たちは、訴訟を起こします。日農の支援のもと、法廷闘争が行われますが、口頭弁論も行われないまま、地主側が勝訴。小作地への立入禁止の仮処分が行われ、組合長は切腹、警察と小作人との衝突も起き、多数の検挙者を出します。その後、裁判所の調停もありましたが、訴訟は継続され、再び、警察に支援された強引な仮執行が行われます。

追い込めらた小作人たちは、日農の支援のもと、団結を強め、演説会や集会を開き、生活費捻出のための行商隊を編成し、婦人部による地主宅への連日の抗議行動等が行われます。さらに、争議のために学校が機能停止になったため、組合は、小作人の子弟のための学校を開きます。この計画には、賀川豊彦、三宅正一など著名な社会運動家たちが参加、教師としても現地入りします。また、資金作りのために、芥川竜之介、菊池寛、大宅壮一等多数の作家たちが参加して「農民小説集」が刊行されます。木崎村小作争議は、全国的に注目を集め、連日、東京から社会運動家や文化人たちが押し寄せ、毎日、演説会等が開かれたと言います。現地にも赴いた大宅壮一は、当時を「革命前夜のようだった」と振り返っています。

小作人小学校は、校舎まで建設されますが、いわば無認可の私立学校であり、警官も乗り出す騒動になりました。ここへきて乗り出した政府は、治安維持法適用をちらつかせ、事態の収拾にあたります。小作人にとっては、生きていくための耕地奪還が目的だったため、象徴に過ぎなかった小学校は自主的に解散されます。1930年、控訴審でも小作人は敗北し、争議は終息していきました。小作争議は、江戸期から各地で頻発していました。とりわけ木崎村争議が大事件となった背景には、辛亥革命、ロシア革命、ドイツ革命、あるいは頻発する米騒動等を背景に盛り上がった大正デモクラシーがあります。いわばその象徴的事件として、当時のインテリ層がこぞって熱狂したわけです。

小作制度は、戦後、GHQによる農地改革で、強制的に終焉を迎えます。占領下でなければ、終われなかったとも言えます。木崎村小作争議がなければ、農地改革もなかった、という人もいます。その直接的因果関係は疑問ですが、歴史の流れを作ったことは事実だろうと思います。そういう意味では、大正デモクラシー自体も、よく似ています。普通選挙、政党政治、言論の自由、天皇機関説等々は、戦後の民主主義、自由主義への大きな足がかりになりました。ただ、社会主義や共産主義の高まりに対して、悪名高き治安維持法が制定されるなど、既存権力の維持がはかられ、日本が、反動的にファシズムへの道を進む背景ともなりました。(写真出典:city.niigata.lg.jp)

2021年11月11日木曜日

たこ飯

友人たちと沖縄の話をしていた時、初めてタコライスを食べたけど、タコが入っていなかった、と言う奴がいて、大笑いになりました。今では、沖縄の新しい名物タコライスを知らない人は少ないと思いますが、少し前まではこんなものでした。タコライスは、タコスの具材をご飯の上にかけたものです。テックス・メックス(テキサスのメキシコ料理)と言われるタコスは、U字型にしたトルティーヤに具材をはさんで食べます。具材は、サルサ・ソース、挽肉、チーズ、レタス、アボガド等です。何でもご飯の上にのせて食べるのは、日本のお家芸ですが、タコスとライスの組み合わせは、なかなかの発見だったと思います。

発見した人は、儀保松三という人であり、金武のキャンプ・ハンセン前で、「パーラー千里」を経営していました。ちなみに、”パーラー”は、フランス語の”話をする所”が語源であり、ケーキやドリンクを出す洋風な店といったイメージですが、沖縄では、惣菜の販売なども行う軽食堂を指すそうです。界隈では後発だったこともあり、何か特色のあるメニューが必要だと考えた儀保は、若い米軍兵士のために、安くて腹一杯になるタコライスを思いつきます。1984年のことでした。タコライスは瞬く間に評判となり、儀保は、タコライス専門のチェーン店「キングタコ」を開業します。金武のタコライスは、沖縄中に広がり、新しい沖縄名物になりました。

一方、本州のタコライスと言えば、たこの炊き込みご飯である”たこ飯”ということになります。日本人は、大昔からたこを食べていました。たこ飯も、古くから漁師飯として存在していたようです。発祥は、瀬戸内とも三河湾とも言われますが、たこの水揚げが多い全国各地で、漁師が食べていたのでしょう。ただ、あまり一般的なもの、あるいは名物料理ということではなかったようです。例えば、農水省がたこ飯を郷土料理と認定しているのは愛媛県と三重県ですが、松山出身の友人に聞けば、昔はたこ飯など食べたことも、聞いたことも無かったと言います。愛媛と言えば、東予、南予の鯛飯が有名ですが、たこ飯は漁師だけが食べていたのかも知れません。また、全国的に見れば、たこ自体が、決して高級食材でもなく、各地で獲れることから、特別、郷土料理とは見なされていなかったのかも知れません。

1939年に宮内庁が「日本五大銘飯」なるものを発表しています。東京の“深川めし”、埼玉の”忠七めし”、岐阜の”さよりめし”、大阪の”かやくめし”、島根の”うずめめし”が挙げられています。伊予の鯛飯や沖縄のジューシーが入っていないのは、やや意外な感じもします。対して、たこ飯が入っていないのは、当然のような気がします。たこ飯が、知名度を増したのは、近年のことだと思われます。地方の時代が標榜され、旅行先が特定の観光地から津々浦々へと広がり、地元特産品のマーケティングが盛んになるにつれ、たこ飯も知られるようになったものと思われます。また、レトルトのご当地カレーが増えたのと同様、炊き込みご飯の素が普及したことも背景にあるのかも知れません。

調理の仕方次第ですが、ほぼどんな食材でも、ご飯に乗せて食べることができると思います。炊き込みご飯も、まったく同様のことが言えます。最近、SNSで、意外な炊き込みご飯がバズっているようです。柿ピーご飯、ポテチご飯、フライドチキンご飯、餃子ご飯、果ては赤飯もどきのあづきアイスご飯まであるようです。それなりに美味しいのかもしれませんが、正直、やってみようとは思いません。ただ、こうして日本の食文化は多様化を遂げてきたんだろうな、とも思います。大学生の頃、超変人の先輩が、インスタント・コーヒーをご飯にかけて食べていました。見ていて気持ちが悪くなりました。是非とも、まともな多様化を遂げていくことを期待したいものです。(写真出典:park.ajinomoto.co.jp)

2021年11月10日水曜日

アポロンの地獄

Pier Paolo Pasolini
中学生の頃、剣道部に所属しており、毎週日曜日には朝稽古がありました。稽古が終わると、仲のいい連中と連れだって、焼きそばを食べ、三本立てのセカンド映画館に繰り出します。毎週、マカロニ・ウェスタン、スパイ・アクション、その他という構成でした。その他には、雑多なタイプの映画が上映されます。そこで最も衝撃を受けた作品の一つが、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の「アポロンの地獄」でした。ギリシャ悲劇の最高傑作であるソポクレスの「オイディプス王」が原作でした。初めて触れたギリシャ悲劇の凄まじさに驚き、パゾリーニの見たこともない映画表現に度肝を抜かれました。

 ピエル・パオロ・パゾリーニは、映画を撮るばかりではなく、小説家、詩人、劇作家としても名を成した人です。共産主義者としても知られています。1950年、28歳でローマに出て、映画の脚本を書きながら、55年、ローマの貧しい若者たちを描いた処女小説「生命ある若者」を発表しますが、過激な表現ゆえ発禁処分を受けています。57年には詩集「グラムシの遺骸」が高く評価され、フェリー二の「カビリアの夜」に共同脚本家として参加しています。61年には長編処女作「アッカトーネ」を監督し、64年のイエス・キリストの生涯を描いた「奇跡の丘」では、ヴェネツィア映画祭で審査員賞を獲得しています。そして67年、「アポロンの地獄」(原題Edipo Re、オイディプス王)を発表します。

渇いた映像、抑えたセリフ、アートな衣装、日本の神楽等を取り込んだ音楽等、斬新で自然主義的な映画は、問題作として扱われます。ソポクレスの原作に忠実ながら、映画は、パゾリーニの故郷である現代のボローニャに始まり、終わります。本作は、ソポクレスを借りたパゾリーニ自身の物語とも言われています。父を殺し、母と交わり、子をもうけるというストーリーから、フロイトは、幼児期の母親への願望と父親への対抗を「エディプス・コンプレックス」と名付けます。パゾリーニの父は、著名なファシストの軍人であり、不在がちでした。パゾリーニは、芸術家気質の母親に育てられ、母親とともに暮らし続けています。パゾリーニは、本作で自らの内面をさらけ出したとも言えるのでしょう。

オイディプス王の母親にして妻のイオカステを演じたのは、シルヴァーナ・マンガーノでした。いわゆるグラマー女優として知られますが、後年、パゾリーニやヴィスコンティ作品で重厚な役をこなします。パゾリーニは、69年にエウリピデス原作の「王女メディア」を撮りますが、主演にはマリア・カラスを起用しています。著名な女優や歌手の従来のイメージを壊すことで、斬新な映像を実現するとともに、反体制的なメッセージを伝えたかったのでしょう。一連の自然主義的映画が問題作として扱われたパゾリーニは、孤立感を強めたと言われます。70年代に入ると、商業主義的な要素を取り込んだデカメロン・カンタベリー物語・アラビアンナイトという「生の三部作」を撮り、高い評価を得ています。

1975年、パゾリーニは、イタリアのネオ・ファシズム的風潮を痛烈に批判した「ソドムの市」を撮った直後、殺されます。映画に出演した17歳の少年が、パゾリーニに性的虐待を受けたために殺害した、と自首します。少年による単独犯行は困難との見方があったものの、事件の捜査は打ち切られます。2005年に至り、少年は自白を撤回、パゾリーニを殺害したのは、ネオ・ファシストたちであり、自分は脅されて自白した、と告白します。オイディプス王は、父親を殺しますが、パゾリーニは、ある意味、父親に殺されたと言えるかも知れません。近年、パゾリーニを語る人も少なくなりましたが、パゾリーニは、映画の新たな地平線を切り開いた人だと思います。その地平線からは、多くの傑作が生まれているように思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年11月9日火曜日

Airbnb

 NYにいた頃、近所の日本人から、家族旅行の際、小さな炊飯ジャーを持参し、ホテルやモーテルでご飯を炊いて食べている、と聞きました。子供が小さいと、旅先での食事は、ファスト・フード、テイクアウト、ルーム・サーヴィス等に限られます。これは良いことを聞いたと思い、早速、我が家も取り入れました。さらに、その後は、小さなキッチン、キチネット付きのホテルを選んで泊まるようになりました。そして、アパートや家をレンタルするスタイルに行き着きます。今で言う”Airbnb”ということになります。

欧州では、結構、前からレンタル・アパートの仕組みがありました。様々な国の業者がやっていましたが、ここ10年は、完全にAirbnbが独占しています。我が家にとってレンタルすることのメリットは、人数割りすればホテルよりも広くて安価な宿を確保できる、旅の計画に最適なロケーションを選択できる、外食を減らして食費を抑えられる、手軽に洗濯もできる、近所の店での食材探しや食事等ローカルに暮らす感覚を楽しめる、そして何より、気楽に、勝手に、ストレス少なく過ごすことが出来る、といったところでしょうか。

加えて、Airbnbになってからは、物件探しの際、写真や利用者の口コミなど多くの情報が参照できます。支払いも、Airbnbを通じて、簡単かつ安全にできます。また、事前に貸主とメールできるので、鍵の受取や返却、質問や要望といったコミュニケーションも簡単にできます。Airbnbでは、貸主も借手も、事後に互いを評価し、サイトにアップします。貸主にとって、評価は、売り上げに直結する重要な要素です。結果、アパートは清潔で使い勝手が良くなり、貸主のホスピタリティーも高くなります。競争原理の導入で、品質の向上を実現しているわけです。

Airbnbは、ロードアイランド・スクール・オブ・デザインの卒業生二人が、2008年にサンフランシスコで立ち上げています。基本的な構造は、貸手と借手を結ぶプラットフォームを提供するというビジネスです。典型的なシェアリング・エコノミーであり、その代表格と言えます。こうしたビジネスでは、選択できる物件の豊富さが鍵になります。Airbnbは、簡便な操作性のみならず、個々の物件に関する豊富な情報、充実したセキュリティ等を特徴にして、借手を増やし、結果、貸手も増やしていきました。さらに欧州等では、従前から同様のビジネスを行っていた業者を買収するなどして、世界中に対象地域を広げました。2014年には、日本にも進出しています。

Airbnbは、ホテル業界にとって大きな脅威です。ただ、宿泊紹介業界では、ブッキング・ドットコムに次ぐ2位となっており、利用目的による棲み分けが存在すると思われます。また、住宅価格の高騰や近隣住民への迷惑等の観点から、貸出日数の制限といった規制も行われています。CtoCという新しい経済は、一定の広がりを見せ、既存ビジネスを浸食しますが、完全なテイクオーバーまで行くことはないと考えます。ちなみに、Airbnbも、コロナ・ウィルスのパンデミックで打撃を受けました。キャンセルに関しては、Airbnbが、総額300億円近くを補填し、またレイオフも、増資も行っています。とは言え、大都市以外での利用は増えたようです。今年、我が家も箱根で2度利用しました。コロナ収束後、Airbnbは、再び勢いを増していくのでしょう。(写真出典:news.airbnb.com)

2021年11月8日月曜日

禅と庭

洸庭
かねがね行ってみたいと思っていた福山の神勝寺を訪ねることができました。お目当ては、彫刻家の名和晃平とSANDWICHによるアートパビリオン「洸庭」でしたが、神勝寺の広大な庭に魅せられ、4時間近くも滞在してしまいました。神勝寺は、1965年、常石造船2代目社長だった神原秀夫が、海難事故の犠牲者を弔うために建立した臨済宗建仁寺派の禅寺です。沼隈半島中央の7万坪という敷地に、本堂や禅堂などの多数の建造物、自然の地形を活かした庭が配置されています。2016年、庭と建築を通して禅を感じるというコンセプトのもと、「禅と庭のミュージアム」をオープンしています。

本堂の前には、日本最大級の枯山水と言われる無明院庭園が広がります。足立美術館の庭で知られる中根金作の作庭です。広大な回遊式庭園である賞心庭は、中根金作の息子である中根史郎が作庭しています。谷間の地形を活かした庭には、長く大きな池、絶妙に配置された木々、茶室等の建築が点在し、どこをとっても絵になる庭園です。ちょうど色づき始めた木々が、山の斜面に見事なグラデーションを作り、池の水面に映りこむ様は、極楽浄土を想起させるものがありました。また、本堂に隣接する荘厳堂には、臨済宗中興の祖といわれる正宗国師白隠の禅画コレクションが展示されています。

洸庭は、屋根がこけら葺になっており、ちょうど屋根をひっくり返したような下部構造を持ちます。それが柱で支えられ、宙に浮いた舟のように見えます。上も下もこけら葺ですが、上部は雨風にあたり変色し、同じ素材ながら二色構造になっています。それが、また舟のイメージを強めます。恐らく施主の造船業を意識したものなのでしょう。舟の周囲は、海に見立てた石の庭が広がり、その奥には、中根史郎が作庭した庭園が配置されています。残念ながら、内部はメンテナンス中ということで、見学できませんでしたが、中央に水を配したギャラリーになっているとのことです。

庭園には、千利休の一畳台目の茶室を復元した「一来亭」、表千家の残月亭・不審庵を再現した「秀路軒」、滋賀の永源寺から移築した「含空院」等があり、お茶とお菓子をいただくことも出来ます。また「五観堂」では臨済宗の僧堂と同じ湯だめうどんが食べられます。驚いたことに、結構な造りの浴室があり、天然温泉に入浴することもできます。この日の男風呂は岩湯と呼ばれる露天風呂でした。立派な竹林に囲まれた露天風呂は、誠に気持ちが良く、いつまでも浸かっていたくなりました。お参りし、散策し、白隠を鑑賞し、お茶をいただき、お湯にも浸かり、アッと言う間の4時間でした。

境内には、国際禅道場等もありますが、いずれの施設にも、キチンと人が配置され、庭のメンテナンスも、この上ないほど見事にされておりました。施設の建造費のみならず、メンテナンス費用も膨大なものになるだろうと思われます。ただ、福山の人にもあまり知られていず、日頃の参観者も数えるほどで、しかも傘下の寺があるわけでもなく、収入は限られていると思います。ここからは、下衆の勘繰りですが、恐らく常石グループから、毎年、相当な額の寄付があり、また要員の派遣もあって、運営されているのだと思います。常石グループにとっては、海難事故犠牲者の弔いという社会的貢献、建築と庭による文化的貢献、そして節税効果も大きい、と良いこと尽くめなのでしょう。ちなみに、隣接する広大な総合レジャー施設「みろくの里」も常石グループの運営です。(写真出典:christinayan01.jp)

2021年11月7日日曜日

松茸の吸い物

永谷園の「 松茸の味 お吸いもの」は、1964年の発売以来ロングセラーを続けています。インスタント味噌汁は、競合も激しく、進化を続けてきました。ところが、インスタント吸い物界では、松茸の吸い物が、さしたるライバルもなく、ほとんど進化もせず、王様として君臨し続けています。吸い物は、味噌汁ほどの出番はないものの、やはり必要な時もあります。確実な需要はあっても、決して大きな市場ではないことが、ライバルや進化が見られない理由なのでしょう。さほど松茸らしい香りがするわけでもありませんが、手頃な価格のインスタント吸い物として、また出汁としても使える便利さもあって、重宝されているのでしょう。

永谷園の先祖である永谷宗円は、17世紀に揉み工程の入る煎茶の製法を確立した人と言われます。ただ、煎茶の栽培法は、宇治の茶農家のあいだで試行錯誤が続けられ、宗円以前に生み出されたもののようです。宗円の名が今に残るのは、宇治茶を江戸に持ち込み、山本嘉兵衛とともに、煎茶のマーケティングに成功したからだそうです。ちなみに、山本嘉兵衛の末裔が山本山です。その後、宗円の末裔たちは、製茶業を続けてきましたが、1952年、10代目が「お茶づけ海苔」を開発します。日本のインスタント食品のはしりとも言われ、大ロングセラーとなります。お茶づけ海苔は、発明というよりも、既に存在したインスタント素材を組み合わせた商品と言われます。永谷家は、なかなか商売に長けた家柄と言えます。

永谷園には、もう一つロングセラー商品があります。ちらし寿司の素「すし太郎」です。1977年に発売されています。広島、岡山でのテスト販売の後、関西で発売し、大ヒットとなりました。生魚を使う江戸前のちらし寿司は明治期以降のものですが、いわゆる五目ちらしは、鎌倉時代に誕生しているようです。あえて五目ちらしの本場からテスト・マーケティングを開始するあたりは見事なものです。また、北島三郎をCMに長く起用したこともヒットの要因でした。永谷園は、CM名人でもあります。大相撲のスポンサーとしても、よく知られています。本場所で、永谷園の懸賞旗を見ない日はありません。NHKの相撲中継では、懸賞旗が回り始めると、ロング・ショットに切り替えます。ただ、遠目にも、永谷園の歌舞伎カラーの懸賞旗は、すぐにそれと分かります。

さて、話は、松茸に戻りますが、松茸は、きのこの王様と言われます。確かに、香りの良さ、季節感、希少価値は、王様と言えます。ただ、今一つ、納得できないものがあります。味、香り、出汁の出具合、値段といった総合力では、椎茸の方が、はるかに上をいきます。椎茸こそが王様だと思います。世界三大きのこは、トリュフ、ポルチーニ、松茸とも言われますが、高級だから入れたという無理矢理感があります。ここは、やはり椎茸が入ってこそしっくりきます。私が、これまで食べたきのこで、最も感動したのは、天然の舞茸です。初めて食べたトリュフ、ポルチーニに匹敵します。そういう意味では舞茸を、三大きのこに入れたいところですが、総合力では、やはり椎茸です。

近年、インスタントではない、本物の松茸の吸い物をいただく機会は、ほぼ無くなりました。松茸の汁物としては、いまや土瓶蒸しが大定番となり、多くの和食店や居酒屋でさえも出します。様々な具材が入って美味しいのですが、松茸の香りを楽しむのなら、吸い物の方が適していると思います。香りの薄い輸入松茸が増えたので、土瓶蒸しにして誤魔化さざるを得ないのでしょう。実は、天然舞茸で感動したのも、吸い物でした。きのこを楽しむためには、焼くのもいいですが、吸い物の方がドンピシャかも知れません。(写真出典:nagatanien.co.jp)

2021年11月6日土曜日

毒ブドウ酒

東大名誉教授で社会人類学者の中根千枝さんが亡くなりました。中根さんは、1967年に出版され、超ロングセラーとなった「タテ社会の人間関係」で知られます。日本の社会構造は、生まれや学歴といった「資格」ではなく、地域や所属する組織・会社といった「場」が優先される。その「場」のなかでタテの関係が生まれ、重視される。といった論旨ですが、欧米が「資格」を重視するヨコ社会であることに対し、日本のタテ社会の特異性を説いていました。「タテ社会」という言葉は、流行語どころか、社会に定着した言葉になりました。日本の会社組織に見られる年功序列等といった保守性や閉鎖性が、否定的に捉えられるきっかけにもなりました。

タテ社会の典型の一つが、ムラ社会ということになります。農耕が始まると、土地と労働力が生産の大前提となります。労働力の基本単位は家族ですが、稲作では、家族以上に労働力が必要とされる場面も多く、共同作業が始まり、ムラが形成されます。また、土地と労働力は、所有概念を生み、争いが生まれます。ムラは、ヨソ者に対する共同防衛の組織でもあります。ムラは、効率的に共同作業や防衛を行うために、リーダーを生みます。ムラは、所有概念と共同作業の折り合いをつけるために、秩序やしきたりを重視します。現代の日本企業は、ムラ社会の延長線上にあるように思えます。ムラ社会の本質をあからさまにしているのが「村八分」だと思います。

村八分は、ムラの秩序やしきたりに反した者を除け者扱いするという制裁です。冠・婚・葬・建築・火事・病気・水害・旅行・出産・年忌のうち,火事,葬を除く8つに関する付き合いを拒否するという意味で、村八分と呼ばれたようです。共同体のなかで、村八分は、実利以上に、絶望的なまでの精神的苦痛を与えます。現代に至っても、村八分は存在し、事件や訴訟まで起きていますし、類似した事象は、企業のなかでも見られます。村八分と聞くと、「名張毒ブドウ酒事件」を思い出します。1961年に三重県名張市の孤立的な集落で発生した大量殺人事件です。村落の懇親会で、農薬入りのブドウ酒を飲んだ女性17人が中毒症状を起し、5名が死亡しています。

警察は、即座に奥西勝を逮捕します。奥西は、妻の他に愛人がおり、二人ともブドウ酒で死んでいます。物証はほとんど無く、奥西の自白だけで裁判が行われます。一審は、証拠不足、自白の信憑性が問われ、無罪となります。ところが、二審以降、死刑判決となり、度重なる再審請求も拒絶されたまま、2015年、無罪を主張し続けた奥西は獄中死しています。奥西は、妻と愛人との三角関係の清算を図ったとされます。恐らくその関係が、村人たちから白い目で見られていたことから、犯人にされたのでしょう。村人たちの証言は、奥西犯人説を裏付けるものへと変わっていきました。警察の杜撰な初動捜査も認められ、奥西犯人説に不利な証拠や事実と齟齬をきたす自白内容を隠蔽していたと思われる節もあります。まず間違いなく冤罪だと思われます。

再審請求は、今も継続されています。新たな物証が出ても、裁判所は頑なに再審を拒否し続けています。2005年に、一旦、再審開始という判決が出ますが、翌年には覆されています。司法の世界も、またムラ社会であることは想像に難くありません。9度に渡って積み重ねられた再審拒否という判断は、後には引けないという司法ムラの防衛本能をより強固なものにしていく過程であったようにも思えます。司法の信頼を損なうわけにはいかないというムラの論理が働き、タテ社会の上部にいる者たちの判断を覆すことは、村八分へ直結するということなのでしょう。再審開始を判断した判事は、翌年、依願退官しています。(写真出典:enzai-shikei.com)

2021年11月5日金曜日

最後の晩餐

イエス・キリストが処刑された日については、聖書にユダヤ暦の”二サンの月の14日の金曜日”との記載があり、紀元30年4月7日、ないしは33年4月3日とされてきたようです。この問題に答えを出したのは、天文学でした。聖書には、イエスの処刑前に日食や月食があったという記述があり、そこから推定すると紀元30年4月7日が、その日だということになったようです。処刑前夜、つまり4月6日の夜、イエスは、十二使途とともに食事をします。いわゆる”最後の晩餐”です。席上、イエスは、ユダの裏切り、使徒の離散を予言します。食事した場所は、エルサレムのダビデの墓にある建物の二階とされ、今も保存されています。

最後の晩餐のメニューは、パンとワインです。それが聖餐、聖体拝領として、今も儀式として続いているわけですが、パンについては、発酵したものか発酵していないものかという議論があるようです。パンとワインという食事は、当時としては、ごく普通の食事だったようですが、最後の晩餐は、タイミング的に、ユダヤ教の伝統行事”過越”の食事だったとも理解できます。とすれば、パンは、無発酵のものになります。過越は、モーゼがユダヤ人をエジプトから脱出させたことを祝う行事です。脱出前、時間がなかったので、発酵を待たずに焼いたパンを食べたという故事にちなみます。出エジプトを記念する行事に相応しいエピソードですが、実際には、ユダヤの古い農業行事が起源とも言われます。

美術の世界で”最後の晩餐”と言えば、レオナルド・ダ・ヴィンチがミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂に描いた壁画のことになります。天才ダ・ヴィンチの数少ない完成作であり、ドラマティックな構図、一点透視図法、解剖学の応用など、後の絵画を変えた傑作とされます。ただ、最も損傷の激しい壁画としても知られています。壁画は、漆喰が乾かないうちに描き上げ、壁と一体化させるフレスコ画が主流でしたが、ダ・ヴィンチは、乾いた漆喰の上に、テンペラで描いています。この手法では、時間をかけて重ね塗りしていくことが可能になりますが、一方で、湿度による剥離が進む等、保存が難しくなります。保存など頭にない部屋の使い方や水害、戦争による損傷が進み、一方で、何度も修復が行われてきました。1999年まで20年以上をかけて行われた大修復では、原型に近い形が姿が復元されたと言われています。

我々の世代で、”最後の晩餐”と言えば、もう一つ忘れてはならない存在があります。開高健のエッセイ集「最後の晩餐」です。食通として知られる開高健が、古今東西の食に関する蘊蓄を傾けています。興味深いのは、最後の章に当てられたのが、カニバリズムである点です。言葉を通じて食を追求していった先にカニバリズムがあるというのは、いささか観念的に過ぎる気きもしますが、食の深遠さを伝えているとも思えます。さらに言えば、キリスト教の聖体拝領の不思議さにもつながります。キリストは、最後の晩餐において、パンは私の体、ワインは私の血と言って、使途たちに与え、それが聖体拝領として今に続きます。もちろん、キリスト教への帰依、あるいは思想の継承と共有という観念的なものではありますが、なぜ体と血でなければならなかったのでしょうか。人間にとっての、食の奥深さを思わざるを得ない面があります。

私の”最後の晩餐”は、炊きたてのご飯にいくらの醤油漬け、つまりいくら丼と決め、家族に徹底しています。もちろん、大好物なわけですが、大好物や幸せを感じる食べ物なら他にもたくさんあります。しかし、最後の食事としては、自分の生い立ちや思い出のようなものが反映されたものになるのだと思います。大げさに言えば、味だけではなく、自らの人生が反映されるわけです。酒のアテ話として、あなたの最後の晩餐は何、とよく聞きます。聞かれた人たちは、皆、結構、面白い反応を示します。まずは悩み、大好物を挙げます。そして少し考えてから、はじめの答えを変えてきます。その短い時間のなかで、自らの人生を振り返っているのでしょう。いわば、聖餐化の作業とも言えそうです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年11月4日木曜日

二本差し

”二本差し”とは、太刀と脇差しを腰に帯びていた武士を指します。庶民言葉で、侍の別称、あるいは蔑称として使われました。「二本差しが怖くて、田楽が食えるか」とは、江戸庶民の心意気を示す、いなせな言葉です。田楽は、先が二本に割れた竹串に、味噌を塗った豆腐を刺して焼きます。近年では、ヤマト運輸の小倉昌男が「二本差しが怖くておでんが食えるか」と言っていたことが知られています。おでんは、煮田楽の女性言葉から一般化した言葉です。今の時代、田楽よりはおでんの方が分かりやすいと思いますが、二本差しとの関係は見えにくくなります。

江戸幕府は、将軍家を頂点とする封建制度を維持するために、法令や制度を強化します。そのなかで、幕府は、平時における武士のモラルとモラールの管理にも苦心します。江戸初期の侍は、武勲をあげて出世する、あるいは下剋上といった戦国時代の荒っぽい気風を引きずっていました。それを変えようとしたのが犬公方として知られる5代将軍徳川綱吉だったと言われます。武士は、様々な法令によって生活の隅々まで規制を受ける一方、身分制度の頂点に置かれ、無礼を働いた庶民を切り捨てても罪に問われない、いわゆる切捨御免といった特権も認められます。無礼打ちは、届出と証人も必要であり、幕府が認めた場合に限り許されます。とは言え、庶民にとっては、実に恐ろしい制度だったわけです。

江戸期の長い平安が生んだものの一つが、侍の官僚化です。以降、日本は官僚国家となります。小倉昌男の言う”二本差し”とは、侍ではなく官僚のことです。官僚国家にあって、役所と真っ向から対立することは、極めてリスキーだと言えます。官僚国家の極致は、共産主義独裁国家に見ることができます。中国で、役人に逆らうことは死を意味します。一方、犠牲を払いながらも、社会を一つの方向に向けて機能させる場合などは、官僚の効率性の高さが発揮されます。例えば、中国のコロナ抑え込みなど、いい例だと思います。日本の官僚も、明治の近代化、戦時の挙国一致体制化、戦後復興、高度成長等を、見事に成し遂げてきました。

宅配便をビジネスとして成立させた小倉昌男は、既存のトラック運輸体制を守ろうとする旧運輸省と戦いました。運輸省が守ろうとした体制は、戦後の混乱期から、官僚たちが苦労して築き上げ、機能させてきたものでした。それは国家戦略に基づき計画的に構築されたものではなく、ある意味、法律と実態の微妙な調整を積み重ねた接ぎ木細工でした。小倉昌男の宅急便は、その絶妙なバランスを崩しかねないものでした。運輸省には、対抗できる法律は無く、行政手続きで嫌がらせをするしかありませんでした。普通なら、この段階で、”泣く子と地頭には勝てない”と、身を引くものですが、宅急便が国民のためになると確信する小倉昌男は、行政訴訟を起こし、結果、勝利します。

国のトップが変わろうが、政権が交代しようが、選挙に左右されない官僚体制は、安定的な行政を提供できる一方、その組織維持が至上命題化します。それは、しばしば国や国民の利益を犠牲にしてでも進められます。官僚は、法令に基づき、判断・行動します。準拠法が無い限り、官僚は指一本動かせません。逆に、官僚は、複雑化した法体系に精通し、その知識を駆使して、組織維持を図ります。複雑な法令は、現代における”二本差し”なのかも知れません。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年11月3日水曜日

潮待ち港

福山市内のバス停を見ると、”トモテツバス”と書かれていました。トモテツとは、鞆の浦鉄道なのかと思い調べてみると、鞆の浦と福山を結んでいた鞆鉄道が起源の会社でした。鞆鉄道は、1913年に軽便鉄道としてスタートし、1954年に廃線となっています。かつて日本全国には、軽便鉄道が360以上あったようです。鉱業や林業用も多かったのですが、8割近くが人貨用だったようです。文明開化の象徴でもあり、旅行や物流に革命を起こした鉄道は、明治後期になると、軽便鉄道として全国津々浦々に広がったわけです。多くは、地元資本で開設されています。江戸期の商業資本の蓄積があればこそ、という話でもあります。

沼隈半島の鞆の浦は、天然の良港であり、かつ風光明媚な土地柄ゆえ、古くから栄え、万葉集にも歌われています。平家ゆかりの地でもあり、信長に追われた将軍足利義昭が逃げ込んだ地でもあります。また朝鮮通信使の寄港地にもなっていました。狭い港町ながら、由緒ある寺社仏閣が多いあたりにも、歴史の古さを感じさせます。幕末の1867年には、坂本龍馬率いる海援隊の”いろは丸”が、紀州藩船と衝突、鞆の浦へ曳航中に沈没します。いわゆる「いろは丸事件」です。龍馬が、紀州藩と賠償交渉を行うため、鞆の浦に滞在していたことも有名です。また、各種生薬が入ったリキュールの保命酒は、江戸期にこの町で生まれています。

鞆の浦は、潮待ち港として、よく知られています。鞆の浦は、ちょうど瀬戸内海の真ん中あたりに位置し、西の豊後水道、東の紀伊水道の潮がぶつかり合う場所です。潮と風が頼りだった時代の船は、潮に乗って鞆の浦に入り、潮を見計らって瀬戸内海へと漕ぎ出します。潮待ち港は、他にも、下関,尾道,笠岡,下津井,牛窓等がよく知られています。航海技術が発達し、陸地に沿って進む”地乗り”から、島の間を縫って走る”沖乗り”が主流になると、潮待ち港は役割を終えます。交通の要所としての鞆の浦の価値は下がりますが、依然、瀬戸内中央の中継地点として機能していたようです。

一方、景勝地としての鞆の浦の人気は、明治以降、さらに高まります。東側の仙酔島や弁天島、西側の阿伏兎観音といった景観が好まれ、天皇はじめ皇族も訪れています。1934年には、日本初の国立公園に指定されています。鞆軽便鉄道が敷設された目的は、まさに観光にあったわけです。また、産業的な価値を失ったことが、逆に古い町並みを保つことにつながり、その風情が人気となります。戦後は、多くの映画やTVの撮影が行われています。若い人たちにとっては、宮崎駿の「崖の上のポニョ」(2003)の舞台として有名です。鞆の浦を気に入った宮崎駿は、数ヶ月、ここに住み込んでポニョを描き上げたと言います。

ところで、鞆の浦名物の保命酒ですが、街を散策すると、やたら”保命酒本店”という看板に出くわします。一軒の”本店”に入り、本店が多い謎を質問してみました。保命酒は、江戸初期、大坂の医師中村吉兵衛が考案し、鞆の浦で製造・販売しました。製法は、中村家の一子相伝とされていたようですが、江戸末期に廃業します。明治になると、複数の業者が類似品を作りはじめ、皆、保命酒の名前で販売したのだそうです。現在は4社が製造を行っており、多少、成分の違いもあるようです。保命酒とは、ブランド名ではなく、いわば酒の種類だったわけです。(写真出典:anniversarys-mag.jp)

2021年11月2日火曜日

キムチチゲ

今年は、残暑が長く続き、その後、突然、冷え込み、いきなり晩秋を迎えたような印象でした。寒くなると食べたくなる料理も多いのですが、その一つがキムチチゲです。白菜キムチを使った鍋もの(チゲ)です。チゲは、韓国味噌を使うテンジャンチゲ、汲出し豆腐を使うスンドゥブチゲ、スケトウダラを使うトンテチゲ等々、具材によって多彩なヴァリエーションがあります。韓国料理の大きな特徴は、唐辛子やニンニクとともに、発酵を上手に使うことだと思います。キムチは、まさに、その代表格であり、そのキムチを使う鍋ものは、最も韓国らしい料理だとも思います。私の好物の一つです。

私は、自分でキムチチゲを作って、楽しんでいます。レシピは、NY時代、韓国の保険会社の駐在員から教わりました。まずは、乳酸発酵させた古漬けのキムチを調達する必要があります。キムチ専門店でお願いすると、ほぼ間違いなく出してくれます。私は、近所の美味しい韓国料理店の自家製キムチを寝かせて古漬けにします。日本製のキムチの多くは乳酸発酵させていなので、キムチチゲには適しません。容器に発酵食品と記載があれば、大丈夫です。キムチは、赤いところが無くなるまで水洗いをし、乳酸菌だけを残すイメージです。それに豚肉、コチュジャン、日本味噌、すりおろしたニンニク、唐辛子、ごま油を加え、練り込むように混ぜます。それをごま油で炒めていきます。

愛情を込めて、炒めれば、炒めるほど美味しくなると教わりました。そこにコムタン・スープを注ぎ、煮込みます。牛骨などで作るコムタン・スープは、スーパーで濃縮されたタイプ等を買えます。他の、例えば海鮮スープでもいい味になりますが、コムタンが、一番合うように思います。少し煮込んだら、ニラ、生卵を乗せて完成です。材料さえ揃えば、簡単に作れます。最も大事な炒め工程は、忍耐が求められます。日本の韓国料理店では、いきなりキムチを鍋で煮込むレシピが多いようです。それでも美味しいと思いますが、しっかり炒めた方が、コクが出るように思います。また、ニラは、細かく切った方が、いい出汁を出してくれます。

韓国の食文化を代表するキムチですが、現在の形になったのは18世紀以降と言われます。唐辛子は、16世紀、日本からもたらせられます。白菜は、品種改良によって生み出された野菜ですが、現在の形は18世紀に誕生しています。韓国のキムチ最大の特徴は、乳酸発酵だと思います。アミ、イカ、イシモチ、イワシ等の塩辛を入れることで、発酵させています。これが独特の深い味のベースになっています。さらに魚介類や肉の出汁、あるいは果物を入れる場合もあり、味付けは実に多様です。韓国文化に深く根ざしたキムチですが、近年、家庭で漬ける人が減り、また消費自体も減ってきていると言います。さらに驚くべきは、韓国の飲食店で無料で提供されるキムチの9割が、安価な中国産になっているとことです。

2006年、米国の健康雑誌が発表した世界の健康食品ベスト5には、スペインのオリーブ・オイル、ギリシャのヨーグルト、日本の大豆、インドのレンズ豆と並び、韓国のキムチが挙げられているそうです。韓国人の粘り強さ、肌の美しさ等は、キムチのおかげと言われます。納得できます。この冬も、キムチチゲを楽しもうと思います。ただ、問題は、キムチチゲを作ると、翌日まで、家中が韓国料理店の匂いになることです。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年11月1日月曜日

不沈艦

およそ人間が作ったもので、空を飛ぶものはいつか落ちますし、海に浮かぶものはいつか沈みます。それが自然の摂理というものです。かつて、幸運にも激戦を生き抜いたいくつかの艦船は”不沈艦”と呼ばれました。帝国海軍駆逐艦「雪風」、英国海軍戦艦「ウォースパイト」などが有名です。ただ、結果、強運ゆえに”不沈艦”と呼ばれた艦船とは異なり、建造時から”不沈艦”と呼ばれた艦船もあります。戦艦「大和」と「武蔵」です。史上最大の戦艦であり、史上最大にして唯一の46cm砲を9門搭載していました。極秘裡に呉海軍工廠で建造され、1941年12月就役、1945年7月、鹿児島県の坊ノ岬沖で沈没しました。

第一次世界大戦が終わると、財政難を抱える列強国は、軍縮へと動きます。1922年のワシントン海軍軍縮条約に始まり、ジュネーブ、ロンドンと軍縮会議は続きますが、次第に足並みは乱れていきます。1930年のロンドン軍縮会議では、英国と対立したフランス・イタリアが離脱、米・英・日三国の協定となります。日本は、やや厳しい内容だったにも関わらず、条約を批准したことで、国際社会からの評価を得ました。また、日本の厳しい財政状況からすれば、軍縮がもたらす支出抑制効果は大きなものがありました。ただ、軍国主義化が進む国内にあって、特に軍部からの批判は大きく、統帥権干犯問題が浮上します。明治憲法では、軍の統帥権は天皇にありました。文民政府が、勝手に軍縮を進めることは、天皇の統帥権を犯すものではないか、とされたわけです。

統帥権干犯問題以降、各種テロ事件が続き、軍の発言力は高まり、満州では関東軍の暴走が始まります。つまり、政党政治は衰退、シビリアン・コントールが崩壊して、軍国主義の時代を迎えたわけです。35年、日本は軍縮会議から離脱します。36年には、ロンドン軍縮条約が失効し、軍縮の時代は完全に終わります。軍拡の時代に突入した帝国海軍は、世界最大級の戦艦の建造へと動きます。しかし、いわゆる巨艦大砲主義は、航空戦力の重要性が増すなか、既に時代遅れになりつつありました。航空戦力時代の到来を認識していた山本五十六元帥等からは、巨艦建造に対して反対意見も出されます。とは言え、1937年、大和の建造が、極秘裡に呉海軍工廠で開始されます。秘密を守るために、造船所は巨大な屋根やシュロの筵で覆われ、乾ドックを見下ろす民間人の家の窓は塞がれます。

1940年8月、大和は進水。全長263m、排水量6万4千トンという、日本の技術の粋を集めた巨艦が誕生します。大和は、ミッドウェイ海戦、ソロモン作戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に投入されています。敵砲弾を跳ね返す装甲の厚さ、敵魚雷が命中してもビクともしないなど、巨艦の優位性を証明する一方、交戦機会は少なく、戦績としては駆逐艦一隻を撃破したくらいです。交戦が少なかった理由は、艦隊司令が乗船する旗艦として後方に控えていたこと、主力戦艦として温存される傾向が強かったこと、そして戦争末期には、燃料が不足気味だったことが挙げられます。45年4月、大和は沖縄へ向けて出撃します。座礁させたうえで、主力砲で米軍を攻撃するという特攻作戦でした。ただ、これは現実性に乏しい作戦であり、参謀たちの暴走とも言われます。航空支援も乏しいなか、大和は、坊ノ岬沖で、400機近い米軍機の猛攻を受け、沈没します。まさに巨艦大砲主義が航空戦力に葬られた瞬間とも言えます。

過日、呉の大和ミュージアムに行ってきました。多くの入場者で混み合っていました。決して、一部マニア、あるいは懐古趣味的な老人だけで賑わっているのではありません。開館から16年、衰えぬ人気に驚きます。大和は、就役時から、実戦での攻撃力よりも、むしろ精神的拠り所と評価する軍人が多かったと聞きます。戦力としては、確かに時代遅れだったのかも知れませんが、その神国日本を象徴する不沈艦としての存在は、兵士や国民に勇気を与えたのでしょう。そして、その魅力は、いまだ衰えていないとも言えます。ちなみに、大和ミュージアムに来場する若い人たちは、宇宙戦艦ヤマトのモデルとして、戦艦大和を知ったということのようです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

夜行バス